日本文学の発生
折口信夫



私は、日本文学の発生について、既に屡〻しばしば書いて居る。その都度、幾分違つた方面から、筆をおろしてゐるのだが、どうも、千篇一律になつて居さうなひけ目を感じる。此稿においては、もつと方面を変へて、邑落の形と、その経済の基礎になつて行くものが、文学の上に、幾分でも姿を見せてゐようと言ふ様な方面に、多少目を向けて行きたく考へる。

日本における文学発生──必しも、我が国に限らぬことだが──は尠くとも、文学意識の発生よりは、さきだつてゐる事は、事実だ。つまり、文学の要求が、文学を導いたのでなく、後来文学としてとり扱はれてよいものが、早くから用意せられてゐて、次第に目的と形態とを変化させつゝも、新しい文学意識を発生させる方に、進んで来てゐたのだ。其と共に、新しい文学が、他から来り臨んだ時の為に、実際その要求に叶ふものとしての文学が、既に用意せられて居たことになるのである。

私は、此文学の発足点を、邑落々々に伝承せられた呪詞に在る、と見て来てゐる。


      日本文学の発生


最古い団体生活の様式であつた邑落が、海岸に開けて、其が次第に、山野の間に進み入つて行つたことは、事実である。さうした後の邑落或は国・村においても、やはり以前の時代の生活の形が、其相応に適当な様に、合理化せられて行つたことは、明らかであつた。第一、海及び海の彼方アナタの国土に対する信仰は、すべて、はる〴〵と続く青空、及びその天に接するヤマの嶺にウツして考へられて行く様になつた。随つて、此二つの邑落生活の印象が、混淆せられて、後世まで伝つて来たことは、考へられるのだ。

日本文学の、文学らしい匂ひを持つて来るのは、叙事詩が出来てからの事である。其叙事詩は、初めから、単独には現れて来なかつた。邑落に伝つた呪詞の、変化して来たものだつたのである。而もその呪詞は、此くにに生れ出たものとは、古代においては、考へられては居なかつた。即、古代人の所謂海阪ウナザカの、彼方にあるとした常世トコヨの国から齎されたもの、と考へたのである。一年或は数年の間に、週期的に時を定めて来る異人──神──の唱へた詞章なのである。其が、此世界──邑落の在る処に伝へ残されたと考へ、その伝襲をくり返してゐる中に、形式も固定に次いで、変化を重ね〳〵して、遂には、叙事詩らしい形に、傾く様になつたのである。

私はこの呪詞の中に、二つの区画を考へてゐる。一つは、呪詞の固有の形を守るもので、仮りに分ければ、「宣詞」即、第一義における「のりと」である。神又は長上からり下す詞章である。その詞を受ける者の側に、これに和する詞章が出来るのは、自然な事である。謂はゞ「奏詞」、古語に存する称へを用ゐれば、「よごと」である。而も、文献時代に入つては、早くよごとと言ふ語の用語例が訣らなくなつて了ひ、後世学者は、祝詞の古いものと思ふ様にさへなつて居る。其といふのも、のりとなる名称の範囲が拡がつて、古くは、よごとの領分にあつたものまでも、のりと──祝詞──なる用語例に入れて言ひ表す様になつた為だ。

邑落にとつて、最古く尊重すべき詞章──其を唱へる者自身、同時に神であると信ぜられた所の──が、此様に分化して、のりとよごとの二つとなつた。さうして、国家意識が進むと共に、宮廷に誓ひ奉らねばならぬ資格の国、及び人が殖えて来る。其詞章の根柢をなすものは、即、主神に対して、精霊の奏した詞章の形式を襲用する形をとつて居るのである。さうして其が又、次第々々に無限とも言へるばかりに増加して行つたのだ。此に対して、のりとを唱へる人格は、主神の資格においてし給ふ、宮廷の主上が当られる事になつて居たのだ。

正確に言へば、宮廷において宣下せられ、或は侍臣の口によつて、諸方に伝達──みこともつこと──せられる詞章が、のりとであつた。宮廷の式日の恒例として、宣下があると折り返し、臣下から、精霊が主神に対する立ち場に倣うて、奏上誓約したものが、よごとなのである。だから、自ら内容に制限のあつた訣である。第一条件として、服従を誓ふ儀礼の精神は、其族の威力の源たる国々──種族的──の守護霊を、聖躬に移し献じ奉ることによつて、成り立つものと考へて居た。その呪術によつて、宮廷の主上の御為に生ずる効果は、其国々を知る威力を得させ奉ると共に、其守護によつて、健康と富みを併有させ申すことになるのだ。其で、文献には、寿詞ヨゴト──奏寿詞の義──を以て、宛て字としたのだ。

宮廷の正儀として、正月朝賀の時に、宣詞宣下があるのに、和し奉ることに定つて居た為、「賀詞」或は「賀正事」なる字を作り、又漠然と「吉事」など書いて、「よごと」と訓じる様になつたのである。

古い形で言へば、神から精霊に与へ、精霊をして服従を誓はしめた唱和の辞が、宮廷と臣下──豪族──との間に、後代までも、儀礼の姿として続くに到つたのである。此二つの関係が、次第に忘れられ、祝詞ノリトが全体を掩ふ用語となり、よごとは、其一部分のものとなつて了つたのだ。此も、対照的に見ると訣る。のりとであるべき宣命が、人間──又は人間であつたもので、尚生きて居ると信ぜられるもの──に対して宣せられる、宮廷の臨時詞章に限られたのと同じ筋道にある。宮廷に対して、人間としての立ち場から奏上するもので、それ〴〵の家の、宮廷に対する歴史的関係を説く、家伝の詞章であつた。

