それでも私は行く
織田作之助



四条河原町




 先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人なら誰でも知っていよう。

 しかし、なぜその町──四条大橋の西詰を鴨川に沿うてはいるその細長い路地を、先斗町とよぶのだろうか。

「ポントというのはポルトガル語で港のことだ。つまり鴨川の港という意味でつけた名だと思う」

 と、ある人が説明すると、

「いや、先斗町は鴨川と高瀬川にはさまれた堤だ。堤は鼓だ、堤の川(皮)はポント打つ。それで先斗町という名が出たのだろう。小唄にも(鼓をポント打ちゃ先斗町)とあるよ」

 と、乙な異説を持ち出す人もある。

 鼓がポンと鳴れば、やがて鴨川踊だ、三階がキャバレエ「鴨川」になっている歌舞練場では三年振りに復活する鴨川踊の稽古がそろそろはじまっていた。

「君の家」の君勇は稽古に出掛けようとして、

「……通い馴れたる細路地を……」

 と、昔、はやったが今はもう時代おくれになってしまっている鴨川小唄の一節を、ふと口ずさみながら、屋形の玄関をガラリとあけて出た途端、

「あら──」

 と、立ちすくんだ。

 路地の奥から出て来た、まだうら若い美貌の学生の姿を見つけたのだ。

 帽子の白線は三本、桜の中に三の字のはいった徽章、先斗町の「桔梗家」から吉田の三高へ通っている梶鶴雄といえば、この界隈で誰ひとり知らぬ者はない。──しかし、お茶屋の息子で三高生というのが珍らしいというわけではなかった。

 今は「桔梗家」の女将だが、鶴雄の母親はかつて美貌をうたわれた先斗町の名妓で、その血を享けているせいか、鶴雄は女たちにぞっと寒気を覚えさせるほどの美少年だった。そんな意味で知られているのだ。

 だから、君勇もすらりとした鶴雄の長身を一眼見るなり、それと判ったが、なぜかふと赧くなった。

 そして、一寸頭を下げて、すれ違いかけたが、何思ったのか、急に引き返すと、

「ぼんぼん、どこイお行きやすンえ……?」

 そう言いながら、十七の歳より体を濡らしはじめて、二十三の今日まで、沢山の男に触れて来たせいか、むっちりした肉づきに、したたるような色気をたたえた肩を、いきなりどすんと鶴雄の肩に寄せて行って、

「わてもその辺までお伴させとくれやすな」

 うっとりした眼で、鶴雄の顔を覗き込んだ。

 そしてぱっと小娘のように赧くなった、髪の毛がふと鶴雄の頬に触れた。

 鶴雄はつんと身を引いて、

「その辺ってどの辺だ」

 ぶっ切ら棒に言った。

「どこイでも、ぼんぼんのお行きやすところへ……」

「だめだ!」

「なんぜどす……」

 と、君勇がきき返すと、鶴雄はふとためらったが、やがて睫毛の長い眼で、ちらと睨みつけるように君勇の横顔を見ると、

「女に会いに行くんだ」

 それにしては随分野暮ったい調子で、ずばりと言って、すたすた歩き出した。



「えっ……?」

 と、君勇は立ち停った。

 鶴雄が女に会いに行くなんて、そんなばかな……と、唇を噛んだ。

 色町で育ったけれど、いや、それだからこそ一層、鶴雄は品行が良かった。はにかみ屋のせいか、自尊心が強いのか、自分から女に話し掛けるようなことはなく、女ぎらいで通っていた。──もっとも二十歳の鶴雄にわざわざ「女ぎらい」という形容が大袈裟だというなら、純潔といいかえても良い。

 環境が環境だし、それに美貌だし、人一倍誘惑が多い筈だが、鶴雄は固く身を守って来た。女の肌を知らず、甘い囁きも知らぬ純潔さが、しかし爛れ切った玄人女にとっては、何か焦燥のような魅力であった。

 ところが、鶴雄が女に会いに行く、誰か女を愛している……。

 自分より先に鶴雄を奪ってしまった女がいるのかと思うと、君勇は取りかえしのつかぬ想いに重く沈んで、もう鶴雄に随いて行くことも忘れて、ぽかんと後姿を見送っていた。

 その隙に鶴雄はさっさと路地を出て行ったが、四条の電車通りを横切って、もとの「矢尾政」今は「東華菜館」という中華料理店になっている洋風の建物の前まで来ると、急に立ち停った。

 四条通りを東へ行くか、西へ行くか、ふと迷ったのだ。

「女に会いに行くんだ」

 と、鶴雄が君勇に言ったのは、君勇をまくための咄嗟の言い逃れだったが、しかしまるっきり嘘でもなかった。

 東へ行けば円山公園、そこでは矢部田鶴子が、鶴雄の来るのを首を長くして待っている筈だ。

 十日ほど前まで鶴雄は三条の英会話講習会へ、月・水・金の夜の一時間、会話の練習に通っていた。講習生の中には十人ばかりの若い女もいたが、田鶴子はその中で一番美しく発音も巧かった。

 彼女は出版会社のタイピストをしており、ある夜、その出版会社から出ている雑誌を鶴雄に貸してくれたことが切っかけで、講習会場で顔を合わすと、時どき話し合うようになった。お互いの名の鶴の字のあることも、ちょっとした偶然として、話題になった。

 しかし、やがて講習会が済むと、もう顔を合わす機会もなく、鶴雄は簡単に忘れてしまった。

 ところが、田鶴子はいつの間にどこで鶴雄の住所を調べたのか、昨日いきなり速達の手紙をよこしたのだ。

「あれから毎日あなたのことを懐しく想い出しております。あなたは多分もうお忘れでしょうけれど……。おいやでなければ、もう一度お眼に掛りたいのです。四月二十日、十一時、円山の桜の下で待っております。(鶴)」

 こんな意味のことが英文のタイプで打ってあった。一寸気ざっぽい。

「なるほど、英語だと、恥かしいことも、案外平気で書けるわけだな」

 苦笑しながら、鶴雄は家を出たのだが、しかし、はっきりと田鶴子に会うという気持はなかった。

「東へ行こうか、西へ行こうか。──会うか会うまいか」

 大橋の袂に佇んで、鶴雄はハムレットのように呟いていたが、やがて何思ったのか、ズボンに手を突っ込んで、小さな象牙のサイコロを取り出すと、

「偶数が出れば東だ!」

 ひょいと掌の上へ転がした。



 サイコロは掌の上で一回転した。

「奇数だ!」

 鶴雄はにやりと笑うと、サイコロをズボンの中へ入れて、四条河原町の方へさっさと歩き出した。

 偶数が出れば、東へ歩いて行って、円山公園で待っている田鶴子に会うつもりだったが、「5」と出た以上、もう田鶴子のことは香車で歩を払うように簡単に、黙殺だ。

 黙殺してしまうと、サバサバした。

「──好きでもない女に会いに行くのは不潔だ」

 家の環境がたまらなくて、毎日外を遊び歩いている寂しさが、ふと好きでもない女の愛情にすがろうとしていた自分を、ちょろいぞと思った。だから、いつも行動を決しかねる時に振ってみるサイコロが、会いに行くなと決めてくれたことが、ふとうれしかった。

 一人歩きの自由さを、生暖い春風がふと快よくゆすぶってくれるようだった。

 しかし、木屋町通りを横切ると、鶴雄の眉はふと曇った、サイコロは西へ行けと教えてくれたが、しかしそれ以上の行動の見当がまるでつかぬのだ。

 今日一日何を成すべきか。それが判らない。哀れな現代の学生の病弊だろうか。たとえば、鶴雄のズボンには十円紙幣が一枚はいっている。これが今日の全財産だ。しかし、これをいかに有効に使うべきか、それがまるっきり判らぬのだ。

 それでも鶴雄は歩いて行く。

 四条通りはまるで絵具箱をひっくり返したような、眩しい色彩の洪水だった。

 去年の八月まで灰色の一色に閉ざされていたことが、まるで嘘のようなはなやかさである。

 敗戦国に焼け残った唯一の大都市だといってしまえば、それまでだが、しかし、この浮ついた、はなやかさは何か気ちがい染みている。人通りも多い。春のせいか、土曜日のせいか、いやらしいくらいの雑閙だ。

 その雑閙に揉まれながら、河原町の交叉点を横切り、疎開跡と広場まで来ると、人だかりがしていた。

「何だろう……?」

 と、思いながら寄って行くと、スピード籤の屋台が出ているのだった。

「そうだ。今日一日のおれの行動をスピード籤に賭けてみよう」

 と、鶴雄は咄嗟に呟いた。

 十円で五枚買って、五枚とも全部一等に当ったところで、合計五百円の賞金が貰えるだけだ、たった五百円、賭けというには、余りにしみったれているが、しかし、あり金全部の十円を賭けてみることで、今日一日の行動が方向づけられないとは限らない。

「まず賭けてみることだ」

 籤がすっかり外れて、一文なしになって、今日一日暮すのも面白い……。十円持ってぶらぶら倦怠の一日を送るのはつまらないじゃないか。

 そう思うと、鶴雄は行列のうしろに並んだ。

 五枚買うと、すぐその場で開いて見られるように、鋏を入れてくれた。

 鶴雄は屋台を出ると、当り籤の番号の掲示板の出ている前へ立って、何の感情もなく、一枚一枚開いて行った。



 掲示板には、上より順に一等、二等の番号が出ていた。三等は一桁の数字が2の番号、四等は5の番号だ。

 鶴雄は一枚ずつ掲示板と見くらべてみたが、三枚目まで全部はずれていることが判ると、もう掲示板を見上げるのも莫迦らしくなって、四枚目は一桁の数字だけ見て、破ってしまった。

 そして、五枚目。サイコロは5と出たのだから、せめて五枚目は四等の5の数字ぐらいは一桁についていそうなものだと、開いてみたが、1753……やはり駄目だった。

 苦笑して破ろうとすると、

「あら、だめよ、破っちゃ……」

 若い女の声がした。

 振り向くと、赤いブラウスを着た二十二三の女が、サージの黒ズボンに両手を突っ込んだまま、すくっと立って、ぶしつけに鶴雄の手の中を覗き込んでいた。

「それ一等じゃないの」

「へえ……?」

 びっくりして、鶴雄は掲示板を見上げた。1753……なるほど一等だ。

「ありがとう」

 鶴雄は屋台の中へはいって行った。そして百円紙幣を一枚貰って、ズボンに入れ、

「今日は奇数に縁のある日だ」

 と、呟きながら狭い屋台から出ようとすると、さっきの赤いブラウスの女が、いきなりつかつかとはいって来て、どんと突き当った。

「あら御免なさい」

 女は四等の景品の煙草を貰うと、屋台を出て鶴雄の方は見向きもせず、三条の方へさっさと電車通りを渡って行った。ハンドバッグも何も持たぬせいか、颯爽とした大股だった。

「ふん」

 と、鶴雄は鼻を鳴らして、

「──生意気な女だ」

 後姿を見送りながら、スピード籤の屋台の隣に出ている「悲願! 戦災者引揚者急援同盟」の慈善鍋のマイクから流れる声を、聴くともなしに聴いていた。

「──焼け残った幸福な花の都の京都の人々にお願いします。この美しい京の都にも、春にそむいた家なき十万人の戦災者引揚者が流れて来ていることを、忘れないで下さい。これらの気の毒な同胞を、幸福な京都の人々よ、一刻も早く救ってあげようではありませんか」

 鶴雄はその演説よりも、慈善鍋の立看板の方に心を惹かれた、数字が出ているからだろうか。

悲願! 戦災者引揚者急援同盟募金成績

第一回 七百五十二円三十銭 四月十三日 於円山公園

第二回 三百四十三円十銭  四月十七日 於嵐山

「なんだ。これっぽっちか。二日掛って、千円の寄附しか集らないのか。だから、京都はけちくさい、京都の人間は冷たいと言われるんだ」

 そう呟いた途端鶴雄の頭に、

「そうだ。今貰った百円をこの慈善鍋に寄附するという手もあるぞ。一寸いやみだが……」

 という考えがだしぬけに浮んだ。

 鶴雄はズボンに手を突っ込んだ。

 が、いつの間になくなったのか、百円紙幣がない。鶴雄は急に叫んだ。

「あッ、あの女だ」

 そして駈け出した。


木屋町



 西木屋町──。

 高瀬川の小さな流れに架った紅屋橋のほとりに、「べにや」というしるこ屋がある。

 この店のまわりは疎開跡の空地になっているが、ここだけは巧く疎開をまぬがれたらしい。店の軒には紅屋に因んだ赤提灯が、いかにも助かりましたという感じで、京都らしくぶら下っている。

 こぢんまりした綺麗な店で、竹で編んだ床几に、尻にかくれるような小さな坐蒲団がちょこんと置いてあり、柱には誰の句か、

「一力の焦茶の暖簾春の雪」

 と、赤い短冊が掛っている。

 ちかごろ京都の町々に急にふえて来た京趣味、茶室風のしるこ屋の一つだが、この店がほかの店と変っているのは、常連に先斗町の芸者が多いことだ。

 店のすぐ鼻の先が先斗町であるからだろうか、それともこの店が小鼓の家元の美貌の三人兄弟が男手だけで経営しているからだろうか。

 もしそうだとすれば、この三人兄弟を張りに来るその芸者を、張りにやって来る男の客ほど世に間の抜けたものはあるまい。

 例えば、流行歌手の望月三郎がそれだ。

 彼は京極の小屋へ明日から出演するため、今朝の汽車で東京から着くと、宿の番頭からこの店のことをきいて、早速やって来たのである。来てみると、なるほど芸者が三人はいっていた。

 望月はしるこをすすりながら、芸者の顔を一つ一つ検討してみたが、どれもこれも大した顔でもなく、色気もなさそうだと判断を下すと、がっかりしてしまった。

 それに、ますます彼を失望させたのは、芸者たちが全然彼に注目しないことだ。

「ちょっと、あの男はん、望月三郎え」

 と言って、うっとり自分を見つめてくれるものと、彼は確信していた。

 ところが、彼女らは、南座の芝居や、松竹座のチャップリンの映画や、接吻が出て来るという日本映画の噂ばかしして、明日から京極の小屋に出る望月のことは、口の端にも乗せず、おまけに見向きもしない。

 自分の人気と美貌にうぬぼれに近いくらい自信を持っていた彼は、すっかり自尊心を傷つけられて、

「君……」

 と、ボーイを呼んだ。勘定を払って出ようとしたのだ。

 その時、一人の芸者が暖簾をくぐって、

「今日は……」

 と、はいって来た。ちらと望月を見た眼が艶かしい。

 望月はあわてて、

「しるこ、もう一つ!」

 と、注文した。

「今日は……姐さん」

 さきに来ている二人の芸者が挨拶した。そして、一番若い妓が、

「──君勇姐さん、これからお稽古どっか」

 君勇は鴨川踊で呼物の「笠屋おせん」を踊ることになっていた。

「ううん」

 と、君勇は床几に腰を掛けながら、

「──今日は浮気休み」

 寂しく笑った。



「誰どんにゃ……? 浮気のお相手はんは……」

 鼻の低い妓がきくと、去年の十二月、大阪の新町から先斗町へ来て「進駐さん」といわれている芸者が、

「判ってまっしゃないか。桔梗屋のぼんぼんどすやろ」

 と、大阪弁と京都弁をチャンポンに使って言った。

 君勇が鶴雄に岡惚れしていることは「進駐さん」までが知っているくらい、評判になっていた。もっとも、そういう「進駐さん」自身がまるっきり「肩入れ」していないとは、断言できない。

「へえ……? ぼんぼん……? ほんとにそうなら嬉しいけど……」

 と、君勇はうたうように言って、

「ぼんぼんの相手はわてやおへん」

「ほな、ぼんぼんに好きな女子はんおすのンどっか」

 と、若い妓がすかさずきいた。

「大ありのコンコンチキ……」

「ふーん。そうどっか。誰どっしゃろ」

 と、鼻の低い妓は感に堪えていたが、急に、あ、そや、判ったと膝をたたいて、

「──ひょっとしたら、鈴子はんどっせ」

 鈴子は「文の家」から出ている十七歳の舞妓で、やがて襟がえをすれば、先斗町をうならせるだろうと言われるくらい、可愛いい顔立ちだった。派手な愛嬌はなく、どこか仮面のような冷かさがあったがしかしそれがかえって凛とした気品になっていた。かつて先斗町にからこという舞妓がいて、評判になったが、鈴子には往年のからこにはなかった清楚なういういしさがあった。

「鈴子はん……?」

 君勇は驚いて、

「──なんぞ証拠おすか」

「おすもおさぬも逢坂の関や」

 と、低い鼻をピクピクさせながら、

「──だいいち、鈴子はんが桔梗屋はんにはいりはるたんびに、ぼんぼん奥の間で、そわそわして、赧うなっといやす言うことどっせ」

「こりゃ聞き捨てならん」

 君勇はわざと蓮ッ葉な芝居口調になったが、声はさすがに弱かった。

 そして、ふと下を向いて、丁度そこへ運ばれて来たしるこをすすったが、やがて急に顔を上げると、

「──そんな浮気者とは知らなんだ。よし、向うが浮気なら、こっちも浮気……」

 と、もうキンキンした声になっていた。

「まずさし当って、誰とおしやすか。ヤーさんどっか、オーさんどっか」

「ヤーもオーもない、そこらにうじゃうじゃしてる男という男、片っ端から……」

 そう言いながら、君勇はさっきからじっと自分の方を見ていた望月へ、にやりと視線を送った。

「おやッ!」

 と、望月も思いながら、笑い返した。

「おあいそ」

 君勇は勘定を払うと、すくっと起ち上って、

「──お先イに。おーけに」

 表へ出しな、ふと振り向いた。

 望月はあわてて金を置くと、君勇のあとを追うて来た。



 紅屋橋を渡ると、さっと風が走った。

 君勇はちょっと腰をひねって、風が通るのを待ち、それから、鴨川湯の横を抜けて、先斗町の路地まで来ると、ふと思案するように立ち停ったが、やがて歌舞練場の方へ路地を歩いて行った。

 望月はうしろからつけていたが、しかし君勇はそれには気づかぬような歩き方であった。まるで望月のことを忘れて──いや、無視しているかのようだ。

 望月はいきなり足を速めて、君勇と肩を並べた。

「姐さん、どちらまで……?」

「…………」

 返辞はない。

「お伴しましょうかね」

「うふふ……」

 君勇は肩で笑って、

「──どこまで……?」

「どこへでも、姐さんの行く所まで……」

「ぷッ!」

 と、君勇はふきだした。

 さっきこの路地で、自分が鶴雄に話しかけた時のことを、想いだしたのだ。あれとそっくりだと笑ったのだが、しかし望月はそんな事情は知らない。

 望月はちょっと気を悪くしかけた。がしかし元来うぬぼれの強い彼は、自分の言い方が気が利いていたので、君勇が笑ったのだと、思うことにした。

 すると、自分でも何となく笑い声を立てながら、こうして笑い合ったことで、急に親しくなったと思い、ぐいと肩に力を入れて寄り添うて行った。

 君勇はつんと澄していた。

 が、歌舞練場の前まで来ると、

「おーけに、さいなら」

 と、云いざまに、とんとんと階段を上って中へはいった。そして、腹をかかえて笑った。

 望月は軽い当身をくらったように、ぽかんと突っ立って、間抜けた顔で見送っていたが、やがて、

「ちぇッ!」

 と、歩きだした。

 そして、三条大橋の袂から小橋の方へ折れて行った途端、彼は、

「おやッ!」

 と、眼をみはった。

 赤いブラウスに黒ズボンの女が、小橋を渡って木屋町へ上へ上って行くのを見たのだ。

 横顔がはっとするくらい美しい。

 望月はくわえていた煙草をポンと捨てると、その女のあとをつけて行った。

 女は小野屋旅館の玄関へ姿を消した。

 望月は思わずにやりとした。小野屋は彼の泊っている旅館なのだ。

 望月が小野屋の玄関へはいった時、女はもう二階への階段を上りかけていた。

 望月はあわてて靴をぬぐと、あとを追うて随いて上った。

 女は望月の部屋の隣へはいって、ピシャリと襖をしめた。

 望月は、

「しめたッ!」

 と思いながら、しばらくその襖を見ていたが、やがて自分の部屋へはいり、鏡を覗いていると、隣の部屋の襖をあける音がした。

 続いて、男の声がした。

「御免下さい。──御面会の方が……」

 番頭らしい。



「面会……?」

 と、赤いブラウスと黒ズボンの女──相馬弓子は眉をひそめた。

「──誰方でしょう……?」

「お名前はおっしゃいませんでしたが、高等学校の学生はんです」

 番頭がそう答えると、弓子は、

「高等学校……?」

 ふと蒼ざめて、窓の外の鴨川の流れに眼をやった。流れと白さと、堤の桜の若葉の緑が眩しい。

「──お通しして頂戴!」

 やがて、三本の白線のはいった穴だらけの帽子を無造作に掴んで、のそっとはいって来たのは、果して梶鶴雄だった。

「どうぞ!」

「ああ」

 ちょっと頭を下げて坐ったが、再び頭を上げた時の、やや蒼ざめた鶴雄の顔を見て、弓子ははっとした。

 青み勝ちに澄んだ眼は、睫毛が長く、鼻筋はきれいに通り、胸を病む少女のようにほっそりと痩せた頬には、深い笑くぼがあり、透きとおるように色が白い。紅顔可憐という形容が似合うのだが、しかし、じっと相手を見据える視線や、眉間の縦皺、きっと結んだ口元は、美少年型の鶴雄の顔に苦味走ったアクセントと、憂愁の陰影をつけていた。

 四条河原町ではそれほどにも思わなかったが、今こうして向い合って見ると、こんなに美しい学生だったのかと、意外だった。

「御用事は……?」

「実は……」

 と、口籠るのを、弓子はすかさず、

「取り戻しに来たんでしょう……?」

「そうだ」

 先を起されたので、鶴雄は些か自尊心を傷つけられた気がして、思わず野暮なドラ声を出した。

「返すわ。折角御足労を掛けたんだから」

 弓子はズボンの中から百円紙幣を取り出すと、鶴雄の前に置いた。

 すると、鶴雄はそれを押し返して、

「いや、これじゃない。サイコロだ」

「えっ……?」

「この百円はあんたのものだ」

「あら、どうして……?」

 弓子は不安よりも好奇心が湧いて来た。

「僕にはこの百円を受けとる権利はない」

「判らないわ」

「僕はあのスピード籤を破りかけてたんだ。それをあんたが教えてくれた。この百円は教えてくれたあんたが受け取る権利がある。僕は金に未練があって、やって来たんじゃないんだ」

 鶴雄がそう云うと、弓子は急に、

「あはは……」

 男のような声で笑い出した。

「何がおかしい……?」

 鶴雄はむっとして、睫毛の長い眼で弓子を睨みつけた。

「だって……」

 と、弓子はまだ笑いやまず、

「あなたが云ってるのは全然ロジックになっちゃいないわ」

 隣の部屋では、望月が二人の話にじっと耳を傾けていた。



「ふん!」

 鶴雄は鼻の先で笑った。まるっきり教養のない女とは見えなかったが、ロジックなどという言葉を使うとは些か意外でもあったが、しかし、それが少々いや味でないこともなかった。

「──どうして、ロジックになっていないと言うんだ」

「だって、教えたのはあたしだけど買ったのはあなたでしょう。破る破らないは、あなたの勝手だけど、所有権はたしかにあなたにある筈よ。もっとも、掏るという行為によって、一時この百円の所有権はあたしに移っちゃったけど、それもあくまで一時に過ぎないわよ。だから、取り戻しに来られたら、当然の権利として、あなたに返すわけよ」

「あんたは立候補すればいい」

 鶴雄は皮肉った。

「ありがとう、お妾出身の女代議士もあるんだから、掏摸出身の女代議士だって不思議じゃないわね」

「かえって乙かも知れない」

 鶴雄はにやりと笑ったが、すぐ生真面目な表情になると、

「──とにかく、この百円は僕は受け取りませんよ」

「あら、どうして……?」

「僕は金を貰いにやって来たんじゃない。そんな風に思われるのは心外だ。あの百円は掏られた途端に、あきらめたんだから、今更返して貰おうと思わない」

「へんな人ね」

 と、弓子は微笑して、

「──じゃ、何しにここへいらしたの……?」

「だから、言ってるじゃありませんか。サイコロを返してほしいと……」

 鶴雄が言うと、弓子は呆れたように、

「ますます変な人ね。サイコロそんなに必要なの……?」

「必要だ」

 きっぱりといったが、しかしふと赧くなった。なぜ赤くなったんだろう。

「必要なわけ、ききたいわ」

「つまらぬ好奇心を起さずに、さっさと返して下さい」

「言わなければ、返さない」

「なぜ、そんなに好奇心を起すんです」

「なぜ……?」

 と、弓子も赧くなって、

「──だって、あなたは好奇心を起さすような人なんだもの……」

 仕方がないわと、ますます赧くなった。こんな風に言うのは、娘の身として、はしたないかしら……。

「じゃその理由を言います!」

 と、鶴雄は坐り直すと、また、野暮な声を出した。

「──僕はあのサイコロがなかったら、東へ行っていいか、西へ行っていいか、判らないんだ。サイコロにきいてみなくちゃ、何にも行動できないんだ」

「ふーん」

 と、弓子は投げ出したズボンの膝をかかえながら、

「──おもしろいわね。だけど、理由ってただそれだけ……?」

 じっと、鶴雄の眼をみつめた。

 鶴雄は急にまた赧くなった。

「そ、それだけだよ」

「嘘おっしゃい!」



「えっ?」

 と、狼狽した鶴雄の顔へ、たたきつけるように、弓子は、

「あのサイコロ、誰かいい人に貰ったんでしょう?」

「そんなことないよ」

 と、鶴雄の声はしかしふと弱かった。

「だって、サイコロなんて、どこにでも売ってるでしょう?」

 弓子はいたずらっぽい眼附きをした。

「そりゃ売ってるさ、しかし、買うたって、金がない」

「あたしが掏っちゃったから……?」

「うん」

 うなずいたが、それがわれながら神妙だったので、鶴雄は笑い出した。

 弓子も笑って、

「じゃ、お返しするわ」

「ありがとう」

「あらッ?」

「……? ……」

「だって、おかしいわ、もともとあなたのものじゃないの、礼を言うのはおかしいわね」

「じゃ、礼を言うのは止そう」

「その代り、この百円もいっしょに持って行って頂戴!」

「いや、そりゃ困る」

「困るのはあたしの方だわ、だいいち、後味が悪いし、それに、それじゃ何だかあたしがみじめだわ」

「しかし、この金あんたはいるんだろう?」

「お金のいらない人は今時ないわね」

 弓子はちょっと皮肉な口調になった。

「それ見ろ」

「何がそれ見ろなの?」

「あんたはただの掏摸じゃないんだろう。ねっからの掏摸じゃないんだろう」

「誰だって、生れた時から掏摸じゃないわ」

「いや、僕の言ってるのは、そんな意味じゃない」

 と、鶴雄はもどかしそうに、

「──つまり、何といったらいいかな。──そうだ。つまり、あんたのようなひとが……」

「あんたのようなひとって、どういう意味……?」

「つまり、スタンダールを読んでるようなひとっていう意味だ」

 鶴雄は机の上に置かれた岩波文庫へ眼をやった。仏蘭西の作家スタンダールの「赤と黒」の訳本だった。

「ああ、あの本……? 掏摸だって『赤と黒』を読むわ」

 弓子は古綿を千切って捨てるように、言った。

「しかし、ただの読み方じゃない。あんたは『赤と黒』に心酔してるんだろう?」

「まア、そうね」

「僕だってそうだ。僕はスタンダールは世界で一番えらい作家だと思っているが、しかし、あんたは僕以上に『赤と黒』が好きだろう。その証拠に……」

 鶴雄はちょっと口籠って、

「──これは僕の憶測で、当っているかどうか知らないが、あんたは赤と黒の二色しか身につけないらしい」

 赤いブラウスに黒ズボン、それに部屋に掛った着物も、赤と黒の縞柄であった。それを、色町に育っただけあって、さすがに鶴雄は素早く観察していたのだ。

「鋭いわね。あなたは……」

 それには答えず、

「とにかく、あんたはただの掏摸じゃない。つまり、よくよく金のいる事情があって、僕の金を掏ったんだろう。その、よくよくの事情に敬意を表して、僕はその百円をあんたに進呈しようといっているわけだ」



「あなたも随分空想家ね」

 と、弓子は笑いながら、

「──よくよくの事情……? あはは……そんなものないわよ。あたしはただスリルを求めているだけ。その方がスタンダール好みじゃない……?」

「スリのスリルか、洒落だね。──しかし、よくよくの事情と僕が言った時、あんたはなぜ眼をうるませたんだ?」

 鶴雄がすかさず言うと、

「負けたッ!」

 弓子は弱く微笑して、

「──言うわ、いいえ、あなただから言うのよ。あなたはあたしをしんみりさせるひとなのね。──よくよくの事情というのはね、つまり、あたしは姉さんを救いたいの。だから金がいるの」

