詩語としての日本語
折口信夫
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酩酊船
さてわれらこの日より星を注ぎて乳汁色の
海原の詩に浴しつゝ緑なす瑠璃を啖ひ行けば
こゝ吃水線は恍惚として蒼ぐもり
折から水死人のたゞ一人想ひに沈み降り行く
見よその蒼色忽然として色を染め
金紅色の日の下にわれを忘れし揺蕩は
酒精よりもなほ強く汝が立琴も歌ひえぬ
愛執の苦き赤痣を醸すなり
アルチュル・ランボオ
小林秀雄
この援用文は、幸福な美しい引例として、短い私の論文の最初にかゝげるのである。この幸福な引証すら、不幸な一面を以て触れて来るといふことは、自余の数千百篇の泰西詩が、われ〳〵にかういふ風にしか受け取られてゐないのだといふことを示す、最もふさはしい証拠になつてくれてゐる。象徴派の詩篇の、国語に訳出せられたものは、実に夥しい数である。だが凡、こんな風にわれ〳〵の理会力を逆立て、穿り考へて見ても結局、到底わからない、と溜息を吐かせるに過ぎない。かう言ふ経験を正直に告白したい人は、ずゐぶん多いのではないかと思ふのである。
小林秀雄さんの飜訳技術がこれ程に発揮せられてゐながら、それでゐて、原詩の、幻想と現実とが併行し、語の翳と暈との相かさなり靡きあふ趣きが、言下に心深く沁み入つて行くと言ふわけにはいかない。此は唯この詩の場合に限つたことではなく、凡象徴派の詩である以上は、誰の作品、誰の訳詩を見ても、もつと難解であり、晦渋であるのが、普通なのである。さう言ふことのあつた度に、早合点で謙遜なわれ〳〵は、理会に煉熟してゐない自分を恥ぢて来たものだ。併し其は、私たちの罪でもなく、又多くの場合、訳述者の咎でもないことが、段々わかつて来た。それは国語と国語とが違ひ、又国語と国語とにしみこんでゐる表現の習慣の違ひから来てゐる。日本の国語に飜し後づけて行つた詩のことばことばが、らんぼおやぼおどれいるや、さう謂つた人の育つて来、又人々の特殊化して行つたそれ〴〵の国語の陰影を吸収して行かないのである。
われ〳〵の友人の多くは、外国の象徴詩を国語に飜訳したその瞬間、自分たちの予期せなかつた訳文の、目の前に展つてゐるのを見て、驚いたことであらう。その人が原作に忠実な詩人であればある程、訳詩がちつとも、もとの姿をうつしてゐないことに悲観したことが察しられる。それほど日本語は、象徴詩人の欲するやうな隈々を持つてゐないのである。単に象徴性能のある言語や、詞章を求めれば、日本古代の豊富な律文集のうちから探り出すことはさう困難なことではない。だが、所謂象徴詩人の象徴詩に現れた言語の、厳格な意味における象徴性と言ふものは、実際蒲原有明さんの象徴詩の試作の示されるまでは、夢想もしなかつたことだつた。私はまだ覚えてゐる。さうした、氏の何番目かの作物に、「朝なり、やがて濁り川……」(後、「朝なり、やがて川筋は……」と言ふ風に改つたと覚えてゐる)をもつて始まる短篇の発表のあつた時、我々の心はある感情の籠つたとよみを挙げた、あの感動の記憶を失はないでゐる。たゞ一種の心うごき──楽しいとも不安なとも、何とも名状の出来ぬ動揺の起つたものであつた。もつと我々が静かに思ひ見る事が出来たのだつたら、日本語が全く経験のない発想の突発に、驚きのそよぎを立てゝゐたかも知れないのである。それでも、蒲原氏、ひきつゞいて薄田泣菫さん以下の人々の象徴詩に、相当にわれ〳〵にも理会の出来るものが現れた。それを今くり返して見ると、さう言ふのは、多くは、比喩詩に過ぎなかつた。われ〳〵は比喩詩の持つてゐる鍵をもつて、象徴詩を開いたものと思ひ違へてゐたこともあつたのである。その当時上田敏さん等の仲間で、蒲原氏の創作詩の解き難い部分をふらんす語に飜訳して見て始めて理会したことのあつたと言ふ逸話すら、残つてゐる位である。併し今考へれば、これは笑ひ事ではない。象徴なれのしてゐなかつた日本語が、蒲原氏の持つた主題をとゞこほりなく胎む事の出来る筈はない。その後やがて、少しづゝ象徴表現になれた国語は、幾つかの本格的な象徴詩を生み出した。