剣侠受難
国枝史郎
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ポンと右手がふところへはいり、同時に左手がヒョイとあがった。とたんに袖口から一条の捕り縄、スルスルと宙へ流れ出た。それがギリギリと巻きつこうとした時、虚無僧は尺八をさっと振った。パチッと物音を立てたのは、捕り縄がはねられたに相違ない。がその時はその捕り縄、ちゃアんとふところへ手ぐられていた。
東海道の真っ昼間、時は六月孟夏の頃、あんまり熱いので人通りがない。ただ一人の虚無僧と、道中師めいた小男とが、相前後して行くばかりだ。
と同じ事が行われた。つと駆け抜けた道中師、ポンと右手をふところへ入れ、ヒョイと左の手を上げた。その袖口から一条の捕り縄、スルスルと出てキリキリキリ、虚無僧へ巻きつこうとするのであるが、やっぱりいけない。さっと払う尺八につれて、グンニャリとなる。がその時には捕り縄は、袖口からふところへ手ぐられていた。
眼にも止まらぬ早業である。たとえ旅人が通っても、感づくことは出来なかったろう。だがいったいどうしたのだろう? 捕り物にしては緩慢に過ぎ、遊戯にしてはいたずらに過ぎる。
なんの変わったこともなく、虚無僧は悠然と歩いて行く。道中師にも変化はない。
鈴ヶ森まで来た時である。ふいに道中師が横へそれた。後から続いて虚無僧が行く。耕地があって野があって、こんもりした森が立っていた。手拭いを出してバタバタバタ、切り株を払った道中師。
「おかけなすって、一休み」
虚無僧腰かけて天蓋を取った。と、すばらしい美青年。富士額で、細い眉、おんもりとした高い鼻、ちょっと酷薄ではあるまいか? 思い切って薄い大型の口、だが何より特色的なのは、一見黒くよく見ればみどり、キラキラ光るひとみである。手に余るほどの大量の髪、これは文字通り漆黒で、それを無造作にたばねている。肌の白さなめらかさ、青味を帯びないのはどうしたのだろう?
「熱いねえ、ずくずくだよ」
いいながらグイと胸をあけた。あっ! 張り切った二個の乳房、胸もといっぱいにもり上がっている。まさしく変装した女である。
「忠公のばかめ、呆れもしない。なんと思っての悪ふざけだい」
「へい」道中師小びんをかいた。「手練の捕り縄、いかがのものかと、お目にかけたんでございますよ」
「あれで手練かい、叩き落とされたくせに」
「中条流の捕り縄も、あねごにかかっちゃあ文なしだ」
「これは驚いた。中条流だって? そんな流名があるのかい」
「私のつけた流名で」
「よりどころでもあるのかい」
「そりゃアありますとも、大ありで。それ私の名は忠三でげしょう」
「妾ア忠公かと思っていた」
「ひどうげすな。そいつアひでえ、いえ忠三でございます」
「忠的にしよう、その方がいい」
「だんだん悪くなる、驚いたなあ。いえ私の名は忠三で、しかも肩書きは早引でげす」
「早引の忠三、なるほどね、だが大してドスも利かない。ところでどうなんだい、中条流は?」
「忠三をもじって中条流。もったいがつくじゃアありませんか」
イスラエルのお町、ふき出してしまった。
「いわれを聞けば有難い……とこういったら嬉しかろうが、どうもね、お前の中条流、こればっかりは戴けないよ。……それはそうとオイ忠公、準備は一切いいんだろうね」
「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切った。
…………
「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切ったが、すぐにトンと声を落とし、「一切準備が出来たればこそ、長崎くんだりまで飛脚を出し、江戸入りをおすすめしたんですよ。そうして今日あたりはおいでだな、こう思ったのでこの忠三、お迎えに出たのでございますよ」
「ああそうかい、そいつあ有難う。永い間の念願が、それじゃいよいよ届くんだね」
「へい、さようでございますとも」
「うれしいねえ。お礼をいうよ。ああ本当に千べんでもね。だが……」とお町は不安そうに、
「競争相手もあるそうだが、そっちの方も大丈夫かしら?」
「まず大丈夫でございましょう」
「まず大丈夫とは気がかりではないか。確かに大丈夫でなけりゃあね」
「さようで」といったが早引忠三、渋面を作ったものである。
「へい、確かに大丈夫で」
「だってお前、競争相手は、ひととおりの奴じゃあないそうだが」
「その代わり味方にも大物がいます」
「でもね、お前、そのお方は、表に立ってはくださらないじゃないか」
「かりにも三家のご一人、立てるものではございませんよ」
「そうはいってもつながる縁、お母様さえあのままなら……」
「おっとおっと、そいつアいけねえ」
忠三は急いで手を振った。「死児の齢を数えるってやつだ。そんな事をいって何になります」
「さあ何にもなるまいがね」お町はちょっと憂鬱になり、「時々妾は考えるのさ。お母様さえなみの人で、今日までご存命なすったら、こんなみじめを見るんじゃあない、それこそ本当にお姫様で、外へ出るにも供揃い、駕籠に乗って行かれるのに……」
「そいつもなみの駕籠じゃあねえ。葵ご紋のついてる駕籠だ。いやそうなったら私なんか、土下座をしたっておッつかねえ。……それはそうとねえあねご、その後あっしはこの江戸で、随分仲間を作りましたよ。命令一下働く奴が、さあどのくらいありましょうか。そこへあねごが乗り込むんだ、そうするとすぐに女大将さ、葵のご紋なんか蹴飛ばしてしまえだ。だがあねご、そいつらを使って、大ダンビラを振りまわすなあ、策としては拙の拙だ。まず真っ先にとる法は持ってうまれたその美貌、そいつでやろうじゃあございませんか。──といって直接じゃあいけません、間接間接こいつに限る以夷制夷というやつだ。競争相手の随一人、好色漢の島原城之介、あねごに以前から参っているはず、こいつをおたらしなさいまし」
「ああなるほど、島原をね。あいつも江戸にいるのかい」
「えらい勢力でございますよ」
「あいつをたらしてさてそれから?」
「以夷制夷でございますよ」
「ふふん天草とかみ合わせるんだね」
「こいつ成功疑いない」
「それじゃあ腕を振るおうか」
「どうぞね、一つ、すごいところを」
「ではそろそろ出かけよう」
「まず天蓋、おかぶりなせえまし」
「あいよ」
といって引っかぶる。と、もう虚無僧姿である。街道へ出て江戸へ入る。雀色の夕まぐれ、さっと人波にさらわれてしまった。
慶安三年六月二日、天草の乱しずまってより、わずかに十二年を経たばかり、将軍家光存命ながら、狂乱の噂府内にもれ、物情騒然人心恟々、天下乱を思う折柄であった。
いずれ悪漢に相違あるまい、イスラエルお町と早引忠三。二人が江戸へ入り込んでから、十数日が経過した。とその時事件が起こった。
ここに一人の武士がある。
知行五百石でお旗本、代々の主人がつましかったからか、旗本仲間での大金持ち、富豪といってもよいほどで、本所錦糸堀に屋敷があり、無役ではあるが貴まれている。ちょっとおかしいが姓は袴、名は源兵衛といって五十五歳、その人の次男で広太郎、二十三でまだ部屋住み、養子にやるか別家させるか、金に不自由がない上に、父源兵衛の秘蔵息子、まあまあゆっくりというところから、気まま勝手に遊んでいる。しかし広太郎豚児ではない。剣道にかけては柳生流の免許、大力ではないが業には達し、据え物斬りでは名人である。筋肉しまり、背高く、江戸っ児らしい浅黒い顔、性質はむしろ憂鬱であるが、悪寒を与えるほどではない。興に乗ずると大いにはしゃぐ、時によっては毒舌も振るう、それでいて人に愛される。「座談に毒舌は付き物だよ。あの人は聖人でございます、いやあの仁は君子でござる、なかなかもって神様で……こんなことばかりいってみろ、茶がまずくなって飲めやしねえ。あああいつはオッチョコチョイだ、そうともあいつアとんまだよ、ろくな出世はしねえだろう、ナーニあいつは獄門ものだ、女仇討ちにでも出そうなつらさ……などとやらかすと話しがはずみ、茶だってうまく飲めようってものさ」こいつが広太郎の座談哲学、毒舌の弁でもある。ひいでた眉、高い鼻、思い切って切れ長の涼しい眼、私は冷酷じゃアありませんよ、こういいたげにやや厚手の、それでいて醜くない立派な口、金持ちの証拠に耳たぶが厚く、詩人的気禀があるからであろう、額が広く光がある。湯水のように金を使い、悪友を集めて散財するが、それでいてちっとも馬鹿にされない。だが広太郎にいわせると、浮世が面白くないそうだ。「ヤクザだね、この世界は、隅から隅までむだばっかりだ」「なぜだい?」ときくと渋面を作り、「なぜだか知らないがそうなんだよ」これが、広太郎の返辞である。
その広太郎この頃中、一層調子が狂って来た。笑うかと思うとしょげ込んでしまい、しゃべるかと思うとだまり込む。すなわち快活と憂鬱とが、はげしく交叉するのである。恋だ恋だ恋をしているのだ。さて広太郎ある夜のこと、悪友どもと例によって、一杯飲んで夜をふかし、別れて家へ帰る途次、さしかかったのが隅田の堤。
「桜時ばかりの墨堤でもあるまい。微醺をなぶる夜の風、夏の墨堤をさまよったって、コラーという奴もあるめえじゃないか」
で、堤をあるいて行ったが、その時事件が起こったのである。「御用! 御用!」というとり方の声、河を隔てて聞こえて来た。
「これは」と思って眼をやると、対岸安宅町の方角で、飛び廻っている御用提灯! しかも五つ六つではない、二十三十乱れている。
「や、こいつは大捕り物だ!」たたずんでながめたものである。
「あッ」という悲鳴、「待て!」という声、「神妙にしろ!」とわめく声! あわいははるかに離れていたが、深夜だけにあたりさびしく、ちまたの雑音の聞こえないためか、粒だって声が聞こえてくる。
「ドブーン!」水音の響いたのは、とり方かそれともとられる方か、ともかく誰か河の中へ、飛び込んだに相違ない。
と、ボーッと火が立った。放火したのだ! 家が燃える。その光にボッと照らされて、一人こっちへ泳いで来る。
火事の光にボッと照らされて、一人こっちへ泳いでくる。「網をのがれた曲者だな」こう思ったが広太郎、自分がとり方というではなし、取り抑えようとはしなかった。だが充分の好奇心、桜の木蔭へ身を隠し、じっと様子をうかがった。泳ぎついたその曲者、岸へ上がるとまず袂、キューッと水をしぼるらしい。それから裾の水をしぼり、スルスルと土手へ上がって来た。月はあったが桜の葉越し、光が充分に届かない。ただ人一倍たけが高く、肩に燦と白髪が波打っているのが見て取れた。老人かな? それにしては、ヌッと伸びた腰つきが、そうではないと裏切っている。チラリと火事の方を見返ったが、何やら口の中でつぶやいた。と、ふところへ手を入れた。取り出したのは小長い物、そいつを頭上へズイと上げ、そろそろ一方へ開くのを見れば、間違いのない巻軸だ。
「有難え、ぬれてはいない」よっぽどうれしかったに相違ない。こうハッキリつぶやいたものだ。
木蔭で見ていた広太郎、ムラムラ好奇心がつのって来た。そっと近寄り富樫もどき、相手の肩越しにのぞきこんだ。チェッという舌打ちの音、人の気配を感じたらしい。ヒラリ振り返ったが抜き打ちだ。その早さ、その鋭さ、横なぐりに腰のつがい、ダッと払われたがきまれば、まさしく広太郎胴輪切り。
酔ってはいたが心は正気、ましてあらかじめ曲者と、用心していた広太郎、飛びしさると桜を楯、幹に全身を隠しながら、刀の鯉口ブッツリと切り、相手の様子をうかがった。
片手青眼につけたまま、左手で巻軸を巻くらしい。サラサラという紙の音。と、左手がふところへはいった。ははあ巻軸を納めたな。「これ」とはじめて声をかけた。
「見たであろう? む、どうだ?」右へ右へとジリジリ廻る。
「不運な奴だ、いかしては置かぬ」
不思議な声音、鬼気がある。かれてはいるが力がある。あざ笑うのか、威嚇するのか、どっちとも取れる声音である。とまれ一旦耳にしたら、容易に忘れられない声である。
立ち木を中に広太郎、左へ左へと逃げながら、心でつぶやいたものである。「すごいなあ、恐ろしい奴だ。人を斬ったな、幾人となく。血煙りの中を通って来た奴だ……。勝ち目はない、おれに勝ち目は」
「これ若造」と例の声、「感心だな、抜きおらぬな。逃げるつもりか、それもよかろう。ふ、ふ、ふ、逃げられめえ」
右へ右へと廻りこむ。
「殺されてしまえ、きっと殺す。……なぜのぞいた、馬鹿な奴だ、見さえしなければよかったのだ。見られた以上は助けられない。コレ前へ出ろ、切りこんで来い。……来ないか、行くぞ。ソレ、ソレ、ソレ」
構えをつけながらしゃべりまくる。場数を踏んだ証拠である。一つの立ち木から他の立ち木、移ろうとして広太郎、一瞬間全身を現わした時、肩に白髪の泡を立て、「どうだ!」と一躍切りこんで来た。と、鏘然たる太刀の音、はじめて広太郎抜き合わせ、危く鍔際で受けたらしい。
さっと左右へ飛び違う。
「えらいの、若造」
「何を! だまれ」ブルッと一つ武者振るい、タラタラと流れるあぶら汗、額から両眼へ入ろうとする。
「御用! 御用!」と遠のく声。とり物も終りに近づいたらしい。火事は盛んだ。紅色の火光、ここらあたりまでポッと明るい。相青眼の二本のつるぎ、その中でキラキラと輝いている。
二合目の太刀、また鏘然、音を立てて火花が散り、鍔ぜり合いになったとたん、「しまった」という声が突っ走った。同時に一つの黒い影、もろにうしろへ飛びしさったがヒューッと何か投げつけた。と、もうその時にはその人影、河とは反対、耕地の方へ投げられた石のように走っていた。眼にもとまらぬ早業で、しかも綽々たる余裕がなければ、到底出来ない芸当である。
と、初めて、「待て!」という声が広太郎の口からほとばしった。時のハズミで出た声で、真に呼び止めた声ではない。その証拠には追おうともしない。追わないばかりかグタグタと、大地へ坐ってあぐらをかいた。ホーッともらす太い息、と、ガチャンと刀を捨てて、ピッタリ両手を突いたものである。
「天下は広大。えらい奴がいるなあ」まずもらしたものである。「柳生の極意甲割り、死に物狂いで下ろした太刀が、幸いきまって敵の刀をつばのきわから、折ったればこそ、運よく命は助かったものの、そうでなかったらやられたところだ。……うむ」といって考え込んだ。「どうもわからない、何者だろう?」またそこで考えこんだ。「剣道名誉の武士にしては、少しく態度が無頼に過ぎる。といって市井の無頼漢にしては、余りに腕が利いている。……胆の据え方、機のつかみ方、とてもとても常人ではない。……そうしてあれは? あの巻軸は?」
ただ肩越しに見たばかりで文字か絵画か何が書いてあったか、見て取ることは出来なかった。
腕のしこりをもみほぐし、落ちている刀をさやに納め、フラフラと立った広太郎、自分の屋敷へ帰ったのは、半時ばかりの後であったが、その夜出会った強敵が、その後も永くつきまとおうとは、神ならぬ身の──ちょっと古風に──実に知る由もなかったのである。
七日ばかりは気持ちが悪い。で広太郎はこもっていた。
「もうよかろう、泳ぎ出すかな」カラリと晴れたよい天気、フラリと広太郎屋敷を出た。さて行く先はきまっている。恋人お京様の屋敷である。
ここに小松原平左衛門といって、やはり五百石のお旗本、同じく無役で、相当裕福、といって袴家には及ばない。屋敷は小石川掃除町、柳町の角に立っている。その長男を舞二郎といい、広太郎とは同年輩、昔からの親友で、その妹がお京様、しばしば遊びに行くうち、広太郎恋してしまったのである。
「舞二郎殿おいでかな」
「おおこれは袴様。ハイハイ皆様お庭の方で、お話し最中でございます」
「ははあ、どなたかご来客で」
「はい、いつもの臼井様が」若党ここでニヤリとした。
「うむ、そうか、臼井殿」にわかに広太郎いやな顔をした。それにはもっともの理由がある。広太郎の恋の競争者だからだ。
玄関からグルリと庭づたい、裏庭の方へ行って見た。縁に腰かけた三人が、面白そうに話していた。
「これはようこそ広太郎殿」真っ先に舞二郎が声をかけた。
「おや、これは広太郎様、ようこそお出かけなさいました」こういったのはお京である。
「これはこれは袴氏、今お噂をしかけたところで、お待ち申しておりましたよ。やっぱりそんな、噂をすれば影、お見えになるだろうと存じていました」臼井金弥の挨拶には、なんとなく毒気が含まれている。
何となく毒気の含まれている、臼井金弥の挨拶を聞くと、広太郎額へしわを寄せた。
臼井金弥は旗本の長男、父は臼井小六郎といい、二百石の安祥旗本。家柄はよいが家計はよくない。袴家に比べると問題にもならず、小松原家に比較しても、まだ甚だしく見劣りがする。金弥当年二十二歳、広太郎よりは一つ下、武道は未熟、学問もないが、男振りだけはばかによい。といってりりしい男振りではなく、色なま白く眉細く、鮎のような形をしたなまめかしい眼、鼻の高いのはいうまでもなく、べにをさしたような受け口など、成長した陰間とでもいいたげである。行きずりに寛永寺の坊主などが、いやらしい眼をして見送りながら、「惜しいものでござるな、野郎頭が」「前髪を立て振り袖を着せたら、寺を開いても愚僧は通う」などと囁くと金弥の方でも、それがうれしくて気取った咳をし、衣紋の襟をしごこうという、ざっとそういうさむらいである。ところがここに困ったことには、金弥とお京とはいいなずけであった。父と父とがずっと昔に、そういう約束をしてしまったので、今さらどうにもならなかった。「臼井の家がゆたかなら、また、知行でも多いなら、いいなずけの約束変更してもよいが、万事当家より劣っている。で、いいなずけの約束を破り、お京をよそへ縁づけたなら、臼井の家ではひがむだろう。『あれ見よ小松原平左衛門は、臼井の微禄に愛想を尽かし、武士にあるまじく約束を破り、娘を他家へ縁づけたわ』世間の口の端もうるさかろう」これが平左衛門の意見であった。「しかし父上、広太郎殿が、お京を懇望しておられます。この私とは昔からの親友、それに人物はあの通り、文武二道に達しております。金弥殿などとは比較にもならず、無二の良縁かと存じますが。……それにお京の心持ちも……」ある時舞二郎がこういうと、平左衛門はものうそうに、「広太郎殿は立派な人物、それこそお京の婿などには、もったい至極もない方だ。お京の心も進んでいるなら、これに上こす良縁はない。が舞二郎、袴家は、あの通りの財産家。でこれは問題にならない」「武士の義理、世間への体面、これもさることではございますが、お京の心も察すれば」「お京の心? うむなるほど、では金弥殿を嫌っているのか?」「いえ嫌ってはおりませぬが、さらに一層広太郎殿の方へ……」「無理はないな、それはそうだろう。……だがそれは勘定へは入れまい。……幸いお京はおとなしく、我を押し通すところがない。気の毒ではあるが犠牲になってもらおう」
舞二郎の意見にもお京の心にも、充分理解は持ちながら、なお平左衛門は自説を棄てない。頑固一遍での旧弊なら、説破することも出来るのであるが、そうでないだけにむずかしい。
一方金弥は広太郎という、恋の競争者が出て以来、にわかに執ねくつきまとうようになった。財産からいっても、人物からいっても、到底広太郎の敵ではない。そこで金弥は唯一の武器、よい男前とうまい弁舌、それでお京の心を引き、他方両親をせき立てて、婚礼の日取りを早めることにした。で二人の婚礼は非常な事件でもない限り、ととのうものときまっていた。金弥の得意、広太郎の焦心、このところ火花を散らしていたが、今や顔を合わせたのである。
「ほほう拙者の噂をな、それはそれは迷惑千万、ろくな事ではござるまい。噂といえばよく聞こえるが、いい換えると人の蔭口。ところでどうも蔭口というやつ、おおかた悪口に堕するものでな、例えばその人の口癖とか、または身振りとかいうようなものを、つい誇張していいたがるもので」ムカムカしているので広太郎、思わず火ぶたを切ってしまった。
噂とはすなわち蔭口である。広太郎のいったこの一言、金弥の胸へはピンとこたえた。というのは実際この時まで、蛇のようにノラクラした冗弁をもって広太郎の蔭口をいっていたからで、痛いところへさわられたのである。本来ならば赤面もの。しかるに金弥赤面しない、むしろかえって揶揄的になった。
「なるほどな。これは金言、さすがは袴広太郎氏、うまいことを仰せられる。がしかし愚考するところ、少しく矛盾してはおりませんかな」
「ナニ、矛盾? そんなはずはござらぬ」
「いつぞやの貴殿のお説によれば、座談はすべからく悪口たるべし、ということであったはず。噂すなわち座談でござる。自然悪口がよろしいはずで」
「うむ」とこれには広太郎、行き詰まらざるを得なかったが、にわかに磊落に哄笑した。「座談の悪口にもよりけりでござる。若い純な娘ごなどの前で、成心あっての悪口など、男子としては慎むべきもの、何とそうではござらぬかな」ちゃあんと広太郎見抜いている。
胸に五寸釘の金弥であったが、そんな気振りはチラリとも見せず、「これはおかしい、聞き棄てにならぬ。そういういい廻しをなさる以上、何か拙者に姦策でもあって、お京様の前で貴殿の事を、悪しざまに申していたようでござるな。いやはやどうも飛んだ廻り気で。貴殿、それでは永生きはされぬ、神経ばかりいら立ててはな。ハッ、ハッ、ハッ、邪推でござるよ」──お京様はどうせこっちのものだ。婚礼も間近にせまっている。いわば恋の勝利者だ。どんなに威張っても大丈夫だ。広太郎め、もがいていやがる。金があるの、文武両道、兼備でござるのと鼻にかけても、女扱いではかなうまい。ざまあ見やがれ、いい気味だ。えぐってやれ──いわゆる小人の根性で、金弥ネチネチと出たものである。
しかし広太郎も驚かない。「ほほうさようか。それなら結構、まことに公明正大というもの、見上げてござるよ、臼井氏」
ヒョイとあっさり引っぱずしてしまった。
今度は金弥があせって来た。「なんだ、お高くとまりやがって、見上げてござるもないものだ。これじゃあまるでおれの方が、下眼に見られてスカされたようなものだ。お京様の前だ、いけねえいけねえ。馬鹿に見える。このおれがな」
いいなずけの娘お京の眼に、馬鹿気て見えるということは、まさしく一大事に相違なかった。
「大きく出てやれ、話を大きく」で金弥はいったものである。
「いや何貴殿の噂などは、ほんのチョット出たまでで、実は当今のお政治向きについて、主として話しておりましたので」
こいつを聞くと広太郎「ははん」といって眼をまるくした。がその眼が細まった時、プッと両方の頬がふくれ前歯がチラリと現われた。軽蔑しきった苦笑である。「ははん、さようで、それは大きい。うぶな娘ごの前などでは、大きな話をした方が、たしかにえらく見えますからな。しかし一層大きいなら、日本の話より五大州の話、ないしは天文地文の話、地獄極楽の話などの方が、効能がありはしませんかな。ただし結局そういう話は、面白くないことも確かでござる。あえて皮肉ではござらぬが、若い娘ごに取り入ろう、こういうお心でござるなら、歌舞伎物まね音曲話、そういったやわらかい話の方が効果てき面と思われますがな。第一その方が貴殿に似合う。似合わぬものはつまりニセ、いか物はいけない、いか物はいけない!」思い切って突っぱねた。
と、ムラムラと金弥の顔へ、怒気が浮かんだものである。
金弥の顔色が変ったのは、広太郎にとっては痛快であった。しかしこれ以上やり込めるのは、大人気ないと思ったので、クルリと背を向けて舞二郎へ向かった。
「舞二郎殿、おいそがしいかな」
「いや、例によって平凡で」
「ちょっといつもよりお顔色が悪い、勉強が過ぎるのではあるまいかな」
「ナニ、それほど勉強しません」
「それがよろしい、おなまけなさい」
「これ以上なまけたら馬鹿になる」
「いやそれ以上勉強されては、この拙者などはお話しさえ出来ぬ」
「そういわれるとこの拙者、なんだか大変学者のように見える」
「学者でござるとも、立派な学者で」
小松原舞二郎、生来の多病。それで剣道は自ら廃し、好める学問の道にむかい、林家の弟子として錚々たるもの。広太郎と同年で二十三歳、それでいてすでに代講をする。学者として立つことさえ出来るのである。顔色あおく、身体やせ、話す声なども弱々しい。が、すみ切った光ある眼、敏感らしいしまりのある口。頭脳の明晰と相まって、その心は広く厚く、老成した君子のおもかげがある。広太郎ほどの人間でも、舞二郎には一目置き、むしろ兄事しているのである。
「拙者などより広太郎殿、貴殿の方が世間が広い、面白い話はござらぬかな」
「さようさ」といった広太郎、先夜の出来事を思い出した。
「一つあります、意外のことが、世間には物騒なやつがある。拙者ひどい目にあいましたよ」
で、捕り物のあったこと、不思議な人間に斬り立てられたことを、かいつまんで物語った。
「ほほう」と舞二郎それを聞くと、驚きの目を見張ったが、「捕り物の内容ご存知かな?」
「いやいやトンと存じませんな」
「邪教徒の巣窟を襲ったのだそうで」
「ははあ邪教徒? ではキリシタン」
「さようさようキリシタンで」
「で、結果は? 一網打尽かな?」
「主領をはじめ五、六人の者が、うまくのがれたということで」
「ふうむなるほど、それでわかった。隅田で出あったあのくせ者、恐らくそいつらの一人でござろう」
「さよう、話のご様子ではな」
「どっちにしても物騒な世情だ」
「台閣諸侯も困難でござろう」
「いや全く困難らしい。叛骨を帯びた連中が随分諸方面にいるようでござる。南海の龍、紀州大納言、このお方などは随一人だ」
「変な浪人も沢山いますな」
「由井正雪、山鹿素行」
「外様大名にも危険なのがいます」
「伊達、島津、加賀、毛利」
「天草、島原の残党などもな」
「それに近来頻々と、奇怪な盗賊が横行するようで」
「それに」と舞二郎はうれしそうに、「お聞き及びでもござろうが、婦女子をかすめる悪漢が跳梁跋扈しているようで」
この時であった、不思議な声が、塀の外から聞こえて来た。
「イスラエルの神に……にえ捧げようぞ!」
続いてジャラーンという音がした。
しわがれてはいるが力のある、鬼気を含んだ声である。
「あいつの声だ! 間違いない。……ご免」というと広太郎、裏門から外へ飛び出した。
飛び出したところは屋敷町、いつもは人通りが少ないのに、近所に祭礼でもあると見えて沢山人が歩いている。その人々の頭の上、二尺あまりもグンとぬきんで、巨大な白木綿が歩いていた。純白の髪を肩へたれ、純白の行衣を身にまとい、一尺ばかりの一本歯の下駄、そいつをはいた修験者で、環のついた鉄杖をつき、数間のかなたを人波を分け、悠々と歩いて行くのである。翻る袂、乱れる裾、なびく白木綿そっくりだ。
「薄月夜の墨田堤、桜群葉に蔽われて、はっきり姿は見えなかったが、間違いのない純白の髪、そっくりそのままのしゃがれ声。あの時の曲者に相違ないが、修験者とは意外だな。とにかく顔を見てやろう」
その時修験者は四角を曲がった。その角を広太郎がまがった時、やはり修験者は数間のあなたを、同じように人波を分けながら、悠々として歩いていた。急ぐようにも見えないが、非常に大股にでも歩くのだろう。容易なことでは追いつくことが出来ない。柳町から餌差町、この辺は広い往来で、両側に家々がビッシリと並び、いらかが薄白く陽に光り、地面からほこりが立ち、物売りの声、下駄の音、行き来の人の話し声、文字通りの雑沓であったが、その騒音を貫いて、ジャラーンと響き渡る物の音、修験者の持っている鉄杖だ。餌差町と春日町の間、ちょうどその辺まで来た時である。編笠をかぶった一群の武士が、辻からムラムラと現われた。と、修験者を指さして、口早に何やらしゃべったらしい。揃って後を追っかけた。「おかしいなあ」と広太郎、心の中で怪しみながら負けずに後を追っかけた。白衣の修験者をクルクルと、武士の一団が取り巻いたのは広い春日町の四辻で、「何か起こるな!」と思った時、はたして意外な事件が起こった。まず修験者が立ちどまり、サーッと鉄杖を揮ったものである。とたんに二、三人バタバタと、もろくも武士が地に倒れた。と思った一瞬間、修験者の姿が消えてしまった。しかし間もなく宮坂町の方から、きわめてかすかではあったけれど、ジャラーンという音が聞こえて来た。
あッと思う間の出来事である。
広太郎はぼんやり突っ立ってしまった。
「あの早業、あの力量、あの男に相違ない。……だがいったい何者だろう?」
その時である、耳もとで、つぶやく声が聞こえて来た。
「お嬢様にご用心なさりませ。……あぶのうござります。……ご用心」
振り返って見ると一人の男、浅黄のずきんにうこんの袖なし、伊賀袴をはき一本差し、人形箱を胸へ掛けた、古風の傀儡師がうつ向き加減に、足のつま先を見詰めながら、すべるように右手を通って行く。ずきんの下からはみ出しているのは半白になったかみの毛で、年はそちこち五十五、六。たくましい頸、怒った肩、くくりあごの下ぶくれ、横顔ばかり見せていたが、ワングリと高い立派な鼻、食いしばったような口もとなど、一癖も二癖もあるつら魂。
「おかしいなあ、なんのことだろう? お嬢様にご用心なさりませ。あぶのうございます、ご用心。……おれにいったのか誰にいったのか、こいつからしてわからない。おれには一人だって妹はない、女房がないんだから娘もない」
気がついて見るとその傀儡師、宮坂町の方へ行くと見えて、春日町の辻を西へまがった。
「待てよ、こいつひょっとすると、お京様のことじゃないかしら? どっちみちひどく気にかかるなあ」真夏の白昼、修験者と傀儡師。二つのものの怪にぶつかったように、広太郎は慄然と身ぶるいしたが、はたして大事件が持ち上がった。
その夜起こった事件というのは、不思議といえば不思議でもあり、奇怪といえば奇怪でもあるが、平凡といえば平凡ともいえる。一口にいえば、娘のお京が、危うく人さらいにさらわれようとしたのを、袴広太郎が人さらいをとらえ、通りかかった同心達へ、突き出したというまでである。
人さらいというのはほかでもなく、「イスラエルの神へにえ捧げようぞ」こう呼ばわった修験者であった。
その夜お京は兄の部屋で、かなり遅くまで話しこみ、十二時近くなって寝についた。お京はおとなしい性質で、日本式の娘型。物事内輪へ内輪へとひそめ、出しゃばることをひどく嫌った。容貌は非常に高尚で、キッパリした富士額、細面で中高の顔、地蔵眉、澄み切った眼──といって決して冷淡ではなく、あまりに邪心がないために、一点の濁りさえ見られないのである。はたして旗本の娘だろうか? あまりに貴族的の鼻ではないか、こういいたいような鼻の形。くちびるはいちごのように小さく赤い。どこにともなく神性があり、処女という言葉の具象化が、すなわちお京だということが出来る。燃えるほど広太郎を愛していても、いいなずけの金弥を退けようともしない。
寝についても眠られず、昼間角目立って口論した、広太郎とそうして金弥とのことが、心にかかってならなかった。それでも午前二時頃になると、うとうとと眠気がさして来た。と、その時間近いところから「お京!」と呼ぶ声が聞こえて来た。
「どなたか妾を呼んでいる」こう思った時また、「お京!」
それはそとから来るらしい。ふすまを抜け出し雨戸を開け、裏庭をのぞくとよい月夜。と、また「お京!」と呼ぶ声がする。「はい」というと、はだしのまま、スルスルと庭へ下り立ったが、裏門の方へフラフラと行き、門を開けたのも無意識であった。
と見ると往来には人気なく、あおあおと光が漲っている。月光の中に立っているのは、白木綿のような真っ白の人物。余りに身長が高いので、仰ぎ見なければならなかった。
「妾をお召しでございますか」
「従いておいで、イスラエルの宮へ」
「はい有難う存じます」
「選ばれた処女、恐れるには及ばぬ」
ユラユラと歩く後につき、屋敷の角をまがろうとした時、真っ黒のものが飛び出して来た。
「売僧!」
「無礼者!」
「人さらいめ!」
ジャラーンと鳴る鉄杖の音、ヒューッと風を切る木刀の音、「うん!」といううなり声。ドッと倒れた人間を踏まえ、突っ立ったのはほかでもない、傀儡師の言葉に不安を覚え、一夜警護に当っていた、袴広太郎その人であった。
「お出合いなされ! お出合いなさい!」
わめいた声を聞きつけて、小松原家から家人が来た。
そこへバラバラと走って来たのが、市中見廻りの八丁堀の同心。
「おお袴氏と仰せられるか、こやつ邪教徒、しかも人さらい、捕えあぐんだ曲者でござる。ようこそお捕えくだされた。お渡しくだされ、引っ立てて参る」
「それはご苦労、お連れくだされ」
「今後もお娘ごにご用心」
見ればお京、気絶している。家へかつぎ込んで介抱すると、パッチリ眼を開けたが物をいわない。しかし事件がこれだけなら、さして問題でもなかったのだが、この後が非常に悪かった。
というのは数日後、衣裳美々しい立派な武士が、袴広太郎を訪れて、こんなかけ合いをしたからである。
「それがし事は西国の武士、築土新吾と申すもの、突然参上無礼の段は、特にご容赦にあずかると致し、早速ながら申し入れます。うけたまわれば貴所様には、昨夜掃除町の方面にて、目下評判の人攫いを、からめ取られたと申すこと、しかとさようでございますかな?」
丁寧なようなところもあれば、傲慢なようなところもある、かなり不快な態度口調で、まずその武士は口をきった。
「いかにもさよう」と広太郎、負けずに不作法に返辞をする。
「それがなんとか致したかな?」
「いや、お手柄でございましたな。──ところで甚だ失礼ながら、あの人攫いは容易ならぬ手きき、なかなかもって普通の事では、取りおさえることは出来ませぬ。いかが致して貴所様には、生擒り致してございますな?」
「木刀で脳天をくらわせてござる」
「ほほう、木刀で。それは不思議。では貴所様には、あの人攫い、昨夜あの辺を襲うということを、あらかじめご承知でござりましたかな?」
「さよう」といったが広太郎、こいつ何かもくろみがあって、やって来たなと感づいた。「まずまずそういってもよかろう」
「拙者もさよう存じました」築土という武士、どうしたものか、ここでキラキラと目を光らせた。
「袴氏……で、獲物は?」声を落とした忍び音だ。
「何、獲物? なんのことでござる?」
するとその武士、ニヤニヤしたが、「駄目でござるよ、袴氏。たとえどのようにお隠しあっても、決して決して一人占めにはさせぬ」変なことをいい出した。
「一人占め、いよいよわからぬ。なんでござるな、獲物とは?」
「ふッ、ふッ、ふッ、ふッ」とどうしたものか、築土という武士、陰険に笑った。「いやさすがは袴氏。容易に底をお割りにならない。そうでござろう、それが当然。実際それだけのご用心がなければ、あのような仕事は出来ませんからな。がしかし袴氏、われらも最近あの男を、つけ狙っていたのでございますぞ。横取りされてはたまらない。第一」と武士は眼を怒らせた。「本来きゃつの持っていた物はわれわれ一味の所有物でござった。それをきゃつめがドサクサまぎれに。……いやそれゆえあの獲物を、全部貴殿よりお返しを願い、一人で得分しようなどとは、決して決して申しませぬ。それほどわれらも野暮天ではござらぬ。平たく申せばまず山分け、これはもうもう当然でござる。その点は充分ご安心、大丈夫でござる大丈夫でござる。なかなかもってあのような獲物は、一人で取ろうの儲けようのと、ジタバタしたところで出来ない相談、莫大なねうちでございますからな。で、打ち明けてご相談いたす、どうぞ貴殿におかれても、われわれ一味の仲間へはいられ、共同的行動を願いたい。これではいなやはございますまい。第一その方が安全でもあり、また可能性もあろうというもの。もちろんご存じとは存じますが、貴殿の獲られた獲物だけでは、甚だ不完全でございますからな。その片割れの持ち主も、当方においてはあらかたのところ、目星をつけておりますので。この点貴殿には有利でござる。で是非とも……」とひざを進めた。
「われわれ一味にご加入くだされ、その入会の印として、今日ひとまず拙者の手へ、獲物をお渡しくださるまいか」
これには広太郎参ってしまった。なんのことだかわからない。
「獲物獲物とおっしゃるが、この拙者にはトンとわからぬ。どのようなものかな、その獲物とは?」
真面目にきき返したものである。と、武士の面上に、憎悪の情が浮かんだが、すぐに佞柔の表情に返った。
「いいかげんになされ、袴氏。とぼけるのにもほどがござる。よしまたどのようにトボけられても、食わせられるような拙者でもない。お芝居をするも善し悪しでござるよ」
「芝居もしなければトボけもしない。拙者真面目にきいているので」
「ふふん」と武士はせせら笑った。
「あくまでもシラをきられる気かな」
「知らぬものは知りませんな」
「それで拙者を追っ払う気かな」
「当方でお招きしたのではない。ご用が済まば帰られるがよろしい」
広太郎も少し気色ばむ。
「さようか、なるほど。そう出られたか」
築土新吾、スッと立った。がまたすぐにピッタリと坐り、探るような声でつぶやいた。
「ご不満かな、山分けでは? よろしい、それでは、四分六といたそう」
「くどい!」と広太郎、腹に据えかね、はじめて叱咜を響かせた。「何をいわれる、無礼千万! 拙者も武士、嘘はいわぬ! 獲物の山分けの四分六のと、町人じみた不快な掛け合い。知らぬといったらあくまでも知らぬ。すぐに帰られい! 帰らっせえ!」
「よろしい!」
と新吾、わしのように、その眼光をひらめかせたが、
「後悔なさるなよ、袴氏……いやきっと後悔する……見たようなものだ、後悔されよう! ……貴殿に関してはこの数日、われら懸命に探ってござる。秘蔵の一品盗み取り、貴殿に鼻をあかせて見せる」
「よかろう」と広太郎投げるようにいった。
「盗みたければお盗みなされ」
「ふふん、その時……」
「馬鹿め!」
「何を!」新吾の顔に一瞬間、身振るいするような兇相が、ムラムラとばかり現われた。
帰ったあとで広太郎、吹き出さざるをえなかった。
「なんだろう、あいつ、変な奴だった。鷹野ではあるまいし、獲物獲物と、獲物のことばかりいっていたが、おれは知らないよ、そんなものは」
だが間もなく驚くべきことが、かれの身の上に振りかかってきた。
二日ほどたった深夜のこと、小松原家から人が来て、お京の紛失を告げたのである。
「ううむ」と広太郎、それを聞くと、手を握らざるをえなかった。「秘蔵の一品盗んでみせると悪武士め威嚇したが、さてはお京のことだったか」
大小ぶっこむと屋敷を出、辻駕籠に乗ると駈けさせた。
「舞二郎殿、真実かな⁉」
小松原家へ駈けつけるやいなや、声を筒抜かせたものである。
平左衛門と舞二郎、成長した陰間の金弥まで、声もなく奥の間に坐っていたが、
「広太郎殿、よい知恵を」
いつも沈着の平左衛門が、まずオロオロといったものである。
「お聞かせくだされ、どういう事情?」
「こうでござる」と舞二郎、沈痛の口調で語りだした。
「実は人攫い事件以来、お京、憂鬱になりましてな、ものさえろくろく申しません。恐ろしい災難にあった者が、時々落ち入る憂鬱性、まずそれだろうとは存じましたが、うっちゃって置いては、病気にもなろうと、努めて心を引き立てるように、いろいろ注意を加えましたが、どうも一向きき目がない。そこで本日無理に勧め、小間使いお常に供をさせ、浅草へ遊びにやりましてござる。夕方になっても帰ってこない。どうした事かと案じていると、お常一人がひともし頃に、泣き込んできたではございませんか。どうしたときくとお嬢様が、人さらいにさらわれたとこう申すので。どこでさらわれた、どうして攫われた、さらった武士はどんな人相かと、拙者たたみかけてききますと、場所は浅草の河喜という料亭。さらった武士は四十格好の、あごひげの濃い、眉の太い、立派なよそおいをしたさむらいで、なんと不思議ではございませんか、このようにいったと申しますことで、『拙者は築土新吾といい、袴氏とは年来の懇意、先ほどよりして河喜の二階で、広太郎殿と飲食中、ふとご令嬢のお通りを見かけ、広太郎殿の申すには、小松原家のご令嬢、お京様が通られる。甚だもって失礼ではあるが、お差し支えなくばお立ち寄り、お物語りいたしたい。貴殿お勧めして参るようにと。で拙者参りましてござる。お手間は取らせぬ。ほんのちょっと、お立ち寄りくださらば有難いしあわせ……』妹めも甚だ不注意千万。たしかめもせずうかうかと、立ち寄ったそうでございます。さあそれっきりいつまで待っても、妹の姿が現われぬ。心配になってはいってきくと、そのお客様なら二挺駕籠で、ずっと以前に裏口から立ち帰ったという女中の返辞。そこでお常仰天し、泣く泣く帰って来ましたそうで……それから家内大騒動、人を出して捜索中。さよう、ただ今も捜索中でござる。……もちろん拙者の思うには、例の人攫いの一味の者の、わるだくみに相違ない。袴氏の知ったことではない。しかし一応お越しを願い、事情申し上げた上で、お知恵もあらばお借りしたいとな。……広太郎殿、どうしたものでござろう?」
これが舞二郎の話であった。
「ううむ」とうなると広太郎、腕をくんで考えたものだ。
しかしこれは詭計であって、内心ではたいして驚かなかった。
「おおかたこうだろうと思っていた。おれにはきゃつらのやり口がわかる。築土新吾となのる奴、おれが獲物を持っていると、あくまでも信じているところから、お京様を奪い取り、それをおとりにおれを誘い、きゃつらのいうところの獲物なるものを、巻き上げようとするのだろう。なるほどな。うまい手だ。おれが獲物を持ってさえいたら、早速出すに相違ない。ただいかんせん、持っていない。第一獲物の性質さえ知らない。いったい何だろう、獲物とは? ……しかしそれはともかくとして、きゃつらの目的は獲物なのだ。有難いことにはお京様ではない。で明日にもきゃつらの方から、なんとかいってくるだろう。その時かまわず乗り込んでゆき、掛け合ってお京様を取り返してこよう」
で広太郎はこういって、小松原家へいとまを告げた。「拙者に少しく存じよりもあれば、まずまずおまかせくださいますよう。あすかあさって、両三日中には、お京様をきっと奪い返し、おつれいたすでございましょう。心配ござらぬ。ご安心なされ。特に臼井金弥殿にはな」
そとへ出ると薄月夜、明け近い深夜で人通りがない。
だが上野まで来た時である、うしろから人の足音がした。振り返ってみると見覚えのある、例の不思議な傀儡師であった。
「四谷左門町、播磨守様の裏手、黒板塀に巴の印、……そこをお訪ねなさりませ」
つと横へきれて消えてしまった。
慶安年間の四谷左門町ときては、いわゆる悪漢の巣窟で、微禄の御家人とか香具師とか、猿廻しとか夜鷹とかないしは怪しげな浪人者とか、そんな者ばかりが住んでいた。もちろん商家もあったけれど、真面目な商人は少数で、物価などもうんと高く、ほかの町でのまず三倍、それで売る方も平気なら、また買う方も怪しまない。かどわかし、賭博、喧嘩、刃傷、すり、泥棒というようなことが、昼夜となく行なわれ、しかも法網をくぐっている。悪漢には悪漢の道徳があり、互いに隠し合いかばい合うからだ。お尋ね者にとっては安全区域、ここへ逃げ込むと目つからない。その代わり若い女などが、うっかりここへ紛れ込もうものなら、とても純潔では帰れない。
なにがし播磨守という大名屋敷が、この一郭に立っているのは、ちょっと場違いの感があるが、その屋敷の裏手にあたって巴小路という小路がある。露路があたかも巴のように、変な形に作られていてそこへいったんはいり込むと、容易なことでは出ることができない。危険な左門町のその中でも、とりわけ危険な一郭で、ここに住んでいるということだけで、悪党どもは押しがきいた。「ナーニあっしは善人で、綽名は仏、名は小平。虫けら一匹殺しゃあしません。もっとも住居は巴小路で」などというとたいがいの者は、ふるえ上がって金を出す。
その物騒な巴小路の真ん中どこに立っているのが、巴御殿という化け物屋敷であった。御殿とはいっても巴小路での御殿。黒板塀こそかかっているが、決してたいした伽藍ではない。
だがいったいどういうところから、化け物屋敷というのだろう? いずれ原因を探ったら、先住のなにがしが妾を殺し、爾来血の雫がしたたるとか、金持ちの婆さんが縊り殺され、その恨みが残っていて、毎晩毎晩しゃがれ声で、「金くだせえ」とおっしゃるとか、そんなところへ落ちつくのだろう。さらに一層研究したら、超自然的の原因などはなく、陽あたりが悪いとか、井戸水が悪いとか、まわりがきたないとか、家賃が高いとか、至極平凡な実際問題へ、帰納されるに相違ない。
事実そこはここ数年来、借りて住む者がないのであった。
借り手がないから家がクサる。家がクサるから陰気になる。で、世間の連中が、化け物屋敷だと吹聴する。──といった方が本当かもしれない。事実が顛倒して語られるところに、魑魅魍魎や化け物屋敷の、存在が許されるというものである。いったん存在が許されるや、神に氏子、仏に信者、そういうものができるように、取り巻きの連中が現われる。ひどい奴になると利用する。
「巴小路の化け物屋敷、そりゃあとてもすごいものだ。だがおれは驚かねえ、おれはそのそばに住んでいる。どうだえ、えらかろう、金をよこせ」
すると一両出すところを、二両出そうということになる。
巴小路の住人にとっては、巴御殿の存在は、とんだ金儲けの種なのであった。
金儲けの種だから大事にする。そこでセッセと宣伝する。次第まさりに巴御殿、出世せざるをえないではないか。で、このごろでは巴御殿、幻怪神秘のとばりを纒い、蟠踞するようになってしまった。そうしてちっとも不思議でないことには、宣伝をした氏子までが、どうやらこの頃では巴御殿を、超自然的建物と思うようになった。
ところがほんの最近に至って、驚くべきことが出現した。
金儲けの種で信仰のマトの、巴御殿に借り手がつき、かれらの縄張りを犯したことである。いよいよ一騒動なくてはならない。
喧嘩するにもゆするにも、あらかじめ敵の状況なるものを、知っておかなければ都合が悪い。巴小路の住人ども、巴御殿の借り主を、そこでこっそり探ってみた。天草殿と呼ばれている、一見貧弱な老武士と、築土新吾と呼ばれている、威風堂々たる中年の武士。それから煮焚きをするお婆さん、住み手はわずか三人と知れた。
「なんだ、たった三人か、二本差しなんかにゃあ驚かない。ねじ込んで行け、ねじ込んで行け」
すっかりなめて掛かったが、間もなく見当がはずれてしまった。なるほど住み手は三人ではあるが、続々と異風の人間が、出たりはいったりするからで、武士姿の者、町人風の者、無頼漢風の者、旅姿の者、しかもそれらが揃いも揃って、足の運び眼の配り、普通尋常な者ではない。
「驚いたなあ、何者だろう? どっちみち大変な奴らしい。こいつアちょっと手が出せねえ」残念ではあったが巴小路の住人、指をくわえて引きさがってしまった。
さてある日の午前である。この物騒な巴御殿の前へ、姿を現わした武士があった。
「四谷左門町播磨守様の裏手、黒板塀に巴の印、うむ、この屋敷に相違ない」不思議な傀儡師に暗示を受け、お京を取り返すそのために、やって来た袴広太郎である。
「ご免」と玄関で案内を乞うた。
ぬっと姿を現わしたのは、向こう傷のある兇相の武士。
「どなたでござる。何かご用?」
「拙者は袴広太郎。築土殿に御意得たい」
「ははあ、貴殿が袴氏で。取り次ぎましょう、暫時お待ち」気味悪く笑うと引っ込んでしまった。
「いやな奴だな、笑いおった」あたりを見廻すと庭が広く、樹木が小暗く繁っている。「場合によっては斬り合うかもしれない。立ち木の多いのは結構だ。多勢を相手に戦うには、掩護物が必要だからな」
「袴氏、いざお上がり」同じ武士が現われた。
通された部屋は薄暗く、しけるとみえて黴臭い。しばらくは誰もやって来ない。油断なくあたりを窺っていると、一つ間を置いた奥の部屋で、ボソボソ話す声がした。一つはいかにもいき苦しそうな、確かに老人の声であり、もう一つはまさしく聞き覚えのある、築土新吾の声であった。その話し声の絶えた時、前のふすまがスッと開いた。
「これはこれは袴氏。過日は参上失礼いたした。今日はようこそ参られたな。実は本日人を遣わし、ご招待いたそうと存じていました。なんのご用でおいでだか、それももちろん承知でござる。お京殿のことでござろうな。それにつけてまずおわび、全く失礼いたしてござるよ。お名をかたって浅草から、いわば、誘拐いたしたので。が、それとて例の獲物、あいつが是非ともほしくてな。そこでちょっと小手細工。貴殿最もお大事なものを、いわゆる玉として引き上げましたので、悪くお思いくださらぬよう。ご心配ござらぬ、ご心配ござらぬ。お京様にはマメ息災、機嫌よく笑って遊んでおられる。さてそれで単刀直入に本題に入る、としてもちろんご来駕あられたについては、例の一件物ご持参と存ずる。いざ、お渡しくださるよう。それと引き換えにお京様、早速この場でお渡しいたす。いやここまで考えるには、ずいぶんと骨を折りました。が、結果は成功というもの、有難し獲物が手に入りますかな。貴殿もすばらしくおえらいが、これで拙者も馬鹿でないつもり。アッハッハッいってみれば、狐と狸のばけくらべで、ただ残念には丑みつでない、昼も日中午前ときた。いやまたこいつが新しくてよろしい。が、駄弁はこのくらい、計算勘定しましょう」築土新吾坐ると同時に、相手に物をいわせまいと、勝ち誇った高飛車態度。そればかりか両手を差し出して、いただくように上向けた。早く獲物を載っけろ載っけろ! つまりはたっているのである。
憎い奴とは思ったが怒っては損と広太郎、わざと冷静沈着に、「一昨々日おいでの節も仰せられた獲物という言葉、とんと拙者には合点参らぬ。まずそれから承りたいもので、かかる場合掛け引きは無用。拙者決して嘘は申さぬ。獲物の内容お教えくだされ。もしその上にて拙者の手で、調えられる品物なら、即刻喜んで調えましょう。また手に余る品物なら、これはどうもいたし方ござらぬ。おことわりをしたその上で、今日は拙者も決心して参った。一歩も引かぬ、刀にかけても、きっとお京様をいただいて参る。築土新吾殿、一体全体、獲物というのはどんな物でござるな?」隙を見せては大変である。こういいながら広太郎、相手の顔を睨みつけた。と、築土新吾の眼に、ありありあざけりが浮かんだが、それが消えると怒気となった。
「黙らっしゃい!」とまず一喝、「何をいわれる、馬鹿な話だ。掛け引きしないといいながら、その口で掛け引きするではないか。何、品物を調えるとな? それには及ばぬ、とぼけた話だ。お手前の持っている品物さえ、当方へ渡せばそれでよい。事は簡単、明瞭な話だ」ここで築土、頤をしゃくった。
「な、袴氏、貴殿のことだ。危険至極のわれわれの住居へ、単身やって来られたには、それだけの用意があったからでござろう。それポッポ、懐中にさ、それとも左右の袖にかな、例の獲物があるはずだ。出したり出したり。さあさあ早く」またもや、両手をヒョイと出し、上向けにして煽いだのは、よこせよこせという催促である。
袴広太郎、これを見ると、もういけないと決心した。「おそらく何かの誤解だろう。思い違いをしているらしい。といってとくにもとかれない、一層こだわるは知れている。屋敷はたいして広くはない、築土新吾と先刻の取り次ぎ、奥にいるらしい老いぼれ武士、家内はどうやら三人らしい。斬って家探ししてやろう」膝頭に置いた左の手、そっと股へ引きつけた。「斬りよい姿勢に大けさがけ。右の肩からプッツリと! びっくりするなよ、据え物斬りのいき!」ムックリ立てかけた右の膝、これが動けば左手が鞘、右手が柄へ飛んでゆく。一足踏み出せば抜き打ちだ! 「むっ」と気合をこめたとたん、奥から老人の声がした。「築土よ築土よ、あぶないぞよ。それ肩だ、右の肩」
飛びのく築土。広太郎は、ギョッとしてピタリと端坐した。と、正面の唐紙が、スルスルと一方へ開いたものである。現われたのは一人の老武士。やッ、その風采のあがらないことは! 年は六十以上でもあろう。せいの高さは五尺にも足らず、握り拳ほどの小さい顔、色は蒼く皺だらけ、口を見ればみつくちである。袴なしの着流しに、小刀一本たばさんでいる。わずかばかりの胡麻塩の髪を、総髪にしてうなじに取り上げ、紫のひもで巻き立てている。
チョコンと坐ると丁寧に一礼、それからしゃべりだしたものである。
「ようこそおいで袴殿。愚老は浪人天草時行。以後はな、どうぞ別懇に……、それはそうと、広太郎殿、剣は柳生を学ばれたな。立派なもので、よい気合だ。愚老すっかり感心いたした。築土築土、大馬鹿者め! お前など十人かかろうと、広太郎殿に及びもつかぬ。威張るばかりが能ではない。以後は注意、人を見るがいい。もうお前は斬られたようなものだ。貝殻骨から胸板まで、サーッと一太刀。アッハッハッハッ、すると生命がなくなってしまう。がしかしだ、広太郎殿、貴殿もまだまだちょっとお若い。気合をこめてぶった斬る、あれはな、普通のやり方で、名人となると反対だ。気合を押さえて斬ってしまいます。それはとにかく、さて広太郎殿……」時行ヒョコヒョコと膝を進めた。
膝を進めた天草時行、硫黄火のように青光る眼を、じっと広太郎へ注いだが、
「正直に申す、広太郎殿。愚老は貴殿の気性が好きだ。ふすまを隔てて、お聞きした五音、上相声で清らかでござった。内心にいつわりをたくわえぬ証拠。そいつが築土にわからぬとは、ヤクザ者だな、このべら棒! 以後は注意、よろしいかな。……そこで広太郎殿へ申し上げる。いやはや、どうもとんだ粗相、愚老をはじめわれわれ一味、貴殿を誤解しておりましたよ。というのはいわゆる獲物、それをてっきりお持ちだと、……しかし今ではハッキリわかった。お持ちでない。そうでござろう。そこで方向転換だ。こいつどうも仕方がない。ついては」と今度は一膝下がった。「なんと貴殿のお力をもって、イスラエル教主、島原城之介、そいつの手から秘蔵の巻軸それを取り返してはくださるまいかな?」
