其中日記
(二)
種田山頭火
|
其中日記は山頭火が山頭火によびかける言葉である。
日記は自画像である、描かれた日記が自画像で、書かれた自画像が日記である。
日記は人間的記録として、最初の文字から最後の文字まで、肉のペンに血のインキをふくませて認められなければならない、そしてその人の生活様式を通じて、その人の生活感情がそのまゝまざ〳〵と写し出されるならば、そこには芸術的価値が十分にある。
現在の私は、宗教的には仏教の空観を把持し、芸術的には表現主義に立脚してゐることを書き添へて置かなければならない。
うららかにして
木の葉ちる
一月一日
私には私らしい、其中庵には其中庵らしいお正月が来た。
門松や輪飾はめんどうくさいので、裏の山からネコシダを五六本折つてきて壺に揷した、これで十分だ、歯朶を活けて、二年生きのびた新年を迎へたのは妙だつた。
お屠蘇は緑平老が、数の子は元寛坊が、そして餅は樹明君が送つてくれた。
いはゆるお正月気分で、敬治君といつしよに飲みあるいた、そして踊りつゞけた、それはシヤレでもなければヂヨウダンでもない、シンケンきはまるシンケイおどりであつた!
踊れ、踊れ、踊れる間は踊れ!
芝川さんが上海からくれた手紙はまことにうれしいものであつた。
・お地蔵さまもお正月のお花
・お正月のからすかあかあ
樹明君和して曰く
かあかあからすがふたつ
・シダ活けて五十二の春を迎へた
一月二日
今夜は樹明君といつしよに飲みあるき踊りつゞけた、あゝ何と酒がうまくて、何と踊のかなしかつたこと!
山手閑居。
一月三日
今日は樹明君、敬治君と三人で遊んだ、遊びつかれて、夜おそく帰つてきた。
私はひとりで涙を流して笑つた、そしてこん〳〵として睡つた、天国の夢も地獄の夢も見なかつた。
一月四日
曇、お正月もすんだ、すべてが流れてゆく。
アルコールのない、同時にウソのない一日だつた。
茶の花やお正月の雨がしみ〴〵
・お正月の鉄鉢を鳴らす
また〳〵人が来て金の話をしていつた。
一月五日
雨、寒い、そして静かだ。
夕方、樹明君がきてくれた、そしておとなしく帰つていつた、大出来、々々々。
米がないから餅を食べる。
夜の雨はよかつた、閑寂そのものゝやうだつた。
一月六日
小寒入、時雨。
雨を聴きつゝ、完全に自分を取り戻した。
△乞食になつて、乞食になりきれないのはみじめだ。
餅もなくなつたから蕎麦の粉を食べる。
今日がほんとうの新年だつた、私にとつては。
しづかなよろこび。
△まづしくともすなほに、さみしくともあたゝかに。
自分に媚びない、だから他人にも媚びない。
気取るな、威張るな、角張るな、逆上せるな。
△腹を立てない事、嘘をいはない事、無駄をしない事。
私は執着を少くするために、まづ骨肉と絶縁する、そしてその最初の手段として音信不通にならう(賀状なんかもさういふ方面へは一切出さなかつた)。
私は私を理解してくれる、そして私が尊敬する友といつしよに、友に支へられて生きよう、生きられるかぎりは。
・枯枝の空ふかい夕月があつた
凩の火の番の唄
雨のお正月の小鳥がやつてきて啼く
空腹かかへて落葉ふんでゆく
・枯木ぱちぱち燃える燃える
誰も来ない夜は遠く転轍の音も
宵月に茶の花の白さはある
・三日月さん庵をあづけます
一月七日
寒の雨、考へさせる雨だ。
△一杯の酒は甘露だつた、百杯の酒は苦汁となつた。
清貧に安んじて閑寂を楽しむ、さうなる外はない、それが時代おくれであらうと、何であらうと。
何のための出家ぞ、何のための庵居ぞ、落ちつけ、落ちつけ。
「身のまはり」
三日の夜から今朝まで考へつゞけた、そして或る程度の諦観を握ることが出来たので、掃いたり拭いたり、身辺を整理した。
あるのは命だけだ──まだ命だけは残つてゐる。
さびしい昼餉だつた、ソバノコだけだつた。
△やつぱり、昨日を思はず明日を考へず、今日は今日を生きる、これがやつぱり、私の真の生活である。
夕方ひよつこり樹明君来庵、私が落ちついてゐるので、それが彼にはさびしく、さびしすぎて感じられたのだらう、五十銭玉二つを机上に載せて置いて、さう〳〵と帰つていつた。
この壱円はほんとうにありがたかつた、私は樹明大菩薩を同じ道の友として持つてゐることを喜ぶ。
さつそく店まで出かけて、米を買ひ醤油を買ひ焼酎を買ひ、煙草を買つた、そしてすつかり楽天老人となつた、ノンキナ ヲヂサン バンザイ!
八日ぶりに飯を炊く、それは明けてから最初の御仏飯でもあつた。
・ひとりで酔ふたら雨が降りだした
雨がふる逢ひたうなる雨が
・酔へばいろ〳〵の声がきこえる冬雨
(述懐)
煙草のけむり
五十年が見えたり消えたり
一月八日
晴、すこし胃が痛む、昨夜の飲みすぎ食べすぎのためだらう。
久しぶりに──八日ぶりに入浴した、二銭五厘の享楽である、からだもこゝろもさつぱりした。
△無理に垢をおとすな、無理におとさうとすると皮をむぐぞ。
楢の枯葉が声だして日をまねくやうだ
・風を、ぬかるみを、売りにゆく米二俵
茶の花や蜂がいつぴき
雑草伸びたまゝの紅葉となつてゐる
虫がおしつぶされてゐる冷たいページ
・枝をはなれぬ枯れた葉と葉とささやく
・風がきて庭の落葉を掃いていつた
泥足袋洗ふにぽつとりどんぐり
・落葉踏みにじりどうしようといふのか
一月九日
徹夜した、といふよりもあれこれ考へてゐるうちに夜が明けてしまつたのである。
盥に薄氷が張つてゐる、うらゝかな陽が射してゐる。
敬坊からの手紙はあまりにさびしくかなしくした、敬坊よ、しつかりしてくれ、しつかりやつてくれ。
麦飯を食べることにする、経済的理由よりも生理的、生理的よりも心理的理由から。
落葉の掃き寄せをふと見たら、水仙、私の好きな水仙がある、落葉の底から落葉を押し分けて伸び出たのである、生きるものゝ力、伸びるものゝ勢を見て、今更のやうに自然の前に頭がさがつた、私は落葉をのぞき雑草をひきぬいて、すまないけれど私の机上に匂うであらう水仙を祝福した。
夜、樹明、冬村の二君が酒肴持参で来訪、飲んで話した、こゝまではよかつたが、それからワヤになつた(もつとも私はあまりワヤにはならなかつた)、いふまでもなく赤い灯へ、彼女等のテーブルへ、泥酔乱舞の世界へ──。
更けて戻つてから、飯を炊き味噌汁をこしらへた、やれやれ、御苦労、々々々。
火鉢に火があり、米桶に米があり、そして酒徳利に酒があるとは、さてもほがらかな風景であるかな。
慾には銭入に銭があつてほしい!
・ここでわかれる月へいばりして
・霜の大根ぬいてきてお汁ができた
・たべきれないちしやの葉が雨をためてゐる
・落葉の、水仙の芽かよ
・曇つた寒空できりぼしきりつゞけてる娘さんで
・冬空、何をぶちこはす音か
・猿まはしが冬雨の軒から軒へ
・雨となつた夜の寒行の大皷が遠く
考へてゐる電燈ともつた
・冬蠅よひとりごというてゐた
・楢の葉の枯れて落ちない声を聴け
一月十日
曇、それもよし、雨となつた、それもよし。
御飯のおいしい日であつた、ことに葱のお汁がおいしかつた。
△食べるうまさはたしかに生きてゐるよろこびの一つである。
樹明君が昨夜から行方不明となつてゐることを聞かされて、私は昨日敬治君の手紙を読んだ時のやうに、さびしくかなしかつた、樹明君、お互にしつかりしようぢやありませんか、ほんとうに生きようぢやありませんか、昨日までのやうでは、私たちはあまり下らないぢやありませんか、みじめすぎるぢやありませんか、酒を飲まないぢやない、うまい酒をうまく飲みませうよ。
夜の雨をついて寒行四人連れで来庵、御苦労さまでした。
寝られぬまゝに思ひついたこと二三、──
独酌酔中自楽といふ境界まで行きたいものだ。
健やかな、あまりに健やかな胃袋ではある!
私はたしかに私が不死身の一種であることを信じてゐる。
人生は割り切れるものぢやない、少くとも現実は。
もし人生が割り切れるものならば、それを割り切るものは恋と麻酔と、そして。──
底力のある生活を生活したい。
私から酒をのぞいたら何が残る!(と私はしば〳〵自問自答する)句が残るだらうか?
