愚言二十七箇条
国枝史郎
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探偵小説の人生は、日常茶碗の人生とは違う。
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人生に於ける非常事が、探偵小説では茶碗事となる。
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人生の自然と探偵小説の自然は、似ても似つかないものである。
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作家に特異性のあることは勿論幸福には相違ない。しかし勝れた探偵小説家は、より一層客観を尊ぶ。
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ポーが現代へ産れた所で社会性の無いという点で、一蹴されても仕方あるまい。
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階級の精神を代弁する者が現代と将来の大作家である。
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表現主義は個人主義である。まごまごすると利己主義に堕する。
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古典主義に反逆して、浪漫主義が新興し、浪漫主義に反逆して、自然主義が新興し、自然主義に反逆して、人道主義が新興し、人道主義に反逆して、プロレタリア芸術が新興した。反逆も伝統を持っている。
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面白くない読物とは、真実を描かない読物のことだ。
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人は他人の罪悪の、暴露を喜ぶものである。何んと新聞の社会面が、多くの人に喜ばれることか。では探偵小説家が、社会の罪悪を剔抉した所で、喜ばれない筈が無い。
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多数読者の嗜好を探り、その嗜好に投じ乍ら、自己の思想を植え付けることは、作家として最も大切では無いか。決して諂うことでは無い。大衆作家は夫れをしている。
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読者の嗜好を知るということは、階級思想を知ることである。
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芸術もだんだん分科的になる。ブルの嗜好とプロの嗜好とが、一致するとは思われない。
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「万魂詩人」というような文字は、今では辞書に無い筈だが。
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階級的思想を描いた物、「死の爆弾」と「蒼ざめた馬」とゴーリキーの「軍事探偵」……だが併し「軍事探偵」は、まだ大分個人主義的だ。
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小酒井氏の作の特色は、その筋の単純化にあり、甲賀氏の作の特色は、その筋の複雑性にある。勿論どっちも結構である。
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人間は「個」としては活きられない。どこ迄も社会の一員なのである。楽に暮らそうと思ったら、社会から改良しなければならない。余は文筆でそれをするのだ。
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社会改良の一具として、芸術を扱うということは、自然主義時代では嫌われた。だが今日ではそんな事はあるまい。
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探偵小説には型がある。その型を利用して、余は余の思想を伝えようと思う。
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「純粋な芸術」というような言葉は、可成り滑稽な言葉である。社会的効果を標準にして、芸術の高下は定める可きである。
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芸術から高貴性をふんだくれ。芸術をもっと下等の物にしろ。人は下等に於て平等となる。余が大衆物を書く理由。
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大袈裟な物の云いようをし大袈裟な物の書き方をする。余の欠点として咎めては困る。余の性質は反対なのだ。反対だから然うするのだ。然うして自己を鍛練し、それに慣らそうとしているのだ。
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生産が人を左右する。では大衆作家諸兄よ、うんと沢山作ろうでは無いか。
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いい着物を着て、いい煙草を喫って、いい自動車に乗って、いい女を連れて、いい食物を食べようでは無いか。そうしてブルジョアに接近しよう。折伏するのは夫れからである。穢い様子をしていると、テンから彼等は寄せ付けない。
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恐怖の創造! これは必要だ。脅すだけでも効能はある。
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可愛いと云っては犬を撲る。可愛いと云っては子供を泣かせる。この心理は探偵小説的だ。
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噴水ひとつ見るにだって、いろいろ変った見方がある。「どうだいどうだい綺麗だなあ」これは詩人の見方である。「長い間地下に圧迫され、やっと大空へ吹き出したんだ。うんと勇敢に泡沫を上げねえ」これは被搾取者の見方である。「工事に金がかかったろう。無駄な工事をしたものだ。借家を建てたら儲かろうに」これは資本家の見方である。「あの噴水を応用して、美人を一人殺そうかな?」探偵小説家の見方である。一番不自然な見方と云える。
底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「探偵趣味」
1926(大正15)年2月
初出:「探偵趣味」
1926(大正15)年2月
入力:門田裕志
校正:北川松生
2016年3月4日作成
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