三尺角
泉鏡花
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一
「…………」
山には木樵唄、水には船唄、驛路には馬子の唄、渠等はこれを以て心を慰め、勞を休め、我が身を忘れて屈託なく其業に服するので、恰も時計が動く毎にセコンドが鳴るやうなものであらう。また其がために勢を増し、力を得ることは、戰に鯨波を擧げるに齊しい、曳々!と一齊に聲を合はせるトタンに、故郷も、妻子も、死も、時間も、慾も、未練も忘れるのである。
同じ道理で、坂は照る〳〵鈴鹿は曇る=といひ、袷遣りたや足袋添へて=と唱へる場合には、いづれも疲を休めるのである、無益なものおもひを消すのである、寧ろ苦勞を紛らさうとするのである、憂を散じよう、戀を忘れよう、泣音を忍ばうとするのである。
それだから追分が何時でもあはれに感じらるゝ。つまる處、卑怯な、臆病な老人が念佛を唱へるのと大差はないので、語を換へて言へば、不殘、節をつけた不平の獨言である。
船頭、馬方、木樵、機業場の女工など、あるが中に、此の木挽は唄を謠はなかつた。其の木挽の與吉は、朝から晩まで、同じことをして木を挽いて居る、默つて大鋸を以て巨材の許に跪いて、そして仰いで禮拜する如く、上から挽きおろし、挽きおろす。此度のは、一昨日の朝から懸つた仕事で、ハヤ其半を挽いた。丈四間半、小口三尺まはり四角な樟を眞二つに割らうとするので、與吉は十七の小腕だけれども、此業には長けて居た。
目鼻立の愛くるしい、罪の無い丸顏、五分刈に向顱卷、三尺帶を前で結んで、南の字を大く染拔いた半被を着て居る、これは此處の大家の仕着で、挽いてる樟も其の持分。
未だ暑いから股引は穿かず、跣足で木屑の中についた膝、股、胸のあたりは色が白い。大柄だけれども肥つては居らぬ、ならば袴でも穿かして見たい。與吉が身體を入れようといふ家は、直間近で、一町ばかり行くと、袂に一本暴風雨で根返して横樣になつたまゝ、半ば枯れて、半ば青々とした、あはれな銀杏の矮樹がある、橋が一個。其の澁色の橋を渡ると、岸から板を渡した船がある、板を渡つて、苫の中へ出入をするので、此船が與吉の住居。で干潮の時は見るも哀で、宛然洪水のあとの如く、何時棄てた世帶道具やら、缺擂鉢が黒く沈むで、蓬のやうな水草は波の隨意靡いて居る。この水草はまた年久しく、船の底、舷に搦み附いて、恰も巖に苔蒸したかのやう、與吉の家をしつかりと結へて放しさうにもしないが、大川から汐がさして來れば、岸に茂つた柳の枝が水に潛り、泥だらけな笹の葉がぴた〳〵と洗はれて、底が見えなくなり、水草の隱れるに從うて、船が浮上ると、堤防の遠方にすく〳〵立つて白い煙を吐く此處彼處の富家の煙突が低くなつて、水底の其の缺擂鉢、塵芥、襤褸切、釘の折などは不殘形を消して、蒼い潮を滿々と湛へた溜池の小波の上なる家は、掃除をするでもなしに美しい。
爾時は船から陸へ渡した板が眞直になる。これを渡つて、今朝は殆ど滿潮だつたから、與吉は柳の中で𤏋と旭がさす、黄金のやうな光線に、其罪のない顏を照らされて仕事に出た。
二
其から日一日おなじことをして働いて、黄昏かゝると日が舂き、柳の葉が力なく低れて水が暗うなると汐が退く、船が沈むで、板が斜めになるのを渡つて家に歸るので。
留守には、年寄つた腰の立たない與吉の爺々が一人で寢て居るが、老後の病で次第に弱るのであるから、急に容體の變るといふ憂慮はないけれども、與吉は雇はれ先で晝飯をまかなはれては、小休の間に毎日一度づつ、見舞に歸るのが例であつた。
「ぢやあ行つて來るぜ、父爺。」
與平といふ親仁は、涅槃に入つたやうな形で、胴の間に寢ながら、佛造つた額を上げて、汗だらけだけれども目の涼しい、息子が地藏眉の、愛くるしい、若い顏を見て、嬉しさうに頷いて、
「晩にや又柳屋の豆腐にしてくんねえよ。」