「イスラエル教主、島原城之介? 秘蔵の巻軸と仰せられるは?」広太郎ゴックリつばを呑んだ。なんともいえない奇態な妖気、それが天草という老武士から、陰々とせまって来るからである。
「うむそいつもご存知ない? これは当然、そうでござろう。お話し致す。城之介とはな、貴殿が捕えて同心へ渡した、あの白衣の修験者でござる。そうしてそやつが持ってるので、その巻軸というものをな」
「が、すでに修験者は、同心の手から奉行所へ」
「なるほど渡っているかもしれない。しかしそこには裏があります。地獄の沙汰も金次第、いやな例だが引かねばならぬ。貴殿お家はたいへん裕福、それ、そいつを利用して」
「わいろを使えとおっしゃるのか?」
「いや、そこまでは指図いたさぬ。潔白のご気性、おいやであろうな……では、やむを得ぬ。お眼にかけよう、貴殿、魂のおののくものを」
天草時行スッと立ち、ふすまを開けると、縁へ出た。
「広太郎殿ついておいで」
縁の行きづまりに一つの部屋、それを通るともう一つ、そこのふすまを引き開けた。昼だというのに暗いのは、四方たてこめているからで、ほんのり照ったのは雪洞の灯。脇息により、手は合掌、開いたひとみで洞然と、天井を見ている若い女、間違いはない、お京である。
「逢ってお話しなさるがよい」トンと広太郎を突きやると、天草時行立ち去ってしまった。
走り寄った広太郎、お京の肩を抱いたものである。
「拙者でござる袴広太郎! お助けに来ました。もはや大丈夫! お京様! お京様! お京様!」
だが返辞をしなかった。何かをじっと見詰めている。と、やがてあこがれるように、
「美しい殿堂、毛皮の幕屋、祭壇で小羊がたかれています……広い沙漠、日が沈みました。青いお星様、十字星……地中海の波が二つにわれ、そこを通って行く幾十万! 先頭に立ったモーゼ様! 山へお登りになりました。雲が蔽うて雲の中から、黄金の声が聞こえます。天使様のお声、ガブリエル様の……妾は行かなければなりません! 呼んでおいででございます! ──イスラエルの神ににえ捧げようぞ! 呼んでおいででございます……」
お京、ふっと声を切り、顔を横向け広太郎を見た。「あっ、あなたは広太郎様!」
「気がつかれたかな、お京様!」
が、やっぱり駄目であった。お京の顔が上向くと、恍惚としていうのである。
「花に蜜蜂、野には牛乳、遠い遠い小亜細亜。美しい美しい約束の国、そこへ行かなければなりません」
「気が狂ったのだ! 発狂だ!」
「そうではござらぬ」と奥の部屋から、天草時行の声がした。
「呪縛でござるよ、城之介のな!」
今日の浅草千束町、慶安時代には何といったか? 洗足町といったらしい。今日も千束町は魔窟だが、その時代も魔窟であった。だがひどく色っぽい魔窟で、百鬼横行するけれど、おおかた美しい白首なのであった。そういうところも今日に似ている。小料理屋、私娼窟というようなものが、大いにはびこっていたのである。洗足町の一ところに、碁盤目小路という一郭があった。文字通り小路が碁盤目のように織られ、迷路をなしているからである。
碁盤目小路からやや離れ、今日でいえば象潟町、その辺に風変わりの小料理屋があった。その屋敷は南蛮屋、その料理は南蛮流、すなわちスペインやオランダ流の珍な料理を食べさせるのであった。だがもちろん上流ではなく、今日でいえば縄のれん、いや二流どこのレストランで、大衆的ということもできる。店飾りも異国的で、食卓や腰掛けも外国風である。一年ほど前からあるのであるが、最近、素晴しく美しい女が、チョイチョイ店へ出るというので、にわかにワッと人気が立ち、白首、地まわり、ごろん棒、おつにひねったイカ物食い、そういうこれまでの馴染以外、相当立派な侍や、大店の若旦那というような者まで、昨今は出入りをするようになった。
さてある晩のことである。例によって南蛮屋は繁昌していた。二十人近くの客があって、その中に五人ほどの武士がいた。
店とのれんをさかいにし、狭い料理場が出来ていたが、そこに数人の料理番がいてひそひそこんなことを話していた。
「おい、見や見や今夜もいるぜ。薄気味の悪いリャンコめが。あのあから顔の四十年輩、あの侍を知ってるかい」
「知らなくってよ。お茶の水だあ」
「せいの高い侍は?」
「あれは本郷三好坂だよ」
「本郷六丁目も来ているぜ」
「ふふん、浅草七軒町もいらあ」
「おっと、最上の浪人もいらあ」
「全くもってご精が出るな、とっ代え引っ代え飽きもせずに、やって来るのはいいとしても、時々ひどく乱暴するので、たいして有難い客ではないよ」
「有難くないばかりかい、迷惑至極というものだ。あいつらが来るのでいやがって、足を遠のかせるお客様もあらあ」
「だがあいつら、自分たちの素姓が、わからないと思っているのだろうか。もしそうならトンチキだな」
「江戸じゃあ一流の人物だ、まさかそうとは思っていまい。顔の知れている奴らだからな」
「親方にちょっと知らせておこう」
ひとり奥の方へはいって行った。
店では五人の侍が、チビチビ杯をなめながら、あたりの様子をネメ廻していたが、
「これ、ごろん棒、お前はどこだ?」お茶の水と呼ばれた四十年輩の武士が、横手に腰掛け酒を飲んでいた、地廻りらしいいなせの男へ、ぶっきらぼうに話しかけた。
「見れば立派な体格だが、それに年もだいぶ若い。働き盛りだ、働け働け。酒などあまり飲まぬがよい。貴様五本もたいらげたではないか。もっともおれは十本たいらげた。飲みたければ酒も飲むがいい。が、なるたけほかへ行って飲め。南蛮屋では飲まぬがよい。ひどくボルよ、この店はな。さあさあ帰れ、いいかげんで帰れ。いずれ女房もあるだろう。帰って女房を可愛がれ。たいしてべっぴんでもあるまいがな。貴様のつらも相当不出来だ。おそらく似合いの夫婦だろう。……なんだ、そのつらは、睨みおったな」どうやら喧嘩を売るらしい。
相手が悪いと思ったのか、地廻りらしいいなせの男は、にが笑いをしてだまっていた。かさにかかったお茶の水という武士、
「これ、貴様、無礼千万だぞ。武士たるものに言葉をかけられ、返辞をしないとは何事だ。おしか、それともつんぼなのか」
「うるせえヤイ! 三ピンめ!」
ここらあたりの地廻りときては、武士などには驚かない。とうとう爆発させてしまった。「何がなんだと、いらざるお世話だ! おれの金をおれが使うのだ。てめえの厄介になりゃあしめえし、女房のことからおれのつらまで、なんの用があって詮索するんでえ。どこで飲もうとおれの勝手だ。ボルかボラねえかそんなことはてめえ達よりおれの方が詳しい。見りゃあ相当のなりをしているが、田舎者だな。銀流しだな、ゆすろうとかかっているのだな。ヘンべら棒、その手に乗るか、コウこの辺の地廻りはな、雑種とは違う江戸ッ子だ。火事が好きで喧嘩が好き、女が好きで酒が好き、大名小路広小路、伊勢屋稲荷に犬の糞、江戸紫から錦絵まで、嫌えなもなあ一つもねえ。が、一つある。二本差しよ。こいつだきゃア真っ平だ。『さようしからば』『貴公尊公』『雨天で降雨』『快晴で好天気』、アク抜けねえセリフを使いやがって、どこへ行ってもモテもせず、それでふだんに威張りゃあがる。結構なご府内をゴミゴミと、きたなくするなあてめえ達だ! どうするか見やあがれ罰あたりめ!」熱澗をサッと投げつけた。あたったかというにあたらない、ヒョイと身を開いたお茶の水という武士、相手の利き腕をつかんだが、
「元気がいいの。うん、ごろん棒」
「いてえいてえ。おおいてえ!」いなせの地廻りもがき出した。
「おそろしい力だ、おおいてえ! こんなに強いとは知らなかった。ワーッ、いけねえ、人殺しいい!」
「これこれ何だ、野暮な声を出すな。殺しはしない、折っぺしょるだけだ。取ったこの手を逆にひねる。するとメリメリと音がする。骨のつがいが離れるのさ。と腕がブランコになる。身体髪膚父母に受く、毀傷せざるは孝のはじめ、こんな格言もむだになる、可愛い女もだくことができない。生まれもつかぬ片端者! よいか、ごろん棒、折っぺしょるぞ」
いなせの地廻り真っ蒼になり、フーフー息ばかりついている。
「それとも拙者の忠告を入れ、今後南蛮屋へは来ないようにするか。誓えばゆるす。どうだ、どうだ」
「へえへえ承知致しやした。もう来ることじゃあございません。旦那様え、ごめんなすって」
「うんそうか、それなら許す。が、なんとかいったっけな、大名小路広小路、伊勢屋稲荷に犬の糞、江戸紫から錦絵まできらいなものは一つもねえが、二本差しだけは好かねえか」
「ありゃあ無駄の形容詞で」
「お前が本来むだじゃあねえか」
「そんなあんばいでございます」
「むだな人間というものは」トンと門口から突き出した。「西の海へと、サラーリ、サラリ」
「お払い!」とそとで叫んだのは、とんだ場違いの江戸ッ子である。
とうとう一匹つまみ出してしまった。バラバラと四、五人が立ったのは、そば杖を恐れて逃げたのだろう。
「いや、お茶の水面白かった」こういったのは最上家の浪人。
「さあ飲んだり、大きい奴で」グイとどんぶりを突き出したのは、本郷三好坂といわれる武士。と、一人ヒョイと立った。浅草七軒町と呼ばれている武士で、部屋の片隅に腰かけている、商家の若旦那とも思われる、町人のそばへ寄って行った。
事件が起こるかと思ったところ、何にも事件は起こらなかった。武士が寄って来ると見て取るや、「ヒャッ」とわめいて若旦那、金も払わずに飛び出してしまった。損をしたのは南蛮屋で、がっかりしたのは七軒町という武士。
「骨のある奴は一人もないな」ギロギロあたりをネメ廻す。と、七、八人バラバラと、急いでそとへ逃げ出してしまった。だが、その時不幸にも、一人の武士がはいって来た。成長した陰間の臼井金弥で、悪い所へ来たものである。髪が乱れ、衣裳が着崩れ、ちりをかぶっているところを見ると、まるで永旅でもしたようだ。色こそあおざめているけれど、さすが縹緻を自慢するだけあって、眼に立つほどに美しい。トンと腰かけにひじを突いた。「これ女中、お銚子」気取ることだけは忘れない。「オホン」とイヤな咳をした。しかしすぐにガックリとなり、茫然として考え込む。
五人の侍うれしがってしまった。
「おい、三好坂、お前ゆけ」
「よろしい」というと立ち上がり、ニヤニヤ笑いながら近寄った。「あいや、お武家。お酌しましょう」
驚いた金弥、眼をあげると、三十八、九の立派な武士、向こう側に腰かけている。
「これは恐縮、いやそれには……」
「ご遠慮なさるな」とドクドクとつぐ。「南蛮屋とはおなじみかな」
「なかなかもって、今夜がはじめて。それも偶然通りかかり」
「ははあさようで、それなら結構、こんな所へは来ない方がよろしい。お見受けすればご若年。それにどうやら浮かないご様子、失礼ながら失恋かな?」沈着な声でズケズケと聞く。
すると金弥は眼を見張ったが、「ほほう、どうしてご存じで?」
「アッ、やっぱり失恋か。それはそれはご同情に堪えぬ。玄人でござるか、素人でござるか?」
「許婚でござる、拙者のな。旗本の長女で名はお京。昨日誘拐されましたので、それで拙者江戸市中を、尋ね廻っておりますので、お心あたりはござらぬかな?」金弥真面目に聞いたものである。
「さようさ」といったが三好坂という武士、かえってアベコベに面くらったらしい。
「いずれべっぴんでござろうな」
「いかにもさよう。天女のようで」
「いやいや拙者の思うところでは、弁天様のように美しい筈で」
「お言葉どおり、弁天様のようで」
「だが少々浮気の方でござろう」
「これは無礼!」と金弥おこった。
「貞淑無類、珍しいほどで」
「いやいや拙者の考えでは、浮気者の大莫連。それで許婚の貴殿を棄て、仇し男と逃げた筈でござる。……競争相手はなかったかな?」
「さあ」と金弥、なぶられるともしらず、「一人ありました。旗本の次男で」
「それそれそいつが仇し男でござる。おそらく今ごろは手に手を取り……」
「いやいや断じて、そんなことはござらぬ。実はその男も拙者と同じく、探し廻っている筈で」
「などと安心していると、貴殿、煮え湯を飲まされますぞ。そいつが曲者、討ち果たすがよろしい」
「さようかな? そうだろうか?」
金弥うかうか乗りかけた。「ここに一つ残念なは、そやつの方が、武道では……」
「ははあ、貴殿よりできますかな」
三好坂という武士、またニヤニヤ、
「さようさ、全く、打ち見たところ、貴殿はご縹緻はよろしいが、ちとそのどうも、ご柔弱のようだな」
縹緻がよいといわれたので、またもや金弥オホンと咳。衣紋を直したものである。
「失礼ながら貴殿には、寺侍でござろうの?」そろそろ無礼なことをいう。
「とんでもないこと、旗本でござる」
「ははあ、徳川ご直参か」
「しかも安祥旗本で、家柄にかけては、負けを取らぬ」
「それは、えらいの」とだんだん無礼。「で、ご知行は何千石で?」
「む」と金弥つまったが、「そういう貴殿は、お大名かな?」
「拙者、天下の浪人でござる」むしろ凛とした声である。
「どうしたどうした三好坂」こういいながら四人の武士、ドカドカかたまってやって来た。
「何さ、ここにいるご仁がな、あんまり縹緻がお美しい。寺侍かと聞いたところ、安祥旗本とおっしゃるので。どうかな、旗本に見えるかな?」
「どれどれ一見。これは美男! ははあこいつ、河原者だな」
「どれどれ一見。これはヨカ稚児。陰間でござろう、それに相違ない」
「どれ拙者にも見せてくれ。あッ、なるほど。これは素的。女であろう、変装した女」
「まあさ、拙者にも見せたり見せたり。ウフッ、まさしく両性だな」
金弥ガタガタふるえ出した。「無礼でござろう、無礼でござろう!」
「しゃれた事を申せ! 変性男子! それ方々、この化け物の、腰の物を抜いてみようではないか」
「それがよろしい。なまくら拝見」一人が金弥の刀を抜いた。
「感心感心、さびてはいない。しかし曲げると曲がるやつだ」
ガランと往来へ投げ出してしまった。
「後学のため見て置かっしゃい!」最上の浪人と呼ばれる武士、自分の大刀をギラリと抜いた。
「わかるかな、粟田口藤四郎!」
すると続いて七軒町という武士、同じくギラリと引き抜いた。
「来国光で、切れるぞよ!」
続いて三人が引き抜いた。
「大青江だ! よっく見ろ!」
「すなわち鳥飼国俊だ!」
「驚いてはいけない、松倉郷!」
真物かにせ物か知らないが、名に聞こえた五本の刀、ズラリと並んだものである。
「もうよかろう」といったのは、お茶の水という武士であった。「さあさあ帰れ。今後は来るなよ」
トンと金弥を突き出した。
あとには客は一人もいない。みんな逃げ去ってしまったらしい。
「これ、小女。酒を持って参れ」
この前後から十二、三人の人影、家の奥から店をながめ、打って出ようとひしめいていたが、どうやら誰かがとめたとみえ、いつか姿が消えてしまった。
「酒はどうした。酒だ酒だ!」
「もうよかろう。勘定だ」
すると小女が現われた。
「へえ、五両いただきます」
途方もない高い値段である。またゴテルかと思ったところ、例のお茶の水と呼ばれた武士、だまって小判を五枚並べた。一斉に立ち上がって出ようとした時、門口から客がはいって来た。ほかならぬ袴広太郎である。
どうしてこんな南蛮屋などへ、袴広太郎は来たのだろう? やはり金弥と同じように、偶然入り込んで来たのだろうか? それにしては様子が違う。何か一心に思い詰めたような決心の色が明らかに眉宇の間に現われている。思うところあって来たらしい。しかしそれはとにかくとして、南蛮屋の店へはいった以上、安穏ではいられまい。
乱暴な五人の侍が、見のがしておく筈はない。はたして五人の侍は、広太郎を見ると顔を見合わせ、元の席へ引き返した。
ここは南蛮屋の奥座敷、屋号に似つかわしい南蛮風の部屋で、青い絨緞、オレンジ色の壁、白堊の天井、黒檀細工の円卓、ギヤマン細工のランプなど、この時代には珍しい、異国趣味が漂っている。巨大な寝椅子に横になり、コロコロコロコロと音を立て、精巧な水煙草の吹管をくゆらしているのはイスラエルのお町で、この前に椅子に腰かけているのは、南蛮屋の主人でお町の同志、例の早引の忠三である。スペイン産の漆黒の猫が、部屋をグルグル歩いているのも、南蛮産の純白の鸚鵡が、もらった煎餅をコチコチと、鋭いくちばしで、壊しているのも、ちょっと風変わりの光景である。鉢植えの蘭は満開で、芳香がほのかに漂っている。古風の兵船を描き出した、大型の油絵が金ぶちにはめられ、壁の一所にかけられてあるのも、また好もしい異国趣味である。と、猫がノソノソと、鸚鵡の籠の真下へ行き、ミーンと一声やさしく呼んだ。と、鸚鵡は煎餅を一ひら床へ落とした。うまそうに猫がそれをたべる。鸚鵡と猫とは親友らしい。
ガラガラと器物の壊れる音が、店の方から聞こえてきた。
「チェッ、奴らまだいやがる。乱暴狼藉の仕放題。畜生ほんとにムカムカするなあ。どうかしてやらなけりゃあ気が済まねえ。これまでにした店だって、きゃつらのおかげでさびれてしまう。……あねご、勘考はあるまいかね」
「うっちゃってお置きよ、どうなるものか。今があいつらの全盛時さ。あばれ放題あばれるがいいや、そのうちにこっちが勝ってみせる」
「などとおちついているうちに、口があいたらどうします」
「妾あ大丈夫と思うがねえ、そんな気遣いはまずなかろう。相手も大変な人間だが、あいつだってあのとおりの曲者さ、痛め吟味では口もあくまい」
「あっしにゃアなんだか心配でね。どうでしょう、いっそのこと、荒っぽい料理に取りかかっては」
「そいつこそ本当にあぶないよ。だって忠公そうじゃあないか。味方に五百人の人数があれば、敵には千の人数がある。それに味方がどうかというに、残念ながら烏合の衆さ。町人、百姓、ごろん棒、女子供に食い詰め浪人、一束いくらっていう人足だよ。ところがお前、あいつらときたら、一騎当千の武者だからねえ。それに親玉が浪人ながら、十万石のくらしをする、兵法の先生と来たひにゃア、どうあがいたって歯は立たないよ。まあまあもう少しながめていよう、待てば海路の日和ってね。古いようだが金言さ。金言は無駄にはできないよ。……ネロや、ここへおいで」
ミーンとなきながらスペイン猫、寝椅子の上へ飛び上がった。身体をうねらせ抱く拍子に、裾から緋縮緬がはみ出した。
「眼に毒だ、殺生だなあ」忠三、横っちょを向いたものである。
「へん」とお町はあざ笑った。「そう緋縮緬がこわくては、太物屋の前は通れないぜ」
「それがさ、並みの緋縮緬じゃあない。あぶらの乗った真っちろな、ピンと張り切ったはぎが二本、鎮座ましますと思うとね、こう胸の辺がモダモダしまさあ」
「粂仙の口だね。きたない仙人だよ」
「惜しいものだ」と早引の忠三、にが笑いをして慨歎した。
「あねごも今年ははたちの筈だ。いろをこしらえていい頃だ。兼好さんがいってまさあ。色を好まねえ阿魔っ子は、底のねえひしゃくに似ているってね。どうもあねごはがさつでいけねえ」
「呆れもしないよ、ひしゃくだとさ。玉の杯底なきごとしさ。それにお前、阿魔っ子じゃないよ」
「どっちにしても似たようなものさ。なにしろあねごは落胤には見えねえ」
「そりゃあそうだろう。わざとしているんだもの。根からの平民という奴は、不思議にひどく高踏がるし、貴族うまれの人間は、あべこべに平民になろうとするよ。でもね」とお町ぼんやりと、あこがれるように眼を据えた。「いい相手さえ目つかったら、妾アいつでも恋をするよ」
「どんな男がお好きかね?」
「ああ真っ先にいって置こう。お前のような男じゃあないよ」
「ご丁寧でげす。さてそれから?」
「色の浅黒い好男子さ」
「アレ、おいらに似ているぜ」
「武道の方も達人でね」
「中条流の早縄はえ?」
「金持ちでなけりゃ嫌いだよ」
「あッ、こいつだけがはずれている」
「三拍子そろった若い男さ」
「飲む打つ買うの三拍子なら、めったにヒケは取らねえが」
「さあそいつだってあぶねえものさ、飲むときまって管を巻くし、打つと勝って来たためしはなし、買うとむやみに振られるしさ」
「ワーッ、あねご、コキおろしましたねえ」
「冗談おいいな。正直なところさ」お町グルリと腹ばいになった。薄物を透して二本の足が、かかとからスンナリと伸びている。ワングリした腰つき短い胴、たくましくはあるがととのった肩、日本人放れのした体格である。伸ばした腕に袖がまくれ、二の腕がムッチリとあらわれている。
見ないような様子はしているが、忠三こっそり眼を使い、はだけて見える乳の辺へ、いやな笑いを送っている。二つの乳房に押し伏せられ、もがき廻っているスペイン猫が、どうやら忠三には羨ましいらしい。
「おいらも猫になりてえなあ」こんな事を考えているらしい。
「無理あねえな」と忠三がいった。「島原城之介がコロリと参り、あねごの味方になったのはね」
「ふふん、あいつもお前に似ている」
「惜しいことをした。ちょっとの違いだ。巻軸がこっちへはいったものを」
「今さらいったってどうなるものか」
「あねごにしちゃアまずかったね。すぐに巻き上げりゃよかったのに」
「いくら好色の城之介でも、あれほどの物が手にはいりゃあ、ちょっと渡すのが惜しくなるものさ」
「そのうちとうとうとッつかまってしまった」
「なんとかいったっけねえ、とっつかまえた奴は?」
「袴が広いとかいう奴さ」
「ああ袴広太郎か」
「あねご?」と忠三、声を強めた。
「あねご」と忠三、声を強めたが、「どんなものでしょうね。こんな時にこそ、お館におすがりになっては?」
「それがさ、どうも気が進まないよ」イスラエルのお町、気がなさそうに、「せっかくここまで仕上げたんじゃアないか。それを今さらおすがりしては、甲斐性がないというものだよ」
「機会を逃がすと大変だがなあ」
「うるさいねえ。心得ているよ」
「いい手段でもおあんなさるので?」
「いったじゃアないか、もうさっきに。待てば海路の日和とね」
「私にゃ難船が眼に見える」
お町、今度は返辞をしない。
「わがままでさあ、わがままですよ。ちゃんと膳立てをしてお招きした、あっしの苦心は買ってくれず、待てば日和は悠長ですねえ。それもさ、他人のためじゃねえ、みんなあねごのためですのにね。永い念願の巻軸が、すぐ手にはいるじゃありませんか。ちょっとおすがりしさえしたらね。……お母さんのうらみ、あねごの心外、そいつもまんざら知らねえじゃあねえが、まあまあそんなものはこの場合、そっとしまって置くんですね。……いけませんかね。どんなもので? ……オヤオヤ、なんだい泣いていらっしゃらあ! ははあ、お母様を持ち出したので、それで愁嘆なさるんですね。やり切れねえなあ。まるで赤児だ。オオ、よしよし泣くな泣くな! 禁物でげす、涙はね。あねごにそうやって泣かれると、どうやらあっしまで悲しくなる──とこういうといいんですが、実は反対にうれしくなるんで。というのは泣いたとたん、倍も綺麗に見えるんでね、緋縮緬よりなお素敵だ。全くあねごは変ですねえ。笑ってよく泣いてよく、それで怒ってもいいんですからねえ。あッ。なんだ、泣きやんじゃッた!」
「なんだい忠三、いいかげんにおしよ」涙をふくとイスラエルのお町、グルリと一つ寝返りを打った。喜んだのはスペイン猫で、乳房のおもしから逃げ出してしまった。と、お町、口をすぼめ煙りを吐いたものである。
「あのね、いずれはそうなろうよ。お館様のお力に、おすがりするようになるだろうさ。それよりほかに今のところ、いい手段はないのだからね」
「そうでげしょう、そうですともさ。そうきまったらさあすぐに」
「ところが駄目さ、まだ今はね。……誰かいっそ強い押し手で、押し立ててくれたら飛び込んで行くよ」
「え?」といったが忠三には、どうやら意味が飲み込めないらしい。「なんのことでげす、押し手とは?」
「はっきり妾にもわからないが、なんだかそのうちに、もうすぐにも、何かが妾の前へ来て、妾の心をかり立てて……」あこがれるように茫然と、白堊の天井を見たものである。
「ははん」と忠三、今度はわかった。「いけねえなあ、大望の邪魔だ」
「何がさ?」とお町、眼を返す。
「やっぱりなんだ。玉の杯には、底がねえ方がよさそうだ」
コツコツと戸を打つ音がした。
「ああいいよ。はいっておいで」
はいって来たのは料理人、やはり仲間の一人である。
「イスラエルのあねご、お客様で」
「え、私に客だって? おかしいねえ。だれだろう?」
「立派なお武家様でございますよ」
「あっ、驚いたなあ、もう来やがった」これは忠三のつぶやきである。
イスラエルのお町を訪ねたのは、ほかならぬ袴広太郎であった。帳場の前へたたずみながら、ジリジリとして待っている。
「逢わなければならない。どんなことをしても。まだかなまだかな、どうしたんだろう?」
五人の不気味の侍が、ジロジロ見ているのにも気がつかない。
「どうしても逢ってお願いする。是が非でも納得させなければならない」地団太を踏むばかりである。
発狂ではござらぬ。呪縛でござる。さよう島原城之介のな。さがして城之介にお逢いなされ。呪縛を解くようおたのみなされ。お京様の狂乱はなおりましょう。その節巻軸を奪い取り、当屋敷へご持参なさい。お京様をお渡し致しましょう。……こういう天草時行の言葉を、ほとんど夢中で聞くようにして、巴御殿を飛び出したのは、今日の午前のことである。
何より真っ先に訪ねたのは、懇意の与力勘十郎の屋敷で、広太郎はこういってたのみ込んだ。
「先夜拙者手ずから捕え、通りかかりの同心衆へ、お渡しいたした白衣の修験者、島原城之介と申す者に、特別をもってこっそりと、牢前にても結構でござれば、おあわせくださることなりますまいかな?」
それに対する勘十郎の言葉は、まことに不思議なものであった。
「何を袴氏仰せられる。修験者とか島原城之介とか、さような囚人はおりませぬよ。貴殿捕えたと仰せられるが、ではその後町奉行所より、ひきあわせ人として呼ばれましたかな? 事実同心に渡されたとなら、それに相違ござるまい。がおそらくその同心は、凶徒の一味、にせ同心でござろう」
びっくりしたのは広太郎で、途方にくれざるを得なかった。思い余って市中をさまよい、車坂まで来た時である。よいやみの中からものの怪のように、例の傀儡師が現われた。
「浅草へおいでなさりませ。象潟町の南蛮屋、そこにいるイスラエルのお町様。その方におたのみなさりませ」こういうとフッと消えてしまった。
で、訪ねて来たのである。
「あの傀儡師何者だろう? まるで運命の神様のようだ。吉凶共に先ぶれをする。イスラエルのお町とは何者だろう? 善か悪か不安だなあ。逢えばわかる逢えばわかる。善悪にかかわってはいられない。少しでも力になる者なら、たのんでたのんでたのみ込み、どんな犠牲を払ってでも、お京様から呪縛を解き、あの屋敷からつれ出さなければならない。が、それにしても驚いたなあ、あの時の同心がにせ物とは。はたして島原城之介、どこに隠れているのだろう? イスラエルのお町とかいうその女、城之介のありかを知っているのかしら?」
取り次ぎをした料理人、奥へはいったまま出て来ない。
「まだかな、まだかな、どうしたんだろう? ……ああそれにしてもお京様、なんという境遇になったんだろう。あのままでは気違いだ。一日遅れれば一日だけ、悪化するに相違ない。……それに気味の悪いあの屋敷。それに気味の悪い天草という武士。よしや呪縛はなかろうと、あんな屋敷へ入れて置いたら、本物の気違いになるだろう。……遅いなあ、どうしたんだろう? 逢わなければならない、逢わなければならない。……逢ったらおれはこういってたのむ。費用も惜しまぬ。不義に心をまかせてもいい。どんなのぞみにでも応じましょう。もしも可憐なお京様を、正気にお取り戻しくだされたら」
「お逢いなさるそうでございます。さあさあどうぞお上がんなすって」
取り次ぎの者がこういった時、はき物をぬぐのももどかしく、広太郎は座敷へ飛び上がった。
店を通ると廊下であり、その突き当たりに別棟があり、そこの扉が開いた時、広太郎思わず「これは?」といった。南蛮屋の部屋の様が、広太郎の眼を驚かせたのである。
見知らぬ訪問者を怒ったかのように、スペイン猫が背を持ち上げ、ガリガリとつめをといだのも、金属性のなき声を、籠の中で鸚鵡が立てたのも、広太郎を少なからず驚かせた。しかしもちろんそれ以上、ひとみの色と皮膚の色とが、異国人種の伝統を伝え、その他は日本人と変わりがない、妖艶な混血の若い女が、部屋の中央に立っていたのは、広太郎にとっては驚異であった。
「花ちゃん花ちゃん、だまっておいで」
イスラエルのお町はいったものである。すると鸚鵡がなきやんだ。
「ネロやネロや、あっちへおいで」
すると猫が立ち去った。
「お掛けなさりませ、袴様、……妾がお町でございます」
底力のある銀声! と、くちびるがほころびた。柘榴色をした真紅のくちびる! その間からのぞいたのは、磁器のように艶のある真っ白の歯! ムッと感じられる肌のにおい! だが室の中を充たしているのは、芳しい蘭のかおりである。
ああ優秀なるバンパイヤ! さすがの広太郎も圧迫を覚え、じっと立ちすくんだものである。
「だが大丈夫だ。この女なら! どんなことでもかなえてくれよう」
同時に心の片隅では、安心を覚えたものである。
しかしはたして広太郎にとり、イスラエルのお町と逢ったことは、そんなにも幸福なことだったろうか?
しんと更けた浅草界隈、店々は閉ざされ燈火は消え、通る人さえまばらである。と、スタスタと一つの人影、象潟町の方角から、碁盤目小路の方へやって来た。ふと迷い込んだ碁盤目小路、さあ早速には出られない。行っても行っても小路である。行っても行っても四辻である。鳥の巣のような小さな家、それがビッシリ並んでいる。「これは困った」とつぶやいた。それは袴広太郎であった。南蛮屋からの帰りであろう。
一つの辻をまがったとたん、「参るぞ!」という声がした。同時に人影、黒々とおどり、サッと太刀風が頬にふれた。飛びしさった広太郎、家の外壁へ背をつけた。
「これ、何者だ。人違いをするな。拙者は旗本、袴広太郎。怨みを受ける覚えはない!」
柄は握ったがまだ抜かない。暗中の敵を睨みつけた。
「ふふん」とあざ笑う声がした。
「袴広太郎、まさしく承知。さあ出て来い、出られるかな」にくにくしいおちついた声である。星影で見れば大上段、辻の真ん中に立っている。感覚でわかる、その構え、容易ならない強敵である。
「袴と知ってかかって来たか。わけは知らぬが是非に及ばぬ」
気息を調べる忍び声、こういうと広太郎はスッと抜いた。
「盗賊かな、遺恨かな? 島原城之介の一味かな? 困ったものだ。ちと手強い」前足を折り、後足を敷き、敵の胸まで肩を落とし、スルスルと進むは柳生流の下段、二星を取って勝とうという、すなわち沈龍の構えである。
沈龍の構えで広太郎、スルスルと辻まで寄せて行った。左手を差し向けさあ斬れという、一面誘いの構えでもある。あわい一間、そのとたん、敵の体形ユラリと変り、スッと上段から青眼になった。「来るな!」と感じた一刹那、果然左肩へ斬ってきた。と待ち設けた広太郎、サッと車に斬り返した。身体のひねりに従って、おのずから左肩が後へ引き、ピッタリ姿勢が立ち直る。ギョッとしてしりぞく敵に乗り、残心を勝つ心持ち、サッと右腕へ太刀をつけた。敵もさる者スッと退く。足踏み違えた広太郎、息もつかせず左腕を取る。が、こいつも引っ外された。と、ツツ──と二人ながら、前後へ退いたものである。あわい二間、双方無言、互いに気息をととのえる。
とまたジリジリと寄り合った。相手は青眼、その太刀先、三寸へわって太刀をつけた。間一髪、横手払い、チャリンと払った敵の太刀。そこへ摺り込んだ広太郎、またダッと車に斬る。どうかわせたか左身を入れ、敵はピッタリ受け止めた。「しめた!」と思った広太郎、智見妄病を払うという、禅の心にのっとった、当流での「斬釘截鉄」きびしく右腕へ打ち込んだ。が、こいつも駄目であった。ものの巧みにかわされたのである。驚いた時には敵の姿、どこへ行ったものか見えなくなった。
「素早い奴だ。業も巧み、一流の達人。何者だろう?」決して油断はできなかった。辻の四方を見廻してから、家の外壁へ背中をつけ、そのままゆるゆると横歩き、辻を一方へ曲がって行った。とまた同じような辻へ出た。
「参るぞ」
という声がした。全くちがった声である。二人目の敵が出たらしい。辻の中央に黒々と、大兵の武士の姿が見える。
「また出たな」と広太郎、臍下に太刀を引きつけた。左手の肩を差し向ける。わだかまったる龍である。と、なんという無造作だ、片手なぐりに斬って来た。受けず払わず横へそれず、猛然とした広太郎、真っ向手一杯に打ち込んだ。すなわち長短一味の太刀、三尺の剣はこの瞬間、九尺柄の槍と一変する。「おっ」と叫んだ敵の声! 「これはえらい!」と二度の声! 飛びしさったと思ったが、小路へ避けたか見えなくなった。
用心しながら進んでゆく。と、また四辻へ現われた。が人影は見えなかった。それを一方へ曲がった行く手に人影が立っていた。ちがった声で、「参るぞ!」といった。
辻ではない、狭い小路だ。振り廻すことはできなかった。左手に柄を握り持ち、右手をしのぎへそっとあて、左脇へかい込んだ。敵の心臓を真一文字、駆け入って突かん決心である。太刀は持っても無刀の精神、当流での「捷径」である。ジリジリと進む広太郎。敵はジリジリとあとへさがった。ふたたび四辻へ出た時である。
「えらい気魄だ。まずご免!」いったかと思うと敵の影、一つの小路へ駈け込んだ。そのまま姿が消えたのである。
すっかり汗ばんだ広太郎、筋張ろうとするももを揉み、しばらく様子をうかがったが、ゆるゆると小路を先へ進んだ。碁盤目小路の一郭である。行っても行っても辻である。辻をまわると小路である。どうしても郭外へ出ることができない。またもや違った音声で、「参るぞ」という声が聞こえてきた。見れば四辻の真ん中に、長身の武士が立っている。
「あいやお武家、袴氏とやら。ずいぶん立派な腕前だの。拙者鉄扇にてお相手いたす。ただし後には槍がある、宝蔵院流の鎌槍がな。まずこれだけは逃がれられまい」こんなことをしゃべりだした。寛々たる物腰である。
鉄扇で相手をするという! 小癪の態度と思ったが、すでに現われた三人の敵で、敵の技倆は知れている。いずれも素晴しい手利きである。広太郎にとっては一生懸命、相手の右手の膝のあたりへ、太刀先をつけて構え込んだ。いわゆる、「獅子のほら出」である。「ははあそうか」と鉄扇の武士、片手太刀身を突っ放し横青眼にピタと構えた。さあどこからでも来るがよい! こういいたそうな構えである。構えながらもよくしゃべる。
「さあおいで、なんで来るな。和卜、八重垣、大詰め、小詰め、天狗抄花車、柳生流にも色々ある。さよういろいろの秘伝がな。が要するに一刀両断、三学というのが根本だそうな。とはいえ一刀両断は、柳生ばかりの専売ではない。万般の剣道に共通のはずだ。……堂下に僧侶集まって、一匹の猫を是非するや、南泉という味噌すり坊主、聞いた風にノコノコおりて行き、『猫は元来一物にして、敵味方を争うは迷妄のもと。これさえ切れば光風霽月、手をとってともに山中を行く、これを切るには不動智をもってすべし』などと一応もっともらしく、その実あいまいな屁理窟をつらね一刀両断に切ったのを、柳生三巌という御用剣術家、無門関あたりから引っ張り出し、三学の説をあみ出したそうだの。切る方はそれでもいいけれど、切られた猫はどうするのだ。猫の心も察せずばなるまい。……どだい俺からいわせると御用という文字が気に食わない。御用学者に御用歴史家、御用商人に御用達、御用御用と呼びかける捕り手の奴ばらときたひにはとても悪趣味で鼻持ちがならない。打ち見たところ貴殿などは、だいぶ年がお若いらしい。腐っても鯛、間違っても、御用武士などにはおなりなさるなよ。……ははあどうやらおこったな。太刀先がピリピリふるえてきた。よろしい大いにお怒りなされ。怒らない奴は佞柔だ。ヘラヘラ笑いながら小股をすくい、時々あくどい金儲けをする。こういう奴がいるために、浮世がだんだんきたなくなる。……おッ来るな、さア参れ!」
怒りを発した広太郎、柳生の極意、九ヶ必勝、大のしにのすと水月を越し、こぶしさがりに斬り込んだ。太刀といっしょに身を沈め、敵の打ち物に隠れたが、ドンと飛んだは体あたり、敵もろともに自分の身も、こなにしようとしたのである。
「惜しい」
という声がうしろでした。ハッと広太郎振り返ると、鉄扇の武士が立っている。
クックックッと笑ったが、「まずまず見事、ちと遅かった。それはともかく、うしろをご覧。槍だ槍だ槍が出た」
家の外壁へ背を持たせ、いわれるままにうしろを見た。はたして暗中に人あって、槍に素繰りをくれている。
「袴氏とやら、槍参らせる」さも愉快そうな声である。小路戦に槍を使う、こいつ馬鹿だといいたいが、ピューッと突き出したそのすごさ。あッ、広太郎突かれたらしい! と胸先二寸の距離、そこで槍はピタリと止まり、シューッと後ろへ手繰られた。その鮮かさ、古今無双! 冷や汗をかいた広太郎太刀を青眼に構えたまま、じっと一所へ立ちすくんだ。
グルグルグルグルと闇ながら、眼前に渦巻くものがある。槍だ槍だ槍の穂先だ。眼がそこから放れない。しだいしだいに引き込まれる。
「もう一本!」と声がした。とたんに繰り出された槍の穂先、広太郎夢中で払い上げたが、
「あっ!」と声を筒抜かせた。
なぜ広太郎は驚いたか! 夢中で払い上げた槍の穂先、チャリンと金の音は響かずに、ボコンと木の音がしたからである。「おっ、こいつ稽古槍だ!」
すると哄然と笑い声がした。「さよう、いかにも稽古槍、穂先の代わりにタンポがある。がしかし袴氏、この稽古槍受けられるかな。生き胴はもちろん鉄壁なりとも、拙者が突けば突き通す。うそと思わば貴殿の胸板、遠慮はいらぬ差し出しなされ。蛭巻の辺まで突っこんで見せる。ハッハッハッ、ご所望次第!」
またも闇中にグルグルと、ほの白いものが廻りだした。飛び込めもせず退きもならぬ。するとうしろから鉄扇の武士、
「ソレ袴氏、お行きなされ。飛び込んだり飛び込んだり。たかがタンポ槍、なんでもござらぬ。拙者後見、大丈夫でござる。……いけませんかな、飛び込めませんかな。ははん、さようか、無理もないて。……あいや方々出ておいでなされ! 拝見しましょう、この勝負」
バラバラと辻から現われたのは、三人の武士の姿である。広太郎五人に取り巻かれてしまった。「駄目だ」と考えた広太郎、ガラリ太刀を投げ出すと大地へ坐って腕を組んでしまった。「殺そうと生かそうとままにしやがれ」覚悟のほぞをきめたのである。と見て取った正面の敵、トンと槍を地に突いたが、
「これは感心、よく見抜かれた。どうせかなわぬと思ったら、そういう態度がいさぎよい。ひどい奴になると盲滅法、飛び込んで来て怪我をする。一層の馬鹿は逃げようとする。卑怯者になるとたすけを乞う。貴殿の態度は俎上の鯉、尾鰭をたたんで静まったというもの。勇士でなければとても出来ない。……なんと方々そうではないか」
「さよう」といったのは鉄扇の武士で、つかつかと小腰をかがめた。「失礼いたした、袴氏、悪気でやった所業ではござらぬ。まずご勘弁を願うとして、拙者ことは柴田三郎兵衛。本郷三好坂に塾を構え兵学の講義をいたしおる者」
すると槍の武士が一揖した。「本郷お茶の水に道場を持つ、丸橋忠弥盛幸でござる」
するともう一人が進み出た。「最上家の浪人金井半兵衛」
続いてもう一人の武士がなのった。「浅草七軒町で槍術指南、拙者は加藤市右衛門でござる」
「拙者は奥村八左衛門。住居は本郷六丁目でござる」最後の一人のなのりである。
「実は」と能弁の三郎兵衛、「先刻南蛮屋にてお目にかかり、その際申し上げようと存じたところ、奥へ通られて出て参らぬ。そこで途中でお待ち受けし、甚だ失礼とは存じたが、一つには力量もためしてみたく、またご忠告も致したく、五人代わる代わる立ち出でて、お相手いたしたような次第でござる。……なんのご用で南蛮屋へ、おいでになったかは存ぜぬが、あそこは一種の秘密結社、それにイスラエルのお町と申して、容易ならざる毒婦がおります。ゆえあってわれわれ一味の者は、かれら一党を敵として、従来争って参りましたについては、敵に人数を増させまいと、時々出てゆき邪魔いたします。貴殿におかれても将来は、その辺充分ご用心なされ、彼らの餌食にならぬよう、これはご忠告と申すよりも、むしろわれわれのお願いでござる。いや実際貴殿のごとき、すぐれた人物が向こうに付かれてはわれら難渋いたします」
すると忠弥が進み出た。
つと進み出た丸橋忠弥、
「南蛮屋の一味を一口にいえば、天草、島原のキリシタン、その目的は邪教の布衍、ただし刻下の目的は、巻軸を奪おうとするのでござる。……もっとも巻軸はうまうまと……」
「丸橋氏」と三郎兵衛がとめた。
「これでお暇いたそうかな」
「それがよろしい。しからばこれにて」
「ご免くだされ、袴氏」
タラタラと五人肩を揃え、スッと小路へ消えてしまった。その素早さ、あとはシーン!
大地へぶっ坐った袴広太郎、しばらくは立ち上がらなかった。
「なるほどなあ。かなわない筈だ。五人ながら江戸の一流、わけても丸橋柴田ときては、匹儔のない名人だ。一人と一人立ち合ってもこっちには、微塵勝ち目はない。それが五人に掛かられたんだからなあ。よくそれでも闘ったものだ。負けっぷりがいいのでほめられたが、いやほめられるにも色々あるわい。……それはそうとイスラエルのお町、そんな素姓の妖婦かしら? 事情を打ち明けおれがたのむと、最初はいかにも案外らしく、じっと俺の顔を見詰めたが、『島原城之介のおり場所も、また巻軸のあり場所も、ほぼ見当がついております。そうして妾達にとりましても、その巻軸は重大な物。余人などへは渡せませぬが、事情を聞けばお気の毒。お京様とやらのお命にも、かかわりあると承ってみれば、うっちゃって置くことも出来ますまい。よろしゅうございます。お引き受けしましょう。今晩のうちに片をつけ、明日中にお京様を、お屋敷へお返しいたしましょう』と、さもすがすがしく引き受けてくれたが、そんな毒婦とは思われなかった。もっとも俺がうれしまぎれに、『このこと成功いたしましたならば、どのようなお礼でも致します』と、こういうと、微妙な笑いをたたえ、『お金もいらず、物もいらず、何も戴こうとは思いませぬが、そのうちあるいはあなた様の、一番一番大事なものを、戴きに上がるかもしれません』と、なぞのような言葉をもらした時、何かしらおれはゾッとして、寒気をさえも催したものだが、こんな点からいう時は、なるほどなあ、毒婦かもしれない」
股腕のしこりを揉みほぐし、広太郎はやおら立ち上がった。
と、その時、星の下辺、屋根棟低く黒々と、まりのような物が飛んでゆく。風を切るのは翼の音、鳥にしては大きな鳥だ。
「はて何だろう?」と見上げたが、たいして気にもとめなかった。
碁盤目小路をやっと出て、自分の屋敷の方へ帰って行った。
さて一羽の巨鳥であるが、碁盤目小路の屋根上を過ぎ、深夜の江戸を西南に向かい、赤坂の方へかけてゆく。
上赤坂喰違い、大手よりは二十三丁、そこに広大な屋敷がある。五十五万五千石、紀州名草群和歌山の城主、三家の次席大納言、紀伊頼宣卿のお館である。
そこまで来た時、その巨鳥、翼をちぢめると思ったが、スーッとばかり木立へ下りた。しばらくは何の音もない。
その奥庭に張り出して、一宇の建物が立っていた。その部屋の中に端然と、見台にむかって坐っているのは、五十年輩の高朗たる人物、館の主頼宣である。
と、ハタハタと戸外から、雨戸をたたくものがある。が、頼宣気がつかない、じっと書物に食い入っている。と、またハタハタとたたく音! はじめて頼宣顔をあげた。
「はてな。風でも出たのかな?」
と、またハタハタとたたく音!
当時紀州頼宣といえば、叛骨稜々たる老英雄。将軍家光狂乱と聞くや、「うん、大丈夫だ。おれがいる」こういったということである。家光なんかくたばってしまえ。おれが将軍になってやる。ちっとも不思議はないじゃないか! こういう意味が言外にある。明の遺臣鄭成功、明朝恢復の大望を抱き、大日本国に援兵を乞うや、「五十五万石返上致す、十万の兵をお貸しくだされ。支那四百余州を蹂躙し、見事奪ってお眼にかけます。さて取り上げた四百余州……」中途で言葉を切ってしまった。誰が将軍なんかに寄付するものか、おれが文字通り王様になるのさ! こういう腹があったからである。由井正雪の乱があって、老中に疑いをかけられるや、「めでたい!」と頼宣まずいった。「嫌疑の本人がおれでよかった。外様大名なら家が潰れる。そうむやみと潰してはいけない」それからからからと笑ったそうである。さすがの知恵伊豆も眼を丸くし、「大納言様は凡人でない。尋常にゆけば宗家の柱、下手にそれるとがんになる。さわるなさわるな、そっとして置け」こういったということである。「うん、おれは南海の龍だ!」これが頼宣の常套語であった。そこで号して南龍公という。
下ぶくれの垂れ頬で、一見すると大変やさしい。半白の髪を茶筅に取り上げ、薄茶のかたびらの着流しである。塗り骨の扇で涼を入れ、じっと見ている見台の書は、六韜でもなければ三略でもなく、意外! スペイン語の兵書である。
とまたあま戸へあたる音、ハタハタハタとやわらかい。
「これはおかしい」とズイと立ち、ふすまを開けると長廊下、つと立ち出でて雨戸を開けた。スーッと舞い込んだ一羽の鳥、はがいをちぢめると座敷へ下りた。南洋産の白鸚鵡、首に紙片が巻き付けてある。
「ほほう」とさすがに驚いて、静かに坐るとだきかかえた。鸚鵡はちっとも動かない。紙片をほぐすと女文字、一通り見ると打ち案じたが、やがて蒔絵の硯箱を引き寄せ、何かサラサラと料紙へ書きたたんで鸚鵡の首へ巻いた。それをあいずに舞い上がり、一巡部屋を廻ったが、すぐに戸外へ飛び去った。雨戸を締め切った頼宣卿、ポンポンポンと、手を打った。
「はっ」といらえてふすまを開き、手をつかえたは宿直の武士、「は、お召しでございますか?」
「うむ、ちょっと兵庫を呼べ」
間もなくやって来たは牧野兵庫。おそば去らずの寵臣で、火術にかけては扶桑第一、丸目一貫目の筒をかかえ、品川の海、五町の沖合い、廃船を轟然と打ち沈めたという。人品骨柄も打ち上り、年齢四十一歳である。
「おお兵庫か、これを見い」例の紙片をヒョイと出した。
「拝見」というと押し戴き、一渡り見たが顔を上げた。「町姫様よりの懇願状!」
「うむ、そうだ。意外だったよ」
「しかしお館にはどうしてこれを?」
「今な、鸚鵡が舞って来た。そうしておれに手渡したのさ。で、すぐに返辞をやった」
「ははあ、鸚鵡が?」と眼を見張ったが、「何とお館にはご返辞を?」
「いうまでもない。承知したとな」
「これはごもっともに存じます」
「ついてはその方大儀ながら、すぐに参って取り計らってくれ」
「かしこまりましてございます」
退出をした牧野兵庫、間もなく大納言家の裏門から、一挺のかごが走り出た。
見台に向かった紀州頼宣、読んでも意味がわからないらしい。
「町姫、町姫、可哀そうな娘! あれの母さえ……尋常であったら……」眼頭に涙がたまったらしい、指で押さえたものである。
その間もかごは宙を飛ぶ。
深々とふけた夜の江戸、そこを駈けゆく一挺のかご、まるで流れる星のようだ。いったいどこへゆくのだろう? 四谷を過ぎ、市ヶ谷を過ぎ、牛込の方へ走ってゆく。
その牛込の榎町に、大名屋敷を思わせるような、立派な屋敷が夜空をぬき、静まり返って立っていた。
その屋敷の長廊下を、二人の武士が歩いて行く。一人は雪洞を片手に持ち、一人はむちを持っている。顔色あおく二重ひとみ、切り下げ髪を肩にかけ、法眼袴をはいたのは、館のあるじ由井正雪、もう一人は門下の鵜野九郎右衛門、足音を忍んでシトシトと歩く。廊下が尽きると切戸口、そこを開けると石の階段、二十段ぐらいはあるらしい。それをおりると樫の扉、それを開くと牢格子、もうこの辺は地下である。
「鵜野、戸をあけい」と正雪の声。
ガチンと錠の上がる音、ギーと開く牢屋口、ズイと二人はいり込んだ。雪洞の灯に照らされて、ボッと明るい牢の中、その中央の板敷きに、何か生き物がいるらしい。白髪、白衣、修験者で、手を合掌、顔を上向け、熱心に呪文を唱えている。すなわち島原城之介である。
「島原、島原、城之介! おいのりかな、精の出ることだ」まず正雪声をかけた。「が、根気ではおれも負けぬ。今夜もお前を責めに来た。さあさあ強情もいいかげんにしろ。巻軸を出せ、出してしまえ」パチパチと鳴らしたは、むちである。
と、城之介合掌を解き、グルリと正雪を振り返ったが、
「正雪殿、ご苦労千万」こういった声には鬼気がある。「全く根気のよいことで、日夜お責めにいらっしゃる。で、拙者も持っているものなら、その巻軸とか申すもの、早速進呈致したいのでござるが、お気の毒様で持っていません。その証拠には衣裳をはぎ、下着を取ってお調べになったが、どこにもなかったではござらぬかな」むしろヘラヘラ笑ったものだ。
「うむ、それはわかっている。……どこに隠したか聞いているのだ。住居をいえ、お前の住居を」
「拙者はイスラエル教の教主でござる。信者のある所、天が下、これ皆拙者の安住地でござる」
「大きく出たな」と由井正雪、今度はあべこべにヘラヘラ笑った。
「実際浮世をおどかすには、なるたけ大きく出た方がいい。そういう点では賛成だ。しかし人を見て法を説け。この正雪にそんなことをいっても、驚きもしなければ感心もしない。上は天文下は地理、武芸十八般伊尹両道、陰陽の原理人相手相、占術禁厭方宅から、仏教儒教神道に及び、兵法では楠流、究めていないものはない。そういう俺だ。駄法螺はよせ!」ここで正雪ギロリと睨み、「それに」とトンとむちを突いたが、「お前にとっては、この俺は元来恩人ともいうべきものだ。袴広太郎とかいう小童に、搦め取られたお前ではないか、もしその筋へ突き出されてみろ。島原の残党キリシタンとして、否応なしに火あぶりだ。それを助かったというものは、われらの同志佐原重兵衛、機転をきかしてにせ同心となり、横取りをしたがためではないか。恩返しをせい、巻軸を渡せ!」
だが城之介がえんじない。「それというのも底をわれば、巻軸欲しさのしわざでござって、親切づくしではござらぬ筈、その証拠には同じ日の午後、富坂町の四辻で、その佐原殿の一群が拙者を襲ったではござらぬかな。もっとも鉄杖の一なぎで、他愛もなくカタをつけましたがな。案外弱いのでびっくりしましたよ。なんの親切を恩に着ましょう」
城之介あざ笑ったものである。
島原城之介に笑われても、正雪怒りもしなかった。「ではいよいよ不承知か」
「承知不承知は別問題。拙者巻軸など持っていません」
「まだ強情か、やむをえぬ」正雪ここで考え込んだ。青白い秀麗な顔だけに、考え込まれると気味が悪い。「鵜野」と正雪は小さな声で、「拷問の用意! みっしりとやれ!」
「何?」と城之介顔色をかえた。「拷問なさるとおっしゃるか?」
「なみの拷問とは違うぞよ」正雪水のように冷静に、「一本一本髪を抜く、頭がはれあがって四斗樽ほどになろう。さてそのつぎには歯を抜くのだ。ミリミリミリと釘抜きでな。さてその次には眼をえぐる。だが両方はえぐらない、片眼だけは助けて置く。醜貌を見ることが出来るようにな。さてその次はなま爪だ。手の爪から足の爪、一枚一枚ひっぺがす。血がしたたって、床を染め、その中でお前はうめくだろう。さてその次には二つの耳、いやこいつも片っぽだけだ。焼け火ばしで突き通す。ジリジリ肉が焦げるだろう。さてその次には肛門をあぶる。さてその次には男根を切る。さてその次には口をわり、水を腹中へ注ぎ込む。蟇のように腹がふくれるだろう、その上を足で踏みつける。口から鼻から一時に、水があふれて出るだろう。苦しいぞよ、七転八倒!」
「おやりなされ!」と城之介、かれ声をしぼって、うめくようにいった。「神の試練! こらえてみせる!」
「さて最後の拷問は……」
「まだやるのか。これは面白い」
「お前の恋するイスラエルのお町……」
「何を!」と城之介膝を立てた。「巻軸取りの競争相手……ううむ」とうなったものである。
「おびき寄せてこの牢屋で……」
「何をするのだ、何をするのだ!」
「一糸もまとわずはだかにし……」
「はずかしめようとするのだな!」
「お前の見ているその前でな……」
「罪悪だ!」と飛び上がった。「エリヤよ、予言者よ、イスラエルの神よ! この悪人を、雷となって、即座にお打ち殺しくださりませ!」
「ほえろほえろ、五十ぺんでもほえろ。イスラエルの神が天上から、この土牢へ現われて、屋根を破ってお前を連れ出し、奇蹟を現わしたらおれは信ずる」
「モーゼに現われた大天使よ、この姦悪な盗人を、火柱となってお焼きくだされ!」
「いい形容詞だ。かなり荘厳だ。さてイスラエルの神様め、火柱になるか雷になるか、ちょっとおれにも楽しみだ。が永くは待たれない。なるたけ早く出してくれ。十まで数える、十までな。……一、二、三……」とゆっくりと、正雪数をかぞえ出した。「十だ!」と叫ぶと皮肉にも、四方を見廻したものである。
「これはいけない、現われないようだ。さてそれではおれの番だ。どうやら最後の拷問が、いちばん利き目があるらしい。鵜野門家の衆を率い、南蛮屋敷へ取り詰めろ! お町一人を目がけてな」
「待て!」と城之介がひざまずいた。「お町にはなんの罪もない! どうぞそれだけはやめてくれ!」
「ではよこすか、巻軸を!」
城之介なんの答えもない。
「鵜野、行け!」と正雪の声!
