星女郎
泉鏡花
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一
倶利伽羅峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪波山へ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別好物な旅客か、山伏、行者の類のほか、余り通らなかった。──ところで、今度境三造の過ったのは、新道……天田越と言う。絶頂だけ徒歩すれば、俥で越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好事。
さて目的は別になかった。
暑中休暇に、どこかその辺を歩行いて見よう。以前幾たびか上下したが、その後は多年麓も見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、某の職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、謂わば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
汽車は津幡で下りた。市との間に、もう一つ、森下と云う町があって、そこへも停車場が出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮根が名産の、蓮田が稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋──源平盛衰記に==源氏の一手は樋口兼光大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦手にこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚破、松風も鯨波の声、山の緑も草摺を揺り揃えたる数万の軍兵。伏屋が門の卯の花も、幽霊の鎧らしく、背戸の井戸の山吹も、美女の名の可懐い。
これは旧とても異りはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草鞋、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓路を挟んで、竹の橋の出外れに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶染、藍染、講中手拭の軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼吸は合わぬながら、田舎は田舎だけに声繕いして、
「お掛けやす。」
「お休みやーす。」
それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若い媚めかしい声が交って、化粧した婦も居た。
境も、往き還り奥の見晴しに通って、縁から峠に手を翳す、馴染の茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家構の跡は、草茫々、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓の累ったのが望まれる。
由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一叢の樹立も、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
それに、藁屋や垣根の多くが取払われたせいか、峠の裾が、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高低、畝々と畝った処が、心覚えより早や目前に近い。
が、そこまでは並木の下を、例に因って、畷の松が高く、蔭が出来て涼いから、洋傘を畳んで支いて、立場の方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯向いた菅笠もちらほらあるが、藁葺の色とともに、笠も日向に乾びている。
境は急に心細いようになった。前にも後にも、往来の人はなかったのである。
偶と思出したことがあって、三造は並木の梢──松の裏を高く仰いで見た。鵲の尾の、しだり尾の靡きはせずや。……
二
往年、雨上りの朝、ちょうどこの辺を通掛った時、松の雫に濡色見せた、紺青の尾を豊に、樹の間の蒼空を潜り潜り、鵲が急ぎもせず、翼で真白な雲を泳いで、すいと伸し、すいと伸して、並木の梢を道づれになった。可懐いその姿を見るのも、またこの旅の一興に算えたのであったから──それを思出して窺ったが……今日は見えぬ。
なお前途の空を視め視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声の喧しい中にも、塒してその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右瞻左瞻ながら、うかうかと並木を辿る──大な蜻蛉の、跟をつけて行くのも知らずに。
やがて樹立が疎らになって、右左両方へ梢が展くと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
処へ、横雲の漾う状で、一叢の森の、低く目前に顕われたのは、三四軒の埴生の小屋で。路傍に沿うて、枝の間に梟の巣のごとく並んだが、どこに礎を据えたとしもなく、元村から溢れて出たか、崖から墜ちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断念めたらしい百姓家──その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃驚しそうな人々が住んでいよう。
朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗荷の葉に、野茨が白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松薪をひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家と頷かれて、見るからに佗しい戸の、その蜘蛛の巣は、山姥の髪のみだれなり。
一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小家は引込んで、前が背戸の、早や爪尖あがりになる山路との劃目に、桃の樹が一株あり、葉蔭に真黒なものが、牛の背中。
この畜生、仔細は無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんど切な、たらたらと濡れた鼻頭に、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、熟と見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
その舌の尖を摺って、野茨の花がこぼれたように、真白な蝶が飜然と飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっと地の底へ潜った状に、大牛がフイと失せた。……
失せた……と思う暇もなしに、忽然として消えたのである。
「や!」
声を出して、三造はきょとんとして、何かに取掴まったらしく、堅くなってそこらを捻向く……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹が累なり、中空を蔽うて四方から押被さって聳え立つ──その向って行くべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天窓を出した雲の峯の尖端が、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭に肖たとは愚か。
三造は悚然とした。
が、遁げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
一体、樹の間から湧いて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻り瞻り、つい一足歩行いた、……その機会に、件の桃の木に隠れたので、今でも真正面へちょっと戻れば、立処にまた消え失せよう。
蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
独りで笑出した。
「まず昼間で可かった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」
三
これより前、境はふと、ものの頭を葉越に見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻とは方角の反対な、加賀と越前の国境に、同じ名の牛首がある──その山も二三度越えたが、土地に古代の俤あり。麓の里に、錣頭巾を取って被き、薙刀小脇に掻込んだ、面には丹を塗り、眼は黄金、髯白銀の、六尺有余の大彫像、熊坂長範を安置して、観音扉を八文字に、格子も嵌めぬ祠がある。ために字を熊坂とて、俗に長範の産地と称える、巨盗の出処は面白い。祠は立場に遠いから、路端の清水の奥に、蒼く蔭り、朱に輝く、活けるがごとき大盗賊の風采を、車の上からがたがたと、横に視めて通った事こそ。われ御曹子ならねども、この夏休みには牛首を徒歩して、菅笠を敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、謂われぬ可懐い思出があったので、越中境へ足を向けた。──
処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷った端を、隠身寂滅、地獄が消えた牛妖に、少なからず驚かされた。
正体が知れてからも、出遊の地に二心を持って、山霊を蔑にした罪を、慇懃にこの神聖なる古戦場に対って、人知れず慚謝したのであるる。
立向う山の茂から、額を出して、ト差覗く状なる雲の峰の、いかにその裾の広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜呑にしている谷の深さ、山の高さが推量られる。
辿るほどに、洋傘さした蟻のよう──蝉の声が四辺に途絶えて、何の鳥かカラカラと啼くのを聞くと、ちょっとその嘴にも、人間は胴中を横啣えにされそうであった。
谷が分れて、森が涼しい。
右手の谷の片隅に、前に見た牛の小家が、小さくなって、樹立ありとも言わず、真白に日が当る。
やがて、二分が処上った。
坂路に……草刈か、鎌は持たず。自然薯穿か、鍬も提げず。地柄縞柄は分らぬが、いずれも手織らしい単放を裙短に、草履穿で、日に背いたのは緩かに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向って二人──年紀も同じ程な六十左右の婆々が、暢気らしく、我が背戸に出たような顔色して立っていた。
山逕の磽确、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂、裂目に草生い、割目に薄の丈伸びたれば、蛇の衣を避けて行く足許は狭まって、その二人の傍を通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
ト境の方に立ったのが、心持身体を開いて、頬の皺を引伸すような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺の白髪が動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
と聞いた時、境は早や二三間、前途へ出ていた。
で、別に振り返ろうともしなかった──気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎めるともなく、声高に饒舌ったろう、──それにつけても、余り往来のないのは知れた。
けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧と立ったり、間近な崖へ影が射したり、背後からざわざわと芒を掻分ける音がしたり、どうやら、件の二人の媼が、附絡っているような思がした。ざっと半日の余、他に人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。
四
蜩が谷になって、境は杉の梢を踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕わして、灰色に大なる薄墨の斑を交え、動かぬ稲妻を畝らした状は凄じい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓は、霄との劃を蒼く、どこともなく嵐気が迫って、幽な谷川の流の響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠里の果なる海の上に、落ち行く日の紅のかがみに映って、そこに蟠った雲の峰は、海月が白く浮べる風情。蟻を列べた並木の筋に……蛙のごとき青田の上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓、遠きは狼煙の余波に似て、ここにある身は紙鳶に乗って、雲の桟渡る心地す。
これから前は、坂が急に嶮くなる。……以前車の通った時も、空でないと曳上げられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形に崩込んで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直に杖ついた洋傘と、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓も葉の裏を見上げるように這懸る。
それは可い。
かほどの処を攀上るのに、あえて躊躇するのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止められた仔細がある。
山の中の、かかる処に、流灌頂ではよもあるまい。路の左右と真中へ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡したのが、目の前を遮った、──麓のものの、何かの禁厭かとも思ったが、紅紙をさした箸も無ければ、強飯を備えた盆も見えぬ。
「可訝いな。」
考えるまでもない、手取り早く有体に見れば、正にこれ、往来止。
して見ると、先刻、路を塞いで彳んだ、媼の素振も、通りがかりに小耳に挟んだ言の端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
もっとも時経ったか、竹も古びて、縄も中弛みがして、草に引摺る。跨いで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
前後を眗しながら、密とその縄を取って曳くと、等閑に土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰られた。慌てて放して、後へ退った。──一対の媼が、背後で見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙動は、われわれ人間としては尋常事ではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、蝗が飛ぶほどでもなかろう。
境は、今の騒ぎで、取落した洋傘の、寂しく打倒れた形さえ、まだしも娑婆の朋達のような頼母しさに、附着いて腰を掛けた。
峰から落し、谷から推して、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一刷刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単衣の縞の、くっきりと鮮明になるのも心細い──山路に人の小ささよ。
蜻蛉でも来て留まれば、城の逆茂木の威厳を殺いで、抜いて取っても棄つべきが、寂寞として、三本竹、風も無ければ動きもせず。
蜩の声がする…………
五
カラカラと谺して、谷の樹立を貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰の方でカラカラとまた声が響く。
と、蜩の声ばかりでなく、新に鐸の音が起ったのである。
ちりりんりんと──しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼母しかった。峠には人が居る。
その実、山霊が奏でるので、次第々々に雲の底へ、高く消えて行く類の、深秘な音楽ではあるまいか、と覚束なさに耳を澄ますと、確に、しかも、段々に峰から此方に近くなる。
蜩がそれに競わんとするごとく、また頻に鳴き出す──足許の深い谷から、その銀の鈴を揺上げると、峠から黄金の鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行交うあたりは、目に見えぬ木の葉が舞い、霧が降る。
涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、蜩の、と聞き紛うまで恍惚となった。目前に、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
「わっ。」
と云って、境は驚駭の声を揚げた。
遮る樹立の楯もあらず、霜夜に凍てたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
「ほう──」
と梟のような声を発した。面赭黒く、牙白く、両の頬に胡桃を噛み破り、眼は大蛇の穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄螺を並べたよう。耳まで裂けた大口を開いて、上から境を睨め着けたが、
「これは、」
と云う時、かっしと片腕、肱を曲げて、その蟹の甲羅を面形に剥いで取った。
四十余りの総髪で、筋骨逞ましい一漢子、──またカラカラと鳴った──鐸の柄を片手に持換えながら、
「思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。」
と一揖して、
「面です……はははは面でござる。」
