唱導文芸序説
折口信夫
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唱導といふのは、元、寺家の用語である。私の此方面に関心を持ち出したのも、実はさうした側の、殊に近代に倚つての、布教者の漂遊を主題としてゐた。だが、最近さうした方法が、寺家及びその末流──主として、此等の人々の自由運動に属する者が多いが──の採用することになるよりも前の形の方が、もつと大切な事の様に考へられて来た。即日本における、特殊な文学運動でもあり、又其よりも更に、大きな宗教運動の形を作る基礎になり、又地方経済生活の大きな因由を開いたものなることを、思はずに居られなくなつたからである。
唱導文学と言ふよりも、寧唱導芸能といふ方が、更に適切らしい気がする。其ほど、関聯深き他の芸との連鎖が緊密であつて、到底放しては、考へることの出来ないものなのである。だが、其れの文学側から見たものなることを意味させる為に、仮りに唱導文芸と言ふ程の名にしておきたい。文学であることよりも、まづ声楽であつたのである。更に多くは、単なる声楽たるに止らず、舞踊をも伴うて居たのである。又更に、ほんの芽生えではあるが、演劇的の要素をも持つて居り、後代になると、偶人劇としてある程度まで、発達した形をすら顕して来る様にもなつた。類似の芸能の上に見ても、必奇術・曲芸の類の演技をも含んで居つたことが思はれる。殊に、其が漂遊を、生活の主な様式とする人々の間に発達したことにおいて、後世の所謂演芸分子の愈増大した事が想はれ、又事実において、さうした傾向が、著しく窺はれもするのである。
唱導文学とは、宗教文学であると共に、宣教の為の方便の文学であり、又単に一地方の為のみではなく、広い教化を目的とするものである。ある宣布を終へた地方から、未教化の土地へ向けて、無終に展べられて行く事を考へてゐる者でなくてはならない。だから当然、旅行的な文学である。さうして唯、其文学が旅行するばかりでなく、文学そのものゝ主題が亦、旅行的なものにすら傾いて来るのである。此は、概論でなく、事実であつた。譬へば、最後代的なものを捉つて見ても、さうである。
高野山に於ける浄土聖、萱堂の非事吏の間に発達したと思はれる苅萱道心親子の物語は、出発点を九州に、頂点を高野山に、結末を信州に置いて、一見、此説経者の文芸が、其三つの地の何れに発祥したものか知れなくなつてゐる。又、おなじ五説経の「山椒太夫」にしても、前者が、善光寺親子地蔵の縁起である様に、「かなやき地蔵」の由来と伝へて、丹後由良湊の事の様に見えてゐるが、事実は津軽岩木山の神と、切つても切れぬ因縁を持つてゐる。簡単な結論の容易につけられない問題ではあるが、ある部分まで言うて正しいことは、一つの地方に根ざした信仰が、搬ばれて行つた途中にも、根を卸す場所が出来て、其処を以て、一条の物語の結末を告げ、又くらいまっくすを作ることになつたのである、と言ふ見方も確かに成り立つのである。文芸が旅行することによつて、その物語の主人公も、漂遊を重ねると謂つた風に考へられ、更に其旅程も、次第に確実なものとなつて来る訣である。其文芸の中、可なり古代的なものから見ても、さうである。譬へば、「天田振」として、大歌──宮廷詩──に採用せられたものに就いて見ても、さうである。啻に謫流地の伊予と、元の地なる都との間における事件を述べるに止めずして、尊い女性が、思ひ人の後を追うて漂浪する風に語りひろげる様にすらなつてゐる。旅行の主題に添うて物語られる事によつて、次第に旅の気分が深まつて来てゐるのである。譬へば又、「天田振」の、やゝ文学的要素の濃度を加へたと思はれる、石上乙麻呂の土佐流謫事件を謡うた万葉集所収の小長歌にしても、さうである。