「郭子儀」異變
長谷川時雨



 柳里恭りうりきやうの「郭子儀くわくしぎ」の對幅が、いつのころかわたくしの生家うちにあつた。もとより柳里恭の眞筆ではない。ほんものならば、その頃でも萬といふ級の取引であつたらう。或はわたくしのうちにあつた、その寫しものでも今日の賣立などであつたら、矢張り萬とか千とかいふ代物であつたかも知れない。

 それは、とて大幅で、書院がけとでもいふのか、もとよりわたくしの生家うちの、茶がかつた床の間には合ひやうもなかつた。幅二間からある本床でなければ、第一丈がたりないといつた立派さだつた。

 一たい、ものが大きいから立派だとばかりはいへないが、この軸はかなり良かつた。素晴らしいとまではいはないが、たしかに立派なものだつた。子供といふものは妙な直覺があつて、巧手じやうず下拙へたより何より、そのものの眞髓に觸れることがあるもので、成人の思ひつかないものをピンと掴むものだ。それが善い場合も、惡い場合も、名や格に眩惑されない。といつて、子供の鑑識眼が高いなどと歪めていふのではないから、わたくしが子供心に、放心したやうにその繪に囚はれてゐたといつても、なあんだと、笑はれてしまつては困る。だがその繪は、寫しものといふ氣品の低さは、どう思ひ出して見てもなかつたやうだ。

 ところで其繪には、柳里恭とも棋園とも落款はなかつたと思ふ。柳里恭だといふのだが寫しものであるだらう。だが、高名な人のもので、しかも、かかる大幅なので、寫しものであらうといふのだが、摸寫としてもそれをうつした人は大家で、傑作だと、もとより出入りする人の追從もあつたであらうが、わたくしの家に「郭子儀くわくしぎ」のおめでたい圖があるといふことは、近隣では知つてゐた。

 ある日、興宗といふ畫家が──美術院派の畫家で、有名な「落葉」の屏風を殘した今村紫紅の兄さん──いつものやうに父とお酒を飮みながら──興宗は大酒で、父とは年齡が違ふが、うまがあふので、ちよくちよく來てはお酒びたりになつてゐた──何時かはなしが「郭子儀」の幅のことになつて、もしかするとそれは楓湖ふうこでせう。容齋先生の門にゐた若い時分、柳里恭の「郭子儀」をなんとかしたといふやうなことを言つたのを、たしか耳にしたがと言つてゐた。

 これは、今日になつて考へてみると、別に惡いことでもなんでもない。よいものを失つては天下の損失であるから、摸寫しておくのは頼まれなくても頼まれても惡いことではないのに、その當時の人は堅苦しくて、摸寫をさういふふうにもとらず勉強のためともとらず、贋物つくりのやうに、その者を侮辱するかのやうに聲をひくめて、遠慮して子供にもきかせたくないやうな顏を、わたくしの父などもした。楓湖ふうことは松本楓湖で、菊池容齋門下の逸足、明治年間の高名な繪かきの一人だつた。

 今村興宗は楓湖さんのお弟子だつた。紫紅もさうだつたやうだ。興宗はよくこんなことを言つてゐた。わたくしは左利きになつてしまつたが、弟は右利き、すこしでもお金があればわたしは酒を呑む、弟は鎧の引きちぎれを買つて來て眺めてゐる。古本の參考書も買つて來て讀む。どうも勉強が違ふと歎いてゐたが、大酒の勢ひにまかせ、達者に描きなぐつてしまはなければ、もつと高いところに達したと思はれる人だつた。わたくしの手許には、彼が晩年に殘した桐戸二枚の大きな牡丹花が、とても濶達に描かれてある。

 御維新ごろの世の中は、繪かきになどかまつてゐられない場合で、それから二十年か二十五年位しか經つてゐない時分であつたから、その當時の繪かきが、生活に困つたことなどが如實に來るので、興宗にしても、そんな話をすると先生たちが、先人のものを贋作したかのやうに、あやまつて聽きとられない怖れもないではないので、いや、はつきりきいたのではないが、たしかそんなこともあつたと、言つたことがあつたやうな氣もするがと、言ひ濁したやうだつた。