と緒を手首に、可恐い顔は俯向けに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいその厳さ。逞ましい漢の手にもずしりとする。
「お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。」
「はあ、」
と云うと、一刎ね刎ねたままで、弾機が切れたようにそこに突立っていた身構が崩れて、境は草の上へ投膝で腰を落して、雲が日和下駄穿いた大山伏を、足の爪尖から見上げて黙る。
「別に、お怪我は?」
手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
「怪我なんぞ。」
境は我ながら可笑くなって、
「生命にも別条はありません。」
「重畳でござる。」
と云う、落着いて聞くと、声のやや掠れた人物。
「しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下は、これから、」
「さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺はな。」
境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂の葎に、竹はすっくと立っている。
六
「ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい──が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、」
境の前に蹲んだ時、山伏は行衣の胸に堆い、鬼の面が、襟許から片目で睨むのを推入れなどして、
「実は、貴辺よりも私がお恥かしい。臆病から致いてかようなものを持出しましたで。
それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石動から取附の上り口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
仔細あって、私は、この坂を貴辺、真暗三宝駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がお在なさる姿さえ心着かなんだでござります。
が、あちらのは、風説にも聞きますれば、私も見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山籠りを致しております。」
不動堂の先達だと云う。それでその鐸も、雲のような行衣も解めた。
「御免下され、」
とここで、鐸を倒に腰にさして、袂から、ぐったりした、油臭い、叺の煙草入を出して、真鍮の煙管を、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻莨で、吸附けながら、
「赫と気ばかり上って、ざっと一日、好な煙草もよう喫みません。世に推事というは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪えるでござりましょうが、好事半分の生兵法、豪く汗を掻きました。」
「峠に何事があったんですか。」
「されば。」
すぱすぱと二三服、さも旨そうに立続けに行者は、矢継早に乙矢を番えて、
「──ございました。」
「どんな事ですか。」
少し急込んで聞きながら、境は楯に取った上坂を見返った。峠を蔽う雲の峰は落日の余光に赤し。
行者の頬も夕焼けて、
「順に申さんと余り唐突でございますで──一体かようでございます。
峠で力餅を売りました、三四軒茶屋旅籠のございました、あの広場な、……俗に猿ヶ馬場──以前上下の旅人で昌りました時分には、何が故に、猿ヶ馬場だか、とんと人力車の置場のようでござりましたに、御存じの汽車が、この裾を通るようになりましてからは、富山の薬売、城端のせり呉服も、碌に越さなくなりまして、年一年、その寂れ方というものは、……それこそまた、猿どもが寄合場になったでございます。
ところで、峠の茶屋連中、山家ものでも商人は利に敏い──名物の力餅を乾餅にして貯えても、活計の立たぬ事に疾く心着いて、どれも竹の橋の停車場前へ引越しまして、袖無しのちゃんちゃんこを、裄の長い半纏に着換えたでござります。さて雪国の山家とて、桁梁厳丈な本陣擬、百年経って石にはなっても、滅多に朽ちる憂はない。それだけにまた、盗賊の棲家にでもなりはせぬか、と申します内に、一夏、一日晩方から、や、もう可恐く羽蟻が飛んで、麓一円、目も開きませぬ。これはならぬ、と言う、口へ入る、鼻へ飛込む。蚊帳を釣っても寝床の上をうようよと這廻る──さ、その夜あけ方に、あれあれ峠を見され、羽蟻が黒雲のように真直に、と押魂消る内、焼けました。
残ったのがたった一軒。
いずれ、山挊ぎのものか、乞食どもの疎匇であろう。焼残った一軒も、そのままにしておいては物騒じゃに因って、上段の床の間へ御仏像でも据えたなら、構は大い。そのまま題にして、倶利伽羅山焼残寺が一院、北国名代の巡拝所──
と申す説もござりました。」
七
「ところが、買手が附いたのでござりましてな。随分広い、山ぐるみ地所附だと申す事で。」
行者がちょいと句切ったので、
「別荘にでもなりましたか。」
煙管を揮って、遮るごとく、
「いや、その儀なら仔細はござらん、またどこの好事じゃと申して、そんな峠へ別荘でもござりますまい。……まず理窟は措いて、誰だか買主が分らぬでございます。第一その話がござってから、二人や、三人、ぽつぽつ峠を越したものもございますが、一向に人の住んでいる様子は見えぬという事で。ただ稀代なのは、いつの間にやら雨で洗ったように、焼跡らしい灰もなし、焚さしの材木一本横わっておらぬばかりか、大風で飛ばしたか、土礎石一つ無い。すらりと飯櫃形の猿ヶ馬場に、吹溜まった落葉を敷いて、閑々と静まりかえった、埋れ井戸には桔梗が咲き、薄に女郎花が交ったは、薄彩色の褥のようで、上座に猿丸太夫、眷属ずらりと居流れ、連歌でもしそうな模様じゃ。……(焼撃をしたのも九十九折の猿が所為よ、道理こそ、柿の樹と栗の樹は焼かずに背戸へ残したわ。)……などと申す。
山家徒でござるに因って、何か一軒家を買取ったも、古猿の化けた奴。古この猿ヶ馬場には、渾名を熊坂と言った大猿があって、通行の旅人を追剥し、石動の里へ出て、刀の鍔で小豆餅を買ったとある、と雪の炉端で話が積る。
トそこら白いものばっかりで、雪上﨟は白無垢じゃ……なんぞと言う処から、袖裾が出来たものと見えまして、近頃峠の古屋には、世にも美しい婦が住う。
人が通ると、猿ヶ馬場に、むらむらと立つ、靄、霞、霧の中に、御殿女中の装いした婦の姿がすっと立つ──
見たものは命がない。
さあ、その風説が立ちますと、それからこっち両三年、悪いと言うのを強いて越して、麓へ下りて煩うのもあれば、中には全く死んだもござる。……」
「まったく?」
とハタと巻莨を棄てて、境は路傍へ高く居直る。
行者は、掌で、鐸の蓋して、腰を張って、
「さればその儀で。──
隣村も山道半里、谷戸一里、いつの幾日に誰が死んで、その葬式に参ったというでもござらぬ、が杜鵑の一声で、あの山、その谷、それそれに聞えまする。
地体、一軒家を買取った者というのも、猿じゃ、狐じゃ、と申す隙に、停車場前の、今、餅屋で聞くか、その筋へ出て尋ねれば、皆目知れぬ事はござるまい。が、人間そこまではせぬもので、火元は分らず、火の粉ばかり、わッぱと申す。
さらぬだに往来の途絶えた峠、怪い風説があるために、近来ほとんど人跡が絶果てました。
ところがな、ついこの頃、石動在の若者、村相撲の関を取る力自慢の強がりが、田植が済んだ祝酒の上機嫌、雨霽りで元気は可、女小児の手前もあって、これ見よがしに腕を扼って──己が一番見届ける、得物なんぞ、何、手掴みだ、と大手を振って出懸けたのが、山路へかかって、八ツさがりに、私ども御堂へ寄ったでござります。
そこで、御神酒を進ぜました。あびらうんけんそわかと唱えて、押頂いて飲んだですて……
(お気をつけられい。)
と申して石段を送って出ますと、坂へ立身上りに片足を踏伸ばいて、
(先達、訳あねえ。)
と向顱巻したであります──はてさて、この気構えでは、どうやら覚束ないと存じながら、連にはぐれた小相撲という風に、源氏車の首抜浴衣の諸肌脱、素足に草鞋穿、じんじん端折で、てすけとくてく峠へ押上る後姿を、日脚なりに遠く蔭るまで見送りましたが、何が、貴辺、」
「え、その男は?」
八
先達は渋面して、
「まず生命に別条のないばかり、──日が暮れましたで、私御本堂へだけ燈明を点けました。で、縁の端で……されば四日頃の月をこう、」
手廂して、
「森の間から視めていますと、けたたましい音を立てて、ぐるぐる舞いじゃ、二三度立樹に打着りながら、件のその昼間の妖物退治が、駆込んで参りました。
(お先達、水を一口、)
と云うと、のめずって、低い縁へ、片肱かけたなり尻餅を支いたが、……月明りで見るせいではござらん、顔の色、真蒼でな。
すぐに岩清水を月影に透かして、大茶碗に汲んで進ぜた。
(明王のお水でござる……しっかりなされ。)
と申したが、こっちで口へ当がってやらずには、震えて飲めなんだでござります。
やっと人心地になった処で、本堂傍の休息所へ連込みました。
処で様子を尋ねると、(そ、その森の中、垣根越、女の姿がちらちらする、わあ、追懸けて来た、入って来る……閉めて欲い。)と云うで、ばたばた小窓など塞ぎ、赫と明くとも参らんが、煤けたなりに洋燈も点けたて。
少々落着いての話では──勢に任せて、峠をさして押上った、途中別に仔細はござらん。元来、そこから引返そうというではなく、猿ヶ馬場を、向うへ……
というのが、……こちらで、」
と煙管の尖で草を圧え、
「峠越し竹の橋へ下りて、汽車で帰ろう了簡。ただただ、山一つ越せば可いわ、で薄、焼石、踏だいに、……薄暮合──猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛が蟠まったような形。人が開けたとは受取れぬ、雨戸が横に一枚と、入口の大戸の半分ばかり開いた様子が、口をぱくりと……それ、遣った塩梅。根太ごと、がたがたと動出しもし兼ねんですて。
そいつを睨みつけて、右の向顱巻、大肌脱で通りかかると、キチキチ、キチキチと草が鳴る……いや、何か鳴くですじゃ、……
蟋蟀にしては声が大いぞ──道理かな、鼬、かの鼬な。
鼬でござるが、仰向けに腹を出して、尻尾をぶるぶると遣って、同一処をごろごろ廻る。
つい、路傍の足許故に、
(叱! 叱!)
と追ってみたが、同一処をちょっとも動かず、四足をびりびりと伸べつ、縮めつ、白い面を、目も口も分らぬ真仰向けに、草に擦つけ擦つけて転げる工合が、どうも狗ころの戯れると違って、焦茶色の毛の火になるばかり、悶え苦むに相違ござらん。
大蛇でも居て狙うか、と若い者ちと恐気がついたげな、四辺に紛いそうな松の樹もなし、天窓の上から、四斗樽ほどな大蛇の頭が覗くというでもござるまい。
なお熟と瞻ると、何やら陽炎のようなものが、鼬の体から、すっと伝り、草の尖をひらひらと……細い波形に靡いている。はてな、で、その筋を据眼で、続く方へ辿って行くと……いや、解めましたて。
右の一軒家の軒下に、こう崩れかかった区劃石の上に、ト天を睨んだ、腹の上へ両方の眼を凸、シャ! と構えたのは蟇で──手ごろの沢庵圧ぐらいあろうという曲者。
吐く息あたかも虹のごとしで、かッと鼬に吹掛ける。これとても、蚊や蜉蝣を吸うような事ではござらん、式のごとき大物をせしめるで、垂々と汗を流す。濡色が蒼黄色に夕日に光る。
怪しさも、凄さもこれほどなら朝茶の子、こいつ見物と、裾を捲って、蹲み込んで、
(負けるな、ウシ、)
などと面白半分、鼬殿を煽ったが、もう弱ったか、キチキチという声も出ぬ。だんだんに、影が薄くなったと申す事で。」
九
「その内に、同じく伸つ、反つ、背中を橋に、草に頸窪を擦りつけながら、こう、じりりじりりと手繰られる体に引寄せられて、心持動いたげにございました。
発奮んで、ずるずると来た奴が、若衆の足許で、ころりと飜ると、クシャッと異変な声を出した。
こいつ嗅がされては百年目、ひょいと立って退ったげな、うむと呼吸を詰めていて、しばらくして、密と嗅ぐと、芬と──貴辺。
ここが可訝い。
何とも得知れぬ佳い薫が、露出の胸に冷りとする。や、これがために、若衆は清涼剤を飲んだように気が変って、今まで傍目も触らずにいました蟇の虹を外して、フト前途を見る、と何と、一軒家の門を離れた、峠の絶頂、馬場の真中、背後へ海のような蒼空を取廻して、天涯に衝立めいた医王山の巓を背負い、颯と一幅、障子を立てた白い夕靄から半身を顕わして、錦の帯は確に見た。……婦人が一人……御殿女中の風をして、」
──顔を合わせた。──
「御殿女中の?……」
と三造は聞返す。
「お聞きなされ、その若衆の話でござって──ト見ると、唇がキラキラと玉虫色、……それが、ぽっちり燃えるように紅くなったが、莞爾したげな。
若衆は、一支えもせず、腰を抜いたが、手を支く間もない、仰向けに引くりかえる。独りでに手足が動く、ばたばたはじまる。はッあァ、鼬の形と同一じゃ。と胸を突くほど、足が窘む、手が縮まる、五体を手毬にかがられる……六万四千の毛穴から血が颯と霧になって、件のその紅い唇を染めるらしい。草に頸を擦着け擦着け、
(お助け下さい、お助け!)……
と頭で尺取って、じりじりと後退り、──どうやらちっと、緊めつけられた手足の筋の弛んだ処で、馬場の外れへ俵転がし、むっくりこと天窓へ星を載せて、山端へ突立つ、と目が眩んだか、日が暮れたか、四辺は暗くなって何も見えぬ。
で、見返りもせず、逆落し、旧の坂をどどどッと駆下りる──いやもう途中、追々ものの色が分るにつけ、山茨の白いのも女の顔に顕われて、呼吸も吐けずに遁げた、──と申す。
若衆は話の中も、わなわなと歯の根が合わぬ。
(生血を吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。)
と引被せてやりました夜具の襟から手を出して、情なさそうに、銀の指環を視める処が、とんと早や大病人でな。
お不動様の御像の前へ、かんかん燈明を点じまして、その夜は一晩、私が附添ったほどでござります。
峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。午過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御堂へ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
が、唯今もお尋ねの肝腎のその怪い婦人が、姿容、これがそれ御殿女中と申す一件──振袖か詰袖か、裙模様でも着てござったか、年紀ごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、委しく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見境がございません。
何でも御殿女中は御殿女中で、薄ら蒼いにどこか黄味がかった処のある衣物で、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
して見ると、風説を聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実確にどんな姿だか分りませぬ。
さあ、是沙汰は大業で、……
(朝疾う起きて空見れば、
口紅つけた上﨟が、)
と村の小児は峠を視める。津幡川を漕ぐ船頭は、(笄さした黒髪が、空から水に映る)と申す、──峠の婦人は、里も村も、ちらちらと遊行なさるる……」
十
「その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。」
「それで、」
聞惚れていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
「貴下が、探険──山開きをなさいましたんですね。」
先達は額に手を当て、膨れた懐中を伏目に覗いて、
「御意で、恐縮をいたします……さような行力がありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日和下駄じゃ、ここらは先達めきましたな。立山、御嶽、修行にならば這摺っても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
また早い話が、この峠を越さねばと申して、多勢のものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山の端に、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高峰の花と、合点すれば済みます事。
処を、年効もない、密と……様子が見たい漫ろ心で、我慢がならず企てました。
それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御堂の額面に飾ってござります獅噛面、──待て待て対手は何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五枚錣を頂いたも同然、同じ天窓から一口でも、変化の口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛高がわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。」
「猿ヶ馬場へ、」
「さようで、立場の焼跡へ、」
「はあ成程。」
「縄張のあります処から、ここぞともはや面を装い、チャクと黒鬼に構えました。
仔細なく、鼻の穴から麓まで見通し、濶と睨んだ大の眼は、ここの、」
と額に皺を寄せて、
「汗を吹抜きの風通し……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背負って歩行く工合で、何となく、坂路が捗取りません。
馬場へ懸ると、早や日脚が摺って、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺麗に敷くでござりましてな、成程、早咲の桔梗が、ちらほら。ははあ、そこらが埋井戸か……薄がざわざわと波を打つ。またその風の冷たさが、颯と魂を濯うような爽快いだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
おのれ、と心をまず丹田に落つけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這廻るのが、むらむらと鼠色に畝って染めるので、変に幻の山を踏む──下駄の歯がふわふわと浮上る。
さあ、こうなると、長し短し、面被りでござるに因って、眼は明いが、面は真暗、とんと夢の中に節穴を覗く──まず塩梅。