寿詞が、国々・家々・氏々によつて、複雑に分化して行つたと同時に、宣詞は、次第に単純化して行つた。数においては、寿詞的なものをもこめて、次第に増加して行つたにしても、形式も短くなつて行つた。だから一方、祝詞は、名はのりとでも、実は形式内容共に、寿詞的になつた訣だ。

叙事詩は、さうした意味ののりと正しくは、よごとから、次第に目的を開いて行つたものである。だから、叙事詩自身も、後々までも、呪詞的の効果を失はずに居た。言ひ換へれば、叙事詩でありながら、呪詞として用ゐられてゐた理由も訣るのだ。


      語部


古く見れば、宣詞その物が、主神自身の「出自アカし」であり、対象たる精霊の種姓を暴露すると謂つた、内容を持つてゐたものなのだ。其形が、次第に寿詞の方へ移つて、宮廷に奉仕する家職の歴史的関係を、奏寿者から説くこと、ますます明細なるに到つたのだ。此が、伝承詞章における、歴史的内容の出発点である。この寿詞の集注せられる所は宮廷だから、宮廷の歴史は、実は、氏々・国々の寿詞の綜合であつた、と言ふことが出来る。或は、国の古代史に、政治的変形の存在を、主張する人がある。古代史が多く、為政者の作為枉曲を含んでゐるとするのである。其を認める人々も尠くはない。けれども事実は、あまり考へな過ぎたもの、と言はねばならない。宮廷自体の歴史的伝承の固有せられたことは、勿論信じられるが、多く常に、旧来附属した他国・他氏の伝承自身に述べる所を纏めて、形づくられて来たものと見るのが、本道なのだ。さすれば、諸国・諸氏に関する宮廷の歴史は、諸国・諸氏自身の、曾ては自ら信じ、自ら伝へて居たものだといふことになる。疑ふべきものがあれば、其出た本国・本氏の伝承の上にあるとせねばならぬ筈である。

さて、のりと──宣詞──は、後によごと要素をもこめて、祝詞ノリトと称し、又分れて宣命となつた。其如く、よごとは、物語モノガタリ──口立ての歴史──となり、又抒情詩を分出せしめる様になつて行く。寿詞ヨゴトを伝承したものは、国々家々をつた者の後なる氏々の族長であつた。其由は、日本紀の飛鳥朝になると、明らかになつて来る。寿詞は、宮廷に奏する事を目的としたのだから、低い者の任ぜられぬ理由があつた訣である。処が、其歴史化した方面は、其目的が、国或は氏の神の祭儀に用ゐ、族人に周知せしめる事を目的としたところから、此を伝奏・代唱する、神聖なる職業を、生じることになつた。即、語部カタリベの発生した所以である。

宮廷で言へば、「のりと」を代唱する神人──其資格の上から、神主といふ──を生じて、中臣・斎部の氏人の位置の定まつた様に、家々の歴史的生活の中に、語部職が分化して、国々の歴史詞章の伝承を掌り、氏神の自覚を促し、氏神の教養を高めようとしたものであつた。其が、更に分出した目的がある。其は、自国・自家に残つた、神秘な短章の威力を説く事である。即、「風俗歌」・「風俗諺」の起原を明す、語部の物語である。「くにぶり」の歌及び、諺をして、威力を発揮せしめるには、其来由を説く事が必要である。其と言ふのは、長い詞章以外に既に、それの詞章の中から脱落した断篇が、古くから行はれて居た。其れの起原が神に在り、帝王に在り、英雄にあり、又は神聖な事件にあることを説いて、其語を諷誦することの効果を、増させようとするのである。語部の為事には、この意味のものがあつた事は、むしろ却て明らかな証拠がある。即、ある言語伝承に就いて、其初まりを説きアカす、すなはち歌或は諺の「本縁」──背景たる事実──と言ふ事と、二方面の為事をしたものが語部で、一つは、族長及びその子弟の教養に、一つは儀礼の為に、歴史を語つたことになるのである。


      抒情詩


本縁を負ひ持つた歌・諺は、元々ある詞章から游離したものであつた。其が果して、其説く所の本縁の如く、ある語部の物語の中に、元来挿入せられて居たものか、どうかと言ふことになると、蓋然的には、事実だと言ふことが出来る。さうした事の行はれる様になつたのは、古く叙事詞章の間に、部分的に衷情を訴へ、長上の理会を求める所謂くどき式な部分が、次第に発達して来てゐたからだ。早く分離しても唱へ、或は、関係ある「モト」──本縁──の詞章を忘れたものが、多く行はれる様になつた為だ。かうして、游離した歌諺が、次第に殖えて行く一方だつた訣だ。然る後、これの「本」たるべき詞章を求める努力が、遂にかうした語部の職掌の中に、一分化を起す様になつたのだ。だから、語部の物語が、古代の歌諺を必しも正しく元の形に復し、適当な本章の中に納めたとばかりは、思はれないのが多かつた。却て間違へたものが多かつたゞらう。此は、記・紀その他を見ても、歌諺と、その成立の事情を説く物語とが、ちぐはぐで、緊密を欠いた場合の多いことを以ても、思はれよう。

語部の職掌はともあれ、歌及び諺に就いて考へる必要がある。歌は、其語原から見て、理会を求めて哀願し、委曲を尽して愁訴する意味を持つうたふと言ふ語の語根である。此にも、長い説明を加へる暇がない。唯、抒情的発想の根柢が、長上に服従を誓ふ所にあることを言ふに止める。つまり、寿詞の中から発達したものとして、歌は、寿詞の緊要なる部分で、精霊又は、所動の人間の側の表白として、生じた為の「くどきごと」であることが訣ればよい。かうして叙事は、抒情を孕み、平面な呪詞から出た叙事が、立体的な感情表出を展開して来たのだ。

