秀吉・家康二英雄の対南洋外交
国枝史郎




 仏印問題、蘭印問題がわが国の関心事となり、近衛内閣はそれについて、満支、南洋をつつむ東亜新秩序を示唆する声明を発した。

 これに関連して想起されることは、往昔に於ける日本の南洋政策のことである。

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 日本と南洋諸国、即ち呂宋ルソン媽港マカオ、安南、東京、占城チャンパ柬埔塞カンボジア暹羅シャム太泥パタニ等と貿易をしたのは相当旧くからであるが、それらの国々へ渡航する船舶に対し、官許の免許状(朱印)を与えて、公に貿易を許可したのは豊臣秀吉で、それは我国の文禄元年、西暦の一五九二年のことであり、爾来御朱印船は、呂宋ルソンのマニラ市を中心として、南洋貿易を営み、平和のうちに巨利を博し、朱印を許した秀吉は、それらの船の持来たした珍奇の器物をあがなって心を喜ばせていた。

 然るに、その秀吉が、南洋、主として呂宋ルソンに対し、経略の手を延ばしたのは、原田孫七郎の進言があったからである。孫七郎は、その兄、喜右衛門と共にマニラに住み、貿易を業とし、盛大をきわめていたが、機智に富み、胆略あり、イスパニア語に通じ、呂宋ルソンのみならず比律賓フィリピン群島全体の事情に精通していたが、日本に帰朝するや秀吉に謁し、比律賓フィリピンの現状を語った上「その本国イスパニアは、宗教政策を利用し、他国を侵略することを常套手段といたしおりまして今にして比律賓フィリピギンを、日本に於て攻略いたしませねば、イスパニアによって、かえって日本こそ侵略されるでございましょう」と進言した。折柄おりから秀吉は征韓の志を起し、武備兵糧を充実させた時であったから、天性の豪気いよいよ盛んに、直ちに右筆をして、呂宋ルソン総督マリニャス宛ての勧降の書をしたためしめ、末段に「来春、九州肥前に営すべし、時日を移さず、降幡をせて来服すべし、もし匍匐膝行遅延するに於ては、速かに征伐を加うべきや必せり」と記させた。何という恫喝的な、強硬な外交文書であることか。

 ところでその結果はどうかというに、マニラに戻った孫七郎の手によって、この文書を渡された総督のマリニャスは、憤慨したものの、折柄本国のイスパニアが、和蘭オランダと事を構えていて国家存亡の際だったので、日本と抗争状態に入ることをおそれ、僧侶コボスと船長リヤノという者を使者とし、日本に遣わし、秀吉懐柔の策を講ぜしめた。一応秀吉の強硬外交は成功したのであった。しかしマニラ総督が貢を入れるとも降服するとも申出たのでなかったから、更に第二の文書を、孫七郎の兄喜右衛門の手からマニラ総督に致させた。「もし今後年ごとに貢進するに於ては、出征を見合わすも可なり」という意味の文書であった。マニラ総督はこの文書を見ると又憤慨したものの、矢張やはり本国イスパニアの事情が事情だったので、又も懐柔手段をり、喜右衛門に、船長カルバリコ、及び宣教師三名を附け、返書と土産物とを添え、日本へ遣わした。その使者が日本へ渡り、秀吉に謁しての発言は、降伏のことではなくて、通商同盟の問題であった。そこで秀吉は通詞をして云わしめた。

「予の母は日輪胎に入ると夢見て予を産んだ。占者はこれを占ってこの児長じて世界を一統するであろうと。しかし我国には万世一系の天皇がわす。よって予は先に朝鮮を戡定し、支那また和を請い、王女をわが皇室に献ぜんと約した。しかも彼はこの盟約を実行せざるによる、ふたたび兵を出してこれを征服しようとしている。楼船海に浮んで路次呂宋ルソンに入るは容易のことである。呂宋ルソンの大守はよろしく早く予に降服せよ。然らざれば遠からず討伐を受けるであろう」

 しかしマニラ総督の使者は、

「私どもは国交を修めるために参りましたものでありますから殿下のご要求にお答えするには改めて総督からの訓令を待たなければなりません。使者を出し回答の参りますまで私どもを人質として日本におとどめおき下さいますよう」と云った。

 もっともの言葉であったので秀吉はその乞いを許したが、その後そのマニラの使者の中の三人の宣教師が、人質として日本にとどまったのは、その実、吉利支丹キリシタン布教のためであり、布教の真の目的は、日本侵略のためであることを探知し、宣教師と、日本の信徒二十六人とを刑戮し、その後、そのことに就いて、マニラ総督より抗議の使者が来るや「治外法権の設定なき以上、各国の在留人は、日本の法律に従うべきである」と突刎つっぱね、あくまで強硬外交の実を示した。

