日本文学の発生
折口信夫
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何度目かの日本文学の発生を書くことになつた。此には、別に序説のやうなものがあつて、此文章と殆ど同時に発表することになつてゐるから、具体的なことを、落ちついて書き進めても、さし支へはないのだと言ふ、安堵のやうなものがあつて、之を書くことが、今のうちは、愉しい気がする。どうぞ、この心持ちが、いつまでも続いてくれるやうにと考へながら、書き出しを作る。
詞章伝承の情熱の起り
伝承する習俗と、把持する意力とが先祖の心になかつたら、吾々の文学は、どうなつて居たか知れない。恐らく、文学の現れずにしまつた訣もなからうが、ちよつと想像出来ぬ姿と、内容とを持つた、もつと脆弱なものが出て来たことであつたらうと思ふ。吾々の先祖は、何も神に報謝する為に、神の詞を伝へようとしたのではない。神の威力の永続を希うて、其呪力ある詞章を伝へ遺すまい、と努力して来たのであつた。
この詞章を伝承する事業は、容易なことゝは、昔の人程考へては居なかつた。こゝに、日本の古代宗教の形態の拠り処があつたらしく思はれる。神が神としての霊威を発揮するには、神の形骸に、威霊を操置する授霊者が居るものと考へた。神々の系譜の上に、高皇産霊尊・神皇産霊尊──天御中主神の意義だけは、私にはまだ訣らぬ──を据ゑて居るのは、此為であつた。此神の信仰が延長せられて、生産の神の様に思はれて来たが、むすびと言ふ語の用語例以外に、此神の職掌はなかつたはずである。
形骸に霊魂を結合させると、形骸は肉体として活力を持つやうになり、霊魂はその中で、育つのである。さうして其霊魂は、肉体を発育させる──さう言ふ風な信仰が、更に鎮魂の技術を発達させることになつたのである。だから、産霊は信仰で、鎮魂は呪術といふことになる。
高皇産霊・神皇産霊二神の中、多くの場合、高皇産霊尊を代表と見なしたことであつた。又当然、二尊の間に、職掌の分担を考へてゐたことも思はれる。ともかくも、産霊ノ神の職掌の重大な部分として挙げてよいものが、一つある。
尊い神が、神の詞を宣る時に、其を自ら発言することの出来る資格を授ける為に、此神の出現したと考へたのが、古代の考へ方である。天照大神に添うて、此神の出現する時は、重要な神事が行はれる訣である。
天照大神の神格については、いろ〳〵の考へもあるが、此神に、人間的な要素を深く考へてゐたことは忘れてはならぬ。最大の神言を発せられる場合に、きまつて居ると言へる。其人格をして、十分に神の能力を伸べさせるには、どうしても威霊を、その身に結合させる外はない。この大神をして、完全円満にして、永遠に効験ある神言を発せさせ申す為には、さうした大威力ある霊魂を、神の体中に置かねばならないとしたのである。其威霊は別に存在するものとして、その霊魂を処置するものなる、高皇産霊尊は、どうしても考へねばならなかつた訣である。かうして、最高の威力を具へられた天照大神の発せられた神言は、瓊々杵尊之を、下界に伝達せられたもの、と信じて来た。此地上に於いて、聖なる御子の神言を発せられる際は、其が伝達の意味であることは勿論だが、やはり、さうした呪術者が、身辺に居て、威霊を結合させる。さうすると、天上の神に現れた様に、威力ある詞が聖なる御子によつて発せられるやうになる、と考へたのである。此呪術を行ふ者が、天児屋命或は太玉命と謂はれる神々である。つまりは、週期的に神言を発する時が、廻つて来るのが常であつたからである。一度限りなら、さうして呪術者が、天上から随伴する必要はなかつたのであつた。
神語を発する能力ある神となることを考へたのが、次には、神語を発する能力自らが来り寓るものと思ふ時が来た。神語を発する神でなく、神語の威霊を考へたのである。此信仰が展開して、言霊信仰が現れて来ることになる。
天照大神に高皇産霊尊が随うた如く、亦瓊々杵尊に天児屋命が随うた如く、尊い神事を行ふ者には、威霊を操置する呪術者が随伴するものと考へたのが、こゝに言はうとした日本古代信仰の、重要な一つの形態なのである。
かうした形が定つた上は、いつも尊い人を表現するのにも、其人の介添へとなり、其人を育成する者を相並べて考へないでは居られなかつた。即、うしろみ──後見──の習俗が、此から出発した。多くの後見は、主人に対して、低い位置にあるものであつた。併し権威は、主人に向つても、振ふことは出来たのである。後代の語で言ふおとななどにも当るが、めのと──女より転じて、男にも言ふことになつた──にも、此定義がある。幼君を養育する者が、成長後は、主人として其人を崇めながら、尚親近感以外に、ある勢力を持つてゐる。さうした者をうしろみと言うた。従つて亦、夫に対して妻をうしろ見と言ひ、妻に対して、夫をうしろ見と言ふこともあるのは、おなじ理由から出てゐる。必、夫なり妻なりが、其相手よりも若くて、年増しの妻なり、年長の夫なりの介添へによつて連れ添うて来たと言ふ間柄の夫婦を言つてゐる。多くは年長女房を後見と言ふのである。此などは明らかに、神及び尊い御子を育てるのに、巫女が扶育して養ひ立て、成長後殆ど、神の妻のやうな交情を以て、神聖に接し、神の旨を伺ふことになつて居た。
さうした神を養育する、と言ふ信仰が、形づくられるに到つたのである。此形態が、社会にも家庭にも一般に行はれ、貴人の位置の尊さを表現するには、此幾重のうしろ見を具へることによつてすることになつた。乳母・後見・首名──乙名・老職、あげれば、貴人を廻つて、保護の責に任じてゐる者が、一通りや二通りではなかつた。だが、此形式の重畳であつて、かう言ふ形をとつて居たからと言つて、直に其御主人が、古くは神の地位にあつたとは言はれぬのである。
宮廷においてもやはり、其とほりであつた。此幾重扶育者があつて、主上を扶育申して来、権威具備せられて後までも尚此形は存続してゐた。かう言ふお為向けをすることが、家庭元来の拠るべき形式とすれば、宮廷だつて、之にお拠りにならなければならなかつた。さうでなくば、宮廷の生活様式だけが、独立してしまふことになるのである。
古代の家伝
生れ立ちからして、既に聖なる運命を以て現れ来るものと考へられてゐた。其についで考へられたことは、択ばれた、聖なる母胎に寓らねばならぬことであつた。尊い数人の女性の御腹に、各御子があつた時には、之を選択するに、其生れ立ちの奇瑞と、成長後の神の恩寵と、自ら持つ霊威力とを、第一の条件とした。さうして、其に叶うた数人──概して二三人を「ひつぎのみこ」として、神聖な待遇と其に適した生活様式をおさせ申した。さうして、多くの場合、其ひつぎのみこの中から、ひのみこ──即、天子をお立て申すことになつて居た。だから、ひつぎのみこに太子の字を宛てることはあつても、必しも後の皇太子には当らぬのである。其ひつぎのみこに択ばれずに居られたみこたちも、元よりその家庭生活の形は、前に言つた通りで、唯、ひつぎのみこ、ひのみこ特有の生活様式は避けて居たが、日常生活は、多くは同様であつた。ひつぎのみこも、みこの時期は、大凡同じ為向けを受けて育たれたものらしいから、まづ皇子の生活を説くのが適当だらうと思ふ。唯私はこゝで、上古史を語るつもりはないのだから、ほんの輪廓を書くだけに止めることの諒解を得たい。