「はっ」というと九郎右衛門、牢屋口から出ようとした。とたんに外から声がした。
「先生、ご来客にございます」
来客というのはほかでもない、紀州家の家臣牧野兵庫、客間にピタリと控えている。
「おおこれは牧野氏、深夜のご来駕何用かな!」
はいって来るや正雪は、やや不快そうにこういった。
兵庫前名を弥左衛門といい、尾羽打ち枯らした浪人であったが、その器量に眼をつけたのが、由井民部助正雪で、兵学講義に参上する、紀伊頼宣公へ推薦した。爾来兵庫累進し、おそば去らずの寵臣とはなったが、昔のことは忘れない。正雪を先生と呼んでいた。しかし今夜は正式でなくとも、大納言の使者である。で、厳然と威儀を正し、
「さて早速に申し上げる。承れば由井殿には、島原と申す修験者を、おかくまいあると申すこと。しかるに紀州大納言様には、該修験者とは懇密でござる。で至急に修験者を、お屋敷から追放なさるようこの段しかと申し入れます」
「ははあ」といったものの正雪にとっては、これは意外の言葉であった。「いかにも島原城之介と申す、怪修験者はかくまいおりますが、どうしてそれを大納言家には?」
「いやその儀につきましては、拙者とんと存じませぬ」
「ううむ」と正雪考え込んでしまった。「不思議だな、どうしたんだろう? 島原城之介を捕えたことは、世間の者は知らない筈だ。ましてや紀州大納言様などが、知っておられる筈がない。それにも拘わらず知っておられる。そればかりでなく城之介めと、懇密の仲だと仰せられる。どうもまこととは思われない。曰くがなければならないぞ。……どんな事があろうと城之介めを、このまま逃がしてやることは出来ぬ。巻軸、巻軸、素晴らしい巻軸! こいつのありかを知るまではな。……とはいえ御諚を拒んだら、今後お出入りは出来ないだろう。おれにとってはこれも苦痛だ。紀州家の後ろ楯があればこそ、世間でもおれを信用してくれる。これがなくなったらその時から、おれの信用は落ちるだろう」取捨に迷わざるをえなかった。
とその時牧野兵庫、一膝進めると声を落とした。
「紀州家の使者として申すでなく、単なる牧野兵庫として、由井先生へ申し上げます。これは先生におかれては、是非とも大納言家のお言葉に従い、島原という修験者を、この際追放あそばすよう、切にお進めいたします」
「うむ、それはどういうわけかな?」
「大納言様へすがられた方が、尋常な方ではございません」
「ナニすがる? すがるとは?」
「修験者を追放するように、すがった者があるのでござる」
「ははあなるほど。何者かな」
「それより先に先生へ、お尋ね致したいことがございます。イスラエルのお町と申す婦人、先生にはお聞き及びござらぬかな?」
「さようさ、噂は聞いております。島原天草の残党で、あるスペイン司僧の娘と、日本の貴族との間にできた、混血の美人だと申すことで」
「その日本の貴族というのが、大納言家でございます」
「ナニ、それではイスラエルのお町は、頼宣公のご落胤か!」正雪仰天したらしい。
「そのご落胤の町姫様がおすがりしたのでございます」
牧野兵庫の駕籠が帰り、夜が白々と明け初めた頃、由井正雪の門前で、ジャランという鉄杖の音がした。現われたのは島原城之介、スタスタ町の方へ歩いてゆく。
「由井正雪といったところで、ろくな知恵は持っていねえ。眼の前にある巻軸に、気がつかねえとはあきれたものさ。身体や頭をさがしたところで、なんでそんなものがあるものか、持ち物にだよ、持ち物にだよ」こんなことをつぶやいている。
明けゆく江戸は美しい。高台のあたりで烏がなき、雀が八方に飛びちがう。乳色をした夏の靄、裾の方からまくれてゆく。と、城之介深呼吸をした。「やっぱりな、土牢よりはいい。土牢は空気が不潔でいけねえ。それに随分責めやがった。この大行者の城之介様をな、三下並みに扱かやアがった。よこせよこせ巻軸を! ふふん、取られてたまるものか」
山伏町から箪笥町、築土八幡から東北へそれた。
「眠いねむい、恐ろしく眠い。入りかわり立ちかわりやって来て、眠らせねえようにしやがったんだからなア。こいつにゃおれも参ったよ。十両でも二十両でもくれてやる、どうぞちょっぴり眠らせてくれ、ほんとにおれはこう思ったものさ。……それはそうとここはどこだ!」グルリと四辺を見廻したが、「ははあ本郷真砂町か。うむこの辺に大金持ち、滝山源兵衛がいた筈だ。その総領のお篠という娘、ちょいと踏める顔だったよ。よしそれでは例の奴……」そこで叫んだものである。
「イスラエルの神ににえ捧げようぞ!」
ジャランと鉄杖を響かせた。あさまだきで人気がない。さびた声と鉄杖の音、虚空を渡ってさえ返る。とスタスタと城之介、足を早めて行き過ぎた。「まずあの女もこっちのものだ。生身を賞翫した上に、いや応なしに献金させる。悪くないなア、おれの商売は」
身体も疲れているらしい。歩く足がヨロヨロする。
「さてこれからどこへ行ったものだ? ほかに行く所があるものか。南蛮屋だあね、お町の所さ」どうしたものか笑い出した。「あの女を思うとグラグラする。全くなあ、いい女だ! いってみればにが手だね、こっちが呪縛にかかってしまう。あの女へなら巻軸だってくれる。眠い眠いああ眠い。あそこの寝台へゴロリと寝、子守りうたでも聞きてえものさ」
本郷を抜けて下谷へ入り、それから浅草洗足町、碁盤目小路を上手に抜け、象潟町へ踏み入った。南蛮屋の前へ立つ時、あくどく笑ったものである。そこでまたジャランと鉄杖を鳴らし、スーッと中へ消え込んだ。
よい天気、日がさして来た。堂のいらかが光っている。
と南蛮屋の門口から、一人の小男がすべり出た。ほかでもない早引の忠三、ひどく機嫌が悪いとみえ、口小言をいいながら走り出した。
「やりきれねえな、あのあねごには」これが最初の口小言である。
「袴が広いという奴に、とうとうとろけてしまやアがった。口をすくしてたのんでも、おいらのいうことはきいてくれず、そこへあいつがやって来て、一口たのむとすぐ承知だ。よろしゅうござんすというところで、パーッと鸚鵡をトッ放す。すると城之介が帰って来て、ヘラヘラ変てこに笑ったかと思うと鉄杖の中から巻軸を出し、うやうやしく献上する。この辺までは結構だが、どうもそのあとが面白くねえ。せっかく奪った巻軸を、天草へ返せというのだからなあ。あッ、痛え! この野郎! どいつだおれにぶつかったのは! オヤオヤオヤ、公孫樹の木か! 申しわけねえ、おれの方が悪い」
公孫樹におわびを申し上げ、さて忠三走り出した。
「こうなりゃアおれが投げ状で、島原の残党天草時行、浅草安宅町にとぐろを巻き、凶徒を集めて陰謀中、早くお手入れなさるよう……などと奉行所へ密告し、その捕り物のどさくさ紛れに、島原城之介を入り込ませ、大事な巻軸を盗ませた事も、ムダになったというものさ。つまらねえなあ何ということだ! 天草の手へ返した以上、めったに二度とは取ることは出来めえ。いめえましいなあどうかしてえものだ。といってどうにもなりゃしねえ、お町のあねごにかかったひにゃあ、おいら手も足も出ねえんだからな。オイ忠公や、いい子だね、悪あがきせずに行っておいで。そうして巻軸を返して来な! こういわれるとこの忠公、自然と足がヒョコヒョコ出て、ご覧のとおり走っている。魅力だね、魅力ってやつだ。だが魅力って何だろう? さあわからねえ、見当もつかねえ。別嬪さんということかな? ほれちゃったという事かな? うんにゃ、少しばかり違うようだ。そりゃアそうと城之介め、寝椅子にころがっちゃアいねえかな? ナニサ寝椅子はころがるものさ。ころがって悪いとはいわねえが、もしそのそばに緋縮緬が? ワーッ、いけねえ、勘忍してくれえ?」忠三往来へ突っ立ってしまった。「いや大丈夫!」と思い返した。「そこはあねごだ。まるめてしまうだろう。心配ご無用、心配ご無用……などと安心をしていると、ひでえ目にあわねえものでもねえ」そこでまたもや立ちどまった。ベソをかいたと思ったら、「寝椅子を呪う! 寝椅子を呪う!」途方もない声でわめき出した。とバラバラと五、六人、人が立ちどまったものである。おっといけねえ早引の忠三、びっくりして先へ駈け出したが、四谷までは道のりがある。駈け通せそうにも思われない。「駕籠ってものがあるじゃアねえか。なぜ乗らねえ、ばか忠々め!」自分で自分を怒鳴りつけた。「さてな」と見廻すとお茶の水でここが江戸かと思われるほど、木立が繁って物淋しい。と向こうから駕籠が来た。「空駕籠だな、おあつらえ向きだ。万事浮世はこういきてえものさ。駕籠屋アッ」と大声で呼びとめた。
「フェーッ」というと先棒が、ガタンと駕籠を抛り出した。
「へえへえこれは親分さんで、どうぞご勘弁願います。やくざ者ではございますが、まだお縄を戴くには、間があるようでございます。そりゃアあなた稼業がら、小博奕ぐらいは打ちますが、それとてほんの時々で……オイ後棒、おめえもあやまれ」
すると後棒がまかり出た。「これはこれは親分さんで、どうぞマアご勘弁を願います。へい私どもの稼業がら、海道筋へでも出ますれば、ゆすりかたりの一度や二度、やらねえこともございませんが、それとてあなたこれまでに、両とねだったことはなし、お縄だけはお目こぼしを。……オイ先棒もう一度あやまれ」
すると先棒がまた出た。「親分さんえ、まあどうぞね、おゆるしなすっておくんなさいまし。チョクチョクいやなことをやらかすのも、浮世が悪いからでございますよ。へい全くセチ辛い浮世で、なんにでも運上がかかるので、平几帳面にくらそうとしても、見渡す世間が不正直なので、それがうつるんでございますな。まあまあどうぞお縄だけは……」
「何を!」といったが早引の忠三、ふと気がついてふところを見た。捕り縄の先がのぞいている。
「ははあ岡っ引と見やがったな」そこで忠三活用し出した。
「承知出来ねえ、承知出来ねえ、コレ、てめえ達悪い奴だぞ!」
「これてめえ達は悪い奴だ」こうはいったものの早引の忠三、どうにもおかしくてならなかった。上唇がまくれようとする。とはいえここで笑ったが最後、化けの皮が剥げるだろう。「これ途方もなく悪い奴だ」物々しい調子でやり出した。「いやもっと余罪があろう。余罪がある余罪がある! そういうつらだ! 余罪づらだ! これ、おれはな、人相もできる。御用聞きというものは、人相手相方宅から、うらない、まじない、天文地文、そういうものまで知らなけりゃアならねえ、てめえ達のつら、どうもよくねえ。ははアやったな、かどわかしを! そういう面だ、かどわかしつらだ!」ふところの縄をひねくった。「これ白状しろ、まっすぐにいえ! 悪い奴だ、途方もなく悪い!」同じことばかりいっている。どうにもこうにもおかしくてならない。そこでいよいよ真面目になり、「ひっくくってしまう、ひっくくってしまう! だがな……」とにわかにニヤニヤして、「オイ四谷までなんぼで行く?」
「へい?」と駕籠屋、眼をまるくする。
「ばか!」と一つおっかぶせたが、ここでちょっとヘンなものになった。「もっともてめえ達のいうとおり、どうもご治世もよくねえなあ。役人のやり方だって面白くねえ。バタバタ四隅をひっぱたいてさ、ほこりばっかり立てやがる。畳一枚に運上がつき、窓一つに運上がつく。これじゃアいきだってつまるだろう。悪党だって出る筈だあね。それにさ、悪党という奴は、本来はひどく善人なんだからな。三尺たけえ木の上で、首をさらす覚悟して、おおっぴらに仕事をするんだからなあ。ところがおめえ善人とくると……まあまあそいつあどうでもいい。つまりなんだ、善人という奴は、引っ立て役に悪人を使い、尊敬されながら悪いことをする。……だからよ、だからよ、おれとしては悪党の方へ味方するなあ」ホイいけねえと感づいた。これじゃどうしたって岡っ引にゃア見えねえ、そこでうんと厳粛になり、「勘弁できねえ、くくし上げる! とこう元来ならいうところだが、おれは大変忙しい。四谷へゆくのだ、追い込んでな。で、目こぼしというのじゃアねえが、きょうのところは見のがしてやる。が、面は覚えて置く、見やがれ今度悪いことをしたら、容赦はしねえ、あげっちまう。おれはな、エーと、早引の忠……うんにゃ、神田の忠六だ。それはそうとオイ駕籠屋、ちょうどいいところへやって来た。おれを乗っけろ、四谷まで」
「へえへえこれは有難いことで」駕籠屋喜んで両手をこすり、「親分さんのお供なら、唐天竺へでも参ります。さあさあどうぞお乗んなすって」
「うん、ところで駕籠賃は?」キワドイところ、掛け合いをする。
「めっそうもない、そんなもの。なんの親分さん、戴きましょう」
「そうか」といったが奥歯をかみしめ、「おれはわいろは取らねえぜ」しかしとうとうニコツイてしまった。「駕籠賃ぐらいはいいだろう」
トンと駕籠へ腰を据えた。「早くやんな、ゆするなよ」
ホイホイというので駈け出した。
クックックッと早引の忠三、横っ腹を抱えたものである。「見せてえなあ、あねごによ。忠的忠的ってばかにするが、その忠的時によると、こんな儲けもするんだからなあ。それにさ、あねごはコキおろすが、中条流の縄だって、場所によっては役に立つ。クックックッ、ただの駕籠だア」
「へい四谷へ参りました」
「うん」というとヌッと出る。巴小路へ入り込んだが、いわば敵地へ乗り込んだようなものだ。オッチョコチョイの忠三ではない、顔も身体もひき締まった。巴御殿の玄関に立ち、「ご免」といった声にさえ、ピーンと覇気がみなぎっている。
巴御殿の表門から、一挺の駕籠がかき出されたのは、忠三が入り込んでから半とき後で、北をさして走って行く。内にはたれがいるのだろう? 牛込を過ぎ小石川に入り、掃除町まで来た時である。駕籠がとまってタレがあがり、ヨロヨロと出たのは一人の娘、それはほかならぬお京であった。
「いったい妾はどうしたのだろう?」ぼんやりと四辺を見廻した。「浅草河喜という料理屋に、袴広太郎様がおいでと聞き、行った時から正気がなく、駕籠の中へ押しこめられ、陰気な屋敷へ連れて行かれたが、夢うつつのように見えたのは、美しい殿堂、広い海、限り知れない砂の原、小羊をたくあおい煙り、そうしてその間にこわらしい、みつ口の小さなお爺イさんが、向こう傷のあるおさむらいさんが、はいったり出たりしていたが、おおそうして一度だけ、ほんのチラリとではあったけれど、袴様のお姿もお見かけしたが、どれもハッキリとは覚えない。……でもみつ口のお爺イさんが、さっき妾を丁寧に、駕籠へかき乗せてくだすった時から、妾は正気に返ったようだ」
髪一筋乱れていず、衣裳一つ着崩れていない。中高の細面。神性と処女性のあることを、さながらに現わしたあこがれるような眼。これが旗本の娘だろうか、貴族の姫君ではあるまいか? こう思われるほど気高い鼻。少しやつれてはいるけれど、昔のお京と変りがない。
「おや」とお京は眼をみはった。「ああここは掃除町だ。妾の家があそこにある」
夢中でバタバタとかけ込んだ。
真っ先にお京を目つけたのは、庭を掃いていた若党で、
「お嬢様がお帰りでございますぞ!」
声に応じて走り出したのは、父平左衛門、兄舞二郎、袴広太郎、臼井金弥、まず父と子が抱き合った。
「お京!」といったが涙を流し、「お礼を申せ広太郎殿に。おかげだおかげだ、広太郎殿のな!」
だがその後でもらした言葉は、まことに不思議なものであった。
「これで切腹はまぬかれた。お京の身の上に間違いでもあったら、あのお方に対し、いきてはいられぬ」
巻軸は元の持ち主へ帰り、お京は家へ帰って来た。事件は一段落ついたとはいえ、間もなく起こった二つの事件で、その平和はかき乱された。
その翌日のことであるが巴御殿の門前へ、フラリと現われた人物がある。
「傀儡舞わしましょう、傀儡舞わしましょう」
例の老人の傀儡師であった。
「そもそも傀儡のはじまりは、日本においては神の頃、神代時代にございます」リリカルに口上を述べ出した。「下って飛鳥奈良朝から平安朝に至っては、色売る女がこれを使い、下品になったは不面目、源平北条足利氏、戦国を経て御代となり、ますます巧みの傀儡舞わし、わけても拙者の人形は、南蛮渡来の活き傀儡、魂あって踊ります。ご覧なされい、ご覧なされい」
おりから忙しいたそがれ時、宵闇が迫ろうとしていたが、上手な口上に人立ちがして、グルリと傀儡師をとりまいた。
「まず手はじめは文屋傀儡、六歌仙のその一人、つづいて小町を踊らせます」そこで傀儡師は唄い出した。
ヤンレ文屋の康秀は
業平朝臣と恋仇
小町の采女と焦がれたが
すると、バラバラと巴御殿から、二人の武士が現われた。
巴御殿から出て来たのは、築土新吾と向こう傷のある武士──長崎左源太という武士であった。
「これこれなんだ、やかましい。立ってはいけない、散った散った!」
こういったのはその左源太。
「ほほう傀儡か、よかろう舞わせ」これは築土の言葉である。
「これはこれは旦那様、なにとぞなにとぞご覧くだされ。見るも法楽聞くも法楽、投げ銭蒔銭いりませぬ。お気に入ったらお手拍子、それで結構でございます。とはいえ食わなければなりません。そこで前からお約束、傀儡首尾よく舞いましょうなら、たんとはいらない一文ずつ、傀儡へお投げくださいまし。……さあさあ舞ったり文屋殿。恋の一念野を越えて、くくり袴に露をかけ、まゆずみさえも汗なれや、小町へ通って行くところ、折しも初夏の夕まぐれ、おぼつかなげの藤の花、それさえ涙の種となる。燕子花さく八橋も、渡れば渡る渡りがね、そこへ後から追って来た、業平朝臣の狩衣や、オーイ、オーイと呼びかける」
一向意味がわからない。しかし大変面白い。箱から取りあげた文屋人形、ヒョイと地へ置いた老傀儡師三尺ばかりさがったが、片手で膝を打ちながら、なお口上を続けてゆく。
「ヤンレあわれな文屋殿、そこで手をすり申すには、お許しくだされ業平さん、京は祇園会不動尊、八幡様へ願かけて、おたのみ申す小町様、どうぞ私へくださりませ。いやいやいやと首を振る、業平さんのいうことに、それはいけめえ文屋さん天神様へ誓っても、小町ばかりは譲れねえ。これを聞いたる文屋さん、さりとはさりとは気が強い、悪でござんす業平さん、わちきと小町の馴れ染めは、そも十月の神無月、野分芭蕉に秋深く、きぬうつ音も消えがての、御所のお庭は葉鶏頭、そこの廊下の真ん中で、オットドッコイおれがいう、おれと小町の馴れ初めは、清明の日の高殿で。花吹雪する真っ昼間、小町の方でほれたので、おれの方でもほれてやり、かむりの笄落としたが、どうでも小町はいい女、柳の五衣に緋の袴、檜扇持ったとりなりは、官女官女官女だア……」
だんだん変てこなものになる。だがいったいどうしたのだ。地上に置かれた人形が、口上に連れて手を動かし、首を振ったりするではないか。いや不思議はない、ぜんまい仕掛け、しかしこの時代では驚異である。
「やア踊り出した踊り出した」
「いきてるいきてる、活き人形だ」見物は口々に囃し立てた。
その騒ぎに誘われたのか、ヌッと現われたのは天草時行。
「騒がしいの、どうしたのだ」醜いみつ口でうめくようにいった。
「傀儡でござる。いきている傀儡」こういったのは築土新吾。
「どれ」とかき分けて前へ出て、硫黄火のように青光る、小粒の眼でにらんだが、ピョンと背後へ飛び退いた。「逃げろ! あぶない! ほえかかるぞ!」
爆発の音の響いたのは、実にその次の瞬間であった。煙硝の匂い、黄色の煙り、ワッという悲鳴、逃げ出す足音! 傀儡が破裂したのである。もうそのころには老傀儡師、どこへ行ったものか姿がない。
「やられた!」と叫んだのは天草時行で、屋敷の内へ駈け込んだ。
「方々、巻軸は盗まれましたぞ!」
間もなくこういう叫び声がしたが、同じその夜に小松原家でも、一つの事件が勃発した。
お京が無事に帰ったので、広太郎と金弥とを客として、小松原家では宴を開いた。お京だけは出席しない。それは疲れているからで、隣りの部屋へ寝かして置いた。イスラエル教とはどんな宗教か? この問題で花が咲いた。
「キリシタンでござろう。それに相違ない」例によって金弥出しゃばったものだ。
「しかしキリシタンはキリシタン。イスラエル教はイスラエル教、おのずから差別があるようでござる。もっともだいぶ似たようではあるが」これが広太郎の意見であった。
「いやキリシタンに相違ござらぬ」バカのくせに金弥がんばろうとする。
「拙者そのうち調べてみましょう」舞二郎穏やかにこういったので、話がほかの方へ移って行った。
「なんに致しても広太郎殿には、ひとかたならぬご恩になり、なんと申してよろしいやら、お礼の言葉もございません。お京にとっては命の恩人、また私にとりましてもな」平左衛門改めてお礼をいった。いい尽くせないというようである。
「いや今回の事件では、私にも責任がございましたので。それに成功しましたのも、ほんの偶然でございましてな。飄々と現われる傀儡師が、いわば手引きをしたようなもので」広太郎、ちっとも威張らない。
金弥そこでまた出しゃばる。「拙者も随分苦心しました。江戸じゅうグルグル廻りましてな。お京様は拙者の許婚、さようさよう許婚で! で苦心いたしました。さよう、こんな事がありましたよ。ええと浅草へ参りました時、五人の浪人にとりまかれ、そのなんだ、ゆすられましたので、そこで拙者うんと睨み、斬るぞ! と申したらバラバラと、ハッハッハッハッ逃げて行きましたよ。弱いさむらいがあったもので」
当然なことには誰一人、金弥の武勇伝を信じない。
その時であった、トントントントンと門をたたく音がした。門番がくぐりを開けてみると、常使いらしい小男が、一通の書面を持っていた。「ご主人様へ」というのである。「どなたからで」と門番がきくと、「道で逢ったお方から」こういう漠然とした返事であった。
「なんだろう、いったい?」と平左衛門、封を切って読み下した。
「お京様のお身の上、さる御方なつかしがられ、お預かり致す」という文面であった。アッと仰天した一同の者、隣室へかけ込んだが、サア事だ! お京はもぬけの殻であった。
どうして! いつの間に? 何者が? お京を誘拐したのだろう? 隣室には家人がいた。しかも四人のさむらいが。
蒼白になったのは臼井金弥、歯がみをしたのは広太郎、眼をたれたのは舞二郎である。が、不思議にも平左衛門だけが、あわても驚きもしなかった。じっと文面を凝視した。
「いや大事はござるまい。かえってこの方がよいかもしれぬ。どっちみち今回の出来事は、島原城之介、天草時行、そういう者のわざではござらぬ、……だが不幸の娘ではござる」これが平左衛門の言葉であった。
日本橋から三里、新宿となる。新宿から一里、松戸となる。松戸から三里、小金の宿。小金から三里、我孫子となる。ずっと行けば、水戸へ出る。これすなわち水戸街道。今日の里程とはだいぶ違う。我孫子と小金との中間に、馬橋という駅路がある。その馬橋から我孫子へ向け、十町余りも行ったところに、目立たない一基の石標がある。「これより西、杉窪の里」これがきざまれた文字である。だが道もなんにもない。ただ一面の熊笹で、地勢は傾斜、次第上がり、飛び飛びに林、それから森だが、その森の尽きた頃から、一筋の山路が通じている。そうしてその路の消えたところに、杉窪の里が出来ている。戸数五十戸、人数三百人、奇妙な芸人の住み場所である。一名放歌の里という。放歌僧の連中が、中古時代に住んでいたからで、里人は放歌僧の後胤なのである。
四方樹木にかこまれた、すり鉢形の小盆地で、その真ん中に宏大な屋敷、里の長の住居がある。それを囲繞して点々と、立っているのが五十戸の人家、すなわち里人の住居である。
この杉窪の特権として、運上を納める必要がなかった。ただしその代わり毎年の元旦、選ばれた芸人が柳営へ参り、祝儀の放歌を奏したものである。里人の性質は剽悍で、義侠心に富んでいた。野心家などが活用すると、面白い芝居が打てそうな連中、噂によれば武器なども、貯えているということである。とはいえ日常の生活には、特に変ったところもない。米の飯に味噌の汁、野菜も食えば塩引きも食う。犬もほえれば鶏もなく。お茶も飲めば酒も飲む。色恋もすれば子供もうむ。仕事といえば芸事の練習。そうして芸事に必要な、道具類の手入れなど。みんな大変仲がよく、親方に対して忠義心が厚い。親方の名は杉窪の銅兵衛、なかなかの人物だということである。
さてある日のことである。銅兵衛の屋敷の前庭から、明るい女の笑い声がした。
「ホ、ホ、ホ、ホ、馬鹿だねえ。どうしてそんなにノロマなの。とらえるといいわ、遠慮なく。さあさあ早くおとらえよ! ノロマのノロマの三吉や!」
すると続いて猿の声が、キーキーキーと聞こえてきた。
木立が深いので姿が見えない。と、派手やかな振り袖が、庭の一方から他の一方へ、木の間を縫って走って行った。しばらく経って追って行ったのは、毛だらけの猿の足である。
「オヤ妾をとらえるなんて、ほんとにいやらしい三吉だよ。お前、まるで文三のようだね」
手のひらでたたく音がした。とすぐ猿のなき声がした。
とまた派手やかな振り袖が、庭の一方から反対の方へ、木の間を縫って走って行った。
「ノロマのノロマの三吉や、どうしてそんなにノロマなの。とらえてごらんよ、さあ妾を」
ややあってノソノソした猿の足が、声のする方へ追っかけて行った。
どうやら鬼ゴッコをしているらしい。
その時一人の若者が、木戸をくぐってはいって来た。
「へ、へ、へ、へ、お嬢様、相変らずねんねえで」
「だあれ?」と娘の声がした。「文三さん? 何かご用?」ひどくその声は不平らしい。
「まだ親方は帰りませんかね」
「今夜あたり帰るとさ。……行ってくださいよ、用もないくせに。……ノロマのノロマの三吉や、とらえてごらん、さあ妾を!」また振り袖が木の間を縫う。
娘と猿の鬼ゴッコ。それを見ている文三という若者、変な気持ちにならざるをえない。
「ねえお嬢様、君尾様、三吉猿なんかチャイにして、私と鬼ゴッコを致しやしょう。ようござんすか、とらえますぜ」木の間をくぐって走り寄る。
「いやだヨ──、ばか文三」娘の声がすぐ聞こえる。「なんだい、お前色魔のくせに、いやらしいわ。大嫌い! さわっちゃいやよ、さわっちゃいやよ……ホ、ホ、ホ、ホ、いい気味だ! わたしが睨むと慄えるじゃアないか。弱い男ね、骨なしだわ。そうかと思うとしつッこくてさ、わたしの後ばかり追いかけてさ。ね、ね、ね、ね、君尾様、ね、ね、ね、ね、お嬢様、死ぬまで『ね、ね』というがいいわ。その代わりわたしもいってやるわ。そうよ死ぬまで『馬鹿文三』ッてね。……」
またも木の間をヒラヒラと、べに色勝った友禅の、振り袖姿がひらめき飛ぶ。
その後を追うのは猿ではなく、文三という若者の足。
「そう没義道におっしゃいますな。ね、ね、ね、お嬢様、文三はばかではございますが、どうやら猿よりはましの筈で。……早い早い随分早い、早いお足でございますなあ。こいつアどうも大汗だ。もっとゆっくり、お嬢様、内輪にお歩きなさいまし。……そうら捉まえた捉まえた。細くて白くてすべっこくて、綺麗なお手々でございますなあ」
「厭だよ厭だよお放しよ、なんてきたないんだろう、お前の手は。あぶらだらけで、ネチネチして、蛭だわ、蛭だわ、まるで、蛭だわ! 厭々! すいつこうッてのね。いよいよ蛭だわ。薄っ気味の悪い! ぶつよ! ぶつよ! 頬っぺたを!」
ピチャピチャピチャとたたく音!
「引っ掻いておやりよ、三吉や! かまわないよ、引っ掻いておやり!」
するとキーキーと猿の声。
「おお痛い、おお痛い、ぶちましたね。お嬢様、これは有難う存じます。いえ何大変結構で、ほう帯をして、油紙で包み、大事に致します。……がその代わりお嬢様! ちょっとちょっと。ようがしょう」
「何をするんだヨーいやな奴! だれか来ておくれヨー。だれか来ておくれヨー文三がわたしをなめ殺すヨーッ」
その時であった。木戸をくぐり、一人の人物がはいって来た。例の不思議な老傀儡師である。眼を据えて及び腰、木の間をじっと透かしたが、
「これ文三、何をする!」りんとした威厳のある声である。
「ヒヤッ」という文三の声。「これは親方、ようお帰り!」小びんを掻き掻き現われた。
「ようは帰らぬ、悪い時に帰った。アッハッハッ、気の毒だったなあ」
「へい」というとヒョコリとお辞儀。「お早いお着きでございます」
「何を馬鹿な、旅籠ではなし。自分の家へ帰って来たのだ」
「ご帰館!」と文三いい直した。
「ご洗足のお水、取りましょうで」
「何さ、裏に清水がある」
「へい」とトチッてまたお辞儀。
「それでは私は里じゅうへ……」
「うん、ふれを廻してくれ」
「ヘ──イ」というと汗をふき、野郎、木戸から飛び出してしまった。
「お父様!」と娘の声! うれしそうに走り寄った。
「娘や、やっと帰ったよ」老傀儡師は機嫌を直し、これもうれしそうに笑ったものである。
老傀儡師事杉窪の銅兵衛、里へ帰ったその日から、里の様子が一変した。兵糧の積み込み、武器の手入れ、まぐさの刈り入れ、四辺の防備、そうして毎日の秘密会議。男も女も子供までが、殺気を帯びて緊張してきた。いったい何事が起こったのだろう? いや何事が起こるのだろう?
「人数が不足だ、武辺者がほしい。五、六人ほしい、一人でもよい」口の中でこんなことをつぶやきながら、武事を監督した。
「どうなすったの、お父様?」娘の君尾が不思議そうにきいても、銅兵衛は手を振って答えなかった。「お遊びお遊び、歌ってね。お前にはそれが一番似合う。山の小鳥さん、お日様の子。なんにも心配することはないよ」
だが恐ろしい大敵が、襲って来るということだけは、間もなく君尾にもわかるようになった。
さてある日のことである。三吉猿を引き連れて、君尾は盆地をのぼって行った。のぼり切ったところに草原がある。灌木、微風、野花、小鳥、陽は明るく空気はにおい、大変心地よい草原である。
「さあさあ三吉、鬼ゴッコだよ。とらえてごらん、さあわたしを」例によって鬼ゴッコをやり出した。
スーッと君尾が走ってゆく。とその後から三吉猿、今日は手拭いで頬かむりをし、後足で立って追っかけてゆく。
だがなかなか捉えられない。しかしいったいどうしたのだろう? 猿は敏捷なけものだのに、いかに素早く走るとはいえ、娘の君尾をとらえられないとは? いやそれにはわけがある。つまり、君尾がひどく不機嫌になり、ピチャピチャ三吉をたたくからである。女の繊手というものは、どうしてどうして馬鹿にはならない。これでたたかれると随分痛い。三吉といえども痛いのはいやだ。で、利口に立ち働き、わざと捉えようとしないのである。だがあんまり捉えないと「ノロマのノロマの三吉や」こういって君尾に馬鹿にされる。芸を仕込まれている三吉猿、君尾の言葉なら大概わかる。でその言葉もわかってはいたが、言葉で軽蔑されるのと、手でピチャピチャたたかれるのと、この二つを比較してみると、まだまだ前者の方が辛棒ができた。で、やっぱり捉えない。とはいえいつまでも捉えないと、また君尾の機嫌が悪く、同じようにピチャピチャたたくので、そこで時には捉えることもある。
「ノロマのノロマの三吉や、さあ妾をとらえてごらん」
スーッと君尾は一方へ走った。
「ひとつ今度はとらえてやろう」こう思ったか三吉猿、一躍すると袖をとらえた。
「アラとらえたね、この悪者は! なんだいなんだいいやらしい。おとこ猿のくせに女をとらえ、何をするのさ、お放しよ! 放さないね。ソーラぶつよ」
そこで繊手がひらめいて、すぐピチャピチャと音がした。キーキーキーとなきながら、三吉猿はにげ出した。
「堪忍しない、堪忍しない。いやらしい奴、しようのない奴。ぶってやる、ぶってやる。サア、サア、サア、……」林の方へ追って行った。
と一人のさむらいが、林の中から現われた。じっと君尾をながめたが、
「これは意外! お京様!」こう叫ぶと走り寄り、つと君尾を引っかかえた。
「おお、お京様、拙者でござる!」武士の声は上ずっている。
見知らぬさむらいにひっかかえられ、驚いたのは君尾である。「何をなされます、失礼千万!」ポンとさむらいを突きやった。「妾は君尾と申します。お京様などとはとんでもない。お人違いでございましょう!」
「ナニ人違い?」とそのさむらい改めて君尾を見詰めたが、
「や、いかにも。これはこれは、人違いに相違ございません」あわててとったは編笠である。そこで殷懃に小腰をかがめ、
「私事は袴広太郎、江戸の旗本、小禄者。尋ねる人がございまして、諸国漫遊に出でましたが、あまりによく似たお姿のため、とんだ粗相をいたしました。なにとぞご勘弁くださいますよう」ひどく恐縮してわびたものである。
君尾はかえって気の毒になった。
「いえいえそのようにご丁寧に、おわびくださるには及びません。よくあることでございます」
「はい」といったものの広太郎、小首をかしげざるを得なかった。
「驚いたなア、そっくりだ。中高の細おもて、高貴の姫君ではあるまいか? そういったような貴族的の鼻、夢見るような神秘的の眼! だが、いささかちがうのは、お京様の方には霊性があり、この娘には野性がある。それはそうとこんな山中に、どうしてこんな美しい娘が、猿などと一緒に遊んでいるのだろう? 衣裳はといえば大振り袖、べに色勝った友禅縮緬。ううむ、帯は京物だな」まじまじ見守ったものである。
若いさむらいに見守られても、君尾はいっこう恥ずかしがらなかった。野原を吹く夏の風! そういったような性質で、ものにかかわろうとしないからである。とはいえいかにも江戸っ児らしい、洗い上げたりりしい若武士が、うっとりしたようなキョトンとしたような、やや道化た眼つきをして、いつまでもマジマジと見ているので、とうとう明るく吹き出してしまった。
「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、おさむらい様、お珍しそうでございますことね、でもお気の毒でございますわ。秋祭りにはまだ間があり、夏祭りは過ぎてしまいました。当分妾の顔の中を、だしは通りはいたしますまい。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、おあいにくさま!」いいたいことをいってしまった。
「や、これは、お手きびしいことで」しかし広太郎も吹き出してしまった。「アッ、ハッ、ハッ、ハッ、面白いことをおっしゃる。だが無作法はお許しを願い、どうぞもう少しお見せくだされ」そこで臆面もなくマジマジと見る。「いや活溌な性質だ。男を男とも思わない、それでいてすれっからしではなさそうだ。つまり自然児というやつだな。おれは好きだ、ひどく好きだ」
不意に君尾が声をかけた。
「失礼ながらお武家様には、剣術がお出来でございましょうか?」
「さよう。いささか、柳生流をな」
「あの、名人でいらっしゃいますの?」
「なかなかもって。下手糞の方で」
「いいえ」と君尾は真顔に笑った。「きっと名人でいらっしゃいますわ」
「結構な折り紙。ありがたいことで」
「自然とわかるのでございますの」
「ははあ人相もお出来とみえる」
娘があんまり開放的なので、つい広太郎もつり込まれ、冗談口を利くようになった。
「出来ない方は自慢をし、お出来になる方は謙遜します。……下手だとおっしゃったではございませんか。ですから名人でいらっしゃいますのよ」君尾、やっぱり笑いながらいう。「それはそうとお武家様、なんと思って杉窪などへ、おいでになったのでございますの?」高価な衣裳を惜し気もなく、君尾は草へ坐りこんだ。
君尾が草へ坐ったので、これもうっかりつり込まれ、広太郎も草へ坐り込んだ。
「ははあそれではもうここが、杉窪の里でございますかな」広太郎の方できき返した。
「はい、さようでございます。盆地をくだれば杉窪の里、ほんの眼の下でございますの」
「実はな、先ほども申しましたとおり、尋ねる人がありまして、まず手はじめに水戸の方を……といって何もその水戸に、尋ねるお方がいるものと、そう思ったのではございませんが、……つまり、一つにはうさ晴らし、霞ヶ浦の風景でも、探ってみようかと存じましてな。松戸の宿まで参りましたところ、眼についたは一つの石標、西、杉窪の里とある。実は以前より杉窪については、耳にしたこともございましたので、こういう場合、出掛けて行き、変った土地を見るもよかろうと、それで参ったのでございますよ」
「おやおやさようでございましたか。でも杉窪と申しましても、別に変った土地でもなく、家があって、人がいて……悪い人だっておりますのよ」
「ほほう、悪人もおりますかな?」
「文三といって大悪人……」
「ははあ、人殺しでもしましたので?」
「妾を追っかけるのでございますの」
「なるほど、そいつは悪い奴だ」広太郎愉快に笑ってしまった。
「でも、いいものもおりますの」
「ははあ、美しい若い衆でも?」
「あの、いいえ、三吉猿」
すると小粋な頬かむり、のみを取っていた三吉猿が、自分の姓名を呼ばれたので、急いで手をとめて振り返った。そうして存在を示すように、キーキーキーとないたものである。
「これはこれはよい若衆。ははあ三吉と申しますかな」またも広太郎笑ったものだ。
「お可哀そうでございますわね」君尾、こんなことをいい出した。「お探しなすっているお京様、まだお目つけになれませんので」
「これは容易に目つかりますまい」
「あの、妾に似ておりますそうで」
「下世話にいう瓜二つ」
「では、やっぱり妾のように、お美しい方なのでございますのね」
「ううん」と広太郎面喰らってしまった。だが益〻気に入った。──素直でいいな、全くいい。──
「さようさよう、あなたのように、お美しい方でございます」
「そうして妾のようにおとなしい」
──あッ、こいつだけは賛成出来ない──。
「いや、あなたはお転婆でござる。もっともそれがよろしいのではあるが。……」
こう率直にいったのが、かえって君尾には気に入ったらしい。ホッ、ホッ、ホッ、と例の笑い──明るい笑い声をぶちまけた。
と、すぐ木だまがホッ、ホッ、と返り、それを縫って、キョッ、キョッ、キョッと、ほととぎすの声が聞こえてきた。
「いいなア」と広太郎はうっとりとした。「お京様そっくりのこの娘と、こんなすがすがしい山間で、一緒に暮らしたらどうだろう」
その時君尾がいったものである。
「あの、袴広太郎様、お願いがあるのでございますの。どうぞどうぞ当分の間、むさくるしくはございますが、妾の家にお泊まりくだされ、杉窪の里の人たちの、味方となってはくださいますまいか」
その声には熱があり、訴えるようなところがあった。
袴広太郎と君尾とが、山上で話をしている頃、銅兵衛は武器蔵で部下を指揮し、武器の手入れにふけっていた。
「槍が五十筋、弓が百張、ええと太刀が五百振りか。……それから鉄砲が六十挺に、地雷弾が八十個かな。……さあさあ矢尻をとぐがいい、弦を張ったり弦を張ったり。……貝と鉦とは大丈夫かな。……ほぐれぬように柄糸を巻き、刀のさびを落として置け。……二十挺の種ヶ島の筒口に、湿りをつけてはならないぞ。……鞍からあぶみからくつわまで、手落ちがあったら承知しねえ。……籠手すね当てのかずを調べ、野郎どもに渡して置け。……くさりかたびらも大切だ、千切れた所はつづるがいい……たすきの白布頭の鉢金、さあさあ人数だけこしらえろ……」
銅兵衛八方へ指図をする。
武器と武器との触れ合う音、ビーンビーンとつる鳴りの音。……出て行く者、はいって来る者、女は女で立ち働き、男は男で立ち働く。手入れができると片っぱしから、ドンドン外へ持って出る。要所要所へ配るのであろう。そとから持ち込むのもある。イタミの出来た武器であろう。
「ばかめ、なんだ、その手入れは!」銅兵衛またも叫び出した。「布でふいて油を塗れ! 油を塗ったらまたふくのだ。そうだ今度は乾いた布でな。……これこれ馬鹿者、なんということだ。槍の穂先を磨き粉で磨く? そんなべら棒があるものか。やっぱり布だ、布で拭け。さてそれから油をさす、そうして二、三時間うっちゃって置く。乾いたところでまた拭くのよ。そういうことを五、六度やる、すると錆なんか落ちてしまう。……さあさあ今度は楯を磨け! とりわけ竹立牌に気をつけろ。それで銃丸を防ぐことが出来る。……巣車の縄をなえ! 弓がけ、弓ごての縫い目をしめろ! ああ忙しい忙しい! これでは狂人になりそうだ! さすまた、もじり、棒、まさかり、こういうものだって馬鹿には出来ねえ、出来るだけ手入れをするがいい」
副頭領の楠右衛門、四人の小頭、十人衆、いわゆる家の子郎党が、クルクルクルクルと立ち働く。
蔵内の暑さ、人いきれ、その中に殺気が充ちている。
「ところでおとしあなは掘ったかな? 逆茂木をうんとこさこしらえて置け!」またも銅兵衛わめき立てる。「敵は大勢、しかも強い。血煙り矢だまをくぐって来た奴らだ! まごまごするとみな殺しにあうぞ!」
「ナーニ親方、大丈夫だ」誰とも知れず一人がいう。
「うん、そうとも、大丈夫だ」杉窪の銅兵衛すぐ応ずる。「が油断は禁物だ」
「ナーニ、あべこべにみな殺しにしてやる」
「うん、その元気。そいつが大事だ!」
ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、武器を運び出す掛け声だ。ド──ンと遠くで爆発の音!
「えい、間抜けめ、もったいない。地雷弾を一つ落としゃアがった」
カツン、カツンと木を切る音! 掩護物を造るため、斧を振るっているのだろう。
なんのための戦闘準備? 何者がせめて来るのだろう?
「味方がほしいな。軍師がほしい」銅兵衛口の中でつぶやいている。「おれ一人では手が廻らない」
カパ、カパ、カパと蹄の音! 誰か物見に行くらしい。
その時バタバタと足音が、武器蔵の方へ走って来た。
バタバタと武器蔵へ走って来たのは、ほかならぬ娘の君尾であった。
「お父様! お父様!」と嬉しそうに、「あの、お客様でございますの、山で目つけたお客様。江戸のお方でお旗本、そして剣道は柳生流、お若くてりりしくて立派な方。霞ヶ浦へおいでの途次、この里の噂をお聞きになり、見物に参られたそうでございますの。客間においででございます。早く早くお逢いなさりませ。助太刀をなされてくださるそうで、ええええ妾がおたのみしましたのよ」こういうとまるで子供のように、銅兵衛の袖を引っ張った。
驚いたのは銅兵衛で、「これこれ娘、どうしたのだ。袖がもげる。まあ待ってくれ」それからちょっと考えたが、「不思議だな、合点がゆかぬ。こんな場合に見知らぬ武士が、戦の助太刀しようなどと入り込んで来るとは受け取れない。……楠右衛門どん!」と呼びかけた。
「おい」と副頭領の楠右衛門、五十年輩のたくましい顔を、銅兵衛の方へ振り向ける。
「お前さんはどう思うね?」
「さあ」と眉を顰めたが、「奴らの間者じゃアあるまいかな」
「何をいうんだよ、馬鹿楠右衛門!」君尾遠くからぶつ真似をした。「そんな人品とは違うのよ。立派な立派な若殿様。お前の息子の文三なんか、束になったって追ッつきはしない。証拠があるのさ、いい証拠がね。悪人か善人かすぐかぎ出す三吉猿がなついたじゃアないか」
「ほほう」というと楠右衛門、金網窓へ半面を向け、槍の穂先をとぎ出したが、「三吉猿がなつくようなら、なるほど悪人じゃアなさそうですね。……文三、こいつは馬鹿でごわす」
するとさっきからそのそばで、弓弦を張っていた当の文三、テレまいことか、頬をふくらませフッと横を向いたものである。
「アッハッハッ」と杉窪の銅兵衛、とりなすように笑い出した。「どうも相変わらず口が悪い。が、こいつも育ちのためさ。素姓は途方もなくいいのだが。……それはそうとそのおさむらいさん、姓名を名乗りはしなかったかな?」
「姓は袴、名は広太郎。こうおっしゃってございますの」
「えッ」というと杉窪銅兵衛、持っていた種ヶ島をほうり出し、何かにさされでもしたように飛び上がった。
「袴広太郎! ううむ、袴! や、えらい人がおいでになった!」
「爺つぁんおめえ知ってるのか?」けげんそうに楠右衛門が声をかけた。
「知ってる段かい、大知りだ! 立派な人物! いい味方だ!」
「ご覧よご覧よ楠右衛門め! 間者だなんて何をいうんだよ。若殿様だよ、思い知るがいい」君尾ピシャリとやッつける。「ねえ、お父様楠右衛門は、よっぽど馬鹿でございますねえ」
「そうともそうとも大馬鹿者だ」銅兵衛衣紋を整える。
「文三も馬鹿でございますねえ」
「問題にも何にもなりゃアしない。……どれそれではお目にかかろう」
武器蔵を出ると中庭である。それを通ると母屋の縁、廻廊をまがると客間である。細目にふすまを引き開けたが、内の様子をうかがった。間違いない。袴広太郎、旅よそおいで控えている。まず「ご免」と声をかけ、銅兵衛サラリとふすまを開けた。
「袴広太郎殿、しばらくでござった」
振り返った袴広太郎、「おおこれは傀儡師殿!」
「さようで」というと杉窪銅兵衛、ピタリとすわったものである。
広太郎と銅兵衛とのこの会見、銅兵衛にとっても意外であったが、広太郎にとっては一層の意外といわざるを得なかった。「いつもよいところへ現われて、ピタピタ予言をしてくれた、あの不思議な老傀儡師が、ここの主人とは夢のような話だ」──で広太郎手をつかえ、挨拶の言葉をのべようとした。と、銅兵衛とめたものである。
「ああいやいや広太郎殿。お互いの挨拶は抜きとして、早速ながらお願いの筋、なんと聞き届けてはくださるまいかな。というのはほかでもござらぬ。われら一同大敵を受け、今や困難の立場におります。でご助力をねがいたいもので。もっとも娘より承れば、すでに承引くだされたとか、事実ならば千万お礼。いかがのものでございましょうな?」
底力のある声である。覇気充満の態度である。傀儡師時代とは似も似つかぬおもかげ、さながら老英雄である。気合いに押された広太郎、ついつり込まれてのっけからいった。
「よろしゅうござる。恩報じの意味、何事であれ、お味方致す。しかし若輩拙者などが……」
「謙遜ご無用」とまた銅兵衛、片手を上げると抑えつけた。
「たしか剣法は柳生流、据え物切りではご名人。兵法はたしか甲州流、小幡勘兵衛景憲殿の、印可を受けておられる筈。義心厚く熱情家。もっとも時々憂鬱になられ、ずいぶんムダ使いもなされるし、場合によっては毒舌もふるわれ、またしゃれなども仰せられる。お家は豪富、ご次男の筈、何から何まで存じております。アッハッハッハッ、どうでござる」
これには広太郎気味を悪くした。自分より自分のことを知っている。いったいどうしたというのだろう? ぼう然とならざるを得なかった。それを見て取った杉窪銅兵衛、にわかに調子をおとしたが、
「いやナニ、これには理由がござる。非常に簡単な理由がな。一口に申せば隅田において、島原城之介と斬り合われて以来、拙者不断に貴殿の身辺を、つけ廻して研究いたしましたのでござる」ここでニッコリ微笑したが、にわかに穏やかな顔となり、好々爺のおもかげさえ現わした。
「しかし」というとキッとなった。「決してご貴殿お一人を、つけ廻していたのではございませぬ。天草時行、島原城之介、イスラエルのお町、由井正雪、すなわち巻軸に関係ある、あらゆる人達の身辺を、つけ廻していたのでございますよ。さてその理由は……」とここでまた、やさしい顔に一変したが、「その巻軸を拙者の手に、奪い取ろうがためでござった。……そうして幸いにも巻軸は、今や拙者の手中にござる。しかるに……」というと銅兵衛の顔、恐怖の情を現わした。と、ゴックリとつばを飲む。「しかるに天草時行一味、近日大挙してここへせめ込み、巻軸を奪い返そうといたす! きゃつ極悪、佞奸の人物。しかも恐ろしい兵法家! 一味は兇暴、命知らず。……で、お助太刀を願うのでござる」
はじめて敵の何者かを、銅兵衛うち明けたものである。
広太郎自身からいう時も、お京様を一時監禁した、天草時行そのものは、まさしく敵といってよかった。そいつを相手に戦うことは、むしろ痛快なことであった。「よし一番戦ってやろう」決心のほぞはかためたが、気にかかるは巻軸である。
「さてご老人、助太刀の儀は、拙者誓ってお引き受け致す。ついては多勢の人々が、そうまであらそう巻軸なるものの、内身はいったいなんでござるな?」思い切ってきいたものである。
巻軸の内容はなんであるか? こう広太郎にきかれた時、銅兵衛の顔は充血した。しかし結局語らなかった。
「九州島原、原の城、落城の前に持ち出された、絶対秘密の巻軸でござる。巻軸、城より持ち出されたため、原の城は落ちたのでござる」わずかにこういったばかりである。
もうこれ以上は聞かれない。断念をした広太郎、銅兵衛の屋敷にとどまって、薀蓄を傾け防戦準備、それに専心することにした。
一日二日たつうちに、腑に落ちないことが出来て来た。君尾に対する銅兵衛の態度が、なんとなく、ピッタリ来ないことであった。一方限りなく愛しながら、一方恐ろしく尊敬している。主人の娘をあずかった家来というような態度がある。が、まずそれはよいとして、副頭領楠右衛門のせがれ、文三という若者が、君尾をつけまわす一事だけは、広太郎に我慢出来なかった。で自然強くあたる。すると文三も強くあたる。お京を金弥と争ったように、ここでは君尾を中心にして、邪心深そうな文三と争わなければならなかった。しかしお京が金弥よりも、広太郎を愛したそれと同じく、君尾は文三を軽蔑し、広太郎に愛の眼を注いだ。まず安心というものである。
「おれはお京様を忘れたのではない。お京様を愛しておればこそ、お京様そっくりのこの娘を、こんなに愛し恋しているのだ」これが広太郎の心持ちであった。
君尾にとっては広太郎は、はじめての恋しい男であった。里の若者のガサツとちがい、なんと広太郎は優秀なんだろう! 山上ではじめてあった時から、君尾は広太郎に魅せられた。だがおおかたの処女なるものが、恋を感じたその場合、物思わしくなるのと違い、君尾はいよいよ快活になった。で、広太郎と三吉猿、恋しい男と可愛い動物、二人をつれて駈け廻った。
一方広太郎は里人の間に、信頼と尊敬とを博していた。親方に忠義な里人が、その親方の気に入っている、広太郎を気に入らない筈がない。広太郎と君尾の恋についても、里人は好感を持っていた。たまらないのは文三である。で、いつも機嫌悪く、広太郎と君尾の挙動ばかりを、白い眼をしてネメ廻した。
武備はドンドンはかどった。さあいつでもやって来い! 杉窪の里は活気に充ち、里人は腕をさすったりした。
さてある日のことである。江戸へ出して置いた物見の一人が、敵の行動を知らせて来た。
「巴御殿からチラホラと、天草一味の連中が、水戸街道へ入り込みましたぜ」
「敵の同勢約五十」これが第二の報告であった。すると銅兵衛はこういった。
「いやいやもっと来るだろう」
はたして第三の報告には「敵の同勢八十」とあった。
「いやいやもっと来るだろう」これが銅兵衛の意見である。はたして第四の報告には「敵勢大略百人」とあった。
「もうそれくらいでとどめたいものだ」こう銅兵衛はつぶやいた。
しかしその次の報告には「敵の同勢百五十人」とあった。
「ううむ、随分やって来るな」
「石標のところから真っ直ぐに、押しのぼって来る」という知らせがあった。
「正面から来るな、大胆至極、自信がなければ出来ないことだ。天草らしいやり方だ」銅兵衛不安そうにつぶやいた。
と、果然驚くべき、一つの知らせがやって来た。
なんだろう驚くべき知らせとは?
「天草一味と連絡のない、一百人の同勢が、二挺の駕籠を引っ包み、草加宿の方面から、上がって来る」というのである。
「不思議だなあ、何者だろう?」
「巻軸取りの連中は、天草以外にも沢山あるが、傀儡仕込みの火術をもって、天草一味を混乱させ、ドサクサまぎれに奪い取ったことを、知っているものはない筈だ。ではやはりその同勢は、天草一味の別動隊ではないかな。どっちにしても困ったことだ。味方は一切で三百人、女子供と老人を抜かせば、戦闘員は百人しかない。地の利を占めているとはいえ、二百五十人を相手にしては、ちょっとどうも防ぎかねる」銅兵衛はますます不安そうにした。
「広太郎殿どうしたものでござろう?」相談をかけたものである。
「草加の方から来るといえば、里の背面を襲うものとみえます。うっちゃって置くことは出来ますまい。といって、人数を二手にわけては、両方とも守備が薄くなります。で背面へは地雷を仕掛け、点火の人数を二、三人だけ、配置することに致しましょう」これが広太郎の意見であった。
「これはいかにもそれがよかろう」──で地雷弾を埋めることにした。
天草一味の百五十人が、盆地の頂き、東南の地点、柏峠に陣を張ったと、そういう報告のあったのは、広太郎が里へやって来てから、十五日を経た頃であった。戦機いよいよ熟したらしい。そこで広太郎の意見として、女子供や老人を、一人残らず一まとめにし、銅兵衛の屋敷へ籠らせることにした。女たちにはドンドン焚出しをさせ、子供達には矢だまを運ばせ、老人達には女子供を、監督させることにした。そうして屈強の若者だけを、敵の正面へ立ちむかわせ、空き家になった家を、掩護物として戦うことにきめた。そうして広太郎は馬に乗り、真っ先に出て指揮をしよう、こういうことに一決した。副頭領楠右衛門は、旗本ともいうべき屋敷にあって、銅兵衛と君尾を守ることにし、文三が地雷のかかりとなった。さあいつでもやって来い! 士気はまさに横溢であった。
その十五日目の日もくれて、二十日の月がかかったころ、一つの人影が人目を忍ぶように、盆地の上へ上がって行った。上がりきった所は原である。見ると遙かの林の中から、篝火の光がもれて来た。
「よし」というとその人影、かがり火を目がけて走り出した。と灌木の茂みから、二、三人の人影が現われた。
「これ、貴様、何者だ」抜き身を突きつけて取り巻いた。
「へい、私は里の者で」
「うむ、そうか、どこへ行く?」
「天草殿に逢いたいので」
「ははあ貴様、間者だな」
「いいえそうじゃアございません、天草殿にお目にかかり、お話したいことがございますので。どうぞ陣所までお連れなすって。へい、大丈夫でございます、刃物一本持っていません」
「そうか」というと二、三人の者、何か互いに耳打ちをしたが、
「よろしい、それでは案内して進ぜる」
二人の武士が左右につき、篝火の方へ歩きだした。
篝火に近づくに従って、白い物が見えてきた。張り廻された陣幕である。
陣幕の中央に床几がある。天草時行が腰かけている。なんの武装もしていない。例によってきたない爺いである。さけたみつ口から歯が見える。左手にいるのは築土新吾、鎖かたびら、籠手脛当、陣羽織をはおっている。その外には誰もいない。ひどくサッパリした陣営である。槍が一本立てかけてある。そのほかには武器もない。いやいや一個恐ろしいものが、陣幕の隅に据えてある。スペイン製らしい精巧な野砲。陣幕のそとには二頭の馬が、バリバリ草を食っている。
パチパチと篝火の燃える音、時々夜烏のはばたく音、百五十人の同勢は、いったいどこにいるのだろう? 出切ってしまったに相違ない。
「どうもいけないよ。浮世の連中、ひどく物事を信じたがってな」話の続きに相違ない。天草時行さえない調子で、忙中閑ありというように、こんな事をいい出した。「孫子呉子、六韜三略、などというからロクないくさは出来ない。すべて前人の作ったものは、認めないことにするがいい。認めるからこそ議論が起こる。議論というものは花が咲く。花ばっかり論じるようになる。自然根のことを忘れてしまう。地面に足がつかなくなる。そこで地上三尺生さ。『夜間の突撃には喊声を上げず』などということがいわれているが、場合によっては喊声もあげるさ。ナーニおれの筆法からいけば、『夜間の突撃には喊声を上げず』だからおれは喊声を上げると、こうアマノジャクにいきたいのさ。『土煙の高くして淡きものは、これ騎兵の行進なり』などということが書いてあるが、これだって実際いいかげんなものさ。大鹿の群れが走って行ったって、そういう徴候は見られるんだからなあ。……それはそうと島原一揆では、おれも随分働いたものさ」みつ口から歯茎をほころばせた。
「ええやはり天草殿には、天帝をお信じなされた結果、原の城へお籠りなされたので?」築土新吾、慇懃にきく。
「ぼろい儲けはあるまいかな? こう思って入城したってものさ。神様商売もうまくやると、お賽銭のあがりが大きいからなあ。ところがどうも島原では、思うようにはいかなかったよ」
「それはまたなぜでございましたな?」
「一口にいうと信者ばかり多くて、不信心家が少なかったからさ」
「面白いお言葉でございますな」
「面白いものか、ひどい目にあったよ。だってお前そうじゃアないか。一切物は信じてはいけない、それだのにお前物もあろうに、神様なんかを信じるんだからなあ。戦争に負けるのはあたりまえだよ」
「しかし神様というものは、信じるものではないでしょうか?」
築土新吾は、不思議そうにきく。
「神様の方からいえばだね、まさしくお前のいうとおりだよ。だが人間からいう時は、信じるような顔をして、本当のところは利用するんだなあ。……待てよ?」というと天草時行、床几から離れて槍をとり、陣幕をくぐってそとへ出た。
二十日の月がかかっている。森も林も灌木も、月光に浸ってぬれている。戦いの前の静けさである。槍を地につき、槍の柄へ、額をおッつけた天草時行、じっと何かを聞き澄ました。
「気になるなあ、どうも変だ。……あの物音! なんだろう?」
杉窪の里とは反対の方へ、聞き耳を立てたものである。が、いったいどうしたんだ、なんにも音などは聞こえないではないか。しかし天草には聞こえるとみえ、槍を取り直すと引きしごき、見えない敵へ突っかけた。「カーッ」とかけた気合いである。
見えない敵へ気合いをかけ、さて引っ返して来た天草時行、床几に腰かけると考え込んだ。
「どうなされました、天草殿?」築土新吾、不思議そうにきいた。
「うむ」というと天草時行、皺顔を一層しわにしたが、「どうもな、ちょっと変なのだ。だが恐らく空耳だろう。いくさ場では色々かわったことがある。で、カーッと気合いをかけ、悪魔ッ払いをやったッてものさ。だがもしこれでも聞こえるようなら備えの立て方をかえずばなるまい。……それはそうと、神様のことだが、島原一揆の連中には、森宗意だの蘆田忠左衛門だの、相当の人物がいたんだが、どうもね、みんな信心家で、ハレルヤ、ハレルヤ、ゼウス、ゼウス、などと変てこな呪文を唱え、神様へ頭をさげたので、とうとういくさに負けッちゃッた。なんにでも頭をさげちゃアいけねえ。さげたとたんに退治られる。神様なんかにさえ退治られる奴らだ。松平伊豆にかなうものか。松平伊豆ときた日には、神様へ塩を振りかけて、取って食おうというえら者だからなあ。術数権謀の化け物だよ。ああいう奴こそ人間だよ。……で、おれは見切りをつけ、原の城から抜け出したってものさ。入城したから退城した。ちっとも不思議はないじゃアないか。はいったが最後、出られねえような奴は、とても浮世では出世しないなあ」
すると築土は微笑したが、「その砌たしか天草殿には、巻軸をお持ち出しなされた由で」
「オイオイ築土、何をいう。持ち出したなんて、人聞きが悪い。ふんだくって来たとこういいねえ。すべて物事というものは、下等な言葉でいうがいい。万事その方がいきいきしてみえる。上品な言葉を使ったが最後、物事精彩を失ってしまう。……そうだよ巻軸をふんだくって来たよ。ところがどうも驚いたことには、おれより一層素早い奴があって、いつの間にか一本持ち出してしまった。二本の巻軸を合わせないことには、秘密の糸口はわからないんだからなあ。これにはおれも参ってしまったよ」
「その素早い人間とは、杉窪の銅兵衛でございましょうな?」
「そうだよそうだよ銅兵衛だよ。きゃつも一個の人傑だが、その上に立っている人間が、すばらしくえらい人物だな」
「ははあ何者でございますか?」
「葵のご紋だ、葵のご紋だ」
その時であった、陣幕の外から、「天草殿へ申し上げます」こういう声が聞こえてきた。
「はいはい何用でござんすかえ?」天草時行気軽に答える。
「文三と申す若者、密々に言上致したいと、里を抜け出して参りましてござるが」
「ほほう、さようで。それは結構。文三さんとやら、さあおはいり」
声に応じて陣幕をかかげ、恐る恐る姿をあらわしたのは、さっき盆地を駈けあがり、天草の部下にとらえられた男、楠右衛門の子の文三であった。
「ようおいで、今晩は。築土よ築土よ、円座をおやり。さあさあ文三さんお坐りなすって。……さア何用で参れらたな? などと正面から切り出すと、ちといいにくうござろうな。開戦間際に味方を出し抜き、こっそり敵陣へ来られたからには、内応と見当をつけるが当然。よろしゅうござる。内応なされ。いずれござろうな、交換条件が。金かな、それとも女かな? 二つの外にはござるまい。人間の欲望押しつめると、二つの外には出ませんからなあ」
内応であろう? 交換条件は? こう天草にいい出されて、文三ハナから度胆を抜かれた。しかしこやつもシレモノである。のっけから条件を切り出した。
「女がほしいんでございますよ」
「ああさようで、ご婦人をな。で、どういうご身分の方で?」
天草時行依然として軽い。
「親方銅兵衛の一人娘、君尾という子でございます」
「ははあなるほど、君尾ちゃんで。……どうなさろうとおっしゃるので?」
「いずれ乱軍になりましょう。ドサクサまぎれに引っさらい、逃げて行きたいんでございますよ。あなたの陣中へ飛び込みます。その時お見のがしを願いたいもので」
「たいへん簡単で、いと易いこと。承知しました。見逃がしましょう。で他国でむつまじく、一緒におくらしなさいまし。……ところで内応の方法は?」ピンと天草ひきしまった。
「盆地の裏手、屋敷の背後、そこが手薄でございます。ただし地雷が張ってあるので、幸い私がその係り、火口をしめして置きましょう。破裂しっこはございません。そこからおせめなさいまし」
「ははあ」というと天草時行、トロトロトロトロと両眼を、硫黄火のように輝かせた。まるで妖精の眼である。が、そいつがポッと消えると、トボケた爺さんに一変した。「結構な内応、満足でござんす。しかし」というと天草の眼、またもや硫黄火をたき出したが、「よもやペテンではありますまいな! もしもペテンであろうものなら、おのれのこがれる君尾とやら、この時行がひっさらうぞよ!」ヌッと立ったが姦雄の本性、瞬間に現われて、まるで鬼だ。
が、ヒョロヒョロと床几へ腰かけ、ホッホッホッホッと女のように笑った。「いや信じます、信じます。なんのあなたがペテン師なものか。人相に出ています人相にな。よい人相、善人善人。で、取り引きもこれで終った。ではお別れと致そうかな。……ああそれからもう一つこれは付録としておたずねしたい。ええと最近に銅兵衛さんが、大事にしている一つの品物、箱か竹づッぽかそんなような物が、たしかにあると存じますがな、どの辺にしまってありましょうな?」何気ない様子にカマをかけた。うっかり乗った裏切り者、文三ベラベラしゃべってしまった。
「肌身放さず親方が、持っているようでございますよ」
「で、今夜は銅兵衛さん、どこらあたりにおいでかな?」
「武器蔵か本陣でございます」
「では文三さん、おさらばおさらば」
陣幕をくぐって文三が、そとへ出たのを見きわめると、天草時行突っ立った。
「築土築土いくさは勝ちだ! 伏せた五十人を引き払い、貴様そいつを引率し、裏手へまわって乱入しろ! 本陣へだ、武器蔵へだ! 残った百人で正面攻撃、大石大木を投げおろし、弓鉄砲で打ちすくめろ! むやみと喊声を上げるのだ! 牽制するのだ、敵勢をな! それから槍だ! 突き崩すがいい! 手に余ったら火をかけろ! 分捕り功名勝手次第。この里には別嬶もいる、一人ずつ嬶にするがいい。ため込んだ金もある筈だ、洗いざらいふんだくってしまえ! まず行って下知を伝え、その足ですぐに裏手へ廻れ!」
「はっ」というと築土新吾、陣羽織の袖をひらめかし、幕をくぐって飛び出した。
だが不思議にも天草時行、さも不安らしく渋面を作った。
「聞こえる聞こえる変な物音が!」槍を握ると陣幕から、ヒラリとこれも飛び出した。
陣幕から飛び出した天草時行、槍を横たえると地上へ寝、土へ耳をおッつけた。
「約半里、東北にあたり、人数にして百人前後、まさしくこっちへのぼって来る。不思議だなあ。何者だろう?」じっと聞きすましたものである。「どっちみちうっちゃって置かれない、そうだ!」というと飛びあがり、陣幕の中へ駈け込んだ。
引き出したのはスペイン製の野砲、ガラガラと東北へ押し向けた。
「さあ来てみろ、防いでみせる! 十発も放したらみな殺しだ!」
月光にギラギラ輝くのは、上向いた野砲の筒口である。槓桿にかけた天草の手が、かすかにかすかにふるえるのは、強敵と睨んだがためだろう? だが何にも聞こえないではないか!
