郷愁の詩人 与謝蕪村
萩原朔太郎
|
蕪村や芭蕉の俳句に関しては、近頃さかんに多くの研究文献が輩出している。こうした時代において、著者の如く専門の俳人でもなく、専門の研究家でもない一詩人が、この種の著書をあらわすということは、無用の好事的余技の如く思われるが、決してその然らざる必然の理由があるのである。というのは、従来世に現われている蕪村論や芭蕉論は、すべていわゆる俳人の書いたものであり、修辞や考証の解説上で、専門的に入念を極めた絶好の書であるけれども、俳句そのものの本質しているリリックの真精神を意外に忘却しているものが多いのである。特に蕪村の俳句にいたっては、子規以来単なる写生主義ということで定評づけられ、一もその真の詩的精神──俳句のエスプリする哲学原理──を批判されてない。俳壇のいわゆる俳人たちは、彼らの宗匠的主観に偏して、常に俳句を形態上のレトリックでのみ皮相な手法的技巧観で鑑賞するため、句が詩情している本質のポエジイと、その背後にある主観の貫ぬく哲学とを、ややもすれば閑却無視することになるのである。つまり彼らは、俳句が抒情詩であることの本義を忘れて、単にこれを形態上のレトリックでのみ、皮相に解釈しているのである。
著者は専門の俳人ではない。しかし元来「詩」というものは、和歌も俳句も新体詩も、すべて皆ポエジイの本質において同じであるから、一方の詩人は必ず一方の詩を理解し得べきはずであり、原則的には「専門」ということはないはずである。専門というべきものは、単に修辞の特殊的な練習にのみ存しおり、鑑賞上には存在の区別がないはずである。しかも今日の日本では、僕らのいわゆる詩人(新詩人)が、他の伝統詩の歌人や俳人に比して、比較的に自由な新しい鑑賞眼を所有している。すくなくとも僕らの詩人は、より因襲のない自由な立場で、古典の詩を新しく本質的に鑑賞し得る便宜を持っている。
著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦していた。しかるに従来流布している蕪村論は、全く著者と見る所を異にして、一も自分を首肯させるに足るものがない。よって自ら筆を取り、あえて大胆にこの書をあらわし、著者の見たる「新しき蕪村」を紹介しようと思うのである。もとより僕は無学にして文献に暗く、考証等に笑うべき蒙失があるかも知れない。しかし著者の意はその辺の些事になくして、蕪村俳句の本質を伝えれば足りるのである。読者乞う。これを諒してこれを取読せよ。
附録の「芭蕉私見」は、全く文字通りの一私見にすぎない。蕪村とちがって、芭蕉の研究は一般に進歩しており、その本質の哲学や詩精神やも、既にほぼ遺憾なく所論し尽されてる観がある。著者としても、さらに蛇足を加える余地がないので、単に蕪村との比較を主とし、かつその句に自己の主観的評釈を附した。ここで特に「主観的」と言ったのは、新詩人としての僕の見方が、一般俳壇人のそれに比して、多少新しく変ったところがあるかも知れないと思ったからだ。
なお「蕪村論」は、先年著者の個人雑誌『生理』に連載して、一部読者の好評を博したものであり、附録「芭蕉私見」は、他の雑誌に掲載したものに、多少別に筆を加えたものである。
郷愁の詩人与謝蕪村
|
君あしたに去りぬ
ゆうべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。
岡の辺なんぞかく悲しき。
この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである。
僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。何故かというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか、寂びとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも気質的にも、容易に馴染めなかったからである。反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今を愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通しているものがあったからだ。
こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ。今日最近にいたって、僕は漸く芭蕉や一茶の句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得を持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何にしてもその詩趣を理解することが出来なかった。それ故に僕にとって、蕪村は唯一の理解し得る俳人であり、蕪村の句だけが、唯一の理解し得る俳句であったのだ。
この不思議なる事実。僕があらゆる俳句を理解し得ず、俳句を本質的に毛嫌いしながら、一人例外として蕪村を好み、彼の俳句だけを愛読したという事実は、思うにおそらく、蕪村の情操における特異なものが、僕の趣味性や気質における特殊な情操と密に符合し、理解の感流するものがあったためであろう。そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先ず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。したがって彼の句には、どこか奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある。例えば春の句で
遅き日のつもりて遠き昔かな
春雨や小磯の小貝ぬるるほど
行く春や逡巡として遅桜
歩行歩行もの思ふ春の行衛かな
菜の花や月は東に日は西に
春風や堤長うして家遠し
行く春やおもたき琵琶の抱ごころ
等の句境は、万葉集の歌「うらうらと照れる春日に雲雀あがり心悲しも独し思へば」や「妹がため貝を拾ふと津の国の由良の岬にこの日暮しつ」などと同工異曲の詩趣であって、春怨思慕の若々しいセンチメントが、句の情操する根柢を流れている。さらにまた左の如き恋愛句において、こうした蕪村の青春的センチメントが、一層はっきりと特異に感じられるのである。
春雨や同車の君がさざめ言
白梅や誰が昔より垣の外
妹が垣根三味線草の花咲ぬ
恋さまざま願の糸も白きより
二人してむすべば濁る清水かな
蕪村の句の特異性は、色彩の調子が明るく、絵具が生々しており、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くしている。
陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
更衣野路の人はつかに白し
絶頂の城たのもしき若葉かな
鮒鮓や彦根の城に雲かかる
愁ひつつ岡に登れば花いばら
甲斐ヶ嶺や穂蓼の上を塩車
俳句というものを全く知らず、いわんや枯淡とか、洒脱とか、風流とかいう特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、こうした蕪村の俳句だけは、思うに容易に理解することができるだろう。何となれば、これらの句には、洋画風の明るい光と印象があり、したがってまた明治以後の詩壇における、欧風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。
僕が俳句を毛嫌いし、芭蕉も一茶も全く理解することの出来なかった青年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村氏らの新体詩と並立して、蕪村句集を愛読した実の理由は、思うに全くこの点に存している。即ち一言にして言えば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。
芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的な関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。──すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。──しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行を好み、閑寂の静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老」の静的な美を慕った。「老」は彼のイデア──美しきものの実体観念──だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的風貌を感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。
それ故に芭蕉の名句は、多く皆秋の部と冬の部とに類属している。自然がその艶麗な彩筆を振う春の季節や、光と色彩の強烈な夏の季節は、芭蕉にとって望ましくなく、趣味の圏外に属していた。これに反して蕪村の名句は、多く皆春と夏とに尽くされている。だがこの観察は、蕪村俳句のより本質的な点からみて、皮相な一面観にしかすぎないのである。むしろ蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ。しかしこの解釈は、後に「春風馬堤曲」で反説しよう。
蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。今日僕らは、既に忘れられて名も知れなくなってしまった当時の卑俗俳諧の宗匠たちが、俳人番附の第一席に名を大書し、天下に高名を謳われている時、僅かその末席に細字で書かれ、漸く二流以下の俳人として、影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声やが、如何に頼りなく当にならないかを、真に痛切に感ずるのである。すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。殊に就中蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一の「悪しき時代」に生れた者は、特に救いがたく不遇である。
蕪村の価値が、初めて正しく評価され、その俳句が再批判されたのは、彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。明治以後、彼の最初の発見者たる正岡子規、及びその門下生たる根岸派の俳人に継ぎ、殆んどすべての文壇者らが、こぞって皆蕪村の研究に関心した。蕪村研究の盛んなことは、芭蕉研究と共に、今日において一種の流行観をさえ呈している。そして世の定評は、芭蕉と共に蕪村を二大俳聖と称するのである。
しかしながら多くの人は、蕪村について真の研究を忘れている。人々の蕪村について、批判し定評するところのものは、かつて子規一派の俳人らが、その独自の文学観から鑑賞批判したところを、無批判に伝授している以外、さらに一歩も出ていないのである。そしてこれが、今日蕪村について言われる一般の「定評」なのである。試みにその「定評」の内容をあげて見よう。蕪村の俳句の特色として、人々の一様に言うところは、およそ次のような条々である。
一、写生主義的、印象主義的であること。
一、芭蕉の本然的なのに対し、技巧主義的であること。
一、芭蕉は人生派の詩人であり、蕪村は叙景派の詩人である。
一、芭蕉は主観的の俳人であり、蕪村は客観的の俳人である。
「印象的」「技巧的」「主知的」「絵画的」ということは、すべて客観主義的芸術の特色である。それ故に以上の定評を概括すれば、要するに蕪村の特色は「客観的」だということになる。そしてこれが、芭蕉の「主観的」に対比して考えられているのである。