みこ生れ給ふと共に、産湯の儀式を行ふ。其際に、其みこの一生に関聯深い壬生部と言ふ部曲──聖職団体──が定まる。其々のみこの扶育・教養・保護凡すべて其一代を守り申す壬生職なる家族──氏──の下にあつて、其みこの一代を通じて奉仕し、更に他界の後、其みこの、此世にあつたことの記念の団体として残つたのである。だから、壬生部は多く、壬生氏が、其所属の部曲民の一部を割いて、みこに附けたものである。之を、形式的に公認する様な形になり、宮廷から定められたものゝ様子も見えたのである。元々、さうした表向きのものではなかつたと思はれる。かう言ふ深い交渉が、みこの一生涯と、其れ〴〵の壬生氏との間に起つた原因は、多く母方の関係があつたものであらうが、後漸くその家の女をめあはすと言ふ風に、なつて来たやうである。併し其は壬生選定に関する附随条件であつた。主要なものは、聖なるみこは、生れ立ちから、宮廷の人でありながら、他氏の手で養はれて育つと言ふ点である。其養育の任に当る壬生氏に、種々な家が選定せられた。かうして生し立てたみこが、聖格を顕現して、ひつぎのみこに儲け備り、ひのみこに至られることを望む様になるのは、自然の勢ひだが、必しもさうした希望を以て、お育てしてゐるのではなかつた。唯、神を生し育てる家々の習俗が、人なるみこを育み申す形を、とる様になつて来たからのことである。さうすることが、古代の民俗であり、又さうすることによつて、其家の家格を外に示すことになつてゐたのである。時代を経て後、「むこ」として、ゆくりなく一家庭に、貴人の出現を迎へる形が分化して来た。之を迎へて子の如く、子より愛し、更に其穿つた沓をとつて懐にするまでの民俗の残つたのも、壬生氏選定の古風が行はれずなつて後、世間の婿取りの普通の形となつてしまつた訣である。之を扶助し、保護して、高名の人たらしめようとした中世以後にも残つた民俗の心理的基礎は、こんな処に窺はれるのである。
謂はゞ其家に、ゆくりなく出現した神の子である。其を生し立てゝ、其神の生ひ立つまゝに発現する霊威を、世に光被させようとする。唯其だけが、古代の宗教家の持つてゐた情熱の全部であつた。だから、神を携行して、永い旅路を経廻つたのが、日本上古の信仰布教の通常の形となつて居た。其等の宗教家は、多くは団体として移動し、神を斎くことの為による勢力より先に、既に相当な勢威を以て、世間を游行するものであつた訣である。さうして、其当体とする所の神は、其等の神人の手で育成せられて、次第に霊威を発揮した尊い神であるが、時には、まだ幼くて、神人の保護から離れることの出来ぬ未完成の神であることもあつた程だ。
此が上古神人の家に殆共通だつたと思はれる伝承だが、其に並行して生じた伝説を、歴史と信じて、古代の氏々は、守つて居たのである。歴史としてばかりでなく、氏々未来への光明でもあつた。だから、かうした形で、家々へ出現する所の尊い現実を仰ぎ待つて居たのである。さうした宗教歴史の並行して行はれる様になつた最大の条件は、氏々の家が皆、神人の大きなものであつたといふことである。
壬生の氏々は、神人家で神を育んだ旧伝承を、新しい民俗として現実生活の上に実現した。さうして、神の子と感じるに最適した、最貴の家庭のみこを迎へて、はぐゝみ育てた。
此形のまゝに進んで行つたとしたら、みこのひつぎのみことなり、ひのみことなられるに従うて、壬生として奉仕した氏の長上は、天子を輔佐する位置まで行つたであらうが、民俗と歴史とは、──その現実が、信仰に背信を打つたやうに、明らかに豹変した形を示してゐる。
時代毎に替るはずの壬生氏が、一々政権の首班或は其に近い位置に居るといふことがなくなつて、政柄をとる家筋は、大体に固定する傾きを見せて来た。
併し其にも繋らず、常に執柄者が、ひのみこにとつた行き方は、一つ姿を持つてゐるのであつた。其は、我々が想像してゐる形ではなかつた。どの時代を見ても、布教者が若き神をはぐゝみ申したのと、同じ態度をとつて居る。津田左右吉さんが、「世界」第三号で、こゝの疑問を提出してゐられた。尤な話である。家庭における主人と、家おとな──うしろ見──との間柄、即、古い、幼神と布教者との関係を延長した民俗が、宮廷にも見られるのである。だから、朝権の薄らいだ世には、執柄家が、ひのみこの御名において、恣に事を行うたことも、あたまから歴史的意義のないこととは出来ないのであつた。朝政摂行の時代とも言ふべき平安時代を通じて見ても、かの古代家庭民俗を隔てゝ見ると、なる程と肯かれることが多い。
だから思ふ。藤原氏が天児屋命の後と称して居た理由も、大いに肯けるのだ。かうした形の更に古いものが、産霊信仰なのだから、此信仰の分岐した姿の、産霊神を以て先祖とする考へは、幼神と布教者との関係よりも、もつと根本的なものに、還すことになると信じたのであらう。
この日本古代宗教の基礎観念が、又日本の文学以前からの、大きな一つの主題として、文学を成立させてゐる。さうして文学以後にも、大いに其を誘導する運命的なものになつて居るのである。私の文学史は、此事から、はじめるのである。
言語精霊の存在を考へたのは、わが民族にとつて、極めて古い事実である。併し此が、言語信仰においての第一次のものでないことは、少くとも我が国だけでは、言ふことの出来る事実である。
詞章に持つた信仰
神の発した神語が、絶対の効果を現ずる。其が、神に託せられて伝達する聖者の口を隔してゞも、神自身発言するのとおなじ結果を表す。其が更に、聖者に代つて、神言を伝達する聖者の親近の人々の口を越しても、同様の効果を示す。さう信じて疑はなかつた。その信仰の下に、古代日本の神の旨は遂げられ、宮廷の命令は、遵奉せられて、政治は行はれてゐたのであつた。其には、発言した時の神の心理が、そのまゝ貴人・聖者・宮廷の近臣の心理に現ずるのであつた。ところが、後には、其々伝達者の地位・階級に拘りなく、おなじ言語効果が現ずることを器械的に考へるやうになつた。即、神の発言は、神の詞なる故に、威力を持つてゐる。其威力ある故に、何人の口を越して出ても、効果があるのだ。畢竟、言語自体が、神の威力を伝へてゐるのだとした。其が更に、単に言語その物に威力があるとするやうになつて、言語精霊を考へる様になつた。
中世になると、ある種の言語には、祝福力・呪咀力があると見、更に幸福化する力や、不幸化する力が、其言語の表面的意義と並行して現れる、と言ふ風な考へが出て来た。どの言語にも其がある、と信じた痕はないが、意義が幸不幸を強く感じさせるものには、其力があると信じるやうになつて来た。さうして其信仰の末が今に及んでゐるのである。
だがこんなのは、完全なことだま信仰ではない。言霊は詞霊と書き改めた方が、わかり易いかも知れぬ。最小限度で言うても、句或は短文に貯蔵せられてゐる威力があり、其文詞の意義そのまゝの結果を表すもの、と考へられて居たのである。だから、其様な諺や、言ひ習し、呪歌・呪言などに、詞霊の考へを固定させるに到る前の形を考へねばならぬ。
神の発言以来、失はず、忘れず、錯たず、乱れず伝へた詞章があつた。其詞章が、伝誦者によつて唱へられる毎に、必其詞章の内容どほりの効果が現はれるものと考へられた。此が詞霊信仰であつて、其に必伴ふ条件として、若し誤り誦する時は、誤つた事の為に、詞章の中から、精霊発動して、之を罰するものとしてゐた。此は、「まがつび」の神と謂はれるものゝ、所業である。古い詞章が伝誦の間に、錯誤を教へてゐることもある筈だからとの虞れがあつて、古詞章を唱へる時、其に併せて唱へておく短章の詞句があつたやうである。其詞句の神は、誤つた詞章を誦したことに対しての懲罰を緩めて、錯誤の効果を直きに返すといふ信仰から「なほび」(直日)の神と称してゐた。此は皆ことだま信仰の範囲にあることである。さうした少数の詞章が、次第に数を増した世の中になつても、愈詞霊信仰は、盛んになつて行つた。
だから詞霊を考へることは、発言者たる神の考へが薄くなつて来た為だと言ふことを、まづ考へねばならぬのである。
時を経て、世の中は複雑味を加へ、古来伝承の神授の詞章だけでは、如何に意義を延長して考へ、象徴的な効果を予期して見ても満足出来ぬ程、神言の対象となるべき事件が、こみ入つて来る。其を、宮廷に限つて言つても、宣命や祝詞の前身たる呪詞が、非常に多くなつて来、其が次第に目的を分化し、人に聞かすもの・精霊に宣るもの・神にまをすもの・長上にまをすものなど言ふ風に、複雑多端に岐れて行つた。
だから、宣命祝詞の類の詞章が、多少古色を帯びてゐるからと言つて、之を以て、日本文学の母胎と言ふ風に考へてはならぬのである。
やごゝろおもひかね(八意思兼)の神を、祝詞神とするのは、理由のあることである。祝詞以前の古代詞章の神であつた此神は、同時に、産霊の神の所産と考へられてゐた。
