鎮魂歌
原民喜



 美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。僕はもう何年間眠らなかつたのかしら。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだらうか。かすかに僕のなかには宇宙に存在するものなら大概ありさうな気がしてくる。だから僕が何年間も眠らないでゐることも宇宙に存在するかすかな出来事のやうな気がする。僕は人間といふものをどのやうに考へてゐるのかそんなことをあんまり考へてゐるうちに僕はたうとう眠れなくなつたやうだ。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる、息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は……。

 僕は気をはつきりと持ちたい。僕は僕をはつきりとたしかめたい。僕の胃袋に一粒の米粒もなかつたとき、僕の胃袋は透きとほつて、青葉の坂路を歩くひよろひよろの僕が見えてゐた。あのとき僕はあれを人間だとおもつた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に繰返し繰返し云ひきかせた。それは僕の息づかひや涙と同じやうになつてゐた。僕の眼の奥に涙が溜つたとき焼跡は優しくふるへて霧に覆はれた。僕は霧の彼方の空にお前を見たとおもつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。人間の足。驚くべきは人間の足なのだ。廃墟にむかつて、ぞろぞろと人間の足は歩いた。その足は人間を支へて、人間はたえず何かを持運んだ。少しづつ、少しづつ人間は人間の家を建てて行つた。

 人間の足。僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支へて歩いた。兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行つてくれと僕に訴へた。疲れはてた朝だつた。橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通つてゐた。世の中にまだ朝が存在してゐるのを僕は知つた。僕は兵隊をそこに残して歩いて行つた。僕の足。突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支へてくれた。僕の足。僕の足。僕のこの足。恐しい日々だつた。滅茶苦茶の時だつた。僕の足は火の上を走り廻つた。水際を走りまわつた。悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。生きるために歩きつづけた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。

 人間の眼。あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。まつ黒にまつ黒にふくれ上つた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。河原にずらりと並んでゐる異形の重傷者の眼が、傷ついてゐない人間を不思議さうに振りむいて眺めた。不思議さうに、不思議さうに、何もかも不思議さうな、ふらふらの、揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、おそろしいものに視入つてゐる眼だ。水のなかに浸つて死んでゐる子供の眼はガラス玉のやうにパツと水のなかで見ひらいてゐた。両手も両足もパツと水のなかに拡げて、大きな頭の大きな顔の悲しげな子供だつた。まるでそこへ捨てられた死の標本のやうに子供は河淵に横はつてゐた。それから死の標本はいたるところに現れて来た。

 人間の死体。あれはほんたうに人間の死骸だつたのだらうか。むくむくと動きだしさうになる手足や、絶対者にむかつて投げ出された胴、痙攣して天を掴まうとする指……。光線に突刺された首や、喰ひしばつて白くのぞく歯や、盛りあがつて喰みだす内臓や……。一瞬に引裂かれ、一瞬にむかつて挑まうとする無数のリズム……。うつ伏せに溝に墜ちたものや、横むきにあふのけに、焼け爛れた奈落の底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めてゐるのだつた。

 人間の屍体。それは生存者の足もとにごろごろと現れて来た。それらは僕の足に絡みつくやうだつた。僕は歩くたびに、もはやからみつくものから離れられなかつた。僕は焼けのこつた東京の街の爽やかな鈴懸の朝の舗道を歩いた。鈴懸は朝ごとに僕の眼をみどりに染め、僕の眼は涼しげなひとの眼にそそいだ。僕の眼は朝ごとに花の咲く野山のけはひをおもひ、僕の耳は朝ごとにうれしげな小鳥の声にゆれた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら、それはみなお前たちの嘆きのせゐだ。僕のなかで鳴りひびく鈴、僕は鈴の音にききとれてゐたのだが……。

 だが、このふらふらの揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、ふらふらの、今もふらふらと揺れかへる、この空間は僕にとつて何だつたのか。めらめらと燃えあがり、燃え畢つた後の、また燃えなほしの、めらめらの、今も僕を追つてくる、この執拗な焔は僕にとつて何だつたのか。僕は汽車から振落されさうになる。僕は電車のなかで押つぶされさうになる。僕は部屋を持たない。部屋は僕を拒む。僕は押されて振落されて、さまよつてゐる。さまよつてゐる。さまよつてゐる。さまよつてゐるのが人間なのか。人間の観念と一緒に僕はさまよつてゐる。

 人間の観念。それが僕を振落し僕を拒み僕を押つぶし僕をさまよはし僕に喰らひつく。僕が昔僕であつたとき、僕がこれから僕であらうとするとき、僕は僕にピシピシと叩かれる。僕のなかにある僕の装置。人間のなかにある不可知の装置。人間の核心。人間の観念。観念の人間。洪水のやうに汎濫する言葉と人間。群衆のやうに雑沓する言葉と人間。言葉。言葉。言葉。僕は僕のなかにある ESSAY ON MAN の言葉をふりかへる。

死について  死は僕を生長させた

愛について  愛は僕を持続させた

孤独について  孤独は僕を僕にした

狂気について  狂気は僕を苦しめた

情欲について  情欲は僕を眩惑させた

バランスについて  僕の聖女はバランスだ

夢について  夢は僕の一切だ

神について  神は僕を沈黙させる

役人について  役人は僕を憂鬱にした

花について  花は僕の姉妹たち

涙について  涙は僕を呼びもどす

笑について  僕はみごとな笑がもちたい

戦争について  ああ戦争は人間を破滅させる

 殆ど絶え間なしに妖しげな言葉や念想が流れてゆく。僕は流されて、押し流されてへとへとになつてゐるらしい。僕は何年間もう眠れないのかしら。僕の眼は突張つて、僕の空間は揺れてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間……。ふと、揺れてゐる空間に白堊の大きな殿堂が見えて来る。僕はふらふらと近づいてゆく。まるで天空のなかをくぐつてゐるやうに……。大きな白堊の殿堂が僕に近づく。僕は殿堂の門に近づく。天空のなかから浮き出てくるやうに、殿堂の門が僕に近づく。僕はオベリスクに刻られた文字を眺める。僕は驚く。僕は呟く。


 原子爆弾記念館


 僕はふらふら階段を昇つてゆく。僕は驚く。僕は呟く。僕は訝る。階段は一歩一歩僕を誘ひ、廊下はひつそりと僕を内側へ導く。ここは、これは、ここは、これは……僕はふと空漠としたものに戸惑つてゐる。コトコトと靴音がして案内人が現れる。彼は黙つて扉を押すと、僕を一室に導く。僕は黙つて彼の後についてゆく。ガラス張りの大きな函の前に彼は立留る。函の中には何も存在してゐない。僕は眼鏡と聴音器の連結された奇妙なマスクを頭から被せられる。彼は函の側にあるスヰツチを静かに捻る。……突然、原爆直前の広島市の全景が見えて来た。

 ……突然、すべてが実際の現象として僕に迫つて来た。これはもう函の中に存在する出来事ではなささうだつた。僕は青ざめる。飛行機はもう来てゐた。見えてゐる。雲のなかにかすかに爆音がする。僕は僕を探す。僕はゐた。僕はあの家のあそこに……。あのときと同じやうに僕はゐた。僕の眼は街の中の、屋根の下の、路の上の、あらゆる人々の、あの時の位置をことごとく走り廻る。僕は叫ぶ。(厭らしい装置だ。あらゆる空間的角度からあらゆる空間現象を透視し、あらゆる時間的速度であらゆる時間的進行を展開さす呪ふべき装置だ。恥づべき詭計だ。何のために、何のために、僕にあれをもう一度叩きつけようとするのだ!)