其と共に、諺について見たい。実は、歌も諺も同様なものと言へるが、成立の事情において、少々の区分がある。従つて、形式においても、歌とは違ふところがある。内容は勿論、その方角を異にしてゐる。諺は、社会的事象の歴史的説明であり、又其説明を要するものであり、或は、積極消極の両様における奨励であり、或は訓諭・禁止である。多く宗教的の基因を思はせる契約を含んでゐる。もつと適切に言へば、神の語なるが故の、失ふ事の出来ない伝承である。断片的な緊張した言語である。

諺の発生こそは、叙事詩以前から、叙事詩になつても、尚行はれてゐたと見えるもので、歌の発生する原因になつた、一つ前の形なのである。寿詞の元なる宣詞が、命令的表現である所から、さうした傾向を持つてゐるのだ。訣り易く言へば、宣詞の緊要部なる神の「真言」の脱落したものなのだ。歌よりも、とりわけ古く、断篇であり、原詞章不明のものが多かつたらしい。此が「枕詞」「序歌」なり、或は神聖なる「神・人の称号」なりに固定する外に、この諺の起原と称する第二次の物語を発生させたりした。さうして、この語を周る短篇は、笑話の前型とさへなつてゐる。

宣詞が、対照的に寿詞を派生し、寿詞が叙事詩を分化し、叙事詩と相影響することによつて、宣詞から諺が、叙事詩自身からは、歌の発生して来た径路は、此で説けたことにして貰ふ。


      叙事詩


叙事詩の成立が、邑落或は国家生活の間に、次第に新しく歴史観を生じて来る。村にとつては、叙事詩の存在が、大切な条件となつて来なければならない。其なら、叙事詩の初頭の部分は、すべて村の開闢と考へられる時から伝つたもの、と信じられてゐたかと言ふと、さうばかりでもない。信仰の上では、其考への基礎に立つて居たのである。やはり、後代村の巫覡の感得によつて唱へ伝へられたものゝ、却て多いことは察せられるのだ。だが同時に、考へなければならないのは、新しい部落の建設と共に出来て来る、第二次的の叙事詩である。

村の成立の基礎には、旧村の分岐する事実と、統制ある職業団体──古代の職業は、すべて神の為のものとして、聖なる職団を形づくつた──の群居とに就いて見ねばならない。此二つは、後来久しく新しい、部落を構成する理由になつて居たのである。

事実について言ふと、国家が固まつて後、複姓──小氏──の家が分立して、近所遠方に処を占めるやうになつた事の前型として、部落から岐れて、更に小邑を作る事が行はれて居るのだ。譬へば、物部氏の中に、岐れ居た土地によつて、幾流の複姓を生じ、其が後ほど族長更迭して、氏神に仕へる様になつた例と、同じ事が、他──他氏──の邑落にも多い。さうして、此等の村が、皆其々分岐の歴史よりも、むしろ互に本氏となり得る様な自由な伝承を伝へた叙事詩を、持つて居たらしいのである。中臣の一部、藤原に居たものが、藤原を氏名として、複姓としての特定の神、其氏神・郷土々着の神等を祀つた様に、又、旧族大春日氏の氏族の中心たる氏上が、時々に交替して、その都度、其族長の祀る神を拝する例だつたらしいのを見ても、村及び氏族に隆替があり、中心が常に動いてゐたことが思はれる。必しも、大氏は永久に、小氏を総べて居たとのみは言へぬのだ。此事は、小村分立の時の事情から思ひ見ることが出来る。

村の成立について、尚考へて見ねばならぬ古い事情は、職団の移動・定住の状態である。職の神聖なる長者は、宮廷式に言へば、伴造トモノミヤツコであつたらしいが、其宮廷直属の、由来久しいものと信ぜられたのは、特に伴緒と称してゐたらしい。伴造の所管にある民は、伴部であるが、其団体が常に漂遊して、諸国に散在して居るのと、各処に定居して居たものとがあつた。小氏が村を作るのは、普通形式である。職団部民の方は、其に対して、さすらひ歩くのが、古い形らしく、其伴造になるものが、京に住む様になつて行つたものと思はれる。併し、其とてもわりあひ、後代に纏つた二つの様式かも知れない。まづ此様式から言へば、後世の新撰姓氏録の記載例なども、其固定した俤を伝へるものと見てよい。だから、事情によつては、可なり早く、諸処に定住した例もある。其は、後に言ふ。

これを、宮廷の上の習儀にうつして見ても、同様の事があつた。即、後世、荘園の出て来る元の形は、こゝにあつたのである。御名代部ミナシロベ御子代部ミコシロベなど称するものは、宮廷において、新村落を分立した場合の称号であつた。而も詳しく言へば、必しも土地に固定した民団ばかりでなく、流離する職団を意味することもあつたのだ。だが、社会的地位がすべて土地を基礎とする時代になつては、段々其が、村の形に傾いて行つたのは、事実である。御名代・御子代、名義に区別はあるが、内容は、古書にも多く、混用せられて居る。