此神名自体が、神言詞章の数少かつた古代を、さながらに示して居る。多方面の意義を兼ねた詞章を案出した神或は、多方面に効果ある詞章を考へ出した神と謂つた意義は、この神名の近代的な理会によつても感じられる。古代的には、更に深い定義があつて、「おもふ」といふ語が、特に別の用語例を持つてゐたのだが、こゝには述べぬことにする。
ともかく此神名から見ると、神言呪詞の伝誦数が非常に少く、一詞章にして多くの場合を兼ね、意義が象徴的に示されてゐたことが察せられる。
思ふに、高皇産霊尊、威霊を神の身に結合すると、神、霊威を発して、神言を発する。而も、其神言の効果を保持する神として、思兼神が考へられた。即、神言神は、産霊神であると共に、自ら神言を製作する霊威があると考へたのである。この神と詞霊とは自ら別であり、詞霊が進んで、八意思兼となつたとは言へないのである。
呪詞の種類
重大な神言の発せられた場合を考へると、必天孫降臨に関聯してゐる。天孫降臨は、神意を達する為に、神子が天の直下の国に降られると言ふ信仰である。神意を達するには、唯一の方法を以てした。其は、神言伝達である。神言に含まれた神の命は、伝達することによつて現れる。だから、高皇産霊尊出現、神言発現、神言伝達──天孫降臨と謂つた関聯を持つてゐる。
之を以て見ても、最古い詞章は、神授のものであり、天伝来のものと信じられた少数のものであつたことが知れる。
即、此れが、古代の表現を以てすれば、「天つ祝詞」と言はれるものに相当する。天伝来の祝詞といふことである。尤のりとといふ語が、神言を表すことは、古くからの慣ひであるが、必しも平安朝初期に決定した新しい祝詞をさすものではない。其と共に平安朝祝詞──延喜式に載録せられた祝詞──の中にある天津祝詞は、必しもさうした古い伝来あるものばかりではない。唯さやうな修飾を以てある種の祝詞の尊厳や、古さを示さうとしたに過ぎなく思はれる。時には、祝詞中、呪術を行ふ際の唱へ詞を、特にさう言つたとも見えるのである。
ともかくも「天つのりと」なるものが、伝来してゐる中に、個々の場合に適切な多くの呪詞が現れたものと考へることは正しいのである。
かう言ふ信仰の為に、古代詞章が保有せられ、同時に又種々な新しい詞章が作り出された。何にしても呪詞の把持といふ事実が、詞章を時代久しく伝へ、此が類型の地となつて、多くの詞章が製作せられて来た。
此等のものは、皆口頭詞章として、諳誦によつて表現せられ、又、保持せられたものである。決して、筆によつて記録せられたものではなかつた。口誦する時に当つて、常に新しく発現する外はなかつたのである。文字を知り、記録の便利を悟るやうになつたことが、呪詞の記録を早めたといふ風に考へてはならぬ。其ばかりか却て逆に、筆録して置くことを避ける傾向が甚しかつたに違ひない。なぜならば、神言は、人の口を仮りてのみ再現せられる。其以外の方法を以てしては、表現せられることを考へなかつた時代に生産せられたものなのだから。書くことは、寧ろ冒涜だとせられたに違ひない。其よりももつと苦々しい事実は、書かれることは、人の目に触れ易くなることでもあり、神聖なる秘密の洩れる機会が多くなることでもある。其故、書かれざる詞章として、長い年代を経たに違ひない。其が種類、用途によつては、其詞章の人目に触れることを避ける必要のないものが、相当にある。宮廷や、官庁に、公式の儀式に用ゐられる詞章の如きは、常に人の耳の多い事を予期して、唱へられてゐた。だから、宮や官の「大事」に当つて、用ゐられるものは、秘すべき性質のものではない。此種のものは、相当早く筆録せられて居たに違ひない。大分遅れるが、延喜式詞章の如きは、すべて公然発表をくり返した詞章である。だから呪詞はまづ、神秘観を失つたもの、公式なものから、固定の機運が到ることになつた。中には、絶対に筆録の拒まれたものがあつて、此が天津祝詞の名を以て伝へられたのであらう。
此まで祝詞の類を分類するのに、宣下式のものと、奏上式のものとに分け、又此祝詞に対するものとして、宣命を考へてゐた。さうして別に、寿詞に注意を向けた人は、祝詞の古いものだと称してゐた。勿論祝詞に宣下・奏上両方面のあることは、固よりである。併し元来がのりとに両方面あつたのでなく、のりとの名称の範囲が拡つて後、両方面のものが、併合せられたのに過ぎない。のりと其自体の本来の形は、宣下式であつた。さうして奏上式な部分は、寿詞の本色とする所であつた。即、のりとがよごとの分担をも兼ねるやうになり、寿詞と謂はるべきものまでも、其名称を変化させる訳にいかなかつた最後の少数だけが、よごとの称へを守り遂げたまでゞある。さうした、宣命と祝詞との間の区劃は、現実に残つたものについて言ふと、祝詞は、宣下奏上両面に渉つては居るが、ともかくも神・精霊に対して言ふものである。が、聴きてとして、人を考へてゐる場合もある。だが宣命の方は、常に人を対象としてゐる。但、生者及び過去の生存者としての人である。此は恐らくまだ神格を得ぬものに言ひかけるといふ考へを持つて居るのであらう。
生者に宣ることを原則としてゐる点から見れば、国語を以て表現した詔旨といふことになる。さうして現存の宣命は、伊勢神宮及び陵墓に告げる場合の固定したものゝ外は、常に同一の詞章を用ゐたことはなかつた。必、一つ〳〵の事情に適合するやうに、全然新しい文章が作られたのであつた。
宣命使を出し立てる場合は、神宮を以て、単なる神とは考へてゐなかつたのである。
まづのりと・よごと其他の語義から説明して見よう。
のりとは、先輩説の如く、のりとき言でもなかつた。のりたべごとでもなかつた。天津詔刀乃太詔刀などといふ宛字は、語原の他にあることを暗示したものゝ様に見える。古代信仰の用語の類型を集めて見ると、著しく「と」といふ語尾らしいものが浮んで来る。神事一座を行ふ廓をさすものゝ様に見える。のりとは即、宣る所の神事座といふことである。宣り処における口誦文が、のりとごとであつた。「あまつのりとのふとのりとごと」なる古語は、神秘なる宣り処における壮大なる「宣り処」の詞章といふことである。古風な修飾発想をしてゐるが、結局、神聖な宣り処に起つた詞といふに過ぎない。だから、のりとは、のりとごとの略である。のりとき言でも、のりたべごとでも、又直観的に言はれる宣り言の略でも何でもないのである。
宣り処における儀礼に用ゐる詞章といふことは、神が宣りの方式を以て、命ずる詞章といふことなのである。
祝詞以前
古代日本の重要な信仰の一つに、かう言ふ考へがあつた。伝誦せられてゐる詞章の中に、始原的の詞章が若干あり、其が分化して現行のあらゆる口頭伝誦の詞章になつたとすることであつた。其若干の古い詞章は、神授の文であつて、宮廷の祖先が、之を天上から将来せられたもの、と言ひ伝へて居たことである。その名を明らかに他と別つ為に、「あまつのりと」と称へてゐたらしいことは、既に述べた通りである。
詔座における発言に慣用せられた詞章が、のりとごとであり、其名がくり返されて耳に馴れるに連れて、下部省略が行はれて、のりとと言ふ語形を採るやうになる。さうした慣用詞章の、数益るにつけて、其中自ら、神聖にして天将来のものと尊ばれるものが考へ出されて来る。其は、地上の神事における詔座に、発現したものではない。天上の詔座においてはじめて表現せられ、神之を神子に授けて、其威力を以て、地上に詔命を及さうとしたものと考へるやうになつたのである。即、「天つ詔座」と名づける神事の一様式を、天上にもあることを想像して居たのである。さう言ふのりとごとの性質上、荘厳な讃辞を加へるのが常である。天上の詔座における詞章にして──其は最壮大な詔座の詞章と云ふ表現を持つた「あまつのりとの─ふとのりとごと」(天津詔刀乃太詔刀言)なる讃め語が行はれた訣である。だから「のりと」を原形と信じて、「のりとごと」をその重言とする考へは、皆「のりと」のとに言の意義を推測してゐるので、当つてはゐないのである。
吾々の今考へねばならぬことは、その「天つのりと」が後世まで伝誦せられた、どの詞章に当つてゐるかと言ふことである。其と同時に、天つのりとは姑く措いて、現存或は、亡失したのりとの中、大体どう言ふ種類のものが、古風のものか、と言ふ問題がある。
