探偵小説を作って貰い度い人々
国枝史郎
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平林初之輔氏が探偵小説を書いた。書いて貰い度いと久しい前から、思っていた所の人である。処女作などとは思われない程、よく纏まったものである。理智的であって人情的、よく調和がとれている。多少文章はゴタツイているが、根が評論家のことであり、創作には不慣れと云って了えば、そういう難は救われる。のみならず頭のよい同氏のことだ、二度目の作に至っては、そんな欠点も無くなるだろう。
藤井真澄氏を無理にも進め、探偵小説を作らせたいものだ。僕に執っては無二の畏友、共同生活をしたこともある。その頃から僕は同氏には、良いことばかり教えられている。同氏は既に「新魔王」に於て、探偵脚本を書いている。その出来栄えも結構である。新魔王の解釈も氏一流だ。ただ其手法に至っては、少しく初期の探偵物に、こだわっているような所がある。
藤井主義は即科学主義である。同氏は科学主義に溺れているともいえる。だが決して溺れ過ぎてはいない。
近代芸術の特色として科学的ということは無視出来ない。わけても探偵小説は、そういう要素を多分に持つ。で、科学主義の藤井氏などが、この方面へ鍬を入れることは似つかわしいもののように思われる。だが同氏は何を書くにも、そこへ一理窟見付けないことには容易に筆を執ろうとはしない。しかし同氏は探偵小説には、以前から興味があった筈である。僕は既に五年程前に、同氏の口から聞いたように思う。五年間考えたらもう可かろう。そろそろ執筆して貰いたい。しかし同氏はどっちかというと、筆不精の方に属している。だから誰か同氏を進め、寧ろ同氏を鞭韃し、謂い得べくんば駆り立てなければ、或は筆を執らないかもしれない。あのダーウィンの進化論と、あのフロイドの精神分析学と、あの日蓮の折伏主義とを、混和させたような同氏の思想が、探偵小説に盛られたなら、新機軸を出すに相違無い。狛江村などに引っ込んで、晴耕雨読していずと、探偵小説を書いて貰い度い。
ウェルシイニンを賞揚した、前田河広一郎氏が筆を呵して、探偵小説を作ったなら、きっと素晴らしいものが出来るだろうと、僕は常に思っている。米国を舞台でも結構である。日本を舞台なら尚結構、あの力強い筆を以て、是非最近に作って貰いたい。同志とも云う可き平林氏は、既に処女作を発表した。いよいよ今度は前田河氏の番だ。
森下雨村氏が翻訳ばかりせずと、雑誌編集に没頭せずと、探偵小説の創作方面に、是非筆を執って貰いたい。しかし由来語学堪能で、外国の名作ばかり見ている人は、一種の気遅れを心に感じ、創作の筆が鈍るものである。或いは同氏も其一人かもしれない。しかし小酒井不木氏ありて、翻訳と紹介と創作と、三方面に筆を執り、どの方面でも第一流、殊には有名な「手術」以後、その創作には光彩を増し、凄惨酷烈な解剖の筆は、殆ど類を見無い程である。
では森下雨村氏と雖も気遅ればかりを標榜し(或いは然うでは無いかもしれぬが)創作をしないという事は、些か当を得ないようである。
劇に評論に髷物に、至る処として可ならざる無き、才人伊藤松雄氏などは、もう明日にも筆を執って、探偵小説を作る可きである。その新鮮な筆触は、探偵小説には好適である。もう病気も癒ったというから、令夫人携帯で戸山ヶ原ばかりを、散歩するにも及ぶまい。と、僕とは従兄弟だけにエグイ事も云って置く。勉強なさい勉強なさい。正岡蓉氏の軽快文学を、僕は非常に好きである。非常に非常に好きである。同氏がああいう筆法を以て、探偵小説を作ったなら、一特色を為すに違いない。米田華舫氏の軽快文学も、僕は非常に好きである。一味支那趣味の雑ったあたり、誠に捨て難いものがある。あの筆法で探偵物を書いたら、是又一特色をなすだろう。日本探偵小説界の、伯楽の長たる森下氏が、既成文壇の人達へ、依嘱するのも結構であるが、斯ういう人達へ慫慂して、探偵小説を作らせたなら、更に一層結構かもしれない。勿論「探偵趣味」同人諸兄が、この人達に着目し、無理にも進めて作らせることは、僕の切なる願いである。
底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「探偵趣味」
1926(大正15)年1月
初出:「探偵趣味」
1926(大正15)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2019年2月22日作成
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