実は、宮廷においての、さうした村落成立の原因と考へられるものは、やや違つた形を持つてゐた。代々の主上は、宮廷信仰の上では、常に一人格に入れられるものとして考へ申して居た。にも拘らず、歴史的な考へ方が生じると、御一代々々々を、別々に考へ申す様になつて来るのだ。だから、ある御代のなごりを留める記念事業と謂つた目的を、其御方に関係深い部民の上に考へる様になつて行つた。即、列聖直属の部民で、宮廷の信仰を宣伝する用をなしてゐた宮廷暦即、日置ヒオキの搬布者──大舎人として、御代々々の天子に近侍した人々が、任果てゝ後、郷国に還つてその役をしてゐたのである。すなはち歴代の主上に、日置部或は日置大舎人部又略して大舎人部として、仕へた人である。場合によつては、其大舎人部が、ある代の主上を記念するに適当な特殊な名号を称することもあつた。極めて自然に、御代々々の主上の御なごりを止めることになつたのだ。日置といふのは日をかぞへる事を意味してゐる。


      新叙事詩


さうした宮廷の村々が、単に独立して散在してゐたのではなく、大舎人の後が、その部の伴造に当るミコトモチとして、ある方々の支配を受けてゐたのであらう。即、日置部・々々々を総管するのが、其部の創立者であらせられる御方の御子孫、といふ事になつたのだ。其処に、宮廷領の分立並びに、平安朝における先帝センダイ観・後院ゴヰン制度の生れて来る理由があるのである。歴代主上直属の民、及び土地の継承には、今日では不明な、ある形式があつたのであらう。即、次代に伝る事もあれば、又次々代に伝り、或は宮廷外に出て行く形もあつたらしい。

宮廷における部民継承の形が、分化せずには居なかつた。皇子及び皇后の為の部民である。正式に言へば、皇子の為のものは、別部ワケベと言ふべきであつたらう。皇子尊が、宮廷の聖なる侯補としての位に備られた為に、日置部同様、ワケの部民が出来たのだ。後に専ら、御子代部と言ひ、又、御名代部の内に籠めても言はれる様になつたのが、此である。

必しも、早世せられ、其伝ふべき子孫のない時、この皇子在世の記念として立てたものとは言へない。子孫あり乍ら、御子代部のあつた例が多くもあり、又在世中から定められても居たことも、古い形らしいのである。だから、死後立てた様に説くのは、後の合理化と見てよからう。而も全然、新しく作るものと言ふよりは、従来の部民の名称を改めさせて、新部民・新部落を形づくる様になつたと見られよう。

御子代部の所管が、其皇子の名義を伝へる方々の伝統から去つて、新しい方面に行くことがある。つまり、宮廷において、宮廷領の分化したものと言ふべきものゝ主が失はれた場合は、之を襲ぐ新しい部曲を立てることが出来たのだ。引いては、宮廷では、其直属でないものでも、旧部曲伝来の詞章不明になつたものは、之を没収して、新所有者を、皇子の中から択ぶことも出来たのである。山部の財産に対して、大山守皇子の併有を宣した如きは、其例である。此時は、伝承の詞章によつて、危く没収を免れてゐる。

子代の為に新立した継承者は、即養子に当るのである。別部の発達に連れて起つたものが、私部である。宮廷を大家オホヤケ──公──と言ふに対して、後宮の主の上に、後代非公式に生じたものとして、私部の字を、后の部民・領土の上に宛てた。きさいつべ──きさいちべ>きさいべ──と言ふ。これを多く、御名代部と言ふ。混同して皇子の御子代までをもこめて言ふ様になる。此私部又は、御名代部の起原を説いた大春日皇后伝説があるが、事実は其前からあつたものとも思はれる。これにも、御腹に、御名を伝へるべき皇子のないのを歎かれた為に、主上私部を立てることをゆるされた事になつてゐる。とにかく、私有部曲の起原を説いたものに違ひない。但、此と同じ境涯にあつた内親王には、更に古い伝へがあつたのである。其と共に、此大春日部以下の起原説明が、荘園の古形態を示して居ることは、明らかである。この部曲を立てる風が、延長せられて、臣下の上に及んだのは、日本的には、主として宮廷との血縁関係の、深まつて来た為であらう。

かう言ふ風に、次第に財産観念を出して来るが、其根本をなすものは、やはり詞章であつた。先に述べた大山守皇子の、山部の土地人民を押領することが出来なかつた唯一の理由は、山部・山守の別を知らしめた山部の詞章の存在した事による。村又は部民の成立を説く所の口頭の物語が、其部民あるいは、神人の間に伝つて、その土地・その職業の来由と、宮廷との関係その他を伝へてゐたからである。だから、村の新立・部民の結集の為には、叙事詩を与へる必要があつたのだ。もつと自然に言へば、村──及び部曲──は、物語の継承を必須条件として居た。村の開き主に関する物語なくては、村の存在は意味なく、存立危険なものでもあつたのだ。

大春日部その他の伝へと思はれる、安閑天皇・春日皇后の妻訪ひの物語歌の如きは、大国主・沼河媛の唱和と根本において異なる所がない。又反正天皇の御誕生に関する物語の如きも、同じ形式をたぐれば、三つの似た事蹟が、後代の皇子の上にも見られる。

叙事詩の史実化について、その糸口は書いた。事実において、真の歴史を後世に伝へる成心を持つてしたのが、語部の出発点でもなく、又その内容自身が、実在性の保障出来る唯一偶発事件の表現せられたものでもないのが、普通であつた。