其に先つて言はねばならぬことは、「祝詞」又は略して「祝」の字面を以て、のりとに宛てるのは、大体平安朝以後の慣例と見てよく、さうして、さう言ふ字面が用ゐられ、其用例から認容せられたのりとの内容は、やはり延喜式の祝詞から、百年前以往には溯れないだらうと言ふことである。平安朝の祝詞の様式は、凡延喜式のものと大差のなかつた筈の貞観儀式、其よりも溯つて、嵯峨天皇時代の弘仁式──此にも祝詞式はあつたと思はれる──から考へて見ると、やはり此時代にも既に、平安祝詞らしいものが、制定せられてゐたことを思うてよいやうだ。さうならば、其以前はどうであらうと言ふことになる。溯るに従うて、次第に所謂祝詞風の色彩は薄く、之に替る古風な姿態が、現れて来るのではないかと考へる。
其でものりとと言ふ名称は、更に溯ることの出来るものだから、其時代は固より、其よりも寧、前からも用ゐられてゐたことは、確かであるが、様式も、内容も、性質も違つて居たことも、まづ考へてかゝらねばならぬ。
第一に、所謂神事ばかりに用ゐる平安朝式のよりは、其用途は、もつと範囲の広かつたこと(一)。恐らく神事の限界が、宮廷伝来の儀式すべてに通じてゐた古代だから、儀式々々に用ゐられる慣例の詞章は、悉くのりとと称したゞらうといふこと(二)。神主の伝承口誦するものと言ふよりも、天子自ら宣り給ふ所の詞章と言ふ側の意義が深かつた。宮廷の儀礼に、主上或は伝達者の発言あつた古伝、又は新制の詞章であつたこと(三)。其前は、神授の聖語として、宮廷に伝誦せられて来た日本最古の詞章といふこと(四)になるのである。
一口に言へば、祝詞宣命と併称せられる習慣の宣命の、まだ祝詞と分化せぬ形が、奈良朝よりも前ののりとであつたことになる。其と共に考へ落してならぬことは、地方の大社々々におけるのりとの問題である。宮廷祝詞と似たものが、地方の大社・旧族の間にもあつたには違ひないが、凡は亡び、其なごりだと称するものも、偽作の疑ひの濃いものが多い。地方の旧族及び、その伝説において祀つて来た大社々々には、宮廷の大祭毎に官幣が頒たれ、又古くから宮廷において、其社を対象とする祭りが行はれてゐたとすれば、祭りの詞章は、宮廷を出て、その社でも唱へられるのである。社々ののりとが、宮廷と同様のものを交へると言ふことが、旧来の神事詞章の価値を低下させて行く。宮廷専用である筈ののりとなる語が、地方にも又、下級の社々の詞章の名称にも転用せられて行く道筋が、こゝにある。
そこに、平安朝の祝詞の新しい性格が出て来るのである。宮廷・地方に繋らず、神に向つて口誦する詞章を、すべて祝詞と言ふやうになつたのは、此為である。其と、平安朝祝詞で、はやく理由の理会の出来なくなつてゐることは、祝詞に、所謂宣下式と、奏上式とがあると言はれてゐることである。平安朝祝詞は、皆神を対象とし、尠くとも神を中介として、之を唱へるのだが、宣下式と言つても、奏上式と言つても、結局神に表白する詞遣ひは一つであつて、唯、開口に当つて、神事に列座する人たちに、旨を含め給ふ条が、宣下式になつてゐるばかりである。列座の人々が、宮廷に侍る皇族・官吏などの場合と、地方の旧族の代表者を意味する大社の神職──神主・祝部──であることとの区別があるだけである。さうして後者は、平安朝には形式だけになつてゐた。元、此祝詞を唱へる儀式には、大社の神官列席して、官幣と祝詞とを頂いて、其社に還つて、其宮廷祝詞を奏することになつて居たのだが、祭日にも、其社の神官至らず、宮廷においてたゞ、その旧儀が行はれ、神主祝部を呼ぶ形式の語があつたに過ぎぬのである。
宮廷近侍の皇親・京官を以て行ふ神事は、即司召の朝儀と意義が通じて居り、地方の神職を召集する儀式は、県召と同じ精神を持つてゐた。京官を召し、地方官を召すのは、宮廷の政を京地方に施さうとする神事から出発したのである。其が一方には、京官・地方官叙任の儀式としてのみ固定する様になつた。此宣下式の祝詞は、列座の人々に、其任を奉仕することを命じてゐられるのである。奏上式のものは、主上直接に仰せられる詞と見るべきではなく、凡中臣斎部の神主の要望と感情とを述べる様な形で、中介者として、とりなしの姿の表現様式をとつてゐるものである。神々の位置の高まつて後の形であることは勿論だが、宣下・奏上両式の祝詞、共に、主上御自身としての発想ではない。のりとと言はれた詞章の性格が一変したことが思はれる。のりとの変形が、平安祝詞であることは論のない所だが、其分化理由は自ら察せられる。下級の神──寧、精霊の類──に向いて発する呪ひ式な精神が、のりとの形の上に表現せられるやうになつた為であるらしい。だから、詞章の歴史から言へば、宣命式のものが、のりとの正系であり、のりとは直に、宣命に聯接してゐる訣である。
奏上式の祝詞の発想法は、平安祝詞の中に見えてゐる鎮護詞と言はれる詞章の系統である。霊魂を鎮定する呪術をいはひと言ひ、其詞章を「いはひごと」と言ふ。其だけに、所謂媚仕の姿をとつて居る。
宣下式と謂はれる宣命系統の祝詞も、内容を見ると、奏上式の祝詞と変つた所のないものゝ多くなつてゐるのが、平安朝祝詞の通念である。恐らく、古式ののりとから見れば、非常に変化して来たものであらう。唯古式なものは、宣命によつて想像出来るだけで、──寧、宣命を以て古式のりとと考へて置く外のないまで、痕もなくなつたのである。
いはひ詞は、霊魂の逸出を防いで安定させる詞である。結局は、まじなひの詞章である。神秘な技術を以て、霊魂を鎮定するのである。威力ある神の発した詞章の力によつて、対者の霊魂を圧する効果を表すのりととは、意義において違つて居る。
かうして見ると、いはひごとがのりとに対するものゝやうに聞えるが、寿詞こそ、のりとの対照に立つべきものであつた。寿詞の目的が、非常に延長せられて、鎮魂から、融けあひ、ひき立て、皆此いはひの技術によるものであり、いはひ詞の効果として現れるものである。畢竟霊魂の遊離を防いで、斎ひ鎮めるのだから、怒り・嫉みを静平にし、病気を癒し鬱悒を霽らす──霊魂を鎮めることゝ、呪ひを行ふことゝが、一続きの呪術だつたのである。
神賀詞
……さて、お親しい御先祖の男神・御先祖の女神の仰せられたことには、「汝あめのほひの命は、為事として、尊い御方の──尺度で言へば、寸法長いと言つた御生命を、壁岩の如く、床岩の如く、鎮斎し奉り、凜とした御生命として、詞章に言うたとほりの効果を顕し申し上げよ」と御命令なされたそのほひの命の伝承通りに、供斎を奉仕をして、今、朝の日のだう〳〵と登る際、その登る日の如く、神としては宮廷への敬意の表現・大身の臣下としても、宮廷への敬意の表現として、主上を祝福する御為の、神聖なる呪物を献上すること、かくのとほりと申しあげる。扨その呪物の真其まゝに、白玉の如く、御白髪がおありになり、赤珠の如く、健康で赤々と血色よくおありになり、青玉其は、水江の青玉の穴が両方から程よく交叉してゐる如く、すべてが程よくつりあうて、生き神として、神の如く大八洲国をお治めなさる尊い御方の寸法長い御生命を、神宝の中の御横刀の刃が広く打つてあるやうに、先になるほど、広くしつかりとうち堅め、おなじく白い御馬の前足の爪・後足の爪を踏み立てる事を比喩にとつて言へば、宮廷の内の御門・外の御門の柱をしつかりと、上かはの岩に踏み堅め、底の岩に集注するやうに踏みつけ、又ふり立てる事を比喩にとつて言へば、其白馬の耳の如く、益年高く、天の直下の国をお治めなさる事の兆し、又この白い鵠の活けた貢物のお侍のお手馴れの魂移しの道具となつてある為に、御気分は何時も〳〵此倭文織りのしつかりしてゐる様に確かであり、水に縁ある譬へで申さば、向うに見える古川岸、此方に見える古川岸、古川の川岸に育つた若水沼の女神の如く、時が経つほど益お若返り遊ばし、又此穢れを祓ひふりかける淵の凝滞みの水の、変若返りに愈変若返り遊ばし、此又澄みきつた御鏡を御覧になつて、どこのどこまでも御覧じ遂げなされる様に、この生き神様が、大八洲国を、天地日月のつゞく限り、安らかに、なだらかにお治めになることの兆しとして、御祝福の力を発揮する所の神聖なる呪物の品々を、この通り、捧げ持つて──神としては、宮廷への敬意の表現・大身の臣下としても宮廷への敬意の表現として、何処々々までも敬虔な心を持つて、恐れながら神聖なる継承による、我が家伝統の神秘な祝福の寿詞を、かくの如く奏上いたします次第と、申しあげます。