酒が何々させた……といふ言葉は何といふ卑劣だらう。
米がなくなつたから餅を食べてゐた、餅がなくなつたから蕎麦の粉を食べてゐた、蕎麦の粉がなくなつたら、さて何を食べようか、野菜でも食べるか、水でも飲むか、その時はその時、明日の事は明日の事にしてゐたら、彼氏が米をくれた、酒までくれた、それはまことに天来の賜物ともいふべきであつた。
水と空気とがタダだからありがたい。
私はだん〳〵アルコール中毒になりつゝあるらしい、すこし手がふるへだした、アルコールがきれると憂欝を感じる。
自然的自殺、かういふ事実はザラにある、放哉の死もさうだつた、私もさうなりつゝあるらしい。
・どこやらに水の音ある落葉
水音をたづねて落葉のなかへ
・たたへて冬の水のすこし濁り
・太陽がのぞけば落葉する家や
たんぽぽはまだ咲かない雨の水だまり
・けふは水がある川の何やかや流れる
長い手紙をかけばしたしく虹がたち
・あれこれ食べる物はあつて風の一日
よい眼ざめであつた、しづかなよろこびがあふれた、私はひとり、ゆう〳〵として一日を暮らした、しかしお天気はよくなかつた、雨風だつた。
敬治君へ長い手紙を書いた、私の心はきつと通じる、お互にもうアルコールの繋縛から脱してもよい時節である。
うれしい酒をのむがよい、酒は涙でもなければ溜息でもない、天の美禄だ、おいしい酒をおいしく飲まなければ嘘だ。
風を聴く、風もよいかな。
今日も御詠歌組がやつてきた、二銭あげる、昨夜の二銭とこの二銭とでサイフはナイフになつてしまつた、此次やつてきたら何をあげようかな(もう米もない、紙でもあげるか)。
△敵は味方に似せてゐるときいたが、まつたくそのとほりだつた、今朝、ほうれんさうを摘む時、似而非ほうれんさうをたくさん見つけた、ほうれんさうらしい草がほうれんさうにまぢつて生えてゐた。
嵐の跡──といふ感じがする、とにかく嵐は過ぎた。
酔うて乱れる酒は断じて飲まないことを山頭火が山頭火に宣誓した。
△ホントウとアタリマヘとはシノニムである。
・耳垢を掌にのせて夜のふかく
・ふつと挙げた手で空しい手で
一月十二日
眠れないから考へる、考へるから眠れない、とやかくするうちに朝が来た。
──諸法常示寂滅相──
どうやら晴れさう、そして冬らしく寒らしくなつた。
そばだんご汁をこしらへる、御苦労様、御馳走様。
△とき〴〵貧乏になることは、いろ〳〵の意味に於て悪くない、いつも貧乏では困るけれど。
樹明君が帰宅の途次ちよつと立寄つた、あの夜の経過を聞くまでもなく、寠れた顔色が万事を雄辯に語つてゐる、私は私の友情が足らなかつたことを恥ぢる、樹明君よ、お互に酒の奴隷はやめませう。
寒い、寒い、何もかもみんな寒い、こんな夜は早くから寝るに限る、ことに昨夜は寝なかつたから。
△私たちの生活は雑草にも及ばないではないか(と草取をしながら私は考へた)見よ、雑草は見すぼらしいけれど、しかもおごらずおそれずに伸びてゆくではないか、私たちはいたづらにイライラしたり、ビクビクしたり、ケチケチしたり、ニヤニヤしたりしてばかりゐるではないか、雑草に恥ぢろ、頭を下げろ。
△恥のない、悔のない生活、ムリのない、ムラのない生活。
落葉するだけ落葉して濡れてゐる
・よごれものは雨があらつてくれた
一月十三日
ぐつすり寝た、大安眠だつた、これならば大往生も疑ない。
しづかな、あたゝかい寝床を持つてゐるといふことは何といふ幸福であらう(こゝで改めてまた樹明君に感謝する)。
小雪ちらほら、寒くて冷たいが、お天気はよくなりさうだ。
幸雄さんからあたゝかい手紙、あたゝかすぎる手紙がきた。
するめをちぎつてはしようちゆういつぱい、人間ほどヱゴの動物はないと思ふ。
それから街へ出かけてワヤ、たゞし小ワヤ。
今日の買物
一金九銭 ハガキ六枚
┌バツト一
一金十一銭 タバコ│
└なでしこ一
一金七銭 醤油二合
一金弐十弐銭 焼酎二合
一金四十八銭 白米二升
合計金九拾七銭也
一月十四日
曇、后晴、小雪、──私の心は明朗。
梅花一枝を裏の畑から盗んで来て瓶に揷した、多過ぎるほど花がついてゐる、これで仏間の春がとゝのふた。
敬治君からうれしい返事が来た、彼の平安が長続きするやうに祈つてやまない。
昼も夜もコツコツと三八九の原稿を書いた、火鉢に火のないのが(木炭がないので)さびしかつた、燗瓶に酒があつたら賑やかすぎるだらう。
・落葉ふんでどこまでも落葉
・雑草もみづりやすらかなけふ
・木枯の身を責めてなく鴉であるか
・冬の夜ふかく煙らしてゐる
・寒うをれば鴉やたらにないて
・けさは雪ふる油虫死んでゐた
一月十五日
霜、晴れたり曇つたり、寒らしい冷たさ。
終日、三八九の原稿を書いた、邪念なしに、慾望なしに。
夜はよく寝られた、平凡にして安静、貧乏にして閑寂。
一月十六日
薄雪がまだらにつんでゐて晴、明けてから最初のお天気らしいお天気である。
うらゝかで、あたゝかで、日向ぼつこしてゐねむりするにはもつてこいの日だ。
けさの御飯は上出来だつた、仏様も喜んで下さるだらう、まだ雪をかぶつてゐる大根一本ぬいてきておろしにする。
「松」がきた、待つともなく待つてゐる手紙は来ない、まもなく新聞がくる、これでもう来る人も物もないわけだ。
それにつけても、樹明さんはどうしたのだらう、こんなに長く、といつても五日ばかりだが、やつてこないことは、今までにはなかつた、禁足か、自重か、それとも家事多忙か、身辺不穏か、とにかく気にかゝるけれど、此場合、訪ねてゆきたくない、行くべきでないと思ふ、いろ〳〵の理由から。──
三八九の原稿を書きつゞける、煙草のなくなつたのが残念だ、一服やりたいなあ、と灰の中の吸殻をさがしてみる。
午は菜葉を煮て食べる、寒いからラードを少し入れる。
火を焚きつゝ、私はいつも火について考へる、火、ひとりの火。
この火床も火吹竹も私がこしらへたものである。
水仙は莟がだいぶ大きくなつた、裏の梅二株は見頃だ。
晩にはすいとん汁をこしらへた、御飯が足らないらしいから。
夜、やうやく三八九の原稿を書きあげた、安心して寝る。
よろこびがしづかにわく、そのよろこびを味ふ、しづかな雨がふる、その雨を味ふ。
・冬ぐもり、いやな手紙をだしてきたぬかるみ
・あたたかし火を焚いて古人をおもふ
・芥うかべて寒の水の澄まうとする雲かげ
・寒い朝の土をもりあげてもぐらもち
一月十七日
けさはゆつくり朝寝した、寝床のなかで六時のサイレンをきいた。
雨がふつてゐる、おちついて何かと仕事をする。
あるだけの米を粥にした、大根の浅漬がおいしい。
忘れてゐた鰑をかみつゝ、三八九印刷、紙があるだけ。
三八九、何から何まで私一人の仕事である、書く、刷る、綴ぢる、送る、等、等。
△おだやかに、けちけちせずに、つつましく、くよくよせずに。
一月十八日
くもり、はれる、そしてまたくもる。
きのふ一通、けふ一通、いやな手紙をかいてだす。
五厘銅貨でなでしこの小袋を買ふ、村のデパートで、そして、そこのおかみさんが五厘銅貨を歓迎してくれた!(豆腐油揚が弐銭五厘なので釣銭として五厘銅貨がほしいといつた)
古木を焚いて湯を沸かして砂糖湯を飲む、うまい。
酒はこらえられるが、煙草はなか〳〵こらえにくいものである、その煙草を三日ぶりに喫ふたのである。
△身貧しくして道貧しからず、──負け惜みでもなく、諦めでもなく、それは今日の私の実感であつた。
木がある水がある、塩がある、砂糖がある、……しかし、古木を焚いて(炭がないから)砂糖湯を啜る(米がないから)といふ事実はさみしくないこともない、さみしくてもありがたい、湯がたぎる、りん〳〵とたぎる、その音はよいかな、ぱち〳〵と燃える音はいはでもがな。
かうして生きてゐる、それは生活といふべくあまりにはかないであらうけれど、死ねないあがきではない、やすらかである。
△水仙のきよらかさ、藪柑子のつゝましさ、雑草のやすけさよ。
けふも鴉が身にせまつて啼く。
晩には食べるものがないから、大根を三本(大根三本の命ともいへる)ひきぬいて、それを煮て食べた、それで十分だつた、大根は元来うまいものだが、こんばんの大根はとりわけうまかつた、こんなにうまい大根をたべることが出来たのはありがたいことだ、しかしこれでいよ〳〵食べるものがなくなつた、塩と砂糖とが残つてゐるだけだ(いやまだ〳〵野菜と水とがある)。
夜はしづかに読書した、火鉢に火があり、煙草入に煙草がある、私は幸福だつた。
かうして、私は閑寂枯淡の孤独生活にはいることができるやうになつた、私は私自身を祝福する。
悠々淡々閑々寂々。
樹明君も敬治君も、緑平老も井師も喜んで下さるだらう。
自分の性情がはつきりしてきた、随つて自分の仕事もはつきりした、私はかういふ私としてかういふ仕事をすればよいのだ、さうするほかないのだ。──
しめやかなうれしさがからだいつぱいになつた。
・草のそのまま枯れてゐる
そのまま枯れて草の蔓
・楢の葉の枯れてかさかさ鳴つてゐる
・燃えてあたたかな灰となつてゆく
・食べるもの食べつくし何を考へるでもない冬夜
・いたづらに寒うしてよごれた手
・冬日まぶしく飯をたべない顔で
・落葉ひよろ〳〵あるいてゆく
ひよろ〳〵あるけばぬかるみとなり落葉する
・落葉して夕空の柚子のありどころ(再録)
一月十九日
雪もよひ、手紙は来ない、行乞は気がすゝまないからやめる、といふ訳で、野菜食がはじまる、菜葉(大根葉をも)をラードでいためて塩で味付けするのだつた。
五厘銅貨を握つて村のデパートへ出かける、きのふ、おばさんの諒解が得てあるので、焼酎一合と豆腐二丁とを買うて戻る(此代金十六銭、まだ二銭あまつてゐる!)、飯をたべないものだから、何となくよろ〳〵する(酒好きは酒好きですね、間違なく)。
朝は砂糖湯、昼は野菜、それから焼酎と豆腐だつた、これではゼイタクすぎる、まつたくさうだ。
とにかく山籠と思へば何でもない、いや、けつこうすぎる、かういふ機会を活用して、かういふ食事をしなければウソだ。
おちついた、おちついた、おちつきすぎるほどおちついた(すぎるといふ言葉をつかひすぎる!)。
……焼酎はにがかつた(いかに酒のうまいことよ)、豆腐はからかつた(こゝで味噌醤油の必要なことがわかる)、でも、おかげで、腹がふくれて、ほろ酔気分になつた。
その気分で原稿を書いた、曰く、乞食漫談、曰く、其中庵日記。
さらに書きたいのが、過去帳──自叙伝(これは長くなる)。
やつぱり御飯がたべたい、米がほしい、私は日本人だから、日本的日本人だから(しかし、この豊葦原の瑞穂の国に生れてきて、酒がのめるとはうれしいな!)。
ゆふべ、枯枝をひろひあるいて、二句作つたが、放哉坊の『枯枝ぽきぽき折るによし』には、とてもとても。
昨日今日の新聞は、第二共産党検挙記事で賑やかな事此上なし、共産党そのものは私の批判以外の事件だが、彼等党人の熱意には動かされざるを得ない、人と生れて、現代に生きてゆくには、あの熱意がなければならない、私は自から省みて恥づかしく、そして羨ましく思つた。
学校からの帰途、樹明君が寄つてくれた、ほんとうに久しぶりだつた(こゝへきてから逢はなかつた時日に於て最長レコード)、かはつた事がなくて、元気な顔を見てうれしかつた(先日、たしか十一日にやつてきた時は色身憔悴だつた)、そしておみやげをいろ〳〵貰つた、干魚、塩辛、インキ、そしてバツト。
何やかや食べて飲んで、腹がいつぱいになつたけれど、御飯を食べないものだから、何だか力がなくて労れてゐる、日本人は(今日以後の若い人は、私たちより時代のちがふ若い人は別として)やつぱり、米喰ふ虫だ。
早く、寝床にはいつて漫読する、野上八重子さんの小説の文章の気のきいてゐるのに感心した。
それでは、けふはこれでさようなら。
書き漏らした事をもう一つ、──今夜はどうしたわけか、やたらに溜息がでる、はてめんような、これは何の溜息でござるか!
・湯がわいてくる朝日をいれる
・枯木よりそうて燃えるあたゝかさ
・あたゝかく枯枝をひろうてあるく
・ゆふべの枯枝をひろへばみそつちよ
夕風の枯草のうごくは犬だつた
・更けて荷馬車の、人が馬が息づいて寒い星のまたたき
・落葉鳴らして火の番そこからひきかへした
・つめたいたたみをきて虫のぢつとしてゐる
落葉ふかく藪柑子ぽつちり
すこし日向へのぞいて藪柑子
ちぎられて千両の実のうつくしくちらばつて
・日向の梅がならんで満開
・夜どほしで働らく声の冴えかえる空
冴えかえる夜でようほえる犬で
たたずめばどこかで時計鳴る
句賛として四句
一日花がこぼれて一人(枇杷)
・はなれて遠いふるさとの香を味ふ
(松茸)
・その香のしたしくて少年の日も
家を持たない秋ふかうなつた
ほのぼの明けてくる土に咲けるもの(十薬)
一月廿日 大寒入。
のび〳〵と寝たから私は明朗、天候はまた雪もよひ、これでは行乞にも出かけられないし、期待する手紙は来ないし、さてと私もすこし悲観する、それは何でもない事なのだが。
一茶会から「一茶」、酒壺洞君から仙崖の拓字が来た。
△すべてを自然的に、こだはりなく、すなほに、──考へ方も動き方も、くはしくいへば、話し方も飲み方も歩き方も、──すべてをなだらかに、気取らずに、誇張せずに、ありのまゝに、──水の流れるやうに、やつてゆきたいと痛感したことである。
鼠もゐない家──と昨夜、寝床のなかで考へた、じつさい此家には鼠がやつてこない、油虫も寒くなつたので姿をかくした、時々その死骸を見つけるだけだ。
△苦茗をすゝる朝の気持は何ともいへないすが〳〵しさである、私は思ふ、茶は頭脳を明快にする、酒は感興を喚ぶ、煙草は気を紛らす、茶は澄み酒は踊り煙草は漂ふ、だから、考へるには茶をすゝり、作るには酒を飲み、忘れるには煙草を喫ふがよい。
住めば住むほど、此家が此場所が気に入つてくる、うれしくなる、落ちついてくる、樹明君ありがたい。
酒が悪いのぢやない、飲み方が悪いのだ、酒を飲んで乱れるのは人間が出来てゐないからだ、人間修行をしつかりやれ。
今日は大寒入、朝餉としては昨日の豆腐の残りを食べた、それで沢山、うまくもまづくもなかつたが、さて昼餉は!
けふも、いやな手紙を一通かいてだした、ゴツデム!
