古語復活論
折口信夫
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記紀の死語・万葉の古語を復活させて、其に新なる生命を託しようとする、我々の努力を目して、骨董趣味・憬古癖とよりほかに考へることの出来ない人が、まだ〳〵随分とあるやうである。最近には、御歌所派の頭目井上通泰氏が、われ〳〵一派に向うて、暗に攻撃的の態度を示してゐる。これは偶、安易な表現・不透明な観照・散文的な生活に満足してゐる、桂園派の欠陥を曝け出してゐるので、歴史的に存在の価値を失うてゐる人々の、無理会な放言に対して、今更らしく弁難の労をとらうとは思はぬ。唯尠くとも、新芸術を解してゐると思はれる人々の、懐いてゐる惑ひを、開いて置かうと思ふのだ。
軽はづみで、おろそかであることを意味する常識一片の考へから見れば、古語・死語の意義を、字面通りにしか考へることの出来ないのも、無理ではない。而もさうした常識者流の多いのには、実際驚く。殊にひどいのは、自身所謂古語・死語を使ひ乍ら、われ〳〵一派の用語や、表現法を攻撃する無反省な輩である。
われ〳〵は敢へて、古語・死語復活に努めてゐる者なることを明言して憚らない。かういふわたしの語は、決して反語や皮肉ではない。我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。この千幾年来の闖入者が、どれだけ国語の自然的発達を妨げたかといふことは、実際文法家・国語学者の概算以上である。漢字の勢力がまだわれ〳〵の発想法の骨髄まで沁み込んでゐなかつた、平安朝の語彙を見ても、われ〳〵の祖先が、どれ程緻密に表現する言語を有つてゐたかは、粗雑な、概括的な発想ほかすることの出来ない、現代の用語に慣された頭からは、想像のつかない程である。かうした方面に注意を払ひ乍ら、物語類を読んで行くと、度々羨まれ、驚かれる多くの語に逢着する。更に、奈良朝に溯つて見ると、外的な支那崇拝は、頗盛んであつたに係らず、固有の発想法で、自在に分解叙述してゐる。物皆は時代を追うて発達する。唯語ばかりが、此例に洩れて、退化してゐる例は決して少くないのである。単綴・孤立の漢語は、無限に熟語を作ることは出来ても、国民の感情に有機的な吻合を為すことは出来なかつた。散文はともあれ、思想の曲折を尊ぶ律文に、固定的な漢語が、勢力を占めることの出来なかつたのは、この為である。其にも係らず、世間通用の語には、どし〳〵漢字の勢力が拡つて来てゐる。
さすれば、短歌に用ゐられる語は、当然愈減じて来る訣である。其で、此欠陥を埋めるには、どういふ方便に従へばよいか。之を補填するものとして、漢語・口語・新造語・古語を更に多く採り入れるといふことが、胸に浮ぶ。処が漢字・漢語は、熟語を除いては、既に述べたやうな根本の性質上、まづ今の分では、大した結果を予期することは出来ぬ。
口語は極めて有望なものであるが、此迄色々の人に試みられたやうな、無機的なものでなく、単語としてゞなく歌全体が、口語の発想法によつて、律動するやうなものでなくては、多くの場合無意義な努力になつて了ふのである。新造語も亦其通りで、二つの漢字を並べて、無雑作に捏ち上げられたものであつてはならぬ。全体に鳴り響く生命を持つたものでなければならぬ。
古語と口語との発想や変化に就いて、周到な観察をして、其に随応するやうな態度を採るべきである。唯古語を用ゐることについては、一度常識者流の考へに就いて、注意を払ふ必要がある。彼等は、かういふ妄信を擁いてゐる。われ〳〵の時代の言語は、われ〳〵の思想なり、感情なりが、残る隈なく、分解・叙述せられてゐるもので、あらゆる表象は、悉く言語形式を捉へてゐると考へてゐるのである。けれども此は、おほざつぱな空想で、事実、言語以外に喰み出した思想・感情の盛りこぼれは、われ〳〵の持つてゐる語彙の幾倍に上つてゐるか知れない。若し現代の語が、現代人の生活の如何程微細な部分迄も、表象することの出来るものであつたなら、故らに死語や古語を復活させて来る必要はないであらうが、さうでない限りは、更に死語や古語も蘇らさないではゐられない。反対の側から、此事を考へると、はやり語の非常な勢で人の口に上るのは、どうした訣であらう。我々の言語が、現代人の思想感情を残る隈なく表象してゐるものとすれば、はやり語なんかで、新らしく内界を具現する必要はない筈である。而も、われ〳〵の精神内容は、一日百個のはやり語を歓迎するだけの余裕と、渾沌とを残してゐる。又、他の方面から見ると、誰しも口癖を持つてゐないものはなからうが、其人々の精神内容が、何時も一つの言語表象に這入つて来るといふことは、他の理由は別として、我々が、微細な表象の区劃を重んじてゐぬといふことも、明らかに一つの理由でなければならぬ。此から推して見ても、現代の言語が、必しも現代人の心理に随応した総てゞあるといふことは出来ないであらう。其上我々の感情なり、思想なりが、一代毎に忘られて行つて、形さへ止めないものならば格別、実際日本武や万葉人の心は、現在われ〳〵の内にも活きてゐることを、誰が否むことが出来よう。今、古語・死語を用ゐる範囲を最小限度に止めても、尠くとも此心持を表象するに当つては、彼古語・死語を蘇らして、何のさしつかへがあるだらう。
このやうに古典的な心持でなくても、現に我々が日常其内に生きてゐる精神作用も、古語や、死語には緻密に表現せられてゐるに係らず、現代の言語には其表象能力を備へないものが往々ある。其等の内容を現すに、一々新語を造ることの出来ないわれ〳〵は、古人が用ゐ慣し而もわれ〳〵の祖先の生活内容が、一度は盛られて来たことのある言語を用ゐる事に対して、いひ知らぬ誇りと権利とを感じるのである。けれども単に其だけで以て、古語・死語の復活に努めてゐるのでない。われ〳〵は此内容を盛るに最適切な形式を、各時代の語彙の中から求め出さうと思ふのである。
われ〳〵の古語・死語をば復活せしめようと努めるのは、単なる憬古癖を満足せしめる為にするのだと思うてはならぬ。われ〳〵は骨董品に籠つてゐる、幾百年の黴の匂ひを懐しまうとする者ではない。われ〳〵の霊は、往々住すべき家を尋ねあてることが出来なくて、よすがなくさまようてゐることがある。其霊の入るべき殻があるとさへ聞けば、譬ひ幾重の地層の下からでも、其を掘り出さずにはゐられないではないか。妄りに今を信ずる人々よ。おん身らは自己を表現するに忠ならざるより、安じて放言してゐる。現在のわれ〳〵の生活は、現在のわれ〳〵の生きた語によつてのみ表されると。併しわれらの生命の律動には、我々の常に口にする語ばかりに、宿しきれないものがあるのである。
底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「アララギ 第十巻第二号」
1917(大正6)年2月
※底本の題名の下に書かれている「大正六年二月「アララギ」第十巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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