それ、躓くまい、見当を狂わすなと、俯向きざまに、面をぱくぱく、鼻の穴で撓める様子が、クン、クンと嗅いで、
(やあ人臭いぞ。)
と吐きそうな。これがさ、峠にただ一人で遣る挙動じゃ、我ながら攫われて魔道を一人旅の異変な体。」
「まったく……ですね。」
と三造は頷いたのである。
「な、貴辺、こりゃかような態をするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いて上るか、谷へ逆様ではなかろうか、なぞと怯気がつくと、足が窘んで、膝がっくり。
ヤ、ヤ、このまんまで、窮いては山車人形の土用干──堪らんと身悶えして、何のこれ、若衆でさえ、婦人の姿を見るまでは、向顱巻が弛まなんだに、いやしくも行者の身として、──」
十一
「ごもっともですね。」
ちとこれが不意だったか、先達は、はたと詰って、擽たい顔色で、
「痛入ります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」
境は心着いて、気の毒そうに、
「いいえ、いいえ。」
「何、私もその気で仰有ったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
笑事ではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓を跨いだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番突立てておこう了簡。
薄の中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが刺りません。えいと杖の尖で捏ねる内に、何の花か、底光りがして艶を持った黄色いのが、右の突捲りで、薄なりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」
「おお!」
「得も言われぬ佳い匂がしました。はてな、あの一軒家の戸口を覗くと、ちらりと見えた──や、その艶麗なことと申すものは。──
時ならぬ月が廂から衝と出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服の色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、私の方はただ颯と白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで──衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合が、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
(鬼じゃ、)
と、私一つ大声を上げました。
(鬼じゃ、鬼じゃ。)
と、こうぬっと腕を突張った。金剛杖を棄置いて、腰の据らぬ高足を摚と踏んで、躍上るようにその前を通った、が、可笑い事には、対方が女性じゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告が慇懃になりましてな。……
(鬼でござる。)
と夢中で喚いて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。──
処で、先刻の不調法、」
と息を吐き、
「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細はこうでござります──が、さて同一人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺を前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方こそ異形を扮装をしましたけれども、彼方は何にせよ女体でござる。風説の通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好事な御令嬢が住居いたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁出しましても可さそうなものじゃったに……
……と申すがやはり、貴辺にお目に掛りましてからの分別で。ぱっと美しいもので目が眩みました途端には、ただ我を忘れて、
(鬼じゃ。)
と拳を握りました。
これだけでは、よう御合点はなりますまいで、私のその驚き方と申すものは、変った処に艶麗な女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山気の凝って鼠色の靄のかかりました一軒家、廂合から白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい──いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。」
十二
「分りました。」
と三造は衣紋を合わせて、
「何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。」
「御存じかな。」
「たびたび通って知っています。」
「ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋と申したのが焼残っておりますが。」
「鍵屋、──二軒目の。」
と云って境は俯向いた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、旧来た麓へ引返そうかとも迷ったのである。
が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心が極った。
様子は先達にも見て取られて、
「ええ、鍵屋なら、お上りになりますかな。」
「別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。」
と云って、別離の会釈に頭を下げたが、そこに根を生して、傍目も触らず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。
「悪いんですか、参っては。」
山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右瞻左瞻て、
「お待ち下さい。血気に逸り、我慢に推上ろうとなさる御仁なら、お肯入れのないまでも、お留め申すが私年効ではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまいで、必ず御無用とは申上げん。
峠でその婦人を見るものは……云々と恐るべき風説はいたすが、現に、私とても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことお出が宜しい。」
「ああ、それはどうも難有い。」
と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。
「さ、さ、」
先達も立構えで、話の中に挘って落した道芝の、帯の端折目に散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、煽ぐように払いてくれた。
「ところで、」
顔を振って四辺を見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。
「この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。──急ぎの旅ではなかろうで、手前お守りをいたす、麓の御堂で御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰も居らず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。
私は、急いで、竹の橋まで下りますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴辺はまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶を沸して相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。
就きましては、」
かさかさと胸を開いて、仰向けに手に据えた、鬼の面は、紺青の空に映って、山深き径に幽なる光を放つ。
「先生方にはただの木の面形でござれども、現に私が試みました。驚破とある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。」
三造は猶予いつつ、
「しかし、御重宝、」
「いや、御役に立てば本懐であります。」
すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手に鐸が鳴った。
「御無事で、」
「さようなら。」
蜩の声に風颯と、背を押上げらるるがごとく境は頭を峠に上げた。雲の峰は縁を浅葱に、鼠色の牡丹をかさねた、頂白くキラキラと黄金の条の流れたのは、月がその裡に宿ったろう。高嶺の霞に咲くという、金色の董の野を、天上遥かに仰いだ風情。
西山日没東山昏。旋風吹馬馬蹈雲。──
低声に唱いかけて、耳を澄ますと、鐸の音は梢を揺って、薄暗い谷に沈む。
十三
女巫澆酒雲満空。玉炉炭火香鼕鼕。海神山鬼来座中。紙銭窸窣鳴颴風。相思木帖金舞鸞。
攢蛾一啑重一弾。呼星召鬼歆杯盤。山魅食時人森寒。
境の足は猿ヶ馬場に掛った。今や影一つ、山の端に立つのである。
終南日色低平湾。神兮長有有無間。
越の海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北国の山々は、皆黄昏の袖を連ねた。
「神兮長に有無の間にあり。」
胸を見ると、背中まで抜けそうな眼が濶と、鬼の面が馬場を睨んで、ここにも一人神が彳む、三造は身自から魔界を辿る思がある。
峠のこの故道は、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、蘆の茂かと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、──それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目標の一軒家は靄も掛らぬのに屋根も分らぬ。
場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈迷う路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶予うて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……
ひょっこり肌脱の若衆が、草鞋穿で出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさと顕われそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目前へ幻影に出るものかも知れぬ。
現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る──通ると……その形が幻を束ねた雲になって、颯と一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりと湧いて来て、ふいと行くと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずに凝と留まって、裾の消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。
またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他愛もなく、形なく力もなく、袖を透かして背後へ通る。
三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、薄の海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。
「ああ、そうか……」
山伏は大跨で、やがて麓へ着いた時分、と、足許の杉の梢にかかった一片の雲を透かして、里可懐く麓を望んだ……時であった。
今昇った坂一畝り下た処、後前草がくれの径の上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える──斉く雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いが彩があって、髪が黒く、俤が白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、細りと劃って濃い。
道は二町ばかり、間は隔ったが、翳せばやがて掌へ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長らしいのも想像された。
同時に、その傍のもう一人、瞳を返して、三造は眉を顰めた。まさしく先刻の婆らしい。それが、黒い袖の桁短かに、皺の想わるる手をぶらりと、首桶か、骨瓶か、風呂敷包を一包提げていた。
境が、上から伸懸るようにして差覗くと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。
確に暗号に違いない、しかも自分にするのらしい。
「ええ。」
胸倉を取って小突かれるように、強く此方へ応えるばかりで、見るなか、行けか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横啣えにして飛びそうな、厭な手つきだとしみじみ感じた。
十四
その内に……婆の手の傍から薄が靡いて、穂のような手が動いた。密と招いて、胸を開くと、片袖を掻込みながら、腕をしなやかに、その裾のあたりを教えた。
そこへ下りて来よ、と三造に云うのである──
意味は明かに、しかも優しく、美しく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?
峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分我にしか云うものが、婦人の身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずん行けば何とする?
すべてかかる事に手間隙取って、とこうするのが魔が魅すのである。──構わず行こう。
「何だ。」
谿間の百合の大輪がほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。踵を廻らし、猛然と飛入るがごとく、葎の中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。
山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋の淵の底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲蛇でまっしぐらに突いて出ると、颯と開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真暗に聳えたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一条濃い靄が懸った、靄の下に、九十九谷に介まった里と、村と、神通、射水の二大川と、富山の市が包まるる。
さればこそ思い違えた、──峠の立場はここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
紫に桔梗の花を織出した、緑は氈を開いたよう。こんもりとした果には、山の痩せた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹の桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に彳む。
と見れば鍵屋は、礎が動いたか、四辺の地勢が露出しになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一艘頂に据えたるごとく、厳にかつ寂しく、片廂をぐいと、山の端から空へ離して、舳の立った形して、立山の波を漕がんとす。
境は可懐げに進み寄った。
「や!」
その門口に、美しい清水が流るる。いや、水のような褄が溢れて、脇明の肌ちらちらと、白い撫子の乱咲を、帯で結んだ、浴衣の地の薄お納戸。
すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の腕力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく艶かな鬢を支えた、前髪を透く、清らかな耳許の、幽に洩るる俯向き形、膝を折って打伏した姿を見た。
冷い風が、衝と薫って吹いたが、キキと鳴く鼬も聞えず、その婦人が蝦蟇にもならぬ。
耳が赫と、目ばかり冴える。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、件の姿ばかりは、がっくり伸ばした頸の白さに、毛筋が揃って、後れ毛のはらはらと戦ぐのまで、瞳に映って透通る。
これを見棄てては駆抜けられない。
「もし……」
と言いもあえず、後方へ退って、
「これだ!」
とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、突ぱじけて、
「……顔を見ると……のっぺらぼう──」
と思わずまた独言。我が声ながら、変に掠れて、まるで先刻の山伏の音。
「今も今、手を掉った……ああ、頻りに留めた……」
と思うと、五体を取って緊附けられる心地がした。
十五
けれども、まだ幸に俯向けに投出されぬ。
「触らぬ神に祟なし……」
非常な場合に、極めて普通な諺が、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出して去ろうとしたが……病難、危難、もしや──とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
境は後髪を取って引かれた。
