喇嘛の行衛
国枝史郎




 拉薩ラッサの街は賑かであった。

 勿論それは毎日毎日観飽きている賑かさには相違ないが、しかし同時にその賑かさは新来の旅行客きゃくを喜ばすに足る大変珍奇めずらしい賑かさでもあった。まちの真中に山のように喇嘛ラマの宮殿が聳えている。瑪瑙めのう玻璃はりと大理石とで築き上げられた大宮殿は朝陽夕陽に色を変えて西蔵チベット国民ばかりでなく原始仏教の信仰者──トルキスタン人や錫蘭セイロン島人やボハラ人や暹羅シャム人やキルギド人達の信者に依って極楽浄土の象徴かのように崇められるだけの美観うつくしさをたしかに備えているのであった。

 拉薩の市の城門から真直まっすぐに延びている大道路は常磐木ときわぎの並木に飾られて噠𡃤喇嘛ダライラマの宮殿へまで同じ道幅に続いているが、今も昔もその道筋みちには仏の慈悲を讃えるために、諸方の国々から集まって来た難行苦行の信者の群が、うようよ虫のようにうごめいている。或は一歩ごとに跪いて宮殿へ礼拝を行う者、又は背中に茨をしょって膝頭だけで歩く者、そうかと思うと、宮殿の周囲まわりを十歩すすんでは八歩返えり、六歩あるいては五歩退き、数里に渡る大城壁を幾月か費して廻わる者など、そういう苦行の巡礼達が街路一ぱいに溢れている。

 三万余人の僧侶達を楽に養っている拉薩のまちがどれほど宗教に熱心であるかは家々の屋根から釣り下げられてある経文旗に依って証拠立てられる。ほとんど一軒の例外もなく、拉薩市中のうちという家では、経文の文句を隙間なく刷った長短無数の紙や、布の旗を各自めいめいの家の屋根から釣るして仏教礼拝の実を示し、れでも倦き足らなく思う人は、祈祷車をさえ廻すのであった。

 仏教をたっとぶ市民達はその仏教の教主たるところの噠𡃤喇嘛その人を生仏いきぼとけとして尊信し、その喇嘛のおわす宮殿を神聖不可侵おかすべからざる場所とした。

 だから勿論市民達は神聖侵かす可からざる宮殿内で生仏たるところの噠𡃤喇嘛が行衛ゆくえ不明になったなどとは夢にも信ずることは出来なかった。とは云え夫れは事実であった。それが事実であったればこそ、敏腕な英国の探偵であり、同時に若い旅行家であるヘンリー・ホートン氏が招かれて喇嘛に次いで尊い高僧の馬袁ばえん長老と、宮殿の中の秘密室で今ひそかに相談し合っているのである。

 いかめしい、戒律そのもののようなむずかしい顔をした長老は、噠𡃤喇嘛紛失ふんじゅつの一部始終を詳細に渡って語るのであったが、その長い話もひき縮めると、次のような要点になるのであった。

(一)喇嘛が行衛をくらませたのは昨晩中のことであって、今朝こんちょうそれを発見した。

(二)喇嘛と一緒に、喇嘛の玉璽ぎょくじが、同じく宮中から失われた。

(三)宮中の扉は総て閉ざされ加之しかも鍵さえ掛かっていたのに何処から喇嘛は逃げたのであろう?

(四)宮中の何処を探がして見ても喇嘛の屍体さえ見当らない。

(五)何故喇嘛は姿を晦ませたのか? 姿を晦ませなければならないような、何等の事件もなかった筈だのに……。

 しかし長老はう云った時何故か其顔をあかくした。勿論次の瞬間には僧侶らしい強い意志の力で顔色がんしょくを元へ返えしはしたが。

 一通り話を聞いてしまうと、ホートンは鳥渡ちょっと頷いたがしばらくじっと考え込んだ。彼の容貌かおつきは憂鬱になって其眼の光は失われた。彼は探偵ではあったけれど同時に一個の詩人であった。絵画にかけても音楽にかけても立派な才能を持っていた。彼は是迄これまで一冊の詩集と三冊の旅行記とを出版したがその文章と云い、観察と云い、玄人のるいしていたので、英国文壇の耆宿きしゅくたるところのアーサー・シモンズは是に就いて次のような批評を下したことがあった。

