曲亭馬琴
邦枝完二



        一


 きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青おもとの鉢の土にまで吸い込まれていた。

 戯作者げさくしゃ山東庵京伝さんとうあんきょうでんは、旧臘くれうちから筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のおきくと、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろを巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩まされ続けては、流石さすがに夜を日に換えて筆を執る根気も尽き果てたのであろう。「松の内ア仕様がねえ」と、お菊にも因果を含めるより外に、何んとする術もなかった。

 が、松がとられたきょうとなっては、もはや来るべき友達も来尽してしまった肩脱けから、やがて版元に重ねての催促を受けぬうち、一気呵成に脱稿してしまおうと、七草がゆを祝うとそのまゝ、壁に「菊軒」の額を懸けた四畳半の書斎に納まって、今しもすずりに水を移したところだった。

「ぬしさん」

 障子の外から、まださと言葉をそのまゝの、お菊の声が聞えた。

「ほい」

 細目に開けた障子の隙間から、顔だけ出したお菊の声は、矢鱈やたらに低かった。

「お人が来いしたよ」

「え」

 京伝は、うんざりしたように硯の側へ墨を置いた。

「誰だい。この雪道に御苦労様な。──」

「伺うのは初めてだといいしたが、二十四五の、みすぼらしいお人でありんす」

「どッから来たといった」

「深川とかいいなんした」

「なに、深川。そいつア呆れた。──仕方がねえ。そんな遠方から来たんじゃ、会わねえ訳にもゆくめえ。直ぐに行くから、客間へ通しときな」

「会いなんすか」

「面倒臭えが、いやだともいえめえわな」

 それでも京伝は、一行も書き始めないうちでよかった、というような気がしながら、お菊が去ると間もなく、袢纏はんてんを羽織に換えて、茶の間兼用になっている客間へ顔を出した。

 客間の敷居際には、お菊がいった通り、無精髯を伸した、二十四五の如何にも風采の上がらない骨張った男が、ひだ切れのしたはかまを胸高に履いて、つつましやかに控えていた。

「お前さんかね。わたしに用があるといいなさるなア」

 京伝の言葉は、如何にもぶっきら棒だった。

「はい、左様でございます。わたくしは、深川仲町裏に住んで居りまする、馬琴ばきんと申します若輩でございますが、少々先生にお願いの筋がございまして、無躾ぶしつけながら、斯様かように早朝からお邪魔に伺いました」

「どんな話か知らないが、そこじゃ遠くていけねえ。遠慮はいらないから、もっとこっちへ這入はいンなさるがいい」

 相手が、風采に似気なく慇懃いんぎんなのを見ると、京伝もどうやら好意が湧いて来たのであろう。心もち火桶を相手の方へ押しやって、もっと近くへ寄るように勧めた。

「ではお言葉に甘えまして、お座敷へ入れさせて頂きます」

 馬琴と名乗る若者は、ここで一膝敷居の内へ這入ると、またあらためて頭を下げた。

「その頼みの筋というなア、一体どんなことだの」

「外でもございませんが、この馬琴を、先生の御門下に、お加え下さる訳にはまいりますまいか」

「やっぱりそんなことだったのか」

 何か期待していた京伝は、これを聞くと、吐き出すように失望の言葉を浴びせた。

「はい」

「はいじゃアねえよ。改まって、願いの筋があるといいなさるから、また何か、読本よみほんの種にでもなるような珍らしい相談でもすることかと思ったら、何んのこたアねえ、すっかり当が外れちゃった──そりゃアまア、弟子にしてくれというんなら、しねえこともないが、第一お前さん、そんな野暮な恰好をして、これまでに、黄表紙か洒落本の一冊でも、読んだことがおあんなさるのかい」