此は、所謂「出雲国造神賀詞」の拙劣な飜訳であるが、──出雲国造新任の後、再度上京して、其度毎に神宝──呪物の神器と、御贄の品々を献り、この神賀詞を唱へて主上を呪し奉る例になつてゐた。出雲ノ国造家に伝へた祖先穂日命以来の慣例である。呪詞の上にあがつて居る──「白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・白鵠・倭文布・真澄鏡及び聖なる水」は、この呪法の為に持参した神宝の類なのである。其を以て、呪しつゝ、一つ〳〵の品物の名称を、其効験に関係させた表現をして行く、──此が、呪的効果を発揮させる方法だと考へたのである。呪物の名と、呪物の効験とは、無関係であつたのを、更に詞章精霊の活動を信じる時代になつて、さうした二重の効果を合理的に考へる様になつたものである。かうする手段によつて、呪物と呪力との威力を完全に発現させようと努めるので、此等の呪物は皆、霊魂を斎鎮ふ為の神器であり、其によつて鎮め籠められることに深い意義を感じてゐるのであつた。
霊魂を鎮斎する技術は、単に、技術として発達して行くのであるが、之は其施術者が受術者に対する服従表白の手段であつた。其斎ひ憑ける所の霊魂は、施術者の持つた、其人自身の威力の根源になつてゐたものである。之を他につけることが、絶対の服従を表現するものであつた。信仰の表には、必しも技術を要する様には見えて居ない。唯詞章の威力に乗せて、完全に対者の身に霊魂を送り籠め、鎮定させることが出来るやうに見えるが、此には必技術が伴つて居たことに疑ひはない。後々の如く技術が修練せられてゐなかつたらうが、其行はれてゐたことは明らかである。唯其が次第に熟達して、個々の旧族固有の方法と、其に呪物が分化し、各其伝統と効験を誇るやうになり、鎮魂術は成立したのである。
だから、服従を誓ひ、忠誠を表現する手段として唱へた詞章は、寿詞といふ古語を用ゐた。其が転じて、対等或は其以下の者にも行ふことの出来る技術となつては、鎮護詞なる名と、其に従ふ内容の分化が起つたのである。さうして、現代に残つた平安朝祝詞は、古来ののりとに、極めて多量のいはひ詞式の分子を包含させて来たのである。
祝詞が、寿詞要素を多く持つた様に見えるのは、その系統なるいはひ詞の分量が勝つて来た為なのであつた。のりとの古風な形態は、其部分を排除して見れば、顕れて来る訣である。そこに出て来る姿は、宣命・祝詞分化以前のもので、どこまでも宣命に近い様式と、内容とを持つたものと考へられる。
こゝに更に明らかに、のりととよごととの対立の姿が、現れて来る。いづれにしても、今在るものは、悉く第一義の古い詞章ではない。唯伝承を信じれば、寿詞は、大嘗祭の行はれる毎に、中臣ノ神主の奏上した「中臣天神寿詞」と、「出雲ノ国ノ造ノ神賀詞」とが極めて久しい伝来のものと思はれてゐる。が、詞章の部分々々には、必しも第一次の姿でもなく、古代さながらの形だとも言へないものがある。唯通覧した外見に、極めて古式な情調を保留してゐると言ふのが、一番当つてゐるだらう。
勿論意識して詞章を改作することは、神授詞章に対する冒涜になるから、昔の人の能くする所ではないが、古語の忘却が、次第に無意識の変化を促したのである。而も、一方には、詞章の神秘性を絶対に信じてゐる為に、意識不明のまゝに固定した句・文・段が、移り行く詞章の上に、化石の如く残つたのである。此が即、祝詞寿詞の上に見える解釈法の及ぶ所と、其及ばぬ所とのある理由である。何よりも第一に、古代の詞章が近代の人の解釈に堪へることについての素朴な疑念が物を言ふ。現存の形の固定するまでに幾度も〳〵改竄せられて来たものであると言ふ外に、此問題は解くことは出来ない。最古い物は、殆永遠とも言ふべき永い時間に徐々に変化して、或は原形を残して居ぬ程になつたことであらう。今日あるものゝ古いものも、さうした改作の上に現れた、古典色彩の濃厚なものと見るべきであらう。さうしてわりあひに意義の概観に不便な化石層とも謂ふべき古詞章の固定したものを残すことの少い理由は、一往全体に変化が行き渉つたといふことの外に、全体に行き亘つての整理が、行はれたことが考へられるのである。神の許しが、必ある方法によつて、予期出来たのであらう。さうでなくば、たとへば、右の両寿詞にしても、あの程度の快い詞章感を保つことは出来なかつたであらう。
右の古詞章の中、出雲国造の分は、延喜式に記録せられてゐるから、その完全な固定は少くとも、平安朝の初期位まで溯つて見るのを適当だと考へる。が、中臣の方は、平安朝末に記録せられた形であつた。藤原頼長の台記別記に、記入せられた大中臣清親の記録である、近衛天皇即位の康治元年当時の形である。尠くとも、康治に改作せられた部分も、考へることが出来る。
「……堅磐常磐に斎ひまつりて、いかし御世に栄えしめまつり、康治元年より始めて、天地日月と共に、照し明らしましまさむことに、本末傾かず、いかしほこの中執り持ちて、仕へ奉る中臣祭主正四位上神祇大副大中臣清親寿詞をたゝへ、こと定めまつらくと申す。」
傍線の部分は、大嘗祭毎に、年号・祭主の氏名を入れ替へて唱へたに違ひないのである。
出雲の方にしても、
「八十日々はあれども、今日の生日の足日に、出雲ノ国ノ国造姓名恐み恐みも申したまはく……手長の大御世を斎ふとして……」
「姓名」とある部分は、其時の国造の姓名出雲臣ヽヽといふ名詞が入れ替へられるのだから、数音の変化はあつた筈である。又「斎ふとして」の処は、延喜式に、『若、後斎ノ時者、加二後字一』とあるから、こゝも、其都度一語の変化があつたのである。かう言ふ必要な変化や、入れ替へは、相当にあつた筈だが、此二つの記録によつて推測しても、延喜式や、台記に記される以前に、既に記録せられて久しかつたといふことである。唯記録になつてゐることは、表面は、秘密であつたらう。さう考へるのが一番適切である。而も、記録しながら、してゐない貌をつくつて居るところに、深い意義があつたのである。
呪詞の記録
宮廷公式用の詞章は、弘く発表せられるのだから、秘密にすることはない。早くから記録となり、国史に載せられてゐることは、宣命・詔旨の類で見ても明らかだ。が、のりとになると、さうは行かなかつたであらう。だが其とて、皇親・官吏・神職等列座の儀礼の一部分なのだから、周知の詞章である。結局、式・儀式類の、人の見る書類に記録するに到るのは、さうあるべき道筋であると言へる。
だがさうした公式のものゝ外は、詞章の神聖なる力は、周目にさらさぬ所に保たれるのだから、神秘を要するものとして、記録はしなかつた。其上、唱へる際も、列座の耳にも入らぬ程、微音に発語したものと思はれる。延喜式祝詞に度々出て来る「天つのりとの太のりとごとを持ちて申さく」とあるのは、場所によると、其後につゞく部分が、後世の人には、如何にも「天つのりと」らしく見えるのだが、事実は、其「天つのりと」を唱へにかゝると、扱ひ方が違つたと見えて、其詞章は抜いてある。先に訳した中臣寿詞の「天都詔刀の太詔刀言を以ちて宣れ。かく宣らば、兆は、弱蒜に五百箇篁生ひ出でむ……」、古代も、その条で天つのりとを唱へたと信じてゐた為に、此寿詞を唱へる度毎に、やはりこゝになると、天つのりとなる呪詞を唱へたのである。此などは、後世の理会からすると、天つのりとを挿んで唱へない方が、却て適切らしく思はれる位である。「かく宣らば」と言ふ語は、其天つのりとを唱へ終へてから「天つのりとも、左様に唱へた上は」といふ形で、又祝詞の本文に戻るのである。
「……天つ宮事もちて、大中臣、天つ金木を本うちきり、末うち断ちて、千座の置座におき充はして、天つ菅曾を本刈り断ち、末刈り切りて、八針にとり辟きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。かくのらば、ヽヽヽ」──六月晦大祓
