日本探偵小説界寸評
国枝史郎
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二十八歳で博士号を得た、不木小酒井光次氏は、素晴らしい秀才といわざるを得ない。その専門は法医学、犯罪物の研究あるは将に当然というべきであろう。最近同氏は探偵小説の創作方面にも野心を抱き、続々新作を発表している。犯罪物の研究は、今や本邦第一流類と真似手のない点からも、珍重すべきものではあるが、その創作に至っては、遺憾乍ら未成品である。「二人の犯人」「通夜の人々」これらの作を読んでみても、先ず感じられる欠点は、先を急いで余悠がなく、描写から来る詩味に乏しく、謎を解く鍵には間違いはなくとも、その解き方に奇想天外がなく、矢張り学者の余技たることをともすれば思わせることである。但し市井の新聞記事から、巧に材料を選び出して、作の基調にするという、そういう際物的やり方には評者は大いに賛成する。豊富な資力、有り余る語学力、立派な邸宅、美しい夫人、よいものずくめの氏ではあるが、ひとつの病弱という悪いものがあって、氏を不幸に導こうとしている。併し病弱であればこそ、そうやって筆も執られるので、そうでなかったら勅任教授か何かで、大学あたりの教壇で干涸らびて了うに相違ない。文壇擦の毫も無い、謙遜温雅な態度の中に、一脈鬱々たる覇気があって、人をして容易に狎れしめないのは、長袖者流でないからである。
「二銭銅貨」を提げて、探偵小説創作界へ、突如として姿を現わしたのが、他ならぬ江戸川乱歩氏である。トリックを二重に使った所が、この作の最も面白い点で、それに過大に引っかかったのが小酒井不木氏だから更に面白い。その結果最上級の讃辞なるものが、小酒井氏によって呈供され、忽ち乱歩氏は斯界に於ける第一人者に押し上されて了った。また多幸なりというべきである。この意味に於て「二銭銅貨」は、処女作であると共に出世作であり、通用価値は二銭でも、どうしてどうして粗末にはならない。千金ぐらいに当ろうもしれぬ。よろしく財布の底の方へ大切に仕舞って置く必要がある。「心理試験」も有名ではあるが、既にポワロの作があり、それに本来心理試験なるものが、犯人捜索の手段として、指紋ほどには必要性が無く、探偵小説の材料にするには、多少力弱い難がある。それにもかかわらずその心理試験を、無雑作に肯定してかかった所に、この創作の不用意さがある。心理の推移解剖が、常識圏内から出られなかったのも、この作の欠点の一つであろう。また「D坂の殺人事件」に於て、変態性欲者を二人まで出して、紛糾した事件を片付けたのは、よく云えば利口であり悪く云えば狡猾である。アブノーマルの人間を、探偵小説の舞台へ出したら、どんな怪奇でもどんな不思議でも、きわめて楽々と作ることが出来る、その代り作の感銘が稀薄になるの嫌いがある。聞けば同氏は職業を捨て、探偵小説の創作に、専心努力する決心だという。「探偵小説趣味の会」も、氏の事業の一つだそうな。情味豊な其文章、行き届いた描写の筆、これは既に定評あるもの、関西式ぞんざいの其中に、一味沈鬱をまじえたような、氏の性格は面白い。
エレガントといっても可いような、その立派な容貌風采、十数年の昔ではあるが、松本泰氏と会った時には、威圧をさえ感じたものである。永い海外滞在を終え、帰朝する早々にして「呪いの家」「三つの指紋」二冊の単行本を出版し、しかも更に矢継早に「秘密探偵雑誌」を発行してこの方面の開拓に従事し、自己の立場を明かにしたのは洵に眼覚しいものであった。同氏は既に洋行前の慶応出身の創作家として、細身で典雅な文章と緻密自然の観察とを以て、文壇に或る位置を占めていたのに、その過去の栄光を捨て、探偵小説創作界に、新しく鋤を打ち込んだのには、強い決心がなければならない。材と舞台を海外に執るのも、探偵小説としては相応しく、何等の不自然をも感じさせない。一本調子に事件を追い、細い心理の解剖に頭の良さを誇るというより、三十枚足らずの短篇の中へ、複雑多様の筋を罩め、それを穏かに解きながら、音楽も聞かせ色彩も見せ、興味本位の探偵物ながら、芸術的表現をも忘れない。というのが同氏の特色である。従って作風は強くはないが、その代り快い諧謔がある。震災直後「秘密探偵雑誌」は不幸廃刊を見たけれど、ふたたび勇気を揮い起こし、「探偵文芸」を発刊したのは、斯界に執っても幸福である。
「鮭」の作者本田緒生と「蒔かれし種」のあわじ生とは、異名同人だということである。一夕の会合二時間ばかりの間に、十言ぐらいは喋舌ったろうか、借りて来た猫のように穏しい氏に「蒔かれし種」というような、力強い作があろうとは、洵に意外と云わざるを得ない。印刷にして六十六頁、随分長い作だのに倦ませずに大団円迄読ませたは立派な手腕と云わざるを得ない。本流と傍流とを着かず離れず、交互に巧に縫い合わせ、単純な事件を複雑に見せ、秘密を最後まで保ったのも、粘着力が強いからである。とはいえ前後四回まで使った「強迫文」は失敗である。作者も夫れを自覚しているのか、文中に於て自笑しているが、その自笑があるために愈々力弱くなった。
