沼夫人
泉鏡花
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「ああ、奥さん、」
と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内は真暗で黒白が分らぬ。寝てから大分の時が経ったらしくもあるし、つい今しがた現々したかとも思われる。
その現々たるや、意味のごとく曖昧で、虚気としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束ないが、
「ああ、奥さん、」
と返事をした声は、確に耳に入って、判然聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体のどっかが、がっくりと窪んだ気がする。
そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。──呼んだのは、室の扉の外からだった──すなわち、閨の戸を音訪れられたのである。
但し閨の戸では、この室には相応わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋室……と云うが、この部落における、ある国手の診察室で。
小松原は、旅行中、夏の一夜を、知己の医学士の家に宿ったのであった。
隙間漏る夜半の風に、ひたひたと裙の靡く、薄黒い、ものある影を、臆病のために嫌うでもなく、さればとて、群り集る蚊の嘴を忍んでまで厭うほどこじれたのでもないが、鬱陶しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被っても、成るべくは、蛍、萱草、行抜けに見たい了簡。それには持って来いの診察室。装飾の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足で歩行かれる絨氈が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪せた、緑の窓帷が絞ってある。これさえ引いておけば、田圃は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥かせて、内の国手が聴診器を当てようという、寝台の上。ますます妙なのは蚤の憂更になし。
地方と言っても、さまで辺鄙な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯が窓越の森に映って、薄ら蒼くぱっと点いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立って、捻って、ふっと消した。
「何、この方が勝手です、燧火を一つ置いといて頂けば沢山で。」
この家の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅い扱帯、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈をそこへ、……
「いいえ、お馴れなさらないと、偶とお目覚めの時、不可いもんですよ。夫でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可いてって、此室へ臥りましてね、夜中に戸迷いをして、それは貴下、方々へ打附りなんかして、飛んだ可笑しかったことがござんすの。
可笑いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜しかったようなものの、私どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切を掛けて蔽にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を極めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨に、ぴったり打撞ったんでございますとさ、厭ではござんせんかねえ。」
……と寝台の横手、窓際に卓子があるのに、その洋燈を載せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師と対向いになる一脚で、
「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」
と愛嬌よく莞爾した。
「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」
「ですから、お気を注けなさいまし。夫とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦のだって、言いますから。」
主人の医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢気を専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対談が発奮んで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、
「どうぞ御緩り。」
と洋燈を差置き、ちらちらと──足袋じゃない、爪先が白く、絨氈の上を斜めに切って、扉を出た。
しばらくして、女中が入って来て、
「ここへ、冷水をお置き申します。」
声を聞いたばかり。昼間歩行き廻った疲労と、四五杯の麦酒の酔に、小松原はもう現々で、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て去ったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一緊胸を緊めたほど、顔の上へ暗さが乗懸ったので心着くと、やがて、すうすう汐が退く塩梅に、灯が小さく遠くなり、遥に見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅入込んで、ずっと谷底の古御堂の狐格子の奥深く点れたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿る峠から覗く景色か、つい他愛がなくなる。
処を、前に言った、(奥さん)──で目が覚めたが、真暗、洋燈はその時消えていた。
枕を擡げて、
「唯今!」
威勢よく、(開けます)とやろうとする、その扉の見当が附かぬから、臥床に片手支いたなり、熟と室の内を眗しながら、耳を傾けると、それ切り物の気勢がせぬ。
「はてな、」
自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立二とも、我が姓、我が名を呼ばれたのでもなければ、聞馴れた声で、貴郎、と言われた次第でもない。
とは言え、呼んだのは確に婦で……しかも目のぱっちりした──
「待て、待て、」
当人寝惚けている癖に、他の目色の穿鑿どころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の清しい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯向き加減の、就中、歴然と目に残るのは、すっと鼻筋の通った……
ここまで来ると、この家の細君の顔ではない。それはもっと愛嬌があって、これはそれよりも品が優る。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、現か、朦朧と認めた顔の容が、どうやらこう、目前に、やっぱりその俯向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、扉の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「他に開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく魘された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗込んで、窓を開けて、と言う婦はあるまい。
いや、無いとも限らん──有れば急病人の許から駈着けて、門を敲いても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等閑な田舎の構、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊伸で覗いた奴。
かとも思ったが、どちらを視めても、何も居らず、どこに窓らしい薄明りも射さなければ、一間開放した筈の、帷の戦ぎも見えぬ。
カタリとも言わず……あまつさえ西洋室の、ひしとあり、寂として、芬と、脳へ染る、強い、湿っぽい、重くるしい薬の匂が、形ある箔のように颯と来て、時にヒイヤリと寝台を包む。
渠は、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。
窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある習で。どうかすると、青い顔が幾つも重って、隙間から差覗いて、ベソを掻いたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。──希代なのは、その隙間形に、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱形にも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺木に足が生えたり、破障子が口を開けたり、時ならぬ月が出でなどするが、例えば雪の一片ごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断片らしい。
すると、今見た女の顔は……何に憑いて露れたろう。
「何だか美しかった。」
と思出して、今度は悚然とした。
「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」
確に此家の細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……
と胸の裡で繰返して、その目と、髪と、色艶と、一つ一つ絡まり掛けると……覚がある!
トンと寝台に音を立てて、小松原は真暗な中に、むっくと起きた。
「馬鹿な。」
と思わず呟いた。
「何、そんな奴があるものか。」
いや、いや、もしその人だとすれば──三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その俤は当然で、かえって不審くも凄くもない筈。
「開けて下さい、」
と云った……それそれ、扉を開けるつもりで、目を覚したに違いはない。
且つ現から我に返った、咄嗟には、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対手は何でも、小松原自分の目には、皆胸にある、その人の俤に見えるのかも知れぬ。
「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」
一体──と渠はまた熟と考えた。
既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、現だったものらしいが。
窓は開いているし、扉の外は音信は絶えたり、外に開けるものは、卓子の抽斗か、水差の蓋……
いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医師が手にかけたという、嬰児の酒精に浸けたのが、茶色に紫がかって、黄色い膚に褐斑の汚点が着いて、ぐたりとなって、狗の児か鼠の児かちょいとは分らぬ、天窓のひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不状なのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、呀! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七月児か、六月児か、昼間見た時、医師の説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海鼠のような、またその岩のふやけたような、厭な膚合、ぷつりと切った胞衣のあとの大きな疣に似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三個。
と考え出すと、南無三宝、も一つの瓶には蝮が居たぞ、ぐるぐると蜷局を巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青隈が凹んで、逆鱗の立ったるが、瓶の口へ、ト達く処に、鎌首を擡げた一件、封じ目を突出る勢。
「一口どうかね。」
と串戯に瓶の底を傾けて、一つ医師が振った時、底の沈澱がむらむらと立って、煙のように蛇身を捲いたわ。
場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕許にずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお在なさらぬ。
ああ、悪い処へ寝たぞ。
中にも件の長物などは、かかる夜更に、ともすると、人の眠を驚かして、
「開けて下さい。」
を遣りかねまい、と独りで拵えて、独りで苦笑した。
