「とこよ」と「まれびと」と
折口信夫
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稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびとと言ひ、其屈折がまらひと・まらうどとなると言ふ風に考へて居るのが、従来の語原説である。近世風に見れば、適切なものと言はれる。併し古代人の持つて居た用語例は、此語原の含蓄を拡げなくては、釈かれない。
とこよの国から来ると言ふ鳥を、なぜ雁のまれびとと称へたか。人に比喩したものと簡単に説明してすむ事ではない。常世の国から来るものをまれびとと呼んだ民間伝承の雁の上にも及んだものと考へられるのである。
古代の社会生活には、我々の時代生活から類推の出来ない事が多い。我々は「わいへんは」の曲や、「珠敷かましを」の宴歌を見ても、明治大正の生活の規範に入れて考へる。社会階級の高い者から低い者を訪問する事を、不思議と感じる事の薄らいで来た、近代とは替つた昔の事である。武家時代に入つて、貴人の訪問が、配下・家人に対する信頼と殊遇とを表現する手段となり、其が日常生活の倦怠を紛す享楽の意味に変化したよりも、更に古い時代の事実である。臣下の家に天子の行幸ある様な事は、朝覲行幸の意味を拡充したものであつて、其すら屡せられるべき事ではなかつたのである。非公式でも、皇族の訪問は虔まねばならぬ事であつた。古代ほど王民相近い様に見えて、而もかうした点では制約があつたのである。
我が国の民間伝承を基礎として、Cupid and psyche type(我が三輪山神婚説話型に当る)の神話を解すれば、神に近い人としての求婚法が、一つの要素になつて居るといふ事も出来る。
まれと言ふ語の用語例が、まだ今日の様な緩くなかつた江戸期の学者すら、まれびとを唯珍客と見て、一種の誇張修飾と感じて居たのが、現代の人々の言語情調を鈍らしたのである。
まれは珍重尊貴の義のうづよりも、更に数量時の少い事を示す語である。「唯一」「孤独」などの用語例にはいる様である。「年にまれなる人も待ちけり」など言ふ表現で見ると、まれびとの用法は弛んでゐる様に見えるが、尚「年にまれなり」と言ふ概念には、近代人には起り易くないまれを尊重する心持ちが見える。
軽薄者流を以てある点自任した作者自身、やつぱり「年にまれなる訪問」と言ふ民間伝承式の考へ方を、頓才問答の間に現してゐるのは、民族記憶の力でなければならぬ。おなじ恋愛味は持つて居ても、「わいへん」の方は空想である。民謡に歓ばれる誇張と架空と無雑作と包まれた性欲とが、ある自信ある期待を謳ひ上げて居る。此は物語で養はれた考へから、稀にはあり得る事と思うてゐた為であらう。まれびとの用語例にぴつたりはまるのは、かうして獲た壻ざねでなければならぬ。私は此も本義に於ける「まれ人」を待つ心の一変形だと考へてゐる。
年にまれなおとづれ人を待ち得ぬ我々は、「庭にも やどにも、珠敷かましを」を単なる追従口と看過し易い。此は誇張でもない。支那風模倣でもない。昔の「まれびと」に対しての考へ方を、子孫の代の珍客に移したのに過ぎぬのである。
まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。(大空から)或は海のあなたから、ある村に限つて富みと齢とその他若干の幸福とを齎して来るものと、その村々の人々が信じてゐた神の事なのである。此神は、空想に止らなかつた。古代の人々は、屋の戸を神の押ぶるおとづれと聞いた。おとづるなる動詞が訪問の意を持つ事になつたのは、本義音を立てるが、戸の音にのみ聯想が偏倚したからの事で、神の「ほと〳〵」と叩いて来臨を示した処から出たものと思ふ。戸を叩く事について深い信仰と、聯想とを持つて来た民間生活からおしてさう信じる。宮廷に於いてさへ、神来臨して門を叩く事実は、毎年くり返されて居た。