「あい、」といつて苫を潛つて這ふやうにして船から出た、與吉はづツと立つて板を渡つた。向うて筋違、角から二軒目に小さな柳の樹が一本、其の低い枝のしなやかに垂れた葉隱れに、一間口二枚の腰障子があつて、一枚には假名、一枚には眞名で豆腐と書いてある。柳の葉の翠を透かして、障子の紙は新らしく白いが、秋が近いから、破れて煤けたのを貼替へたので、新規に出來た店ではない。柳屋は土地で老鋪だけれども、手廣く商をするのではなく、八九十軒もあらう百軒足らずの此の部落だけを花主にして、今代は喜藏といふ若い亭主が、自分で賣りに𢌞るばかりであるから、商に出た留守の、晝過は森として、柳の蔭に腰障子が閉まつて居る、樹の下、店の前から入口へ懸けて、地の窪むだ、泥濘を埋めるため、一面に貝殼が敷いてある、白いの、半分黒いの、薄紅、赤いのも交つて堆い。
隣屋は此邊に棟を並ぶる木屋の大家で、軒、廂、屋根の上まで、犇と木材を積揃へた、眞中を分けて、空高い長方形の透間から凡そ三十疊も敷けようといふ店の片端が見える、其の木材の蔭になつて、日の光もあからさまには射さず、薄暗い、冷々とした店前に、帳場格子を控へて、年配の番頭が唯一人帳合をしてゐる。これが角屋敷で、折曲ると灰色をした道が一筋、電柱の著しく傾いたのが、前と後へ、別々に頭を掉つて奧深う立つて居る、鋼線が又半だるみをして、廂よりも低い處を、弱々と、斜めに、さも〳〵衰へた形で、永代の方から長く續いて居るが、圖に描いて線を引くと、文明の程度が段々此方へ來るに從うて、屋根越に鈍ることが分るであらう。
單に電柱ばかりでない、鋼線ばかりでなく、橋の袂の銀杏の樹も、岸の柳も、豆腐屋の軒も、角家の塀も、それ等に限らず、あたりに見ゆるものは、門の柱も、石垣も、皆傾いて居る、傾いて居る、傾いて居るが盡く一樣な向にではなく、或ものは南の方へ、或ものは北の方へ、また西の方へ、東の方へ、てん〴〵ばら〳〵になつて、此風のない、天の晴れた、曇のない、水面のそよ〳〵とした、靜かな、穩かな日中に處して、猶且つ暴風に揉まれ、搖らるゝ、其の瞬間の趣あり。ものの色もすべて褪せて、其灰色に鼠をさした濕地も、草も、樹も、一部落を蔽包むだ夥多しい材木も、材木の中を見え透く溜池の水の色も、一切、喪服を着けたやうで、果敢なく哀である。
三
界隈の景色がそんなに沈鬱で、濕々として居るに從うて、住む者もまた高聲ではものをいはない。歩行にも内端で、俯向き勝で、豆腐屋も、八百屋も默つて通る。風俗も派手でない、女の好も濃厚ではない、髮の飾も赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであらう。
元來岸の柳の根は、家々の根太よりも高いのであるから、破風の上で、切々に、蛙が鳴くのも、欄干の壞れた、板のはなれ〴〵な、杭の拔けた三角形の橋の上に蘆が茂つて、蟲がすだくのも、船蟲が群がつて往來を驅けまはるのも、工場の煙突の烟が遙かに見えるのも、洲崎へ通ふ車の音がかたまつて響くのも、二日おき三日置きに思出したやうに巡査が入るのも、けたゝましく郵便脚夫が走込むのも、烏が鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の兆であるらしい。
けれども、滅びるといつて、敢て此の部落が無くなるといふ意味ではない、衰へるといふ意味ではない、人と家とは榮えるので、進歩するので、繁昌するので、やがて其電柱は眞直になり、鋼線は張を持ち、橋がペンキ塗になつて、黒塀が煉瓦に換ると、蛙、船蟲、そんなものは、不殘石灰で殺されよう。即ち人と家とは、榮えるので、恁る景色の俤がなくならうとする、其の末路を示して、滅亡の兆を表はすので、詮ずるに、蛇は進んで衣を脱ぎ、蝉は榮えて殼を棄てる、人と家とが、皆他の光榮あり、便利あり、利益ある方面に向つて脱出した跡には、此地のかゝる俤が、空蝉になり脱殼になつて了ふのである。
敢て未來のことはいはず、現在既に其の姿になつて居るのではないか、脱け出した或者は、鳴き、且つ飛び、或者は、走り、且つ食ふ、けれども衣を脱いで出た蛇は、殘した殼より、必ずしも美しいものとはいはれない。