ぢつとしてはゐられないから、そして午後はすこしあたゝかくなつたから、嘉川まで出かけて行乞三時間、いろ〳〵の意味で出かけてよかつた、行乞相も(主観的には)わるくなかつた。
四日ぶりの御飯である(仏様も御同様に)、それはうまいよりもうれしい、うれしいよりもありがたいものだつた(仏様、すみませんでした)。
御飯をたべたらがつかりした、米の魅力か、私の執着か、そのどちらでもあらう。
△醤油も味噌もないので、生の大根に塩をつけて食べた、何といふうまさだらう、フレツシユで、あまくて、何ともいへない味だつた、飯とても同じこと、おいしいお菜を副へて食べると、飯のうまさがほんとうに解らない、飯だけを噛みしめてみよ、飯のうまさが身にしみるであらう、物そのものの味はひ、それを味はなければならない。
大根の浅漬に柚子を刻んでまぜた、そのかをりはまことに気品の高いものであつた、貴族的平民味ともいふべきであつた。
△私は考へる、食べることの真実、くはしくいへば、食べる物を味ふことの真実を知らなければならない。
昨夜、樹明君から貰つた干魚はうまかつた、もうほとんどみんな食べてしまつたほど──天ヶ下にうまくないものはない!
△今日の行乞は、ほんとうに久しぶり──半年ぶりだつた、声が出ないのには閉口した、からだがくづれるのに閉口した、必ずしも虚勢を張るのではない、表面を飾るのではないけれど、行乞相は正しくなければならない、身正しうして心正し(心が正しいから身が正しくなるのであるが、それと同様に)、我正しうして他正し、それは技巧ではない、表現である。
△心を白紙にせよ、そこに書かれた文字をすつかり消してしまつて、そして新らしい筆で──古い筆でもよろしい──新らしい文字を──古い文字でもよろしい──はつきりと書け。
私の行乞姿を見ても、そこらの犬が吠えなくなつた、尾をふつては来ないけれど、いぶかしさうに眺めてゐる。
△貧乏は時々よい事を教へてくれる、貧しうしてまづいものなし、きたないものなし。
あいかはらず、楢の葉が鳴る、早寝の熟睡。
・まとも木枯のローラーがころげてくる
・によきと出てきた竹の子ちよんぎる(改作)
今日の行乞所得
一、米一升七合
一、金十四銭
今日の買物
一金三銭 切手一枚
一金四銭 なでしこ小袋
一金三銭五厘 醤油一合
一金五銭五厘 焼酎五勺
〆金十六銭
これで嚢中は文字通り無一文!
・けふの御仏飯のひかりをいたゞく
・何やらきて冬夜の音をさせてゐる
一茶の次の二句はおもしろいと思ふ。
節穴や我が初空もうつくしき
うつくしや障子の穴の天の川
うつくしいといふ言葉がおもしろい、穴から見るのが一茶の俳人的眼孔だ。
一月廿一日
雪もよひ、だん〳〵晴れる、そんなに冷たくはない。
朝のお茶はうまい、こんな調子だと、あんぐあい転換が出来るかも知れない、転換したいものだ。
急に眼の工合が悪くなつた、栄養不良のためか、老眼と近眼とのこんがらがりのためか、とにかくこれでは困る、といつたところで詮方もないけれど。
此頃の私は、とりわけて、よく食べよく寝る、それではどうぞ、よく働らきなさい。
△山にしたしむことは木の葉にしたしむことであり、小鳥にしたしむことであり、石にしたしむことでもある。
山村庵居は空と土とにしたしむことである。
鴉よ、あんまり啼いてくれるな。
来庵者について考へる、──郵便屋さん、新聞屋さん、それから、眼白頬白みそさゞい、そして鴉、犬、──それだけ、時々樹明君が人間として!
焚火といふものは意味ふかい、その原始的情趣を味ふ。
身辺整理、遺書も書き換へて置く。
水仙を切るために指を切つた、赤い血が流れるのは不可思議のやうな気がした、水仙は全身を切られた、指を傷づけるぐらゐは何でもない。
夕方、樹明来、久しぶりに一杯やる、別れてからIさんを訪ねてまた一杯、それからHへ、ずゐぶん酔うて戻つたのはおそかつたが、そのあたりは前後不覚だつたが、悪い事はしなかつた、善哉々々。
・つめたさの歯にしみる歯をいたはらう
・冬山へつきあたり焚火してある
・寒い水からいもりいつぴきくみあげた
寒い寒い指を傷づけた
・たま〳〵逢へて火を焚いて
火を焚いて来るべきものを待つ
鴉ないて待つものが来ない
けさは郵便がおそい寒ぐもり
・新聞つめたし近眼と老眼がこんがらがつて
・冬草もほどよう生えて住みなれて
・くもりさむい肥をあたへるほうれんさう
一月廿二日
冷たい、昨夜の酒が残つてゐる、飲まずんばあるべからずぢや、うまいな、何といつても酒はうまいものである、利害を超越して。
昨日のお菜は三度とも菜葉と大根とちしやだつたが、今日は鰯の御馳走があつた、十尾六銭、おばさんから借りて。
新聞屋さんが号外を持つてきてくれた、饀餅といつしよに。
二週間ぶりに入浴、帰途、金策の相談が出来た。
魚行商のおばさんはほんとうに感心な女性だ、悪病の夫を看護しつゝ、二人の子供を育てつゝ、朝から晩まで働らきつゞけてゐる、信仰心を持つてゐるからやれるのだ、前身が娼妓だつたと聞いて、私は頭がさがつた、自分が恥づかしかつた。
餅もうまかつた、鰯はさらにうまかつた。
夜、樹明君がバリカンを持つてきて、理髪してくれた、何ともいひやうのない深切だ、餅も貰へた、句集代壱円も受取つた、紙代をとつてをいて、残りで酒を買つてきて、すこし飲んだ、かういふ酒はめつたに飲めるものぢやない。
・冬ぐもりひさ〴〵湯にいり金を借る
・石垣の日向にはビラも貼つてある
・雪空から最後の一つをもぐ
・冴えかえるながれをふんで下る
墓場の梅はほつ〳〵咲いて
今日の買物
一金十八銭 酒二合
一金十七銭 焼酎一合五勺
一金七銭 バツト
一金四銭 なでしこ
〆金四十六銭也
一月廿三日
午前は晴れてあたゝかだつたが、午後はくもつて寒かつた、しかしとにかく、好日好事たることを失はない。
朝、紙を買ひにゆく、インフレ景気は私にも影響を及ぼして、紙も二割の値上をするといふ。
三八九印刷終了、揃へる、綴ぢる、なか〳〵忙しい。
手紙も来なければ人間も来ない、鴉が来て啼くばかり。
夜は餅を焼いて食べた、何とまあ餅のうまいこと。
こゝで私は重大な宣言をする、──今後は絶対に焼酎と絶縁する、日本酒、麦酒以外の酒類は飲まないことにしよう、これも転換の第一歩といへよう。
・霜にはつきり靴形つけてゆく
小春日の畦をつたうてやつてきた
・冬夜の瞳ぱつちりうごく
火の番と火の番とぬくい晩である
・あたたかなればよもぎつむ
一月廿四日
さむい、つめたい、小雪ちらちら。
あるだけの米を白粥にして置く。
今日の食事は、三度が三度とも、米と水と餅と塩とのちやんぽんだつた。
餅をやいて食べながら三八九仕事、やうやう終了。
うれしいな、餅はうまいな、好きだから、貧乏だから。
どんと銃声があたりの閑寂をみだす、嫌がるのは小鳥ばかりではござらぬぞ。
暮れてから、待つてゐた樹明君が来た、豚肉を持つて、──そして三八九の仕事を手伝つてくれた、今晩はどうでもかうでも私が一杯おごらなければならないのだが、さて八方塞がりの無一文なので、手も足も出ない、やたらに火を燃やしてゐると、樹明君とう〳〵こらへかねて酒屋へ手紙を書いた、それを持つて街の酒屋へまで出かける、酒好きは呪はれてあれ、しかし途中で三句拾つた。
うまい酒だつた、枯木までよう燃える、感泣々々。
今日の買物
一金八十三銭 切手四十枚と一枚
一金十二銭 ハガキ八枚
一金十八銭 酒二合
一金五銭 醤油二合
一金七銭 バツト一ツ
一金二十三銭 米一升
〆金壱円四十八銭
本日敬坊から送金壱円五十銭
差引残金二銭!
一月廿五日
よい朝、よい朝、このよろこび、うれしいな、とても、とても。
△酒も滓もみんな飲む心。
敬坊から約の如くうれしい手紙(それは同時にかなしい手紙でもあつたが)。
郵便局まで大急ぎ、三八九発送第一回、帰りみち、冬村君を訪ねて、厚司とレーンコートとを押売する、おかげで、インチキカフヱーのマイナスが払へて、めいろ君に申訳が立つといふ訳。
雪となつた藪かげで、椿の花を見つけた。
今日の御馳走はどうだ! 酒がある、飯がある、肉がある、大根、ちしや、ほうれんさう、柚子。……
△右の手の物を失ふまいとして、左の手の物を失ふ、これは考へなければならない問題である。
△酒と貧乏とは質に於て反比例し、量に於て正比例する。
雪の畑にこやしをやつた(肥料も自給自足)、これは昨夜、樹明君に教へられたのだ。
夕方、樹明君がせか〳〵とやつてきた、生れたといふ、安産とは何より、このさい大によき夫ぶりを発揮して下さいと頼んだ。
子がうまれたから句もうまれるといふ、万歳々々。
吉野さんが三八九会費を樹明君に托して下さつたので、それを持つてまた街へ、三八九第二回発送。
けふはほんとうにうれしい日だつた、涙がでるほどうまい酒を飲んだ、かういふ一日が一生のうちに幾日あらうか。
おだやかな私と焚火だつた。
△年をとると、いやなもの、きたないものがないやうになる、肯定勝になるからか、妥協的になるからか、それとも諦めて意気地なくなるからか、とにかく与へられたものを快く受け入れて、それをしんみりと味ふ心持は悪くないと思ふ。
句が出来すぎて困つた、おちついて、うれしかつたからだらう。
かういふ場合には、句のよしあしは問題ぢやない、句が出来すぎるほどの心にウソはないかを省みるべきである。
・待人来ない焚火がはじく
・雪あかり餅がふくれて
焚火へどさりと落ちてきた虫で
・寒さ、落ちてきた虫の生きてゐる
・ふけて山かげの、あれはうちの灯
・冴えかえる夜の酒も貰うてもどる
・つまづいて徳利はこわさない枯草
樹明君に
・燗は焚火でふたりの夜
・雪ふる其中一人として火を燃やす
・雪ふるポストへ出したくない手紙
仕事すまして雪をかぶつて山の家まで
晴れて雪ふる里に入る
・雪がつみさうな藪椿の三つ四つ
一人にして罄の音澄む
・のどがつまつてひとり風ふく
・ふるよりつむは杉の葉の雪
雪のふるかなあんまりしづかに
・雪、雪、雪の一人
・雪はかぶるままの私と枯草
・小雪ちほら麦田うつふたりはふうふ
雪かぶる畑のものにこやしやる
・からみあうて雪のほうれんさうは
・雪となつたが生れたさうな(樹明君さうですか)
・安産のよろこびの冴えかえる(樹明君さうでしたか)
・もう暮れたか火でも焚かうか
恋猫がトタン屋根で暗い音
・夜ふけの薬罐がわいてこぼれてゐた
雪の夜は酒はおだやかに身ぬちをめぐり
・雪がふるしみじみ顔を洗ふ
たれかきたらしい夜の犬がほえて
火鉢に火がなくひとりごというて寝る
一月廿六日 旧正月元日。
すこし早目に起きた、今朝、どこからも送金がないやうならば、三八九送料の不足をかせぐために山口へ行乞に出かけるつもりで。
ところが、雪だ、このあたりには珍らしい雪だ、冷えることもずゐぶん冷える、何もかも凍つてゐる。
まづ雪見で一杯といふところだらう、誰か雪見酒を持つてこないかな。
けさは驚嘆すべき事があつた、朝魔羅が立つたのである、この活気があるからこそ句も出来るといふものだ、スケベイオヤヂとけなすべからずぢや。
あんまり寒いから、餅粥をこしらへて腹いつぱい詰めこんだら、すつかりあたゝかくなつた。
