惑ひ
伊藤野枝



 その手紙を町子が男の本箱の抽斗ひきだしに見出した時に、彼女は全身の血がみんな逆上することを感じながらドキ〳〵する胸をおさへた。『あの女だ、あの女だ。』息をはづませながら彼女はそふ思つた。そして異常な興奮をもつてその表書を一寸ちょっとの間みつめてゐた。やがてすぐに非常な勢をもつて憎悪と嫉妬がこみ上げて来るのを感じた。彼女はもうそれを押へることが出来なかつた。直ぐに裂いて捨てたいほどに思つた。忌々いまいましい見まい〳〵と思ふ半面にはどんな態度で男があの女に書いてゐるか矢つ張りどうしても見ないではゐられない様にも思つた。しかし現在自分が愛してゐる男、自分ひとりのものだと思つてゐる男が他の女に愛を表す語をつらねた其の手紙を見るのは何となく不安でそして恐ろしいやうな苦しいやうな気がして、見まい〳〵とした。けれどもどうしても見ないではゐられなかつた。

 読んで行くうちにも彼女は色々な気持ちにさせられた。たつた一本の手紙だが、そしてそれを読み終るまでに十分とは懸らない僅かの間に彼女の心臓は痛ましい迄に虐待された。嫉妬、不安、憤怒、憎悪、あらゆる感情が露はに、あらしのやうな勢をもつて町子の身内を荒れまはつた。そしてそのうちにも自分に対するとはまるで違つた男の半面をまざ〳〵と見せつけられた。其処に対した、愚劣な、無智な女と、男を見た。狂奔する感情を制止する落付きをどうしても見出すことは出来なかつた。今はたゞ彼女はその感情の中に浸つて声をあげて、身をもだえて泣くより仕方がなかつた。彼女はまるで男が全く彼女から離れたやうに思ひ、そして男の持つた違つた世界を見た彼女はとりつく島もないやうな絶望の淵に沈んで行つた。

 漸く幾らかの落ちつきを見出すとやがて男に対するいろんな感情がだん〳〵うすれて行くのを不思議な気持ちでぢつと眺めた。やがてすべての憤怒、憎悪が女の方に漸次にたかぶつて来た。そして何とも云ひやうのない口惜しさと不愉快な重くるしさが押しよせて来た。それは明かにあの女に対する強烈な嫉妬だと云ふことは意識してゐた。併しその気持をおさへて何でもないやうにおちついてゐることは出来なかつた。それに男の何でもないやうな顔をしてゐるのが憎らしかつた。町子はもうその手紙をズタ〳〵に引きさいて男の顔に叩きつけてやりたかつた。たとへそれは日附けはかなり今と隔りがあるにしてもそれつきりであつたとは思へない、彼女が此処に来たときまではたしかに続いてゐたのだ。彼女はたしかにそれを知つてゐる、続いて起つた連想はかの女の頭をなぐるやうに強く何物かを思ひ起さした。男との関係がはじめから今までの長い〳〵シーンの連続の形に於て瞬間に彼女の眼前をよぎつて過ぎた。そしてその強く彼女を引きつけた処にもっとも彼女の不安なあるものが隠れてゐた。それは彼女を彼女の中にも隠れてゐて絶えずなやましてゐた疑惑の黒い塊であつた。機会を見出して塊はずん〳〵広がつて彼女の心上をすつかり覆つてしまつた。


 おきんちやん──女の名──は吉原のある酒店の娘だ。町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。調子のいい人なつこいやうな娘だつた。町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので──それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。

 男が英語の教師として学校にはいつて来たのは町子が五年になつたばかりの時だつた。四月の始めの入学式のときに、町子の腰掛けてゐる近くに、腰掛けた見なれぬ人が英語の教師だと町子の後からさゝやかれた。一寸特徴のある顔付きをしてゐるのが町子の注意を引いた。併しそのことには長く興味をもつてゐられなかつた。つい式のはじまる先に立つて彼女は受持教師から在校生の代表者として新入の生徒たちに挨拶すべく命令されてゐたので困りきつてゐた。やがて落ちつかないうちに番がまはつてきたので仕方なしに立つて二言三言挨拶らしいこと云つて引つこんだ。続いて新任の挨拶のときに一寸変つた如何にも砕けた気どらない様子であつさりとした話し振りや教師らしい処などのちつともない可なりいゝ感がした。式が終つて町子たちのサアクルでは此度のその英語の教師についての噂で持ちきつてゐた。

『何だか変に年よりくさいやうな顔してるわね。若いんだか年寄りだか分らないわね』

『あれで英語の教授が出来るのかしら、矢張り校長先生に教はりたいわね、あの先生何だかずいぶんバンカラねえ』

『だつてそれは教はつて見なくつちや分らないわ。そんなこと云つたつて校長先生よりうまいかもしれなくつてよ』

『アラだつて何だか私まづさうな気がするわ、校長先生のリーデイングはすてきね、私ほんとに気に入つてゐるの』

『Oさんはね、それや校長先生よりいゝ先生はないんですもの、でも風采やなんかで軽蔑するもんぢやなくつてよ、教はつて見なくちや、』

 そうしたとりとめもないたわいのない会話が取りかはされてゐた。

 併しはじめの一時間を教はると、Oさんはもうすつかり感心してしまつた。

『うまいわね、ずいぶんいゝわね、校長先生よりはずつといゝわ、』と叫び出した。皆もその重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。それで可なりに男との間が接近して来た。それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。

