尼たちへの消息
──よく生きよとの──
長谷川時雨
|
日蓮聖人の消息文の中から、尼御前たちに對へられた書簡を拾つてゆくと、安産の護符をおくられたり、生れた子に命名したりしてゐて、哲人日蓮、大詩人日蓮の風貌躍如として、六百六十餘年の世をへだてた今日、親しく語りかけられる心地がする。もとよりこの尼御前たちは在家の尼たちであるが、送られた手紙は、文章も簡潔で實に好い。それよりもよいのは、寄進された品目をいつも頭初に書いて、感謝してゐる率直な表現だ。もとより私の見方は、文章の上から見てのことばかりだが、後に多くの文雅の士がさうした書きかたをしたのを見ると、これを學んだのでないかと思ふほどだ。文中景色を叙したのはすくないが、駿河の松野殿御返事といふ一文には、
鵞目一結、白米一駄、白小袖一、送り給び畢んぬ。抑、此山と申すは、南は野山漫々として百餘里に及び、北は身延山高く峙ちて白根が嶽につづき、西には七面と申す山峨々として白雪絶えず、人の住家一宇もなし、適、問ひくるものとては梢を傳ふ猨猴なれば、少も留ることなく還るさ急ぐ恨みなる哉。東は富士河漲りて流沙の浪に異ならず。かかる所なれば訪ふ人も希なるに、加樣に度々音信せさせ給ふ事、不思議の中の不思議也。
これは、建治二年十二月九日に身延から佛道の教へに答へられた長い書簡の書出しである。
おなじ松野殿へ、弘安元年五月一日に與へられたのには、
日月は地におち、須彌山はくづるとも、彼女人、佛に成らせ給ん事疑なし。あらたのもしや、たのもしや
干飯一斗、古酒一筒、ちまき、あうざし(青麩)、たかんな(筍)方々の物送り給ふて候。草にさける花、木の皮を香として佛に奉る人、靈鷲山へ參らざるはなし。況や、民のほねをくだける白米、人の血をしぼれる如くなるふるさけを、佛法華經にまいらせ給へる女人の、成佛得道疑べしや。
これは全文である。この、況や民の骨をくだける白米、人の血を絞れるごとき古酒、といふ言葉は白米が玉のやうに、白光りに光つて見える。民の骨を碎ける白米、民の骨を碎ける白米! げに有難い言葉ではないか。
この松野殿女房──後家尼御前に與へられた、も一通の消息にも身延隱棲の自然が叙されてある。
麥一箱、いゑのいも(里芋)一籠、うり一籠、旁の物、六月三日に給ひ候ひしを、今迄御返事申候はざりし事恐入候。此身延の澤と申す處は、甲斐の國飯井野、御牧、波木井三箇郷の内、波木井郷の戊亥の隅にあたりて候。北には身延嶽天をいただき、南には鷹取が嶽雲につづき、東には天子の嶽日とたけをなじ、西には又、峨々として大山つづきて白根の嶽にわたれり。猨のなく音天に響き、蝉のさえづり地にみてり。天竺の靈山此處に來れり。唐土の天台山親りここに見る。我が身は釋迦佛にあらず、天台大師にてはなし。然れども晝夜に法華經をよみ、朝暮に摩訶止觀を談ずれば、靈山淨土にも相似たり。天台山にも異ならず。但し有待の依身なれば、著ざれば風身にしみ、食ざれば命持ちがたし。燈に油をつがず、火に薪を加へざるが如し。命いかでかつぐべきやらん。命續きがたく、つぐべき力絶ては、或は一日乃至五日、既に法華經讀誦の音も絶へぬべし。止觀の窻の前には草しげりなん。かくの如く候に、いかにして思ひ寄らせ給ひぬならん。兎は經行の者を供養せしかば、天帝哀みをなして、月の中にをかせ給ひぬ。今、天を仰ぎ見るに月の中に兎あり。されば女人の御身として、かかる濁世末代に、法華經を供養しましませば、梵王も天眼を以て御覽じ、帝釋は掌を合せてをがませたまひ、地神は御足をいただきて喜び、釋迦佛は靈山より御手をのべて、御頂をなでさせ給ふらん、南無妙法蓮華經南無妙法蓮華經。恐々謹言
これは弘安二年己卯六月二十日に書かれたものだ。
