新しい国語教育の方角
折口信夫



     一


私くらゐの若い身で、こんな事を申すのは、大層口はゞつたい様で、気恥しくもなるのですが、記者の方の設問が、私の考へ癖に這入つて来ましたので、遠慮ないところを申しあげます。

私などがまづ、今の世間では、一番正当に国学者の伝統を承けた若者と言はゞ言へる人間なのでせう。私の教室でする講義ぶりや表出などを反省して見ましても、亡くなられた恩師三矢重松先生の俤が、あり〳〵自分の内に生きてゐるのに驚かれます。其に、私の最若い時分の頭を支配せられた先生は、敷田年治翁の子飼ひのお弟子だつた亀島三千丸と言ふ方でした。

私どもと同時代の若い文学者の方々と比べて、心の上にある自由が失はれてゐることは、私自身にもわかります。其と共に、ある誇りを感じてゐる点も、理会の進んだ国語教育者諸君に、認容して頂ける事と存じます。幸に私は、大阪の場末に育ちました。書物の廉い時世に、わりに窮迫せない中学時代を過しました。帝国文庫などは、かうした少年の古典欲──とでも申しませうか──には恰好のものでした。柔弱な私には、「太平記」や「盛衰記」などよりも、近松物、種彦物などが親しまれました。一方「少国民」「少年世界」に飽いても、四角ばつた「少年文集」や「中学世界」などを毛嫌ひした私は、兄や父のとつて居た「文庫」、「太陽」などの盗み読みを楽しみました。

今の中学の様子からは、空想も出来ない話ですが、その頃二年上級の友人に恐しく早熟な読書家がありました。源氏物語も尠くとも、「須磨源氏」位の習得は持つて居た様です。其うへ、なか〳〵の雑書読みで、江戸の軟らかな物は元より、支那小説の類までも知つて居るのでした。昼の休みなどに、運動場の隅に此友人を真中に、小さな輪をつくつて耳を欹てた私たちの若い顔のほてりや、心の動きを回想する事が出来ます。

源氏の、空蝉と軒端の荻とに動揺する両様の心持ちなどは、たいした誤解なく説明して聞かされた事を覚えて居ます。又、うぢ〳〵顔もえ挙げないで、「覚後禅」の梗概に耳傾けた自分を思ひ出さずには居られません。

かうした先輩を持つた私の読書欲が、ませない訳はありません。乱読の傾向は、益々激しくなつて行くばかりでした。併し此が後々、王朝以前の書物以外を顧る事の出来なくなつてからの私に、どれだけ役に立つてくれてゐるか訣らないのです。

中学二年の時に父をいたぶつて大判の言海を買うて貰うて戻つた車の上の、ゑましい気分が思ひ出されます。その後一年目に河内へ嫁入つて居た姉の藪入りの時に、万葉集略解の四六判の洋本をゆすり得た時の気分も、まだあり〳〵と残つてゐます。

其後私の生活気分の底に万葉読みから浸み出たものが、ちび〳〵こびりついて来たのではないかと思ひます。

        ○

而も飽くまで幸福であつた私は、此等の乱読を整理する根本原理の様なものを、とり込む事が出来てゐました。其は、中学三年頃に死に別れた友人が、高等小学時代に私の何の本かと交換してくれた落合、小中村両氏の新撰日本外史並びに、四季に配当した表題の少年日本歴史とでも言ひましたか、雅文体の物から出てゐる様であります。だから、私は段々普通の書物好みから遠ざかつて行つた様です。「日本書紀葦牙アシカビ」と言ふ本を天王寺の古本屋から見つけて来て、神代の神の名をすつかり諳誦してしまひました。まるで小さい語部カタリベの様な姿です。医者だつた父は医者になれと殆ど遺言と申す事も出来るほど、死に際まで申して居ました。でも卒業した時は、母・叔母などを泣かしても、やつぱり文学をすると主張しました。而も私のは、二重の難関を通りぬけねばなりませんでした。文学をやるなら、第三高等学校へ行けと、やつと言ひ出してくれた叔母を更に失望させねばなりませんでした。其は、どうしても国学院へ這入らねばならないと言ふ不思議な決心を持つて居たからです。国文学を整理するものとしての、ある思想系統を漠然と掴んでゐた訳なのです。