郭子儀くわくしぎ」の圖とわたしはいつてゐるが、もつと目出たい題名がついてゐたのかどうかは忘れてしまつた。唐の郭子儀くわくしぎ夫妻が一人づつ中心になりその老翁夫婦をとりかこんで、一方には男子ばかり、一幅には女子ばかり集り、うから、やから、まご、うまごが、それぞれの場處に讀書し、語り合ひ、遊戲し、團欒してゐる、和氣靄々、子孫長久繁榮のやはらぎとよろこびが、全幅にあふれてゐるので、嫁入り、婿取りにはよく借りられた。ことに濱町に日本橋倶樂部が出來た時分は、日本室の大廣間を宴席にするをりなど、それからそれと聞いて借りに來た。

 唐の郭子儀といふ人は、八十五歳まで生きて、子孫多く、臣下でも王とよばれ、功成り名遂げた人だといふので、そのいみじき福にあやかれと、祝はれたものであらうが、實はその双幅は、幾人かの婚禮に──婚禮にといふより、その結果に面白くないことがあつて、父はそれを、よろこんで人に貸さなくなつてしまつた。嫌氣いやきがさしたのかどうか、後には他人に讓つてしまつた。しかし、その軸をかけたら、あの縁組みの後日も、この縁組みののちも、悲しみがあつたといふわけではないのに、變なはめで、めでたい筈の「郭子儀」の雙幅が、不目出たいものにされてしまつたが、もとよりその罪は此幅にあるのでなく、その時代の風習こそ呪ふべきだつたのだ。

 床の間に掛けた「郭子儀」の幅に、不結果な婚姻こんいんの罪をなんで着せたか──明治中期は封建的遺産を多分に保つてゐた。といふより、結婚成立の道程などは、明治のはじめに文明開化と、舊弊なチヨン髷を切りとつてしまひながら、頭中のシンは、いつまでも古くさくて、そつくりそのまま昔通り。しかも、もつと惡いことには、資本主義勃興の時代となり、一にも、二にも、金、金。その底にはまだ士族がはばをきかせ、平民より一階級上のやうな顏をするので、町家でもまだ家柄も尊敬される。で、金があつて古い暖簾で、今日の商業が活溌といふ家が、下町では鼻息が強く、その次は、成上りでも出來星でも金𢌞りのよい大商店。官員がさほどに騷がれなかつたのは、もはや一時期を越して、人氣が落ちついたといつたはうがよいか、前代からの商業中心地は、月給とりは取り高がわかつたからといふよりも何よりも、まづもつて、やはり前代の思想をうけついで、人物に嫁ぐよりは、家に、家名に、釣りあひのとれた──又はそれ以上の資産を嫁の方の親が望んだ。それが破綻はたんの原因であることを、迂濶にも知らなかつたのだ。周圍がそんな無理解ななかにあつて、深窓に育つて、世の風に當らないから、なんにも知らないでゐるであらうとばかり、親や其他に思ひこまれてゐた娘たちは、その娘自身が、なんの覺醒をもつてゐないにしてからが、底に流れてゐた、激しい時流──女性先覺者が身を挺して進んでゐた氣運を何となく魂に感じて、蠢きそめてゐたをりであつたから、ただ一連ひとつらに從順にはなりきれなかつたのだ。そのための破婚もあつたであらうが、その中で、あまりにも無智にさへ思はれた結婚が二つほど、わたくしの心に忘れないものとして殘つてゐる。

 明治二十年代のはじめだつた。木綿と金物との問屋ばかりが、何十年にも變らぬ近隣づきあひをしてゐるやうな町へ、ある時、パツと明るい色彩を輪入して來た店があつた。名古屋の方から移つて來たとかで、すべての事が、今日でいふ宣傳になつて、美しい娘のゐることと、色とりどりな洋傘ようがさの卸問屋だつたのが、落著きすぎて陰氣なほどの町へ、強い刺戟しげきをあたへた。

