長谷川時雨



 ある日、婦人ばかりといつてよい招待の席で、小林一三氏が、吉屋信子さんの新築の家を絶讃された。

 ──私は、隨分澤山好い家を見てゐるが、その私が褒めるのだから、實際好い家なのだ。たいがいの家は、茶室好みか、もしくは待合式なのかだか、吉屋さんの家はいかにも女性の主人で外國の好いところも充分にとり入れてあると、いはれた。そして、そのよさのわかるものが、お仲間にはあるまいと──

 吉屋さんの隣りに、その座でたつた一人の、そのお仲間代表のわたくし、なでふ、褒めるにおいて人後におちんや、ではあるが、まだ見ぬ家のことなり、我等のグループとは違つた四邊の空氣なので、友達の家の褒められたことだけを甘受してゐた。

 家といへば、震災前までは東京の下町住宅には、よい好みの各階級、好きさまざまの良い家が澤山あつた。もとより洋風もとりいれてない、近代建築でないのは知れてゐるが、待合といふものの發展しない時代ではあり、賢實な市民の住宅で、しかも京阪風をも取り入れた、江戸といふサツパリしたところもある良い家が多かつた。根岸、深川、向嶋、日本橋の(濱町河岸)花屋敷、京橋、築地といつたふうに、それ〴〵の好みがすこしづつ違つてゐたやうだつた。わたくしの父などでも、家の何處へか格子を一本入れようと思ふとき、散歩してくるのに、今日は花屋敷の方面のを諸方はうぼ見て來た、好いのがあるなあ、といつてゐたものだつた。

 それはさておき、わたくしの言ひたいのはそんな事などではないので、畫壇の人と文壇の人との住宅觀について、根本的異つたものを感じてゐたことであつた。わたくしは此處では、日本畫家のことを多くさしていつてゐるのであるが、仕事場を、おなじく家庭に持つ職業でありなながら、畫家は、家の建築、庭石のおきかたまで自分の美術、自分の畫に描く趣味と個性を、思ふままに現し、樂しみ滿足しようとする強い慾望を見る。畫よりも建設的である文學の方の人には、家のことなどかまつてゐられるか、その暇に讀み思索するといつた、めんどくさがりやが多いやうに思はれた。よき書齋は誰しもほしいと思ふが、本をたつぷりおけて、靜に、居心地がよければそれでよいといふていどで、好事家のすけないことである。

 と、いつても、これは自分だけの推測で間違つてゐないとはいへない。もとより、國が大きくなるのに、昔通りに文人は──清廉は結構だが──貧乏であるのを看板にすることはないし、立派な書齋や家をもつ人が、多く出來る方がよいのはきまつてゐる。收入の當不當は別の問題で、畫人の中にだとて贅澤のいへるものは、幾人と數へられる人達であらう。

 ふと、そんなことを思つたといふのも、去年「塔影」といふ繪の雜誌で、京都に建つ榊原紫峰氏の新築の、庭木や、石や、木口の好みの、思ふがままに、實に素晴しいものが、易易と、實に神業のやうにうまく調ひ、しかもその豪華さが、奧ゆかしいまで目立たずに、自然らしく、組みたてられてゆくやうな話に、わたくしは、自分のものでもないのに、自分のもの以上な、樂しみと悦びを感じて、未知な方ではあるが、京都へゆくことがあれば、その新築を、ぜひ見せて頂かうと自分勝手に樂しんでゐたからで、いかにも豐富といふこと──この世にも、こんな好いことがあるのかと心樂しく思はせられたからだつた。

 その話といふのは、市區改正に追れた榊原畫伯が、紫野大徳寺孤蓬庵の隣地を敷地に選んだことからはじまる。紫野といふ土地からして好いなあと思つた。もとから好きなところだつたが、先年、大徳寺塔中たつちう聚光院に一夜を御厄介になつてから、樹々にわたる風を、齒にしみるやうに思ひ出す土地だ。その敷地へ移す庭木といふのが、百萬遍のお寺の西側が、これも市區改正なので、椋の巨木何十本かが、薪屋に捨賣にされるところを、七本手に入れる。しかもこの椋の木、何百年かの星霜をへて一抱へも二抱へもあつて木振りよく、巨木移植法にも成功して植つけると、大徳寺境内の欝蒼たる森につづいて、どこがどこか、けじめのつかぬ幽邃な廣々とした庭になつたといふ。

 そこで、庭石も、それに釣りあはねばならぬ。鞍馬石をきらつて、北山あたりを探すと、奇特な石山の持主あらはれ、我山の石ならどれでももつてゆけ、代價は入らぬ、汝の繪をよこせ、もつていつた石の繪を描いてよこせばよしといふので、落葉を掻きのけると、地べただと思つたほど、平な大きな石、十二三尺もあらうかといふ理想的靴脱石をめつける。それよりさき立派な、黄手きでの鞍馬石をもらつてゐるのだが、それは、グツとけこんで、中庭の玄關にでもまはさうとある。

 そこで、建築材料木材は、紀州熊野の奧から出て來る人が引きうけて、それほどの豫算では見る影もない借家建だと、はじめ、首をひねりはしたが、その人の腹づもりはすぐ出來てしまつて、木の國生れの人が、丹波に飛び、江州おほみに行き、草鞋がけで山の杉の立木を買ふ。材木は揃つた、見に來ぬか、と行つてよこす時分には、大工がもう木組みをしてくれてゐる。

 この材木だけ見ても唯の家ではないといふ、それだけの木組みをして、豫算の金には手がついてゐないといふのは、山を買つて伐りだし、製材所で柱や板にした中からよい材をえらみ、あとは材木屋へ賣つて、よいものがただ手に殘つたのだとある。

 疊の敷いてある坪數より、板張りの方が廣い位の設計、廊下を澤山とつて、縁側を、廣いところでは一丈からあるといふ。悉くが、わたくしが夢に思つてゐるやうな家だ。

 木目のない、ハギのない、木理きめの細かく通つた一枚板の、すつと通つた廊下。

 夕暮の色が、その上に漂よふとき、椋の葉はカラカラと風にさやぎ、一面の大きな平石は、うつすらと水を吹いてゐるであらう。その時、わたしは燈籠に灯の點るのを思ふ。民家でありながら、稀れに見る、すつきりと崇高な日本式の粹であると感じる。

 その渺々たる空想のなかに、美しきひとが、黄昏を蹈んでゆくその面影をさへ、踵をさへ思ひうかべるのであつた。

──十三年六月・文藝春秋──

底本:「隨筆 きもの」實業之日本社

   1939(昭和14)年1020日発行

   1939(昭和14)年117日5版

初出:「文藝春秋」

   1938(昭和13)年6

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年118日作成

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