 そして、弓子が語りだしたのはこうだった。


 ──弓子は東京生れ、両親はなく、二つ違いの姉の千枝子と二人で、東京に住んでいた。

 ところが、罹災した。

 頼る所といっては、京都の叔父の家しかない。弓子は姉の千枝子と二人で、西田町の叔父の家へ転がりこんだ。

 叔父は食糧営団に勤めているせいか米には困らなかった。家族一同腹一杯食べた余りを、闇で売るぐらい、あくどく役得を利用していた。

 弓子はすぐその不正をかぎつけたが、しかし、それには眼をつむった。姉妹二人厄介になるには、こんないい家はないと思った。

 叔父もはじめのうちは、

「うちは米ならいくらでもあるんやさかい……」

 と、半分は自慢から、二人に親切にしてくれていた。しかし日がたつにつれて、だんだん冷淡になった。

 おまけに、もう五十を過ぎているのに、いや、それだからかある夜、姉の千枝子に挑んで来た。弓子よりもまず千枝子に眼をつけたのは、勝気な弓子よりも、おとなしい千枝子の方が口説き易かったからであろうか。

 しかし、無論、千枝子は叔父の要求をはねつけた。

 すると、叔父はますます姉妹に冷淡になり、しまいには、出て行ってくれと言わんばかしの、態度を見せるようになった。叔父ばかりではない、叔母も嫉妬から姉妹に辛く当った。

 旧紙幣が新紙幣になってからは、それが一層ひどくなった。

 姉妹は毎日、職と家を探して歩いた。そして歩き疲れて帰って来ると、叔父は、今までの生活費を全部入れて貰わねばならぬと、意外な催促だった。

 姉妹はもうキャバレエへ行ってダンサーになるよりほかはないと思ったが、近所の人がダンサーになるくらいならと、教えてくれたのは、木屋町のヤトナ倶楽部だった。

 千枝子ひとりで出掛けて行ってきくと、前借は五千円、新円で先払い、宴会でお酌をするだけでいい。芸もいらないという。

「ダンサーよりはいいわね」

 と、千枝子は帰って、弓子に言った。

「ほんとうにお酌だけでいいの……? いやなことをしなくてもいいの……?」

 弓子はちょっと不安になってきいてみたが、

「大丈夫よ、そんな事ないわよ」

 千枝子は木屋町松原のヤトナ倶楽部へ住込みで雇われた。

 五千円のうち、二千円は衣裳代に取られ、三千円は叔父に渡した。

 女学校出の美しいヤトナというので、千枝子はたちまち木屋町で評判になったが、一週間ほどたったある夜、貸席のおかみが、

「千枝子はん、今晩お泊りやすか」

「えっ?」

 千枝子にはおかみの言った意味が判らなかった。



「──泊るって……?」

 千枝子がきき返すと、貸席のおかみは、

「二階のお客さん、あんたが気に入ったさかい、世話してくれ、お言いやすのどっせ。あんたお泊りやすか、どないおしやす……?」

 やんわりした口調だったが、千枝子は思わず胸がドキドキして、血の色がうすれて行くようであった。

 おかみの言う意味はさすがに千枝子にも判ったのだ。

 お酌だけをすればいいときいて、木屋町のヤトナ倶楽部にはいったのだが、京都のヤトナは大阪のヤトナと違い、お酌だけでは済まない──ということが、「あかし花」とか「枕金」とかいう言葉を耳にするうちに千枝子にも漸く判って来ていたのだ。

 そして、たいていの妓が殆んど例外なしといってもいいくらい、そんな客を取っているのである。

 無論、遊廓のように強制的ではない。客を取る取らないは、女の自由意志にあるのだが、しかし誰も好んで取っているわけではなかろう。

 取らねば、金がはいらぬのだ。いくら京都が女の都であるとはいえ、モラトリアム措置以来、さすがに木屋町の遊興客も旧円のころよりは少なくなり、相当売れる女でも、まともに稼いでいては月に千円かそこらの収入しかない。

 千円では食費や化粧代だけに消えてしまい、借金が減るどころか、衣裳もいつも同じものを着ているわけにはいかず、新調するとなれば、それが借金の中にはいってしまい、借金はふえる一方である、だから、客を取って余分に「あかし花」や「枕金」を稼がねば、いつまでたっても借金は抜けぬのだ。

 一つには、貸席のおかみへの義理もある。いやな客は断ればいいのだが、断りつづけておれば、おかみも客の手前があり、いい顔も出来ず、ひいてはその女を呼ばなくなる。いわば貸席をしくじってしまうのだ。貸席をしくじることは、ヤトナとしては自殺にひとしい。だから三度のうち一度は無理もきかねばならない。

 そんな事情が判ると、千枝子はしまったと思った。何にも知らずにヤトナになってしまった自分をうかつだと思った。

 しかし千枝子は幸いに今日までそんなことはなく、無事な夜を過して来た。

 ところが、今年はじめて、

「お泊りやすか」

 と、おかみに口説かれたのだ。

「あて、かなわんのどっせ、お母さん、かんにんどっせ」

 千枝子は婉曲に断った。木屋町へはいってからも、千枝子は巧く京言葉が使えなかったが、この際は京言葉の方が柔く断れると思ったので、一生懸命使った。

 おかみは執拗に口説いたが、千枝子が「かんにんどっせ」で突っ張ったので、それ以上強制も出来ず、二階の客へ謝りに行った。

 そして降りて来ると、

「お客さんには今わてがよう謝っといたさかい、ほな、お客さんに挨拶だけしてお帰りやす」

「おおきに、お母さん、かんにんどっせ」

 千枝子はほっとして二階へ挨拶に上って行ったが、客はいつの間にか部屋を変えていた。

「こちらどす」

 おかみに教えられて、洋室になっている部屋のドアをひらいてはいると、客はもうベッドの中へ一人もぐり込んでいて、千枝子の顔を見ると、

「君、そこのマッチ取ってくれ」

 テーブルの上のマッチを持ってベッドに近づくと、客はいきなりはね起きて、ものも云わずに千枝子を抱きすくめた。



「あっ! 何をなさるの……?」

 千枝子は身をもがいて逃げようとしたが男は離そうとしなかった。

 そして、背中を抱いた手を胸の柔いふくらみの方へ廻して、ギュッと力を入れながら頬をくっつけて来た。

 大きな声を立てるには、千枝子はあまりにおとなしい女であった。ただ、低く、

「いや、いや!」

 と、云いながら首を動かしていると、酒くさい息がいきなり近づいて、唇が触れた。

 思わず、顎を引いて、離そうとしたが、男の唇は執拗に追うて来た。

 千枝子は必死になって、唇を固く閉じていた。

 が、だんだん息苦しくなり、

「ああ──」

 と、唇をひらいて息を洩らした途端、千枝子は思わず熱っぽく酒くさい息を吸い込んだ。

 やがて気の遠くなるような、やるせなさが、ふと千枝子の体をしびらせ、いつか千枝子の手は相手の背中を抱いていた。

「ああ、浅ましい」

 と手を離した途端、男は千枝子の体をベッドの上へ倒すと、パチリとスタンドの燈を消した。

「ああ、いけない。それだけは……」

 暗がりの中で、千枝子は叫びながら、はね返そうと身もだえした。

 ……恐怖と恥かしさと憤りと、好奇心と、何かにすがりつきたいような女の本能とが交錯した時間を、妖しいリズムが刻んで行った。

 はっとわれに返った千枝子の耳に、窓の外を流れる川音が聴えて来た。それがにわかに夜の更けた感じであり、そしてまた悔恨のような、あわただしい音であった。

 男は暫らく、じっとしていたが、やがて手を伸すと、枕元のスタンドの灯をつけた。

 ぱっと照らされて、千枝子は思わず身をすくめ、裾をかき合わせると、男の胸に小さくなって顔をかくした。

 そして、そのままじっとしていたが、そんな自分が情けなかった。

 その男は小郷虎吉といい、もと軍需会社の幹部で、旧円と新円の切りかえの時、銀行と結託して、莫大な新円を手に入れ、毎夜、祇園先斗町、木屋町の魚町や、キャバレーへ出没しているような五十男だったから、千枝子はもとより好きになれず、いや、むしろいけすかない客だと思っていた。

 ところが今、こうして、小郷の胸に顔をつけているとは、一体何としたことであろう。

 なぜ強くはねつけなかったのか、なぜ救いを求めなかったのかと、自分を責めたい気持で一杯だった。大きな声もよう出さぬおとなしい性質のためだったろうか。それとも商売女の悲しさだろうか。こんなひどい目に会わされながらしかも、いつか男にしがみついていたという女の生理の脆さも恨めしかった。

「どうだ、泊るだろう」

 男に命令的に云われると、千枝子はもう弱い女だった。だまってうなずいた。帰るとはもう云えなかった。

「あはは……泊るなら泊ると云えばいいのに……。じらす奴があるか。着物に皺がよるだけ損じゃないか。あはは……しかしたまには、皺くちゃになってみるのもスリルじゃよ」

 千枝子は半泣きになった。最初の貞操をこんな風に簡単に汚されながら、しかもそれが安価な金銭に換算されてしまうのか。

 朝、千枝子は蒼ざめた顔で、貸席を出た。細長い路地をうなだれてトボトボ出て来ると、

「姉さん!」

 と、いきなり呼ばれた。鋭い声だった。

 はっと顔を上げると、妹の弓子が怖い顔をして突っ立っていた。



 思いがけぬ時に、思いがけぬ妹の弓子を見て、千枝子はどきんとした。

 千枝子は弓子より二つ年長でありながら、何か自分の方が年下のような負け目を感じていた。水のように、ずるずると環境のままに流されて行き易い自分にくらべて、弓子の性格は火のようで、意志が強く、弓を引きしぼった精一杯のギリギリの生き方をして行きたい娘であった。

 だから、いつも妹にはかなわないという気持だった。

 それだけに一層、こんな場所で妹に会うのは辛かった。

「昨夜のことを見抜かれた」

 と、思った。

 そんな風な妹の眼付きであった。白く冴え返った眼で、じっと見つめていたのだ。

 果して、弓子は云った。

「姉さん、昨夜ここで泊ったのね。──男の方と一緒……?」

「…………」

 だまって、千枝子はうなだれていた。

「その辺、歩かない……?」

 そして、肩を並べて、四条通りの方へ高瀬川のほとりを歩きながら、弓子は、

「──あたし、姉さんに相談があって来たのよ」

「相談……?」

「叔父さんち、飛び出そうと思ってるの。だって叔父さんたら、姉さんがいなくなると、こんどはあたしにいやなことをしようとするのよ。昨夜よ。あたし、夜があけるとすぐ出て来たの。ところが、倶楽部へ行ったら、姉さんは昨夜からまだ帰らないというでしょう。貸席っていうの? 名前をきいて、路地の表まで行って、姉さんの出て来るのを待ったのよ」

「ごめんね」

「謝ることはないわ。でも、あたし、姉さんと一緒にヤトナになるつもりだったけど、よすわ。ヤトナってお酌だけじゃないのね、莫迦ね、姉さんは……」

「…………」

「どうして、泊ったりなんかしたの……?」

「…………」

「その男の方好きなの……?」

「ううん……」

 千枝子は、ふと小郷虎吉の脂切った顔を想い出した。

「弓ちゃん、きいてくれる……?」

 そして、千枝子は昨夜のことを語り出した。

 四条通りを円山の方へ折れて行った。

 南座には「文楽」が掛っていた。「文楽の女って、皆哀しい女ばかりだけど、姉さんも哀しい女になってしまったのね」

 東山では「悲願戦災者救援同盟」の慈善鍋が出ていた。

「悲願!」

 と、弓子は呟くと、豹のように眼を光らせた。

 再び木屋町通りまで引き返して、そこで千枝子に別れると、弓子はその足で西田町の叔父の家に帰り、荷物を纒めた。

 そして木屋町三条を上った小野屋旅館に投宿すると、すぐ京極の雑閙へまぎれ込んで行き、男の懐中をねらった。

 宿賃を稼ぐためもあるが、第一の目的は、姉を苦界から救う金を作るためであった。……


 と、こんな風に詳しくは、さすがに弓子は鶴雄の前では云えなかったが、とにかく話のあらましだけは語った。

「つまり生意気なようだけど、悲願なの」

「なるほど、ただの掏摸じゃなかったわけだね。僕の思った通りだ」

 隣の部屋では、望月三郎が相変らず二人の話に聴耳を立てていた。しかし、二人は無論それには気がつかなかった。


十一


「……ところで……」

 と鶴雄は云った。

「くどいようだが、この百円はあんたに進呈する」

「あらッ、だめよ」

 と、弓子もすかさず、

「くどいようだが、この百円はお返しします」

 そして、おたがい顔を見合って笑いだしたが、鶴雄は笑いやむと、

「悲願っておっしゃったでしょう。悲願といえばね、僕はこの百円はどうせ悲願救援同盟に寄附するつもりだったんだ。あんたも戦災者の一人でしょう、だから、受け取る権利がある」

「権利はあっても、受け取らねばならぬ義務はないでしょう」

「しかし、姉さんを救う義務はあるでしょう」

 そう云うと弓子はふと鶴雄の顔を見つめた。が、やがて、坐り直すと、ぺこんと頭を下げて、

「じゃ、いただきます。いえ、お借りして置きます。ありがとう」

「その代り、サイコロ下さい」

「ああ──」

 思い出して、サイコロを鶴雄に渡すと、鶴雄は、

「これだけ貰えば、用はないッと……」

 立ち上った。

「あら、もうお帰り……?」

「ええ」

 そして、さよならと、鶴雄は出て行った。

「あ、待って……」

 と、呼びとめようとした時は、もう襖が閉っていた。

 さすがに、弓子は追って行く勇気はなかった。しかし、甘い悔恨は残った。

「──風のようにはいって来て、風のように出て行ったわ。まるで風みたようなひとね。いいわ、あたし風邪引いてやるから」

 ごろりと仰のけに倒れて、天井を見ていると、急に襖がひらいた。

 弓子はあわてて飛び起きた。鶴雄が戻って来たと思ったのだ。

 しかし、はいって来たのは望月三郎だった。

「だれ……?」

 弓子は思わず云った。

「いや、そう心配なさらんでもいい。べつに警察の者だというわけでもないから」

 望月はにやにやして、弓子の前へズボンの折目を気にしながら、坐った。

「何か御用ですの……?」

 弓子は薄気味わるかった。

「用ってわけではないが、隣に泊っているよしみで、一寸顔を出したわけですよ」

「無断で、女ひとりの部屋へはいって来ていいんですか。ダブルの洋服が泣きますよ」

「しかし、無断でひとの懐中を掏るひともいますからね、赤いブラウスが泣きますよ」

 弓子ははっとした。が、弱みを見せたくなかった。いや見せてはいけない所だ。

「聴いたのね」

「まアね」

「密告しようというの」

「まさか、そんな野暮な」

「口止め料がほしいのね」

「いや、そんなものはほしくない、しかしほかにほしいものがある」

「えっ……?」

「君だ、君がほしい……」

 望月はいきなり弓子の手を握ろうとした。

「莫迦ッ!」

 弓子はすかさず望月の頬を撲った。が、その手は咄嗟に、望月に掴まれてしまった。


寺町通り



 小野屋旅館を出た鶴雄は、木屋町通りを三条の方へ下って行きながら、呟いた。

「……なるほど、スピード籤は今日一日のおれの行動を決定しそうだぞ」

「赤と黒」を愛読するという風変りな女スリに出会ったこと、そして無一文になってしまったこと……この二つの思いがけぬ出来事は、すくなくとも、今日これからの行動に何かの影響を及ぼしそうな予感がした。

 三条小橋まで来ると、鶴雄はふと立ち停った。

 東へ行こうか、西へ行こうかと、また迷ったのだ。

 東へ行ってどうしようという当てもなかったが、同時に、西へ行ってどうしようという当てもない。

 それでも、とにかく行かねばならない。

 何を求めて行くか、それははっきりとは判らないが、しかし、何か自分の人生に素晴らしいことが起ることを期待していることは、事実だ。そういう点では、鶴雄はやはり高校生らしいロマンチストであった。

 素晴らしいこと──破天荒なこと──青春を賭けるような事件──ギリギリ一杯に生きられる冒険──ややもすれば人生に倦怠しようとしている鶴雄が、かねがね求めているこれらのスリルは果して東へ行けば見つかるのか、それとも西へ行けば見つかるのか。

 例によって、鶴雄はサイコロを掌の上へ振った。

「偶数が出れば東だ」

 しかし、またしても出たのは、

 5──奇数──西だ。

 鶴雄は河原町の方へ歩き出した。アンテナをつけたM・Pのジープが通ったあと、三条河原町のゴーストップの信号が青に変った。

 西へ渡って、右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ、鶴雄は何の気なしにはいって行った。

 新刊書の書棚を見て廻ったが、べつに手にとってみたい本もなかった。「改造」「中央公論」「世界」「人間」「展望」など、一流の雑誌はすぐ売り切れるのか、それとも店頭に出ないのか、見つからなかった。

「世界文学」という雑誌があったのでパラパラめくっていると、

「君は鋭いね」

 という文句が眼にとまった。ジイドの「架空のインタヴュー」の訳文にある言葉だった。

 鶴雄はふと、弓子の言葉を思い出した。

「──鋭いわね。あなたは……」

 やがて、「そろばん屋」を出ようとした途端鶴雄は、ふと「アメリカとは何ぞや」という青い表紙の薄い本を見つけた。

 鶴雄はおやっと思って、その本を手に取ってみた。「アメリカとは何ぞや」という標題に惹かされたのと、一つはその本の訳者が鶴雄の学校の山吹正彦という仏蘭西語の教授だったからだ。

 頁をくると、開巻一頁の冒頭に、

「なぜ世間の人々は、こんなに稀にしかアメリカ人の心理を研究しようとしなかったのか」

 という文章が出ていた。

「ふーむ」

 鶴雄はうなった。

「──なぜこの本がもっと早く出なかったのか。戦争中にこの本が訳されて読まれておれば、日本はばかげた戦争なぞはじめなかっただろうに……」

 そう思いながら、訳者のあとがきを読んでいると、店の奥で電話を掛けている女の声が聴えて来た。

「──もしもし、小野屋旅館ですか」

 小野屋旅館ときいて、鶴雄は急にその女の方を見た。



「──お宅に望月さん……」

 と、一寸声を落して、

「──お泊りじゃない……? あそう。じゃ取次いで下さらない……? こちら小郷ですと、そう言って頂戴」

 小野屋旅館の番頭か女中に、高飛車な調子で掛けているその女は、三十四五の渋い藍大島に派手な臙脂の帯の対照がよく似合っている、すらりとした女であった。

 上流に育ったらしい気品のある顔立ちだが、どこか濃艶な色っぽさがあり、十代に輝いたであろうこの女の新鮮な美しさが、今三十代になって再び成熟し切った美しさにしたたっているかのようであった。

 鶴雄はその女の横顔をちらと見て、それからまた「アメリカとは何ぞや」のあとがきを読みだした。

「……原著者シーグフリードはフランス有数の経済学者である。一八七五年生れであるから、今年──もしまだ生きているとすると──八十二歳になる」

 そこまで読んで、鶴雄はおやっと思った。

 数学に敏感な鶴雄は、一八七五年生れだとすれば、ことし七十二歳の筈だがと、直感的に暗算してしまった。しかるに、訳者の山吹正彦教授は八十二歳だと、書いているのだ。

「山吹さん、間違ったかな」

 鶴雄はにやりとした。

 丁度その時電話を掛けていた女は、ふと鶴雄の方を向いて、少女のような鶴雄の顔にえくぼが泛んでいるのを見ると、思わず燃えるような視線になったが、やがて電話口へ相手が出て来ると、あわてて視線を戻して、

「望月さん……? 暫らく。あたし判る……? ひどいわね、どうして知らせてくれなかったの。京極であなたの名前みて、来てらっしゃること判ったのよ。──今、お暇でしょう……? すぐ宿へ伺うわ。今三条、五分で行けるわ──じゃあとで……。え……? なに……? 莫迦ね。うふふ……」

 女は笑いながら、電話を切った。

 鶴雄は「アメリカとは何ぞや」を持ったままカウンターの方へ寄って行った。

「この本あしたまで残して置いてくれませんか。今、金を持ってないんで……。あした、取りに来ますから」

 売り切れないうちに、予約して置こうと思ったのだ。

「お名前は……?」

「梶です」

 そう答えた時、女はリゴーの香水の匂いを漂わせて寄って来た。そして、カウンターへ十円紙幣を置くと、

「どうもありがとう」

 と、出て行こうとした。

「あのウ、おつりが……」

「あら、いいのよ」

 女はちらと鶴雄の方を見て、

「──その金で、この方にその本渡してあげて下さいな」

 そう言ったかと思うと、ひらりと店を出て行った。

「あ、そりゃ……」

 困ると、あとを追いかける余裕もなく、鶴雄は赧くなってぽかんと見送っていた。

「まあ、いいじゃありませんか。折角何だから……」

 貰って置きなさいと、「そろばん屋」の人は本を包んでくれた。

「今の方、どなたですか」

「さあ知りませんが……。ただ電話をお貸ししただけで……」

「そうですか……」

 鶴雄は一寸ためらいながら、本の包みを受け取って、出て行きかけたが、何を思い出したか、急に戻って来て、

「電話貸してくれませんか」

 と言った。



「もしもし、山吹先生のお宅でいらっしゃいますか」

「はあ、左様でございます」

「僕、三高文三丙の梶鶴雄ですが、先生御在宅でしょうか」

「只今、世界文学社の方へ参っておりますが……」

「そうですか」

 と鶴雄はちょっと考えて、

「──それでは、世界文学社の方へ参ることに致します──。あ、もしもし、世界文学社ってどこでしょうか」

「寺町通りの錦ビルの四階だったと思いますが」

「はあ、錦ビルですね。──どうもありがとうございました」

 鶴雄は電話を切ると、やがてそろばん屋を出て、三条通りを寺町の方へ歩いて行った。

 鶴雄が山吹教授に電話を掛けることを思いついたのは、山吹教授の訳した「アメリカとは何ぞや」の本を見つけたためだったが、実に鶴雄は、学校が休暇になる前、山吹教授に、

「どこか、住込みで家庭教師の出来る家はないでしょうか」

 と頼んで置いた──そのことを想い出したからであった。

 住込みの家庭教師になろうと思ったのは、もう先斗町の家にいたたまらなかったからである。酒と白粉と女と遊客──そんな家の雰囲気からのがれる為であった。自分の学資や食費や小遣いが結局芸妓の媚というものを道具に使って稼ぎ出される儲けの中から出ていると思うと、何かたまらなくて自分の力で学資や食費や小遣いを稼ごうとしたのである。

 鶴雄だけではない、──いや鶴雄などはまだ良い方で、たいていの学生は新円生活に困っていて、内職に露店の古本屋を出したり、駅でキャンディーを売ったりする学生が多かったのだ。

 ことに、弓子の姉の千枝子の哀れな話は、鶴雄に家を出て働く決心をいよいよ固めさせた。だから山吹教授を訪問してみようと、急に思い立ったのである……。

「もしかしたら、山吹先生はいい口を見つけて置いてくれたかも知れない」

 そう呟きながら、鶴雄は三条通りの「三島亭」の横を寺町通りへ折れて行った。

「三島亭」は古い牛肉店で、戦争前は三高の学生たちがよくこの店でコンパを開いて、

「紅燃ゆる丘の花……」

 という校歌やデカンショ節をうたいながら、牛飲馬食した。当時は会費は一円か二円で済んだという。想えば昔なつかしい青春の豪華な夢であるが、しかし、鶴雄が学校へはいった時はもうコンパなぞ開こうと思っても開けず、「三島亭」のコンパも、鶴雄にとってはもはや想像も出来ない古めかしい伝説であった。

 そんなことを想い出しながら、鶴雄はずらりと並んだ寺町の闇市の中に建っている錦ビルの前まで来た。

 このビルは終戦直後は進駐軍専門の土産物のマーケットで「一般の人ご遠慮願います」という貼紙が出ていたが、そんな経営法もいつか立ち行かなくなったか、一階二階はいわゆる「一般人」相手の雑貨店、二階のすみには喫茶店三階は料理店や美容室──というややこしい経営法に変ってしまっていた。

 世界文学社の事務所はこのビルの四階にあった。鶴雄は二階の喫茶室のあまいジャズ音楽が流れている階段を登って行きながら、

「四階か、偶数だよ、今日は奇数に縁のある日だが、はじめて偶数が出たわけだ。こりゃ何かありそうだぞ」

 と彼らしい奇妙な期待をふと抱いた。



 鶴雄が世界文学社の扉を押してはいると、窓側に立って、煙草を吹かしながら、寺町通りを見下していた長身、長髪、着流しの三十四五の男がふと振り向いた。

 ちらっと鶴雄に投げた素早い視線が、印象的だった。

「作家だな」

 と鶴雄は直感した。

「こちらに山吹先生おいででしょうか」

 と、きくとその男は、

「ああ、おられますよ」

 ぶっ切ら棒に云って、

「──どうぞ」

 鶴雄は中へはいって行った。

 山吹教授は部屋の隅の「ライフ」や「リーダーズ・ダイジェスト」や「ヴァニティ・フェア」等、近着のアメリカ雑誌がうず高く積まれた傍のソファに掛けて、校正用のゲラ刷に眼を通していた。

 鶴雄はちょっと躊躇したが、思い切って寄って行って挨拶すると、

「やあ。掛け給え」

 山吹教授は空いている椅子を指した。

「はあッ」

 鶴雄は頭を下げて、椅子に掛けようとすると、長髪の男が寄って来て、

「君、ちょっと……。僕の帽子があるんだよ」

 鶴雄が危く尻に敷こうとしていたソフトを取った。

「あ、済みません」

「いや、なに……。尻に敷いても構わぬけどね……君は女じゃないから」

 変な洒落を云って、笑った。そして再び窓側へ行こうとするのを、

「あ、小田君!」

 と山吹教授は呼びとめて、

「──君にいい人を紹介しよう」

「……? ……」

 長髪の男が戻って来ると、山吹教授は鶴雄に、

「作家の小田君……小田策之助だ、君の先輩だよ」

 と、紹介した。

 鶴雄は立ち上って、やっぱり作家だったのかと思いながら、頭を下げた。

「こちらは三高の梶鶴雄君だ。──三高一の美少年だ」

 山吹先生がそういうと、小田策之助はすかさず、

「じゃ、昔の僕と同じだ。僕は三高にいた頃、やはり三高一の美少年といわれたよ」

 と、済ました顔で云った。

 すると、回転椅子に掛けて、つかぬライターをしきりにカチカチさせていた男、世界文学社の若い社長で小田と同窓だったという島野二三夫がいきなり、

「云われたよって、誰にだ……?」

「誰もかれもそう云ってたよ。もっとも、君を除いてだが……。あはは……」

 と、笑っていたが、小田は急に鶴雄の方へ向くと、

「──君は何年ですか」

「三年です」

「文科……?」

「ええ」

 鶴雄がそう答えると、

「じゃ、もしかしたら君は僕と同じクラスになるかも知れないよ」

「えっ……」

「僕はもう一ぺん三高へはいるかも知れないんだ」

 小田は真面目な顔で云った。



 鶴雄は呆れてしまった。

 小田策之助──三十男で、おまけに三高出身の作家として知られているこの男が、もう一度三高へ入学するとは、一体どうしたことであろうか。

「気でも狂ったのかも知れない」

 と、鶴雄は思わず小田の顔を見た。

「三高へはいるって云っても、しかし、僕の奴は復校だよ」

 小田はなおも真面目な顔で、

「──僕は三高に五年間いて、追い出されたんだよ。つまり追放だね。理由は出席日数不足だよ。ところが、三高もこの頃民主的になって、出席簿をとらないらしい。──ねえ、そうでしょう、山吹さん」

「そうだよ」

 山吹教授はおもしろそうに答えた。

「してみると、こんどは僕も及第する見込みがありそうだ。僕は断然復校しますよ。復校願を出します。出席日数不足で放校するというのは、反民主的ですからね。僕は十年前の僕の放校処分に、異議を申立ててもいいんでしょう。あはは……」

「あはは……。こりゃいい。僕も君の復校に尽力するよ」

 山吹教授が笑いながらいうと、小田は、

「じゃ、復校願を出しましょう。しかし、登校に及ばず、名誉卒業にして置こうということにならないかな。そしたら、こんどは大学へ入学願書を出します」

「ところで、小田君」

 と、山吹教授はそろそろ話題を変えるべきだと思ったのか、

「──君、先斗町のことを書くんだろう?」

「ええ」

「じゃ、先斗町のことは梶君にきき給え」

 山吹教授は鶴雄を指した。

 鶴雄はあかくなった。

「梶君は先斗町に住んでるんだから、詳しいんだ」

 そして鶴雄の方を向いて、

「──梶君、小田君はこんど京都の新聞に『それでも私は行く』という妙な題で、小説を書くので、京都へ来てるんだが、どうやらそれに先斗町が出て来るらしいんだ。君教えてあげ給え」