奎運社経営者の中野圭介氏が、その営業の片手間に、探偵小説に筆を着けたのは、精力過剰の結果でもあろうか、結構といえば結構でもあるが、その出来栄に至っては、大して感心もせられない。例えば「真珠の首飾」にしても、有りそうな事件を取り扱い乍ら、拵え物としか思われないのは、その把握力が弱いからで、キメの荒い散文的の描写は、そうでなくてさえ非審美的の、探偵小説というものを、一層ぞんざいに墜し入れている。そうは云っても此人の作は、どれを読んで見ても純日本的、下町風の味があって、一特色をなしている。
森下雨村、保篠龍緒、阿部誠太郎、坂本義雄、天岡虎雄、牧逸馬、浅野玄府、鳥井零水、若目田三郎、和気律次郎、田中早苗、松村博三、長谷川次郎、水田銀之助、吉田両耳、梶原信一郎、吉田夏村、妹尾韶夫、延原謙、星野武夫、春日野緑、水上規矩夫、平野威馬雄、横溝正史、西田政治、甲賀三郎、愛知博、等、々、々、寥々たる創作家と比較して、何んと翻訳家は多いことだろう。そうして皆何んと上手なのだろう、この人々の努力に由って、欧米諸作家の名作が、次々に邦語に移植され、揺籃時代の探偵小説界が、啓発されるということに就いては、お礼を云っても可さそうである。
しかも此中甲賀三郎氏は、創作方面にも手を延ばし、名作「琥珀のパイプ」に由って、驚く可き才能を発揮した。紅も白粉も掃き落した、筋書のような筆法乍ら、それが却って力強く、自警団時代を舞台に執り、小刻みに畳込んだ無数の謎を、極わめて合理的に解剖した、メス使いの鮮さは、敬服するに足るものがあり、評者その作を読んだ時、「この作者の前途は素晴らしい」と掲載雑誌「新青年」を頭上に振り廻わしたものである。併し其後発表された「母の秘密」「誘惑」を見れば、その特色が失われている。簡潔であった其筆がひどくくだくだしいものとなり、謎の掛け方解き方も、平凡化されたものはどういうものであろう。それでは「琥珀のパイプ」なるものは、この人に執ってはピカ一なので、まぐれあたりに出来たものであろうか。その辺心元ない次第である。
「地下鉄サム」の型を借り、それ以上の作を作ろうとして、精進しているのが牧逸馬氏で、「トムとサム」や「ネクタイピン」を見ればその得点も欠点も解る。前人の型を踏襲するのは一つの面白い試みであって、卑怯でもなければ安易の道でもなく尚又宿借り主義でもない。その点は少しも問題でない。寧ろ洵に結構である。が併しどうも結構でないのは、折角「サム」に則り乍ら、一向「サム」の精神なるものを咀嚼していないことである。欧米諸作家雲の如く、随分沢山探偵小説を産むが、いずれも資本主義の文明に、養成された所の「紳士」なるものに、最後の勝を取らせている。然るに一人マッカレーばかりは、地下鉄サムを現に出し謂う所の贋の「紳士」なるものへこっぴどく痛棒を喰らわせている。これ此作の精神である。然るにどうやら逸馬氏は、そんな点などへは眼もくれず、機智縦横の作風ばかりに興味を感じているらしい。どうも是では困るのである。一考を煩わしたい次第である。
稲垣紅毛氏の「犯罪研究」土井謙蔵氏の「犯罪事実譚」常司鈴太郎氏の「ほんとにあった事」等は純粋の創作では無いにしても、多の技巧が加味されてあり、却って純粋の創作などより、面白くもあれば有益でもあり、粗末に出来ないという点で、大いに推賞したいものである。「サンデー毎日」が鼓吹して、今や天下を風靡しているクロス・ワード・パズルなるものも一種の探偵的遊戯なのであって、その点が流行を持ち来たしたのである。即ちパズルの製作家は、狡智にたけた暗号犯人であり、それを解こうとする千万の読者は、いずれも素人探偵なのである。大毎社内の記者の中に、なんと暗号犯人の多いことよ。
成田尚氏の「夜行列車」は複雑を極めた筋である。小泉係長の探索振はソーンダイクを想わせると云っても、大して不当ではなさそうである。汽車に関する知識も深く地理も充分に調べてあるらしい。犯人の片割れ佐藤義員と、掏摸との偶然のぶつかり合が、喰い足りないといえば喰い足りないもののこれくらいの偶然を許さなかったら、探偵小説は成立しまい。文章が達意明快にも似ず、混雑した感じを招来するのは、苅り込み方が足りないからであろう。検事、警視、駅長、署長、駅夫、妾、道会議員、妾の情夫というようなものが、登場しているという点から見ても、探偵小説らしい探偵小説である。時々揷入される風景描写がその割に活きて見えないのは、物足りない心地がする。