寝覚の思いの取留め無さも、酒精浸の蝮が、瓶の口をば開けて給べ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句可笑く、幻に見た婦の顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り現に見た、と合点が行くと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰向けに、どたりと寝た。
急に起上ったのであるけれども、さまで慌しくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が極まると、寝台の向も、室の工合も、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲目覗きではあるが、扉、窓、卓子、戸棚の在所などがしっかり知れる。
上に、その六月目、七月目の腹籠、蝮が据置かれた硝子戸棚は、蒼筋の勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚解剖の図を提げて、隙間一面、晃々と医療器械の入れてあるのがちょうど掻巻の裾の所、二間の壁に押着けて、直ぐ扉の横手に当る。そこには明取りも何にもないから、仄な星明も辿れないが、昼の見覚は違うまい。同じ戸棚が左右に二個、別に真中にずっと高いのを挟んで、それには真白な切が懸っていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。茫と天井から一幅落ちたが、四辺が暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明晃々たる器械のありとも見えず、寂となって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑場とも思われる。
旅行の袂に携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶然目に浮べたは可かったが、たちまち、小松原は胸を打った。
本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします──しかも婦の骸骨で、その真白な蔽の中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯向いたのが、腰、肩、蒼白く繋がって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫陽花の影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。
もうこの上には、仇、情、貴下、私も無さそうな形ながら、婦というだけ、骨の細りと、胸の辺も慎ましやかに、頤を掻込んだ姿を、仔細らしく視めたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一風颯と──田舎はこれが馳走という、青田の風が簾を吹いて、水の薫が芬とした時、──膳の上の冷奴豆腐の鉢の中へ、その骨のどの辺かが、薄りと浮いて出た。
それから前は、……寝しなに細君が串戯に、
「夜中に出掛けますかも知れません、婦だって言いますから。」
と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその婦が来て……
「ほい、蝮より、この方が開けてくれに縁がある。」
いや、南無阿弥陀仏、縁なんぞないのが可い、と枕を横に目を外らすと、この切がまた白い。襟許の浴衣が白い。同一色なのが、何となく、戸棚の蔽に、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪路のように、天井裏まで見上げさせる。
小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂々と流したが、大分夜も更けた様子で、冷々と、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽喉を掠める。
ごほんと、乾咳を咳いて、掻巻の襟を引張ると、暗がりの中に、その袖が一波打って煽るに連れて、白い蔽に、襞襀が入って、何だか、呼吸をするように、ぶるぶると動き出す。
目を塞いでも、こんな時は詮がないから、一層また起直って、確と、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆病眼が震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、瞼がだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。
ままよ、寝っちまえ! ぐッと引被ると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押立って、まざまざと屏風を立てたように寄って来る。
さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第低に、耐力なく根を抜いて、すっと掻巻の上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重量が掛って、うむ、と圧された同然に、息苦しくなったので、急いで、刎退けに懸ると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊着けられているような。
腕を引っこ抜く勢で、捥いて、掻巻をぱっと剥ぐ、と戸棚の蔽は、旧の処にぼうと下って、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼臭い、汗蒸れた匂が、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。
疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹籠りで、蒼臭いのは蝮の骸、汗蒸れたのは自分であろう。
そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと眗す内に、何となくほんのりと、誰だか、婦の、冷い黒髪の香がしはじめる。
香のする方を、熟と見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり鬢が纏って、濃い前髪の形らしく見分がつく、と下から捲上がるごとく、白い切が、くるくると小さくなり、左右から、きりりと緊って、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。
「奥さん!」
と思わず言って、小松原はまた目を覚した。
トもまだ心着かないで、
「今、開けます。」
と言って、愕然として我に返った。
「また、夢か。」
今度は目が覚めつつも、まだ、その俤が室の中に朦朧として残ったが、吻と吐く呼吸にでも吹遣られるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、衝と失くなる。
後がたちまち真暗になるのが、白の一重芥子がぱらりと散って、一片葉の上に留りながら、ほろほろと落ちる風情。
「こりゃ、どうかしているな。」
現と幻との見境さえ附きかねた。その上、寒気はする、頭は重し、いや、耐らぬほど体が怠い。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先刻より、今は起直る力がない。
特に我慢のならぬのは、呼吸苦しいので、はあはあ耳に響いて、気の怯けるほど心臓の鼓動が烈しくなった。
手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある筈、と思いながら、枕を乗出すさえ億劫で、我ながら随意にならぬ。
ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が溢したかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音信ではない。
陰気な、鈍い、濁った──厭果てた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠雨の、その点滴が黴びた畳に浸込む時の──心細い、陰気でうんざりとなる気勢である。
「水差が漏るのかな……」
亀裂でも入っていたろう。
「洋燈から滲出すのか……」
可厭な音だ。がそれにしては、石油の臭がするでもなし……こう精神が濛としては、ものの香は分るまい。
断念めるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、頻りに臭う。湿っぽい、蒼くさい、汗蒸れたのが跳廻る。
「ソレまた……」
気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の薫が颯と来た。
「また夢か。」
いつまで続く、ともうげんなりして、思慮が、ドドドと地の底へ滅入り込む、と今度は、戸棚の蔽が纏って、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、扉の方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫音。
その音は──今しがた聞え出した、何かを漏れて、雫の落ちる不快な響が、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。
何しろ、同一方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋燈がそこで消えた卓子の脚を伝って床に浸出す見当で、段々判然して、ほたりと、耳許で響くかとするとまた幽になる。幽になって外の木の葉を、夜露が伝うように遠ざかる。──が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ入りつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸出すか、零れるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。
しばらく経つと、重さに半ば枕に埋んで、がっくりとした我が頭髪が、その潵……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘々とするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天窓にあるべくもないが、カランと、櫛の落ちた音……
例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに新い音がはじまり、寝台の脚から掻巻の裾へかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪先で擦るでなしに、宙を伝う裙から出て、踵が摺れ摺れに床へ触るらしく、小股に歩行くほどの間を措いて、しと、しと、しと。
まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は投に出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周囲を廻って、ぐるりと一周りして枕許を通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰向けに引落される──はっとすると、もう横手へ退く。
その内に、窓下の点滴が、ますます床へ浸出すそうで、初手は、件の跫音とは、彼これ間を隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一条濡れた路が繋ったらしくなると、歩行く方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。
これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛々に残っていようも知れぬ。
飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。
しとしという尋常らしい跫音が、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら踵まで浴ろう深さ、そうして小刻に疾くなったが、水田へ蹈込んで渡るのを畔から聞く位の響き。
と卓子の上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。──さてもさても夥多しい水らしいが、滝の勢もなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆捲かず、走っても迸らぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨上りの広田圃を見るような、鮒と鰌の洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大河の出水の凄いに増る。
そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。
やがて短夜が……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が注して、どんよりと光って、卓子の上へ飜った、と見ると、跫音が、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを駈けたが、風か、水か、ざっと鳴る時、婦の悲鳴が、
「あッ」
と云う……
「奥さん。」
と刎起きる、と、起きた正面に、白い姿が、髴とある!