さう言ふ今日になつて見れば、今の国語が、ある点まで象徴性能を持つやうになつた形において、昔の蒲原氏・薄田氏等の象徴詩を、作者自身、企図に近く会得するやうになつて来たのである。国語になじまない象徴詩の精神を、こなれのよい国語の排列の間に織り込まうとする人が、どうしても出て来なければならなかつた。上田敏さんは、多くの象徴詩篇を飜訳して、「海潮音」を撰したのである。これが、日本象徴詩の早期に於ける美しいしあげ作業であつた。全くの見物にすぎなかつたわれ〳〵の見る所では、本当に象徴と言ふ事を人々が理会したのは、これからの事だつた。物訣りのよい当時の評論家角田浩々歌客すら、象徴と、興体の詩とを一つにしてゐた時代である。上田氏の為事は、多くの若い象徴詩人のよい糧となつて行つた。けれども多くの詩篇は、あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎてゐて、どうかすると、平明な抒情詩ででもある様に見えたのであつた。三木露風氏・北原白秋氏その他の人々の象徴詩と言はれたものも、だから上田氏的な象徴詩の理会に立つて出来たものであつた訣である。だがそれでゐて、誰も満足はしてゐなかつた。おそらくこのほかにまだ象徴詩の領分があるのだらうと思つてゐたらしい事は、考へられる。何よりも讃ふべきは、若い時代にすぐれた感受を持つた詩人たちの多かつた事である。その後四十年、日本詩壇では、其昔詩の若かつた時代のまゝに、象徴詩は栄えてゐる。此間に、われ〳〵が眺めてゐた象徴詩の動きはどうだつたらう。詩人たちはあまりに日本化せられた象徴詩が、泰西の象徴詩と縁遠くなつてゐる事を感じた。これを救ふには、詩語或は詞章の文体に限つて、ふらんす其外の象徴派詩人のもつ言語・詞章そのまゝにしたてるほかはないと考へた。日本語を欧洲の文体にすると言ふ事は、詩自身をふらんす語・どいつ語その外の語で書くと言ふのと同じ事であつて、日本語で詩を作る事にはならない。国語は、さうした象徴詩の国々と、語族が違ひ過ぎてゐた。其上ろうま方言の国境外に遠く離れてゐる日本語による詩人であるがために、──譬へば、りるけが故郷以外の二三ヶ国の語で表現したやうに、又極めて稀な例として、ヨネ・ノグチがあめりか英語で詩を書いた様には行かなかつた。それで苦しい中から、最、適当な方法が考へ出されて来た。国語に訳された泰西の詩の飜訳文体を学ぶ事である。相当に日本化した、と言つても直訳手法に沿うた文体は、上田氏の「海潮音」の訳詩の様にはこなれてゐない。其所にある程度まで、西洋象徴詩のおもかげが見られようと言ふものである。象徴派詩人たちの訳詩集などに出て来る文体或は語句、言ひかへれば、国語でありながら、詩の用語なる古典語や、標準語とは違つた印象を与へる詩語と文体が、目に立つて多くなつて来た。それに向けて更に出来るだけ自分の表現を近づけて行くと謂つた方法が考へられて来たのである。これが成功すれば、外国語の文脈にうつして見た第二の国語の流れが現れて来ることになる訣である。だが最初にあげた小林氏の訳詩が見せてゐるやうに、さう言ふ文体になじんだ専門詩人だけには、ある点まではやつと通じる文体とはなつて来たが、其他一切の国語使用者──国民には、たゞ印象の錯雑した不思議な文体としか感じられぬものになつた。この儘に進んで行けば、専門家以外にも承認せられる文体が出来るかも知れぬが、急にさうした自信は持てない。極めて晦渋な第二国語として、殆ど詩人圏だけに通用する階級語のやうになつて行くのではないかと思ふ。平易明快なばかりが、詩の価値ではない。白楽天・ろんぐふぇろう──が軽蔑される一面も、その点である。併し何としても、詩を生む心の豊かさから、いろんな表現が派生して、単純な理会者には受け取りにくいものがあると言ふ事も恥づべき事ではない。併し二つの国語の接触・感染・影響と言ふ様な直接な効果ではなく、一種不思議な飜訳文が間に横はつてゐて、それの持つ原語とも、国語ともどちらにつかずの文体が、基礎になつてゐるのでは、何としても健全とは言へぬ。我々の象徴詩に対して持つ情熱は決してさうしたえきぞちしずむを対象としてゐるのではない。