「──憂鬱と快活とが交わり交わり来る。これがホートン氏の特色である。彼の本来は憂鬱である。その憂鬱を払い落とそうとして彼は冒険に身を投ずる。彼の職業が私立探偵であり、彼の好嗜このみが旅行であるということは如何いかにも正当のことである……彼の旅行記の優れている点は観察の鋭いということである。勿論同時に正確でもある。彼の詩の持っている特色は現実的ということである。彼は決して夢を書かない。事実その物の持っている美を彼は宛然さながらに細叙する……芸術家としてのホートン氏と探偵としてのホートン氏との二個の性格に共通するものは『霊妙なる直感』それである。混乱している犯罪の真只中へ飛び込んで行って彼の『霊妙なる直感』によって犯罪事件の解決をし、犯人を発見するように、広い芸術の曠野の中へ彼は堂々と這入はいって行って彼の『霊妙なる直感』に依って其処から『真善美』を掴んで来る……多くの芸術家の大概の者は何等かの性癖を持っているが夫れをホートン氏も持っている。犯罪を解決する最初の端緒をまさに握ろうとする一時刻彼は憂鬱になるそうである──」

 アーサー・シモンズの批評の通り詩人探偵のホートンは、馬袁長老の物語を熱心に終いまで聞いて了うと、物語はなしの中から今回の事件に就て何等かの端緒を掴もうとしてか、にわかにその顔を憂鬱にし眼から光を失わせたまま、物も云わずに考え込んだ。