ところで芸術における「主観的」「客観的」もしくは「主情主義的」「主知主義的」ということは、本来何を意味するものだろうか。これについて自分は、旧著『詩の原理』に詳しい解説を述べておいた。約言すれば、すべての客観主義的芸術とは、智慧を止揚したところの主観表現に外ならない。およそ如何なる世界においても、主観のない芸術というものは存在しない。ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがうのである。それ故に本来言えば、単なる「叙景詩」とか「叙景派の詩」なんていうものは実在しない。もしあるとすればナンセンスであり、似而非の駄文学にすぎないのだ。いわんや俳句のような抒情詩──俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である。──において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。俳句のような文学において、主観が稀薄であるとすれば、そのポエジイは無価値であり、その作家は「精神に詩を持たない」似而非詩人である。
ところで一般に言われる如く、蕪村が芭蕉に比して客観的の詩人であり、客観主義的態度の作家であることは疑いない。したがってまた「技巧的」「主知的」「印象的」「絵画的」等、すべて彼の特色について指摘されてるところも、定評として正しく、決して誤っていないのである。しかしながら多くの人は、これらの客観的特色の背後における、詩人その人の主観を見ていないのである。そしてこの「主観」こそ、正しく蕪村のポエジイであり、詩人が訴えようとするところの、唯一の抒情詩の本体なのだ。人々は芭蕉について、一茶について、こうした抒情詩の本体を知り、その叙景的な俳句を通して、芭蕉や一茶の悩みを感じ、彼らの訴えようとしている人生から、主観の意志する「詩」を掴んでいる。しかも何と不思議なことに、人々はなお蕪村について無智であり、単に客観的の詩人と評する以外、少しも蕪村その人の「詩」を知らないのである。そしてしかも、蕪村を讃して芭蕉と比肩し、無批判に俳聖と称している。「詩」をその本質に持たない俳聖。そして単に、技巧や修辞に巧みであり、絵画的の描写を能事としている俳聖。そんな似而非詩人の俳聖がどこにいるか。
こうした見地から立言すれば、蕪村の世俗に誤られていること、今日の如く甚だしきはないと言える。かつて芥川竜之介君と俳句を論じた時、芥川君は芭蕉をあげて蕪村を貶した。その蕪村を好まぬ理由は、蕪村が技巧的の作家であり、単なる印象派の作家であって、芭蕉に見るような人生観や、主観の強いポエジイがないからだと言うことだった。友人室生犀星君も、かつて同じような意味のことを、蕪村に関して僕に語った。そして今日俳壇に住む多くの人は、好悪の意味を別にして、等しく皆同様の観察をし、上述の「定評」以外に、蕪村を理解していないのである。
蕪村を誤った罪は、思うに彼の最初の発見者である子規、及びその門下生なる根岸派一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその「あるがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、いわゆる「写生主義」を唱えたのである。(この写生主義が、後年日本特殊の自然主義文学の先駆をした。今日でもなお、アララギ派の歌人がこの美学を伝承しているのは、人の知る通りである。)こうした文学論が如何に浅薄皮相であり、特に詩に関して邪説であるかは、ここで論ずべき限りでないが、とにかくにも子規一派は、この文学的イデオロギーによって蕪村を批判し、かつそれによって鑑賞したため、自然蕪村の本質が、彼らのいわゆる写生主義の規範的俳人と目されたのである。
今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判されねばならない。僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家でないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が咏嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。以下その俳句について、個々の評釈を述べると共に、この事実を詳しく説いて見たいと思う。
蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に咏嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の咏嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追懐であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ならないのだ。
薄暮は迫り、春の日は花に暮れようとするけれども、行路の人は三々五々、各自に何かのロマンチックな悩みを抱いて、家路に帰ろうともしないのである。こうした春の日の光の下で、人間の心に湧いて来るこの不思議な悩み、あこがれ、寂しさ、捉えようもない孤独感は何だろうか。蕪村はこの悲哀を感ずることで、何人よりも深酷であり、他のすべての俳人らより、ずっと本質的に感じやすい詩人であった。したがってまた類想の句が沢山あるので、左にその代表的の句数篇を掲出する。
今日のみの春を歩いて仕舞けり
歩行歩行もの思ふ春の行衛かな
まだ長うなる日に春の限りかな
花に寝て我家遠き野道かな
行く春や重たき琵琶の抱ごころ
生暖かく、朧ろに曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川が流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行ったというのである。裏町によく見る風物で、何の奇もない市中風景の一角だが、そこを捉えて春夜の生ぬるく霞んだ空気を、市中の空一体に感触させる技巧は、さすがに妙手と言うべきである。蕪村の句には、こうした裏町の風物を叙したものが特に多く、かつ概ね秀れている。それは多分、蕪村自身が窮乏しており、終年裏町の侘住いをしていたためであろう。
終日霏々として降り続いている春雨の中で、女の白い爪のように、仄かに濡れて光っている磯辺の小貝が、悩ましくも印象強く感じられる。
町の片側に紺屋があって、店先の往来で現に更紗を染めているという句であるが、印象としては、既に染めた更紗を、乾燥のために往来へ張り出していると解すべきであろう。赤や青やの派手な色をした更紗が、春風の中に艶かしく吹かれているこの情景の背後には、如何にも蕪村らしい抒情詩があり、春の日の若い悩みを感ずるところの、ロマネスクの詩情が溢れている。
この句を読んで聯想するのは、唐詩選にある劉廷芝の詩「天津橋下陽春ノ水。天津橋上繁華ノ子。馬声廻合ス青雲ノ外。人影揺動緑波ノ裏。」の一節である。おそらくは蕪村の句も、それから暗示を得たのであろう。唐詩選の詩も名詩であるが、蕪村の句もまた名句である。
だれも知ってる名句であるが、のたりのたりという言葉の音韻が、浪の長閑な印象をよく表現し、ひねもすという語のゆったりとした語韻と合って、音象的に非常に強く利いてるのである。
こうした春の郊外野景を描くことで、蕪村は特殊の画才と詩情とを有している。次の句もまたこれと同題同趣である。
この句は「春風馬堤曲」の主題となってる。春風馬堤曲は、蕪村の試みた一種の新しい長詩であって、後に紹介する如く、彼のポエジイの最も純粋な主題的表現である。
蔦かずらの纏う廃屋の中から、壁を伝って煙が洩れてる。(人が来て住んだために。)その煙は空に融け合い、霏々として降る春雨の中で、夢のように白く霞んでいるのである。廃屋と、煙と、春雨と、好個の三画題を取り合せて、真に縹渺たる詩情を描き出している。蕪村名句中の一名句である。
この句の情操には、或る何かの渇情に似たところの、ロマンチックの詩情がある。「名も知らぬ虫」という言葉「白き」という言葉の中に、それが現われているのである。某氏初期の新体詩に
若草萌ゆる春の野に
さまよひ来れば陽炎や
名も知らぬ虫の飛ぶを見て
ひとり愁ひに沈むかな
と言うのがある。西詩に多く見るところの、こうした「白愁」というような詩情を、遠く江戸時代の俳人蕪村が持っていたということは、実に珍しく不思議である。
昔、恋多き少年の日に、白梅の咲く垣根の外で、誰れかが自分を待っているような感じがした。そして今でもなお、その同じ垣根の外で、昔ながらに自分を待っている恋人があり、誰れかがいるような気がするという意味である。この句の中心は「誰が」という言葉にあり、恋の相手を判然としないところにある。少年の日に感じたものは、春の若き悩みであったところの「恋を恋する」思いであった。そして今、既に歳月の過ぎた後の、同じ春の日に感ずるものは、その同じ昔ながらに、宇宙のどこかに実在しているかも知れないところの、自分の心の故郷であり、見たこともないところの、久遠の恋人への思慕である。そしてこの恋人は、過去にも実在した如く、現在にも実在し、時間と空間の彼岸において、永遠に悩ましく、恋しく、追懐深く慕われるのである。
万葉集の恋歌にあるような、可憐で素朴な俳句である。ここで「妹」という古語を使ったのは、それが現在の恋人でなく、過去の幼な友達であったところの、追懐を心象しているためであろう。それ故に三味線草(ぺんぺん草)の可憐な花が、この場合の詩歌によく合うのである。句の前書には「琴心挑美人」とあり、支那の故事を寓意させてあるけれども、文字の字義とは関係なく、琴の古風な情緒が、昔のなつかしい追懐をそそるという意味で使ったのだろう。この句もやはり前のと同じく、実景の写生でなくして、心象のイメージに托した咏嘆詩であり、遅き日の積りて遠き昔を思う、蕪村郷愁曲の一つである。
単純な印象を捉えた、純写生的の句のように思われる。しかし鶯という可憐な小鳥が、真紅の小さな口を開けて、春光の下に力一杯鳴いてる姿を考えれば、何らかそこにいじらしい、可憐な、情緒的の想念が感じられる。多分作者は、こうした動物の印象からして、その昔死別れた彼の幼ない可憐な妹(蕪村にそうした妹があったかどうか、実の伝記としては不明であるが)もしくは昔の小さな恋人を追懐して、思慕と恋愛との交錯した情緒を感じ、悲痛な咏嘆をしたのであろう。前掲の「妹が垣根」や「白梅や」等の句と対比して鑑賞する時、こうした蕪村俳句の共通する抒情味がよく解るのである。
この句もまた、蕪村らしく明るい青春性に富んでいる。元来日本文化は、上古の奈良朝時代までは、海外雄飛の建国時代であったため、人心が自由で明るく、浪漫的の青春性に富んでいたのであるが、その後次第に鎖国的となり、人民の自由が束縛されたため、文学の情操も隠遁的、老境的となり、上古万葉の歌に見るような青春性をなくしてしまった。特に徳川幕府の圧制した江戸時代で、一層これが甚だしく固陋となった。人々は「さび」や「渋味」や「枯淡」やの老境趣味を愛したけれども、青空の彼岸に夢をもつような、自由の感情と青春とをなくしてしまった。しかるに蕪村の俳句だけは、この時代の異例であって、そうした青春性を多分に持っていた。前出した多くの句を見ても解る通り、蕪村の句には「さび」や「渋味」の雅趣がすくなく、かえって青春的の浪漫感に富んでいる。したがって彼の詩境は、「俳句的」であるよりもむしろ「和歌的」であり、上古奈良朝時代の万葉集や、明治以来の新しい洋風の抒情詩などと、一脈共通するところがあるのである。
これも明るい近代的の俳句であり、万葉集あたりの歌を聯想される。万葉の歌に「東の野に陽炎の立つ見えて顧みすれば月傾きぬ」というのがある。
菜種畠の遠く続いてる傾斜の向うに、春昼の光に霞んだ海が見え、沖では遠く、鯨が潮を噴いてるのである。非常に光の強く、色彩の鮮明な南国的漁村風景を描いてる。日本画よりはむしろ油絵の画題であろう。
前と同様、南国風景の一であり、閑寂とした漁村の白昼時を思わせる。
崖下の岸に沿うて、山吹が茂り咲いている。そこへ鉋屑が流れて来たのである。この句には長い前書が付いており、むずかしい故事の註釈もあるのだが、これだけの叙景として、単純に受取る方がかえって好い。
