あるとき
長谷川時雨
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むさしのの草に生れし身なればや
くさの花にぞこころひかるる
と口ずさんだりしたが、
「わたしの前生はルンペンだつたのかしらん。遠い昔、野の草を宿としてゐて、冷こんで死んだのかもしれない。それでこんなに家のなかにばかりゐるのかしら?」
門を一足出て、外の風にあたると、一町も千里もおんなじだと氣が輕くなつてしまふのにと、いふと、出おつくうがる性なのを知つてゐるものは手を叩いて笑つた。
今朝ふと、雨上りの草の庭を眺めてゐて、海をおもつた。それも涯しないひろい大洋が戀しくなつたのだ。
昨日のはなしの折にも、私は毎年繰返していつてゐる、秋には山へいつて、山の風に吹かれてくるのだと、今年も出來ない相談であらうことを樂しく語りながら、高原に立つて秋草を吹き靡かす初秋の風に身をまかせて、佇んでゐる自分を描き、風の香をなつかしんでゐたのだ。足を勞さないで、居ながらに風景を貪る癖からなのか、それとも、空ばかり眺めくらしてゐた太古の、前生人からの遺傳か、それこそ一足から千里も飛ぶやうな空想が、私にはなかなか役にたつ遺産で、私の心を、役の行者のやうに、雲にして飛ばしてくれる。
しかし洋の原が戀しくなつたのは、高原の風が辷りこむやうに、空想が海を走つたばかりではなかつた。私の二人の古い友達が、海のあなたに渡つて、長く歸らないことが、堪らなくさびしくなつたのだつた。
「此間あなたに小つぴどく怒られた夢を見た。いつか長い手紙を頂いて、毎日毎日友達は嬉しいなと思ひながら、手紙を書かう〳〵と思ひつつ段々のびたのと、あれから久しくたつて、やうかんがついたといふので、遠いとこまで足を運んだのでしたが、一度は代人でパスポートがなくてダメ、二度目は休み時間、三度目はとう〳〵間に合はず羊羮は洋行して歸つてしまつたので、追かけもならず、御心入れをとう〳〵ムダにしてしまひ、何とも申譯もないと思つてた時の夢だつたのです。元氣でゐて下さい。パリになんかベンベンとしてゐると、だんだん馬鹿になることがわかつてゐるけれど、おいそれとは歸られずに居ます。どうぞ病氣はしないで下さい。やせて返事が消えては大變だから待つてて下さい。
正宗さんの何か集があつたら送つてください。たのみます、なるべく早く。
これはパリ・オペラ夜景。どつしりしてますが、もう汚れて鼠色です。岡田八千代」
とした七月二日出の繪はがきは、シベリア經由なのにまる一ヶ月もたつて、二月十日に出して七月末の日に返送された「虎や」の羊羮の小包と前後して私の手に渡つた。
なんで、私が怒つた夢なんぞ見たのだ。悲しがつてゐる夢を見て、早く歸りたい氣持ちになつてくれればよいにと、さびしかつた心が、海を行く空想を逞しくさせたのだつた。
──かう降りつづいては、汽船の室でも垂れこめて──
土用のうちの霖雨を、微恙の蚊帳のなかから眺め、泥濁つた渤海あたりを、帆船が漁つてゐる、曾て見た支那海あたりの雨の洋中をおもひうかべる。そのかたはら、この冷氣はオホツク海から寒流がくる潮の加減だと書いてあつたがと、ウロ覺えの新聞知識で天文學者の卵でもあるかのごとく案じ、さういへば、ロシアでは氷に閉された北洋の潮流變更に苦心してゐるといふが、學術的にそれが成功すると、我國の被害は甚大で、氣候の變化があらうと、嘘か誠か、何かのはしで讀んだ事が妙に氣がかりにもなるが、無論それはとりとめもない考への主流でなく、眼は洋中のごとき庭の青さと、銹銀色の重い空の、霧つぽい濕つた外を見てゐたが、空想旅行の方はとつくに船はてて上陸し、パリの友達の寓居をノツクしてゐた。
いつぞや林芙美子さんが、パリの食品市場で、八千代さんらしい後姿を見たことを話してくださつたのには、黒い洋服で、長い羽根のついた帽子、袋とか籠とかを腕にして、齡をとつてゐたさうだが、それは、およそ私の友達が死ぬまでもしさうにもなく、想像にもさうは思はれない姿だつた。私は鼠色の彼女が繪ハガキへ書いてよこしたパリ・オペラ座のやうに、どつしりしてゐるが、古びた鼠色で彼女があつてくれないことを、友達の名譽恢復のために祈つて、扉の外で待つた。