 あまりに長い沈黙を辛抱しかねた長老が何か云おうとした時、やっとホートンは斯う云った。

「二三お聞きしたいことがございますが」

 すると長老は頷いて、

「喇嘛の尊厳をきずつけない範囲で何んでもお答えいたしましょう」

「噠𡃤喇嘛猊下げいかのご年齢は今年お幾歳いくつでございましたでしょう?」

「ご注意までに申上げますが」長老は苦々しい顔をした。

「噠𡃤喇嘛猊下ではございません。噠𡃤喇嘛陛下でございます……左様陛下のご年齢はお十六歳にございます」



「十六歳か」とホートンは心のうちで呟いたが其処でまた長く長く考えた。彼はり憂鬱である。

「陛下にお付きする女官の数は幾人ほどでございましょう?」

おのずから規定がございまして一百八人でございます」

「一百八人」とホートンはまたも心で呟いたが益々憂鬱を加えて来た。

「一百八人の女官達はいずれも健全でございましょうな?」

「陛下のお行衛ゆくえの知れないのをいずれも嘆いて居りますじゃ」

「一人も逃亡者はございませんか?」

「ナニ逃亡者? 逃亡者ですと?」

 長老は驚いたというように歯の無い口を大きく開けて、顔一杯を皺にしたが、やがて真面目の表情にかえり、

喇嘛王宮ラマおうきゅうの女官の中には左様な馬鹿者は居りません。西蔵チベットに産れた女子共は王宮の女官に用いられることを畢世の願望といたして居ります」

成程なるほど──」とホートンは気の無い声で矢張り憂鬱に斯う云って、復も長い間考えていたが、

「その沢山の女官のうち最近民間から選び出されて任官されたものはございますまいか?」

「最近女官になったもの?──考えて見ることに致しましょう」

 長老はものものしい様子をして胸の辺へ両手を組み合わせてしばらく考えに沈んでいた。それから重々しく云い出した。

「いかにも一人ございます。名は琅玉ろうぎょくと申しまして印度の北端レイ市の産れで十六歳の美しい娘でござる」

何時いつ宮中へは這入られました?」

「今から三月ほど以前まえでござる」

「宮中に於けるお役目は?」

「御衣を扱うお役目でござる」

 ホートンの顔はこれを聞くと急に活気を帯びて来た。彼は元気よく云うのであった。

「琅玉とか申すその女官をこのへやへお呼び入れ下さいますよう」

 すると長老は眉をひそめ「飛んでもないことだ」というようにホートンの顔を凝視した。つまり長老は心のうちで、いかに英国の官憲が紹介してよこした探偵であるにしても、こんなに若い異国人へ──この時ホートンは二十八であった──宮中の若い上﨟などを対面させるということは喇嘛宮中の掟に背いた不都合わまる行為であって、許可すべからざることであると、このように思っているのであった。しかし飜って考えて見ると、この西蔵という国は英国政府の勢力のもとに圧迫されている国であって、拉薩のまちには其英国の軍隊さえも入り込んでいる。その勢力のある英国の権力を持って軍隊からわざわざこしてくれたこの人物──ホートンと名乗るこの人物の、こればかりの要求を拒絶するということも義理合いとして出来難い。それに他ならぬホートン氏は行衛不明の噠𡃤喇嘛と喇嘛の使用する玉璽ぎょくじとを発見しようそのために来てくれた人であって見れば、一層要求は断わりがたい──で長老は渋々ながら女官の琅玉を召し寄せた。

 胸に垂れ下げた頸飾と額の瓔珞ようらくとを揺がせながら、静々と這入って来た琅玉はホートンの姿を眺めても、少しも驚きはしなかった。琥珀色をした其肌や、黒燿石のようなその瞳や、雲のように豊かな頭髪など、東洋婦人の持つき程のあらゆる美点を一つにあつめたこの琅玉という官女の姿はホートンの審美眼を驚かせた。

「これは精巧な象牙彫刻だ。技巧を極わめた女身仏像だ。詩の対像たいぞうには持って来いだ。これほど整調ととのった肉体は欧羅巴ヨーロッパ婦人にもないだろう。しかし随分大胆に、人を人とも思わないような、思い上がった素振りを見せるじゃないか! 野良猫のような所もあって、丁度西班牙スペインのジプシイのようだ。これがこの女の本心かな? それとも誇張しているのかな、かく俺の思った通り此度こんどの芝居ではこの女が屹度きっと女形おやまに相違ない」

 ホートンは琅玉を一目見ると、彼の鋭い直感で直ぐこんなように洞察した。

 で、ホートンは馬袁長老を室から外へ出して置いて改めて琅玉と差し向かった。

「……訊問するのではありませんよ。ですから決して恐れないで知って居るだけを答えて下さい……つまり参考のためですからね──陛下が行衛を晦まされる以前に、平素と違ったご行動を陛下はなされはしませんでしたか?」

 すると琅玉は上眼を使って暫くじっと考えていたが、

「いいえ」と一言答えたきり何も話そうとはしなかった。

「こいつ、思ったより手剛てごわいぞ?」ホートンはひそかに思い乍ら、何気なく第二の質問を出した。

「馬袁長老のお話に依ると、陛下の御衣を扱われるのが貴女のお役目だということですが、そうすると貴女は時々陛下に身近くべることがございましょう。それでお尋ね致しますが、これと目に性癖くせのようなものが陛下にはお有りはなさいませんでしたか?」

 すると琅玉は上眼を使って同じように暫く考えたが、

「いいえ」と矢張り云うのみであった。ホートンは口だけで微笑した。琅玉と名のる此女が「いいえ」という言葉を楯にして遮二無二秘密を語るまいとする其強情が可笑おかしかったからで、彼は益々琅玉に対して深い疑いをかけるようになった。そうして疑いを懸ければ懸ける程、美しい琅玉が益々美しく、尊くさえも思われるのであった。併し、そのように尊く美しい、その琅玉が見えれば見える程、彼は一層彼女を苦しめ追窮して行きたく思うのであった。多くの若い詩人達が変態性欲者であるように、詩人探偵のホートンも同じような性癖を持っていた……。