「逡巡」という漢語を奇警に使って、しかもよく効果を納めている。芭蕉もよく漢語を使っているが、蕪村は一層奇警に、しかも効果的に慣用している。一例として
人里離れた深山の奥、春昼の光を浴びて、山桜が咲いているのである。「人間」という言葉によって、それが如何にも物珍しく、人跡全く絶えた山中であり、稀れに鳴く鶯のみが、四辺の静寂を破っていることを表象している。しかるに最近、独自の一見識から蕪村を解釈する俳人が出、一書を著して上述の句解を反駁した。その人の説によると、この句の「人間」は「にんげん」と読むのでなく、「ひとあい」と読むのだと言うのである。即ち句の意味は、行人の絶間絶間に鶯が鳴くと言うので、人間に驚いて鶯が鳴くというのでないと主張している。句の修辞から見れば、この解釈の方が穏当であり、無理がないように思われる。しかしこの句の生命は、人間という言葉の奇警で力強い表現に存するのだから、某氏のように読むとすれば、平凡で力のない作に変ってしまう。蕪村自身の意味にしても、おそらくは「人間」という言葉において、句作の力点を求めたのであろう。
海岸に近い南国の風景であり、光と色彩が強烈である。蕪村は関西の人であり、元来が南国人であるけれども、好んでまた南国の明るい風物を歌ったのは、彼自身が気質的にも南国人であったことを実証している。これに反して芭蕉は、好んで奥州や北国の暗い地方を旅行していた。芭蕉自身が、気質的に北国人であったからだろう。したがってまた、芭蕉は憂鬱で、蕪村は陽快。芭蕉は瞑想的で、蕪村は感覚的なのである。
山村の白昼。山の傾斜に沿うた蔭の畠で、農夫が一人、黙々として畠を耕しているのである。空には白い雲が浮び、自然の悠々たる時劫の外、物音一つしない閑寂さである。
春雨模糊とした海岸に、沈みもやらで柴漬が漂っている。次の句も類想であり、いずれ優劣のない佳句である。
春の日の遅い朝飯。食卓には朝の光がさし込み、庭には鶯が鳴いてる。「揃ふて」という言葉によって、一家団欒のむつまじい平和さを思わせる。
「籬落」という題がつけてある。生垣で囲われた藁屋根の家が、閑雅に散在している郊外村落の昼景である。「あちこちとする」という言葉の中に、鶯のチョコチョコした動作が、巧みに音象されていることを見るべきである。同じ蕪村の句で「鶯の鳴くやあち向こちら向」という句も、同様に言葉の音象で動作を描いてる。
春の暮方の物音が、遠くの空から聴えて来るような感じがする。古来日本の詩歌には、鶯を歌ったものが非常に多いが、殆んど皆退屈な凡歌凡句であり、独り蕪村だけが卓越している。
「閣」というので、相応眺望の広い、見晴しの座敷を思わせる。情感深く、詩味に溢れた名句である。
塵芥に埋れた径。雑草に混って芹が生えているのだろう。晩春の日の弱い日だまりを感じさせるような、或る荒寥とした、心の隅の寂しさを感じさせる句である。
荒廃した寺の裏庭に、芥捨場のような空地がある。そこには笹竹や芹などの雑草が生え、塵芥にまみれて捨てられてる、我楽多の瀬戸物などの破片の上に、晩春の日だまりが力なく漂っているのである。前の句と同じく、或る荒寥とした、心の隅の寂しさを感じさせる句であるが、その「寂しさ」は、勿論厭世の寂しさではなく、また芭蕉の寂びしさともちがっている。前の句やこの句に現われている蕪村のポエジイには、やはり彼の句と同じく人間生活の家郷に対する無限の思慕と郷愁(侘しさ)が内在している。それが裏街の芥捨場や、雑草の生える埋立地で、詩人の心を低徊させ、人間生活の廃跡に対する或る種の物侘しい、人なつかしい、晩春の日和のような、アンニュイに似た孤独の詩情を抱かせるのである。
因に、この句の「捨てる」は、文法上からは現在の動作を示す言葉であるが、ここでは過去完了として、既に前から捨ててある意味として解すべきでしょう。
焼場に菫が咲いているのである。遺骨を拾う人と対照して、早春の淡い哀傷がある。
「暮れなんとして」は「のたりのたり」と同工風。時間の悠久を現す一種の音象表現である。
「遠近」という語によって、早春まだ浅く、冬の余寒が去らない日和を聯想させる。この句でも、前の「春雨や」の句でも、すべて蕪村の特色は、表現が直截明晰であること。曲線的でなくして直線的であり、脂肪質でなくして筋骨質であることである。そのためどこか骨ばっており、柔らかさの陰影に欠けるけれども、これがまた長所であって、他に比類のない印象の鮮明さと、感銘の直接さとを有している。思うに蕪村は、こうした表現の骨法を漢詩から学んでいるのである。古来、日本の歌人や俳人やは、漢詩から多くの者を学んでおり、漢詩の詩想を自家に飜案化している人が非常に多い。しかし漢詩の本質的風格とも言うべき、あの直截で力強い、筋骨質の気概的表現を学んだ人は殆んど尠ない。多くの歌人や俳人やは、これを日本的趣味性に優美化し、洒脱化しているのである。日本の文学で、比較的漢詩の本質的風格を学んだ者は、上古に万葉集の雄健な歌があり、近世に蕪村の俳句があるのみである。
春宵の悩ましく、艶かしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されてる。「春宵怨」とも言うべき、こうしたエロチカル・センチメントを歌うことで、芭蕉は全く無為であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀れた句を書いているのは、彼の気質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇を逸する青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。次にその類想の秀句二、三を掲出しよう。
春雨や同車の君がさざめ言
筋かひにふとん敷たり宵の春
誰が為の低き枕ぞ春の暮
春の夜に尊き御所を守る身かな
注意すべきは、これらの句(最後の一句は少し別の情趣であるが)を見ても解る如く、蕪村のエロチック・センチメントが、すべてみな主観の内景する表象であって、現実の恋愛実感でないことである。この事は、彼の孤独な伝記に照して見ても肯けるし、前に評釈した「白梅や誰が昔より垣の外」や「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」やを見ても、一層明瞭に理解され得るところであろう。彼のこうした俳句は、現実の恋の実感でなくして、要するに彼のフィロソヒイとセンチメントが、永遠に思慕し郷愁したところの、青春の日の悩みを包む感傷であり、心の求める実在の家郷への、リリックな咏嘆であったのである。
天明三年、蕪村臨終の直前に咏じた句で、彼の最後の絶筆となったものである。白々とした黎明の空気の中で、夢のように漂っている梅の気あいが感じられる。全体に縹渺とした詩境であって、英国の詩人イエーツらが狙ったいわゆる「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。しかしこうした句は、印象の直截鮮明を尊ぶ蕪村として、従来の句に見られなかった異例である。かつどこかスタイルがちがっており、句の心境にも芭蕉風の静寂な主観が隠見している。けだし晩年の蕪村は、この句によって一の新しい飛躍をしたのである。もしこれが最後の絶筆でなかったならば、更生の蕪村は別趣の風貌を帯びたか知れない。おそらく彼は、心境の静寂さにおいて芭蕉に近づき、全体としての芸術を、近代の象徴詩に近く発展させたか知れないのである。そしてこの臆測は、蕪村の俳句や長詩に見られる、その超時代的の珍しい新感覚──それは現代の新しい詩の精神にも共通している──を考え、一方にまた近代の浪漫詩人や明治の新体詩人やが、後年に至って象徴的傾向の詩風に入った経過を考える時、少しも誇張の妄想でないことを知るであろう。
嵯峨の田舎に、雅因を訪ねた時の句である。一面の麦畑に囲まれた田舎の家で、夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が、枕許に吹き入れて来たという意であるが、表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄させてる。この句を読むと、田舎の閑寂な空気や、夏の真昼の静寂さや、ひっそりとした田舎家の室内や、その部屋の窓から見晴しになってるところの、広茫たる一面の麦畑や、またその麦畑が、上風に吹かれて浪のように動いている有様やが、詩の縹渺するイメージの影で浮き出して来る。こうした効果の修辞的重心となってるものは、主として二句の「音なき」という語にかかっている。これが夏の真昼の沈黙や、田舎の静寂さやを、麦の穂の動きにかけて、一語の重複した表象をしているのである。また「上風に」のに、「音なき麦を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を画いてることは言うまでもない。
俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。
土蔵などのある、暗くひっそりとした旧家であろう。その母屋の乾隅(西北隅)に柚の花が咲いてるとも解されるが、むしろその乾隅の部屋──それは多分隠居部屋か何かであろう──の窓前に、柚の花が咲いていると解する方が詩趣が深い。旧家の奥深く、影のささないひっそりした部屋。幾代かの人が長く住んでる、古い静寂な家の空気。そして中庭の一隅には、昔ながらの柚の花が咲いているのである。この句の詩情には、古い故郷の家を思わせるような、あるいは昔の祖母や昔の家人の、懐かしい愛情を追懐させるような、遠い時間への侘しいノスタルジアがある。これもやはり、蕪村の詩情が本質している郷愁子守唄の一曲である。ついでに表現の構成を分析すれば、「柚の花」が静かな侘しい感覚を表象し、「母屋」が大きな旧家──別棟や土蔵の付いてる──を聯想させ、「乾隅」が暗く幽邃な位置を表象し、そして「ゆかしき」という言葉が、詩の全体にかけて流動するところの、情緒の流れとなってるのである。
「愁ひつつ」という言葉に、無限の詩情がふくまれている。無論現実的の憂愁ではなく、青空に漂う雲のような、または何かの旅愁のような、遠い眺望への視野を持った、心の茫漠とした愁である。そして野道の丘に咲いた、花茨の白く可憐な野生の姿が、主観の情愁に対象されてる。西洋詩に見るような詩境である。気宇が大きく、しかも無限の抒情味に溢れている。
若葉に囲まれた山の絶頂に、遠く白堊の城が見えるのである。若葉の青色と、城の白堊とが色彩の明るい配合をしているところに、この句の絵画的のイメージがあり、併せてまた主観のヴィジョンがある。洋画風の感覚による構成である。
牡丹という花は、夏の日盛りの光の下で、壮麗な色彩を強く照りかえすので、雄大でグロテスクな幻想を呼び起させる。蕪村の詩としては
が最も有名であるけれども、単なる比喩以上に詩としての内容がなく、前掲の句の方が遥かに幽玄でまさっている。句の表現するものは、夏の炎熱の沈黙の中で、地球の廻転する時劫の音を、牡丹の幻覚から聴いてるのである。
前の句と同じように、牡丹の幻想を歌った名句である。「天の一方に」は、「天一方望美人」というような漢詩から、解釈の聯想を引き出して来る人があるけれども、むしろ漠然たる心象の幻覚として、天の一方に何物かの幻像が実在するという風に解するのが、句の構想を大きくする見方であろう。すべてこうした幻想風の俳句は、芭蕉始め他の人々も所々に作っているけれども、その幻想の内容が類型的で、旧日本の伝統詩境を脱していない。こうした雄大で、しかも近代詩に見るような幻覚的なイメージを持った俳人は、古来蕪村一人しかない。
五月雨頃の、仄暗く陰湿な黄昏などに、水辺に建てられた古館があり、橘の花が侘しげに咲いてるのである。「水茎の岡の館に妹と我と寝ての朝の霜の降りはも」という古今集の歌と、どこか共通の情趣があり、没落した情緒への侘しい追懐を感じさせる。
旅中の実咏である。青葉の茂った夏木立の街道を通って来ると、魚くさい臭いのする、小さな村に出たというのである。家々の軒先に、魚の干物でも乾してあるのだろう。小さな、平凡な、退屈な村であって、しかも何となく懐かしく、記憶の藤棚の日蔭の下で、永く夢みるような村である。