 僕は叫ぶ。僕の眼に広島上空に閃く光が見える。光はゆるゆると夢のやうに悠然と伸び拡る。あツと思ふと光はさツと速度を増してゐる。が、再び瞬間が再分割されるやうに光はゆるゆるとためらひがちに進んでゆく。突然、光はさツと地上に飛びつく。地上の一切がさツと変形される。街は変形された。が、今、家屋の倒壊がゆるゆると再びある夢のやうな速度で進行を繰返してゐる。僕は僕を探す。僕はゐた。あそこに……。僕は僕に動顛する。僕は僕に叫ぶ。(虚妄だ。妄想だ。僕はここにゐる。僕はあちら側にゐない。僕はここにゐる。僕はあちら側にはゐない。)僕は苦しさにバタバタし、顔のマスクを捩ぎとらうとする。

 と、あのとき僕の頭上に墜ちて来た真暗な塊りのなかの藻掻きが僕の捩ぎとらうとするマスクと同じだ。僕はうめく。僕はよろよろと倒れさうになる。倒れまいとする。と、真暗な塊りのなかで、うめく僕と倒れまいとする僕と……。僕はマスクを捩ぎとらうとする。バタバタとあばれまはる。……スヰツチはとめられた。やがて案内人は僕の顔からマスクをはづしてくれる。僕は打ちのめされたやうにぐつたりしてゐる。案内人は僕をソフアのところへ連れて行つてくれる。僕はソフアの上にぐつたり横はる。

〈ソフアの上での思考と回想〉

 僕はここにゐる。僕はあちら側にはいない。ここにゐる。ここにゐる。ここにゐる。ここにゐるのだ。ここにゐるのが僕だ。ああ、しかし、どうして、僕は僕にそれを叫ばねばならないのか。今、僕の横はつてゐるソフアは少しづつ僕を慰め、僕にとつて、ふと安らかな思考のソフアとなつてくる。……僕はここにゐる。僕は向側にはゐない。僕はここにゐる。ああ、しかし、どうしてまだ僕はそれを叫びたくなるのか。

 ……ふと、僕はK病院のソフアに横はつてガラス窓の向うに見える楓の若葉を見たときのことをおもひだす。あのとき僕は病気だと云はれたら無一文の僕は自殺するよりほかに方法はなかつたのだが……。あのとき僕は窓ガラスの向側の美しく戦く若葉のなかに、僕はゐたのではなかつたかしら。その若葉のなかには死んだお前の目なざしや嘆きがまざまざと残つてゐるようにおもへた。……僕はもつとはつきりおもひだす。ある日、お前が眺めてゐた庭の若竹の陽ざしのゆらぎや、僕が眺めてゐたお前のかほつきを……。僕は僕の向側にもゐる。僕は僕の向側にもゐる。お前は生きてゐた。アパートの狭い一室で僕はお前の側にぼんやり坐つてゐた。美しい五月の静かな昼だつた。鏡があつた。お前の側には鏡があつた。鏡に窓の外の若葉が少し映つてゐた。僕は鏡に映つてゐる窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧いた。「もつともつと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行つてみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸るばかりのものに誘はれてゐた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考へてゐるのはこのことなのだらうか。

 僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。僕は僕の向側にゐる。鏡があつた。あれは僕が僕といふものに気づきだした最初のことかもしれなかつた。僕は鏡のなかにゐた。僕の顔は鏡のなかにあつた。鏡のなかには僕の後の若葉があつた。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷ひ込んでゆくやうな疼きをおぼえた。あれは迷ひ子の郷愁なのだらうか。僕は地上の迷ひ子だつたのだらうか。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。

 僕は僕の向側にゐた。子供の僕ははつきりと、それに気づいたのではなかつた。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜されてゐる人間ではなかつたのだらうか。安らかな、穏やかな、殆ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されてゐる僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたたれてゐた。そこから奈落はすぐ足もとにあつた。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあつたもの、……僕がしきりと考へてゐるのはこのことだらうか。僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。

 僕は僕の向側にゐる。樹木があつた。僕は樹木の側に立つて向側を眺めてゐた。向側にも樹木があつた。あれは僕が僕といふものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかつた。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐になりさうな空の下を悲痛に叩きつけられた巨人が歩いてゐた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられてゐたが、その人はなほ昂然と歩いてゐた。獅子のたてがみのやうに怒つた髪、鷲の眼のやうに鋭い目、その人は昂然と歩いてゐた。少年の僕は幻の人間を仰ぎ見ては訴へてゐた。僕は弱い、僕は弱い、僕は僕はこんなに弱いと。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出さなければならない。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いといふ声がするやうだ。今も僕のなかで、僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな。死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕のなかでまたもう一つの声がきこえてくる。


 僕はソフアを立上る。僕は歩きだす。案内人は何処へ行つたのか姿が見えない。僕はひとりで、陳列戸棚の前を茫然と歩いてゐる。僕はもうこの記念館のなかの陳列戸棚を好奇心で覗き見る気は起らない。僕の想像を絶したものが既に発明され此処に陳列してあるとしても、はたしてこれは僕の想像を絶したものであらうか。そのものが既に発明されて此処に陳列してあること。陳列されてあること、陳列してあるといふこと、そのことだけが僕の想像を絶したことなのだ。僕は憂鬱になる。僕は悲惨になる。自分で自分を処理できない狂気のやうに、それらは僕を苦しめる。僕はひとり暗然と歩き廻つて、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……

 さうだ、泉こそはかすかに、かすかな救ひだつたのかもしれない。重傷者の来て呑む泉。つぎつぎに火傷者の来て呑む泉。僕はあの泉あるため、あの凄惨な時間のなかにも、かすかな救ひがあつたのではないか。泉。泉。泉こそは……。その救ひの幻想はやがて僕に飢餓が迫つて来たとき、天上の泉に投影された。僕はくらくらと目くるめきさうなとき、空の彼方にある、とはの泉が見えて来たやうだ。それから夜……宿なしの僕はかくれたところにあつて湧きやめない、とはの泉のありかをおもつた。泉。泉。泉こそは……。

 僕はいつのまにか記念館の外に出て、ふらふら歩き廻つてゐる。群衆は僕の眼の前をぞろぞろ歩いてゐるのだ。群衆はあのときから絶えず地上に汎濫してゐるやうだ。僕は雑沓のなかをふらふら歩いて行く。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕にとつて、僕のまはりを通りこす人々はまるで纏りのない僕の念想のやうだ。僕の頭のなか、僕の習癖のなか、いつのまにか、纏りのない群衆が汎濫してゐる。僕はふと群衆のなかに伊作の顔を見つけて呼びとめようとする。だが伊作は群衆のなかに消え失せてしまふ。ふと、僕の眼にお絹の顔が見えてくる。僕が声をかけやうとしてゐると彼女もまた群衆のなかに紛れ失せてゐる。僕は茫然とする。さうだ。僕はもつとはつきり思ひ出したい。あれは群衆なのだらうか。僕の念想なのだらうか。ふと声がする。

〈僕の頭の軟弱地帯〉僕は書物を読む。書物の言葉は群衆のやうに僕のなかに汎濫してゆく。僕は小説を考へる。小説の人間は群衆のやうに僕のなかに汎濫してゆく。僕は人間と出逢ふ。実存の人間が小説のやうにしか僕のものと連絡されない。無数の人間の思考・習癖・表情それらが群衆のやうにぞろぞろと歩き廻る。バラバラの地帯は崩れ墜ちさうだ。

〈僕の頭の湿地帯〉僕は寝そびれて鶏の声に脅迫されてゐる。魂の疵を掻きむしり、掻きむしり、僕は僕に呻吟してゆく。この仮想は僕なのだらうか。この罪ははたして僕なのだらうか。僕は空転する。僕の核心は青ざめる。めそめそとしたものが、割りきれないものが、皮膚と神経に滲みだす。空間は張り裂けさうになる。僕はたまらなくなる。どうしても僕はこの世には生存してゆけさうにない。逃げ出したいのだ。何処かへ、何処か山の奥に隠れて、ひとりで泣き暮したいのだ。ひとりで、死ぬる日まで、死ぬる日まで。

〈僕の頭の高原地帯〉僕は突然、生存の歓喜にうち顫へる。生きること、生きてゐること、小鳥が毎朝、泉で水を浴びて甦るやうに、僕のなかの単純なもの、素朴なもの、それだけが、ただ、僕を爽やかにしてくれる。

〈僕の頭の……〉

〈僕の頭の……〉

〈僕の頭の……〉

 僕には僕の歌声があるやうだ。だが、僕は伊作を探してゐるのだ。伊作も僕を探してゐるのだ。それから僕はお絹を探してゐるのだ。お絹も僕を探さうとする。僕は伊作を知つてゐる。僕はお絹を知つてゐる。しかし伊作もお絹も僕の幻想、僕の乱れがちのイメージ、僕の向側にあるもの、僕のこちら側にあるもの……。ふと声がしだした。伊作の声が僕にきこえた。