雪景色はまことにうつくしい、枝や葉につもつた雪、ことに茶の木、松の木、南天の雪、とりわけて柿の裸木にところ〴〵つもつた雪、柿がよみがへり、雪がいき〳〵とする、草の芽がすこし雪の下からのぞいてゐるのはいぢらしい。
△雪の風情は雪を通して観る自分の風姿である。
樹明君から来信、子がうまれ句がうまれる、祝祷々々。
地下足袋はいて雪風にふかれて、駅のポストまで、樹明君へよろこびのはがきをだすために。
帰途、風邪をひきさうなので、例の店に寄つて一杯ひつかける、むろんカケで。
雪見に酒がないのは、かへつて雪をよく見ることができる、料理にダシや味の素をいれないとき、その物のうまさがわかるやうに。
午後、態人が樹明君の手紙を持つて来た、これは意外な好消息だつた、待つものは来ないで待たないものが来た、何はともあれ、ぜひはやくいらつしやい、一升さげてよ、待つてる〳〵。
△雪のしづけさ(雪のさびしさではない)、雪のしゞまを感じる、それは自己観照である。
わらやつもる雪(庵もさうだ)はよいなあと思ふ、私の短冊掛には井師の句がはさんである、『和羅也布流遊支津毛留』
雪の大根をぬいてきて、豚の汁で煮る、火吹竹でふう〳〵やつてゐるところへ、樹明君がひよつこり、やあ、ありがたいな。
樹明君は苦労人である、よい意味での、──だから、今、彼がさげてきた包が、木炭とソーセージであつても、ちつとも不自然でない、わざとらしくない、ちやんとイタについてゐる。
ふたりの財布をはたいて一升買ふ、最後の一滴まで飲んでしまつてから、送つたのやら送られたのやら、Yへ、彼氏彼女等としばらく話して、樹明君をわかれ道まで送つて、そしてKへ、そこでまた一杯、戻つてきたのは二時近かつたらう。
くらがりへふみだした足のさむい私で
・雪の夜の大根をきざむ
樹明君に八句
よろこびを持つてきたあんたと空を仰ぎ
あんたのよろこびの水音もきこえる
・雪あしたやす〳〵うまれたといふか
雪ふるけさは君の子のうまれた日
・産湯すてる雪のとける
・雪や山茶花やむすめがうまれた
雪のなか産声のたかしも
雪をふんでよろこびの言葉をおくる
寝ざめしん〳〵雪ふりしきる
お正月の雪がつみました
雪の鴉のなが〴〵ないて
雪のまぶしくひとりあるけば
・茶の木の雪をたべる
わが庵は雪のあしあとひとすぢ
雪ふかうふんで水わくところまで
雪あしたくみあげる水の澄みきつて
・わらやしたしくつららをつらね
雪の晴れてうれしい手紙うけとつた
・よう燃える火でわたしひとりで
・雪から大根ぬいた
雪風、大またであるく
大根うまい夜のふけた
また樹明君に
・産後おだやかな山茶花さいてたか
一月廿七日
よい朝、つめたい朝、すこし胃がわるくて、すこしにがい茶のうまい朝(きのふの破戒──シヨウチユウをのみ、ウイスキーをのんだタタリ)。
何もかもポロ〳〵だ、飯まで凍てゝポロ〳〵。
けふも雪、ちらりほらり。
さすがの私も今日ばかりは、サケのサの字も嫌だ、天罰てきめん、酒毒おそるべし〳〵、でも、雪見酒はうまかつた〳〵。
また、米がなくなつた、しかし今日食べるだけの飯はある、明日は明日の風が吹かう、明日の事は明日に任せてをけ──と、のんきにかまへてゐる、あまりよくない癖だが、なほらない癖だ。
自製塩辛がうまかつた。
午後はだいぶあたゝかくなつた、とけてゆく雪はよごれて嫌だ。
△満目白皚々、銀盌盛雪、好雪片々不落別処(すこし、禅坊主くさくなるが)、などゝおもひだす雪がよい。
遺書をいつぞや書きかへてをいたが、あれがあると何だか今にも死にさうな気がするので(まだ死にたくはない、死ぬるなら仕方もないが)、焼き捨てゝしまつた、これで安心、死後の事なんかどうだつてよいではないか、死後の事は死前にとやかくいはない方がよからう。
原稿も書き換へることにした、どうも薄つぺらなヨタリズムがまじつて困る、読みかへして見て、自分ながら嫌になつた、感興のうごくまゝに書いてゆくのはよいが、上調子になつては駄目だ。
△奇績を信じないで、しかも奇績を待つてゐる心は救はれない、救はれたら、それこそ奇績だらう。
自己陶酔──自己耽溺──自己中毒の傾向があるではないかと自己を叱つてをく。
いちにち、敬坊を待つた(今明日中来庵の通知があつたから)。
焚火するので、手が黒く荒れてきた、恐らくは鼻の穴も燻ぶつてゐることだらう、色男台なしになつちやつた。
酒の下物はちよつとしたものがよい、西洋料理などは、うますぎて酒の味を奪ふ、そして腹にもたれる。
樹明さんは、来庵者が少い──殆んど無いといふことを憤慨してゐるが、私としては、古い文句だけれど、来るものは拒まず去るもの追はず、で何の関心もない、理解のない人間に会ふよりも、山を見、樹を眺め、鳥を聞き、空を仰ぐ方が、どのぐらいうれしいかは、知る人は知つてゐる。
敬治さんは、炬燵がなくては困るだらうと心配してくれる、しかし、私はまだ、炬燵なしにこの冬を凌ぐだけの活気を残されてゐる、炬燵といふものは日本趣味的で、興あるものであるが、とかくなまけものにさせられて困る、あつて困る方が、なくて困る場合よりも多い、だが、かういう場合の炬燵──親友会飲の時には、炬燵がほしいな。
私の寝仕度もおかしいものですよ、──利久帽をかぶつて襟巻をして、そして、持つてるだけの着物をかける、何しろ掛蒲団一枚ではやりきれないから。
亀の子のやうにちゞこまらないで、蚯蚓のやうにのび〳〵と寝るんですな!
・雪へ雪ふるしづけさにをる
・雪にふかくあとつけて来てくれた
・雪のなかの水がはつきり
・なにもかも凍つてしまつて啼く鴉
樹明君に
・雪のゆふべの腹をへらして待つてゐる
・雪も晴れ伸びた芽にぬくいひざし
・火を燃やしては考へ事してゐる
・雪ふるひとりひとりゆく
・水のいろのわいてくる
・雪折れの水仙のつぼみおこしてやる
改作一句
・この柿の木が庵らしくするあるじとなつて
遠く遠く鳥渡る山山の雪
雪晴れの煙突からけむりまつすぐ
小鳥が枝の雪をちらして遊んでくれる
今夜も雪が積みさうなみそさゞい
暮れはやくみそつちよが啼く底冷えのして
電燈きえて雪あかりで食べる
・いそいでくる足音の冴えかえる
・雪あした、あるだけの米を粥にしてをく
山の水の張りつめて氷
・雪の山路の、もう誰か通つた
・雪のあしあとのあとをふんでゆく
・霜ばしら踏みくだきつゝくらしのみちへ
・雪どけみちの兵隊さんなんぼでもやつてくる
・大きな雪がふりだして一人
・おぢいさんは唄をうたうて雪を掃く
・朝の墓場へもう雪が掃いてある
一月廿八日
ゆつくり朝寝、けふもまた雪か。
お茶はうまいが食べる物がない、あまり食慾もない、お仏飯をさげていたゞく(十粒ぐらいしかないけれど、それで十分だつた)。
古新聞と襤褸を屑屋へ売つて、少しばかり金が出来た。
米一升、酒屋へ、肴屋へ二十四銭払ふ。
彼──某酒店の主人──の心をあはれむ、いやしい人間だ。
待つてゐた敬坊が来た、県庁へ出張する彼を駅まで見送つて行く、そしてちよつぴりやる。
それから、冬村君の仕事場に立ち寄つて、いつぞや押売してをいた厚司の代金を受取る、それで払へるだけマイナスを払ふ、だいぶさつぱりした。
夕方、樹明来、鰯で一杯やる、今夜こそは私が奢つたのだ、のう〳〵した気持だ。
敬坊が木炭を買うてくれたのはありがたかつた。
鰯、鰯、鰯ほどやすくてうまい魚はない、感謝する。
例によつて、樹と山と二人はインチキバーでホツトウイスキー、こゝろよく酔うてこゝろよく別れた。
『鉄鉢の句』
こゝまでくれば、もう推敲といふやうなものからは離れる、私はしゆくぜんとして、因縁の熟するのを待つばかりである。
『ひとり』を契機として孤独趣味、貧乏臭、独りよがりを清算する、身心整理の一端として。
押しつぶされて片隅の冬鴨のしづか
ひとり雪みる酒のこぼれる
樹明夫人に
・お産かるかつた山茶花のうつくしさ
樹明赤ちやんに
・雪ふるあしたのをんなとしうまれてきた
競つて売られる大魚小魚寒い風
・林となり雪の一しほおちついて
・ゆふやみの恋猫のこゑはきこえる
・冴えかえる水音をのぼれば我が家
赤いものが捨てゝある朝の寒い道
林のなか、おちついて雪と私
・ほいなく別れてきて雪の藪柑子
・つららぶらさがらせてやすらけく生きて
大根みんなぬかれてしまつた霜
・けふも鴉はなく寒いくもり
・ハガキを一枚ぬかるみのポスト
一月廿九日
雪、あたまはよいが胃がわるい。
あれこれと用事がないやうでなか〳〵ある、けふは街まで五度も出かけた。
夜、敬坊来、街でほどよく飲んで、街はづれまで送つた。
酒あり、炭あり、ほうれんさうあり。
私もすつかり落ちついた、落ちつき払つては困るけれど。
一月三十日
毎日毎日お天気の悪いことはどうだ。
氷柱の落ちる音はわるくない。
今夜も、敬君が帰宅の途中に寄つてくれた、いつしよに街へ出かけて小ワヤ。
・さそひあうて雪の婦人会へゆく顔で
ふうふの家鴨がつめたい地べた
・雪もよひ雪となる肥料壺のふたする
・日向の枯草をやいてゐる人一人
・この家にも娘さんがあつてきりぼしきざんでゐる
・紙反古もほつたらかして寒う住んでゐる
・みぎひだりさむいさむいあいさつ
・やうやうにして水仙のつぼみ
寒うきて子の自慢していつた
雪ふる大木に鋸をいれやうとして
一月三十一日
日々好日、事々好事。
朝、敬坊来、県庁行を見送る、樹明来、珍品を持つて、そして早く出勤。
粕汁はうまかつた、山頭火も料理人たるを失はない!
大根の始末をする、同じ種で、同じ土で、同じ肥料で、しかも大小短長さま〴〵はどうだらう。
△切り捨てた葱がそのまゝ伸びてゆく力には驚いた。
今日から麦飯にした。
何か煮える音、うまさうな匂ひ、すべてよろし。
千客万来、──薬やさん、花もらひさん、電気やさん、悪友善人、とり〴〵さま〴〵。
夕方、また三人があつまつて飲みはじめた、よい酒だつた、近来にないうまい酒だつた(酒そのものはあまりよくなかつたが、うまかつた)、三人でまた街で飲みつゞけた、樹君を自動車で送り、敬君を停車場まで送つて、ききとして戻つた、よう寝られた。
落ちついた、ではなくて落ちつけた、であらう。
「ぢいさま」と或る女給が呼びかけたのにはびつくりさせられた。
これで一月が終つた、長かつたやうでもあり、短かつたやうでもある、この一ヶ月はまことに意味深かつた。
△所詮、人生は純化によつて正しくされる、復雑を通しての単純が人生の実相だ、こゝから菩薩の遊びが生れる、物そのものに還生して、そして新生がある。
とう〳〵雪がふりだした裏藪のしづもり
・まづ枇杷の葉のさら〳〵みぞれして
・けふいちにちはものいふこともなかつたみぞれ
・けさから麦飯にしてみぞれになつて
・雪晴れ、落ちる日としてしばしかゞやく
・あんたに逢ひたい粉炭はじく
・霜をふんでくる音のふとそれた
・右は酒屋へみちびくみちで枯すゝき
・いつも尿するあとが霜ばしら
・何だか死にさうな遠山の雪
障子に冬日影の、郵便屋さんを待つてゐる
・ようできたちしやの葉や霜のふりざま
・ついそこまでみそつちよがきてゐるくもり
倒れさうな垣もそのまゝ雪のふる
・地下足袋おもたく山の土つけてきてゐる
二月一日
雪もよひ、ひとりをたのしむ。
△年はとつてもよい、年よりにはなりたくない(こんな意味の言葉をゲーテが吐いたさうだ)、私は年こそとつたが、まだ〳〵年寄にはなつてゐないつもりだ!