窪の尼は、窪の持妙尼とよばれて、松野殿後家尼御前の娘だが、武州池上宗仲の室、日女御前と同じ人であらうともいふ。弘安二年以後、日蓮聖人五十七歳ごろから六十歳ごろまでにおくられた消息の中に、
すずの(種々)御供養、送給畢。大風の草をなびかし、雷の人ををどろかすやうに候。よの中に、いかにいままで御信用候けるふしぎさよ。ねふか(根深)ければ葉かれず、いづみ(泉)玉あれば水たえずと申やうに、御信念のねのふかくいさぎよき玉の、心のうちにわたらせ給歟、たうとし、たうとし。恐々。
六月二十七日(弘安元年)
同二年十二月二十七日は、尼が初春の料の餅をおくつたと見えて、
十字(蒸餅)五十まい、くしがき一れん、あめをけ(飴桶)一、送給畢。御心ざしさきざきかきつくして、筆もつひゆびもたたぬ。三千世界に七日ふる雨のかずはかずへつくしてん。十萬世界の大地のちりは知人もありなん。法華經一字供養の功徳は知がたしとこそ佛はとかせ給て候へ、此をもて御心あるべし。
と禮を述べ、その前月、十一月二日の日附けで、持妙尼御前名宛には、御膳料を送られたので、亡入道殿(持妙尼の夫)の命日であつたかと、とかう紛れて、打忘れてゐたが、なるほど、そちらでは忘れない筈だと、昔、漢王の使で胡國に行つた夫に、十九年も別れてゐた蘇武の妻が、秋になると夫の衣を砧で打つその思ひが、遠く離れてゐた蘇武にきこえたといふことや、陳子は夫婦の別れに鏡を割つて一つづつ取り、妻が夫を忘れたときに鏡の破片が鵲になつて夫に告げたといふことや、相思といふ女が男を戀ひ慕つて墓へ參り、木となつてしまつたが、それが相思樹といふのだとか、大唐へ渡る道に志賀の明神といふのがあるが、男が唐へいつたのを慕つた女が神となつたが、その島の姿が女に似てゐる。それが松浦佐夜姫であるとか、昔から今まで、親子の別れ、主從のわかれ、いづれも愁いが、男女の死別ほどのはあるまいなどといはれてゐる。
けれど、そこまでは慰めであつて慰めでなく、そのあとの少しばかりが、眞に尼御前にいはれようとした眼目だつたのだ。
──御身は過去遠々より女の身であつたが、この男(入道)が娑婆での最後で、御前には善智識だから、思ひだす度ごとに法華經の題目をとなへまゐらせよ。と、二首の歌も書かれてある。
ちりし花 をちしこのみもさきむすぶ などかは人の返らざるらむ
こぞもうく ことしもつらき月日かな おもひはいつもはれぬものゆゑ
この文のなかの、娑婆での最後とは、彼女が夫入道の道心によつて、在家の尼となり出家し、法華經を信じ奉ずるために「女人成佛」といふ、むづかしい教理がふくまれてゐるのであらうが、弘安三年五月三日の窪尼あての文の頭書などは、景情そなはつてとてもよい書き出しだ。
粽五把、笋十本、千日(酒)一筒、給畢。いつもの事にて候へども、ながあめふりて夏の日ながし。山はふかく、みちしげければ、ふみわくる人も候はぬに、ほととぎすにつけての御ひとこゑ、ありがたし、ありがたし──
文永八年五月七日(今から六百六十四年前)に、四條金吾頼基の夫人の出産前に書かれた消息などは、女人のことといへば、表向きは濟ましかへるがならひの僧侶など、恥死んでもよいほど濶達な、ありのままに出産の悦びを表してゐるものだ。
四條金吾は鎌倉幕府の江馬入道につかへた武士で、當時四面楚歌の日蓮に師事し、法華經信者の隨一ともいへる若人だ。金吾は日蓮龍の口法難のをりは、自分も腹を切らうとした無垢純粹の歸依者だ。その妻は日眼女といひ、夫におとらぬ志を持した人で、この女房が年廿八の出産のをりに、
懷胎のよし承候畢。