洋傘を支いて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた視めた。──今しがた、ちぎれ雲の草を掠めて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを過った事は確である。
確で、しかもその顔には、この鬼の面を被っていた。──時に、門口へ露われた婦人の姿を鼻の穴から覗いたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために尠からず驚かされた。
おお、それだと、たとい須磨に居ても、明石に居ても、姫御前は目をまわそう。
三造は心着いて、夕露の玉を鏤めた女の寝姿に引返した。
「鬼じゃ。」
試みに山伏の言を繰返して、まさしく、怯かされたに相違ないと思った。
「鬼じゃ。……」
と一足出てまた呟いたが、フト今度は、反対に、人を警むる山伏の声に聞えた。勿れ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
境は再び逡巡した。
が、凝と瞻めて立つと、衣の模様の白い花、撫子の俤も、一目の時より際立って、伏隠れた膚の色の、小草に搦んで乱れた有様。
手に触ると、よし蛇の衣とも変らば化れ、熱いと云っても月は抱く。
三造は重い廂の下に入って、背に盤石を負いながら、やっと婦の肩際に蹲んだのである。
耳許はずれに密と覗く。俯向けのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を翳しもしなかったが、鬢の毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、幽に呼吸がありそうである。
「令嬢。」
とちょっと低声に呼んだ──爪はずれ、帯の状、肩の様子、山家の人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
「嬢さん、嬢さん──」
とやや心易げに呼活けながら、
「どうなすったんですか。」
とその肩に手を置いたが、花弁に触るに斉しい。
三造は四辺を見て、つッと立って、門口から、真暗な家の内へ、
「御免。」
「ほう……」
と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って谺と知れた。自分の声が高かった。
「誰も居ないな。」
美女の姿は、依然として足許に横わる。無慚や、片頬は土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目高う根が弛んで、簪の何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、──あの坂の途中に、可厭な婆と二人居て手を掉ったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等怪しき輩が、ここにかかる犠牲のあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て妨しょう。早く助けずば、と急心に赫となって、戦く膝を支いて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした腕が柔かに動いて、脇明を辷った手尖が胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに抱き上げると、仰向けに綿を載せた、胸がふっくりと咽喉が白い。カチリと音して、櫛が鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後へ投った。
「山伏め、何を言う!」
十六
「いや、もう、先方が婦人にもいたせ、男子にもいたせ、人間でさえありますれば、手前は正のもの鬼でござる。──狼が法衣より始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面を被った山伏は、さて早や申訳がない。」
御堂の屋根を蔽い包んだ、杉の樹立の、廂を籠めた影が射す、炉の灰も薄蒼う、茶を煮る火の色の𤏋と冴えて、埃は見えぬが、休息所の古畳。まちなし黒木綿の腰袴で、畏った膝に、両の腕の毛だらけなのを、ぬい、と突いた、賤しからざる先達が総髪の人品は、山一つあなたへ獅噛を被って参りしには、ちと分別が見え過ぎる。
「怪しからぬ山伏め、と貴辺がお思いなされたで好都合。その御婦人が手前の異形に驚いて、恍惚となられる。貴辺は貴辺で、手前の野譫言を真実と思召し、そりゃこそ鬼よ、触らぬ神に祟りなしの御思案で、またまたお見棄てになったとしまする、御婦人がそれなりで御覧じろ、手前は立派な人殺でございます。何も、げし人に立派は要らぬが、承りましただけでも、冷汗になりますで。
いや、それにつけても、」
と山伏の肩が聳え、
「物事と申すは、よく分別をすべきであります。私ども身柄、鬼神を信ぜぬと云うもいかがですが、軽忽に天窓から怪くして、さる御令嬢を、蟇、土蜘蛛の変化同然に心得ましたのは、俗にそれ……棕櫚箒が鬼、にも増った狼狽え方、何とも恥入って退けました。
──(山伏め、何を吐す。)──結構でござるとも。その御婦人をお救けなさって、手前もお庇で助かりました。
いかにも、不意に貴辺にお出逢い申したに就いて、体の可い怪談をいたし、その実、手前、峠において、異変なる扮装して、昼強盗、追落はまだな事、御婦人に対し、あるまじき無法不礼を働いたように思召したも至極の至りで。」
「まあ、お先達、貴下、」
対向いの三造は、脚絆を解いた痩脛の、疲切った風していたのが、この時遮る。……
「いやいや、仰せではありますが、早い話が、これが手前なら、やっぱり貴辺をそう存ずる、……道でござる、理でございます。
しかし笑って遣わされ。まず山中毒とでも申すか、五里霧中とやらに徉徊いました手前、真人間から見ますると狂人の沙汰ですが、思いの外時刻が早く、汽車で時の間に立帰りましたのを、何か神通で、雲に乗つて馳せ戻ったほどの意気組。その勢でな、いらだか、苛って、揉上げ、押摺り、貴辺が御無事に下山のほどを、先刻この森の中へ、夢のようにお立出でになった御姿を見まするまで、明王の霊前に祈を上げておりました。
それもって、貴辺が、必定、お立寄り下さると信じましたからで。
信じながらも、思い懸けぬ山路に一人憩んでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目に懸ったような、茫とした気がしまして、眼前に焚きました護摩の果が霧になって森へ染み、森へ染み、峠の方を蔽い隠すようにもござった。……
何にせよ、私どうかしていたと見えます。兎はちょいちょい、猿も時々は見懸けますが、狐狸は気もつきませぬに、穴の中からでも魅りましたかな。
明王もさぞ呆れ返って、苦笑いなされたに相違ござらん。私のその痴けさ加減、──ああ、御無事を祈るに、お年紀も分らぬ、貴辺の苗字だけでも窺っておこうものを、──心着かぬことをした。」
総髪をうしろへ撫でる。
「などと早や……」
三造は片手をちゃんと炉縁に支いて、
「難有う存じます。御厚意、何とも。」
十七
更めて、
「お先達、そうやって貴下は、御自分お心得違いのようにばかりお言いですが、──その人を抱き起して美しい顔を見た時、貴下に対して心得違いしましたのは、私の方じゃありませんか。
そして、無事、」
と言い懸けたが、寂しい顔をした、──実は、余り無事でばかりもなかったのであるから。
「ともかくも……峠を抜けられましたのは、貴下が御祈念の功徳かも知れません──確に功徳です。
そうでないと、今頃どうなっていたか自分で自分が解らんのです。何ともお礼の申上げようはありません。実際。
その人だって、またそうです──あの可恐い面のために気絶をした。私が行かないとそのまま一命が終ったかも知れない、と言えば、貴下に取って面倒になりますけれども、ただ夢のように思ったと、彼方で言います──それなり茫となって、まあ、すやすやと寐入ったも同じ事で。たとい門口に倒れていたって、茎が枯れたというんじゃなし、姿の萎んだだけなんです……露が降りれば、ひとりでにまた、恍惚と咲いて覚める、……殊に不思議な花なんですもの。自然の露がその唇に点滴らなければ点滴らないで、その襟の崩れから、ほんのり花弁が白んだような、その人自身の乳房から、冷い甘いのを吸い上げて、人手は藉らないでも、活返るに疑いない。
私は──膝へ、こう抱き起して、その顔を見た咄嗟にも、直ぐにそう考えました。──
こりゃ余計な事をしたか。自分がこの人を介抱しようとするのは、眠った花を、さあ、咲け、と人間の呼吸を吹掛けるも同一だと。……
で、懐中の宝丹でも出すか、じたばた水でも探してからなら、まだしもな処を、その帯腰から裾が、私に起こされて、柔かに揺れたと思うと、もう睫毛が震えて来た。糸のように目を開いたんですから、しまった! となお思ったんです──まるで、夕顔の封じ目を、不作法に指で解いたように。
はッとしながら、玉を抱いた逆上せ加減で、おお、山蟻が這ってるぞ、と真白な咽喉の下を手で払くと、何と、小さな黒子があったんでしょう。
逆に温かな血の通うのが、指の尖へヒヤリとして、手がぶるぶるとなった、が、引込める間もありません。婦がその私の手首を、こう取ると……無意識のようじゃありましたが、下の襟を片手で取って、ぐいと胸さがりに脇へ引いて、掻合わせたので、災難にも、私の手は、馥郁とものの薫る、襟裏へ縫留められた。
さあ、言わないことか、花弁の中へ迷込んで、虻め、蜿いても抜出されぬ。
困窮と云いますものは、……
黙っちゃいられませんから、
(御免なさいよ。)
と、のっけから恐入った。──その場の成行きだったんですな。──」
「いかにも、」
と先達は、膝に両手を重ねながら、目を据えるまで聞入るのである。
「黙っています。が、こう、水の底へ澄切ったという目を開いて、じっと膝を枕に、腕に後毛を掛けたまま私を見詰める。眉が浮くように少し仰向いた形で、……抜けかかった櫛も落さず、動きもしません。
黙っちゃいられませんから、
(気がついたんですか。失礼を、)
まだ詫をする工合の悪さ。でも、やっぱり黙っています。
(気分はどうなんです。ここに倒れていなすったんだが。)
これで分ったろう、放したまえ、早く擦抜けようと、もじつくのが、婦の背を突いて揺るようだから、慌ててまた窘まりましたよ。どこを糸で結んで手足になったか、女の身体がまるで綿で……」
十八
「綿で……重いことは膝が折れそう──もっともこの重いのは、あの昔話の、怪い者が負さると途中で挫げるほどに目貫がかかるっていう、そんなのじゃない。そりゃ私にも分っていましたが、……
ああ、これはなぜ私が介抱したか、その人はどうしていたか、そんな事なんぞ言ってるんではまだるッこい。
(失礼しました、今何です、貴女の胸に蟻が這っていたもんですから、)
つい払って上げよう、と触ったんだ、とてっきりそれがために、そんな様子で居るんだろう、と気が着いて、言訳をしましたがね。
黙っています……ちっとも動かないで、私の顔を、そのまま見詰めてるじゃありませんか。」
と三造は先達の顔を瞻って、
「じゃ、まだ気が遠くなったままで、何も聞えんのかと思えば、……顔よりは、私が何か言うその声の方が、かえってその人の瞳に映るような様子でしょう。梔子の花でないのは、一目見てもはじめから分ってます。
弱りました。汗が冷く、慄気と寒い。息が発奮んで、身内が震う処から、取ったのを放してくれない指の先へ、ぱっと火がついたように、ト胸へ来たのは、やあ!こうやって生血を吸い取る……」
「成程、成程、いずれその辺で、大慨気絶けてしまうのでござろう。」
と先達は合点する。
「転倒しても気は確で、そんなら、振切っても刎上ったかと言えば、またそうもし得ない、ここへ、」
境は帯を圧えつつ、
「天女の顔の刺繍して、自分の腰から下はさながら羽衣の裾になってる姿でしょう。退きも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです──お先達、」
と何か急きながら言淀んで、
「話に聞いた人面瘡──その瘡の顔が窈窕としているので、接吻を……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。」
と云うと、先達は落着いた面色で、
「人面瘡、ははあ、」
さも知己のような言いぶりで、
「はあ、人面瘡、成程、その面が天人のように美しい。芙蓉の眦、丹花の唇──でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛着の念が起って、花の唇を……ふん、」
と仰向いて目を瞑ったが、半眼になって、傾きざまに膝を密と打ち、
「津々として玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿汁といたした処で、病人の迷うのを、強ち白痴とは申されん、──むむ、さようなお心持でありましたか。」
真顔で言われると、恥じたる色して、
「いいえ、心持と言うよりも、美人を膝に抱いたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
段々孤家の軒が暗くなって、鉄板で張ったような廂が、上から圧伏せるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちて行くかと、心も消々となりながら、ああ、して見ると、坂下で手を掉った気高い女性は、我らがための仏であった。──
この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠牲などと言う不心得。
と俯向いて、熟と目を睡ると……歴々と、坂下に居たその婦の姿、──羅の衣紋の正しい、水の垂れそうな円髷に、櫛のてらてらとあるのが目前へ。──
驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海の凪ぎたような緑の草の上へ、渚の浪のすらすらとある靄を、爪さきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を救うためか。
と思うと、どうして、これも敵方の女将軍。」
「女将軍?ええ、山賊の巣窟かな。」
と山伏はきょとんとする。
十九
「後で聞きますと、それが山へ来る約束の日だったので、私の膝に居る女が、心待に古家の門口まで出た処へ、貴下が、例の異形で御通行になったのだそうです。
その円髷に結った姉の方は、竹の橋から上ったのだと言いました。つい一条路の、あの上りを、時刻も大抵同じくらい、貴下は途中でお逢いになりはしませんでしたか。」
先達は怪訝な顔して、
「されば、……ところで、その婆さんはどうしましたな、坂下に立ったのを御覧になった時は、傍についていたというお話続きの、」
とかえってたずねる。
「それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路傍に二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……」
「さよう。」
「あすこよりは、ずっと麓の方です。」
「すると、そのどちらかは分りませんが、貴辺に分れて下山の途中で、婆さん一人にだけは逢いました。成程──承れば、何か手に包んだものを持っていた様子で──大方その従伴をして登った方のでありましょうな。
それにしては、お話しのその円髷に結った婦人に、一条路出会わねばならん筈、……何か、崖の裏、立樹の蔭へでも姿を隠しましたかな。いずれそれ人目を忍ぶという条で、」
「きっとそうでしょう。金沢から汽車で来たんだそうですから。」
先達は目を睜って、
「金沢から、」
「ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。」
「旅をかけて働きますかな。」
「ええ、」
「いや、盗賊も便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立籠って──御時節がら怪しからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。」
黙った三造は、しばらくして、
「お先達。」
「はい、」
と澄ました風で居る。
「風呂敷の中は、綺麗な蒔絵の重箱でしたよ。」
「どこのか、什物、」
「いいえ、その婦人の台所の。」
「はてな、」
「中に入ったのは鮎の鮨でした。」
「鮎の鮨とは、」
「荘河の名産ですって、」
先達は唖然として、
「どうもならん。こりゃ眉毛に唾じゃ。貴辺も一ツ穴の貉ではないか。怪物かと思えば美人で、人面瘡で天人じゃ、地獄、極楽、円髷で、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体裁も、森の中だけ狸に見える。何と、この囲炉裏の灰に、手形を一つお圧しなさい、ちょぼりと落雁の形でござろう。」
「怪しからん、」
と笑って、気競って、
「誰も山賊の棲家だとも、万引の隠場所だとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?」
「はい、」
と言って、瞬きして、たちまち呵々と笑出した。
「はッはッはッ、慌てました、いや、大狼狽。またしても獅噛を行ったて。すべて、この心得じゃに因って、鬼の面を被ります。
時にお茶が沸きました。──したが鮎の鮨とは好もしい、貴下も御賞翫なされたかな。」
二十
「承った処では、麓からその重詰を土産に持って、右の婦人が登山されたものと見えますな──但しどうやら、貴辺がその鮨を召ると、南蛮秘法の痺薬で、たちまち前後不覚、といったような気がしてなりません。早く伺いたい。鮨はいかがで?」
その時境は煎茶に心を静めていた。
「御馳走は……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠蘇の香のする青い色の酒に添えて──その時は、筧の水に埃も流して、袖の長い、振の開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。」
「いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。」
と日に焼けた額を押撫でながら、山伏は破顔する。
「しかし、その倒れていた婦人ですが、」
「はあ、それがお酌を参ったか。」
「いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は──ですね。」