〈伊作の声〉


 世界は割れてゐた。僕は探してゐた。何かをいつも探してゐたのだ。廃墟の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻つた。人間はぞろぞろと歩き廻つて何かを探してゐたのだらうか。新しく截りとられた宇宙の傷口のやうに、廃墟はギラギラ光つてゐた。巨きな虚無の痙攣は停止したまま空間に残つてゐた。崩壊した物質の堆積の下や、割れたコンクリートの窪みには死の異臭が罩つてゐた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかつた。白い大きな雲がキラキラと光つて漾つた。朝は静けさゆゑに恐しくて悲しかつた。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめてゐた。夕方は迫つてくるもののために侘しく底冷えてゐた。夜は茫々として苦脳する夢魔の姿だつた。人肉を啖ひはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨してゐた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだらうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻つた。人間が歩き廻ることによつて、そこは少しづつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだらうか。僕も群衆のなかを歩き廻つてゐたのだ。復員して戻つたばかりの僕は惨劇の日をこの目で見たのではなかつた。だが、惨劇の跡の人々からきく悲話や、戦慄すべき現象はまだそこそこに残つてゐた。一瞬の閃光で激変する人間、宇宙の深底に潜む不可知なもの……僕に迫つて来るものははてしなく巨大なもののやうだつた。だが、僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐた。家は焼け失せてゐたが、父母と弟たちは廃墟の外にある小さな町に移住してゐた。復員して戻つたばかりの僕は、父母の許で、何か忽ち塞きとめられてゐる自分を見つけた。今は人間が烈しく喰ひちがふことによつて、すべてが塞きとめられてゐる時なのだらうか。だが、僕は昔から、殆どもの心ついたばかりの頃から、揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐたやうな記憶がする。僕は突抜けてゆきたくなるのだ。僕は廃墟の方をうろうろ歩く。僕の顔は何かわからぬものを嚇と内側に叩きつけてゐる顔になつてゐる。人間の眼はどぎつく空間を撲りつける眼になつてゐる。のぞみのない人間と人間の反射が、ますますその眼つきを荒つぽくさせてゐるのだらうか。めらめらの火や、噴きあげる血や、捩がれた腕や、死狂ふ唇や、糜爛の死体や、それらはあつた、それらはあつた、人々の眼のなかにまだ消え失せてはゐなかつた。鉄筋の残骸や崩れ墜ちた煉瓦や無数の破片や焼け残つて天を引裂かうとする樹木は僕のすぐ眼の前にあつた。世界は割れてゐた。割れてゐた、恐しく割れてゐた。だが、僕は探してゐたのだ。何かはつきりしないものを探してゐた。どこか遠くにあつて、かすかに僕を慰めてゐたやうなもの、何だかわからないとらへどころのないもの、消えてしまつて記憶の内側にしかないもの、しかし空間から再びふと浮び出しさうなもの、記憶の内側にさへないが、嘗てたしかにあつたとおもへるもの、僕はぼんやり考へてゐた。

 世界は割れてゐた。恐しく割れてゐた。だが、まだ僕の世界は割れてはゐなかつたのだ。まだ僕は一瞬の閃光を見たのではなかつた。僕はまだ一瞬の閃光に打たれたのではなかつた。だが、たうとう僕の世界にも一瞬の大混乱がやつて来た。そのときまで僕は何にも知らなかつた。その時から僕の過去は転覆してしまつた。その時から僕の記憶は曖昧になつた。その時から僕の思考は錯乱して行つた。知らないでもいいことを知つてしまつたのだ。僕は知らなかつた僕に驚き、僕は知つてしまつた僕に引裂かれる。僕は知つてしまつたのだ。僕は知つてしまつたのだ。僕の母が僕を生んだ母とは異つてゐたことを……。突然、知らされてしまつたのだ。突然?……だが、その時まで僕はやはりぼんやり探してゐたのかもしれなかつた。叔父の葬式のときだつた。壁の落ち柱の歪んだ家にみんなは集つてゐた。そのなかに僕は人懐こさうな婦人をみつけた。前に一度、僕が兵隊に行くとき駅までやつて来て黙つたまま見送つてくれた婦人だつた。僕は何となく惹きつけられてゐた。叔父の死骸が戸板に乗せられて焼場へ運ばれて行く時だつた。僕はその婦人とその婦人の夫と三人で人々から遅れがちに歩いてゐた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚だらう位に思つてゐた。突然、婦人の夫が僕に云つた。

「君ももう知つてゐるのだね、お母さんの異ふことを」

 不思議なこととは思つたが、僕は何気なく頷いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまつてゐたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮まらなかつた。それから間もなく僕の探求が始つた。僕はその人たちの家をはじめてこつそり訪ねて行つた。山の麓にその人たちの仮寓はあつた。それから僕は全部わかつた。あの婦人は僕の伯母、死んだ僕の母の姉だつたのだ。僕の母は僕が三つの時死んでゐる。僕の父は僕の母を死ぬる前に離婚してゐる。事情はこみ入つてゐたのだが、そのため僕には全部今迄隠されてゐた。僕は死んだ母の写真を見せてもらつた。僕には記憶はなかつたが……。僕の父もその母と一緒に僕と三人で撮つてゐる。僕には記憶がなかつたが……。僕は目かくしされて、ぐるぐるぐる廻されてゐたのだつた。長い間、あまりに長い間、僕ひとり、僕ひとり……。僕の目かくしはとれた。こんどは僕のまはりがぐるぐる廻つた。僕もぐるぐる廻りだした。

 僕のなかには大きな風穴が開いて何かがぐるぐると廻転して行つた。何かわけのわからぬものが僕のなかで僕を廻転させて行つた。僕は廃墟の上を歩きながら、これは僕ではないと思ふ。だが、廃墟の上を歩いてゐる僕は、これが僕だ、これが僕だと僕に押しつけてくる。僕はここではじめて廃墟の上でたつた今生れた人間のやうな気がしてくる。僕は吹き晒しだ。吹き晒しの裸身が僕だつたのか。わかるか、わかるかと僕に押しつけてくる。それで、僕はわかるやうな気がする。子供のとき僕は何かのはずみですとんと真暗な底へ突落されてゐる。何かのはずみで僕は全世界が僕の前から消え失せてゐる。ガタガタと僕の核心は青ざめて、僕は真赤な号泣をつづける。だが、誰も救つてはくれないのだ。僕はつらかつた。僕は悲しかつた、死よりも堪へがたい時間だつた。僕は真暗な底から自分で這ひ上らねばならない。僕は這ひ上つた。そして、もう堕ちたくはなかつた。だが、そこへ僕をまた突落さうとする何かのはずみはいつも僕のすぐ眼の前にチラついて見えた。僕はそわそわして落着がなかつた。いつも誰かの顔色をうかがつた。いつも誰かから突落されさうな気がした。突落されたくなかつた。堕ちたくなかつた。僕は人の顔を人の顔ばかりをよく眺めた。彼等は僕を受け容れ、拒み、僕を隔ててゐた。人間の顔面に張られてゐる一枚の精巧複雑透明な硝子……あれは僕には僕なりにわかつてゐたつもりなのだが。

 おお、一枚の精巧複雑透明な硝子よ。あれは僕と僕の父の間に、僕と僕の継母の間に、それから、すべての親戚と僕との間に、すべての世間と僕との間に、張られてゐた人間関係だつたのか。人間関係のすべての瞬間に潜んでゐる怪物、僕はそれが怕くなつたのだらうか。僕はそれが口惜しくなつたのだらうか。僕にはよくわからない。僕はもつともつと怕くなるのだ。すべての瞬間に破滅の装填されてゐる宇宙、すべての瞬間に戦慄が潜んでゐる宇宙、ジーンとしてそれに耳を澄ませてゐる人間の顔を僕は夢にみたやうな気がする。僕にとつて怕いのは、もう人間関係だけではない。僕を呑まうとするもの、僕を噛まうとするもの、僕にとつてあまりに巨大な不可知なものたち。不可知なものは、それは僕が歩いてゐる廃墟のなかにもある。僕はおもひだす、はじめてこの廃墟を見たとき、あの駅の広場を通り抜けて橋のところまで来て立ちどまつたとき、そこから殆ど廃墟の全景が展望されたが、ぺちやんこにされた廃墟の静けさのなかから、ふと向うから何かわけのわからぬものが叫びだすと、つづいてまた何かわけのわからないものが泣きわめきながら僕の頬へ押しよせて来た。あのわけのわからないものたちは僕を僕を僕のなかでぐるぐると廻転さす。

 僕は僕のなかでぐるぐる探し廻る。さうすると、いろんな時のいろんな人間の顔が見えて来る。僕にむかつて微笑みかけてくれる顔、僕をちよつと眺める顔、僕に無関心の顔、厚意ある顔、敵意を持つ顔、……だが、それらの顔はすべて僕のなかに日蔭や日向のある、とにかく調和ある静かな田園風景となつてゐる。僕はとにかく、いろんなものと、いろんな糸で結びつけられてゐる。僕はとにかく安定した世界にゐるのだ。