 一学期が忙しく過ぎて二学期との間の長い休暇になつた。町子は叔母と従姉と三人で行李をまとめて大急ぎで休みにならないうちに帰省した。海岸の家で始めの三十日間は海の中に浸りつゞけて可なり自由な若々しい生活をした。併し後の三十日間は彼女を滅茶々々にしてしまつた。無惨にふみにぢられたいたでを負ふたまま苦痛に息づかいを荒らくしながら帰京したときにはもう学校は二学期に入つてゐた。彼女の力にしてゐる先生達は皆で彼女の不勉強をせめて、卒業する時だけにでも全力を傾けて見ろと度々云はれて居た。併し彼女の苦悶は学校に行つて、忘れられるやうな手ぬるいものではなかつた。彼女の一生の生死にかゝはる大問題だつた。きびしい看視の叔父や叔母のゐなくなつたと云ふことも助けて、苦悶は彼女にいろんなまぎらしの手段として強烈なヰスキーを飲むことや、無暗むやみに歩くことや、書物にかぢりつくことを教へた。教科は殆んどのけものにされてすきな文学物の書ばかりが机の上に乗るやうになつた。併しまぎらしても〳〵もう僅かな卑劣な手段でその苦悶も隠せなくなつて来た。彼女の学校でうける日課に対する注意はそれてしまつてすつかり荒んだ二学期もうやむやですんで三学期になつた。殆んど何物にも手が出ない。苦悶は日毎に重るばかりだ。卒業試験の準備などはまるですることが出来なかつた。その間町子の注意はまるで他へ向つてはなされなかつた。

『I先生と町子さん』と誰からともなく云ひ出された頃には町子は、男とおきんちやんの接近するのをぢつと見てゐた。皆が見当違ひなことを云ふのが可笑おかしくて何時も鼻の先で笑つたり怒つて見せたりした。併し町子も可なり接近してゐたのは事実だつた。それは重に趣味の上の一致であつた。町子には同窓生の云ふやうな呑気のんきな気持にはなれなかつた。恋愛関係を形造つてさはぐ程の余裕は全然なかつた。皆のうはさは本当に空だつた。併しおきんちやんとの関係は町子には可なりな処まで窺はれた。それを皆に殊更に話すほどの興味も感じなかつた。町子はたゞ自分自身の気分にひたすらに圧迫されてゐた。

 併し、一月のある月曜日に町子は従姉と二人寄宿してゐる教頭の先生の家の二人の子供と先生と五人で日比谷に遊びに行つた。そうして三時頃に帰つた。留守居してゐた女中はおきんちやんとEと云ふ町子の級の人とそれから前年卒業したVと云ふ人が来まして、今帰つた処だと云つた。多分停車場までは行くまいとのことなので従姉と二人で後を追ふて停車場へ行くとまだ其処に三人そろつてゐた。町子たちは三人の人にもう一度引きかへすことをすゝめたが四時までに帰る筈になつてゐるからどうしても駄目だと云ふので強ひてとも云ひかねて一言二言はなしてゐるうちに電車が来た。

『ぢやCさん、駒込こまごめまででも送りませうか』とかう町子は従姉に云ひながら身軽にひらりと皆の後から電車にとびのつた。

『いゝわ、お気のどくだから本当に、ね』

と気の毒さうに云ふのを打ち消して二人は乗つてしまつた。三人の顔には当惑の色が動いた。

『駒込から直ぐおかへりになるの町子さん』とEさんが聞いた。

『えゝ、さうね。I先生の処へよつてもいゝわねCさん』

『さうね、よつてもいゝわ、そして墓地ぬけませうか』

『それがいゝわ、』

 三人は顔見合はせた。

『私たちもよりませうか一緒に──』とおきんちやんがきがるに云つた。町子はカツとなつた。

『I先生の処へ寄る位なら何故私の処へ帰つて下さらないんです! 一寸だつていゝぢやありませんか、少しひどいわ』

『よしませうか。おそくなるわね』

とEさんが町子の顔を窺ひ〳〵云つた。

『さうね、』

とどつちつかずなことを云つてゐるうちに駒込に来た。

『どうするの?』

町子はムカ〳〵しながらさう云つてどんどん降りてしまつた。三人はしばらくぐづ〳〵してゐたがやがて降りて来た。町子は三人の気持が見え透いてゐた。きつとはじめから此処へ来るつもりで引きかへすのをこばんで四時迄──なんてうそついたのだなと思ふと、いろんな小細工をして、女らしいくだらない隠し立てやなんかが不愉快で、ツト口もきかないでパスを示して出た。続いた従姉はそれを忘れてゐたのでとがめられた。一寸二言三言其処で弁解らしいことを云つてゐるうちにさつさと三人は通りへ上つて其処で何か相談してゐるのだ。町子は皮肉な目でぢつとEの目をみつめると人の好いEはおど〳〵したやうな困つた顔をしてゐる。町子はそれに何だか快よいものを見出した。二人は三人のゐる処に来た。おきんちやんはだまつてくるまにのつた。足がいたいことを口実にして──