あゝ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかやうな風土は、却つてうつくしいものを産するのか、柳屋に艶麗な姿が見える。
與吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に上ると、思ふともなしに豆腐屋に目を注いだ。
柳屋は淺間な住居、上框を背後にして、見通の四疊半の片端に、隣家で帳合をする番頭と同一あたりの、柱に凭れ、袖をば胸のあたりで引き合はせて、浴衣の袂を折返して、寢床の上に坐つた膝に掻卷を懸けて居る。背には綿の厚い、ふつくりした、竪縞のちやん〳〵を着た、鬱金木綿の裏が見えて襟脚が雪のやう、艶氣のない、赤熊のやうな、ばさ〳〵した、餘るほどあるのを天神に結つて、淺黄の角絞の手絡を弛う大きくかけたが、病氣であらう、弱々とした後姿。
見透の裏は小庭もなく、すぐ隣屋の物置で、此處にも犇々と材木が建重ねてあるから、薄暗い中に、鮮麗な其淺黄の手絡と片頬の白いのとが、拭込むだ柱に映つて、ト見ると露草が咲いたやうで、果敢なくも綺麗である。
與吉はよくも見ず、通りがかりに、
「今日は、」と、聲を掛けたが、フト引戻さるゝやうにして覗いて見た、心着くと、自分が挨拶したつもりの婦人はこの人ではない。
四
「居ない。」と呟くが如くにいつて、其まゝ通拔けようとする。
ト日があたつて暖たかさうな、明い腰障子の内に、前刻から靜かに水を掻𢌞す氣勢がして居たが、ばつたりといつて、下駄の音。
「與吉さん、仕事にかい。」
と婀娜たる聲、障子を開けて顏を出した、水色の唐縮緬を引裂いたまゝの襷、玉のやうな腕もあらはに、蜘蛛の圍を絞つた浴衣、帶は占めず、細紐の態で裾を端折つて、布の純白なのを、短かく脛に掛けて甲斐々々しい。
齒を染めた、面長の、目鼻立はつきりとした、眉は落さぬ、束ね髮の中年増、喜藏の女房で、お品といふ。
濡れた手を間近な柳の幹にかけて半身を出した、お品は與吉を見て微笑むだ。
土間は一面の日あたりで、盤臺、桶、布巾など、ありつたけのもの皆濡れたのに、薄く陽炎のやうなのが立籠めて、豆腐がどんよりとして沈んだ、新木の大桶の水の色は、薄ら蒼く、柳の影が映つて居る。
「晩方又來るんだ。」
お品は莞爾しながら、
「難有う存じます、」故と慇懃にいつた。
つか〳〵と行懸けた與吉は、これを聞くと、あまり自分の素氣なかつたのに氣がついたか、小戻りして眞顏で、眼を一ツ瞬いて、
「えゝ、毎度難有う存じます。」と、罪のない口の利きやうである。
「ほゝゝ、何をいつてるのさ。」
「何がよ。」
「だつてお前樣はお客樣ぢやあないかね、お客樣なら私ン處の旦那だね、ですから、あの、毎度難有う存じます。」と柳に手を縋つて半身を伸出たまゝ、胸と顏を斜めにして、與吉の顏を差覗く。
與吉は極の惡さうな趣で、
「お客樣だつて、あの、私は木挽の小僧だもの。」
と手眞似で見せた、與吉は兩手を突出してぐつと引いた。
「かうやつて、かう挽いてるんだぜ、木挽の小僧だぜ。お前樣はおかみさんだらう、柳屋のおかみさんぢやねえか、それ見ねえ、此方でお辭儀をしなけりやならないんだ。ねえ、」
「あれだ、」とお品は目を睜つて、
「まあ、勿體ないわねえ、私達に何のお前さん……」といひかけて、つく〴〵瞻りながら、お品はづツと立つて、與吉に向ひ合ひ、其の襷懸けの綺麗な腕を、兩方大袈裟に振つて見せた。
「かうやつて威張つてお在よ。」
「威張らなくツたつて、何も、威張らなくツたつて構はないから、父爺が魚を食つてくれると可いけれど、」と何と思つたか與吉はうつむいて悄れたのである。
「何うしたんだね、又餘計に惡くなつたの。」と親切にも優しく眉を顰めて聞いた。
「餘計に惡くなつて堪るもんか、此節あ心持が快方だつていふけれど、え、魚氣を食はねえぢやあ、身體が弱るつていふのに、父爺はね、腥いものにや箸もつけねえで、豆腐でなくつちやあならねえツていふんだ。え、おかみさん、骨のある豆腐は出來まいか。」と思出したやうに唐突にいつた。
五
「おや、」
お品は與吉がいふことの餘り突拍子なのを、笑ふよりも先づ驚いたのである。
「ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出來さうなもんだなあ。雁もどきツて、ほら、種々なものが入つた油揚があらあ、銀杏だの、椎茸だの、あれだ、あの中へ、え、肴を入れて交ぜツこにするてえことあ不可ねえのかなあ。」
「そりや、お前さん。まあ、可いやね、聞いて見て置きませうよ。」
「あゝ、聞いて見てくんねえ、眞個に肴ツ氣が無くツちやあ、臺なし身體が弱るツていふんだもの。」
「何故父上は腥をお食りぢやあないのだね。」
與吉の眞面目なのに釣込まれて、笑ふことの出來なかつたお品は、到頭骨のある豆腐の注文を笑はずに聞き濟ました、そして眞顏で尋ねた。
「えゝ、其何だつて、物をこそ言はねえけれど、目もあれば、口もある、それで生白い色をして、蒼いものもあるがね、煮られて皿の中に横になつた姿てえものは、魚々と一口にやあいふけれど、考へて見りやあ生身をぐつ〳〵煮着けたのだ、尾頭のあるものの死骸だと思ふと、氣味が惡くツて食べられねえツて、左樣いふんだ。
詰らねえことを父爺いふもんぢやあねえ、山ン中の爺婆でも鹽したのを食べるツてよ。
煮たのが、心持が惡けりや、刺身にして食べないかツていふとね、身震をするんだぜ。刺身ツていやあ一寸試だ、鱠にすりやぶつ〳〵切か、あの又目口のついた天窓へ骨が繋つて肉が絡ひついて殘る圖なんてものは、と厭な顏をするからね。あゝ、」といつて與吉は頷いた。これは力を入れて對手に其意を得させようとしたのである。
「左樣なんかねえ、年紀の故もあらう、一ツは氣分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を惡くすりや身體のたしにもなんにもならないわねえ。」
「でも痩せるやうだから心配だもの。氣が着かないやうにして食べさせりや、胸を惡くすることもなからうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、」
「骨のあるがんもどきかい、ほゝゝゝほゝ、」と笑つた、垢拔けのした顏に鐵漿を含んで美しい。
片頬に觸れた柳の葉先を、お品は其艶やかに黒い前齒で銜へて、扱くやうにして引斷つた。青い葉を、カチ〳〵と二ツばかり噛むで手に取つて、掌に載せて見た。トタンに框の取着の柱に凭れた淺黄の手絡が此方を見向く、うら少のと面を合はせた。
其時までは、殆ど自分で何をするかに心着いて居ないやう、無意識の間にして居たらしいが、フト目を留めて、俯向いて、じつと見て、又梢を仰いで、
「與吉さんのいふやうぢやあ、まあ、嘸此の葉も痛むこツたらうねえ。」
と微笑んで見せて、少いのが其清い目に留めると、くるりと𢌞つて、空ざまに手を上げた、お品はすつと立つて、しなやかに柳の幹を叩いたので、蜘蛛の巣の亂れた薄い色の浴衣の袂は、ひらひらと動いた。
與吉は半被の袖を掻合はせて、立つて見て居たが、急に振返つて、
「さうだ。ぢやあ親方に聞いて見ておくんな。可いかい、」
「あゝ、可いとも、」といつて向直つて、お品は掻潛つて襷を脱した。斜めに袈裟になつて結目がすらりと下る。
「お邪魔申しました。」
「あれだよ。又、」と、莞爾していふ。
「さうだつけな、うむ、此方あお客だぜ。」
與吉は獨で頷いたが、背向になつて、肱を張つて、南の字の印が動く、半被の袖をぐツと引いて、手を掉つて、
「おかみさん、大威張だ。」
「あばよ。」
六
「あい、」といひすてに、急足で、與吉は見る内に間近な澁色の橋の上を、黒い半被で渡つた。眞中頃で、向岸から駈けて來た郵便脚夫と行合つて、遣違ひに一緒になつたが、分れて橋の兩端へ、脚夫はつか〳〵と間近に來て、與吉は彼の、倒れながらに半ば黄ばんだ銀杏の影に小さくなつた。
七
「郵便!」
「はい、」と柳の下で、洗髮のお品は、手足の眞黒な配達夫が、突當るやうに目の前に踏留まつて棒立になつて喚いたのに、驚いた顏をした。
「更科お柳さん、」
「手前どもでございます。」