すでに有明・泣菫以来半世紀に近い象徴表現の努力がいまだに方法的に完成しないその前に、気移りしかけてゐるのは誇るべき事ではない。如何にしても、時を経ただけの効果を収め得てゐない。これは、詩語たる国語の障壁によるものである。その詩語は、実体からうつしたものでなく、その実体の影を写したものと言ふべき用語と文体から出来てゐる所にあると思ふ。けれども詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言ふ訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもつと自由であつてよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎてゐると言ふ事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言ふ事が必しも詩語の強みになる訣でもない。一口に言へば、詩語が現代語や近代語と同じものでなければならぬと言ふことも、この理由から声高く主張する事は出来ない。われ〳〵の生命をゆする程、われ〳〵の感情に直截なものは、今使はれてゐる国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言ふ事は、ひと通りも二通りも考へてよいことだ。だが多く日常の第一国語は、詩語としての煉熟を経てゐない。たゞ生きたままの語である。この日常生活には極度に生活力をもつた第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事でもあり、大きな期待でもある。それの望まれない凡庸人にとつては、日常語は単なるまるたん棒である。丸太棒のもつ素朴な外貌に幻惑せられて、第一国語即詩語説を主張するだけなら、甚しい早合点である。だが場合によつては、現在の第一国語のほかに、用ゐて効果の期待出来ない題材がある。其は唯現実の生活を表現することにおいてのみ意味のある場合である。だが其すら、時としては、技術者の習練によつて、第二国語──一層溯つて詩語としての鍛錬を経た古語を用ゐて、効果をあげることがある。だがその場合は、現実のけば〳〵しさ、生なましさは、静かに底に沈んで柔かな光を放つであらう、が、これは一種のあなくろにずむに価値を置いて作る時に限るものである。これで見ても、詩は必しも現実の言葉を以て、表現するだけではなく、古語を置き替へる事も自由なのだから、其所に現れて来るものも、あなくろにずむと言ひ棄てられぬことが多い。語自身が論理的でないことを示すやうなものではない。言ひかへれば、一種えきぞちつくな感情を持たせること、又それよりはもつと正しげに見える詩の古くからの習慣から割合ひに高く評価せられて来た、其反感から、結果逆に古語による文体は、実質以上に軽蔑せられてゐる。併し現代語で──例へば中世以前の抒情詩を書く事は、論理的には正しくない様に見えるにかゝはらず、今の詩人は多く之を正しいものと認めるだらう。それは今人としての有力な一つの表現様式の文体であるから、拒む理由が無いのである。われ〳〵が現実詩をば、古語・中世語又は、近古語で列ねるのも、其と同じ事で、やはり一つの文体として認めねばならぬ。そこにあなくろにずむを考へるのは、第一国語としての錯誤感を及して来る訣なのである。古語が詩の文体の基礎として勢力を持つた事が長く、詩は此による外はないとまで思はれてゐた時期があまり続いたのである。古語表現を否定しようとするのは、その長い圧倒的な古語の勢力の時代に対する不快感を、まだ持ちつゞけてゐる訣なのである。