広茫たる平原の向うに、地平をぬいて富士が見える。その山麓の小家の周囲を、夏の羽蟻が飛んでるのである。高原地方のアトモスフィアを、これほど鮮明に、印象強く、しかもパノラマ的展望で書いた俳句は外にない。この表現効果の主要点は、羽蟻という小動物。高原地方や山麓の焼土に多く生棲していて、特に夏の日中に飛翔する小虫を捉えた着眼点にある。即ち読者は、羽蟻という言葉によって、そうした高原地方の、夏の日中の印象を与えられてしまうのである。次にその飛翔している空を通して、遠望に富士を描き出しているので、山麓の小屋と関聯して、平原一帯の風物が浮びあがって来るのである。蕪村はこの構成を絵から学んだ。しかし羽蟻は絵に描けない。絵の方では、この主題を空気の色彩やトーンで現すのだろう。
夏の日の田舎道、遠く麦畑の続いた向うに、寺の塔が小さく見える。空では高く、閑居鳥が飛んでるのである。この風物を叙するために、特に「麦林寺」という固有名詞を出したのである。こうした詩の技術。或る風物を叙する代りに、特に或る特殊な固有名詞を使用するのは、昔から和歌や俳句に多く見るところで、日本の詩の独特な技巧である。西洋の詩では、韻律上の美を目的として、特殊な固有名詞を盛んに使うが、日本の歌や俳句のように、内容(情想)のイメージにかけて、表象上の効果に用いるものは、一般に見て尠いようである。
「卓」という言葉、また「観魚亭」という言葉によって、それが紫檀か何かで出来た、支那風の角ばった、冷たい感じのする食卓であることを思わせる。その卓の上に、鮮魚の冷たい鮓が、静かに、ひっそりと、沈黙して置いてあるのである。鮓の冷たい、静物的な感じを捉えた純感覚的な表現であり、近代詩の行き方とも共通している、非常に鮮新味のある俳句である。なお蕪村は、鮓について特殊な鋭どい感覚を持ち、次に掲出する如く、名句を沢山作っている。
鮓は、それの醋が醗酵するまで、静かに冷却して、暗所に慣らさねばならないのである。寂寞たる夏の白昼。万象の死んでる沈黙の中で、暗い台所の一隅に、こうした鮓がならされているのである。その鮓は、時間の沈滞する底の方で、静かに、冷たく、永遠の瞑想に耽っているのである。この句の詩境には、宇宙の恒久と不変に関して、或る感覚的な瞳を持つところの、一のメタフィジカルな凝視がある。それは鮓の素であるところの、醋の嗅覚や味覚にも関聯しているし、またその醋が、暗所において醗酵する時の、静かな化学的状態とも関聯している。とにかく、蕪村の如き昔の詩人が、季節季節の事物に対して、こうした鋭敏な感覚を持っていたことは、今日のイマジズムの詩人以上で、全く驚嘆する外はない。
夏草の茂る野道の向うに、遠く彦根の城をながめ、鮒鮓のヴィジョンを浮べたのである。鮒鮓を食ったのではなく、鮒鮓の聯想から、心の隅の侘しい旅愁を感じたのである。「鮒鮓」という言葉、その特殊なイメージが、夏の日の雲と対照して、不思議に寂しい旅愁を感じさせるところに、この句の秀れた技巧を見るべきである。島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と、どこか共通した詩情であって、もっと感覚的の要素を多分に持っている。
農家の屋根の上に飛びあがって、けたたましく啼いてる鶏は、何に驚いたのであろう。その屋根の上から、刈入時の田舎の自然が、眺望を越えて遠くひろがっているのである。空には秋のような日が照り渡って、地上には麦が実り、大鎌や小鎌を持った農夫たちが、至るところの畑の中で、戦争のように忙がしく働いている。そして畔道には、麦を積んだ車が通り、後から後からと、列を作って行くのである。──こうした刈入時の田舎の自然と、収穫に忙しい労働の人生とが、屋根の上に飛びあがった一羽の鶏の主観の影に、茫洋として意味深く展開されているのである。
春着を脱いで夏の薄物にかえる更衣の頃は、新緑初夏の候であって、ロマンチックな旅情をそそる季節である。そうした初夏の野道に、遠く点々とした行路の人の姿を見るのは、とりわけ心の旅愁を呼びおこして、何かの縹渺たるあこがれを感じさせる。「眺望」というこの句の題が、またよくそうした情愁を表象しており、如何にも詩情に富んだ俳句である。こうした詩境は、西洋の詩や近代の詩には普通であるが、昔の日本の詩歌には珍しく、特に江戸時代の文学には全くなかったところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、春の句の「陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ」などと共に、西欧詩の香気を強く持った蕪村独特の句の一つである。
因に、蕪村は「白」という色に特殊な表象感覚を有していて、彼の多くの句に含蓄深く使用している。例えば前に評釈した句、
白梅や誰が昔より垣の外
白梅に明る夜ばかりとなりにけり
などの句も、白という色の特殊なイメージが主題になって、これが梅の花に聯結されているのである。これらの句において、蕪村は或る心象的なアトモスフィアと、或る縹渺とした主観の情愁とを、白という言葉においてイメージさせている。
平安朝の文化に対して、蕪村は特殊の懐古的憧憬と郷愁とを持っていた。それは彼の単なる詩人的エキゾチシズムと見るよりは、彼の生活していた江戸時代の文化情操が、町人的卑俗主義に堕していたことで、蕪村の貴族主義と容れなかった上に、彼自身が京都に住んでいたためと思われる。この句もやはり、そうした主観的郷愁の一咏嘆であるが、特に心の詩情を動かしやすく、ロマンチックで夢見がちな初夏の季節を、更衣の季題で捉えたところに、句の表現的意義が存するのである。こうした平安朝懐古の句は、他にも沢山作っているので、参考のため、次に数句を提出しよう。
折釘に烏帽子かけたり宵の春
春の夜に尊き御所を守る身かな
春雨や同車の君がさざめ言
ほととぎす平安朝を筋かひに
さしぬきを足で脱ぐ夜や朧月
引例を見ても解るように、特に春の句においてそれが多いのは、平安朝の優美でエロチックな文化や風俗やが、春宵の悩ましい主観において、特にイメージを強く与えるためなのだろう。芭蕉における木曾義仲の崇拝や、戦国時代への特殊な歴史的懐古趣味を、一方蕪村の平安朝懐古趣味と比較する時、両者の異なる詩人的気質が、おのずから分明して来るであろう。
京都の夏祭、即ち祇園会である。夏の白昼の街路を、祭の鉾や車が過ぎた後で、一雨さっと降って来たのである。夏祭の日には、家々の軒に、あやめや、菖蒲や、百合などの草花を挿して置くので、それが雨に濡れて茂り、町中が忽ち青々たる草原のようになってしまう。古都の床しい風流であり、ここにも蕪村の平安朝懐古趣味が、ほのかに郷愁の影を曳いてる。
急の夕立に打たれて、翼を濡らした雀たちが、飛ぼうとして飛び得ず、麦の穂や草の葉を掴んでまごついているのである。一時に襲って来た夕立の烈しい勢が、雀の動作によってよく描かれている。純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けてるけれども、自然に対して鋭い観照の目を持っていた蕪村、画家としての蕪村の本領が、こうした俳句において表現されてる。
降り続く梅雨季節。空気は陰湿にカビ臭く、室内は昼でも薄暗くたそがれている。そのため紙燭を持って、昼間廊下を通ったというのである。日本の夏に特有な、梅雨時の暗い天気と、畳の上にカビが生えるような、じめじめした湿気と、そうした季節に、そうした薄暗い家の中で、陰影深く生活している人間の心境とが、句の表象する言葉の外周に書きこまれている。僕らの日本人は、こうした句から直ちに日本の家を聯想し、中廊下の薄暗い冷たさや、梅雨に湿った紙の障子や、便所の青くさい臭いや、一体に梅雨時のカビ臭く、内部の暗く陰影にみちた家をイメージすることから、必然にまたそうした家の中の生活を聯想し、自然と人生の聯結する或るポイントに、特殊な意味深い詩趣を感ずるのである。しかし夏の湿気がなく、家屋の構造がちがってる外国人にとって、こうした俳句は全然無意味以上であり、何のために、どうしてどこに「詩」があるのか、それさえ理解できないであろう。日本の茶道の基本趣味や、芭蕉俳句のいわゆる風流やが、すべて苔やさびやの風情を愛し、湿気によって生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて芸術しているのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文学や情操で、多少とも湿気の影響を受けてないものは殆んどない。(すべての日本的な物は梅雨臭いのである)特に就中、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文学では、この影響が著しい。日本の気候の特殊な触感を考えないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの湿気が全くなく、常に明るく乾燥した空気の中で、石と金属とで出来た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは当然であり、気象学的にも決定された宿命である。
「五月雨や大河を前に家二軒」という句は、蕪村の名句として一般に定評されているけれども、この句はそれと類想して、もっとちがった情趣が深い。この句から感ずるものは、各自に小さな家に住んで、それぞれの生活を悩んだり楽しんだりしているところの、人間生活への或るいじらしい愛と、何かの或る物床しい、淡い縹渺とした抒情味である。
「生きて働く」という言葉が、如何にも肉体的に酷烈で、炎熱の下に喘ぐような響を持っている。こうした俳句は写生でなく、心象の想念を主調にして表象したものと見る方が好い。したがって「百姓」という言葉は、実景の人物を限定しないで、一般に広く、単に漠然たる「人」即ち「人間一般」というほどの、無限定の意味でぼんやりと解すべきである。つまり言えばこの句において、蕪村は「人間一般」を「百姓」のイメージにおいて見ているので、読者の側から鑑賞すれば、百姓のヴィジョンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしそうでなく、単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的のものになってしまうし、かつ「生きて働く」という言葉の主観性が、実感的に強く響いて来ない。ついでに言うが、一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術として軽い境地のものである。正岡子規以来、多くの俳人や歌人たちは伝統的に写生主義を信奉しているけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠く、名句の中には殆んどない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしか過ぎないのである。
「愁ひつつ丘に登れば花茨」と類想であって、如何にも蕪村らしい、抒情味に溢れた作品である。この句には「かの東皐に登れば」という前書が付いているが、それが一層よく句の詩情を強めている。
秋風落寞、門を出れば我れもまた落葉の如く、風に吹かれる人生の漂泊者に過ぎない。たまたま行路に逢う知人の顔にも、生活の寂しさが暗く漂っているのである。宇宙万象の秋、人の心に食い込む秋思の傷みを咏じ尽して遺憾なく、かの芭蕉の名句「秋ふかき隣は何をする人ぞ」と双壁し、蕪村俳句中の一名句である。
この句几董の句集に洩れ、後に遺稿中から発見された。句集の方のは
であり、全く同想同題である。一つの同じテーマからこの二つの俳句が同時に出来たため、蕪村自身その取捨に困ったらしい。二つとも佳作であって、容易に取捨を決しがたいが、結局「故人に逢ひぬ」の方が秀れているだろう。