乙麻呂自身の心に浮んで来るはずのない様な叙述の詞章の心の底には、先行して行はれた天田振が流れてゐるのである。而も之を、幾種かの類型を間に立てた中臣宅守・茅上ノ郎女の相聞歌と比べて見ると、其が文学意識を濃厚に持つた極めて長い連作短歌の集団と言ふ特殊な形をはつきり出してゐる。其は一方にかうした二つの事件を表現する上において、幾様かの同時代の相が見られるのだとも言へよう。即、ある層においては、古物語の中の、くどきの部分とも見るべき形で、如何にも、個性乏しいものになつて出て居る。が、又ある層に属する人々は、之を新文学における、地の文は漢文、抒情部分短歌と謂つた、奈良期の新感覚に適した様式に為立てあげて来た訣なのだ。而も、此二篇とも、旅行の印象を叙べる側に、著しく進んで来た事を示してゐる。
この様に、事件を叙述する事よりも、旅先又は旅の中途の感情を主とするのが、つまり二つの土地の聯絡と言ふことを心に持つて来たことを示して居るのである。謂はゞ後者は、古い道行きぶりの形の進んだものであり、前者は、主題以外は齣毎に目的を展開する多幕劇に近づいて来てゐるのだ。だがともかくも、唱導的な意義の遺却せられない文芸として、一貫的に、その信仰の中心たる神・仏或は人の、其大を成すに到る道程の発達を意味する苦しみを語る事に力を集めて居り、其に多くの漂浪の歎きを絡まして居る。
日本古代における威力神が、常にある旅程を経て来り、而もかよわい神であつた者が、此土において、俄かに其能を発揮すると考へられた──と言ふよりも、逆にさうした信仰を生み出す習俗が行はれて居た──ところから、かうした唱導の主題は生まれて来るのである。同時に又、多趣多様の唱導が、元極めて少数類型の分化に過ぎなかつた事も考へられるのである。だから、此種の文芸は、古い物程、罪障によつての流離を説く。此点殊に、説明を要する所であるが、今は此程度に止める。此は、その神人の奨める禊祓の法の起原を説明し、贖罪の原由を、神に基くものとする様になつて来てゐるのである。
わが国の古代宗教の中、旅行による布教法をとつたもの──すべての宗教が、其であつたに違ひないが──は、何時からか、海の水或は、山の水を以てする禊ぎを、儀礼の中心としたものであつた。時としては、単に其を行ふ呪法そのものゝ様にも見えた。さうして、神は其を人々に慂める為に、此土に姿を現じて居るものゝ様にすら考へられた。さうして多くの場合、此神自身之を行ふ事の代りに、神の介添へとも、神の育て主とも言ふべき大忌人があつて、神を守りながら、諸国を歩く。
さて、此神人団は、時として分裂して、ある適当な地に残り、一部は更に旅行を続けて行くと謂つた形を持つて居た。さうして、其儀礼の威力を正当に顕す為に、其神と、其儀礼との関聯する本縁を説く所の詞章を諷誦したものらしい。
譬へば、穴師神人の山の聖水を以てする呪法は、恐らく穴師部所伝の詞章を生んだものと思はれる。即、穴師兵主ノ神なる水神に関する物語として、抱き守りの巫女と、幼君を主としたものに飜訳せられ、一つの「ひな神」信仰の形を採る事になつた。又譬へば、丹後風土記逸文に見えた、八処女起原説明古伝とも言ふべき、天ノ真名井の羽衣物語である。記述では、わなさ翁は、薄情な人間悪の初まりを見た様に説かれてゐるが、此物語の彼方に見えるものは、わなさ翁なる神人にして、遂に神と斎かれたものが、元ひな神の抱き守りだつた俤を持つてゐることである。「阿波来経わなさ彦」と言ふ出雲風土記に見えた神は、尠くとも出雲国だけで言へば、ある古代に阿波の美馬(ミルメ)から、此亦出雲に斎かれた社の多い「みぬま」の女神を将来した神人の神格化したものである。此「みぬま」の女神の、信仰の中心となつたものは、天真名井に行はれた以来の行法と信ぜられた禊ぎである。此が亦宮廷の神及び主上に伺候する丹波の八処女の起原であると共に、丹後風土記には、みぬま──風土記的には、ひぬま──の女神自身、禊ぎをした事の様に伝へられてゐる。