      部落・部曲の詞章


尊い皇子の為には、その誕生から生ひ立ちの過程のある期間の叙述を類型的に物語るものが、中心になつてゐたのだ。言ひ換へれば、すべての尊貴の方々の出生に関する儀礼==産養─鎮魂─祓除─養育─母・小母・乳母に関聯した事==にくり返された類型の行事が、ある方々の歴史と特殊化して考へられたのだ。別の語を以てすれば、家筋・村筋・職筋においては、其開初の人の一代記から語りはじめる事を、条件としてゐる。さうすれば、出生譚に重きを置くのは、理由のある事である。其から、時代の進むにつれて、次第に一代の中の重要事項を併せ陳べることになつたと思はれる。が、ほんたうの史実をとり扱ふ様になるのは、極めて後の事と考へるのが正しい。

譬へば、建部タケルベの伝承には、却て成人後の伝に重きをおいて、生ひ立ちについては、父帝の、ウスたけびせられた事を言ふのみである。此などは、聖子誕生に関する別殊の形式の存在を思はせるものでなくば、恐らく後の大事件を主として、生ひ立ちの語りを忘却したものと見てよいのだ。唯時として、稀に誕生の部分の細叙せられた方々の物語が、残ることがある。その為、小数の尊貴の上の事実だと見られるのは、実はすべてに亘つてあつた事、語られた事が、特別に、ある部曲に限つて残つた為の様に思はれる。

かの反正天皇の産湯に関する伝への類型は、既に一部分固定化を経たものであつた。大国主の子あぢすきたかひこねの神・垂仁天皇の皇子ほむちわけの皇子の御伝に見える、養育譚があつた訣で、其は、順序をかへて、御兄弟の允恭天皇の御成人の後の章に、俤を見せてゐる。尚ほむち部に、忘れ残りに語り置かれた部分がある。古事記に、「即、曙立アケタツ王・莵上ウナカミ王二王を、その御子に副へ遣る時、那良よりはアシナヘメシヒ遇はむ。大坂戸よりも跛盲遇はむ。唯、紀戸ぞ、脇戸ワキドウラへて、出で行かす時、到り坐す地毎に品遅部ホムチベを定めき」とある。漂遊・定住二つの形が、此等の部曲の村々の上に、現れて居た一つの証拠である。

一筋の類型的な物語の中で、部曲の性質職掌によつて、ある部分が発達し、他の部分が減退し、又は、全部を失うてしまふ事すら、あつたと思はれる。さうして、其残つた物語が、その部落・部曲の職掌に、深く関聯を持つてゐる本縁譚の様に考へられたのだらう。私部の方で見ても、先に述べた様に、大国主・沼河媛の結婚形式を前型として、儀礼の行はれた処から、其が叙事詩化して伝つた大春日皇后伝、及び其を伝へた部落・部曲が出来、後に、其によつて、其地其物成の私有が保障せられて行く様になつたものなのだ。又万葉巻十三を見ても、泊瀬の地に、同類の伝へを有するものゝあつた事が知れる。恐らく雄略天皇の皇妃に関するものなのだらう。譬へば、又その雄略后と仁徳后との、お二方では、御性格的に非常な相違がある様に、歌の上から想像出来る様に伝つてゐるが、大国主におけるすせり媛の歌及びそれから類推せられる御性格や、傾向の分化して来た痕を見るべきである。御名代部の起因の、古い伝へなる仁徳紀の八田稚郎女の伝記如きも、その御為の私部の──皇女の場合は八田部の──成立を物語る、古い一つの伝へであつて、必しも其頃から、後の意味の名代があつた、と言ふ事にはならないのだらう。

其が次第に、逆に名を伝へる為、伝統継承者のない為と言ふ考へを派出し、生存の記念を、後世に伝へようと言ふことから出たと考へる様になつて来たのだ。

いづれにしても、さうした新立の部曲・部落では、その創立者或は、創立者に擬せられた貴人の物語を語る事によつて、其々の存在が価値あり、保障せられた事になるのである。

これが発達すれば、后・皇子の為のものは、妃嬪・諸王・寵臣の上にも及ぶこと、既記の通りである。宮廷直轄地以外尚、旧領の私有を認められて居たゞらうと思はれる旧来の豪族の土地を除いて、──此については頗る繁雑な問題が拡つてゐる──新しい公認の荘園が出来て来た理由は、茲にあるのだ。

つまり荘園の前型、部曲固有の利権を保護する唯一の証拠として、此等の詞章が、後々役立つ事になつたのだ。此は実際、叙事詞章が呪詞の一体であつたとの、旧信仰の持続せられてゐた所から生じた効果であつた。即、系図の持つ威力と一つであつた。古代において、さうした系図の口頭詞章によるものを、つぎと言ひ、宮廷ではひつぎ、他氏ではよつぎと言つた。呪詞・系図・叙事詩の区別が、極めて尠かつたことが考へられるのである。


      漂游族の芸能


部落をなしたものは、其によつて、時代的権勢家に併合せられたりすることを免れたが、漂游する部曲民でも亦、此詞章によつて職と、財産とを護ることが出来た。と同時に、ある種の族人だと言ふことは、其を棄てない者ほど、愈明らかになつて行つた訣だ。譬へば、海人部の民が、其である。海人の職の起原を説く物語は固よりだが、中間に於いては寧、多く海辺に流離した貴人の物語の類の、一見何の所縁もない情史的な物語までも、とりこんだ物語群を持つて、諸国を巡游する様になつた。其によつて、彼部曲の職掌が公認せられると共に、一種の芸術的遊行団が成立する訣である。彼等の職掌は、其自身の中心となつてゐる宗教儀礼を、宣布する手段と見てよいものであつた。さうして見れば、自然、遊行・芸能・宗教儀礼は、団体の成立条件とも考へられて来る。古代から中世へ亘つて、かうした巡游神人を「ほかひ」と称した。さう言つてよいだけの名も実も、存してゐたのだ。