秋の日の暮れかかる灯ともし頃、奈良の古都の街はずれに、骨董など売る道具市が立ち、店々の暗い軒には、はや宵の燈火が淡く灯っているのである。奈良という侘しい古都に、薄暗い古道具屋の並んだ場末を考えるだけで寂しいのに、秋の薄暮の灯ともし頃、宵の燈火の黄色い光をイメージすると、一層情趣が侘しくなり、心の古い故郷に思慕する、或る種の切ないノスタルジアを感じさせる。前に評釈した夏の句「柚の花やゆかしき母屋の乾隅」と、本質において共通したノスタルジアであり、蕪村俳句の特色する詩境である。なお蕪村は「ゆかしき」という言葉の韻に、彼の詩的情緒の深い咏嘆を籠めている。
芭蕉の名句「何にこの師走の町へ行く鴉」には遠く及ばず、同じ蕪村の句「麦秋や何に驚く屋根の鶏」にも劣っているが、やはりこれにも蕪村の蕪村らしいポエジイが現れており、捨てがたい俳句である。
黒犬の絵に讃して咏んだ句である。闇夜に吠える黒犬は、自分が吠えているのか、闇夜の宇宙が吠えているのか、主客の認識実体が解らない。ともあれ蕭条たる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤独に耐え得ぬ、人間蕪村の傷ましい心なのであろう。彼の別の句
もこれとやや同想であり、生活の不遇から多少ニヒリスチックになった、悲壮な自嘲的感慨を汲むべきである。
洛東に芭蕉庵を訪ねた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拝し、自分の墓地さえも芭蕉の墓と並べさせたほどであった。その崇拝する芭蕉の庵を、初めて親しく訪ねた日は、おそらく感激無量であったろう。既に年経て、古く物さびた庵の中には、今もなお故人の霊がいて、あの寂しい風流の道を楽しみ、静かな瞑想に耽っているように見えたか知れない。「冬近し」という切迫した語調に始まるこの句の影には、芭蕉に対する無限の思慕と哀悼の情が含まれており、同時にまた芭蕉庵の物寂びた風情が、よく景象的に描き尽されている。さすがに蕪村は、芭蕉俳句の本質を理解しており、その「風流」とその「情緒」とを、完全に表現し得たのであった。
海岸の貧しい漁村。家々の軒には干魚がかけて乾してあり、薄ら日和の日を、秋風が寂しく吹いているのである。
街道筋の居酒屋などに見る、場末風景の侘しげな秋思である。これらの句で、蕪村は特に「酒肆」とか「詩」とかの言葉を用い、漢詩風に意匠することを好んでいる。しかしその意図は、支那の風物をイメージさせるためではなくして、或る気品の高い純粋詩感を、意識的に力強く出すためである。例えばこの句の場合で、「酒屋」とか「謡」とかいう言葉を使えば、句の情趣が現実的の写生になって、句のモチーヴである秋風落寞の強い詩的感銘が弱って来る。この句は「酒肆に詩うたふ」によって、如何にも秋風に長嘯するような感じをあたえ、詩としての純粋感銘をもち得るのである。子規一派の俳人が解した如く、蕪村は決して写生主義者ではないのである。
月が天心にかかっているのは、夜が既に遅く更けたのである。人気のない深夜の町を、ひとり足音高く通って行く。町の両側には、家並の低い貧しい家が、暗く戸を閉して眠っている。空には中秋の月が冴えて、氷のような月光が独り地上を照らしている。ここに考えることは人生への或る涙ぐましい思慕の情と、或るやるせない寂寥とである。月光の下、ひとり深夜の裏町を通る人は、だれしも皆こうした詩情に浸るであろう。しかも人々はいまだかつてこの情景を捉え表現し得なかった。蕪村の俳句は、最も短かい詩形において、よくこの深遠な詩情を捉え、簡単にして複雑に成功している。実に名句と言うべきである。
古来難解の句と評されており、一般に首肯される解説が出来ていない。それにもかかわらず、何となく心を牽かれる俳句であり、和歌の恋愛歌に似た音楽と、蕪村らしい純情のしおらしさを、可憐になつかしく感じさせる作である。私の考えるところによれば、「恋さまざま」の「さまざま」は「散り散り」の意味であろうと思う。「願の糸も白きより」は、純潔な熱情で恋をしたけれども──である。またこの言葉は、おそらく蕪村が幼時に記憶したイロハ骨牌か何かの文句を、追懐の聯想に浮べたもので、彼の他の春の句に多く見る俳句と同じく、幼時への侘しい思慕を、恋のイメージに融かしたものに相違ない。蕪村はいつも、寒夜の寝床の中に亡き母のことを考え、遠い昔のなつかしい幼時をしのんで、ひとり悲しく夢に啜り泣いていたような詩人であった。恋愛でさえも、蕪村の場合には夢の追懐の中に融け合っているのである。
渡り鳥の帰って来る羽音を、炉辺に聴く情趣の侘しさは、西欧の抒情詩、特にロセッチなどに多く歌われているところであるが、日本の詩歌では珍しく、蕪村以外に全く見ないところである。前出の「愁ひつつ丘に登れば花茨」や、この「小鳥来る」の句などは、日本の俳句の範疇している伝統的詩境、即ち俳人のいわゆる「俳味」とは別の情趣に属し、むしろ西欧詩のリリカルな詩情に類似している。今の若い時代の青年らに、蕪村が最も親しく理解しやすいのはこのためであるが、同時にまた一方で、伝統的の俳味を愛する俳人らから、ややもすれば蕪村が嫌われる所以でもある。今日「俳人」と称されてる専門家の人々は、決してこの種の俳句を認めず、全くその詩趣を理解していない。しかしながら蕪村の本領は、かえってこれらの俳句に尽され、アマチュアの方がよく知るのである。
木枯しの朝、枝葉を残らず吹き落された漆の木が、蕭条として自然の中で、ただ独り、骨のように立っているのである。「からきめ見つる」という言葉の中に、作者の主観が力強く籠められている。悲壮な、痛々しい、骨の鳴るような人生が、一本の枯木を通して、蕭条たる自然の背後に拡がって行く。
畠の中にある田舎の家。外には木枯しが吹き渡り、家の周囲には、荒寥とした畦道が続いている。寂しい、孤独の中に震える人生の姿である。私の故郷上州には、こうした荒寥たる田舎が多く、とりわけこの句の情感が、身に沁みて強く感じられる。
高原の風物である。広茫とした穂蓼の草原が、遠く海のように続いた向うには、甲斐の山脈が日に輝き、うねうねと連なっている。その山脈の道を通って、駿河から甲斐へ運ぶ塩車の列が、遠く穂蓼の隙間から見えるのである。画面の視野が広く、パノラマ風であり、前に評釈した夏の句「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」などと同じく、蕪村特有の詩情である。旅愁に似たロマンチックの感傷を遠望させてる。
十歩に足らぬ庭先の小園ながら、小径には秋草が生え茂り、籬に近く隅々には、白い蓼の花が侘しく咲いてる。貧しい生活の中にいて、静かにじっと凝視めている心の影。それが即ち「侘び」なのである。この同じ「侘び」は芭蕉にもあり、その蕉門の俳句にもある。しかしながら蕪村の場合は、侘びが生活の中から泌み出し、葱の煮える臭いのように、人里恋しい情緒の中に浸み出している。なおこの「侘び」について、巻尾に詳しく説くであろう。
秋の日の力なく散らばっている、野外の侘しい風物である。蕪村はこうした郊外野望に、特殊のうら悲しい情緒を感じ、多くの好い句を作っている。風景の中に縹渺する、彼のノスタルジアの愁思であろう。
北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚っている。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚っていた。蕭条とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子のように冷たい青空。その青空の上に浮んで、昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚っている。飄々として唸りながら、無限に高く、穹窿の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂っている!
この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現われている。「きのふの空の有りどころ」という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚っている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのふの空の有りどころ」という如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じような欧風抒情詩の手法を持っていたということにある。
藪入で休暇をもらった小僧が、田舎の実家へ帰り、久しぶりで両親に逢ったのである。子供に御馳走しようと思って、母は台所で小豆を煮ている。そのうち子供は、炬燵にもぐり込んで転寝をしている。今日だけの休暇を楽しむ、可憐な奉公人の子供は、何の夢を見ていることやら、と言う意味である。蕪村特有の人情味の深い句であるが、単にそれのみでなく、作者が自ら幼時の夢を追憶して、亡き母への侘しい思慕を、遠い郷愁のように懐かしんでる情想の主題を見るべきである。こうした郷愁詩の主題として、蕪村は好んで藪入の句を作った。例えば
藪入やよそ目ながらの愛宕山
藪入のまたいで過ぬ凧の糸
など、すべて同じ情趣を歌った佳句であるが、特にその新体風の長詩「春風馬堤曲」の如きは、藪入の季題に托して彼の侘しい子守唄であるところの、遠い時間への懐古的郷愁を咏嘆している。芭蕉の郷愁が、旅に病んで枯野を行く空間上の表現にあったに反し、蕪村の郷愁が多く時間上の表象にあったことを、読者は特に注意して鑑賞すべきである。
正月元旦の句である。古来難解の句と称されているが、この句のイメージが表象している出所は、明らかに大阪のいろは骨牌であると思う。東京のいろは骨牌では、イが「犬も歩けば棒にあたる」であるが、大阪の方では「鰯の頭も信心から」で、絵札には魚の骨から金色の後光がさし、人々のそれを拝んでいる様が描いてある。筆者の私も子供の時、大阪の親戚(旧家の商店)で見たのを記憶している。或る元日の朝、蕪村はその幼時の骨牌を追懐し、これを初日出のイメージに聯結させたのである。この句に主題されている詩境もまた、前の藪入の句と同じく、遠い昔の幼い日への、侘しく懐かしい追憶であり、母のふところを恋うる郷愁の子守唄である。蕪村への理解の道は、こうした子守唄のもつリリカルなポエジイを、読者が自ら所有するか否かにのみかかっている。
冬の山中にある小さな村。交通もなく、枯木の林の中に埋っている。暖簾をかけた質屋の店も、既に戸を閉めてしまったので、万象寂として声なく、冬の寂寞とした闇の中で、孤独の寒さにふるえながら、小さな家々が眠っている。この句の詩情が歌うものは、こうした闇黒、寂寥、孤独の中に環境している、洋燈のような人間生活の侘しさである。「質屋」という言葉が、特にまた生活の複雑した種々相を考えさせ、山中の一孤村と対照して、一層侘しさの影を深めている。
薄ら日和の冬の日に、家の北庭の陰に生えてる、侘しい韮を刈るのである。これと同想の類句に
というのがある。共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘びを思わせる。「侘び」とは、前にも他の句解で述べた通り、人間生活の寂しさや悲しさを、主観の心境の底で噛みしめながら、これを対照の自然に映して、そこに或る沁々とした心の家郷を見出すことである。「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥を体感しながら、実はまたその生活を懐かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫している心境である。「侘び」は決して厭世家のポエジイでなく、反対に生活を愛撫し、人生への懐かしい思慕を持ってる楽天家のポエジイである。この点で芭蕉も、蕪村も、西行も、すべて皆楽天主義者の詩人に属している。日本にはかつて決して、ボードレエルの如き真の絶望的な悲劇詩人は生れなかったし、今後の近い未来にもまた、容易に生れそうに思われない。
枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!
