疾中
宮沢賢治



  病床



たけにぐさに

風が吹いてゐるといふことである


たけにぐさの群落にも

風が吹いてゐるといふことである


  眼にて云ふ



だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといゝ風でせう

もう清明が近いので

あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

きれいな風が来るですな

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波をたて

焼痕のある藺草のむしろも青いです

あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを云へないがひどいです

あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです。


  〔ひるすぎの三時となれば〕



ひるすぎの三時となれば

わが疾める左の胸に

濁りたる赤き火ぞつき

やがて雨はげしくしきる

はじめは熱く暗くして

やがてまばゆきその雨の

杉と榊を洗ひつゝ

降りて夜明けに至るなれ


  〔熱たち胸もくらけれど〕



熱たち胸もくらけれど

白き石粉をうちあふぎ

にがき草根をうち噛みて

などてふたゝび起たでやむべき


  〔わが胸いまは青じろき〕



わが胸いまは青じろき

板ひとひらに過ぎぬらし

とは云へかなたすこやけき

億の呼吸のなべてこそ

うららけきわが春のいぶきならずや


  熱またあり



水銀は青くひかりて

今宵また熱は高めり

散乱の諸心を集め

そのかみの菩薩をおもひ

息しづにうちやすらはん


たゆたへる光の澱や

野と町と官省のなか

ひとびとのおもかげや声

ありとあるしじまとうごき

なべてよりいざ立ちかへり

散乱のわが心相よ

あつまりてしづにやすらへ

あしたこそ燃ゆべきものを


  〔そのうす青き玻璃の器に〕



そのうす青き玻璃の器に

しづにひかりて澱めるは

まことや菩薩わがために

血もてつぐなひあがなひし

水とよばるゝそれにこそ


  名声



なべてのまこといつはりを

たゞそのまゝにしろしめす

正徧知をぞ恐るべく

人に知らるゝことな求めそ


また名を得んに十万の

諸仏のくにに充ちみてる

天と菩薩をおもふべく

黒き活字をうちねがはざれ


  〔春来るともなほわれの〕


春来るともなほわれの

えこそは起たぬけはひなり

さればかしこの崖下の

高井水車の前あたり

矢ばねのさまに鳥とびて

くるみの列の足なみを

雪融の水の来るところ

乾田の盤のまなかより

青きすゞめのてっぱうと

稲の根赤く錆びにたる

湯気たつ土の一かけを

とり来てわれに示さずや


  〔今宵南の風吹けば〕



今宵南の風吹けば

みぞれとなりて窓うてる

その黒暗のかなたより

あやしき鐘の声すなり


雪をのせたる屋根屋根や

黒き林のかなたより

かつては聞かぬその鐘の

いとあざけくもひゞきくる


そはかの松の並木なる

円通寺より鳴るらんか

はた飯豊の丘かげの

東光寺よりひゞけるや


とむらふごとくあるときは

醒ますがごとくその鐘の

汗となやみに硬ばりし

わがうつそみをうち過ぐる


  〔熱とあへぎをうつゝなみ〕



熱とあへぎをうつゝなみ

しにのさかひをまどろみし

このよもすがらひねもすを

さこそはまもり給ひしか


瓔珞もなく沓もなく

たゞ灰いろのあらぬのに

庶民がさまをなしまして

みこゝろしづに居りたまふ