「ああ、夢か。」
と気が着いたが、まざまざ垂れたその切が、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その辺が、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。
あの、雪に、糸一条も懸らぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような衣をぞ絡う。
と見ると、乳の辺、胸へ掛けて、無慚や、颯と赤くなって、垂々と血に染まった。
枕に響いた点滴の音も、今さらこの胸からか、と悚然とするまで、その血が、ほたほたと落ちて、汐が引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が萎む、と手と足に蒼味が注して、腰、肩、胸の隅々に、まだその白い膚が消々に、薄らと雪を被いで残りながら、細々と枝を組んで、肋骨が透いて見えた。
「ああ、これだな。」
と合点が行く。
途端に、がたがたと戸棚が鳴った。
自分で正気づいたと、心が確になった時だけ、現の婦の跫音より、このがたがたにもう堪らず、やにわに寝台からずるずると落ちた。
小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先刻から電燈で照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶予いもせず、ズシンと身体ごと扉の引手に持って行くと、もとより錠を下ろしたのではない。
ドンと開く。
扉に身体が附着いて、発奮んで出たが、跨いだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑婆へ踏掛けた体で、独で踠いて、どたんばたん、扉の面と、や、組んだりける。
この物音に、驚破と奥で起直って、早や身構をしたと見える──慌しい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな響がまた聞えたのに、堪りかねて主人を呼ぶと──向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと射していた灯が動いて、直ぐに台附の洋燈を手にした、浴衣の胸のはだかった、扱帯のずるずるとある医師が、右を曲って、正面へ。
開放した障子を洩れて、だらりと裾を引いた萌黄の蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、
「便所か。」
と云う、髯、口許が明々として、洋燈を翳す。
この明で、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎垂れた、腰の据らぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼母しさ。顔を見ると、蘇生った心地で、
「やあ。」と掛けた声が勢なく中途で掠れて、
「夜更けに恐縮、」
とやっと根こそぎに室を離れた。……扉を後ざまに突放せば、ここが当館の関門、来診者の出入口で、建附に気を注けてあるそうで、刎返って、ズーンと閉る。
と突出された体にしょんぼり立って、
「どうも、何だ、夜夜中、」
医師は亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切頓着なく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対向になる時、傍の玄関の壁越に凄じい鼾を聞いて、
「壮だ、壮だ。」
と莞爾する。
顔色が、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼覚されて、眠いに迷惑らしい様子もないので、
「どうも気の毒です。酷い目に逢ってね。」
といささか落着く。
医師は立はだかりつつ、
「どうした、蚊軍の襲来かい。」
なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、
「ええ、」
といかにも気が利かない。
「蚊に城を破られたかよ。」
「そこどころか。」
対手の余り暢気なのが、この際怨めしく思われた。
「この中は大変だ。」
「大変だ?」
「何か来たんだ。」
「何、入って来たか、」
と洋燈を上げて、扉の上を、ぐいと仰ぐ。
「がたがた遣ってる。」
小松原は、ずうっと医師に身を寄せる、と目を返して、今度はその体をじろじろ視めて、
「震えてるね、君は。」
「どうだい、心持は。もう爽快したろう。」
主人の医師は、奥座敷の蚊帳の中に、胡坐して、枕許の煙草盆を引寄せた。
「こういう時は、医師の友達は頼母しかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡萄酒でも薬局で喇叭を極めると、何となく難有味が違って、自ら精神が爽快になります。しかし怯えたっけ、ははは。」
と髯を捻って、冴々しい。
蚊がぶうんと唸って、歯切もどこかでする。灯の暗い、鬱陶しかるべき蚊帳の内も、主人がこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。
小松原は、裾を細う、横に手枕で気を休めていた。
「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、遁げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」
咽喉を斜に手を入れて、痩せた胸を圧えながら、
「見たまえ、いまだにこの動悸を、」
「色は白くっても、野郎の癪を圧えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」
「ふ、ふ、」
と力抜けた声で笑って、
「奥さんは?」と俯向けに額を圧える。
「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小児の奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、大に台所の内諭なきにしもあらずだろうが。
そこで、先刻、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。──空鉄砲の機会もなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思入があったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。
君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」
折から陽気にという積りか、医師の言は、大に諧謔の調を帯びたが、小松原はただ生真面目で、
「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」
「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道好くない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝台だもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。
しかしそれにしてもあんまりな怯え方だ。夢を見て遁出すなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵倒するわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串戯じゃない、病気になる。
そんなのが嵩じると、何も餅屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真昼間でも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。傍から見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。
何も、朦朧と露れたって、歴々と映ったって、高が婦じゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」
「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周囲を歩行いたんだが、そう、どっちにしても婦らしく思われた──それがすぐに、息の詰るほど厭な心地だったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに鯰でも湧出しそうな、泥水の中へ引摺込まれそうな気がしたんで、骨まで浸透るほど慄然々々するんだ。」
と肩を細うして、背で呼吸をする。
「男らしくもない、そんな事を言って梅雨期はどうします、まさか蓑笠を着て坐ってやしまい。」
「うむ、何、それがただのじとじとなら可いけれど、今云う泥水の一件だ、轟と来た洪水か何かで、一思に流されるならまだしもです──灯の消えた、あの診察処のような真暗な夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨の中に、ぐしゃりと水のついた畔道に打坐って、足の裏を水田のじょろじょろ流に擽ぐられて、裙からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」
と力強く云って、また小松原は溜息で居る。
医師は徐に、煙草盆を引寄せて、
「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで可かろう。何も真暗な夜、田圃の中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を擽られて、腰から冷通るとまで、こじつけずともの事だ。その気でお膳に向った日にゃ、お汁の湯気が濛々と立騰ると、これが毒のある霧になる、そこで咽死に死にかねませんな。」
「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆病です。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄想した訳ではありません。
実際、そんな目に逢って、一生忘れられん思をした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥立つ。」
フイと起返って、蚊帳の中を眗したが、妙に、この男にばかり麻目が蒼い。
医師は落着いて、煙を吹かして、
「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」
「ううむ。」
と深く頭を振って、
「いつかの時さ、あの一件の……」
と言懸けて、頬のこけた横顔になって打背いた。──小松原の肩のあたりから片面の耳朶かけて、天井の暗さが倒に襲ったのを、熟と見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと頷いた。
当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど前に、七十五日も通越したから、更めて思出すほどでもなし、おいそれと言に従いて、極りの悪い思をさせるでもなかろう。で、一向無頓着に、
「何だい、いつかの一件とは?」
「面目次第も無い件さ。三年前だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損なった、その時なんです。」
「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」
と云う内に自から真心が籠って、
「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴切にされたって承合助かる。洒落にちょいと轢かれてみるなんぞも異だがね、一人の時は危険だよ。」
わざと話に、一人なる語を交えて、小松原が慚愧の念を打消そうとするつもりだった。
ところが案外! この情に、太く動かされた色が見えたが、面を正しゅう向直った。
「何とも──感謝する。古疵の悩を覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは真に嬉しい、難有いが……それでは怨だ。
ねえ。
あれほどの騒ぎだもの。ことに自惚らしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん振をしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余処の夫人を誘って、心中を仕損った、とそう思っているからです。
勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」
と俯向いて腕を拱き、
「その君の情ある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」
医師は潔く、
「承わろう。今更その条道を話して聞かせる……惚気なら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴なら男らしくもない、止したまえ──だが、私たちが誤解をしているんなら、大に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」
「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」
「可いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師には秘密を打開けて可いもんだ。」
「…………」
言淀んで見えたので、ここへ来い、と構を崩して、透を見せた頬杖し、ごろりと横になって、小松原の顔を覗込みつつ、
「で、何か、その晩、田圃に坐ったのか。」
と軽く扱って誘を入れた。
「まあ、坐ったんだ。」
小松原は苦笑して頬を撫でたが、寂しそうに打傾き、
「土下坐をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」
「またどうしてだい。」
と医師は寛いだ身の動作で、掻巻の上へ足を投げて、綴糸を手で引張る。
「それがね、」
と熟と灰吹を見詰めてから、静かに巻莨を突込みながら、
「はじめは何でもない事だった。──何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」
「あの人ッて?」
「…………」
「ははあ、対手の貴婦人だね。」
「そんな事を言わないで、」
と吸口をもっと突込む。
「可いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」
「何、貴婦人に違いはないが、その対手が悪い。」
「可し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」
「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越でいたのだった。
ちょうど戦争のあった年でね。
主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳が出て、塩梅が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可い、場所は、と云って此地を、その主治医が指定したというもんです。
小児の病気とはいいながら、旅館と来ると湯治らしく、時節柄人目に立つ。新に別荘を一軒借りるのも億劫だし、部屋借が出ず入らず、しかるべき空座敷があるまいか、と私が此地に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商も大きく遣っている、家主の人柄も可し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