われ〳〵にとつて現代文が一番意味のある訣は、われ〳〵が生存の手段として生命を懸けてをり、又それを生しも滅しもする程の関聯を持つてゐる語は、現代語以外にはない。だからわれ〳〵が生命を以てうちかゝつてゆく詩語は、現代語である訣なのである。これは単なる論理ではない。われ〳〵の事実であり、われ〳〵の生命である。この生命を持たない言語を、詩語として綴つた場合には、それが古語でなくて、現代語であつたとしても、其は全く意味のない努力になる。唯古語は近世又は中世以前の語であり、当然詩語としても生ひ先短い語である──人は詩語を第一国語にひき直してみて、或はすでに滅びた語として見ることがある。それは誤りであると共に、生命のわれ〳〵と強くつながつてゐる現代語が、詩語としての生命を失つた場合には、目もあてられないものとなる。それは言ふまでもなく、第一国語に還元するからである。或は初めから詩語として用ゐられずに、対話の中のごろた石・丸太棒として転がつてゐるに過ぎないからである。私などは、今の作者の中、最古語を使ふ者の内に這入る者である。併し私にとつては、古語は完全な第二国語である。私らの場合はむしろ外国語に持つ感覚に似たものを、古語に感じてその連接せられた文章の上に、生命を托してゐるのである。
外国語は全体としては、われ〳〵と生命のつながりは、非常に乏しい。併し乏しいだけに、──切つても切れない、でも其を強ひても断絶させて行かなければ、生命ある表現の出来ないと言ふ国語の系統や、類型から離れた表現が期待せられる。古語の場合も其に似て、近代語の持つ平俗な関連や、知識を截り放してしまふ事が出来る。それだけに、親しみの点に於ては、われ〳〵の今使つてゐる第一国語と一つゞきである祖先語だが、特別な語学的教養のある人以外には、まるきり外国語と同じものである。だから又、現在の語と関係のない古語である程、そこに効果が出る訣だ。唯言語の一部分に於て、われ〳〵の知つてゐる中世語或は古語の結びつきを見る事もある。時としてはその単語全体が、読者にとつては唯祖先語であると言ふだけの親しみを感じさせるに過ぎないものもある。さういふ古語が、平俗な国語文体の中にちらばらとはめ込まれてゐるところから、一様に凡庸な国語と感ぜられ、古語の持つてゐるえきぞちつくな味すら受け容れられない場合のあるのが、最非難せられるのである。
現在の詩壇の有様を見ると、ある部分まで、作家たちの詩は、日本語を忌避してゐる様に見える。考へのある人は、自分の用ゐる語が、日本語的な印象を与へ過ぎる事を嫌つてゐる様にも見える。日本語が平俗だと考へてゐる以上に、外国語の持つてゐる様な陰翳を自在に浮べる事の出来ないのを悪んでゐるのであらう。だから何のための詩語か。結局凡庸な表現力しか持たない日本語ではないか。而も現在と関係のない、どう祷つても転生する望みのない山の石の様な詩語に過ぎないのだ。──かう言ふ風に、特に詩語として用ゐられた古語を見くびらうとする。だが明治以後どの詩派が、最古語を用ゐたか。それを考へると、我々の予期する所とは反対になつてゐる。有明・泣菫以下の象徴詩勃興時代の詩人たちを見ると、皆驚くばかり古語を使つてゐる。あの古語なんかに何の関係も持たない様に見える泡鳴すら、盛にこれを利用してゐる。蒲原氏にも同様の傾向はあつたが、──古語を活し、古語と近代語・現代語との調和の上に生命ある律的感覚の美しさを与へたのは、蒲原氏なのだが、──之を使つた上から見れば、薄田氏の方が著しく多い。薄田氏の詩には驚くばかり古語が取り込まれてゐる。泣菫さんに驚く事は、私の様な古文体の研究を専門とする者にすら、生命の感じられない死語の摂取せられてゐる事である。泣菫の語彙を批評した鉄幹は、極めて鄭重な言ひ廻しではあるが、極めて皮肉な語気を以て噂した(明星)。
たとへば「青水無月と言ふ語は、われ〳〵は辞書にしか見出す事は出来ないが、薄田氏だから拠り所があるに違ひない。美しい語だ」と言ふ風に。当時の詩人・文人の間に行はれた勉強の一つで、辞書を読み、その美しい語を覚える、さう言ふ行き方の、泣菫さんにあり過ぎることを諷刺したものである。矮人をちひさごと言ふ古語で表現した事について、ひきうどとの関係を論じてゐるあたりも、与謝野氏自身は、原書からの知識でなくては、と言ふやうな不服を暗示したものであらう。まことに日本の初期象徴詩家の描いた彩画の壁は、ほの青く光る古語を一杯に散りばめてゐたのである。近代或は、現在の日本語が単に詩の表現に適せないばかりでなく、象徴的な連想をよぶ陰翳は無いと感じたのであらう。今日からは古語の「散列層」の様に美しい、併し個々の古語自身は生きて働かない、さう言ふ泣菫曼陀羅が織り成されたのであつた。