 ホートンと琅玉との問答は次のようにグングン進んで行った。

「……それでは貴女は陛下には性癖が無かったとおっしゃるのですな。よろしい。それではそうとして置いて、『趣味』は陛下にもございましたでしょうな?」

「趣味と申しますと、何んな趣味?」

「たとえば音楽を好かれるとか。または夜会を愛されるとか……その他旅行とか女子とか」ホートンは、女子という言葉に、特に力を入れて云った。その効果は顕著であった。琅玉はポッと顔をあからめ急に狼狽しはじめた。しかし彼女は次の瞬間には女官らしく威厳を取り返えし此様におもむろに云うのであった。

「音楽はお好きでございました。そして夜会もお好きでした……」

「それでは最近この宮中で音楽の演奏はございませんでしたか?」

「いいえ、最近にはございません」

「夜会はあったでございましょうな!」

「いいえ、夜会もございません……けれど……」と云って琅玉は周章あわてて口をつぐんだのであった。何んでホートンが見遁みのがそう! 直ぐ彼は鋭く突込んで行った。

「けれど……何んです!……何んですか!」

 すると琅玉はいまいましそうに、

「夜会も音楽会もございませんでしたけれど、長老会議がございました!」

「長老会議! それは何時!」

「一昨日でございます」

 ホートンは急に黙まり込んで、例の憂鬱の表情をした。彼は旅行家であるだけに西蔵の国情もよく知っている。宮中のことにも通じていた。長老会議というものが如何に西蔵の国家に執り、かつ又噠𡃤喇嘛その人に執って重大のものであるかという事も彼ホートンには解っていた。

「俺は探偵の方針を少し変えなければなるまいぞ。喇嘛が行衛を晦ました動機は、たった今俺は掴まえたけれど──そうだ、たった今つかまえた! 長老会議があったという其一言で掴まえたのだが!……行衛を晦ました其喇嘛が何処に居るかはまだ不明だ! 何処に居るかを突き止めるのが俺の新しい役目なのだ」

 ホートンは心で斯う思い乍ら、細い注意を琅玉に向けて、尚二つ三つ質問をした。そして其結果得たものと云えば(A)特に陛下は常日頃諸国の風俗や、人情に多大の興味を持って居られて夫れを聞きたがられたということと(B)昨日の午前露台から平常のように市街まちの様子を何気なく眺めて居られた時、信心深かそうな老夫婦が大地に平伏ひれふして拝んでいたので、陛下は平素ふだんの慣例を破られ、ご会釈されたということなどで、そんな詰まらない揷話めいたことをさも一大事でも聞くようにホートンは熱心に聞き澄した。

 琅玉が室から出て行くと、夫れと引き違いに長老がむずかしい顔をして這入って来た。

「よい手掛かりでも得られましたかな!」馬袁長老は斯う云った。

「左様」とホートンは皮肉な目を長老の顔へ投げながら、

「無類飛切とびきりのよい手掛かりをあの上﨟から引き出しました。その手掛かりを基礎として私の想像を働かせた結果、私は貴郎あなたへ斯ういう事だけは申上げられようかと思います……それは他でもありません、陛下が行衛を晦まされたのは陛下自身の意志と云うより長老方の意志である──と云うことでございます。それにもう一つ、この私を、宮中へ召されたというものも、陛下を捜そう為ではなく陛下と一緒に紛失ふんじつした玉璽を捜そうためであると、斯う云うことでございます……それで私は謹んで馬袁長老にまで申上げますが、ご安心遊ばせ、噠𡃤喇嘛陛下は二度と宮中へは帰られますまい。それからもう一つご安心遊ばせ、玉璽は其中長老方のお手に必ず入りましょう。捜がす必要はございません。自然お手に這入るのですから」