「ヽヽヽ」は、天つのりとの別に唱へられることを示してゐる。此間に、斎部が呪詞を唱へて、呪術を行ふのである。
鎮火祭・道饗祭の祝詞などは、最後に、天つのりと云々の文句がついてゐるので、本文がすべて天つのりとらしく見える。が、其祝詞以外に、呪詞を別に唱へしづめたのである。
「天の下よさし奉りし時に、ことよさしまつりし天都詞の太詞事を以ちて申さく、神いざなぎ・いざなみの命……ことをしへ悟し給ひき。此によつて……進る物は、……横山の如く置き高成して、天津祝詞の太祝詞事を以ちてたゝへ、辞をへまつらくと申す。」──鎮火祭
「……親王たち・王たち・臣たち・百官人たち・天の下の公民に至るまでに、平らけく斎ひ給へと、神官天津祝詞の太祝詞事を以ちてたゝへ、辞をへまつらくと申す。」──道饗祭
鎮火祭の方は、如何にも、祝詞の大部分が、天つのりとのやうに見える様な形になつてゐるのだが、道饗祭の分を参照すれば、天つのりとは、別に唱へられた事が推測出来る。つまり、天つのりとに移る部分と、其がすんで本文に還る処との継ぎ目の様子が、変化して来たのである。殊に最後の「天つのりと云々」の続きあひを見ると、其が知れるであらう。
併し若し万一の偶然に依頼してよければ、鎮火祭の祝詞の火産霊神の生れ、其神の威力を防ぐ為の呪物を母神が教へられたと説く部分は、天つのりとなのかも知れぬ。若しさうならば、愈天つのりとと言はれたものゝ本体を知ることが出来るのである。
さうでなくとも、察せられることは、ある呪術に直属した短い詞章に、天つのりとと言はれるものがあつて、其が恰も初めの天つのりとの様に聞える様になつたものらしいことである。だが元来天つのりとと称すべきものは、別にあつて、伝来尊く、伝襲厳しかつたところから、記録にも上らず、終には永劫に亡びてしまつたものと思はれる。
恐らくさうした、呪術関係よりも、儀礼の起原に即した詞章でなかつたかと思はれる。譬へば、「天窟戸籠り」に絡んだ詞章、「橘ノ檍原の禊」を伝へた詞章、「天つ罪の起原」、「すさのをの尊神追放」に関した詞章、かう言ふ種類のものであつたらしく思はれるのである。が、今日「天つのりと」として推定することの出来るものは、先に言つた短章の呪術の章句ばかりである。即、我が文化の悠遠なることは、天つのりとに於いても、然第何次かの変化の末を存してゐるものと思はれるのである。
大殿祭の祝詞に見える、「……汝屋船命に、天津奇護言を以ちて言寿ぎ鎮め申さく、この敷きます大宮地の底つ岩ねの極み……平らけく安らけくまもりまつる神の御名を白さく、屋船くゝのちの命・やふねとようけ姫の命と、御名をば称へまつりて……瑞八尺瓊の御吹の五百つ御統の玉に、明和幣・曜和幣をつけて、斎部ノ宿禰某が弱肩に太襁とりかけて、言寿ぎしづめまつれることの……」
詞章の様式や、その中に出る神宝から見ても、呪術に交渉の深いものだといふことが訣るだらう。さうして、此あまつくすしいはひごとの続きあひが、祝詞の中におけるあまつのりと挿入の形と似てゐる。而もその意義も、あまつのりとと言はれてゐるものと変る所がない。此斎部神主等のとり扱ひになつて居た「天ついはひ詞」が、斎部神事の常として、伝来や、外貌をもの〳〵しくする癖から、「天つのりと」の名を冒すやうになつたものではないかと思はれるのである。
如何に誇張しても、いはひごととのりとごととは、一つにはならぬ。のりとはのりとである。いはひごとを以て祝詞に所属せしめたのは、平安朝に到つてからのことであらう。其も、其中の伝来正しく寿詞とも言ふべきものに限つてゐるやうである。呪術の呪言を天つのりとと称するのは、何としても、僣称するものがあつて言ひはじめたことが、世間の無知によつて、一般に通る様になつたのだと言ふ外はない。
新室寿詞
寿詞と呼ばれるものは、古伝の詞章では、今一つあつた。顕宗天皇・仁賢天皇若くして、播磨の奥、縮見の邑に隠れ居られた時、新嘗使として、其家主細目の家を訪れた山部小楯を中心にした新室宴に、弘計王の唱へられた「室寿詞」が伝つてゐる。「むろほぎのよごと」と言ふ風に訓むのがよいのではないかと思ふ。此は、寿詞といふ字で伝へられたものゝ古い完全なものゝ最初であるが、伝来を、顕宗天皇に寄せて説いてゐるが、起原と、伝承の径路は、自ら別に推測せられさうなものである。
築き立つ 稚室葛根
築き立つる柱は、此家長の御心の鎮りなり。
とり挙ぐる棟梁は、此家長の御心の賑しなり。
とりおける椽橑は、此家長の御心の斉りなり。
とりおける蘆雚は、此家長の御心の平ぎなり。
とり結へる縄葛は、此家長の御命の堅めなり。
とり葺ける草葉は、此家長の御富の剰りなり。
出雲は、新墾り。
新墾りの 十握稲の穂を
浅甕に醸みし酒を
美らに飲喫る哉。
吾子等。
あしびきの 此傍山のさ牡鹿の
角さゝげて わが舞へば、
うまざけ 餌我市に
直もて易はず──
手掌摎亮 拍上げ給へ。
吾が長寿たち──日本紀顕宗即位前紀
此寿詞は上中下三段に分れてゐるものと見られる。家長を祝福した前段と、吾子たちと呼びかけた饗宴に列座してゐる人々に対して言ふ詞章と、とこよたちと言ひかけた客人に申す詞との三段である。
新嘗を行ふ為には、原則としては、新嘗屋を作るのであるが、後世は多く旧屋を以て新室の如く見なし、寿詞が其を、新しく変化せしめる効果あるものとした。だが此伝へでは、新嘗屋を築いたことになつてゐる。
新室の古びない力を讃めて、稚室といひ、其各部を縛り、殊に屋上から結び垂して、地上に届くまでに結びさげた蔓を以てした綱の長きを仰ぎ乍ら、讃め詞ははじまるのである。第一、柱ぼめ。家あるじの気分のどつしり落ちつく様に圧へてあることが思はれるといふのである。第二、棟ぼめ。屋根裏に放射した棟梁類のはなやかさは、家あるじの気分の饒しくなるを表示すると言ふのだ。第三、椽の類の均整して並んでゐるのを見れば、かくの如く家あるじの気分は乱れることはないと祝福するのである。葺草下地の凹凸なく葺かれてゐるのを見ると、気分の変化動揺なく続くことが察せられるとするのである。堅くひき結へた綱の結び目を、命の脱出を防ぐ結び目と見て祝ぐのである。切り揃へずに、軒に葺きあました葺草の程度以上なる如く、此家あるじの富みも、際限はなからうと、讃美してゐる。
第二段は、かくの如く出来あがつた新室の作業に、共に働いた同族の人たちに呼びかけて、吾子たちと言つて、酒を勧めるのである。此酒は、新墾りの出雲の豊年の今年の稲を以て、浅甕に醸した酒だ。十分に飲んでくれる様にというてゐる。新室の祝ひには、共通の発想法で、労働を共にした様を思ひ返し乍ら、うたげ遊ぶのである。
後段は、客座に向つて唱へる詞で、恐らく謡に近いものであらう。舞人は、饗宴に必伴ふものである。主人の娘或は、家人が勤める役である。家屋の精霊の出て、賓客を讃美すると言ふ信仰から出たものであつた。鹿が農村の為に降伏して作物の妨げをせぬ事を誓ふ状を模する舞踊が、古く行はれてゐた。其が新室宴にも採用せられてゐるのであらう。角さゝげてと言ふのは、「あしびきの」以下が、序歌になつて来てゐる。手を投げて舞ふことを、ささげてと言ふ語で表したのらしい。かう言ふ風に、出来るだけの奉仕をするからは、客人たちも、「存分に無条件に、志をおうけ下されて」の意味を、「直以て易はず」で示したのだ。代物で交易すると言ふ意識なくといふことである。餌我の市は、南河内石川のほとりの恵我の市である。「うまさけ」は枕詞、前段の酒の聯想から来たまでである。こゝでは酒の事は言はないで、たゞ恵我市で交易する様な気にはならず、「十分気をゆるして、無条件でお受け下さい」といふのである。「たなそこやらゝに云々」は、饗宴の楽しみを享受する様。志を賓客の納受した表出を見たいと望むのである。とこよたちは、長寿者たちの義で、第一義の常世の国は、富と、命と、恋の浄土とせられた古代の理想国である。其処に住んで、時あつて、この土へ来る人あるを想像して、とこよと言つたのである。古来饗宴の賓客を、神聖なものとして、常世の国からの来訪者と考へて来たのが、わが国の民俗である。