△本来の愚を守つて愚に徹す、愚に生きる外なし、愚を活かす外なし。
依頼心が多い、──この言葉ほど私の心を鋭く刺したものは近来になかつた、ああ。
△自然即入。
△生も死も去来も、それはすべていのちだ。有無にとらはれて、いのちを別扱にするなかれ。
また雪となり、大根もらつた
くもりおもくて竹の葉のゆれてなる
・影が水を渡る
影もならんでふむ土の凍てゝゐる
・夕月があつて春ちかい枯枝
・ゆふやみのうらみちからうらみちへ雪どけの
二月二日
早寝の早起だつた、御飯をたべて御勤をすましてもまだ明けなかつた、狐が鳴いてサイレンが鳴つた、寒い山が微笑んだ。
久しぶりに入浴、そして買物。
前のおばさんから大根を貰つた、山頭火お手づくりのものより、よく出来てゐる、干大根にでもしてをかう。
△善悪を考へる前に愛憎がある、正邪を判ずるに先つて純不純を思ふ。
若し私の生活──といふよりも私の句によいところがあるならば、それはマネがないからだ、コシラヱモノでないからだ、ウソがすくないからだ、ムリがないからだ。
二月三日 節分。
冷静にして明朗、つめたいけれどゆつたりしてゐる。
昼酒を味ふた、悠々独酌、二合で腹いつぱい心いつぱいになつた、これ以上は貪るのだ。
△型といふものは出来るのが本当、そしてそれを破るのが本当(これはパラドツクスめくが)。
△麦飯の嫌な人には、麦飯が麦ばかりに見えるだらう。
△無駄のある生活人に人があつまるといふよりも、缺点のある人格者に友が出来るといふ方が、ヨリ痛切であらう。
他人──殊にそれが友達、殊に殊に親友──の缺陥を見せられた場合の悲痛は自分のさうした場合よりも強い。
雑草、雑木、雑魚、雑兵、等、等、──私は雑といふ字のつく物事に、限りない親しみと喜びとを感じる。
学校から帰宅の途次、樹明君が寄つてくれた、誘はれて八幡宮の節分祭へ参詣する約束をした。
夕飯は煮大根(正しくいへば、焦げつかせたので、焼大根)で麦飯茶漬さら〳〵さら、まことに簡にして純。
数日来、風邪気味なので、着れるだけ、あるだけ着て出かける、なか〳〵の人出である、自動車が遠慮ぶかく乗り捨てゝある風景にも近代的地方味がある。
樹明君と合して、こゝで一杯、そこで一杯、そして私はぐる〳〵まはつて戻つた(この中に無意味の有意味がひそむ)。
逢はない彼女、知らない恋人、何が何だか分らないのよ、といふものについて漫想した(漫想といふ言葉はどうですか!)。
・大根洗ふ指がおしへてくれる道は霜どけ
・麦飯が腹いつぱいの日向ぼつこり
・おちつくまゝに水仙のひらく
・歪んで日向の花つけた梅のよろしさ
・考へるでもなく考へぬでもなく大根洗ひつゝ
・電燈ひとつ人間ひとり
節分三句
・さそはれてまゐる節分の月がまうへに
・月がまうへに年越の鐘が鳴る鳴る
・節分の長い石段をいつしよにのぼる
・どこかに月が、霜がふる白い道
・ふけて炊かねばならない煙がさむい
・枯野まつすぐにくる犬の尾をふつて
・そこらに大根ぶらさげることも我が家らしく
・遠い道の轍のあとの凍つてゐる
・たま〳〵来てくれて夕月のある空も(再録)
二月四日 立春。
すこし夜の雪がつんでゐる、寒いことは寒いが、大したことはあるまい。
たよりいろ〳〵──俊和尚、孝志君、緑平老、敬治坊、そして雑草二月号。
下痢で弱つた、酒のためか、寝冷のためか、それとも麦飯のためか、とにかく腹工合も悪いし、懐工合はなほさらよくないし、節食断酒の好機である、しばらくさうしよう。
△昨夜、樹明君と立ち寄つたおぢさんのところで、血書の話を聞いて、みんな微苦笑したことであつた、血書もかう流行的になつてはインチキがあるのも当然だらう、黒い心を赤い血で書いて、それがどうしたといふのだらう、裃をきてゐても不真面目があり、どてらをきてゐても真摯がある、シンケンらしいウソを呪ふ。
けふもいちにち、ものをいふこともなかつた、たゞ執筆し読書した、そして月のよろしさをよろこびながら寝た。
更けゆけば咳入るばかり(述懐)
・干大根が月のひかりのとゞくところ
月の暈、春遠くない枝に枝
・月が暈きた餅持つてきてくれた(樹明君に)
別れよう月の輪を見あげ
二月五日
春近しの感がある、霜のとけるほどあたゝかい。
そこらあたりを漫歩する、漫はそゞろと訓む、目的意識のないことを意味する、漫談、漫読、漫想、漫生!
無為而化──そんな一日であつた、たゞ一事の記すべきがあつた、珍客来、Hのおばさんとふうちやんとが立ち寄つたのである、私は彼女等の好奇心と好意とに対して微苦笑するより外はなかつた。
義庵老師から、禅の生活と大乗禅とを六冊送つて下さつた、深謝感佩。
ぬくう暮れて、月が暈をかぶつてゐる、寝るより外なく、寝て読書してゐると、樹明君来庵、大村君を伴つて、そして餅を持つて。
その餅を焼いて食べながら話す、句の話、やつぱり句の話が一等よろしい。
・いかりおさへてさむいぬかるみもどつてきたか(自嘲)
こやしあたへてしみ〴〵ながめるほうれんさうで
・掃きよせ掃きよせた落葉から水仙の芽(再録)
二月六日
けさはまつたく早すぎた、御飯、御勤、何もかもすんでしまつても、まだ〳〵なか〳〵明けない、禅書を読んだ。
ぬくうてなごやかだつたが、だん〳〵つめたくなり、小雪ちりはじめた、畑仕事の手が寒かつた、そしてとう〳〵雨になつた。
今日も行乞には出かけられさうにもない、餅でも食べてをるか!
夕方、樹明君から来状、今夜は宿直だから、夕飯と晩酌とを御馳走しようとの事、大に喜んで出かける、飲む食べる話す、そして別れてHおばさんのところで、一品の二本、それから二三軒をあるきまはつて(文字通りたゞあるきまはるのである、銭もないし、信用もないから)そして戻つてきて、お茶漬を食べて、ぐつすり寝た、ああ、極楽々々。
楢の葉のそよぐより明けそめた空
日がのぼり楢の葉のしづか
・落葉あたたかうして藪柑子
・せなかにぬくい日のあたりどこでもよろしく
・日あたりがようて年をとつてゐる
・ぬくい日の、まだ食べる物はある
二月七日
けさも早起だつた、朝のうちだけでもかなり読書が出来た、書かなければならない原稿があるけれど、気乗りがしないから、裏山へ登つて遊んだ、ぽか〳〵とぬくい日である、かういふ日には何だか老を痛感する。
小松一本、ぬいてきてうゑた、この松の運命は。──
近来、疳の虫が出てきてゐる、いろ〳〵の事に腹が立つ、つまらない事が癪に障る、昨夜も胸中むく〳〵があつたので、それには何のかゝはりもない樹明君に対して礼を失したに違いないと今朝考へて恐縮してゐる、これではいけない、私は行乞のおかげで、怒るといふやうなことは忘れてゐたのだつた、もつとも、熊本では特殊の理由から疳癪玉を破裂させたが、それからはまことにおとなしいものであつた、それがM君の事やS君の策やH君の態度などによつて、ぐらつきだして、しだいにむしやくしやをかもしだすやうになつた、じつさい、腹の立つうちが花かも知れない、癪にさわるものがなくなつては、生甲斐がないやうになるかも解らない、とにかく虫の事だから、よくもわるくも、虫にまかしてをくか。
久しぶりに──十日ぶりぐらいだらう──入浴して顔をあたつた、せい〳〵した、飯の足らないのも忘れてしまつたほど。
喫茶読書、これもよかつた、古教照心といつた気持。
腹が鳴るのはさびしいものだと思つた、その声(まさに声だ)にはさびさへもあるやうに感じた。
・山ふところの啼かない鳥の二羽で
・このみちどこへゆくふかう落葉して
おぢいさんも山ゆきすがたのぬく〳〵として
日のあたる家からみんな山ゆきすがたで
・茨の実はぬくい日ざしのほうけすゝき
・なんとなく春めいて目高のあそびも
・藪柑子、こゝから近道となる落葉
近道の落葉して
たえず啼いてさわがしい鳥が葉のない木
腹が鳴る、それに耳をかたむけてゐる私
二月八日
あたゝかい雨、もう春が来たかと喜ばせるやうな。
朝、樹明君が見舞に来てくれた、貧乏見舞に! そして、雨の其中庵はなか〳〵よいなあといふ、しめやかなものですよと私が答へる、お茶をのんで別れた。
いよ〳〵食べる物がなくなつた、明朝までも餓死もすまいて。
朝はお茶、昼は餅を焼いて、晩は野菜汁ですました、すませばすませるものである。
△ふくろうが濁つた声でヘタクソ唄をうたつてゐる、どこかにひきつけるものがある、聞いてゐると何となく好きになる、彼と私とは共通な運命を負うてゐるやうだ。
夜、樹明君再来、第六感を働らかして、白米を持つてきてくれた、何よりも有難い品だつた、千謝万謝。
一人となつて、このまゝ寝るのは何だか物足らないので、その米を一握りほど粥にして食べた、まことにしみ〴〵と食べたことである。
△貧乏、といふよりも缺乏は私を純化する、そして私を私の私たらしめる。
多少の発熱、からだがだるくて発散するやうな気分、これも悪くない、現実を二三歩遊離した思索にふけつた(風邪をひきそへたのだらう)。
・めつきりぬくうなつた雨のしづくする雑草
・足音は郵便やさんで春めいた雨
・食べる物がなくなつた雨の晴れてくる
ゆふべはさむいふくろうのにごつたうた
ゆふべつめたく屋鳴りした
・冬夜ふければ煮えてこぼれる音のある
樹明君に
・冬月夜、手土産は米だつたか
朝から雪の掃いてある墓場まで
樹明君に
月かげまつすぐに別れよう
・地べた月かげあたゝかう木かげ
二月九日
晴曇さだめなし、風邪発熱、だるくて慾望がない。
いろ〳〵の手紙がきた、手紙は差出人の心を表白すると同時に受取人の心をも表白せしめる。
はじめて、雲雀の唄をきいた。
買物いろ〳〵、すぐまた無一文、それでよい〳〵。
一杯やるつもりで仕度をして樹明君を待つ、やつてきてくれた、気持よく飲む、ほろ酔機嫌で街へ出かける、そこで一杯、また一杯、すこしワヤをやつて、それ〴〵の寝床へもどつて寝た。
今日の買物
一金拾三銭 醤油二合其他
一金壱円 酒壱升
一金拾弐銭 ゴマメ五十目
一金五銭 切干百目
一金七銭 バツト一個
一金四銭 なでしこ一袋
一金七銭 鰯一くぎり
一金五銭 竹輪一本
一金弐銭 しようが一ツ
一金四銭 酢一合
一金十銭 古雑誌一冊
一金三十銭 酒代借払
一金十弐銭 小口色し
一金十銭 切手十枚
一金五銭 酒粕百目
一金十銭 煙管弐本
二月十日
天地清明、私もその通り。
樹明君、朝、来訪、昨夜のワヤはわるくなかつたやうです。
午前は漫歩、飲みたくなれば酒屋で一杯、喫ひたくなれば煙草屋で一服、ひもじくなつてパン屋でパンパン!
とにかく、すべてがよろしい。
△執着しないのが、必ずしも本当ではない、執着し、執着し、執着しつくすのが本当だ、耽る、凝る、溺れる、淫する、等々の言葉が表現するところまでゆかなければ嘘だ、そこまでゆかなければ、その物の味は解らない。
今夜の月はよかつた、冬の月でもなし、春の月でもなし、たゞよい月であつた。
夜、宿直の樹明君から来状、来てくれといはれては、行きたい私だから、すぐ行く、冬村君ともいつしよになつて、飲んで話して、そして書く。
おとなしく別れて戻つた、まことに、まことによい月であつた、月夜のよさをよく味はつた。
とろ〳〵こゝろよいほどの発熱(風邪もわるくない!)