「ございます」

 馬琴は、飽くまで、石のように真面目だった。

「どんな物を読みなすった」

「まず先生のお作なら、安永七年にお書卸しの黄表紙お花半七を始め、翌年御開板の遊人三幅対、夏祭其翌年、小野篁伝、天明に移りましては、久知満免登里くちまめどり、七笑顔当世姿、御存商売物、客人女郎不案配即席料理、悪七変目景清、江戸春一夜千両、吉原楊枝、夜半の茶漬。なおまた昨年中の御出版は、一百三升芋地獄から、読本の通俗大聖伝まで、何ひとつ落した物のないまでに、拝読いたしてまいりました」

「うむ、そうかい」

 聞いているうちに、いつか京伝の膝は、火桶を脇へ突きのけて、座布団の上から滑り落ちていた。

「よく読んだの」

「はいおかげさまで。……」

「しかし、現在お前さんは、何をして暮しているんだの」

「只今は、これぞと申すこともいたしては居りませぬが、曾てはお旗本の屋敷に奉公いたしましたり山本宗英やまもとそうえい先生の許に御厄介になって、医術を学んだこともございます」

「ほうお医者さんの崩れかい。それじゃその道で、おまんまは食べられるという訳合わけあいか」

「さア、そうまいれば、不足はないのでございますが、宗仙そうせんという名前は貰いましたものゝ、まだまだ生きた人間を診察いたしますことなどは、怖くて、容易に手出しは出来ませぬ」

「あッはッはッ」と、京伝は初めて屈托なさそうに笑った。「こいつアいい。医者の名前まで貰いながら、生きた人間がられねえとは、変った人だ。──だが、何んだぜ。生きた人間を診察出来ねえようじゃ、到底戯作の筆はれアしねえぜ」

「そりゃまたなぜでございます」

「積っても見るがいゝ。この世間の、ありとある幸不幸を、背負しょって生れて来た人間を、筆一本で自由自在に、生かしたり殺したりしようというのが、戯作者の仕事じゃねえか。それだのにお前さん、生きた人間は怖いなんぞと、胆ッ玉の小さなことをいってたんじゃ、これア見世の出しようがねえやな」

「ど、どういたしまして」馬琴はあわてて遮った。「そんなんじゃございません。生きた人間と申しましても、患者、つまり病人を診るのがいやだと申しましたんで。……なアに、筆でやりますことならば、二日や三日寝ずに通しましても、決して辛いとは思やアしません。どうかこの上は、人間一人を助けると思し召して、先生の御門下にお加え下さいますよう、お願い申上げます」

「ふゝゝ」京伝は安親やすちかの蘭彫のある煙管きせるを無雑作に掴んで、火鉢の枠をはたいた。「人間一人といいなさるが、読本書きになったからッて、何も救われるたア限るまい。それどころじゃねえ。戯作なんてもなア、ほかに生計たつきの道のある者が、楽しみ半分にやるなアいいが、こいつで暮しを立てようッたって、そううまくは問屋で卸しちゃくれねえわな」

「お言葉じゃございますが、この馬琴は、戯作を、楽しみ半分ということではなしに、背水の陣をいて、やって見たいと思って居りますんで。……」

「折角だが駄目だ」

「駄目だと仰しゃいますと」

「人間、食わずにゃいられねえからの」

「ところが先生、わたくしは、食わずにいられるのでございます」

「何んだって」

「もとより生身を抱えて居ります体、まるきり食べずにいる訳にはまいりませぬが、一日に米一碗に大根一切さえありますれば、そのほかには水だけで結構でございます。──どのような下手な作者になりましても、米一碗ずつの稼ぎは、出来ないことはありますまい」

 馬琴の、底光のする眼を見詰めていた京伝は、その木像のような面にきざまれている決意の色を、感じないわけには行かなかった。

「本当にやる気かの」

「三日三晩、一睡もしずに考え抜いた揚句、お願いに参上いたしましたやつがれ、毛頭嘘偽りは申上げませぬ」

「よかろう。それ程までの覚悟があるなら、やって見なさるがいゝ。しかし断っておくが、わたしゃついぞこれまでにも、弟子と名の付く者は、只の一人も取ったことはないのだから、新らたにお前さんを、弟子にする訳にゃア行かねえよ」