「そうそうそう、またこれは面被りじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可ん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺の膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立ちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。」
「けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前後を辿り辿りしないと、茫として掴えられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
──その円髷の、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。──
膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
手を放すと、そのまま、半分背を起した。──両膝を細りと内端に屈めながら、忘れたらしく投げてた裾を、すっと掻込んで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活々した、清い調子で、
(姉さん、この方を留めて下さい、帰しちゃ厭よ。)
と言うが疾いか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
私は呆気に取られた。
すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、緊った口許で、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へ行くな、と言って………手で教えた婦人でしょう。
何にも言わないだけなお気がさす。
(ええ、実は……)
と前刻からの様子を饒舌って、ついでに疑を解こうとしたが、不可ません。
(ああ、)
それ覗くまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人の後を軒下にこう透しながら、
(しばらくどうぞ。)
坂を上って、アノ薄原を潜るのに、見得もなく引提げていた、──重箱の──その紫包を白い手で、羅の袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出来たの、何の。大巌の一枚戸のような奴がまた恐しく辷りが良くって、発奮みかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンと谺を返すんです。ぎょっとしました。
その時です。
(どこへもいらしっちゃ不可ませんよ。)
と振返りざまに莞爾、美しいだけにその凄さと云ったら。高い敷居に褄も飜さず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一条の長い土間が、門形角形に、縦に真暗な穴で。」
と言った、この辺家の構は、件の長い土間に添うて、一側に座敷を並べ、鍵の手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭の倶利伽羅谷、九十九谷の一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。
二十一
「今の一言に釘を刺されて、私は遁ることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。止むことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母衣を背負って、深い穴の気がする、その土間の奥を覗いていました。……冷こい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
その時分には、当人大童で、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
遥か突当り──崖を左へ避けた離れ座敷、確か一宇別になって根太の高いのがありました、……そこの障子が、薄い色硝子を嵌めたように、ぼうとこう鶏卵色になった、灯を点けたものらしい。
その障子で、姿を仕切って、高縁から腰を下して、裾を踏落した……と思う態度で、手を伸して、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
(ええ、ええ。)
と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる──その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜違いに糶出すんですがね、どうして、掴まった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、挺でも足が動きません。
またちらりと招く。
招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引込まして、門へ身体を横づけに、腕組をして棒立ち──で、熟と目を睡って俯向いていました。
この体が、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もし麓だと、頬被をして、礫をトンと合図をする、カタカタと……忍足の飛石づたいで………
(いらっしゃいな。)
と不意に鼻の前で声がしました。いや、その、もの越の婀娜に砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
(はッあ。)
と言う。
(さあ、どうぞ。)
と何にも思わない調子でしたが、板戸を劃に、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。」
「これは、どちらの御婦人で、」
と先達は、湯を注しかけた土瓶を置く。
「それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
敷居を跨ぐ時、一つ躓いて、とっぱぐったじき傍に、婦人が立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
(これは。)
と云うと…………
(お危うございます、お気をつけ下さいまし。)
(どうもつい馴れませんので、)
と言いましたがね、考えると変な挨拶。誰がこんな処を歩行馴れた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心積り十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。──そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折曲って、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折曲の処まで、店口から掛けて、以前、上下の草鞋穿きが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛氈の上へあがった場処です。
余計なことを言うようですが、後の都合がありますから、この屋造の様子を聞いて下さい。
で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明りで見えました。それは戸外からも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入口しばらくの間、おまけに狭い処が、隧道でしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。──黙って手を曳いたではありませんか。」
二十二
「対手は悠々としたもので、
(蜘蛛の巣が酷いのでございますよ。)
か何かで、時々歩行きながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽搏つ塩梅。
これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
果して、そうでした。雨戸の開けてある、広土間の処で、円髷が古い柱の艶に映った。外は八重葎で、ずッと崖です。崖にはむらむらと靄が立って、廂合から星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬杖を支いて、蟇が覗いていそうで。婦人がまた蒼黄色になりはしないか、と密と横目で見ましたがね。襲を透いた空色の絽の色ばかり、すっきりして、黄昏の羅はさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人気勢がある。ああ、白脛が、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈火に描かれる。──そこへ行く背戸は、浅茅生で、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
(さあ、こちらへ。)
ここで手を離して、沓脱の石に熊笹の生え被った傍へ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小手招をしたのでしょう。
(上りましても差支えはございませんか。)
とその期に及んで、まだ煮切らない事を私が言うと、
(主人がお宿をいたします。お宅同様、どうぞお寛ぎ下さいまし。)
と先へ廻って、こう覗き込むようにして褥を直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
(ともかく御免を、)
高縁へ腰を蹂って、爪尖下りに草鞋の足を、左の膝へ凭せ掛けると、目敏く貴婦人が気を着けて、
(ああ、お濯ぎ遊ばしましょうね。)
と二坪ばかりの浅茅生を斜に切って、土間口をこっちから、
(お綾さん──)
と呼びます。
(ああ、もしもし。)
私は草鞋を解きながら、
(乾いた道で、この足袋がございます。よく払けば、何、汚れはしません。お手数は恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、)
と心着くと、無雑作で、
(いいえ、もう御覧の通り、土間も同一でございますもの、そんな事なぞ、ちっともお厭いには及びませんの。)
と云いかけて莞爾して、
(まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住居を、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。)
いかにも、この別亭が住居らしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
そこで、ちと低声になって、
(貴女は……此家の……ではおあんなさいませんのですか。)
(は、私もお客ですよ。──不行届きでございますから、事に因りますと、お合宿を願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。)
とちょいと煽いだ、女扇子に口許を隠したものです。」
「成程、どうも。」
山伏は髯だらけな頬を撫でる。
「私は、黙って懐中を探しました。さあ、慌てたのは、手拭、蝦蟇口、皆無い。さまでとも思わなかったに、余程顛動したらしい。門へ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足を払く……」
二十三
「……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、袂を引いたが長襦袢の端と一所に、涼しい手巾を出したんですがね。
崖へ向いた後姿、すぐに浅茅生へ帯腰を細く曲げたと思うと、さらさらと水が聞えた。──朧の清水と云うんですか、草がくれで気が着かなかった、……むしろそれより、この貴婦人に神通があって、露を集めた小流らしい。
(これで、貴下、)
と渡す──筧がそこにあるのであったら、手数は掛けないでも洗ったものを、と思いながら思ったように口へは出ないで、黙りで、恐入ったんですが、柔く絹が搦んで、水色に足の透いた処は、玉を踏んで洗うようで。
(さあ、お寄越しなさいまし。)
と美しい濡れた手を出す。
(ちょいと濯ぎましょう。)
遮ると、叱るように、
(何ですね、跣足でお出なすっては、また汚れるではありませんか。)
で恐縮なのは、そのままで手を拭いて、
(後で洗いますよ。)と丸げて落した。手巾は草の中。何の、後で洗うまでには、蛇が来て抱くか、山𤢖が接吻をしよう、とそこいらを眗しましたが、おっかなびっくり。
(姉さん。)
(ああ、)
(ちょいと。……)
土間口の優しい声が、貴婦人を暗がりへ呼込んだ。が、二ツ三ツ何か言交わすと、両手に白いものを載せて出た──浴衣でした。
余り人間離れがしますから、浅葱の麻の葉絞りで絹縮らしい扱帯は、平にあやまりましたが、寝衣に着換えろ、とあるから、思切って素裸になって引掛けたんです。女もので袖が長い──洗ったばかりだからとは言われたが、どこかヒヤヒヤと頸元から身に染む白粉の、時めく匂で。
またぼうとなって、居心が据らず、四畳半を燈火の前後、障子に凭懸ると、透間からふっと蛇の臭が来そうで、驚いて摺って出る。壁際に附着けば、上から蜘蛛がすっと下りそうで、天窓を窘めて、ぐるりと居直る……真中に据えた座蒲団の友染模様が、桔梗があって薄がすらすら、地が萌黄の薄い処、戸外の猿ヶ馬場そっくりというのを、ずッと避けて、ぐるぐる廻りは、早や我ながら独りでぐでんに酔ったようで、座敷が揺れる、障子が動く、目が廻る。ぐたりと手を支く、や、またぐたりと手を支く。
これじゃならん、と居坐居を直して、キチンとすると、掻合わせる浴衣を……潜って触る自分の身体が、何となく、するりと女性のようで、ぶるッとして、つい、と腕を出して、つくづくと視める始朱。さ、こうなると、愚にもつかぬ、この長い袖の底には、針のようを褐色の毛がうじゃうじゃ……で、背中からむずつきはじめる。
もっとも、今浴衣を持って来て、
(私もちょいと失礼をいたしますよ。)
で、貴婦人は母屋へ入った──当分離座敷に一人の段取で。
その内に、床の間へ目が着きますとね、掛地がない。掛地なしで、柱の掛花活に、燈火には黒く見えた、鬼薊が投込んである。怪しからん好みでしょう、……がそれはまだ可い。傍の袋戸棚と板床の隅に附着けて、桐の中古の本箱が三箇、どれも揃って、彼方向きに、蓋の方をぴたりと壁に押着けたんです。……」
「はあ、」
とばかりで、山伏は膝の上で手を拡げた。
「昔修行者が、こんな孤家に、行暮れて、宿を借ると、承塵にかけた、槍一筋で、主人の由緒が分ろうという処。本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼方向けの不開の蓋で、またしても眉を顰めずにはいられませんのに、押並べて小机があった。は可懐しいが、どうです──その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦蟇口と手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。」
と境は居直る。
二十四
「背後は峰で、横は谷です。峰も、胴の窪んだ、頭がざんばらの栗の林で蔽い被さっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、──今更遁出そうッたって隙があるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静としていられないから、手近の障子をがたりと勢よく開けました。……何か命令をされたようで、自分気儘には、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
すると貴下、何とその横縁に、これもまた吃驚だ。私のいかがな麦藁帽から、洋傘、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下が打棄っておいでなすったと聞きました、その金剛杖まで、一揃、驚いたものの目には、何か面当らしく飾りつけたもののように置いてある。……」
山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音が響いて来て、浅茅生を颯々、沓脚で、カタリと留むと、所在紛らし、谷の上の靄を視めて縁に立った、私の直ぐ背後で、衣摺れが、はらりとする。
小さな咳して、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望になりますよ。)
と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗くように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向いた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺の櫛が晃めく、鬢も撫つけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極まった、小取廻しの姿の好さ。よろけ縞の明石を透いて、肩から背がふっくりと白かった──若い方の婦人なんです。
お馴染の貴婦人だとばかり、不意を喰って、
(いらっしゃい。)
と調子を外ずして、馬鹿な言を、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠しに勢よく煙草盆の前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
莞爾して顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、瞼をほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
(とんでもない。)
と突のめるように巻煙草を火入に入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
(お火が消えましたかしら。)
とちょっと翳した、火入れは欠けて燻ぶったのに、自然木を抉抜の煙草盆。なかんずく灰吹の目覚しさは、……およそ六貫目掛の筍ほどあって、縁の刻々になった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