「はあ、でも……」

 鶴雄は曖昧に云って困っていると、小田は急に、

「君、お茶のみに行こう」

 鶴雄を誘って、ビルの二階の喫茶室へ降りて行った。

 鶴雄は、随いて行った。

 喫茶室へはいると、小田は暫らく寺町の闇市を見下していたが、やがて、いきなり、

「君のことを書いてもいい……?」

 と、奥眼の、放心したようだが、どこかきっと鋭い眼でじっと鶴雄を見つめた。

「…………」

 鶴雄は赧くなって、だまっていた。すると小田は、

「君、恋人あるの」

「いいえ」

 ますます赧くなった。

「遊んだことは……」

「いいえ」

 まるで訊問されているようで、鶴雄は不愉快だった。



「どうして、そんなことをお聞きになるんです」

 鶴雄はむっとして云った。

「──そんなことどうだっていいじゃありませんか」

「いやどうだっていいっていう訳にはいかないよ」

「僕をモデルにするからですか」

「うん」

 小田策之助はしきりに鼻糞をほじくっていた。

 鶴雄は、学校の先輩であるこの若い作家を、これまで尊敬していたけれど、会っていると、復校願を出すと云ってみたり、

「君、恋人あるの」

 と、変なことをきいたり、鼻糞をほじったり、軽佻浮薄な男のように感じられてならなかった。

 作家というものは、何か取り済ました深刻な感じの人間ばかりだと思いこんでいた鶴雄は、そんな小田を見て、すっかり興冷めしてしまい、尊敬出来ないと思った。

 だから、ふと小田をからかってやる気になって、

「モデルがなければ書けないんですか。小説家の武器は想像力にあるんでしょう?」

 と、云った。

 すると、些か溜飲が下った。さっき「君のことを書いてもいい……?」ときかれて、赧くなったことが、心外になったくらい、いい気味だと思った。

 しかし、小田はすこしも狼狽せずに、

「いや、こんどの小説ではね、想像力にあまり頼らずに、一つ実際にあった事件を書こうと思ってるんだ。人物も実在の人間を出すし、事件の背景も、京都の実在の場所をいろいろ使ってみようと思うんだ。例えば、僕が君のところの喫茶店で、こうして話をしているね。こんなことでもちゃんと書こうと思うんだ」

 そこへ、品の良い美貌の青年がココアを運んで来た。

 小田はそのボーイが行ってしまうと、ふと声を低めて、

「──今のあのボーイさんね、ありゃ君、一風変った青年でね、あの人の親父さんというのは九州の大実業家なんだが、母親が違うので、家を飛び出して、京都へ来て放浪していたんだよ」

 そこまで云ってから、小田はココアをすすり、そして不精のせいか耳がかくれるくらいぼうぼうと伸ばしている長髪を、クシャクシャと掻きながら、

「──放浪していたんだよ。そして、毎日この喫茶店へやって来て、一時間も二時間も頬杖をついて、ぼんやり寂しそうに窓の外を眺めているんだね。ここのマダムが気になって、あんた一体どうしたのってきくと、何もすることがないし、また、する興味もないので、こうして、ぶらぶらしてるんだというわけだね」

「ふーん」

 鶴雄はふと興味を感じた。

「若いのにそんなことでどうするの、いくらお家にお金があるからって、働かないでいるっていうのはいけないわ──とマダムが言うと、だって、僕は何にも出来ないんだ。──じゃ、退屈で困るでしょう。──うん。退屈だよ。じゃ、この店のお手伝いでもしてみない? ──いや、僕には出来ないよ。──出来ないって、やってみなくちゃ判らないわよ。──それもそうだな、じゃ、一ぺんやってみようかな、っていう訳で、この店のボーイになったというんだが、やり出してみると案外働くことが面白いので、ああして一生懸命一日も休まず働いてるんだよ。しかし、金のありがたさというものが判らない。つまり銭勘定が判らない。欲がないんだね、面白いだろう」

「なるほど、じゃ、あの人もモデルになるわけですか」



「うん。まア、出来ればね。もっとも、こんどの小説であの人がどれだけ活躍するか、こりゃ僕にも判らない。あの人が登場人物として事件の渦中にひき込まれるか、どうかによって、それがきまるわけだよ」

「事件というと……?」

 と、鶴雄はきいた。

「そりゃ僕にも判らない、しかし、何にも事件がなければ、この小説は書けないわけだから、僕は今、一生懸命事件を探しているんだよ」

「じゃ、つまりこうですか」

 と、鶴雄はひどく小田策之助の新しい計画に興味を感じて、

「僕なら僕に、何か事件が起るでしょう。すると、それを中心に小説を運んで行くっていう計画ですか」

「そうだよ」

 と小田策之助は新しい煙草に火をつけた。

 調理場の隅に備えつけてある短波受信機から、サンフランシスコの音楽放送が甘く聴えていた。小田はしばらくその音楽をききながら、何か考えこんでいたが、急に灰皿の中へ煙草を捨てると、きっとした表情になって、

「──しかし、事件でなくってもだ。たとえば、今日一日の君の行動だね、それからでも小説は発展させて行けるわけだ。どうだ、構わなければ僕と世界文学社で落ち合うまでの、君の今日の行動を話してみないか」

「ええ」

 鶴雄はますます興味を感じた。

「話してみましょう」

 そして鶴雄は、

一、先斗町の家を出て間もなく、路地の中で、君勇に会ったこと。

二、サイコロを振って、タイピストの矢部田鶴子に会うことをよしたこと。

三、四条河原町でスピード籤をひいたこと。

四、相馬弓子という「赤と黒」趣味の女掏摸に賞金の百円をすられたこと。

五、木屋町の小野屋旅館まで弓子を尾行して、弓子に面会を求め、弓子が掏摸になった原因や、弓子の姉の千枝子の話をきいて、弓子に百円を進呈したこと。

六、サイコロを振って、西へ行き、三条の「そろばん屋」にはいったこと。

七、「そろばん屋」で望月三郎に電話を掛けていた小郷真紀子から本代を恵まれたこと。

八、山吹教授をたずねて世界文学社へやって来て、小田策之助に会ったこと。

 以上の経過を、詳しく語った。

「書けるね」

 小田策之助は眼を輝かして、叫んだ。

「──ところで、そのサイコロは誰に貰ったの……?」

「いや、それは言えません」

 鶴雄は赧くなって言った。

「──それだけは想像でやって下さい」

「よし、想像で行こう。大体見当はつきそうだ」

 小田はにやりと微笑して、

「ところで、君はこれからどうするの……。あ、そうだったね。……山吹さんに用事があったんだね」

「ええ」

「失敬、失敬。用事のある君を引張り出して……。じゃ、もう一度、逆戻りだ」

 小田は起ち上ると、勘定を払って、鶴雄と一緒にその喫茶室を出た。

 そして、二人は再び錦ビルの階段を上って行った。



 鶴雄と小田が二階の喫茶室へ行っている間に、世界文学社では新しい客が三人ふえていた。

 一人はやはり三高の出身の仏蘭西文学者で、スタンダールやアランの翻訳家として知られている桑山竹夫。

 もう一人は、これも同じ三高出身の仏蘭西文学者でA新聞の論説委員をするかたわらカミュの翻訳や「椿姫」などの翻訳をしている吉井正太郎。

 最後は、京大講師でリルケやトーマス・マンの翻訳をしている文芸評論家の中山定二。

 この三人に、山吹教授、それから東大心理学科出身の島野世界文学社長を加えた五人は、小田と鶴雄がはいって行った時は、

「近頃の文壇はいわゆる文壇進歩党がはびこっていて、けしからん。文壇進歩党の大家連中は一ぺん爆撃する必要がある」

 と、さかんに気焔をあげていた。

「──日本の文学がすこしも進歩しないのは、文壇進歩党がはびこってるおかげですよ」

 小田はすかさず、例によってまずい洒落を飛ばしながら、あいた椅子に腰を掛けた。

「文壇進歩党の文学は俳句の写実と、短歌の抒情以外に一歩も出ないんだよ。もっとも文壇社会党には便乗的民主主義が多くていかん。昨日までの戦争便乗者が、頬かむりして、いえ、もともと私は左翼でしてと、文壇社会へ仲間入りしている」

「ところで、小田君」

 と、吉井正太郎が小田の気焔をさえ切った。

「君、こんな話知ってる」

「知りません」

「知りませんって、まだ何にも話してないよ。あはは……」

 小田の分類によると、三高出身者には、軽佻浮薄派(さしずめ小田がその代表)と、重厚派の二種類あるが、吉井は、「重厚派と見られることを最もいやがっている所の重厚派」であるだけに、ねちねちした口調で、ポツリポツリ語りだした。

「亀がね、──三匹おったんだ」

「四匹でも構わんのでしょう」

「べつに差しつかえはない。四匹ということにしよう。四匹の亀がね、咽喉が乾いたな。なんぞ飲みに行こうやないかと言ってね、喫茶店へ珈琲を飲みに行ったんだよ。ボーイが四人分の珈琲を持って来て、いざ飲もうとすると、雨が降って来た。そこで、三匹の大きい方の亀が一番小さい大人しい亀に、お前一走り行って傘を取って来いと言うと、小さい亀が言うのには、おれが傘を取りに行ってる間、おれの珈琲飲んでしまう積りやろ。──いや、大丈夫だ。お前が帰るまで残して置いてやるから行って来い。じゃ、行って来ると、小さい方の亀は傘を取りに出て行ったんだね。ところが、一週間たっても帰って来ないんだ。おかしいな、あの男どうしたんだろう、いっそこの珈琲のんでしもてやろか、三匹の亀が言った途端、喫茶店の入口にじっとかくれてなかの様子を見ていた小さい方の亀が、いきなり、こらッ、飲んだらあかんぞ──と言ったというんだ。中の連中が珈琲をどうするか見てやろうと思って、一週間入口で待機しとったんや。一寸面白いやろ。あはは……」

 その話が終った時、鶴雄はその小さい亀のように、いきなり

「山吹先生!」

 と呼びかけた。

「──この間お願いしました……」

「ああ、家庭教師のこと……?」

 顔は美少年のように可愛いいが、頭のてっぺんが少し薄くなっている山吹教授は、その薄くなっている箇所を撫でながら、

「──あることはあるんだが、どうも君は家庭教師になるには美少年すぎるのが一寸心配だね」

「…………」

 鶴雄がぼうっと赧くなったのを山吹教授は眼鏡ごしに見ながら、

「下鴨の小郷という家から頼まれているんだが、あそこじゃ出戻り娘がいるんでね。おまけにマダムが綺麗すぎる」

 小郷ときいて鶴雄はきいたような名だなと、首をかしげた。


下鴨



 出町柳の停留所で市電を降りて物憂い、何かけだるそうな足取りで葵橋の上まで来ると、

「ああ、いい風……」

 と、小郷宮子は頬を撫でる川風に、うっとりと眼を細めた。

 四条から満員の電車に押されながら乗って来て、じっとりと汗ばんだ体に、加茂の流れを吹き渡って来た風は、さすがに気持がよかった。

 しかし、ただ気持がよいだけではない。川風も生暖く春めいて、ふと悩ましい。

 もっとも、その悩ましさは、社交ダンスのレッスン場からの帰りというせいかも知れなかった。

 宮子は今、煽情的な音楽のリズムに合わせて、胸と腰をぐっと引き寄せられながら、二時間立てつづけに踊って来たばかしなのだ。

 その軽い疲労が、しかし二十七歳の彼女の体の中に、何か満たされぬ後味となってやるせなく残っていた。

 しかし、これは、一旦結婚してから、夫と別れてしまったいわゆる出戻り女の、二十七という年齢から来るやるせなさであろうか。

 宮子は二十二の歳に、女専を卒業すると西洞院の骨董商へ嫁いだが、生れつき我儘なのと、新しい教育を受けていたために、古い因習の殻に閉じこもっている余りにも京都風の家風にいたたまれず、一年たたぬうちに、到頭婚家を飛び出して、実兄の小郷虎吉の下鴨の家へ、出戻り娘となって転がり込んだのである。

 ちょうど戦争中だったので、宮子は兄に似て淫蕩的な血をじっと閉じこめて、おとなしくして来たが、しかし、やがて戦争が済み、京の町々が軽薄な色彩に彩られて男女の風紀がみだれて来るようになると、そんな京都の変り方に強い反感を抱きながらも、内心ひそかに享楽を求めるようになった。

「あたしだって、まだ若いのだ」

 しかし、夜の町角に佇んで、誰かれの見境なしに、男に話し掛けて行って、円山公園の暗がりの芝生の上に転って、抱き合いながら妖しくうごめいている小娘のような、はしたない真似は、自尊心から言っても出来なかった。だから宮子はまず彼女の享楽の第一手段として、社交ダンスを習うことにした。

「姉さん、どう、ダンス習わない……?」

 兄の小郷虎吉の妻で、宮子には兄よめに当る真紀子を誘うと、

「いいわね。女だってホールへ行けるんだもの踊れないと損だわ」

 と、真紀子も夫の毎夜の外泊のせいか、年増ざかりの肉躰を持て余していた矢先だったから、すぐ応じた。

 二人は毎日四条のもと交潤社という酒場のあった地下室のレッスン場へ通い出した。

 そして、今日も二人は午すぎから家を出て来たのだが、真紀子は町で望月三郎の名を見つけると、何思ったのか急に、

「あたし、一寸用事を思い出したから、今日はあんた一人で行ってよ」

 と、言って、そわそわと別れてしまった。

 だから、今日は宮子一人でレッスン場へ出掛けた──その帰りだった。

 一人ではつまらないので、町も歩かずに帰って来たのだが、宮子は、

「今日は姉さんがいないんだからどんな事でも自由に出来たのに……」

 と、思うと、寄道せずに帰って来たことが一寸後悔されて、満たされぬ享楽欲のはけ口を求めてもう一度町へ引き返そうかと、ふと振り向いた途端、橋を渡って来る若い学生の顔が眼にはいった。

 鶴雄だった。宮子は思わず眼を輝かせた。



 宮子は急に立ち停って、橋の欄干に凭れる真似をしながら、鶴雄の行き過ぎるのを待った。

 そして、横眼を使いながら鶴雄の顔をじっと見つめた。

 美しい。

 宮子はふっと溜息が出るくらいの悩ましさに、胸がしめつけられた。

「町へ引きかえすのはよそう」

 宮子は鶴雄が橋を渡って、撮影所のある通りへ折れて行くのを見ると、そう呟いて鶴雄のあとをつけて行った。

「──あの学生、もしかしたら、下鴨に下宿しているのかも知れない」

 下宿をつき止めようと思ったのだ。

 下宿さえつき止めて置けば、あとは同じ下鴨だから、近づいて行く手段はいくらでもある。

 宮子がそう思ったのは、実は、彼女は昔下鴨から女専へ通っていた頃、やはり同じ下鴨の下宿から三高へ通っている学生に、彼女の方から話しかけて親しくなったあげく、その学生の下宿でありきたりの関係に陥ったことがある。

 いわば、宮子は結婚する時にはもう処女を失っていたのである。

 宮子が結婚する頃には、その学生は東京の大学へはいっていたので、既にどちらからともなく関係が切れており、宮子もその男のことはいつか忘れてしまった。

 ところが今、鶴雄を見た途端宮子はいきなりその学生のことを思い出した。

 三高生で、色が白く、背が高いというところが似ているのだった。

「しかし、この三高生の方がずっと可愛いい」

 宮子はにわかに青春が甦って来た想いで随いて行くと、果して鶴雄は撮影所の前を真っ直ぐ歩いて行った。

 やがて鶴雄は急に歩度をゆるめて標札を見上げながら歩いた。

「なんだ、下鴨に下宿してるのじゃなかったのか」

 と、宮子はふとがっかりした。

 しかし、宮子はすっかりは失望しなかった。鶴雄がどこか訪ねる家を探しているらしいのは、もっけの倖いだと、宮子は思った。

 宮子はいきなり寄って行って、

「どこのお家を、探してらっしゃるの」

 と声を掛けた。

「はあ」

 と、鶴雄は帽子をとって、

「──小郷さんというお宅なんですが……」

「小郷……?」

「ええ」

「じゃ、あなたは小郷という人をこれから訪ねて行くの……?」

 宮子は思わずキンキンと弾んだ声になった。

「そうです」

「小郷はあたしの家よ。そこ曲ったところ。うふふ……。いやでも御一緒ってわけね。うふふ……」

 宮子は意味ありげな笑いを、蓮ッ葉に笑いながら、鶴雄を誘って曲り角を折れて行った。

 やがて、大きな門構えの家の前まで来ると、

「ここよ。さア、どうぞ」

 宮子はくぐり戸をあけて、先にはいったが、鶴雄はふと突っ立って、

「小郷虎吉」

 という標札をじっと挑み掛るように見上げていた。

「何をぼんやりなすってるの。どうぞ」

 宮子はじれったそうに言った。



 宮子にうながされて、鶴雄は思い切って中へはいった。

「これがあの弓子の姉をひどい目に合わせた小郷虎吉の家か」

 と、思うと、中へはいるのは何か不潔なような気がして、ふとためらったが、しかし、とにかく山吹教授の紹介状を貰ってここまで来たのだし、それに宮子に案内されてついて来た以上、まさかはいらぬわけにもいかなかった。

 白い椿の咲いている庭を通って、やがて鶴雄は応接室へ通された。

「一寸待ってね」

 宮子は親しそうな口を利いて、出て行くと自分の部屋にはいり、三面鏡の前に坐って、化粧をなおしながら女中を呼んだ。

 女中が来ると、

「お客様に紅茶とチョコレートを差し上げて頂戴! ──兄さんは……?」

「お留守どす」

「姉さんもまだでしょう……?」

「はい」

「幹男は……?」

 幹男というのは虎吉の一人息子で、中学校四年生である。

「坊っちゃまは……」

 と、女中はなぜか赧くなって、

「お出掛けどす」

「ふーん。じゃ、誰もいないのね」

 宮子は鏡の中でにやりと薄気味わるく笑って、そして笑ったままの唇へ紅を塗りながら、

「──お風呂沸かして頂戴!」

「はい」

「大急ぎで……」

「はい」

 女中が去ろうとすると、宮子は、

「ちょっと!」

 と鋭く呼びとめて、

「──あんた、お腹大きいんじゃない……?」

 と、じっと女中の腹へ視線を注いだ。

「はあ、いいえ……」

 女中は眼の中まで赧くなった。

「だったらいいけど……」

「…………」

 女中は何か言いたそうにもじもじしていたが、やがてだまって出て行った。

 宮子は念入りに化粧を済ませると、鏡台の抽出から、とって置きのコティの香水を取出して、胸や耳のうしろへ振りかけて、そして再び応接室へ戻って来た。

「お待たせしました」

 そう言いながら、椅子に腰を掛けると、宮子はいきなり両手を頭のうしろで組んで、両足をすっと伸ばした、二の腕が白い。

「──今日は誰もいないのよ。ゆっくりしてらっしゃい」

 用件もきかぬうちから、宮子は言った。

 鶴雄はそんな宮子のみだらな姿勢から、ふと眼をそらしながら、

「ご主人はお留守ですか。じゃ、またお伺いすることにします」

 と起ち上ろうとすると、

「帰さないわよ」

 宮子はずばりと言った。



 鶴雄は思わず宮子の顔を見た。

「帰さない──って一体どういう意味だろう……?」

 宮子の眼は情欲的に輝いていた。

 酒に酔っぱらった男が、理性を失って本能的に女を求めるように、ダンスのあとの悩ましいやるせなさを持て余していた宮子の淫蕩の血は、物狂おしく男を求めていた。

「とにかくお坐りになったら、どう……?」

 宮子が言うと、鶴雄は、

「じゃとにかく坐りましょう」

 と、苦笑しながら坐った。

「チョコレート召し上らない……?」

「いや結構です」

 鶴雄はぶっ切ら棒な声を出した。甘いものに餓えているような顔で、

「やあ……これは珍しいですな」

 などと、やに下って手を出すのは、醜態だと思ったのだ。

「ご用件は……? あたし代りに伺ってもいいでしょう」

「はあ、実は……」

 山吹教授の紹介で来たのだと、鶴雄は紹介状をポケットから出して、宮子に渡した。

「拝見してもいい……?」

「どうぞ」

 宮子は封を切った。


 ──梶鶴雄君は小生の教え子にて、学力優秀、品行方正にて家庭教師として最適の人物と愚考仕り候わば、宜しく御引見の上御採用下され度く願い上げ候……。

「じゃ、あんた、幹男の家庭教師になりにいらしたのね」

「ええ」

「幹男、来年三高を受けるんだけれど、あの子ちっとも出来ないのよ、たぶん落第だと思うわ」

 宮子はそう言って笑ったが、ふと狼狽したように、あわててつけ加えた。

「──でも、あんたが教えてやって下されば、何とかなるかも知れないわよ。よく教えてやってね」

「はあ、でも……」

「今日から教えてやって下さる……?」

「はあ」

「じゃ、幹男が帰るまで待っていて頂戴ね」

 宮子はうむを言わさず、鶴雄を引きとめる手段に成功したと思うと、思わずにやりとした。

「あんた、品行方正って本当……?」

 赧くなっていると、女中が風呂が沸いたと知らせて来た。

「あんた、お風呂にはいらない……?」

「いや、結構です」

「でも、あんた首筋が垢だらけよ、折角の美少年が台なしよ」

「構いません」

 鶴雄はむっとした。

「あんたは構わないけど、あたしが構うわ。今日からうちへ来て下さるんだから、毎日お風呂へはいっていただかないと困るわ」

 鶴雄はそう言われると、もう断り切れず、女中に案内されて、しぶしぶ浴室へ行った。

 そして、タイル張りの湯槽に浸っていると、ふと脱衣場の戸があいて、誰か着物を脱ぎはじめたらしい気配がした。



「おやっ、誰だろう……?」

 鶴雄は脱衣場の人影を見て、湯槽の中で思わず固唾をのんだ。

 男のいる浴室へ、女がはいって来る筈もないと思ったが、しかしサラサラと聴えて来る衣ずれの音の柔さは、ふと女のようであった。

 鶴雄は湯槽の中ではっと身を固くした。

 その時、いきなり浴室の硝子戸があいてはいって来たのは宮子であった。

「あッ!」

 と、鶴雄は声を立てそうになった。

 宮子は一糸もまとわぬ全裸の豊満な、白い肉体をくの字にくねらせながら、湯槽へ近づいて来ると、

「お加減はいかが……?」

 にイッとした笑いを浮べた。

 鶴雄は口も利けぬくらい驚きながら、山吹教授の言葉をふと想い出した。

「──あの家には出戻り娘がいるからね」

 だから、美少年の鶴雄を家庭教師に推薦するのは、躊躇されるね──と山吹教授が言うと、スタンダールの「赤と黒」の訳者の桑山竹夫が、

「つまり、ジュリアン・ソレルかね。いいじゃないか。ジュリアン・ソレルにしてみるのも……」

 と言った。

 ジュリアン・ソレルというのは、「赤と黒」の主人公で、美貌の少年である。貧しい家に育ったが、天才的に記憶力がよく、ラテン語を自由自在に操る点を買われて、町長のレナール家に家庭教師として住み込んだところ、レナール夫人と恋愛関係に陥ったので、追われて神学校にはいり、のち伯爵家の秘書に雇われると、伯爵の令嬢のマチルドを誘惑し、最後に嫉妬からレナール夫人をピストルで射ったために、死刑になったという男である。

 その生涯を表面的に観察すればいかにも芳しくない人物だが、しかし、貧しく卑しい育ちでありながら、比類なき自尊心の強さと、精神の高貴さと、つねに自分以外の何ものをも頼らず信ぜず、ギリギリ一杯に生きるという情熱の激しさで、いかなる青年も真似ることの出来ない第一級の人物であったから、かえって多くの模倣者即ちソレリアンを生んだ。

 それほど、この「赤と黒」の主人公は影響力の強い人物であった。

 鶴雄もジュリアン・ソレルを自分に擬し、ジュリアンのような生き方に憧れることにかけては、人後に落ちなかった。

 だから、桑山竹夫の言葉をきくと、ふと食指が動いた。それに小郷の家を見て置きたいという好奇心もあったから、山吹教授に紹介状を書いて貰ったのだった。

「ジュリアンになれたら本望だ」

 つねにサイコロによって自分の行動を左右しながら、運命の刃の上を渡るような激しいスリルを求めてやまない鶴雄は、倦怠した生活から脱け出す血路を、下鴨の小郷の家に求めてやって来たのである。

 ところが、和製のジュリアン・ソレルもいきなり出戻り娘に浴室へ浸入されるようでは、随分相場も下落したものである。高貴な精神もへったくれもあったものじゃない。ただ、官能的なはしたない場面が鶴雄を待ち受けていたに過ぎない。

 鶴雄は出るに出られず、湯槽の隅に小さくなっていると、

「あたしがはいっちゃ恥かしいの……?」

 と、宮子は言いながらあられもなく同じ湯槽へはいって来ると、

「あんた、うぶなのね」

 燃えるような眼で鶴雄の横顔を見つめた。



「実際へんな工合でした……」

 と、その入浴のことを、鶴雄はあとになってから小田策之助に語った。

「──何しろはじめての経験でしょう?」

「はじめてとは、何がはじめてなの」

 小田策之助は真面目か不真面目か判らぬ様な顔をして、きいた。

「つまり女と一緒に風呂にはいることが……」

 と、鶴雄は赧くなって答えた。

「ああ」

 と、小田は軽くうなずいて、

「なるほど、はじめてだろうね。でそれからどうなったの? ほかになにかはじめての経験があった……?」

「…………」

 鶴雄はしばらく黙っていた。

「小郷宮子は、君に、あんたはうぶなのね……と言ったんだろう? それから? 君は何と答えたの?」

「黙っていました」

「ふーん。なるほど黙っていた……のか。すると?」

「すると、相手は……」

「つまり宮子がだね」

「ええ。いきなり、あんた首筋真っ黒じゃないの、洗ったげるわと言って手を伸ばして……」

 鶴雄の首を抱こうとした……というのである。

 鶴雄は宮子の手を払おうとした。

 すると、宮子は鶴雄の手を掴んで、あっという間に、その手を自分の胸のふくらみに当てようとした。

「あッ、何を……」

 円みを帯びた柔い感触に、鶴雄はどきんとした。やけどをしたような驚きだった。

「──咄嗟に僕は……」

 と、鶴雄が言うと、小田は膝を乗り出して、

「咄嗟に、どうしたの」

 と、きいた。

「咄嗟に、手をひっこめて湯槽から逃げ出して、浴室を出ました」

「なるほど、出たのか」

「ええ」

「宮子は何と言ったの……?」

「卑怯者! と言いました」

「なるほど、卑怯者か。あはは……」

 その「卑怯者」という宮子の言葉を背中に聴きながら、浴室を出ると、鶴雄は脱衣場で素早く洋服を着た。

 脱衣場の窓の外はもうたそがれて、庭の椿の花が夕闇の中にぽっかりほの白く泛んでいた。

 それをちらと見た途端、鶴雄はふと鈴子のことが頭に泛んだというのである。

 夕闇の中の椿の花の清楚な白さが、鈴子を想い出させたのであろうか。

 淫蕩的な宮子の爛熟した肉体を見た反動として、鈴子のういういしい可憐さが、ふとなつかしくなったのであろうか。

 鶴雄は急に先斗町へ帰りたくなった。鈴子のいる先斗町へ……。先斗町の雰囲気は鶴雄にとっては堪え切れぬものだったが、しかしわずかに鈴子がいることで、鶴雄のあえかな郷愁をそそった。

 黄昏のせいかも知れない。

 脱衣場を出ると、鶴雄は宮子を浴室へ置き去りにして、廊下伝いに応接室へ帽子を取りに行った。

 ところが、ドアをひらくと、応接室の中には意外な人物が坐っていた。



「あ、君は……」

 応接室にいた女の顔を見て、鶴雄は思わず声が出た。

 女は弓子だった。

 と弓子も鶴雄の顔を見て、びっくりしたようだった。

「──あなたはここの方だったの……?」

 ふとがっかりしたような声で弓子はきいた。

「まさか」

 と、言いながら、鶴雄は中へはいって、ドアを閉めると、急に声をひそめて、

「僕が小郷虎吉の家の人間である筈がないじゃないか。僕はただの訪問客に過ぎないんだよ」

「それもそうね」

 弓子ははじめてにこりとして、

「お掛けになったらどう……?」

「うん」

 鶴雄が坐ると、

「奇遇ね」

 弓子の声はもう懐かしそうだった。

「うん」

「こんなところでお眼に掛れようとは思わなかったわ」

「偶然というやつは続き出すと、きりがないんだよ」

 そして弓子と顔を見合わせて笑いながら、鶴雄はふと、今にも宮子が浴室からこの部屋へやって来そうな気がして、気が気でなかった。

 すると、一体どういうことになる……?