「じゃアやっぱり、御門下には加えて頂けませんので。……」

「元来絵師と違って、作者の方にゃ、師匠も弟子もある訳のもんじゃねえのだ。己が頭で苦心をして己が腕で書いてゆくうちに、おのずと発明するのが、文章の道だろう。だからお前さんが、ひとかどの作者になりたいと思ったら、何も人を頼るこたアねえから、おのが力で苦心を刻んでゆくことだ。そいつが世間に容れられるようなら、お前さんに腕があるという訳だし、こんなもなア読めねえと、悪評判を立てられるようなら、腕のたりねえ証拠になる。──どっちにしても、師匠にすがるとか、師匠の真似で売出そうとか考えたら、それア飛んだ履き違いだぜ。──いくたりの知己ある世かは知らねども、死んで動かす棺桶はなし。つまり戯作者の立場はこれだ。判ったかの」

「はい」

 馬琴は力強くうなずいて、嬉しそうに京伝の顔を見上げた。

「そのかわり、弟子にはしねえその換り、お前さんが何か書き物をしたら、見てくれろというんなら、必ず見てもあげるし、遠慮のない愚見も述べて進ぜる。が、これはどこまでも師弟の立場からではなくて、友達としてのつきあいだ。それでよかったら、気の向いた時は、いつでも遊びに来なさるがいゝ」

「何んとも恐れ入りました。では今後は、御迷惑でも、屡々しばしば御厄介になることゝ存じます。──そのお言葉で、馬琴、世の中が急に明るくなったような気がいたします」

「昔ッから、盲目の蟋蟀こおろぎという話がある。あんまり調子付いて水瓶みずがめの中へ落ちねえように気をつけねえよ」

「うふふ。──その御教訓は、いつまでも忘れることじゃございません」

 馬琴は、それでも初めて、固い顔に微笑ほほえみを見せた。

 漸く風が出たのであろう。軒にのぞいた紅梅の空高く、たこうなりがふえのようにゆたかに聞えていた。


        二


「兄さん」

 お菊が馬琴を送り出して、まだ戻って来ないうちから、そこへ這入って来たのは、弟の京山だった。

「おゝ、お前どこにいたんだ」

 京伝は、自分より七つ下の、やりて婆のようにひねくれた京山を、温かい眼で見上げた。

「あっしゃア縁側にいやしたのさ」

「じゃア今の、馬琴という男を見ただろう」

「見たどころじゃござんせん。あいつのせりふも実アみんな聞きやしたよ」

「ほう、そうか。しかしおれもこれまで、弟子にしてくれといって来た男にゃ、勘定の出来ねえくらい会ったが、今の馬琴のような一徹な男にゃ、まだ会ったことがなかった。書いた物を見た訳じゃねえから、どうともはっきりゃアいえねえが、ありゃアおめえ、うまく壺にはまったら、いゝ作者になるだろうぜ」

「ふん、馬鹿らしい」

 京山はてんから、鼻の先で消し飛した。

「何が馬鹿らしいんだ」

「だってそうじゃげえせんか。あんないわしの干物のような奴が、どう足掻あがいたって、洒落本はおろか、初午の茶番狂言ひとつ、書ける訳はありますまい。──あっしにゃ、あんな男につまらね愛想を云われて、喜んでる兄さんの気組が、いくら考えても判らねえから、そいつを聞かせて貰いにめえりやしたのさ」