いやさすがは時行である。その聴覚には狂いがなかった。
ここは天草の陣営から、半里離れた峠道、今一隊の異風行列が、二挺の駕籠を前後に包み、十本のたいまつで道を照らし、粛々として歩いて来た。そのかずおよそ一百人、だが扮装は別々である。儒者風の者、鷹匠風の者、卜笙者風の者、僧体の者、神主風の者、鍛冶風の者、瓦工、陶工、人相見、石工、仏工、医師風の者、しかしいずれも一様に、天狗の面をかぶっている。ある者は槍を持ち、ある者は弓を持ち、ある者は鉄砲をかついでいる。豪奢を極めた駕籠である。その一挺は女駕籠。と行く手に森があった。行列がそこへさしかかった時、駕籠の中から声がした。
「この辺でよかろう。駕籠とめい!」
同時に二挺の駕籠が下り、タラタラと一同居並んだ。カタンという戸の開く音、一挺の駕籠から現われたのは、緋の衣にときん篠懸け、羽団扇を持った人物で、天狗の面をかぶっている。すなわち僧正天狗である。据えられた床几に腰を下ろすと、まず悠然と見廻した。
「江戸を離れる数里の山間、おそらくあたりに人もあるまい。連判状を読み上げい」重々しい声でいったものである。
「はっ」というと一人の天狗、髪は総髪、法眼袴、威風あたりを払うのが、スルスルと前へ進み出たが、懐中から巻物を取り出した。
と、スッ──と上へ持ち上げ、徐々にキリキリと巻きほぐす。と、読み出したものである。
「それ人は天地の精、人ありて万物備わる。この上に立って支配するもの、みかどにあらずんばあるべからず。わが日東扶桑国、いにしえより上帝臨幸し、教えを垂れ、神を敬い、下を恵み、皇統連綿、無窮に伝え、国は神国、仁義堂々、諸域にまさる。中古代わって政をとるもの、源家以来将軍と称す。その威年々盛んにして、あえて朝威を傾けんとす。これ尊王の大義を忘れ、人臣の礼を欠きたるもの。しかも驕慢四民を悩まし、下苛政を恨まざるなし。ここにわれら義を結び、盟を作って義旗をひるがえし、武権をくじき皇威を揚げ、政事を神代に返さんとす」
読み終わると一礼し、僧正天狗の膝もとへ、開いたままの連判状、つと押しやったものである。
「盟主とたのみ奉るは、紀伊大納言頼宣卿!」
「うむ」というと僧正天狗、袖から錦の袋を出した。「牧野兵庫、これをおせ!」
進み出たのは儒者風の天狗、袋を受け取ると印を出した。
「虎の御印、すわりましたぞ!」
声に応じて一百人、一同額を地につけた。
頼宣卿の虎の御印、連判状におされるや、法眼袴の総髪の天狗、ふたたび連判状を取り上げた。
「指揮するもの由井の正雪」こういうと自身頭を下げた。「江戸表は佐原重兵衛」
声に応じ、頭を上げたのは、医師姿の天狗である。
「大坂表は金井半兵衛」
すると鷹匠に身をやつした、一人の天狗が一礼した。
「京都表は熊谷三郎兵衛」
鍛冶風の天狗一礼する。
「元帥は柴田三郎兵衛」
陶工風の天狗一礼する。
「柳営放火、将軍脱出、丸橋忠弥、あずかるべきもの」
神主風に身をやつした、一人の天狗が一礼する。
「名古屋表は坪内作馬」
──と、僧体の一人の天狗、これも謹んで一礼する。
「大将衆といたしましては、吉田初右衛門、加藤市郎兵衛、鵜野九郎右衛門、秦式部、桜井三右衛門、石橋源右衛門、有竹作左衛門、四宮隼人、永井兵左衛門、戸次与左衛門、以下そのかず一百人、血判いたしましてございます」
朗々たる音声、それに従い、シタシタと頭を下げたものである。
すなわち慶安義士の一党、頼宣卿を盟主に奉じ、改めて誓いを立てたのである。
と、頼宣、声をかけた。「正雪舞え! 予が歌う!」
「はっ」というと立ちあがり、法眼袴の一天狗、由井の正雪踊りだした。
「天王寺の妖霊星!」羽団扇で膝をたたきながら、僧正天狗、頼宣卿、さも豪壮に歌いだした。
それに合わせて一百人、「妖霊星! 妖霊星!」
「天王寺の妖霊星! 見ずや見ずや妖霊星! 天下乱るる前兆なり!」
「妖霊星! 妖霊星!」一百人が合唱する。
ドカドカ燃えるはたいまつだ。キラキラ光るは森の木々。ザワザワ渡るは深夜の風だ。物すさまじい光景の中、幕府の権勢を空しゅうし、踊り狂う天狗舞い! 足裏を見せ、身を斜めに、キリキリ廻ったとたんである。風が変わったか遙か山上、杉窪の里の方角から、喊声剣戟の音がした。
「踊りやめい!」と頼宣卿。「誰かある。物見致せ!」
「はっ」というと神主風、一人の天狗が飛び出した。丸橋忠弥盛幸である。灌木を渡る風のように、サーッとばかりに駈け出した。
あとは寂然と声もない。
と、またもや風に連れ、鉄砲の音が聞こえてきた。
「第二の物見。柴田参れ!」
正雪声をかけた時、馳せ返って来た丸橋忠弥、片膝を敷くと声をはずませ、
「杉窪の里を追っ取り巻き、何者か攻め立ておりまする。窪地の頂きに野砲一門、こなたに筒口を向けまして……」
「よし!」と頼宣みなまで聞かない。「正雪指揮! 里を助けろ!」
「承る!」と走り出した。
「五十人は続け! あとはご警護!」
二手に別れた一百人、五十人が後を追う。
「姫よ、姫よ!」と頼宣卿、女駕籠へ声をかけた。
スッと駕籠から現われたのは、小松原の娘お京である。
駕籠から現われた一人の娘、それはお京に相違なかったが、刺繍したうちかけ、錦の帯、そのよそおいは姫君である。
と、ドーンと山上から、響き渡った野砲の音! 天草時行がスペイン砲を、助太刀に向かった正雪の軍へ、ぶっ放したに相違ない。
お京ヨロヨロとよろめいたが、
「お父上様、お姉様は⁉」
「うむ」というと紀州頼宣、お京を片手でつとささえた。「そちにとってはふた児の姉、君尾の身の上心もとない。駕籠は危険、矢弾のマト。杉窪まではわずか半里。そちも紀州頼宣の娘、勇を鼓して徒歩で行け!」
「早くお逢いしとう存じます! 一里でも二里でも三里でも、たとえ十里でもひろいます!」お京シャンと立ち上がる。
二発目の野砲、またもとどろき、ワーッという鬨の声! 正雪の一党斬り込んだらしい。
「さあ進め! 押し寄せろ!」頼宣の下知に五十人、頼宣とお京を真ん丸に包み、たいまつで道を振り照らし、頂上さして押しのぼった。
森を抜けると灌木の原。そこをよぎると草の斜面。頂上に近づくに従って、叫喚の声、剣戟の音、鉄砲の音が近まさり、手に取るように聞こえてくる。
「意外だ意外だ。どうしたことだ」頼宣走りながらうめくようにいう。
「いったい誰だ。攻めている奴は! ああ銅兵衛を殺したくない! あれは旧臣、忠義者だった! ……お京お京!」とその手を引き、「ゆえあってそちと君尾とは、生まれ落ちるから手もとに置けず、残念ながら嬰児のうちから、一人は銅兵衛、一人は平左衛門へ託して傅育させたのだが、逢わざること十数年! ……兵庫兵庫!」と兵庫を呼ぶ。「そちの献策で小松原家から京姫を取り寄せはしたものの、どうやらこいつは失敗らしいぞ! 銅兵衛を訪ねて君尾と逢い、親子姉妹のなのりをしよう、この計画も失敗らしいぞ! 君尾も死ぬ銅兵衛も死ぬ! 予感がするぞ! そんな予感が!」
「大丈夫でございます。大丈夫!」頼宣に引き添った牧野兵庫、「銅兵衛殿はあれほどの豪勇、めったに負けはしますまい」
「いやいや、それはわからない! 君尾はどうだろう? 姫はどうだろう?」
「銅兵衛殿の息のあるかぎり、君尾姫にはご安泰。見越しをつけるべきかと存ぜられます」
「ともかくも急げ、のっ立てろ!」
森があって森を出た。と、カーッと火の光! 天を染めて真っ赤である。
「や、火事だ! 火をかけたな! 里が焼かれる! 牧野、牧野、姫を背負え! 京姫を背負え!」
ドッと五十人駈け上がった。破壊された鉄砲、裂かれた陣幕、天草時行の陣営があったが、正雪一味に破られたとみえる。そこをトッ走ると盆地の縁、見下ろせば一面火の海だ!
子供の泣き声、女の悲鳴、剣戟の音、ガラガラガラ、建物の崩れて落ちる音! 火の底から聞こえてくる。渦巻きあがる黒煙り! その中を駈けめぐる無数の人馬! と、一つの人影が、盆地の斜面を駈け上がって来た。
「何者?」と叫んだは牧野兵庫。
「丸橋忠弥」と折り敷いた。槍の柄が血のりでぬれている。
「いくさの勝負? 敵は何者? 銅兵衛はどうした? 君尾はどうした?」頼宣卿たたみかけた。
「残念!」と忠弥まず叫んだ。「島原の残党天草時行。こやつが敵にござります! 味方に裏切る者があって、伏せた地雷が役に立たず、そこを目がけて裏手より、敵ムラムラと乱入し、一挙に本陣武器蔵をつき、銅兵衛殿には鉄砲にあたり……」
「おっ!」と頼宣こぶしを振った。「ううむ銅兵衛やられたか!」
「気息奄々、断末魔!」
「姫はどうした、君尾はどうした⁉」
「文三と申す裏切り者、もったいなくもかどわかし!」
「残念!」と頼宣、おどり上がった。
「ただし袴広太郎という義士、追っかけてゆきましたと申すこと」
「銅兵衛に逢いたい! のしくだせ! 槍をもて! さあ続け!」
「殿!」と兵庫、さえぎった。「千金の御身、かかる場合に!」
「だまれ!」と槍をひっ抱え、「京姫! 京姫! そちもつづけ! 修羅の戦場! 一度は見ておけ!」
サ──ッと盆地を駈け下りた。
後追っかけた五十人、頼宣卿を真ん中に、火焔をくぐって突き進む。降り来る火の粉、渦巻く煙り、それを開いて異風天狗、武器蔵の方へひた走る。敵はおおかた散ったらしい。切り込んでくる者もない。
屋敷をめぐると一個の建物、ここばかりは燃えていない。すなわち本陣武器蔵である。
床上に横たわった杉窪の銅兵衛、胸の繃帯唐紅だ。
走り込んだ紀州頼宣、天狗の面をかなぐりすてると、
「銅兵衛!」と呼んで頭をかかえた。「気を確かに! 頼宣であるぞ!」
銅兵衛かすかに眼をあけたが、
「おっ、お館様……もったい至極! ……殿、殿、姫君を奪われました! ……申し訳……申し訳……ござりませぬ」眼を閉じガックリ項垂れたが、譫言のようにつぶやいたのは、「取られた……取られた……二本の巻軸……まだ大丈夫だ、しっかりたのむ……将右衛門どん、しっかりたのむ!」
将右衛門どん、とは何だろう? しかし鉄砲にあたって以来、絶えず叫んでいる言葉であって、君尾を取り返しに追っかけて行った、広太郎もこの言葉を聞いていた。
ふたたび眼を開かぬ杉窪銅兵衛、そのまま息が絶えてしまった。
ちょうどこの頃のことである。杉窪盆地から西南の山路、ふもとへ下れば草加宿となる。そのウネウネとした山路を、杉窪の方へ上ってゆく、一個不思議な人物があった。二十日の月に照らされて、一匹の白布がノビノビと、地上から空へ引き上げられたようだ。ジャラーンという鉄杖の音! 修験者島原城之介である。
ブツブツ口小言をいっている。
「ヤキが廻ったね、このおれも。玉は取られる鳥には逃げられる。憐れをとどめたというものさ……たしかにこっちへ来た筈だが、どんなことがあってもとッつかまえなけりゃならねえ。……それはそうとどうしたんだ! 空が真ッ赤に焼けていらあ。ははあさては山火事だな」
そのおりからである。山上からカパカパカパとひづめの音、この坂道を乗りおろして来る。
「火事の知らせかな。それにしても、杣や炭焼きではなさそうだ。馬術に達した奴らしい」
つぶやいて窺う眼の先へ、木立むら葉をヌッとわけ、乗っ立てて来た一騎の武者、
「どけ、あぶねえ!」としわがれ声!
「や、手前は!」城之介、ピューと鉄杖を横へ振った。
島原城之介力をこめ、ピューッと鉄杖を横へ振ったが、払い落とすことはできなかった。
馬上の人物手綱をしぼり、まずもって馬の両脚を、ピンと棹立てたものである。流れた鉄杖、手もとへ引きつけ、ふたたびないだ一髪の間に、ヤッとかかった「責馬」の声、パッと向こうへのり越した。
「待て! 天草!」と城之介、追いすがるのを馬上の武士、振り返ったが哄笑した。
「ご苦労! 島原! また逢おう!」
つぶてを恐れたためだろう。前輪にピッタリ食ッつくと、パッ、パッ、パッ、パッ、パッ、パッ、ふもとをさして馳せくだった。
ぼんやり突っ立った島原城之介、「天草時行とは驚いたなあ」まずもらしたものである。
「一体全体なんのために、こんなところにいたのだろう? あいつのことだ。いずれ何か、悪事をたくらんでいたのだろうが」
首をかしげたが見当がつかない。
「が、マアそれはどうでもいい。よくねえのは逃げた鳥だ。ほんとにほんとにどこへ行きおったかな」
山骨へ鉄杖をジャラーンと突き、二足三足歩きかけた時、またもや山上からひづめの音!
「天草殿! 天草殿! そう急がれてはかなわない。お待ちくだされ。お早いことで」呼びかける声が聞こえてきた。
「ふふん、天草の一味だな。今度こそのがさぬ。見ていやアがれ」つと城之介木かげへ隠れ、鉄杖を構えて窺った。
それとも感づかぬ武者一騎、手綱をゆるめ、身を乗り出し、ムラ葉を抜いて現われた。飛び出した城之介声もかけず、鮮やか鮮やか棒の手だ、「掻手」というやつ、払いあげた。ワッという悲鳴、ころがり落ちると、両手を上げて頭の鉢、かかえたまんまで動かない。逸走する馬に眼もくれず、気勢に乗った城之介、振りあげた鉄杖で、も一つみっしり脳天を食らわせた。と、グーッとうめく声、左右へ両手をひろげると見るや、ヌーッと身体を伸ばしてしまった。
「脆えものだ」とつぶやきながら、城之介は死骸をのぞき込んだ。
「口から鼻から血が吹いていらあ。おお痛かろう痛かろう。可哀そうだなあ。南無阿弥陀仏……やっ!」というと胸を張った。「ほほう、こいつ、築土新吾だわい」愉快そうにゲラゲラ笑い出した。「そうかそうか新吾だったのか。いい気味いい気味、ざまア見やがれ。これでかたきの片腕を、たたっ斬ってやったというものだ。……が、いよいよおかしいなあ。こいつらいったいここらあたりで、何をたくらんでいたのだろう?」また考えたがわからない。「死骸があってはちょっと面倒。とびや烏につつかせても、あの世で成仏しにくかろう。谷へ蹴込んで水葬礼、浮かべ浮かべ、海で浮かべ」
谷間を目がけて、片足上げ、ドッと蹴落とした。その拍子に、新吾の死骸の懐中から、小長い物がころび出て、コロコロと草間へ隠れたのを、島原城之介見のがしてしまった。
眼をあげれば山上の空、色を加えていよいよ赤い。
ジャラーンと鉄杖の音を立て、一歩踏み出した時である。
「誰か来てくださいヨ! 助けてくださいヨ!」行く手から女の悲鳴がした。
「お町じゃアねえかな?」と城之介、ギョッとして耳を引っ立てた。
「助けてくださいヨ! 誰か……誰か……」
プッツリ声の切れたのは、口をふさがれたに相違ない。
「お町じゃねえかな? お町じゃねえかな?」グイと鉄杖をかい込んだ。
グイと鉄杖をかい込んだ時、
「文三、文三、何をするんだヨー。人攫いめー かどわかしめ! 助けてくださいヨー、助けてくださいヨー」またも女の悲鳴がした。
「ははん、なんだ。お町ではないのか」安心をした城之介、かい込んだ鉄杖をおろしてしまった。
「お町でなければおれは知らんよ。どうやらこの辺の若い衆が、別嬪さんをかどわかすのらしい。よかろう、うんとかどわかすがいい。かどわかしてよいものだ。おれなんかもチョイチョイやる、チョイチョイどころかノベツにやる。『イスラエルの神ににえ捧げようぞ!』などというと別嬪さんたち、コロコロコロコロたばになって、かどわかされに来るんだからなあ。いや全く面白い。もしもこいつがあべこべに、女が男をかどわかしているなら、飛び込んで行って助けるんだが、そうでないんだからおれは知らんよ。どうして浮世の女さん達は、男なんかよりウント強い。お町なんかがいい例だ。まるっきりおれをおもちゃにしている。色目を使っておれをたらし、巻軸を巻きあげるとキツクなり、指一本さわらせやがらねえ。あげくの果てが飛んでしまった、それっきりにしようッていうんだからなあ。全くもって苦手だよ。ところがそういう苦手に限って、また恋しいときたものだ。不自由だね、この浮世は。ところが一旦退治てしまうと、女というものはおとなしくなくなる。あべこべに男を追っかけ廻す。すると今度は男の方で、『助けてくださいヨー、助けてくださいヨー』こういって逃げ廻る番になる。退治ろ、退治ろ、退治てしまえ! ナーニ、だからさ、目前によ、悲鳴をあげている女だって、あさってになるとガラリと変り、『逃げちゃあいやよ、逃げちゃあいやよ』などと男にいうだろう、あさっての声が聞きてえものだ。……ということであってみれば、失望するにも当たらないなあ。退治てしまえばお町だって、そういうことになるんだからなあ。……そのお町だが、どこにいるのかしら? たしかにこちらへ来た筈だが」
「助けてくださいヨー」と女の悲鳴、にわかに横へそれてしまった。
「あッはん、さようか、それましたね。それがよろしい。正当だ。あんなに悲鳴をあげられては、里へ連れては行かれないからなあ。そこで深山の奥へ行き、ご婚礼ということになる。だがおれには疑問だよ。どうしていったい女というものは、退治られるまでは騒ぐんだろう? 思うにあいつは商法だね。あんなにもいやがったこの妾を、あなたは退治たんじゃアありませんか、大事におしなさいよ! 大事におしなさいよ! 高く売ろうッていうんだね」
ノッシノッシ歩きだした。
と、今度は行く手から、チャリーンと太刀音が聞こえてきた。
「今夜はよくよく変な晩だ」島原城之介突っ立ってしまった。
「馬に女に刀ときた。いくらおれだって気味が悪いよ。ふけろふけろ、ふけてしまえ」木の間をくぐって立ち去った。
またもやチャリーンと太刀の音! バタバタバタと走る音! しだいにこっちへ近づいて来る。
と、一人の若武士、ヨロメキヨロメキ現われた。追いすがった五人の武士、グルグルと若ざむらいを引っ包んだ。立ち止まった若武士、サーッと太刀を横へ振った。と、五人飛びしさる。が、若武士、ヒョロヒョロと、一本の立ち木へ背をもたせた。ハッ、ハッ、ハッと荒い息!
「助けてくださいヨー」と女の悲鳴!
「お助け致す! お助け致す! 袴広太郎、お助け致す」ヨロヨロと前へ出るところを、出鼻を利用し、一人の武士、広太郎の眉間へ斬りこんだ。
拝むがように太刀を捧げ、つばで受けとめた広太郎、斬り返して行く力もない。受けた拍子にまたヒョロヒョロ、おのずと左へまわり込んだ。太刀が離れ体が離れ、入り違った時広太郎、片手で刀を右へまわした。それがきまって敵のうなじ、盆の窪からスポリと斬った。
悲鳴、それからたおれる音。
「斬ったな、斬ったな」と広太郎、口の中でつぶやいた。「まだ斬れる。大丈夫だ! ……ああ幾人斬ったろう? 二十人は斬っている。おれも斬られた、おれも斬られた。槍傷、太刀傷、滅茶苦茶だ。だが痛くはない、なんともない。ボーッ……と心が遠くなるばかりだ。そうして足がヒョロヒョロする。胸が苦しい、呼吸が苦しい。眼の先にキラキラと赤いものが見える。……一体全体どうしたんだ、どうして刀が重いんだ! 持ちあがらない! 石のように重い! しかし斬れるぞ! まだ斬れるぞ!」ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。
と、一人飛び込んで来た。
「来たな」と広太郎刀を捧げた。とまたつばで受けとめた。押し返してゆく気力もない。ヒョロヒョロヒョロヒョロと右へまわった。と自然と太刀が離れ、体が離れて入り違った。そこで夢中で広太郎、サ──ッと刀を左へまわした。おのずときまったかぶと割り、敵のうなじをはすかいに、耳の下からスッポリと斬った。
「斬ったな、斬ったな、まだ斬れる」またもや口の中でつぶやいた。
「大石大木を投げおろし、それからそろって槍襖、土煙りをくぐって突いて来たっけ。味方は防いだ、よく防いだ、二度も三度も追い返した。おれは斬った、斬り立てた。しかも馬上で、指揮をしながら。……と、ボーッと火が燃えた! きゃつらが、きゃつらが、かけたんだ!」
ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出る。刀を青眼につけている。ともするとそれがおりようとする。辛うじて、辛うじて、持ちこたえている。
「眼の前がだんだん暗くなる。ここはいったいどこなんだ? 杉窪じゃアないのか? やッ、敵がいる!」
ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出ると、また一人飛び込んで来た。ヒョイと広太郎刀を出した。と、チャリーンと音がした。受けたのではない、からみ合ったのだ。二本の刀が一本となる。火事の光と月の光、木の間をもれてボッとさす。それにうつってまるでつららだ。
と、キューッという音がした。しごいた太刀の音である。とたんにピカリと一閃した。広太郎の刀が動いたのである。ワッという悲鳴がすぐ響いた。刀の落ちる音がした。
「斬ったな、斬ったな、腕を斬ったらしい? こいつらはいったい何だろう? ……火は八方へ燃え移った。屋敷の方から悲鳴が聞こえた。馬を煽って飛び返った。敵勢、敵勢、裏手の敵勢! どうして地雷は破裂しなかったんだろう? 聞こえてきたっけ、『裏切り者だアア』と。……みんな武器蔵の方へ走って行った。おれも走った、武器蔵の方へ! ……胸にたま傷! 銅兵衛殿! おれを拝んだ。拝みながらいった。『君尾が、君尾が、文三めに!』……あっ、そうだった、やっと思い出した。おれは文三を追っかけて来たのだ! 文三めエッ!」
と睨みつけた。もう刀が持ちあがらない。ダラリと垂れると地へ突いた。その柄頭へ両手をかけ、グーッと首を突き出した。
と、パタパタと足音がした。「参れ!」と息も絶え絶えに、やっと持ちあげた長谷部国俊、ピューッと横へ一振りした。
最後の勇気を腕へこめ、広太郎刀を一振りした。が不思議にも手答えがない。ないのが当然、バタバタと、足音を立てて山上へ、二人の敵は逃げたのである。
と、また刀をダラリと下げ、地へ突くと寄りかかった。
「逃げた逃げた。ざまア見やがれエーッ」
だが自分もたおれてしまった。
「残念!」とうめくと膝を立てた。立てた膝がすぐまがる。
「あッ、あッ、あッ、君尾殿オー」
ザワザワザワと渡る風、風にまぎれて、「助けてくださいヨーッ」遠く遠く君尾の悲鳴、裏手の方から聞こえてきた。
「声が、声が、声が聞こえる! 君尾殿オオーッ、君尾殿オオーッ」刀を杖にまたヒョロヒョロ立ちあがったが駄目である。ドッとたおれるとはい廻った。
「お助け致す! お助け致す! おのれ文三! 待て待て待て! ……手がつる、手がつる! 足が動かねえ!」
ガリガリと土を引っかいた。その手にさわった小長い物! 夢中で取りあげじいッと見た。
「巻軸一本! ……ここにあったアア……」
グイと懐中へ押し込んだ。
「助けてくださいヨーッ」
と声が消えた。
もう広太郎動かれない。──グッと横向きに伸びたままだ。太刀はしっかり握っている。ブルブルブルブルふるえる切っ先、大波を打つ背のうねり、その上を火光と月光と、ボ──ッと淡く照らしている。
意識がだんだん失われて行く。銅兵衛の姿が浮かんできた。と、その姿が娘になった。君尾だ君尾だ、笑っている……と、一軒の家が見えた。縁に娘が坐っている。お京様だお京様だお京様だ! やっぱりうれしそうに笑っている。……
「おれは死ぬのだ!」──ハッキリ思った。深い空間へ落ちてゆく。何者かおれを引っ張っている。……それっきり何にも感じなくなった。
木の間をもれて月光と火光、依然広太郎を見おろしている。千切れたもとどり、顔にかかった髪、ああその顔のあおいことは! ゲッソリ痩せて、骨ばって、黒い輪が両眼を隈取っている。切り裂かれた袖や裾、裾からニューッと二本の足、白ねぎのようにはみ出している。赤いくもの巣が色どっている。それがズルズル動いている。血が流れているのである。
静かである。山の中! 誰一人助けには来ないらしい。風もやんだ。木の葉も動かぬ。スクスクと立っている両側の木立! 幹がなま白く光っている。静かである。まだ静かだ。
その時山上から足音がした。忍び寄るような足音である。と人影が現われた。さっき逃げた二人の武士だ。
「おい」と一人がささやいた。「死んでいるようだ、たおれている」
「うん」ともう一人がささやき返した。「どれ、とどめでもさしてやるか」
スルスルと一人近寄った。ポンと足で蹴ってみた。広太郎動かない。
「よし」というとそのさむらい、広太郎の死骸にまたがった。片足あげて横顔を踏み、抜き身の切っ先ユルユルとおろし、耳のつけ根をぶッつりと! 刺そうとした時一条の捕り縄、群葉を抜いてスルスルスル、蛇のように走り出たが、さむらいの首へ巻きついた。
「うまいぞ、忠公!」とかん高い声、木立の蔭からひびき渡った。
群葉を抜いて飛び出した縄に、首を巻かれた一人の武士、
「ヒッ」と叫ぶとひっくり返った。ズルズルズルズルと引きずられる。縄がしばられるからである。
「ヤッ」と仰天したもう一人の武士、麓を目がけてかけ出した。と、その前へ一人の虚無僧、木立の蔭から飛び出した。
「悪党!」と一声、銀声! あがった尺八、風を切った。
「ガッ」という悲鳴、額をわられ、武士はフラフラとよろめいた。額をおさえ、めくら滅法、かけ出した方角に谷があった。ガラガラガラガラと落ちる音! かれ勝手に飛び込んだのである。人間一人谷の底で、こなごなにこわれたに相違ない。
手足をバタバタおよがせたが、首をしめられたその武士も、すぐに伸びて動かなくなった。
ピョイと木蔭から飛び出したのは道中師風の小男である。
「どうでえ、あねご、こんなものでげす。中条流の捕り縄だって、時にはこんな働きもしまさあ」ほかならぬ早引忠三である。
「見事見事。ほめてやってもいいよ」虚無僧姿のイスラエルのお町、天蓋の中で愉快そうに笑った。
「それはそうとこのお武士さん、もう命は助からないのかしら? どっちが悪いのだか知らないが、二人に一人。可哀そうに、とどめを刺されようとしていたんだもの。だまって見ちゃアいられないじゃアないか。どういう身分のお方かしら?」および腰をしてのぞき込んだが、にわかにお町グタグタと、両膝をついて天蓋をはねた。「袴様だヨーッ、広太郎様だヨーッ」ヒシとだきあげたものである。
がっかりしたのは忠三で、「ワッ」というと飛びあがった。
「袴が広いか! 惜しいことをした。おれにとっちゃア恋がたき、助けなけりゃアよかった。くたばれくたばれ!」
そんな言葉は耳にはいらぬお町、広太郎をだきしめた。「お町でございます、お町でございます。お心をしっかり! お持ちくださいヨーッ……おおおおそれにしてもこの傷は! まるでクチャクチャに斬られているよ。……息は?」と片手を鼻へやった。「しめた。忠公、生きていらっしゃる!」
「へーいさようでござんすかね」
「これでマア少しは安心した! もしこのお方に死なれようものなら、それこそ妾だって……袴様!」しかし広太郎身動きもしない。「駄目だ駄目だ。正気づかない! あっ、そうだ、きつけ薬! それから水だ! ヤイ忠々!」
「へーい」とノッペラ棒の返辞をする。
「水だヨーッ……水々……水を汲んでおいで!」
「で、どの辺にござんすえ?」
「一、二、三、四、ヤイ忠々! 十かぞえるその間に、水を汲んで来なかろうものなら……」
「あねご、無理だ! 水のあり場所……」
「谷だ!」とお町、くらいつきそうだ。「飛び込め! そうして飛びあがれ! 笠に一杯! 手前の笠に!」
谷のふちまで駈け出したが、「こいつアいけねえ、とても深い!」
「五、六、七、八、ヤイ忠々!」
「あと二つか……どうなるものか!」
絶壁に懸かった藤蔓づたい、身軽に忠三、スルスルとおりた。
ほとんど死骸の広太郎を、しっかりだきしめたイスラエルのお町、ワナワナ全身をふるわせている。
谷底から忠三の声がした。「あねご、大変だ、大変だ!」
「大変だ」と叫ぶ忠三の声、お町の耳へははいらない。お町うっとりと考え込んでしまった。
「不思議だねえ。夢のようだよ」まずつぶやいたものである。
「あの夜南蛮屋の南蛮部屋で、はじめてこの人と逢った時から、妾の心は変ってしまった。巻軸の秘密、ほしくもなく、ほしいのはこの人だった。どんなことをしたって手に入れよう。恋だわねえ、初恋ってやつさ」またここでじいッと考え込んだ。「それからというもの忠三にいいつけ、この人の様子を探らせていると、にわかに旅へ出たとのこと。『忠三のばかめ、目つけておいで!』毒づいてやったら可哀そうに、それでもあっちこっち聞き合わせたあげく、杉窪とかいう別天地へ、入り込んだらしいという人の噂。では行こうと出かけると、あのいやらしい城之介め、ついてついてつき廻る。中途でマイて来てみれば……こんな姿になっておられる。……それでも縁はあったってものさ。これがもう一足遅れようものなら、それこそ取り返しがつかなかったんだからねえ」
「あねご!」と谷から忠三の声、「築土が殺されておりますぜ!」
だがお町には聞こえない。依然広太郎に見入っている。
「傷は?」とお町、気がついた。だいた広太郎をそっと置き、まず胸をひらいてみた。「肩に三ヵ所胸に二ヵ所、みんな薄手だ、大丈夫。腕に八ヵ所、斬られたものねえ。だが安心、かすり傷だ。股に六ヵ所、たま傷、矢傷。ああ有難い、深手はない、精根をつからせてたおれただけだ。でもいったいどうしたんだろう? まるで戦場で斬り合ったようだよ」
「水だ!」という声がうしろでした。
振り返ってみると菅笠をかかえ、眼の前に忠三が立っている。「きつけ!」というとイスラエルのお町、腰から印籠を引きむしった。ふたをあけるのももどかしく、丸薬をつまむと歯でかんだ。それから水を含んだが、かたく食いしばった広太郎の歯、容易なことでは開こうとしない。気がついて抜いたのは小柄である。歯の間へソロソロと支う。わずかに開いたすき間から、口移しに流し込んだ。「袴様!」とそこでまた叫んだ。
と、かすかに身をうねらせ、二、三度まぶたを痙攣させたが、カッとばかりに眼をあけた。
「気がつかれた!」とお町の歓声!
「やれやれ」という忠三の声!
とたんに広太郎、叫んだものである。
「お助け致す、君尾殿!」
その君尾だが、文三にだかれ、山の反対側を走っていた。
「助けてくださいヨー、誰か来てくださいヨー」
火光は見えない。月光ばかりだ。
「お嬢様、お嬢様。もう駄目です。呼んだって誰が来るものですか」文三走りながらしゃべりまくる。「謀反までしたこの文三、みんなあなたがほしいからで。どうやら里は亡びたらしい、銅兵衛さんだって傷を負った。助かりませんな、鉄砲傷だ! 家もなければ親もねえ、それが今のお嬢さんで。文三におすがりなさいまし。大事にしますとも、大事にします。一緒に住みましょう、町へ出てね。働きますぜ、お嬢様のためだ。だからお嬢様もおとなしく、あっしの子供でもうむがいい。誰と暮らしたって一生でさあ。こんなにこがれている文三だ。添って功徳をお果たしなせえ。駄目駄目、駄目駄目、もがいたって駄目だあ」
林の中へ駈け込んだ。と何物か文三の顔へパッと飛びつくものがあった。
「ワッ、いてえ! 眼を引っかきゃアがったア!」
文三の顔へ飛びかかったのは、君尾の飼い猿三吉であった。戦場から逃がれ、林づたい、追っかけて来たに相違ない。
「畜生! てめえ、三吉だな!」
文三片手で脇差しを抜いた。「けだもののくせに途方もねえ、人間の恋の邪魔をしやがる」
振り廻したが素早い三吉、今度は足を引っ掻いた。
「アレ、この猿、狙いどころをかえたな。顔なら顔と一つ所を狙え」
キッ、キッ、キッと叫びながら、三吉、左手を引っ掻いた。
「いてえ!」と叫ぶと手を放す、ドンところがったのは君尾である。飛び起きると走り出した。
「しまった!」と文三あとを追う。そこを後ろから三吉猿、肩へ飛びついて引っ掻いた。「おのれ!」といって振り返り、脇差しを振るうとスルスルスル、三吉猿は木へのぼった。「お嬢様、お嬢様、お待ちなすって!」文三後を追いかける。とまった木から三吉猿、飛びおりて頭を引っ掻いた。「チェッ!」というと脇差しを振るう。と三吉スルスルスル、またもや木の上へのぼってしまった。「逃がしてたまるか!」と君尾を追う。またまた飛びおりた三吉猿、ふくらはぎを引っかいた。「野郎!」というと振り返り、またも文三脇差しを振るう。が結果は同じだ。三吉猿、木へのぼって葉に隠れる。
「お嬢様、お嬢様!」と追おうとしたが、あっ、君尾の姿が見えない。「むうう」とうなると可哀そうな文三、ベタベタとすわったものである。
そのころ君尾は林を抜け、草の斜面を走っていた。夜の山中、人はいない。なまじに声を立てたならかえって文三に目つけ出されるだろう。そこで無言でひた走った。二十日の月夜、ボッと明るく、森や林が立っている。灌木や叢が飛び散っている。身体がグタグタにつかれている。いまにもいきが絶えそうだ。だが休んではいられない、人里へ! 人里へ! 人里へ! 草がたけのびて走りにくい。で君尾は裾をからげた。すっかり着崩れた振り袖姿! 深紅の蹴出しがはぎに纒う。蹴出しから漏れる真っ白の脛! 人気がないので恥ずかしくもない。走りながら振り返ってみた。追って来ない、人影が見えぬ。君尾ドンドン走って行く。と、行く手に丘があった。塚のようにまるい小丘である。その丘を廻った時である。カッと火光が眼を射た。
「あっ」といって立ち止まった。数本のたいまつが燃えている。十数人の人が立っている。それは奇怪な光景であった。真ん中にノビノビと立っているのは紗の唐冠、白い道服、刺繍した履の老人で、口ひげはないが長いあごひげ、眉毛と共に卯の花のように白い。そのかたわらに立っているのは、十五、六歳の少年武士、前髪立てにのし目の振り袖、その定紋は葵である。二人を囲繞して五、六人の武士、うやうやしく地上にかしこまっている。少し離れて三人の武士、高くたいまつをささげている。さらに離れて二人の武士、鋤と鍬を地に突いている。
掘り出された一個の石棺が、かれらの前に置かれてある。古風な刀剣、曲玉管玉、石棺の中に充ちている。
と一斉に振り返り、君尾の姿を不思議そうに見た。
この時はじめて君尾の口から、「お助けくださいまし」と声がもれた。ベタベタとすわって手をついたのは、憐れみを乞うというよりも、一種荘厳の光景に、強く胸を打たれたからであった。
今は秋! 江戸も涼しい。ここは上野山下である。明月が空にかかっている。と一人の若ざむらいションボリとして歩いて来た。と向こうから人が来た。片眼つぶれた若者である。これもションボリとうなだれている。二人事もなく行き違おうとした。
「あの、もしえ、お若い衆さん」不意にさむらいが声をかけた。
「へーい」というと片眼の若者、足をとどめて振り返った。
「何かご用でござんすかえ?」
「お京様をご存知ではございますまいか!」
「あの、一向存じません」
「でも、もしやご存知では?」
「とんと存じませんでございます」
「それは大変困りました」若ざむらいはうなだれた。ほかならぬ臼井金弥である。
「あの」と今度は若者がいった。
「君尾様をご存知ではございますまいか?」
「とんと存じませんでございます」
「それは大変困りました」片目の若者は文三であった。
で二人向かい合い、ションボリとして立っている。二人の影が地に落ちている。どっちが影だかわからない。きっと四つとも影なんだろう。
「あのね、あなた。お京様はね、私の許婚でございました。ところが誘拐されましたので、はい今年の夏の盛りに。で、探しておりますので」
すると今度は文三がいった。「よく似た身の上でございますなあ。あのね、あなた。君尾様はね、私と許婚ではございませんでしたが、許婚になりたいと存じまして。いいえさ、実は、夫婦にね。……で、出かけたのでございます。はい、さようでございます。はい、さようでご一緒にね。すると、あなた、邪魔がはいりました。それがさ、人間ではございません、猿だったのでございます。三吉猿と申すもので。ほんとにほんとに憎い猿で、連れて行ってしまったのでございます。それに私の顔を引っ掻き、片眼つぶしてしまいました。今年の夏のことでございます。で、さがしておりますので」
「お気の毒さまでございますね。で、いまだに目つかりませんので?」金弥同情したらしい。
「目つかりませんでございます。しかしどうやらこの二、三日、猿の居場所だけは目つかりましたようで」
「それは結構でございますな。でやはり木の上にでも?」
「塀の内にいるのでございます。立派なお屋敷の塀の内に、つまりお庭でございますな。飼われているようでございます。で私の思いますには、三吉猿がいる以上は、君尾様もおられるに相違ないと……そこで毎日出かけてゆき、様子を見るのでございますが……」
「しかし、はたしてその猿が、三吉猿でございましょうか?」
「それはもう確かでございます。なき声を知っておりますので。キーキーキーキーキー、キー、こんなようになくのでございます」
「キーキーキー、キーキーキーははあ、こんなようになきますので。だが、たいがい猿というものは、キーキーとなくようでございますな。ところでお屋敷はどの辺で?」
「そ、そいつは申されません」
文三にわかに後じさりをした。
「それはまたなぜでございますな?」金弥さもさも不思議そうにきく。
と、その時どこからともなく、フフンという冷笑の声がした。
フフンと冷笑の声はしたが、二人の耳へははいらなかったらしい。
「何ゆえと申しましておさむらい様、うかうかとお屋敷をあかそうものなら、先廻りをしてあなた様が、私のこがれている君尾様を、横取りなされないものでもなし……で、お屋敷はあかされませんなあ」文三用心がいいのである。
「それなら大丈夫でございます」金弥別に怒りもしない。「私にはお京様がございますので」
「あっ、さようでございましたね。あの、ところでお京様は、まだ手がかりがございませんので?」
「八百八町広いお江戸を、五十ぺんほどもまわりましたかしら。いまだに手がかりはございません」
「さぞお疲れでございましょうな」
「他人の足のようになりました」
「ほんとにご同情申し上げます」
「はい、そうしてあなたへも」
丁寧に二人辞儀をした。またションボリと向かい合っている。と金弥がいい出した。
「今夜もお探しでございますかな?」
「はい、これから参ります。そうしてグルグル屋敷を、見廻るつもりです」
「成功をお祈りいたします」
「はい有難う存じます。どうぞあなたもお京様を、一日も早くお探しなさるよう、私もお祈りいたします」
また丁寧に辞儀をし合う。月がまるまると照らしている。
「ではお別れいたしましょう」
「はいお別れ、ご機嫌よろしゅう」二人左右へ別れてしまった。
とその時家蔭から、ピョイと飛び出した小男がある。
「いや面白いかけ合いだった。キーキーキー、キーキーキー猿のこわ色まではいったんだからなあ。……待てよ」と小男腕を組んだ。「こいつ笑ってはいられない。袴広太郎様の尋ね人、それも確か君尾といった。三吉猿の話も聞いた。文三という悪党が、かどわかしたということだが、今の野郎が文三かもしれねえ。それにしては安手だなあ、どっちみち後をつけてみよう、猿のいるというその屋敷に、君尾という娘がいるかもしれない。よし」というと足音を忍ばせ、ヒタヒタと後を追っかけたが、南蛮屋の主人忠三であった。
さて文三つけられるとも知らず、上野山内を根岸へおりた。今日の上根岸、六十番地にあたる辺、そこに立派な屋敷がある。グッと取りまわした厳重な高塀、庭木が森のように繁っている。と、文三ピッタリと身体を塀へくッつけた。
「どこかに節穴でもあるまいか。のぞいて見てえ、のぞいてみてえ」こんなことをつぶやいている。指でさぐっても節穴はない。板と板との合わせ目もない。だが容易にあきらめない。塀に添いながらノロノロと、先へ先へと歩いて行く。まがり角まで来た時である。月光に浮かんで一条のとり縄、弓形をなして飛んで来たが、キリキリキリ、首を巻いた。気が遠くなってぶったおれる。と現われたのは早引の忠三、縄を解くと脈を見た。
「殺してしまっては都合が悪い。気絶ぐらいが格好だ」ズルズルと木蔭へ引っ張り込んだ。「いったいどなたのお屋敷だろう! 大々名の下屋敷、といったような伽藍だなあ。とにかく様子を探ってみよう」庭内の立ち木へ縄を投げた。それが巻きついてピンと張る。そいつをたぐると足で塀、踏まえてツルツルとよじのぼった。
塀へよじ登った早引忠三、足をちぢめると飛びおりた。さても広大な裏庭である。立ち木が多いので先が見えない。地をはいながら進んで行く。と一むらの竹林があった。月光を受けて光っている。そこを廻ると草ぶきの亭、だが人はいないらしい。人声もしなければ灯火もささない。で、ズンズン奥へ進んだ。やがて泉水の縁へ出た。風流の土橋がかかっている。石灯籠がともっている。泉水の向こうに館がある。そこまではい寄った早引の忠三、まずうずくまって物音を聞いた。月が館にさえぎられて、ここらあたりはほとんど闇だ。身を隠すには都合がいい。しんと屋内は静かである。忠三だんだん大胆になった。「ほんとうのおれの目的は、君尾という娘がいるかいないか、それさえ確かめればいいのだが、こう易々と忍び込めてみれば、ちょっといたずらをしたくなるなあ。泥棒心理というやつだろう雨戸をあけて内へはいり、間ごと間ごとを打ち通り、いずれ腰元もいるだろう、綺麗な寝顔を見てえものだ。ナーニおれは盗みはしない。あべこべに何か置いて来てやろう」で立ちあがるとピッタリと、雨戸へやもりのようにくっついた。とスルスルと開いてしまった。「これはどうだ、不用心だなあ。こんなことならおれにだって、本物の盗人が出来そうだ」開いた戸口からはいあがった。そこは長い廻廊である。忠三はいながら先へ進んだ。依然として館は静かである。と、廻廊が鉤の手にまがった。そのつきあたりに別棟があり、コロンコロンというかすかな音が、たまでもころばすように聞こえてきた。
「どうやら人間がいるらしい」心でつぶやくと早引忠三、大胆にもそっちへはって行った。ふすまがピッタリとしめられている。ふすまの奥は空部屋で、そのまた奥に部屋があり、そこに人がいるらしい。「かまうものか、押し込んでやれ」益〻大胆になった早引忠三、ソロソロとふすまを引きあけた。思ったとおり空部屋で、その向こうに部屋があり、さかいのふすまが閉じられていた。
「将軍塚と申すので、南北朝時代の武将などの、遺物があると思いましたところ、曲玉管玉が出ようとは、ちと意外でございましたなあ」こういう声が聞こえてきた。老人の声で威厳がある。だが不思議にも言葉の音が、純粋の日本の音でない。
「はてな?」と忠三首をかしげた。「異国の人間に相違ない」
その時別の声が聞こえて来た。「不遇な楠氏の末胤でも、葬られているかと存じましたところ、いかにも先生の仰せられるとおり、神代遺物が出て来ようとは、いささか意外でございました」それは少年の声であった。いかにも清らかで美しい。だが非常に老成した声だ。
とまた老人の声がした。「このまが玉やくだ玉から見ると、将軍塚の塚ぬしは、出雲族に相違ござらぬ」
コロン、コロンと音がした。
「ははあ」と忠三感づいた。「コロンコロンというあの音は、玉を台の上で転がしているのだ。なんだちっとも面白くねえ。第一爺イと子供とが、あんなに真面目に話していたのでは、どうも聞く方で飽き飽きする。やっぱり若い女中どもが、つめったり引っ掻いたり、キャー、キャーいって、色っぽい話をしている方が、おれには有難いというものだがなあ」だがその次に聞こえてきた、老人の声を耳にした時、早引忠三ふるえあがってしまった。
「光殿、光殿。それはそうと、隣り部屋へ賊が忍び込んだ時、どんな手段をとられるな?」
それはこういう声なのであった。
ふるえあがった早引の忠三、ピッタリ畳へ食いついてしまった。
「驚いたなあ。知ってるらしい。逃げなければいけない、逃げなければいけない」だがどうにも動かれない。なんともいわれない一種の恐怖、そいつが上からおさえつけている。「なんてえことだ! なんてえことだ!」動かれないのだから仕方がない。全身汗びたしになりながら、隣室の様子をうかがった。と、少年の声がした。
「呼び入れて訓戒いたします」
「結構」と今度は老人の声。「が、人間の肝臓を、好んで食べたというような、盗跖のような兇賊なら?」
「ちと難儀でございますな。で、先生ならどうなされます?」
「さよう、私ならうっちゃって置きます」
「みすみす物を奪われましても?」
「ナニ、一個人の盗み高など、悪い為政者の国盗みからみれば、たいして問題でもございませんよ。もちろんよいことではござらぬがな」
「これはごもっともに存じます」
ここでちょっと話が切れた。忠三息づいたものである。「まずよかった。大丈夫。どうやら見のがしてくれるらしい。だが皮肉の連中だなあ。おれのいることを知っていながら、平気で噂をしているんだからなあ。底なしの大胆というのだろう。いったいどういう連中かしら?」
またも老人の声がした。「光殿、光殿。ご存じかな、道教における内丹説を?」
「たしか抱朴子にありましたようで」
「さよう、抱朴子にありました。一口にいえば気息の調和で。心臓から出ずる気、呵と称し、脾臓から出ずる気、呼と称し、腎臓から出ずる気、吹と称し、肝臓から出ずる気、嘘と称し、肺臓から出ずる気、泗と称す。六息乱れざれば延命長寿、つまり達者で永生きをします。ところがこいつが当然なることには、泥棒の役に立ちますのでな」
「いけねえ」と忠三ちぢこまってしまった。「まだおえねえよ、おれの噂は」
すると少年の声がした。「はは泥棒に役立ちますかな」
「はい、大いに役立ちます。わが朝においては例の盗跖、貴朝におかれては袴垂、この辺の大盗になりますと、おのずから道教内丹説に、かなった行動をとりますな。かれらは他家へ忍び込むに際し、さらに一層平素よりも、気息をととのえたと申しますことで。ところで人間というものは、天地の中和から出来ております。したがって人間の気息なるものは、天地に影響いたします。で気息さえととのっておれば、少しも天地を刺戟しません。きわめて自然に忍び込めます」
「なるほどなあ」と早引の忠三、今度はすっかり感心した。とまた老人の声がした。
「これが反対にいく時は、盗賊を目つけるに役立ちます」
「少し風向きが悪くなった」忠三またもちぢこまる。
「慣れない賊などが忍び込むと、少なくとも呵の息を乱します。胸の動悸が高まるので。と天地に影響します。すぐに目つかってしまいます」
「どれ?」と忠三胸をおさえた。「まるで早鐘でもついているようだ。……何しろあぶない。早く逃げよう」スルスルと膝ではった時、老人の声がまた聞こえた。
「光殿、光殿。間違っても、逃げる賊を捕えてはなりませんぞ」
「おれはどうにも動けなくなった」またもや忠三ベッタリと、畳へ食いついた時である。「ではいよいよあすの晩、傾城塚へ参りましょうかな」こういう老人の声がした。
傾城塚へ行こうかという、老人の声を聞いた時、早引の忠三「おや」と思った。それは最近めっきりと、噂にのぼっている塚だからで、時々女の泣き声が聞こえてくるということである。
少年の声がすぐ聞こえた。「お供することにいたします」
すると老人の声がした。「やっぱりわしにはあの塚は、南朝に関係ある武将などの、寵姫かないしは夫人などの、古塚のように思われますがな」
「さていよいよ掘ってみて、曲玉や管玉に出られたのでは、いささか失望にございますな」これは少年の声である。
「いやいやそれとて結構でござる。一国の正史を編もうとするには、それくらいの障害はやむをえません」
「これはいかにも御意のとおり」
ここでしばらくしんとなった。
「正史をあむということは、偉人を世の中へ出すことではなく、偉人をぶちこわすことでござる」老人の声が聞こえてきた。「できあがっているものを鵜呑みにする、この傾向はいけませんな。一度は疑ってみるべきです。あの人物は偉人だという。しかし信じてはいけません。偉人ではないときめるのです。そうして材料をあつめるのです。偉人ではないという材料をな。するとこれも当然なことには、たいがい偉人ではなくなります。一応値打ちをひっくり返す! 真髄をつかむ秘訣ですな。もっともどんなにひっくり返しても、ひっくり返らない人物もあります。それこそ本当の偉人です」
「どんなお方が偉人でしょう」
「大楠公などは偉人ですな。それだのにロクないしぶみさえない。是非建てなければなりませんな。さよう湊川の古戦場へな」
だんだん真面目な話になる。忠三なんとなく引っ張り込まれ、耳をすまして聞いていた。また、しばらく静かになった。
と少年の声がした。
「紀州の叔父上のお振る舞いなど、いかが先生には思しめしますかな?」
「ちと奔放に過ぎますな。平地に波瀾を起こされるようで」
「困ったものでございます」
「そのうちおいさめなさるがよろしい」
「しかし私など若年で……」
「年など考えてはいけませんな。よいと思ったらなさるがよろしい」
「はい」とおとなしい返辞が聞こえた。またしばらく静かになった。
忠三には見当がつかなかった。
「塚をあばくっていうのだから、大泥棒かと思ったら、今度は歴史をあむんだそうだ。それじゃア二人とも学者なのかな? 紀州の叔父上って誰のことだろう?」
その時老人の声がした。
「勢力をおさえてもいけませんが、無理に進めてもいけませんな。自然自然に移るのを、徐々に進めてゆかなければ、当人どもはよいにしても、はたが迷惑いたしますよ。ご覧なさい明朝は潰れました。そうして清朝が起こりました。しかし支那の四百余州は、決してくらしよくはなりません。とうとう私など逃げて来ました。……少し部屋の中が籠ったようです。どれふすまでもあけましょう」
仰天したのは忠三である。たまるものかと這い出そうとした。とスルスルとふすまが開き、さっと灯し火がさしてきた。
「これこれ若者、逃げないでもよろしい。何か物でもほしいのか」
「どう致しまして、とんでもないことで」
忠三おずおず眼をあげたが、「まあどうだい、この部屋は!」
まあどうだいこの部屋は! こう忠三つぶやいたものの、それはその部屋の装飾が、特別に珍しいからではなく、本が余りにも多いからであった。部屋の大きさ五十畳敷きもあろうか、本来なれば見かすむばかりに、広く見えなければならない筈を、恐ろしく狭く見えるのであった。三方が本で埋ずめられている。が、ただし、その間には、古墳から掘り出したと思われる、石のからびつ、古刀剣、曲玉管玉、古甲冑、土偶、木乃伊、弓、矢の根、古い錦襴、銅板、鉄牌、古瓦、化石というような物が、整然と分類されて置かれてあった。それらの物に押しちぢめられ、ひどく座敷が狭いのである。
一人の老人が坐っている。あごひげと眉とが純白で、耳から耳まで白髪が輪取り、顱頂部が美しくはげている。身にまとったはゆるやかな道服、形はまさしく唐風である。その前に朱塗りの机があるがこれもまさしく唐風である。年齢どうでも百歳以上。机を隔てて坐っているのは前髪立ちの少年武士で、のし目の振り袖に葵の定紋、聡明そのもののようなすんだ眼の、珍しいほどの美少年。歌舞伎役者ではあるまいか? いやいや威厳が備わっている。貴族の御曹司に相違ない。
「ははあ、なんにもほしくない?」ちょっと老人は不思議そうにした。「うむ、賊ではなさそうだな」
「ヤクザ者ではございますが、コソコソ泥棒ではございません」忠三ヒョコリと辞儀をした。
「では何ゆえここへ忍び込んだ?」
「さようでございますね。ついうかうか……」
「ここをどこだと思っているな?」
「とんと存じませんでございます」
「このお方をご存知かな?」少年武士を指さした。
「とんと存じませんでございます」
「尊いお方だ。ご挨拶をしな」
「へい」と忠三頭をさげた。
すると今度は少年武士がいった。
「このご老人を知っているかな?」
「とんと存じませんでございます」
「えらいお方だ。ご挨拶をしな」
「へい」と忠三お辞儀をした。
「ナニサわしは居候だ。日本の国の居候で、そうしてこの方の居候だ。……いったいなんだな、お前の身分は?」
「料理屋の亭主でございます」
「ほほう、さようか、それは結構。では唐風の料理の書、一冊そちに進ぜようかな」
「いえ、私のは南蛮流で」
「さようか、それでは役に立つまい。……どうだな、亭主。変わった話はないかな?」
「へい、どうも、これといって……」
「何かあるだろう。話してくれ」
「お暇いたしとう存じます」
「まだよかろう。もっと話して行け」
「へい。有難う存じますが、もう夜ふけでございますし、店の方も心配で。……不用心の世間でございますから」
「全く不用心の浮世だな、戸締まりを破って押し込む奴がある」
「いえ、自然と開きましたので」
「光殿、光殿」と老人はいった。
「今後雨戸は閉じない方がよろしい。その方が用心がよさそうでござる。……では亭主、また来るがいい、ただし今度は表門から来いよ」
「へい」というと早引の忠三、部屋をすべって廻廊へ出た。それから庭へ飛び出した。と、女の声がした。
「ノロマのノロマの三吉や!」築山の方から聞こえて来る。
「ノロマのノロマの三吉や」築山の方から聞こえて来る。「おや」というと早引の忠三、やみに立ってそっちを見た。明月に照らされた大築山、頂きに女が立っている。その前にいる一匹のけもの、頬かむりをした猿である。後足で立ち、手を差しあげ、月をとらえようとするように、ピョンピョンピョンピョンはねている。
と、美しい女の声。「ノロマのノロマの三吉や。さあ妾をとらまえてごらん」スーッと築山を駈けおりた。と小猿が後を追う。「ノロマのノロマの三吉や」いいながら女は裾をめぐり、築山の向こうへ行ってしまった。「キー、キー、キー」となきながら、猿がその後を追っかける。と、またもや女の影、築山の頂きへ現われた。つづいて猿が現われた。ピョンとはねると飛びついた。
「おや、とうとうとらえたね」キュッとだきしめるとベタベタと、頂きへ坐ったものである。
「ねえ、三吉」と話しかけた。「お前はほんとにノロマだよ。杉窪にいてもノロマだしお屋敷へ来てもノロマだし、ノロマのノロマの三吉や。でもね、お前は恩人だよ。お前が助けてくれなかったら、妾は今ごろ文三めに……お前はノロマで恩人だよ。……ノロマの恩人の三吉や! お前がいるからまだいいのさ。そうでなかったらさびしくて、妾は病気になってしまう。光圀様はよいお方。朱舜水先生もよいお方。そうしてお屋敷は立派で、皆さん大変親切だけれど、やっぱり妾は杉窪の方がいいよ。三吉お前もそうだろうね。山があって、野があって、林があって、森があって、風が小鳥を吹き飛ばして、お日様がカッと明るくて、大きな声でおしゃべりができて、いいわねえ杉窪は。でもね、三吉。杉窪はね、焼けてこわれて人が散って、お父様がなくなって、すっかり亡びてしまったんだとさ。……お父様がなくなってねえ」嗚咽の声がふともれた。
「だからね三吉や。宿なしなのよ、妾たちはね。どこへも行く事ができないんだわ。悲しいわねえ、三吉や!」キューッと猿をだきしめたらしい。
「キー、キー、キー」と猿がなく。あんまりしっかりしめられたので、痛いヨーと泣いたのだろう。「お前と毎晩お庭へ出て、鬼ゴッコをするのが楽しみよ。外に楽しみなんかありゃアしない。さあ三吉、鬼ゴッコよ」ヒョイと小猿をほうり出した。キーとなくと宙で返る。ともう後足で立っている。続いて立ち上がった女の姿、紅色勝った大振り袖、裾のあたりが朦朧と煙り、肩に斑を置いたは月影だ。
「とらえてごらん、とらえてごらん」ヒラヒラと一方へ走って行く。猿がその後を追って行く。
「とらえてごらん、とらえてごらん」反対の方へ走って行く。と猿が後を追う。
お庭が一時に深山となり、美しい孤独な山姫が、けものと遊んでいるようである。
と、再び一躍し、猿は女へ飛びついた。
つとかかえて胸へだく。
「袴様!」と空を見た。「お助け致す、君尾殿! お声が耳に残っている。でも助けてはくださらなかった。……あの方どこにおいでだろう。……いいお月夜! 思い出すわねえ」
月の光に顔が浮かび、夕顔の花のように真っ白だ。眼のひとところだけキラキラと、露でもおりたか光っていた。涙というものに相違ない。
じっと見ていた早引忠三、「ううむ」とまずもって感心した。
「町の女とはまるで違う。なんといったらよいだろう? 野からうまれた阿魔っ子だなあ」
その時猿がキーとなき、忠三の方を指さした。
「どなた?」という女の声。
「へい」と忠三やみから出た。
とうとう目付けられた早引の忠三、闇の中から踏み出した。
「明るい晩でございます」トボケた調子で声を掛けた。
「ええほんとに、昼間のようね」無邪気な君尾の声である。
「あのどちらからいらしったの」
「へい」といったが返辞が出来ない。「よいお月夜でございます」
「鷺でも飛びそうでございますのね。……でも、どちらからいらしったの?」
「裏門からでございます」
「なんのご用でいらしったの」
「うん」とつまったが、「かまうものかひとつ、この娘をおどしてやれ。……お嬢様!」と恐ろしい声で、「あっしは大泥棒でございますよ」
「そう」とちっとも驚かない。「で、何かお取りになって?」
「やりきれねえなあ」と思ったが、「途方もないものをもらって来ました」
「見せてちょうだい、どんなもの?」
「それがね、ちょっと見せられません」
「なぜでしょうね。見せてちょうだいよ」
「形のないものでござんす」
「形のないもの? では夢ね」
「うまいことをいう」とつぶやいたが、「いえ『言葉』でございます」
「『言葉?』」と君尾は打ち案じた。どうやら意味がわからないらしい。
「内丹説というもので」
「内丹説?」と首をかしげる。「何かのご用に立ちますの?」
「へい、さようで、泥棒のね」
「ねえ」と君尾築山から、二、三歩下へおりて来た。「ご存知なくて、袴様を?」
「さあ」とこれにはこまってしまった。「どういうお方でございますか?」
「よいお方でございますの」
「いずれよいお方でございましょうな。あの、お嬢様のお仲好しで?」
「ええそうよ、兄弟のように」
「夫婦のようではございませんかね」
「ええそうなるかもしれないの」