 その町の娘たちは、わたくしの知つてゐるばかりでも、二人や三人の美人ではなく、しかもそれが、ちよつと群をぬいたうるはしさだつたが、みな深窓のひととなりで、人の眼に觸れることが尠なかつた。問屋の店の者たちも謹んで噂をするだけだつたが、新しい、洋傘問屋の娘は、紫や、赤や、黄や、青の眩惑げんわくするやうな色の、女唐洋傘めたうがさを、開いたりつぼめたり、つるしたりするその店の商業ぶりとおなじく、若者たちの眼をひかないではゐなかつた。彼女のおつくりは濃厚で、可憐といふよりは意識的に魅惑をもつてゐた。その娘が店に出てゐることが多い。こんなことは、男店の多いどつしりした店藏つづきの家には見られないことだつた。その上、夕暮かたになると、彼女たちの一隊は、堅氣な家の家族には見られない身のこなしで、うつくしい年増の母人もついて、女たちばかりで日蓮さまへ日參しにゆくのだつた。

 これは散歩と見ればなんでもないのだが、店の主人でも店用でないときには、新道の裏木戸から見立たぬやうに出歩くのが習慣の近所は、びつくりさせられたのだつた。彼女たちはまたさうして錢湯にゆくこともあるが、新道をゆかずに通りちやうを歩いた。しかもそれが、各戸の暖簾をはづす暮あひなので、番頭も若主人も、暖簾をはづす時間には、みな店さきへ立つて終日の息をぬいてゐる時分なので、そこへ目新しい華やかな刺戟をうけるのだから、その噂は見る見る擴がつてしまつた。桃色鹿の子の結綿島田の大柄すぎるほどの娘は、實質より人氣で、すばらしい小町娘になつてしまつた。

 その娘が、小船町こぶなちやうのたしか砂糖問屋の資産家へ嫁入りすることになつた。その評判がまた、たいした手柄をしたやうに傳はつたのだが、前にいつたわたくしの家の「郭子儀」組だつた。姙娠にんしんしたと祝はれたかと思ふと、急に死んでしまつた。本當のことか嘘か、噂では、嫁入りさきがあんまり堅實かたぎな大家なので、嚴しくて、放縱はうじゆうな家庭からつてお腹がすいてすいて堪らず、ないしよで食べものをつまんで、口へ入れたときに呼ばれたので、あわてて飮込んだので死んだと──飮込んだのは醋鮹すだこだともいはれたが──ひどい惡阻ででもあつたのか、または盲腸ででもあつたのか、それとも、死ななければならないほど思ひせまつたことでもあつたのか? 普通の死ならば、急性疾患でなくなつたのではあらうが、結局古い家憲にしばられて、生家に居たときとは、激しい變りかたが原因ではあつたかもしれない。

 と、も一人、親の見立に、もつとも盲順まうじゆんしたやさしい娘の悲慘な結婚があつた。

 その娘の親がれこんだのは、角店の構へと、居つき地主の持地所で、ちよつと人の目を瞠らせるに足る廣さだつた。商業ぶりも非常に派手だつた。たつた獨りの息子で、老父は──全く老父といつてもよい八十歳ほどの人だつた。二十二三のせがれに八十の老爺、その二人だけの家内といふのが氣になるわけなのに、それをすら好條件の一個條に仲人はあふりたてた。なるほど、姑は居ない、しうとは年齡からいつても八十歳ならば、もはや餘命いくばくもない筈である。とつがせる娘よりは、その母人の方がすつかり乘氣になつてしまつたのだつた。精力的な四十女は、大家内の娘の婚家の内外を、やがて、自分も手傳つて切り盛りするであらう樂しさをさへ語るのだつた。親類の少いのも、嫁にとつては居よいとさへ仲人はいふのだつた。