慶三郎けいざぶろう

 京伝はたしなめるように、弟を見守った。

「ふん」

 上戸の京山は、大方縁側でゆうべの残りを、二三本空けていたのであろう。酔えば必ずする癖の上唇をしきりにめずりながら、京伝の方へ顎を突出した。

「おめえまた、正月早々、いつもの癖が始まったな」

「癖はござんすまい。あんな干物の草稿を見てやろうなんて、つまらねえ料簡が、どこを押しゃア兄さんのはらから出るんだか、あっしゃアそいつが訊きてえだけの話さ」

「人のことを、矢鱈にくさしたがる、その癖の止まねえうちは、おめえにゃいつんなっても、ろくな物ア書けねえだろう。──なる程、あの馬琴という男ア、干物のような風采にゃ違えねえ。おいらも初手に一目見た時にゃ、つまらねえ奴が舞い込んで来たもんだと、内心腹が立ったくれえだった。だが、一言喋るのを聞いてからは、なかなかの偉物だということが、直ぐにおれの胸へ、ぴたりとやって来た。そういっちゃア可哀想だが、おめなんざ、足許へもおッ付く相手じゃねえ。この二三年面倒を見てやったら、きっと、あッと驚くような大物を、書き始めるに相違なかろう。その時になって、眼が利かなかったと、いくら悔んでも、もう間に合わねえぜ」

「冗、冗談じゃアねえや。あんな唐変木に、黄表紙が一冊でも書けたら、あっしゃア無え首を二つやりやす。──鹿爪しかつめらしく袴なんぞ履きゃアがって、なんて恰好だい。そいつもまだいいが、兄さんが、何か読んだかと訊いた時の、あの高慢ちきの返事と来たら、あっしゃア向うで聞いてて、へどが出そうになりやしたぜ。まず先生のお作ならから始めやがって、安永七年のお書卸しの黄表紙お花半七、翌年御出版の遊人三幅対」

「止しねえ」

「だって、この通りじゃげえせんか。天下に手前程の学者はなしと云わぬばかりの、小面の憎い納り様が、兄さんの腹の虫にゃ、まるッきり触らなかったとなると、こいつア平賀源内のえれきてるじゃアねえが、奇妙不思議というより外にゃ、どう考えても、考えられねえ代物でげすぜ」

「もういゝから、あっちへ行きねえ」

 京伝は、危く振り上げようとした煙管を、ぐっと握りしめたまま、にらみ付けるように京山を見詰めた。

「聞かねえうちア、滅多にゃこゝア動きませんよ。──あんな干物野郎が、あっしよりもずんと上の作者だといわれたんじゃ、猶更立つ瀬がありませんや。──もしねえさん。使いだてしてお気の毒だが御輿を据えて、聞かざならねえことが出来やした。ここへ一合、付けて来ておくんなせえやし」

「慶さん、何んざます」

 馬琴を戸口まで送ったまゝ、今までわざと避けていたお菊は、京山に名を呼ばれて、ぬッと丸髷まるまげの顔を窺かせた。

「一合お願い申しやす」

「おほゝ、御酒でありんすか」

「左様」

「御酒なら、わたしがお酌しいす。向うのお座敷で飲みなんし」

「そうだ」と、直ぐに京伝は相槌を打った。「馬琴の座ってた後じゃ、酒を飲んでもうまくなかろう。それにおいらは、蔦屋が催促に来ねえうちに、心学早染草の、続きを書かざならねえんだ。飲みたかったら、お菊に酌をさせて、いつまででも飲んでるがいいわな」

 そういって立上ろうとした京伝の袂を、京山はしっかり掴んだ。

「兄さん。ちょいと待ってゝおくんなせえ。たった一つ、訊かしてもらいたいことがありやす」

「おめえの酔が醒めた時に、聞かしてやる」

「冗談じゃねえ。あっしゃア酔っちゃ居りやせんよ。──あの馬琴という男より、たしかにあっしの方が、作者は下でげすかい。そいつをここで、はっきり聞かして貰いてえんで。……」

「腹は一つだが、おめえはこの京伝の、義理のある弟だ、出来ることなら、嘘にも下だたアいいたかねえ。が、書いた物を見るまでもなく、おめえと馬琴とじゃ、第一心構えに、大きな違いがありゃアしねえか。これアおいらがいうよりも、おめえの肚に聞いて見たら、いっそ判りが速かろう」