わなさ神人の手で育まれたひな神、長じて家を放たれ、漂浪して遂に道に斃死し、其が復活転生して威力ある米の神──飯及び酒の神──となる。かう言ふ風に、代表的な遊行神伶の持ち伝へた神の姿を見せて居る。
此丹後風土記所伝の女神の物語は、甚竹取物語の要素に牽かれて来た様に見える。どうしても、禊ぎの介添へたる湯坐の巫女と、巫女の父なる大忌人との上に今一つ、此物語では、巫女の陰に没してゐる幼神があつたに相違ないのだ。即、竹取型になる以前の形があつて、誉津部・多遅比部などの部曲伝承に近かつたものと思はれる。
誉津部の伝承と思はれるものは、此子代部の開祖誉津別皇子の歴史を説いた貴種養育譚において、出雲風土記所伝の鴨神あぢしきたかひこねの物語と殆ど一つである。又謂はゞ、通常称する所の鴨神の其父神大国主、更に其父神すさのをにも、共通する部分がある。即、妣の国を慕ひ哭く荒神の慟哭の描写は、「八拳髯胸前に垂れ云々」からが、其印象のまゝである。又、兄八十神に殺されては、復活を重ね、其都度偉大に成り整うた大国主の、母神及び貝姫の介添へを得た様は、全くそのまゝ誉津別皇子の物語に入つて居る。而も、此皇子の威力は、出雲大神の霊験に由つて現れることになるのだから、どうしても、上の二柱を祖神とする出雲国造家の禊ぎに由来するものなることは察せられる。而も、其出雲人の系図は、記紀何れの伝へで見ても、殆ど総べて水神──寧、水の聖役を奉仕する者として──を列ねてゐるもの、と考へられるのである。我々に伝はらない事で、出雲の神道には、喫ぎを中心とした鎮魂術の存在して居た事を示すものであらう。其上此行法に由る布教と、その由来を説く詞章とがあつたらうと言ふことが考へられる。
又一方、多遅比部の伝承とおなじものが、少なくとも三種類は見られる。幼神をとりあげ・養育す事を説くに、やはり選ばれた「島の清水」──淡路の瑞井──と、特殊な呪法とのあつたことが窺はれる。而も歴史の記述以外に、丹氏の広く諸国に拡つてゐるのは、此物語を以て、儀礼の起原と威力とを盛んにした布教団のあつた事を示すものである。
偶然乍ら、誉津部の場合には、幾分其痕跡が見られる。古事記によると、皇子、出雲大神を拝みに、大和から出向かれる時、到る所に誉津部を残された由が見えてゐる。つまり、此皇子を中心にして、出雲神道の分派を、宣伝した神伶部曲が、其止る所毎に部落を構へ、又幼神養育の物語を伝へて行法を事とした痕を示してゐるのだ。
凡、かう謂つた種類の数限りない古代の宣教部曲は、その構成と方法と、旅行の形と詞章の内容とに亘つて、類型的なものを通有してゐたことは事実だつたらしいのである。
私は、此等の部曲の運動から説き起して、日本における宗教文学の内容と形式との推移を尋ねたいと考へてゐるのである。
私は、今日この原稿を江州日野の外山に向ひ乍ら、書いてゐる。明日からの数日は、緘黙の近代民なる木地屋の本貫、君个畑・大君个畑の山わたりして、勢州へ越える。その山道が空想らしく、極めて寂しげに浮んで来る。実は、此黙々たる山の部曲も、昔はある文芸を携へて、里人の上に唱導の影を落して過ぎたのではないか。かうした考へすら、ひらり〳〵心をかすめて通つてゐる。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
※底本の題名の下に書かれている「草稿」はファイル末の注記欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2009年9月1日作成
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