直ぐに極めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣に羽織を被て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠っていた処……その日は朝から雨が上って、昼頃には雲切がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空は見えなかったが、多日ぶりで、出歩行くに傘は要らない。
小児を歩行かせるには路が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜っかいに私の前二階を覗いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
(お出掛けなさいませんか。)
と浜を誘いに見えるだろう。
(小松……君。)
と原抜きにして、高慢に仇気なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
その内、湯に入ると、薄りと湯槽の縁へ西日がさす。覗くと、空の真白な底に、高くから蒼空が団扇をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲の外を、
(水が出たぞ。)
(田圃一面。)
と饒舌って通った。
これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌に手拭も絞らないで、ふらんねるを引かけたなり、帽子も被らずに、下駄を突掛けて出たんだがね。」──
「汎水だ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈出して見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……
董、茅花の時分から、苗代、青田、豆の花、蜻蛉、蛍、何でも田圃が好で、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案山子の船頭。芋莄の靡く様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔染みた考えで、深山大沢でない処は卑怯だけれど、鯨より小鮒です、白鷺、鶉、鷭、鶺鴒、皆な我々と知己のようで、閑古鳥よりは可懐い。
山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。
いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、可心持に、すっと足を伸す、背が浮いて、他愛なくこう、その華胥の国とか云う、そこへだ──引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌黄色の葉の茂ったのが、上へかかって、その樺色の根を静に洗う。藍がかった水の流が、緩く畝って、前後の霞んだ処が、枕からかけて、睫の上へ、自分と何かの境目へ露れる。……
トその樹の下に、笊か何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、掬ってる小児がある。其奴が自分で。──ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身節がなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小濁りに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ溢るんだがね、その土手が、城趾の濠の石垣らしくも見えれば、田の畔のようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽炎が絡る形に、その水の増す内が、何とも言えない可い心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶上ると、土手の上で、──ここが可訝しい──足の白い、綺麗な褄をしっとりと、水とすれすれに内端に掻込んで、一人美人が彳む、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍惚……
すやすや寝ます。
枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で賺かされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける──それでも、散らかって、絡まらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。
そこで、大好きな田圃の中でも、選分けて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨上りにちっと水が殖えて、畔へかかった処が無類で。
取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。──本人にも一向掴え処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日中だか、それさえ曖昧で、ただ見える。
さあ、模様が誂向きとなったろう──ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商家の前を通るんだったよ。
店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その門を見ると、小児が遊んでいたらしく、めんこが四五枚、散に靴脱ぎのたたきの上へ散って、喇叭が一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈出したか、格子戸が開放し、框の障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。
その格子戸の潜の上へ手を掛けて、
(健ちゃん、)
と呼んでみたが、黙っていた。
(居ないの。お留守、)
と遣ると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫音がして、でも、黙然で、ちょいと顔だけ見せて覗いたが、直ぐに莞爾して、縁側を奥座敷へ上った姿は……
帯なし、掻取り気味に褄を合せて、胸で引抱えた手に、濡手拭を提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞爾すると、……」
「謹聴、」
と医学士が唐突に云った。
「真面目だよ、真面目だよ。」
「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の可い顔を、ほんのり薄紅の注した美しい耳許の見えるまで、人可懐く斜めにして、
(失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)
と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸々と寛容して、串戯の一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急込んで、
(田圃へ行って見ませんか、)
と何のあしらいもなく装附けた。
(は、参りましょう、)
と頷いて、台所の方を振返りながら、
(ちょいと、御免なさいよ。)
支度を、と断るまでもなく、平常着のままで出は出たが、──その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。裙が落ちて、畳に颯と捌けると、薄色の壁に美しく濡蔦が搦んで絵模様、水の垂りそうな濡毛を、くっきりと肱で劃って、透通るように櫛を入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった──勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです──あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化粧をする事もなかろう。
熟と見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を掠めて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……膚の白い人だっけ。
直ぐにそれは消えたけれど、今のその褄はずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……
ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。
何に誘われて出たんだか、──とうとうあんな酷い目に逢う原因だったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、──いや、夢じゃない、我が心に、誘出されたものかと思う。」
小松原は、現のように目を睜って、今向直って気を入れた、医師の顔を瞻りながら、
「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか頻りにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小児の時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。
それにね、そんな風で停車場へ迎いに行って、連れて来て、家も案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩行いて、台所の俎、摺鉢の恰好まで心得てるような関係になっていたから、夏の中も随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで──また小児のために、それが何よりの目的なんでね。
来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬丁と、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮炊が間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御馳走になった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。
一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を極って、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真中へ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば埒は明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開閉一つで往来の出来る、家主の店へ頼んで、一足後れ馳せにでも、
(坊ちゃん)……か何かで、直ぐに追着く。
だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。
浜に人影がなくなって、海松ばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手遊のバケツを振提げると、近所の八百屋へ交渉して、豌豆豆を二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。磯へ出ると、砂を穿って小さく囲って、そこいらの燃料で焚附ける。バケツへ汐汲という振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ薄りと煙が靡くと、富士を真正面に、奥方もちっと参る。が、落日に対して真に気高い、蓬莱の島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が随いていたのに。」
「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。
(そこいらに居ましょう。)
と藤色の緒の表附の駒下駄を、紅の潮した爪先に引掛けながら、私が退いた後へ手を掛けて、格子から外を覗いた、門を出てからで可さそうなものを、やっぱり雨に閉籠った処を、四五日振りの湯上りで晴々して、戸外へ出るのが嬉しくって、気が急いたものらしかった。
帯もざっとした引掛結びで、
(おや、居ませんか?)
ッて蓮葉に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込んで、
(健ちゃん、健ちゃんや。)
と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切を持って健坊が顔を出した。田圃へお出で、と云うと、
(厭だべい。)
で突掛るように刎附ける、同じ腕白夥間に大勢馴染が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒になった。母様がまたこれを大層喜んでいたもんです。
(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)
(うん、)
と云うと、わっと吶喊を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋の前で、健ちゃんは素飛ぶ。
(お庇様で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)
と嬉しそうに見えて、
(どちらへ?)と聞く。
(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)
百姓家二三軒でもう畷だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう──もっとも汎水と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
路は悪かった。所々の水溜では、夫人の足がちらちら映る。真中は泥濘が甚いので、裙の濡れるのは我慢しても、路傍の草を行かねばならない。
停車場は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光に光って、夜になると蒼く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田の方へ、むらむらと斑に飛ぶ。が海を抱いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一拭い拭を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果と思う処に、あるかなし墨を引いた曇が亘って、驚破と云うとずんずん押出して、山の雲と一絡めにまた空を暗闇にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯の影も見られなそうな夕暮だった。
(もう、お天気になりましょうね。)
(さあ、)
とは云ったがどうも請合いかねる。……明白に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢れた水が田へ被るそれらしかった。
踏切を渡ると、鴉が一羽……その飛んだ事ったら──吃驚したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