 いらいらした京伝の言葉の中には、それでも皮肉に生れ付いた弟を憐れむ気持が、如何にもよく現れていた。

 が、これを聞くと同時に、京山の顔には、見る見る不快な色が濃くなって行った。

「よく判りやした。あっしゃアこれから先、あの干物の出入するこの家にゃ、我慢にもいられやせんから、あいつが来る間は、ここの敷居はまたぎますまい」

「もし、慶さん。──」

 お菊の止めるのも聞かずに、そういい切った京山は、いきなり自分の居間へ取って返して、硯と筆とを風呂敷へまるめ込むと、後をも見ずに、小庭口から、雪のおもてへと突ッ走ってしまった。

「ぬしさん。──」

 しかし京伝は、お菊の声も耳に入らぬらしく、じっと腕組したまま、おのが膝の上を凝視していた。

「ぬしさん。──」

「うむ」

「慶さんは、どこへ行きなんす」

「どこへも行きゃアしめえ」

「でも、あゝして出て行きいしたからは、滅多に帰っては来いすまい。わたしが傍に附いていながら飛んだ粗相、面目次第もありいせん」

「来たばかりのおめえが、心配するこたアありゃアしねえや。負け嫌いのくせに、本を漁ろう考えもなく、ただ酒ばかり飲んで、月日を後へ送ってる。同じくらいの年恰好でも、馬琴とは天地の相違だ。可哀想だが、ちと腹を立てさせた方が、後々の為めにもなるだろう。つまらねえ心配はやめにして、びんの乱れでも直すがいいわな」

 京伝はことさら弱気を見せまいと、何気なくお菊にいいおいて、独り四畳半の書斎へ這入って行った。

理太郎りたろうはわるきたましいにいざなはれ、よしはらへ来り、すけんぶつにてかへらんと思ひしが、仲の町の夕けしきをみてより、いよ〳〵わるたましいに気をうばはれ、とある茶屋をたのみて三浦屋のあやし野といふ女郎をあげてあそびけるが、たちまちたましいてんじやうへとんで、かへることをわすれ、さらに正気はなかりけり)

 草稿は、ここで筆が止っていた。

 机の前へ坐った京伝は、いきなり筆を把って、直ぐその先の文句を綴ろうとしたが、前の二三行を読み返しているうちに、雨雲のように、あとからあとからと頭に湧いて来るのは、黄表紙の文句ではなくて、今し方、腹立ちまぎれに出て行った、弟京山の身の上だった。

 いつとはなしに、曲りくねった根性に育って来た京山を思う時、常に京伝の胸に浮ぶのは、はじめて父母と共に、この銀座二丁目に移った、その翌年の正月の出来事に外ならなかった。

 京伝が十四、京山は七つだった。父の伝左衛門でんざえもんは、家主になった最初の新年とて、町内を回礼せねばならなかったが、従者を雇う銭がなく、それが為めに京伝は挟箱はさみばこを肩にして父の後に従い、弟はまたその後について、白扇を年玉に配って歩いた。

「兄ちゃん。おいらアおなかが痛いから、もういやだ」

 十軒ばかり歩いた頃、こういって京伝を顧みた京山の眼には、涙さえ浮んでいた。

「辛抱しな。もうあと半分だ。その換り家へ帰ったら、おいらがおっかあに凧を買って貰って、揚げてやる」

「凧なんか見たかねえから、早く帰りてえ」

「おめえがいまやめると、お父っあんが困る。いい子だから、もう少し配ってくんな」

 それでもなんでも、腹が痛いといい出して京山は、何んとなだめすかしても承知する様子がなくそのうち次第に顔色が蒼ざめた京山は、もはや口をく元気もなくなって、遂に道端の天水桶の下へ屈んでしまったのだった。

 回礼は中途で止めにして、京山はそのまま家に連れ戻された。

 火鉢の抽斗ひきだしの竹の皮から、母の手でまっ黒な「熊の胃」が取出されると、耳掻の先程、いやがる京山の口中へ投げ込まれた。京山は顔を紙屑のようにして、水と一緒にのどの奥へ飲み下した。