 いや、どうなろうとも構うもんか。逃げるなんて卑怯だ。とにかく、尻を落ち着けてやろうと思うと、もう鶴雄は糞度胸を決めてどっかとソファに凭れ掛った。

「で、あなたは……」

 何をしに来たのかと、弓子はきいた。

「なあに、家庭教師に雇われて来たんだよ」

「ふーん。こいつは面白い」

 弓子は男のような口を利いて、

「──人生って面白いわね」

「で、君は……?」

 と、こんどは鶴雄のきく番だった。

「小郷虎吉に会いに来たのよ」

 弓子はズバリと言った。

「そりゃ判ってる」

「何のために会いに来たのかと、ききたいんでしょう……?」

「うん」

「当ててごらんなさい」

 弓子の眼は瞬間豹のようにピカリと輝いた。

「そうだね」

 と、鶴雄は暫らく考えて、

「──まさか、姉さんがひどい眼に会わされたので、その抗議に来たのだとは思えないね」

「無論」

 簡単に答えて、弓子は、

「そんなばかげた用事で来やしないわ」

「だいいち、小郷って男は、よく知らないが、そんなことを取り合うような男じゃないだろうからね」

 弓子の姉の千枝子が素人娘ならともかく、商売女である以上、抗議は成り立つまいと、さすがに色町生れだけに、鶴雄はよく知り抜いていた。

「そりゃそうよ」

 弓子は急ににやりと笑うと、

「しかし、小郷虎吉も案外可哀相な男ね」

「えっ……? どうして可哀相だというの」

 鶴雄がきくと、弓子は、

「実はそれを言いにきたのよ」

 と、謎のような口を利いて笑った。



「ふーん」

 と、鶴雄はうなったが、ふと想い出したように言った。

「──しかし、小郷虎吉は今いないよ」

 今日はたれもいないと、さっき宮子がある意味を持たせて言ったのを、鶴雄は覚えていたのだ。

「だからこうして待ってるのよ。帰るまで待ってやるわ。あたし小郷の真青な顔を見たくてたまらないの」

 弓子はそれが癖らしい早口で言った。癖といえば、ものを言う時、白い歯の間から覗かせた舌の先を動かす癖があった。それが、ふと可憐に見えた。

「小郷が真青になるって、一体そりゃどういう意味……?」

 鶴雄がきくと、弓子は、

「じゃ、あなたにだけ言うわ。あなたにも少し関係のある話だから……」

「へえ?」

 鶴雄は思わず坐り直した。

「実はあなたが小野屋旅館のあたしの部屋を出て行ってから……」

 と、弓子が語りだしたのは、こうだった。

 ──鶴雄と入れ違いに、望月三郎が弓子の部屋へはいって来た。

 望月は弓子が掏摸をしているという話を、たまたま隣の部屋できいたことを奇禍として脅迫的に弓子を誘惑しようとした。

 しかし、弓子は姉の千枝子のように弱い女ではなかった。

 ピシャリと望月の頬を撲った。

 が、その手はいきなり望月に掴まれてしまった。

 弓子はその手を振り離そうとしたが、望月は執拗に離さなかった。

「離してよ」

「離さない」

 己惚れの強い望月は、自分の美貌と人気(ことに歌の魅力)を以ってすれば、どんな女も自分を拒まないという自信を持っていた。おまけに、自分は弓子の秘密を握っているのだ。この手のように握っているのだ。だから、簡単に誘惑出来ると思い、いきなりそんな振舞いに出たのだった。

 一つには、一体に旅館の部屋というものは、旅情的な女恋しさの情をそそるように出来ているので、君勇にふられた不満を、君勇よりももっと新鮮な魅力のある弓子の体に求めようとして、思わず知らずわれを忘れて手を出そうとしたのかも知れない。何れにしても莫迦げた真似を、望月はしたものだ。

 果して、ピシャリと撲られたのだ。望月としては、自尊心を傷つけられること、おびただしいものがあった。

「もうこうなれば、意地でもこの娘を誘惑しなくてはならない」

 望月はそう思って、あくまで手を離さなかったのだ。

「離さなければ、声を出すわよ」

 弓子は弱身を見せまいとして、キンキンした声で言った。

「そりゃよした方がいい。声を出すと、君のためにならん」

「へえん。古い科白ね」

 弓子は手を握られたまま言った。

「声を出して、人を呼べば、その人にあたしが掏摸だってことをバラすっていうわけね」

「そんな野暮なことはしたくないが、しかし万一そんなことになれば、君のためにならんというわけよ」

「構わないわ。バラしなさい。その代り……」

 弓子はこれが最後の切札だと思いながら、言った。

「──あなたにもためにならん結果になってよ。いいえ、望月三郎という人気歌手にとって……」

「えっ……?」



「……望月のやつはね、思わずどきんとしたわ」

 と、弓子は鶴雄に語った。

「──やっぱり効果があったのね」

「効果っていうと……?」

 鶴雄は弓子の言っている意味が判らなかった。

「つまり、あたしが声を立てて、人を呼ぶと、あたしのことをバラすと言っておどかすから、あたしの方でも逆に望月があたしを脅迫したことをバラしてやる──とほのめかしたのよ」

「なるほど、奴さん、自分の人気に疵がつくのが怖いんだね」

「そうよ。ああいう男は人気だけが生命なのよ。あたし、それを利用してやったのよ」

「ふーん。君は鋭いね」

 鶴雄は「架空のインタヴュー」の文句を想い出した。

「いやよ、お世辞なんかいって、あなたらしくないわ」

「いや、お世辞じゃないよ。──ところで、望月のやつは思わずどきんとしたまでは判ったが、それからどうなったの……?」

「それからが問題なのよ」

 と、弓子は声を弾ませた。

 鶴雄はちょっと緊張した。

「──どきんとして、まず手を離したのよ」

「それから……?」

「望月のやつ、ばつの悪そうに暫らくもじもじしていたけど、いきなり、じゃまたあとで……と言って、あたしの部屋を出て行ったのよ」

「あはは……。じゃまたあとで……はよかったね」

「どうせ、あたしの秘密握っているので、いつでも誘惑する機会はあると思ったんでしょうね」

「ふーん。ちょっと薄気味悪いね」

 と、鶴雄が言うと弓子は、

「なアに平気よ」

 と、澄ましていた。

「で、望月は部屋を出て行って、それきり……?」

「いいえ、それからが問題なのよ」

「一難去ってまた……?」

「いいえ、その逆よ」

 と、弓子はにやりと笑った。

「望月に電話が掛って来たのよ」

「誰から……」

「小郷虎吉のワイフ、真紀子夫人……」

「ああ」

 なるほどと、鶴雄は「そろばん屋」で電話を借りていた女のことを思い出した。

「──で、それから……?」

「小郷夫人、小野屋へやって来たわ」

「望月に会いに……?」

「そうよ」

「じゃ、小郷夫人は望月と……?」

「そうなの……」

「なるほど……。で、無論小郷はこのことを知らないだろうね」

「……と思うわ。だから、それを小郷にきかせてやりに来たのよ」

「それで判った。なるほど、小郷虎吉、真青になるだろうね」

 鶴雄は弓子と顔を見合わせて愉快そうに笑った。

 その時、いきなりドアがあいた。



 鶴雄と弓子は、はっとしてドアの方を見た。しかし、ドアをひらいたのは、制服を着た中学生であった。

 襟には4の襟章がついている。四年生だろう。

 顔色が冴えず、何か思い悩んでいるらしく、眉間には深い縦皺が刻まれていた。

「おれが教える幹男という小郷の長男は、この中学生だな」

 と、鶴雄は咄嗟に直感した。

 幹男は、誰もいないと思って、その応接室のドアをひらいたらしく、二人の姿を見ると、

「あ……」

 失礼しましたと、軽く頭を下げ、力なくドアを閉めて出て行った。

 そして、廊下伝いにしょんぼり自分の部屋にはいると、ごろりと仰向けに寝転んで、そのままじっと天井を睨んでいたが、やがてポケットから煙草を取り出すと、火をつけた。

 唇をとがらせて器用に煙の輪を飛ばしていると、すっと襖があいた。

 女中のお雪がしずかに入って来たのだ。

 幹男はちらとお雪の方を見ると、急に眉をひそめた。

 お雪は幹男の足元に坐って、じっとうなだれていた。

「…………」

「…………」

 暫らく沈黙が続いた。

 やがて、幹男はその鉛のような沈黙の雰囲気にたまりかねたように、

「あっちイ行け!」

 いらいらした声で言った。

「…………」

 しかし、お雪はじっと坐ったまま、動かなかった。

 幹男はわざと眼を閉じて、お雪の顔を見まいとしていた。

 煙草の灰が落ちようとした。

 お雪はしずかに起ち上ると、幹男の枕元へ灰皿を持って行った。

 幹男はその灰皿に煙草を捨てると、急にむっくり起ち上って、出て行こうとした。

「坊ちゃま」

 お雪は幹男の上衣の端を掴んだ。

「なんや」

 幹男はお雪の顔を見た。眼がうるんでいた。

「──泣いてるのンか」

 幹男はふといじらしくなって、お雪の肩に手を掛けた。

 肩はふるえていた。

 幹男はいきなりお雪を抱きしめようとした。

「あッ」

 お雪は抱かれながら、しかし顔をそむけて、

「──いや、いや……」

 そして、わっと泣き伏した。

 幹男はひきつったような顔で、ぽかんと突っ立っていたが、やがて、どっかとお雪の傍へ坐ると、

「なんぜ泣くねン……?」

「…………」

「一体どないしたんや」

「…………」

「言うてみイ」

 お雪はきっと涙にぬれた顔をあげて、

「坊ちゃま。あのウ、若奥様が……」

 若奥様とは宮子のことだ。幹男には伯母に当る。

「伯母さんがどないしたんや……」

 幹男は不安そうにきいた。


十一


「若奥様が何もかも……」

 お雪はおろおろと答えた。

「何もかも……どないしたんや」

 幹男はじれったそうにきいた。

「何もかも勘づいておしまいどした」

「え……?」

「今さっき、お前妊娠しているのと違うか──ちゅうておききどした」

「叔母さんが……」

 お雪はうなずいた。

 幹男は血の色が自分の顔から引いて行くのを、意識した。

「うちもうここに居られしめへん。どないしたら、よろしおすやろ……?」

「さア、どないしたらええやろ」

 幹男はいかにも途方に暮れたというような精のない声で、ぽそんと言った。

 本当にどうしていいか、判らなかったのだ。

 ただはっきりしていることは、自分が女中のお雪にはらませたこと、十七歳の自分がやがて父親になろうとしていること、しかもそれを叔母の宮子に勘づかれたらしいこと……これらの生なましい事実だけだった。

 幹男は今更のように自分のした事を後悔した。

 お雪は十九歳……。こぢんまり纒まった可愛いい顔立ちで、おまけに色が白かった。本名は芳枝だが、余り色が白いのでこの家へ女中として雇われて来た時、途端にお雪という名をつけられたくらいである。

 幹男ははじめの間はそんなお雪を見ても何とも思わなかった。

 が、ことしの正月、十七歳になると、もうお雪を見て、虚心坦懐でおれなかった。

 幹男は時どき鏡の前でニキビをつぶしながら、お雪の肢態を瞼にえがくようになった。

 ある日、学校へ行くと悪友が騰写版刷りの本を貸してくた。

 この本は幹男の大人をにわかに目覚ました。

 その夜、お雪が蒲団を敷きに来た。

 じっと息を凝らしながら、幹男はお雪の容子を見ていた。

 何かの拍子に、ちらと白い足が覗いた。

 幹男はいきなり立ち上って、お雪のうしろへ廻った。

「お雪!」

「……? ……」

 お雪は振り向いた途端、「あッ」いきなり足をすくわれてたおれた。

 幹男は学校で柔道部へはいっていた。

 お雪は幹男が柔道の手を見せたさに、冗談に、無邪気な気持で自分を倒したのだ──と思った。

 そして、裾をかき合わせて立ち上ろうとすると、幹男はいきなり折り重なるように、お雪の体の上へ……。

 お雪はもがいたが、しかし、幹男の異性に対するはげしい好奇心と、動物的感覚は元来持ち合わせのすくない理性を、すっかり麻痺させていた。

 お雪は幹男がきらいではなかった。女中づかいの荒いこの家で、幹男だけはお雪に用事をいいつけることもすくなく、優しい坊っちゃんだと思っていた。

 その坊っちゃんが自分を好いていてくれたのかと、お雪は幹男の荒々しい動作を、自分への愛情のはげしさだと、その時ふと思ったくらい、愚かな弱い女だった。

 二人はあり来たりの関係に陥った。そしてお雪はかんたんに妊娠したのだ。……

 その時のことを、生なましい後悔でふと想い出しながら、幹男は、

「どないしたらええやろ」

 と、ただ呟いていた。


十二


 応接室から笑い声が聴えて来た。

 幹男はその声を、遠い想いで聴いていた。

 さっき応接室のドアをひらいた時、ちらと見た鶴雄と弓子……その二人が何の用事で誰を訪ねて来たのか、そんなことを考える余裕は、幹男にはなかった。

 ただ、あの二人は幸福そうだな──と、ふっと羨しかった。

「いや、あの二人だけではない」

 世界中でおれは一番不幸な人間だと、幹男は思った。

 毎日の新聞を見れば、世間には多くの不幸な人間がいる。いや、日本人全体が不幸になっている。

 しかし、それらの不幸な人間よりも、このおれの方が不幸だと、幹男は十七歳の頭で考えていた。

 不幸な人間は、誰でも自分が一番不幸だと考えるものだが、幹男もまたそうだった。

 しかし、どんな風に不幸なのかは、はっきり判らない。

「おれは学校を追い出されるだろう。もう憧れの三高にはいれない」

「もうこの家に居れない」

「友達がこのことをきいたら、何と思うだろう」

 そんな風なことを漠然と考えていた。

 友達の顔がいくつも幹男の頭に浮んだ。

 ふと、木村という友達のことを想い出すと、幹男は急にいきいきとした眼になった。木村の父親は産婦人科医だった筈だ。

「そうだ!」

 と、呟くと幹男はいきなりお雪に言った。

「お雪、おなかの子をおろしてしもたらどないや。おれ友達の親父に頼んだる」

「え……?」

 お雪はびっくりして幹男の顔を見た。

「──いやどす、いやどす……そんなおそろしいこといやどす!」

「頼むからおろしてくれ」

「いやどす、いやどす!」

 お雪は泣き出した。

 きつくいやだと言われると、もう幹男は気の弱い少年だった。

 ただぽかんとして、泣き出しているお雪の背中をながめていた。

 肩から背中へ小刻みにふるえている。

 幹男はいきなりお雪ににじり寄って行った。

 そしてお雪の顔に手を掛けて起そうとした。

 幹男の手に熱い涙がポトリポトリ落ちて来た。

 その時、

「お雪!」

 と癇高い声が聴えて来た。

 宮子の声だ。

 お雪はつと起ち上ると、

「はい」

 涙を拭きながら廊下へ出た。

 宮子は怖い眼をして突っ立っていた。

「お雪! お前いま何をしていたの……?」

「…………」

「応接室にいる女の方、誰なの……?」

 宮子はいま風呂から上って、応接室から聴えて来る鶴雄と若い女の声を耳にしたのだ。

「はい、お名前はお言いはれしめへんどした」

「なんぜ、あたしに黙って通したの?」

「はア、あの、若奥様はお風呂どしたさかい……」

「じゃ、断ればいいじゃないの」

 その時、応接間のドアがひらいて、弓子はすっと出て来た。


十三


「そんなに叱ってあげちゃ気の毒だわ」

 弓子はいきなり言った。

 宮子ははっと振り向いた。

「あなたは……」

 誰方ですの、と睨みつけると、弓子は、

「あたし……?」

 にやりと笑って

「京洛日報の相馬弓子です」

「あ、新聞社の方ですか」

 宮子の表情は急に和らいだ。

「はあ」

 と、弓子はうなずいて

「──女中さんのお停めになるのもきかずに、勝手に上り込んじゃって、ごめんなさい。婦人記者って随分あつかましいと、お思いでしょうが、でも、ぜひこちらのご主人にお眼に掛らねばならぬ急用がありましたので……」

 べらべら喋りながら、腹の中では舌を出していた。

「小郷は只今、留守なんですけど、どんな御用件でしょう……?」

 宮子は弓子を本当の婦人記者だと思い込んでしまったようだった。

「ここでは申し上げにくいんですが……」

 弓子はわざとあたりを見廻しながら、急に声をひそめて、

「──実はお宅のことで、新聞社へ投書が参っておるのです」

 と、言った。

 声をひそめたために、一層効果があったのか、宮子の顔がさっと曇った。

「そうですか。わざわざどうも……。さアどうぞ」

 宮子は打って変ったように鄭重になって、弓子を茶室の方へ案内した。鶴雄のいる応接室は避けた方がいいと思ったのだろう。

 数奇を凝らした茶室であった。が、弓子の眼には、ただ虚栄と成金趣味の茶室としか見えなかった。

「この部屋一つ解放しても、何人かの罹災者が救われるのに……」

 そう思うと、塵一つ落ちていないその清浄な茶室が、急にけがらわしいものに見えて仕方がなかった。

 宮子は弓子を案内して、二言三言挨拶が済むと、座を外して応接室の方へ戻って行った。

 がドアをひらくと、もうそこには鶴雄の姿は見えなかった。

 宮子はがっかりしてお雪を呼んだ。

「お客様は……?」

「学生はんどすか」

「そう、学生さん」

「たった今、お帰りにならはりました」

「あたしに言づけはなかった?」

「はア、何にも……」

 お雪はそう言ったが、急に想い出して、

「──あ、そうそう、あのお客様にこれを渡してくれいうて、ことづかりました」

「お見せ?」

 紙片に、鉛筆書きで、

「待っていようと思いましたが、サイコロの命令で先に帰ります。明日正午、西木屋町のべにやというしるこ屋で待っています」

 弓子への置手紙だった。

 宮子はいきなり破り捨てようとしたが、何思ったか、にやりと笑うと、その紙片を帯の間へ入れた。

 そして、弓子のいる茶室の方へ何食わぬ顔で廊下を伝って行った。


先斗町



 先斗町に夜が来ていた。

 桔梗家の二階──鴨川をへだてて、四条京阪のプラットホームや、南座の灯が見える部屋で、小郷虎吉は芸者や仲居を相手に、かなり酔っていた。

「君勇はまだか」

 先斗町へ来て、君勇の顔が見えぬと、もう小郷は糞面白くなかった。

「もうじき来やはりますえ」

「来る来るって来んじゃないか」

「いま貰い掛けましたさかい、じきどす」

「一体どこの座敷へ行っとるんだい、君勇のやつは……」

 さんざん待たされたので、小郷は野暮な声を出して、野暮なことをきいていた。

「祇園へお呼ばれや──言いましたやろ。何べん言うたらお分りどんネ」

 鴨川踊りの初日に鳥追女を踊る市龍という、面長の背のすらりとした芸者が、なんと野暮な客だろうと呆れながら、

「──さア、おあけやす。ぼうふらが湧きまっせ」

 と、ビールの瓶を持った。

「よし飲む」

 一息にのみほして、

「祇園の何という店だ」

「知りまへん」

 市龍は横を向いてしまった。

 君勇が先斗町から呼ばれて行った先は、祇園の備前屋だった。

 わざわざ名指しだったが、お座敷は見知らぬ顔ばかりだった。

 世界文学社の島野二三夫、評論兼翻訳家の桑山竹夫、同じく吉井正太郎、同じく中山定二、小説家の小田策之助という、凡そ粋ならざる書生っぽばかしの一座であった。

 実は、桑山竹夫が今日仙台からやって来たので、その歓迎の意味もあり、島野の招待で一同ぼそんと備前屋の二階にやって来たわけである。

 名づけて「林檎の唄を歌う会」

 ──林檎の唄にかけてはかなりのうんちくのある山吹教授は、明日結婚式があるので欠席した。

 山吹教授が結婚するのではない。山吹教授の媒酌する結婚式があるという意味だ。

 山吹教授の林檎の唄がきけないというので代って島野二三夫が文若という一寸色っぽい芸者の三味線で唄っていた。

 歌詞は手帳を見てうたうので、正確だったが、節ははなはだ不正確であった。

 島野の隣では桑山竹夫が三十二回目のサノサ節をうたっていた。

 桑山は東京から京都までの汽車の中で即製のサノサ節を四十も作ったという男である。

「さア、小田君きけ。おれのサノサをきけ」

 桑山はそう言いながら、うたって──というより、うなっていたが、小田はそれどころではなかった。

 運悪く隣に坐った吉井正太郎より、例によってネチネチと、最近発表した小説をけなされている最中だったので、その方の応酬に大童であった。

 そこへ君勇がはいって来た。途端に小田は吉井の方はそっちのけで、いきなり君勇の方を向いて、

「なるほど、君が君勇かね。そうかね。そうかね。なるほど……」

 しきりにうなり出した。



「何どんネ……?」

 君勇はにやにやしていた。

「──何がなるほどどんネ……?」

「あはは……」

 小田は何となく笑い出した。

 君勇は、この男が自分を名指しで呼んだのだなと、直感した。

 その通りだった。

 小田はその先輩や友人と一緒に備前屋へ来て、芸者の顔を見た時、ふと、

「そうだ。あの梶鶴雄に惚れているらしい芸者がおった筈だ」

 と、鶴雄の話を想い出した。

「──たしか、先斗町の君勇という名の芸者だ」

 小田は備前屋のおかみに、

「祇園からでも先斗町の芸者はよべる……?」

 と、野暮なことをきいた。

「へえ、呼べます。お馴染はんおいやすのンどっか」

「いや、なに一寸会うてみたいんだ、いや、顔を見るだけでいい」

 そして、君勇を呼んだのだった。

 君勇が来ると座の空気はふと冴え返った。

 桑山竹夫はここを先途とサノサ節の調子をはり上げた。

 中山定二は何となく瞑想に耽るが如く美術品を鑑賞するが如く、何とも形容しがたい眼で君勇の横顔を見ていた。

 吉井正太郎は、こんどは誰をつかまえて、リーダーズ・ダイジェスト仕込みの話をしかけようかと一同の顔を見ていたが、男はみなだめだと判ると、稲福という舞妓をつかまえて、

「君、ええ話教えたげよか。鰐が一匹おったんや……」

 と、話し出した。

 島野二三夫は林檎の唄がすんでから、文若を相手に、ケッセルの「昼顔」という小説の話をしていたが、途中で話を打ち切ると、君勇をつかまえて、

「君、一緒に歌うたおうか」

「へえ、歌いまひょ」

「何うたおう。紅燃ゆる知ってるか」

「へえ」

 君勇はふと赧くなった。

 小田はすかさず言った。

「おい、島野、なぜこのジンゲル(芸者)が赧くなったか知ってるか」

「おれに気があるからだろう……?」

「莫迦をいえ! 紅燃ゆるが君勇女史の頬を紅燃ゆるにしたんだよ」

 呆れるくらい、下手な洒落を言った。

「何どんネ……?」

 君勇はまた赧くなっていた。

「三高がなつかしいってことよ」

 小田ははすっぱな東京弁を使った。

 君勇は、

「あら!」

 と、眼をみはった。

 そこへ、女中がはいって来て、

「君勇さん、ちょっと……」

 君勇は階下へ降りて行った。

「何どす……? 姐さん……?」

「お貰いどんネ」

「どこから……?」

「桔梗家はんどす。お受けやすか」

 桔梗家ときいて、君勇は思わずにこりとした。

「桔梗家へ行けば、鶴雄さんに会える……」

 君勇は匂うばかりにはにかみながら、

「ほなお受けさせて貰います」

 と言った。



 君勇は二階へ挨拶に上った。

「おおーけに……」

 帰らせていただきますと、両手をつくと、

「なんだ、もう帰るのか」

 小田はがっかりしたように、

「──しかし、まアいいや。貰いなら仕方がない。後日また会おうよ」

「へえ、おおーけに。当てにしてますえ」

 君勇はあでやかに笑うと、すくっと立ち上ると、すらりとした後姿を見せて、出て行った。

 小田はその後姿を見送りながら、

「雪国だね」

 と、言った。

「雪国ってなんだ。季節はずれのことを言うなよ」

 と島野が言った。

「川端さんの雪国だよ」

「ああ、お駒か」

 と、島野も川端康成の「雪国」という小説に出て来る芸者を想い出した。

「あのお駒は実物はあんなに綺麗じゃないそうだね。おれのお駒は実物が綺麗だよ」

 と、小田。

「おれのお駒……? ああ、あの君勇を書くのか」

「君も書いてやる。実物以上にスマートに書いてやる。スマートかズマートか知らんがね。あはは……」

 その頃君勇は、

「桔梗家へ行けば、鶴雄さんに会えるかも知れない」

 と、呟きながら、縄手の通りを抜けて、四条通りの方へ歩いていた。

 やがて、四条京阪の前まで来て、ゴーストップを待っていると、ぽんとうしろから肩を敲かれた。

「……? ……」

 振り向いて、君勇は、

「あっ!」

 と、声をのみ、いや、棒をのんだように突っ立って、暫らく口も利けなかった。

 浮浪者のような──といっては嘘になるが、とにかくみすぼらしい服装の、四十五、六の男が、古障子のような無気力な顔で、ちょぼんと立っているのだった。

 鼻の横のアザに見覚えがある。

 一年前に別れた旦那の三好春吉だった。

「君勇久し振りやなア」

 三好はなつかしそうに言った。

「ほんまに暫らくどしたなア──お達者どすか」

「うん。まア生きてはいるけど、あんまり達者とはいえん」

「そんなこと……」

「いや、ほんまや、いっそ死んだ方がましや思ってるくらいや」

 三好は寂しく笑いながら、弱々しい咳をしていた。



「えらい変り方や」

 君勇はそんな三好を見ると、さすがに胸が痛んだ。

「おれももう永うない」

 三好はぼそんと言ったが、その時、京阪電車が眼の前をよぎって行ったので、三好の声は電車の音に消されて聴えなかった。

 信号が変ると、二人は肩を並べて、四条大橋を渡って行った。

 春のおぼろ月の淡い光が川原の薄い夜霧を透して加茂の流れにほのかに映っていた。

 先斗町の青楼の灯が瞬いているのを見ると、三好は、

「やっぱし京都はええなア」

 思わず溜息をついて、

「──お前とこないして橋の上を歩いたこともあったなあ」

 未練たらしく、しみじみと言った。

「ほんまどしたなア」

 さすがに君勇もその頃がなつかしかった。

 三好は大阪ではかなり知られた呉服屋の主人で、三日にあげず京阪電車で京都へ来ると、先斗町の君の家で君勇と会っていたのだ。

 そして、来るたびに泊って行き、都ホテルや琵琶湖ホテルへ君勇を連れて行ったこともある。

 いわば三好はお茶屋に公然とそれが出来る所謂旦那だったのだ。

 そのためには随分金も使った。

 三好の入れ揚げ方はさすがに大阪商人らしい思い切った気前の良さだった。

 しかし、君勇は三好が自分のためにそんなに金を使うのを見ても、別に心苦しいとは思わなかった。

 むしろ絞り取ると思われるくらい使わせた。

 そして、それを悪いことだとは思わなかった。自分の体を自由にさせている代償として、当然のことだと思っていた。それが芸者の生き方だと思っていた。

 先斗町に芸者の子として生れ、先斗町に育ち、天成の芸者として先斗町で暮して来た君勇にとっては、先斗町のしきたりというものが、身にしみついていたので、旦那とは金を使うものとしか考えられなかったのだ。

 ところが、三好はにわかに落ちぶれてしまった。もともと金使いが荒かったところへ、商売の呉服物が統制にひっ掛り、だんだんひっそくして来た矢先き、大阪の空襲で店も家も商品も焼かれて、裸一貫になってしまった。何一つ残らず、残ったのは借金だけだった。

 もう君勇へ旦那としての仕送りも出来ず、到頭三好の方から、別れ話を持ち出した。

 さすがに君勇は、三好が気の毒だったが、別れ話にはかんたんに応じた。更に未練はなかった。

「別れるのはいやどす」

 と、言って仕送りはむろん茶屋の借金も払えぬ旦那について行くには、君勇はあまりにも芸者だったのだ。

 ところが、今こうして落ちぶれた三好と再会してみると君勇は美しく着飾った自分がふと恥かしく、寂しくうなだれていると、三好は、

「どや、今夜は一つおれにつき合うてくれんか」

 と、もじもじしながら言った。



「へえ。お伴しまひょ」

 と、君勇はこの落ちぶれたもとの旦那について行って、慰めてやりたかった。

 しかし、桔梗家へ呼ばれている自分が、よしんば元の旦那にせよ、道で会うた男に勝手について行くことは芸者として許されていなかった。

 君勇は返辞のしようもなく、

「はア、おおけに……」

 曖昧に言った。

 三好はそんな君勇を見て、

「いやお茶屋へも通さんと、お前を連れて行くのは無理やいうことは判ってるが……」

 と寂しそうに自嘲しながら、

「──しかし、ごらんの通りすっかり落ちぶれてしもて、お茶屋へ行く金もない。というて、折角お前に会うて立ち話だけで別れるいうのも、未練たらしい言い方やが、心残りや。どや、おれの一生のたのみや、せめてこのあたりで、お茶でもつき合うてくれへんか」