もう少し隧道の方へ行くと、あすこに、路の真中に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭のように欄干がついて、──あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色に濁ったのが、どうどうとただ一幅だけれども畝を立てて、橋の底へすれすれに凄じいほど流れている。いつもは俯向いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩増して、薄の葉が瀬を造って、もうこれで充満と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣ってた。」
「この水が、路端の芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物凄い渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人立がして、明い雲の下に、海の方へ後向に、一筆画の墨絵で突立つ。蓑を脱いで手に提げて鍬を支いた百姓だの、小児を負った古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。
見ると、堪らなく嬉しくなった。
(さあ、こうしておいでなさい。)
と畦を踏分けて跡をつけては、先へ立って、畠を切れて、夜は虫が鳴く土手を上ったが、ここらはまだ褄を取るほどの雫じゃなかった。
線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲穂の分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細流が蜘蛛手に走る。二三枚空が映って、田の白いのは被ったらしい。松があって雑樹が一叢、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が溢れていよう。
(もうこれだけかね、)
甚だ怪しからん次第だったけれども、稲の上を筏ででも漕いでくれたら、と思って、傍に居た親仁に聞くと、
(汐が上ったら、まっと溢るべい。)
と、腕組をして熟と視める。
成程、漁師町を繞ったり、別荘の松原を廻ったり、七八筋に分れて、また一ツになって海へ灌ぐが、そこ行くとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が注そう。
と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の端から𤏋と雲を射たが、親仁の額も赫となれば、線路も颯と赤く染まる。稲を潜って隠れた水も、一面に俤立って紫雲英が咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白帆も行きそうだった。
またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝染めに暮れかかると、次第に褪せて行く茜色を、さながら剥ぎたての牛の皮を拡げた上を、爪立って歩行くような厭な心持がするようになっちまった。
ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを危っかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨ぎで、漁師町の裏へ上ろうとする処で、思いがけなく行きついたろうではないか。」
「ふん、どうしてだい。」
と医師は枕を抱く。
小松原は一息ついて、
「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手拭を当てても堰留められそうな、田の切目が、薬研形に崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁水の渦を巻く。ここでは稲が藻屑になって、どうどう流れる。もっとも線路から段々下りに低いからね。山の裾で取囲んだ浜田ありたけの溢れ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の畦の処に、漁師の子が三人ばかり、素裸で浸っていたろう。
(どうだ深いか。)
と一ツ当って見ると、己達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突懸り気味に、
(深え。)
(二丈の上あるぜ。)
と口を尖がらかしたも道理こそ。此方づれの体は、と見ると、私が尻端折で、下駄を持った。あの人もまた遣附けない褄を取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣足で、びしょびしょと立った所は、煤払の台所へ、手桶が打覆った塩梅だろう。」
この時一所に笑い出したが。
「ね、小児だって、本場の苦労人が裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。
が、まだ威かしではないか、と思う未練があった。──処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の前へ、ぶっくり浮いた河童小僧。
おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一条仰向けに水を噴いた……深いんです。
どうもこれにゃ逡巡いで、二人で顔を見合せたんだ。」
「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど可いくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。
さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草鞋掛ででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。
それ、今言った通り跣足です。なるだけ水の上の高い処を、と拾って畦を伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥濘で辷る、乾いた処ちっともなし。……
(お危のうございますよ。)
(は、大丈夫、)
と声を掛けて、やっと辿ったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと薪を倒したほどの足掛が架っているが、たださえ落す時分が、今日の出水で、ざあざあ瀬になり、どっと溢れる、根を洗って稲の下から湧立つ勢、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、
(お手をお取り申しましょうかね。)
と一畦離れていて云うと、
(是非、どうぞ。)
なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水溜へ片足踏込んで、私が前へ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣足、湯上りの足は泥だらけで──ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩行いてる内に綺麗に落ちる、その位皆水です。
で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足許も悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……
とこの時……
薄り路へ被った水を踏んで、その濡色へ真白に映って、蹴出し褄の搦んだのが、私と並んで立った姿──そっくりいつも見る、座敷の額の画に覚えのあるような有様だった──はてな、夢か知らん……と恍惚となった。
ざあざあ、地の底を吹き荒れる風のような水の音。
我に返って、密と顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。
(ここは通れません。)
(引返しましょう。)
(飛んだ御案内をしてお気の毒です。)
(いいえ、おもしろうござんすよ。こんな奇い態をして。)
と美しく微笑みながら、
(いっそ袂を担ぎましょうか。)
この元気だから。どうやら水嵩も大分増して、橋の中ほどを、蝦蟇が覗くように水が越すが、両岸の杭に結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背後から片手をかけて。
それから──前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに畝って流れる、小川の両方に生被さった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、累り累り、所々煽って、高い所を泥水が走りかかって、田も畑も山も一色の、もう四辺が朦朧として来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。
人は一人も居らず、……今渡った橋は、魚の腹のように仄白く水の上へ出ているが、その先の小児などは、いつの間にか影も消えていた。
(小松原さん。)
とあの人が、摺寄って、
(もう一つの路はどうでしょうかしら。)
と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。
もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を行く、その川縁を蘆の根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、汐はこの方が余計に注すから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、
(行って見ましょう。)
と歩行き出して、向を代えて、もう構わず、落水の口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで上ると、片側が蘆の茂りで。」
「透かした前途に、蘆の葉に搦んで、一条白い物がすっと懸った。──穂か、いやいや、変に仇光りのする様子が水らしい、水だと無駄です。
(ここにいらっしゃい。)
と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越え、跳越え、倒れかかる蘆を薙立てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆した。線路から眺めて水浸の田は、ここだろう。……
が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐が上げているんだから流れはせん。薄い水溜だ、と試みに遣ってみると、ほんの踵まで、で、下は草です。結句、泥濘を辷るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥しい、畦が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
早や暗くなって、この田圃にただ一人の筈の、あの人の影が見えない。
浜で手鍋の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
と呼んだりしたが、もう真になって、
(夫人!)
と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、厭に寂しい。
声を便りに駈戻って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
誰も落着いてはいないのを、汝が周章てて捲立てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中へ立った姿で、何だか幻の中を行く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美い色が、薄濁った水に映った──」
小松原は歯を噛んで言渋ったが、
(先方でも、手を出した……それを曳こうと思った時……
私はぎょっとした。
つい目の前を、足に絡んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力のあるのが、一筋、褐色の鱗を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕れたんだ。
ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢だからもう不可い。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々を極めてるなんざ、情なかろうではないか。
しかも幅一間とは無いんだよ。
(不可ないのねえ。)
(駄目です、)
と言ったきり。だって口惜しかろう。その川一条の前途は、麗々と土が出て、薄りと霧が這って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨み詰めて立っていた。」
医師はむくむくと起きて、平胡坐で、枕を頤に突支って、
「いや、散々、散々、お察し申すな。」
「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠える、吠える! うう、と唸る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄かった。
(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)
と低声で、あの人が言う。
(なぜ。)
と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行き出した。
現在犬に怪まれているんです……漁師村を表に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
(一奮発遣附けましょう。)
と勇が出た。」
「その努力で、蘆の中だけは潜り抜けて、旧の方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか畦だか覚束なく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから轟と鳴る、心細さといったら。
川筋さえ避けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛々の黒い影も見えなくなって、後は水田の暗夜になった。
時に……急ったせいか、私の方が真先に二度辷った、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に這った。
(あれ、お危い。)
と云う人を、こっちが、
(お気を注けなさらないと、)
この通り、ト仕方で見せて、だらしなく起つ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙然、そら解がしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。
気が付いて、
(穿物を持って上げましょう、)
と注意すると、
(はい、いいえ、可うござんす。)
と云ったが、しばらくして、
(流れてしまったようですよ。)
成程、畦の切口らしい、どっと落ちるんだ。
(飛んだ事をなさいました。)
(いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)
愚図々々していたので、
(可いんですよ、構やしない。)
とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が可い。が、私が猶予ったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔失くなしている。──実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大概に着いてたけれども、踏処が悪いと水田へ陥る。
果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と胆を据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突込んだ。
(あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。
お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥土へ来たのかと思った。あの広場を手探りでどうするもんかね。……
背後の足弱が段々呼吸づかいが荒くなってね、とうとう、
(ちっと休みましょう。)
と言い出した。雪路以上、随分へとへとに揉抜いたから。
私は凭懸るものもなく、ぼんやり暗の中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤立つ。
(腰を掛けたんですか。)
(ええ、)と云う。
(濡れていましょう。)
(ええ、何ですか、瀬戸物の欠がざくざくして、)
私は肚胸を突いたんだ。
(不可い! 貴女、そりゃ塵塚だ。)
と云う内にも、襤褸切や、爪の皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない芥が目に浮ぶ。
(でも水の上よりは増ですわ。)
と断念めたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば諸ともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺抜けようとしたけれども、頬擦るばかりの鬢の薫に。……
ここで、真に相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身体に触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣足にさせ、夜露に打たせて……羅綾にも堪えない身体を、と言おうとして、言いようがないから、
(荒い風にもお当りなさらない。)
とヘマを言って、ああ厭味だと思って、冷汗を掻いた処を、
(お人が悪いよ、子持だと思って、)
これにまたヒヤリとしたように覚えている。」
「それと同時に小児の事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度上下した。
この汽車だが……果しの知れない暗闇の広野──とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途──その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが──後には可悪い偉大な獣が、焔を吹いて唸って来るか、と身震をするまでに、なってしまった。
第一、足の出しようがない。それに……
もうこう夜も遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風説をしている折からだから憂慮わしい。
(どうでしょう。)
と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に──人が見ては悪いわ──と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、
(さあ、私もそれが気になります。)
返事がこれで。何とも言いようがなくって溜息が出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、情ない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。
あの人にも聞えたか。
(お腹が空いたでしょうね。)
と来たのにゃ、赫としたよ、但しそういう方も晩飯前です。……
詮方がない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒鳴んなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って救を呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串戯じゃない。」
医師は聞く中にも笑出した。
言うものも釣込まれたが、
「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟々思った。
ところで……
じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑婆だから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、
(戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)
とは言ったがね。まさか夜の明けるまでそうして居られるものとは思うまい。
糠雨が降って来たもの。その天窓から顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で嘗めるようです。
水の音は次第々々に、あるいは嘲り、あるいは罵り、中にゃ独言を云うのも交って、人を憤り世を呪詛った声で、見ろ、見ろ、汝等、水源の秘密を解せず、灌漑の恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細流の威力を見よと、流れ廻り、駈け繞って、黒白も分ぬ真の闇夜を縦に蹂躪る。と時々どどどと勝誇って、躍上る気勢がする。
その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。
次第に雨が溜るのか、水が殖えたか、投出してる足許へ、縮めて見ても流が出来て、ちょろちょろと搦みつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと沫が掛る、雫が落ちる。
地鳴が轟として、ぱっと一条の焔を吐くと、峰の松が、颯とその中に映って、三丈ばかりの真黒な面が出た、真正面へ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。
下りの終汽車らしい、と思った時、
(あ痛、痛。)
はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、
(胸が。)と云う、歯の根が合わない。
(冷えたんです。)
と言いながら、私もわなわなし出した。」
「一生懸命の声をして、
(さ、お掴んなさい。)
とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴んだが、苦痛を堪える恐い力が入って、痺れるばかり。
(しっかり……しっかりして下さいよ。)
背中を擦ろうとした手が辷って、ひやひやと後毛を潜って、柔かな襟脚に障ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
その時ふっとまた、褄の水に映るのが、薄彩色して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
膝に倒れたのは、あの人だ。
私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出して行って支度して迎に来ます。)
と声も震えながら云うと、
(一人で、どうして居られましょう、一所に。)
ッて、ぐいと袂に掴まったが、絞ると見えて水が垂った。
(田も畦も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我があると不可ません。)
(可いの、貴下、婦は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)
と縋った手を、しっかりと取合った。
(じゃ、悪魔に攫われたと、断念めて、目を瞑って、覚悟をして……)
(は、瞑りました。)
と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」
と、小松原は拳を握った手首をかえして、目を圧えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
「考えて見れば怪しい。
はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞んでるにも当らず。不断見れば掌ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
畢竟ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
その罰です。
後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合って駈出した処を、あっと云う間もなく、終汽車で刎飛ばされた。
気が付いた時は、真蒼な何かの灯で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣を脱がしてあった。ただ一束ねの滑かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺に血が染んだ、──この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
君も知ってる、生命は、あの人も助かったんだが、その後影を隠してしまって、いまだに杳として消息がない。
これが風説の心中仕損。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然から明りは立つ。面と向って汝が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一なんだ。
お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。──ただもう一度逢いたいよ。」
と団扇を膝につくと、額を暗うした。
医師は黙っている。
「しかし、」
と、小松原が額を上げた。
「未練だね。世間じゃ、誰もあの人が活きているとは思わない。私だって、実際生存えていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜索もしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過去ったんだ。だから、もしやが頼まれる……
それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」
「しかし逢いたいんだ?」
と医師は笑いながら口を入れた。
「…………」
「成程、そこで魘されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭だったろう、全く気の精だな。遁出したも道理だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」
「時に、」
小松原は、気が着いたらしく更まって、
「あの、白骨だがね、」
と皆まで言わせず、手を掉って、
「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」
「骨じゃない、」
と鸚鵡返しで、
「けれども、婦のだと言うじゃないか。何年経ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。
婦が、あの姿を人目に曝されたら、どんな心持だと思います──君にこんな事を云うのは、解剖室で命乞をするようなものだが、たとい骨でも、一室に泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。──私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚然とする。どうだね、可哀想だとは思わないかね。」
「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜みはせんが、打棄っておきたまえ。そんな事を気にするのは宜くないから止したが可かろう。」
「貴郎、」
と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の室の暗い中を透かした。暑いので襖は無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その中に、浴衣の模様が、蝶々のように掠れて見えたは細君で、しかも坐って、紅麻に裳を寄せ、端近う坐っていた。
「何だ、起きていたのか。」
「はい、つい、あのお話しに聞惚れまして、」
と云うのに、しんみりと涙が籠る。
「どうも、」
とばかりで、小松原は額を圧えた。医師は事も無げに、
「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢しちゃ不可んぜ、水が出ると大変だ。」
「あれ、可厭な。」
「馬鹿だな、臆病。」
「だって、」
と蚊帳の裾を引被ぐ、腕が白く、扱帯の紅が透いた時、わっと小児が泣いたので、
「おお。」
と云って添臥したが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。
「ねえ、貴郎、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可恐いんですもの。」
と弄かうごとく、団扇を膝でくるりと遣る。
「いいえ、ですがね、あの御骨……」
「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」
「御免なさいましよ。」
と客に云って、細君は、小児に添乳の胸白く、掻巻長う、半ば起きて、
「串戯ではなくってよ。貴郎が持って来て、あそこへ据えてから、玄関の方なんぞも、この間中種々な事を言ってるんですよ。
話声がするの、跫音が聞えるのって──大方女中なんかを徒に威すんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」
「ねえ、小松原さん、」
とぼかしたような顔が、蚊帳の中で朧に動いて、
「あの御骨だって、水に縁があるんですもの。」
「婦女子の言です。」
と医師は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室へ摺寄る身構えで、
「水に縁と……仰有ると?」
「あれは貴下、何ですわ、つい近い頃、夫が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧あった処は沼なんですって。」
「沼!」
「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上げるもんか。」
「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が殖えたので、底から流出したんだろうッて、貴郎がそう言っていらしったではありませんか。──小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼が溢れたんですって、田圃の用水は、皆そこから来るんだって申します……
その近処の病家へ行きました時に、其家の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、夫が貴下、好事にその男を連れて帰りがけに、廻道をして、内の車夫に手伝わして、拾って来たんですわ。