「ひどくサッパリした返辞だなあ」忠三感心をしたものである。「でもね、お嬢様」と進み寄った。「その袴様という人が、ほかのお嬢様に恋せられ、一緒に住んでいたとしたら、あなたは何んとなされますな?」
「いいえ、そんな事ありません」君尾の声はりんとなった。
「いいえ、そんなことありませんの!」信じきっている調子である。「ねえあなた」といい続けた。「お逢いになったらいってちょうだい、君尾が待っておりますとね。そうしてここにおりますとね……ノロマのノロマの三吉や! 捉えてごらん、さあ妾を」
築山の向こうへ駆けおりた。とまたヒョッコリ現われた。「あのね」と忠三へ話しかけた。「楽しい時もありますの。ええそうよ、妾にだってね。古塚を掘りに行く時はね。妾もお供を致しますの。ノロマのノロマの三吉や!」
また向こうへ駈けおりてしまった。
きびすを返した早引の忠三、塀まで来ると縄を引く。ピョイと飛び超すと縄をたぐる。ふところへ納めて気がついた。
「どうだ野郎、まだいるか」木蔭をのぞいたが文三はいない。「ふふん、眼ざめて飛んだとみえる。よかろう、達者で永生きをしろ。そうして死ぬまで探すがいい。君尾様、君尾様、君尾様とな! 水戸家の御曹司光圀様、明の亡命大学者、朱舜水先生に守られていたでは、どんな野郎にだって歯は立つめえ」
やがて帰って来た南蛮屋。
「旦那、遅いじゃアありませんか」
「悪いか」と睨んで南蛮部屋へ通る。ドンと寝椅子へ腰かけたが、「あねごがいねえと寂しいなあ」一息にグーッと眠ったが、眼ざめたときは翌日の正午、と、戸が開いてノッソリと、はいって来たのが島原城之介。
「よう島原か」「うん、早引」
睨み合った忠三と城之介、ひとしきり部屋内静かである。と、笑ったのは忠三である。
「ご精が出るの、え、島原」
「うん」というと腰かけた。「手に入れるまでは毎日来る」
「よかろう」と忠三せせら笑ったが、「出世の秘訣は運鈍根。ところがお前のやり口は、根鈍運というやつだな」
「出世とは違う、女の話だ」
「似たようなものさ、何が違う。おめえがあねごを手に入れれば、途方もねえ出世といっていい」
「ふふん」というと城之介、ギロギロあたりを見廻したが、「今日も帰っちゃアいねえのか」
「そうさなあ」と冷ややかに、「南蛮屋は随分手広いが、おっ振るって探すに手間暇はいらぬ。ひとつ家探しをしてみねえ」
しかし城之介返辞をしない。ムッとした眼つきで見廻している。
「だが」と城之介いい出した。「猫も、鸚鵡もいねえところをみると、持って行ったに違えねえ。そうよ一度はここへ来てな」
「ほほう」と忠三からかいづらだ。「その観察は優秀だ。が、要するに優秀だけさ。居場所についてはわかるめえ」
「ああいう荷厄介な生き物だ。遠いところまでブラブラと、さげて行くような気づかいはない。近間に隠れているんだろう」
「なんのなんの長崎から、持ち運んで来たしろ物だ。蝦夷松前へでも持って行けらあ」
これで城之介だまってしまった。
「だがナア」とまたもいい出した。「気象に似合わず卑怯なまねだ。巻軸一本取ってくれたら、ままになろうといいながら、そいつを実行しねえんだからな」
「それがよ」と忠三鼻をこすり、「おめえの鈍のなすところだ。巻軸を渡したその瞬間、鷲につかめばよかったじゃアねえか」
「ところがあの時断りおった」
「そいつを素直に承知かえ」
「まさか手ごめにも出来なかったからな」
「そこで逃げたというものさ」
「そいつが卑怯だといってるのだ」
「おれの知ったことじゃアねえ」
「うんにゃ」と城之介手を握る。「てめえもグルだ! どこへ隠した」
「何をべら棒!」と負けてはいない。「強面でおどそうというのかい! ヘラヘラヘラ、ヘラヘラヘラこいつア笑いの形容よ。おらアちっともこわかアねえ」思い切ってひやかしたものである。と、鼻うたをうたい出した。「何をクヨクヨ鳥が飛び、ほかの色木にとまろうと、こちゃ知らねえ、こちゃ知らねえ。……だがなア」と忠三やや真面目に、「おいらちっとばかりおかしいよ、おめえの身分からいう時は、女に不自由はしていねえ筈だ。イスラエルの神へにえ捧げようぞ! するとコロコロコロコロと、阿魔っ子がころがって来るじゃアねえか。その辺で我慢をするがいい。それとも最近利き目がなくなり、おさい銭のあがりがすくねえかな。とあってみればお気の毒。さりとておいらのセイじゃアねえ。そこでやっぱり知らん顔。あねごの居場所なんか知らねえ知らねえ。……が、待てよ、ご相談。うんそうだ、相談がある。オイ!」
というと早引の忠三、寝椅子から身体を乗り出した。
「お前の住居はどこなんだい? こいつから一つ聞こうじゃアないか。そいつをおめえが明かせたら、そうさナアあねごの隠れ家、明かせてやってもいいかもしれねえ」だますようにきいたものである。と、城之介乗り出してきた。
うっかり乗り出した島原城之介、いおうとした時気がついた。
「その手に乗るか、ばかな面め。おれの住居をほじくり出し、留守を目がけて忍び込み、うんとこさためたさい銭を、盗み取ろうというのだろう。計画はいい、それはほめる。だがなア早引、それにしても、ちょっとばかり甘く見過ぎたぜ、お町にかかっちゃア耄碌でも、金の音を聞くとこの島原、ピーンと、一時に正気づくぜ。交換条件まずご免だ。ただしこれだけはいっていい。イスラエル教の大行者、島原神父のご神殿は、この天が下、人あるところ、至る所にござるぞよとな。どうだこのくらいで負けてくれ。さあさあ話せ、お町の隠れ家。どこだどこだ? ど……お……こ……お……だア?」
そっくり返ったものである。
真ん中どころを射あてられ、さすがの早引忠三も、げんなりとして苦笑したが、反動的に猛くなり、えぐってえぐってえぐってやれ! で、まくし立てたものである。
「おおおおおお、いかにもなあ、まだおめえにア脈がある。もっともおれにカマをかけられ、チョロッカにねぐらを明かすようじゃア、よくよくヤクザな人間だ。そこまで耄碌はしていねえだろう。よろしいよろしい天が下、人ある所おめえの住居、大きく出たところに稚気があって、そうして大変可愛らしい。そこであねごの隠れ家だが、やっぱりそうだ天が下、人ある所にあるらしい」ここで意地悪く笑ったが、「ただしちょっくら匂わしておく。あねごは一人じゃないんだぜ。そんな不経済をするものか。相手があるのだ、共住みのな。年が若くて、男がよく、金持ちのせがれでわざが出来、身分はもちろんさむらいさ。なんでも人の噂では、四畳半では広すぎるそうだ。三畳に限るっていうことだ。が、おめえにア這個の消息、なんのことだかわかるめえ。そこでクドイが説明する。いつも二人がピッタリと、くッついているんだから三畳でいい。四畳半ではすきが出来、風がはいって寒いとよ。熱い熱い熱い仲だあ! それによ」と忠三いよいよアクドク、「その果報の色ざむらい、お前には縁のある奴だ。縁も縁、敵だあね。とこういっても思いつくめえ。いつぞやおめえをからめ取り、正雪一味に手渡した、旗本袴広太郎、こいつだこいつだ、このさむれえだア! ふふん」と鼻でせせら笑った。「変ったね、顔色がよ。こいつア変るが当然だ! さアてそこでだ。ご両人、どの辺に住んでおいでかね。江戸界隈にいるとすりゃあ、どうでも小梅の里あたり、小ぢんまりとした寮構え、是非とも萩の柴折戸だ。庭木がこんもり繁っていて、容易に奥が見えすかれず、まわりはグルリと金目垣、狆が一匹といいてえが猫と鸚鵡が住んでらあ。……とおれは思うのだ。……オヤどうした? え、島原! もう帰るのか。まあよかろう、茶でも飲みねえ。おれも乾いた」
ヌッと立ち上がった城之介、すごい笑いを浮かべたが、「能弁能弁、見事なものだ。が、時々すき切れがして、大事な奥がチラツイたぜ。だからあんまりしゃべらねえがいい。しかしおかげで……何さ馬鹿め!」フラリと部星から出て行ったが、すぐにジャラーンと鉄杖の音、門口のところから聞こえてきた。「待てよ」というと早引の忠三、胸に腕を組んで考えてしまった。
「しまった!」とわめくと飛び上がった。「ヤイヤイ誰かやって来い」
「へい」といって現われたのは、権十という部下である。
「親方何かご用ですかい?」はいって来た権十きいたものである。
「うむ」というと早引の忠三、改めてじっくり考えた。「色ぼけている島原城之介、なんのあねごの離れ家を、目つけ出すようなことがあるものか。それにしてもちょっといい過ぎたなア。……それはそれとして君尾という娘、目つかったからには明かさなければならない。……オイ、権十」と呼びかけた。「お前これからすぐに出かけ、あねごのところへ行って来てくれ。つまりなんだ、こういうのだ。至急も至急大至急、すぐに南蛮屋までおいでくださいとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。本来なれば忠三が、おうかがいするのでございますが、お仲のよいところをのぞくのも、まことに変な格好で、あねごにとってもご迷惑、忠三にとってもご迷惑。そこでお呼び立て致しましたとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。そうよなア、何ていおう、寮お住居もようがしょうが、南蛮屋だってすてたものじゃアねえ、時々いらしってもようがしょうとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。袴広太郎様はようがしょうが、忠三だってようがしょうとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。一体全体何がなんでえ! ひとつこういってどなって来ねえ」
「へい、威勢よくどなるんですね」
「まあ少し待て、考えてみよう。……どなるだけ理由はなさそうだな。オイ権十、どう思う」
「かまうものですか、どなりなせえ」
「おだてるねえ」と睨みつけ、「どうだろう権十、おれのつら、このごろトンマに見えねえかな?」
「どう致しまして、聡明で」
「ふふん、駄目だよ、財布はしめたよ。どだい根性が太すぎらあ。おれをおだててしぼろうなんて。トンマだといえ! トンマだといえ!」にわかにしんみりと考え込んでしまった。「トンマな忠三も可哀そうだが、イスラエルのあねごも可哀そうだ。ああも袴様にほれてしまっちゃアな。ほんとに変ればかわるものだ。昔のおもかげってありゃアしない。何が浮世で困るかといって、ふやけた悪党ほど困るものはねえ。それにさ袴という人が、取ッつき場のねえ性質でな。あねごを可愛がっているかと思うと、お助け致す、君尾殿! などと寝言をいうそうだ。……さアて、ところでその君尾、いよいよ目つかってしまったんだが、この納まりはどうつくだろう? あねごをすてて袴様、君尾という娘を取るかしら? うんにゃ、そんな事は義理にも出来ねえ。あねごは命の恩人じゃアねえか! 捨ててみやがれおれが承知しねえ! しかしどうでも捨てるとなると、あねごはいったいどうするだろう。仕方がないというところで、袴様をあきらめて、忠公一緒になろうじゃアねえか! こう来ねえとも限らねえ。ウフ、忠公、役づいたぞ!」
「親方、行くんですかい、行かないんですかい?」
「うせやアがれ!」と威猛高、忠三どなったものである。
「まだいたのか! 途方もねえ奴だ!」
「ひでえや!」とわめくと子分の権十、外へ一散に飛び出した。
小梅の里も奥まったほとり、一つの寮が立っていた。金目垣にささやかな門、庭木が小暗くしげっている。南向きの六畳の部屋、経机を前にしとねにより、書見している一人の武士、ほかならぬ袴広太郎。顔色蒼く頬もこけ、全身羸痩しているのは、杉窪の里で受けた傷が、いまだにたたっているからであろう。しかし眼の色がカラリと明るく、結んだ唇に穏やかさのあるのは、心にゆとりがあるからだろう。
間のふすまがサラリと開き、しとやかにはいって来たのはイスラエルのお町、手に茶道具をさげている。だまって坐るとだまって茶をつぎ、だまって進めたものである。と広太郎だまって取りあげ、ゆるやかに喫したものである。で二人眼を見合わせた。と、微笑がほころびた。意味深長な微笑ではなく、非常に率直な微笑なのである。
「妾は愛しておりますのよ」「ええ、そうして私も」こういう意味の微笑なのである。
「渡り鳥が来たようでございますね。満天星の葉を散らしています。おや、椋鳥でございます」こういったのはイスラエルのお町。
「よい季節になりましたな。ははあなるほど、椋鳥が」
不意にあたりが暗くなった。とバラバラと音がした。時雨が降って来たのである。だが見る間にあがってしまった。そうしてすぐに陽がさして来た。どこからか謡曲の声がした。と、かおってくる木犀の香! パチッパチッと囲碁の音! 隣りで烏鷺を戦わせるらしい。
ちょっとの間沈黙する。とまたお町話しかけた。
「落ちあゆの季節になりました」
「ああいかにもな、落ちあゆの季節」
「カマスやヒシコや小がれいや、かじきまぐろの盛りだそうで」
「さようさよう、そんなようで」
「からいも、八頭、蓮根、ごぼう、市場へ出たそうでございます」
「秋はよろしゅうございますなあ」
「初雁、虫の音、花壇の手入れ、歌をよむ方やお百姓などは、さぞ忙しいでございましょう」
「さぞ忙しいでございましょう」
「牡丹や、芍薬や、幽蘭の、根分けをしなければならないそうで」
「そんなあんばいでございますな」
「妾、ゆうべきぬたの音を、耳にしたようでございます」
「あっ、私も聞きました」広太郎はなんでも同意する。
「木犀に萩にすすきに葛、いろいろの花が咲き出しました」
「いろいろの花が咲き出しました」
「霧にとんぼに稲刈りに、面白い時令となりました」
「面白い時令となりました」
「二百十日に二百二十日、白露に彼岸の秋分に、不動様のお開帳も近づきました」
「みんなみんな結構で」
「ホ、ホ、ホ、ホ、おかしなお方!」
「アッハッハッハッ、愉快でござる」
大変のどかな会話である。
「あなた、ご気分もお身体もよろしいようでございますのね」
「よろしゅうございます、おかげさまで」
「お肥えにならなければいけません」
「沢山たべて肥えましょう」
「少しはお散歩なさりませ」
「ボツボツ散歩しましょうかな」
「あなた」と少しく語気を強め、お町、広太郎へいったものである。
「あなた」と語気は強めたが、思い返したというように、お町は元のやさしさに返った。広太郎の心にさわるまい、こう思ったがためらしい。
「以前は陰気でございましたのに、この頃は陽気におなりなさいました。何があなたをおかえしたのでしょう?」
「さあ」といったが広太郎、むしろ水のように淡々と、「いろいろの事情があるようです」
「おあきらめなすったのではございますまいか?」
お町追っかけてきいたものである。
「それもあるようでございますね」ひとの噂でもするようである。
「ほんとにそれに致しましても、どうして目つからないのでございましょう」お町の方が熱心である。
「この世にいないのかもしれません」やはり広太郎水のようだ。
「忠三さんをはじめとし、沢山の人を手分けして、杉窪からかけて江戸一帯、近郷近在までさがしたのに、どうしてもお行方が知れないとは」
「この世にいないからでございましょう」
「お気の毒な娘さんでございます」
君尾の噂をしているのであった。
「あのそれからお京様の方も、お行方が知れないそうでございますね」探るようにお町がきく。
「そんな評判でございます」広太郎少しも動じない。
「ほんとに不思議でございますわね」むしろ自分へいったのである。
「若い娘ごが二人まで、行方不明になるなんて」
広太郎なんとも返辞をしない。依然水のようにすんでいる。
柱につるされた籠の中で、鸚鵡が煎餅を食べている。その籠の下に眠っているのは、スペイン猫のネロである。
コツコツコツ、コツコツコツ、鸚鵡が煎餅をつつく音! ふと広太郎がつぶやいた。
「生死の境いを経てくると、人間というものは変りますなあ」
お町が聞きのがす筈がない。「袴様、どういう意味で?」
だが広太郎答えない。庭の木立を眺めている。とまたつぶやいたものである。
「本来私はあの時に、殺されている身分でございますよ」
「ほんとにあぶのうございました」
「それを今日生きております」
「ご運がよかったからでございます」
「いやあなたに助けられたからです」
「妾、よいことをいたしました」
「私の身体はあの時以来、私のものではない筈です。あなたのものでございますよ。……それはそれとして人間というもの、ああいう境地を経て来ると、覚悟が出来るものですね。流れるままに流れよう。こだわらずに生きて行こう。過去は一切消えたのだ。現在ばかりに生きて行こう。そうしてそれもあなた任せ! こういう覚悟でございますよ」
一種の悟りの結果でもあろう。広太郎の言葉には含蓄があった。
「だがこれまでになりますには、相当煩悶も致しました。陰気になったのはそのためです。しかしこのごろになって、心が明るくなりました。どうしようとも思わない。どうなろうと勝手である。あなた任せ、あなた任せ! で自然心がすみ、気持ちも陽気になりました。しかし」
というと広太郎、微妙な微笑を頬に浮かべた。
「しかし」と広太郎はいいつづけた。「正直に申しておきましょう。お京様は初恋人、忘れることはできません。いまだに心に焼きついております。が、しかし残念なことには、すでに許婚がございます。くだらない人間ではございますが、くだらないだけに可哀そうでもあり、横取りする気にもなれません。自然あきらめねばなりますまい。行方不明になりましたが、別に心配はないそうで、目つける必要はありますまい。一方君尾様になりますと、これも恋人ではありますが、いささか、趣きを異にしております。初恋人のお京様、この人のおもかげを伝えている、そういう点がこの私を、引きつけたことになりますので。これをいいかえると君尾様を通して、お京様に恋を捧げている、こういうことになりますなあ。甚だ厄介ではございますが、いかにせん真相でございますよ。ところで行方が知れません。しかるに私はたのまれております。『君尾をたのみます、広太郎殿。文三からお取り返しくださりませ』さよう、末期の銅兵衛殿からな。……で、今日までさがしましたが、ご承知のとおり行方が知れない。おそらくこの世にはおりますまい。幸い生きているにしても、二度と逢うことの出来ないような、遠くの土地にでもおりましょう。やはりあきらめなければなりますまい。だが……」というと自嘲的になった。「だがいったいなんのために、事新しくこんなことを、いい出したかといいますと、一切合財今日においては、もうもうそういう過去のことは、私の心から稀薄になった。少なくも稀薄になろうとしている。──ということを申しあげたいからで。しかしこんなことをいい出して、それがいったいなんになるのだ? とこう反問されますと、ちょっと困るように見えますが、その実一向こまりませんので。というのは順序として、あなたと私との共住みのことに、話が移るからでございますよ」
「一緒にこそ住んではおりますものの、夫婦ならぬ夫婦ではございませんか」お町の声はさびしそうである。
それには広太郎は答えなかった。
「私にとりましては生命の恩人、決しておろそかには存じません」
「ただそれだけでございましょうか」お町不足そうにせまって行く。
「私を愛してくださいました。私を看病してくださいました。私を放そうとなさいませんでした。そこで実家がありながら、私はそこへ帰ろうともせず、あなたと一緒に住んでおります」
「たいへんお気の毒でございますこと」
「最初私には疑問でした。いったいどういう女だろうと?」
「妾、毒婦でございますの」
「はい、さようで。この私にも、ある時はそんなように見えました」
「こわい女でございますのよ」
「私が命を助けられたばかりか、お京様を天草の屋敷から、無事にお取り返しくださいましたのも、やはりあなたでございました」
「あなたのおたのみでございましたから。……」
「二重三重の恩人です」
「いやな言葉でございますこと。……」お町不足らしくいうのであった。「恩人! 恩人! どこまでいっても恩人!」
すると広太郎暗示的にいった。「男女の恋というようなものは、いろいろの関係からなり立ちますなあ」
お町じっと聞き澄ました。そのあとの言葉を待ちもうけた。
淡々と広太郎はいい続けた。
「一目ぼれというのもございます。一番純な恋ではありますが、同時に一番あぶなっかしいようで。……しげしげ逢っているうちに、ほれてしまうのもございますな。女に物でもみつがれると、ついほだされて恋してしまいます。これが一番不純のようで、その実一番理詰めでございます。ご恩になったからご恩を返す! なんと合理的ではございませんか。ましてや女が二つとない、命をみついでくれたとなると……」
お町、ヒョイと手を出した。と、広太郎も手を出した。十本の指がしっかりと、からみ合って握られた。
「袴様!」と熱病のような声! 「いつぞやあなたに申しました! はい、南蛮屋の南蛮部屋で、あなたとお目にかかった時! 『お金もいらず物もいらず、何もいただこうとは思いませぬが、そのうちあるいはあなた様の、一番一番大切なものを、いただきにあがるかもしれません』と。……今日こそわたくし催促ります!」
「よろしゅうございます。お待ちなされ」
「では夫婦ならぬ夫婦生活も……」
「今夜あたりで幕をおろしましょう」
「ああ、夢のようでございます」
「夢はこれから見るのです」
「……夢を! 今夜から! 美しい夢を……でも」と不安に耐えないように、「そういっているうち、今日が日にも、お京様か君尾様のいどころが……」
「知れてみなければわかりません。……お京様や君尾様が現われて、あなた以上に私の心を、もし狩り立ててくれましたら、そっちへ移るでございましょう。……今は今を楽しみましょう。流れるままに、引かれるままに。……」
肩と肩とが寄り合った。首と首とがめぐらされた。きっと唇が合うのだろう。
庭木のこずえから夕日が消え、宵やみが襲って来ようとしている。
権十の姿が現われた。
「イスラエルのあねご、おいでかね。親方の使いで参りやした。一体全体何がなんでえ! こうどなれと申しました。寮住まいはようげしょうが、南蛮屋だってようげしょう! 袴様はようげしょうが、忠三だってようげしょう! 是非南蛮屋へ来てくだせえ! うしゃアがれ! まだいたのか! ひっちかられてしまいやした。至急南蛮屋へおいでくだせえ!」
庭先に立っていったものである。
さてこの頃南蛮部屋では、忠三、寝椅子にころがりながら、こんなことを考えていた。
「あねごが来るのだ、あねごがよ! イスラエルのあねごがおいでになるのだ! そこでおいらは立ちあがり、あねごへ寝椅子を奉る。と、あねごがやんわりと、そこへお腰をかけられる。忠さんその後はご無事かえ? などとおっしゃるに相違ない。そこでおいらは『へい』といって、ひとつはにかんでみせるかな。うんにゃウンと威張ってやる! そうしてノッケから巻くし立ててやる。あねごいけねえ目っかっちゃった! へいさようで、君尾様がね! で、あねごはお払い箱、袴様からヒマが出る。いらはいいらはい南蛮屋へ! するとあねご来るかしら?」
「忠さん」とその時声がした。はいって来たのはお町であった。
「来たア!」
とわめくと早引の忠三、もろに寝椅子から飛びおりた。「さあおかけ!」と塵を払う。
それからニヤニヤ笑ったが、予定の行動というやつだ。ノッケからいい出したのである。
「あねご、とうとう目つかりやした!」
「何が?」とお町眼をまるくする。
「お聞きなせえ、まずこうだ。芝へ行ったと思しめせ。へいさようで、昨晩ね。帰って来た所が上野山下、そこで逢ったのでございますよ。へい二人の野郎にね。一人はお京様をなくしたし、一人は君尾様をなくしたし、月がまるくてションボリだ。猿のなき声キーキーキー、もっともこいつはこわ色で。そこであっしが追っかけて行き、キューッとしぼったは中条流、ピョイと飛び越すと朱舜水様葵のご紋もおいでなさる。内丹説に胆をつぶし、飛び返ってみるとまたキーキー、今度は本当の猿がいて、『ノロマのノロマの三吉や』とうとう目つけたというもので……だがね、あねご。これだけじゃア、とてもわかりっこありますめえね。……いったい何だ、このざまは!」
自分で自分を毒づいたが、
「枝葉を刈り込んで幹ばかり、こいつでお話し致しましょう。あねご、鷲いちゃアいけません。探しあぐんだ君尾という娘、ところもあろうに根岸住居、あねごの父上紀州様、そのお方の弟ご様、副将軍のお家柄、水戸中納言様の下屋敷……だろうとあっしは思うのですがね。そこにいなさるじゃございませんか!」
昨夜の話をしたものである。
「さてそれからもう一つだ、困ったことが出来ました。もっともこいつは一言もなく、あっしの責任ではございますがね。たった今し方島原城之介、あねごを探しに来たってもので。ついうかうかと舌が廻り、その、あねごの隠れ家を、もちろんはっきりとではありませんが、しゃべってしまったというもので。しかし間抜けの城之介、目つけ出す気づかいもありますまいが、あっしとしては気がかりだ。そこでちょっくらお呼びして、お話したというもので。そそっかしいは昔からだ。こいつはご勘弁を願うとして、とにもかくにもご用心、お願い致しとう存じます。……これでやっとセイセイした。すまじきものは駄弁でげす! 今後は注意致しやしょう」
いくらか不安だというように、忠三お町を見たものである。
「おやおやおや、どうしたんだ!」
忠三思わず飛びあがった。お町の様子が変ったからである。
まず顔色があおざめた。それからひとみが一点を見詰めた。唇がブルブルふるえてきた。そうして挙が握られた。と、寝椅子から立ちあがった。
「夢が消えた! 美しい夢が!」笛のようなかん声でまずいった。「夫婦ならぬ夫婦ぐらし! あッあッあッ、それさえ駄目だ!」ジリジリと前へ進み出た。「忠三!」とギリギリと歯ぎしりをした。「お礼をいいます! よく目つけてくれた! こんな場合に! ち、畜生!」
「あねご!」と叫ぶと早引の忠三、ジリジリと後へ退いた。
「ど、どうしたんで? どうしたんで!」
「お礼をいうよ!」とまた進んだ。「よく目つけたねえ、君尾様を! 時もあろうに、こんな時に! 明日ならよかった! 明日ならよかった! 忠三」と眼から涙を流した。「食い殺してもあき足りないヨーッ」
「ワーッ、いけねえ!」と早引の忠三、壁へピッタリとくッついてしまった。
「オイ!」とお町、なお進む。
「オイ!」といいながらイスラエルのお町、ジリジリと忠三へせまったがにわかに両手で眼をおさえると、グタグタと椅子へくず折れた。と、嗚咽の声が漏れる。切れ切れに声が聞こえてくる。
「君尾様の居場所、君尾様の居場所……知れたからには袴様へ! ……それと知ったら袴様、どんなお心になられるだろう? ……なんといってもあの人の恋人……探しあぐんだ娘さん……ガラリお心が一変し……傾きかけたお心が……向こうへ移ってしまうヨーッ……移ったが最後容易には……取り返せない……取り返せない! ……棄てられるヨーッ! 棄てられるヨーッ! 忠三!」とヌッと顔を上げた。
「あねご!」と忠三ふるえ上がってしまった。
「怨むよ!」とお町、フラフラと立った。
「済まねえ!」とギックリ腰を曲げる。
「ああ妾は眼が廻る!」
「水だ!」と忠三、飛び出そうとした。
「殺しておくれ! さあ妾を!」
「堪忍!」とガタガタふるえ出した。
「よくもよくも目付けたねえ! なぜだい! なぜだい! なぜだい! なぜだい!」
「無理だ! あねご! 滅茶苦茶だ! め、目付けろといった筈だ!」
「ねえ」とお町、ぼんやりとした。
「いったわねえ、目付けろって! で、お前は目付けたんだねえ。ああそうとも、よく目付けたねえ……今夜が過ぎればよかったんだ。……妾の人になったんだから。……早かったわねえ、一日だけ! 忠三さん!」というと凝視した。「縄をお貸しよ、お前の縄を!」
「どうなさいます? ねえあねご?」
「あのねえ」ジイッと天井を見た。「掛けておくれよ、あそこの梁へ!」
「ううむ」とうなったものである。「首を……あねご? い、いけねえ!」
「貸してくれないの。え、忠さん! そう、それなら借りません。……舌をかんだって死ねるねえ」
寝椅子の上へつっ伏した。背筋からかけて肩口まで、ウネウネ波のようにうねるのは、泣きじゃくっている証拠である。
眼を垂れ床を見詰めたが、忠三心でつぶやいた。「こんなにもほれていたのかなあ」
月が窓からさして来た。店から客の声がした。酔客のうたう声である。
〽逢おうとしても逢われない。
フラフラとお町立ち上がった。
「妾は行きます。さようならよ」
「あねご、送りましょう。へいそこまで」
「妾は行きます。さようならよ」
戸口の所で振り返った。
「お前たっしゃでいるがいいよ」
部屋の外へ消えてしまった。
酔客の歌が聞こえて来た。
「起こりそうだなあ、恐ろしいことが」
忠三胸へ腕組みをしたが、はたして恐ろしい出来事が、その夜のうちに起こったのである。
ちょうどこの頃小梅の寮では、一人広太郎が灯火の下に、例の巻軸を押しひろげ、その表に見入っていた。広大な城郭の縄張り絵図が、半分だけかかれてあるのであった。
「いったいどこの城だろう? 随分大きな城郭だが。もう一本の巻軸を継ぐと、完全な図面になるものと見える。だがいったいこんな図面が、どうしてあんなにも大切なんだろう? はてな?」とつぶやくと眼を上げた。金目垣の向こうに何者か、いるような気勢がしたからである。
何か白いものが浮かんでいる。「おや!」と一層のぞき込んだ時、フワリと横へそれてしまった。「おかしいなあ、何だろう?」心にかかったが立ちもあがらず、再び絵画面に見入ったが、これが悪運の基であった。
「いやそれにしてもお町という女、いかにも変った性質ではある。杉窪の里の裏山で、ゆくりなく拾ったこの巻軸、多くの人の争うところを見れば、大切なものと思われる。しかし拙者には不用の品、差し上げましょうといったところ、以前はほしゅうございましたが、今はほしいとは思いません。妾のほしいのはそれでなく、袴様あなたでございます。こういって取ろうとしなかったが、サッパリとして面白い気象だ。……巻軸二本手に入れると、どんな功徳がありますかな? おれがこう聞くとあのお町、袴様あなたのお家などには、あり過ぎるほど沢山にある、そういう物をさらに一層、手に入れることができますので。こういって冷淡に笑ったが、いったいなんのことだろう? おれの家にある物といえば、先祖代々貯め込んだ、黴の生えた大小の小判だが、そんな物では面白くないなア。……だがそれにしてもこの図面、どこの城郭の縄張りなんだろう? ……北の丸、西の丸、西丸下、本丸があって二の丸がある。濠が三重に取り巻いている。……二の丸と三の丸との境い目で、惜しいことにブッツリ切れてしまっている。ははあなるほどこの後ろへ、もう一つの巻軸をくっつけると、完全な絵図面となるのだな。……おや、変てこな符号があるぞ」
二の丸と三の丸の境い目の、濠の一所にポッツリと、半分にち切れた井桁のようなものが「キ」こんな塩梅に描かれてあった。
「妙なものだなあ、何だろう? どうやら意味があるらしい。そうだ、もう一本の巻軸を、ここへ継ぐとわかるのだろう。……だがそれにしてもこの城郭、恐ろしいほどに宏大だが、こんな宏大な城郭が、いったいどこにあるのだろう?」しばらく考えたが見当がつかない。「目ぼしい大藩の大名といえば、加賀に島津に細川に、尾張に紀伊に仙台の伊達。しかしそれとて城郭は、こうも大きくない筈だ。……といって外国のかまえではない。日本古来の様式だ」そこでまたじっと考え込んだ。しかしどうしても見当がつかない。「わからないのが本当だろう。秘密を保つのが築城の極意、図面を一見しただけで、わかるようでは名城とはいえない。……だがこの構えから推量すれば、慶長前期の風がある。ひどく古風の城でもない。まてよ」というと、眼を宙に茫然と見上げたものである。と、ブルッと身ぶるいをした。「わかった!」とあたかもうめくように、「わかったわかった! ううむ、わかった! あんまり見慣れていたために、かえって今までわからなかったのだ。がしかし!」とまた茫然。「こうまで詳しい縄張りを、誰がどうして描いたんだろう? ……これさえあれば徳川家を……島原一揆? なるほどなあ」じっと腕を組んだものである。「謀反の輩でなかったら、こんな恐ろしい絵図面を、手に入れようなどとはしないだろう」
物にでも襲われたというように、フラフラ立ったがまた坐った。手を伸ばすと巻軸を、グルグル巻き納めたものである。
と、その時籠の鸚鵡、にわかにコーッと鳴き出した。と、飛びあがったスペイン猫、背を持ち上げると爪を磨き、威嚇するようにうなり出した。「これは!」と驚いて広太郎、月影暗い庭を見た。
「袴氏!」としわがれた声! 金目黐の垣をおどり越え、真っ白いものが飛んで来た。
「袴氏!」と声を掛け、飛び込んで来たのはほかでもない、修験者姿の島原城之介。ツカツカ進むと縁側の手前、庭先へジャラーンと鉄杖を突き、および腰をしてのぞき込んだ。
「袴氏、しばらくでござった。隅田以来随分の因縁、今日はお礼に参ってござる。わけてもよくぞ拙者を捕え、正雪一味へ渡されたな! 次にはよくぞイスラエルのお町を、拙者から横取りなされたな」まず城之介いったものである。それから四辺を見廻したが、「萩の柴折戸、金目垣、木立が茂って、奥が見えぬ、大変ひそやかな寮住居、なるほどなあ、目つからないはずだ。が、とうとう今日は目つけた。目つけたからにはこっちのもの、これ!」というと、つと進んだ。
「お町を出せ!」
グイとかい込んだ鉄杖を、右八双に構えたのは、機を見て振り込もうためであろう。
「ははあ鸚鵡も籠にいるな。スペイン猫もご健在。ひどく拙者が嫌いとみえ、ガーガーミンミン鳴きおるわい!」ドンと片足を縁へかけた。「お町を出せ! お町を出せ! とはいうもののそのお町、今いねえのは百も承知だ! 金目の垣のうしろに立ち、そうさなア、一刻余りも、内の様子を見ていたっけ。手を取り合って口づけし、今夜出来合おうのご相談! みんな聞いたみんな見た! ムカツク胸をさすりながら、辛棒したのはつらかったよ! ……南蛮屋から迎えが来て、出て行ったのでサアしめた、はいって来たというものさ。駄目だ駄目だ、人をつけ、今夜締め合われてたまるものか! お町を締めるのはうぬじゃアねえ。城之介様だア、このおれだ! さて!」というと毒々しく、しかも皮肉に笑ったものである。「さて手前をどうしようかなア、ちゃあアんとおれには目算がある。しょびいて行くのさ、おれの巣へよ! そこでゆっくりと責折檻、好男子をだいなしにしてやるのさ! そうさ手をかえ品をかえ、地獄の光景を見せてやるのさ。が、心配はご無用だ。殺しはしねえ。それだけは安心! 殺すとお町に怨まれる。怨まれた日にゃアこっちが損、損のことならやらないがいい。おれの考えはほかにある。手前を玉に引き上げて、あのお町めをアブアブさせ、もがき廻るところへつけ入って、のっぴきならず落とすのさ。……手前の焦がれる広太郎、かえしてやるからいうことを聞け、どうだどうだとやらかすのさ。みっしり利こうぜこの目算! さてお町さえ手に入れたら、手前なんかには用はねえ。うしゃアがれと突っ放す! ということになるんだなあ。……まずこのくらいでいいだろう。そろそろ料理に取りかかろう。おれは案外正直者さ、先に計画をぶちまけて、それから手段にかかるんだからなあ。それ!」
というと鉄杖を、グイとばかりに突き出した。と、経机が飛んできた。袴広太郎投げたのである。
「おっとあぶねえ」とたたき落とした。「これこれなんだ、とんでもねえ奴だ! 机には罪はない筈だ。これまで二人で寄っかかり、厄介をかけた机じゃアねえか。いかに不用になったとはいえ、そう没義道に扱わねえがいい。ソレ!」と鉄杖をまた出した。
とたんに飛び上がった広太郎、そばの刀へ手をかけると、スルリと引き抜いたものである。
「えッへッへッ、抜きましたね。ソレ!」
というと島原城之介、グルリ鉄杖を右手廻し、環頭をもってすくい上げた。
怪修験者島原城之介。現われた時から広太郎、「残念、駄目だ!」と考えた。隅田の堤で逢って以来、敵の力量は知れている。無双の手利き、恐ろしい奴だ。が、あの時はまだよかった。というのは広太郎たっしゃだったからだ。今はいけない病後である。体も心も弱っている。太刀打ちは愚かこれまでは、戸外の散歩さえしたことがない。節々はゆるみ肉はだれ、気息をととのえるさえ覚束ない。太刀を構えて立ったものの、足もとさえも定まらない。睨んだ眼先がチラチラする。
「これはやられる! これはやられる!」
さりとて逃げることも出来なかった。いついたままでピタリと青眼、差し付けられた鉄杖を、睨みつけているばかりである。「おれは屋内、きゃつは戸外、きゃつの獲物は長目の鉄杖、おれの得物は幸い小太刀、うまく屋内へ誘い入れたら、万に一つ勝とうもしれぬ。そうだそうだおびきよせてやれ!」
その時城之介鉄杖を廻し、広太郎の足を払って来た。「うむ」というと背後へ飛んだ。そこへつけ込みスルスルスル、城之介屋内へはいってきた。「しめた!」と叫んだ広太郎、片膝敷くと掬い斬り、敵の高股へ斬りつけた。「どっこい!」と喚いた城之介、もろに飛び返ると鉄杖の先、伸ばして広太郎の胸を突いた。危うく渡して立ちなおる。と、ツツ──と鉄杖が、手もとへ引かれたものである。なんの不思議ぞ! 引く手に連れ、鉄杖の先に磁気あって、吸いつけられる鉄片さながら、今度は袴広太郎、スルスルスルと前へ出た。うしろさがりに城之介、座敷を抜けて縁へ出た。と、縁から飛びおりる。「おっ」と気がついた広太郎、縁でガッシリ踏みこたえた。そこを狙って城之介、鉄杖の中軸双手握り、逆にひねるとグルリと返し、環頭をもってしたたかに、広太郎の肩へ打ちおろした。
こいつを受けたら刀が折れる、身をかわすと辛く遁がれ、広太郎屋内へ退いた。「チェッ」という舌打ちの音、縁へ飛びあがった城之介、またもや鉄杖を突き出したが、小さく刻む鶺鴒の尾、上下へヒョイヒョイと動かした。と、リズミカルの環の音! カラカラカラ、カラカラカラ! 一種微妙な音楽である。袴広太郎、次第次第に、心が恍惚となってきた。スーと鉄杖が伸び、それが手もとへ引かれた時、不可抗力だ、スルスルスル、広太郎前へ出たものである。
縁まで下がってきた城之介、ヒョイと飛ぶと庭へ下り、引きそばめると鉄杖の先、片手に握ると六尺の長さ、胸の長さを加えると、八尺となって余りがある、ゆるやかに斜めに振り上げたが、妖精じみた窪んだ眼で、狙いをつけたは広太郎の右肩、
「もういけめえ! 贄にしてくりょう!」
例の嗄れ声! 響かせると同時に、鉄杖あやまたず肩へ落ちた。
癒着していない傷があった。そいつがわれてしたたる血!
「むっ!」というと袴広太郎、縁にへたばったがそれも一瞬、血溜りの中へ横倒し、悶絶をして動かなくなった。
「ほほう」というと城之介、例によってジャランと鉄杖を立て、それへ寄っかかって見おろしたが、「片がついたというものさ。死にゃアしまいね、え、まさか?」片手を出すとグイと伸ばし、広太郎の鼻息を窺った。「大丈夫だア」と眼を上げた。と、眼についたは巻軸である。「思わぬ獲物! すなわち二兎さ」グイと懐中へねじ込んだ時、小門にあたって女の足音。
小門にあたって女の足音!
「や、帰って来たお町めが! が、今逢っては面白くない。玉をさらってひとまずのがれ、さてそいつをおとりにして、口説きおとすが上分別さ、第一おいらが広太郎を、血だるまにしたと知ったら、お町めあべこべに憎むだろう。憎まれた日には追っつかない。退散退散」と城之介、腕を伸ばすと大力無双、広太郎を小脇にかい込んだ。鉄杖を突くと片足をはね、一本歯の足駄高々と、ヒラリと飛んだは金目垣、さながら一匹の巨大な蛾だ。白々と姿を消してしまった。
またも鳴き立つ籠の鸚鵡、バタバタバタと羽ばたきをする。と四散する翼の白粉、ボッと四辺がけむるほどだ。負けずにうなるスペイン猫、背を持ち上げてグルグルグル、血だまりの周囲をまわり出した。
足音の主はお町であった。
「君尾という娘、目つかったからには、どうでも袴様へ知らせなければならない。ああ捨てられたら死ぬまでだよ! ……どうしたんだろう? やかましいねえ」
庭づたいにやってきた。見ればタップリ縁の上、血がたまって赤黒い。
ギョッとしたお町、「袴様!」
呼びかけたが返辞がない。駈け上がると探し出した。
「袴様! 袴様! 袴様!」
返辞のあろう筈がない。飛び返ってきたイスラエルのお町、ベタベタと縁へすわってしまった。思い出したは忠三の言葉!
「城之介めだ! 城之介めだ!」ヨロヨロと立ったがまたベッタリ。
「畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 城之介めが袴様を殺したヨーッ」
血だまりを睨んだものである。
「あッ、妾目が廻る! あッ、妾死んでしまいそうだ! あッ、だんだん気が遠くなる!」
キューッとこめかみを押さえつけた。
気だって遠くなるだろう。眼だってグラグラするだろう。恋が叶ってサア今夜! 楽しい夢を見る事が出来る。こう思ったおりもおり、君尾の居場所が発見され、一つの邪魔がはいったのでさえ、随分お町には苦痛だったのに、帰って来て見れば恋人がいない。残されているのは血だまりだ。殺されて死骸を捨てられたか、負傷してどこかへさらわれたか、どっちみち、恐ろしい運命が、恋人を見舞ったに相違ない。間を置いて来たならともかくも、一度に襲ってきたのである。もしもお町が気弱だったら、気絶ぐらいはしただろう。
お町はいつまでも動かない。ぼんやりと血だまりを見詰めている。さりとて考えているのではない。放心、放心、放心しているのだ。と、ポッと眼の前へ、一つの生首が浮かんできた。袴広太郎の首級である。と、ポッと消えてしまった。急に古沼が見えて来た。一つの死骸が浮かんでいる。袴広太郎の死骸である。だが、そいつも消えてしまった。
頭の芯がジーンと痛む。身体の骨が抜けてしまいそうだ。胸ばっかりがむやみとおどる。だが、ちっとも涙が出ない。
と、この時どうしたものか、血だまりを廻っていたスペイン猫、ネロがお町へ飛びかかって来た。すなわちお町の袖をくわえ、グーッと前へ引っ張ったのである。お町は無心に払いのけた。飛び退いたネロ、縁を飛び下り、金目の垣まで走ったが、ガリガリと地面を引っ掻いた。と、またも飛び返り、袖をくわえて引っ張った。
「あっ、そうかい!」と、イスラエルのお町、にわかに手をうち飛びあがったのは、一つの考えが浮かんだからである。
慣らされ切っているスペイン猫、血のにおいだけはかぎ分ける。地にしたたっている広太郎の血潮、ははあこいつをたよりにして、袴広太郎様のおり場所へ、案内しようとしているのだな! ──こう考えた時お町の心、明るくなったのは当然といえよう。
「ネロや、ネロや、有難うよ!」まずもって礼をいったものである。「案内しておくれ、さあすぐに! 行くとも行くとも連れて行っておくれ! どこにいるのさ、袴様! さあさあ行こうさあさあ行こう! ああ、でも、もしや行き着いた所に、あの方の死骸でもあろうものなら、それこそ、本当に、どうしよう! ……でも行こうねえ、さあ行こう! ネロや、ネロや、連れて行っておくれ!」
ヒラリと縁から飛び下りた。
「お待ち!」
とにわかに立ち止まった。
「忠さんへ知らせよう、忠さんへ!」
ふたたび座敷へ駈け上がった。ベッタリ坐ると硯を引き寄せ、筆を執るのももどかしく、何か懐紙へサラサラと書いた。
立ち上がると鳥籠へ行った。戸を開けるとうれしそうに、舞い出してきた白鸚鵡、差し出したお町の手へ止まった。だき抱えたイスラエルのお町、手早く紙片を巻きつけた。
つとお町縁へ出た。
「花ちゃん」と鸚鵡へ話しかけた。
「行っておくれよ、南蛮屋へね。忠さんへ手紙を渡しておくれ! 急いでね、大急ぎ!」
やわらかくだきしめ頬ずりをし、それからサッと切って放した。夜の鳥、眼は見えまい。しかし慣らされた文使い、感覚だけで飛ぶことが出来る。プーッと飛び立つと空を斜め、浅草の方角へかけったが、見る見る姿が見えなくなった。
「用心までに!」と、イスラエルのお町、手文庫をあけると懐刀を出した。葵散らしの懐刀である。帯へはさむとキリキリキリ、衣裳の裾を取り上げた。
「さあネロや、連れて行っておくれ!」
地上へ飛び下りたものである。
フーッとうなるとスペイン猫、ポンと金目垣をおどり越えた。
「お待ちよ、お待ちよ!」とイスラエルのお町、小門から外へ駈け出した。
ネロはズンズン走って行く。後からお町が走って行く。今夜も明月、あたり明るく、紗を張ったようにあおざめている。
一匹のけものと一人の女、走る走る東北へ! 三囲から牛御前、長命寺から須崎たんぼ! 一面の野面、諸所に林、人家乏しく、耕地も乏しい。左に見えるは隅田堤、背を高め、背を低め、土を引っ掻き、土をかぎ、突然高くはねるかと思うと、悲しそうに鳴いてはい廻ったり、ネロは夢中で案内する。その後をつけるイスラエルのお町、恋と不安とで狂人である。
「ネロやネロや、早くお行き! 何をしているのさ。早くお行き!」夢中になって追い立てる。
一匹のけものと一人の女、こうしてだんだん進んでゆく。
ところでこの頃島原城之介、どこを走っていたかというに、蓮華寺の背後藪地の前を、例の蛾のように白々と、月光を浴びて走っていた。と、スタスタとうしろから、追いせまって来る足音がした。ギョッとして振り返ったそのとたん。
「島原!」と斬り込んで来たものがある。
「島原!」と叫んで斬り込んで来た人影、月光に見れば額に傷、すなわち天草時行の片腕、九州浪人長崎左源太。
アッという間に島原城之介、二間あまりうしろへ飛んだ。左手に抱えたは気絶の広太郎、右手に高く振りかぶったは、例の得物鉄杖である。
「ふふん」とばかり鼻を鳴らした。「おお長崎か、左源太か。いつの間に後をつけて来た! ご苦労千万、毎々ながら! が駄目だ、帰れ帰れ! 知られてたまるか、おれの住居! これ!」というと一本歯、高足駄でグイと進んだが、「どだい考えが間違っていらあ、よく天草へいってくれ、空巣狙いはやめろってな! 住居を突き止めてどうする気だ? うん、おおかたこうだろう。取り貯めてあるお賽銭、ふんだくろうとするのだろう? いけねえいけねえ、そいつはいけねえ。というのはそんなものはないからさ。ああないよ、お賽銭なんか! 第一……」というとまた進んだ。「そいつは天草だって知っている筈だ。一緒に原の城にいたんだからなあ。もっとも目的は別々だった、天草の目的は金儲け、おれの目的は吉利支丹修法、そうしておれはともかくも、イスラエル教をたてたってものさ。でおれには物欲はない! 人助け、人助け、人助け! な、これだけだ、あるものといえば! すなわち神聖なる救世主さ! 馬鹿にしちゃアいけねえ、大行者様だア! ……ところで、イスラエル教は密法だ! 容易に道場を見せることは出来ねえ! 見られるとこっちも都合が悪いが、見た方でも後悔しよう! そうさ、あんまりあらたかでな! 第一裸体の生娘が、うんにゃ、そんなものは一人もいねえ? もっとも壁には性の絵が、うんにゃうんにゃ、そんな物もねえ! 愛欲をそそる御神水、オッとそんなものはなかったっけ! ただむやみと崇高なるものが、あっちこっちにあるばかりだ! うかうかそんなものを見ようものなら、真っ先に心臓が破裂する。心が恍惚とするってことよ! と、このくらいで負けてくれ! というとひどくいい所で、一層見たくなるだろうな? そりゃアとてもいい所さ! 一旦そこへはいろうものなら、出るのが厭になるらしい。どんな無理でも諾こうという、そんな気持ちになるらしい。そこを狙って献金を! ドッコイ、俺には物欲はねえ。で、決して献金はさせねえ! だからいつも貧乏だよ! 貧乏ぐらしが見たかったら、これからチョクチョク遊びに来い! といいたいんだがいわないね。ボロい儲けというものは、すべからく一人占めにすべきだからなあ。と、こういうとこのおれが、ボロく儲けているようだが、今もいったよ、貧乏だア! だからさ、だからさ、後なんかつけるな!」ここで島原城之介、振りかぶった鉄杖カラカラと鳴らし、傍若無人に進み出た。「オイ!」と残忍な含み声。「それともあくまでつける気か? つけるならつけろ、つけてみろ! うまくつけたら褒美をやる。そうさ、鉄杖の一撃をな! そのザマはなんだ、すきだらけではないか! そんなうでまえでかかる気か? 大胆だなあ。感心感心! 度胸だけは認めてやる。で度胸でやって来い! その代わりみっしりおとすぞよ。うん、そうさ、鉄杖を! 脳天がよければ脳天へおとす。肩がよければ肩へおとす。それともビッコになりたいなら、遠慮はいらない飛び込んで来い。あっさりさらってオッペショッてやる! ゆくぞ!」
と正面からせり詰めた。
逼り詰められた長崎左源太、さっきから身動きさえ出来ないのであった。
「強い強いと聞いてはいたが、こうまで強いとは知らなかった。これはまるで逃げることさえ出来ない。のっかかって来る。おっかぶさって来る。なんてマアせいが高いんだ。……なんてマア得物が長いんだ。廻り込もうとさえしおらない。真っ正面からせまってくる。しかも片手だ、片手打ちだ! 随分重い鉄杖だろうに! なんだ、あいつは、光っているのは? 環だな、環だな、月に光っている! ……カラカラカラ、カラカラカラ、環が鳴るのだ、ぶつかり合って! 動かしているのだな、いつかないように! ……左手に死骸を抱えている。殺されたんだろう、可哀そうに! ……人間ではないものの怪だ! 死骸を抱えて、突っ立って、のべつにしゃべっておちつき払って、白衣を纒って、白髪だ! ……うしろは藪地、真っ暗だ! ……引っ返せばよかった、かからなければよかった。毛頭ないよ、おれに勝ち目は! ……おっ、どこかで鳥が鳴いている! 夜烏だな、寝ぼけたとみえる。……あがるあがる鉄杖があがる! なぐられる、なぐられる、なぐられる!」
後じさることも出来なかった。横へそれることも出来なかった。魅入られたように凝然と、立ちすくんでいるばかりであった。
と振りかぶった城之介の鉄杖、ピリピリピリピリとふるえ出した。力が籠った証拠である。月光斜めに照らしている。半面明るく半面暗く、城之介の畸形なことは! 上唇がまくれあがった。笑ったのである。こんな場合に! 勃然とわき起こった憤り! それが意外にも左源太を助けた。
「うぬ!」と叫ぶと飛び込んだ。
「おっ!」とわめいた城之介、飛び込まれようとは思わなかったらしい。少しあわてて振り降ろした。ジャラ──ンと鉄杖の響いたのは、不覚にも大地を打ったからであろう。当然のことにはしびれが来た。ガラリと鉄杖を落としてしまった。
「しめた!」と叫んだ長崎左源太、斬り込みはしない、太刀を引き、パッと横っ飛びに逃げ出した。
走る走る、見えなくなった。その素早さ、猟犬である。
後を見送った島原城之介、しばらくはぼんやり立っていた。ひどく感心したらしい。ややあって大変機嫌のよい、愉快そうな笑い声を響かせた。
「ワッハッハッハッハッ、逃げっぷりがいい。きゃつたしかに出世するなあ。というのは機を見るに敏だからよ。たいがいのヤクザはあんな場合にはきまって斬り込んでくるものだ。勝てるというような錯覚でな。が、飛び込んで来たが最後、血ヘドを吐いてくたばらなけりゃアならねえ。城之介様の高足駄、一本歯の利器と来た日には、掻い撫での斧より役立つんだからなあ。胸を蹴ってやるばかりさ。だがそれにしてもおれの得物を、たたき落とした人間といえば、あいつ以外にはないのだからなあ。……いや待ってくれ」と考えた。「たしかもう一人あった筈だ。隅田堤で逢った奴! なんだなんだ、ここにいらあ」ひっ抱えていた広太郎へ、この時はじめて眼をやった。と、どうしたのか城之介、「や、しまった。これはいけない!」
叫ぶと一緒に広太郎を、ドンと地上へ置いたものである。手を伸ばすと広太郎の片袖、グイとばかりに引きちぎった。
なぜ広太郎の片袖を島原城之介は引きちぎったのか! 広太郎の肩の傷口から、血がしたたっていたからである。
「こうむやみと出血しては、可哀そうに死んでしまう。死んでしまっては玉なしだ。せっかくのモクロミが駄目になる。何を置いても一介抱、どれ」というと腰をかがめ、ちぎった片袖をさらに裂き、クルクルと傷口を引き結んだ。
「よろしい」というと引っ抱えた。落ちていた鉄杖を拾いあげ、それからあたりを見廻したのは、つけてくる奴があるかないか、そいつを見きわめるためであろう。「大丈夫、どれ参ろう」
やぶの裾を歩き出した。と不意に城之介の姿、どこへ行ったものか見えなくなった。だが誰か人あって、しさいに耳を傾けたなら、周囲十町は充分にある。大藪地帯を押し分けて、奥へ奥へと歩いて行く、きぬずれの音を聞くことが出来、やがて遙かの藪地の底から、重い扉でも開くような鈍い物うい音がして、つづいて多勢の若い女の、泣いたり笑ったりわめいたりする。奇怪な合唱の声が聞こえ、ふたたび鈍い音がした時、はじめて夜の静寂が、立ち帰ってきたことを知ることが出来よう。
で、今は静かなのである。
と、月光をぬいながら、こっちへ走って来る人影があった。女である。お町である。
「ネロや、ネロや、案内しておくれ! お急ぎお急ぎ、急いでお駈け!」
甲走った声がすぐ響いた。
背を持ちあげ、背をひくめ、高く月に飛び、低く地にはい、お町の前方を走っているのは、スペイン猫のネロであった。
やがて藪地の裾まで来た。と、にわかにスペイン猫、ひと所をグルグル廻り出した。
「ネロや、ネロやどうしたのさ? 早くお行きよ。さあさあ早く!」
うしろに立ったイスラエルのお町、追っ立てるように声をかけたが、ネロは一足も進もうとはしない。グルグルグルグルと同じところを、こまのようにめぐってばかりいるのであった。だがまだそれはよい方で、ネロはにわかに動かなくなった。空へ鼻づらを振り上げて、ニーンと悲しそうに鳴いたかと思うと、行儀よく前足を前へそろえ、その上へあごをピッタリとつけ、絶望したようにうずくまってしまった。
「ネロや!」お町は驚いてしまった。「どうしたんだよ、どうしたんだよ! なぜ行かないのさ、疲れたのかえ? もう一息だよ。走っておくれ! どこにいるのさ、袴様は? ……おかしいねえ。なぜ動かないんだろう? 道でも間違ったんじゃアないかしら? ……いったいここはどこなんだろう? ああ蓮華寺の裏手だよ、名高い渋沢の藪地前! えらい所へ来てしまった。袴様! 袴様! 袴様!」
もしやと思って呼んでみたが、もちろん返事は来なかった。ただ袴様、袴様と、その甲高い声ばかりが藪へつきあたったばかりである。風が渡るかその藪の木々、ザワザワとそよいで音を立て、その外側をなま白く、輪郭づけていた月光を、チラチラとはね返すばかりであった。依然としてネロは動かない。地面のひと所を見詰めている。気がついたお町、地面を見た。まさしく血だまり、そこにあった。
「おおそれでは袴様は、ともかくここまでは来たものとみえる。そうしてここから? そうしてここから?」どこへ行ったものか。ネロが案内しない限りは、お町には知ることは出来なかった。そうしてネロには案内出来ない。ここを最後に血のしずくが、地面にしたたっていないからである。絶望してペタペタと坐ったが、一方この頃長崎左源太、耕地を町の方へ走っていた。
長崎左源太走って行く。
「危難はのがれたというものさ。今夜の一埓、天草殿へ、至急お知らせしなければならない。死骸かそれとも負傷したのか、とまれ犠牲者に相違あるまい。そいつを抱えてウロウロと、あんなところを歩いていた。渋沢の藪地! 渋沢の藪地! あの辺に住居があるのかもしれない! ……や、なんだ⁉」と空を仰いだ。
月光をしのいで一羽の巨鳥、まりのようにハズンで翔けてきた。と、そいつに引かれるように、一個の人影足を空に、耕地をこっちへ走って来る。
二人、あやうくぶつかろうとした。
「おッ、貴様早引か!」
「やッ、手めえは左源太か!」
同時に刀へ手をかけたが、二人とも抜こうとはしなかった。さっと飛びさがったものである。
「今夜はせわしい。オイ早引、また逢おうぜ。一昨日逢おう」
「今夜はせわしい。オイ左源太、また逢おうぜ。一昨日逢おう」
サーッとそのまま馳せちがった。
忠三は鸚鵡を追っかける。
「花公花公、早い早い、ゆっくり翔けな。たのむたのむ! そりゃアそうとえらいことになった! 袴様が紛失したんだとよ。城之介のしわざだ。わかっている。それというのも駄弁のたたりだ。おれのよ、おれのよ、おれの駄弁のよ! さぞあねごおこっているだろうなあ。ヤイ忠々、うしゃアがったな! それこそポカリとやられるかもしれねえ」
飛鳥の後を追っかける。
長崎左源太も走って行く。するとまたもや行く手から、二、三十人の人影が走ってきた。手に手に得物を持っている。忠三のあとを追っかけて行く。
「ははあ南蛮屋の一味だな? だがいったいどこへ行くんだろう?」
グルリ迂廻してやり過ごした。眼についたは百姓屋、馬小屋に馬がつないである。
「無断借用、かまうものか」
飛び込むとマセ棒を引っ放し、ド──、ド──、ド──と引き出そうとした。後じさりをしていななこうとする。チョッ、チョッ、チョッ、と口を鳴らし、驚かさないように引き出したのは、さすがにさむらい、慣れたものである。スラリと乗ると裸馬、鞍もなければあぶみもない。しかしちっとも困らない。手綱の代わりにたてがみをつかみ、腰を浮かせると前のめり、キュッと両足で胴をしめた。駄馬ではあったが乗り手がたっしゃ、パッ、パッ、パッと走りだした。隅田へ出て一直線、堤上をのっ立てのっ立てる!