多くの詩人や、詩の観察者は、これより前にこそ、沢山の古語詩があつたものと想像して来てゐる様である。ところが事実は、さうあるべく考へた想像に過ぎなかつた。明治十年代後期から二十年代に通じて現れた詩が、今日見て、いきなり詩としての価値の乏しさを感ぜさせるのは何によるのか。直観的にわれ〳〵はまづ嫌悪を感じる。それはまだ詩の文体を発見しない時代であり、既に発見して居ても、平俗なばらつど──日本的に言へばくどき節──の臭気をさへ深く帯びて居た。語の排列が、独立した文体の感覚を起させれば、詩としての基礎と、更に詩としての価値の半分は出来上つてゐるのだと言ふ反省などは、持つ事の出来ない時代であつた。ある人々は、七五・四行の今様を準拠としようとし、ある人々は、五七連節の長歌によらうとした外は、漠然と西洋詩型に、生命を托しようとした。併し日本語をば西洋詩型に入れようとする事が、どう言ふ意味を持つてゐるか、さう言ふことの思はれない啓蒙期であつた。詩は発想であり、思想をまづ生活化してその生活の律動によつて、新しい詩型は生れる筈だつたが、それを考へる事すらしなかつた初めの詩体は、決して初めの時代だけに終らなかつた。晩翠が出て初期の詩形をある点まで急速に敷衍し、整頓して、ある一つの決着をつけた。其と共に、藤村は新しい詩の内容が、詩形を胎んで来る事を、ある程度まで実際に示して、若い日本の詩の世界を、喜びの有頂天にひき上げた。藤村の発見した詩は、若干の新しい思想と、或は生活と、これに適当した古語表現とが行き合つた所に出たのである。まことに藤村以前の詩は、抽象的に考へれば、古典的であつた筈だが、実際は平俗な近代の演歌調の詞曲に成り上らうとしてゐたに過ぎなかつた。藤村の古語表現には、柳田国男先生(当時松岡)の啓発があつて、一挙にあの境地に到達したものと観察せられるが、明治の詩であるためには、日本の古語のもつてゐる民族的な風格が必要だつたのである。近代人の摸索は、古語に観念的な内容を捉へようとしたのである。其が民族文学の主題であり、一言で言へば品格であつた。柳田先生の与へた影響は、かく仄かなものとして過ぎたが、さう言へば、内容にも影響を見る事が出来る。「実をとりて胸にあつれば新なり。流離の憂ひ。海の日の沈むを見れば、たぎり落つ。異郷の涙」と言つた藤村の「椰子の実」は、柳田先生の与へた最強い暗示から出てゐる。藤村の事業は、古語が含んでゐる憂ひと、近代人の持つ感覚とを以て、まづ文体を形づくつたのである。さうした処に、思想ある形式が完成した。詩の品格は、そこに現れた。われ〳〵は此品格を藤村にはじめて現れたものと見てゐる。外山正一さん以来、誰の詩にもそれを求める事が出来なかつた。何よりも、その詩の音調の卑俗な事は、たとひ新体詩史をどんなに激賞しても、中西梅花・宮崎湖処子を尊敬させはしないのである。北村透谷に於てすら殆ど無思想を感じるのは、思想的内容を積む事の出来ない近代語を並列して居つたからである。近代語・現在語を以て思想表現をすることが、真の目的と考へられたことであらうか。それは今すら殆ど実現出来てゐないことなのだから、まして此時代の人々に負はせてよい責任ではない。古語表現から言へば、落合直文門下の塩井・大町・武島の方々もあるが、これは思想をこそ望むべきが古語だといふ事を思はず、中世の語の滑らかさに溺れてしまつたので、藤村が持つてゐる若干の生の思想にすら到達する事も出来なかつた。いさゝかの手違ひのために、思想を持ちながら古語表現の完全に出来なかつた先輩がある。北村透谷でなくて、却つて湯浅半月氏であつた。詩篇や讃美歌の持つてゐる思想から、もつと宗教的な内容を持つたものへの企てが、半月さんの作物には沢山残つてゐる。半月さんの場合にも悔まれる事は、詩語の選択を誤つた事である。思想的内容の極めて乏しい平安朝語を基礎とした文体によつて、彼の宗教をゑがかうとした。私の未生以前明治十八年、「十二の石塚」を公表した人である。あれだけの内容を持ちながら、形式の、それに裏切る詩を作ることに止らせた。それに、当時の伝道文学者がさうであつた様に──和歌に於ける池袋清風も同様──日本語を以て、西洋の、殊に信仰生活を、日本化して表さうとした矛盾が、半月集の持つた筈の品格を失はしてゐるのだ。