御骨は、沼の縁に柔な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も繋って、膝を屈めるようにしていたんだそうです。」
「妄誕臆説!」
と称えて、肩を一つ団扇で敲く。
「臆説って、貴下がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体具っているのは、何でも非常な別嬪に違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩の化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾の可い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」
と、もう小児も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。
医師喟然として、
「宜しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意なさい、こちらへ来て講中にならんか。」
と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣で突立った。
が横向に隣を見て、
「何だ、お前も手水か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」
と言う。
小松原が、ト透すと、二重遮って仄ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。
「貴郎、」
とこの時、細君の声は、果せる哉、太く震えて、
「貴郎……」
「うむ、」
小松原も蚊帳の中に悚然として、
「酒田。」
と変な声をする。
「誰か居ますか。」
「おお……」
と医師は、蹌踉けたように、雨戸を背に、此方を向き替え、斜めに隣室の蚊帳を覗いた。
「私はここに居ますんですよ。」
「誰だ、今のは?」
うっかり医師が言うや否や……
「厭……」
と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を潜ると、裙と裙とにばっと挟まる、と蜘蛛の巣に掛ったように見えたが、一つ煽って、すッと痩せたようになって、此方の蚊帳へ──廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ──腰を細く、乗るばかり、胸に縋った手が白く、小松原の膝にしがみついた。
──この状を……後に、医学士が人に語る。──
「蒼沼の水は可恐しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は嫉もうとした。」
その時医師は肩を昂げて、
「雨かな。」
と仰向けになったが、また、俯向いて胸を払った。
「何だ、廊下は水だらけだ。」
細君は何にも言わぬ。小松原も居窘まって、忙しく息をするばかり。
鶏が鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突立った夫を見た時、聞耳を立てて、
「何です……がたがた、がたがた言って、」
小松原が、
「あ、」
「あれか、」
と医師もそこで聞取った。
「酒田……先刻のも、」
「むむ、診察処だ。」
「あれえ。」
「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」
と言って、蚊帳の周囲をぐるりと半分、床の間をがたりと遣ると、何か提げた、その一腰、片手に洋燈を翳したので、黒塗の鞘が、袖をせめて、つらりと光った。
「危い、貴郎、」
「大丈夫だ。」
「いいえ、」
細君は一声、誰かを呼んで、
「玄関の方を起して下さい、正吉──」
もう医師の姿はなかった。
ばたん、と扉の開いた音。
二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は静に悠々と取って返す。
「どうした。」
「鼈だ。」
「え。」
「鼈が三個よ。」
「どこに、ですえ。」
と細君は歯の音も合わぬ。
医師は真面目な顔して、
「場所はちと悪い、白いものの前だ。」
「あれ。」
「さぞまた蒼沼から、迎に来たと言うだろうなあ。」
と雨戸を一枚、颯と風が入って、押伏せて、そこに置いた洋燈が消えた。
が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。
白骨が旧の沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一夜の縁のみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の源ぞと聞くからに、顔を知らぬ許婚に初めて逢いに行く気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立出づる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の梢に、髣髴として瑠璃を湛える。
その心は色に出て、医師は小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介添に附いたのは、正吉と云う壮い車夫。
国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠勇らしいが、いや、山育ちの自然生、大の浄土宗。
お萩が好の酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大風から、七ツ金ぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。豪いのは、旅の修行者の直伝とあって、『姑蘇啄麻耶啄』と呪して疣黒子を抜くという、使いがらもって来いの人物。
これが、例の戸棚掛の白布を、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に載せて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯気ともしないで、一件を小脇に抱える。
この腰の物は、魔除けに、と云う細君の心添で。細君は、白骨も戻すと極り、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、
「昨晩はお楽み……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」
など遣ったものだが、あえてこれは冷評したのではない。その証拠には、小松原と一足違に内を出て、女子扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某寺へ。供養のため──
「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」
と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道を横へ切れる細い路。次第高の棚田に架って、峰からなぞえに此方へ低い。田の青さと、茂った樹立の間を透いて、六月の空は藍よりも蒼く、日は海の方へ廻って、背後から赫と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
三方、山の尾が迫った、一方は大なる楓の梢へ、青田の波が越すばかり。それから青芒の線を延して、左へ離れた一方に、一叢立の藪があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出し、揺出す。その上に、萱で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯と黒髪を捌いたごとく、梢が乱れ、根が茂る。
路はその雑木の中に出つ入りつ、糸を引いて枝折にした形に入る……赤土の隙間なく、凹に蔭ある、樹の下闇の鰭爪の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜の鱗を踏むと思えば、鼈の足痕を辿るよとも疑われた。
次第に山の裾を分け上ると、件の楓を左の方に低く視めて、右へ折曲ってもう一谷戸、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径の端に、抜けた岩ごと泥が堆かった。
「沼はこの先でがんす。」
と正吉は前へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷かるる。
「梅雨あけに、医師と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車もはい、持立てるようにしてここまでは曳いて来ただが、前あ挺でも動きましねえでね。」
と言う。
このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込んだのが、けろりとした目で、閑に任かして、退屈まぎれに独言を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々として調べ奏でる。
……きょ、きょら、くらら、くららっ!
と転がして、発奮みかかって、ちょいと留めて、一つ撓めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺に響く。
小松原は、魂を取って扱かれるほど、ひしひしと身に堪え、
「……京から、今日ら……来るか、来るか!」
と言われるようで、
「来ました、東京から今日来ましたよ。」
と胸の裡で言った。
その蒼沼は……
小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸へ山の青簾、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面を打って、爪先寒う湛えたのである。
水の面は秋の空、汀に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉三葉折れながら葉ばかりの菖蒲の伸びた蔭は、どんよりと白い。木の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜の蔓が、水筋を這い廻る──空は、と見ると、覆かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方は遠方なりに遮って、池の周囲と同じ程より、多くは天を余さぬから、押包んだ山の緑に藍を累ねて、日なく月なく星もなく、倒に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸れて荒びて、主やあらん、その、主の留守の物寂しい。
濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折込んで、縁を浅黄に、木の葉を照らす。この影に、人は蒼白く一息した。
なぜか、葬礼の式に列ったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙草も喫まないで、小松原は踞った正吉を顧みて、
「どこで拾ったね。」
「やあ、それだがね……先刻から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高な処さ、見さっせいまし、己あ押魂消ただ。その節あんな芭蕉はなかっけ。」
と言う。
目覚しいのは、そこに生えた、森を欺くような水芭蕉で、沼の片隅から真蒼な柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に颯と萌黄の窓帷を掛けて、倒に裾を開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。
正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、訝しむ仔細は無い。
さて、家を出る時から、拾った場所へ旧の通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると汀が浅い、ト白骨は肋の数も隠されず、蝶々蜻蛉の影はよし、鳥の糞にも汚されよう。勢い諸手高く差翳して、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。
「そんな事が出来るものか。」
と小松原が猶予うと、
「成程、へい、手荒だね。」
と正吉さえ頷くのである。
ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……
「まあ、それを解け。」
と手伝って、上包の結目を解くと、ずしりと圧にある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。──虹のごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、
「わッ!」
と正吉が飛退った。途端に白布の包は、草に乗って一つ動く。
「旦那、気イ確に持たっせえ。」
昨夜からの小松原の容子は、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。
やがて孫呉空が雲の上を曳々声で引背負ったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、芬と真蒼な香が樹の中に籠って、草の上を引いて来たが──全身引くるまって乗っかった程に大いのである。
小松原は莞爾々々しながら、
「さあ、これへ乗せよう。」
まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、密と取って、骨を広葉の只中へ。
葉先を汀へ、蘆摺れに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと辷る、柄を向うへ……
「南無阿弥陀 南無阿弥陀。」
と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が鰭のように水を捌いて行く、と小波が立って、後を送って、やがて沼の中ばに、静と留まる。
そのまま葉が垂れると、縋りつく状に、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が弛んで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、婦が臥した姿になる。
思出して、はっと目を塞いだが、やがて見れば、もう沈んだ。
途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千条百条網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ揺かけると、水鳥が衝と蹴たごとく、芭蕉の広葉は向うの汀へ、するすると小さく片寄る。
……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……
と、しばらくはただ鳥の声。
熟と沼の面を見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の皺が揺っては消し揺っては消す──そうかと思うと、その水紋の揺めく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰向けに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで絡らない。
急って、踠いて、立ったり居たり、汀もそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて眗せば、早や何が染るでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄暮合。