ところでこの頃巴御殿では、天草時行同志をはべらせ、一本の巻軸を前に拡げ、陰湿たる奥の小座敷で、ヒソヒソ謀議にふけっていた。
巻軸のおもてに描かれているのは、宏大な城郭の縄張り図面、ただし半分しか描いてない。
「これはな」と天草さえない調子で、ポツリポツリと話し出した。「ある大城の絵図面さ、ご覧のとおり半分しかない。それ大手前の半分だ。肝腎の要害は描いてない。もっとも三の丸は描いてある。ところで。……」というと天草時行、例の窪んだ小粒の眼へ、例のあたかも硫黄のような、蒼光る焔をたき出したが、さらに一段声を落とすと、膝まで進めていい出した。「ここをご覧、この一点を! 三の丸と二の丸の境い目を! 井桁があろう? 半分の井桁が! こいつが大変なしるしなのだ」
「こいつが大変な符号なのだ」こういってグッと睨むようにしたが、ヒョイと話を横へそらせた。「いや、その前に聞きたいことがある。この素晴しい大城だが、どこの城だか見当がつくかな?」ジロリと見廻したものである。
「さあ?」といったように十数人の武士ども、互いに顔を見合わせたが、どうやら見当がつかないらしい。誰一人口をきこうとしない。
「わからないかな? そうだろうて」時行むしろ満足そうに、「わからない方が当然だ。わからないものならきもを冷やすだろう。ところがおれにはわかっている。いやいや、それとても見当だけさ。たしかなところはわかっていない、それでもう一本の巻軸を是非手に入れたいと思っているのさ。二つを合わせると完全に、どこの城だかわかるんだからなあ。が、ともかくも見当だけは、おれについているのだよ。ところでもしもおれの見当が、見当外れにならなかったら、日本の歴史はひっくり返ってしまう。そうさ少なくも徳川幕府が、キリシタン宗徒を迫害した、あの恐ろしい歴史だけはな」
ここでニヤニヤ笑い出したが、例のみつ口がほころびたため、かえって物すごく怒ったように見えた。
「というのはほかでもない」さえない調子で話し出した。「家康以来代々の将軍、すなわち秀忠も家光も、いずれも熱心なキリシタン信者! ということになるんだからなあ。こいつは実に考えただけでも、きものつぶれる話ではないか。実際代々の徳川幕府が、信者に加えた圧迫ときたら、その残忍と酷薄さにおいて、世界に名高い宗教戦のうちでも、特筆大書していいほどの、すばらしく大げさなもんだからなあ。しかるに親玉の将軍家が、その宗教の信者だとあっては、全くもってどういっていいやら、挨拶にさえ困るじゃアないか。ところがおれの考えによれば、事実代々の徳川将軍は、たしかにキリシタンの信者らしいのさ。いやいやこれはおればかりではない。原の城にこもった一揆の中の、幹部と称される連中は、ことごとくそんなように思っていたらしい。そうしてそう思っていたればこそ、あんな騒動も起こしたってものさ。幕府攻囲軍の大将として、松平信綱をよこしたのは、決して将軍家の本意ではない。あれは二義的の策略なのさ。神主や坊主がキリシタンのために、ドシドシ縄張りを犯される、そこで大いに閉口して、幕府に向かって上訴した。キリシタンをやッつけてくださいとな! 坊主や神主の勢力は、日本としてはおろそかには出来ない。もしこいつらを怒らせると、反噬される恐れがある。反噬されると世が乱れる。政治の執り方が悪いといわれる。天朝に対しても申し訳ない。それより何より浮世には、豊臣恩顧の大名や、関ヶ原以来の浪人者や、取りつぶされた大名の家来や、そういう者がウジャウジャいる。そいつらが坊主や神主と結ぶと、ちょっと事が面倒になる。で坊主や神主の、機嫌を取らなければならないだろう。キリシタン宗徒は今のところ、坊主や神主の信者より数においてずっと少ない、そこで気の毒だが小の虫を殺し、いや殺すのではない一時おさえ、大の虫のあばれるのを防ぐことにしよう。こういうところから信綱をよこし、原の城を攻めてはいるのだが、そのうち引きあげるに相違ない。そうして事をうやむやに葬り、キリシタン宗徒を放任し、教義布衍を許すだろう。その証拠には家康公から、たいへんなお墨付きがきているじゃアないか! 二本の巻軸! 二本の巻軸──というのが原の城に籠っていた、信徒一味の考えだったのさ。実際……」というと天草時行、改めてひろげられた巻軸へ、例の気味の悪い小粒の眼を、焼きつけるように注いだが、「二本の巻軸は徳川家康からキリシタン教徒に手渡した、ある意味におけるお墨付きなのだよ。ひとつこれについて話してやろう」
キリシタン宗徒の連中へ、徳川家康がお墨付きを渡した! これはまことに意外なことで、充分驚いてもよさそうである。その秘密を知っていて、天草時行が話そうという。興味を起こさざるを得ないではないか。座にい並んだ十数人の武士ども、そこでちょっとばかり居住まいを直し、固唾を呑むような格好をした。
と、天草こんなことをいった。
「これこれ神浦、聞きたいことがある。日本へキリシタンが渡ったのは、いったいいつ頃と思うかな?」
「は」というと三十格好、ほおひげの濃いさむらいが、「天文十八年かと存じます」
「まず及第、その辺であろう。……これこれ隅庄、お前へ聞こう。名ある日本の武将の中で、どんな連中がキリシタン宗に、一番早く帰依したかな」
「は」というと三十二、三、薄あばたのあるさむらいが、「大友義鎮、大村忠純、有馬晴信というような西国方の大名が、帰依したように存じますが」
「まず及第、その辺であろう。……平戸平戸お前へ聞こう。もっと有名な中央の武将が、キリシタン宗へ帰依したが、その武将の名を知っているかな?」
「は」というと四十年輩、片耳欠けたさむらいが、「織田信長かと存じます」
「まず及第、その辺であろう。……唐津唐津お前へ聞こう。どうして日本の武将連が、キリシタン宗へ帰依したかな?」
「は」というと四十二、三、胸毛の多いさむらいが、「天帝如来を信仰し、現世においては安心を得、死して天国へうまれよう……」
「ははあ、それで帰依したというのか?」
「私、さように存じますが」
「零点だ、落第だよ」天草苦笑したものである。「なんの戦国の戦争請け負い人が、そんな悠長な考えで、異国の神なんか拝むものか。きゃつら金儲けをしたかったからさ。そうだよ神様をダシに使ってな。というのは天帝如来、そいつを拝むようなまねをして、毛唐の連中のご機嫌をとり、うまく通商貿易をし、ボロい儲けをしようとしたのさ。実際きゃつらは悧口だったよ。神様をさえ食ったんだからなあ。たしかにウントコサもうけた筈だ。それをなんぞや、いい年をして、安心を得るの天へうまれるのと、今頃つまらないことをいう。ヤクザだなあ、え、唐津。とてもそれじゃア出世はしない。考え方が間違っている。以後注意、よろしいかな。歴史であれ宗教であれ、万事万端浮世のことは、一度経済の眼を通して、研究しなければ間違いが起こる。儲かるか損するかが標準さ。儲からないもの、みんな悪い! 戦国時代の請け負い人どもが、儲からないことをするものか。さてところで信長だが、こいつはとても感心な奴で、悪党振りが大きかった。そこで考えたというものさ。きゃつらの財産をふんだくってやれとな。……伊万里伊万里、お前へ聞こう。最初に日本へ来たキリシタンの司僧、なんという名か知っているかな?」
「は」というと二十八、九、眼に星のあるさむらいが、「スペイン人ザビエルで」
「かれの持って来た財産のたかは?」
「は」といったがわからなかった。
「わからないかな、そうかもしれない。絶対秘密になっているんだからなあ。が、伝説による時は、ザビエルの持って来たその財産、日本の国なら二つも買える! そんなにも莫大なものだったそうだ。そいつへ眼をつけたというのさ。感心な悪党の信長がな。……多比良多比良!」と声をかけた。
多比良と呼ばれた五十歳ぐらいの武士、
「は!」といったものの尻込みをした。答えそこなって、以後注意、落第だよ。出世しまい! などといわれるのがこわかったからだ。
天草時行一向平気、そんな様子には気がつかないらしい。
「大ばくち打ちの信長が、南蛮寺を建てたのはいつだったかな?」
「さようで」といったが知らなかった。「失念致しましてございます」
「よろしい、満点、その方がいい。無駄な年号なんか覚えているより、そろばんはじきを習う方がいい。満点ついでにもう一つ聞こう。なぜ南蛮寺を建立したかな?」
「は、やっぱり紅毛人の、ご機嫌を取るためでございましょう」
「百二十点! 感心感心。お前むやみといい点を取るなあ。ではもう一つ質問しよう。機嫌を取ってさてそれから?」
「は」といったがまたわからなかった。そこでもう一度ほめられようと、「失念致しましてございます」
「今度はいけない、零点だよ。失念ということがあるものか。お前ははなから知らなかったのだろう。そうそういつも柳の下に鰌というものはいるものではない。メッキははげる。以後注意! よろしいそれでは教えてやろう。南蛮寺を建てた原因はな、例の途方もない財産を、一所に集めるためだったのさ。集まったところでふんだくってやれ、つまりこういう腹だったのさ。ところがザビエルもただ者ではない。天父よ! などと変なことをいって、平気で南蛮寺を建てさせたが、お宝の方は出し惜しみをして、献上しなかったというものさ。そこで怒ったのが信長だ、おれが建てたんだからおれがこわす、ひどく合理的に考えて、南蛮寺を破毀し信徒をいじめ、日本における第一期の、宗教迫害をオッぱじめたのさ。つづいて出たのが秀吉さ。この男は一種の気違いでね、いってみれば誇大妄想狂だ。その秀吉が最初のうちは、やはり信長のまねをして、キリシタン宗徒を大事にしたが、これまた金がほしかったからさ。ところがどうしても献金をしない。そこで怒って第二期の迫害! つづいて出たのが家康だ。この家康だけは真人間だったが、少し粘液質の鈍感者で、はなやかな事は出来なかったらしい。ところが奇妙にも宗教心があって、天海だの崇伝だのというような、坊さんをそばへ集めたものだ。そうして真実キリシタンをも、信仰したということだ。そこへ眼をつけたのがキリシタン宗徒で、はじめて例の大財産を、引き渡してやったということだが、しかし献金したのではなく、保管を託したんだということだ。もっとも金なんかあずかるとおおかた流用するもので、その途方もない財産も、半分くらいは使われたかもしれない。それはとにかくその時にだな、キリシタン宗徒と家康とが、一つの約束をしたそうだ。徳川幕府の続くかぎり、将軍家はキリシタンの信者となろう。その証拠として徳川家にとり、何より大切の千代田城の縄張り、そいつを宗徒へ渡して置こう。……さて」というと天草時行、ここで微妙な微笑をしたが、「もう大概わかったろう。すなわち二本の巻軸が、千代田城の縄張り図面なのさ。ただし」というと苦笑した。「今の話は伝説だよ。真偽は保証の限りではない。いや」というとどうしたものか、天草にわかに真面目になった。
真面目になった天草時行、急に暗示的にこんなことをいった。
「もう一本の巻軸を、この巻軸へつなぎ合わせ、それが事実千代田城の、縄張り図面となったなら、伝説が伝説でなくなるのさ。そうだよ、伝説が事実になるのさ。すなわち素晴らしい財産が、千代田城中の一ヵ所に──ここだよここだよ、井桁の地点だ! ここに隠されてあろうってものさ。理由は……」といったが口をつぐんでしまった。
カッ、カッ、カッと馬のひづめが、門のあたりで聞こえたからである。
「おかしいなあ」と天草時行、「こんな時分に馬に乗って、誰が訪ねて来たのだろう?」
くぐり戸の開く音がした。つづいて玄関をあがる音、間のふすまがやがて開き、現われたのは長崎左源太、すわるといきをはずませた。
「なんだ、お前か、変哲もない。あわただしいなあ、どうしたんだ」
「天草殿、大きな獲物」左源大のっけからいい出した。「島原城之介のおり場所を、だいたい突きとめてございます」
「ああそうだろう、だいたいだろう」時行期待もしないらしい。「そのだいたいが、あぶないものさ『この天が下、人あるところ、みなそれがしの住居でござる』などと途方もなく大たばをきめこむ、あの島原城之介の住居だ。なかなか目つかるものではないよ」
「いえ」と左源太膝をすすめた。「今回にかぎって、おおかたたしか……」
「そうだろうて、おおかただろう。が、ともかくもいってごらん」
「は、今日私こと、所用ありまして小梅の方へ……」
「まあさ」と天草とめてしまった。「おやめよおやめよ、道行はな! 一句でよろしい、どの辺だな? 感覚でわかる。俺の胸に、ピーンと響くか響かぬか、それが標準。いってごらん」
そこで左源太いったものである。
「南葛飾、寺島村、蓮華寺のうしろ、渋沢の藪地!」
「待て!」とにわかに天草時行、鬼気のある声音で一喝した。「ううむ、そうか。渋沢の藪地か! ははあなるほど、渋沢だな?」突然マリのように飛びあがった。「これ、馬は幾頭ある?」
「十五頭!」といったのは隅庄という武士。
「至急繰り出せる人かずは?」
「は、大略、三十人!」こういったのは平戸という武士。
「よし、繰り出せ、三十人! そのうち十五人は騎馬で行け! このおれも行く、真っ先に! ……地雷弾を持て! 火縄を長く! ……左源太、功名をしたなア! 間違いはない。そこが住居だ! 渋沢の藪地のまん中に、一座そびえている傾城塚! 時々女の泣き声が、聞こえて来るという世間の噂! な、わかったか。城之介めが、良家の娘をたぶらかし、こめて置くのだ、その塚へ! 傾城塚こそきゃつの住居! それ繰り出せ! 勝ったぞ勝負!」
パッと玄関へ走り出した。
と間もなく巴御殿の、大門の戸がいっぱいに開き、サーッと駈け出した馬上の武士、すなわち天草時行で、つづいて一騎、長崎左源太! さらに一騎、さらに一騎、さらに一騎! 間隔を置いて十五人、月明りの町を走らせた。
しかるにこの時、巴御殿の塀に、ピッタリ身体をくッつけてじっと様子をうかがっていた、一個の覆面の武士があったが、ツト離れるとどことも知れず、立ち去ったのは何者であろう?
それはとにかく、この頃のこと、渋沢の藪地を前にして、向かい合っている男女があった。
「あねご、おわびだ。おれが悪い!」
渋沢藪地を背景にして、地面へべったり膝を揃えあやまっているのは早引の忠三。その前にこれもベッタリとすわり、怒っているのはイスラエルのお町、自然としゃべるのは忠三だけで、お町はムッツリとだまっている。
「血がね、なるほど、なくなりましたかね。で、なんですかい、ネロちゃんが、居縮んでしまったとおっしゃるので。ネロもよくねえ、たのみ甲斐がないや。ヤイ、ネロめエーッ」と毒づいた。
南洋鸚鵡の花ちゃんと、藪地の裾で狂っていたネロ。ネロめエーッとしかられたので振り返ったが、お町ではなくて忠三だと見ると、ミーンとも鳴かず背も低めず、また花ちゃんと狂い出した。つまり完全に無視したのである。
と純白のつばさをひろげ、ピョンと花ちゃんが飛びあがった。とネロちゃんも負けてはいない。背筋をうねらせるとポンと飛ぶ。とまた花ちゃんがピョンと飛ぶ。するとまたネロちゃんがポンと飛ぶ。そのつど月光がはね返り、水銀のようにチラチラする。
「だがね、あねご」と手を揉みながら、「寮からここまでは長道中、そうフンダンに血が流れては十石あろうと足りませんや。いずれポッツリポッツリと小出しに出たんじゃアありましょうが、それにしてもだ、もうこの辺で、ポッツリポッツリもやんだ方がいい。でなかったら命が持ちませんや。そうはいってもごもっとも。血のしたたりがなくなって、案内役が休んだでは、追っかけてゆくことが出来ませんからねえ。そこでおこって地べたへすわり、何をいっても返辞さえしない。でこうなっちゃア仕方がねえ、わっちが懸命に探しやしょう。けだものが骨を折ったんだ。そこで人間が働くってものだ。なんのちっとも不思議なものか」訳のわからないことをいい出した。「ヤイ、でくの棒、手めえ達も悪い」突然うしろを振り返った。
後を慕って追って来た、忠三一味のこぶん達が、数間のうしろにたむろしている。お町の機嫌が面白くなく、忠三がお辞儀ばかりしているので、近寄りかねているのである。
「な、いいか、こんな場合にはな、一緒になってあやまるか、一緒になって探すものだ。それを一番楽な方をとって、棒杭のように突ッ立っていやがる! 『おれは三番目の人間だよ』などというような面をして、そばに立って見ているのは、間違いはないが卑怯だぜ! 勇気があったら渦中へ投じろ! が待ってくれ、そうはいっても、むやみと雑兵に荒らされても、探索の手口が狂ってしまう。……ええと、ここは渋沢の墓地、うしろは蓮華寺、あれた墓地! 墓地へ隠れはしないかな? 左は沼地、右は田畝、そっちへトッ走りはしないかな? おれの身体が三つあるなら、三方へ走ってゆくのだが、お生憎様、一つしかねえ。でくの棒達を走らせたところで、役に立たねえのは受け合いだ。いかな城之介が行者でも、まさか天へはのぼって行けめえ。それにさ、どんなに高く踏んでも、天国へ行けるような玉ではない。では地獄へはということになるが、むぐらでないんだから土はほれめえ。そこでいきおい正面の、藪地なるものが問題になるが、渋沢の藪地と来た日には、あの八幡の藪知らずより、もっとこみ入った藪地なんだからなあ。手がかりもないのにうかうかと、飛び込んでゆくのは考えものだ。……と、こんなことをいっているうちに、時がドンドン経ってしまう。あの早足の城之介め、サッサと遠くへ行ってしまうだろう。だんだん間がはなれてしまう」忠三不意に飛びあがった。「あねご、しめた。土が軟かい!」それがどうしたっていうのだろう?
「あねご、しめた。土がやわらかい!」叫んで飛びあがった早引の忠三、今度はにわかに前のめりに地面へ腹ばったものである。
月光をなま白く肩から浴び、坐り込んでいるイスラエルのお町、こう忠三に叫ばれても、身動き一つしなかった。
しかしその次の瞬間に、こう忠三にわめかれた時、はじめてお町立ちあがった。
「ね、あねご、そうじゃねえですか。右に鉄杖、左に袴様、おそらく島原城之介、引っかかえていたに相違ねえ。その上きゃつは大男、重い身体を持っていまさあ。はいている下駄は一本歯!」
「ああなるほど、下駄の歯跡が!」
「やわらかい土にさ、ついている筈だ!」
「感づいたねえ、いいところへ! 探しておくれよ。妾も探す」
お町、同じく腹ばった。
「探しますとも、罪のつぐないだ! そうだ、あっしの駄弁のね!」忠三、地面を廻りだした。
「おッあった! いやちがう! わだちの跡だ、荷車の!」
「そうだよ、そうだよ、お前のセイだよ! 小梅のほとり、寮住居、萩の柴折戸、金目垣、などと、お前さえしゃべらなかったら、いくらあいつが魔法使いでも、探し出すことは出来なかったんだからね。ああ、妾たちの住居をね。……おッ、歯跡! あったあった! おや、ちがう。石の取れた跡だ!」先へ先へと這ってゆく。手で地面を探るのだろう、ガザガザ枯れ葉の音がする。
「もう一度あやまる。駄弁はいけねえ。慎みますとも、今度はね。……こいつはどうだ? またちがった!」
二匹のけものが這うように、先へ先へと這ってゆく、大藪地の裾まできた時である。
「今度こそ本物! 歯跡があったア!」早引忠三喜声をあげた。
「どれ!」というとイスラエルのお町、はねるように傍へ飛んで行ったが、「間違いはないよ、一本歯の歯跡! 鋤だ鋤だ、鋤を打ち込んだようだ!」
クッキリとついていたものである。
「それじゃこいつを!」
「たどって行きやしょう! ……ここにもある! それここにも!」
「もう大丈夫! ここにもあるよ!」
大またに歩いた証拠である。一間ぐらいの間隔を置き、藪地の裾に沿いながら、一本歯の歯跡がついている。
すっかり勇気づいたお町と忠三、歯跡歯跡と追っかける。と突然消えてしまった。
「おい忠さん、歯跡が消えた!」
「待ったり」というと早引の忠三、最後の歯跡へ眼をつけたが、「あねご、見なせえ、位置が違う」
「位置?」とお町にはわからないらしい。
「そうじゃアありませんか、ねえ、あねご。これまで歯跡は藪地に沿い、一の字を引いておりましたよ。ええそうでさあ、先へ先へと。ところがこいつは藪地へ向かって一の字を引いておりまさあ」
「わかった。それじゃア、城之介め、ここから藪地へはいったんだね」
「へい、さようで、疑いなく」
「では妾たちもはいって行こう」
「オーイ!」と忠三、こぶんを呼んだ。「手めえ達も来い。ついて来い! 先へ行くなよ。後からだ!」
藪地へはいったお町と忠三、「こいつア不思議だ!」と声をあげた。
もちろんハッキリとではなかったが、そうしてひどく狭くもあったが、路らしいものがウネウネと一筋ついていたからである。
周囲十町はたっぷりとあり、喬木灌木生い繁り、加うるに蔓草が縦横にはびこり、一旦うかうかはいろうものなら、容易なことでは出られない。ちょっと形容が大げさだが、いわば人跡未踏ともいうべき、この渋沢の大藪地に、路がついているということは、相当驚いてもよさそうであった。いやそれどころかその路の上に、一本歯の歯跡がついていた。
「あねご!」と忠三はずみ声をした。「わっちア今までうっかりしていたが、女の泣き声が聞こえるというので、世間でやかましい傾城塚、ありゃア確か渋沢の、この藪地の中にある筈ですぜ」
「そうそう」とお町すぐ応じた。
「そうするとお前この路は、その古塚に通じているかもしれない」
「そこへ持って来て一本歯の跡だ。あねご、知れましたね、きゃつの住居!」
「女の泣き声という奴も、塚があいつの住居ときまれば、どうやら胸に落ちようじゃアないか」
「大オチ大オチ!」と手をうった。
「『イスラエルの神へにえささげようぞ』この手でゴロゴロころがして来た、大江戸のいいところの別嬪さんたちを、野郎、そこへ蓄えているのだ。その上取りためたお賽銭!」
「お賽銭?」と興味もなさそうに、「そんなものより妾にゃア、袴様の方が大切だよ! さあ急ごう、オイ忠公!」
「合点!」とばかり走り出した。
走りにくい走りにくい。路とはいっても名ばかりである。野茨が左右から手を出している。袖や裾を引っ張ろうとする。たけにもあまる雑草が、路の上を蔽うている。腐った落ち葉、足がすべる。ジクジクした沼、落ち込みそうだ! 大岩大木がたおれている。月光はささない。だから暗い。ところどころに葉もれの月! 枝葉がゆれて、光を乱し、チラチラ動くので幽霊だ!
忠三が先頭、お町が続き、その後からこぶんども! 縦隊をつくって突きすすむ。
と、にわかに早引の忠三、ピタリと足をとめたものである。
「あねご、聞きなせえ。ひづめの音!」
なるほど、遙かの行く手にあたって、十数頭の馬のひづめ、カッ、カッ、カッと聞こえて来た。藪地の中を、算を乱さず、こっちへ近寄って来るらしい。
「おかしいねえ。何者だろう?」
「おかしいなあ。解せねえや」
「なんでもいいや。急ごうよ」
こっちが進むに従って、ひづめの音も近寄って来る。しかし距離は遠いらしい。かすかにかすかに聞こえるのである。
と、一ところ藪地が跡切れ、まるまるともりあがっている塚があった。
「あねご、こいつだ。傾城塚!」
「調べてごらんよ、足跡を!」
「どれ!」と忠三腹ばった。ここらあたりは木立がない。月光隈なく落ちている。それに照らされて一本歯のあと、巨然とそびえた塚の裾に、点々とクッキリついている。
「あねご、あった! こっちのものだ!」
「入り口をお探し。塚の入り口!」
「ヤイ野郎ども、さあ手をかせ!」
岩石と土壌と雑草とで、堅くよろわれている傾城塚、入り口はどこにあるのだろう? ただ寂然と立っている。
と、その塚の反対側にあたり、今まで聞こえていたひづめの音、急にとまって静かになった。
天草時行の一隊が、塚の向こう側へ着いたらしい。
傾城塚の内部である。
…………
正気づいた袴広太郎が、塚の中で経験した出来事は、全く意外なものであった。
最初に知覚へのぼったのは、幾人かの女が集まって、合唱しているような声であった。どこから聞こえるともわからない。遠いところから来るのだろう。
「ここはいったいどこなんだろう?」
重い眼をあけて見廻して見た。なんにも見えない、真っ暗である。身体がだるく力がない。そうして全身がズキズキ痛む。手であたりを探ってみた。堅いつめたいデコボコしたものが、身体の下にころがっている。
「ああこれは岩らしい。おれは岩の上にねているらしい」そろそろと両手を伸ばしてみた。何物も指先にさわらない。広い空間が延びているらしい。いよいよ広太郎にはわからなくなった。
「いつこんなところへ来たのだろう? どうもハッキリわからない」完全に記憶がよみがえらないらしい。「起きられるかな? 起きてみよう」まずゴロリと横になった。それから手をついて起きあがろうとした。が、そいつは失敗であった。手がほとんどいうことをきかない。突いたとたんにさすような痛みが、肩の辺からわき起こった。で、ドタリとたおれながら、指先を肩へあててみた。肩が布で巻かれている。それを通してベットリと、つめたい物が指に触れた。「はてな」というと嗅いでみた。間違いはない、血糊である。「肩に傷を受けたらしい」こう思った拍子に広太郎の心へ、突然記憶がよみがえって来た。「小梅の寮……島原城之介……そいつの鉄杖でドッシリと……そうだ。おれはたたかれた筈だ。……それから? それから? どうしたかな?」それからのことはわからなかった。「気絶をしたんじゃアあるまいかな?」ふとここへ気がついた。
「うん、どうやら気絶したらしい。そうしているうちにこんなところへいつか運ばれて来たらしい。……とするとここはどこなんだろう? そしていったい何者が、おれをこんなとこへ運んだのだろう?」これはすぐにも考えることが出来た。
「城之介めだ! きゃつに相違ない!」思わず声に出していったものである。すると全く意外にもすぐ手近から返辞が来た。
「袴氏、目ざめられたかな」聞き覚えのある、しわがれた島原城之介の声である。
驚いた広太郎痛みも忘れ、ムックリとばかり起きあがった。とまた城之介の声がした。
「お騒ぎなさるな、危害は加えぬ。珍客でござるもの、なんの危害を。……」つづいて笑い声が聞こえて来た。「アッハッハッハッ珍客珍客。しかし人質といってもよろしい」
声のする方へ眼をやった。やみの暗さを一層黒め、一個の人影がうずくまっていた。島原城之介に相違あるまい。何かいおうと思ったが、物をいうさえ大儀であった。で広太郎はだまっていた。とまた城之介の声がした。
「ここはな」となんとなく、嘲笑的に、「貴殿、当分のお住居でござる。で、一応部屋の様子を、お目にかけて置く必要がござる。まず正面をお見詰めなされ」
立ちあがるらしいけはいがした。と、とびらでも開けるような、ギイ──ッという音が聞こえて来た。とたんに一つの光景が、広太郎の眼前に展開された。形にして穹窿型、光にして琥珀色、それが朦朧と現われたのである。すなわち広太郎の正面へ、別の部屋が姿を現わしたのである。
だがなんとその部屋の怪奇なことは!
広太郎にとってはこの部屋の様は、一生忘れることが出来なかった。とはいえ、それとて一口にいえば、城之介の奉ずるイスラエル教の、単なる道場に過ぎなかったのではあるが。
広太郎の眼前に展開されている部屋は、広さおおよそ二十畳敷きぐらい、自然と出来た岩窟で、その正面の奥深いところに、人工を加えた祭壇があり、その上に巨像が立っていた。
その巨像が異様なのである。
けもの神のような裸体の男、女怪のような裸体の女、まさしく二体ではあったけれど、一体のようにくっついている。木で造った像である。それは繁殖の神である。
その巨像の右と左に、青銅らしい香爐があり、紫陽花色をした太い煙りが、うねりながらもうもうと立ちのぼっていたが、開けられた戸口からこっちの部屋へ、太いたばのように流れ込んで来た。そいつを鼻にした広太郎が、思わずハッハッと喘いだのは、煙りに含まれている刺戟性のにおいが、一時に広太郎の愛欲を、クラクラとかき立てたからである。
天井から龕灯がさがっていた。瑤珞を持った南蛮製の、ギヤマン細工の巨大な龕灯で、そこからさしている琥珀色の光が部屋全体を輝かせている。神像のうしろには錦襴の幕が、だらりとひだをなしてかかっていたが、龕灯の光に照らされて、その刺繍が浮き出していた。逞しい両性の肉体が、からみ合っている刺繍である。
四方の岩壁には無数の絵画が、黄金色の額縁にはめられて、壁画のように懸けられていたが、龕灯の光に照らされて、絵面が朦朧と浮かび出ていた。両性秘戯の画面であった。
しかしこれらの光景は、さして驚くにもあたらなかった。
驚くべきは柱であった。
部屋の四隅に立っていた。
それは形容を絶したところの、醜い形を持っていて、再視することさえ出来なかった。男性に則った柱なのである。
ところで柱を囲繞して、うごめいているのはなんだろう? 柱を一本の箸とすれば、真ん中どころから下へかけ、無数の蛆がウネウネと、うごめき廻っているのである。そのため柱その物が、ウネウネと動くように見えるのである。
なかば裸体の女達が、幾十人となく柱を取り巻き、呻き声をあげているのであった。
その呻き声が一緒になって、一種の合唱をなしている。だが、女達は苦しみながら、そういう振る舞いをしているのではなかった。それは女たちの表情でわかる。
柱にすがっている一人の女の、両方の肩は力瘤のため、肉腫のようにふくれあがっている。柱に巻きついている一人の女の、弓形をなしたふくら脛は、ところどころから血を流している。柱に押しつけている一人の女の、両の乳房は左右へはみ出し、つぶれて膿でも出しそうに見えた。そうも熱心に縋っているのであった。
女達は汗にぬれていた。時々すべってたおれることがあった。とすぐに飛びあがり、またも柱へすがるのであった。席のない女は他の女を突きのけ、そのすき間からすがろうとした。と突きのけられたその女は、突きのけた女をさらに突きのけ、急いで柱へ取りすがった。誰も彼もみんな恍惚としている。
四本の柱で行なわれている運動! さすがの袴広太郎も、放心せざるを得なかった。
「ああこいつはまぼろしだ!」
「いや!」と城之介の声がした。「現実でござるよ、袴氏!」
「現実でござるよ、袴氏」こういった城之介の声のうちには、真面目の響きがこもっていた。
「なんと見られるな、あの柱を?」
「けがらわしいものだ! 冒涜だ!」
「いや、宗教の根本でござる」島原城之介いいつづけた。「ギリシヤ人種における親愛の神、アリアン人種におけるファリスの神、エジプト人種におけるオシリスの神、チベット人種における天地仏、あれをもって神体と致しております」
「日本にはない! この日本には!」袴広太郎はわめくようにいった。
「北多摩郡の多穀神社、笠島の道祖神、屋張の国の田県神社、印旛郡の熊野神社、奥州塩屋の金精神、信濃の△△、日向の△△、四国の五剣山、美濃の山神、いくらもあります! いくらもあります!」
「が、何者だ! あの女達は!」
「良家の処女さ!」と城之介の声、ここでにわかに嘲笑的になった。「よくよくご覧、袴氏。みんなあの通り喜んでおります」
「呪縛されているのだ、貴様のために!」
「さよう」といよいよ嘲笑的に、「あらゆる女は呪縛されたがっている」
「だまれ!」と叫ぶと広太郎、勇を振るって立ちあがろうとした。肩が痛い、立ちあがれない。で、ムズとあぐらをかいた。
「袴氏」と城之介、隣室から来る琥珀色の光に、ぼんやり半身をひからせながら、広太郎を上から見下ろしたが、「一切万事浮世のこと、愛欲の目もりをはずしては、物の値打ちをはかることは出来ぬ。が、貴殿はまだお若い。そういうことはわかりますまいな。さようさ人間四十歳にならぬと、その辺の消息ハッキリしません。若輩と老成の相違点、愛欲をぼかして眺めるか、愛欲を正しく眺めるか、係って一点にあろうというものさ。ところで」というと城之介、今度はヘラヘラ笑い出した。「拙者になると少し上手だ。愛欲を利用して金儲けをします。だが」というと城之介、相談でもするような調子になった。「いかがでござろう、袴氏。ここにある女もここにある宝も、みんな貴殿に進呈いたす。その代わり例のイスラエルのお町、拙者にお譲りくだされぬかな?」
ヌッとのぞき込んだものである。
が、広太郎返辞をしない。全身をワナワナふるわせながら、隣りの部屋をながめている。見まい見まいとするのである。と一層眼に焼きつく。全身の汗、胸の動悸、クラクラクラクラと眼が廻る。
「ふふん」と城之介鼻を鳴らした。「お厭かな、返辞がない。厭ならよろしい。無理にはたのまぬ。その代わり、いつまでもとめて置く、愛欲地獄を味わわせてやる。毎日毎夜拝ませてやる。精根おのずからつかれ果て、自滅するまで拝ませてやる。まず手はじめ、今夜からだア……」
ジャラーンと鉄杖の音がした。同時に袴広太郎の身体、ドンと隣室へころげ込んだ。島原城之介鉄杖で、広太郎の腰を払ったのである。
ギ──とへだての戸が閉じた。とたんに一斉に女達、広太郎の方へ顔を向けた。
と、そとから城之介の声! 「さあ袴氏、窒息なされ!」
忽ち数十人の裸体の女、柱から離れて円陣をつくり、グルグルと広太郎を取りかこんだ。
渦まいているのは香爐の煙り! 次第に円陣がちぢまって来た。
しかしその時轟然と、傾城塚のそとにあたり、爆発の音が響き渡った。
「日本紀元二千三百二年、傾城塚爆発発掘、教主身をもってわずかに逃がれ、犠牲の処女大半焼死、イスラエル教覆滅し、珍器財宝没収されおわんぬ」
西教要覧の記事である。日本紀元二千三百二年といえば、慶安三年のことであって、「爆発発掘」と記されてあるが、これは一人でやったのではなく、爆発したのは天草一味であり、発掘したのは水戸光圀と、朱舜水との一行なのであった。つまり時行を大将として押し寄せて来た天草一味が、傾城塚へ地雷弾をしかけ、裏口を破壊したのである。その火が内部へ燃え移り、閉じこめられていた女達が、大半焼死したのである。ところで城之介はどうしたかというに、すなわち身をもって逃がれたのであるが、その間にちょっといきさつがあった。というのは藪の中で天草一味にグルグルと取り巻かれてしまったので、本来なれば殺されるところを、時行と次のようなかけ合いをして、ともかくも命だけは助かったのである。
「オイ城之介、もう駄目だ」
「それじゃアおれを殺すつもりか」
「杉窪の里の裏道で、築土を殺したのはお前だろう?」
「時のはずみでなぐり殺したよ」
「その時巻軸を奪い取ったろう?」
「いやおれは取りはしない」
「あの時築土が持っていたのだ、一本の方の巻軸をな。一本の方はおれが持っていたが」
「いやおれは知らないよ」
「あとから死骸を探しにやった。築土の死骸は谷底にあった。だが巻軸は持っていなかった。お前が取ったに相違ない」
「いやおれは取りはしない」
「ではお前はどこまでも、巻軸のありかを知らないというのか?」
「いや巻軸は持っている。だが築土から取ったのではない。袴広太郎というさむらいから、全く偶然手に入れたのだ」
「そうか、そんなことはどうでもいい。とにかくそいつをこっちへ渡せ。そうしたら命だけは助けてやろう」
そこで城之介は懐中から、例の巻軸を取り出すと、天草時行へ渡し、のがれて行方をくらましたのである。
ところでこの夜袴広太郎は、城之介のために誘拐され、傾城塚の中にいた筈だが、その運命はどうなったかというに、女達と一緒に火焔をくぐり、塚から外へ逃げ出したのであった。負傷している上に神気つかれ、ほとんど人心地もなかったので、それこそあてなしにヨロヨロと藪の中を逃げ廻っていたが、おのずと裏口の方へ行ったものとみえる。「袴様!」と呼ぶ声がした。ヒョイと見るとイスラエルのお町が、忠三と一緒に走って来る。
「おっ、お町殿!」といいながら、そっちへ向かって走り出した時、塚から逃げ出した大勢の女が、二人の間をかけ隔ててしまった。そしてまたもや広太郎、夢中で藪の中を逃げ廻っていると、松明の火が近寄って来た。とまたそこから女の声で「袴様!」と呼ぶ声がした。ヒョイと見ると意外も意外、道服をまとった老人や、葵ご紋の少年武士や、大勢の武士に守られて、杉窪銅兵衛の娘の君尾が、こっちへ走って来るではないか。そこで「君尾殿!」と叫びながら、そっちへ走って行こうとすると、巴御殿へ引きあげる、天草一味の騎馬隊のために、またも間を隔てられてしまった。で、夢中で走っているうちに、うまい具合に藪から出たが、同時に昏倒してしまったのであった。
と、そこへ来かかったのが、異風をした百人の行列で、偶然この手に救われることになった。
昏倒した袴広太郎の前へ、通りかかった異風行列、しかし異風といったところで、物好きにやっている異風ではなくて、縞の筒袖に革の帯、山袴をはき小刀をたばさみ、厳重を極めた旅よそおい、すなわち脚絆をはき甲掛をつけ、火事場頭巾に似たような、あごまで隠れる頭巾をかぶり、揃って小鎌をひっさげている、都会人らしくない人間なのであった。しかし隊伍は二列縦隊で、おのずから規律がととのっていて、犯しがたく思われた。先頭に立ったは六十年輩、夜のことで顔はわからないが、たけ高く腰据わり、ガッシリとした肉づきなど、威風の備わった老人で、これが一隊の頭らしかった。その後から駕籠が来たが、こればかりはみやびていて、貴族の用いそうな駕籠であった。しかしどうやら空駕籠と見え、さも軽そうにかついでいた。
「や、ここに怪我人がいる」「しかも立派なおさむらいさんだ」「ひどく藪の中が騒がしい」「火の手が見える。火事かもしれない」などと口々に囁き合った。すると例の老人だが、初めは笑止らしくいったものである。
「大事の前のこれは小事だ。お気の毒だがこのおさむらいさん、介抱してやるひまがない。さあ野郎ども、急いでゆけ」──で一隊動きだしたが、突然その時広太郎が、
「杉窪の里、銅兵衛殿、必ず君尾殿をお助け致す!」
君尾の姿を見たことによって、責任感を呼び起こしたのであろう。譫言ながらに叫んだものである。そうしてこれが広太郎の運命を、俄然一変させたのである。というのは例の老人だが、
「とまれ!」といって号令をかけると、スタスタと後へ引っ返して来た。
「おかしいなあ。このおさむらいさん、銅兵衛殿を知っているらしい。これは捨ててはおかれない。これ野郎ども介抱せい! ……あのお方以外には乗せられない駕籠だが、場合が場合仕方がない。このおさむらいさんをお乗せ申せ」
で、広太郎は助けられたのである。
小鎌を月光に輝かせ、しだいしだいに足並みを早め、やがて藪地の裾をめぐり、その一隊が立ち去った時、藪の奥から女の声がした。
「袴様!」と血をはくような声だ。
藪をおしわける音がして、現われたのはイスラエルのお町で、もう一度呼んだが答えがなかった。でベタベタと地面へ坐ると、茫然として考え込んでしまった。地上に無数の足跡がある。それへお町は目をつけたが、
「みんなつま先で歩いているよ、多勢の木地師が通ったと見える」
さてその木地師の一隊だが、しのびやかに江戸へはいったのは、それから程経た後のことであった。
やがて来かかったのは紀州家のやかたで、例の老人が裏門をたたいた。「誰じゃ!」と門内から声がした。「富士見の将右衛門!」と老人が答えた。
と、ギーと門があき、スルスルとはいって行ったその老人、しばらくの後出て来たところを見ると一挺の女駕籠を先立てていた。
それを守って今度こそ、どことも知れず立ち去ってしまった。
だが事件はこれだけでは済まず、同じその夜巴御殿では、風変わりの事件が起こっていた。
というのはほかでもない。城之介から巻軸を奪い、小踊りをした天草一味が、巴御殿へ駈け込んだ時、百人あまりの覆面の武士が、巴御殿を占領していて、帰って来た天草一味の者を、一網打尽にしたのである。
天草時行の一味の者を、一網打尽にした覆面の武士は、由井正雪の一党であった。これより以前、天草一味が、傾城塚を攻めようとして、騎馬で乗り出したそのおりから、塀にピッタリへばりつき、様子を窺っていた武士があったが、これこそ正雪一党の中でも、忍びの名人として知られていた、秦式部という人物で、すぐに榎町へ取って返すと、腕利きばかりをすぐり出し、巴御殿へ潜入し、留守番の者をしばりあげ、天草一味を待ち設けていたので、苦もなく計画がとげられたのである。その目的とするところは、例の巻軸を奪うことで、天草一味とらえられたからは、もちろん二本の巻軸は、正雪の手へはいったことであろう。
さてそれはそれとして、その夜から幾日か経過した。ある気持ちのよい朝まだき、根岸、朱舜水の屋敷から、一群の旅人が発足した。朱舜水、光圀、それから君尾、この三人を主人公とし、他に十人の武士をまじえた、すなわち十三人の団体で、いずれも目立たない旅よそおい、編笠を深くかぶっている。
「征東大将軍宗良親王、信濃におわしたので信濃宮、そのお方のご遺跡をはじめとし、南朝方の諸将の遺跡が、随分信濃にはあるようでござる。是非ともこれは調べなければならない。楽しみでござるよ。今度の旅行は」こう言ったのは朱舜水。
「傾城塚には驚きました。まさか邪教の淫祠とは、夢にも想像しませんでしたので、どうぞして今度の旅行には、ああいうものにぶつからないように」こういったのは水戸光圀。
「信濃の秋が見られます。美しいことでございましょう。それこそ妾は山の鳥のように、思うさま歌うつもりでございます」これは君尾の言葉である。
信濃の史実を集めようと、発掘旅行に行くのらしい。
ところでこれと同じ日に、例の浅草の南蛮屋からも、二人の旅人が発足した。虚無僧姿のイスラエルのお町と、道中師風の早引忠三で、こんな話を取りかわしている。
「で、テッキリ信州路へ、入り込んだということになるんでさあ」例の調子で早引の忠三。
「もしもそっちにいなかろうものなら、お前そのままでは置かないよ」例の調子で、イスラエルのお町。
「ワーッ、いけねえ、もうコレだ。何かというとおどすんですね」
「それがさ、妾におどされるのが、お前にはひどくうれしそうじゃアないか」
「またあねごときた日には、あっしをおどかすのがうれしそうですねえ」
「おどかされっぷりがいいからさ」
「ところであねごはおどしっぷりがいいや。どっちみちあねごと二人っきりだ。今度の旅行は楽しみさ。口説くかな、その辺で」
「口説かれたいね、袴様に」
「あッ、なるほど、そうでしたねえ。袴様を探しに行くんでしたねえ、木地師のあとを追っかけてさ。にわかに楽しくなくなっちゃった」
袴広太郎を探すべく、木地師のあとを追っかけて、二人は信濃へ行くのらしいが、はたして木地師の一隊は、信濃方面へ入り込んだかしら?
さようこの頃、木地師の一隊、笹子峠の辺を歩いていた。
海抜一千一百尺、ここは笹子の山道である。一隊の人数が歩いている。火事場頭巾のような風変りの頭巾、縞の筒袖山袴、手に小鎌を持っている。すなわち木地師の一隊である。先頭に立ったは将右衛門、つづいて二挺の駕籠が行く。その駕籠の戸が開いている。一つの駕籠にはお京様、もう一つの駕籠には袴広太郎、のどかな顔をして乗っている。その後から一百人、みんな愉快そうに話している。大変行動が自由である。秋は半ばに近づいていた。木々が黄葉を呈している。そこへ昼の陽があたっている。白々と見えるは白樺の幹だ。林では兎がはねている。こずえでは橿鳥が呼んでいる。空気には立派なにおいがある。風のかげんで川の音が聞こえる。
そこをタッタッと走って行く。時々野馬が顔を出す。ヒョッコリ熊が現われる。獣の方でも驚かない。木地師の方でも驚かない。両者はまったく親類だからである。
この光景は本当にいい!
とはいえ木地師達はなまけ者ではなかった。抜け目なくかれらは仕事をした。ヒョイと一人が列から離れ、林の中へ飛んでゆく。鎌を振るって木の幹を削る。と飛び返って列へはいる。とまた一人が列から飛び出し、林の中へ走って行く。鎌を振るって木の幹を削る。と飛び返って列へはいる。とまた一人が同じことをやる。とまた一人が同じことをやる。一百人の同勢が、かわるがわるやるのである。
そのつどかれらは話し合う。
「あいつの木目は波だろう」「あいつの木目は玉に相違ない」「おれの目つけたのは雲に相違ない」
「いい栃だった。素敵な盆が出来る」「素晴らしい欅だった。いい火鉢が出来る」
皮を透して外側から、内の木目をあてることぐらいは、かれらとしてはなんでもなかった。というのはかれらは木地師だからである。ひとニラミで年輪の数をあて、ひとニラミで枯死する年さえあてた。
タッタッと一隊は進んでゆく。江戸から笹子まで幾十里。その間かれらは到る所で、気に入った木を目つけては、鎌でしるしをつけたものである。そうしてこれからも行く先々で、おんなじことをやるだろう。
非常に早い足並みである。しかも同じ速力である。少しもムラのない歩き方である。
と、一つのわかれ路まで来た。二十人あまりの同勢が、一方の道から現われた。
「ヤー兄弟!」「ヨー兄弟!」双方声をかけ合った。同じ木地師の連中である。で二組が一緒になり、一百二十人の同勢となった。
タッタッタッタッと歩いて行く。
夜が来た。ねなければならない。テントが張られた。休むことになった。なんと綺麗な天体だ! ほんとに天の河の音が聞こえる。
翌朝は霧の中を出立した。
タッタッタッタッと歩いて行く。鶴瀬村を過ぎれば菱山村、甲運村を過ぎれば甲府城下、韮崎過ぎれば穴山の宿、日野春を過ぎれば葛木の駅路、ここから信濃の国となる。
そっちへズンズンと歩いて行く。
どこまで行こうとするのだろう?
駕籠二挺、百二十人、揃う足並み、光る鎌!
どこまで行こうとするのだろう! かれらは郷へ帰るのであった。
二千九百尺の八ヶ岳、その大傾斜地の富士見高原! そこに郷があるのである。
八ヶ岳の大傾斜、富士見高原の木地師の郷! 囲繞しているのは森林である。杉、檜というような喬木ばかりが聳えている。その真ん中に空地がある。そこに立っている数百戸の木小屋、木口は非常に立派ではあるが、その造作は粗末である。それが木地師達の住居である。ところがそれらの中央に、二棟の大きな建物があった。その一棟は屋敷づくりで、頭の将右衛門の住居であるが、もう一つの方は工場のような、だだっ広い長方形の建物である。なんだろういったいその建物は? やっぱりそれは工場なのであった。誰かがその中をのぞいたなら、シュッシュッシュッと調べ革が廻り、グルグルグルとろくろが廻り、大きなのこぎりが自然に廻転し、てこが上下へあがりさがりし、そうしてそれらの機械の間を、多数の男女の木地師達が、真面目に愉快そうに熱心に、立ち働いているのを見ることが出来よう。そうして巨大な材木の皮が、ひとりでにグングンむかれたり、また幹がひとりでに輪切られたり、板のように扁平に削られたり、そうかと思うと粗造ではあるが、盆や椀や筒などの形が、つくり出されるのを見ることが出来よう。
その建物のまわりには、栃だの欅だの檜だの、羅漢柏だの落葉松だの高野槇だのの、すぐれた木地が積み重ねられ、丘のような形をなしている。木地師達のくらしは規則正しく、そうしてきわめて清潔で、みだらなところなどは少しもない。
だがこれは不思議なことではないか! 元来木地師というものは、最も下等な漂泊民で、木地を目つけて山から山を、獣のように渡り歩き、採った木地類は漆器屋に売り、同族結婚、姦通、自堕落、無道徳というのが普通だのに! もっともいい木目を目つけたり、またよい根瘤を目つけたりすると、手製の小刀やのみなどで、簡単な器類は作るけれど、機械を備えた工場などを、持つようなことは決してない。それにかれらの住居はといえば、せいぜいのところ犬小屋のような、掘立小屋というようなもので、木小屋などへは住むものではない。めったに一ところへはとどまらず、絶えず漂泊しているものである。ではこの郷の木地師なるものは、本当の木地師ではないのだろうか? いや木の性質を見抜く点や、よい木地を採集する技倆からいえば、やはり木地師には相違ない。つまり充分に訓練された、特殊の木地師だということが出来る。ところでかれらはこの郷に、いつ頃から住んでいるのだろう? 付近の杣夫などの噂によれば、今からちょうど五年前、九州島原の原の城が、落城をした直後において、移住して来たということである。さらに杣夫達の噂によれば、その際一人の紅毛人を、守護して来たということである。その人は随分老年ではあったが、しかし立派な風采で、紅毛の神様ではあるまいか? などという事を思わせるほど、威厳もあったということである。いずれ本名はあるのだろうが、木地師たちは決してその名をいわず、限りない尊敬と親しみをもって、山の小父さんと呼んでいるそうで、そうして工場を建てたのも、また機械を作ったのも、みんなその山の小父さんの差金であるということである。そうして目下はその人は、森林の奥の大斜面の、中腹あたりにかかっている、湛慶滝という大瀑布のほとりに、一人で住んでいるということである。ただしそういう人物だけに、これまでいろいろの神秘的の噂が、杣夫や麓の村人の間に、伝承されたものであって、その著しい例の一つは、何か非常に大切なものを、守護しているということであった。
何か非常に大切なものを、その紅毛人が守護している! 山中の杣夫や村人の間に、こういう噂の立ったのは、決して勝手に立てたのではなく、木地師の連中その者達が、時々そういうことをいうからであった。「あの人こそそれをお持ちなのだ! そうだよ、それをね。大切なそれをね!」
だがもちろんいうまでもなく、どういう性質の大切なものかは、杣夫や村人は知らなかった。そうしてそれが知られないために、いよいよそれが重大視された。
「尊い経文だということだよ」「莫大な宝だということだ」
「あらたかな神像だということだ」
またかれらは紅毛人について、いろいろ神秘的の取り沙汰をした。
「裸でおられるということだ」「血衣を纒っておられるそうだ」「そうして時々経を読むそうだ」「そうして時々号泣するそうだ」「懴悔しているということだ」「銀鈴を鳴らすということだ」「滝の中に住んでいるそうだ」「娘よ! 孫女よ! と呼ぶそうだ」──で自然、杣夫や村人は、湛慶滝へ近寄ることを、ひどく恐れ憚かるようになった。もっとも一方木地師の連中が、そういう杣夫や村人達が、滝の付近へ近寄ることを、なんとなく嫌って制するからでもあった。いやむしろそれはこういった方がいい。木地師の連中が言葉を設け、杣夫や村人を制肘し、湛慶滝の方へ近寄せまいとするので、それで一層杣夫や村人が、湛慶滝と紅毛人とを、恐ろしいものに値うちづけ、いろいろ取り沙汰をするのであると。
だが決して杣夫や村人達は、そのため木地師を嫌わないばかりか、かえって尊敬し親しくさえした。というのは木地師の生活方が、杣夫や村人よりも万事万端、進んでもおれば立派だからでもあった。「木地師ではなくておさむらいさんのようだ」これがかれらの評語であった。
だがもう一つ紅毛人について、驚くべき一つの噂があった。一人で住んでいるのではなく、この世の人間とは想われないほどに、気高い美しいお稚子さんと、一緒に住んでいるという噂なのであった。
「あれはね、満月の晩でしたよ。仕事の都合で遅くなり、気味が悪いとは思いましたが、湛慶滝のそばを通りますとね、滝の中からあのお方が、現われて来たではありませんか、ええそうです。紅毛人がね。全身ビッショリ水ぬれです。見るとだいているじゃアありませんか、綺麗なお稚子さんをね。それが非常に妙なんです。眠っているのか死んでいるのか、そのお稚子さんは動かないのです。眼口を閉じているのです。そうしてその顔を紅毛人が、じっと見おろしているのですね。もっとももう一つその二人を、見おろしているものがありました。まんまるい空のお月様です。とどうでしょう、紅毛人は布を下げたような滝の中へ、またはいって行ったじゃアありませんか。ええそうです、お稚子さんを抱いてね」
杣夫の語った物語。
さてある日のことである。
その木地師の郷の中から、活気ある喜びの声がもれた。旅へ出ていた仲間の者が、頭の将右衛門に率いられ、郷へ帰って来たからである。
その翌日のことである。秋の木洩れ陽をいっぱいに浴び、黄ばんだ草を敷きながら、話し合っている男女があった。
秋の木洩れ陽をいっぱいに浴び、坐っているのはお京と広太郎、のどかに話をかわしている。
「よい秋日和でございます」こういったのはお京である。
「もうソロソロ八ヶ岳の峰へは、雪が来ることでございましょう」袴広太郎の挨拶である。
で二人は沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
とまたお京が話しかけた。
「歌声が聞こえるではございませんか」
「さようでございますね、木地師の歌が」
眼界にバラバラと木小屋がある。そこから聞こえる歌声である。
「犬の吠え声が聞こえます」今度は袴広太郎。
「鶏の鳴き声も聞こえます」
で二人沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
とまたお京が話しかけた。
「お聞きなさりませ袴様。赤ん坊の笑い声が聞こえます」
「ああそうしてあやしている声も……」
で二人沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
「穏やかな土地でございますね」こういったのはお京である。
「はい、まるで別天地で」また沈黙が続こうとする。
「なんだか私はねむくなった」袴広太郎つぶやいた。
「動くのがいやになりました。いつまでもいつまでも、坐っておりとうござります」
五度沈黙をしたものである。
お京の顔には神性がある。昔ながらの神性が。お京の顔には処女性がある。昔ながらの処女性が。いやいや昔よりもより一層、神性も処女性も深まさっている。
広太郎の顔は蒼白い、小梅の里にいた頃より。そうして身体も弱々しい、小梅の里にいた頃より。しかしなんと晴ればれと、その眼が澄み切っているのだろう。
と広太郎つぶやいた。
「ああ私は休息したい。何を置いても休みたい」
「妾も同じでございます。休みたいのでございます」これがお京の言葉である。
「どうやらここでは休めそうだ」また広太郎つぶやいた。
「きっと休めるでございましょう。お互い休むことにいたしましょう」
それから永い沈黙が来た。
不意に広太郎横になった。肘を枕に寝たのである。
とお京が声をかけた。「おつむりをおのせなさりませ。妾の膝へ、ご遠慮なく」
膝枕をした広太郎、眠ろうとするのか眼をとじた。膝枕をさせたお京様は、無表情に前方を眺めている。
ちっともいやらしい形ではない。むしろ美しい群像である。人に見られても恥ずかしくはあるまい。
「エ──、エ──、エ──」と声がする。木地師達がめいめいの小屋の中で、盆だの茶筒だの菓子鉢だのへ、磨きをかけながら歌っている。鄙びた歌の掛け声である。永遠を思わせるような単調な節、森の木立に反響し、「エ──、エ──、エ──」と返って来る。
広太郎は眠りはしなかった。じっと考えにふけっていた。
「さわってはいけない、過ぎ去ったことへ!」口の中でつぶやいた。
「おれは何にも知りたくない。おれはなんにも聞きたくない。過去をほじくるということは、ろくな結果を持って来ない。現在だけで結構だ。ひとの過去も知りたくない。自分の過去も知らせたくない。それでいいのだ」
お京の膝を枕にし、袴広太郎は考えた。「ききたいことは沢山ある。あの夜小松原の屋敷から、どうして突然身をくらませ、今日までどこにいたのだろう? そうしてどういう理由があって、こんな木地師の郷などへ、この娘は入り込んで来たのだろう? これからこの娘はどうするつもりか? ……がそんなことはどうでもいい。おれにとっては初恋人、そのお京様と逢ったのだ。もうそれだけでいいではないか。なんにも苦情をいうところはない。君尾にしろお町にしろ、こうなっては影が薄い。なんといっても初恋人、このお京様のなつかしさは、おれには何物にも換えがたい」
これが広太郎の心持ちであった。
お京の心持ちはわからない。
しかしやっぱり広太郎と同じに、いうまい聞くまいとしているらしい。現在に満足をしているらしい。もしもお京にその心があったら、これだけは聞かなければならない筈だ。
「どうして肩に負傷して、木地師の駕籠などに乗っていたか? また忠弥の注進によれば、杉窪の里の乱闘の際姉の君尾を取り返そうと、袴広太郎という一人の義士が、追っかけて行ったということだが、その時の袴広太郎と、この袴様とは同一人なのか?」
が、お京は聞こうとはしない。
それにしても全く不思議である。お京は紀州家の息女ではないか。それだのに木地師というような、いやしいいやしい漂泊民の郷へ、どうして単身入り込んだのだろう? 紀州頼宣にしてからが、どうして送ってよこしたのだろう?
何もかもがわからない。わかっていることは一つだけだ。久しい間別れていた。二人の本当の恋人同士が、思いもよらない境遇のもとに、顔を合わせたということだけだ。
二人はいつまでもだまっている。秋陽が森の中へさし込んでいる。木立がテラテラと輝いていた。ふとい一本の栗の木がある。その幹に何かうごめいている。老衰をしたかぶと虫である。死に遅れたかぶと虫! 季節に置いて行かれたかぶと虫! 上へあがろうあがろうとしている。生命力がないのだろう、少しあがってはすべり落ちる。でもやっぱりあがろうとする。二足三足やっとあがった。とスルスルと下へおりた。またヨチヨチと上へあがった。急に草の上へころがり落ちた。針金のような足をちぢめ、そのまままるくなって動かなくなった。触角がブルブルふるえている。それもとうとう動かなくなった。巨大ないかめしい鋼鉄のような角へ、一筋日の光がからまっている。
「おれには何だか予感がする。ここの平和は破られそうだ」ふと広太郎つぶやいた。すぐ眼の上にお京の顔が、すぐにもこわれそうなもろさを持って、清浄に白々と浮いている。「平和は処女性とは同じようなものだ。きっと破られるという約束のもとに、しばらく生命を保っているものさ」
口に出してはいわなかった。
酸味を帯びた感情が、広太郎の心へ忍び込んで来た。もちろんそれはかれにとっては、苦しくもあればさびしくもあった。
お京の膝を枕とし、なお広太郎は考えていた。
「ほんとになんとこの娘は、操々としているんだろう? ほんとになんとこの娘は、神性神性としているんだろう? そうしてなんとこの娘は、処女処女としているんだろう? 人間ばなれがしているではないか! 神様神様としているではないか! だから」広太郎は憂鬱になって来た。「だから傷つけて見たくもなる」
次第に皮肉な考え方になる。
「全く神様というものは、さも崇高に立っている。だから」
とまたも皮肉になった。「ちょっと穢して見たくもなる」
次第に残忍な考え方になる。
「誘惑の手を伸べたなら……神様神様としたこの娘、転がって来るのではあるまいか?」
「いけない、いけない」と払いのけた。「傾城塚での蠱惑が、亡霊のようにつきまとっている。しかし」とやっぱり考えられた。「傾城塚でのあの光景、女の真相ではあるまいかな」自然不作法にならざるを得ない、眼をズーッとあげていった。その視線のとまったところに、お京の胸がもりあがっていた。豊かな乳があるのだろう。広太郎は息苦しくなった。「この膝枕も無邪気からかしら? それとも意味のある誘惑からかしら」
そのやわらかさ、その温かさ、その弾力、その脈搏! 広太郎の情熱をそそっている。
その時お京の声がした。
「お起きなさりませ、袴様」
起きあがると広太郎端坐した。
「何を考えておられました」とがめるような声ではない。憐れむような声でもない。悲しみに充ちた声である。
広太郎には返辞が出来なかった。しかし心では考えた。「俺の心を見抜いたらしい」
だがすぐ後で歌うように、次のようにお京がいった時、広太郎は案外な思いがした。
「妾は流されたのでございます。可哀そうな女でございます。父が妾をこんな山へ。……でも悪気からではございません。妾の身の上を案じたからで。……いまに恐ろしい騒動が、この国に起こるのでございます。あの、謀反なのでございます。そうして妾もその一味へ……それで妾はこの山から、一生出られないのでございます。……父はこのように申しました。『家の血統を絶やしたくない』と……袴様!」と呼びかけた。それからほがらかにいいついだ。「でもよいところでございますのね、この富士見の高原は。気高い景色。質朴な人達。そうしてみんな働いております。よこしまな心などを起こさず、きっと木地師達はこの妾を、鄭重にあつかうでございましょうよ。女王でございますもの、この郷のね」
陽が木小屋にあたっている。ひときわ大きいのは伐木場で、調べ革の音が聞こえて来る。きられる材木の音がする。窓々が明るく眼をあけている。そこから働いている人影が見える。共力と生産とがそこにある。もちろんそうして平和がある。
しかし、はたしてこの平和が、いつまでもつづくものだろうか? いやいや平和はつづかなかった。それから二日経った早朝のこと、「カワトの連中が湛慶川の岸へ、天幕を張った」という知らせが来た。
これが事件の発端であった。
カワトが天幕を張ったという、ちょうどその日のことである。袴広太郎は将右衛門と、頑丈な卓を中にはさみ、工場の中で話していた。
「カワトはいったい何者でござるな?」
こう聞いたのは広太郎。
「ああカワトで、天幕組でござるよ」気もなくいったのは将右衛門。「川の岸ッぷちに天幕を張り、そこでくらしをするところから、世人称して川渉り、なまってカワトと申します」
「やっぱり木地師と同じようなもので?」
「漂泊民という点では、さよう、われわれに似ております。しかしかれらにはこれといって、きまった商売がありませんでな。もっともササラや風車や、タワシだの箕だのというようなものを、人里へ出て売りつけはしますが、それとて商売のためではなく、泥棒をするツテでございましてな」
「ははあ泥棒を致しますので?」
ちょっと広太郎眼を見張った。
「なにさそれとてコソコソでな、たいした仕事はいたしません。せいぜい干し物をふんだくったり、家畜や野菜を荒らしたり、時には子供や娘などをさらうようなこともありますが、そんなことはメッタにありませんなあ」
「とまれ厄介な人間どもで」
「それもさ特別カワトに限って、厄介な人間でもございませんて。どの方面の人間だって、たいがい厄介でございますよ。いやかえってカワトのようなものこそ、厄介でない人間かも知れませんなあ。気の向いたところでくらしをする、厭になったら引きあげる。気の向いたところでまたくらす、厭になったら引きあげる。水草を追って行きますので。きたないみなり、粗末な食べ物。自分達同士で婚礼をする。他人を仲間へも入れなければ、他人の中へもはいって行かない。物欲が少なくて単純で、見得や外聞を気にかけず、義理もしなければ義理も受けない。物にこだわらずに身体が強い。大変結構じゃアございませんかな。でわしとしては大好きで、はいさようで、カワトがね。といって大事な女子供を、引っさらわれては困りますので、今も仲間に申して置きました。『野菜や家畜を荒らすようなら、構わないから荒らさせて置け。だが気をつけろよ、女子供に! 遠っぱしりをさせねえがよい』──子供や女は大事でごわす。一人でも減っては困ります。そうでなくてさえわれわれ木地師は、年々少なくなりますのでな。仲間の減るのはいやなものでごわす。第一」というと見廻した。
「これだけの工場をささえて行くには、少しの人数では出来ませんからなあ」
工場は活動にはいっていた。太い柱の中央に、巨大な一個の丸鋸が、シューッ、シューッと廻っている。数人の木地師がその前にいて、一本の材木をささえている。とその先が丸鋸に触れた。すぐにザーッと音がして、見る見る材木が両断された。そのかたわらに台がある。一つの大振りの木の槌が、ゴットンゴットンと台の上へ、規則正しく落ちている。輪切りにされた扁平の木口が、その台の上に置いてある。槌がそいつをたたいている。だんだん木口はちぢまって行く。その横手に卓がある。ピカピカ光る鋼鉄の螺旋が、その上でグルグル渦巻いている。小さい木口が載せられた。ギリギリと音がした。見る見る木口がえぐられた。
と、将右衛門ヒョイと立ち、ブラブラ工場を歩きだした。
〽どしどし子供を産むがいい
盆にお椀にお茶筒に
ひどく機嫌がよいのである。
鼻唄をうたいながら将右衛門、工場の中を歩きだした。
工場の片隅に娘達が、行儀よく坐ってかたまって、出来あがった器を磨いている。
「ご精が出るの、娘さん達や」将右衛門立ちどまって話しかけた。
「何を磨いているな、お石坊?」
するとお石坊が返辞をした。「はいお頭さん、子持ちお椀を」
「ああなるほど、子持ちお椀か。ほんとにいいなあ、子持ちお椀は。中から中からと子供が出る。そうありたいよ万事万端。なるたけかずはふやさなければいけない。……お杉坊、お杉坊、何を磨いているな?」
お杉という娘が笑いながらいった。「磨いておるのではございません。そそくれを取っておりますので。あのまな板のそそくれを」
「おおおおそうか、それはいい。そそくれというものは邪魔っ気なものだ。邪魔っ気なものは取った方がいい。そうしてまな板というものは、大事な大事なお勝手道具さ。そういう物こそ作らなけりゃアいけねえ。すぐに役立つ物だからなあ。とくさをかけて艶ぶきんをかけて、根つけばかり作るのは、結構なことではないからなあ。……お松坊お松坊何を磨いているな?」
「はい、あの根つけを磨いています」
「えッ、根つけ? ああそうか。ナーニ根つけだって結構さ」こうはいったが変な顔をした。
「だが、たんとは作らないがいい。たくさんの入り用はないものだからなあ。ものずきの人間しか喜ばないものだ。そうしてそういう人達はこんなことをいっているそうだよ。『小粒のところが大変いい』『ひねったところがおつでげす』『役立たないところに値打ちがある』……アッハハハおかしくなるなあ。……お竹坊何を磨いているな?」
お竹という娘が返辞をした。「はいお頭さん、栃の盆を」
「おっとおっとそう磨いてはいけない。そんなように磨くと艶が出ない。出ないどころか消えてしまう。すべて器というものは、性質を知ってから扱わなければならない。知らないで扱うと殺してしまう。殺すために磨くんじゃアあるまいな。そりゃアそうさ、いかすためさ。……だがこの工場は明るいなあ」
四方の窓から朝の陽が、藁束のように投げ込まれている。
〽明るくなければいけません。
また将右衛門歌いだした。小さく結んだ髪、広い額、厚いほお、高い鼻、左の眉尻にほくろがあり、太い毛が一本生えている。外光のかげんで時々光り、針でも刺さっているようだ。
ブラブラ工場を歩き廻る。もちろん監督をしているのであろう。だが高い声一つしない。その必要もなさそうである。みんなクルクル働いている。木口を戸口から運んで来る者、そいつを中途で受けとる者、器をざるへ入れる者、それを戸口から持ち出す者、一方部屋の片隅では、火が爐の中で燃えている。爐の口へたき物をくべる者、爐の上は大釜がかかっている。湯気が青白く吹き出ている。その中の液を汲み出す者。……そうしてそれを見下ろしているのは、ガッシリ組まれた天井で、その天井のすぐ下を、走っているのは調べ革!