日本における古代信仰の共通的形式として、色々な形にしろ、祓除を主として居た。さうして、其が多く、各種の遊行神──と考へられるもの──及び、その神人の手で施されるものであつた。さうして、その芸能として、叙事詩を謡ひ、舞踊・演劇を行ふことは、その儀礼の手段であつた。私の話は、文学史を説く上から、詞章にばかりに偏して居たが、実は早くから、演劇・舞踊方面の、ある点までの発達を述べて置かねばならなかつたのだ。舞踊は、鎮魂の手段として行はれたものである。あそびと言ふ用語例は、最古い意味において、鎮魂の為の舞踊である。歌の発生は先に述べたが、歌を謡ふことは、服従を誓ふことになるのであつた。歌を唱へることによつて、呼び起される所の──其々家国の守護霊なる──威霊を、その長上の体中に鎮定しようとする。其歌の形式は、長短・繁簡あり、──譬へば、片歌・旋頭歌・短歌と──時代によつて違ふが、精神においては、替る所がない。後代においては、舞踊にも演劇的要素を多く含んで来て、掛け合ひ形式を採る様になつた。譬へば、神遊カミアソビ──神楽──の人長・才男サイノヲの如き対立を生じるが、其には、さうした演劇構造を採る理由があつた訣だ。

演劇は、日本の古代に於いては、掛け合ひを要素とするもので、寧、相撲スマヒの形式に近いものであつた。其主体となる神に対して、精霊がそれをもどく行動をして、結局、降服を誓ふ形になつたのが、次第に複雑化したものに過ぎない。その精霊が、男性であり、女性である事の相違が、芸能としての筋に変化を与へる様になつた。だから、単純な演劇は、受け方が動物であることがあり、又、巫女の様な姿を取る様にもなる。但、普通の形式は、力人と言つた形をとつたものらしい。ひこほゝでみの尊に対する海幸彦、たけみかづちの命に対するたけみなかたの神であり、又野見宿禰に対しての、当麻タギマ蹶速クヱハヤの如き姿である。勿論、古代の詞章の内容を現実化する手段として、その意味を副演すると言つた風の事も、勿論あつた事は思はれる。が、わが詞章は本質的に、のりとよごと風の対立を見るのだから、必のりと方と、よごと方に分れるものと見てよい。だから、争ひの形からはじまつて、奏寿・誓約に結着したのである。

よごと方なる相手を女性化する様になると、黄泉大ヨモツオホ神の娘・大山ツミの娘・わたつみの娘など言つた形になり、又男神を逐ふ女神──播磨風土記──といふ姿を採るのだ。其が低くは、村々の巫女と謂つた姿をとる。恐らく、西洋古国の聖劇の類よりは、もつと時代の古い俤を留めて、単純なものであつたと思うてよい。構造の訣つて居る分だけ言へば、譬へば、海山幸の争ひである。

此は少くとも、農村の水を自由にしようと言ふ村の希望、其から、之を妨げる者を屈服せしめた、と言ふ古詞章の副演である。今一つ、野見宿禰の腰折れ田の伝説の生じた源なども、新室及び墓屋を造るに当つて、これにサハる者を、永久に服従せしめて置く予備行事であつた。野見氏が、出雲宿禰の分派であり、出雲人が、建築及び墓作りに長じて居たことから見て考へられる。其と共に、日本演劇の古い姿が「田の水引き」の成敗を印象した事を示してゐる、と言ふ事も考へられる。詞章自身が叙事詩だから、此から演劇的要素を採れば、如何程でも、演劇的種子を求め出す事は出来る。併し、遥か後世の例──譬へば、最著しい狂言の如き、シテアドを対立せしめるものに於いて、(ワキは、役者としての位置を示すもので、「役」に本義を持つものではない)──などから見ても、古代演劇を、今日の所謂神楽の様に、単純ながら、筋に幾様かの変化のあるもの、と見ることは出来ないのである。

その間に言つてよいことは、此シテアド対立者の語が、次第に有力になつて来て、歌の独立を為終せさせたと思はれることだ。つまり、宣奏両詞章の間に発生した、諺・歌とも言ふべき部分が、「歌」としての渾然たる発達を導いて、さうして、遂に歌ばかりの唱和・相聞と言ふ形を分化させたのだ。


      ほかひ


「ほかひゞと」又は、時としては、──後世の方言==ある時代には標準語だつたらう==を溯源することによつて、知られる──「ほぎひと(>ほいと)」と言はれてゐる語が、海人部曲その他の神人の教へとその儀礼なる祓除法と、其からその芸能としての歌・物語又は舞踊・演劇とを携へ廻つたことを示してゐる。謂はゞ、神の為の神部として、創立主のない、自由な部曲があつた事を示してゐると言ふことが出来よう。此民団は、人を創り主に持つ以前に、神を創り主としてゐたことを意味するのだらう。其と共に、その伝承する叙事詩──呪詞等──は、極めて自由に出入・応用することが出来たものであらう。海人部曲の伝承するものとして、海丈部アマハセツカヒの「ことの語りごと」なる大国主の物語、これに関聯した「天語歌アマガタリウタ」なる雄略朝の歌々があり、又海の流離譚に縁を持つ、軽太子・軽大郎女の天田振アマタブリの如きも、其らしいし、万葉・日本紀・常陸風土記に痕を止めた麻績ヲミオホキミの海人歌(仮りに命ける)などが其だ。さうして、其系統を襲ぐものとしては、後々まで、日本文学の発想法の一類型とも言ふべきものが、続々として出て来てゐる。即、石上乙麻呂の歌──及び詩──、中臣ヤカ守・茅上郎女チカミノイラツメの相聞連作、源融・小野篁・在原行平の歌、其から更に源氏物語その他の、貴人流離の物語の人生観を誘導してゐる。