私の歩んだ道が、私以外の人々にも正しいものとまで自信を持つてゐるのではありません。併しながら、私の考へ方は、この筋道に沿うて、出て来るものより外にはないはずです。


     二


私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。

この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発カイホツするものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。

たとへば、優れた芸術家が、一人でも先輩或は、周囲の影響を受けないで、偉大な個性に目醒めたといふ例がありませうか。教育は畢竟、個性を芽生えさせる所に意味がある筈です。併しその上に、その個性に、ある進路を与へることがなくては、教育者自身の存在は意味がなくなります。強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです。

世の中に固定を恐るべきものは、教育家が第一であると致さねばなりません。一歩停まれば、被教育者から殺されるものとの覚悟がいります。だから、常に足を止めることが出来ないのです。この間の消息は、合同教育、連帯訓化の今の世では、忘れられてゐるのです。昔の塾教育に比べて、今の学校教育の呪はれがちなのは、教育者の人物に由ることは勿論ですが、教育者の責任の軽くなつたのにも、原因はあります。

神授の物を授けてはならないと言つて、旧信仰の忘れ形身の様な個性尊重説の下に動きのとれなくなつてゐる教育家は、実は自身の個性に信頼が出来ないのです。自身侮り、卑下して居て、個性の戦争などに思ひの及ぶはずもありません。教育は職業になりました。合同作業になりました。被教育者の個性の征服は勿論、教育者同士の間にも、もつと妥協態度を棄てる必要がありはしませんか。お互の教育効果を減殺する事を気にするより先に、影響の強さを競ふつもりになつて欲しいものです。競争の成心なく、自然に揉み合ひ、凌ぎあひの行はれるのを理想とします。

国語教育を受け持つ者が、何の為に英語や、数学や博物の教師と協調して行く必要がありませう。思ふ存分に力を伸べてこそ、真の効果は生じるのです。被教育者の能力は、教育者の空想する程貧弱なものではありません。各学科その効果を争ふ必要があります。国語科の先生は、常に、不生産的な学科だと言つた自覚に尻ごみして、けなされ勝ちになつて居ます。此は教育の目的を、功利的に考へてゐるからの自卑です。どうもやつぱり、読み書きに国語教育の本旨があると考へる人が多い様なのは困ります。だから、国語教育の上に大事のめどとせられねばならぬ箇条が顧みられないでゐるのです。


     三


国語教育者の口から聞けさうな事で、一度も聞いた事のないのは、「造語能力」に関した問題です。我々の責任の属してゐる明治以後の社会が果してどれほど自由な造語、発想法を発明しましたか。私どもの祖先のどの時代に対しても、実際恥がましく思はれるのは、此点です。明治大正の学者ぶり、高尚がる風潮が、どんなに軽便主義と握手して、造語、発想能力を鈍らした事でせう。陸海軍の人々が、生硬な音覚を喜ぶ様なのは問題外です。世間普通の人々が、皆単綴語の漢字をくつつけ合せて、言語に対する生みの苦しみをしないのはどうしたものでせう。造語能力・発想能力の後ずさりした今の世間を、国語教育者は何と眺めて居るのでせう。学術語ならば、ぐりいくらてんの語尾を曲げる様に、漢字の継ぎ合せでも間にあはせられませう。我々の感情は、思想は、そんな早幕の借り物手段で、ぴつたりした落ちつきを得るものでせうか。言語と言ふものは、形が出来れば、自然に内容の整つて来るといふ病処のあるものです。だから、どんな所謂ちよくな語にでも、相当な中身は段々出来て来ます。私どもは其に満足してゐる様な姿なのです。本来が本来だけに、浅く脆いさく〳〵した語ばかりを、明治大正の私どもは造りました。どつしりした語、しなやかな言ひ表し方、品のよい言語情調などが、どこにありませう。新聞を見ても、雑誌を見ても、私どもの語は浅ましく陳列せられて居ります。学校にも、街頭にも、電車の中にも、傍田舎カタヰナカの寄り合ひにも、使はれてゐる語は、皆ぎしやばつた形式の、空疎な内容のものです。造語の責任感の乏しい新聞記者が、やたらとむづかしくて、げびて、とげ〳〵しい語を製造します。役人は役人で、まだ漢語を使ふ事が官吏の気品を示す所以だと言つた、妙な階級意識を失はないで居ます。其為、郡・村・大字の爺・婆・子どもまでが、ぎごちない、徒らにひねくれた音覚を持つ語を喜んで使ひます。