 町子はフヽンと笑ひたくなつた。癪にさわると云ふ様子が目に見えてゐた。EとAは道を知らないと云ふ。町子は不快な気がしたので行かないと云つたが道をおしえてやつて際どい処で逃げやうと思つて一緒に行つた。AとEはちつとも様子をしらないので中つ腹で町子は出来るけの廻りくどい遠まはりして引つぱりまはした。途中で馬鹿なお供してゐるのだと思ふといやになつて止さうかとも思つたがこんな処でまいたところで仕方がないので意地の悪い目をして皮肉を云つてはEの困つた、おど〳〵した顔付からある快感をむさぼりながら少しづゝ腹癒せをやりながら歩いた。二人をIの門まで送りつけておいて直ぐに引き返した。後を追かけて来たやうだが見むきもせずに急いだ。併し不快な念はどうしても押さへることが出来なかつた。

 翌日学校に行くと、Eはうつむいてばかりゐた。町子は意地の悪い顔をしてヂロ〳〵見た。やがてEは小さな声で

『御免なさいね。昨日は本当に悪かつたわ』

『何、別に悪いこともしないぢやありませんか』

『でも悪かつたわ、御免なさいな』

『私、あなたからおわびされる覚えなんかありませんもの、何です一体』

 町子の声には薄気味のわるい落ちつきと意地のわるい冷たさがあつた。人の好いEはつらさうに首をたれて

『でも怒つてらつしやるんでせう、今におきんちやんもおわびに来ますから──』

『何を怒つてるんです。おきんちやんが何で私にお詫びするんです。そんなことちつともないわ』

云ひ放つてプイと教室を出て行つた。Eはしほ〳〵してゐた。町子にはそれが小気味がよかつた。

『小さな、ケチな根性だね。おまへは』

かう自分に云ひながらやつぱりケチな根性に負けてゐた。

 おきんちやんが来た。併しまるで相手にしないやうな態度を見せておつぱらつた。皆が不思議な顔をして見てゐた。

 Iに対しても何となしに一種の軽侮を感じ始めた。町子はまたイラ〳〵して本当にまあどうしてこんなにイヤなケチケチした了見をもつてゐるんだらうと思つた。自分がいやになつて来た。併し他人には尚と同感が出来なかつた。何をよんでもおもしろくなかつた。皆がつまらなくなつた。

 併し今考へて見ると、その当時は色々な複雑な考察にわづらはされて苦悶を重ねてゐたときだから意識に上らなかつたのだけれども男に対する愛はその頃から芽ぐんでゐたのだなと町子は考へないわけにはゆかなくなつてしまつた。そのときの不快な気持ちは今男の書いたその手紙をよんでまた強くよみ返つて来た。


 おきんちやんと男の関係はあの頃からずんずん進んでゐたに相違ない。さうすれば男が町子が帰ると云ふその間際になつて不意に示した愛は虚偽だつたのだ!一時の遊戯衝動だ!さう云ふ念がつよく町子の頭に来た。今まで町子の頭の中にかたまつてゐたものはずつと全体を暗く覆つてしまつた。彼女は其処にある男の机の上に突伏した。自分のたつてゐる土台が今にも壊れさうに感じた。自分で叩き壊すのだなと云ふ気がした。どうせ壊しかゝつたのだもの何処までも自分のおちつきが本当に出来るまで破壊はつゞく、それがまた本当なのだと云ふ気がした。

 少しづゝ気が静まつて来ると、また自分の身内に深く食ひこんでゐる男の愛と男に対す自分の愛が目ざめて来た。そうしておきんちやんとの関係はもうとうに破れてゐるんだと云ふことが思ひ出され、そして真実だと繰返してゐると、やうやく自分の力が勝つたことがはつきり分つて来て、町子は何となく勝ちほこつたのび〳〵した気になつた。併し手紙の文句を思ひ出すと、直ぐイラ〳〵して来た。腹が立つて来た。Iがへやにはいつて来た時町子は一ぱいに涙をためた目でぢと男の顔を見据えながら暗い尖つた顔付きをしてゐた。男は意外な顔をして何かをさぐるやうな落ち付かない目で室を見まはした。

[『青鞜』第四巻第四号・一九一四年四月号]

底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林

   2000(平成12)年315日初版発行

底本の親本:「青鞜 第四巻第四号」

   1914(大正3)年41

初出:「青鞜 第四巻第四号」

   1914(大正3)年41

※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。

入力:門田裕志

校正:Juki

2013年57日作成

青空文庫作成ファイル:

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