又一方には、我々が穴師部──或は穴太アナホ部──の物語と称へてゐる所の、幼弱なる男女の貴人の、棄てられて水たまる道に仆れ死んで、転生する物語なども、彼等が行うた山の聖水の禊ぎと、関係した古物語であるのだらう。此が、竹取物語・恋淵譚(伊勢物語)などゝ謂つた文学の、限りない型に岐れて行く。

かうした叙事詩が、殊に、其自身の中に抒情部分を分出して来ること、而も其が、其一聯の詩の生命を扼する部分となることも、先に述べた呪詞の中の真言の場合と同じ形をとつて来るのであつて、歌なるものゝ発生は、極めて徐々として、力強い歩みを進めて来たのである。


      新呪詞


我々は、祝詞を伝統的に古く見過ぎてゐる。今ある延喜式記載の形を、そのまゝ最古形と信じないまでも、其表現発想の方法を以て、文章詞章を通じての、日本式最古の形を保存したものと言ふ様に考へ慣れてゐる。だが、今ある此平安初期に記録せられた祝詞は、寧、奈良朝に製作せられた宣命よりも新しい形と、考へ方とを含んでゐる。宣命がその都度、新撰せられた様に、祝詞も亦、改作を重ねて来たことを考へねばならぬ。唯祝詞の場合、人事の──宣命における──如く変化甚しくないから、部分改作に止つたであらうが、宣命は、特殊な社会的境遇に立つ故に、常に変化して行つた訣だ。宣命と祝詞との似よつた点、更に万葉の長歌と、祝詞の修辞と、その近似を捉へて、先輩は、すべて祝詞の模倣と考へて来た様だ。だが、此は寧順序を逆にして見直さねばならぬ。だが一層、かう考へる方が、正しいものと言へよう。宣命自身、単なる擬古文に過ぎないものである。奈良朝の文法からは、既に、古文の、円満な理会によつて出来たもの、と言へなくなつてゐる。用語例などにも、前代の呪詞の語義・語法を誤解して用ゐたものが多い様である。宣命の外、長歌などでも、人麻呂以後、皆模倣の中から、わづかに新発想を出さうと努めたに過ぎない。即、叙事詩・抒情詩の用語の外に、呪詞の要素を、多くとり入れて来てゐるものなることが見られる。

呪詞の後は、正しく祝詞であるから、呪詞の持つて居た、一つの要素なる演劇分子をも含んでゐるに違ひない。唯今日において、其を見出す事の出来ぬ程、固定したに過ぎぬ。民間に於いては、早くから断篇化した様子が窺へる。譬へば、中世以来の「柳の下の祝言」など言ふ行事は、今日も諸地方に「なりものおどし」の呪文として残つてゐる。呪詞も、奏詞も、極端に簡単になつてゐるが、問答の形を、そのまゝに残してゐる。成熟を誓約する儀礼なることを見せてゐるのだ。「なるかならぬか」「なります〳〵」最単純なのは、これだけだが、其に鋏・鉈の類を持ち出して、切るまねをすることもあり、詞ももつと長いのもある。ともかく、片方は神役であることを忘れてゐるが、受けてはやはり、なり物の木の精霊のつもりである。星野輝興さんの採集せられた所によると、尚「かへし祝詞」を保存してゐる旧神社の古儀が少くない、と言ふことである。祝詞に対して発する受納の奏詞である。それ等も亦、極端に短くなつてゐるが、其でも、のりと本来の意義の、のり方だけの片方言ひ放しでなかつたことを、示してゐるものと謂へるであらう。

「掛合ひ」の形においてこそ、神の語も効果が予期出来るものなのである。尤、わが国信仰の最古形において、受け方が沈黙──しゞま──を固守する時代はあつたのである。此沈黙を破らせるのが、掛け方の努力であり、神及びその語の威力の現れる所でもあつた。唯、其応へが詞でなく、表象を以てせられることが多かつた。之を「ほ」「うら」と言つた。その象徴を以て、意義を判断することを「うらふ」「うらなふ」と言ふ。後、言語を以てコタへる、と考へられる時代になつて、其答詞の事を「ほ」の意義を解説すると言ふ義から「ほぐ」「ほかふ」と言つてゐる。即「ほ」を示し、同時に言語を以て其意義を明らかにし、その「ほ」に効果あらせようとするのである。此が受け方のすることである所から、誓約の形式として、掛け方を祝福するを要件としてゐるので「ほぐ」「ほかふ」は祝言を述べる事になるのだ。

かう言ふ風に呪詞の中に、掛け合ひの部分即、神及び精霊の真言が、自由に游離する形を生じて来る。此が、呪詞中、特に神秘な部分と考へられた為に、呪詞全体と等しい効果を持つものと思はれる様になるのであつた。尠くとも、延喜式祝詞に見える「天つ祝詞」なるものは、祝詞の中に含まれず、従つて今日存せないのである。其部分だけは、秘密として記録せなかつたのである。而もそのあるものは、ほぼ、その形の想像が出来る。呪詞及び祝詞を誦する間にも、演劇的所作があつて、其時に、唱へる科白の様な部分があつた訣である。