其神の常在る国を、大空に観じては高天个原と言ひ、海のあなたと考へる村人は、常世の国と名づけて居た。
高天个原は、曾て宮廷の祖神にゝぎの─みことが、其処を離れて此土に移つたものとして、唯一度ぎり、神降臨の行はれた天上の聖地と考へられてゐる。ところが其は、信仰上の事実と、其の固定した部分との間に生じた、矛盾のある歴史化した合理的解釈であつたのである。
五伴緒と称した宮廷祭祀の、専属職業団体の高天个原以来の本縁を語ると共に、宮廷の祖神も此時に降られ、天地の交通は大体疎隔せられた様に説いてゐる。併しながら、固定せないでゐる部分は、後代までも天子一代毎に代つて降臨せられるものと信じてゐた。是れが日のみ子なる語のある訣である。而も合理化した歴史と歩調をあはせる処から、日のみ子とすめみまの─みことが、一つ文章に出て来ても顧みないで居る。一つは、奈良時代に入つてから、歴史上の事情は信ずべきものであるとすると共に、信念として、歴代天子降臨・昇天の事実があると二つに分けて考へるだけの、理知の世の中になつてゐたのだとも言はれよう。
記・紀・万葉のみに拠るならば、日のみ子の現れ継ぎは、歴史から生れた尊崇の絶対表現だと言はれよう。祝詞を透して見た古代信仰では、前者が後の合理観で、後者が正しいものと言はねばならぬ事になる。(詳しくは「あきつ神」の論の部に譲りたい。)
かうして、にゝぎの─みことの天降りを唯一度あつた史実とした為に、高天个原は、代々の実際生活とは交渉のない史上の聖地となつて行つた。村々の中、大空を神の居る処としたものは多かつたに違いないが、此地を示す標準語固定の後は、我々に残された書類では、「常世の国」が、邑落生活の運命を左右する神の住み処と見られて行く傾きになつたものであらう。
藤原京に於いて既に、一部の人が「常世」に仙山の内容を持たしかけてゐる。此は帰化民の将来して、具体化しはじめた道教の影響である。而も純な形は、年月を経ても残つてゐた。大伴ノ坂上ノ郎女の別れを惜しむ娘を諭して「常夜にもわが行かなくに」と言うてゐるのは、後世の用語例をも持ちながら、原義を忘れて居ない様である。宣長は三つの解釈の中、冥土・黄泉など言ふ意に見て、常闇の国と言ふ意味に入れて説いてゐる。此などは、海のあなたの国といふ意にも説けるから、字面の常夜にのみ信頼しては居られない。だが、「常世行く」と言ふ──恐らく意義は無反省に、語部の口にくり返されて居たと思はれる──成語は、確かに常闇の夜の状態が続くと言ふ事に疑ひがない。此「常夜」は、ある国土の名と考へられて居なかつたやうであるが、此語の語原だけは訣るのである。さうすると、常世の国は古くは理想の国土とばかりも言はれなかつた事になり相である。
とこは絶対の意の語根で、空間にも時間にも、「どこ〴〵までも」の義を持つてゐる。常夜は常なる闇より、絶対の闇なのである。
我が祖先の主な部分と、極めて深い関係を持ち、さうしてその古代の習俗を今に止めてゐる歌の多い沖縄県の島々では、天国をおぼつかぐらと言ふ。海のあなたの楽土をにらいかない(又、ぎらいかない・じらいかないなど)又まやのくにと呼ぶ。こゝでも、おぼつかぐらは民間生活には交渉がなくなつて居るが、にらいかないはまだ多く使うてゐる。而も其儀来河内は、また禍の国でもある様子は見える。蚤は、時を定めてにらいかないから麦稈の船に麦稈の棹さして此地に来るといふ。おなじ語の方言なるにいる(又、にいる底)を使うてゐる先島の八重山の石垣及びその離島々では、語原を「那落」に聯想して説明してゐる程、恐るべき処と考へてゐる。洞窟の中から通ふ底の世界と信じてゐる。其洞から、「にいるびと」と言ふ鬼の様な二体の巨人が出て来て、成年式を行ふ事になつてゐる。神として恐れ敬うて、命ぜられる儘に苦行をする。而も、村人の群集してゐる前に現れて、自身舞踊をもし、新しい若衆たちにもさせる。又、他の村では、「まやの神」が、農業の始めに村に渡つて来て、家々を訪れて、今年の農業の事その他、家人の心をひき立てる様な詞をのべて廻る。かうした神々の外に、家の神としてゐる祖先の霊が、盂蘭盆に出て来る村もある。あんがまあと呼ぶ。男の祖先と女の祖先(此を祖父・祖母といふ)とが眷属を連れて招かれた家々に行つて、楽器を奏し芸尽しなどをするが、大人前が時々立つて、色々な教訓を家人に与へ、又従来の過・手落ちを咎めたりする。此三通りの常世のまれびとが、一つの石垣島の中に備つてゐる。