 斯う云いすてるとホートンは驚いて立っている馬袁長老を尻目ににらんで室を出た。

 宮中を退出したのである。


 西部西蔵の高原を一隊の隊商が列を作って、静かに蜒々えんえんと進んで行く。

 山々は高く空をし、蓬々ほうぼうたる雑草は谷々に茂り、諸々の部落からは炊事の煙が幾筋か風になびいている。真昼の太陽は赭々と照って、野生の羊や犂牛やくの角を黄金こがねのように輝かせ、隊商の率いる家畜の金具に虹のような光彩ひかりを纏わせている。その赭い陽が西へ傾き谷々の陰影かげこまかくなった時隊商は野営の用意をした。

 犂牛の毛で織った天幕テントを張って蒙古種の犬に番をさせて女達は夕飯の仕度にかかり、男達は天幕へ集まって商売の話を為合しあうのであった。

 夕栄ゆうばえは雲を紅く染めて明日の天気を予約するし、麝香鹿じゃこうじかの群は山の中腹を勇ましい駈足で走って通り、草深い藪地では兎の雌雄が仲宜なかよく餌を漁っている。あちこちの天幕からは馬乳から採ったカス酒に酔った男達の元気のよい唄声が聞えて来る……平和で自由で元気に充ちた隊商気分が、不毛の原野に今や溢れているのであった。

 此時遥かの山の陰から此隊商を目宛めあてとして汗馬に鞭をあて乍らしって来る一人の男がある。敵の襲来とでも思ったか、蒙古犬は一斉に吠え立てて其侵入者へ飛び掛かったが、一喝の下に退けられ、両脚の間へ尾を垂た。男はヒラリと馬から下りて一つの天幕へ近寄った。犬の吠声とおごえに不審を起こして戸外そとの様子を窺うためか、一人の老人が出て来たが、若い立派な英国紳士が馬の手綱を取りながら天幕の前に立っているので周章てて口を開いて舌を出した。すると紳士も舌を出して親密したしみの礼を返えしたが、やがて流暢な西蔵語で老人に物を尋ねるのであった。

「老人夫婦に息子が一人──もっとも息子は美しくてそうして素晴らしく気高くて、それに何んでも此隊商へは拉薩の市から加わった筈だが……兎に角そういう一家族が隊商のうちに居ないかね!」

「老人夫婦に息子が一人──尤も息子は美しくそして素晴らしく気高くて、拉薩の市から加わったと……ははあ夫れではお前さんはキストル老人の連中を捜がして居るのじゃありませんか。そう云えば彼処あすこの息子と来たら綽名あだなを喇嘛王と云われるだけあって、そりゃ素敵に気高うがす。そして何んでも十八年ぶりに邂逅めぐりあったとか云うことですよ。しかも拉薩の都でね」

「それだ。その人に違いない! その人は何処においでかね!」

「向うに山毛欅ぶなの樹が見えましょう。あの樹の下の天幕がキストル老人の一家族じゃ」

 そこで探偵のホートンはまた舌を出して挨拶をして、山毛欅の樹の方へ歩いて行った。



 ホートンは少しの躊躇もせず天幕てんまくの口の垂布をかかげて内部なかへスルリと這入り込んだ。信心深かそうな老夫婦が、急拵らえのかまどの前で夕飯の仕度をしていたが驚いたように振り返った。そこでホートンは直ぐ云った。