み名を知らんにおそれあり

さは云へまことかの文に

三たびぞ記し置かれける

おんめがみとぞ思はるゝ


さればなやみと熱ゆゑに

みだれごころのさなかにも

み神のみ名によらずして

法の名にこそきましけれ


瓔珞もなく沓もなく

はてなき業の児らゆゑに

みまゆに雲のうれひして

さこそはしづに居りたまふ


  〔わが胸はいまや蝕み〕

一九二八ヽ一二ヽ


わが胸はいまや蝕み

わがのんど熱く燃えたり


おとづれてきみはあれども

あゝきみもさかなの歯して

青々とうちもわらへる

その群のひとりなりけり


  S博士に



博士よきみの声顫ひ

暗きに面をそむくるは

熱とあへぎに耐へずして

今宵わが身の果てんとか


あゝ勇猛と精進の

ねがひはつねにありしかど

あしたあしたを望みつゝ

早くいのちは過ぎにけり


しかればきみが求むらん

奇蹟はわれが分ならず

たゞ知りたまへちゝはゝに

そむけるはかくさびしく死する


  〔美しき夕陽の色なして〕



美しき夕陽の色なして

一つの呼気は一年を

わが上方に展くなり


  〔まどろみ過ぐる百年は〕



まどろみ過ぐる百年は

醒めての時といづかたぞ


いまわれやみてわがいのち

いつともしらぬ今日なれば


  〔疾いま革まり来て〕



疾いま革まり来て

わが額に死の気配あり


いざさらばわが業のまゝ

いづくにもふたゝびれん


たゞひたにうちねがへるは

すこやけき身をこそ受けて

もろもろの恩をも報じ

もろびとの苦をも負ひ得ん


さてはまたなやみのなかと

数しらぬなげきのなかに

すなほなるこゝろをもちて

よろこばんその性を得ん


さらばいざしによとり行け

この世にてわが経ざりける

数々の快楽の列は

われよりも美しけきひとの

すこやかにうちも得ななん

そのことぞいとゞたのしき


  〔手は熱く足はなゆれど〕



手は熱く足はなゆれど

われはこれ塔建つるもの


滑り来し時間の軸の

をちこちに美ゆくも成りて

燦々と暗をてらせる

その塔のすがたかしこし


  〔あゝ今日ここに果てんとや〕



あゝ今日ここに果てんとや

燃ゆるねがひはありながら

外のわざにのみまぎらひて

十年はつひに過ぎにけり


懺悔の汗に身をば燃し

もだえの血をば吐きながら

たゞねがふらく蝕みし

この身捧げん壇あれと


  〔その恐ろしい黒雲が〕



その恐ろしい黒雲が

またわたくしをとらうと来れば

わたくしは切なく熱くひとりもだえる

北上の河谷を覆ふ

あの雨雲と婚すると云ひ

森と野原をこもごも載せた

その洪積の大地を恋ふと

なかばは戯れに人にも寄せ

なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ

青い山河をさながらに

じぶんじしんと考へた

あゝそのことは私を責める

病の痛みや汗のなか

それらのうづまく黒雲や

紺青の地平線が

またまのあたり近づけば

わたくしは切なく熱くもだえる

あゝ父母よ弟よ

あらゆる恩顧や好意の後に

どうしてわたくしは

その恐ろしい黒雲に

からだを投げることができよう

あゝ友たちよはるかな友よ

きみはかゞやく穹窿や

透明な風 野原や森の

この恐るべき他の面を知るか


〔丁丁丁丁丁〕



     丁丁丁丁丁

     丁丁丁丁丁

 叩きつけられてゐる 丁

 叩きつけられてゐる 丁

藻でまっくらな 丁丁丁

塩の海  丁丁丁丁丁

  熱  丁丁丁丁丁

  熱 熱   丁丁丁

    (尊々殺々殺

     殺々尊々々

     尊々殺々殺

     殺々尊々尊)