水底の岩も春らしい色となつた
・草の芽、めくらのおばさんが通る
・春は長い煙管を持つて
君こひしゆふべのサイレン(!)
・冬の山からおりてくるまんまるい月
・枯枝をまるい月がのぼる
・月へいつまでも口笛ふいてゐる
・月のよさ、したしく言葉をかはしてゆく
・月のあかるさが木の根
二月十一日 紀元節、そして建国祭。
晴れると春を感じ、曇ると冬を感じた、春を冬が包んでゐるのだ。
周囲を掃除しながら、心臓の弱くなつたことをまざ〳〵と感じた、余命いくばく、忙しいぞ。
藪椿一輪を活ける、よいかな、よいかな。
午後、風が出た。
樹明君が吉野さんをひつぱつてきてくれた、三八九第六集の裏絵として、裏から見た其中庵を写してもらつた。
おだやかな、あまりにおだやかな一日だつた。
夜は早くからぐつすりと寝た、そして夢を見た!
・月が照らしてくれるみちをもどらう
・月かげのまんなかをもどる
・まるい月のぼる葉のない枝(改作再録)
・さらさらささのゆきあかりして(追加)
改作
・どこかそこらにみそつちよがゐるくもり
二月十二日
天地清明にして、雪花ちらほら。
朝、山路を歩くともなく歩いて、お稲荷さんに詣でた、行者一人の長日月の努力が、岩を割き地を均らして、これだけの霊場を出現せしめた事実に頭を下げる。
水仙を活ける、よいかな、よいかな、藪椿とは対蹠的な趣致がある、貴族的──平民的、洗練味──野趣、つめたさ──あたたかさ、青白い美人──肥つたお侠、等々。
夕は墓場を散歩する、墓といふものは親しみがある、一つ二つの墓はさみしいが、上にも下にも並んで立つてゐる墓石は賑やかだ、新らしいの、古いの、大きいの、小さいの、うつくしいの、かたむいたの。……
今夜は悪夢を見ないやうに祈る、昨夜はつゞけて悪夢を見た、ヱゴ諸相の連続映像!
・朝日まぶしい花きるや水仙
・けさのひざしの手洗水へあたたかく
ここもやしきあとらしいうめのはな
・もうしづむひでささのさやさや
・ゆふべのサイレンのながうてさむうて
・暮れても耕やす人かげに百舌鳥のけたたましく
・茶の木にかこまれそこはかとないくらし(述懐)
火を焚いて咳ばかりして
二月十三日
降霜結氷、つめたいけれどうららかだ、冬三分春七分。
けさ、はじめて笹鳴が耳にはいつた、ずゐぶんヘタクソだつた、それでよろしい。
内容充実の手紙が来ないので、山口行乞を実行した、山口は雪もよひで寒かつた、行乞三時間、悪寒をおぼえるので、急いで帰庵した、途中で一杯ひつかけて元気回復。
行乞は求めてすべきものではないが、しようことなしの行乞を活かすだけの心がまへは持つてゐなければならない。
・朝月ひやゝけく松の葉に
・葉がない雲がない空のうらゝか
・枯葦の水にうつればそよいでる
・月へひとりの戸はあけとく
・伸びたいだけは伸びてゐる雑草の花
・楢の葉枇杷の葉掃きよせて茶の木の葉
今日の行乞所得
一、米八合
一、銭二十九銭
今日の買物
一、十五銭 シヨウチユウ
一、四銭 タバコ
一、三銭 ヤキイモ
二月十四日
うらゝか、ほがらか、のどか、のどかだつた。
春ちかし、……もう春といふてもよかつた。
行乞に出かけるつもりだつたが、風邪気味なので自重して(独身者は殊に気をつけなければならない)、閑居。
夕方、樹明君が四日ぶり来庵、お土産として、ビスケツトとスルメとを頂戴した。
何のかのと用事がある、独身者は、閑なやうな忙しいやうな。
しんぢつおちきました、と私はすべてに報告した。
敏感な虫が灯をしたうてやつてくるやうになつた。
二月十五日 涅槃会。
けさは早かつた、御飯をたべて、おつとめをすまして、しばらく読書してゐるうちに、六時のサイレンが鳴つた。
朝月夜がよかつた、明けゆく風が清澄だつた。
読書、読書、読書に限る、他に累を及ぼさないだけでもよろしい。
アメリカは黄金を抱き込んで、しかも貧乏に苦しんでゐる! これに似た人間が日本にも存在する、黄金を食べても餓は凌げないのだ、胃は食物を要求してゐるのだ、物そのものの意義を理解しなければ駄目だ。
くわう〳〵として日が昇る、かたじけないと思ふ。
小為替一枚受取つた、さつそく米と酒とを買つた、米二升四十六銭、酒二合十八銭、そして煙草が四銭。
午後、晴れて寒い風が吹く、何となく物足らないので、樹明君を招いて一杯やりたいと思ひついたので、湯屋まで出かけた途次、顔馴染の酒屋へ寄つて、一升借入の交渉を試みたが、不調に終つた、私は断られて腹を立てるほど没常識ではないが、さりとて、借りそこねて平然たるほど没感情的でもない、貸して貰つた方がうれしかつたのが本当だ、とにかく酒一升借るだけの銭も信用もないのは事実だつた!
だいたい、掛で飲まうなどゝいふ心得は褒めたものぢやないね、もつと物に執する心持を捨てなければなるまいて。
陽が傾いて樹明来、酒はのみたし酒はなし、学校の畜舎へまでのこ〳〵出かけて、かしわとさけとにありつく、そしてひとりでインチキカフヱーでホツトウイスキー一杯、泥まみれになつて戻る、いのちを持つて戻つたのはまことに感心々々。
・じゆうぶんやすんだ眼があいて春
・枯木はおだやかな朝月である
・これが新国道で、あれはやきいもや(柳井田所見)
・みんな働らく雲雀のうた
・水音の藪椿もう落ちてゐる
・枯草の日向の脚がぽこ〳〵あるく
・咲いてここにも梅の木があつた
・朝月夜、竹藪がさむうゆれだした
・鳴るは楢の葉で朝月夜
・朝月はうすれつつ竹の葉のなかへ
・つめたく風が、私もおちつけない
・枯れつくしてぺんぺん草の花
・つゝましく酔うてゐる庵は二十日月
・やまみちのきはまればわいてゐる水(改作再録)
二月十六日
けさも早かつた、四時頃だつたらう、昨夜の今朝だから、感服しても差支ない。
朝の読書はほんとうによい、碧巌第二則、至道無難、趙州和尚の唇皮禅に敬服する。
△そのものになりきる、──これこれ、これだ。
午前は雪もよひで寒かつたが、午後は晴れて暖かだつた、そこで、樹明君と会して、鰯で一杯やらうといふのだ。
焼酎即死! と思ひながら、どうしても縁が切れない。
滓を飲んで旦浦時代を追憶した、滓なんて飲む人があるからおもしろいと、あの時代は考へてゐたが、今の私はその滓でさへろく〳〵飲めないではないか(現に一昨日は十銭しかないので、わざ〳〵新町まで出かけて滓を飲んで来たやうなみじめさだ)。
焼酎を借りる、鰯を借りる、さて酒はどこから借りださうか、窮すれば通ず、要求あれば供給あり、何とかなるだらう(醤油はF家から借りた)。
夕づつかけて樹明来、やうやく一升捻出して飲んだ、よい酒だつた、うまい酒だつた、涙ぐましい酒だつたともいへよう、ハムの一きれにもまことがあつた。
よう寝た、ぐつすりと夢も見ないねむりだつた。
△私は、すべての音響を声と観じるやうになつた、音が心にとけいるとき、心が音をとかすとき、それは音でなくして声である、その新らしい声を聴き洩らすな。
・梅と椿とさうして水が流れてゐる
・庚申塚や左は街へ下る石ころ
・あさぐもりの垣根の花をぬすまうとする
太陽、生きものが生きものを殺す
・寝覚しめやかな声はあたゝかい雨
・ハムは春らしい香をかみしめる(樹明君に)
二月十七日
サイレンが鳴る、お寺の鐘が鳴る、そしてしめやかな雨の音。
めづらしい訪問者──猫がやつてきて、鰯のあたまを食べて行つた。
歯がうづいて頭痛がする、暮れないうちから寝た、寝た、寝た、十二時間以上寝た。
歯──抜ける前の痛みだ、去年は旅で上歯が三枚ぬけた、今年はもうすぐ下歯が二枚ぬけるだらう。
噛みしめなければ、食物の味は出て来ない、それにしても酒が固形体でないことは、何といふ仕合だらう!
・人も枯草も濡れてたそがれ
・かあと鴉が雨ふる山へ遠く
・茶の木もうゑかへたりして日照雨
・晴れてはあたゝかく銃声をりをり
・うづく歯を持ちつゝましう寝る
二月十八日
曇、寒、小雪、閉ぢ籠つてゐるにはよい日である。
三八九原稿整理。
午後、街へ出かける、三日ぶりである、入浴、木炭を持つて戻る。
樹明来、お茶とビスケツト。
かうして、つゝましくしてゐることも悪くない。
明日は、樹明君が朝から、そして敬坊も来庵の予約。
不快な──それは私自身の不安心を暴露する以外の何物でもなかつた夢に襲はれた、そして頻りに囈語を吐いた(自覚してゐて寝言をいふのだから助からない)、修行未熟、精進せよ。
このあたりに、いかに多くの鶏が飼はれてゐるか、そしてその鶏がいかに屡々鳴くかを今更のやうに知つた。
・山から下りてゆく街へ虹立つた
暮れて寒い百舌鳥がまだないてゐる
彼の過去帳を繰りひろげて見る。──
最初の不幸は母の自殺。
第二の不幸は酒癖。
第四の不幸は結婚、そして父となつた事。
第五の不幸……
同時に、彼の最初の、そして最の幸福は?
二月十九日
今朝は早かつた、早過ぎた、四時頃でもあつたらうか、一切事をすまして、ゆつくり読書しても、まだサイレンは鳴らなかつた、しかし、早起はよい、朝の読書もよい、頭脳が澄みきつて、考へる事がはつきりする、あまり句は出来ないけれど、自己省察、といふよりも自己観照──それが一切の芸術の母胎──が隅から隅まで行き届く、自分といふものが、そこらの一草一石のやうに、何のこだはりもなく露堂々と観照される。……
今朝の片破月はうつくしかつた、星もうつくしかつた、空のすべてがうつくしかつた、そよとの風もない、そして冷たさのしん〳〵と迫つてくる天地はうつくしいものであつた、かういふ境地、かういふ境地から湧いてくる情趣は俳句的であると思つた。
△朝早くから、いろ〳〵の小鳥がやつてくる、──モズ、ヒヨ、メジロ、シヂユウガラ、ミソサヾイ──スヾメも時々くればよいのに。
めづらしい大霜だつた、何もかも霜をかぶつてゐた、霜といふものはずゐぶんうつくしいものだと感じ入つた。
待ち設けた敬治君がきた、一杯やつてゐるところへ、樹明君がおくれたのであはてゝやつてきた、これで揃つた、酒、酒、酒、そして鰯、竹輪、うどん、汁、飯、等々等。
ほんとうによい酒だつた、うれしい酒だつた、おだやかな、をはりを全うした酒だつた、近来稀な、私たちの酒だつた。
よく寝た、ありがたい、ありがたい。
・大霜、釜をみがく
・枯枝、するどい霜の
・霜の水仙うごかず
・落葉うづたかし霜しろく
・わらや霜どけしづくするゆたかな音
・さわがしく竹をきつてゐる霜どけ
麦の芽、麦の芽と親子でうつ
・雪もよひ、莚織つてゐる子だくさん
長州料理
これがちしやもみといふふるさとにゐて
・冬山から音させておりる一人二人
藪のしづかさが陽をのんでしまつた
二月二十日
けふもよい日だ、寒いことは寒いけれど。
桂子さんからうれしい手紙が来た、桂子女菩薩、女人に反感を持つてゐるのは誰だい。
買物をする、第一は酒、第二は魚、諸払をする、酒屋、魚屋、そして湯屋。
夕、樹明君を招待する、酔うて出かけた、そしてワヤ、いけなかつた、ゴロにぶつつかつた、君を送つていつて、とう〳〵泊つた(樹明君、もう歩きまはることは止めませう)。
桑原、々々、敬遠、々々。
けさをひらいた水仙二りん
馬が尿する日向の藪椿
二月廿一日
樹明居で朝飯をよばれる、産後の奥さんにすまないと思ふ。
何とうらゝかなお天気だらう。
桂子さんから小包到来、御厚情のかず〳〵ほんとうにありがたく頂戴いたしました。
大山さんから稿料落手、それだけ飲んでしまふ。
樹明君違約して不参、それが却つてよかつた。
焼酎よ、お前と永劫に縁をきる。
文字通り無一文。
△人間を離れて人間はゐない、彼、彼女、等々。
さんざ労れて春めいた雨となつた
・水のいろも春めいたいもりいつぴき
霜、水仙は折れて咲いてゐる
二月廿二日
予期した雨となつた、そして晴れた。
酒があるから酒を飲んだ、私はまだひとりの酒はほんとうに飲めない、酒は親しい人々といつしよに飲みたい。
樹明君がハムを持つてきてくれた、春らしい情景である。
二月廿三日
春、春、春がきました。
二三日なまけた、けふからしつかりはたらかう。
三八九の原稿を書きつゞける。
句もないほど、平穏な日だつた。
酒はないけれど、米があり野菜がある、水仙がほのかに匂ふ。
・こゝにふきのとうひらいてゐる
・あるけばふきのとう(追加)
・やつとふきのとう
・藪椿、号外のベルがやつてくる
・春がきた山から大きな木をはこぶ
二月廿四日
また雨だが、ぬくい雨だ、すつかり春めいた雨だ、油虫がどこからかのこ〳〵はいだしてきたほどだつた、午後は風がでゝ、だん〳〵晴れてきた。
三八九の仕事、ハムはうまいな、文旦飴もうまいな。
二月廿五日
未明、樹明来、宇部へ出張して、飲み過ぎて、三田尻まで乗り越して、やうやくこゝまで来たといふ、いかにも樹明らしい、ふたりいつしよにしばらく寝る。
明けてから、お茶を飲んで、さよなら、それから私は飯だが、もうシヨウユもスミもタバコもコメもなくなつた、まだハムとアメとが残つてゐる!