この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。
「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭々として易水寒し。壮士一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、そうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水という文字の白く寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであろう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使している。
この句の詩情しているものは、やはり前の「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れている裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じているのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を咏嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するというだけでは詩にならない。つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆「抒情詩」に属するのである。
句の景象しているものは明白である。正岡子規らのいわゆる根岸派の俳人らは、蕪村のこうした句を「印象明白」と呼んで喝采したが、蕪村の句には、実際景象の実相を巧みに捉えて、絵画的直接法で書いたものが多い。例えば同じ冬の句で
寒月や鋸岩のあからさま
木枯しや鐘に小石を吹きあてる
など、すべていわゆる「印象明白」の句の代表である。そのため非難するものは、蕪村の句が絵画的描写に走って、芭蕉のような渋い心境の幽玄さがなく、味が薄く食い足りないと言うのである。しかし「印象明白」ばかりが、必ずしも蕪村の全般的特色ではなく、他にもっと深奥な詩情の本質していることを、根岸派俳人の定評以来、人々が忘れていることを責めねばならない。
木枯しの吹く冬の山麓に、孤独に寄り合ってる五軒の家。「何に世渡る」という言葉の中に、句の主題している情感がよく現われている。前に評釈した「飛弾山の質屋閉しぬ夜半の冬」と同想であり、荒寥とした寂しさの中に、或る人恋しさの郷愁を感じさせる俳句である。前に夏の部で評釈した句「五月雨や御豆の小家の寝醒めがち」も、どこか色っぽい人情を帯びてはいるが、詩情の本質においてやはりこれらの句と共通している。
霜に更ける冬の夜、遅く更けた燈火の下で書き物などしているのだろう。壁一重の隣家で、夜通し鍋など洗っている音がしている。寒夜の凍ったような感じと、主観の侘しい心境がよく現れている。「我れを厭ふ」というので、平常隣家と仲の良くないことが解り、日常生活の背景がくっきりと浮き出している。裏町の長屋住いをしていた蕪村。近所への人づきあいもせずに、夜遅くまで書物をしていた蕪村。冬の寒夜に火桶を抱えて、人生の寂寥と貧困とを悲しんでいた蕪村。さびしい孤独の詩人夜半亭蕪村の全貌が、目に見えるように浮んで来る俳句である。
漂母は洗濯婆のことで、韓信が漂浪時代に食を乞うたという、支那の故事から引用している。しかし蕪村一流の技法によって、これを全く自己流の表現に用いている。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指しているのである。それを故意に漂母と言ったのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗にその長屋住いで、蕪村が平常世話になってる、隣家の女房を意味するのだろう。
侘しい路地裏の長屋住い。家々の軒先には、台所のガラクタ道具が並べてある。そこへ霰が降って来たので、隣家の鍋にガラガラ鳴って当るのである。前の「我を厭ふ」の句と共に、蕪村の侘しい生活環境がよく現われている。ユーモラスであって、しかもどこか悲哀を内包した俳句である。
世に入れられなかった蕪村。卑俗低調の下司趣味が流行して、詩魂のない末流俳句が歓迎された天明時代に、独り芭蕉の精神を持して孤独に世から超越した蕪村は、常に鬱勃たる不満と寂寥に耐えないものがあったろう。「愚に耐えよ」という言葉は、自嘲でなくして憤怒であり、悲痛なセンチメントの調を帯びてる。蕪村は極めて温厚篤実の人であった。しかもその人にしてこの句あり。時流に超越した人の不遇思うべしである。
小景小情。スケッチ風のさらりとした句で、しかも可憐な詩情を帯びてる。
川沿いの町によく見る景趣である。
と共に、蕪村の好んで描く水彩画風の景趣であって、薄氷のはる冬の朝の侘しさがよく現れている。
京都に住んでいた蕪村は、他の一般的な俳人とちがって、こうした吾妻琴風な和歌情調を多分に持っていた。芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」と双絶する佳句であろう。
田も畠も凍りついた冬枯れの貧しい寒村。窮迫した農夫の生活。そうした風貌の一切が「猿なり」という言葉で簡潔によく印象されてる。
西から風が吹けば東に落葉がたまるのは当り前で、理窟で考えると馬鹿馬鹿しいような俳句であるが、その当り前のことに言外の意味が含まれ、如何にも力なく風に吹かれて、鉋屑などのように転ってる侘しい落葉を表象させる。庭の隅などで見た実景だろう。
冬の薄ら日のさしてる村の片ほとり、土塀などのある道端に、侘しい寒菊が咲いてるのである。これも前と同じく、はかなく寂しい悲しみを、心の影でじっと凝視しているような句境である。因に、こうした景趣の村は関西地方に多く、奈良、京都の近畿でよく見かける。関東附近の村は全体に荒寥として、この種の南国的な暖かい情趣に乏しい。
金福寺に芭蕉の墓を訪うた時の句である。蕪村は芭蕉を崇拝して、自己を知る者ただ故人に一人の芭蕉あるのみと考えていた。そして自ら芭蕉の直系を以って任じ、死後にもその墓を芭蕉の側に並べて立てさせた。この句はその実情を述べたものであるが、何となく辞世めいた捨離煩悩の感慨がある。
○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下テ摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何妬情 裂裙且傷股
○渓流石点々 蹈石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且つ儂が春衣を美ム
○店中有二客 能解江南語
酒銭擲三緡 迎我譲榻去
○古駅三両家猫児妻を呼び妻来らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
雛飛欲越籬 籬高堕三四
○春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
○たんぽぽ花咲り三々五々五々は黄に
三々は白し記得す去年この道よりす
○憐みとる蒲公茎短して乳を浥せり
○昔々しきりに思ふ慈母の恩
慈母の懐袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋畔財主の家
春情まなび得たり浪花風流
○郷を辞し弟に負て身三春
本を忘れ末を取る接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
楊柳長堤道漸くくだれり
○矯首はじめて見る故国の家
黄昏戸に倚る白髪の人
弟を抱き我を待つ 春又春
○君見ずや故人太祇が句
藪入の寝るやひとりの親の側
この長詩は、十数首の俳句と数聯の漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。単に同一主題の俳句を並べた「連作」という形式や、一つの主題からヴァリエーション的に発展して行く「連句」という形式やは、普通に昔からあったけれども、俳句と漢詩とを接続して、一篇の新体詩を作ったのは、全く蕪村の新しい創案である。蕪村はこの外にも、
君あしたに去りぬ夕べの心千々に
何ぞはるかなる
君を思ふて岡の辺に行つ遊ぶ
岡の辺なんぞかく悲しき
という句で始まる十数行の長詩を作ってる。蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。明治の新体詩というものも、藤村時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥かに芸術的に高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない。単にこの種の詩ばかりでなく、前に評釈した俳句の中にも、詩想上において西欧詩と類縁があり、明治の新体詩より遥かに近代的のものがあったのは、おそらく蕪村が万葉集を深く学んで、上古奈良朝時代の大陸的文化──それは唐を経てギリシアから伝来したものと言われてる──を、本質の精神上に捉えていたためであろう。とにかく徳川時代における蕪村の新しさは、驚異的に類例のないものであった。あの戯作者的、床屋俳句的卑俗趣味の流行した江戸末期に、蕪村が時潮の外に孤立させられ、殆んど理解者を持ち得なかったことは、むしろ当然すぎるほど当然だった。
さてこの「春風馬堤曲」は、蕪村がその耆老を故園に訪うの日、長柄川の堤で藪入りの娘と道連れになり、女に代って情を述べた詩である。陽春の日に、蒲公英の咲く長堤を逍遥するのは、蕪村の最も好んだリリシズムであるが、しかも都会の旗亭につとめて、春情学び得たる浪花風流の少女と道連れになり、喃々戯語を交して春光の下を歩いた記憶は、蕪村にとって永く忘れられないイメージだったろう。
この詩のモチーヴとなってるものは、漢詩のいわゆる楊柳杏花村的な南国情緒であるけれども、本質には別の人間的なリリシズムが歌われているのである。即ち蕪村は、その藪入りの娘に代って、彼の魂の哀切なノスタルジア、亡き母の懐袍に夢を結んだ、子守歌の古く悲しい、遠い追懐のオルゴールを聴いているのだ。「昔々しきりに思ふ慈母の恩」、これが実に詩人蕪村のポエジイに本質している、侘しく悲しいオルゴールの郷愁だった。
という句を作り、さらに春風馬堤曲を作る蕪村は、他人の藪入りを歌うのでなく、いつも彼自身の「心の藪入り」を歌っているのだ。だが彼の藪入りは、単なる親孝行の藪入りではない。彼の亡き母に対する愛は、加賀千代女の如き人情的、常識道徳的の愛ではなくって、メタフィジックの象徴界に縹渺している、魂の哀切な追懐であり、プラトンのいわゆる「霊魂の思慕」とも言うべきものであった。