「へえ、おおーけに」

 君勇は同じ返辞をしていた。

「恥を言うようやが、今二十円しか金がない。寺町の闇市で飴を売ったもうけや。この金使てしもたら、明日の飯も喰えん。ま、おれにとっては、精一杯の散財や」

 三好の声はポソポソと不景気だった。

「──実は、今夜は何やらしらんが、昔がなつかしゅうてな、何ということもなしに、足が先斗町の方へ向いて、先刻から路地の中を行ったり来たりして、せめて一眼でもお前の姿を見たいと思てた矢先、うまいぐあいにこんなところで会えたというわけやが、これも何ぞの因縁やろ、二度とはたのまん今夜だけつき合うてくれ」

 恥も何もさらけ出して、頭を下げている三好の眼は、ふと中年男の最後の情熱の物狂おしさに燃えているようだった。

「いやか」

 三好の声は急に凄んだ。何かただならぬその調子は、何か狂気じみていた。

「あ、こんなお方やなかったのに……」

 と君勇はそんな三好をあわれむ前に、何か気味の悪いものがどきんと胸に来た。

「いやなことおへん」

 と、君勇はあわてて言った。

「──でも今お貰いが掛ってせかれてまっさかい、今夜のとこはかんにんしとくれやす。こんどまたお伴させて貰います」

「そうか」

 三好はもうしょんぼりした声になった。

「──やっぱし頼む方が無理やった。あはは……」

 三好は口を歪めて笑うと、いきなり君勇に背を向けて、ひとり立ち去って行った。

「あ……」

 何か心に残って、君勇は呼びとめようとしたが、思い直して、

「──さいなら。お気をつけて……」

 三好の寂しい後姿に声を送ると、そのまま先斗町の路地の中へはいって行った。

 何か後味が悪かった。

「ああ、芸者ていやな商売や」

 君勇はやがて桔梗家の玄関へ、

「おおーけに。今晩は……」

 と、はいって行ったが、その時うしろから一つの影が自分を尾行して来ていることには無論気がつかなかった。

 まして、その人影が君勇と別れて立ち去った筈の、三好だとは、気づく由もなかった。



「お二階どす」

 女中にいわれて、君勇は二階への階段を登りかけて、ちらと奥の間の方を見た。

 遅い夕飯を食べている鶴雄の姿が眼にはいった。

 君勇は思わず胸騒いだ。

 が、いきなり鶴雄の方に寄って行くことは、何かきまりが悪かった。

 君勇は心を残して、女中にせかれるままに二階へ上って行った。

 小郷は君勇がはいって来ると、待ちかまえていたように、酒の酌を命じた。

「なんや、小郷か」

 君勇はいけすかない小郷からの貰いだと判ると、にわかに不愉快になったが、

「一杯いただきまひょ」

 と、盃をねだった。

 そして、ぐっと飲みほしたが、

 そのまま返盃せず、

「注いどくれやす」

 と、盃を差し出して、

「──わて今夜酔わしていただきます」

 ぐいぐいと呷った。

 落ちぶれたもとの旦那の三好に再会した後味の悪さを、酒で消そうとしたのと、一つには階下の鶴雄に言いたいことがあった。酔わねば言えないことが……。

「そうか。酔いたいのか。あはは……」

 小郷はすっかりやに下って、笑い声を立てた。

「──今夜はただでは済まさんぞ。うんと言わなきゃ帰らないってとこじゃ」

 小郷は大分前から、君勇を口説いていた。旦那になろうというのである。

 しかし、君勇はもはや旦那を取る気はなかった。落ちぶれた三好と縁が切れて以来、つくづく旦那を取るのがいやになっていたのだ。おまけに、小郷という男はいやでいやで、反吐が出るくらいだったから頭から断っていた。

 小郷はしかし執拗に諦めず、無論今夜もそのつもりで来ていたのだ。

 だから、君勇が酔いたいといったのをきいて、小郷はもしかしたら君勇もいよいよ気が折れて、うんというつもりじゃなかろうかと、我田引水した。

「まア、飲め、うんといわなきゃ帰らないぞ」

「へえん……おおーけに」

 君勇はふと鼻の先で笑って、

「馬鹿は死ななきゃなおらない。うんといわなきゃ帰らない。うふふ……」

 と、からかうような洒落を言って、溜飲を下げた。

 そこへ、女中がはいって来て、

「旦那はん、お宅からお電話どす」

「電話……? うるさいな。どんな用事じゃ。お前きいとけ!」

「ぜひ旦那はんに出て貰ってくれと、お言いやすのどっせ」

「気の利かん奴じゃ」

 小郷はしぶしぶ階下へ降りて行った。

「なんだ……?」

「あ、あたし宮子。随分あっちこっち心当りへ掛けてみたのよ。今新聞社の方が見えて、ぜひお目に掛りたいとおっしゃってるのよ」

「どんな用事じゃ、お前きいとけ!」

「それがね、ここじゃちょっと言いにくいけど、とにかく会った方がいいわ。──うちのことで投書がはいってるのよ」

「今、帰れん」

「そんな事言っても……。困ったなア。じゃそっちへ行って貰いましょうか。でも、婦人記者だし、先斗町へなんか行って貰えないし……」

「婦人記者……?」

 小郷はふと興味を感じたのか、

「じゃ、こっちへ寄越すようにしてくれ」



 受話機を掛けた拍子に、小郷はじっとこっちを見つめている視線に打っ突かった。

 鶴雄であった。

 挑み掛るような視線だったが酔っぱらっていた小郷は、べつにそれを気にすることもなく、そのまま二階へ上って行った。

「なるほど、あいつが小郷か」

 と、鶴雄は後姿を見送っていたが、ふと、電話での小郷の口振りでは、どうやら弓子が二階の小郷に会いに来るらしいと想い出すと、そわそわと食事を終って、自分の部屋へ引き揚げてしまった。

「こんな家であの女に会うのはいやだ」

 と、思ったのだ。

 その時、

「おおけに。今晩は……」

 と、玄関で若い女の声がした。

 鶴雄はみるみる赧くなった。

 顔を見なくても、鈴子の声だとは、さすがにすぐ判ったのだ。

 しかし、出て行って、鈴子の顔を見る勇気はなく、

「鈴子はん、お二階どす」

 と、女中に案内されて階段を上って行く鈴子の姿を想像しながら胸を騒がせていた。

「鈴子は小郷の部屋へ呼ばれたんだな」

 そう思うと、鶴雄はふと激しい嫉妬に燃えて、カッと天井を睨み上げた。

 小郷のいる部屋は丁度鶴雄の部屋の上だったのだ。

「なぜおれの家はこんな商売をしてるんだろう」

 淫蕩的な小郷の前に坐った鈴子の姿が、丁度自分の頭の上にあるのだと思うと、鶴雄はたまらなかった。

「小郷のやつは、鈴子を見てでれっとしてやがるだろう」

 その通りであった。

 初々しく可憐な鈴子が、清楚な花のように匂うばかりにはにかんで、小郷の前に坐った時、小郷は、

「ほう……」

 と、眼を細めてしまった。

「いい舞妓だ。こりゃ一本になれば大したものだろう」

 すると、小郷はにわかに鈴子への食指が動いて来た。

「いくつだ……?」

「十七どす」

 つぼみのような小さな唇の間から、可愛いい舌を覗かせて鈴子は答えた。

 小郷は思わずその唇の動きに見とれてしまった。

「君勇もいいが、鈴子もいい」

 舞妓を一本にするには、君勇の旦那になるのとは較べものにならぬくらい金がいるが、それぐらいの金は小郷にとっては、何でもなかった。使い切れぬぐらいの新円を銀行から引き出していたのだ。

 小郷にそんな野心があるとは、鈴子は気づかず、君勇に話しかけた。

「君勇姐さん、ええ扇子お持ちどんな」

「えッ?」

 君勇はわれにもあらずどぎまぎした。

 扇子には鶴の絵が描かれているのだ。鶴雄の鶴に因んだ絵だとは知られたくない。

「それどこでお買いやしたんどす……?」

「河原町で……」

 と、言いかけて、君勇はいきなり、

「──ほしかったら、あんたにあげる」

「おおーけに……」

 鈴子は無邪気にその扇子を受け取った。

 そこへ女中が、

「あの、新聞社の方がお見えどす」

 と、知らせて来た。



 弓子は先斗町を通るのははじめてだったが、路地の中ですれちがった芸者をつかまえて、

「桔梗家ってどこでしょう……?」

 と、きくとふっと、赧くなりながら、教えてくれた。

 その芸者が赧くなったのは、そこが鶴雄の家で、その芸者が鶴雄に岡惚れしているからだとは、無論弓子には判るはずはなかった。

 いや、鶴雄が先斗町に住んでいることすら、弓子は知らないのだ。

 知らずに、弓子は女中に案内されて、小郷のいる部屋へはいって行った。

 その部屋には、男は小郷ひとりだから、すぐ、

「あ、こいつだな」

 と、判った。

 途端に、弓子の眼はギラギラと燃えた。

「こいつが姉さんをひどい眼に合わせた男なのか」

 そう思うと、弓子はみるみる顔色が青ざめて行く自分を感じたが出来るだけ平静を装って、

「はじめまして。京洛日報の相馬弓子です」

 と、早口に言った、

「名刺をくれ」

 と、言われれば、

「入社した許りで、注文した名刺が間に合わないんですの」

 とごまかすつもりだった。

 しかし、小郷はさすがにそんな野暮なことは言わなかった。

 ただ弓子のはっとするような澄み切った美しさに、舌を巻いていた。

「婦人記者だと宮子が言いよった時、何だか美人のような気がしたが、これほどのシャンとは思わなかった」

 と、小郷はだらしなく呟きながら、

「さア、どうぞ、敷き給え。ビールはどうじゃ。酒の方がいいかね」

「あたし、いただけませんの」

「じゃ、料理でも……」

 手を鳴らそうとすると、君勇は、

「あてが言うて来ます」

 と、ふらふらと出て行った。

 階下へ行けば、鶴雄の顔が見られるのだった。

「今料理を言ったから、まアゆっくり遊んで行ったらいいだろう。──こういう情緒も一度味っとくがいい」

 小郷は反省とか自制とか潔癖とかいうものが、まるで欠けた男だったから、君勇を見れば君勇を、鈴子を見れば鈴子を、弓子を見れば弓子をと、次々と食指が移っていたのだ。だからおかしいくらい弓子の機嫌を取っていた。

「大分、発展される様ですのね」

 弓子はわれながら、いやな言い方だと思いながら、皮肉ってみた。

「あはは……。なに、これも一種の慈善事業じゃ。わしのような者がこうやって新円をまいてやらんことには、先斗町も祇園も立ち行かんからな。あはは……。しかし金は使っても、品行は方正じゃ。いや実はわしは芸者はきらいでな、第一センスとかいう奴がない。その点あんたのような教養のある近代女性とは何といっても話が合う。今後大いに……、そのウ、何じゃ、わしの方も大いに援助するし、あんたの方も、いろいろ……京洛日報の社長はよく知っとるから……」

 何だか、判ったような、判らぬような、遠まわしの言い方だった。

「芸者はおきらいですの……?」

「うん」

「じゃ、ヤトナは……?」

「ヤトナなんて問題にならん」

「あたしの姉さんヤトナですの」

 弓子はいきなり言った。



 小郷はふと変な顔をした。

 が、まさか、木屋町の女──千枝子が弓子の姉だとは、咄嗟に気がつかなかった。

 弓子は言葉をつづけた。

「つまらない女でも、相手になさいますの?」

 小郷は急に笑い出した。

 その顔を見ていると、弓子はもう姉のことに触れる気はしなかった。

「この男は少しも悪いことをしたと思っていないのだわ! 言っても無駄だ!」

 弓子は話題を変えることにした。

「ところで、今日お伺いしたのは、あたしの社へ、お宅のことで投書が参っておるのですが……」

「ほう……? 投書の内容は……?」

 小郷はびくともしなかった。

「隠匿物資のことなんです。下鴨の小郷虎吉の家には、米三百俵、砂糖千斤隠匿されている。摘発しろと言うんです」

 弓子は口から出任かせに言った。

「あはは……不平分子共が何を投書しよるか」

 小郷はむしろ愉快そうな笑い声を立てた。

「手剛い!」

 と、弓子はさすがに舌を巻いた。

「で、投書をのせる前に、一応事実の有無をきいておきたいと思いまして……」

 弓子は何だか小郷に圧されそうな圧迫を感じながら、

「──事実ですか」

「事実じゃよ」

「じゃ、投書をのせても構いませんわね」

 弓子は食って掛るように言った。

 もう姉のことから来る私憤ではなかった。義憤に似た怒りであった。

「のせる……? あはは……。京洛日報の社長はわしの友人じゃよ」

 小郷は依然として、参らなかった。

「この男は世の中に怖いものがないのであろうか」

 弓子はピシャリと小郷の顔を撲りたい衝動を感じながら、

「それから、もう一つ投書が来てるんですが……」

「あはは……小郷虎吉ついに投書欄の人気者になったか」

「投書の内容は、実は……」

 居並ぶ芸者や舞妓の顔を、素早く見廻して、弓子はズバリと言った。

「──実は、奥様のことなんですが……」

「家内……?」

 と、さすがにきき返した。

「はア」

「家内がどうした……?」

「…………」

 わざと黙っていた。

 そして、おもむろに煙草に火をつけると、弓子は、

「一寸ここでは……」

 申し上げられないと、含みを持たせた。

「あはは……」

 もう小郷は笑い声を立てて、

「──浮気でもしとるというのか。あはは……、それなら丁度都合がよい。そろそろ追い出して、新しいのに変えようと思っていたところだ」

 そして急に起ち上ると、

「──どうだ、皆んなホールへ行かんか。相馬君、君も一緒にどうだ」

「ええ、お伴しますわ」

 弓子はしめたッと思った。

 そして小郷や芸者のあとについて、先斗町の路地をぬけ、三条河原町のキャバレー歌舞伎へついて行った。


三条河原町



 学生たちがセンター(中心)と言っている三条河原町に夜がするすると落ちて来ると、もとの京宝劇場の、進駐軍専用映画館の、「KYOTO THEATER」の電飾文字の灯りが、ピンク、ブルー、レモンイエローの三色に点滅して、河原町の夜空に瞬きはじめる。

 丁度それと同じ頃だ、キャバレー歌舞伎の入口の提灯に灯りがはいるのは──。

 提灯の色はやはりピンク、ブルー、レモンイエローの三色だ。

 ここはもとアイススケート場だった。

 アイススケート場が出来た頃、朝日会館と並んで、三条河原町の最もハイカラな建物といわれたが、しかし、今そのハイカラな建物に古風な提灯がついている。

 これが京都なのだ、今日の京都だ。

 新しさと古さの奇妙な交錯といえば、キャバレー歌舞伎という名前がそれだ。

 終戦後の京都にいち早く出来た新しい設備は、キャバレーだ。そしていくつかのキャバレーのうち代表的なのは、三条河原町のそれが、しかもこの代表的なキャバレーに選ばれた名は、古風の象徴とでもいうべき「歌舞伎」だった。

 ダンスと歌舞伎──。

 松竹が経営しているとはいうものの、やはり奇妙な対照だった。しかし、案外チグハグな感じがないのは、既に日本の新しさというものがエキゾチズムと一脈相通じているからだろうか。

 それとも新しいものはつねに古く、古いものはつねに新しい──という永遠の法則だろうか。

 例えば──。

 小郷虎吉が君勇や市龍や鈴子や弓子を連れて、キャバレー歌舞伎のホールへはいって行った時、イブニングドレスとジャズとステップの雰囲気の中で、最も新しい色彩を放ったかと、ふと錯覚を起させたのは、君勇の古風な島田であり、鈴子の舞妓姿であった。

 新しい効果というものは、つねに不意打ちの効果である。

 島田や舞妓姿の時ならぬホールへの侵入という不意打ちの効果は、新スタイルのイブニングドレスさえふと古風に見せたくらい、それほど新しい感じがあった。

 軽い動揺が起った──といっては、大袈裟になるが、たしかにさっと視線が注がれた。

 連れて来た小郷は得意だった。

「おい、踊ろう」

 と、小郷は甘いジャズに一層気持を浮々させて、君勇の手を掴んだ。

「あて、あきまへんのどっせ。ダンス知りまへんのどす」

 先斗町の芸者でダンスを知らない者はない。が、わざとそう言って、君勇が断ると、鈴子に、

「お前はどうだ……?」

「かんにんどす……」

 と、鈴子も逃げた。

 弓子はじろじろホールの中を見廻していたが、何思ったか急に、

「あたしお相手しますわ」

 と、小郷に言った。

「ほう……君はやれるのか。あはは……さすがだ」

 小郷は弓子を連れて、ホールの真中へはいって行った。

 曲はタンゴ「クンパルシータ」

 小郷はいやらしく胸をくっつけながら、出来るだけ柔い感触をたのしもうという下品な踊り方をした。

 弓子は辟易しながら、まるで自分がリードしているかのように、ホールの隅の方へひっ張って移って行った。

 その隅の方には一組の男女がぺたりと頬をくっつけながら、踊っているのだった。

 望月三郎と小郷夫人の真紀子だった。



 弓子は、望月三郎と真紀子が踊っているのを見ても、驚かなかった。

 この二人がキャバレー歌舞伎へ来ているのではないかという予感がしていたのだ。

 というのは──。

 昼間、真紀子が望月三郎を木屋町の小野屋に訪ねて来た時、

「あたし、この頃ダンスを習っているのよ」

「そう。じゃ今夜でも踊りに行こうか」

「ええ」

「でも、見つかったら悪いんじゃないかな」

「あたしが……? 構わないわ。見つけられたって、あたしは行くわよ。それよりあんたの方こそ、あたしのようなばアさんと踊っているところ見つけられたりしちゃ、顔にかかわるんじゃない──」

「ばアさんにしちゃ、若さがありすぎるよ。あはは……」

「ばかねえ!」

 という二人の軽薄な会話を、弓子は隣の部屋で壁越しに、反吐をはく思いできいていたのだ。

 だから、小郷がホールへ行こうと誘った時、

「しめたッ!」

 と、思って、桔梗家からついて来たのだった。

 果して、二人は来ていた。

 午後九時、ホールが一番立て込む時刻だった。

 二人はわざと隅の方へ、人ごみから離れて、ステップは余り踏まず、じっと頬をつけたまま、しずかに「クンパルシータ」のいかにもタンゴらしい煽情的なメロディーに酔い、感触に酔うていた。

 その二人の方を、弓子は眼ざとく見つけて、彼女の方から巧妙に小郷をリードしながら、寄って行ったのだった。

 ふと、望月と視線が合った。

 望月は、はっとしたらしかったが、べつに大した狼狽もせず、気障なウインクを送った。

 弓子はにやりと笑った。

 その拍子にくるりと、弓子はターンした。

 小郷と、小郷夫人の真紀子の視線が合うには、絶好の姿勢になったのだ。

 弓子は残酷な期待に、固唾を飲んで、じっと小郷の顔を見つめた。

 瞬間、小郷の顔色がさっと緊張して、みるみる青ざめた。

 思わず小郷のステップが乱れた。

 弓子は再び自分からリードして、小郷をホールの真中の方へひっ張って行った。

 そして、真紀子の方を見ると、真紀子の顔色は、紙のように白くなっていた。

 真紀子は何か望月に囁いたらしい。望月もはっとしたらしかった。

「ざまア見ろ!」

 と弓子はひそかに腹の中で呟いた。

「クンパルシータ」──この永遠のタンゴといわれる曲は、嫉妬の情を表現したものだという俗説がある。

 弓子は小郷の顔に、嫉妬の苦悩が青い皺となって刻まれているのを、小気味よく見つめながら、

「今の方、奥様でしょう……?」

 と、小郷の耳に囁いた。

 小郷は答えなかった。咄嗟に答えられなかったのだ。

「投書が来るのも無理はありませんわ」

「…………」

「同情しますわ」

「…………」



 その時「クンパルシータ」の曲が終った。望月と真紀子は、血の気を失った顔のまま、こそこそとホールを出て行った。

 小郷は弓子の背中から手を離して、あとを追うて行こうとした。

 弓子はしかし小郷の手を離そうとせず、

「およしなさいよ」

 と、引きとめた。

 そして、わざと小郷の肩に手を掛けながら、

「ねえ、もう一曲踊りましょうよ」

「うん」

 小郷はしぶしぶうなずいた。

 姦通しているらしい自分の妻のあとを追うて行って撲るという、はしたない真似は、自分の社会的地位を考えると、さすがに出来なかったのと、少しは弓子に未練があったからであろうか。

 曲は、「キス・ミイ・アゲン」

 弓子にとっては小郷と踊ることぐらい、いやなものはない。

 手に触れられることさえたまらないのに、ぐっと抱き寄せられているのだ。

「この手で姉さんが……」

「この酒くさい息を姉さんに……」

 そう思うと、小郷の横面をピシャリと撲りつけたい衝動が、むずむず湧いて来る筈だったがしかし、今は不思議に小郷と踊っていることが愉快でたまらなかった。

 わざわざ下鴨へ行き、桔梗家を訪ね、そしてキャバレー歌舞伎までついて来た目的がはじめて達せられたという、小気味のよい快感に思わず生理的な不愉快さを忘れていたのだ。

 さすがに、小郷は参っていた。

「もっと参らせてやるのだ。もっと苛めてやるのだ!」

 弓子は踊りながら、

「あの男の人、誰だかご存知ですか」

「知らん!」

「流行歌手の望月三郎!」

「…………」

「美男子ですわね」

「…………」

「随分女たらしだと言いますのよ」

「…………」

「木屋町の小野屋旅館ってご存知ですか」

「いや、知らん」

「お行きになったんじゃないんですか。今日の昼間──」

「わしが……?」

「ええ」

「いや行かん」

「そうですか。でも、おかしいですわね。あたし、今日、小野屋旅館に人を訪ねて行ったんですのよ。そしたら、小郷さんが御面会ですって、番頭の声が隣の部屋で聴えていましたわ」

「いや、行かん」

 ターンしながら、小郷は、

「──隣の部屋って誰の部屋だ?」

「たしか望月の泊っている部屋だったかしら……? そういえば、女の方の声も聴えていましたわ」

 わざと早口に弓子は言った。

 効果はてきめんだった。小郷はまたステップを間違えた。

 その時「キス・ミイ・アゲン」の曲が終った。

 何思ったか、いきなり弓子は、

「ありがとう」

 と、言うと、小郷からはなれて、ひらりと身をひるがえし、ホールを出て行った。



 にやりと不気味な笑いを浮べて、キャバレー歌舞伎の玄関を出た途端、弓子は一人のみすぼらしい男がキャバレーの前にしょんぼり佇んでいるのを見た。

 ちらとその男と視線が合った。

 男は何かいい掛けそうにしたが、そのままこそこそと、木屋町の方へ立ち去って行った。

 弓子はちらとそのうしろ姿を見送っていたが、やがて河原町の暗がりの中へ姿を消してしまった。

 そして一時間たった……。

 木屋町の方へ姿を消していた男は、いつの間にかまた現われて、キャバレーの前をうろつき出した。

 男は、三好だった。

 何のためにそんなところで、うろついているのか。

 君勇がキャバレーの中にいることを、知っているからだった。君勇が小郷や弓子や鈴子と一緒に桔梗家から、キャバレー歌舞伎へ行くのを、三好はひそかにつけていたのである。

 なぜ、つける気になったか。

 三好自身にもはっきりとは判らなかったが、ただ形影相添う如く君勇の影に添っていたいという気持は、未練というより、もはや嫉妬からであることだけは、われながら情けないくらい、はっきりと判っていた。

 誰に嫉妬しているのか。

 無論小郷にむかってであった。

 ところがホールの中では、少くとももう一人嫉妬にかられている男がいた。

 小郷だ。

 弓子があっという間にホールを出て行ってしまうと、小郷は軽い当身をくらったような、すかされた気持になったが、すぐまた背中をむき出しにしたダンサーをつかまえて、踊り狂うて行った。ステップも何もめちゃくちゃな、まるでやけになったような踊り方であった。

 小郷がいつまでも踊っているので、君勇と鈴子は手持無沙汰にホールの隅の椅子に腰を掛けていなければならなかった。

 君勇は小郷なぞ放ったらかして、さっさと帰ってしまいたいくらいいらいらしていたが、鈴子はべつに退屈もせず、君勇に貰った鶴の絵のはいった扇子を弄んでいた。

 君勇はその鈴子の横顔を見ると、

「なるほど鶴雄さんと似合いや」

 と、ひそかに呟いた。

「──鶴雄さんが好きにならはるのン、無理はない」

 そう思うと、嫉ける前にまず、

「──あてみたいなもンあかん」

 と、いう諦めが先に立って、がっかりした。嫉けるにしては、大人気ない。が、やはり寂しかった。

 この気の遠くなるような寂しさは、一体何であろう。

 夜は次第に更けて行った。

 ホールから、拍手の音が聴えて来た。

 ラストのバンドが始まったのだ。

 やがて、それも終った。

 踊っていた客はぞろぞろと玄関へ出て来た。

 キャバレーの前に佇んでいた三好は、はっと物影へ身をしのばせた。



 夜の木屋町は美しかった。

「べにや」の軒の長い赤提灯、円いピンク・ブルウ・レモンイエローの提灯の灯りが、高瀬川の流れに映って、しみじみと春の夜更けの感じだった。

 三好は、キャバレー歌舞伎を出て先斗町へ戻って行く君勇や鈴子や小郷のあとを、ひそかに、しかし執拗につけて行きながら、そんな木屋町の美しさが、かえって恨めしかった。

 焼けた大阪とくらべて、何という違いだろう。

 かつて、京都は大阪の妾だといわれていた。大阪あっての京都であった。それほど、京都は古障子のように無気力であった。

 ところが、今や古障子の紙は新しくはりかえられて、京都は生々とよみがえっている。

 旦那の大阪が焼けて、落ちぶれてしまうと、当然妾の京都も一緒に落ちぶれるかと思われたのに、旦那と別れた妾の京都は今は以前にもまして美くしく若返り、日本一の美人になってしまっている。

 それが、三好には恨めしかったのだ。

「ちょうど、おれと君勇の関係みたいなもんや」

 三好は、焼けなかったことが京都の幸福であると同時に、京都の不幸であることを知らず、ひたすら羨しがっていた。

 焼けなかった京都が、その幸福に甘んじていい気になっておれば、やがて焦土の中から起ち上ろうとする大阪の若々しい復興の力に圧されてしまって、再び大阪の妾となる日が来るのだ──ということを知らなかった。

「今にみろ、おれかテもう一ぺんあの女を妾にしたる」

 という気力は、もう三好にはなかった。

 ただ、しょんぼりとうなだれて、眼だけ嫉妬に燃えながら、君勇たちのあとをつけていた。

 君勇の肩は、小郷に抱かれていた。そして、鈴子の手は、小郷に握られていた。

 それをうしろから見ている辛さ、君勇たちは、鴨川湯の横の空地から先斗町の路地へ戻って行った。

 そして、桔梗家へはいって行ったのを見届けると、三好はなおも帰ろうとせずに、そわそわとその辺をうろついていた。

 小郷は桔梗家の二階へ戻ると、

「酒だ、酒だ!」

 そして、グイグイと呷ったが、酔わなかった。

 ホールで妻の真紀子が望月三郎と踊っているのを見た途端にさめた酔を、取り戻そうとしても、なかなか酔が廻って来ないのだ。

「おい、おかみを呼べ!」

 桔梗家のおかみ──鶴雄の母が上って行くと、

「おかみ。この子はおれが一本にする。いいだろ」

 と、いきなり鈴子を指した。

 鈴子ははっとした。みるみる顔色が青ざめて行った。

 それをちらと眼に入れながら、おかみは、

「まア、何を言うといやす」

 冗談だときき流そうとしたが、小郷は、

「金はいくらでも出す。五万でも十万でも出す」

 と、執拗だった。



 小郷は冗談に言っているのではなかった。

 こうと思い込んだら、あくまであとへ引かぬのが(ことに女のことでは)小郷の悪い癖だった。

 その悪い癖がふと出たのだ。

 ──というよりは、むしろ、今夜の小郷はもうそんな滅茶苦茶なことでも強引に押してしまわねば、ひっ込みがつかぬぐらい、物狂おしく乱れていた。

 妻の真紀子が姦通していることを、たった今はじめて知ったという苦悩が、小郷をやぶれかぶれの情欲のるつぼへ陥し入れてしまったのだろう。

 そして、鈴子はその対象として、この際うってつけだった。

 可憐な小鳥を巻き殺してしまう蛇の残酷な快感の期待に小郷はしびれていたのだ。

 そのために莫大な金を出さねばならぬということもかえって小郷の決心を固くさせていた。

 が、とにかく滅茶苦茶であった。

 だいいち、はじめて呼んだ舞妓を、いきなりその夜、いわゆる襟替えさせてしまうなんて、殆んど例のないことである。

「まアまア、今夜は酔うてやどすさかいその話はまたあとで……」

 桔梗家のおかみは、君勇の手前(というのは、小郷から君勇を世話してくれと頼まれて、その旨君勇の耳に通じて置いた手前)もあり、一応柔く断って置くことにした。

 しかし、小郷は、

「何……酔うてる……? 莫迦をいえ! 酔わなきゃ、五万、十万の金が出せない小郷だと思っとるのか。おれは小郷だぞ! 小郷虎吉だぞ!」

 と、いかにも戦時利得者らしい声を出していた。

 桔梗家のおかみは、昔は先斗町で鳴らした名妓だった。

「何どす……? 小郷虎吉が何どすえ……?」

 と、昔なら食って掛ったところだった。

 が、往年の名妓も、茶屋のおかみに収まってしまえば、ことに、きょうこの頃の新円生活では、いけすかない野暮な小郷を、大事な客だと思わねばならぬくらい意地も張りもなくしてしまっていた。