西洋古代の宗教文学に関する語彙は、三十年代になつても、繰り返された。それが後には「花詞」と選ぶ事のない程安易な物になつたが。明治三十二年以後著しい短歌改革運動を行つた新詩社の人々の、短歌に収容した詩語は、矢張りぎりしや・ろうま或はきりすと教の神話信仰に関した美しい詞であつた。それを久しく用ゐて、多くの神話に現れる星や、愛を表現する花々を繰り返した結果、新詩社一派を星菫派と世間では言ふやうになつた位である。ある方面から見れば、新詩社の新派短歌は新体詩運動が短歌に形を変へて現れたものと見るべきである。だから此所にも、新体詩の改革運動のやうに、平俗な思想を避けようとしながら、完成せぬ表現から、さう言ふ安易な作物が多く出て来た。さうして曲りなりにも思想らしいものゝ出て来たのは、鉄幹・晶子両氏が、古典研究を本気になつて始めてからの事である。最初から新詩社に対抗してゐた正岡子規すらも、ぎりしや・ろうまの神話文学の影響を詩に取り入れようとした。唯それを日本的に表現しようとしたが、単なる直訳らしく見えるものを避けようとしてゐる。而も短歌にすら其があつた。名高い「佐保神の別れ悲しも。来む春に ふたゝび逢はむ我ならなくに」、日本神話の立田媛・佐保媛、その春の女神なる佐保媛を指すものとして古典的に感ぜられて来てゐるが、それはさういふ風に、子規の全作物を整頓しての考へで、彼の詩を照し合せて見ると、矢張りみゆうずやゔいなすをさういふ風に言ひ表しただけであつた。
明治十年・二十年代に安定の出来なかつた新体詩の様式に対する感覚は、三十年に入ると同時に、ほゞ到達点を見る事が出来た。それは空想に耽つただけの西洋詩の様式や、我国でこと古りた今様や長歌の様式ではなかつた。まづ思想があつて表現を駆使すると言ふ考へ方と結果においては、同じであつた。まづ語あつて、其所に内容が生ずると言つた行き方を、自らとつて居たのである。その語は外国語を以てするのでない限り、──又それは出来る事ではないのだから──民族的な思想内容の深い様に感ぜられる、整頓し理想化した古語及び古語の排列からなる文体が、このときになつて現れて来たのである。だがそれは、初めから一時的なものとしての条件がついてゐたと考へねばならない。つまり藤村の若菜集以下に出て来る文体は、日本人の思想的でない生活のほか感じられない──平安古語を基礎とした文体だつたのである。だからどうしても、も一つ安定した時代が先に考へられてゐたものと見てよい訣である。それは漠然としてわれ〳〵に考へられる──最「古い語」の時代の語であつた。記・紀などにある語を土台として、その中にそれ以前の語も、勿論それ以後の平安朝、近代の語までも、──学問的にでなく、古語としてある共通な感覚を持たせるものをひつくるめて、一様の古語とし、その古語の中で、民族文芸の憧憬を含んだものを、特に愛執することを知つたのである。即、そこに思想と気分との深い融合を認め得たのである。
われ〳〵の考へた正しい詩形の時代は、意表外の姿をもつて現れた。それが日本に於ける象徴詩の出現と言ふことになつたのである。その後四十年以上を経てゐるけれど、矢張り日本の詩壇は、依然として象徴詩の時代である。
存外早く定型律破壊を唱道する所謂破調の詩の時代が来た。この長い年月に整理すべきものは整理しながら、やはり昔の象徴詩家が古語によせた情熱と同じものを、今の詩壇の人々の詩語や、文体の上に散見する事が出来る。象徴的な効果のある、言はゞてまの代表とも言ふべきものだから、それを離れては作物が意味を失ふと考へられてゐるのである。私どもが詩を読み始めてから、さうした幾百千の語を送迎したか、数へ立てる事も出来ない。又作家自身も、それ程までの効果を考へずに、たゞの語に対する情熱から使ひ捨てたと言ふものも多かつた。もし啓蒙的な新詩語彙と言ふやうなものが出来れば、さういふ語を多く見出し、それらの語の中から、明治以後の詩人がどう言ふ語を好み、どういふ傾向に思想を寄せてゐたかと言ふ事が、手取早く見られると思ふ。