後世の祝詞奏上は、単に朗読するばかりであるが、此間に、動作のあつた痕は尚考へられる。「ほぐ」「ほかふ」から出た「ことほぎ」「ほかひ」と言ふ語は、単に祝言を述べるだけではなく、明らかに所作を主としてゐるものであつた。而も、単なる舞踊ではなく、単純ながら、神・霊対立の形を基礎とした尾籠ヲコなる問答或は演劇的動作であつたことは言ふことが出来る。


      相聞詞章


日本文学発生論を書くのは、これで十度に近いことゝ思ふ。其で、幾分咄し方を替へて見た為に、却て要を得ない事になつたと思ふ。其点、此まで書いたものゝ御参照を願はずに居られない。

精霊が、女性として考へられる時には、巫女の形を生じて来ることは述べた。日本の信仰においては、巫女は尠くとも、遠来の異人なる神に対して考へた、接待役の地霊であつた。さうして多くの場合、その神を歓待して還らせる役目を持つものと思はれてゐた。神主は、神その物の役に当る人格であるが、巫女は、神に仕へる意味においての、神職の最古い形である。そこに巫女の、唯の神職でない理由が明らかだ。

神と精霊とは、常に混同せられてゐるが、形式上には、明らかに区別を立てゝ置かねばならぬ。男性の精霊として見られる場合は、多く一度は抵抗することになつてゐるが、女性の場合には、除外例もあるが、大体なごやかに神を接待するものとせられてゐる。唯、最後的に服従する「とつぎ」を極端に避ける形が、文献上に沢山残つてゐることは、考へに置かねばならぬが。

神祭の儀礼が、社会上の習俗化しても、長く守られねばならなかつた。殊に結婚においては、近世においても、古い俤を保存してゐた。村の処女の結婚には、単式なのと、複式なのとがある。複式なるは、斎場において、群集の異性──群行神としての自覚において、祭時に其村の男性が来臨する形──に向ふもの、単式は、其巫女たる処女の家々に、個々に訪問する神々──なる男──に逢ひ又逢はぬ形で待遇するものである。此処には主として、神婚の第一形式として、複式の物から述べよう。

通例うたがき(歌垣)或は方言的にかゞひ(嬥歌会)をづめなど称せられるもので、市場イチニハ──斎場──に集つて、神・巫女対立して、歌の掛合ひすることを条件とする。多く混婚儀礼の義とせられてゐるが、実は、語原は如何ともあれ、歌の掛合ひを意味の中心とするものに相違ない。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「ワタす」と謂つた用語例もある。領巾ヒレ・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。

かきかけと文法上の形として区分ある様に見えるが、実はさして弁別のない時代の形であらう。けのかけ、「掛巻毛カケマクモ」などのかくである。「かく」「かけ」は、誓占ウケヒの一種で、神の判断に任せる所の問題を、両者の間に横へる──心に念じ、口に出して誓ふ──事である。神自身から与へられた問題を解くか、解かぬかによつて、神の成敗に従ふと言ふのだ。歌の含む問題を解決する事の出来なかつた場合は、屈服することを前提とした争ひである。古代の結婚は、闘争を条件にしてゐた。「つまどひ」の形に見えるかけが、歌で以てせられると言ふのが、歌垣の古意であらう。


      短歌


村の男が神であり、村の娘の巫女である儀礼上の資格も、後代は忘れられて、尚その風俗は続いてゐる。単なる祭りの式として、村の男女の呪詞贈答が行はれた。古くは恐らく、呪詞の応酬だつたのだらうが、歌が真言となる世に到つて、次第に歌の中にも、短歌の形が選ばれたのだ。尚古くは、片哥・旋頭歌を以てした時代が考へられる。地方的にも、其形式に、色々あつたであらうが、最新しい形式の──此については、別に述べる機会があるだらう──短歌が、有勢になつて来た。その為、世間に短歌が、歌の標準様式と謂つた姿を示して行つたものと言へよう。歌垣の事ばかりでなく、既にすべてを言ふべき余裕を失うた。私はこゝに、一口にかたづけねばすまなくなつたことを、許していたゞく。

叙事詩の中の抒情詩は、其が掛合ひの形に置かれても、尚独語の気分以上に出なかつた。すなはち抒情的叙事詩なのだ。其が一転して、たとひやはり、叙事的情調を亡くせないまでも、抒情的になつた叙事的抒情詩として、対話的問答式の意義が深められて行つた。

其が片哥問答から、二つに岐れて、旋頭歌セドウカ式と短歌式とになつて行つたものと見られる。さうして、最後は、短歌の形に落ちついたと見られる。こゝに抒情詩としての内容の扱ひ方即、発想法における抒情技術も現れて来た訣である。

日本文学の発生は、仮りにこゝに、とぢめを作ることが出来る。類型的であつても、稍個性的な事情と、環境とを条件とした表現法が、発明せられて来たのである。さうして、其時代は何時かと言ふに、我々が普通、日本有史時代と考へてゐる大倭宮廷の発祥時よりも、或はもつと古く考へて、世間では、既に純文学の現れた事を予期し勝ちな時代においてすら、尚徐々と、文学及び文学的なものに向つて行つて居た、と言はれるのである。つまり、其だけ地方々々によつて、事情が違ふのである。大倭宮廷の歴史を中心にして考へても、我々は、奈良朝以前を一括して、発生時代と見てもよいと思ふ。

底本:「折口信夫全集 4」中央公論社

   1995(平成7)年510日初版発行

初出:「日本文学講座 第一巻」改造社

   1933(昭和8)年10

※底本の題名の下に書かれている「昭和八年十月、改造社「日本文学講座」第一巻」はファイル末の「初出」欄に移しました

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年815日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。