 ジーンと鋭い耳を刺すやうな響がする。僕のゐる世界は引裂かれてゆく。それらはない、それらはない! と僕は叫びつづける。それらはみんな飛散つてゆく。破片の速度だけが僕の眼の前にある。それらはない! それらはない! 僕は叫びつづける。……と、僕を地上に結びつけてゐた糸がプツリと切れる。こんどは僕が破片になつて飛散つてゆく。くらくらとする断崖、感動の底にある谷間、キラキラと燃える樹木、それらは飛散つてゆく僕に青い青い流れとして映る。僕はない! 僕はない! 僕は叫びつづける。……僕は夢をみてゐるのだらうか。

 僕は僕のなかをぐるぐるともつと強烈に探し廻る。突然、僕のなかに無限の青空が見えてくる。それはまるで僕の胸のやうにおもへる。僕は昔から眼を見はつて僕の前にある青空を眺めなかつたか。昔、僕の胸はあの青空を吸収してまだ幼かつた。今、僕の胸は固く非常に健やかになつてゐるやうだ。たしかに僕の胸は無限の青空のやうだ。たしかに僕の胸は無限に突進んで行けさうだ。僕をとりまく世界が割れてゐて、僕のゐる世界が悲惨で、僕を圧倒し僕を破滅に導かうとしても、僕は……。僕は生きて行きたい。僕は生きて行けさうだ。僕は……。さうだ、僕はなりたい、もつともつと違ふものに、もつともつと大きなものに……。巨大に巨大に宇宙は膨れ上る。巨大に巨大に……。僕はその巨大な宇宙に飛びついてやりたい。僕の眼のなかには願望が燃え狂ふ。僕の眼のなかに一切が燃え狂ふ。

 それから僕は恋をしだしたのだらうか。僕は廃墟の片方の入口から片一方の出口まで長い長い広い広いところを歩いて行く。空漠たる沙漠を隔てて、その両側に僕はゐる。僕の父母の仮りの宿と僕の伯母の仮りの家と……。伯母の家の方向へ僕が歩いてゆくとき、僕の足どりは軽くなる。僕の眼には何かちらと昔みたことのある美しい着物の模様や、何でもないのにふと僕を悦ばしてくれた小さな品物や、そんなものがふと浮んでくる。そんなものが浮んでくると僕は僕が懐しくなる。伯母とあふたびに、もつと懐しげなものが僕につけ加はつてゆく。伯母の云つてくれることなら、伯母の言葉ならみんな僕にとつて懐しいのだ。僕は伯母の顔の向側に母をみつけようとしてゐるのかしら。だが、死んだ母の向側には何があるのか。向側よ、向側よ、……ふと何かが僕のなかで鳴りひびきだす。僕は軽くなる。僕は柔かにふくれあがる。涙もろくなる。嘆きやすくなる。嘆き? 今まで知らなかつたとても美しい嘆きのやうなものが僕を抱き締める。それから何も彼もが美しく見えてくる。嘆き? 靄にふるへる廃墟まで美しく嘆く。あ、あれは死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きがひびきあふからだらうか。嘆き? 嘆き? 僕の人生でたつた一つ美しかつたのは嘆きなのだらうか? わからない、僕は若いのだ。僕の人生はまだ始つたばかりなのだ。僕はもつと探してみたい。嘆き? 人生でたつた一つ美しいのは嘆きなのだらうか。

 それから僕は彷徨つて行つた。僕はやつぱし何かを探してゐるのだ。僕が死んだ母のことを知つてしまつたことは僕の父に知られてしまつた。それから間もなく僕は東京へやられた。それから僕は東京を彷徨つて行つた。東京は僕を彷徨はせて行つた。(僕のなかできこえる僕の雑音……。ライターが毀れてしまつた。石鹸がない。靴の踵がとれた。時計が狂つた。書物が欲しい。ノートがくしやくしやだ。僕はくしやくしやだ。僕はバラバラだ。書物は僕を理解しない。僕も書物を理解できない。僕は気にかかる。何もかも気にかかる。くだらないものが一杯充満して散乱する僕の全存在、それが一つ一つ気にかかる。教室で誰かが誰かと話をしてゐる。人は僕のことを喋つてゐるのかしら。向側の舗道を人間が歩いてゐる。あれは僕なのかしら。音楽がきこえてくる。僕は音楽にされてしまつてゐる。下宿の窓の下を下駄の音が走る。走つてゐるのは僕だ。以前のことを思つては駄目だ、こちらは日毎に苦しくなつて行く……父の手紙。父の手紙は僕を揺るがす。伊作さん立派になつて下さい立派に、……伯母の声だ。その声も僕を揺るがす。みんなどうして生きて行つてゐるのかまるで僕には見当がつかない。みんな人間は木端微塵にされたガラスのやうだ。世界は割れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ。僕は理解できない。僕は結びつけない。僕は揺れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ、僕は理解したい。僕は結びつきたい。僕は生きて行きたい。揺れてゐるのは僕だけなのかしら。いつも僕のなかで何か爆発する音響がする。いつも何かが僕を追かけてくる。僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐる。僕はつき抜けて行きたい。どこかへ、どこかへ)それから僕は東京と広島の間を時々往復してゐるが、僕の混乱と僕の雑音は増えてゆくばかりなのだ。僕の中学時代からの親しい友人が僕に何にも言はないで、ぷつりと自殺した。僕の世界はまた割れて行つた。僕のなかにはまた風穴ができたやうだ。風のなかに揺らぐ破片、僕の雑音、雑音の僕、僕の人生ははじまつたばつかしなのだ。ああ、僕の雑音のかなたに一つの澄みきつた歌ごゑがききとりたいのだが……。


 伊作の声がぷつりと消えた。雑音のなかに一つの澄みきつたうたごゑ……それをききとりたいと云つて伊作の声が消えた。僕はふらふらと歩いてゐる。僕のまはりがふらふらと歩いてくる。群衆のざわめきのなかに、低い、低い、しかし、絶えまなくきこえてくる、悲しい、やはらかい、静かな、嘆くやうに美しい、小さな小さな囁き、僕もその囁きにきき入りたいのだが、……。やつぱし僕のまはりはざわざわ揺れてゐる。揺れてゐるなかから、ふと声がしだした。お絹の声が僕にきこえた。


〈お絹の声〉


 わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけてゐたのかしら。あの時わたしの夫は死んだ。わたしの家は光線で歪んだ。火は近くまで燃えてゐた。わたしの夫が死んだのを知つたのは三日目のことだつた。わたしの息子はわたしと一緒に壕に隠れた。わたしは何が終つたのやら何が始つたのやらわからなかつた。火は消えたらしかつた。二日目に息子が外の様子を見て戻つて来た。ふらふらの青い顔で蹲つた。何か嘔吐してゐた。あんまりひどいので口がきけなくなつてゐたのだ。翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。夫のゐた場所では誰も助かつてゐなかつた。あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかつた。水道は壊れてゐた。電燈はつかなかつた。雨が、風が吹きまくつた。わたしはパタンと倒れさうになる。

 足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。またパタンと倒れさうになる。足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。息子は父のネクタイを闇市に持つて行つて金にかへてもどる。わたしは逢ふ人ごとに泣ごとを云つておどおどしてゐた。だがわたしは泣いてはゐられなかつた。泣いてゐる暇はなかつた。おどおどしてはゐられなかつた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしはせつせつとミシンを踏んだ。ありとあらゆる生活の工夫をつづけた。わたしが着想することはわたしにさへ微笑されたが、それでもどうにか通用してゐた。中学生の息子はわたしを励まし、わたしの助手になつてくれた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしの夢のなかでさへさう叫びつづけた。