何の、火は赤々とあって、白魚に花が散りそうでした。
やっと煙のような煙を吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一颪颯と吹込む。
と胸をずらして、燈を片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちの紅は薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
(おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出には颯といってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。)
と燈を背に、縁の端へ仰向いた顔で恍惚する。
(栗の林へ鵲の橋が懸りました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃々と、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。)
(ほとんど仙境。)
と私は手を支いて摺って出ました。
(まるで、人間界を離れていますね。)
……お先達、私のこう言ったのはどうです。」
急に問われて、山伏は、
「ははあ、」
と言う。
二十五
「驚駭に馴れて、いくらか度胸も出来たと見え、内々諷する心持もあったんですね。
直ぐには答えないで、手捌きよく茶を注いで、
(粗いんですよ。)
と言う、自分の湯呑で、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥加至極。も一つ唐草の透し模様の、硝子の水呑が俯向けに出ていて、
(お暑いんですから、冷水がお宜しいかも知れません。それだと直きそこに綺麗なのが湧いていますけれども、こんな時節には蛇が来て身体を冷すと申しますから。……)
この様子では飲料で吐血をしそうにも思われないから、一息に煽りました。実はげっそりと腹も空いて。
それを見ながら今の続きを、……
(ほんとに心細いんですわ。もう、おっしゃいます通り、こんな山の中で、幾日も何日もないようですが、確か、あの十三四日の月夜ですのね、里では、お盆でしょう。──そこいらの谷の底の方に、どうやら、それらしい燈籠の灯が、昨夜幽に見えましたわ……ぽっちりよ。)
と蓮葉に云ったが、
(蛍くらいに。)
そのままで、わざとでもなく、こう崖へかけて俯向き加減に、雪の手を翳した時は、言うばかりない品が備わって、気高い程に見えました。
(どんなに、可懐しゅうござんしたでしょう。)
たちまち悄れて涙ぐむように、口許が引しまった。
見ると堪らなくなって、
(そのかわり、また、里から眺めて、自然こうやってお縁側でも開いていて、フトこの燈火が見えましたら、どんなにか神々しい、天上の御殿のように思われましょう。)
なぜ山住居をせらるる、と聞く間もなしに慰めたんです。
あどけなく頭を振って、
(いいえ、何の、どこか松の梢に消え残りました、寂しい高燈籠のように見えますよ。里のお墓には、お隣りもお向うもありますけれど、ここには私唯一人。)
小指を反らして、爪尖を凝と見て、
(ほんとに貴下、心細い。蓮の台に乗ったって一人切では寂しいんですのに、おまけにここは地獄ですもの。)
(地獄。)
と言って聞返しましたがね、分別もなしに、さてはと思った。それ、貴下の一件です。」
「鬼の面、鬼の面。」
と山伏は頭を掻く。
「ところが違います。私もてっきり……だろうと思って、
(貴女、唐突ですが、昼間変なものの姿を見て、それで、厭な、そんな忌わしい事をおっしゃるんじゃありませんか、きっとそうでしょう。)
に極めてかかって、
(御心配はありません。あれは、麓の山伏が……)
ッて、ここで貴下の話をしました。
ついては、ちっと繕って、まあ、穏かに、里で言う峠の風説──面と向っているんですから、そう明白にも言えませんでしたが、でも峠を越すものの煩うぐらいの事は言った。で、承った通り、現にこの間も、これこれと、向う顱巻の豪傑が引転かえったなぞは、対手の急所だ、と思って、饒舌ったには饒舌りましたが、……自若としている。」
「自若として、」
「それは実に澄ましたものです。蟇が出て鼬の生血を吸ったと言っても、微笑んでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちは急って、
(なぜまたこんな処にお一人で。)
と思い切って胸を据えると、莞爾して、
(だって、山蟻の附着いた身体ですもの。)
と肩をぶるぶると震わしてしっかりと抱いた、胸に夕顔の花がまたほのめく。……ああ、魂というものは、あんな色か、と婦に玉の緒を取って扱かれたように、私がふらふらとした時、
(貴下、)
と顔を上げて、凝とまた見ました。」
二十六
「色めいた媚かしさ、弱々と優しく、直ぐに男の腕へ入りそうに、怪しい翼を掻窘めて誘込むといった形。情に堪えないで、そのまま抱緊めでもしようものなら、立処にぱッと羽搏きを打つ……たちまち蛇が寸断になるんだ。何のその術を食うものか、とぐっと落着いて張合った気で見れば、余りしおらしいのが癪に障った。
が、それは自分勝手に、対手が色仕掛けにする……いや、してくれる……と思った、こっちが大の自惚……
もっての外です。
実は、涙をもって、あわれに、最惜しく、その胸を抱いて様子を見るべき筈で。やがてまた、物凄さ恐しさに、戦き戦き、その膚を見ねばならんのでした。」──
と語りかけて、なぜか三造は歎息した。
山伏は茶盆を突退けて、釜の此方へ乗って出て、
「自惚でない。承った、その様子、怪しからん嬌媚の体じゃ。さようなことをいたいて、少い方の魂を蕩かすわ、ふん、ふふん、」
と頻りに頷きながら、
「そこでその、白い乳房でも露したでござるか。」
「いいえ。」
「いずれ、鳩尾に鱗が三枚……」
黙って三造は頭を掉る。
「全体蛇体でござるかな。」
「いいえ。」
「しからば一面の黒子かな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……」
「見ました、見ましたが、それは寝てからです。」
「寝て……からはなお怪しからん。これは大変。」
と引掴んで膝去り出した、煙草入れ押戻しさまに、たじたじとなって、摺下って、
「はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのその羅を透くと聞きましただけでも美しさが思い遣られる。寝てから膚を見たは慄然とする……もう目前へちらつく、独の時なら鐸を振って怨敵退散と念ずる処じゃ。」
「聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでも臥ったように、」
「違いますか。」
「飛んだ事を!」
と強く言った。
「はてな。」
「婦たちは母屋に寝て、私は浅芽生の背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。」
「またそれで、どうして貴辺は?」
「そうです……お聞苦しかろうが、覗いたんです。」
「お覗きなすった?いずれから。」
「長土間を伝って行って、母屋の一室を閨にした、その二人の蚊帳を、……
というのが──一人で離座敷に寝たには寝たが、どうしても静と枕をしている事が出来なくなってしまったんですね。」
「山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。」
「迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。」
「はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這込んでも、目をまわすほど怯かされる、よくあるやつじゃ。」
「いや、蚊帳は釣らないで臥りました。──母屋の方はそうも行かんが、清水があって、風通しの可いせいか、離座敷には蚊は居ません。で、ちと薄ら寒いくらいだから──って……敷くのを二枚と小掻巻。どれも藍縞の郡内絹、もちろんお綾さん、と言いました、少い人の夜のもの……そのかわり蚊帳は差上げません。──
(ちと美しい唇に、分けてお遣んなさいまし。……殿方の血は、殿方ばかりのものじゃありませんよ。)
と凄いような串戯を、これは貴婦人の方が言って。──辞退したが肯かないで、床の間の傍の押入から、私の床を出して敷いたあとを、一人が蚊帳を、一人が絹の四布蒲団を、明石と絽縮緬の裳に搦めて、蹴出褄の朱鷺色、水色、はらはらと白脛も透いて重って正屋へ隠れた、その後の事なんですが。」
二十七
「二人の婦が、その姿で、沓脱の笹を擦る褄はずれ尋常に、前の浅芽生に出た空には、銀河が颯と流れて、草が青う浮出しそうな月でしょう──蚊帳釣草にも、蓼の葉にも、萌黄、藍、紅麻の絹の影が射して、銀の色紙に山神のお花畑を描いたような、そのままそこを閨にしたら、月の光が畳の目、寝姿に白露の刺繍が出来そうで、障子をこっちで閉めてからも、しばらく幻が消えません。
が、二人はもう暗い母屋へ入ったんです。と、草清水の音がさらさらと聞え出す、それが、抱いた蚊帳と、掛蒲団が、狭い土間を雨戸に触って、どこまでも、ずッと遠くへ行くのが、響くかと思われる。……
ところで、いつでも用あり次第、往通いの出来るようにと、……一体土間のその口にも扉がついている。そこと、それから斜違いに向い合った沓脱の上の雨戸一枚は、閉めないで、障子ばかり。あとは辻堂のような、ぐるりとある廻縁、残らず雨戸が繰ってあった。
さて、寝る段になって、そのすっと軽く敷いた床を見ると、まるで、花で織った羅のようでもあるし、虹で染めた蜘蛛の巣のようにも見える──
ずかと無遠慮には踏込み兼ねて、誰か内端に引被いで寝た処を揺起すといった体裁……
枕許に坐って、密と掻巻の襟へ手を懸けると、冷かった。が、底に幽に温味のある気がしてなりません。
また気のせいで、どうやら、こう、すやすやと花が夜露を吸う寝息が聞える。可訝く、天鵞絨の襟もふっくり高い。
や、開けると、あの顔、──寝乱れた白い胸に、山蟻がぽっちり黒いぞ、と思うと、なぜか、この夜具へ寝るのは、少い主婦の懐中へ入るようで、心咎がしてならないので、しばらく考えていましたがね。
そうでもない、またどんな事で、母屋から出て来ないと限らん。誰か見るとこの体は、蓋を壁にした本箱なり、押入なり、秘密の鍵を盗もう、とするらしく思われよう。心苦しいと思って、思い切って、掻巻の袖を上げると、キラリと光ったものがある。
鱗か、金の、と総毛立つ──と櫛でした。いつ取落したか、青貝摺ので、しかも直ぐ襟許に落ちていました。
待て、女の櫛は、誰も居ない夜具の中に入っていると、すやすやと寝息をするものか、と考えたくらい、もうそれほどの事には驚かず、当然のようだったのも、気がどうかしていたんでしょう。
しばらく手に取って視めていましたが、
(ええ、縁切だ!)
とちと気勢って、ヤケ気味に床の間へ投出すと、カチリという。折れたか、と吃驚して、拾い直して、密と机に乗せた時、いささか、蝦蟆口の、これで復讎が出来たらしく、大に男性の意気を発して、
(どうするものか!)
ぐっと潜って、
(何でも来い。)
で枕を外して、大の字になった、……は可いが、踏伸ばした脚を、直ぐに意気地なく、徐々縮め掛けたのは……
ぎゃっ!
あれは五位鷺でしょうな。」
「ええ。」
「それとも時鳥かも知れませんが、ぎゃっ! と啼きます……
可厭な声で。はじめ、一声、二声は、横手の崖に満充ちた靄の底の方に響きました。虚空へ上って、ぎゃっと啼くかと思うと、直ぐにまたぎゃっと来る。
ちょうど谷底から、一軒家を、環に飛び廻っているようです。幾羽も居るんなら居るで可いが、何だか、その声が、同じ一つ鳥のらしいので、変に心地が悪いのです。……およそ三四十度、声が聞えたでしょうか。
枕頭で、ウーンと呻吟くのが響き出した、その声が、何とも言われぬ……」
二十八
「寝てから多時経つ。これは昼間からの気疲れに、自分の魘される声が、自然と耳に入るのじゃないか。
そうも思ったが、しかしやっぱり聞える。聞えるからには、自分でないのは確でしょう。
またどうも呻吟くのが、魘されるのとは様子が違って、苦み掙くといった調子だ……さ、その同一苦み掙くというにも、種々ありますが、訳は分らず、しかもその苦悩が容易じゃない。今にも息を引取るか、なぶり殺しに切刻まれてでもいそうです。」
「やあやあ、どちらの御婦人で。」
「いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦人なら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。」
「男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥間らしい、南無三、そこで?」
「何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、頭を擡げて、熟と聞くと……やっぱり、ウーと呻吟る、それが枕許のその本箱の中らしい。」
「本箱の?」
「一体、向うへ向けたのが気になったんだが、それにしても本箱の中は可訝い、とよくよく聞き澄しても、間違いでないばかりか、今度は何です、なお困ったのは、その声が一人でない、二人──三人──三個の本箱、どれもこれも唸っている。
ウーウーウーという続けさまのは、厭な内にもまだしも穏かな方で、時々、ヒイッと悲鳴を上げる、キャッと叫ぶ、ダァーと云う。突刺された、斬られた、焼かれた、と、秒を切って劃のつくだけ、一々ドキリドキリと胸へ来ます。
私はむっくり起直った。
ああ、硫黄の臭もせず、蒼い火も吹出さず、大釜に湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿鼻叫喚が風の繞るごとくに響くと聞く……さては……少い女が先刻──
(ここは地獄ですもの。)
と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、抉られた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻吟く。
とても堪らん。
気のせいで、浅茅生を、縁近に湧出る水の月の雫が点滴るか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻唸り出す──数百の虫が一斉に離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合目から溢出そう。
幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処──その一方だけは可厭な声がまだ憑着きません。おお! 事ある時は、それから母屋へ遁げよ、という、一条の活路なのかも料られん。……
お先達、」
と大息ついて、
「……こう私が考えたには、所説があります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。──先刻、──
(だって、山蟻の附着いてる身体ですもの。)
で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。──そこへ、
(お綾さん、これなのかい。)
と声を掛けて、貴婦人が、衝と入って来たのでした。……片手に、あの、蒔絵ものの包を提げて、片手に小な盆を一個。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝子盃を伏せて、真緑で透通る、美しい液体の入った、共口の壜が添って、──三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
(ああ、それなの、憚りさま。)
と少いのが言うと、
(手の着かないのは無いようね。)
と緑の露の映る手で、ずッと私の前へ直しました。酒なんですね。
(手が着いたって、姉さん、食べかけではないわ、お酒ですもの。)
綺麗な歯をちらりと見せたもんですね。その時、」
二十九
「貴婦人も莞爾して、
(ま、そうね、私はちっとも頂かないものだから。)
(あら人聞きが悪いわ。私ばかりお酒を飲むようで。)
(だってそれに違いないんですもの、ほんとに困った人だこと。)
ちょいと躾めるような目をした。二人で仲よく争いながら、硝子盃を取って指しました。
(さあ、お一つ召上れな、お綾さんの食べかけではないそうですから……しかしお甘いんで不可ませんか。)
と貴婦人が言った時は、もう少い方が壜を持って待ってるんでしょう。手首へ掛けて蒼い酒に、颯と月影が射したんです。
毒虫を絞った汁にもせよ、人生れて男にして、これは辞すべきでない。
引掛けて受けました。
薫と酔が、ほんのりと五臓六腑へ染渡る。ところで大胆にその盃を、少い女に返しますとね、半分ばかり貴婦人に注いでもらって、袖を膝に載せながら、少し横向きになって、カチリと皓歯の音がした、目を瞑って飲んだんです。
(姉さんは。)
(いいえ、沢山、私は卑いようなけれども、どうも大変にお肚が空いたよ。)
とお肴兼帯──怪しげな膳よりは、と云って紫の風呂敷を開いた上へ、蒔絵の蓋を隙かしてあった。そのお持たせの鮎の鮨を、銀の振出しの箸で取って撮んだでしょう。
(お茶を注して来ましょうね。)
と吸子を取って、沓脱を、向うむきに片褄を蹴落しながら、美しい眉を開いて、
(二人で置くは心配ね。)
と斜めになって袖を噛むと、鬢の戦ぎに連立って、袂の尖がすっと折れる。
貴婦人が畳に手を支き、
(お盃をしたのは貴女でしょう。)
(ですから、なおの事。)
と言い棄てて袂を啣えたまま蓮葉に出ました。
私は懵となった。
が、ここだ、と一番、三盃の酔の元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
(夫人。)と遣った──
(生命に別条はありませんでしょうな。)
卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとく浴せたんです。
笑うか、打つか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私を視て、
(ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。)
と判然言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔が蒼く、なぜか目の色が光るようで、羅の縞もきりりと堅く引緊って、くっきり黒くなったのに、悚然すると、身震がして酔が醒めた。
(ええ!)