お品は受取つて、青い状袋の上書をじつと見ながら、片手を垂れて前垂のさきを抓むで上げつゝ、素足に穿いた黒緒の下駄を揃へて立つてたが、一寸飜して、裏の名を讀むと、顏の色が動いて、横目に框をすかして、片頬に笑を含むで、堪らないといつたやうな聲で、
「柳ちやん、來たよ!」といふが疾いか、横ざまに驅けて入る、柳腰、下駄が脱げて、足の裏が美しい。
八
與吉が仕事場の小屋に入ると、例の如く、直ぐ其まゝ材木の前に跪いて、鋸の柄に手を懸けた時、配達夫は、此處の前を横切つて、身を斜に、波に搖られて流るゝやうな足取で、走り去つた。
與吉は見も遣らず、傍目も觸らないで挽きはじめる。
巨大なる此の樟を濡らさないために、板屋根を葺いた、小屋の高さは十丈もあらう、脚の着いた臺に寄せかけたのが突立つて、殆ど屋根裏に屆くばかり。この根際に膝をついて、伸上つては挽き下ろし、伸上つては挽き下ろす、大鋸の齒は上下にあらはれて、兩手をかけた與吉の姿は、鋸よりも小さいかのやう。
小屋の中には單こればかりでなく、兩傍に堆く偉大な材木を積んであるが、其の嵩は與吉の丈より高いので、纔に鋸屑の降積つた上に、小さな身體一ツ入れるより他に餘地はない。で恰も材木の穴の底に跪いてるに過ぎないのである。
背後は突拔けの岸で、こゝにも地と一面な水が蒼く澄むで、ひた〳〵と小波の畝が絶えず間近う來る。往來傍には又岸に臨むで、果しなく組違へた材木が並べてあるが、二十三十づゝ、四ツ目形に、井筒形に、規律正しく、一定した距離を置いて、何處までも續いて居る、四ツ目の間を、井筒の彼方を、見え隱れに、ちらほら人が通るが、皆默つて歩行いて居るので。
淋い、森とした中に手拍子が揃つて、コツ〳〵コツ〳〵と、鐵槌の音のするのは、この小屋に並んだ、一棟、同一材木納屋の中で、三個の石屋が、石を鑿るのである。
板圍をして、横に長い、屋根の低い、濕つた暗い中で、働いて居るので、三人の石屋も齊しく南屋に雇はれて居るのだけれども、渠等は與吉のやうなのではない、大工と一所に、南屋の普請に懸つて居るので、ちやうど與吉の小屋と往來を隔てた眞向うに、小さな普請小屋が、眞新い、節穴だらけな、薄板で建つて居る、三方が圍つたばかり、編むで繋いだ繩も見え、一杯の日當で、いきなり土の上へ白木の卓子を一脚据ゑた、其上には大土瓶が一個、茶呑茶碗が七個八個。
後に置いた腰掛臺の上に、一人は匍匐になつて、肱を張つて長々と伸び、一人は横ざまに手枕して股引穿いた脚を屈めて、天窓をくツつけ合つて大工が寢そべつて居る。普請小屋と、花崗石の門柱を並べて扉が左右に開いて居る、門の内の横手の格子の前に、萌黄に塗つた中に南と白で拔いたポンプが据つて、其縁に釣棹と畚とがぶらりと懸つて居る、眞にもの靜かな、大家の店前に人の氣勢もない。裏庭とおもふあたり、遙か奧の方には、葉のやゝ枯れかゝつた葡萄棚が、影を倒にうつして、此處もおなじ溜池で、門のあたりから間近な橋へかけて、透間もなく亂杭を打つて、數限もない材木を水のまゝに浸してあるが、彼處へ五本、此處へ六本、流寄つた形が判で印した如く、皆三方から三ツに固つて、水を三角形に區切つた、あたりは廣く、一面に早苗田のやうである。この上を、時々ばら〳〵と雀が低う。
九
其他に此處で動いてるものは與吉が鋸に過ぎなかつた。
餘り靜かだから、しばらくして、又しばらくして、樟を挽く毎にぼろ〳〵と落つる木屑が判然聞える。
(父親は何故魚を食べないのだらう、)とおもひながら膝をついて、伸上つて、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて輕く、材木の一處から湧くやうになつて、肩にも胸にも膝の上にも降りかゝる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨のやうな微な響が、寂寞とした巨材の一方から聞えた。
柄を握つて、挽きおろして、與吉は呼吸をついた。
(左樣だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がつたまゝ、皿の中に殘るのだ、)