 突然、パタンとわたしは倒れた。わたしはそれからだんだん工夫がきかなくなつた。わたしはわたしに迷はされて行つた。青い三日月が焼跡の新しい街の上に閃いてゐる夕方だつた。わたしがミシン仕事の仕上りをデパートに届けに行く途中だつた。わたしは雑沓のなかでわたしの昔の愛人の後姿を見た。そんなはずはなかつた。愛人は昔もう死んでゐたから。だけどわたしの目に見えるその後姿はわたしの目を離れなかつた。わたしはこつそり後からついて歩いた。どこまでも、どこまでも、この世の果ての果てまでも見失ふまいとする熱望が突然わたしになにか囁きかけた。そんなはずはなかつた。わたしは昔それほど熱狂したおぼえはなかつた。わたしはわたしが怕くなりかかつた。突然、その後姿がわたしの方を振向いてゐた。突き刺すやうな眼なざしで、……ハツと思ふ瞬間、それはわたしの夫だつた。そんなはずはなかつた。夫はあのとき死んでしまつたのだから。突き刺すやうな眼なざしに、わたしはざくりと突き刺されてしまつてゐた。熱い熱いものが背筋を走ると足はワナワナ震へ戦いた。人ちがひだ、人ちがひだ、とパツと叫んでわたしは逃げだしたくなる。わたしはそれでも気をとりなほした。わたしを突き刺した眼なざしの男は、次の瞬間、人混みの青い闇に紛れ去つてゐた。後姿はまだチラついたが……。

 人ちがひだ、人ちがひだつた、わたしはわたしに安心させようとした。後姿はまだチラついたが……わたしはわたしの眼を信じようとした。わたしはハツキリ眼をあけてゐたかつた。水晶のやうに澄みわたつて見える、そんな視覚をとりもどしたかつた。澄みきつた水の底に泳ぐ魚の見える、そんな感覚をよびもどしたかつた。だけど、わたしはがつかりしたのか、ひどく視力がゆるんでしまつた。怕しい怕しいことに出喰はした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかつた。わたしはまはりの人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いた。後姿はまだチラついたが……。

 わたしはそれでも気をとりなほした。人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いて、何処へ行くのか迷つてはゐなかつた。いつものやうにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行つたが、ときどき何かがつかりしたものが、わたしのまはりをザラザラ流れる。品物を渡して金を受取らうとすると、わたしは突然泣けさうになつた。金を受取るといふ、この世間竝の、あたりまへの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のやうな気持にさせた。そんな気持になつてはいけない、今はよほどどうかしてゐる。わたしはわたしを支へようとした。今はよほどどうかしてゐる。しつかりしてゐないと、何だか空間がパチンと張裂けてしまふ。何気なく礼を云つてその金を受取ると、わたしは一つの危機を脱したやうな気がしたものだ。それからわたしは急いで歩いた。急がなければ、急がなければ、後から何かが追かけてくる。わたしは急いで歩いてゐるはずだつたが、ときどきぼんやり立どまりさうになつた。後姿はまだチラついた。

 家に戻つても落着けなかつた。わたしはよほどどうかしてゐる。わたしはよほどどうかしてゐる。今すぐ今すぐしつかりしないと大変なことになりさうだつた。わたしはわたしを支へようとした。わたしはわたしに凭れかかつた。ゆるくゆるくゆるんで行く睡い瞼のすぐまのあたりを凄い稲妻がさツと流れた。わたしはうとうと睡りかかるとハツとわたしは弾きかへされた。後姿がまたチラついた。青いわたしの脊髄の闇に……。

 わたしはわたしに迷はされてゐるらしい。わたしはわたしに脅えだしたらしい。何でもないのだ、何でもないのだ、わたしなんかありはしない。昔から昔からわたしはわたしをわたしだと思つたことなんかありはしない。お盆の上にこぼれてゐた水、あの水の方がわたしらしかつた。水、……水、……水、……わたしは水になりたいとおもつた。青い蓮の葉の上でコロコロ転んでゐる水銀の玉、蜘蛛の巣をつたつて走る一滴の水玉、そんな優しい小さなものに、そんな美しい小さなものに、わたしはなれないのかしら。わたしはわたしを宥めようとおもふと、静かな水が眼の前をながれた。静かな水は苔の上をながれる。小川の水が静かに流れる。あつちからもこつちからも川が流れる。白帆が見える、燕が飛んだ。川の水はうれしげに海にむかつて走つた。海はたつぷりふくらんでゐた。たのしかつた。うれしさうだつた、懐しかつた。鴎がヒラヒラ閃いてゐた。海はひろびろと夢をみてゐるやうだつた。夢がだんだん仄暗くなつたとき、突然、海の上を光線が走つた。海は真暗に割れて裂けた。わたしはわたしに弾きかへされた。わたしはわたしにいらだちだした。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。わたしのほかにわたしなんかありはしない。わたしはわたしに獅噛みつかうとした。わたしは縮んで固くなつてゐた。小さく小さく出来るだけ小さく、もうこれ以上小さくなれなかつた。もうこれ以上は固まれさうになかつた。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。小さな殻の固いかたまり、わたしはわたしを大丈夫だとおもつた。とおもつた瞬間また光線が来た。わたしは真二つに割られてゐたやうだ。それから後はいろいろのことが前後左右縦横に入乱れて襲つて来た。わたしは苦しかつた。わたしは悶えた。

 地球の裂け目が見えて来た。それは紅海と印度洋の水が結び衝突し渦巻いてゐる海底だつた。ギシギシと海底が割れてゆくのに、陸地の方では何にも知らない。世界はひつそり静まつてゐた。ヒマラヤ山のお花畑に青い花が月光を吸つてゐた。そんなに地球は静かだつたが、海底の渦はキリキリ舞つた。大変なことになる大変なことになつたとわたしは叫んだ。わたしの額のなかにギシギシと厭な音がきこえた。わたしは鋏だけでも持つて逃げようかとおもつた。わたしは予感で張裂けさうだ。それから地球は割れてしまつた。濛々と煙が立騰るばかりで、わたしのまはりはひつそりしてゐた。煙の隙間に見えて来た空間は鏡のやうに静かだつた。と何か遠くからザワザワと潮騒のやうなものが押し寄せてくる。騒ぎはだんだん近づいて来た。と目の前にわたしは無数の人間の渦を見た。忽ち渦の両側に絶壁がそそり立つた。すると青空は無限の彼方にあつた。「世なほしだ! 世なほしだ!」と人間の渦は苦しげに叫びあつて押合ひ犇めいてゐる。人間の渦は藻掻きあひながら、みんな天の方へ絶壁を這ひのぼらうとする。わたしは絶壁の硬い底の窪みの方にくつついてゐた。そこにをれば大丈夫だとおもつた。が、人間の渦の騒ぎはわたしの方へ拡つてしまつた。わたしは押されて押し潰されさうになつた。わたしはガクガク動いてゆくものに押されて歩いた。後から後からわたしを小衝いてくるもの、ギシギシギシギシ動いてゆくものに押されて歩いてゐるうち、わたしの硬かつた足のうらがふはふはと柔かくなつてゐた。わたしはふはふは歩いて行くうちに、ふと気がつくと沙漠のやうなところに来てゐた。いたるところに水溜りがあつた。水溜りは夕方の空の血のやうな雲を映して燃えてゐた。やつぱし地球は割れてしまつてゐるのがわかる。水溜りは焼け残つた樹木の歯車のやうな影を映して怒つてゐた。大きな大きな蝙蝠が悲しげに鳴叫んだ。わたしもだんだん悲しくなつた。わたしはだんだん透きとほつて来るやうな気がした。透きとほつてゆくやうな気がするのだけれど、足もとも眼の前も心細く薄暗くなつてゆく。どうも、わたしはもう還つてゆくところを失つた人間らしかつた。わたしは水溜りのほとりに蹲つてしまつた。両方の掌で頬をだきしめると、やがて頭をたれて、ひとり静かに泣き耽つた。ひつそりと、うつとりと、まるで一生涯の涙があふれ出るやうに泣いてゐたのだ。ふと気がつくと、あつちの水溜りでも、こちらの水溜りでも、いたるところの水溜りにひとりづつ誰かが蹲つてゐる。ひつそりと蹲つて泣いてゐる。では、あの人たちももう還つてゆくところを失つた人間なのかしら、ああ、では、やつぱし地球は裂けて割れてしまつたのだ。ふと気がつくと、わたしの水溜りのすぐ真下に階段が見えて来た。ずつと下に降りて行けるらしい階段をわたしはふらふら歩いて行つた。仄暗い廊下のやうなところに突然、目がくらむやうな隙間があつた。その隙間から薄荷の香りのやうな微風が吹いてわたしの頬にあたつた。見ると、向うには真青な空と赤い煉瓦の塀があつた。夾竹桃の花が咲いてゐる。あの塀に添つてわたしは昔わたしの愛人と歩いてゐたのだ。では、あの学校の建ものはまだ残つてゐたのかしら。……そんな筈はなかつた、あそこらもあの時ちやんと焼けてしまつたのだから。わたしのそばでギザギザと鋏のやうな声がした。その声でわたしはびつくりして、またふらふら歩いて行つた。また隙間が見えて来た。わたしの生れた家の庭さきの井戸が、山吹の花が明るい昼の光に揺れて。……そんな筈はなかつた、あそこはすつかり焼けてしまつたのだから。またギザギザの鋏の声でわたしはびつくりしてゐた。また隙間が見えて来る。仄暗い廊下のやうなところははてしなくつづいた。……それからわたしはまたぞろぞろ動くものに押されて歩いてゐた。わたしは腰を下ろしたかつた。腰を下ろして何か食べようとしてゐた。すると急に何かぱたんとわたしのなかで滑り墜ちるものがあつた。わたしは素直に立上つて、ぞろぞろ動くものに随いておとなしく歩いた。さうしてゐれば、わたしはどうにかわたしにもどつて来さうだつた。みんな人間はぞろぞろ動いてゆくやうだつた。その足音がわたしの耳には絶え間なしにきこえる。無数に交錯する足音についてわたしの耳はぼんやり歩き廻る。足音、足音、どうしてわたしは足音ばかりがそんなに懐しいのか。人がざわざわ歩き廻つて人が一ぱい群れ集つてゐる場所の無数の足音が、わたしそのもののやうにおもへてきた。わたしの眼には人間の姿は殆ど見えなくなつた。影のやうなものばかりが動いてゐるのだ。影のやうなものばかりのなかに、無数の足音が、……それだけがわたしをぞくぞくさせる。足音、足音、どうしてもわたしは足音が恋しくてならない。わたしはぞろぞろ動くものについて歩いた。さうしてゐると、さうしてゐるうちに、わたしはわたしにもどつて来さうだつた。ある日わたしはぼんやりわたしにもどつて来かかつた。わたしの息子がスケツチを見せてくれた。息子が描いた川の上流のスケツチだつた。わたしはわたしに息子がゐたのをふと気がついた。わたしはわたしに迷はされてはいけなかつたのだ。わたしにはまだ息子がゐたのだ。突然わたしは不思議におもへた。ほんとに息子は生きてゐるのかしら。あれはやつぱし影ではないのか。わたしはハツと逃げ出したくなつた。わたしは跣で歩き廻つた。ぞろぞろ動くものに押されて、ザワザワ揺れるものに揺られて、影のやうなものばかりが動いてゐるなかをひとりふらふら歩き廻つた。さうしてゐれば、さうしてゐる方がやつぱしわたしらしかつた。わたしの袖を息子がとらへた。「お母さん帰りませう、家へ」……家へ? まだ還るところがあつたのかしら。わたしはそれでも素直になつた。わたしはわたしに迷はされまい。わたしにはまだ息子がゐるのだ。それだのに何かパタンとわたしのなかに滑り墜ちるものがある。と、すぐわたしはまた歩きたくなるのだ。足音、足音、……無数にきこえる足音がわたしを誘つた。わたしはそのなかに何かやさしげな低い歌ごゑをきく。わたしはそのなかを歩き廻つてゐる。さうしてゐると足音がわたしのなかを歩き廻る。わたしはときどき立どまる。わたしにはまだ息子があるのだ。わたしにはまだわたしがあるのだ。それからまたふらふら歩きまはる。わたしにはもうわたしはない、歩いてゐる、歩いてゐる、歩いてゐるものばつかしだ。