〽働くって本当にいいことだ。つくり出すって本当にいいことだ。
その間を悠々と歩きながら、鼻唄をうたう将右衛門! グルリと工場を一巡すると、元の席へ帰って来た。
「広太郎どん」といいながら、例の頑丈な卓を隔て、粗末な腰掛けへ腰かけた。「杉窪の里の銅兵衛どん、あれはこのわしの義兄弟でごわした」
「銅兵衛どんとは義兄弟でごわした」頭の将右衛門話し出した。「全く立派な人物でな。いわば私の兄貴分で、そうして同じように里の頭で、そうして同じようにあるお方に、おつかえしたことがございましたよ。ええとそうしてそのお方の命で、ある同じ城へこもり、戦をしたこともございましたよ。だがとうとう銅兵衛どんも、非業の最期をとげられましたなあ。全くもって残念でごわす。だが、銅兵衛どんに味方をした、そのあなた様をこのわしが、お助けしたというものは、やっぱり何かの縁でごわしょう。よいことをしましたよお助けしてな」ここでちょっとばかり沈黙した。「ところで」とまたも話し出した。「打ち見たところあなた様は、たいへん立派なお方らしい。が率直に申し上げれば、何かに迷っておられるらしい。といってそれが何であるか、もちろんわしにはわかりませんがな。ええとそうして私としては、おたずねしたいとも思いません。だが、私は申し上げましょう。なんにも迷われる必要はない。ただ機嫌よくお働きなされ! さよう頭なんか使わずに、身体ばっかりでお働きなされ。それが最上のいきる道でな。……考えるということはよくごわせん。というのはキリがないからで。一つ考えるとまた一つ! また一つ考えるとまた一つ! また一つ考えるとまた一つ! どんどん上って行きますなあ。へいさようで高いところへな。そうしてしまいには落っこちます。一旦落っこちたら起きあがれない。大変気の毒でございますよ。それよりはじめから低いところにいて、高いところを望まないがよろしい。……それには」というとニコニコした。「いつまでもここにおいでなされ。さようわれわれのこの郷にな。ここほど低いところはない。なにさ位置ではございません。位置からいうと山の上で、随分高うございますがね。私のいうのは身分のことで、木地師と来た日にゃア最下等、これから下へは下りっこはない。だから安心でございますよ。ここでお働きなさいませ。もっとも……」というと胸をそらせた。「立身出世を望まれるなら、浮世へ出なければいけませんなあ」にわかにクックッと笑い出した。「いやその浮世で思い出した。浮世には親切な方々があって、私達を憐れんでくださいますよ。仲間っぱずれは気の毒だ。つきあってやろうぜ! つき合ってやろうぜ! というのでございますよ、上がっておいで上がっておいでと! だが私はいい返しましたよ。皆さんこそこっちへいらっしゃいよ。高いところで一緒になる、こいつア無理でございますよ。低いところで一緒になる、この方が楽じゃアございませんかとね。ところが皆さん来ませんでした。そこで私達も行きませんでした。ナーニあなた行ったところで、本当につき合ってくれるものですか。半分しかつき合っちゃアくれませんよ。それもさ、ホンのお道楽でね」
またもクックッと笑ったが、ヒョイと立ち上がると歌い出した。
〽低いところがようござるウ──
また鼻唄、またブラブラ、将右衛門工場を歩き出した。
卓によったまま広太郎、黙然として考えていた。「杉窪の里の大乱闘、傾城塚の愛欲地獄、そうしてここの木地師たちのくらし! おれも色々の経験をしたなあ。だがいったいどの経験が、本当の浮世のすがたなんだろう」
〽低いところがようござるウ──
将右衛門の鼻唄が聞こえてくる。
「なにそうばかりもいわれるものか。高いところにだっていいことはあるさ」
その時あわただしく一人の木地師が、戸口から工場へ飛び込んで来た。「お頭、変てこでございますよ! なみのカワトじゃアありませんよ!」
「何?」と将右衛門突っ立ったが、これから大事件が起こったのである。
注進に来たのは佐太郎という木地師で、セカセカとして述べ立てた。
「天幕が変なんでございますよ」グッとつばを呑んだものである。「女子供へ気をつけろ! お頭のいましめがありましたので、崖の上で見張っておりますとね、すぐ眼の下が湛慶川、その向こう岸にカワトの天幕、点々と張ってあることか、大陣幕が二流れ、取りまわしてあるじゃアございませんか。おかしいなアどうしたんだろう? もしカワトなら家族別に、小さい天幕を三角形に、いくつか張らなければならない筈だ。で私はこっそりと、崖を下って行ったんで。崖の木蔭に身を隠し、様子をうかがったんでございますね。すると大勢の人間どもが、動き廻っておりますので。なるほどみなりはまさしくカワト、きたないぼろは着ていましたが、その動作がまるで違う。すばしっこいんでございますねえ。いよいよおかしいと見ていますと、どんどんどんどん藁づとから、武器を取り出すじゃアございませんか。槍や刀や弓鉄砲! すっかり面食らってしまいましたよ。そこで気がついてよく見ると、女子供が一人もいない。みんな屈強な若者ばかりで、これなんかも変じゃアありませんか。だってカワトなら家族づれの筈で。女子供から年寄りまで、揃っていなけりゃアならない筈で。いよいよ変だなアと見ていますとね、武器の手入れをやり出したんで。そいつが実に手に入ったものだ。ズンズン弓弦を張って行く、サッサと鉄砲へ火薬をつめる。で、あっしは思ったんで。カワト姿に身をやつして、忍んで来た武士に相違ないとね。するとどうです案の定だ。菊水の定紋の打ってある、一つの陣幕からノッソリと、武士が現われたじゃアございませんか。間が遠いので人相などは、ハッキリ見ることは出来ませんでしたが、頭髪は間違いなく切り下げ髪で、手に鉄扇を持っていました。そうしてはいてるのは野袴で、大将ですね。その武士に、立ち働いていた連中ども、ペコペコお辞儀をするんですもの。と、どうでしょう、もう一つの天幕、そこから爺さんが出て来ました。それもやっぱり間遠なので、ハッキリ見ることは出来ませんでしたが、身長の小さい薄ぎたない、みすぼらしい様子ではありましたが、それでいて品もあれば威もあって、とても小気味が悪いんです。こいつもやっぱり大将とみえ、そこらに働いている連中が、ピョコピョコお辞儀をするんです。ところで二人の大将ですが、肩を並べて歩き廻り、何か熱心に話しあっているんで。そうして時々崖の方へ、指さしをするじゃアありませんか。そのうち川岸へやって来ました。じっと水勢を見ているんで。そうしてやっぱり話し合うんで。お頭!」というと木地師の佐太郎、さも不安そうにいいついだ。「用心しなけりゃアいけません! どいつか攻めて来たようですよ」
こいつを聞くと将右衛門、「ううむ」とうなったものである。ややしばらくは物をいわない。ただ眼の前を見詰めている。思案に余った様子である。
「そうか」とややあって声をもらした。「何者かおれには見当がつかないが、充分用意はしよう。オイ佐太郎」といかめしく、「もう一度様子を探って来てくれ。一人ではいけまい、二、三人で行け」
「へい、よろしゅうございます」
駈け出そうとした時もう一人の木地師、またセカセカと飛び込んで来た。
「お頭、お頭、面会人で」
「誰だ?」と将右衛門神経質にきいた。
「カワトからの使者だということで」
カワトの使者となって来たのは、二人の立派な武士であった。母家の客間へ通ったところへ、頭の将右衛門が現われた。
「お尋ねにあずかりました木地師の頭、将右衛門めにござります」
すると一人の武士がいった。「ええ拙者ことは長崎左源太、貴殿ご存じの天草時行、その者の使者にございます」
つづいてもう一人の武士がいった。「拙者ことは柴田三郎兵衛、江戸の浪人にございます。なにとぞ自今お心やすく。名前ぐらいご存じかと存ずる、由井正雪と申す仁、その方の使者と致しましてな、まかり越しましてございますよ。閑静なお住居、よろしゅうござるな。全く山中はよいもので」
部屋の中を見廻したものである。
名乗りを聞くと将右衛門の眼、ピカリとばかり一閃したが、さあらぬ体で聞き返した。
「承ればお歴々、木地師風情の拙宅へ、何用あっておいでなされたかな」
「されば」といったのは長崎左源太、一膝ズルよう進み出たが、「万事掛け合いは率直がよろしい。で、率直に申し入れる。二棹の唐櫃頂戴に参った」威嚇するような調子である。「ええと貴殿におかれては島原の乱のそのみぎり、原の城にこもられたと申すこと。しかも落城の前にあたり、巨大な二棹の唐櫃を、こっそり持ち出されたと申すことで。いやいや拙者の意見ではござらぬ、貴殿と同じに原の城にこもった、天草殿の意見でござる。で本日その唐櫃、是非頂戴致したいとな。……ただし」というとまた威嚇的、「ご承知なくば是非に及ばず、剣戟をもってお相手致す。由井先生におかれても、天草殿におかれても、すでに十分の用意をもって、湛慶川の向こう岸まで、実は出張っておられるのでござる」「まあさまあさ長崎氏」こういってとめたのは三郎兵衛。「やぶから棒に性急に、そう高飛車に申すものではない。マアごらんなされ、将右衛門殿がびっくりしておいでなさるではないか。それにさ言葉もちとぞんざい。いけませんな、注意なさるがよろしい。さて……」というと三郎兵衛、その智的な冷静な眼を、真っ直ぐに将右衛門の顔へ注いだ。と、いったいどうしたんだ、にわかに機嫌よく笑ったものである。「アッハハハ将右衛門殿、さぞお驚きでございましょうな。いやこれは誰でも驚く。秘密に秘密にとはかったものが、それこそなんの前触れもなく、突然明るみへ出されたのだからな。拙者にしてからが胆をつぶしましょうよ」それからまたも部屋の中を、のどかな顔をして見廻した。
障子に秋陽がさしている。南向きの障子である。と、一点ポッツリと、黒い影があらわれた。うしろ羽根の長い小鳥である。そのうしろ羽根が動いている。チッ、チッ、チッとなき声がする。とまた一羽やって来たらしい。二羽の小鳥の影がうつった。ふッと二羽が一緒になった。くちばしとくちばしが合わさった。だがすぐパッと消えてしまった。どこかへ飛んで行ったのだろう。かすかにゆれている立ち木の枝、それが障子にうつっている。
「いや、だがしかし浮世には、突発的のものはございませんよ」不意に三郎兵衛がいいだした。
「で、われわれが参りましたのも、突発的ではございません。順々に順を追ったあげく、参るべくして参りましたので。そこでひとつゆっくりと、ご談合することに致しましょう。が、内容は非常に簡単、二本の巻軸! ただこれだけで」
ジロリと将右衛門を見やったが、薄っ気味の悪い眼つきであった。「将右衛門殿、将右衛門殿。あの二本の巻軸へな、数行の隠語が現われましてござるよ」持っていた扇をサラサラとひらくと、パタパタと胸をあおぎ出した。あつくもないのにいや味な事をする。「お話し致そう、それまでの経路を」パチッと今度は扇をとじ、膝の上へ突っ立てた。それから話し出したものである。
皮肉をまじえた能弁をもって、柴田三郎兵衛話し出した。
「二本の巻軸の何物であるかは、お話しするにも及びますまい。原の城にこもられた貴殿のこと、充分性質はご承知のことと存ずる。が一口に説明すれば、おとぎ話的伝説を持った、宝探しの材料で。……さてその巻軸でござるがな、原の城より江戸へ運ばれてござる。誰がどうして運んだか、まあまあそれもよろしゅうござろう。いずれ誰かが必要があって、持ち出したに相違ござらぬからな。ところで江戸へ運ばれて以来、欲気の多い連中が、遮二無二そいつを奪い合ったのでござる。いやこれとてももっともで。何せ二本を手に入れて、つなぎ合わせた暁には、途方途轍もない財宝のありかが、わかるとあっては奪い合いもしましょう。で、奪い合ったのでございます。そうして最初にウマウマと、手に入れたのが天草殿で、たいへん喜ばれたということでござる。ところが喜びも束の間で、その二本の巻軸もろとも、天草殿をとらまえたのが、由井先生一党で、実は拙者もその一人。さあ占めたというところで、二本の巻軸をつなぎ合わせたところ、これが千代田の絵図面でな。まことに詳細を極めていました。そうして」というと柴田三郎兵衛、ここでまたもや扇をひらき、パタパタと胸をあおいだが、たたむとヒョイとほうり出してしまった。面白くないという態度である。だがまたすぐにいいつづけた。「そうして、さよう、宝のあり場所、見当がついたのでございますよ。というのは二の丸と三の丸、その境い目の濠の一所に、変な印がありましたのでな。それは」と空へ手をあげた。
「こういう井げたの印でござる」指で井げたの図を書いた。
「つまり空井戸と見なすべきで。あるべからざるそんなところに、空井戸があると仮定すると、宝のあり場所と睨んでも、見当違いとはいわれますまい。で、あり場所はわかったが、そいつをたしかめる手段がない。場所は千代田城、われらは浪人、忍び込むことは出来ませんからなあ。では困ったかと申しますに、それにはそれの手段があり、困らなかったのでございますよ。というのは紀州大納言様の、お手を拝借したのでござる。紀州大納言様すぐ承知! なぜかというに由井殿とは、懇密の中で兵学の門下! そこで早速ご登城なされ、濠のあたりを探られたところ、アッハハハ将右衛門殿、空井戸はなかったのでございますよ。自然宝のあり場所もなくなってしまったのでございますよ。すなわち巻軸にまつわっていた、おとぎ話的伝説は、文字通りおとぎ話的伝説となり、ここに一場の夢物語、サラリと幕を閉じにけり。……ということになってしまいましたので。いやもうこれが当然で、こういかなければおもしろくない。……そりゃアそうさ!」と急にゾンザイになった。「日本の国さえ買えようという、そんな素晴らしい財宝が、そんなチョロッカの方法で、ほんとに発見出来ようものなら、財宝の値打ちがさがりますからなあ。でわれわれ一同の者、かえって気持ちがセイセイし、大きく笑ってあきらめかけた時、とんでもないことが出来してござる。というのはさっきも申しましたとおり、巻軸のおもてへ数行の隠語が、忽然として現われたのでございますよ。そこで再び煩悩が起こり、山川越えて大江戸から、富士見の高原までまかりこし、そうしてこうやってご貴殿と、話をするようになりましてござる」
ヒョイと顔を突き出したが、額ごしに柴田三郎兵衛、将右衛門をギロリと見たものである。
「お話し致そう、その隠語をな!」
「それには及ばぬ!」と富士見の将右衛門、はじめてこの時声を響かせた。「その隠語なら、拙者より申そう!」
「その隠語なら、拙者より申そう!」こういった富士見の将右衛門の声、りんと響いたものである。
「これは素晴らしい! 申されるか!」こういったのは柴田三郎兵衛。
「これは潔い。さあさあいわれい!」つづいていったのは長崎左源太。
「拙者の書いた隠語でござる! 拙者が明かすに不思議はない!」
「案の定だ、貴殿書いたか!」ここで三郎兵衛ジリリと寄った。
「柴田氏」と冷やかに、将右衛門むしろ笑ったものである。
「が、その前に聞きたい一義、隠語どうして現われましたかな?」
「巻軸二本泉水に捨てた!」
「誰が?」とあごを突き出した。
「紀州大納言頼宣卿!」
「ほほう面白いお殿様で」
「と、巻軸水にぬれ、おのずと解けたそのおもてへ……」
「ワッハハハ白々と、明礬水で書かれた文句、隠語ともいえない平凡な奴が、あらわれましてございますかな」もう一度高く笑ったが、「──二個の唐櫃あずかりたる者、木地師の頭領富士見の将右衛門──さよう、こんなようにな」
「そいつを渡せ!」と今度は左源太。
「なぜな?」と将右衛門、差し出すあご。
そいつがにくいというように、「巨宝一人占め、まかりならぬよ!」これもやっぱり左源太であった。
「なに巨宝? これはこれは、天眼通とみえまするな」揶揄するように将右衛門、「だがその眼力、狂っていやしょう」
「これさこれさ」と柴田三郎兵衛、あやなすようにいい出した。「角目立ってはよくござらぬ、まずまずお聞き、将右衛門殿。とまれ貴殿におかれては、原の城よりこっそりと、二個の唐櫃取り出したは事実! そこでわれらの思うには、伝説的の例の巨宝、以前は千代田にあったのを、さあ何者か運び出し、原の城へ入れたを貴殿感づき……な、そこで、取り出したというもの……巨宝でなければなおさらのこと、見せてくだされてもよかりそうなものじゃ。みんなさらって行こうとはいわぬ。……いかがでござるな、折半というやつは?」
「さればさ」といったが将右衛門、首をかしげたものである。「いやだといったらどうなさる?」
「知れたことよ」と出しゃばる左源太、「矢弾が飛びます! 矢弾が飛びます!」
「こわいの」と将右衛門、すくめた首で、「わしは嫌いだ。人殺しはな」
「わしも嫌いで」と柴田笑う。「手をうちましょうか、見せるという分で!」
「まず待った」と考え込んだ。
シーンと一座静かである。
と将右衛門、うかがうように、
「いかがでござろう、柴田氏。熟慮お許しくださるまいか」
「ならぬ」左源太のしかかるのを、眼で抑えた三郎兵衛、
「時期は?」といって冷静に見た。
「さようでござるな、明払暁……」
「ちと永すぎる」とまたまた左源太。
「いや、よろしい」と三郎兵衛、アッサリ引き受けたものである。
「朝日出ずるを合図としましょう」
「承引の場合は竹ぼらを、拙者吹くことに致しましょう」
「ふん、不承知の場合には?」また左源太め、ひじを張った。
「へいへいなんにも吹きましねえ」
立ち帰る二人を見送りもせず、夜まで考えていた将右衛門。
「いわなけりゃアならねえ、山の小父さんへ」湛慶滝の方へひた走った。
仏師湛慶この滝に籠り、東寺南大門西方力士を、きざまんと欲して祈願をこむ。龍神感応音をとどむ。──巨大な滝でありながら、少しも水音のしないのは、これがためだといわれている。もちろんいいかげんの伝説ではあろうが、事実、全く不思議なことには、湛慶滝は水音がしない。で、今も滝は落ちているが、数十本の白布でもたぐるように、白々と見えるばかりである。おそい月はまだ出ない。星ばかりが今にもこぼれそうに、空いっぱいにもりあがっている。滝壺のまわりは岩組みである。そこにうごめいている一つの人影、ぼっとあかるい滝の光で、ぼんやり輪郭づけられている。たいへん年取った老人らしい。衣裳を着ているとは思われない。どうやら、すっかり裸体らしい。そうして非常に身長が高い。やせていると見えて木のようである。岩組みの上に腹ばいになり、滝壺の中をのぞいている。独り言をいっているらしい。ひどくなまりのある声である。日本人らしくない声である。訴えているようなところもある。誰か滝壺にでもおるのだろうか?
「あなたがお悪いのではございません。私が悪かったのでございます。いえいえそれよりあのお方がお悪かったのでございます。神の子よ! 神の子よ! あなたがお悪い! ……ローマで虐殺が行なわれました! スペインで虐殺が行なわれました! ありとあらゆる国々において──沙漠においても、森においても、都会においても、田舎においても、限り知れぬ海上においても、そうして雲迷う曠野においても。神の子よ、あなたの名において、幾十万の生霊が、血みどろになったか知れません! ……ああそうしてこの国のはて、美しい島の天草でも、幾万の人が殺されたでしょう! 女はおおかたはずかしめられました。赤児はおおかた煮られました。……噴火口よ、幾千人を呑んだ! 十字の柱よ、幾千人を殺した! 猛火の舌よ、幾千人をなめた! ……それでもよいのでございましょうか? そんな権利がありましょうか? 神の子よ、神の子よ、そんな権利が? 空の雲の中に現われようと、それがどうしたのでございます? 愛という無気力な名によって、なんとなまなましい憎しみを、この世へ植えつけたことでしょう! 神の子よ、神の子よ、あなたの手が! ……まさしく私は裏切りました。まさしく私はそむきました。しかし私は決して決して、イスカリオテのユダではございません! それ以上の者でございます! ユダはあなたを疑いました。私はあなたを無視しました。ユダはあなたを憎みました。私はあなたをセセラ笑いました。ユダは後悔して死にました。私は今も生きております。ユダはあなたの足もとへ、結局ひざまずいてしまいました。しかし私はあなたを踏んで、頭の上に立っています! ……だがそれがなんになる!」
最後の言葉の悲しそうなことは!
と、白い滝を背景に、ユラユラと立ちあがる姿が見えた。腹ばっていた老人である。と、左右に枝が張った。老人が両手をひろげたのである。さながら十字架の陰影! しかしその次の瞬間には、宙に黒々とモンドリを打った。つづいて烈しい水音がした。滝壺の中へ飛び込んだらしい。しばらくはなんの物音もしない。滝をだいている絶壁が、ブルブルブルブルふるえ出した。そこに群れ葉があるのだろう。そいつを風が渡るのだろう。と、忽然滝壺の中へ、群像が現われた。滝の白さを黒く染め、だんだん背高くぬきん出て来た。水にぬれた一人の少年を、さっきの老人が胸へかかえ、岩組みをよじのぼって来るのである。
水にぬれた少年をだきかかえ、滝壺から現われた裸形の老人、岩組みへのぼるとジッとなった。少年の顔をノシかかるように上から見おろしているのである。
「可哀そうな子供よ! お気の毒なお方!」むせぶがような老人の声。「天童にまで祭りあげられ、殺人鬼にまでコキおろされたお方よ! あなたに罪はございません。むしろ私にございます。ああ直接の罪といえば! ……なんと美しく、なんと清らかく、なんとおろかで、なんと無邪気で、あなたはあったことでしょう! 事なく成長なされたなら、善良な一人の人間として、世をすごされたでございましょう。……私がそれを誤りました。私があなたをまどわしました。私があなたに法外もない、天国の夢をお見せしました。そうして私はいいました。『天国を地上へお建てなさりませ。あああなたこそは選ばれたお方! ああ、あなたこそは救世主!』と。そのためあなたは一朝にして、狂信者におなりなさいました。『天童!』とあなたはご自分で、自分のことをおっしゃいました。そう信じたからでございましょう。『建てる!』とあなたはおっしゃいました。『おれは建てる神の国を!』──建てられるものとあなた自身、お考えになったからでございましょう。だがいつもあなたのうしろには、私がいた筈でございます。人形使いのこの私が! しかしそういう私のうしろにも、人形使いがおりました。神の子と称する人形使いが! ……あなたを慕って幾万の人が、集まって来たことでございましょう! その結果なにが起こったでしょう? 地上へ天国が建つかわりに、戦いが起こったのでございます! ……人殺しが行なわれたのでございます! ……あなたから私、私から神の子、連絡をなし、組織を立て、人を殺したのでございます! ……しかも私は神の子のために、肉親をさえ犠牲にしました! 私の娘よ! イサベラよ! にくんでおくれ、この私を! お前を貴人のにえにしたのは、まぎれもないこの私だ! そのためお前は悶死した! 孫娘よ、孫娘よ、どこにいる? ……ああ行方さえわからない」
ユラユラと群像が動き出した。少年をかかえた老人が、岩組みの上を歩き出したのである。滝の白さと、星のあおさ、それに朦朧と輪郭づけられ、夜のやみから抜けて見える。と群像がちぢまった。とまたすぐにノビノビとなった。老人一人が立っている。少年は岩によりかかっている。突然老人はころがった。岩組みに打ちつける肉体のおと! つづいてうめく声がした。「死んだ沢山の人々のために!」
ゴロゴロと岩からころがり落ちた。「天童よ天童よあなた様のおために!」
ヌッと老人が立ちあがった。とクルクルと廻り出した。巨大な立ち木が立っている。烈しくぶつかる音がした。老人が身体をぶつけたのである。「にえになった娘、イサベラのために!」
立ち上がった老人の姿が見えた。
と、一つの星が流れた。その光が老人の姿を射た。胸の一所が一瞬間光った。何かヌラヌラ流れていた。血が流れているのだろう。
岩によりかかった少年の姿、端然として動かない。だが見詰めてはいるのだろう。うしろの岩に蔽われて、ほとんど輪郭がわからない。横半面と左の肩ばかりが、滝の微光に色づけられ、浮き出しているばかりである。
嗚咽する声が聞こえてきた。地上にうずくまった老人が、膝頭へ額をあてている。枯れ木がたばねて捨ててあるようだ。
その時走って来る足音がした。と、やみから声がかかった。
「将右衛門めにございます」
「将右衛門めにございます」やみの中から声がした。富士見の将右衛門が来たのである。滝の微光に半身をぼかし、ひざまずいている人影がある。それが富士見の将右衛門であった。
うずくまっていた老人が、物憂そうに顔をあげた。
「ああ将右衛門か、何しに来たな?」
「いやなことが起こりましてございます」
「そうか」といったまま老人は、依然地上にうずくまっていた。「人の世のことはみんないやだ」
「あなた様にもご存じの、天草時行が参りました」
「ああ天草がな? 裏切り者がな。……わしとはちがった意味の裏切り者」
「江戸の浪人、由井の正雪、一味の者が参りました」
「ああそうか、なんのために?」
「唐櫃を渡せと申します」
「ああそうか、唐櫃をな? なんの必要があるのだろう?」
「宝がほしいそうでございます」
「宝? なるほど、宝をな。……そうだ宝には相違ない。……なぜあんな宝がほしいのだろう?」
「誤解しているようでございます」
「中身をなんだと思っているのだろう?」
「金銀珠玉、異国の珍器」
「唐櫃はどうも渡せないよ」
「はい、渡すことはできません」
「そういうがいい、渡せないとな」
「とても承知は致しますまい」
「無理に取ろうとしているのか?」
「兵をひきいて参りました」
「兵を?」とはじめて老人の声が、すさまじい感情を現わした。
「戦いか! 恐ろしい! 流血か! おそろしい! おれはいやだ! おれはいやだ!」
「私もいやでございます」
「それはどうしてもやめなければならない!」
「いかがでございましょう。時行、正雪に、中身をあからさまに見せましたら?」
「ならぬ!」と威厳のある老人の声! 「わしはいいのだ、わしなどはな! だがあの方を辱めてはならぬ」
そこで将右衛門はだまってしまった。ひざまずいたままで動かない。うなだれて考えている。うずくまったままの老人の姿、やはりじっと動かない。
と、将右衛門やがていった。「どうぞご用意あそばしませ」
「用意?」と老人は聞き返した。
「なんの用意だ、将右衛門?」
「流浪いたさねばなりますまい」
「引き払うのか、富士見の郷を?」
「ほかに手段はございません」将右衛門の声は沈痛であった。
「ああ流浪か、それもいいなあ。そうだ、戦をするよりもな。……人は誰もかも流浪しているよ。おちつけるような世界はない。……おいでおいで、どこでもおいで!」
「どうぞご用意あそばしませ」
「わしはいかないよ」と老人はいった。「ここにいるのだ、ああここにな! あそこへ籠って、あそこへな。……」滝の方を指さした。「わしの命も永くはあるまい。……おこもりをして死ぬつもりだよ」岩組みの方へ歩いてゆく。と、将右衛門を振り返った。「お別れをお告げ! このお方へ!」
「天童よ!」と将右衛門、かたく合掌をしたものである。
しだいに暁に近づいてゆく。片われ月が空へかかった。ちょうどこの頃の事である。富士見高原のふもとにあたって、一点たいまつの火が見えた。のぼって来る二個の人影がある。
「もうすぐですぜ、ねえあねご」
「やっとそれでも行きついたかねえ」
木地師の郷の方角へ、話しながら歩いて行く。
かなり燃え尽きた松明をかかげ、歩いて行くのは早引の忠三、道中師風の姿である。それと並んで歩いて行くのは、虚無僧姿のイスラエルのお町、明けに近い富士見の高原に、二人の足音がシトシトと響く。
「狂わなかったというものさ、けっく妾の眼力はね」こういったのはイスラエルのお町。
「なんでござんす、眼力とは?」聞き返したのは早引の忠三。
「木地師の連中袴様を、引っさらったという眼力さ」
「あッはん、なるほど、そのことで」
「だってお前さんじゃアないか、渋沢の藪地でバッタリと、袴様にあったと思ったら、あの騒動で見失ってしまい、仰天して後を追っかけると、藪を出たところに無数の足跡、爪先ばかりで歩いているので、木地師に相違ないと眼星をつけたのは。ならまんざら馬鹿じゃアないじゃアないか」
「ナーニそれとて原の城に、あっし達と一緒に木地師の大将、富士見の将右衛門がこもっていて、そいつの部下の木地師どもの、歩き方をあねごが知っていたからさ」
「だがそれだけじゃア袴様を、さらったという証拠にはならないよ」
「へい、マアそりゃアそうですねえ」
「最初に妾は思ったのさ。袴様は手傷を負っている。だから遠くへは逃げられまいとね」
「でもあの時あっしをかり立て、あたりを探させたじゃアありませんか」
「ところがどこにもおられなかった」
「無駄骨折ったというもので」
「そこで妾はきめちゃったのさ、木地師が袴様をさらったとね」
「恋の眼力というやつでね」
「ああさ恋の直感でね」
「それからのあっしと来た日には、ミジメ至極でございましたよ。……さあさあ忠三江戸中を、こまのようにブンブン廻っておいで! 探しておいでよ、木地師の行方を! ……仕方がないのでヘイコラサ、あてなしに飛び出して聞き廻ると、よくしたもので、知れましたねえ」
「一挺の駕籠を引っ包み、小梅を通って江戸へはいり、ところもあろうにお父様のやかたへ……」
「へい、紀州様のお屋敷へ、スーッとはいっていったそうで」
「そこで妾はその木地師を、富士見の将右衛門と睨んだのさ。だって将右衛門はお父様の家来、原の城へこもったのもそのためだからねえ」
「だが間もなく女駕籠が、一挺お館から舁ぎ出され、そいつを守って木地師の面々、甲州街道へ出たというのが、あっしの探索した結果ですが、この女駕籠気になりますねえ」
「ナーニ妾ア問題にしないよ。それよりもう一つの駕籠の方が、妾にとっちゃア問題さ」
「つまりそいつに袴様が、乗っていらっしゃるとこういうので」
「そうとしか取りようがないじゃアないか」
「でもどうして木地師の連中、袴様をさらって行ったんでしょうね?」こいつが忠三にはわからないらしい。
「妾にもそいつはわからないがね、よい意味にとればこうなるのさ。傷を負って袴様が倒れていたので、捨てても置かれず助けたんだとね」
「なるほど、ところで、悪い意味にとれば?」
「悪い意味になんかとらないよ」
「大変結構でございます。大変楽天家でございます」
二人はズンズンのぼって行く。
「だがねえ忠さん」とイスラエルのお町、にわかに感傷的に呼びかけた。
感傷的に呼びかけたが、どうしたものかイスラエルのお町、そのままフッとだまってしまった。別に忠三も聞き返さない。二人ズンズン歩いて行く。松明の光の届く中で、草の露がチラチラ反射する。
「だがねえ忠さん」イスラエルのお町、もう一度感傷的に呼びかけた。「ほんとうのところを白状すれば、妾アだんだん心配になってきたよ」
「へえさようで、変てこですな。……何がいったい心配なんで?」忠三今度は聞き返した。
「……逢おうとしても逢われない、……あの時聞いた南蛮屋での歌、あいつが本当になりそうな気がして。……」
「ははあなるほど、予感というやつだな。ナーニ大丈夫でございますよ。すべて目的の一歩手前、そこまでこぎつけると大概の者は、かえって否定的になりたがるもので。それもさ、目的が大きければ、大きいほどそんなように考えるもので」忠三ひとかど考え深そうに、「だがあの時っていつのことで?」
「君尾という娘のいどころを、お前さんにはじめて明かされた時さ」
「いったいどいつがうたったんで?」
「店の酔っ払いの客だろうさ」
「風流の歌をうたやアがった」
「何をいうんだい。縁起でもない歌さ」
「さようさ、あねごにとってはね。……だが、あっしの身にとっては……」
「ふん」とお町突っぱねた。「また出したねえ、粂仙を」
「執念深うございます」
「妾もそうさ、袴さんにはね」
「面白くないというところで、打ち切りやしょうや、この話はね、ほんとにあっしは袴様では痩せるほどあねごにコキ使われていまさあ」どうやら忠三不平らしい。
「妾にゃアそうとは見えないがねえ。お前なんだかうれしそうに、妾に使われているじゃアないか」
「なるほどそうとでも思わなければ、こうまでコキ使やアしますまい」
いよいよ忠三不平らしい。
二人ズンズン歩いて行く。松明の光のとどく中で、灌木の葉が翻っている。夜が明けたと思ったのかも知れない。一つの灌木の根もとから、うずらが一羽飛び出して来た。とニョッキリ一本の、あらわな白骨が立っていた。たけの高い白樺である。
「だがね、あねご」と早引の忠三、意味ありそうな薄笑いをし、盗むようにイスラエルのお町を見た。
「予感があたったらどうなさいます?」
「さあ妾どうしよう」
「逢えなかったらどうなさいます?」
「ああ妾逢えなかったら」
「日本国中さがしますかね。このあっしを供に連れて?」
お町今度は返辞をしない。じっとうなだれて歩いて行く。
「そうなったら妾ヒョッとすると……」
「縄で……首を……おつりなさいますか」
「あきらめてしまうかも知れないよ」あざ笑うような声である。「どうしても縁がないものとね」
「えらい!」と忠三飛びあがった。
「あねご、それでこそ悪党だ!」
「そうかねえ。悪党かねえ」
「いよいよそうなるとこの忠三……」
「役付くとでも思うのかい?」
「え?」
「駄目だよ!」
「なぜ?」
「なぜでも!」
「だって理由は? ……」
「すかないからさ!」
「ひでえや、ひでえや。ハッキリし過ぎていらあ」げんなりとして笑ったが、ヒョイとお町の胸を見た。
お町の胸を見た早引の忠三、ポイと話を横へそらせた。「江戸を出た時からあっしには、ひどく気にかかっていたんですがね。胸に垂らしているそのまるい物、いったい何でござんすね?」
松明を差しつけたものである。
「これかえ?」というとイスラエルのお町、首へかけた銀鎖、その先に着いている黄金のメダルを、大事そうに掌で支えたが、「形見のメダルさ、お母様のね」そういった声にはなつかしさと、悲しさがいっぱいにこもっていた。「打ち出してあるのさ、お母様の像がね。……可哀そうな可哀そうなお母様! お美しかったお母様! ……なくなられる前にお手ずから、妾の首へかけられたのよ」
「ナール」といったが早引の忠三、全くめずらしくしんみりとなった。「だがねえあねご、何と思って、そんな物をかけていらしったので?」
「なんでもないさ。お守りにだよ」
「ナール」ともう一度早引の忠三。「こいつはお守りになりましょうよ。雲の上からお母様、じっと見おろしておりましょうよ。殉教者ののぼる天国のね」
「いいえ妾の胸の上から」掌を捧げるとイスラエルのお町、眼の前へメダルを持って来た。松明の光にぼんやりと、打ち出された肖像が浮き出して見える。まぎれもないスペイン型、﨟たけた若い美人である。と、お町うつむいた。メダルへくちびるを触れたのである。いつか歩みもとまっている。「おいらメダルになりたいなア」忠三こんなことは思わなかった。むしろひとみをそれさせたのである。
「さあさああねご、参りやしょう」しめった心を引っ立てるように、ガサツな調子でしゃべり出した。「ね、あっしからいわせると、そういう光景は気に入らないんで。ちょっともあねごに似合いませんなあ。やっぱりなんだ。あねごとしては、オイ忠々、オイ忠的などとあっしに毒づきながら、外輪に元気よく歩いた方が、どんなに似合うか知れやしねえ。……いけませんね、お守りなんか。いけませんね、予感なんか! いっさい弱気の所業でさあ。ナーニ袴様に逢えなかったら、生涯二人で探しやしょう。いつもあっしは根つけ役だ! かまいませんよ。我慢しまさあ。そういう役だって必要でさあ。そういう役にだって楽しみはある。シテばっかりを狙っていると、いつも浮世は息苦しい。ワキ役にだっていいところはある。安住の境地っていうやつがね。……それにさ、なんだ、ばかばかしいや。いわばあねごは燃え残りだからね。袴様に燃えた燃え残りだあね。いりませんねえ、燃え残りなんか! もっともくださるとおっしゃるなら、そりゃアあっしだって二ツ返事で! ……うんにゃ、あっしはもらいませんね。いやなことだ、燃え残りなんか! だが無理にもくださるというなら、フッフッフッフッ、もらいますねえ。燃え残りの炭ッていうやつは、案外ポカポカ暖かいもので。そうしてなんだ、あつかいようによっちゃア、もう一度真っ赤に燃えますからねえ。ホイ、ホイ、ホイ、何をいうんだ! あねごがくれるともいわないのに!」
駄弁を弄しながら歩いて行く。と、三本のわかれ道へ来た。
「さてどっちへ行ったもんだろう?」
たたずんだおりから、うしろにあたり、かすかではあるが聞き覚えのある、鉄杖の音がジャラーンとした。
「あねご!」「忠さん!」「島原の野郎!」「つけて来たねえ!」「幽霊のように!」
またもジャラーンと鉄杖の音!
城之介の鳴らす鉄杖の音、次第次第に近寄ってくる。別れ道に立ったお町と忠三、顔を見合わさざるを得なかった。
「あねご、どうしやしょう。逃げましょうか?」
「ナーニ」というとイスラエルのお町、一方の肩をそびやかした。「こわかアないよ。逢ってやろう。グッと妾が一睨みすると、手も足も出ないあいつじゃアないか」
「そりゃあマアそれに違いありませんがね。だが、うるさいじゃアありませんか。それに恐らく邪魔をしましょう、ソレ袴様と逢うやつをね」
「ああなるほど、そりゃアそうだ。困ったねえ、こいつだけは」
「ね、あねご、こうしましょう。とにかくわきに隠れていて、様子を見ようじゃアございませんか」
「ああそれがいい。それがいい」
「そこで邪魔なは松明だ。がまさか火を持って隠れも出来ない」
忠三ポンと松明を、道の一方へふり投げた。「あねごこっちへ。隠れ場所!」
丘ぐらいはある灌木の叢、その陰へ隠れたものである。またも鉄杖の音がして、ユラユラと現われた白い物、行衣姿の島原城之介、捨てられた松明のそばまで来ると、ジャラーンと鉄杖を地面へ突き例によってそれへよっかかったが、ああなんと城之介変ったんだろう! まるで昔のおもかげはない。伸びていた腰が曲がっている。太っていた肉体が痩せこけている。顔には一段としわがふえ、そびえていた肩が落ちている。あの鋭かった眼光さえ、腐った水のようにドンヨリとしている。──一時に年が二十も増し、まるでヨボヨボ爺イさんではないか! 地上に捨てられた松明に照らされ、裾が明るく次第にぼけ、胸のあたりが朦朧と煙り、うつむいている顔ばかりが、病的にはなやかに輝いている。そうして頭上遙かの空から、ほのかにさして来る星の光、それが後脳を輪取っている。「すてられた松明!」とつぶやいた。「誰がいったい捨てたんだろう? ……誰か捨てたに相違ない。……淋しい火だなあ、陰気な火だ。……高原の中にポッツリと、ぬしもなくひとりで燃えている。……今に自然と消えてしまうであろう。……自滅! 自滅! 自滅! 自滅! ……」衰え果てた声である。むせんでいるような声である。「おれだってすぐにも自滅しよう。……もう一突き、もう一突き、誰かうしろから突いてくれたら! ……道場はこわされ、財宝は奪われ、おれは自信を失ってしまった。それに」とつぶやくと眼を据えた。「お町を手に入れる力さえない」くちびるがブルブルふるえ出した。手もふるえているのだろう、カラカラカラカラと音がする。鉄杖についている環である。「お町、お町、あのお町さえ、手に入れることが出来たなら、自信を取り返すことが出来るんだが。……そうだ必死に愛している、その一物さえ手に入れられたらなあ。……だがなんとおれはお町のために、後手ばかり食わされているのだろう。いつもいつも追っかけてばかりいる。……たしかこっちへ来た筈だが、どっちの方へ行ったかしら? ……うむそうだ、この松明、きゃつらが持っていたのだろう。……では松明の捨ててある方へ、歩いて行ったに相違ない。……逢いたいものだ、捉えたいものだ」
ユラユラと城之介歩き出した。草が分けられてサラサラと鳴る。間もなく姿が見えなくなった。だがその音さえ元気なく、ジャラーンと鉄杖の音がした。
イスラエルのお町と早引の忠三、灌木の陰から現われたが、顔を見合わせたものである。
「プッ」と噴き出したのは早引の忠三。
「プッ」と吹き出した早引の忠三、城之介の行った方へ眼をやったが、「ありゃア城之介じゃアありませんね。城之介の魂のぬけがらで」例によって毒舌を振るい出した。「きゃつの魂ときた日には、人一倍太うございましたねえ。そいつが綺麗にぬけたんで、あんなに痩せたんでございますよ。こうなると魂の太いのも、考えものでございますねえ。みっともないざまったらありゃアしない」
「ほんとにねえ」とイスラエルのお町、これはどうやら同情したらしい。「あんなにもやつれてしまっては、憎むにも嫌うにも不足だねえ。なんだかイッソ憐れっぽくなったよ」
「憎まれる方がまだいいや。ほれている女に憐れまれた日にゃ、野郎たるもの浮かばれませんねえ。それはそうとネエあねご、どっちの方角へ行きやしょう」
「そうさねえ」と考えたが、「なんだか前途を見届けたくなったよ」
「え、前途? なんの前途で?」
「魂のぬけがらの前途だよ」
「ふふん、こいつアよっぽど変だ」ひどく忠三いやな顔をしたが、「憐れが凝って同情となり、同情があつまって恋となる。……というようなことだって、時タマ浮世にはあるものだ。……いけませんな、え、あねご。第一袴様にすみますめえ。忠三にだってすまねえや」
「何をいうんだい、ばか忠々」お町吹き出したものである。
「魂があってさえいやだったのに、魂のなくなった爺い玉なんかに、何がいったいどうしたってんだヨーッ」
「いいなあそいつだ。その『ヨーッ』だ! そうならなけりゃア面白くない。感傷的だったり、予感的だったり、さっきのようじゃア困りますからねえ。旅が旅らしくなくなってしまう。が待ってくれ。その旅も、もうすぐおえるんでございますねえ。袴様とあねごとがヒョイと逢う。うれしいヨーというところで──もっともどうもこのヨーは、あっしにとっちゃア苦痛だが、とにかくヨーというところで、手を取り合った暁に邪魔になるのはこの忠的! そこで邪慳におっしゃいましょうねえ。失しゃアがれ、消えてなくなれと! そこであっしがショボショボと、山をくだるの一段となる。どう考えたって下の役だ!」ここで忠三手をうった。「あねご、行きやしょう。城之介を追って!」
「どうしたんだい、性急に?」
「フッ、フッ、フッ、まずこうだ。あの魂のぬけがらを、追っかけているその間は、袴様とは逢われねえ。と少なくともそのうちじゅうは、あねごと一緒にいられるってものだ。へいさようで、二人きりでね。いいなあいいなあ、行きやしょう」
「忠さん」とお町、気の毒そうに、「そんなに妾といたいのかい?」
「あねご!」とあぶなくシンミリとしたが、すぐにまぜっ返したものである。「なんのアタボウ、背負っちゃアいけません。恋の燃えがら、もえ残り。いらねえいらねえ、いりませんねえ。だが」というと横目で見た。「くださるものならもらいますぜ。もっともさっきも二、三度いった」
忠三スタスタ歩き出した。それにつづいてお町が行く。あとに残ったは捨てられた松明、ボッと焔が立っている。暁近い高原の夜を、くさび形に割って燃えている。と一匹明かりを慕い、こおろぎがポンと飛んで来たが、すぐに羽根を焼かれ、まるくかたまって死んでしまった。
ジャラーンとその時鉄杖の音、かすかに上の方から聞こえて来た。「ああ不吉な音色だわい」こうつぶやいた者がある。明の遺臣朱舜水、三筋に別れている峠道の、その一つをばたどっていた。
富士見高原の峠道、喬木がすくすくと左右に生え、その葉が高く頭上を蔽い、穹窿型をなしている。トンネルが通っているようだ。木の葉にさえぎられて空が見えぬ。数本の松明に照らされて、その木の葉がチラチラする。左右に並んでいる喬木の幹、これも松明に輝いて、爬虫類のようにテラテラする。
先頭に一群の人数が行く。君尾を真ん中に引っ包んだ、数人の若い武士が、はしゃぎながら歩いて行くのである。君尾は若く美しい。その上陽気で大胆で、自由でおしゃべりで物にかかわらない。こういう娘の話し相手となって、夜道を行くということは、若い元気のいい武士にとっては、楽しいことに相違ない。あけっ放しの笑い声、高調子の話し声、それが絶えずそこから起こり、静寂な高原へひろがってゆく。その一群れと数間を隔てて、朱舜水の一行が歩いて行く。真ん中にいるのが朱舜水。その朱舜水と肩を並べ、左手にいるのが水戸光圀、右手にいるのが光圀の寵臣、朝日奈小弥太という若い武士。ほかに二人が前駆けの体で、松明を捧げて歩いて行く。
「鉄杖の音でございますな。何か不吉の前兆でも、先生にはお感じなさいましたので?」こうきいたのは光圀である。
「さよう」というと朱舜水、雪白のあごひげをしごいたが、
「不快な音色でございましたよ。爪拗音というやつでな、不安と焦燥とがこもっております。鉄杖の持ち主何者か、すぐにも不幸の結果を見ましょう。……器は持つ人の精神によって、いろいろの音色を発しますもので。清浄の山伏が貝を吹けば、霧さえ左右へ開くほどで」
「これはごもっともに存じます」
一行悠々と歩いて行く。先を歩いている君尾の一群れ、そこから笑い声が聞こえてきた。君尾の笑い声が一番高い。そうして一番愉快そうである。ふと朱舜水は微笑した。
「君尾殿には元気のよいことで」
「七、八歳の娘のようで」光圀も微笑したものである。「朝日奈、朝日奈」と呼びかけた。
「は?」というと朝日奈小弥太、愛嬌のあるまる顔を、光圀の方へ振り向けた。
「そちが探った君尾殿の素姓、だいたい間違いはあるまいな?」
「はい、間違いはございません」
「銅兵衛という杉窪の長、それの養女だとかいうのだな」
「はい、さようにございます」
「そうして銅兵衛は紀州殿の、旧家臣だとこういうのだな」
「はい、さようにございます」
「で、君尾殿がかどわかされた晩──杉窪の里の亡びた晩、たしかに紀州の伯父上が、由井正雪一党を率い、異風天狗に身をやつし、杉窪へ行ったというのだな?」
「私、殿の内命を受け、杉窪の里へまかりこし、二代目の長楠右衛門について、取り調べましたところでは、それに相違ございません」
「だがそれにしても紀州の伯父上、何ゆえ天狗などに身をやつされ、杉窪などへ行ったのであろう? ……そんな異風の天狗などに……」
「恐らくそれはこうでござろう」口を出したのは朱舜水、「天狗は我慢の象徴でござる。豪放濶達の紀州殿のこと。我慢の天狗に身をやつされ、幕府の権勢をセセラ笑い、天狗舞いをしたのでございましょうよ」
「しかし正雪一党などを」
「さよう。こいつは問題でござるな」ここで朱舜水思案した。
またはなやかな笑い声が、君尾の群れからわき起こった。
また聞こえてくる君尾の笑い声、はなやかで明るくてサッパリしている。そこで朱舜水いったものである。
「準頭声といいましたな。あの笑い声は非常によろしい。下賤廃残の人間には、まねをしようとて出来ません。高貴のうまれの証拠でござる。それに」というと光圀を見た。「そのおもざしがどことなく、光殿に似ているではござらぬかな。つまり従兄弟似というくらいに」
すると光圀うなずいたが、「それに私にはあの娘が、紀州の伯父上のおもざしに、似ているように思われます」
「さようさようその通りで」そこで朱舜水暗示的にいった。「杉窪の銅兵衛は紀州殿の家臣、君尾殿は銅兵衛の養女。そうして君尾殿のおもざしが、紀州殿に似ておられる。その紀州殿が杉窪の里へ、助太刀をしにおいでなされた。ということであってみれば、紀州殿と銅兵衛殿と、その間に、連絡がなければなりませんなあ」
「私にもそんなように思われます。……ひょっとすると、伯父上の、落胤などではあるまいかと」
「もしそうなら好都合で」
「は、好都合とおっしゃいますと」
「これは以前にも申しましたが、どうやら紀州殿のやり口は、平地に波瀾を起こされるようで。どうでもとめなければなりません。光殿からご忠告なさるがよろしい。ところが以前にも仰せられたが、光殿にはずっとご若年で、そのためご忠告しにくかろう。そこで君尾殿をカセにして、ご忠告なされるがよろしゅうござる。もし真実君尾殿が、紀州殿のご落胤であられたら、それを助けられた光殿は、とりも直さず紀州殿には恩人、喜んで紀州殿におかれては、光殿のご忠告を聞かれましょうよ。……がしかしこれとても、機会を待たなければなりませんなあ。……それはそれとして湛慶滝へは、まだ道のりがありましょうかな?」
すると案内の山賤が、つつましくうしろから声をかけた。
「いえもう間近でございます。この道を真っ直ぐに参りますと、湛慶川の川岸で。それを上流へさかのぼりますと、湛慶滝でございます」
そこでズンズン進んで行く。
ややあって光圀が笑いながらいった。「先生、はたして湛慶滝に、南朝の遺跡がございましょうか?」
「さあそいつはわかりませんなあ」一向こだわらずに朱舜水がいう。「とまれ村人やきこりたちや、そういう人達の噂によると、湛慶滝には色々の、伝説があるようでございますな。古いところでは仏師湛慶。新しいところでは紅毛人。そうして綺麗なおちごさんの噂。そこで私は思いましたので。すべてそういう伝説的の土地には、何かしら遺跡や旧跡が、必ず残っておりますとな。それが南朝の遺跡なら、この上もなく好都合であり、そうでなくとも結構でござる。とにかく一応伝説的の土地は、調べる必要がございますよ」
一行スタスタと歩いて行く。
この時君尾の一群れでは、面白い話がはじまっていた。
「妾、見ましたのよ、美しい夢を。ええ昨夜ね。韮崎の宿で」こういったのは君尾である。
「君尾様の美しい夢物語、これは聞きずてになりませんなあ。お聞かせくだされお聞かせくだされ」こういったのは新十郎といって、ずっと前から君尾の機嫌を、取り結んでいる若武士である。
「あるお方の夢なのでございますの。妾の大好きなあるお方のね」
「あッはん、さようで」といったものの、新十郎という武士興ざめたらしい。
「それはこうなのでございますの」
「それはこうなのでございますの」昨夜見たという夢物語、それを君尾話し出した。「妾の大好きなお方がね、行ってしまったのでございますの。高い高いお山へね。でもやっぱり下にいますのよ。ええ、にぎやかな町の中にね。お花畑が咲いていました。熊谷草、敦盛草、弁慶草や雪の下がねえ、虹のように咲いていましたの。鳥が飛んでいるじゃありませんか。小さい沢山の高原雀がね。そうして熊の児が遊んでいました。そうして雷鳥が遊んでいました。広い雪渓がありましたっけ。氷河の跡もありましたっけ。ふと見るとずっと下の方に、大鹿が長い列をつくり、トットと走っていましたっけ……。そこにおられるじゃアありませんか、その綺麗なお花畑の中に、妾の大好きなお方がね! ……でもどうでしょう、そのお花畑がやっぱり町なのでございますの。そうして咲いている綺麗な花が、みんな人間なのでございますの。……そこで妾はそのお方の、お名を呼んだのでございますの。そうしておそばへ行こうとしました。でも駄目だったのでございます。ちゃんと一人の娘さんが、そのお方のそばにいたんですもの。まあいったいどうしたんでしょう。それが妾じゃアありませんか! でもつくづく眺めますとね、少し妾とちがっておりますの。でも本当にそっくりでした。『あれは妾の分身かもしれない!』こう思ったのでございます。で嫉妬なんか起こりませんでした。かえって心持ちがサッパリして、いい気持ちになったのでございますの。で妾は遠くから、好きなお方へ呼びかけました。『ここはどこなのでございます?』ってね。するとそのお方がおっしゃいました。『人間から離れた高いところだ』ってね。そこでもう一度きいてみました。『町のように思われますが』って。するとそのお方がおっしゃいました。『高いところに住めば住むほど、心は低くなるものです』って。するとその時娘さんが、妾へいったじゃアありませんか。『お姉様、ご機嫌よろしゅう』って、するとどうでしょう妾の口から、『妹よご機嫌よろしゅう』って、こんな言葉が出ましたのよ。『妾の坐り場所はないのだよ。でも、ちっとも悲しくはない。あのお方と妹とが幸福なら!』こんなような気が致しました。そこで妾はいいましたの。『妾は帰ります。さようなら!』って。するとお二人がおっしゃいました。『どうぞ、私達を忘れないように! さようなら、さようなら、さようなら!』って。……帰りしなにうしろを振り返ってみて、妾びっくりしてしまいました。大勢の人達が走り廻って、何か大きな建物を建てているじゃアありませんか。つちの音や、かんなの音や、釘を打つ音や、木を削る音や、石をころばす音などが、聞こえてくるじゃアありませんか。……と、建物が立ちました。工場のような建物がね。調べ革の音が聞こえてきました。仲よく歌っている歌声もね。……これでおしまいよ、妾の夢は」
ホッ、ホッ、ホッと明るく笑った。邪心のない晴れやかな笑いである。
「風変わりの夢でございますな」こういったのは新十郎。「ええとそこで君尾様には、その大好きなお方のことを、フッツリ断念なさいましたので?」
「そうよ、夢が本当ならね。……あら!」というと足を止めた。「あんなところに篝火が!」
いかさま遙かの行く手にあたり、大篝火が燃えている。それに照らされて桃色の、二張の陣幕が見えている。その方角から川音がする。そいつをぬってカチカチと、武器や物の具の音がする。それを越して絶壁がある。その絶壁につきあたり、はね返ってくる人声がする。
正雪と時行の陣営が、そこに張られてあったのである。
ここは正雪の陣営である。
陣幕の中は陽気である。今にもいくさが始まるかもしれない……といったような気配さえない。いわゆる無礼講の酒もりが、さッきから始まっているのである。四隅で篝火が燃えている。火気に煽られて陣幕の裾が、ハタハタハタハタと鳴っている。染め出してある菊水の定紋、そのつどユラユラと波を立てる。立てかけてある槍や弓、火光にチラチラ光っている。時々火の先が千切れて飛ぶ。とそいつがヒラヒラと、空にむかって飛んで行く。空にはいっぱい星がある。星が酒もりの場を見おろしている。
「槍には三位の位がある。いわば武器の王様だ。どいつだ、王様を馬鹿にするのは!」わめいているのは丸橋忠弥、朱塗りの杯が膝の前にある。かがり火に映じて杯のふちが、血でも垂れそうにぬれて見える。
「よろしいよろしい、槍は三位。ところで貴殿は槍の名人、そこで貴殿も三位の位。まあさ三位氏一人で飲まずに、杯をこっちへ廻したまえ」こういったのは柴田三郎兵衛、忠弥の前に坐っている。酒が発して顔が赤く、笑みを含んで穏やかである。しかし依然として皮肉である。
「杯を廻せ? ばかをいえ! 拙者に備わった杯だ! 一人で飲む。やらぬやらぬ! おっ、なんだ、柴田の兄貴か! アッハハハ献じよう」忠弥の顔は蒼白い。内に籠る酒らしい。眼が据わってギラギラしている。「柴田の兄貴には一目置くわい。さあさあ誰かついでやってくれ」
少し離れた片隅で、四、五人の者が興じている。その一群の頭上をつらぬき、一本の棹が伸びている。その棹の先で何物か、グルグルグルグル廻っている。独楽か、否々、朱杯らしい。芍薬の花でも咲いているようだ。かがり火に照らされてカッと赤い。と、秋雨が降って来た。宙に渦巻いている杯から、酒が霧のように散るのである。誰が廻しているのだろう? 敏捷らしい小兵の武士が、笑いながら棹をあやつっている。秦式部が曲芸をしているのである。
「あざやか!」と一人の武士がいった。垂れ頬の佐原重兵衛である。愉快そうに見上げている。
「見事!」ともう一人の武士がいった。そうしてハタハタと拍手した。総髪の熊谷三郎兵衛である。
「武士をやめても食って行けます。式部氏芸人におなりなされ。いや全く立派なものだ」もう一人の武士がこういいながら、唇から前歯をのぞかせたが、ほかならぬ金井半兵衛である。
「拙者にしてからがそのつもりでござる」秦式部片手で棹をあやつり、両眼で杯を睨みながら、さも呑気らしくしゃべり出した。「尾羽うち枯らした浪人時代──いや、今とても浪人ではござるが、もっとミジメな浪人時代、食うに困って浅草へ出、習い覚えた皿廻し、大道芸を売りましてな、日々の生活を得てござるよ。呑気でござったよその頃はな。なんせ立ち合いの見物相手、思うままの悪口雑言。お政治向きを譏ったり、浮世の間違いをののしったり、善悪両道のトンチンカン、賢愚明暗の行き違い、そういうのをアテッコスッたり! 男女痴態の醜きを、やっつけたりしたのでござるからなあ。……ところがとうとう由井先生に、本心を見破られて説得されて今は武士! が実のところ拙者には、武士というもの移りが悪く、最近いや気がさしてござる。……オットどっこいしゃべりすぎた! あぶないあぶない杯が落ちる」
棹を手もとへ引いたものである。
ぐっと離れて篝火のそばに、ポツネンと一人すわったまま、碁を打っている武士がある。
碁を打っているのは奥村八左衛門、由井正雪門下の中では、一番若い人物である。相手なしの一人碁だといって碁盤のある筈がない。白紙へ筋を引いたのが碁盤、碁石といっても同じく紙製、眼のないほどの囲碁好きで、どこへ何用で行こうとも、この二品だけは携えて行く。
「考えてみれば徳川の天下、ひっくり返すのもいいけれど、しかしおれには算砂以来の、名人の棋譜を一人残らず、頭へ入れた方がいいのだがなあ」こんなことを思っている。一人で石を置き出した。「黒六のハネ手はこれでよい。……白七の手で十三に入れば、黒十一でおさえてよろしい。……白十五に対する黒十六、白十七に対する黒十八、適切な手筋といってよかろう。……」盤面から顔を上げて四辺を見た。不愉快そうに舌打ちをした。「騒々しいなあ、なんということだ。よっぽど趣味のない連中だよ。飲んで酔っぱらってしゃべりまくって、剣道自慢に力自慢、能といえばそれだけしかない。……人間そんなものでいいものかしらん? ……囲碁は本来戦術で、非常に科学的の遊びだが、心をおちつける助けにもなる。……忠弥めが少しは打つらしいが、あのガサツでは仕方がない。……そういう忠弥め酔っぱらって、真っ青な顔をして眼を据えている……あいつおれには虫が好かないよ」また盤面へ食い入った。「黒八、十とこれでよろしい。十四までの別れ申し分なしと。白を一隅へ屏息せしめ、外に向かって驥足を伸ばす。この作戦われながらよいて。……」また八左衛門顔を上げた。「どいつだ、いびきをかいているのは。ほううそうか、伝達坊主か」ニヤニヤ笑ったものである。
墨染めの法衣の胸をはだけ、ムシャムシャした胸毛を露出させ、肘枕をした大坊主が、陣幕の裾に眠っていた。早足と大力とで有名な、正雪のお気に入りの門下である。
「破戒無慚もあそこまで行くと、徹底していて面白いなあ」また八左衛門微笑したが、ふとその眼を換わせた時、忠弥の眼とぶつかってしまった。「あぶないあぶない、用心用心。どうやら喧嘩でも吹っかけられそうだ。この前きゃつと一局争い、たたきつけてやったのを根に持って、爾来俺を憎んでいるらしい。囲碁の勝負なら驚かないが、腕っ節の試合となった日には、俺に勝ち目はないからなあ。なるたけきゃつを見ないようにしよう」急いで眼を伏せると盤面を見た。
「白三と一間掛かりと来たら、どう応対していいだろうかな? 四とつけ十まで運ぶかな? これが通例というものさ。……それはそうと忠弥の奴、まだ俺を見てはいないかな?」ヒョイと眼を上げると忠弥の方を見た。と、忠弥の眼とぶつかってしまった。「どうもいけない。またぶつかったよ」あわてて盤面へ眼をおとした時、
「奥村氏!」と呼ぶ声がした。ロレツの廻らない忠弥の声だ。
「しまった。忠弥め、やって来るぞ」
はたして忠弥ヒョロヒョロと立ち、八左衛門の方へやって来た。ムズと坐るといい出した。
「さて奥村、ひと勝負やろう。この前は負けたが今度は負けぬ。……白をよこせ、勝ってみせる? なんだ貴公なま若いくせに、先輩の拙者に黒を渡すとは! ……今日は勝つぞよ、きっと勝つ! 復讐戦というやつさ! ……ところであらかじめいっておく。貴公拙者を負かしたが最後槍がとぶぞよ、三位の槍が! 槍がこわかったら拙者に勝たせろ! なんでもいいから拙者に勝たせろ!」
フラつく手先で白を握り、「それ」というと一つ置いたが、碁盤外れへ打ったものである。
丸橋忠弥酔っ払っている。一向平気で肩肱を張り、「さあさあ奥村、お前の番だ!」
胆を潰したのは奥村八左衛門、「こんなべら棒ってあるもんか。白をもちながら先手を打ちおる」こうは思ったが相手が悪い。仕方なく苦笑いを浮かべながら、手を伸ばすとハの十六、そこへピタリと石を置いた。
「ふふん、何だ、平凡な奴だ。つまらない所へ据えやアがった。よしよしそれならこうやってやれ」忠弥それでも感心に、今度は盤の上へ石を置いたが、ヌの十という真ん中である。
「さあやれやれお前の番だ。考えてはいかん、遅い遅い。……よいかな、兵は神速をとうとぶ。ばかの考え休むに如かず。で貴公がばかものなら、よろしい、よろしい、ウンと考えろ! が、もし利口でいたかったら、休まずズンズン打つがいい。……ええとそれからさっきもいった、勝ってはいけない、勝ってはいけない。勝つのはおれだ、心得ていてくれ。……さあさあさあ貴公負けるように打て」また肩肱をウンと張り、プーッと酒臭い息を吐き、グッと盤面をにらみつけた。
むかい合っている奥村八左衛門、本来下戸で一滴も飲まない。酒の匂いさえ嫌いである。忠弥の息が顔へかかる。胸が悪くてムカムカする。で、むずかしく渋面をつくり、時々顔を横へそむける。
「なんてだらしがないんだろう。宝蔵院の槍を取ったら、日本一の手利きか知らないが、酔っぱらうと日本一のばかになる。よしよし思うさま負かしてやれ。それ! ……」というとハの四の位置、そこへピタリと石を置いた。
「驚かねえよ」と丸橋忠弥、少し真面目に置いた石は、タの十五という位置である。
「少し正気になったらしい」こう思った八左衛門、タの十七へ石を置いた。
「よし、来やがれ」と丸橋忠弥、レの十七へ石を置いた。
「真剣になってきたらしい」こう考えた八左衛門、レの十八へ石を置いた。
ズンズン手合わせが進んでゆく。最初の二つがわざわいし、忠弥だんだん追い詰められる。で、じっと考え込んでしまった。嬉しがったは八左衛門、ひざ頭を片手でたたきながら、愉快そうに冷語を飛び出させた。
「さあさあ丸橋、やったりやったり! 沈思黙考かな。気の毒千万。それ兵は神速をとうとぶもの。ばかの考え休むに如かず。貴公ばかなら考えるがよろしい。利口でいたかったらズンズンお打ち。拙者は負けない、貴公を負かす! 返り討ちというやつさ」とても面白くてたまらないらしい。
突然忠弥いい出した。「おい奥村、一目待て!」
「ナニ一目? 待てませんねえ」
「是非待ってくれ。おれがたのむ」
「いけませんね。待てませんよ」
「たのんでいるのだ。待ってくれ!」
「おあいにくさま」と八左衛門、あごを前方へ突き出したが、「似合わないなあ、え丸橋。お前は随分強気の筈だ。それをなんぞや待てなぞと! 打ったり打ったり、さあさあ打て! それともお前戦いの場で、組み伏せられた敵に対して、首を掻くのは待ってくれ、こんなことをいってたのむかな? たのむというなら卑怯未練!」
「だまれ!」と突然丸橋忠弥、ほえるように声を響かせたが、「卑怯とはなんだ! 無礼の一言!」
続いてアッという声がした。声の主は八左衛門、忠弥に投げられた大杯で、額の真ん中をわられたらしい、タラタラと血潮がしたたった。「これは狼藉」と一同の者、総立ちになろうとした時である。
「騒々しいの、静まらっしゃい!」りんとした声が響き渡った。
声を掛けたは由井正雪、陣幕に染め出した菊水の紋、それをうしろに篝火を左右、ずっと離れた上座の位置に、円座を敷いてすわっていたが、顔は桃色、微醺を帯びている。「丸橋氏、不謹慎でござる! ……奥村氏、気にされぬよう。……ああ柴田氏柴田氏、丸橋奥村のご両所を連れて天草殿の陣へでも参り、よろしく和解おさせください」
いわゆる鶴の一声である。柴田、丸橋、奥村ほか、五、六人がゾロゾロと、陣幕の外へ出て行ったが、あとはヒッソリと白け渡った。
正雪の前に老人がいる。ほかならぬ天草時行で、自分の陣屋からコッソリぬけ出し、遊びに来たという格好である。
「お若い方は勇敢で」こんなことをいい出した。「が、ちと面白くござらぬな」
「さよう」と正雪眼をひそめたが、「丸橋氏の軽率と短気、困ったものでございます」あたりをはばかった小声である。
「それと同時に奥村氏の、囲碁好きも困ったもので」これもあたりをはばかった声。
「ほほう」と正雪驚いたように、「囲碁という遊戯、いけませんかな?」
「いや大変結構でござる。囲碁、将棋、生花、茶の湯、ことごとく結構な遊戯でござる。こいつにふけっておりますと、心が静まり物欲がなくなり、美的情操さえ養われます。ええとそれだから奥村氏には、ちと不向きでございますなあ」
「ははあさようでございますかな」──だが正雪にはわからないらしい
「いやむしろこれはこういった方がよろしい。われわれ義党の面々にとっては、この種の遊戯は総体に、面白くない、とこのようにな」
「ははあさようでございますかな」やはり正雪にはわからないらしい。
「徳川の天下をひっくり返す、というのがわれわれの目的の筈で。……これは素晴らしい大欲望でござる」
「さようさよう大欲望でござる」
「で、悠長な遊戯などにふけり、美的情操を養ったり、心を静めたりすることは、逆行的態度でございますよ。……去勢されてはいけませんなあ。うんと物欲をたくましゅうし、俗中の俗になるのが本当で」
「なるほど」といったが由井正雪、かすかにうなずいたものである。
篝がドカドカと燃えている。それに照らされた正雪と時行、かなりおかしげな対照である。ぶっ裂き羽織に裾縁野袴。そのよそおいは同じであるが、正雪は白面端麗な容貌、総髪を肩に波立たせ、そり身に威儀をつくろっている。時行となると髪は茶筅、しかも半分白髪である。握りこぶしほどの小さな顔、みつ口で無数にしわがある。態度はといえばせむしのように、背をこごめてのぞき込んでいる。
公平に照らしている篝の火が、かえって不公平に思われるほど、二人の姿は似ていない。
「それはそれとして正雪殿」天草時行ささやき出した。「敵を前にしての無礼講、拙者これには感心しております」
「これには訳のあることでな。あえて敵勢をあなどるのでもなく、また、大胆をてらうのでもござらぬ」
「それは承知で」と天草時行、貧弱にへこんでいる胸を打った。「人物試験をなされている筈で」
「見抜かれましたな。その通りでござる」
正雪くちびるをほころばせたがにわかにグーッと首をさげた。「巻軸二本を泉水へ投げた、紀州大納言家のお振る舞い、天草殿にはなんと思われるな?」そういった声の不安そうなことは!