英語にスイートホームという言葉がある。郊外の安文化住宅で、新婚の若夫婦がいちゃつくという意味ではない。蔦かずらの這う古く懐かしい家の中で、薪の燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映す洋燈の下で、むつまじく語り合うことを言うのである。詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇きあこがれて歌ったものは、実にこのスイートホームの家郷であり、「炉辺の団欒」のイメージだった。
と歌う蕪村は、常に寒々とした人生の孤独を眺めていた。そうした彼の寂しい心は、炉に火の燃える人の世の侘しさ、古さ、なつかしさ、暖かさ、楽しさを、慈母の懐袍のように恋い慕った。何よりも彼の心は、そうした「家郷」が欲しかったのだ。それ故にまた
と、古き先代の人が住んでる、昔々の懐かしい家の匂いを歌うのだった。その同じ心は
という句にも現れ
小鳥来る音うれしさよ板庇
愁ひつつ丘に登れば花茨
などのロセッチ風な英国抒情詩にも現われている。オールド・ロング・サインを歌い、炉辺の団欒を思い、その郷愁を白い雲にイメージする英吉利文学のリリシズムは、偶然にも蕪村の俳句において物侘しく詩情された。
と、冬の街路に炉辺の燈灯を恋うる蕪村は、裏街を流れる下水を見て
と、沁々として人生のうら寒いノスタルジアを思うのだった。そうした彼の郷愁は、遂に無限の時間を越えて
と、悲しみ極まり歌い尽さねばならなかった。まことに蕪村の俳句においては、すべてが魂の家郷を恋い、火の燃える炉辺を恋い、古き昔の子守歌と、母の懐袍を忍び泣くところの哀歌であった。それは柚の花の侘しく咲いている、昔々の家に鳴るオルゴールの音色のように、人生の孤独に凍え寂しむ詩人の心が、哀切深く求め訪ねた家郷であり、そしてしかも、侘しいオルゴールの音色にのみ、転寝の夢に見る家郷であった。
こうした同じ「心の家郷」を、芭蕉は空間の所在に求め、雲水の如く生涯を漂泊の旅に暮した。しかるにその同じ家郷を、ひとえに時間の所在に求めて、追懐のノスタルジアに耽った蕪村は、いつも冬の炬燵にもぐり込んで、炭団法師と共に丸くなって暮していた。芭蕉は「漂泊の詩人」であったが、蕪村は「炉辺の詩人」であり、殆んど生涯を家に籠って、炬燵に転寝をして暮していた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて
と、冬日だまりに散らばう廃跡の侘しさを咏むのであった。「侘び」とは蕪村の詩境において、寂しく霜枯れた心の底に、楽しく暖かい炉辺の家郷──母の懐袍──を恋いするこの詩情であった。それ故にまた蕪村は、冬の蕭条たる木枯の中で、孤独に寄り合う村落を見て
と、霜枯れた風致の中に、同じ人生の暖かさ懐かしさを、沁々いとしんで咏むのであった。この同じ自然観が、芭蕉にあっては大いに異なり、
と言うような、全く魂の凍死を思わすような、荒寥たる漂泊旅愁のリリックとなって歌われている。反対に蕪村は、どんな蕭条とした自然を見ても、そこに或る魂の家郷を感じ、オルゴールの鳴る人生の懐かしさと、火の燃える炉辺の暖かさとを感じている。この意味において蕪村の詩は、たしかに「人情的」とも言えるのである。
蕪村の性愛生活については、一も史に伝ったところがない。しかしおそらく彼の場合は、恋愛においてもその詩と同じく、愛人の姿に母の追懐をイメージして、支那の古い音楽が聞えて来る、「琴心挑美人」の郷愁から
の淡く悲しい恋をリリカルしたにちがいない。春風馬堤曲に歌われた藪入りの少女は、こうした蕪村の詩情において、蒲公英の咲く野景と共に、永く残ったイメージの恋人であったろう。彼の詩の結句に引いた太祇の句。
には、蕪村自身のうら侘しい主観を通して、少女に対する無限の愛撫と切憐の情が語られている。
蕪村は自ら号して「夜半亭蕪村」と言い、その詩句を「夜半楽」と称した。まことに彼の抒情詩のリリシズムは、古き楽器の夜半に奏するセレネードで、侘しいオルゴールの音色に似ている。彼は芭蕉よりもなお悲しく、夜半に独り起きてさめざめと歔欷するような詩人であった。
を辞世として、縹渺よるべなき郷愁の悲哀の中に、その生涯の詩を終った蕪村。人生の家郷を慈母の懐袍に求めた蕪村は、今もなお我らの心に永く生きて、その侘しい夜半楽の旋律を聴かせてくれる。抒情詩人の中での、まことの懐かしい抒情詩人の蕪村であった。
附録 芭蕉私見
|
僕は少し以前まで、芭蕉の俳句が嫌いであった。芭蕉に限らず、一体に俳句というものが嫌いであった。しかし僕も、最近漸く老年に近くなってから、東洋風の枯淡趣味というものが解って来た。あるいは少しく解りかけて来たように思われる。そして同時に、芭蕉などの特殊な妙味も解って来た。昔は芥川君と芭蕉論を闘わし、一も二もなくやッつけてしまったのだが、今では僕も芭蕉ファンの一人であり、或る点で蕪村よりも好きである。年齢と共に、今後の僕は、益々芭蕉に深くひき込まれて来るような感じがする。日本に生れて、米の飯を五十年も長く食っていたら、自然にそうなって来るのが本当なのだろう。僕としては何だか寂しいような、悲しいような、やるせなく捨鉢になったような思いがする。
芭蕉の俳句には、本質的の意味のリリシズムが精神している。むろんそのリリシズムは、蕪村にも一茶にも共通しているのであるが(俳句が抒情詩の一種である以上、それは当然のことである。)芭蕉の場合に限って、特にそれが純一に主調されているのである。
衰へや歯に食ひあてし海苔の砂
この秋は何で年よる雲に鳥
蝙蝠も出でよ浮世の花に鳥
秋近き心の寄や四畳半
こうした句の詩情しているものは、実に純粋のリリシズムであり、心の沁々とした咏嘆である。西行は純一のリリシズムを持った「咏嘆の詩人」であったが、芭蕉もまた同じような「咏嘆の詩人」である。したがって彼の句は常に主観的である。彼は自然風物の外景を叙す場合にも、常に主観の想念する咏嘆の情操が先に立っている。これ芭蕉の句が、一般に観念的と言われる理由で、この点蕪村の印象的、客観的の句風に対してコントラストを示している。蕪村は決して、子規一派の解した如き浅薄な写生主義者ではないけれども、対象に対して常に即物的客観描写の手法を取り、主観の想念やリリックやを、直接句の表面に出して咏嘆することをしなかった。蕪村の場合で言えば、リリックは詩の背後に隠されているのである。
芭蕉と蕪村におけるこの相違は、両者の表現における様式の相違となり、言葉の韻律において最もよく現われている。芭蕉の俳句においては、言葉がそれ自身「咏嘆の調べ」を持ち、「歌うための俳句」として作られている。たとえば上例の諸句にしても、「この道や行く人なしに秋の暮」などの句にしても、言葉それ自身に節奏の抑揚があり、その言葉の節付けする抑揚が、おのずからまた内容の沁々とした心の咏嘆(寂びしおり)を表出している。「この秋は何で年よる雲に鳥」という句は、「何で年よる」という言葉の味気なく重たい調子。「雲に鳥」という言葉の軽く果敢ない音律によって構成され、そしてこの「調べ」の構成が、それ自ら句の詩情するリリシズムを構成しているのである。故に芭蕉も弟子に教えて、常に「俳句は調べを旨とすべし」と言っていたという。「調べ」とは西洋の詩学で言う「韻律」のことであり、言葉の抑揚節奏する音楽のことである。そして芭蕉の場合において、その音楽は咏嘆のリリシズムを意味していたのだ。
蕪村の俳句においては、この点で表現の様式がちがっている。蕪村は主観的咏嘆派の詩人でなく、客観的即物主義の詩人であった。したがって彼の俳句には、咏嘆的リリカルな音楽や節奏やを、芭蕉のように深く必要としなかった。印象的イマジストであった蕪村は、その表現にもまた印象的イマジスチックな工夫を用いた。即ち蕪村の技巧は、リリカルの音楽を出すことよりも、むしろ印象のイメージを的確にするための音象効果にあった。例えば
鶯のあちこちとするや小家がち 蕪村
春の海ひねもすのたりのたり哉 蕪村
の如く、「あちこちとするや」の語韻から、鶯のチョコチョコとする動作を音象し、「のたりのたり」の音調から春の海の悠々とした印象を現わしているのである。蕪村が「絵画的詩人」と言われるのはこのためであり、それは正しく芭蕉の「音楽的詩人」と対照される。つまり蕪村の場合では、言葉の聴覚的な音韻要素も、対象をイマジスチックに描写するための手段として、絵画的用途に使用されているのであって、本質上の意味でのリリシズムとして──即ち音楽として──使用されているのではない。この点において見れば、芭蕉はたしかに蕪村に比して、真の本質的のリリックを持ったところの、真の本質的な純一の詩人であった。
芭蕉の佳句は十に二、三。蕪村の駄句は十に二、三、と正岡子規が評した。僕も昔は同感だったが、今の考で見れば、子規の蕪村ビイキが公平を失しているように思われる。芭蕉俳句のモチーヴは、元来非常に単純なものなのである。芭蕉の歌ってることは、常に同じ一つの咏嘆、同じ一つのリリシズムでしかない。故にそのリリシズムを理解しない限りにおいて、百千の句は悉く皆凡句であり、それを理解する限りにおいて、彼のすべての句は皆佳いのである。例えば小督局の廃跡を訪うて咏んだという句、
の如きも、理解のない鑑賞で見る限りは、単なる観念的の俳句であって、子規のいわゆる月並臭の駄句にしか感じられない。しかしこうした俳句の中にも、芭蕉の詩情するリリシズムの咏嘆がよく現われている。そしてこのリリシズムは、解説的にくどくどと説明するよりは、こうした句の嘆息している言葉の音楽(声調の呼吸する抑揚感)によく現われている。つまり言えば、芭蕉俳句のポエジイは、全くその声調の節付けてる音楽の中に存しているのである。そこで「芭蕉が解る」ということは、芭蕉の音楽が解る(音楽に魅力を感ずる)ということにさえ同じになる。芭蕉が常に「調べ」を俳句の第一義とし、「声のしおり」と「心のしおり」を不離の関係に説いたのも当然である。しかるに正岡子規という俳人は、詩の音楽に対して耳を持たない人であった。彼が『古今集』や『新古今集』の歌を排し、ひとえに万葉集ばかりを推賞したのも、つまり古今や新古今やの歌風が生命している音楽第一主義について、子規が理解の耳を持たなかったためなのである。(子規の作った万葉ばりの歌というのが、全然音楽美のないゴチゴチした散文的のものであった。今のアララギ派の歌人がその悪い伝統をすっかり受けてる。)
子規は本来真の抒情詩人ではなかったのだ。彼はそのヒイキにした蕪村でさえも、単なる写生主義の名人としか解さなかった。彼には蕪村の詩情している本質のリリックが解らなかった。いわんや一層純一な抒情詩人であるところの、芭蕉を理解できなかったのは当然である。