 お絹の声がぷつりと消えた。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを通り越す群衆が僕には僕の影のやうにおもへる。僕は僕を探しまはつてゐるのか。僕は僕に迷はされてゐるのか。僕は伊作ではない。僕はお絹ではない。僕ではない。伊作もお絹も突離された人間なのか。伊作の人生はまだこれから始つたばかりなのだ。お絹にはまだ息子があるのだ。そして僕には、僕には既に何もないのだらうか。僕は僕のなかに何を探し何を迷はうとするのか。

 地球の割れ目か、夢の裂け目なのだらうか。夢の裂け目?……さうだ。僕はたしかにおもひ出せる。僕のなかに浮んで来て僕を引裂きさうな、あの不思議な割れ目を。僕は惨劇の後、何度かあの夢をみてゐる。崩れた庭に残つてゐる青い水を湛へた池の底なしの貌つきを。それは僕のなかにあるやうな気がする。僕がそのなかにあるやうな気もする。それから突然ギヨツとしてしまふ。骨身に沁みるばかりの冷やりとしたものに……。僕は還るところを失つてしまつた人間なのだらうか。……自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのために生きよ。僕は僕のなかに嘆きを生きるのか。

 隣人よ、隣人よ、死んでしまつた隣人たちよ。僕はあの時満潮の水に押流されてゆく人の叫声をきいた。僕は水に飛込んで一人は救ひあげることができた。青ざめた唇の脅えきつた少女は微かに僕に礼を云つて立去つた。押流されてゐる人々の叫びはまだまだ僕の耳にきこえた。僕はしかしもうあのとき水に飛込んで行くことができなかつた。……隣人よ、隣人よ。さうだ、君もまた僕にとつて数時間の隣人だつた。片手片足を光線で捩がれ、もがきもがき土の上に横はつてゐた男よ。僕が僕の指で君の唇に胡瓜の一片を差あたへたとき、君の唇のわななきは、あんな悲しいわななきがこの世にあるのか。……ある。たしかにある。……隣人よ、隣人よ、黒くふくれ上り、赤くひき裂かれた隣人たちよ、そのわななきよ。死悶えて行つた無数の隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、僕にはそれがまだはつきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはつきり見てゐたことだ。

 その一つの死は天にとどいて行つたのだらうか。わからない、わからない、それも僕にはわからないのだ。僕にはつきりわかるのは、僕がその一つの嘆きにつらぬかれてゐたことだけだ。そして僕は生き残つた。お前は僕の声をきくか。

 僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕はここにゐる。僕はこちら側にゐる。僕はここにゐない。僕は向側にゐる。僕は僕の嘆きを生きる。僕は突離された人間だ。僕は歩いてゐる。僕は還るところを失つた人間だ。僕のまはりを歩いてゐる人間……あれは僕 い。

 僕はお前と死別れたとき、これから既に僕の苦役が始ると知つてゐた。僕は家を畳んだ。広島へ戻つた。あの惨劇がやつて来た。飢餓がつづいた。東京へ出て来た。再び飢餓がつづいた。生存は拒まれつづけた。苦役ははてしなかつた。何のために何のための苦役なのか。わからない、僕にはわからない、僕にはわからないのだ。だが、僕のなかで一つの声がかう叫びまはる。

 僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。僕を引裂くすべてのものに、身の毛のよ立つものに、死の叫びに堪へよ。それからもつともつと堪へてゆけよ、フラフラの病ひに、飢ゑのうめきに、魔のごとく忍びよる霧に、涙をそそのかすすべての優しげな予感に、すべての還つて来ない幻たちに……。僕は堪へよ、堪へてゆくことばかりに堪へよ。最後まで堪へよ、身と自らを引裂く錯乱に、骨身を突刺す寂寥に、まさに死のごとき消滅感にも……。それからもつともつと堪へてゆけよ、一つの瞬間のなかに閃く永遠のイメージにも、雲のかなたの美しき嘆きにも……。

 お前の死は僕を震駭させた。病苦はあのとき家の棟をゆすぶつた。お前の堪へてゐたものの巨きさが僕の胸を押潰した。

 おんみたちの死は僕を戦慄させた。死狂ふ声と声とはふるさとの夜の河原に木霊しあつた。

真夏ノ夜ノ

河原ノミヅガ

血ニ染メラレテ ミチアフレ

声ノカギリヲ

チカラノアリツタケヲ

オ母サン オカアサン

断末魔ノカミツク声

ソノ声ガ

コチラノ堤ヲノボラウトシテ

ムコウノ岸ニ ニゲウセテユキ

 それらの声はどこへ逃げうせて行つただらうか。おんみたちの背負されてゐたギリギリの苦悩は消えうせたのだらうか。僕はふらふら歩き廻つてゐる。僕のまはりを歩き廻つてゐる無数の群衆は……僕ではない。僕ではない。僕ではない。僕ではなかつたそれらの声はほんたうに消え失せて行つたのか。それらの声は戻つてくる。僕に戻つてくる。それらの声が担つてゐたものの壮厳さが僕の胸を押潰す。戻つてくる、戻つてくる、いろんな声が僕の耳に戻つてくる。