 だが、その婚家は、どうしてさう血縁のものがすくないかといふ、當然疑問にしてよい事は閑却されてゐたのだつた。これは、悲しいことがつづいてから後になつて檢討され、それだからだつたと言ひあはされたが、あはれな娘にとつては、なんにもならない後の祭りでしかなかつた。その家には、婿になる男の兄弟が八人もあつたのだが、みんな年頃になつて死んでしまつてゐたのだ。しかも、若い一番末のたつたひとり殘つた息子に急に嫁をさがしだしたのも、どうやら忰もまた氣欝症になつたと見て、早く嫁でももたせたらば跡に血筋を殘していつてくれるかもしれないといふ、八十歳の老爺が狼狽だした目算だつたのだ。

 八十歳の老爺は鬼のやうに頑健だつた。彼は、もう末息子もだめと觀念してゐたのか、孫を殘させて、その孫をしたてあげて家を殘さうとしたので、無病息災な長壽の家の娘に白羽の矢を立てた。すべてが秘密秘密で、惡い病氣のあることは隱されてゐた。娘の方の親は、ただ見かけだけを探つて安心しきつて、娘の幸福だと祝つた。見合をさせたあとで娘さんの母親はハヅンでいふのだつた。透通るやうに色白で、優形で、役者にもない美男だと──

 その美男の母親が、巖丈な爺さんの戀女房であつて、その妻君の生家が家中根だやしに肺病で死んでゐるのだつた。そして、その女の生んだ子は八人のうち七人まで、育つては年頃になるとなくなつて、たうとうその女もその病氣で逝くなつたばかりだつた。さうして、さういふ、誠に今からいへば、全く衞生觀念も、鬪病思慮とうびやうしりよもない兩家が結合して、虚弱な初孫を生ませ、すぐに死なせてしまひ、それを悲觀して息子もあとを追ひ、氣の毒な犧牲者のお嫁さんも腸結核ちやうけつかくになつてしまつた。

 そんなふうな、過つた結婚を、平氣でさせておいて、家の娘は不運だといひ、お前は運のない生れつきだ、折角よいところへ嫁にやつたのに亭主運ていしゆうんがわるくて、死別れてしまふなんてと、さも、娘が婿を殺してでもしまつたやうに、生みの母親さへいふのをはばからないほどであつたから、先方は、こんな哀れな犧牲者へ對してさへ情用捨はなかつた。やはり息子の場合と同じく、その腸結核の病者へ對して、跡目相續がしたいならば、田舍から遠縁の男性を探すといふのだつた。もとよりそれは養子で、殘つた嫁にめあはせようといふので、息子たちに懲りたから、こんどはただ丈夫一式で、字なんぞは讀めなくてもよいといふのが婿の資格條件だつたが──流石に嫁になつた娘の兄妹が、勃然と反對した。なんにもいらない、體だけ歸へせと爭つてゐた。角店の大構おほがまへも、大名邸ほどの廣い土地も家作も、大資産であるだけ負債も多く、家も子供たちにおなじにすつかり蟲くつてゐたのだつた。そんなわづらはしい家庭で、無智な婿をもたせられる、病女は、誰が造つたのだといはざるを得ないのに、これもまた、結婚披露宴に、例の「郭子儀」の幅をかけたからだと、變なところへ咎をもつていつた。だが、古來厭忌などと附會こじつけることの多くがそんなものなのであらう。從つて、さうした悲運に遭遇しない側の結婚については、なんにも言はない。或は何にもいはない側の方に、平和な幸福があつたのであらうが、人は幸福になれると、幸福を幸福と思はないものだから、「郭子儀」の幅も所有者も、いつて見れば不運だつた。

(「東陽」昭和十一年六月號)

底本:「桃」中央公論社

   1939(昭和14)年210日発行

初出:「東陽 昭和十一年六月號」

   1936(昭和11)年6

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年14日作成

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