「にがい。──」

「我慢しろ。おめえが腹痛はらいたを起したのが悪いんだ」

 頑固な父は、年賀を中途で止めにした腹立たしさも手伝ったのであろう。笑顔ひとつ見せずに、こういって額へ八の字を寄せた。

 それでも京山の腹痛は二時ふたときばかりのうちに次第におさまって、午少し過ぎには、普段通りの元気に返っていた。が、父は要心のためだといって、今度は茶碗へとかした「熊の胃」を、京山の枕許へ持って来ていた。

「苦くても、我慢してもう一度飲むんだ」

 京山はうらめしそうに父を見上げたが、叱られるのを知って、拒むことも出来ず、ただ黙って頷いた。

「兄ちゃん」

 父が去ってしまうと、京山は京伝と熊の胃とを見くらべながら、小声で訴えた。

「おいら、苦いから、もういやだ」

「いけない。飲まないと、あとでお父っあんに叱られるよ」

「もうお腹はなおったから、飲まない」

 そこへ次の間から父のせき払いが聞えた。と、その刹那、突如として京伝の指は茶碗を掴んだ。そして苦い熊の胃は、忽ち一滴も余すところなく、京伝自身ののどを通って、胃の腑へ納まったのだった。

 次の瞬間、果して父は障子を開けていた。が、茶碗の中に薬のないのを見ると、再び黙って頷いたまま、部屋の方へ戻って行った。

「兄さん」

 固く手を握りしめた弟の眼には、熱い涙があふれていた。同時に京伝の胸にも、深く迫る何物かが感じられた。

 いま筆硯をふところに飛出して行った弟の身の上に、十七年の歳月は夢と過ぎたが、しかも夢というには、余りに切実な思い出ではなかったか。

「あいつの心に、おれの半分でも、あの時のことがよみがえってくれたら。……」

 京伝は、ひそかにこうつぶやきながら、十日近くも手にしなかった、堅い筆の穂先を噛んでいた。


        三


「ふふ、京伝という男、もうちっと気障きざ気たっぷりかと思ったら、それ程でもなかった。あの按配あんばいじゃ、少しは面倒を見てくれるだろう。こいつをしおに、戯作で飯が食えるようにぎ着けざアなるまい──まず正月早々、今年ア恵方えほうが当ったぞ。──」

 深川仲町の、六畳一間の棟割長屋に、雪解に汚れた足を洗って、机というのも名ばかりの、寺子屋机の前に端然と坐った馬琴は、独りこう呟きながら、痩馬のようにニヤリと笑った。

「だが京伝は、うまいことをいやアがったな。あんまり調子付いて、盲目の蟋蟀のように、水瓶へ落ちねえようにするがいい。──あれにゃア、猫をかぶって出かけたおれも、ちっとばかりぎょッとしたぞ。これで二三ン日経ったら、また出掛けてって、井戸水の一つも汲んでやるんだ。そうすりゃア深川あたりに、独りで暮していてもつまるめえ。なんなら遠慮なしに、家へ来ていたらどうだと、そういうに極っている。何しろ、飯は一ン日に一碗でいいといっといたんだから、一月食っても三十杯だ。他の居候の三日半の食扶持くいぶちで、おれくらいの学者が一月飼っておけるとなりゃア損得ずくから考えても、損にゃなるまい。それでも、置いてさえくれりゃア、こっちは大助りだ。第一、これから先食わずにいるような心配は、金輪際なくなるし、その上当世流行の、黄表紙書きのこつは覚えられるという一挙両得。どっちへ転んだって損はねえ大仕合か。待てば海路の日和とは、昔の人間にも、悧巧者りこうものはあったと見える。──」

 三日三晩、眠らずに考え抜いた揚句出かけて来たと、もっともらしいことを、京伝の前ではいったものゝ、実は馬琴はゆうべし方、痛い足を引摺って、二た月余りの、売卜者ばいぼくしゃの旅から帰って来たばかりであった。