久しく用ゐられてゐる語を少しあげてみると、「しゞま」これに、沈黙・静寂など漢字を宛てゝ天地の無言・絶対の寂寥など言つた思想的な内容までも持たしてゐるが、われ〳〵は詩の読者として何度この語にゆき合うたか。併し辞書などには、それに似た解釈をしてゐるとしても、其は作家が辞書から得た知識だからである。古い用法では、むしろ宗教的な一種の儀礼である。無言の行とも言ふべき事であり、時としては黙戯を意味してもゐる。併しさう言ふ私自身すらも、沈黙・静寂などの方が正しい第一義である様に感じる程、詩には使ひ古されて来た。
「あこがれ」この語も明治の詩以来古典の用語例が拡げて使はれた。これは「あくがれ」といふ形もあるのであるが、詩語として承け渡した詩人たちは「こがる」と言ふ焦心を表す語に、接頭語あのついたものと感じた為に、「あこがれ」の方ばかり使つた。これは、王朝に著しく見える語で、霊魂の遊離するを言つた。自然、それほどひどく物思ひする場合にも使つてゐる。だから、詩語としての用法は恋愛的に柔かになつてゐるが、特殊な意味を失つてゐる。憧憬といふ宛て字は、半ば当つてゐる。
象徴派風の表現が勢を得てから、「えやみ」(疫)だとか「すゆ」(饐ゆ)など言つた辛い聯想を持つた語が始終使はれた。さうかと思ふと、近代感覚を以て、古語にない語を作つたのもある。運命、宿命などに「さだめ」と言ふ全く一度も使つた事の無い語を創造した。西洋的な情熱を表す必要から、接吻なども、国語で表さうとして、早くから「くちづけ」と言ひ始めて来たが、此も無い語で、寧「くちぶれ」とでも言ふべきところであつた。王朝まで溯る事の出来る用語例は、「くちをすふ」と言ふのもあり、もつと適当な古今に通じた言ひ方は、「くちをよす」或は「くちよせ」であつた。かういふ風に、古語の不穿鑿と、造語欲から出来たものもある。山脈を「やまなみ」と言ふ事は、後に短歌にも広く用ゐられるが、やはり詩が初めであらう。これも語通り山のならび、つゞいてゐる峯を言ふので、山脈に当る語ではなかつた。これは成程勘違ひをしさうな語である。これと同じ意味に於て、特殊な外国語を使つたり、仏語や、東洋語を用ゐたりして、詩語の範囲は拡げられた。象徴派以前からも此風は盛んであつたが、有明・泣菫氏以後甚しくなつた時期がある。言語の異郷趣味を狙つた点に於て、古語も外国語も一つであつた。
一方破調の詩が盛んになつて、むしろ定型によらない事が原則である様になつて来たが、特殊な詩語は絶えては居ない。この破調の詩の行はれる動機になつたものは、小説に於ける自然主義の流行であるが、日本では、かう言ふ風に象徴派と自然派とが対立すると言つた形を取つて来たのが不思議である。外国に必至的なものであつた象徴派・浪漫派の対立は、我国では見る事が出来なかつた。今から考へれば、日本の詩に限り、象徴派が即浪漫派であつたと謂ふ、不思議な姿を見せてゐる。つまり我国では、ろまんちつくな詩の運動は一足飛びに、理論的に象徴派に入つた事になる。それと共に、岩野泡鳴氏の様に、象徴派と自然派とを同時に歩んで居つた者さへある。併しどちらかと言ふと、我国現在総べての詩人の所属してゐるほど盛んな象徴主義も、やはり大なり小なり自然主義を含んで来てゐる。唯、程度の差を以て作品並びに作家の流派を分ける事になつてゐるのではないか。その意味に於て現在口語ばかりによつて、現実の社会生活・政治意識を表現してゐる一群が、象徴派に対する自然派運動を行ふと言ふ外貌を持つてゐると見るべきであらう。此派の詩は、技巧意識を別にしてゐるのだから、自ら文体に特殊な詩情を見せてゐないが、若し、個々の詩語の効果を没却して省みないと言ふ点があつたら反省してよい。合理的な立場から言へば、当然現代語の構造によつて発想してゆく詩が、有望である筈だが、詩の欲する言語・文体は、必しも今経過しながら在る現代語を以て、最上の表現性能を持つたものと考へる訣にはいかない。われ〳〵の詩が、当然未来を対象とせなければならない所に、重点を置いて考へれば、詩に於ては、未来語の開拓発見を疎にしてはならない。