と思ひながら、絶えず拍子にかゝつて、伸縮に身體の調子を取つて、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢れて來る。
(何故だらう、これは鋸で挽く所爲だ、)と考へて、柳の葉が痛むといつたお品の言が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかゝつた。
與吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周圍は、杉の香、松の匂に包まれた穴の底で、目を睜つて、跪いて、鋸を握つて、空ざまに仰いで見た。
樟の材木は斜めに立つて、屋根裏を漏れてちら〳〵する日光に映つて、言ふべからざる森嚴な趣がある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈のある樹はこの邊でつひぞ見た事はない、橋の袂の銀杏は固より、岸の柳は皆短い、土手の松はいふまでもない、遙に見える其梢は殆ど水面と並んで居る。
然も猶これは眞直に眞四角に切たもので、およそ恁る角の材木を得ようといふには、杣が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。
那な大木のあるのは蓋し深山であらう、幽谷でなければならぬ。殊にこれは飛騨山から𢌞して來たのであることを聞いて居た。
枝は蔓つて、谷に亙り、葉は茂つて峰を蔽ひ、根はたゞ一山を絡つて居たらう。
其時は、其下蔭は矢張こんなに暗かつたが、蒼空に日の照る時も、と然う思つて、根際に居た黒い半被を被た、可愛い顏の、小さな蟻のやうなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞつとしたが、
(父親は何うしてるだらう、)と考へついた。
鋸は又動いて、
(左樣だ、今頃は彌六親仁がいつもの通、筏を流して來て、あの、船の傍を漕いで通りすがりに、父上に聲をかけてくれる時分だ、)
と思はず振向いて池の方、うしろの水を見返つた。
溜池の眞中あたりを、頬冠した、色のあせた半被を着た、脊の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張つて、長い棹を繰つて、畫の如く漕いで來る、筏は恰も人を乘せて、油の上を辷るやう。
する〳〵と向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛を掠めて、蒼い水の上を鴎が弓形に大きく鮮かに飛んだ。
十
「與太坊、父爺は何事もねえよ。」と、池の眞中から聲を懸けて、おやぢは小屋の中を覗かうともせず、爪さきは小波を浴ぶるばかり沈むだ筏を棹さして、此時また中空から白い翼を飜して、ひら〳〵と落して來て、水に姿を宿したと思ふと、向うへ飛んで、鴎の去つた方へ、すら〳〵と流して行く。
これは彌六といつて、與吉の父翁が年來の友達で、孝行な兒が仕事をしながら、病人を案じて居るのを知つて居るから、例として毎日今時分通りがかりに其消息を傳へるのである。與吉は安堵して又仕事にかゝつた。
(父親は何事もないが、何故魚を喰べないのだらう。左樣だ、刺身は一寸だめしで、鱠はぶつぶつ切だ、魚の煮たのは、食べると肉がからみついたまゝ頭に繋つて、骨が殘る、彼の皿の中の死骸に何うして箸がつけられようといつて身震をする、まつたくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食切ると痛むのだ、)と思ひ〳〵、又この偉大なる樟の殆ど神聖に感じらるゝばかりな巨材を仰ぐ。
高い屋根は、森閑として日中薄暗い中に、ほの〴〵と見える材木から又ぱら〳〵と、ぱら〳〵と、其處ともなく、鋸の屑が溢れて落ちるのを、思はず耳を澄まして聞いた。中央の木目から渦いて出るのが、池の小波のひた〳〵と寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響に交つて、繁つた葉と葉が擦合ふやうで、たとへば時雨の降るやうで、又無數の山蟻が谷の中を歩行く跫音のやうである。