アア オ母サン オ父サン 早ク夜ガアケナイノカシラ

窪地で死悶えてゐた女学生の祈りが僕に戻つてくる。

兵隊サン 兵隊サン 助ケテ

 鳥居の下で反転してゐる火傷娘の真赤な泣声が僕に戻つてくる。

アア 誰カ僕ヲ助ケテ下サイ 看護婦サン 先生

 真黒な口をひらいて、きれぎれに弱々しく訴へてゐる青年の声が僕に戻つてくる、戻つてくる、戻つてくる、さまざまの嘆きの声のなかから、

ああ つらい つらい

と、お前の最後の声が僕のなかできこえてくる。さうだ、僕は今漸くわかりかけて来た。僕がいつ頃から眠れなくなつたのか、何年間僕が眠らないでゐるのか。……あの頃から僕は人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。面白さうに笑ひあつてゐる人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た。いたるところに、あらゆる瞬間にそれらはあつた。人間一人一人の核心のなかに灼きつけられてゐた。人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しさうになつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはあつた。それらはきびしく僕に立ちむかつて来た。僕はそのために圧潰されさうになつてゐるのだ。僕は僕に訊ねる。救ひはないのか、救ひはないのか。だが、僕にはわからないのだ。僕は僕の眼を捩ぎとりたい。僕は僕の耳を截り捨てたい。だが、それらはあつた、それらはあつた、僕は錯乱してゐるのだらうか。僕のまはりをぞろぞろ歩き廻つてゐる人間……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それはあつた。それらはあつた。僕の頭のなかを歩き廻つてゐる群衆……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それらはあつた。それらはあつた。

 それらはあつた。それらはあつた。と、ふと僕のなかで、お前の声がきこえてくる。昔から昔から、それらはあつた、と……。さうだ、僕はもつともつとはつきり憶ひ出せて来た。お前は僕のなかに、それらを視つめてゐたのか。僕もお前のなかに、それらを視てゐたのではなかつたか。救ひはないのか、救ひはないのか、と僕たちは昔から叫びあつてゐたのだらうか。それだけが、僕たちの生きてゐた記憶ではなかつたのか。だが救ひは。僕にはやはりわからないのだ。お前は救はれたのだらうか。僕にはわからない。僕にわかるのは救ひを求める嘆きのなかに僕たちがゐたといふことだけだ。そして僕はゐる、今もゐる、その嘆きのなかにつらぬかれて生き残つてゐる。そしてお前はゐる、今もゐる、恐らくはその嘆きのかなたに……。

 救ひはない、救ひはない、と、ふと僕のなかで誰かの声がする。僕はおどろく。その声は君か。友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。忽ち僕の眼のまへに若い日の君のイメージは甦る。交響楽を、交響楽を、人類の大シンフオニーを夢みてゐた友よ。人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあひ、歓声が歓声を煽りかへす日を夢みてゐた友よ。あの人類の大劇場の昂まりゆく波のイメージは……。だが(救ひはない、救ひはない)と友は僕に呼びつづける。(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救ひはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕は僕の眼を磨ぐばかりだ。)友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。堪へて、堪へて、堪へ抜いてゐる友よ。救ひはないのか、救ひはないのか。……僕はふらふら歩き廻る。やつぱし歩き廻つてゐるのか。僕のまはりを歩きまはつてゐる群衆。僕の頭のなかの群衆。やつぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いてゐるのか。雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。ゆるいゆるい声が僕に話しかける。


〈ゆるいゆるい声〉


 ……僕はあのときパツと剥ぎとられたと思つた。それからのこのこと外へ出て行つたが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れてゐた。いろんな部分から火や血や人間の屍が噴き出てゐて、僕をびつくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しさうな気がした。僕は医やされさうな気がした。僕は僕のなかに開かれたものを持つて生きて行けさうだつた。それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行つた。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかつた。まるで僕は地獄から脱走した男だつたのだらうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかつた。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵つた。まるで何かわるい病気を背負つてゐるものを見るやうな眼つきで。このことにばかり興味をもつて見られる男でしかないかのやうに。それから僕の窮乏は底をついて行つた。他国の掟はきびしすぎた。不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだらうか……。だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなつたのか。僕はそれが無性に気にかかる。毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまはりはだらだらと過ぎて行くばかりだつた。僕は僕のなかから突然爽やかなるものが跳ねだしさうになる。だが、だらだらと日はすぎてゆく……。僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負つてゐるものでだんだん屈められてゆく。


〈またもう一つのゆるい声が〉


 ……僕はあれを悪夢にたとへてゐたが、時間がたつに随つて、僕が実際みる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののやうになつてゐた。たとへば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩れてゆくのだ。空には青い青い茫とした光線がある。この妖しげな夢の風景には恐怖などと云ふより、もつともつとどうにもならぬ郷愁が喰らひついてしまつてゐるやうなのだ。それから、あの日あの河原にずらりと竝んでゐた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟のなかにぎつしり詰め込められてゐる不思議と可憐な粘土細工か何かのやうに夢のなかでは現れてくる。その無気味な粘土細工は蝋人形のやうに色彩まである。そして、時々、無感動に蠢めいてゐる。あれはもう脅迫などではなささうだ。もつともつとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匍ひ寄つてくる憂愁に似てゐる。それから、あの焼け失せてしまつた家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐つてゐた畳のところとか、僕の腰かけてゐた窓側とかいふものはちよつとも現れて来ず、雨に濡れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちさうになつてゐた柱とか、もつともつとどうにもならぬ侘しげなものばかりが、ふはふはと地霊のやうにしのび寄つてくる。僕と夢とあの惨劇を結びつけてゐるものが、こんなに茫々として気が抜けたものになつてゐるのは、どうしたことなのだらうか。


〈更にもう一つの声がゆるやかに〉


 ……わたしはたつた一人生き残つてアフリカの海岸にたどりついた。わたしひとりが人類の最後の生き残りかとおもふと、わたしの躯はぶるぶると震へ、わたしの吐く息の一つ一つがわたしに別れを告げてゐるのがわかる。わたしの視てゐる刹那刹那がすべてのものの終末かとおもふと、わたしは気が遠くなつてゆく。なにものももうわたしで終り、なにものももうわたしから始らないのかとおもふと、わたしのなかにすべての慟哭がむらがつてくる。わたしの視てゐる碧い碧い波……あんなに碧い波も、ああ、昔、昔、……人間が視ては何かを感じ何かを考へ何かを描いてゐたのだらうに、……その碧い碧い波ももうわたしの……わたし以前のしのびなきにすぎない。死・愛・孤独・夢……さうした抽象観念ももはやわたしにとつて何にならう。わたしの吐く息の一つ一つにすべての記憶はこぼれ墜ち、記号はもはや貯えおくべき場を喪つてゆく。ああ、生命いのち……生命……これが生命あるものの最後の足掻なのだらうか。ああ、生命、生命、……人類の最後の一人が息をひきとるときがこんなに速くこんなに速くもやつてきたのかとおもふと、わたしのなかにすべての悔恨がふきあがつてくる。なぜに人間は……なぜに人間は……なぜ人間は……ああ、しかし、もうなにもかもとりかへしのつかなくなつてしまつたことなのだ。わたしひとりではもはやどうにもならない。わたしひとりではもはやどうしやうもない。わたしはわたしの吐く息の一つ一つにはつきりとわたしを刻みつけ、まだわたしの生きてゐることをたしかめてゐるのだらうか。わたしはわたしの吐く息の一つ一つに吸ひ込まれ、わたしの無くなつてゆくことをはつきりとあきらめてゐるのだらうか。ああ、しかし、もうどちらにしても同じことのやうだ。


〈更にもう一つの声が〉


 ……わたしはあのとき殺されかかつたのだが、ふと奇蹟的に助かつて、ふとリズムを発見したやうな気がした。リズムはわたしのなかから湧きだすと、わたしの外にあるものがすべてリズムに化してゆくので、わたしは一秒ごとに熱狂しながら、一秒ごとに冷却してゆくやうな装置になつた。わたしは地上に落ちてゐたヴアイオリンを拾ひあげると、それを弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しながら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸びてゐくのかわからなくなる。わたしは詩のことも考へてみる。わたしにとつて詩は、(詩はわななく指で みだれ みだれ 細い文字の こころのうづき)だが、わたしにとつて詩は、(詩は情緒のなかへ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよぢのぼらうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてしなくはてしなくさまよつてゐるやうだ。わたしが発見したとおもつたのは衝動だつたのかしら、わたしをさまよはせてゐるのは痙攣なのだらうか。まだわたしは原始時代の無数の痕跡のなかで迷ひ歩いてゐるやうだつた。