 品川を振り出しに、川崎、保土ヶ谷、大磯、箱根。あれから伊豆を一廻りして、沼津へ出たのが師走の三日。どうせこゝまで来たことだからと、筮竹ぜいちくと天眼鏡を荷厄介にしながら、駿府すんぷまでして見たのだったが、これが少しも商売にならず。漸く旅籠はたご草鞋わらじ銭だけを、どうやら一杯に稼いで、当るも八卦当らぬも八卦を、腹の中で唄に唄って、再びこの長屋へ舞戻った時には、穴銭がたった二枚、財布の底にこびり附いていただけだった。

 ゆうべは、疲れ果てた足を、煎餅布団に伸した、久し振りの我が家の寝心地が、どこにも増してよかったせいか、枕に就くとそのまゝ眠りに落ちたので、実をいえば今朝方かわやへ起きるまでは、これから先の暮し方など、とやこう考えていた訳ではなかった。

 それを、誰れが貼ったのやら、ふと、長屋の厠の壁押えに、京伝作の「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」の二三枚が貼り附けてあったところから、急に思い付いたのが、京伝へ弟子入の一件であった。

 もとよりきらいな道ではなかった。が、戯作で身を立てようとは、きょうがきょうまで考えてはいなかった。

 行けばきっと、こっちの風体を見て、この男に戯作の筆は把れやアしめえ、と考えた挙句、京伝はこれまで黄表紙の一つも読んだことがあるかと、訊くに相違あるまいと思った馬琴は、まだ夜の明けないうちに、あわてて長屋を飛び出すと、雪の中を跣足はだしのまゝ、まず通油町の耕書堂と鶴仙堂へ飛んで行った。こゝの主人あるじ重三郎じゅうざぶろう喜右衛門きえもんの丹念は、必ずや開板かいはん目録をこしらえてあることを、考えたからであった。

 果せるかな、両軒共に、己が見世の開板目録を備えて、田舎への土産の客を待っていた。

 家へ取って返す道々にも、馬琴はその目録を、眼から離さなかった。おかげで危うく、魚河岸帰りの武蔵屋の荷に、突当りそうになったのを避けは避けたが、一張羅の着物は、腰のあたりを泥だらけにされてしまった。──京伝を訪れた時、襞切れの袴を着けていたのは、まさしくそれがためだった。

 それ程熱心に読んで来たせいであろう。長屋の敷居を跨いだ時には、馬琴は両目録中の京伝の著作は、年代順に暗記してしまっていた。

 だから京伝が「洒落本の一つも読みなすったか」と訊いた、あの時の馬琴は、内心しめたと、ひそかに腹の中で手をっていたに相違なかろう。

「この長屋中の人達にも、当分会えなかろう。だが、厄介者が一人減るんだ。喜んでくれるかも知れねえ」

 時々はお医者の代りもしてくれる、調法な人だとは思っていながら、半月も一月も家を空けたりいるかと思えば、夜夜中でも本を読むか、字を書いている変り者の馬琴には、流石に金棒引の連中も、嫁一人世話しようという者がいなかった。が、男世帯の不自由には、いずれも同情していたのであろう。時々は芋が煮えた、目刺が焼けたと、気はこゝろの少しばかりでも、持って来てくれる世話焼は二人や三人ないでもなかった。

 寺子屋机の前に、袴も取らずに坐っていた馬琴は、何んと思ったか、急にその場へごろりと横になると、如何にも屈托なさそうな欠伸あくびをした。

「何かうまい物が、腹一杯食って見てえな。二三日して、京伝の家の居候になりゃア、盗み食いをしない限り、腹一杯は食えねえことになってるんだ。──だが、銭はなし。米はあるが虫ころげだし、せめて久し振りで鰯の顔ぐらい、見せてくれる親切な人ア、長屋中にゃアねえものかなア」

