小酒井さんのことども
国枝史郎



 小酒井さんが長逝されました。私はボンヤリしています。同じ名古屋に住んでいたため特に親交があったからです。

 医学者として大家であり、探偵文学者として一流であったことは世間周知のことと思いますが、私の知っている幾人かの実業家は小酒井さんのことをこのように申して居りました。

「小酒井さんは大事業家の素質を持っています。あの人が病身だということは如何にも残念です。健康でさえあったら実業の方面でも大事業をされるのですに」と。

 小酒井さんは、ひそかに或る土地会社式、乃至ないしは宝塚式の大娯楽場設立の計画をされていたようです。或時その片鱗を私にも洩らされ「いよいよその時には貴郎あなたにも是非」とこのように云われました。五六十万円ぐらいの計画のようでした。

 そこで私は思った事がありました。

「小酒井さんが夭逝しなかったら、医学界では、自宅に設けてある研究所から多くの博士を出して一大王国をつくり、探偵文学方面では、息をかけた人を多く造って一大王国をつくり、実業方面では前記の計画を完成してこれ又一大王国をつくったことであろう」と。

 小酒井さんが私の家へ来られた度数と、私が小酒井さんの家をお訪ねした度数とを比較しましたなら、小酒井さんが私の家へ来られた度数の方が多かったように思われます。来ると、何時いつも文学の話ばかりで、それが小酒井さんにはたのしみであったようでした。他にそういう話をする人が名古屋に無かったからだろうと思われます。

 小酒井さんは身に備わっている威厳を、わざと自身でぶち壊そうと心掛けるような所がありました。しかしれは失敗に終わり、いつも威厳が保たれていました。実に壊わしても壊わしても壊わし切れない頑丈な威厳を持っていました。

 小酒井さんは場所慣れた人であり、何人にもめない人であり、どのような環境にも融合することの出来る人でした。

 小酒井さんは三十分でも一時間でも人の話を聞いて、自分では黙っていることの出来る人でした。それで少しも小酒井さんの影が薄くもならず、いやかえって小酒井さんという人の印象を強く人に与え、尊敬を招く人でした。

 知ったか振りをしないばかりか、一切のことに小酒井さんは見得を張りませんでした。余程の修養が出来ていなければこういうことは仲々出来ないのだと私などには思われました。

 衆と共に仕事をされる場合には小酒井さんは身をもつってひきいました。ですから自然と衆人が小酒井さんを頭目の位置に据えてしまいました。

 私に断然禁酒をすすめたのは小酒井さんでした。

 小酒井さんを「よく取りよく散じた人」と云いいのですが、そうは云われないようです。小酒井さんは原稿料無しの原稿を平気で沢山に書き、極端に安い原稿料の原稿をも平気で多く書きました。で「よく取らなかった人」でした。しかし散じた方はいちじるしく、これは随分派手でした。

 肺を非常に悪くしている、貧しい青年の原稿を小酒井さんは買い取ってその青年の生活を助けてやっていたということを、数日前に、その青年から私へよこした手紙によって私は知りました。しかもその原稿によって小酒井さんは創作の材料を得たのでは無く、その原稿は全然紙屑籠の中へ入れるていのものであったそうです。小酒井さんはこういう隠徳を施していた人でした。

 私が禁酒したのは、酒をうんと飲みそこへカルモチンをうんと飲み=糖尿病があった所へ、それらのものを、うんと飲んだめ悪く影響し、一種の夢遊病的状態になり、一つの失敗をしたのを小酒井さんが心配され、全然禁酒するよう進められた結果禁酒したのでした。それは去年の十二月のことでした。それ以来私はずっと禁酒しています。この禁酒はつづくようです。ところでその際私は或る手続をするために小酒井さんに保証人になって下さるよう依頼しました。すると小酒井さんは直ぐに快諾された上、その手続きをする事を非常によいからと云って進められました。

 しかしその時小酒井さんは云われました。「喜んで私は保証人になりますが、しかし貴郎よりも先に私の方がこの世へおいとまを告げますよ」と。

 私はまさかと思いましたが、ついに小酒井さんの言葉が真実になりました。

 かなしいことです。

 私が、生前の小酒井さんと逢ったのは、本年一月の耽綺社の例会が最後でした。その時私は禁酒したのと旅から急いで帰って来たのとでションボリしていた筈です。私のションボリ振りが会員の人達に眼立めだったと見えて、その後土師清二氏からも長谷川伸氏からも「国枝よ。あんまりションボリし過ぎる。大酒は不可いけないが少しは酒をやった方がいい」という手紙が来たくらいでした。しかし私はその手紙を見て思ったことです。「禁酒したためションボリしたのは事実だが、実はあの時小酒井さんが私の正面に坐わっていて絶えずチラチラと私の顔を見て、私が盃へ手をやるかうかと心配そうにしていられた。その小酒井さんの心配そうな顔に対しても、盃を取ることが出来ず、又、実際よりも一層ションボリした風を見せなければならなかったのだよ」と。

 その日には、大毎の渡辺均氏や、大竹憲太郎氏も出席していられました。が、私のションボリ振りには意外な思いをされたことだと思います。その日私は郊外電車の時間の都合があったので一人中座して帰宅しました。もっとも私だけ中座して早く帰宅するという意味のことを旅先から予め小酒井さんの所へ手紙で申し入れて置きました。私が中座して縁まで出ると、小酒井さんが縁まで送って来られて、小声でなおいろいろと注意をして下さいました。その後、家内が小酒井さんの所へおうかがいすると、小酒井さんは云われたそうです。「国枝さんに禁酒をおすすめしたが、あの性質のことですから、せいぜい節酒するぐらいに止まるものと思うていた所、耽綺社の会合の時一吸も酒を飲まず、本当に禁酒したのを知って喜びもし安心もしました。いざとなると意外に意志が強いのですね。今後はコクテールであろうと、みりんであろうと、酒の名の附くものは一切飲ませないようにして下さい」と。

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 小酒井さんのことに関しましては私には書く可きことが山ほどあります。期を見ていろいろ書くことにします。

底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社

   2005(平成17)年915日第1刷発行

底本の親本:「猟奇」

   1929(昭和4)年6

初出:「猟奇」

   1929(昭和4)年6

入力:門田裕志

校正:Juki

2014年410日作成

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