「ほな、一ぺん文の家はんへ行て来ます」

 おかみは鈴子の抱主の文の家へ行って、

「──ほんまに、腹の立つ話どすけど……」

 と、しかし一応は相談を持ち掛けると、文の家のおかみは、

「何しろこの頃のことどっさかいな、万とつく新円はなかなか、ちょっとやそっとで……」

 出してくれる人はないから、丁度いい倖いだと、案外に話に乗って来た。

 やがて……。

「鈴子はん、ちょっと……」

 女中に呼ばれて、鈴子は、このいやなお座敷からやっと脱けられるのかと、ほっとしながら下へ降りて行くと、文の家のおかみが来ていた。

 話をきいて、鈴子はびっくりした。

「いやどす、いやどす、かんにんどす!」

 鈴子は思わずキンキンした声で叫んだ。

 その声は鶴雄の部屋まで聴えた。

 鶴雄は、鈴子が自分の家の二階へ小郷に呼ばれて来た時、何かふと嫉妬に近い気持に悩まされながらじっと挑み掛るような眼で、天井を見つめていた。

 が、やがて昼間「そろばん屋」から買うて来た(──といっては嘘になる、実は見知らぬ女からその本代を恵まれた)シーグフリードの「アメリカとは何ぞや」を読み出したが、冷静を欠いた頭では、流暢な山吹教授の訳文もすらすらと読み通せなかった。

 鶴雄はその本を放うり出すと、読みさしのドストエフスキイの「罪と罰」を机の上から取って、主人公のラスコリニコフが高利貸の老婆を殺す場面から、読んで行った。

 この方は、すぐ小説の中にはいって行けた。というより主人公の心理に異常な興味を感じて、まるで活字を嘗めんばかりに夢中になれた。

 ラスコリニコフとは何か。

 頭脳優秀な大学生、しかし極度に貧乏で苦学している。

 彼の妹は、兄の学資を貢ぐために、好色漢の餌食になろうとしている。

 彼はかつは妹を救うために、かつは生活苦からのがれるために、高利貸の老婆を殺して、金を奪おうと決心する。

 その高利貸の老婆は、ラスコリニコフの意見では、もはや生きている必要のない虫けらの如き存在である。

 ラスコリニコフはこう考える。

「人間には二つの種類がある。天才と、そして虫けらである。天才はもはや人間以上であり、虫けらは人間以下である。天才は彼が生きて行くためには、多数の虫けらを犠牲にしても構わないのだ」

 ラスコリニコフは自分を天才に擬している。だから、自分が生きて行くためには、虫けらの如き高利貸の老婆を殺してもいいと思う。

 彼はこの思想を実践するために遂に老婆を殺してしまう……。

 ドストエフスキイのこの小説が発表されて間もなく、同じような事件が起った。

 つまり、生活苦の大学生が殺人を起したのだ。

 作者のドストエフスキイはその事件をきいて異様に昂奮したという。

「それ見ろ! ラスコリニコフが現われた!」

 鶴雄はラスコリニコフの心理が自分なりに判るような気がして憑かれたように読んでいた。

 もっとも、鶴雄自身は貧乏ではなかった。が、彼は「渇しても盗泉の水を飲まぬ」如く、もはや餓えてもお茶屋の飯をくうまいと思っていた。

 それほど、自分の家の商売がいやだった。

 学生も今は生活苦に悩んでいる。街頭に立って、キャンデーを売る学生もいる。それが今日の世相だ。

「ところが、おれは芸者や舞妓を道具に使って儲けた金で悠々と飯を食ってるじゃないか」

 だから家庭教師になろうとしたのだ。

 が、行った先は小郷の家だった。

 淫蕩の家の飯は食いたくない。

 じゃ、どうすればいいのか。



 答えは「罪と罰」が与えてくれるようでもあり、また与えてくれないかも知れない。

 が、とにかく鶴雄は若い青年らしく、小説の中に、人生問題を性急に求めていたから「罪と罰」の面白さは、単なる小説の面白さ以上であった。

 だから、憑かれたように夢中に読み耽っていたので、弓子が桔梗家へ来たこともふと忘れてしまっていた。

 また、鈴子が小郷や弓子や君勇と一緒にキャバレーへ出掛けたことも、そして、弓子を除いた連中が帰って来たことも知らなかった。

 ──ラスコリニコフは老婆の顔をにらみつけながら、斧を振り上げた。が、その時ふっと自分から力が抜けてしまったのを、ラスコリニコフは感じた……。

 そこまで読んだ時、鶴雄はほっと溜息をついた。

「ラスコリニコフには人が殺せなかったのだ。観念では殺人は出来ない。それに、だいいち天才が虫けらの人間共を犠牲にしてもいいという考え方は無茶だ」

 そう呟いて、活字から眼を離した時、鈴子の声が聴えて来たのだ……。

「いやどす、いやどす、かんにんどす!」

 鶴雄ははっとして耳を傾けた。

「なんぜ、いやどんねン……?」

 文の家のおかみの声だった。

「なんぜかテ……」

 鈴子は芸者の娘だった。

 だから、舞妓というものが結局「旦那」というものによって、処女を失い、めでたく一本の芸者にならねばならぬ──という悲しい運命を背負わされていることを知っていた。

 たしかに、悲しい運命である。

 が、誰もやがて来るその「悲しさ」に身ぶるいを感じていなかった。

 それが至極当然のことのように諦めているのだ。

 いや、ふだんそんなことを考えもしないくらい、無邪気な人形となって、うかうか暮しているのが、舞妓というものだった。

 鈴子もやはりそうだった。

 が、──いざという時になった今、鈴子はさすがにふるえ上っていた。

「なんぜかテ──言うただけでは判れへん。言うとうみやす」

 文の家のおかみに口をそろえて、桔梗家のおかみも、

「あてらのいうこときいといたらわるいことおへんえ。小郷はんやったら、あとあとのことも心配いりまへん。いやどっしゃろけど、まアうんと言うときなはれ。あんたが先斗町一の芸者になる気イどしたら、小郷はんみたいなお方にもたれときやす」

 と、乗り掛った舟の、心にもない勢いで、口説いた。

「…………」

 鈴子はじっとうなだれていた。

「ほな、きいとくれやすか」

 黙っているのを承諾の意味にとったらしい。

「え……?」

 鈴子は顔を上げた。

 睫毛がふと濡れていた。

「いやどす……」

 と、言おうとしたが、文の家のおかみや桔梗家のおかみの顔が怖かった。

 鈴子は再びうなだれて、自分の膝を見つめた。

 ポトリとその膝へ涙が落ちて来た。



 鈴子は今まで桔梗家へ来るのが何となくたのしかった。

 自分でもはっきりと意識したわけではなかったが、鶴雄の顔が見られるのが、うれしかったのだ。

 顔を見ると、胸がドキドキしたが、これが恋というものだとは、十七歳の鈴子にはまだ判らなかった。

 しかし、今ポトリポトリと膝の上へ落ちて来る涙を見ていると、鈴子の瞼には、もう鶴雄の顔しか泛んで来なかった。

「桔梗家はんへ呼ばれるのが、あんなにたのしかったのに、今はこんな悲しい想いをせんならん」

 そのことが、まず悲しかった。情けなかった。

「鶴雄さん、鶴雄さん……」

 鈴子は文の家のおかみや、桔梗家のおかみにうながされて、二階への階段を上って行きながら、今はもうはっきりと恋をしていると判った男の名を、ひそかに叫び続けていた。

 その鶴雄は……?

 鶴雄は何もかも知っていた。

 さすがにお茶屋の息子だった。隣の部屋でかわされている会話の端々に耳を傾けただけで、もう鶴雄に何もかも明瞭だったのだ。

「鈴子が小郷に……」

 鶴雄は自分の顔色が変っていることを情けなく意識していた。

「なんだ、平気だ、平気だ!」

 と、自分に言いきかせていたが、しかし、

「──鈴子が小郷に……」

「──鈴子が小郷に……」

「──鈴子が小郷に……」

 窓の外を流れる加茂川の水音のように、悔恨と焦燥の響きを伴って、くりかえしくりかえし、あわただしく迫って来るこのいまわしい想像は、執拗に去らず、鶴雄の全身を取りかえしのつかぬ想いで、気の遠くなるほど、さらってしまった。

 今こそ鶴雄は、あえかに抱いていた鈴子への恋情が──いや、その恋情だけが、自分の青春のすべてであるように、思われるのだった。

 その青春が今、鈴子と共に失われようとしている……。

「しかも、よりによって、おれの部屋の真上で……」

 鶴雄は再びきっとして天井を睨んだ。

 鶴雄の眼はふとラスコリニコフのような虚ろな、しかし、激しい狂暴性に燃えていた。

 その時、

「坊ン、坊ン!」

 女の声で呼ばれた。

 振り向くと、君勇がすっくと立っていた。

「何だ……?」

「坊ン、坊ン!」

 と、もう一度言って、君勇はよろめいた。酔っているのだろう。

「──おうち、何ともおへんか」

「何がだ……?」

「坊ン、坊ン!」

「うるさいな、坊ン坊ン、坊ン坊ン言うな」

 鶴雄ははき出すように言った。

 その時、君勇の手がいきなり伸びた。

 鶴雄の頬がピシャリと音を立てた。

「阿呆!」

 君勇は半泣きの声になっていた。



 鶴雄は、なぜ撲られたのか、わけが判らなかった。

「何をするんだ!」

 思わず君勇をにらみつけた。

「…………」

 君勇はとろんとした眼で、鶴雄を見据えていたが、やがて、

「あんたッ!」

 鋭く鶴雄を呼んで、

「──あんた何にもお知りやおへんのか。鈴子はんのこと……」

「…………」

「鈴子はん今晩どないなるか知っといやすか」

 言いながら、君勇は自分が舞妓の時、はじめて旦那を取った晩のことを想い出して、しびれるような感傷に胸が温まり、声がうるんだ。

「…………」

 鶴雄はわざと横を向いていた。

「知っといやすか。鈴子はんは……」

 と、しまいまで言わさず、鶴雄は、

「それがどうした。そんなこと知るもんか」

「ほな、あんた、鈴子はんが好きやおへんのか」

「…………」

「好きどすやろ」

 じっと鶴雄の顔を覗くようにした。

「…………」

 鶴雄は答えなかったが、さすがに赧くなった。

「好きやったら、好きとお言いやす」

 言いながら、君勇はふと自分が情けなかった。

 鶴雄はいきなりサイコロを取り出した。

 鈴子に貰ったサイコロだ。

「坊ン坊ン、このサイコロあげまひょか」

 そう言って、いきなり鶴雄の手にのせるとはっと赧くなって、逃げ出して行った──そのサイコロだ。

「奇数だ」

 呟いて、ころころと掌の上へ転がせた。

 三──奇数だ。

 鶴雄はいきなり言った。

「好きだ」

「ほな、やっぱし……」

 思わず言って、君勇はふとうなだれたが、やがてきっと顔を上げると、

「坊ン坊ン、あて坊ン坊ン好きどす」

「…………」

 鶴雄ははっとして君勇の顔を見た。

 君勇の顔はふと真青になり、唇の両脇がふるえた。

 そして、その顔にポロリと一筋涙を伝わせると、

「かんにんどっせ」

 くるりと背中を向けると、いきなり部屋を出て行った。

 そして、何かを決したような、思いつめた表情で二階への階段を一段々々ゆっくりした足取りで登って行った。

「あてはどないなってもええ。あてはどないなってもええ」

 と、呟きながら──。



 小郷と二人きりの部屋へ入れられて、鈴子はもう何もかも諦めていた。

 いや、諦めると言えば嘘になる。

 諦めきれなかった……。

 と、いって、もうどうにも仕様がなかった。

 芸者の子と生れて、自然に舞妓になってしまった自分の運命をただなげくよりほかに、何を恨もうか。

 その愁いを含んだ鈴子の横顔を、小郷はとろんとした眼で、ながめていた。

 行燈式のスタンドの青い光に照らされた鈴子の顔は、もう頬紅の色も見えず、青白いというより、むしろ百合の花のように白かった。

 百合の花のように可憐で、清楚であった。

 痛々しいばかりに、清楚であった。

 その花を、いきなり手折る──という残酷な快感の中へ、あらゆる苦悩を押しかくそうとする小郷の手は、いつもの彼の手よりも荒々しかった。

 鈴子ははっと思う間もなく、抱きすくめられてしまった。

 その時、いきなり襖があいた。

 君勇だった。

 小郷はしかし鈴子の肩を離さなかった。

「なんだ、お前か」

「あてで悪おしたな」

 君勇はそう言って、小郷をにらみつけた眼を、鈴子の方へうつして、

「──鈴子はん、あんた、ここで何しといやすねン……? 出て行っとくれやす」

 言いざまに、鈴子の頬を撲った。

 小郷はびっくりして、鈴子の肩をはなした。

 その隙に、びっくりした鈴子は部屋の外へ逃げ出した。

 そのうしろ姿をちらと見送りながら、君勇は、

「オーさん。あんた、あてに恥かかして、それで何ともおへんか」

「何で恥をかかした。莫迦をいえ!」

 小郷は興冷めした顔に、むっとした表情を泛べた。

「何で……どすテ……おほほ……」

 場ちがいの笑いを、ヒステリックに笑って、

「──あてをさし置いて、鈴子はんとお寝やして、それであてが黙ってられますか」

「えッ……?」

 と、小郷は君勇の言葉が意外だった。

 こんなに自分をきらっていた女だったのに……さては……と、君勇が今夜酔っぱらったわけが判ったと、小郷は己惚れてしまった。

「オーさん、判った……?」

 君勇はわざと蓮っ葉にいいながら、小郷の胸へもたれかかって行った。

 さすがの小郷も照れるくらい、はしたなく……。

 君勇はそんな自分が浅ましかった。情けなかった。

 しかし、芸者の意地からそうしたのではなかった。

「坊ン坊ンは鈴子はんが好きなのや、だから自分はこうして、鈴子はんの身代りに……」

 その気持を鶴雄が判ってくれるかどうか……。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。

「どうせ、あては汚れた身体や」

 君勇はスタンドの傍へ倒されながら、そう呟いていた。

 夜がにわかに深く落ちて来て、川音の単調な響きが、その夜更けの空気の中に、くりかえしくりかえし揺れていた。


蛸薬師



 いまわしい一夜が明けた。

 東山の峰の上に横たわった紫色の雲の隙間から、さっと金色の光が流れて、加茂川の水の上にキラキラと輝き、先斗町に夜明けが来るまで、鶴雄は一睡もせずに「罪と罰」を読んでいた。

 昨夜──。

 君勇が鶴雄の部屋を出て行って間もなく、鈴子がいきなりはいって来ると、

「坊ン坊ン……」

 そう言って、鶴雄の胸にすがりついて泣き出した。

 鶴雄は照れるよりも、まずどきんとした。

「どうしたんだ!」

 と鈴子の肩をはじめて抱きながら、しかし鶴雄はがっくりと力が抜けて行くような気がした。

「──何が悲しいんだ……?」

「…………」

 鈴子は鶴雄の胸に頭を埋めて、ただ泣くばかしであった。

「泣いちゃ判らんよ」

 鶴雄は乾いた声を不安そうに出しながら、

「──二階のお客さんに泣かされたのか」

 鈴子の顔を覗き込むと、

「ううん」

 と、可愛いい首を振って。

 鶴雄はほっと安堵して、

「じゃ、どうしたんだ……?」

「君勇姐さんが……」

 言いかけて、鈴子はまた子供のように泣き出した。

「君勇姐さんが……どうしたんだ……?」

「君勇姐さんが叱らはったんどす」

「なぜ……?」

「なんぜや知りまへんのどすけど、出て行けお言いやして、撲らはったんどっせ」

「撲った……?」

 鶴雄はわけが判らなかった。だいいち、君勇がなぜ小郷の部屋へはいって行ったのか、それがうなずけなかった。

「──撲られて、出て来たのか」

「うん」

 と、無邪気にうなずいて、

「──あて、もう二階イ行くのんいやどす。かんにんどす」

 鈴子はまた泣き出した。

「行かんでもいい。はよう屋形へ帰れ」

「帰っても大事おへんか」

「構わん、おれが責任もつ」

 そう言うと、鈴子はふと鶴雄の胸から顔をはなして、ほのぼのと嬉しそうな表情になった。

「坊ン坊ン……」

「なんだ! ……」

 と、改まってきかれると、鈴子はもう何にも言えず、もじもじしていたが、やがて、

「おおけに……。ほな、帰らして貰います」

 出て行きかけて、また戻って来ると、

「坊ン坊ン、甘いもンお好きどすか」

 だしぬけに、そうきいた。

「好きだ」

「ほな、あて、あした、べにやの饀みつおごらせて貰てもかめしめへんどっか」

「饀みつ……?」

 鶴雄は思わず微笑した途端に、下鴨の小郷の女中に「明日正午べにやで待っている」という弓子への置手紙をことづけたことを想い出した。



「おごるって、お金あるのか」

 鶴雄が言うと、鈴子は、

「あてかテ、お小づかい貰うのンどっせ」

 と、唇をとがらせた。

「そうか。じゃ、おごって貰おう。しかし、あしたはだめだ」

「なんぜどす……?」

「…………」

 まさか弓子と約束しているとは言えなかった。

「なんぜどんにゃ……?」

「あしたは勉強だ」

「ほな、あさってにしまっさ」

「うん」

 うなずくと、鈴子はもう無邪気な表情で、いそいそと帰って行った。

 小郷の部屋に泊らずに帰れるのが、うれしいのだろう。

 が、鈴子よりも、鶴雄の方がうれしかった。

「鈴子は無事に帰った。鈴子は失われなかった」

 と、思うと、鶴雄はうきうきとして、大声を張りあげて、

「紅燃ゆる丘の花

早緑におう岸の色

都の花にうそぶけば

月こそかかれ吉田山」

 と、寮歌を歌い出した。

 すると、二階の部屋から鶴雄の歌について小声で歌い出した女の声がきこえて来た。

 君勇の声だった。

 酔っぱらった声だが、それだけ一層、いつもの君勇に似ぬ悲しいばかりに寂しそうな声だった。

 鶴雄はおやっと思った。

「君勇は小郷の部屋に泊っているのか。──しかし、なぜそんなことをするんだろう」

 鶴雄は改めて、そのことを考えた。

「──なぜ、鈴子を追い出して、その代りに泊ったりするんだろう」

 君勇が芸者の意地から、小郷という所謂「上客」を、鈴子から奪った──と、一応考えられた。

 いや、むしろ、君勇と小郷とはもとから何かあったのを、小郷の気持が鈴子に傾いたので意地と嫉妬から、むりに奪いかえしたとも考えられた。

 だから、鈴子を撲って出て行けと言ったのだろう。

 そう思うと、何もかも釈然としそうだったが、

「しかし、君勇ともあろうものが、そんなはしたないことをしてまで、客を奪おうとするだろうか」

 そんな女だとは、どうしても考えられなかった。

「──だいいちあんな小郷になびいたりするような女ではない」

 では、何のために……と、考えて、鶴雄はふと、

「──もしかしたら、君勇は鈴子の身代りに立ったのではないだろうか」

 と想像した。

 君勇の歌声の寂しさは、それでうなずけるようだった。

 鶴雄の年齢にしてもませた考え方だったが、君勇が鶴雄の前で、鈴子のことを言った時のうるんだ眼や、歌声の寂しさを考えると、鶴雄はしぜんにそんな考えを抱いてしまった。

 すると、再び小郷という人間への憎悪が、鶴雄を襲った。



 小郷への憎悪は、しかし、もはや嫉妬とは違ったものであった。嫉妬ほど激しい感情ではなかったが、しかし、嫉妬よりも深いもの、嫉妬の対象がなくなっても、なおかつ根強く残る──いわば、義憤のようなものであった。

「あんな男は生かして置けない」

 鶴雄はそう呟いた。

 そして、そんな自分に驚いていた。

 夕方、下鴨の小郷の家で、はからずも会うた弓子の話では、小郷は細君に姦通されているという。

 そういう点では、小郷は可哀相な男である。

「しかし、おれは耳かきですくう程も同情する気になれないのだ」

 なぜ、なれないのか。

 小郷が情欲の権化みたいな男だから──というのではない。

 たとえば「罪と罰」のズヴィドリガイロフという男は、情欲の権化みたいな男だ。

 しかし、ズヴィドリガイロフという男が情欲の権化であることは、ズヴィドリガイロフにとって宿命的なもので、いわばこの男が背負わねばならぬ十字架にひとしい。だからその重荷を背負う苦悩が深い皺となって、顔に刻まれている。

「つまり、ギリギリ一杯なんだ」

 と、鶴雄は鶴雄流に解釈した。

「──ところが、小郷と来た日は……」

 情欲は単なる本能に過ぎない。金と閑と名声と厚かましさを持っているが、自意識や高貴な精神に欠けている中年男がふと陥りやすい淫蕩生活へ、小郷は何の反省も苦悩もなく自然に陥っているだけだ。

「だから、苦悩がないんだ。小郷のあの生活は、小郷を少しも傷つけていない。つまり、情欲的であるということは、小郷にとってはギリギリの宿命的な生活ではないのだ」

 鶴雄はさっき階段を上る時に見た、小郷の屈託のなさそうな顔を想い出しながら、そう呟いた。

「──つまりは、あいつは虫けらなんだ。南京虫なんだ」

 だから、あんな奴は殺してもいいと、ラスコリニコフみたいに呟いている自分に、しかし鶴雄はどきんとしたのだ。

 そして、夜どおし「罪と罰」に読み耽り、夜が明けて、部屋の中へ朝の日が射し込んで来てから、やっと眠りについた。

 そして、どれだけ眠ったか、斧をふるって小郷を殺している夢に驚いて、ぐっしょり汗をかきながら眼をさました時は、もうひる近かった。

「なんだ、夢だったのか」

 鶴雄は額の汗を拭きながら、寝床を出ると、ふと、弓子との約束を想い出した。

 誰にせよ、約束した相手を待たせて平気でおるほど、鶴雄は気が強くなかった。

 あわてて飯をかきこんで、支度をすると、鶴雄は先斗町の路地を出て行った。

 べにやはつい鼻の先だった。

 暖簾をくぐって、見廻した途端鶴雄はおやと思った。

 待っていたのは、弓子ではなく意外にも宮子──小郷の妹の宮子だった。



 宮子がなぜ、べにやへ来ていたのか。──言いかえれば、宮子がなぜ、鶴雄を待っていたのか──鶴雄が今日の正午にべにやへ来ることを、なぜ知っていたのか。

 記憶の良い読者は覚えているだろう。

 宮子は鶴雄が女中にことづけた弓子への手紙を横取りして読んでしまったのである。

 鶴雄は無論そんなことを知らなかった。

 だから、まさか宮子が来ていようとは思いも掛けなかった。

 鶴雄はちょっとすかされた想いで、ぽかんと突っ立っていた。

 その姿を、その顔を、宮子は改めて

「素敵だわ」

 と、惚れ惚れみながら、にこっと笑って、

「──昨日はどうも」

 坐ったまま、頭を下げた。

「こちらこそ」

 鶴雄も頭を下げて、はなれて坐るわけにもいかないので、傍へ行くと、

「昨日の方を待っていらっしゃるんでしょう」

 宮子はずばりと言った。

「はア? ……? いや……。べつに……」

 曖昧に返事していると、

「嘘おっしゃい」

「えっ……?」

 さすがに鶴雄は驚いた。

「待ってらっしゃるんでしょう」

 赧くなっている鶴雄の顔を見つめながら、宮子は再びきいた。きくというより、むしろ咎めるといった方がいいかも知れない。

「はア、まア……」

「でも、いらっしゃらないわよ」

「どうして……」

 と、いう風に宮子を見ると、宮子は澄ました顔で、

「あたし、昨日の女の人からことづかって来ましたのよ。べにやで会うように御手紙いただいたけど、都合が悪くて、行けないから、ちぎり家の別館へ来てくれるように、ことづけてくれって……」

「ちぎり家……?」

「ええ」

「変だなア……」

 と、思ったが、行動の不可解な弓子のことだから、何かわけがあるのかも知れない。

「あたし、たのまれたので、町へ出たついでにここへ来て、あんたを待っていたのよ」

「そうですか、そりゃどうも……」

「いいえ、お安いご用よ」

 宮子は早口に言った。

「──ちぎり家ご存知……?」

「いいえ」

「じゃ、あたし今暇だから、御案内しましょう」

「でも……」

 躊躇したが、宮子はさっさと起ち上って、勘定を払うと、

「じゃ、参りましょうか」

 鶴雄をうながして、べにやを出た。

 鶴雄は何だか気が進まなかったが、しぶしぶついて行った。

 宮子と一緒に歩くのはいやだったが、しかし、弓子にはやはり会いたかったのだ。

 だから、サイコロを振っても見なかった。



 人通りが多い──というより、まるでどうしてこんなに人間がいるのかと、思われるくらい混雑している京極や、寺町通りを横切ると、もうそこは、打って変ったようにひっそりと静まりかえって、いかにも京都らしい家並みが続く蛸薬師通りである。

 ここは人通りもまばらである。

 その蛸薬師の通りを西へ真っ直ぐ──御幸町を越え、麩屋町を過ぎ、富小路を二三軒西へ行くとちぎり家の別館があった。

 三条通りにあるような、大きな旅館ではない。しかし、町中でありながら、ひっそりとした蛸薬師通りにありそうな、こぢんまりとした小綺麗さの中に、古い格式の匂いを渋く漂わせたこの旅館は、時々鼓の音がする。

 お能の関係者がよく泊る──といえば、うなずかれるのだが、いかにも鼓の音でも聴えて来そうな旅館である。

 だから、看板もデカデカと大きくない。看板というより、門標といった方が似合う。

 竹に「ちぎりや旅館」とつつましく刻んである。

 その門標の掛った軒下へ、鶴雄を待たせて、宮子は中へはいって行った。

 鶴雄は手持無沙汰に、靴の先で敷石を蹴っていると、

「おい!」

 と、肩を敲かれた。

 振り向くと、同じ文三丙の伊村だった。

「──何をしてるんだ、こんな所で……」

「う……? うん。まア……」

 曖昧に、少しあわて気味に言うと、伊村はちらと門標を見上げて、

「あ、そうか。小田策を訪ねるつもりか」

「えっ……?」

 と、驚いたが、

「──あ、そうか」

 小田策之助がちぎり家の別館に泊っていることを、昨日世界文学社できいたことを、想い出した。

 しかし、伊村はどうしてそれを知っているのだろう。

 そのことをきくと、伊村は、

「新聞社できいたんだ。訪ねようと思ってね」

「で、訪ねたの……?」

「うん」

「会ってくれたか」

「会うてくれたよ。しかし、呆れたよ。小田策さん、サルマタの紐を通しながら話をしやがるんだ。奴さん、女房の家を追い出されて、京都へ流れて来てるらしいね。とにかく呆れたよ。──君、はいるんだろう。じゃ、失敬!」

 伊村は言うだけ言うと、さっさと行ってしまった。

 やがて、宮子が出て来た。

「お待たせしました」

 そして、鶴雄を促して、玄関へはいった。

「どうぞ」

 女中に案内されて通されたのは、二階の一番奥の控え部屋のついた静かな六畳の部屋だった。

 鶴雄ははいるなり、

「おや、あの人いないんですか」

 立ったまま不機嫌な声で弓子のことをきいた。



「さア、どうしたんでしょうね」

 と、宮子は空とぼけた。

「おかしいな」

 鶴雄の声はますます不機嫌になった。

「おかしいわね、本当に……」

 と、宮子も調子を合わせて、

「──だけど、おひるにここへいらっしゃるって、おっしゃったんだから、今にいらっしゃるわよ。──いやねえ、怖い顔をして、突っ立ってなんかして……。お坐りになったらいかが……」