それについては符の事仰候。日蓮相承の中より撰み出して候。能々信心あるべく候。たとへば、祕藥なりとも、毒を入ぬれば藥用すくなし。つるぎなれども、わるびれたる人のためには何かせん。就中、夫婦共に法華の持者也。法華經流布あるべきたねをつぐ所の、玉の子出生、目出度覺候ぞ。色心二法をつぐ人也。爭かをそなはり候べき。とくとくこそ生れ候はむずれ。此藥をのませ給はば、疑なかるべき也。闇なれども、燈入りぬれば明かなり。濁水にも月入りぬればすめり。明かなる事日月にすぎんや。淨き事蓮華にまさるべきや。法華經は日月と蓮華なり。故に妙法蓮華經と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば利生の月必ず應を垂れ、守護し給べし。とくとく生れ候べし。法華經云如是妙法、又云、安樂産福子云々。口傳相承の事は、此辨公(註・使僧日昭)にくはしく申ふくめて候。則、如來使なるべし。返々も信心候べし。天照大神は玉をそさのをのみこにさづけて、玉の如くの子をまふけたり。然間、日の神、我子となづけたり。さてこそ正哉吾勝とは名けたれ。日蓮うまるべき種をなづけて候へば、爭か我子にをとるべき、有一寶珠價値三千等、無上寶聚不求自得。釋迦如來皆是吾子等云々。日蓮あにこの義にかはるべきや。幸なり、幸なり、めでたし、めでたし、又々申べく候。あなかしこ、あなかしこ。
護符──藥の功徳あらはれてか、その手紙のあつた翌日、五月八日に女子が生れたので、早速名づけ親になられたのだ。
若童生れさせ給由承候。目出たく覺へ候。誠に今日は八日にて候も、彼と云此と云、所願しほ(潮)の指す如く、春の野に華の開けるが如し。然れば、いそぎいそぎ名をつけ奉る。月滿御前と申すべし。其上、此國の主八幡大菩薩は卯月八日にうまれさせ給ふ。娑婆世界の教主釋尊も、又卯月八日に御誕生なりき。今の童女、又月は替れども、八日にうまれ給ふ。釋尊、八幡のうまれ替りとや申さん。日蓮は凡夫なれば能は知ず。是併、日蓮が符を進らせし故也。さこそ父母も悦び給覽。誠に御祝として、餅、酒、鳥目一貫文送給候畢。是また、御本尊十羅刹に申上て候。今日佛、生れさせまします時に、三十二の不思議あり、此事、周書異記云文にしるし置けり。釋迦佛は誕生したまひて七歩し、口を自開いて、天上天下唯我獨尊、三界皆苦我當度。之の十六字を唱へ給ふ。今の月滿御前は、うまれ給ひてうぶごゑ(初聲)に南無妙法蓮華經と唱へ給ふ歟。法華經云、諸法實相。天台云、聲爲佛事等云々。日蓮又かくの如く推し奉る。たとへば雷の音、耳しい(聾)の爲に聞くことなく、日月の光り目くらのために見る事なし。定て、十羅刹女は寄合てうぶ水(生湯)をなで養ひたまふらん。あらめでたや、あらめでたや。御悦び推量申候
次の年に、月滿御前に經王御前といふ妹が出來たが、この時は、もはや佐渡へ遠く流されてゐた。
この日眼女が三十三の厄除けに釋尊の像を造立供養したので、それに關しては、
──厄といふは、たとへば骰子に廉があり、桝には角があり、人には關節、方には四維のあるごとく、風は方より吹けば弱く、角よりふけば強く、病は内より起れば治しやすく、節より起れば治しがたし。家には垣なければ盜人入り、人には咎あれば、敵の便となる。厄といふのはそんなものだ。家に垣なく、人に病があるやうなもので、守らせれば盜人もからめとるであらうし、關節の病も早く治せば命は長いであらう。
そも女人は、一代五千卷、七千餘卷のどの經にも佛になれないと厭はれてゐるが、法華經ばかりには女人佛になると説かれてゐる。日本國は女人の國といふ國で、天照大神ともふす女神の築きいだされた島である。この日本には、男は十九億九萬四千八百二十八人、女は廿九億九萬四千八百三十人の、この男女がみんな念佛者で、みんな阿彌陀佛を本尊としてゐるから、現世の祈りもその如く、釋尊の像をつくつたり、繪にしても、彌陀の淨土へゆくためで釋尊を本意としない。日眼女は今生の祈りのやうだが、教主釋尊像を造られたから後生成佛であらう。二十九億九萬四千八百三十人の女の中の第一の女人であると思はれよ。