「行き暮れた英国の旅行家です。お宿を願いたいと思いますが」

 老人夫婦は目を見合せた。そして暫く無言でいた。其時、天幕の片隅の殆んど暗い一所から、美しい清らかな威厳に充ちた青年の声が聞えて来た。

「泊めてお上げなさいよお父さん……ねえ、お母さんもいいでしょう……」

 すると老夫婦は頷いて好人物らしく微笑した。ホートンは直ぐに獣皮けがわの上へ脚を長々と投げ出して、夫れとなく青年へ目をつけた。しかし折柄陽が暮れて、高原国の常として直ぐ夜の闇が襲って来たので姿形は解らない。老婆は静かに立ち上がって牛酪バタ皮袋ふくろを取り出した。其処から牛酪を一摘み出して灯皿の中へ大事そうに入れて羊毛の燈心を差しくべて燧金ひうちから夫れへ火を移した。かすか灯影ほかげに照らされた薄ら明るい天幕の中には、一杯に獣皮じゅうひが敷き詰めてあった。壺や皿や樽や桶が雑然として置かれてあった。天幕の梁には牛酪を充たした大きな革袋が釣るしてある。室の片隅の水瓶の側の厚い毛皮の上に青年は坐っているらしい。彼等に属する家畜の群が天幕の外の檻の中で不意に消魂けたたましく鳴き出したので、老人夫婦は様子を見るため天幕から外へ出て行った。

 其隙をホートンは利用した。彼は青年の側へ行ってうやうやしい口調で話しかけた。

「西蔵に於ける最高の貴顕、噠𡃤喇嘛陛下に心よりの尊敬と親愛とを捧げ申します」

「…………」余りの不意打ち、余りの意外! そのためでもあろうか其青年は一言も物を云わなかった。しかし驚きが静まると、厳かな声で反問した。

「君は一体何者だ! 長老共の廻わし者か! 英国人ではなかったのか!」青銅のような響きを持った王者らしい立派な声である。しかし其次の瞬間には、思い直したというように極めて砕けた、平民的の、穏かな口調に変わっていた。

「成程君の云う通り、或期間にはそういうような尊貴な身分に居たこともあろう。しかしもう夫れは過ぎ去った事だ。現在は僕は遊牧者だ。そして隊商の一員だ。つまり自由の一平民なのさ……それにしても君は何者だね! 長老共の廻わし者で僕を捉らえに来たのかね!」

「いいえ左様そうではございません」恭しくホートンは説明した。

「私は探偵でございます。又旅行家でございます。私は実際旅行家として拉薩へ参ったのでございまして、探偵として参ったのではございません。それが陛下のお行衛不明のため、馬袁長老の依頼に依って、探偵としての私の腕を、発揮しなければならないような厭な破目へ墜ちたのでございます。しかし事件を調べて行きます中に、私は却って陛下のご行動に同情しなければならないような一つの事実にぶつかりました。それは長老会議が行われたという事実でございます。陛下は今年お十六歳ですから、陛下は長老会議にご注意遊ばさなければなりません」

「そうだ」と青年は夫れを聞くと憤怒の声で斯う云った。

「長老達の手に依って命を断たれないその前に、窮屈な宮中を脱したのだよ」

「賢明なお振舞いでございました。もしも陛下のご英断が数日遅くれましたならば、西蔵宮中の不文律に依って陛下はお位を無理に退げられ、陛下がかつてご一歳の時ご両親の膝元から掠奪され宮中へ連れられて参りましたように、何者とも知れない当歳の児が復も宮中へ連れられて参り、陛下に代わって恐らく喇嘛の尊位を踏まれたでございましょう」

「それほど事情を知っている君が、しかも此僕の味方だというに、何の理由でこんな所まで僕を追跡して来たのであるか、どうも僕には解からない」

「私の観察が当たっているか、夫れとも的が外れていたか、それをたしかめるのでございます」

「それでは僕は君の為に何をして上げたらよいのかね!」

「一二お尋ね致したいことが残って居るのでございますが、それにお答えを願われれば大変光栄でございます」

「よろしい、それに答えよう」気高く青年は斯う云った。

「宮中を脱出遊ばす時、一人お味方がございましたでしょう!」

「いかにも味方は一人有った。しかし其名は明かされない」

「いえ、よく私は存じて居ります。美しいお方でございます。琅玉と申すあの女官……」

 すると青年は頷いて其顔を少しく赭らめた。ホートンはずんずん質問する。

「美しい女官は陛下の為に──と申すより恋人のために陛下が宮中から脱け出された後の門や扉に鍵をかって心安く陛下が落ちられるように取り計らったように存ぜられますが、是は如何でございましょう!」