與吉はとみかうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝の上、跪いてる足の間に落溜つた、堆い、木屑の積つたのを、樟の血でないかと思つてゾツとした。
今まで其上について暖だつた膝頭が冷々とする、身體が濡れはせぬかと疑つて、彼處此處袖襟を手で拊いて見た。仕事最中、こんな心持のしたことは始めてである。
與吉は、一人谷のドン底に居るやうで、心細くなつたから、見透かす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合目から洩れて、幽かに樟に映つたが、巨大なるこの材木は唯單に三尺角のみのものではなかつた。
與吉は天日を蔽ふ、葉の茂つた五抱もあらうといふ幹に注連繩を張つた樟の大樹の根に、恰も山の端と思ふ處に、しツきりなく降りかゝる翠の葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは眞暗な處に、蟲よりも小な身體で、この大木の恰も其の注連繩の下あたりに鋸を突さして居るのに心着いて、恍惚として目を睜つたが、氣が遠くなるやうだから、鋸を拔かうとすると、支へて、堅く食入つて、微かにも動かぬので、はツと思ふと、谷々、峰々、一陣轟!と渡る風の音に吃驚して、數千仞の谷底へ、眞倒に落ちたと思つて、小屋の中から轉がり出した。
「大變だ、大變だ。」
「あれ! お聞き、」と涙聲で、枕も上らぬ寢床の上の露草の、がツくりとして仰向けの淋い素顏に紅を含んだ、白い頬に、蒼みのさした、うつくしい、妹の、ばさ〳〵した天神髷の崩れたのに、淺黄の手絡が解けかゝつて、透通るやうに眞白で細い頸を、膝の上に抱いて、抱占めながら、頬摺していつた。お品が片手にはしつかりと前刻の手紙を握つて居る。
「ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちやん──柳ちやん──しつかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるやうなことがあつたら、夫婦に成つて遣るツて書いてあるぢやあないか。
親の爲だつて、何だつて、一旦他の人に身をお任せだもの、道理だよ。お前、お前、それで氣を落したんだけれど、命をかけて願つたものを、お前、其までに思ふものを、柳ちやん、何だつてお見捨てなさるものかね、解つたかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いよ。大丈夫だよ。願は叶つたよ。」
「大變だ、大變だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂つた、大變だ、枝が出來た。」
と普請小屋、材木納屋の前で叫び足らず、與吉は狂氣の如く大聲で、此家の前をも呼はつて歩行いたのである。
「ね、ね、柳ちやん──柳ちやん──」
うつとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑むで頷いた。人に血を吸はれたあはれな者の、將に死なんとする耳に、與吉は福音を傳へたのである、この與吉のやうなものでなければ、實際また恁る福音は傳へられなかつたのであらう。
底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年3月15日第1刷発行
1986(昭和61)年12月3日第3刷発行
※「!」の後の全角スペースの有り無しは底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年11月11日作成
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