芭蕉は蕪村とちがって、具体的な哲学観念を持った詩人であった。蕪村の場合では、そのリリシズムと同じように、哲学が句の背後に隠れており、表面上の一通りな鑑賞では、容易に発見できないのである。これ蕪村が、従来誤って単なる絵画的写生詩人と評され、浅薄に価値づけられた所以であった。しかるに芭蕉の句では、或る一つの主題をもった人生観や宇宙観やが、直接に観念(思想)として歌われている。これ芭蕉が、蕪村に比して理知的な頭脳をもち、哲人としての風貌を具えていたことの実証である。実際にも芭蕉は、句作以外にも多くの俳論や散文を書き、俳人と詩論家の両面を具えていた。一方で蕪村は、単なる日常書簡集の外、全く詩論らしいものを書いていない。蕪村は感覚の人であり、思想というものを持たなかった。この点において見れば、芭蕉の方が西洋の人生的詩人に近いのである。
芭蕉のイデアした哲学は、多分に仏教や老荘の思想を受けてる。「古池や蛙とびこむ水の音」の句境の如く、彼は静の中にある動、寂の中にある生を見つめて、自然と人生における本質的実在を探ろうとした。そこで「実在」をリアルと訳する意味で、芭蕉は真のリアリズムの詩人であった。しかし彼のリアリズムは、決して単なる知性的冷静の観照主義ではなかった。反対に彼は、人間性の普遍な悲しみを体験して、本質に宗教的なモラルを持ったところの、真のヒューマニストの詩人であった。以下読者と共に、芭蕉俳句におけるこの人間性の悲哀と、ヒューマニズムの詩情するところを見よう。
秋ふかき隣は何をする人ぞ
秋さびし手毎にむけや瓜茄子
芭蕉の心が傷んだものは、大宇宙の中に生存して孤独に弱々しく震えながら、葦のように生活している人間の果敢なさと悲しさだった。一つの小さな家の中で、手毎に瓜の皮をむいてる人々は、一人一人に自己の悲しみを持ってるのである。そしてこの悲しみこそ、無限の時空の中に生きて、有限の果敢ない生活をするところの、孤独な寂しい人間共の悲しみである。それは動物の本能的な悲哀のように、語るすべもなく訴えるすべもない。ただ寄り集って手を握り、互に人の悲しみを感じながら、憐れに沈黙する外はないのである。見よ。秋深き自然の下に、見も知らぬ隣人が生活している。そしてこの隣人の悲しみこそ、それ自ら人類一般の悲しみであり、併せてまた芭蕉自身の悲哀なのだ。
芭蕉の悲哀は、宇宙の無限大なコスモスに通じている。蕭条たる秋風の音は、それ自ら芭蕉の心霊の声であり、よるべもなく救いもない、虚無の寂しさを引き裂くところの叫である。釈迦はその同じ虚無の寂しさから、森林に入って出家し、遂に人類救済の悟道に入った。芭蕉もまた仏陀と共に、隣人の悲しみを我身に悲しみ、友人の死を宇宙に絶叫して悲しみ嘆いた。しかし詩人であるところの芭蕉は、救世主として世に立つ代りに、万人の悲しみを心にはぐくみ、悲しみの中に詩美を求めて、無限の寂しい旅を漂泊し続けた。
芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘にぬかっていた。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇っていた。
死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮
枯枝に鴉の止りけり秋の暮
曠野の果に行きくれても、芭蕉はその「寂しおり」の杖を離さなかった。枯枝に止った一羽の烏は、彼の心の影像であり、ふと止り木に足を留めた、漂泊者の黒い凍りついたイメージだった。
年暮れて冬寒く、群鴉何の行く所ぞ! 魂の家郷を持たない芭蕉。永遠の漂泊者である芭蕉が、雪近い冬の空を、鳴き叫んで飛び交いながら、町を指して羽ばたき行く鴉を見て、心に思ったことは、一つの「絶叫」に似た悲哀であったろう。芭蕉と同じく、魂の家郷を持たなかった永遠の漂泊者、悲しい独逸の詩人ニイチェは歌っている。
鴉等は鳴き叫び
翼を切りて町へ飛び行く。
やがては雪も降り来らむ──
今尚、家郷あるものは幸ひなる哉。
東も西も、畢竟詩人の嘆くところは一つであり、抒情詩の尽きるテーマは同じである。
夢のように唐突であり、巨象のように大きな大仏殿。その建築の家屋の上に、雪がちらちら降ってるのである。この一つの景象は、芭蕉のイメージの中に彷徨しているところの、果敢なく寂しい人生観や宿命観やを、或る象徴的なリリシズムで表象している。人工の建築物が偉大であるほど、逆に益々人間生活の果敢なさと悲しさを感ずるのである。
暗澹とした空の下で、蚕が病んでいるのである。空気は梅雨で重たくしめり、地上は一面の桑畑である。この句には或る象徴的な、沈痛で暗い宿命的の意味を持った暗示がある。
曇暗の雲にかくれて、太陽の光も見えない夏の昼に、向日葵はやはり日の道を追いながら、雨にしおれて傾いているのである。或る時間的なイメージを持っているところの、沈痛な魂の瞑想が感じられ、象徴味の深い俳句である。
冬の北風が吹きすさんで庭の隅に、侘しい枯木の枝に咲いてる帰り花を見て、心のよるべない果敢なさと寂しさとを、しみじみ哀傷深く感じたのである。
ひとり行く旅の路傍に、床しくも可憐に咲いてる山吹の花。それは漂泊の芭蕉の心に、或る純情な、涙ぐましい、幽玄な「あわれ」を感じさせた。この山吹は少女の象徴であるかも知れない。あるいは実景であるかも知れない。もし実景であるとすれば、少女の心情に似た優美の可憐さを、イマジスチックに心象しているのである。蕭条とした山野の中を、孤独に寂しく漂泊していた旅人芭蕉が、あわれ深く優美に咲いた野花を見て、「笠に挿すべき枝のなり」と愛しんだ心こそ、リリシズムの最も純粋な表現である。
「あすは檜の木とかや、谷の老木のいへることあり。きのふは夢と過ぎてあすは未だ来らず。生前一樽の楽しみの外、明日は明日はと言ひ暮して、終に賢者のそしりを受けぬ。」という前書がついてる。初春の空に淡く咲くてふ、白夢のような侘しい花。それは目的もなく帰趨もない、人生の虚無と果敢なさを表象しているものではないか。しかも季節は春であり、空には小鳥が鳴いてるのである。
新古今集の和歌は、亡び行く公卿階級の悲哀と、その虚無的厭世感の底で歔欷しているところの、艶に妖しく媚めかしいエロチシズムとを、暮春の空に匂う霞のように、不思議なデカダンスの交響楽で匂わせている。即ち史家のいわゆる「幽玄体」なるものであるが、芭蕉は新古今集を深く学んで、巧みにこの幽玄体を自家に取り入れ、彼の俳句における特殊なリリシズムを創造した。前の「山吹や」の句も、同様にその芭蕉幽玄体の一つである。
生涯を旅に暮した芭蕉も、やはり故郷のことを考え、懐かしく追懐していたのである。或る寒い年の暮に、彼はとうとうその生れた故郷に帰って来た。そして亡き父母の慈愛を思い、そぞろに感慨深くこの句を作った。「臍の緒に泣く」という言葉は奇警であって、しかも幼時の懐かしい思い出や、父母の慈愛深い追懐やが、切々と心情から慟哭的に歌われている。
雲水に似た旅人芭蕉も、時には一定の住所に庵を構えて、冬の囲炉裏を囲みながら、侘しく暮していたこともある。そうした時、彼は外界の自然を見る代りに、じっと自己の心を見つめ、内界の去来する影を眺めた。
冬の凍りついた家の中で、芭蕉は瞑想に耽りながら、骨のように唯一人で坐っている。その背後の壁には乾鮭がさがり、戸外には空也念仏の声が通る。そして彼の孤独な影は、畳の上に長く寂しく曳いてるのである。
独居する芭蕉の心に、次第に老が近づくのを感じて来た。さらでだに寂しい悔恨の人生である。その上にまた老年が迫って来ては、心の孤独のやり場所もないであろう。「歯に喰ひあてし」という言葉の響に、如何にも砂を噛むような味気なさと、忌々しさの口惜しい情感が現われている。
暴風雨の朝、畠の作物も吹き荒され、万目荒寥として枯れた中に、ひとり唐辛子の実だけが赤々として、昨日に変らず色づいているのである。廃跡に残る一つの印象、変化と荒廃の中に残る一つの生命。それが血のように赤く鮮明に印象されることは、心の傷いた空虚の影に、悔恨の痛みを抱きながらも、悲壮な敗北の意気を感じさせずにいなかったろう。
老の近づくことは悲しみである。だが老年にはまた、老年の幽玄な心境がある。老いて宇宙の神韻と化し、縹渺の詩境に遊ぶこともまた楽しみである。空には白い雲が浮び、鳥は高く飛んでるけれども、時間は流れて人を待たず、自分は次第に老いるばかりになってしまったという咏嘆である。「何で年よる」という言葉の響に、如何にも力なく投げ出してしまったような嘆息があり、老を悲しむ情が切々と迫っている。それを受けて「雲に鳥」は、前のフレーズと聯絡がなく、唐突にして奇想天外の着想であるが、そのため気分が一転して、詩情が実感的陰鬱でなく、よく詩美の幽玄なハーモニイを構成している。こうした複雑で深遠な感情を、僅か十七文字で表現し得る文学は、世界にただ日本の俳句しかない。これは飜訳することも不可能だし、説明することも不可能である。ただ僕らの日本人が、日本の文字で直接に読み、日本語の発音で朗吟し、日本の伝統で味覚する外に仕方がないのだ。
底本:「郷愁の詩人 与謝蕪村」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年11月16日第1刷発行
2007(平成19)年1月25日第22刷発行
底本の親本:「郷愁の詩人与謝蕪村」第一書房
1936(昭和11)年3月15日初版発行
初出:蕪村の俳句について「生理 1」
1933(昭和8)年6月
春の部「生理 2」
1933(昭和8)年8月
夏の部「生理 3」
1933(昭和8)年11月
秋の部「生理 4」
1934(昭和9)年5月
冬の部「生理 5」
1935(昭和10)年2月
芭蕉私見(前半部分)「コギト 第四十二号」
1935(昭和10)年11月
芭蕉私見(後半部分)「俳句研究 第三巻第一号」
1936(昭和11)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蕪村の俳句について」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(一)」です。
※「春の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(二)」です。
※「夏の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(三)」です。
※「秋の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村(四)」です。
※「冬の部」の初出時の表題は「郷愁の詩人与謝蕪村」です。
※「芭蕉私見(前半部分)」の初出時の表題は「芭蕉私見」です。
※「芭蕉私見(後半部分)」の初出時の表題は「芭蕉について」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。