しばらくして、私は両手を支かないばかりに、
(申訳がありません。)
でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手を掉って、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
(どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。)
と方なしに頭を下げた。
(さあ。)
と大事に居直って、
(それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴下お厭でしょう。)
私は目ばかり働いた。
(ですが、あの通り美しいのに、貴下にお願があると云って、衣物も着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不可ませんか、お可厭らしいのねえ。)
と歎息をされたのには、私もと胸を吐きました。……」
三十
「ちょいと二人とも言が途絶えた。
(ですがね、貴下、無理にも発程てお帰り遊ばそうとするのは──それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。)
と居座を開いて、庭を見ながら、
(よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。)
話は切れたんです、少い人が、いそいそ入って来ましたから。……
ところで、俯向いていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私には敵らしい少い人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対向いになると、凄いようで、おのずから五体が緊る、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、私ども二人して、と確に言った。
すると、……二人とも味方なのか、それとも敵なのか、どれが鬼で、いずれが菩薩か、ちっとも分りません。
分らずじまいに、三人で鮨を食べた。茶話に山吹も出れば、巴も出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五色の礫、==月かなし==という芭蕉の碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気に留った事があります。
少い女が持出した、金蒔絵の大形の見事な食籠……形の菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨形の落雁が入れてありました。ところで、蓋から身をかけて、一面に蒔いた秋草が実に見事で、塗も時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見惚れるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつで空になると、その底に、何にもない漆の中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイと髯を立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余り佳いから、あっ、と賞めると、貴婦人が、ついした風で、
(これは、お綾さんのお父さんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、)
と言いかける、と、目配せをした目が衝と動いた。少いのはまた颯と瞼を染めたんです。
で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心を安じたは可いが──寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻吟。……
お先達、ここなんです。
二人で心配をしてやろうと言ったは、今だ。疾くその遁口から母屋に抜けよう。が、あるいは三方から引包んで、誘き出す一方口の土間は、さながら穽穴とも思ったけれども、ままよ、あの二人にならどうともされろ!で、浅茅生へドンと下りた、勿論跣足で。
峰も谷も、物凄い真夜中ですから、傍目も触らないで土間へ辷り込む。
ずッと遥な、門へ近い処に、一間、煤けた障子に灯が射す。
閨は……あすこだ。
難有い、としっとり、びしょ濡れに夜露の染んだ土間を、ぴたぴたと踏んで、もっとも向うの灯は届かぬ、手探りですよ。
やがて、その土間の広くなった処へ掛ると、朧気に、縁と障子が、こう、幻のように見えたも道理、外は七月十四日の夜の月。で、雨戸が外れたままです。
けれども峰を横倒しに戸口に挿込んだように、靄の蔓ったのが、頭を出して、四辺は一面に濛々として、霧の海を鴉が縫うように、処々、松杉の梢がぬっと顕れた。他は、幅も底も測知られぬ、山の中を、時々すっと火の筋が閃いて通る……角に松明を括った牛かと思う、稲妻ではない、甲虫が月を浴びて飛ぶのか、土地神が蝋燭点けて歩行くらしい。
見ても凄い、早やそこへ、と思って寝衣の襟を掻合せると、その目当の閨で、──確に女の──すすり泣きする声がしました。……ひそひそと泣いているんですね。」
三十一
「夜半に及んで、婦人の閨へ推参で、同じ憚るにしても、黙って寝ていれば呼べもするし、笑声なら与し易いが、泣いてる処じゃ、たとい何でも、迂濶に声も懸けられますまい。
何しろ、泣悲むというは、一通りの事ではない。気にもなるし、案じられもする……また怪しくもあった。ですから、悪いが、密と寄って、そこで障子の破目から──
その破目が大層で、此方へ閉ってます引手の処なんざ、桟がぶら下って行抜けの風穴で。二小間青蒼に蚊帳が漏れて、裾の紅麻まで下へ透いてて、立つと胸まで出そうだから、覗くどころじゃありません。
屈んで通抜けました。そこを除けて、わざわざ廻って、逆に小さな破から透かして見ると……
蚊帳越ですが、向うの壁に附着けた燈と、対向いでよく分る。
その灯を背にして、こちら向きに起返っていたのは、年上の貴婦人で。蚊帳の萌黄に色が淡く、有るか無いか分らぬ、長襦袢の寝衣で居た。枕は袖の下に一個見えたが、絹の四布蒲団を真中へ敷いた上に、掛けるものの用意はなく、また寝るつもりもなかったらしい──貴婦人の膝に突伏して、こうぐっと腕を掴まって、しがみついたという体で、それで嬝々と力なさそうに背筋を曲って、独鈷入の博多の扱帯が、一ツ絡って、ずるりと腰を辷った、少い女は、帯だけ取ったが、明石の縞を着たままなんです。
泣いているのはそれですね。前刻から多時そうやっていたと見えて、ただしくしく泣く。後れ毛が揺れるばかり。慰めていそうな貴婦人も、差俯向いて、無言の処で、仔細は知れず……花室が夜風に冷えて、咲凋れたという風情。
その内に、肩越に抱くようにして投掛けていた貴婦人の手で脱がしたか、自分の手先で払ったか、少い女の片肌が、ふっくりと円く抜けると、麻の目が颯と遮ったが、直に底澄んだように白くなる……また片一方を脱いだんです。脱ぐと羅の襟が、肉置のほどの好い頸筋に掛って、すっと留まったのを、貴婦人の手が下へ押下げると、見る目には苛らしゅう、引剥ぐように思われて、裏を返して、はらりと落ちて、腰帯さがりに飜った。
と見ると、蒼白く透った、その背筋を捩って、貴婦人の膝へ伸し上りざまに、半月形の乳房をなぞえに、脇腹を反らしながら、ぐいと上げた手を、貴婦人の頸へ巻いて、その肩へ顔を附ける……
その半裸体の脇の下から、乳房を斜に掛けて、やァ、抉った、突いた、血が流れる、炎が閃めいて燃えつくかと思う、洪と迸ったような真赤な痣があるんです。」
山伏は大息ついて聞くのである。
「その痣を、貴婦人が細い指で、柔かにそろそろと撫でましたっけ。それさえ気味が悪いのに、十度ばかり擦っておいて、円髷を何と、少い女の耳許から潜らして、あの鼻筋の通った、愛嬌のない細面の緊った口で、その痣を、チュッと吸う、」
「うーむ、」
と山伏は呻吟った。
「私は生血を吸うのだと震え上った。トどうかは知らんが、少い女の絡んだ腕は、ひとりで貴婦人の頸を解けて、ぐたりと仰向けに寝ましたがね、鳩尾の下にも一ヶ所、めらめらと炎の痣。
やがて、むっくりと起上って、身を飜した半身雪の、褄を乱して、手をつくと、袖が下って、裳を捌いて、四ツ這いになった、背中にも一ツ、赤斑のある……その姿は……何とも言えぬ、女の狗。」
「ああ!」
「驚く拍子に、私が物音を立てたらしい。貴婦人が、衝と立つと、蚊帳越にパッと燈を……少い女は這ったままで掻消すよう──よく一息に、ああ消えたと思う。貴婦人の背の高かったこと、蚊帳の天井から真白な顔が突抜けて出たようで──いまだに気味の悪さが俤立ってちらちらします。
あとは、真暗、蚊帳は漆のようになった。」
三十二
「何が何でも、そこに立っちゃいられんから、這ったか、摺ったか、弁別はない、凸凹の土間をよろよろで別亭の方へ引返すと……
また、まあどうです。
あの、雨戸がはずれて、月明りが靄ながら射込んでいる、折曲った縁側は、横縦にがやがやと人影が映って、さながら、以前、この立場が繁昌した、午飯頃の光景ではありませんか。
入乱れて皆腰を掛けてる。
私は構わず、その前を切って抜けようとしました。
大胆だと思いますか──何、そうではない。度胸も信仰も有るのではありません、がすべてこういう場合に処する奥の手が私にある。それは、何です、剣術の先生は足が顫えて立縮んだが、座頭の坊は琵琶を背負ったなり四這いになって木曾の桟をすらすら渡り越したという、それと一般。
希代な事には、わざと胸に手を置いて寝て可恐い夢を平気で見ます。勿論夢と知りつつ慰みに試みるんです。が、夢にもしろ、いかにも堪らなくなると、やと叫んで刎起きる、冷汗は浴るばかり、動悸は波を立てていても、ちっとも身体に別条はない。
これです!
いざとなれば刎起きよう、夢でなくって、こんな事があるべき筈のもんじゃない、と断念めは附けましたが。
突懸り、端に居た奴は、くたびれた麦藁帽を仰ざまに被って、頸窪へ摺り落ちそうに天井を睨んで、握拳をぬっと上げた、脚絆がけの旅商人らしい風でしたが、大欠伸をしているのか、と見ると、違った! 空を掴んで苦しんでるので、咽喉から垂々と血が流れる。
その隣座に、どたりと真俯向けになった、百姓体の親仁は、抜衣紋の背中に、薬研形の穴がある。
で、ウンウン呻吟く。
少し離れて、青い洋服を着た少年の、二十ばかりで、学生風のが、頻りに紐のようなものを持って腰の廻りを巻いてるから、帯でもするかと見ると、振ら下った腸で、切裂かれ臍の下へ、押込もうとする、だくだく流れる血の中で、一掴、ずるりと詰めたが、ヒイッと悲鳴で仰向けに土間に転がり落ちると、その下になって、ぐしゃりと圧拉げたように、膝を頭の上へ立てて、蠢めいた頤髯のある立派な紳士は、附元から引断れて片足ない、まるで不具の蟋蟀。
もう、一面に算を乱して、溝泥を擲附けたような血の中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。──
いつの間にか、障子が透けて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦朧と灰色の磔柱が露われて、アノ胸を突反らして、胴を橋に、両手を開いて釣下ったのは、よくある基督の体だ。
床柱と思う正面には、広い額の真中へ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真蒼に黄色い眼を赫と睜く、この俤は、話にある幽霊船の船長にそっくり。
大俎がある、白刃が光る、筏のように槍を組んで、まるで地獄の雛壇です。
どれも抱着きもせず、足へも縋らぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後退りになって、ドンと突当ったまま、蹌踉けなりに投出されたように浅茅生へ出た。
(はああ。)
と息を引いた、掌へ、脂のごとく、しかも冷い汗が、総身を絞って颯と来た。
例の草清水がありましょう。
日蝕の時のような、草の斑に黒い、朦とした月明りに、そこに蹲んだ男がある。大形の浴衣の諸膚脱で、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへ投った、絹の手巾を引伸しながら、ぐいぐいと背中を拭いている。
これは人間らしいと、一足寄って、
(君……)
と掠れた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、瓶のようで、胴中ばかり。
(首はないが交際うけえ。)
と、野太い声で怒鳴られたので、はっと思うと、私も仰向けに倒れたんです。
やがて、気のついた時は、少い人の膝枕で、貴婦人が私の胸を撫でていました。」
三十三
「お先達、そこで二人して交るがわる話しました。──峠の一軒家を買取ったのは、貴婦人なんです。
これは当時石川県のある顕官の令夫人、以前は某と云う一時富山の裁判長だった人の令嬢で、その頃この峠を越えて金沢へ出て、女学校に通っていたのが、お綾と云う、ある蒔絵師の娘と一つ学校で、姉妹のように仲が好かったんだそうです。
対手は懺悔をしたんですが、身分を思うから名は言いますまい。……貴婦人は十八九で、もう六七人情人がありました。多情な女で、文ばかり通わしているのや、目顔で知らせ合っただけなのなんぞ──その容色でしかも妙齢、自分でも美しいのを信じただけ、一度擦違ったものでも直ぐに我を恋うると極めていたので──胸に描いたのは幾人だか分らなかった。
罪の報か。男どもが、貴婦人の胸の中で掴み合いをはじめた。野郎が恐らくこのくらい気の利かない話はない。惚れた女の腹の中で、じたばたでんぐり返しを打って騒ぐ、噛み合う、掴み合う、引掻き合う。
この騒ぎが一団の仏掌藷のような悪玉になって、下腹から鳩尾へ突上げるので、うむと云って歯を喰切って、のけぞるという奇病にかかった。
はじめの内は、一日に、一度二度ぐらいずつで留ったのが、次第に嵩じて、十回以上、手足をぶるぶると震わして、人事不省で、烈しい痙攣を起す容体だけれども、どこもちっとも痛むんじゃない。──ただ夢中になって反っちまって、白い胸を開けて見ると、肉へ響いて、団が動いたと言います。
三度五度は訳も解らず、宿のものが回生剤だ、水だ、で介抱して、それでまた開きも着いたが、日一日数は重なる。段々開きが遅くなって、激い時は、半時も夢中で居る。夢中で居ながら、あれ、誰が来て怨む、彼が来て責める、咽喉を緊める、指を折る、足を捻る、苦しい、と七転八倒。
情人が押懸けるんです。自分で口走るので、さては、と皆頷いた。
浅ましいの何のじゃない。が、女中を二人連れて看病に駆着けて来た母親は、娘が不行為とは考えない。男に膚を許さないのを、恋するものが怨むためだ、と思ったそうです。
とても宿じゃ、手が届かんで、県の病院へ入れる事になると、医者達は皆頭を捻った。病体少しも分らず、でただまあ応急手当に、例の仰反った時は、薬を嗅がせて正気づかせる外はないのです。
ざっと一月半入院したが、病勢は日に日に募る。しかも力が強くなって、伸しかかって胸を圧える看護婦に助手なんぞ、一所に両方へ投飛ばす、まるで狂人。
そうかと思うと、食べるものも尋常だし、気さえ注けば、間違った口一つ利かない。天人のような令嬢なんで、始末に困った。
すると、もう一人の少い方です。──お綾はその通りの仲だから、はじめから姉が病気のように心配をして、見舞にも行けば看病もしたが、暑中休暇になったので、ほとんど病院で附切り同様。
妙な事には、この人が手を懸けると、直ぐに胸が柔かになる。開きは着かぬまでも三人四人で圧え切れぬのが、静に納まって、夢中でただ譫事を云うくらいに過ぎぬ。
で、母親が、親にも頼んで、夜も詰め切ってもらったそうで。肥満女の女中などは、失礼無躾構っちゃいられん。膚脱の大汗を掻いて冬瓜の膝で乗上っても、その胸の悪玉に突離されて、素転ころりと倒れる。
(お綾様。お綾様。)
と夜が夜中、看病疲れにすやすやと寝ているのを起すと、訳はない、ちょいと手を載せて、
(おや、また来ているよ。……)
誰某だね……という工合で、その時々の男の名を覚えて、串戯のように言うと、病人が
(ああ、)
と言って、胸の落着く処を、
(煩い人だよ。お帰り。)
で、すっと撫で下ろす。」──
三十四
「すると、取憑いた男どもが、眉間尺のように噛合ったまま、出まいとして、乳の下を潜って転げる、其奴を追っ懸け追っ懸け、お綾が擦ると、腕へ辷って、舞戻って、鳩尾をビクリと下って、膝をかけて畝る頃には、はじめ鞠ほどなのが、段々小さく、豆位になって、足の甲を蠢めいて、ふっと拇指の爪から抜ける。その時分には、もう芥子粒だけもないのです、お綾さんの爪にも堪らず、消滅する。
トはっと気を返して、恍惚目を開く。夢が覚めたように、起上って、取乱した態もそのまま、婦同士、お綾の膝に乗掛って、頸に手を搦みながら、切ない息の下で、
(済まないわね。)
と言うのが、ほとんど例になっていたそうです。──お綾が、よく病人の気を知った事は、一日も痙攣が起って、人事不省なのを介抱していると、病人が、例に因って、
(来たよ。)
と呻吟く。
(……でしょうね、)
と親類内の従兄とかで、これも関係のあった、──少年の名をお綾が云うと……
(ああ、青い幽霊、)
と夢中で言った──処へひょっこり廊下から……脱いだ帽子を手に提げて、夏服の青いので生白い顔を出したのは、その少年で。出会頭に聞かされたので、真赤になって逃げたと言います。その癖お綾は一度も逢った事はないのだそうで。
さあへ医師は止しても、お綾は病人から手離せますまい。
いつまで入院をしていても、ちっとも快方に向わないから、一旦内へ引取って、静かに保養をしようという事になった時、貴婦人の母親は、涙でお綾の親達に頼んだんです。
頼まれては否と言わぬ、職人気質で引受けたでしょう。
途中の、不意の用心に、男が二人、母親と、女中と、今の二人の婦人で、五台、人力車を聯ねて、倶利伽羅峠を越したのは、──ちょうど十年前になる──
同じ立場で、車をがらがらと引込んで休んだのは、やっぱり、今残る、あの、一軒家。しかも車から出る、と痙攣けて、大勢に抱え込まれて、お綾の膝に抱かれた処は。……
(先刻、貴下が、怪い姿で抱合っている処を蚊帳越に御覧なすった、母屋の、あの座敷です。)
ッて貴婦人が言いましたっけ。
お先達。」
三造は酔えるがごとき対手を呼んで、
「その時、私は更めて、二人の婦人にこう言いました。
(時が時、折が折なんですから、実は何にも言出しはしませんでしたが、その日、広土間の縁の出張りに一人腰を掛けて、力餅を食べていた、鳥打帽を冠って、久留米の絣を着た学生がありました。お心は着かなかったでしょうが、……それは私です。……
そして、その時の絵のような美しさが、可懐しさの余り、今度この山越を思い立って参ったんです。)
お先達、事実なんです。」
と三造は言った。
「これを聞いて少い女が、
(そして貴下が、私を御覧なさいましたのは、その時が初めてですか、)
(いいえ、)
と私が直ぐに答えた。
(違うかどうか分りませんが、その以前に二度あります。……一度は金沢の藪の内と言う処──城の大手前と対い合った、土塀の裏を、鍵の手形。名の通りで、竹藪の中を石垣に従いて曲る小路。家も何にもない処で、狐がどうの、狸がどうの、と沙汰をして誰も通らない路、何に誘われたか一人で歩行いた。……その時、曲角で顔を見ました。春の真昼間、暖い霞のような白い路が、藪の下を一条に貫いた、二三間前を、一人通った娘があります。衣服は分らず、何の織物か知りませんが、帯は緋色をしていたのを覚えている。そして結目が腰へ少し長目でした。ふらふらとついて見送って行く内に、また曲角で、それなり分らなくなったんです。)
──二人は顔を見合せました。」
三十五
「私はまた……
(もう一度は、その翌年、やっぱり春の、正午少し後った頃、公園の見晴しで、花の中から町中の桜を視めていると、向うが山で、居る処が高台の、両方から、谷のような、一ヶ所空の寂しい士町と思う所の、物干の上にあがって、霞を眺めるらしい立姿の女が見えた。それがどうも同じ女らしい。ロハ台を立って、柳の下から乗り出して、熟と瞻る内に、花吹雪がはらはらとして、それっきり影も見えなくなる、と物干の在所も町の見当も分らなくなってしまった。……が、忘れられん、朧夜にはそこぞと思う小路々々を徜徉い徜徉い日を重ねて、青葉に移るのが、酔のさめ際のように心寂しくってならなかった──人は二度とも、美しい通魔を見たんだ、と言う……私もあるいはそうかと思った。)
貴婦人が聞澄まして、
(二度目のは引越した処でしょう!)