「君は天晴の探偵だ。君の慧眼には狂いがない」

 ホートンは低く頭を下げた。それから復も問うのであった。

「陛下が露台からご会釈のあった信心深かそうな老夫婦は、どういう身分の者でございましたろう!」

 すると青年は愉快そうに初めて声を立てて笑ったが。

「流石の君にも是ばかりは考え付くまいと思うがね……あれは此僕の両親なのさ、血肉を分けた本当の親だ」

 ホートンは驚きの表情を素直に顔に浮かべながら、

「それにしても何処でご両親を発見なされたのでございましょう!」

「拉薩の市の茶店でね」

「それでは陛下は茶店などへおいで遊ばしたのでございますか!」

「そうだ、時々夜行った。琅玉が宮中へ上がってからは、僕の窮屈な境遇にひどく同情してくれて、便宜を計ってくれたからね。僕は賤民に変装して茶店や酒場へり込んだものだ」

「しかしうして老人夫婦をご両親だと知りましたか!」

 青年は、すると、無言のまま左右の腕を捲くり上げた。清らかな左右の二の腕の上に、描いたように鮮かに宝塔と白象との絵姿が別々に浮き出ているではないか! それは痣ではあったけれど、痣であるだけに不思議である。



 青年は徐ろに説明した。

「斯ういう痣があればこそ僕は民間かららわれて喇嘛の高位に登ったのだ。そしてこの痣のあることは長老以外には誰も知らない。仏法に関係のある斯ういう痣、宝塔だの白象だの斯ういう痣を体に持っている少年を、迷信深かい長老共は仏陀の転生うまれかわりだと妄信して噠𡃤喇嘛にまで押し立てる。しかし其喇嘛が成長して政治へくちばしを入れるようになると夫れを邪魔にして追い退ける。そして同じような痣を持った幼年の喇嘛を立てるのだ。僕は十六になったので、いずれ追われるに相違ないと内々心で覚悟しながら尚宮中にとどまっていた。そして夜な夜な変装して拉薩の市中へ出て行った。今でもハッキリ覚えているが、宮中を出る少し前の或る月のよい晩であった。僕は茶店へ這入って行った。そして老夫婦に邂逅めぐりあった。その老夫婦が問わず語りに、十六年前自分の子を──其児は左右の二の腕に宝塔と白象の二つの痣をハッキリ描いたように持っていたが、何者かに誘拐かどわかされて行衛を失ったというようなことを話していたのを耳にして、さては自分の実の親は、レイ市通いの隊商のこの老夫婦であったのかと、初めて真相を知ることが出来た。そして宮中脱出の念が一時にたかまるのを覚えたのであった」

 翌日、ホートンは天幕を辞して拉薩の方へ帰えろうとした。其時、一人の騎馬の婦人が青年の天幕へ駈け付けて来た。云う迄も無く琅玉である。青年と琅玉とは囁き乍ら、親しそうに腕を組み合わせて天幕の中へ這入っていった。

   ×   ×   ×   ×   ×

 二人の前途を祝福しながら、ホートンは馬へむちれ拉薩市の方へ走らせた。

 玉璽たまぐしは再び長老の手に無事に返えっては来たけれど、国境を自由に往復出来る玉璽の印された二枚の手形が何者かに依って持ち出されたことは、遂に発見されなかった。

底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社

   2005(平成17)年915日第1刷発行

底本の親本:「秘密探偵雑誌」

   1923(大正12)年8

初出:「秘密探偵雑誌」

   1923(大正12)年8

※「紛失」に対するルビの「ふんじゅつ」と「ふんじつ」の混在は、底本通りです。

入力:門田裕志

校正:阿和泉拓

2020年328日作成

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