〈更にもう一つの声が〉


 ……わたしはあのとき死んでしまつたが、ふとどうしたはずみか、また地上によびもどされてゐるやうだ。あれから長い長い年月が流れたかとおもふと、青い青い風の外套、白い白い雨の靴……。帽子? 帽子はわたしには似合はなかつた。生き残つた人間はまたぞろぞろと歩いてゐた。長い長い年月が流れたかとおもつたのに。街の鈴懸は夏らしく輝き、人の装ひはいぢらしくなつてゐた。ある日、突然、わたしの歩いてゐる街角でパチンと音と光が炸裂した。雷鳴なのだ。忽ち雨と風がアスフアルトの上をザザザと走りまはつた。走り狂ふ白い烈しい雨脚を美しいなとおもつてわたしはみとれた。みとれてゐるうちに泣きたくなるほど烈しいものを感じだした。あのなかにこそ、あのなかにこそ、とわたしはあのなかに飛込んでしまひたかつた。だが、わたしは雨やどりのため、時計店のなかに這入つて行つた。ガラスの筒のなかに奇妙な置時計があつた。時計の上にくつついてゐる小さな鳥の玩具が一秒毎に向を変へて動いてゐる。わたしはその鳥をぼんやり眺めてゐると、ふと、望みにやぶれた青年のことがおもひうかんだ。人の世の望みに破れて、かうして、くるくると動く小鳥の玩具をひとりぼんやり眺めてゐる青年のことが……。だが、わたしはどうしてそんなことを考へてゐるのか。わたしも望みに破れた人間らしい。わたしには息子はない、妻もない。わたしは白髪の老教師なのだが。もしわたしに息子があるとすれば、それは沙漠に生き残つてゐる一匹の蜥蜴らしい。わたしはその息子のために、あの置時計を購つてやりたかつた。息子がそいつをパタンと地上に叩きつける姿が見たかつたのだ。

 ……………………

 声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。どの声もどの声も僕のまはりを歩きまはる。どの声もどの声も救ひはないのか、救ひはないのかと繰返してゐる。その声は低くゆるく群盲のやうに僕を押してくる。押してくる。押してくる。さうだ、僕は何年間押されとほしてゐるのか。僕は僕をもつとはつきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のなかには何があるのか。救ひか? 救ひはないのか救ひはないのかと僕は僕に回転してゐるのか。回転して押されてゐるのか。それが僕の救ひか。違ふ。絶対に違ふ。僕は僕にきつぱりと今云ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。

 ……救ひはない。

 僕は突離された人間だ。還るところを失つた人間だ。突離された人間に救ひはない。還るところを失つた人間に救ひはない。

 では、僕はこれで全部終つたのか。僕のなかにはもう何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。僕は存在しなくてもいいのか。違ふ。それも違ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。

 ……僕にはある。

 僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。

 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴りひびく。鳴りひびく。嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは無数のやうに。結びつく、一つの嘆きは無数のやうに。一つのやうに、無数のやうに。鳴りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴りひびき、結びつき、一つのやうに、無数のやうに……。

 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。……戻つて来た、戻つて来た、僕の歌ごゑが僕にまた戻つて来た。これは僕の錯乱だらうか。これは僕の無限回転だらうか。だが、戻つて来るやうだ、戻つてくるやうだ。何かが今しきりに戻つて来るやうだ。僕のなかに僕のすべてが……。僕はだんだん爽やかに人心地がついてくるやうだ。僕が生活してゐる場がどうやらわかつてくるやうだ。僕は群衆のなかをさまよひ歩いてばかりゐるのではないやうだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から僕は踏みはづした、ふらふらの宇宙にばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から、既に久しい以前から、鎮魂歌を書かうと思つてゐるやうなのだ。鎮魂歌を、鎮魂歌を、僕のなかに戻つてくる鎮魂歌を……。

 僕は街角の煙草屋で煙草を買ふ。僕は突離された人間だ。だが殆ど毎朝のやうにここで煙草を買ふ。僕は煙草をポケツトに入れてロータリを渡る。舗道を歩いて行く。舗道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものやうに靴磨屋がゐる。舗道の細い空地には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いてゐる。いつものやうに何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕が、通行人が、商店が、いつものやうに何もかも存在する。僕は還るところを失つた人間。だが僕の嘆きは透明になつてゐる。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映つてくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ飜つて行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ……、流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまはりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまはるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提げた男、店頭に置かれてゐる鉢植の酸漿、……あらゆるものが無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、ひそかに、ひそかに、もつとも美しい、もつとも優しい囁きのやうに。僕はいつも行く喫茶店に入り椅子に腰を下ろす。いつもゐる少女は、いつものやうに僕が黙つてゐても珈琲を運んでくる。僕は剥ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆつくり煙草を吸ひ珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶に生けられてゐる白百合の花。僕のまはりの世界は剥ぎとられてはゐない。僕のまはりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅のレコードの音、僕が腰を下ろしてゐる椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられてゐない懐しい世界が音と形に充満してゐる。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移つてゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられてゐない世界は生活意欲に充満してゐる。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、むすびつき、流れてゆく、憧れのやうにもつとも激しい憧れのやうに、祈りのやうに、もつとも切なる祈りのやうに。

 それから、交叉点にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものやうに濠端を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想してゐる。静かな、かなしい物語は靴音のやうに僕を散歩させてゆく。それから僕はいつものやうに雑沓の交叉点に出てゐる。いつものやうに無数の人間がそはそは動き廻つてゐる。いつものやうにそこには電車を待つ群衆が溢れてゐる。彼等は帰つて行くのだ。みんなそれぞれ帰つてゆくらしいのだ。一つの物語を持つて。一つ一つ何か懐しいものを持つて。僕は還るところを失つた人間、剥ぎとられた世界の人間。だが僕は彼等のために祈ることだつてできる。僕は祈る。(彼等の死が成長であることを。その愛が持続であることを。彼等が孤独ならぬことを。情欲が眩惑でなく、狂気であまり烈しからぬことを。バランスと夢に恵まれることを。神に見捨てられざることを。彼等の役人が穏かなることを。花に涙ぐむことを。彼等がよく笑ひあふ日を。戦争の絶滅を。)彼等はみんな僕の眼の前を通り過ぎる。彼等はみんな僕のなかを横切つてゆく。四つ角の破れた立看板の紙が風にくるくる舞つてゐる。それも横切つてゆく。僕のなかを。透明のなかを。無限の速度で、憧れのやうに、祈りのやうに、静かに、素直に、無限のかなたで、ひびきあふため、結びつくため……。

 それから夜。僕のなかでなりひびく夜の歌。

 生の深みに、……僕は死の重みを背負ひながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の壮厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となつて僕の祈願にゐる。父よ、あなたはゐる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはゐる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはゐる、葡萄棚の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかつた束の間に嘗ての姿をとりもどすかのやうに、みんな初々しく。

 友よ、友よ、君たちはゐる、にこやかに新しい書物を抱へながら、涼しい風の電車の吊革にぶらさがりながら、たのしさうに、そんなに爽やかな姿で。

 隣人よ、隣人よ、君たちはゐる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿で、そんなに悲しく。

 そして、妻よ、お前はゐる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かなところまで、最も切なる祈りのやうに。

 死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは……ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。

 僕は堪へよ、静けさに堪へよ。幻に堪へよ。生の深みに堪えよ。堪へて堪へて堪へてゆくことに堪へよ。一つの嘆きに堪へよ。無数の嘆きに堪へよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失つた僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。

 明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもつてそこを通りすぎるだらう。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版

   1983(昭和58)年81日初版第一刷発行

初出:「群像」

   1949(昭和24)年8月号

※連作「原爆以後」の7作目。

※文中、〈〉で囲まれた語句は、見出しとして扱われているものは2字下げとし、その他のものは行頭の括弧の扱いに従って字下げなしとしました。

※文中〈ソフアの上での思考と回想〉の部分は、「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社 1973(昭和48)年730日発行、「夏の花・鎮魂歌」講談社文庫、講談社 1973(昭和48)年515日第1刷発行では、2字下げ、前後1行あき扱いになっていますが、本ファイルでは底本通り字下げ処理はしませんでした。

入力:ジェラスガイ

校正:大野晋

2002年920日作成

2003年521日修正

青空文庫作成ファイル:

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