と少い人に言うんです。
(物干で、花見をしたり、藪の中を歩行いたり、やっぱり、皆こういう身体になる前兆でしょう。よく貴下、お胸に留めて下さいました。姉さん、私もう一度緋色の帯がしめたいわ。)
と、はらはらと落涙して、
(お恥かしいが……)
──と続いて話した。──
で、途中介抱しながら、富山へ行って、その裁判長の家に落着く。医者では不可ん、加持祈祷と、父親の方から我を折ってお札、お水、護摩となると、元々そういう容体ですから、少しずつ治まって、痙攣も一日に二三度、それも大抵時刻が極って、途中不意に卒倒するような憂慮なし、二人で散歩などが出来るようになったそうです。
一日、巴旦杏の実の青々した二階の窓際で、涼しそうに、うとうと、一人が寝ると、一人も眠った。貴婦人は神通川の方を裾で、お綾の方は立山の方を枕で、互違いに、つい肱枕をしたんですね。
トントントン跫音がして、二階の梯子段から顔を出した男がある。
お綾が起返ると、いつも病人が夢中で名を呼ぶ……内証では、その惚話を言う、何とか云う男なんです。
ずッと来て、裾から貴婦人の足を圧えようとするから、ええ、不躾な、姉を悩す、病の鬼と、床の間に、重代の黄金づくりの長船が、邪気を払うといって飾ってあったのを、抜く手も見せず、颯と真額へ斬付ける。天窓がはっと二つに分れた、西瓜をさっくり切ったよう。
処へ、背後の窓下の屋根を踏んで、窓から顔を出した奴がある、一目見るや、膝を返しざまに見当もつけず片手なぐりに斬払って、其奴の片腕をばさりと落した。時に、巴旦杏の樹へ樹上りをして、足を踏張って透見をしていたのは、青い洋服の少年です。
お綾が、つかつかと屋根へ出て、狼狽えてその少年の下りる処を、ぐいと突貫いたが、下腹で、ずるり腸が枝にかかって、主は血みどれ、どしんと落ちた。
この光景に、驚いたか、湯殿口に立った髯面の紳士が、絽羽織の裾を煽って、庭を切って遁げるのに心着いて、屋根から飜然……と飛んだと言います。垣を越える、町を突切る、川を走る、やがて、山の腹へ抱ついて、のそのそと這上るのを、追縋りさまに、尻を下から白刃で縫上げる。
ト頂に一人立って、こっちへ指さしをして笑ったものがある。エエ、と剣を取って飛ばすと、胸元へ刺さって、ばったり、と朽木倒。
するする攀上って、長船のキラリとするのを死骸から抜取ると、垂々と湧く血雫を逆手に除り、山の端に腰を掛けたが、はじめて吻と一息つく。──瞰下す麓の路へ集って、頭ばかり、うようよして八九人、得物を持って押寄せた。
猶予わず、すらりと立つ、裳が宙に蹴出を搦んで、踵が腰に上ると同時に、ふっと他愛なく軽々と、風を泳いで下りるが早いか、裾がまだ地に着かぬ前に、提げた刃の下に、一人が帽子から左右へ裂けた。
一同が、わっと遁げる。……」
三十六
「今はもう追うにも及ばず、するすると後を歩行きながら、刃を振って、
(は、)
と声懸けると、声に応じて、一人ずつ、どたり、ばたりで、算を乱した、……生木の枝の死骸ばかり。
いつの間にか、二階へ戻った。
時に、大形の浴衣の諸膚脱ぎで、投出した、白い手の貴婦人の二の腕へ、しっくり喰ついた若いもの、かねて聞いた、──これはその人の下宿へ出入りの八百屋だそうで、やっぱり情人の一人なんです。
(推参。)
か何かの片手なぐりが、見事に首をころりと落す。拳の冴に、白刃の尖が姉の腕を掠って、カチリと鳴った。
あっと云うと、二人とも目を覚した。
お綾の手に、抜いた刀はなかったが、貴婦人は二の腕にはめた守護袋の黄色の金具を圧えていたっていう事です。
実は、同じ夢を見たんだそうで、もっとも二階から顔を出したのも、窓から覗いたのも、樹上りをしたのも、皆同時に貴婦人は知っていた。
自分の情人を、一人々々妹が斬殺すんで、はらはらするが、手足は動かず、声も出せない。その疲れた身体で、最後に八百屋の若いものに悩まされた処──片腕一所に斬られた、と思ったが、守護袋で留まったと言う。
貴婦人の病気は、それで、快癒。
が、入交って、お綾は今の身になった。
と言うのは、夢中ながら、男を斬った心持が、骨髄に徹して忘れられん。……思い出すと、何とも言えず、肉が動く、血汐が湧く、筋が離れる。
他の事は考えられず、何事も手に着かない、で、三度の食も欲くなくなる。
ところが、親が蒔絵職。小児の時から見習いで絵心があったので、ノオトブックへ鉛筆で、まず、その最初の眉間割を描いたのがはじまりで。
顔だけでは、飽足らず、線香のような手足を描いて、で、のけぞらした形へ、疵をつける。それも墨だけでは心ゆかず、やがて絵の具をつかい出した。
けれども、男の膚は知らない処女の、艶書を書くより恥かしくって、人目を避くる苦労に痩せたが、病は嵩じて、夜も昼もぼんやりして来た。
貴婦人も、それっきり学校はやめたが、お綾も同断。その代り寂い途中、立向うても見送っても、その男を目に留めて、これを絵姿にして、斬る、突く、胸を刺す。……血を彩って、日を経ると、きっとそのものは生命がないというのが知れる……段々嵩じて、行違いなりにも、ハッと気合を入れると、即座に打倒れる人さえ出来た。
が、可恐いのは、一夜、夜中に、ある男を呪詛っていると、ばたりと落ちて、脇腹から、鳩尾の下、背中と、浴衣越しに、──それから男に血を彩ろうという──紅の絵の具皿の覆れかかったのが、我が身の皮を染め、肉を透して、血に交って、洗っても、拭っても、濃くなるばかりで、褪せさえせぬ。
お綾は貴婦人の膝に縋って、すべてを打明けて泣いたんです。
その頃は、もう生れかわったようになって、何某の令夫人だった貴婦人は、我が身も同じに、悲み傷んで、何は措いても、その悪い癖を撓め直そうと、千辛万苦したけれども、お綾は、怪い情を制し得ない。
情を知った貴婦人は、それから心着いて試みると、お綾に呪詛われたものは、必ず無事ではないのが確で。
今はこう、とお綾の決心を聞いた上、心一つで計らって、姫捨山を見立てました。
ところが、この倶利伽羅峠は、夢に山の端に白刃を拭って憩った、まさしくその山の姿だと言う。しかしこの峠を越したのが、少い人には、はじめて国の境を出たので、その思出もあったからでしょう。
ちょうど、立場が荒廃れて、一軒家が焼残ったというのも奇蹟だからと、そこで貴婦人が買取って、少い女の世を避ける隠れ里にしたのだと言います。
で、一切の事は、秘密に貴婦人が取まかなう。」
三十七
「月に一度、あるいは二度、貴婦人が忍んで山に上って来る。その時は、ああして抱いて、もとは自分から起った事と、膚の曇に接吻をする。
が、雪なす膚に、燃え立つ鬼百合の花は、吸消されもせず、しぼみもしない。のみならず、会心の男が出来て、これはと思うその胸へ、グザと刃を描いて刺す時、膚を当てると、鮮紅の露を絞って、生血の雫が滴点ると言います。
広間の壁には、竹箆で土を削って、基督の像が、等身に刻みつけて描いてあった。本箱の中も、残らず惨憺たる彩色画で、これは目当の男のない時、歴史に血を流した人を描くのでした。」
と物語る、三造の声は震えた。……
「お先達。
で、貴婦人は、
(縁のある貴下。……ここに居て、打ちもし、蹴りもし、縛りもして、悪い癖を治して上げて下さい。)
と言う。
若い人は、
(おなつかしい方だけに、こんな魔所には留められません、身体の斑が消えないでは。)
と、しっかり袂に縋って泣きます。
私は、死ぬ決心をするほど迷った。
果しなく猶予っているのを見て、大方、それまでに話した様子で、後で呪詛われるのを恐れるために、立て得ないんだと思ったらしい。
沓脱をつかつかと、真白い跣足で背戸へ出ると、母屋の羽目を、軒へ掛けて、森のように搦んだ烏瓜の蔓を手繰って、一束ねずるずると引きながら、浅茅生の露に膝を埋めて、背から袖をぐるぐると、我手で巻くので、花は雪のように降りかかった。
旭が出ました。
驚く私を屹と見て
(誓は違えぬ! 貴下が去って、他の犠牲の──巣にかかるまで、このままここで動きはしない、)
心安く下山せよ。
(さあ、)
と言うと、一目凝と見た目を瞑って、黒髪をさげて俯向いたんです。
顔を背けて、我にもあらず、縁に腰を落した内に、貴婦人が草鞋を結んだ。
堪らなくなって、飛出して、蔓を解こうと手を懸ける。胸を引いて頭を掉るから、葉を引挘って、私は涙を落しました。
(私なんざ構わんから。)
(いいえ、こうしてまで誓を立てぬと、私は貴下を殺すことを、自分でも制し切れない。一夜冥土へ留めました。お生きなさいまし、新にお存らえ遊ばせ。)
と、目を潤ましたが凜々しく云う。
(たとい、しばらくの辛抱でも。男を呪詛う気のないのは、お綾さんにも幸福です。そうしておおきなさいまし。)
と、貴婦人が、金剛杖も一所に渡した。
膝さがりに荷を下げて、杖を抱いてしょんぼり立つのを……
(さようなら、御機嫌よう。)
(はっ、)
と言って土間へ出たが、振返ると、若い女は泣いていました。露が閃めく葉を分けて、明石に透いた素膚を焼くか、と鬼百合が赫と紅い。
その時、峰はずれに、火の矢のように、颯と太陽の光が射した。貴婦人が袖を翳して、若い女を庇いました。……
あの、鬼の面は、昨夜、貴下を罵るトタンに、婦を驚かすまいと思って、夢中で投げたが──驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人を睨むよう、濶と眼を睜いて、紫の緒で、真面に引掛っていたのです。……
お先達、私はどうしたら可いでしょう。」
と溜息を一度に吐く──
「ふう、」
と一時に返事をして、ややあって、
「鬼神に横道はござらんな。」
と山伏も目を瞬いた。
で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日と経たぬに、飢もしよう、渇きもしよう、炎天に曝されよう。が、旅人があって、幸に通るとすると、それは直ちに犠牲になる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
心を山伏に語ると、先達も拳を握って、不束ながら身命に賭けて諸共にその美女を説いて、悪き心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽手水して、明王の前に額着いて、やがて、相並んで、日を正射に、白い、眩い、峠を望んで進んだ。
雲から吐出されたもののように、坂に突伏した旅人が一人。
ああ、犠牲は代った。
扶け起こすと、心なき旅人かな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、躓いて転んだはずみに、あれと喚く。膝から股へ真白な通草のよう、さくり切れたは、俗に鎌鼬が抓けたと言う。間々ある事とか。
先達が担いで引返した。
石動の町の医師を託かりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓草の絆も断ったろう……その美女の、山の麓を辿ったのである。
底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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