大衆物寸観
国枝史郎
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中里介山氏の「大菩薩峠」は、実に素晴らしい作である。大デュマなんか飛び越している。だがユーゴーを持って来るのは、まだ少し早いかも知れない。机龍之介の性格描写は、前古未曾有といっていい、筋の通った登場人物が、廿人ぐらいはあるだろうが、それぞれクッキリと描き分けた手際は、将に巨匠といっていい。龍之介と対抗すべき人物は、新思想家の駒井能登守であるが、洵に立派に描かれている。まだ未完ではあるけれど、既刊の分だけを読んだ所では、幕末を舞台のオーケストラ、こういい度いような気持がする。取り入れている仏教思想は、真言と禅だというようなことを、或る友人から聞いたことがあるが、門外漢たる私には、その方面のことは解らない。
「あった」調と「ありました」調とを、平気で自由に混用し一種の味を出しているのは、文章度胸が大きいからで、そうして是が自然でもある。本来人間の会話なるものが、「あった」と云ったり「ありました」と云ったり、チャンポンに使われているものである。それだのに一端文章となると「あった」調で一貫させたり「ありました」調で一貫させたりする。(私なども然うである)これは間違っている。純文壇の方面では、小川未明氏が中里氏と同じく、「あった」と「ありました」とを混用し、矢張り、味を出している。けっきょく創作というものは、広義に於ける人間社会を(人間社会に必要な、天然界をも含んだものであるが)まず対象とするものであるから、人間社会で使っている言葉を、そっくり持って来て使えばよいので、それを為ないということは、屹度文章を作る場合にかしこまるからに相違無い。
だが貧弱な文章論なんか、まず何うでもよいとしよう。
長谷川伸氏の大衆物も、洵に勝れたものである。亢奮もせずダレもせず、ピンと張り切った地味の文章で、極めて克明に書くのであるが、それでいて興味は無限である。特趣の材料を持って来ることも、興味のある大きな原因らしい。「討たせてやらぬ敵討」これは同氏の近著であるが、表題からして特異である。そうして中味も特異である。
大方の現今の大衆物は、英雄崇拝熱から醒めていない。強い人間は無暗に強く、弱い人間は矢鱈に弱く、悪い人間は何処迄も悪く、善い人間は最後まで善い、こんな塩梅に書かれている。講談式であり草双紙式である。本当の人間は書かれていない。恰度新派の芝居なるものが、本当の人間をウツして来ずに、甘く低級に理想化された、侠芸者だの悪弁護士だの、屹度出世する苦学生だの、天女のような令嬢だのを、所謂る善玉悪玉式に、ウヨウヨ舞台へ現すように大衆物の中へも現して来て、読者へ偽善ばかりを強いている。
所が長谷川氏の大衆物になるとそういう欠点は見られない。殆ど一人の英雄もいない。命の惜しい侍や、ブルブル顫えている泥棒や、どうにも仕方の無い安手ゴロや、そんなものばかり現れて来る。血の通っている人間である。
本当の人間を描く点と、その作風の地味な点とで、長谷川伸氏の大衆物は、正宗白鳥氏の創作と、その趣を等くしている。
小酒井不木氏の探偵小説は、専門の智識を根底とし、そこへ鋭い観察眼を加え、凄惨酷烈の味を出した点で、他に殆ど匹儔を見ない。──と、こんなような真正面から、ムキ出しに讃辞を呈すると、或は謙恭な小酒井氏は、恐縮して閉口するかもしれない。併し他人の閉口なんか、私はちっとも苦にしない。で、平気で褒めつづける。
「手術」は凄惨な作である。縮尻ると惨酷になったろう。だが夫れは救われている。正直な質朴な表現が、それを救っているのである。「痴人の復讐」も凄惨な作で、これを読んだ大方の読者は、恐らく頭のテッペンへ、ビーンと太い五寸釘を、打ち込まれた感を得るだろう。この作には社会性がある。大袈裟にいえば人道主義がある。態度がノロマだということだけで不当に他人から軽蔑される、そういう人間の憎人主義の片鱗を示した作である。こういうことは社会に多い。こういう受難者は怒っていい。勇気があったら復讐していい。この作一つを取り上げて、五十枚の論文をつくることが出来る。
そういう点を考えずに、上っ面だけの事件を見て、抗議を呈する者があったら、眼光紙背に徹せぬものとして、私などは夫れを受け取らない。そういう人などがストリンドベルグを読んだら、眼を廻してひっくり返るだろう。
「恋愛曲線」は同氏のものとしては、可憐の作とでもいうべきか。珍らしく恋愛を扱っている。完成された作である。他人が扱ったらこの作は、甘い物になったに相違無い。だが同氏が扱った為に、それは寧ろ辛い作となった。心中物も斯う扱えば、新しい現代の読物として、非常に面白いということを、証拠立てたような作品である。微に入り細に入った解剖説明も、巧に立体的に描かれているので、決してわずらわしい感がしない。相手の女の何者であるかを、最後まで隠し終わせたのは──尤もそれが隠せなかったら、探偵物としては失敗であるが──矢張り巧妙だと云わなければならない。
同じく心臓を扱った作に「人工心臓」というのがある。同氏は自分でこの作を、失敗な作だと云って居る。私は然うは思わない。しかし作者がそう云っているものをいや結構でございますと、結構の押売りをするということは、些か変なものである。妥協をすることにする。
底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「名古屋新聞」
1926(大正15)年1月6日
初出:「名古屋新聞」
1926(大正15)年1月6日
入力:門田裕志
校正:きゅうり
2019年2月22日作成
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