「はア」

 とにかく鶴雄は坐った。

 宮子は女中にビールをいいつけた。

「ビール……?」

 鶴雄は美しい眉を曇らせた。

「──僕はビールなんか飲めませんよ、だいいち、僕はビールを飲みにこんな所へ来たのじゃない!」

「判ってるわよ、あの人に会いにでしょう」

 宮子は蓮ッ葉に言いながら、何かむっとこみ上げて来る嫉妬を感じて、

「──あんたが飲まなきゃ、あたしが飲むわよ」

「女だてらに……」

 と、言おうとしたが、さすがに鶴雄はそれはよした。

 やがて、ビールが運ばれて来た。

「いかが……」

 うっとりした眼で、鶴雄の睫毛の長い眼を見ながら、宮子はビールの瓶を持った。

「僕は飲みません」

「あら、どうして……」

「飲まないと言ったら、飲まない!」

 鶴雄は色町に育ったせいか言葉づかいの柔い青年だったが、思わず声が荒くなった。宮子が憎むべき小郷の妹だということが頭にあるからだろうか、いや、それよりも──。

「ビールなんかどうして飲みたいんです。日本には、いま、ビールどころか、米も芋も食べられない人間がどれだけいるか知っていますか」

「知ってるわよ」

「知っていて、よくビールが、しかも白昼女だてらに飲めますね」

「だって、その人達は結局落伍者じゃないの。いつの時代にも落伍者はいるわよ。生活能力のない落伍者のことまであたしたちはいちいち考えなくちゃいけないの」

「みんな同じ日本人じゃないか」

「だって……」

 と、宮子は鶴雄のむきになるのが面白いらしく、

「──ひとのことは放って置いたらどう……? 日本人て、大体他人のことを干渉しすぎるわよ。結局島国根性なのね。修身の教科書だけしか生き方を知らないのね。人の悪口さえいってれば、気がらくなのね」

「何……?」

 鶴雄は本当にカッとした。

 宮子はぐっと飲み乾して、

「あんた、怒ると、本当に可愛いいわね」

「撲るぞ! こいつ!」

「撲ってよ! 撲ってよ! 思い切り撲ってよ。よウ!」

 宮子はそういいながら、ぐっと鶴雄に近づいていきなり身体をもたせかけて来た。



 宮子は兄の小郷虎吉と同じ淫蕩の血を持っていたが、しかし、さすがに女であったから、少しは自分を浅ましいと思う気持は残っていた。

 だから、いきなり鶴雄に身体を凭せかけて行きながら、昨夜下鴨の家で鶴雄のいる浴室の中へはいって行った態度といい、今日、鶴雄をあざむいて、ちぎり家の別館へ連れ込んで口説こうとしている態度といい、

「何という浅ましさだ!」

 という想いが、すっと頭をかすめた。

 が、しかし、それに抗しかねるほど、鶴雄の美貌や若さやうぶな固さは、宮子には魅力があった。

 だから、殆んどわれを忘れていた──と言ってもよかった。

 室町のお能に出る東京の能役者たちが泊っているのであろう、階下の間から、物憂い鼓の声がいかにも晩春の白昼の感じで聴えていたが、もう宮子の耳にはいらなかった。

 鶴雄の耳にも、しかし、はいらなかった。

 といって、鶴雄はわれを忘れていたわけではない。

 ただ、驚いていたのだ。いや、腹を立てていたのだ。

 宮子の熱っぽい息が、ふっと鶴雄の頬に掛った。

 鶴雄は飛び上った。

「何をするんです」

「構わないでしょう……?」

 宮子は再びすり寄って来た。

「本当に帰るぞ!」

 鶴雄は柔い宮子の胸を押しのけながら、子供の喧嘩のような声を出した。

「撲ってよウ!」

 宮子は火のような声を出した。

 二十七歳の身体の中に燃えている火が、そのまま燃え上って来たような声であった。

「よし!」

 声は低かったが、宮子の頬の音は高く鳴った。

「もっと撲って!」

 そう言ったかと思うと、宮子はいきなり鶴雄の胸にガブリと噛りついた。

「あッ! 何をするッ! 痛ッはなせッ」

 鶴雄は宮子の首を掴んだ、無理矢理はなすと、ものも言わずに、部屋を出て行った。

「このまま帰ってしまえば弓子に会えない!」

 と、思うと、ふとうしろ髪ひかれる想いだったが、しかし、もう宮子とこれ以上一つの部屋にいるのは、不潔だというより、むしろ怖かった。

 ところが、階段を降りようとして、ふと見ると、洗面所で何か洗い物をしているらしい、痩せて背の高い、長髪の男のうしろ姿が眼にはいった。

「おや、見覚えのある男だぞ!」

 と、思った途端、その男は急に振り向いて、

「なんだ、梶君じゃないか」

 小田策之助だった。

 鶴雄はぺこんと頭を下げて、階段を降りて行こうとすると、

「君! 君!」

 小田はあわてて呼び停めた。



 小田は鶴雄を呼びとめながら階段の所まで追い駈けて来て、

「君、ちょっと僕の部屋へ寄って行かないか。話があるんだ」

 と、言った。

「はア」

 鶴雄はひき返した。

「ちょっと待ってくれ給え! 今ワイシャツを洗っちまうから」

 小田は不器用な手つきで、ごしごしとワイシャツを洗っていたが、やがて、タオルを絞るように水を絞って、

「──やもめは辛いや」

 と言いながら、鶴雄をうながして六畳の部屋へ案内した。

 庭に面した小綺麗な部屋だったが、はいった印象は、下宿屋の学生部屋よりも乱雑を極めて、あきれるほど汚なかった。

 第一、床の間や置戸棚の上は勿論畳の上まで、書きつぶし、原稿用紙や新聞や雑誌や手紙がまるで紙屑屋の家のように、置きっ放しにしたまま、うず高く積まれているし、蒲団はしきっぱなしだし、足の踏み場もない。床の間に破れた靴下とタオルを一緒にまるめて置いてあるという始末で、鶴雄は顔まけしてしまった。

「敷き給え!」鶴雄に坐蒲団をすすめて置いて、小田は窓側の手すりに洗濯したワイシャツをひっ掛けると、机の前へ戻って来た。

「先生は奥さんに追い出されたんですか」

 鶴雄はさっきちぎり家の前で、伊村からきいたことを想い出しながら、いきなりそう言った。

「先生なんて言うない。小田策さんて言えよ」

 小田は髪の毛をクシャクシャとかきわけながら、怪しげな笑いを笑って、

「──追い出されたよ」

 ひとごとのように言った。

「よく追い出されますね」

「えっ……?」

 と、きいたが、

「──ああ三高のことか。うん。三高は追い出されるし、女房には家を追い出されるし……さんざんだよ」

「どうしてまた奥さんに……?」

 追い出されたんですか、だらしがないですねときくと小田は、

「家がないんで、女房の親たちと一緒に、養子みたいに暮していたんだが、おれのものの考え方がデカダンスだというんだね。デカダンスな男とは一緒に暮せないというんだ」

「デカダンスというと……?」

「頽廃のことだと、ひとは思っているらしいが、デカダンスというのは高級な思想なんだ。つまり、デカダンスというのは、あらゆる未熟な思想からの自由という意味だ。何ものにも憑かれない精神のことだよ。たとえばだね」

 と、小田は新しい煙草に火をつけて、

「──林檎は実が円熟して地に落ちる時が一番うまいんだ。これがデカダンスだ。が、日本人って奴は、偏狭な道徳への思想に憑かれているから、青くても樹になったままの林檎の実が清潔で健全だというんだね。健全たア一体なんだい」

 食って掛るような口調だった。



「健全っていけないですか」

 鶴雄は問いかえした。

「いけないとは言わない。いや、健全は大いによろしい。だれでも健全でありたいもんだよ。夜の光よりは、太陽の光線に憧れるのは、こりゃ当り前だ」

 と、小田は煙草の吸口を、左手でクシャクシャにもみながら、

「──併し、その当り前のことを当り前の顔もせず、得々と太陽説をふりまわしている連中を見ていると、僕アむかむかして来るんだ。みんな自分が聖人みたいな顔をしてやがる。ジイドが言ってるよ。健康とは即ち病気が不足している状態の謂いだ──と。誰だって健康になりたいよ。しかし本当に健康になりたがっているのは病人だけなんだ。誰だって日まわりのように太陽の光線に憧れたいよ。しかし、夜をへなくちゃ太陽は登らないんだ。夜の青白い光を知っている者だけが、本当に太陽の光線に憧れるんだ」

「…………」

 鶴雄はだまってきいていたが、こいつ頭が悪いぞ、こいつの喋り方はしどろもどろだと思った。

 小田は鶴雄がだまっているので、謹聴しているのだと思ったのか、煙突のように煙草のけむりを吐きながら喋りつづけた。

「日本の文学なんてどうしてこう、病気が不足してるだろうね。日本の状態なんて全身これ四百四病じゃないか。大体、日本の部屋というやつは、履物をぬいで上るね。だから、文学だって、土足のまま人生の中へはいって行くような文学がないんだ。外国の文学をみろ。大文学はみんな土足のままだ。日本には下足番みたいなコセコセした批評家が多すぎるよ」

 そこでまた新しい煙草に火をつけて、

「──だから、僕アこんどの小説でもだね……」

 と、ちらりと机の上の原稿用紙を見た。

「それでも私は行く」

 と、題がつけてあった。

「──土足のまま部屋の中へはいって行ってやろうと思ってるんだ、いや、土足のままなんておこがましいが、まア、たとえばだよ、下足番が履物を……と言うと、冗談言うない、僕アはじめからはだしだよって返事するような小説にしたいよ。太陽先生ども、さぞかしガヤガヤと非難することだろうッて。ざまアみやがれ。非難しながら、こっそり読んでるような小説を書くよ。僕の友人が太陽奥さんというマンガを描いているが、僕の女房はつまり太陽奥さんなんだ。僕は夜光虫先生だ。合わないよ。え、へ、へ、……」

 小田はペシャリと額をたたいて、例の軽佻浮薄なる笑いを笑うと、

「──ところで、昨日のつづきをきこうじゃないか」

「つづき……?」

「小郷の家へ行ったろう……? それからだ……」



 小田は、こんどの「それでも私は行く」という新聞小説で、本当にあったことを、そのまま、ルポルタージュ式に、出来るだけ小田自身の想像を加えずに書き、場所も人物も実在のまま使うという奇妙な計画を樹てていた。

 そして、その主人公のモデルとして、鶴雄を選んだのである。

 鶴雄は昨日世界文学社で小田に会うて、その計画をきかされた時いつもは人を食った出鱈目な空想小説ばかし書いている小田が、こんな計画を樹てても、きっと失敗するにちがいない、さぞかし糞面白くもない小説が出来るだろうと思ったが、

「しかし、どれだけ失敗するか、その失敗ぶりを見るのも面白い、おれを書くというが結局下手な似顔絵になるんだろう。まア、漫画程度かな、とにかく見ていてやろう」

 という気持もあったので、モデルになることを引きうけて、昨日世界文学社で会うまでの行動を語ったのである。

 その続きを、小田は今報告しろという。

 鶴雄は何もはじめから、小田という作家を尊敬しているわけではなかったが、こうして二度目に会うてみると二十代の自分と三十代の小田との思想のくいちがいがはっきりして、もうモデルになるのはごめん蒙りたかった。

 しかし、乗り掛った船だ。

 それに、若い学生の自分を相手にしきりにデカダンス説を振りまわしているこの三十男は、いつまでも大人になりきれない子供っぽいところがあるように思われて、ふと、

「デカダンス文学なんて元来主張してはならないものだのに、ひとから軽蔑されることを覚悟の上でわざとらしくデカダンス振っているのは、ひょっとしたら、案外気の弱い男かも知れん」

 と、同情したので、折角のたのみをむげにも断り切れず、昨日の夕方、小郷の家へ行ってからの行動を、小田に語った。

 ──入浴していると、いきなり宮子がはいって来たこと。

 ──浴室を飛び出して、応接間へ戻って来ると、弓子が婦人記者と称して来ていたこと。

 ──弓子に置手紙して、小郷家を飛び出したこと。

 ──そして、小郷と鈴子と君勇をめぐるいきさつ。「罪と罰」をめぐる感想。

 ──今日の正午、べにやへ弓子に会いに来ると、宮子に会い、共にちぎり家へ来て、小田に会うたこと。

「なるほど、じゃ、僕は案外一役買っているわけだね」

 そう言って、小田はふと考えこんでいたが、やがて、起ち上ると、

「君、散歩しないか。京都で一番いい散歩道を教えてやろう」

「どこですか」

「高台寺だ」

 そして、上衣を着ようとして、小田は、

「──あれあれ。財布がねえぞ」

 と、頓狂な声をあげた。

「着物の袂にはいってませんか」

「なるほど、昨日は着物だったね」

 小田は袂の中を探していたが、ない。

「落したのかな」

「掏られたんじゃないですか」


十一


「まさか。掏られるような、そんな間抜けじゃないよ。落したんだよ」

 と、小田策之助は自信ありげに言った。

「そうでしょうか。僕は掏られたんだと思いますね」

 鶴雄は昨日四条河原町のスピード籤の屋台で弓子に掏られた経験から、そう言った。

「そんな莫迦な、君じゃあるまいし……」

 と、小田は言っていたが、急に大きな声になって、

「──じゃ、賭けをしよう」

「賭けましょう」

 賭けは鶴雄の好むところだった。

「何を賭けよう」

「何でも……」

 と、鶴雄は答えた。

「さア何がいいかなア……」

 小田は鼻の頭を撫ぜながら考えていたが、急にニヤニヤ笑いながら、鶴雄の前に坐ると、

「──君、賭けというやつは大きい方がいいね、五円や十円を賭けるのは、下足番共か太陽先生のする賭けだ。われわれ夜光虫派はもっとでかいスリルのあるやつを賭けようじゃないか」

「ええ、スリルのあるやつ賛成ですな」

 鶴雄は小田という男、案外話せるぞと思いながら言った。

「──しかし、今われわれ夜光虫派とおっしゃいましたが、僕はデカダンス派の仲間入りはごめんですよ」

「そりゃ自由だ。しかしジュリアン・ソレルに憧れて、スリルを求めるのは太陽派じゃないよ」

「一体何を賭けるんですか。命でも賭けますか」

「まさか命を賭けるなんて言葉は、戦争中の標語みたいじゃないか。もっとも、命を賭けた恋って言葉もあるがね」

「早く言って下さいよ」

 鶴雄はひどく乗気だった。

「よし」

 と、小田はうなずくと、にやりと笑って、

「──僕は鈴子を身受けして、君にあげよう。君、鈴子に惚れているんだろう」

 鶴雄はぱっと赧くなって、

「へえ、そんな金があるんですか」

 と、わざと、とぼけてみせた。

「近いうちに旧作の印税がはいることになっている。金なんか持ってたって、落すだけだ」

「あくまで、落したと決めてるんですね」

 と、鶴雄は笑った。

「で、君は何を賭ける……?」

「僕は、そうですね……」

 と、鶴雄は考えて、

「──僕は何もないから、このサイコロを賭けましょう」

「サイコロ……?」

 と、小田は軽蔑したように言ったが、急に、ああそうかと判って、

「──なるほど、そのサイコロは命のつぎに大事な奴らしいね。よし、それで行こう」

 小田は痩せた身体に似合わぬ、でかい声を出した。

「しかし、落したのと、掏られたのと、いつどうして判るんです」

「ふーむ。それが問題だ」

 その時、女中がはいって来た。

「御面会どす」

「誰だ」

「女の方どっせ。きれいな……」

「よし。通せ!」

 やがて、はいって来たのは、赤いブラウスに黒いズボン──相馬弓子だった。


高台寺



 弓子は鶴雄の顔を見て、はっとしたようだった。

 が、驚きよりも喜びの方が大きかった。

 昨日小郷の家で鶴雄が置手紙をして帰ったことは知らなかったから、弓子は鶴雄が自分にだまって帰ってしまったものと、少し恨みに思っていたのだ。何だか寂しかったのだ。

 だから、思いがけなく鶴雄を見て、弓子はうれしかった。

「小田さんを訪ねて来て、よかった」

 と、思いながら、両手をついて、

「──はじめまして、あたくし」

 と、言いかけると、小田はいきなり、

「判ってます。弓子さんでしょう」

「あらどうして……」

 お判りですときくと、小田は、

「赤と黒。梶君にきいていましたよ」

 と、鶴雄の顔を見た。

「あらッ」

 と、弓子は鶴雄をにらみつけるようにして、

「あなた、あたしのことおっしゃったの。お喋りね」

「…………」

 鶴雄は半泣きの顔をした。小田は助け舟を出した。

「いや、人間って奴は好きなひとのことは、とかく喋りたがるもので……」

 そして、膝をたたきながら、他愛なく笑っている小田の顔を見て鶴雄は、

「これだから、小田策は軽薄だと言われるのだ。もっとも、自分から軽薄だと自称してるのだから、世話はないや」

 と、ひそかに呟いた。

 弓子は耳の附根まで、いや、眼の中まで赧くなりながら、

「まあ」

 と、暫らく口も利けなかったが、やがて

「──じゃ、あたしが掏摸だってこともご存知ですの」

「知ってます」

 簡単に小田は言って、

「──いけませんか」

 と、煙草に火をつけた。

「構いませんわ」

 と、弓子もすかさず言った。

「それに、あたし、今日は掏摸として参ったのです」

「えッ……?」

 と鶴雄の方が驚いて、思わず弓子の顔を見たが、小田は、

「ほう……?」

 と、落ちついていた。

 この落ちつきのない──三十四歳にもなりながら、ちょっと見たところ二十代に見えるくらい、貫録というものがまるっきりない小田だったが、こんなことになると、鉛の置物のように落着きはらっているのは、おかしかった。

「実は……」

 と、弓子はきり出した。

「──あたくし、先生にお返しするものを持って参りましたの」

 すると、小田は、

「先生は余計だが、しかし、お返しするものを持って来たというのは、もっと余計だな。僕はあんたに返して貰うものなんかないよ」

 そう言いながら、何か狼狽していた。つまり、もう落着きを失っていた。



 弓子はそんな小田を見て、うふふ……と笑った。

「何がおかしい。どうして笑うんです」

 小田は芝居気たっぷりな男だと見えて、はったとばかり、弓子をにらみつけた。

「だって……」

 と、弓子はなお笑いやまず、

「──先生は落したと思ってらっしゃるらしいから、おかしいわ」

「えっ……?」

 と、小田は鶴雄と顔を見合わせた。

 小田の顔は、毛虫を噛んだようになっていた。

「──落したッて、何をですか」

「これでしょう……?」

 と、弓子はいきなり財布を見せた。

「あ、それッ!」

 と、小田は頓狂な声をあげたが、鶴雄の手前を思ったのか、

「──どこに落ちてました。どこで拾って下さったんですか」

「先生のふところから、拾いました」

「えっ……? じゃ……」

「ええ」

 と、弓子はうなずいて笑いながら、

「──掏ったんです」

「負けたッ!」

 と、小田は額をたたいて、鶴雄に、

「──君の勝ちだね」

 と、言った。

 弓子はそんな二人の容子を不思議そうに見ながら、

「先生だと知らずに掏ったんですの、ごめんなさいね」

「いや、掏るのは君の自由です。しかし、どうして、わざわざ返して来てくれたんですか」

「先生のお名刺がはいっていましたから……」

「それだけで……?」

「ええ」

 と、言いながら、しかし、弓子は赧くなった。

 そして、その赧くなった顔は、小田の前だけならまだしも、鶴雄には見られたくなかった。

 なぜ赧くなったのだろう。小田の名刺がはいっていたからにはちがいないが、しかし、弓子は小田という作家の小説を愛読しているわけでも、また作家だからといって、とくに尊敬しているわけでもなかった。

 実は、その名刺の裏に、

「……梶鶴雄、美貌の三高生。この実在の人物を主人公にすること」

 という小田のメモがはいっていたのだ。

 弓子はそれを見ると、

「じゃ、この作家は梶鶴雄さんの知り合いだったのか」

 と、ふとなつかしかった。

 そのなつかしさが、いったん掏ったものを小田に返しに行くという気を弓子に起させたのである。

 一つには、小田のところへ行けば、もしかしたら、鶴雄の消息がきけるだろうという、淡いのぞみもないわけではなかった。

 しかし、そんな気持は、恥かしくて、口がくさっても云えなかった……。



「返しに来なくてもいいのに……」

 と、小田は言った。

「あら、どうして……?」

 と、弓子はきいた。

「だいいち、返すくらいなら、何もはじめから掏る必要はない。第二に、あなたは金が要るでしょう……?」

「金の要らない人なんて、ありませんわ」

「なるほど……。誰だって金はほしいや。金というより、新円だね。新円なんていやな言葉だが……」

 小田は煙草のけむりと一緒に、言葉を吐き出して、

「──とにかく、金は要る。しかし、あなたは要り方がちがうんだ。姉さんを身受けしなくちゃならないでしょう」

「何もかもご存知なのね」

 と、言って、弓子は鶴雄の顔を見た。

 鶴雄は再び頭をかいた。

 弓子はにこりと笑うと、小田の方を向いて、

「姉さんのことなら、もういいんですの」

「どうして……?」

「もう身受けしちゃいました」

「誰が……?」

 と小田は眼をみはって、

「まさか、あなたじゃないでしょうな」

「ところが残念ながら……」

 と、弓子は笑って、

「──あたしです。姉さんを身受けしたのは、あたしなんです」

 笑いながら、しかし、弓子の声はふとうるんでいた。

「ふーん。その金は……?」

 と、こんどは小田よりも鶴雄の方がきいた。

「むろん掏ったのよ。誰からだと思う……?」

 と弓子は鶴雄にきいた。

「さア、判らないね。もっとも男からだということはたしかだが……」

「そう。男から……。京都中で一番いやらしい男からよ」

 と、弓子は唇を歪めた。

「判った!」

 と、小田は思わずドラ声を出した。

「──小郷だ! 小郷からだろう……?」

「ええ」

 弓子はうなずいて、

「──あたしホールで小郷と踊ったのよ」

「ふーん」

「見ものだったわ」

「何がさ……?」

「小郷のやつ真青になったわ」

「掏られて……?」

「まさか……。小郷夫人が望月三郎と踊っているところを、掏ったのよ」

「望月三郎……?」

 と小田はききかえして、

「きいたような名だなあ。流行歌手だな」

 と、言いながら手帳を出した。そして、

「構わなければ、話してくれませんか」

 弓子は小野屋旅館でのいきさつや、桔梗家へ訪ねたことや、ホールでの出来事などを語った。

「なるほど、ちゃんと小説になってるね。しかし、いやだね、こんなに偶然がつづいちゃ、こんどの小説はどう考えてみても、通俗小説だね」

 と、小田はもう好奇心を起すよりも、むしろ興冷めした顔になって、

「──通俗小説だということになれば、小郷は殺されるかも知れんね」

 ぼそんと予言者みたいな口を利いた。

 鶴雄と弓子ははっと顔を見合せた。



「どうだ、そう思わないかね」

 と、小田は鶴雄と弓子の顔をかわるがわる見ながら言った。

「──小郷が殺されると思わないかね、もっとも通俗小説だとすればだがね」

 鶴雄と弓子は小田がなぜそんなことを言うのか、気味が悪かった。

「じゃ、こんどのあなたの小説は通俗小説になるんですか」

 と、鶴雄はきいた。

「残念だが、通俗小説だね。夕刊新聞小説は通俗小説でなくっちゃ読まれないし、だいいちこう偶然が多くっちゃね」

「すると、小郷は必らず殺されるんですね」

「まアね」

「しかし、現実に殺されないとしたら、どうします……? こんどの小説は本当にあったことしか書かないとおっしゃったでしょう?」

「そこだよ、問題は……」

 と、小田は言いながら、起ち上ると、

「──この問題は、外へ出て考えようじゃないか」

「ええ」

 小田は弓子に言った。

「僕たち今高台寺へ行くところだったんですよ。よかったら、あなたも一緒に行きませんか」

「はア、お伴しますわ」

 やがて三人はちぎり家の別館を出た。

 玄関を出て、蛸薬師の通りを寺町通りの方へ行った時、鶴雄は、前方を歩いて行く女のうしろ姿を見て、おやっと思った。

 宮子だった。

「怒って帰って行くんだな」

 と、苦笑していると、すれちがいざまに一人の男が、ピシャリと宮子の頬を撲った。

「なんだ、女だてらに昼間赤い顔をしやがって……」

 しかし、その男も酔っぱらっていた。

 宮子はあっけに取られてぽかんと突っ立っていた。

 その横を三人は通り過ぎて行った。

 弓子と鶴雄が肩を並べて歩いているのを見て、宮子ははっとした。

 そして、口も利けず、三人のうしろ姿を見送っていた。見知らぬ男から撲られたことよりも、この方が宮子にはショックだった。

 寺町通りを四条通りに出ると、三人は円山公園の方へ歩いて行った。

 円山公園を抜けて一休庵へ行く途中、古びた低い門をくぐると左手に高台寺の見える細長いさびた道がいかにも京都らしいしずけさの中に伸びていた。

「夏の夜、この道を歩いてごらん。螢が飛ぶよ。京都じゃ、木屋町の螢と、高台寺の螢だね」

 と、小田はぽつりと言ったが、ふと思い出したように、

「──小郷が現実に殺されないとすれば、まさか小説の中に殺されたと書くわけにはいかないが、しかし、小説というやつは、どこかで必らず一つだけ嘘を書くもんだ、嘘から出た真がつねに小説家のねがいだよ」

 と、弁解のような、謎のようなことを言った。

「じゃ、誰が小郷を殺すんですか」

 と、鶴雄はきいた。



「さあ、誰だろうね」

 と言って、小田は自分で自分の言葉にどきんとした。

 小郷を殺すのは、勿論作中人物だが、しかし、小田は鶴雄だとは考えたくなかった。

 弓子だとも考えたくなかった。

 弓子の姉の千枝子だとも考えたくなかった。ふと、君勇のことがうかんだ。君勇が小郷を殺す──考えられないようだが、考えられないこともなかった。しかし、君勇だと考えるのもいやだった。

 望月三郎……。

 姦通を発見された真紀子が、望月をそそのかして、小郷を殺させる──それも考えられないこともなかった。が、これはあまりに通俗すぎる。

 しかし世の中というものは往々にして通俗小説以上に通俗的である。事実は小説よりも奇であり、月並みである。

「なるほど、望月かな」

 しかし、流行歌手の女たらしが自分の一生を賭けてまで、そんな大それたことが出来ようとも考えられなかった。

「結局、誰もないじゃないか。──してみると、やっぱり小郷を死なせるというのはむりかな」

 考えながら、護国神社の前から清水の方へ折れて行った。

「──やはり京都はいいね」

 小田は急に話題をかえた。

「京都の文化はどうですか」

 鶴雄がきいた。

「京都の文化……?」

 と、小田は眉をひそめて、

「京都の文化なんて美術工芸を除いてはだめだね、京都の文化人は京都の文化、京都の文化といっているが、京都という井戸の中で蛙が鳴いている感じで、日本の文化──というもっと大きな問題、いや世界の文化ということを考えなくっちゃだめだね」

「京都は文化都市だと云われているが、雑誌一つ見ても、京都から出ている雑誌は、一二の例外はあるけれど、東京の雑誌にくらべると、文化感覚が十年おくれてるね。執筆者にしたって京都の中だけでものをいってる感じだ。おっとりして上品で、ふてぶてしさがない。高台寺のこの辺のような、なごやかな美しさを持っているのが、結局京都の不幸かも知れんよ。本当に仕事をしようという人間の住むところじゃないね」

 小田は煙草の吸殻を捨てた。

「──結局、京都ってところは、プチブル的なんだね。自己保存の本能だけ強くって、排他的で、薄情で、けちで、臆病で……、失敬、失敬、君は京都の人だったね」

 小田はさんざん京都の悪口を言ってからあわてて鶴雄にあやまった。

 弓子は小田の話なぞ全然興味がなく、ほとんどきいていなかったが、ただ、こうして鶴雄と肩を並べて歩くのがたのしかった。

 しかし、このたのしさがいつまで続くかと思うと、悲しかった。

「結局あたしは掏摸じゃないの。いつまでもこのひととつき合える人間じゃない」

 そう思うと気の遠くなるくらい、寂しかった。

「姉さんを身うけしてしまったからもう、掏摸をやる必要はない。しかし、これからさき姉さんと二人で、どう生きて行ったらいいだろうか」

 小野屋旅館で自分の帰りを待っている姉のことが、ちらと頭に泛んだ。

「早く帰って、姉さんと二人で相談しよう」

 そう思いながら、鶴雄と別れて帰る気になれない自分が、情けなかった。

 すると、勝気な弓子は、もういても立ってもいられなかった。

 清水への坂にかかった時、弓子はいきなり、

「あたし、ここでおわかれしますわ」

「あ、そうですか」

 と、小田はあっさりといった。

 鶴雄はだまっていた。

 弓子は鶴雄がだまっていることより、小田が鶴雄にかわって、ひきとめてくれないのが恨めしかった。

「さよなら」

 坂を降りて行って、ふと振り向くと、鶴雄も振り向いた。二人の視線は淡い悔恨の想いにお互い燃え合った。

「さよなら」

 もう一度言って、弓子は早足に坂を降りて行った……。


京極



 小郷が桔梗家の二階で、眼をさましたのはもうひるに近かった。

「さて、これからどうしようか」

 と、考えたが、何をしていいか判らなかった。

 考えるといらいらして来た。

 妻を姦通罪で訴えることも考えてたが、自分の社会的地位を考えるとそれもならなかった。

 撲って、追い出すという事も考えた。半殺しの眼に会わせてもいいくらい、腹が立っているのだ。

 しかし、撲り、蹴り倒すといっても、今となってみれば妻の体に指一本ふれることも、けがらわしいもののように思えてならない。

 それに、追い出して、新しく若い細君を貰うには、さすがに永年つれそうて来た真紀子には未練があった。

 嫉妬の情はこの未練に拍車を掛けた。

 子供の手前もある。来年高等学校へはいるという幹男のような、大きな子供がありながら、今更家庭生活をみだしてしまうことは、夫としてよりむしろ父親としてしのびなかった。

「どうすればいいだろう」

 小郷の苦悩はきわまった。

 君勇を自分のものにしてしまったことだけでは、この苦悩は癒やされなかった。

 部屋の下を流れるせせらぎの音は、まるで小郷の苦悩を刻むように、耳について離れなかった。

 小郷はこの苛立たしいせせらぎの音から逃げ出したくなって、君勇を伴って、桔梗家を出た。

 そして、花見小路に最近出来た「京都プルニエ」で食事を済ませて、勘定を払おうとすると、財布がないことに気がついた。

「あてが持ってまっさかい」

 君勇はハンドバッグの中から、金を取り出しながら、ふと別れた旦那の三好のことを思い出した。

「あては、こうして、御馳走食べてるのにあのひとは……」

 と、思うと何か済まない気がした。

「──あてのこんな姿を見たら、あのひとはどない思うやろ」

 鶴雄へのひそかな義理立てから、鈴子の身代りとなって、小郷に身を任したことが、今は情なかった。

「──こんないやな男に……」

 一晩中自由にされていたかと思うと、殺してもなおあきたりないくらい、小郷が憎くなって来た。

「プルニエ」を出ると、やがて小郷と君勇は四条通りを歩いて、京極へ来た。

 ある映画館の前まで来ると、小郷はいきなり足を停めた。

 アトラクションに出演している望月三郎の名を見つけたのだ。

 小郷は何思ったのか、

「おい、はいろう」

 君勇をうながして、その映画館の中へふらふらとはいって行った。



 小郷が望月三郎のアトラクションの掛っているその映画館へはいったのは、むろん嫉妬から出た自虐的な好奇心だった。

「真紀子の男はどんな奴だろう。どんな歌うたいだろう」

 という好奇心で、その映画館へはいることは、むろん小郷にとっては辛いことだった。

 しかし、嫉妬という人間の持っている情熱の中でもっとも激しいかも知れない、この激情は、ややもすれば──というよりむしろつねにこのような自虐へその人間を追いやるものなのだ。

 小郷はこれまで苦しいという気持を知らなかった。

 が、その彼が今、はじめて苦しい──いや、人間の感情の中で最も苦しい気持を味わねばならなかった。

 思えば、小郷も気の毒な人間である。

 おまけに、小郷にとって、ますます気の毒なことは──、

 小郷が君勇と並んで座席に腰を掛けた時、まだアトラクションははじまっていず、見たくもない映画を見なければならなかったのである。

 こんなみじめなことがまたとあろうか。

 小郷は、ここ数年間映画というものを見たことがなかった。

 若い男女のように見てたのしむという趣味はなかったし、だいいちそんな暇はなかった。

 事業と酒と女──これが小郷の生活の全部だった。

 女の機嫌を取るために、映画館へ女を誘うというような、そんな青ッちょろい人間ではなかったのだ。

「金さえ出せば女はものになるのだ」

 小郷虎吉という名前さえ出せばいいのだ──と、そう思っていたからだ。

 そんな彼が、嫉妬からとはいいながら、映画館の暗がりの中で、ぽかんと坐っていなければならないとは……?