古典派である私なども、現在語ばかりを以てする詩の稽古もするが、時としてはさうして出来た作物が、まるで裸虫である様な気のする事がある。おそらく多くの場合、現実の観察や批評に過ぎなくて、それにつゞく未来を、その文体から展き出さうとしてゐない点に、詩の喪失があるのであらう。私の話は、詩語としての古語を肯定した。併しこれは、最近までの歴史上の事実の肯定に過ぎない。そしてつゞいて、詩に於ける現在語並びにその文体を悲観して来た。併しこれは、未来語発想と言ふことを土台として考へる時、もつと意義を持つて来る。単なる現代語は、現代の生活を構成するに適してゐる、と言ふ様な合理論に満足出来ぬのである。未来語の出て来る土台として現在語を考へるのである。未来詩語・未来文体はどうして現れて来るか。これも空想としてやり過したくない。必過去半世紀に渉る日本詩人たちの努力が、無意識ながらさうした方向に向いてゐただらう。それで、その暗示らしいものを生してゆくのが、最正しい道だらう。
こゝに到つて、私は最痛切に悲観した飜訳詩体を意味あるものとして、とりあげねばならなくなつた。飜訳詩を目安として、新しい詩を展示しようとしてゐる詩人たちの努力を無にせずにすむのである。詩の未来文体の模型として、詩人の大半が努力してゐるのが飜訳詩である。原作に対する飜訳者の理会力が、どんな場合にもものを言ふが、その理会が完全に日本語にうつして表現せられた場合は、そこに日本の詩が生れる訣である。「海潮音」に示された上田敏さんの外国詩に対する理会と、日本的な表現力は、多くの象徴詩などをすつかり日本の詩にしてしまつた。
流れの岸の一もとは
み空の色のみづあさぎ
波こと〴〵くくちづけし
波こと〴〵く忘れゆく
われ人と共に、すぐれた訳詩だと賞讃したものであるが、飜訳技術の巧みな事は勿論だが、其所には原詩の色も香も、すつかり日本化せられて残つた憾みが深い。詩の語の持つてゐる国境性を、完全に理会させながら、原詩の意義を会得する事を以てわれ〳〵は足るとしなければならぬ。飜訳せられる対象は、勿論文学であるけれど、飜訳技術は文学である必要はない。飜訳文そのものが文学になる先に、原作の語学的理会と、その国語の個性的な陰翳を没却するものであつてはならない。上田敏さんの技術は感服に堪へぬが、文学を飜訳して、文学を生み出した所に問題がある。われ〳〵は外国詩を理会するための飜訳は別として、今の場合日本の詩の新しい発想法を発見するために、新しい文体を築く手段として、さうした完全な飜訳文の多くを得て、それらの模型によつて、多くの詩を作り、その結果新しい詩を築いて行くと言ふ事を考へてゐるのである。それならば、原詩をそのまゝ模型とするのが正しいと言ふ人もあらうし、私もさうは思ふが、併しそれでは、日本の詩を作るのでなく、その国々の語を以て作る外国詩で、結局日本の詩ではない。
私が、かうした詩語詩体論をする理由は、明治十年度から試みはじめられた詩は、結局新しい未来詩を発見する為の努力であつたはずである。ところがそれを発見する事が出来ず、発見する道程として、積んで来た努力は、一歩々々新しい詩体に近づかうとして、こゝに凡それを捉へる時期に到達したのである。こゝでわれ〳〵の前に横はつてゐるものは、飜訳せられた外国詩の多くであつて、これが日本の詩のおもむくべき方向を示してゐるものと言ふ事に考へ到る訣である。外国詩の内容を内容とするに至つて、外国詩の様式を様式とし、自ら孕まれる内容こそ思ふべきものなのである。
底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「現代詩講座 第二巻」
1950(昭和25)年5月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十五年五月刊「現代詩講座」第二巻」はファイル末の「初出」欄に移しました
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年8月10日作成
2012年12月29日修正
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