村のデパートで、サケ一杯とタバコ一袋とを借りた。
国際聯盟決裂の日、日本よ強くなれ、アジアは先づアジア人のアジアでなければならない。
三八九、三八九、三八九はメシのタネだ、ああああ、ああ。
樹明君が夕方再び来庵、豚のお土産を持つて、──一杯あげたいとは思へども。──
夜は三八九原稿を書く、あひまあひまに読みちらす。
今日は自然の事実を一つ発見した、水仙も向日葵のやうに太陽に向いて咲くといふことである、花はたいがいさうだけれど。
ハムばかり食べてゐる、まるで豚の春だ。
舌皷を食べた(これは山口名物、これも樹明君のお裾分)。
・暮れきらないほの白いのは水仙の花
・陽がさせば水仙はほつかりひらき
・とろ〳〵とける『舌皷』の春ですね
・水のいろも春めいたいもりいつぴき(再録)
・水仙こちらむいてみんなひらいた
・あたゝかく虫がきて夜の障子をたゝく
すつかり春らしく家々のけむり
・地べた日向をころげて落葉
・焚火あたゝかく風さわぐ
二月廿六日
寒い雪がちらほらしたが、どうやら晴れさうだ。
昨日も今日もよい手紙が来ない、軽い失望。
ハム、飴──なか〳〵の御馳走だ。
樹明君がめづらしく山ゆき姿で来た、ルンペンのやうでもあり、ギヤングのやうでもあるが、樹明はやつぱり樹明だ。
けふも暮れたか、の嘆。
二月廿七日
寒い、寒い、こんな日はとても出かけられない、出かけたくないのを無理に出かけるよりも、ぢつとしてゐる方がよい、たとへ食べる物がなくて、お茶ばかり飲んでゐても。
昨日の夕餉はハムと文旦飴だつたが、今日の朝飯はハムと大根、ブルだかプロだか解らない食事だ。
午後は晴れて春日和になつた、思ひ立つて防府行、汽車賃を冬村君から借りて。
浴永君といつしよに三田君を訪ねる、たいへん歓待された、酒も飲んだし、金も貰つたし、お土産まで頂戴した。
終列車で帰庵、Hおばさんから飯を借りた。
今日の浪費壱円也(現在の私には)。
・みんな山ゆきすがたの雪が来さうな
・汽車も春風のふるさとのなか
・ゴボウマキ、ふるさとのうまさかみしめる(この一句を浴永君に)
二月廿八日
晴、春景色、朝酒、万事豊富、炭、酒、米、煙草。
樹明来、大に飲み大に語つて、往生安楽国!
・ほつかりと宵月のある枯枝で
・風がでて葉が鳴るゆふべの祈り
・春風の豚でうめく
・日向の椿がぽとりと水へ
・春がきたどろ〳〵の蓮を掘つてゐる
・草の芽乞食が荷をおろした
三月一日
くもつてはゐるがぬくい、さすがにもう春らしい。
三八九印刷。
また無一文、銭がほしいな。
村のデパートで一杯また一杯、とうぜんとしてもどる。
三月二日
晴、春、三八九。
入浴、春風しゆう〳〵だつた、馴染の酒屋で一杯、むろんカケで。
人影がさしたと思つたら、乞食だつた、彼もまた珍客たるを失はない、それほどわが庵は閑静である。
夜、樹明来、茶をすゝつて漫談しばらく。
しづかに更けて、やすらかなねむり。
・人影うらゝかな、乞食だつたか
犬がほえる藪椿のつそりと乞食で
痛さこらへてゐて春めいた一日
・椿ひらいて墓がある
・これだけ拓いてそらまめの芽
三月三日
さむい、くもり、冬らしく、そして晴、あたゝかく春らしく。
けふは新暦では桃の節句だが、私には何のかゝはりもない。
朝早くからみそつちよがきてなく。
うら〳〵と野山がかすんでゐる、春の横顔うつくしいね。
私の庵には鼠さへゐないのだ、めづらしいだらう(井師の雑文、鼠を読んで)。
新聞配達さんがアカツキを一本くれた、貧者の一本!
号外がきて驚かした、東北地方に地震、海嘯、火災があつたといふ、願はくは被害少かれと祈る。
やうやく三八九の仕事がすむ、切手代がないので発送することが出来ない、あはれ〳〵。
火を焚く、さみしくない、──かういふ句はもう作らない、たゞ感想の一片としてこゝに書きつけておかう。
いつもきこえるステーシヨンの雑音、しづかだ、──これもおなじく。
△金銭に乏しうして苦しんだのでは、ほんとうの意味で救はれない、物そのもの──たとへば米なら米──に乏しうして苦しんで、初めて、物そのものゝありがたさが解り、したがつて生そのもののよろこびを味ふことが出来る。
△貧乏といふことがほんとうに解らなければほんとうに救はれない。
樹明不来、待ちぼけ。
・生垣も椿ばかりでとしよりふうふ
・号外のベルが鳴る落椿
・そこに鳥がゐる黙つてあるく鳥
草の実つけて食べ足つてゐる
鳥かげのまつすぐに麦の芽
・ようほえる犬であたゝかい日で
・おきるより火吹竹をふく
・寒い火吹竹の穴ふとうする
・けさから春立つといふぺんぺん草
(追加)
・札をつけられて桜ひらかうとして
三月四日
けさはすこし早く起きる、曇つて寒い。
よい手紙──わるい手紙も来ない。
樹明来、おかげで三八九、一部発送。
ぬくうて雨となつた、明日から行乞に出かけるつもりなのに。
・水わけば水に生きるもの
・落葉ふかしも巌のすがた
暮れるより降りだして街の雑音も
・なげやりの萱の穂もあたゝかい雨
・森かげかそけく枯れてゐる葉に雨がきて
ぬくとくはうてきて百足は殺された
三月五日
夜来の雨がはれてすが〳〵しくなつた、どれ出かけよう。
征坊からなつかしいありがたい手紙がきた、感謝々々。
おかげで三八九全部発送済となる、安心々々。
晴れて風がふく、かういふ日は警戒を要する。
夕方から宿直室へ、例の如く食べる、飲む、饒舌る。
そして少し泳いだ、久しぶりに。
それでも戻つて寝た、さうするより外ないのだけれど。
・みんなしづくしてはれるそら
風ふく餅をたべてはひとり遊ぶ児
大きな松がある、そこが警察です
・どこかに月がある街から街へ
・月がまうへのかげをふむ
燈火管制の月夜をさまよふ
南無地蔵尊、こどもらがあげる藪椿
三月六日
晴、よい朝ではじまつてわるい夜で終つた。
酔うて乱れて、何が母の忌日だ、地下の母は泣いたらう。
樹明君を案内して置いて、このざまはどうだ。
ふと仏前を見たら、──御供物料、樹明──の一封がある、恥を知れ、々々。
ぶら〳〵歩いたら、だいぶ気分がよくなつた。
三月七日
独りを慎しみ独りを楽しんだ。
考へる事も書く事も、何もない一日だつた。
あるだけの米を炊いて食べた。
今日の買物を見よ
一、五銭 醤油二合
一、弐十弐銭 白米壱升
一、十銭 酒一合
一、三銭 端書二枚
一、五銭 煙草一袋
一、六銭 焼酎五勺
(これがやめてよいものなり)
・住みなれてふきのとう(改作)
三月八日
晴、なか〳〵つめたい、淡雪よろし。
防空デー、燈火管制の日、朝からサイレンが鳴りひゞく。
悪い、といふよりも恥づかしい夢を見た、それを洗ひ落すべく湯屋へまで出かけた、帰途、樹明君を訪ねたかつたが、キマリがわるいので止めにした。
夜、樹明君来庵、ほがらかな顔を見てほつとした。
社会人として、電燈を消して寝る。……
三月九日
春寒、午後はポカ〳〵日和だつた。
あてもなく山から野を歩きまはつた、墓地逍遙もよかつた。
けふはじめてやうやく、ふきのとうをみつけた(たゞしよそで)。
△蕗の薹、蕗の薹、お前は春の使者だよ。
畑を打つて根肥をしてをく。
△肉体労働にはまことに、まことに尊いものがある。
樹明君ひよつこりとやつてくる、酒を持つて、──ハムとちしやの下物で飲む、うまい、うまい、うますぎてとう〳〵前後不覚になつてしまつた(それでも、するだけの事はして、寝るべき処に寝てゐた)。
・もうみそつちよがきてないてゐるあわゆき
・杉の葉に雪がちらつくうすい日ざしの
・石から草の葉の淡雪
・早春の晴れて風ふくサイレンのいつまでも
・こゝろなぐさまない春雪やあるいてもあるいても
・藪椿ひらいてはおちる水の音
防空デー、燈火管制の夜
・爆音、月は暈きてまうへ
・街はあかりをなくしたおぼろ夜となつた
・月夜いつぱいサイレンならしつゞける
・月をかすめて飛行機はとをざかるおぼろ
三月十日
雨、春寒なか〳〵きびしい、袢纒を一枚かさねる。
終日独坐。
小鳥、殊に眼白が此頃興奮してきたやうだ、椿の木にあつまつて、朝から晩まで、恋の合唱をつゞけてゐる。
茫然として、私はそれにも聞き入るのである。
樹明君に
・月あかりのしたしい足音がやつてくる
自分自身に
椿が咲いたり落ちたり道は庵まで
春雪二句追加
・雪すこし石の上
・ぶら〳〵あるけば淡雪ところ〴〵
・霜どけの道をまがると焼場で
・墓場したしうて鴉なく
・早春の曇り日の墓のかたむき
春の野が長い長い汽車を走らせる
三月十一日
何もかも食べつくしてしまつた、朝は干大根をかんでは砂糖湯をすゝつた。
手答へのある手紙は来ない、行乞にもお天気がきまらないので出たくない。
やうやくにして白米一升だけ工面した、これでもやつぱり世帯の遣繰といふべきだらう。
身のまはり、家のまはりをかたづける、おだやかな気分で。
やつと、うちの、ふきのとうを見つけた、二つ、しよんぼりとのぞいてゐた、それでもうれしかつた。
よい月夜、おだやかな月夜だつた。
・朝からふりとほして杉の実の雨
・雨の椿の花が花へしづくして
・こゝにふきのとうがふたつ
亡母忌日二句追加
・おもひでは菜の花のなつかしさ供へる
・ひさびさ袈裟かけて母の子として
三月十二日
まことに春寒である、霜がふつて氷が張つてゐる、小雨さへふりだした。
よい手紙が来た、うれしいな、さつそく酒を買ふ。
樹明来、ふたりで飲んで街を歩いてゐると、ひよつこり敬坊にぶつつかつた、三人でまた飲んだ。
戻つてきて、飯を炊いて食べる、残つた酒を飲む。
夜、敬坊来、ふたりいつしよに寝る、おもしいろいな。
・雪の茶の木へ雪の南天
あんたが泊つてくれて春の雪
・雑草はうつくしい淡雪
・雪へ雪ふる春の雪
・雪のしづけさのつもる
・晴れて雪ふる春の雪
春の雪をあるく
・春の雪ふるふたりであるく
雪の水仙つんであげる
・わらやねしづくするあわゆき
三月十三日
雪がつんでゐる、そして雪がふる、敬坊と二人で雪をしみじみ観た。
△今日は今日だ、昨日は昨日、明日は明日だ。
△雪そのものを味ふた、雪そのものを詠ひたい。
よいかな、雪の水仙、雪の小鳥、よいかな。
しづかにしてさみしからず、まづしうしてあたゝかなり、いちにち雪がふつたりやんだり、そしてよい一日だつた。
若い遊猟家がやつてきて、むちやくちやにポン〳〵やられるには閉口した、小鳥も脅やかされるし、私も妨げられる、雪のしづけさが破られる。
よくない手紙が来た。
敬坊と別れてから、ずゐぶんさみしかつた。
さみしい夕餉だつた、──素湯に干大根だけだつた。
△私は物を感じるよりも物を観ることに心が傾いてきた、物の相、そこに今まで観なかつたものを観るやうになつた、物の色、香、音といふものから離れて、物のかたち、物のすがた、そのものに没入しようとしてゐる、多分こゝから、私の句境に一転向──それは一つの飛躍でなければならない──が出て来るであらう。
△描く、写す、そして述べる、詠ずるのである、正しい認識、それがなければ、まことの芸術はない。
・茶の木の雪のもうとけた
・雪の小鳥よとんできたかよ
敬坊に
ごつちやに寝てゐる月あかり
・月がのぼればふくらううたひはじめた
・雪空、わすれられたざくろが一つ(改作再録)
・笹原の笹の葉のちらつく雪
・雪ふりつもる水仙のほのかにも
・かすかな音がつめたいかたすみ
・茶の木の雪のおのがすがた
・投げだしてこのからだの日向
・どうすることもできない矛盾を風が吹く
・つい嘘をいつてしまつて寒いぬかるみ
三月十四日
まつたく春だ、うらゝかな日かげ、霜はつめたいが。
もう食べるものがなくなつた、でも身心はやすらかだ。
昨日の夕方、敬坊と約した手紙を受取るべく駅まで出かけたが、その手紙はまだ届いてゐなかつた、で、今朝はわざ〳〵嘉川まで出かけたのだが、その人に逢へなかつた、失望落膽、急に空腹を感じたことである。
一天雲なく腹裡一物なし、そして途上二句だけ拾つた。
瓶の水仙を椿(もちろん藪椿)に代へた、仏壇は水仙の盛花、花はよいなあと花を眺めては思ふ。
食べすぎの後は食べたらないのがホントウだらう!