ゲニイめたうとう本音を出した

やってみろ   丁丁丁

きさまなんかにまけるかよ

  何か巨きな鳥の影

  ふう    丁丁丁

海は青じろく明け   丁

もうもうあがる蒸気のなかに

香ばしく息づいて泛ぶ

巨きな花の蕾がある


  病



  高田

  藤沢  ……なのを

  太田  ……してくれない

  高崎

  菊池  ……松並木 暗いつゝみのあるところ

ひがんだ訓導准訓導が

もう二時間もがやがやがやがや云ってゐる

その青黒い方室は

絶対おれの胸ではないし

咽喉はのどだけ勝手にぶつぶつごろごろ云ふ

足は全然ありかも何もわからない

ポムプはがたがた叩いてゐる

ぼんやり青いあかりが見える

そんならかういふ考へてるのがおれかと云って

それはそれだけたゞありふれた反応で

おれだかなんだかわからない


  〔眠らう眠らうとあせりながら〕



眠らう眠らうとあせりながら

つめたい汗と熱のまゝ

時計は四時をさしてゐる

わたくしはひとごとのやうに

きのふの四時のわたくしを羨む

あゝあのころは

わたくしは汗も痛みも忘れ

二十の軽い心躯にかへり

セピヤいろした木立を縫って

きれいな初冬の空気のなかを

石切たちの一むれと

大沢坂峠をのぼってゐた


  〔風がおもてで呼んでゐる〕



風がおもてで呼んでゐる

「さあ起きて

赤いシャッツと

いつものぼろぼろの外套を着て

早くおもてへ出て来るんだ」と

風が交々叫んでゐる

「おれたちはみな

おまへの出るのを迎へるために

おまへのすきなみぞれの粒を

横ぞっぱうに飛ばしてゐる

おまへも早く飛びだして来て

あすこの稜ある巌の上

葉のない黒い林のなかで

うつくしいソプラノをもった

おれたちのなかのひとりと

約束通り結婚しろ」と

繰り返し繰り返し

風がおもてで叫んでゐる


  〔胸はいま〕



胸はいま

熱くかなしい鹹湖であって

岸にはじつに二百里の

まっ黒な鱗木類の林がつゞく

そしていったいわたくしは

爬虫がどれか鳥の形にかはるまで

じっとうごかず

寝てゐなければならないのか


  〔こんなにも切なく〕



こんなにも切なく

青じろく燃えるからだを

巨きな槌でこもごも叩き

まだまだ練へなければならないと

さう云ってゐる誰かがある

たしかに二人巨きなやつらで

かたちはどうも見えないけれども

声はつゞけて聞こえてくる

 (モシャさんあなたのでない?)

返事がなくて

ぽろんと一音ハープが鳴る


  〔まなこをひらけば四月の風が〕



まなこをひらけば四月の風が

瑠璃のそらから崩れて来るし

もみぢは嫩いうすあかい芽を

窓いっぱいにひろげてゐる

ゆふべからの血はまだとまらず

みんなはわたくしをみつめてゐる


またなまぬるく湧くものを

吐くひとの誰ともしらず

あをあをとわたくしはねむる

いままたひたひを過ぎ行くものは

あの死火山のいたゞきの

清麗な一列の風だ


  夜

一九二九ヽ四ヽ二八ヽ


これで二時間

咽喉からの血はとまらない

おもてはもう人もあるかず

樹などしづかに息してめぐむ春の夜

こゝこそ春の道場で

菩薩は億の身をも棄て

諸仏はこゝに涅槃し住し給ふ故

こんやもうこゝで誰にも見られず

ひとり死んでもいゝのだと

いくたびさうも考をきめ

自分で自分に教へながら

またなまぬるく

あたらしい血が湧くたび

なほほのじろくわたくしはおびえる


  病中



これはいったいどういふわけだ

息がだんだん短くなって

いま完全にとまってゐる

とまってゐると苦しくなる

わざわざ息を吸ひ込むのかね

  ……室いっぱいの雪あかり……

折角息を吸ひ込んだのに

こんどもだんだん短くなる

立派な等比級数だ

公比はたしかに四分の三

 睡たい

  睡たい

   睡たい

睡たいからって睡ってしまへば死ぬのだらう

まさに発奮努力して

断じて眼を! 眼を 眼を!!! ひらき

さやう

もいちど極めて大きな息すべし

今度も等比級数か

こいつはだめだ

誰に別れるひまもない

もう睡れ

睡ってしまへ

いや死ぬときでなし

発奮すべし

眼をひらき

手を胸に副へ息を吸へ

  ……母はくりやで水の音……


  〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕



そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう

わたくしといふのはいったい何だ

何べん考へなおし読みあさり

さうともきゝかうも教へられても

結局まだはっきりしてゐない

わたくしといふのは

[以下空白]


  (一九二九年二月)



われやがて死なん

  今日又は明日

あたらしくまたわれとは何かを考へる

われとは畢竟法則の外の何でもない

  からだは骨や血や肉や

  それらは結局さまざまの分子で

  幾十種かの原子の結合

  原子は結局真空の一体

  外界もまたしかり

われわが身と外界とをしかく感じ

これらの物質諸種に働く

その法則をわれと云ふ

われ死して真空に帰するや

ふたゝびわれと感ずるや

ともにそこにあるのは一の法則のみ

その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり

そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず

菩薩を信ずる事を以て仏を信ず

諸仏無数数億而も仏もまた法なり

諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり

  帰命妙法蓮華経

  生もこれ妙法の生

  死もこれ妙法の死

  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る

底本:「宮沢賢治全集2」ちくま文庫、筑摩書房

   1986(昭和61)年424日初版第1刷発行

   1990年6月25日第4

底本の親本:「校本宮沢賢治全集」筑摩書房

入力:今中一時

校正:浜野智

1998年65日公開

2005年1018日修正

青空文庫作成ファイル:

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