「旦那もう晩方だよ。」
と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の前で、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。
独になって、思うさま、胸にたたんだ空想に耽ろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を卸して、衣紋まで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。
とかくして沼の中を、身動きもしないで覗込んだ……
あわれ水よ、偉なる宇宙を三分して、その一を有する汝、瀬となり、滝となり、淵となり、目のあたり我が怪しき恋となりぬ。
いで、霧となって虹を放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき膚とならずや、あの濡れたような瞳とならずや。
と思い思う、まさしく、そこに、水底へ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。
見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。
胸を打って、襟を掴んで、咽喉をせめて、思いを一処に凝らそうとすれば、なおぞ、千々に乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
が、確にその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は確に……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ──白き珊瑚の玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨夜より我は信じて疑わぬ。
何が不足で一所に死ねぬ──
「その肉身か。」
と己が頭髪を掴んで、宙に下がるばかり突立った。
「卑怯だ、此奴! 始からそれは求めぬ誓であった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず捉うる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその霊であろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。
肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む膚、溺れて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに違わん!」
入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと蘆を誘って、沼の真中へ引寄せる。
小松原は立ったまま地鞱を踏んだが、
「ええ! 腑効ない。」
どっかり草へ。
蘆の葉末に水を載せて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、腕か、肩か、胸か、乳か、白々と漾い居る。
ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは達かぬ。
何をか疑い、何をか猶予う。
余の事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚然として、帰ろうとして、骨を送った船の漾う処を視むれば、四五本打った、杭の根に留ったが、その杭から、友染の切を流した風情で、黄昏を翡翠が一羽。
それをこう視めた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、美い色の水を見る、描いたるごとき夢幻の境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩色した影のごとくに浮んだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。
それも可、ままよ、なるようになれとなった。……
その内に、翡翠の背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪郭は朧になったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮増るのである。その暮れるのと、来かかるのとが、蘆の汀を段々伝いに、そよそよと風に、背後を、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫音も聞えなかったが、上からか下からか、小松原の目に、婦の色ある衣の裙が見えて、傍に来て、しっとり留る。……
「奥さん。」
と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝台でなかった。そこで、
「…………」
誰かが何か言う。ただ赫として、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫毛が黒く下向にそこに彳んだのを見出した時、
「立二さん。」
と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太肉だった人が、げっそりと痩せて小さくなった。
「おお!」
とばかりで、肩で呼吸して、草に胡坐したまま、己が膝を引掴んで、せいせい言って唇を震わす。
上では、俯向きさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微笑みして、
「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」
と相変らずしとやかなものの言いよう哉。
それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を引くり返したのと、知っただけの言を大絡にしたのが、一斉に胸へ込上げて、咽喉で支えて、ぎゅうとも言えず、口は開かずに、目は動く。
「それでも、」
と鬢へちょいと手を遣ったが、櫛、笄、簪、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。
「まさか、墓へは連れて行かないから、私の許へ御一所に。」
指して、指の先で、男が只瞻りに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で築いた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、
「あすこを通って、岨伝いに出られる里。……立さん、そんなに吃驚なさらないでも、貴下が昨日、お医師様の許へおいでなすった事は、私もう知っています。
いつかの時の怪我でねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……
立さんが、先刻葬式にいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。
この頃、また、ちっと塩梅が悪いので、医師へ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。
先刻から、あちこちで、様子を見ていましたけれども、傍に人が居るから、見られるのが可厭で来ませんでしたよ。
さあ、いらっしゃい。」
「……参ります!」
とだけは決然として気競って云ったが、膝が萎えて、がくついて、ついした事には行かないで、
「貴女、貴女、」
とばかり言う。
「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」
と軽く頷く、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。
その涙を払う状に、四辺を見つつ、
「御覧なさい、可厭な。どこより前に、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の源なんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」
と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると斉しく、立二は焼火箸を嚥んだように突立った。
ト、佳い薫が、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に汀を行く。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。
そこへ、はらはらとかかる白絽の袂に、魂を結びつけられたか、と思うと、筋骨のこんがらかって、捌のつかないほど、揉み立てられた身体が、自然に歩行く。……足はどこを踏んだか覚えなし。
しばらく行くと、その人が、偶と立停って、弱腰を捻じて、肩へ、横顔で見返って、
「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」
と案内する……処に……丸木橋が、斧の柄の朽ちた体に、ほろりと中絶えがして折込んだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可憐やか。ここには葉ばかりでなく、後れ咲か、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜若が二三輪、ぱっと花弁を向けた。その山の端に月が出た。
「今夜は私が、」
すっと跨ぐ、色が、紫に奪われて、杜若に裙が消えたが、花から抜ける捌いた裳が、橋の向うで納まると、直ぐに此方へ向替えて、
「手を引いて上げましょう。」
嫋娜に出されたので、ついその、伸せば達く、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐い薫に包まれた。
まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、
……おのれら! おのれら!……
と鳴く。
ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大芭蕉の葉の、沼の上へ擢んでたのが、峰から伸出いて覗くかと、頭に高う、さながら馬の鬣のごとく、譬えば長髪を乱した体の、ばさとある附元は、どうやら痩こけた蒼黒い、尖った頤らしくもある。
あれあれ裂けた処が、そっくり口で、
……おのれら!……
とまた鳴いた。その体は……薄汚れた青竹の太杖を突いて、破目の目立つ、蒼黒い道服を着に及んで、丈高う跳ばって、天上から瞰下しながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。
その葉が大きく上にかぶさる、下に彳んで熟と見た、瞳が霑んで溜息して、
「立さん、立さん、」
と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、
「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押覆さるもんですから、御覧なさい。出汐をこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ伸る、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。
可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」
翳せばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄金の覆輪をかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵琶を中空に据えたようで、蘆の葉摺れに、りんりんと鳴りそうながら、一条白銀の糸も掛らず、暗々として漆して鼠が駈廻りそうである。
「先刻、貴下がなすったついでに、もうちっと切払って下されば可かったのねえ。」
ただ等閑に言い棄てたが、小松原は思わず拳を握った。生れて以来、かよわきこの女性に対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために露わし得た覚がない。腑効なさもそのドン詰に……
しゃ! 要こそあれ。
今も不思議に片手に持った、鞘を棄てて、提げて衝と出たが、屹と見上げて、
「おのれ!」
と横薙、刃が抜けると、そのもの、長髪をざっと捌く。驚破天窓から押潰すよと、思うに肖ず、二丈ばかりの仙人先生、ぐしゃと挫げて、ぴしゃりとのめずる。
これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒道人に切附けると、がさりと葉尖から崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を築いて、すっくと立つ青仙人を、腰車に斬って落す。拝打、輪切、袈裟掛、はて、我ながら、気が冴え、手が冴え、白刃とともに、抜けつ潜りつ、刎越え、飛び交い、八面に渡って、薙立て薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一幅の黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が射して、芭蕉のあとを、明るくなる。
果は丘のごとく、葉を累ねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き雫を流して、逆手に支いてほっと息する。
褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。
白刃を落して、その時腕をさすって憩う、小松原の手を取って、
「ああ、嬉しい。」
と、山の端出でたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。背撓み、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る衣の上へ膚が透き、真白な乳が膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、腕を繞り、遍く身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃々と裳が揺れて、両の足の爪先に、美い綾が立ち、月が小波を渡るように、滑かに襞襀を打った。
啊呀と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。
今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋ると、靡くや黒髪、溌と薫って、冷く、涼く、たらたらと腕に掛る。
…………小松原は、俯向けに蒼沼に落ちた処を、帰宅のほどが遅いので、医師が見せに寄越した、正吉に救われた。
車夫は沼の隅の物音に、提灯を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐をなして、しばらく様子を見ていたと言う。
小松原が恢復して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。
「昔だと、仏門に入る処だが、君は哲学を学っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪しいな。」
底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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