私の友達は、すこし意固地なくらゐ我儘なところがあつて、身にそぐはない洋服や帽子の飾りをつけて歩くことの出來る氣質ではなかつた。三年や五年着るものに不自由するとは思へない。彼女は白い足袋がなくなれば、足袋もつくれるし、草履も工夫して造れる人だ。まして着物でも帶でも、きちんとした裁縫が出來る。身の𢌞りのもの一切自身でととのへられないものはないのだ。若い時から日本髮さへひとりで結へたのだつた。私たち明治時代に生れたものは、心は新らしいものを貪りながら、躾られたことは昔の女とおんなじだつたので、身嗜には頑固なほどだつた。ことに友達は目立ない澁いつくりを好んだ。流行や周圍に負ける人ではなかつた。吟味のゆき屆くたちだつた。西洋のお婆さんになつたとしても、好みのよいことに異ひはない筈だ──
と思つてゐると、すこし痩せたかと思ふが、あの、ありあまる髮をキユツと〆て、無造作に卷いた、色の白い顏が笑つた。胸もともキチンとした縞の着附けで、例によつて灰拔けのした瀟洒な彼女だ。この間、讀賣新聞の文藝欄が傳へた、日本劇の衣裳や監督をしたといふ時の、他の人と竝んで寫つてゐた、寫眞とちつとも違はなかつた。
私はパリで逢つてゐるといふ事なんぞは素つとばしてしまつて、勝手にいつたものだ。
「甘いものそんなに好きぢやないの知つてるんだけれど、果實は送らなくつたつてあるだらうし──」
私はくすくすと笑ひだしてしまつた。友達は蜜柑があんまり好きで膽石を患らつたことがあつたのだ。ずつと前にも急病だといふので澁谷の家へ急いでいつたら、矢つ張り蜜柑の食べすぎだつた。私が行くと、寢臺の下へ、あわてて蜜柑の皮が山のやうになつてゐるお盆を押しかくしたが、苦しがつて吐いた蜜柑の汁が、實が、顏にくつついてゐて、すぐさま露見したことがあるのだ。
「歸つてきて、燦々會で、澤山ためこんでおいた、そつちの演劇の講義を受けもつてくれない? それに──」
私はそこで急に思ひついたのだ。それは昨夜讀んだ、ロシアで九月一日から十日まで大演劇祭のあることだつた。
「モスクワへ寄つて、大演劇祭に上演されるものをみんな見て來てしまはない? ね、實に好い機會だから。出來るだけ、新しい演劇をためこんできて、今までパリで見たものと對照して話してきかせてくださいね。屹度みんなも期待してくれる。そしてね、ゆつくりと、長く長く實によく貴女は見ておいたのだから、日本の芝居と考へあはせて見てね。」
そんなことを言つてゐるうちに二人は泣いたやうだつた。現實の空想家の眼はぬれた。私は勝手にしやべりつづける。
「わたしは、も一度海を越して、ロスアンゼルスへ行くの。」
其處には、この友達が一時非常に仲をよくした田村俊子さんが居るのだ。
「俊子さんは、鈴木さんが(夫君)日本へ來てゐて、突然なくなつたので、大變嘆いて、ひとりでバンクーバに居られないから、ロスアンゼルスは氣候もいいし、上山浦路さんも獨りで殘つてゐるから、そこへ行くといつてよこしたきりなの。」
一本の齒が拔けるとほかの齒が寒い。女でおなじやうな仕事をしてきた人たちが、みなからいたはられるころに、異境で涙にひたつてゐるのを思ふと苦しい。私は、私なんぞでも、日本に殘つてゐるものは、身をいたはらなければいけないと思つた。私一人の死でも外國に居るさびしい人たちには、一本の齒がぬけたやうに寒く感じられるだらう。で、私は友達にむかつて元氣に言つた。
「俊子さんは、ハリウツドかなんかで、素張らしい映畫脚本でも發表するかもしれない。あの位な腕前は、さうザラにあるもんぢやないから、屹度立直る。」
田村俊子作とか監督とかいふ映畫が輸入されてくれば嬉しい。私がよろこべば、私を愛してくれる若い女たちがヂヤンヂヤン宣傳してくれるにきまつてゐる。さうなると若い男衆たちも追從する。盛んなるかな!
私は嬉しくなつて笑つた。友達の手を握つて振る恰好をして、自分だけの手を振つた。
「八千公しつかりね、モスクワでは、十日間に廿二囘の觀劇よ、好い機會だから是非見ておいてください。あたしたち隨分ぼんやりして生てしまつたんだから。アメリカへも一緒に行けると好いんだけれど──」
若いとき、曾我の家五郎十郎劇を見てきて、二人で眞似て興じたときの、五郎の役に、及五郎に扮した友達が、自分でもをかしくつて、キユウキユウ笑ひ泣きしながら演じた無邪氣さが眼に來た。みんなで寄つて、あんな笑ひを寫したらいいな──
再び、わたしは笑つてゐるやうな聲を出した。
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「早稻田文學 昭和九年九月號」
1934(昭和9)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
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