 しかし、映画は案外早く終った。

 休憩があり、やがてアトラクションの幕が上った。

 まず、バンドが一曲を奏した。

 それがすむと、純白の背広の胸に、赤いバラの造花をつけた望月三郎がほのかに薄化粧をしてバンドの前に現れた。

 一斉に拍手が起った。

 やがて、望月は得意の流行歌をうたい出した。

 美貌と美声──若い女の子はメロディの甘さにしびれながら、一層望月の魅力に夢中にさせられていた。

 小郷はそれを見るのがたまらなかった。おまけに、小郷を一層たまらなくさせたのは、ふと隣の席を見ると、そこには望月の歌にひきつけられている君勇の表情があったことだ。

 君勇としては、しかし、ひきつけられているわけではなかった。

 昨日べにやからつけて来たいやらしい男だと、その時のことを想い出しながら、ふっとおかしさがこみ上げていたのだ。

 しかし、小郷は君勇がひきつけられていると思ってしまったくらい、嫉妬にかられていた。

 小郷はたまりかねて、いきなり起ち上って客席を出て行った。

 すると一人の男がすっと起ち上って、小郷のあとをつけて行った。



 小郷が廊下へ出て行くのを見ると、君勇もあとからついて行こうとして、立ち上りかけて

「あッ!」

 と、声をのんだ。

 そして、そのまま椅子に釘づけになっていたが、やがて、意を決したように、青ざめた顔に、緊張した表情をきっとうかべて、望月の歌声を背中に、廊下へ出て行った。

 廊下にはしかし、もう小郷の姿は見当らなかった。

 小郷は電話室へはいっていたのである。

 どこへ電話しようとしたのか。

 ──廊下へ出た時の小郷は、蒼白になっていた。

 彼の苦悩はこの時、殆んど絶頂に達していたが、しかし、今や自分をさいなむことに自虐的な快感すら感じていた彼は、望月三郎の声をきいた今、その姦通の相手である真紀子の声をきいてみたい──という、ちょっと常識では考えられぬ奇妙なことを思いついたのだ。

 もっとも、一つには、今日の彼はもう思い切り享楽の限りをつくすよりほかに、苦悩を癒やすすべがなかったから、そのためにいる金を、家から持って来させようと思ったのだ。

(財布を知らぬ間に弓子に掏られていたことは、読者も知っていよう)

 電話はなかなか掛らなかった。信号は呼んでいるのだが、誰もいないのか、いくら待っても、電話口へ出て来ない。

 小郷はいらいらして来た。

 狭い電話室の中で、神経をたかぶらせていると、小郷はだんだん息苦しくなって、目まいがしそうだった。

 やっと出て来た。

 女中のお雪だった。お雪は半泣きの声で、

「小郷でございます」

「わしじゃ」

「あ、旦那様ですか」

 お雪は、絶え入りそうな声だった。

「いくら呼んでも電話口へ出て来ないじゃないか。莫迦ッ!」

「はい済みません」

 お雪は泣いていた。

「泣かんでもよろしい!」

 小郷は自分が叱って泣いたのだと思った。

「旦那様ッ!」

 お雪は急にわッと泣声をあげて、

「──旦那様ッ! 坊ン坊ンが……」

「幹男が……?」

 と、小郷はふと不安な予感がした。

「──幹男がどうしたんじゃ」

「おなくなりになりました」

 幹男は自殺したのだった。

 女中のお雪に孕ませた罪の苦悩は、この少年にはもはや堪え切れぬくらい大きかった。

「えッ! 死んだッ……?」

「はいッ!」

「泣いてちゃ判らん」

「奥さんを呼べ! 奥さんを……」

「はいッ!」

 お雪が真紀子を呼びに行っている間、小郷はがっくりと、電話室の壁によりかかっていた。気の遠くなるほどの苦悩が、小郷の足をすくったのだ。

「あなたッ!」

 やっと電話口へ出て来た真紀子も、やはり泣き声だった。

「莫迦!」

 何も言わず、小郷はただ一言、そうどなりつけた途端、

「あッ!」

 と、叫んでその場にくずれるように倒れてしまった。



「先斗町と書いてポント町と読むことは京都の人なら誰でも知っていようが、しかしなぜ先斗町──四条大橋の西の袂を北へ入った路地を、ポント町というのか、知っている人はすくないだろう……」

 小田策之助はちぎり家の別館で、「それでも私は行く」の第一回目の書き出しを書いていた。

 二三行書いて、新しい煙草に火をつけ、そして、一休みするつもりで、ペンを置いて、かたわらの新聞を取り上げて、読んでいるうち、小田はどきんとした。

「京極の殺人事件! 実業家小郷虎吉氏殺害さる」

 小田はあわてて、その記事を読んだ。

「昨二十二日午後二時ごろ左京区下鴨××町実業家小郷虎吉氏は京極の映画館××館の公衆電話のなかで、何者かの手で心臓部へ鋭利な刃物を突き刺されて苦悶中を発見、最寄りの××病院へかつぎ込んで手当を加えたが、二時三十分落命した。享年五十六。五条署では直ちに容疑者を留置して取調中だが、犯人は目下の所不明」

 小田は読み終ると、

「やっぱし殺された。おれの予感が適中した」

 と昂奮しながら、部屋の中を歩きまわっていたが、ふと、鶴雄のことを想い出して、桔梗家へ電話した。

 ところが、桔梗家の女中は、

「坊ン坊ン、お留守どす」

「どこか行先きは判りませんか」

「あのウ……」

 もじもじしていたが、

「──警察へ呼ばれて、行かはりました」

「えっ……? 警察へ……?」

 小田は青くなった。

 鶴雄が警察へ呼び出されたときいて、小田の頭にまず泛んだのは、小郷のことであった。

 小郷が京極の映画館で殺されたことと、鶴雄が警察へ呼び出されたこと──両者の間には、何か密接な関係があるに違いない。

「いや、もしかしたら……」

 と、小田は青くなったのだ。

「──小郷を殺したのは、鶴雄ではないだろうか」

 小田は電話を切って、部屋へ戻ると、鶴雄が「罪と罰」の話をしていたことを想い出した。

「ラスコリニコフを模倣したのかな」

 一方は大学生、一方は三高生……なるほどと唸っていると、女中が、

「お電話どす」

 と、知らせに来た。

「どこから……? 新聞社なら原稿はまだだと断ってくれ」

「新聞社やおへんえ、警察からどす」

「警察……?」

 あわてて起ち上ると、小田は二階の洗面所の横にある電話の方へ飛んで行った。

「小田ですが……」

「あ、小田さんですか。こちらは五条署ですが、一寸おききしたいことがあるんですが……」

「小郷事件でしょう?」

「そうです。よく御存知ですね。御足労ねがえませんでしょうか」

「すぐ行きましょう」



 小田は五条署からの電話が切れると、すぐ支度をして出掛けた。

「やア、どうも、わざわざ御足労ねがって……」

 と、司法主任は小田に番茶をすすめながら、

「──実は梶鶴雄のことで、一寸おききしたいんですが……」

「はあ。小郷事件ですね。梶君に嫌疑がかかってるんですか」

「ええ、まア、有力な嫌疑者ですね」

「どういうわけで……」

「とにかく、本人が自白したんですから……」

「えッ……?」

 やっぱし、そうだったかと、小田の心は改めて重くなった。

 司法主任の言うのはこうだった。

 京極の映画館の電話室で、小郷が殺されているのを、一番さきに見つけたのは、君勇だった。

 警察では、まず君勇を取調べていろいろ事情をきいた。

 すると、君勇はいきなり、

「小郷はんを殺したのは、あてどす」

 と、自白した。

 ところが、梶鶴雄を呼んで、取り調べると、鶴雄は、

「小郷を殺したのは、僕です。小郷が電話室へはいっているうしろから、忍び寄って小郷の背中を刺しました」

 と、言うのである。

「ほう、二人とも自分が犯人だと言ってるんですか」

 と、小田は驚いた。

「ええ。そこで、あなたに、一つ鶴雄君のことを、ききたいんですが、あなたは昨日鶴雄君に会われましたか」

「ええ」

「宿屋で……?」

「そうです」

「何時頃……?」

「たぶん一時頃でしょうね」

「それから……?」

「高台寺の方へ散歩しました」

「二人で……?」

「いや、三人で……」

「三人とおっしゃると、もう一人の人は誰ですか」

「…………」

 小田はちょっと躊躇した。

「かくさずに言って下さい」

「もう一人というのは、相馬弓子という女性なんです」

「で、何時頃まで散歩なすったんですか」

「夕方まで……」

「えっ……?」

 と、若い刑事はききかえした。

「──夕方まで……? たしかに夕方までですか」

「ええ、たぶん午後五時頃だと思います。鶴雄君と、四条で別れたのは」

「それまでずっと一緒に行動されてたんですね」

「ええ」

「ふーん」

 と、司法主任は考えこんでいたが、やがて、

「小郷が殺されたのは、しかし、二時半頃ですよ」

 と言った。



 小田は思わず、

「あ、そうだった」

 と、膝をたたいた。

「──小郷が殺された時間には、鶴雄はおれと一緒に歩いていたのだ」

 小田はこのことに気がつかず、一途に鶴雄が犯人ではないかと、疑っていた自分の間抜けさ加減に苦笑した。

「梶君じゃありませんよ、犯人は……」

 と、小田は言った。

「──ちゃんと、アリバイが出来ています」

「もし、あなたのおっしゃったことが、本当だとすれば、そうですね」

 と、司法主任は言った。

「嘘だとお思いになるんですか」

「いや、嘘だとは思いませんが……」

「とにかく、これを見て下さい」

 と、小田は「それでも私は行く」の覚書を見せた。

「このノートは、梶君をモデルにして書こうと思っている小説の覚書です。言って置きますが、空想は混っていません。全部、梶君の口から聴いたことと、僕自身見聞したことばかりです」

「そうですってね」

「どうして、それをご存知なんですか」

「いや、実は山吹先生からききました」

 と、司法主任は言った、

「──山吹先生は梶鶴雄の受持の先生でしょう」

「ええ」

「だから梶君のことをききに行ったんですよ。そしたら、梶君の行動は小田君が知っている筈だから小田君にきけばいいでしょう──と小田さんの小説の計画のことを伺ったんです」

「なるほど……」

「じゃ、ちょっと拝見」

 司法主任は小田のノートを熟読した。

「あ、これですね。(梶鶴雄と五時頃四条河原町で別れる)──とありますね」

「ええ。完全なアリバイでしょう」

「そうですね」

 司法主任の言葉を聞いて小田はほっと安心して、

「これで梶鶴雄に掛った嫌疑は晴れたのだ」

 と思わず表情も明るくなったが、ふと、

「──じゃ、犯人は君勇なのか」

 と、思うと、急にまた眉が曇った。

「──とにかく、君勇は自分が犯人だと、自白しているんだ」

 鶴雄が犯人だと思うことは無論辛かったが、しかし君勇が犯人だと思うこともまた、それに劣らず小田にとっては辛かった。

「じゃ結局君勇ですか」

 と、小田はきいてみた。

「さアどうでしょうかな」

 と、司法主任はそのことには触れず、

「この相馬弓子という女性は、本当に掏摸なんですか」

 と、いきなり言った。

 小田ははっとした。

 鶴雄を救うために見せたノートが、こんどは逆に弓子に迷惑を及ぼすのか。

「…………」

 小田は咄嗟に、弓子が掏摸だと答えられなかった。



「かくさずに言って下さい。相馬弓子という女性は、掏摸なのでしょう。このノートは空想はまじっていない筈ですね」

 と、司法主任は、おだやかな口調で再びそうきいた。

 小田はもはや、答えないわけにはいかなかった。

「そうです、掏摸です」

「このノートによると、弓子はあなたと梶鶴雄と一緒に高台寺の方を散歩していたが、途中で一人さきに帰っていますね」

「ええ」

 やっぱりノートを見せるべきではなかったと小田は思った。

「弓子は小郷に恨みを抱いているんですね。姉の千枝子を小郷にひどい目に合わされたその恨みですね」

 司法主任は小田の創作ノートを覗きながら言った。

「さア、どうでしょうか。恨みというほどでもないんでしょう。それにこのあたりは少し脚色していますから」

 と、小田は極力弓子をかばおうとしたが、司法主任は、

「とにかく相馬弓子を調べることにしましょう」

 そして、半時間もたたぬうちに弓子は小野屋旅館から拘引されて来た。

 司法主任は小田に、

「あなたは一応お引取り下さいませんか。どうも御苦労でした」

「そうですか。じゃ、用事があれば、いつでも来ますから……」

 小田はひとまず宿へ帰った。

 翌朝小田は眼をさますと、まず新聞に飛びついた。

「京極の殺人事件!

犯人は美貌の女掏摸か?

犯行を自白す!」

 こんな見出しが出ていた。

 小田は急いで記事に眼を通した。

 その記事によれば、弓子は小郷を殺して、財布を奪ったということになっていた。

「こりゃおかしいぞ」

 小田は警察署へかけつけて、司法主任に面会を求めた。

「弓子が自白したって本当ですか」

「ええ」

「殺してから、財布を奪ったというんですね」

「しかし、このノートには……」

 と、小田はまたノートを見せて、

「──弓子はダンスホールで踊っている時、小郷から財布を掏ったとありますよ」

「なるほど、しかしこの話は、あなたが弓子自身の口からきいて、書いたのでしょう」

「そうです」

 すると、司法主任はにやりと笑って、

「弓子が自分の口で語ったことが、全部本当だとは限らないでしょう」

「えっ……?」

「例えば、弓子は犯行を計画していたとしますね。とすれば、財布は殺す前に掏って置いたと思わせて置く方が、有利じゃないでしょうか」

「いや、そこまで考えて、嘘を言ったとは思えませんよ」

 と、小田は強い口調で言った。



「しかし、とにかく弓子は自白してるんですからね。小郷を殺してから、財布を盗んだと……」

 と、司法主任は小田にライターの火を貸した。

 小田はもう黙るより仕方がなく、

「じゃやっぱり弓子だったのか」

 と、いらいらと煙草を吸いながら、浮かぬ顔をして沈んでいたが、急に、

「──あ、そうだ」

 と、眼を輝かせた。

「小郷は君勇と二人で映画館へはいったのでしょう。切符を買う時、財布を持っていたかどうか、君勇にきいてみれば判るでしょう」

「なるほど……」

 早速君勇が呼び出された。

「今日は。先日はどうも……。こんなとこでお眼に掛ろうとは、思てしませんどした」

 と、君勇は稍青ざめた顔に、微笑をうかべて、小田に挨拶した。

「小郷と映画館へはいった時、誰が金を払った?」

 と、司法主任はきいた。

「あてが払いました」

「映画館へ行く前プルニエへ行ったんだろう」

「へえ」

「その金は……?」

「あてが払いました。財布持ったはれしめへんどしたさかい」

 小田はにやりと笑って、司法主任の顔を見た。

 やがて、小田は警察署を出ると、四条河原町までブラブラ歩いて来た。

 そして、ふと小郷事件のあった映画館を見て置こうと思って、四条通りから花遊小路の中へはいって行った。

 丸山苔水堂というカメラ屋の前まで来て、小田はおやっと思った。

 可憐な舞妓の写真が陳列されているのを見たのだ。

「あれはなんという舞妓……?」

 と小田は店の中へはいって行って、そうきいた。

「先斗町の鈴子いう舞妓はんどす」

「ふーん」

 小田は暫らくその写真を見ていたが、やがて、

「これを売ってもらえますか」

「どうぞ」

 鈴子の写真を買って宿へ帰ると、間もなく女中が夕刊を持って来た。

 近頃の夕刊は、一面にいわゆる三面記事がのる。

 すぐ小郷事件の記事が眼にはいった。

「美貌の女掏摸、果して真犯人か? 先斗町の美妓君勇、意外にも小郷殺しを自白……」

 こんな見出しだった。

 君勇の写真が出ていた。

 製版が悪くて、君勇の顔はぼうっとかすんでいた。

 おまけに、君勇の勇の字が男になり「君男」と誤植されていた。

 いつもの小田なら、噴きだすところだが、小田はにこりともせず、その記事をながめていた。

 やがて、夕飯が終って、散歩に出ようとすると、警察署からまた電話が掛って来た。



 小田は急いで電話口へ出た。

「もしもし、小田ですが……」

 神経質な疳高い声でいうと、

「あ、小田さんですか」

 と、聴き覚えのある司法主任の声だったが、何かいつもより晴々として、明るかった。

「──わざわざお呼び立てして、実は小郷事件が遂に解決しましたので、一寸お知らせしようと思って……」

「ほう……? それやわざわざどうも……。で、犯人は……?」

 と、小田は固唾をのんだ。

 電話の横に鏡があった。その鏡に小田の顔が写っていた。小田の顔は緊張のあまり稍青ざめていた。

「犯人は誰だと思います?」

「まさか、君勇じゃないでしょうね」

 小田は、もし犯人が君勇だったら、新聞の記事通りだから、わざわざ電話が掛って来る筈はないと咄嗟に思った。

「ええ、君勇じゃないんです」

「梶君ではむろん、ないでしょう」

 かつはほっとし、かつは一寸心配しながら、小田は言った。

「もちろんです」

「相馬弓子は……?」

「ああ、あの女摸掏。あなたのノートの通りです」

「じゃ、一体誰なんです」

「君勇の旦那です」

「えっ……? 一寸待って下さいよ」

 と、小田は咄嗟に考えた。

「──君勇の旦那というと、小郷じゃないですか。小郷が小郷を殺すというのは、こりゃおかしいですよ」

「あはは……」

 と、司法主任の笑い声が受話機を通して聴えて来た。

「──君勇の旦那といっても、元の旦那ですよ」

「元の旦那……? そいつは知りませんね」

「三好という男なんです」

「ほう……」

 三好という君勇の元の旦那のことは小田は少しも知らなかった。

(おれの知らないうちに、おれの知らない人物が事件を起していたのか)

 小郷の事件はむろん、小田の知らないうちに起った事件だったが、しかし、小郷が殺されることは、小田の予感の中にあった。だから満更寝耳に水の事件でもなかった。

 しかし、三好という未知の犯人の登場は、実在の事件を取り扱って一つの小説を組み立てようとしている小田の自信をくつがえしてしまった。

 小田は狼狽した。

「現実というものは、それに挑み掛ろうとする作者に、どんな不意打ちのいたずらをするか判ったものじゃない」

 と、現実を甘く見ていたこの自信たっぷりな小説家は、はっと水を浴びせかけられた気持だったのだ。

 が、同時に小田の職業意識ははや強い好奇心の食指を動かせた。

「三好ってどんな男ですか。なぜ小郷を殺したのですか。なぜ、三好だということが判ったんですか」

 小田は畳み掛けるようにきいた。



 それから半時間ののち──。

 小田は司法主任に会うために、河原町通りを歩いていると、若い美貌の青年に会うた。

「やあ」

 と、小田は声を掛けた。

 錦ビルの二階の喫茶店にいたボーイだった。

 青年は寄って来ると、

「僕にここで会うたこと、マダムに内緒にして置いて下さい」

 と、言った。

「どうして……?」

「僕、あの店を休んでるんです」

「へえ……? 君は一日も休まなかった筈だろう……?」

「ええ。しかし、もうやめようと思うんです。じゃ、内緒にたのみますよ」

 青年はソワソワと立ち去った。

 小田はふとうしろ姿を見送りながら、

「あの青年もモデルにするつもりだったが、だめかな」

 と、呟いた。

 が、それよりももっとモデルとして重要な人物がいる。──三好だ。

 小田は司法主任から、三好のことをきくべく約束の場所へ急いだ。

 四条河原町を上へ二筋目を東へはいると、

「と一」という甘党の店がある。料理もやっていて、ひっそりとした奥座敷もある。

 そこで、司法主任が待っていた。

「今日は事件が解決した祝いだから、ビールでもやりますかな。小田さんはいけるんどすか」

「いや、コップに二杯以上はだめです。──ところで、三好とかいいましたね……」

「ええ。君勇の元の旦那──。自首したんですよ」

「へえ……?」

「君勇が犯人だと新聞に出ているのを見て、自首したんですね。君勇に嫌疑が掛ってなければ自首しなかったかも知れないが……つまり惚れてたんですね」

「じゃ、嫉妬からやったんですか」

「そうです。君勇は小郷が殺される前の晩、祇園から先斗町への帰り途で、元の旦那の三好に会うたんですよ。三好は君勇に今夜つき合えといったんだが、君勇はお座敷から呼ばれているし、別れた旦那とコソコソ会っているところを見られると、芸者としての立場が苦しくなるので断ったんですね。──さア、ぐっとあけて下さい」

「いや、僕はもう飲めません。──で、断られてカッとなったんですか」

「そうでしょうね。その晩一晩中君勇につきまとったんですね。そして、君勇が小郷と泊ったことを知ったわけです。凶行の日も、つけていたんですよ。映画館の中へもつけて行って、小郷が電話室へはいったところを、やったんですね」

「へえ……? 併し、君勇が自白したというのはどういう訳です」

「君勇は三好の姿を映画館で見たんですね。だから、小郷が殺されているのを見ると、てっきり三好だと思って、三好をかばうつもりで、自分だと言ったんですね。小郷に身を任せたのも、鈴子の身代りという気持のほかに、小郷から金を取って落ちぶれた三好に貢ごうという、しおらしい気持もあったんだが、これがかえって悪かったんですね」

「じゃ、梶君が自白したのは……」

「君勇をかばうつもりだったんですよ。とにかく君勇は自分の好きな鈴子の身代りになってくれたんですからね。それに、一度は小郷を殺そうとしたこともあるんですからね」

「弓子が自白したのは……?」

「梶鶴雄をかばうつもりだったんですよ」


十一


「なるほど、みんながみんなを、かばおうとして自分が犯人だと言ったわけですね」

 と、小田は微笑した。

「そうですよ。誰を調べても、自分が犯人だと言うので、弱りましたよ」

 と、司法主任は笑った。

「三好の刑はどれくらいでしょう」

「さア、自首したのだし、ものを取ったわけではないし、そう重くはならないでしょう。──それに、三好は小郷を殺してすぐ自殺するつもりだったし、少しぐらいはいっていても、自殺するよりはましでしょう。君勇は三好のために弁護士をつけると言ってますよ。着物を全部売ってね、芸者をやめるそうですよ」

「へえ、芸者をやめるんですって」

「ええ。つくづく芸者稼業がいやになったといっていましたよ」

「ほう……?」

「鈴子も舞妓をやめてしまいました。母親がびっくりしましてね」

「えっ……? 鈴子が……? 僕は梶君に鈴子を身受けする約束をしたんだが……」

 鶴雄と賭けをしたことを、小田は想い出した。

「あはは……。もう手おくれですよ」

「ところで……?」

 と、小田は煙草を灰皿の中でもみ消しながらきいた。

「弓子は……? 出来れば、罪にしたくないですな」

「そうですね、しかし、とにかく掏摸ですからね」

「有罪ですか」

「さアね」

 と、司法主任はコップの底に残っていたビールをのみほして、

「しかし、一応書類は作りますが、事情が事情だし、不起訴とまでいかなくても、執行猶予にはなるでしょう」

「そうですか。それをきいて、安心しましたよ。あはは……。一杯いただきましょう」

 小田は空のコップを差し出した。

 翌日、小田は鶴雄と宿屋で会っていた。

「僕、鈴子を身受けしてやれなくなったよ。鈴子は舞妓をよしたんだってね」

「いや、いいんです。それに僕はもう京都にいませんから」

「どうして……?」

「どうしてって……。君勇にも弓子にも鈴子にも、もう会いたくないんです」

「ふーん」

「それに、京都という土地がつくづくいやになりました」

「じゃ、どこへ行くの……?」

「友人が北海道にいるんです。そいつを頼って牧場で働きます」

「学校は……?」

「よします。どうせ、食糧難で満足に授業は受けられないし、北海道の牧場で、独学する方が気が利いています」

「そうか。それもよかろう。学校なんてくだらないからね。行きたまえ。──だいいち僕がとめても、それでも君は行くだろう」

「ええ。それでも私は行きますよ、あはは……」

 と、鶴雄はしかし寂しい笑い声だった。

「それに、もうサイコロで決めてしまいましたから」

「サイコロ……?」

 小田は鶴雄が鈴子からサイコロを貰っていたことを思い出した。

「──じゃ、餞別にこれをあげよう」

 小田は花遊小路で買って来た鈴子の舞妓姿の写真を、鶴雄の前に出した。

 鶴雄はふと小田の顔を見た。

 そして真赧になりながら、じっとその写真を見つめていた。いつまでも、燃えるような眼で見つめていた。

底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版

   1976(昭和51)年425日発行

初出:「京都日日新聞」

   1946(昭和21)年425日~725

入力:林清俊

校正:小林繁雄

2011年310日作成

2016年320日修正

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