暮のサイレンが鳴つても電燈がつかない、つかない筈だ、電球がきれてゐる、そしてそれをかへて貰ふ拾銭もない、──今夜は早くから寝て考へよう!
日中来書の約を履んで、樹明君バリカン持参で来庵、理髪どころぢやない、会話にも興が乗らない、やうやく名案を思ひついた、──焚火で理髪して貰つたのである。
今夜の其中庵風景はまことに異色あるものであつた、私は、恐らくは樹明君も、一生忘れないであらう。
街あかり星あかりだけでも、室内はほんのり明るい、そして今、十九夜の月が昇つた、その光をまともにうけて、明るい、明るい。
樹明君がお土産の牡蠣はうまかつた、殼をたゝき割つて、そのまゝ食べる、かんばしい、久しぶりに磯の香をかいだ。
・水音もあたらしい橋ができてゐる
・新国道まつすぐに春の風
・うらゝかにして腹がへつてゐる
・送電塔に風がある雲雀のうた
・麦田風はれ〴〵として藁塚や
・裏口からたんぽゝにたんぽゝ
・春風のお地蔵さんは無一物
・あれが変電所でうらゝか
・こんなに虫が死んでゐる、たゞあかるくて
春夜の虫のもう死んでゐる
もだえつゝ死んでゆく春の夜の虫
春の夜の火事の鐘をきいてゐる
・何だか物足らない別れで、どこかの鐘が鳴る
・春寒のシヤツのボタンを見つけてつけた
三月十五日
来信いろ〳〵、しみ〴〵読む。
やつと米一升(二十二銭)となでしこ一袋(四銭)とを捻出した、かういふ場合でないと、飯のうまさ、煙草のうまさが全身心に味へない。
十日ぶりに入浴、剃刀がないので髯が剃れなかつたのは残念、それよりも残念なのは電球をかへることが出来ない事だ、今夜もくらがりで考へるか!
春曇らしく曇つて、多少の風、遠山は霞。
いつのまにやら、鼠がやつて来てゐるらしい、そこらをごそごそやつてゐる、食べるものがなくて気の毒千万、とても同居はむつかしからう。
ちしや、ひともじ、ほうれんさうを食べる、うれしい味だ。
夕ぐれ、ぢつとしてゐると、裏戸があいた、樹明君だ、電球を持つてきてくれた、そしてバツト、そして五十銭玉一つ、さつそく酒を買うてくる、……感泣々々。
野鼠だつた、家鼠ではなかつた、野鼠でなくては、こんなところには我慢出来ない。
虫が多くなつた、明るすぎる電燈の下で、たくさん死んでゐる、こゝにも生死去来の厳粛な相がある。
樹明君のおかげで、明るく、安らかに寝た。
・あたゝかい雨の木の実のしづくする
・ぱつとあかるく水仙がにほふ私の机
・草の芽、釣瓶縄をすげかへる
霽れるより風が出て遠く号外の鈴の音
・裏山へしづかな陽が落ちてゆく
・落ちる陽をまへにして虹の一すぢ
三月十六日
ぬくすぎたが、はたして雨だ、この雨が木の芽草の芽を育てるのである。
サイレンと共に起きた、何となく心楽しい朝だ。
降つたり止んだり、照つたり曇つたり、まことにとりとめのない日和、かういふ日和には、しぜんルンペン──旅人をおもふ、行乞流転の苦を考へる。……
△俳句の本質については一家見を持つてゐるが、俳句と時代との相関についてはアヤフヤである、史的研究が不足してゐるからだ、勉強しなければならない。
△芸術の極致は自楽ではあるまいか。
△芸術は闘争を超越する(私は此意味に於て、明らかに芸術のための芸術、芸術至上主義者である)。
△社会──個性──芸術。
△酒を飲む、から酒を味ふ、へ、そして、酒に遊ぶ、へ。
△酒と人とが、とうぜんとして融けなければ本当でない。
こゝにも春が来て生恥をさらしてゐる
・煮ゑえるもののうまいにほひのたそがれる
・煮ゑる音の、よい日であつたお粥
・たま〳〵人くれば銭のことをいふ春寒
・暗さ、ふくろうはなく
・梅はなごりの、椿さきつゞき
・椿おちてはういてたゞよふ
・おもひつめては南天の実
・春がきたぞよ啼く鳥啼かぬ鳥
彼岸入といふ晴れたり曇つたりして
晴れては曇る鴉のさわがしく
人を待ちつゝあたゝかく爪をきりつゝ
三月十七日
晴れて冷たく、降れば寒かつた。
憂欝な日だつた、敬君の手紙も私を憂欝にした、病気が何よりもいけない、出来る事ならば、私の頑健を分けてあげたい。
独り貧しく淋しく静かに。
今日も金を持たないための不快を味つた。
夕方、約束通り、樹明君がいろ〳〵の品物を持つてきてくれたが、今日ほど樹明君に対して、いや友人に対してすまないと思つた事はなかつた、樹明君のお嬢さんは危篤なのである、厚志はありがたくいたゞくけれど、樹明君を留めておいてはならないので、急き立てゝ帰つて貰つた、あゝ。
私の貧乏──それは自業自得だ──が私の周囲の人々を迷惑させることはほんとうに心苦しい、いひかへれば私がぐうたらであるために、私の敬愛する友人を悩ますことが私を責める(現に昨日、樹明君の場合に於ける事実を見よ)、私はもつと妥協的になつて世間並の生活を営むか、或はさらに虚無的になつて孤独地獄に落ちるか、どちらかに進まなければならない、それをつなぐ手段としては、酒をやめるか、または行乞をつゞけるかである、──私としては、三八九を発刊しつゝ、時々行乞するのが最もよい方法と思ふ、さうする外はないのだから。──
三月十八日 彼岸入。
晴れたり、曇つたり、とりとめもないお天気。
郵便屋さんからバツト一本供養して貰つた、これも乞食根性のあらはれか!
掃除をする、ほうれんさうのおひたしをこしらへてをく。
樹明君を学校に訪ねて、大山さん歓迎の打合をなし、お茶と煙草とを貰ふ、何から何まで厄介になるのは、まつたくすまない(お嬢さんの容態が悪くないと聞いてほつと安心した)。
△病める七面鳥!
不精髯を剃つた、学校でIさんから剃刀を借りて。
ちしやを搾取しすぎたのだらう、従来の元気がない。
五時頃、大山さんが約束を違へずに来庵、一見旧知の如く即時に仲よしとなつた、予想した通りの人柄であり、予想以上の親しみを発露する、わざとらしさがないのが何よりもうれしかつた、とにかく練れた人である。
お土産沢山、──酒、味淋干、福神漬、饅頭。
間もなく樹明君も来庵、鶏肉と芹とをどつさり持つてきてくれた、ありがたいお接待役である、主人公はいたづらに右往左往してゐる。
まことに楽しい会合だつた、酒のうまさ、芹のうまさ、人と人とのなごやかさ。
だいぶ更けてから、三人で街を散歩する、すこし脱線したが、悪くない脱線だつた。
三時近くなつて帰庵、大山さんを寝床に就かせてをいて、樹明君を送つて行く、戻つたのが四時過ぎ、後始末してゐるうちに、東の空が白んできた、とう〳〵徹夜した(それでよかつたのである、実は私が着る蒲団はなかつたのである)。
・おぢいさんも山ゆきすがたの大声でゆく
十八日夜三句
・つきあたつて大きな樹
・酔ひしれた月がある
・月影ながうひいて水のわくところまで
・水底青めば春ちかし(追加)
・椿またぽとりと地べたをいろどつた
・はなれた家で日あたりのよい家で
・蛙も出てきたそこへ水ふく
・眼白あんなに啼きかはし椿から椿
・こゝにふきのとうそこにふきのとう
・もう郵便がくるころの春日影
・ひつそりとしてぺんぺん草の花ざかり
大山さん樹明君に、二句
・話しつかれてほつと千鳥が
・笠もおちつかせて芹のうまさは
・山の水をせきためて洗ふのがおしめ
・いつも空家のこぼれ菜の花
・すこし寒い雨がふるお彼岸まゐり
・夜ふけの風がでてきてわたしをめぐる
・触れて夜の花のつめたし
・夜風その奥から迫りくるもの
・こやしあたへるほそいあめとなり
三月十九日
すつかり春だ。
増富黎々火さんが大山澄太さんと打合せてをいた通りに来庵、またお土産沢山、──味噌、塩昆布、蒲鉾。
大山さん自身出かけて、酒と酢と豆腐とを買うてくる、どちらがお客さんだか解らなくなつた。
樹明君もやつてくる、其中庵稀有の饗宴がはじまつた。
よい気持で草原に寝ころんで話した、雲のない青空、そして芽ぐみつゝある枯草。
道に遊ぶ者の親しさを見よ。
夕方、それ〴〵に別れた、私は元の一人となつた、さみしかつた、さみしくなければ嘘だ。
夜、樹明君再来、何だか様子が変だつた、私も少々変だつた。
風を聴きつゝ、いつしか寝入つてしまつた。
・こゝからがうちの山といふ木の芽
石に蝶が、晴れて風ふく
□
春風の鉢の子一つ
┌厳陽尊者、一物不将来の時如何。
│趙州和尚、 放下着。
┤
│厳───、一物不将来、箇の什麽をか放下せん。
└趙───、擔取し去れ。
『山はしづかにして性をやしなひ、水はうごいて情をなぐさむ』
底本:「山頭火全集 第四巻」春陽堂書店
1986(昭和61)年8月5日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。