 しかし秀吉は、その後間もなく慶長三年にこうじたので、折角の対呂宋ルソン強硬外交も、実利的の実は結ばなかった。

 しかし、その後に天下を治めた徳川家康の南洋政策に対し、その秀吉の対呂宋ルソン強硬外交は、日本の武威を示しておいてくれたという点で大変役に立った。



 徳川家康の南洋政策は、豊臣秀吉の強硬な、むしろ恫喝的、侵略的のれとは事変り、きわめて穏健で、親和的で、実利的であった。つまり、ひとえに貿易を興し、国益を図ろうとする経済的な画策だったのである。

 秀吉が九通しか許さなかった御朱印を、家康は、慶長九年に一挙二十九通許可し、盛んに貿易させたのであった。しかし家康が南洋諸国に政策の手を延ばし、外交を開始したのは、それより少し早く、慶長六年のことであり、安南都統の阮敬という者が「日本人、当国海岸に漂流し来たり、当国人をみだりに殺戮す」と申し来たに対し「凶徒は貴国の法律に照して処罰されたし」と返書を与えたことから始まり、翌七年、又安南の大都統、瑞国公より、通商に関する来書があった時「風波は天なればご注意ありたく、凶賊は人にして、その凶賊は既に日本の近海より姿を消したれば、安んじて通商に従事ありたし」という意味の返書をした。そうして同年に柬捕塞カンボジア国王より同じく通商に関する文書来たるや「遠く信書を伝えられ、之を抜き、之を読むこと、蓮華床にして雹雪の語を聴くが如し」という、至極巧妙な外交辞令を用いて相手を喜ばせ、なお、日本よりの貿易船は朱印をもって信牌とした故、これを所持している船は優遇信用してほしいと希望し、同じ年に、また同じ王から来書があるや、両国の交際のいよいよ厚くなることを喜ぶと云い、更に同国に内乱があって干戈の常に動くことに同情し「黎民の情に願うて能く慈愍を加えなば、国家は自然に安泰ならんも、むを得ずんば即ち戦闘に及ぶまた可なり」と大戦術家であると共に大政治家である家康らしい注意などを与え、更に、兵器などは日本産のもの極めて鋭利なれば、所要にしたがって供給してもよいと、何時いつの時代にもある、戦闘国に対して、第三国が行う武器売込みの手を早速用いたりした。

 そうして秀吉時代に一時杜絶した呂宋ルソンとの通商も家康時代に入って再び復活させた。

 慶長六年のことであったが、マニラの大守テイヨから久しぶりに来翰あり、日本人が支那人と共同して暴動をするがうしたらよかろうかと処置を乞うて来た。これが秀吉であったならわが神州の男子は、異域に於て何んぞ暴動せんや、などと高飛車に出ておどしつけたことであろうが、家康はうでなく至極しごく国際公法的に、凶徒は容赦なく貴国の法律に照らして処罰せられたしと返書し、更に、メキシコと交通したいが、貴下に於てその斡旋の労を執らるれば幸甚であると依頼したりした。

 翌七年、またテイヨから文書が来ると、家康はいよいよ親和外交の奥の手を発揮し「容額を拝せず、辞語を聴かざるも、交情は四海一家の思いをなせり」などと、およそ秀吉が、わしは太陽の申し子じゃ、お前、まごまごして早く降参しないことには、征伐を受けること必せりじゃ、などという傍若無人の言辞とは似ても似つかない、嬉しがらせの辞令を与え、さて、その後から、再度自分の希望のメキシコ通商の斡旋方を依頼し「日本がメキシコと交通しようとするのは、単に日本のためばかりでなく、貴国の為でもあるのです。というのは、今回そのため関東の浦賀を碇泊所としますがこれは貴国にとっても便利のことと思います。

 尚、日本の現在は、国の内外静謐であって寇賊の心配なければ安心して船舶を通ぜられよ」と云い送った。そこで呂宋ルソンは意を安んじて、同年船を浦賀に向け、書状及び贈物を献じ、爾来盛んに通商貿易をした。しかしメキシコと日本との通商交通の斡旋をしようとはしなかったが、それは家康に悪意を以って反抗したのではなく、それとはむしろ反対に日本とメキシコが交通貿易をするようになったなら、折角復活した日本と呂宋ルソンとの貿易が、メキシコのために妨害されるかもしれないことをおそれた結果なのであった。つまり自分一人日本の寵児になろうとしたのであって、秀吉のために横面をなぐられて恐怖した彼が、家康によって撫でられたので、そこまでなついて来たのであり、秀吉、家康の硬軟二道の外交術が、南洋諸国を、よく日本に馴染ませた一例ということが出来る。

 まれ秀吉と家康との南洋政策は、その硬軟両様の外交によって、その時代に於ては成功していたのである。

底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社

   2006(平成18)年330日第1刷発行

底本の親本:「外交」

   1940(昭和15)年819日、26

初出:「外交」

   1940(昭和15)年819日、26

※「柬埔塞」と「柬捕塞」の混在は底本の通りです。

入力:門田裕志

校正:阿和泉拓

2010年1115日作成

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