此寿詞について、尚一つ言はねばならぬことが残つた。其は、文中に在る二つの地名である。出雲は、恐らく本国出雲ではあるまい。出雲人の移動して住みついた地をさすものと思はれる。此処の恵我市と相叶ふ出雲は、恵賀に近い土師郷附近である。此は出雲宿禰から分れた土師宿禰の根拠地である。此外にも、姓氏録には、河内の出雲宿禰姓が記録せられてゐる。土師・恵我は同郡、隣郡古市郡には、又恵我古市がある。何にしても此は、新室の寿詞の、河内に行はれてゐたものゝ形である。さうして、出雲恵我を言うた理由は、恐らく偶然ではなからう。出雲人の中、建築に交渉の多い者のあつたことは、すさのをの命の出雲八重垣の歌、大国主のたぎしの小浜の火燧りの呪詞、播磨風土記の出雲墓屋の条、引いては出雲人で河内に移住し、土師氏の祖先となつた野見宿禰の陵墓に関する伝承等が示してゐる。墓屋や陵墓の築造は、昔は、建築事業になつてゐた。出雲建築が、古代文化の上に著れて居た時代があるのである。出雲人の建築法と、新室営造との関係はわかつても、之が両天子に持つた交渉は、知ることが出来ぬ。たゞ今の間は、河内人の間に行はれてゐた新室の寿詞が、何かの機会に、久米若子の伝承にとり入れられたものと見ておく外はないと思ふ。
寿詞と恋歌との関係
ある種の考へ方をする人には、思ひがけないことかも知れぬ。古代日本の文学以前の詞章に、悲恋悲歌とも言ふべきものゝ多かつたことである。其と、も一つ意外なことには、配偶争ひの「物語」や、「物語歌」が、相当に伝へられて居た。配偶争ひと言ふ語は、少し不正確である。二人でその同性が、一人の異性を獲ようとして争ふと言つたことの外に、夫と婦とが争闘することも、「つまあらそひ」と言ふ語に這入る。だがさう言ふ繁雑しい用語は避けた方がよい。前者を常識に任せて、「つまあらそひ」と呼んでおき、後者の中を、その姿によつて、別々の名をつけておく。配偶どうしの間に相闘ふ物語を、つまどひ(求婚)、ねたみづま(妬婦)、つまさり(離婚)の物語と言ふやうに、大体三通りに画り、配偶どうし安らかに相住むことが出来ないで、別れて暮すことを伝へるものを、つまわかれ(配偶別離)の物語と言ふ名にしておけば、凡は、共通した処、差別のある処も明らかになるであらう。
妬婦伝と相愛別離譚とは、全然別殊のものだと思ふ人がないとも限らぬ。が少くとも、古代日本のつま物語りには、如何にしても放つことが出来ないほどの絡みあひがあるのだ。
其分類のよつて来る所を言ひながら「つま物語」の原因も説いて行けると思ふ。
つまわかれの物語のあはれは、日本人が記録書を持つた時代には、既に知り尽し、聞き旧して居た。記紀万葉其いづれを見ても、我々の想像もつかぬ程古き世の祖先を哭かしめ、愁ひさせた長物語が、少からず載せられてゐるのである。その最古代の人ごゝろを泣き覆らしめたものは、「天田振」と言はれた歌群と、其から其等と起原が一つだとして伝へられてゐる歌々である。
人の家の子としてはこの上なく貴い兄みこと妹みことが、つまどひの末、兄は宮を追ひ逐はれる。古事記は、如何にもさうした物語が記録以前に、語りを職とする者によつて、世に広く、時久しく諷誦せられたことを思はせるやうな、美しい歌詞の多くと、其を擁く叙事体の詞章の俤を止めてゐる。日本紀にも、簡単ながら人を哀しませる部分だけは書きとめて居る。唯違ふのは、伊予の国に流されたのを、女王だとする伝へを書いた点である。ところで、此貴い女性が恋慕に堪へず、兄みこの後を慕うて遠い旅に出た時の歌の中の一首といふのが、万葉集の巻二の巻頭の相聞歌──かけあひの歌──の中にも、記載せられた。たゞ万葉には、他の三首(或は四首)の歌と共に、作者を其女みこの祖母なる、難波高津宮の皇后磐姫と伝へる点が変つてゐるのである。歴史に伝へる行跡を近代の感情で理解して行くと、女みこは極めてやさしく、心は其かんばせに匂ふが如く、美しい女性であつた。その祖母君なる万葉集の作者は、日本妬婦伝のはじめに居るほど、人をやき、おのれを燃すすさまじい情熱を伝へられたねたみづまであつた。而も、その詠歌と伝へるものを見れば、かくの如く優に、然、人をして愁ひしむる、幽かなる思ひを持つたお人と、昔びとは伝へて来たのであつた。史学者や、文学研究者は、古事記万葉の伝へのいづれかゞ誤つてゐる証拠を、この歌から獲ようとするだらう。だが其より大切なのは、嫉みづまと、情濃きあくがれ人との間に、共通するものを考へた、古人の心である。其に導かれる、今一つのこと、即ねたみづまとつまわかれの物語とには、どうしても離れぬ程、根柢に疏通して居るものがあつたのである。一つの形式の伝へが同時に、他の形式の要素を具へて居らねばならぬ。さう言つた必須なる項が、此二つの間に横つてゐるのであらう。
近代風の物思ひより外にすることの出来ぬ我々は、どうかすれば、磐姫皇后の嫉みの中に、すさのをの尊の破壊の意思さへ感じることがある。此人間期の大きな女性を、神の世界に考へあはせると、明らかに同じ様式として、大国主命の妻すせりひめを見るだらう。すせるといふ語は、我々の持つくすべる・くすぼるに当る古代語であり、中世のふすぶと言ふ語の持つ、二つの意義を、そのまゝ兼ね備へてゐる。いぶし・くすべると共に、ねたみ・やくといふ用語例をも持つてゐたのである。即、やき媛、くすべ媛と言ふ、嫉みの女性なることを示す名であつた。まことに黄泉の国から、伴ひ帰つた女神だけに、嫉妬の感情までも、其国から携へ来つたものと考へられてゐたのである。我が古代人も亦、嫉妬を冥府の所産と信じてゐたことが、知られるではないか。
磐姫嫉妬の記述は、記紀いづれにもあるが、国語の表現に近寄つてゐるだけに、古事記の方が感じも深く、表現も行きとゞいて居り、古代人の官能まで、直に肌や毛孔から通ふやうに覚えるのである。語部の物語──其は葛城部の伝承と名づくべきもので、記紀の此記述の根本となつてゐるものであらう──があつたとすれば、どれほど人生を美しく又饒けく感ぜしめることであつたらうと、其飜文した古事記高津宮の、かの条から感銘を受けるのである。まことに、暢やかな長篇の叙事詩を見る心持ちを覚えるのは、私だけのことではあるまい。
甘美な叙事詩「天田振」が、文学以前にあつたことすら、我々にとつては大きな事柄である。其上、祖先の人々は、この辛くして舌に沁む美しさを湛へた志都歌の返歌──葛城部の物語歌──を遺したのである。
「志都歌の返歌」といふ名で、六首の歌が、宮廷の大歌所に古くから伝誦せられてゐた。さうして其一つ〳〵に古事記にある来歴が、順を追つて語られてゐたのであらう。その「志都歌之返歌」は、母胎として葛城部の物語を持つたことは、此後に述べる「叙事詩と名代部」に絡んだ推測を予めすゝめて置く。
宮廷詩の意義
古歌即、宮廷詩は、その来歴や、其歌詞をとつて名づけたものもあるが、其てくにくによる所の分類が多い。さうして後になる程、其々の部類──区画──に、新歌詞をとり入れた。本歌の外に、替へ歌が幾つとなく出来て来る訳だ。だから、記紀に伝はる其出来た場合の伝へや、其主題の傾向や、或は単にその名物などから、其々の歌のほんたうの来歴や、用途や性質は訣らない。まして大歌の末期とも言ふべき平安朝の状態によつてする、一切の判断などは、悉く無意味である。
静歌だとか、賤歌とか──一々理由は今説かぬが──直観式な解釈を語原に加へて見たところで、為方はない。大歌のすべてに共通した目的なる鎮魂呪術の印象を、──其が漸く忘れられて来た後までも、最著しく而も、後代的に変化した意味で──持つてゐたのが、志都歌である。鎮魂信仰については長い説明を要するが、威力ある外来魂を、体内に安定する義(第一)、此方は、字は鎮魂であるが、語は古くはたまふりと言つてゐる。