べうほ(苗圃)をうくわい(迂回)して行きや、ぢつきせいはん(製板小屋)が見えるがのし」

此は、五十恰好の木樵りが大台ヶ原の山中で、道を教へてくれた時の語です。国語教育家は前代の人々に対して、どう申しわけがあると思ふのでせう。私は、国語調査会の事業が、なぜ此方面に伸びて行かないのかを訝しみます。漢字制限の申し合せは、確かによい結果を生みませう。併し、責任者自身すぐに実行にうつらないのはどうした事なのです。新聞記者は、気移り目移りの早い人々です。今暫らくは、むづかしい字を仮名に改めるしち面倒を堪へて居てもぢきに元に戻ります。世間は、誰も仮名で隈なく表される語を使はうとはしないのですもの。

仮名づかひの為に、時間を空費する事も、心配は心配ですが、でも、此方に比べれば、消極的の事です。私どもの祖先からの語は、どん〳〵死語として、辞書の鬼籍に入つて行きます。其に替るものが、どし〳〵漢字典から掘り出されてくる木乃伊であるのをどう見てゐるのでせう。稀に国語的発想に従つたものも、徳川時代の色町から出た語よりも、すさんだ気持ちを持つてゐるのは情ないなあと言つた詠歎だけではすまされない、積極の努力を要する問題です。

国語の運命を支配する位置にゐる官庁や、団体が、見てくれのはでやかさを喜ぶ傾向のあるのは、国民生活を思ふ人の為事としては、寂しすぎる事ではありませんか。

近年盛んになつた芸術教育は結構な事です。けれども、どれだけの自覚から出てゐるかになると、甚しく気が細ります。芸術教育の国民生活に滋味を与へる事が、造語能力の増進と言ふ処まで伸びなければ、嘘だと思ひます。

略語発想を例にとつて見ませう。昔なら、商工業の人々が、近江屋六兵衛だから近六、大工の金蔵だから、てんぷら屋の五作だから、大金・天五と言ふ類のものはありました。けれども、士君子と言つた意識を持つた人々からは、見さげられてゐた称へなのです。だから、水野越前守をば「水越」と呼ぶ事に、極端な憎悪と侮蔑とを吹き込めて居たのでした。其がどうでせう。帝展・院展・帝大・一高などはまだよい方です。満鉄などは、若い人には、其が南満洲鉄道の略語と言ふ事すらも見当がつかなくなつて居るやうなあり様なのです。此国民的悪癖は、どうしても矯正せねばなりません。見た目から出た略語で、口から生れたものではないのです。目を主とするから、さうした事が出来るので、正しい略語発想によるなら、語頭に近い音綴ほど大切にするはずです。おしろいなどは其一例です。しろいものゝ略語なのは、言ふまでもない事です。暖簾の屋号からわり出した呼び方の類とは違ひます。

何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません。語を崩して新しい語を拵へて行く場合だつて、もつと芸術式に、もつと最奥処から出て来てほしいものです。


(この話は、これでは結着しません。をりを見て、後を書きつぎたいと思ひます。)

底本:「折口信夫全集 12」中央公論社

   1996(平成8)年325日初版発行

初出:「教育論叢 第十三巻第五号」

   1925(大正14)年5

※底本の題名の下に書かれている「大正十四年五月「教育論叢」第十三巻第五号」はファイル末の「初出」欄に移しました

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年411日作成

青空文庫作成ファイル:

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