他界の味其他
国枝史郎
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マーテルリンクの諸作、わけても「群盲」や「侵入者」や「タンタジールの死」などには、運命的、象徴的、等々々の味があり、それが凝って、他界的の味となっている。そういう味が、あのまわりくどい、ねばねばとした、もって廻わった白廻わしによって読者に逼まってくる。その逼まり方が、何んとなく猟奇小説的であり探偵小説的である。
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ストリンドベルヒの或る作は、アラン・ポーの影響の下に書かれている、「熱風」「パリア」などは夫れである。そういう作は云う迄も無いが、そういう作で無くても、ストリンドベルヒの作の大方は、他界的の味に充たされている。「死の舞踏」「幽鬼の曲」「ダマスクスへ」等々いずれも然うである。徹底自然主義の代表作だと云われている「ユリエ嬢」「債鬼」などにさえそういう所がある。彼は結局自然主義作家では無かった。そうして彼の作にも猟奇的、探偵的の味が多分にある。
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ホフマンの作やノバリスの作に、猟奇小説、探偵小説の味のあることは云う迄も無い程である。ホフマンなどは、純然たる探偵小説を作っている。
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チェスタートンやスチブンソンが純然たる探偵小説にして多量に芸術的である所の多くの作を作っていることは誰でも知って居ることであろう。しかもこの二人の芸術家の夫れらの作が道徳的であり健全であり、教訓的であり、明るくて朗かであることに就いてはまだ誰もが云っていない。
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ノーベル賞金の受領者、瑞典の女流作家、ラゲルレフの作も多分に猟奇的である。三一致的厳格の構成の下に書かれた彼女の作に、そういう点のあるのは面白い。この作者の、機械的、乃至は幾何学的とでも云い度い程で確な心理描写の中に夫れのあるのは面白い。
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ピランデルロ、マリネッチ、トルレル、チャペック、ハァゼンクレイフェル、ゲーリング、オニール、カイゼル等々々。
これ等欧州大戦中、又欧州大戦直後に輩出した諸作家の作は、構成に於てあまりに人工的、心理に於てあまりに尖鋭的であったため現実離れがして居る。だから他界的であるかというに、また然うでも無い。変な存在である。そうしてこの変な存在であるがために認められた。併しこういう作が認められたというその事は「怪奇」では無い。
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芸術至上主義者であったレニエだのメリメエだのショルツだのワイルドだのの諸作が他界的であり幽鬼的であり猟奇的であるのは何んの不思議でも無い。芸術至上主義なるものが現実廻避主義なのであるから。
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現実主義的なあまりに現実主義的な作家バーナード・ショーは、オルレアンの少女の幽霊を書いても幽霊とはならずに現代のなまなましい美少女となって現われている。ショーが他界的の味を作中に盛ることの出来ないのはショーの名誉である。
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ルノルマンが、精神分析学や相対性原理を作中に活用しているのはキワモノ師的であるが、それを活用したためその作が神秘的となり猟奇的となっているのは猟奇趣味者に執りては有難いことであろう。
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二十歳代の私を感化した作家は、ワイルド、ホフマン、ポー、ショルツ、マーテルリンク、ダヌンチオ、等々々であり、その影響の下に、その時代に書いた私の諸作は「レモンの花の咲く丘へ」「古城哀史」「夏の夜の夢」「胡弓の絃」「二人の旅人」「人買」等々々十数篇の戯曲である。しかし、それらの諸作家は、私を三年とは支配しなかった。その次に私を感化した者は、フロイドであり、ダーウィンであり、北輝二郎であり、マルクスであり、ヘーゲルであり、スペンサーであり、藤井真澄であり、キャルケゴールドであり、メンデルであり、クロポトキンであり、スチルナーであった。この時代に私の書いた戯曲は「その日その日」「社会部」等々である。私をして大衆文学を書かしめる可く、精神的に刺戟した作家は白井喬二である。
今の私を感化している何物も無い。
只、長谷川伸が、私をして再び戯曲を書かしめる可く間接に又直接に刺戟している。
底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「猟奇」
1930(昭和5)年1月
初出:「猟奇」
1930(昭和5)年1月
入力:門田裕志
校正:hitsuji
2019年8月30日作成
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