「浮かれている隼」の作者たる久山秀子氏は女流らしい。掏摸を働く不良少女が女子誘拐者の好男子を、あべこべに取っちめるという筋である。掏摸さえ主人公に持って来れば、「地下鉄サム」の影響ありと、ともすれば云いたがる評者自身の、この可くない批評癖は自分でも充分承知であるが、併し矢っ張り此作は、「サム」に似ていると云いたいのである。と云って勿論「サム」のような、名作でも何んでも無いのである。ただ女流の作だけに、全体を通じて曖昧のあるのが、見遁すことの出来ない特色と云える。
大下宇陀児氏の「金口の巻煙草」は、厭味のない作である。金口煙草一本から、不良少年を看破するのも、不自然でなくて結構である。そうして読後感じさせられることは、高等学校の生徒等の、センチメンタルな義侠心などは、児戯に類するタワコトだという、そういう暗示的な皮肉である。
谷譲次氏の発表する米国を舞台の軽快文学は、佐々木指月氏の作風を想わせ、頗る愉快なものであるが、探偵小説「上海された男」には、その特色が稀薄である。一体何うしたというのだろう。
水谷準氏の「盲目の画家」は、もう少し磨きをかけたなら、その惨酷味もその凄味も、ピリッと読者へ来ただろうに、それの無かったのは遺憾であり、城昌幸氏の「怪奇の創造」も同じ欠点に堕している。
さて、林不忘氏の「釘抜藤吉捕物覚書」は、髷物で行こうとする所に、特色らしいものは見えるけれど──そうして「怪談釘地獄」や「宇治の茶箱」などは結構であるが併し髷物の捕物なら、若手に白井喬二氏あり、大家に岡本綺堂氏あって、その塁を磨するということは、困難のように思われる。
これは云わでもの事ながら、噂によると平野威馬雄氏は、アラン・ポーの血統とのこと、事実なら愉快な限りである。「鬼黒田探偵秘譚」という、連作物の幾篇かに由って、才筆を謳われた石川大策氏が、其後筆を納めたのは、洵に以て勿体ない。こういう人を担ぎ出し、縦横に其筆を揮わせるのも、探偵小説創作界を賑わせる方便ではあるまいか。山下利三郎氏、横溝正史氏、西田政治氏の諸短篇も見遁すことの出来ないものである。
「探偵小説新趣味」が震災後廃刊になったのは、返す返すも残念なことである。該誌の編集者鈴木徳太郎氏は、今や雑誌「ポケット」に拠り、これは以前にも云ったことであるが、その途方もない編集度胸を以て、続々新作家を製造している。今日迄「新趣味」が続いていたなら、おそらく其テンで鈴木氏は、三ダースぐらいの探偵小説家を、産出したに違いない。その鈴木氏無き今日に在りては森下雨村氏と松本泰氏とが、新進作家の産みの苦しみを具に嘗めているらしい。ところで洵に心細いことには、探偵小説専門雑誌なるものが日本には二つしかないことである。即ち「新青年」と「探偵文芸」でその他「苦楽」や「新小説」などでも、最近其種の創作を、掲載するようになったものの、精々一篇か二篇である。これでは到底諸家の創作を疏き切ることは不可能である。困ったことと云わざるを得ない。
それは兎に角既成文壇人で、探偵小説に理解を持ち、時々意見を発表する人に、加藤武雄、平林初之輔、前田河広一郎の諸家がある。さきごろ前田河氏と江戸川氏とが愉快に煙草を喫い乍ら、論じ合ったような様子であったが、その結果はどうなったものか、つい聞き落し見落して了った。遺憾千万と云わざるを得ない。
以上でザット日本に於ける、近代探偵小説界の鳥瞰寸評は終ったのであるが、これ等の人々の前途に就いては全く予測を許し難い。或者は大成し、或者は中道で倒れ、そうして一般の標準なるものは高上するに相違ない。……などと云うような予言なら、愚昧の評者でも云い切ることが出来る。誰か大いに安石を気取り、乃公出でずんばの慨を以て、飛び出して来るものはないだろうか。既成文壇の四五の大家が、雑誌経営者に強要され、心ならずも誤って、探偵小説を作ったことがあった。幸か不幸か其一二篇は、相当立派なものであった。併しもう一度其人達に、誤って作れと云った所で、作ってくれる気遣いはない。兎角文壇の大家なるものは、お上品なことが好きである。兎もすれば下等視されようとする、なんで探偵小説家などへ、わざわざ成り下って来るものぞ。と云うことになって見れば、止むを得ず、新進作家なるものは、草莽の間から見付けなければならない。では厭でも小酒井不木氏、森下雨村氏、松本泰氏、こういう人達にお願いし、是非伯楽になって貰い、驥北の野でも散歩して貰い、所謂千里の駒なるものを、至急目付けて貰うより、他に手段は無さそうである。
底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「読売新聞」
1925(大正14)年8月31日
初出:「読売新聞」
1925(大正14)年8月31日
入力:門田裕志
校正:高橋征義
2018年3月26日作成
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