正雪にきかれて天草時行、音の響きに応ずるように、即座に答えたものである。
「変心でござるよ。一目瞭然!」
「ううむ」とうめいたが由井正雪、いよいよ不安に堪えられないらしい。「そうとられるかな、貴殿においても」
「とりようがござらぬ。これ以外にはな」
「が、ただご短気と解しては?」
「甘い!」とばかりセセラ笑った。
「よりけりでござるよ、ご短気にもな!」
「とはいえ従来大納言家が、われらへ寄せられたご好意から推せば、そうひたむきに変心などと……」なお、正雪うべなわない。
「ということであってみれば、下世話の言葉にもなかなか身にしむ、金言というものがございますなあ」妙なことをいい出した。
「なんでござるな。下世話の金言?」正雪眉の間へしわをたたんだ。
「あばたがえくぼに見えるというやつ。アッハハハいかがでござる」笑いはしたが四辺を憚かり、時行の声は低かった。
「ほれ込んでいるといわれるのか?」正雪いやアーな顔をした。
「さようでござる頼宣どんにな! かれ老英雄、腹の知れぬご仁。貴殿トロトロとたらされております」
だがなお正雪眉をひらかぬ。凝然と時行を見詰めている。
「釈迦に説法とは思うものの、その釈迦さえも提婆には、いたしめられたためしがござる。そこで拙者が説明しましょう」時行いい出したものである。「二本の巻軸、何物かというに、千代田大城の縄張り図面、精細を極めた恐ろしいやつ、あれさえあれば千代田城の奥へ、まず、やすやすと忍び込めます。徳川を計るわれわれには、何より有難い宝物。それをわれらの盟主とたのむ、紀州大納言とあるべきお方が、『巨宝のあり場所記してない以上、役に立たぬ』と一喝し、泉水へ投げ込み失われようとしたは取りも直さずあの巻軸を、われわれの手より奪い取り、徳川幕府の安泰のため、消滅させようと計らわれたもので、こういう意味からいく時は、味方どころか大納言家には、敵でござるよ敵でござるよ!」憎さげにいったものである。
だがやっぱり由井正雪、眉もひらかず物もいわない。心で悩んでいるらしい。と、にわかに豁然といった。
「その問題はそれとして、貴殿天草時行殿を、われらが党中へ加えた一事は、われら本望と致しております」
「いや、こいつこそ偶然で」時行突然ひょうきんになった。「そうはいっても、この拙者、何か仕事がなかった日には、退屈で退屈でたまらぬという、困った性質の持ち主でな。謀反商売などまことに結構、そこで喜んで党中へ、加入いたしたというものでござるよ」
「拙者自身を高祖に引くは、あたらぬもまた甚だしいもの。しかし貴殿だけは張子房でござる」
「薄ッきたない張子房で」
「武田家における山本勘介」
「跛者でなくてみつ口でござんす」
「アッハハハ」
「アッハハハ」
「どっちにいたしても帷幕の謀将」正雪いよいよ持ち上げる。
「さあてね」と天草時行、皮肉に顔をゆがめたが、「お高く買ってくださるはよい。だがそれにしては扱いが悪い」小言をいおうとするらしい。
扱いが悪いと時行にいわれ、正雪いくらか興ざめたらしい。
「ははあ何かご不満かな?」首をかしげたものである。
「いいえさ、今は満足でござる」今度は時行キサクに笑った。
「思い出したからいうまでのこと。初めてお逢いしたあの際の扱い、あれはどうにも謀将を扱う、扱いぶりではござんせんでしたよ」
「あいつをいわれると拙者困る」鼻白んだというように、正雪苦味ある笑い方をした。
「いや驚いたのなんのって、あの時こそびっくり敗亡し、時行グーの音も出ませんでしたよ」かえっておかしそうに笑ったが、「二本の巻軸島原の手から、やっと取りあげて帰宅してみれば、百人余りのおさむらいさん、なんの苦もなく拙者を捕縛、たたっ込んだは地下の牢屋『どうだ天草、参ったか!』貴殿にガ──ンと食らわされた時には、文字通りガ──ンと参ってござるよ」
「しかし、あの際お目にかかり、一言二言お話しするうち、これは素晴らしい器量人、拙者なんどの及ぶところでない、こう存じて客間へ招じ、義党へお加わりくださるよう、懇願した筈ではござらぬか」
「そこで拙者は加わりました」
「で現在は謀将とはいえ、その実立派なお客人で」
「さようさ、拙者もそのつもりで」トホンと時行いい放った。
「全く貴殿は人物でござるよ。つきあえばつきあうに従って、いよいよえらさが加わります」正雪、持ちあげたものである。「いい得べくんば一代の梟雄」
「いや貴殿こそおえろうござる」今度は時行が持ちあげる。
「いい得べくんば一世の山師! それにさ風采がまことによろしい。だまって坐っておられると、十万石のお大名でござんす」
「いや貴殿におかれても」
「それは駄目駄目」と手を振った。「拙者などだまって坐っていると、米屋のご隠居に踏まれます。そこでむやみとしゃべりますて」
「どっちみち拙者より貴殿の方がおえらい」
「どういたしまして貴殿の方がおえらい」
「なかなかもって貴殿の方が!」
「いや貴殿こそ!」
「貴殿こそ!」
大変仲がよいのである。
顔見合わせて微妙に笑った。
「そこで一ぱい」と正雪がさした。
杯を受けて──グッと飲み、「返ぱい」といって時行がさした。
二人快く酔ったらしい。
「そこで話を元へ戻し」時行一層小声となった。「敵前においての無礼講、人物試験は気に入った催し。ところで結果はいかがかな?」
「さればさ」と正雪あたりを見た。「各自の個性見て取れました」
「で、ことごとくたのみある武士で?」
「まずその辺。……貴殿においては?」
「拙者の見どころ、いささか違う」
「お聞かせくだされ」と顔を沈めた。
「一徹短慮の丸橋氏と、女性的性質の奥村氏、二人を斬ってお捨てなされ」
「それは不仁、なりますまい」
「やむをえませぬ。下世話の金言、もう一つお聞かせいたしましょう。千丈の堤も蟻の一穴……」
その時であった。陣幕の外から、「松明が見える! こっちへ来る!」呼び立てる二、三人の声がした。
「横へそれた。上流へ行く! 湛慶滝の方へ行くんだろう」──朱舜水一行の松明らしい。次第に夜が明け始めた。
往々例外はあるにしても、悪人の最期というようなものは、どうやら案外もろいものらしい。島原城之介の最期など、その一例といってよい。二つの亡霊を見たために──少なくもかれにはそう見えた。かれは自滅をしてしまった。かれが原の城へこもったのは、キリシタンの秘法を盗みたいがためで、そうしてそれを盗んだため、落城前に脱出してしまった。かれほどの悪人ではあったけれど、かれに秘法を伝えてくれた、島原一揆の総大将──もっとも黒幕ではあったけれど、イマニエル司僧が落城と共に、表に立った総大将の天草四郎時貞と共に、焔々たる火中に飛び込んで、殉難したと聞いた時には、さすがに懺悔心を起こしたものである。がそのうちメキメキと、悪業を積むに従って、せっかく起こした懺悔心を、消磨させたのはいうまでもない。しかし苦心して作りあげた、邪教の道場は破壊される、イスラエルのお町には翻弄される。すっかり自信を失うにつれて、また懺悔心というようなものが、心によみがえって来たものである。
そこへ付け込んだのが亡霊であった。
夜は明けたが日が出ない。朝の霧が立ちこめている。そよいでいるのはなんだろう? 崖を蔽うている群ら葉である。群ら葉に抱かれて懸かっている滝! シーンと音なく落ちている。と、ジャラ──ンと鉄杖の音! 霧を分けてユラユラと、現われたのは城之介、滝壺を取り巻いた岩の上へ、ヒョロヒョロと上がると足をとめた。
「滝がかかっている。……音がしない。……行く手は絶壁、行きどまりだ。……お町め、お町め、どっちへ行ったかな」岩の上へ突いた鉄杖へ、痩せこけた身体をもたせかけ、空の眼で滝を眺めやった。
「島原! 島原!」とその時である、滝の中から声がした。
「おれを呼んでいる! 誰だろう?」
眼を見張った時、滝の背後から、崖へ現われた物影がある。人間だろうか? 人間らしい。だが正直に形容すれば、人骨といった方がよいようである。そんなにも痩せかれているのである。眉に赤毛が渦巻いている。腰に白布が翻っている。あとはむき出しの裸体である。胸から肋から手足から、血がひものように流れている。山の小父さん! 紅毛人である。
滝を左に、崖を背に、朝風になぶられる霧の中に、のびのびとして立っている。
「島原! 島原! どうして来たな!」体に似つかわしい、しわがれた声だ。
「ああ、あなたは、イマニエル司僧!」こう城之介の叫んだのは、しばらく経ってからの後であった。ジャラ──ンと鉄杖の音がした。うしろへよろめいた証拠である。
二人向き合って突っ立った。これは劇的の光景であった。しかし間もなく一層の、劇的光景が演ぜられた。すなわち次のような問答の後、島原城之介身をおどらせ、滝壺の中へ飛び込んで、再びこの世へ出なかったのである。
「イマニエル司僧よ。あなた様が、この世に生きておられようとは? いや亡霊だ亡霊だ!」
「逃げて来たのだ。裏切ってな!」むしろ愉快そうな声である。
「私でございます、裏切ったのは!」
「だからお前は非常に賢い!」
「おれにはわかる。叱っているのだ! イマニエル司僧の亡霊が!」そこで城之介いったものである。
「おお司僧様。あなたには、ご殉難なされた筈ではございませんか?」
「誰のためにだ? 聞かせてくれ!」アイロニカルの声である。
「はいあなた様の拝まれた、万能のお方のそのために!」
すると突然笑い声が、紅毛人の口から出た。それから次のような言葉が出た。
「万能のお方か! あああれはな、そういう美しい名のもとに、地に鮮血を敷くものだよ!」
「いいえそんなことはありません!」かえって島原城之介、はじき返すようにいったものである。
「ああそれでは悪魔と同じだ!」
「いいや」といよいよアイロニカルに、紅毛人はいいつづけた。「教えてあげよう。悪魔とはな、その気の毒な名のもとに、万能のお方を空高く、雲の上まで持ちあげているものだ! 同情していい引っ立て役だ!」
「おれにはわかる。叱っているのだ! イマニエル司僧の亡霊が! ……裏切り者のこのおれを!」
そこで城之介悲しそうに、
「イマニエル司僧の亡霊よ。では人間はこの世では、何を拝んだらよいのでしょう」
「そいつはおれにもわからないよ。おれも探しているのだからな」
「お教えくださいまし! お教えくださいまし!」
「おれをあんまりせめないでくれ」
「お教えくださいまし! お教えくださいまし!」
「お前は悩んでいるようだな」
「悩んでいるのでございます!」
「その後平和ではなかったのかい」
「ひどい目にばかり合わされました」
「どっちを向いてもひどい目に合うよ」
「力をお授けくださいまし!」
「わしからお前へお願いしよう」
「イマニエル司僧の亡霊よ! ……」
「また拝む物をか? 教えてくれか! 教えてやろう! 第三の者だ! 神と悪魔を踏まえているものだ!」
「それは何物でございましょう?」
「人間だよ! 人間だよ!」またガラガラと笑い出した。「沢山いるなあ、人間は! 地球をうずめてウジャウジャいるよ。しかし人間は一人もいない! ……だが島原!」といかめしくいった。「滝壺をご覧! 一人いる! この上もない馬鹿者が! だから一番尊い人が!」
滝壺をのぞいた城之介の口から、恐ろしい叫び声が飛び出した。そうして、その次の瞬間に、滝壺の中へ躍り込んだ。
「ここにも亡霊! ……天童よ! ……水の中から……生きながら……私を睨んでおいでなさる! ……裏切り者のこのおれを!」
水音! 静寂! それだけであった。
「お祖父様!」とその時女の声、霧の中から響き渡った。走り出たのはイスラエルのお町!
「イマニエル司僧!」男の声! 飛び出して来たのは早引の忠三! 「おおお町か! 私の孫!」紅毛人はよろめいた。「おいでおいで私の巣へ! ……だが逢えようとは思わなかった!」
「生きておられたのでございますか!」お町、岩の上へひざまずいた。
「亡霊ではない! 生きているわしだ! おいでおいでわしの巣へ!」
三人滝の裏へ隠れた時、またもや霧を割りながら一隊の人数が現われた。朱舜水と光圀の一行である。
「これは珍しい! 死蝋がある」こういったのは朱舜水、滝壺をのぞいての言葉である。
「それにもう一つ修験者の死骸が」こういったのは水戸光圀。
「滝のうしろで人声がします。お爺さんの声と娘さんの声が」
こういったのは君尾である。
朝日が上った。鬨の声がした。正雪、時行の連合軍が、木地師の郷へ攻め込んだらしい。と、木地師の郷にあたり、すさまじい爆発の音がした。つづいて立ちのぼる黒煙り! しかしこの頃木地師の一隊は千里のあなたを走っていた。
富士見を離れる十里の地点、木地師の大軍が走ってゆく。先に立ったは将右衛門、左右に二挺の駕籠が行く。左の駕籠にはお京様、右の駕籠には広太郎、のどかな様子をして乗っている。その後から行くものは、男の木地師、女の木地師、老人、子供、それから家畜──馬や犬やにわとりや! それから荷車、それから小荷駄、総勢すべて五百人、二列縦隊、トットと走る。みんな陽気で元気がよい。馬のいななき、犬の吠え声、鶏の羽ばたき、子供の叫び声、みんなみんな活気がある。女の笑い声、賑わしい。男のしゃべり声、勇ましい。裾野は広い、草は黄色い、あちこちに櫨もみじの叢がある。焔がかたまっているようだ。森! 狐が飛び出した。林! 兎が走り出た。沼では鴨が騒いでいる。菅の中からは葦切りの声! と、鉄砲の音がした。猟師が朝駈けをしたのだろう。夏沢岳、天狗岳、中山、丸山、茶臼山、縞枯岳に横ヶ岳、東の空にそびえている。その上へ懸かった明けの空、空を横切る渡り鳥、朝日が出た! 霧が晴れた! なんとキラキラ露の玉が、光りの歌をうたっているんだ。
トットと走る。木地師の大軍。さて行く先は? 北だ! 北だ!
「日が出た、日が出た」と将右衛門、さも愉快そうにしゃべりだした。「日の出を合図に約束の竹法螺、ポーともなんとも吹かなかったので、正雪時行の連合軍、せめているだろうよ、富士見の郷を! と轟然たる爆発の音、時間をはかって伏せて置いた地雷、破裂したろうよ、今頃はな! アッハハハ驚いたろうなあ。そうともそうとも驚かなければならない。人っ子一人いないんだからなあ。火焔黒煙のその中で、調べ革ばかりが廻っている。螺旋ばかりが廻っている。鉄槌ばかりが働いている。こいつア驚くのがあたりまえさ。ついているんだおいらにはな。山の小父さんという人がよ! それから伝えられたスペイン火術、自然に破裂を致します。そうして肝心の木地師はといえば、家財を纒めてとうの昔、郷を見すててさすらいの旅さ! アッハハハ、いい気味だなあ」
トットと先へ走って行く。あとから全軍が引きつづく。手鎌が光る、足並みが揃う。さすらいの民のさすらいだ。未練も悲しみもそこにはない。
「今日はお天気、明日もお天気。おれにはわかるよ、明後日もな、きっとお天気に相違ねえ」また将右衛門しゃべり出した。
「結構な旅行、どこへ行く? どこかへ行くよ、心配はねえ。気に入ったところで住居する。そうしてやっぱり建てるのさ。山の小父さんから教えられた、水力じかけの工場をな! ……さあてところでお京様」
こういうと富士見の将右衛門、駕籠に乗っているお京の方へ、ヒョイと顔を振り向けた。
「あなたは紀伊様のお姫様、お妾腹とはいいながら、立派なご身分でございますよ。が、今では木地師の娘、で、だんだんと劫を経て、私たち仲間と同じように、お駕籠なんかに乗りっこなし。山であろうと野であろうと、トットとお歩きなさるよう、修業なさらなければなりませんなあ。さアてところで袴様」今度は富士見の将右衛門、ヒョイと広太郎の方へ顔を向けた。「いずれそのうちゆっくりと、あなたのご身分も承りましょう。が、どっちみちあなたには、大旗本の若殿様……だろうと私は思いますので。そういう品位でございますよ。が、やっぱりただ今では、私達木地師のお仲間で、そうしてどうぞ長く、長く、仲間であっていただきたいもので。そこで同じことを申します。今はご病後、仕方もござらぬ。しかしたっしゃになられたら、お駕籠なんかに乗りっこなく、トットと歩いていただきたいので。さアてところでお京様」
お京様の方へ振り返った。
将右衛門お京へ話しかけた。「不幸なお方でございますよ、へいさようで、あなた様はね。……が、あなたのお母様は、もっと不幸でございましたよ。お美しいお方でございました。お志乃の方と申しましてな。そこで紀州のお館様、ご寵愛なされたのでございますよ。そうしてお子様を儲けましたので。それも双児のお姫様をね。お京様と君尾様! ……ところがその時困ったことには、にわかにキリシタンのご詮議が、きびしくなったのでございますよ。しかるにお志乃様ときた日には、こりかたまりのキリシタンで、信仰を換えようとはなされない。それでお館には閉口され、不びんではあるがひまを出す。幕府への遠慮置くことはならぬ! で、沢山お手あてをして、おひまを出されたのでございますねえ。……さアてその後お志乃様、どこでおなくなりなされたやら、消息さえも知れませんので、可哀そうッたらありませんや。が、それだけならまだ結構。ところがお館の申されるには、姫二人も手もとへは置けぬ。幕府への遠慮、親知らずでくれろ! で、あなたも、君尾様も、人手に渡されたのでございますよ。それもこういう条件でね。あまりよいところへ縁づけぬよう! ……いやはや全く貴人というものは、勝手なものでございますなあ。……」ここで将右衛門だまりこくった。気まずいというような様子である。「ところで」と将右衛門話し出した。
「最近のことでございますよ、私へ急飛脚が参りましたので。すぐ江戸表へ出るようにとな。お館様からの急飛脚で。そこで私は行きました。旧ご主君でございますからねえ。いや紀州のお館様ときたら、英雄に相違ございませんよ。私のような木地師から、香具師というような者へまで、お扶持を出してこっそりと、ご家来にしたのでございますからねえ。……お目にかかるとお館様、こうおっしゃるではございませんか、京姫をお前へ預けるによって、富士見の郷へ連れて行け! 永久人里へおろすでない! そこでお連れしたという訳で。……いやはや貴人というものは、勝手なものでございますなあ。それが英雄なら英雄ほど、いよいよもって勝手なようで。そのくせどうやら四方八方へ、遠慮をしなければならないようで。いわば勝手と窮屈とを、一緒くたにした変なものが、貴人でもあれば英雄でもある。……ということになりますなあ。貴人商売英雄商売、うれしいものじゃアございませんよ。さアてところで袴様」
こういうとまた将右衛門、広太郎の方へ振り返った。
「お見受けしたところあなたには、どうやら以前からお京様とは、ご懇意のご様子でございますが、大変結構でございますよ。そこで私は申しあげたいんで、ご夫婦におなりなさいましとね。そうして第二世木地師の頭、そいつにおなりなさいましとね。そうなったら私なんか、すぐにも隠居を致しますよ。……大小サラリとほうり出し、手鎌をお取りなさいまし。そうして沢山作るんで、椀や茶盆や茶筒をね。そうしてあなた方お二人も、お子様をおこしらえなさりませ! 木地師の頭三世をね! 生めよふやせよ、ホイ、ホイ、ホイ……」
機嫌よくしゃべって走って行く。
「それにしても君尾様をあずかった、銅兵衛どんの死んだのは、私にとっては悲しみで。いい兄貴でございましたよ。だがマアそれも仕方がない。人間一度は死ぬものだ。生きているうちにお働き! ホイ、ホイ、ホイ、いいお天気! 明るいなあ、何もかも!」そこでうたい出したものである。「明るくなければいけません!」
「驚いたなあ」と広太郎、駕籠の中で胸へ腕を組んだ。
駕籠の中で腕を組んだ広太郎、考え込まざるを得なかった。
「ほほうそれではお京様は、そんな身分であったのか。紀州大納言家妾腹の息女、なるほどなあ。それだからこそ、あんなにも品位が備わっているのだ。……だがそれにしても、小松原の家の娘になったのはなぜだろう? いやいやこれとてもよくわかる。つまり紀州大納言家から、親知らずで戴いて来たのだろう。……それにしてもだ。杉窪の里の、銅兵衛殿の娘ごの、君尾様までが同じように、紀州家の息女であろうとは? まるで俺には夢のようだよ。そうすると俺は双生の姉妹から、愛されたことになるのだなあ。そうしてこっちからも愛したってものさ。なんだかちょっと変な気がするなあ」こそばゆく笑ったものである。「さてところでこの俺だが、これからどうしたものだろう?」考え込まざるを得なかった。「江戸へ帰って武士になるか? 山に残って木地師になるか? ……お京様は山からは出られない。永久山中にいなければならない、でもし俺が武士を選び、山を下って行くとすれば、お京様とは別れなければならない。これは俺には苦痛だよ」なお広太郎考えた。「恋人をつかむか武士をとるか? 二道煩悩というやつだなあ」かなり迷わざるを得なかった。「それはそうと君尾様だが、俺を思っているかしら?」君尾のことを考えた。「明るい性質のあの娘、おれを思っているにしても、やがては忘れてくれるだろう。そうだたいして悩みもせず。だからあの娘を見捨てても、それほど不徳にはならないだろう。……さてところでお町だが……」お町のことを考えた。「あの娘の素姓こそ、俺には全然見当がつかない。……命の恩人というところで、たしかに俺もあの娘を、最後には真剣に愛したが、しかし元々二人の恋、変則なものと認めていい。だからあの娘を見捨てても、良心の苛責に悩むこともあるまい……。そこでやっぱりお京様だ」お京様の身の上へ返って来た。「これこそ本当の恋人だ。その本当の恋人が、すぐ手近にいるではないか。つかまないのはばかだなあ。しかし」とここで考えた。「完全につかませてくれるかしら? 心とそうして身体とを」なんとなく不安に思われた。「神聖神聖としたお嬢様、処女処女としたお嬢様、そこまで愛しているかしら? それさえわかれば決心する! なんと邪魔ッけな大小だ。駕籠に乗るにさえ厄介だ。うるさい威儀も体面も、この大小があればこそさ。なんの捨てるに惜しいものか」
ヒョイと駕籠から首を出した。眼の前にお京様の駕籠がある。そこからのぞいているお京様の顔! 二人の眼と眼がぶつかった。
「よし」と広太郎つぶやいた。
「これできまった。山にいよう」
だがいったいどうしたんだ? 何が決心をさせたんだろう? なんでもなかった。お京様の眼に、涙が光っていたからである。
木地師の大軍走って行く。正午となった、昼飯だ! それを済ますとまた旅行! 「ホイ、ホイ、ホイ、……ホイ、ホイ、ホイ」機嫌のよいのは将右衛門、真っ先に立って走って行く、掛け声にさえ活気がある。
今日のいわゆる日本アルプス、そっちへ走って行くのである。楽しい生活、彼らにあれよ!
さて倏忽と月日が経ち、冬が信濃へ訪れてきた。雪に蔽われた富士見高原、寒々として真っ白だ。そこへ現われた二つの人影、虚無僧姿のイスラエルのお町、道中師風の早引の忠三。
ふもとの方へ下って行く。
麓の方へ下って行く。サクサクサクサクと音がする。踏まれて雪がきしるのである。雪が反射する真昼である。窪地の蔭がむらさきに見える。地上二、三尺の空間には、虹がポーッと立っている。烏! 梢に止まっている。物思わしそうに鳴こうともしない。
「ねえ忠三様」とお町がいった。なんとやさしい穏やかな、そうしてつつましい声なんだろう。
「やっぱりお祖父様はご最後になって、神様を信じたのでございますわねえ」
「はいさようでございますとも。イマニエル司僧様はお逝くなりになる時、昔どおりの信者になられました」なんと忠三のそういった声も、つつましく真面目のことだろう。
「でもお祖父様はご自分のためには、しまいまでお祈りをしませんでした」
「お嬢様のおためには祈られました」
「神よ、私をおにくしみください。しかし憐れな孫娘ばかりは、どうぞお守りくださいまし! こうお祖父様はいいましたのね」
「はいさようでございました。でも神様は司僧様の霊をも、天国へ導かれるでございましょう」
「でもお祖父様はいいましたわ、『ああ俺だけは地獄へ堕ちよう』と」
「だから天国へ参られます」
「どうぞ天国へ行かれますよう」
雪を踏んで二人歩いて行く。二人の影法師が雪へうつる。見送っているのは山々である。さむざむと白無垢をまとっている。
「予感があたって袴様とは、お逢いすることができませんでした」お町の声はむせぶようである。
「一日違いでございましたな。残念なことをいたしました」
「木地師に連れられて袴様、どこへおいでになられたやら! ……」やはりむせぶような声である。「でもよいことを致しました。この富士見へ来たばかりに、なくなられた筈のお祖父様と、お目にかかることが出来ましてね」
「そうしてお看護をなさいました」
「ああそうしてお葬式をね」
「滝壺の中で司僧様、天童様とご一緒に、眠られることでございましょう」
「お二人ながら唐櫃の中で」
「原の城から逃げられた時、身を隠されて来た唐櫃の中で」
「ああ何もかも元へ帰った」
二人ふもとへ下って行く。裾の辺を風が吹く。茫々とした冬の風だ。
「それにしてもイマニエル司僧様は、立派な豪僧でございましたよ」忠三の声には感激がある。
「あの二本の巻軸の秘密も、どうやら解けたようでございますね」
「みんなお祖父様の細工でしたのね」
「それも悪気からではございませんでした。布教のおため! でございました」
「そうしてお祖父様はその『ため』に、心を食われてしまいました」
「ご熱心からでございます」
「そうして背信者になったのね」
「人間性があり過ぎましたからで」
「あのむごたらしい懺悔生活も。……」
「人間性があり過ぎましたからで」
山々がだんだん高くなる。次第に二人は下って行く。
「お町様!」と不意に忠三がいった。「これからあなたはどうなされます」
「これをね」とお町は胸をさした。「埋ずめに行きますの、ご遺言通り!」
メダルと並んで小さな箱が、お町の胸へかけられてある。
メダルと並んで小さな箱が、お町の胸へかけられてある。
何がはいっているのだろう?
「ああお髪でございましたね」
こういったのは忠三である。
「お祖父様のね。……唯一の形見」お町の声は泣いているようだ。
「そうしてご遺言とおっしゃるのは?」
「『お前のお母様のメダルと一緒に、故国の土へうずめるように』これがご遺言でございました」
「故国?」と忠三は不思議そうにきいた。
「スペイン!」とお町がすぐ答えた。「お祖父様とそうしてお母様のお国!」
「海のあなただ! 遠い国だ!」
「妾そこへ参ります」
忠三はじっと考えた。「私もお供を致しましょう」
「どうぞね、お願い致します」
「参りますとも、僕となって」
「いいえ、仲のよいお友だちとして」
「そうしてスペインでくらしましょう」
「ええ、神様にお仕えして」
「まずとりあえず江戸へ帰り、旅の仕度をいたしましょう」
「花ちゃんとそうしてネロちゃんを連れてね」
「そうして南蛮屋を片付けて」
「東海道を下りましょう」
「まず長崎へ! それから船で!」
「スペインへねえ! スペインへねえ」突然お町は眼をおさえた。「空しいものを追っていました! ああ妾は、空しいものを!」
「巻軸?」と忠三きき返した
「袴様! 袴様! 袴様!」
その声が高原をはって行く。木精が袴様! と返って来た。
「おあきらめにならなければいけません」忠三の声は病んでいるようだ。「お嬢様ばかりではございません。誰もかもそうなのでございますよ。空しいものばかり追っております」
「袴様!」ともう一度呼んでみた。お町! と呼び返す声はしない。袴様と返るばかりである。
二人トボトボと歩いて行く。サクサクサクサクと雪がきしる。雪を持った木々が二人を迎え、雪を持った木々が二人を送る。
と不意にお町がいった。「でも妾は慰められます。しぶきが舞い込み、しずくが落ちる、あの滝の裏の岩室の中で、五年もの間苦しまれた、お祖父様のことを思いますとねえ」
「そうしてそこで私達も、幾月かくらしたではございませんか」
「それが私達をかえてくれました。よい人間へ! 真面目な人間へ!」
「そうして私達に教えてくれました、懺悔生活というものを」
「懺悔しながら暮らしましょうねえ」
「そうして前途へ希望を持って」
「ええ」とお町はうなずいた。しかしまたもや眼をおさえた。そうして声をしぼったものである。
「ああ袴様は! ……妾をすてて!」
忠三には何ともいえなかった。ただ同じように眼をおさえた。
と、お町振り返り、今来た方を眺めやった。
「日本を離れたら二度と再び、こんな所へは来られない。よく見ましょうよ、忠三様!」
眼界の限り真っ白である。起伏して山々がうねっている。巨大な大理石の墓のようである。
まさしくそれは墓場であった。イマニエル司僧と天童の! そしてお町の悲しい恋の!
やがて二人はふもとへおり、甲州街道へ足を入れた。彼らは間もなく異国へ行こう。二度とこの国へは帰って来まい。神よ! この世におわすなら、苦労しながらむくいられなかった、可哀そうなお町の前途にだけでも、その恩寵ありますよう!
慶安四年四月二十日、晩春初夏の物憂い日、
「天草一揆! 吉利支丹の奴ばら! 虐みに来おる! 許してくれ!」
物狂わしく叫びながら、将軍家光薨去した。年齢四十八歳である。
千代田の内外大騒動、大名旗本総登城、だが家綱職を継ぎ、功臣名将輔佐したため、シ──ンと天下治まった。しかしもちろんその底において、一味の不安脈々と、波打っていたのはいうまでもない。
同じ月のある日のこと、朱舜水屋敷から二挺の駕籠が供揃い質素にかつぎ出された。着けられた所は紀州屋敷、駕籠から出たのは光圀と君尾、スーッと奥へ通って行った。
紀州家の客間、主客二人。──
「光殿、厚くお礼をいう」こういったのは紀州頼宣、感慨深い表情である。
「偶然お助け致しましたまでで。しかし伯父上のご落胤とは、夢にも想像いたしませんでした」光圀微笑をしたものである。
「そうであろうな」と紀州頼宣、これも微笑を浮かべたが、グルリと君尾の方へ膝を向けた。
「済まなかったな、苦労をさせて」
「はい。……いいえ」と君尾はいった。つつましく両手は揃えたが、明るい心の彼女である。苦労した様子などは見えなかった。「いつも楽しゅうございました」──といった様子である。
「さて」と改めて光圀が、頼宣へ話をしかけた時には、すでに君尾は座にいなかった。侍女たちにかしずかれて別の部屋で、もてなしを受けていたのである。「少年の私、伯父上に対し、このようなことを申し上ぐるは、差し出がましゅうはございまするが、特にご免をこうむりまして……」
「ははあ」と頼宣トボケた顔で、「どんなことかな? 話すがいい。いやいや光殿は年こそ子供、が心は立派な大人。遠慮はいらない、お話しなされ」
「大猷院様にもご薨去のみぎり、天下なんとなく騒がしく、人心恟々のおりからでござれば、なにとぞ伯父上におかれましても、由縁の知れぬ浪人など」
「ああ正雪、丸橋の徒か」
「あまりお近づけ遊ばさぬよう」
「よろしい!」と潔く引き受けてしまった。「わしもな」とそれからいい出した。「従来は少しく思うところあって、正雪、丸橋、吉利支丹の徒、郷の長だの里の長だの、いろいろの者を手なずけはしたが、少し前から心が変り、今ではむしろ五柳先生の仲間、隠遁しようと致しておるよ」
「安心いたしましてございます」
「南海の龍、衰えたよ」
「いえいえ龍は沈潜してこそ、尊くもあれば人にも恐れられ」
「朱舜水先生のお仕込みだの」
「これは」といって笑ってしまった。
「アッハハハ」と磊落に、紀州頼宣も笑ったが、「そのくせわしは風雨を起こし、天上しようと心掛けたものさ」
「物騒千万に存じます」
「ナニ落っこちたから平和だよ」
「落っこちになりました原因は?」
「やくざな二本の巻軸のためさ」
「ははあ」といったが光圀には、なんの意味だかわからなかった。
「よろしい。ひとつ、話してやろう」頼宣そこで話し出した。
「因果は巡る小車の……といったような金言があるの。だが金言というやつは、それ自体では値打ちがなく、逆理において値打ちがあるらしい。運は寝て待てという金言があるが、なんのやっぱりいい運は、起きて働かなければやって来ないらしい。因果は巡る小車の! だがこいつだけは本当だったよ。そいつにぶつかったというものさ」紀州頼宣こんな調子に、淡々として話し出した。「俺はな、最近まで野心家だった。目を付けたのがキリシタン宗徒さ。神のためならどんなことでもする! その熱烈の信仰ぶり! よしよしそいつを利用してやろう! で、様子をうかがったものさ。一人の傑物が現われた、イマニエルというスペイン僧だ。そこで早速手なずけたものさ。そいつの娘を側室にし、その代わり千代田の絵図面を、そのイマニエルにくれてやった。きゃつそいつを望んだからな。その娘の名をイサベラといった。そりゃア実際美人だった。肌なんかたいしたものだったよ。そこでわしはメチャメチャに愛した。ところがここに困ったことは、そのイサベラめ神の僕でな、わしを改宗させようとしたものさ。わしは改宗しなかったよ。そんな必要がなかったからさ。わしに必要なのは宗教ではなくて、キリシタン宗徒の団結心だったからな。それでとうとうイサベラめは、ひどく煩悶をして暇を取って帰った。子供があったっけ、町姫というな。そいつも連れて行ってしまった。惜しかったがどうも仕方がなかった。その後イサベラめは原の城で、殉難したということだ。さてところで原の城だが、そこへ一揆があつまった頃から耳よりな噂が聞こえてきた。というのはほかでもない。莫大な財産のあり場所を、明細に記した巻軸を、持っているという噂なのだ。よしよしそいつを奪い取ってやろう! そこでな、わしはこっそりと、二人の家来を入城させた。銅兵衛という杉窪の長と、将右衛門という木地師の頭だ。……そのうち原の城は落ちてしまった。二人の家来からはたよりがない。すると去年の秋だったが、由井正雪めがやって来て、その巻軸を見せてくれたよ。なんというこいつばかなことだ! わしがイマニエルへくれてやった、千代田の城の絵図面じゃないか! そこでわしは感づいたものだ。こやつイマニエルめ、細工をやったなと! つまりイマニエルめ、そいつを種にそんなおとぎばなしをこしらえあげ、宗徒の結束をかたくしたものさ。……人間の仕事ってこんなものだ! わしはつくづく思ったものさ。自分で穴を掘って自分で落ちる! でにわかにいや気がさし、ポンと野心まで捨ててしまったのさ。アッハハハなんと光殿、そんなものではござらぬかな」ここで頼宣薄ら笑いをしたが、「いやもうこんな過ぎ去ったことは長く話すにも及ぶまい。光殿、光殿」と呼びかけた。「発掘旅行へ行かれたそうだが、めぼしい獲物があったかな?」
「はい、死蝋を発見しました」
「ほほう、死蝋? それは珍しい。話には聞いたが、見たことはない。もちろん持って帰られたろうな」
「いいえ」と光圀残念そうに、「相好あまり美しく、それに神々しゅうございましたので、朱舜水先生が仰せられました。手に取らぬがよい。そっとして置けと」
「全くそうだ」と紀州頼宣、何を思い出したか膝を打った。
「美しいものへは手を出してはいけない。意外に手傷を負うものでな。君尾の母、志乃という女、美人だったので手を出したところ、たちまちひどい目に逢ってしまった。やっぱりキリシタン信者でな。暇を出さなければならなくなったのだよ。ところで」
と頼宣けげんそうにした。
怪訝そうにした紀州頼宣、こう光圀へきいたものである。
「光殿、光殿。それにしても、君尾がわしの落胤だと、どういう所から探り出されたかな?」
「はい」と光圀微笑したが、「杉窪の銅兵衛臨終の際、伯父上へこのように申されましたそうで、『殿、殿、姫君を奪われました』と」
「ああそうそう、そういったよ」
「里人がそれを聞いておりまして、最近に知らせてくれました」
「そうであったか。よくわかった」それから心でつぶやいた。「町姫や京姫はどうしているかな?」それからなおも考えた。「たった一度だ。鸚鵡を使い、変なたのみをして来たが、爾来町姫消息がない。江戸にいるかな? あってみたいものだ。──そうだ、あの時のたのみだったが、わけのわからないものだよ。島原という老修験者、正雪屋敷にとらわれている。是非とも許してくれるように! これ以外にはなんにもなかった。──おれをうらんでいるかもしれない。……ところで京姫だが、今から思うと、将右衛門に預ける必要はなかった。正雪一味と手を切ってみれば、謀反人にされる気づかいもなく、家の潰れる気づかいもない。血統の絶えるような心配もない。山などにやらずに手近の所で、こっそり養育すればよかった。……だがマアマアそれもよかろう。山で気楽に暮らされるならな」ヒョイと光圀へ話しかけた。「光殿、しかし困りましたよ。君尾の母はキリシタン信者。柳営への恐れどうしたものかな?」
すると光圀、老成的態度で、「水戸家でお預かりいたしましょう」
「が、それでは同じことだ」
「朱舜水先生のお手もとで」
「ああなるほど。それならよかろう」安心したような様子であった。
同じ年の七月となった。その時起こったのが慶安謀反! そうしてこれは失敗した。頼宣卿が手を引いたのが、最大の原因ではあったけれど、直接の原因は忠弥の短慮と、奥村八左衛門の裏切りとにあった。天草時行の先見が、ピタリと当たったということになる。その時行だがどうしたろう? 処刑された人数の中にもいない。彼、老獪逃げてしまったらしい。しかしその後も彼に関しては、なんら評判が立っていない。歴史の前にも現われていない。しかしこれは当然である。由来歴史というものは、明るい往来の真ん中で、花やかに大きく成功したものか、花やかに大きく失敗したものかの、外的行動ばっかりを、書き記したものにすぎないからである。天草時行陰性の梟雄、いつも薄暗い露路に巣くい、金儲けばかり考えている玉だ。で、恐らくその後といえども、やはりどこかの露路に巣くい、「儲からんもの、万事悪い!」──などと例のみつ口で、ネチネチと部下にいい含めながら、金儲けをしたということは、保証をしてもよさそうである。
それはとにかく、慶安騒動で、江戸が動揺をしている最中、日本橋の真ん中で、夏の熱い日を浴びながら、こんなことを話している人物があった。
「お京様をご存知ではありますまいか?」
「存じませんでございます。……君尾様をご存知ではございますまいか?」
「存じませんでございます」
臼井金弥と文三である。またパッタリ逢ったらしい。今だに探しているらしい。よろしい。探せ三十年も! だが絶対に目付かるまい。
「お父上、書面が参りました」
こういったのは舞二郎。
「なに、書面、どこからだな?」
こうきいたのは平左衛門。
小松原家の裏座敷、庭に夏の陽があたっている。
「珍しい人からでございます。飛脚が持って参りました。袴広太郎殿とお京との連署で……」
「なるほど、珍しい。どれ拝見」
父子二人の眼の前へ、一通の書面がひらかれた。
「おなつかしいお父上様お兄上様」お京の書面にはこう書いてあった。「紀州大納言家の妾腹の姫、それが本当かも知れません。でも妾はどこまでも、小松原家の娘でございます。その方がうれしいのでございます。おなつかしいお父上様お兄様! でも妾はただ今では、木地師の娘でございます。そうしてそれが妾には、決して不幸ではございません。妾は大変かわりました。たっしゃになったのでございます。高い山の上に住んでおります。森でも林でも広野でも、どんな所へでも歩けます。いくらか肉付きがよくなりました。贅肉付いたのではございません。固肥したのでございます。炎天にさらされて飛び廻っております。でも、ちっとも陽に焼けません。でも血色はようございます。粗末な食べ物をいただいております。それがマアなんて美味いんでしょう。よい景色でございます。緑が谷を埋めております。十里二十里三十里、そんなにも森林がつづいております。いろいろの獣やいろいろの鳥が、そこに平和に住んでおります。谷川にはハヤがいます。ああそのハヤがピョンピョンと、水面へ飛んで陽に光る時、どんなにどんなに可愛いでしょう。手裏剣のようでございます。なんてここには花が多いんでしょう。野生の野花でございますが、造った花よりずっとずっと、綺麗で清らかでございます。朝な朝な妾は花の香で、むせかえるほどでございます。お月様が上ると三倍に見えます。空気のかげんでございましょう。雨後にあらわれる大きな虹は、山から山へ橋をかけます。それこそ本当に渡って行けそうなほど、はっきりした虹でございます。でも妾は決して決して、遊んでばかりはおりません。働いておるのでございます。朝起きるとすぐに仕事場へ行きます。いろいろの物をこしらえます。なんて立派な仕事でしょう。この頃つくったものでございます。大きな滝が落ちております。大きな車が廻っております。それがいろいろの細かい機械を、クルクルクルクル動かします。誰もかもみんないい人です。でも一つだけ困ることがあります。たれもかもがみんな妾を、あんまり尊敬しあんまり親切にし、女王様にすることでございます。断わっても承知してくれません。妾は女王でございます。ですから人より倍も二倍も、立ち働かなければなりません。働くってなんていいことでしょう。何もかも忘れてしまいます。つまらないいやな思い出など! 昨日峰の方へ上りました。お花畑の花盛り! うっとりするようないい景色! 敦盛草を摘んで来ました。書面に封じてお目にかけます。お父上様お兄上様! お目にかかりとう存じます。どうぞお出かけくださいまし。あのそれからもう一つ、嬉しい恥ずかしい出来事が、わたしの身の上に起こっております。でもそのことはわたしの良人から、申し上げることと存じます。これからもお消息を申し上げます。なつかしいお父上様お兄上様!」
「友よ!」と広太郎は書面の中で、親しく舞二郎を呼びかけていた。
「友よ僕の妻は受胎した」広太郎の書面はこう書いてあった。「僕達二人の結婚については、あるいは是非とも君達父子の、許しを得なければならなかったかもしれない。では許してくれたまえ! その後の僕達の経歴については、とても書面では書きつくせない。まして心的変化などはね! だから君達にお願いする。是非とも二人で打ち揃って、僕達の郷へいらっしゃいと! で詳細の地図を添えた。僕は待っている。妻も待っている。僕らの仲間はみんな待っている。でここでは簡単に書こう。僕はその後いろいろの場所で、実にさまざまの経験をした。そうして最後におちついたのさ! 木地師の大将という今の位置にね。もしこの僕が剣侠なら──剣侠だったとは思わないがね、──剣侠未練なく剣を捨てたのさ。そうしてハンマアを取ったのさ。これが現在の生活だ。友よ実際剣というものは、いついかなる時代でも、捨てがたいもののように思われるねえ。つまり護身という意味において。だがはたしてそうだろうか?
護身護身といいながら、人ばかり斬るのはどうしたものだろう?
だがマアマア理屈はやめよう。とにかく剣というものは、ひどく捨てがたいものらしい。だから捨てなければならないものさ! そこで僕は捨ててしまった。人間として飛躍したよ。だって友よ、そうではないか。ぶちこわす方から足を洗って、造り出す方へ向かったんだからね。僕は非常に楽天家になった。ふさぎの虫なんかけし飛ばしてしまった。それは環境がいいからだ。木地師というものの生活は、全く人を神経質から救う。君は学者だ。やって来たまえ! 木地師なるものを研究してみたまえ。きっと得るところがあるだろう。ところで君はきくかも知れない、何をいったい造り出すのかと。荒々しい自然生の樹をたおし、人間に端的に必要な、日用品を造り出すのだよ。これは実際いいことだよ。『芸の術』という名のもとに、つや布巾をかけ、とくさをかけ、小粒な、まるまっちい、ピカピカ光る──そうでなければいぶし銀的の、たいして要でもない小道具類をつくり、威張りっこをするのが流行している、きょうこの頃の浮世には、わけてもこれはいい事だよ! だがマア皮肉はやめにしよう。妻はどうやらこの書面で、いかにも女性らしい美しい、自然描写をしたらしいが、そういうところもこの土地にはある。だが本当をいう時は、この土地の自然は雄渾で、男性的で荘重だよ。暴風の晩など想ってくれたまえ! 大森林がほえかかって来るよ! 大雪崩の真昼を想ってくれたまえ! おおかみの群れが逃げ込んで来るよ! そいつらと僕は戦うのだ! そうしていつも僕らは勝つ! くらしにくいという議論が起こって、くらしにくさがより一層、人間の身に感じるらしい。下界の生活がそいつだよ。ところでここには議論がない。だからくらしは大変楽だ。将右衛門という老人がいる。随分愉快な老人で、これまでの木地師の大将なのさ。ところが今では隠居して、その席を僕に譲ってくれた。隠居のくせによく働く。この老人には感化されたよ。この老人を見るだけでも、友よ、やって来る必要があるよ。では友よ──義兄だったね! 君の父上平左衛門殿へ──そうそう僕にもお義父さんだったね? どうぞよろしくいってくれたまえ」広太郎の手紙はこれで終わった。
二人は顔を見合わせた。
「行こう舞二郎!」と平左衛門はいった。「わしは老年だが大丈夫だ。山駕籠へ乗ったら行けるだろう」
「行きましょう行きましょう!」と舞二郎がいった。「私も病身でございますが、山駕籠へ乗ったら行けますとも!」
数日経ったある日の早朝、小石川掃除町の小松原屋敷から、二人の武士が旅立った。ほかならぬ平左衛門と舞二郎、歩けるだけは歩いて行こう。山道へかかったら駕籠へ乗ろう。で、ひろって行くのである。娘と婿とに逢う旅だ。妹と義弟とに逢う旅だ。二人の顔には喜色があり、二人の歩みには活気がある。真夏の早天水蒸気を含み、胡粉をとかしたように生白い。しかしその奥には蒼々とした、明るい希望そのもののような、晴天が約束されてある。
「舞二郎や、地図を持っているだろうね」
「はいはい持っておりますとも。……敦盛草をお持ちですか」
「持っているとも持っているとも。娘から送ってくれた花だからな」
うれしそうに二人話して行く。旅人の姿がチラホラ見える。憂いを持っている旅人もあろう、悲しみを抱いている旅人もあろう。だが二人には誰もかもが、みんななつかしく思われるのであった。やがて二人は木曽街道へはいった。信濃と越後の国ざかい、乗鞍岳の大渓谷、そこに出来ている木地師の郷、そこを眼差して行くのである。袴広太郎とお京とが、そこに待っているのである。四人逢った時の光景は? 愛情深いものであろう。そうしてそういう光景は、かえって描写しない方が、情趣を深めるに相違ない。とまれ二人は歩いて行く。下板橋からわらびの方へ、浦和から大宮、上尾の方へ。道には野茨、香水のようなにおい!
さて二つ三つの蛇足を加え、この物語大団円としよう。二本の巻軸は紀州頼宣から、イマニエル司僧へくれたもので、巨宝存在の伽話をつくり、宗徒の結束をかためたのも、ほかならぬイマニエル司僧であった。しかし司僧はその後において、鮮血地にして余りに悲惨な、殉難宗徒のありさまを見、唯一なるものを疑うようになり、おりから負傷した天童もろとも、戦死といつわって唐櫃へ隠れ、原の城を脱出し、富士見高原へ行ってしまった。内情を知っていたのは将右衛門と銅兵衛。二人ながら頼宣の腹心であったが、入城以来心が変り、イマニエル司僧の信者となった。だがそれにしても木地師の将右衛門、なぜ二本の巻軸へ、隠語など認めたものだろう? 自殺者が自殺をする場合、何かこの世へ痕跡を残す! それと全く同じ意味で、あれだけの隠語を書いたまでである。その後に原の城をぬけ出したのが、杉窪の長の銅兵衛で、かれはその時思ったものである。「隠語が浮世に現われたなら、また一騒動起こるだろう。イマニエル司僧様や天童様が、詮議されないものでもない」で盗み取って焼きすてようとしたが、生憎一本しか手に入らず、それを持って故郷へ帰ったが、その後も探していたのである。もう一本の巻軸を、手に入れたのが時行で、これは真実その巻軸に、巨宝のありかが書いてあるものと信じ、さらにもう一本の巻軸を、目つけ出そうとしたのである。いやいや時行ばかりでなく司僧と将右衛門、銅兵衛以外のものは、みんなそんなように信じていたのである。
ところで天童とは何者であろう? 天草一揆の表面の大将、天草四郎時貞であると、解釈するのはどうだろう? あまりに荒唐無稽かしら? とまれその後山崩れが起こり、湛慶滝も、富士見の高原から消えてしまった。残るは伝説ばかりである。正雪、時行の連合軍へ、イマニエル司僧や将右衛門が、唐櫃を見せるのを拒んだのは、死蝋となった天草時貞を、唐櫃の中へ封じ込め、滝壺の中へ隠してあったからで、聖なる犠牲者の墓をあばくことは、何者といえども欲しないのではないか。
底本:「剣侠受難(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年4月12日第1刷発行
「剣侠受難(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年4月12日第1刷発行
初出:「東京日日新聞」
1926(大正15)年5月28日~11月14日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2020年3月28日作成
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