「もし、瀧沢さん。お客様がお見えなさいましたよ」

「えッ」

 馬琴はこの声を聞くと、起き上り小法師のように、古畳の上へ起き直った。

「どうもこりゃアお上さん、お世話様でげした」

 そういう声に、馬琴は聞き覚えがなかった。が、そのまゝではいられなかったと見えて、土間から油障子の外へ首を伸した。

「おいでなさいまし」

 入口に立っていた男は、「ふん」と鼻の先で顎をしゃくった。

「お前さんは、さっき山東庵へおいでなすった、馬琴さんでげしょうね」

「はい、わたくしが、お尋ねの馬琴でございます」

「あっしゃア京伝の弟の、京山という者さ」

「あゝ左様でございましたか。存じませぬことゝて、これはどうも御無礼いたしました。──御覧の通りの漏屋ろうおくではございますが、どうか、こちらへお上んなすって下さいまし」

 横柄な態度から察しても、これはてっきり、京伝の使いとして、きょうからでも山東庵へ来るようにと、その言伝ことづてに来たのだと、馬琴は早合点した。

「折角だが、上って話をする程の、大事な用じゃアねえんで。……」

「どのような御用でございましょう」

「おめえさんに、もう二度と再び、銀座へは来て貰いたくねえと、その断りに来やしたのさ」

「えッ」

「どうだ。こいつアちったア身に沁みたろう。──ふゝゝ。おめえのような、そんな高慢ちきな男ア大嫌えなんだ」

 吐き出すようにこういった京山は、仲蔵なかぞうもどきで、突袖の見得を切った。

 馬琴は、薄気味悪くニヤリと笑った。

「そりゃアどうも、わざわざ御苦労様でございました」

「なんだって」

「御苦労様でございましたと、お礼を申して居りますんで。……この雪道を、わざわざおいで下さいませんでも、それだけの御用でしたら、今度伺いました時に、そう仰しゃって頂きさえすりゃ、それで用は足りましたのに、却って恐縮で、お詫の申しようもございません」

「そんな気永に、待っていられるかい。それに第一、おめえを嫌いなゝア、兄貴じゃなくっておいらなんだ」

「これは面白い。では京伝先生は、別に何も仰しゃったという訳じゃございませんので。……」

「兄貴がいおうがいうめえが、おいらがいやならおんなじこった」

「どういたしまし。それア飛んだ御料簡違いでございましょう。わたくしは、何もお前さんの門弟になりたいとは、夢にもお願いした覚えはありアしません。京伝先生のお弟子にして頂きたいのがかねてからの心願でございました。こりゃアいくらお屠蘇の加減でも、つまらない見当違いの矢を、向けておいでなさいましたな。まったくそんな御用なら、上って頂くにも及びますまい。どうかさっさとお帰んなすっておくんなさいまし」

「帰れといわれなくっても、誰がこんな薄汚ねえ家に、いつまでいられるかい。──土産のしるしだ取ってきねえ」

 京山はこういって、蜜柑箱に一杯詰めた馬糞を馬琴の膝許へ叩き付けるが否や、如何にもさばさばしたように笑いながら、一目散に、路地の入口へ走って行った。

 座敷一杯に散らばった馬糞を、暫し黙って見詰めていた馬琴は、突然、今までにないような愉快な声を揚げて、わッはッはと笑いこけた。

「あいつ、延喜えんぎのいゝことをしてくれたもんだ。新年早々黄金饅頭を撒き込んでくれるなんざ、ふだん女郎の尻を撫でてるだけのことアある。──よし、今度京伝を訪ねる時にゃ、これをこのまゝ土産に持ってッてやるとしよう。だがあいつ、京伝の文句じゃねえが、下手な戯作の一つや二つ書いたからって、あんまり調子付くと、今に水瓶の中へ飛び込むぜ」

 若い馬琴はもう一度、盲目の蟋蟀のたとえを思い出して、大の字なりに寝ころんだまゝ、大きな笑い声を天井へ浴せかけた。

底本:「昭和のエンタテインメント50篇(上)」文春文庫、文芸春秋

   1989(平成元)年610日第1

底本の親本:「オール讀物 増刊号」文芸春秋

   1988(昭和63)年7

入力:網迫、大野晋

校正:山本弘子

2008年521日作成

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