念佛まをせば極樂へ──處生苦を諦らめて、念願は一日も早く彌陀の淨土へ引き取つてもらひたいといふのが念佛衆であるなら、穢土厭離、寂滅爲樂の思想は現世否定である。筆者は佛教のことは、その絲口も知らないのだが、そんなふうにこの終りの方の文を解釋すると、前の方の關節から起る不治の病も、早く治療すれば命は長いとの教へが適切に響いてくる。
これだけの拔き書きの中からすらも、女性を無知のものとして眼をつぶらせて、何事も耐忍せよといふのでなく、よく生きよと教へられてゐるのがたふとい。
ある折の日眼女へは、
──女人は、たとへば藤のごとし、をとこは松のごとし、須臾もはなれぬれば立ちあがる事なし。はかばかしき下人もなきに、かかる亂れたる世に、此殿をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神もさだめてしりぬらん。虚空よりもたかし。
といはれたのは、鎌倉が騷がしいのに、大概の女ならば、夫のそばを離れたがらないであらうし、夫を手許から離したく思はないであらうに、金吾殿をよくよこしてくれた、日蓮を思つてくれるは法華經を守つてくれるのだと述べられたのである。
建治二年三月、下總中山、富木入道の妻の尼御前には
──矢の走ることは弓の力、雲のゆくことは龍のちから、男のしわざは女の力なり。いま富木どの、これへおわたりある事、尼御前の御力なり、けぶりをみれば火をみる、あめをみれば龍をみる。男を見れば女を見る。今富木どのに見參つかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとをばう。富木どのの御物がたり候は、このはわ(母)のなげきの中に、りんずう(臨終)のよくをはせしと、尼がよくあたり、かん病せし事のうれしさ、いつの世にわするべしともおぼへずとよろこばれ候なり。何よりもおぼつかなきは御所勞なり。かまへて、さもと、三年のはじめのごとくに、きうぢ(灸治)させたまへ。病なき人も無常まぬかれがたし。但し、としのはてにあらず法華經の行者なり。非業の死にはあるべからず。
と諭されてゐる。これは富木常忍入道が母の骨をもつて、身延にゆき、日蓮上人に母死去のせつ妻の尼御前がよく世話したことや、妻が病氣がちだつた事をはなしたので書かれたものと見える。治する病ならば癒して、よく生きなければいけないといはれてゐるのだ。つぎの「衣食御書」ととなへられてゐるのを見れば一層その趣意がよくわかる。これもおなじ人ではないかもしれぬが、尼御前へ與へられたものだ。
鵞目一貫給畢。
それ食は、色を増し、力をつけ、命を延ぶ。衣は、寒さをふせぎ、暑を支え、恥をかくす。人にものを施する人は、人の色をまし、力をそへ、命を續ぐなり。
これだけの短かい手紙だが、よく讀むと、衣食の足らねばならぬことと、生命のたつとさを教へ、他人も我もおなじく、衣食が足らなければならぬを悟らし、生きることを示された、短文ではあるが意味深い書簡で、布施とか、慈善とかいふことの本義が、ウンと一聲、活を入れられたやうに響く。今の世にも生きて響くたいした手紙ではないか。
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「手紙講座 卷の三」平凡社
1935(昭和10)年4月1日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。