又、興奮によつて遊離する魂を鎮定する義(第二)以下、いろ〳〵の考へ方が生じて来たが、普通は、唯無意識に、不可抗的に遊離する魂が、体外に於て、他の危険な魂に行き触れるのを避ける為に、魂を呼び返し、体内に固着せしめると言つた呪術を、鎮魂法と考へてゐるのである。最古いのは、第一だが、第二義も亦早くから、信じられてゐたらしい。其は多く、怒りとなつて現れる。魂の遊離によつて、極度な憤怒を発する。其魂を体内に請ひ返して鎮めると、怒りは釈けるものと信じてゐた。憤怒の最素朴に発し、また鎮静した伝へは、雄略天皇に多かつた。采女や舎人を殺さうとせられた怒りが、歌を聴いて、即座に之を赦す心に迫られたと言ふ類の伝へ、其から秦酒公の琴歌によつて、闘鶏御田を免されたこと、木工猪名部真根の刑死する時、真根の友匠の惜んで歌つた歌によつて命を助けられたことなど、歌もて怒りの魂を鎮めた伝への多かつたことが訣る。恐らく人の怒り哮つた時、之を鎮める為に歌つた呪歌を、凡ゆるこの長谷天皇の故事に基くものと伝へるやうになつたのであらう。其ほど又直に怒り、直に和む、古代人らしい心うつくしい、天子として伝へたのである。だから霊魂の怒りについて、尚此天皇の関聯を説く伝へが、令集解「葬喪令」の遊部の項の古註にも見えるのである。長谷天皇崩じて後、殯宮における御むくろに鬚毛長く伸びるまで、御魂しづまることなく荒びられたことを記してゐる。之を鎮めたことを以て、遊部の職の起原を説いたのだ。霊魂の遊離発動が、怒りの原因となること、固よりである。死後にもかうして、怒りがあるとした。此らの怒りを鎮めた事の伝へから、男性の怒りに関することは、長谷天皇に仮託して言ふやうになつた。
志都歌の「しづ」は、第二義における鎮魂呪術に関して言ふのである。第一義の鎮魂は、「ふり」である。雄略朝の歌として伝るものは、概ね「志都歌」と言ふべきものなのだらうが、其中、古くて名高いものは、名高いだけに、各早く別々に独立した。天語歌などは最著しい鎮魂の来由を持つたものであるが、「志都歌」から出て、別の歌群を形づくつた訣である。さうして、「志都歌」と称せられるものとして、穏かな詞章だけが残つた訳である。だが、一方の「志都歌の返歌」──此は、歌返だとする説もある──の方は、まだ名義がはつきりしてゐる。其程、鎮魂の意味をはつきり持つてゐるのだ。
怒りと鎮魂と
古代の皇后は、その常に、聖事として、清き水と、清き水を以て天子の大御身を清める行事と、清き水の聖事をとり行ふ時の採り物に関することは、躬らお行ひにならねばならなかつた。葛城部の伝承の主人公なる貴い女性は、採り物の一種、酒杯用の御綱柏を紀伊の国にとりにおいでになつた。其間に、後妻として八田若郎女を宮廷に召された。帰途、海上で其噂を聞いて、御綱柏を海に投げ入れ、御舟は高津宮の下を通り過ぎて、淀川を溯つて山代川(木津川)から綴喜の地に上られた。其から、故郷大和国葛城を望む為に、奈良山の登り口まで行つて引き返されたが、綴喜の韓種帰化人の豪族の家に滞在せられたと言ふ風聞に、高津宮の帝は、舎人鳥山を迎へに遣された。
山背にい及け 鳥山。い及けい及け。わが愛妻に い頻逢はむかも
又ひき続いて、丸邇臣口子を迎へにやられた。其に託せられた御歌、
みもろの其高きなる おほゐこが原。』
大猪子が腹に在る きもむかふ心をだにか、相思はずあらむ
も一つ、
つぎねふ山背女の 小鍬持ちうちし大根。』
根白の白臂枕かず来ばこそ知らずとも言はめ
そこで、綴喜の宮に参つた口子、この歌を申し上げる際、どしや降りの雨が来た。雨にうたれ乍ら、御殿の前の戸に参りて平伏すると、やり違ひに後の戸に出られ、御殿のうしろ戸へ参つて平伏すると、引きはづして御殿の前戸にお出になる。山背川の川原にあつた御殿のことゝて、水層が増して来た。匍ひながらお庭に平伏してゐる時、水は段々川を氾えて其腰のあたりにとゞいた。口子の臣は、その時、青摺衣を著て、紅の上紐をひらつかせて居た。紅の紐に水が達いて、色がおりる。青摺りが、すつかり真赤になつた。口子臣の妹の口比売、皇后のお供として、この宮に居た。其で、口比売のうたうた歌、
山背の綴喜の宮に もの請す。わが兄の君は、涙含ましも──紀、わが兄を見れば──
皇后が、さう言ふ歌を作つたわけをお問ひなされた時に、私の兄、口子臣でございますと申しあげた。──古事記
さて、口子臣、其からその女兄弟、其に宿主ぬりのみ、三人によつて考へを出し、天子に奏しあげさせた口状は、皇后のいらつしやつた訣は、ぬりのみの飼うてゐる虫の中に、ある時は這ひ虫になり、ある時は卵になり、ある時は鳥になり、三とほりに変る不思議な虫が居ります。この虫を御覧になつて入らつしやつたのです。よくない心は全然おありになりません。かう申しあげたら、天子様が、さうか、そんならおれも不思議と思ふから、見に出かけよう、とおつしやつて、宮廷から淀川を溯つてお出でになつた。ぬりのみの家にお著きになつた際、其ぬりのみ自分の飼つてる三通りの虫を、皇后にさしあげた。さて、天子は、皇后のいらつしやる御殿の方にお立ちなされて、おうたひなされたのは、
つぎねふ山背女の 小鍬持ちうちし大根。
爽快に汝が言へせこそ、うちわたすやがはえなす、来入り参来れ
この天子と、皇后とのお歌ひなされた六つの歌は、志都歌の返歌──又、歌返しである。
この外にも、まう一首、おなじ仁徳記に、志都歌の返歌が伝つてゐる。
古事記の順序で見ると、此で、皇后の御心が鎮ることになつてゐるらしいのである。其後に、皇后宮廷の饗宴に参上した氏々の女たちに、柏をとつて、御酒を賜ふ際、亡き女鳥王の珠を盗みつけた大楯ノ連の妻を見つけられたことが語られてゐる。其で見ると、日本紀に、其年から五年目、三十五年夏六月、皇后磐之媛命、筒城ノ宮に薨ずとあるのは、古事記の伝へとは、別のところから出てゐるのである。磐之媛のうはなりねたみに関した歌は古事記に伝へぬものが、之には記してある。其中、八田皇女を宮中に納れることの同意を求められた時の唱和の歌の中に、「夏むしのひむしの衣二重著て、かくみやたりは、あによくもあらず」と言ふ皇后の御歌は、あり場処の伝へが誤つたのでなからうか。古事記の伝来には、之を失つてゐる、が、このぬりのみの家の条に持つて来れば、最適切な感じがする。さうして其上に、今一首、皇后のうちとけて相あひたまふお心をよんだ御歌があれば、完全なのだといふ気がする。ともかく古事記は、明らかに志都歌としての効果のあるべき原因を示してゐるのである。
序に言ふ。万葉集巻一に、雄略天皇、巻二に磐姫皇后、各御歌を巻頭にすゑ、第二首目からは、遥かに時代離れた飛鳥、近江朝の歌を並べてゐる理由は、歌の伝来に尊い由緒あるものとして、古代宮廷の伝承歌を据ゑたのであらう。歌の徳を、怒りを鎮めることに置いて考へた時代の姿を示してゐるものと思はれる。巻一は男の怒り、巻二は女の怒り──これの鎮りなされた方々の御作と言ふところに、古人の意図が窺はれる。或は、人君としては、まづ怒りを抑へることが、第一であるとした宮廷の理想が、そこにこめてあるらしいのである。
男性にない怒りとして、嫉み──うはなりねたみ──を女性の怒りとしたのである。
うはなりは後妻とあるが、第二第三と言ふ様に、後に家に入つた夫人である。妾ではない。第一の妻──こなみ──が嫡妻として、若き妻なる後入妻を夫に近づけまいとする行動又は、その感情を言ふ語である。単なる嫉妬ではない。だから、此嫡妻の女性としての怒りは、正当なものと考へられてゐたのだ。
古事記の、日本紀と区別せられる一つの大きな点は、宮廷詩──大歌──の由来を説き、又其によつて歴史を説き証さうとしてゐることである。志都歌には自ら志都歌としての立ち場があつた。憤りのまゝに宮廷に還られなかつたのでは「志都歌」の呪術的意義を失ふことになるのである。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
初出:「人間 第二巻第一─四号」
1947(昭和22)年1~4月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十二年一─四月「人間」第二巻第一─四号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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