神の属性の純化せない時代の儘の姿である。あんがまあは語原不明だが、類例から見れば、やはり信仰上の地名であらう。此人々の出て来る処は、理想の国ではない。唯祝福と懲戒の責任と権利とを持つた一種の神が、人間の国土の外から来る訣なのである。にいる人の場合も同様で、村の中堅たる若衆を組織し、一つの信仰を土台として、新しい人の手で古い村の生活を古い儘に伝へて行かせようとするのである。此も神とも鬼ともつかぬ人間の都合よい事ばかりを計る者ではない。其国は、蚤の来る国如き手ぬるい禍を持つた好しい聖地ではない様である。
蚤の乗る船の事は、正月の宝船の古い形式・奥州の佞武多などゝ一つ思想から来たものなのだ。寝牀の悪虫や、農家の坐職に妨げする(──併し、古くは、夜ざとく睡つて、災害を免れる為の呪ひであつたらうと思ふ──)睡魔を船に流して、海のあなたに放逐するつもりであつた。だから、沖縄とは正反対になつて居るが、海阪の彼方には、神でもあり、悪魔でもある所のものの国があると考へたのが、最初なのだ。我が国で見ても、幽界と言ふ語の内容は、単に神の住みかと言ふだけではない。悪魔の世界といふ意義も含んでゐる。幽界に存在する者の性質は、一致する点が多い。其著しい点は、神魔共に夜の世界に属する事で、鶏鳴と共に、顕界に交替する事である。民譚に屡出る魔類と鶏鳴との関係は固より、尊貴な神々の祭りすら、中心行事は夜半鶏鳴以前ときまつてゐる。此で見ても、わが国の神々の属性にも、存外古い種を残してゐたので、太陽神の祭りにすら、暁には神上げをしなければならなかつた位であつた。
古代程神に恐るべき分子を多く観じたが、海のあなたから来る神には、地物の精霊とは別で、単に祟り神としての「媚び仕へ」ばかりでなく、邑人に好意を寄せるものとして迎へる部分があつた。だから、神の中に善神の考へ出されるのは、常在する地物の神にはない事で、時を定めて常に新しく来り臨む神の上からはじまるものと見るべきであらう。但し、海のあなたの神の国から来る神も、必しも一村に一神とはきまつて居なかつた様である。が、大体ある村にきまつた「常世の神」は一体或は、一群だつたのであらう。村々の信仰が「常世の神」或は大空の神(──宮廷の言ひ方では高天个原──)に、主神と見るべきものを考へて来ると、段々主神に倫理的の性質を考へて来る。併しさうした神たちも怒りを発して祟られる事はあるのである。常世神が後世地方々々の神社の神となつたとは言はれない。神の属性を高める事はする。其上、神の殿に神の常在せぬと言ふ観念を、地物の神の殿にまで及すまでに、力強く働きかけてゐる。にも拘らず、明らかに一処に常在せぬ、臨時にこひおろす事の出来ぬ事は、此種の神が存外神殿に祀られてゐない一つの理由であるが、ほかにも、訣がある。
邑人全体の自由祭祀によつて、村の中堅なる年齢の若衆が、共同に神職である為、素質の優れた者が、宗教的自覚を発する事が起る。神職の中、一人だけ一生交替せぬ上位の者として、常任する。かうして専門化すると、常世から定期に渡る神以外にも、色々の神の啓示を受ける事になる。此が一つ。此種の自覚者が、常住其意を問ふ事の出来る神が定まつて来ると、其神力を以て邑落生活の方針を訓へる事になる。其が、我々の想像を超越した時代の村々には、君主としての位置を持つて来る。さうなると、其神は、必しも邑人の共同に待ち迎へる常世の神と違ふ事が多かつたであらう。此が理由の二つ。世の中が進むと、共同神職なる青年が、自分自身に近い神を軽く見、次第に此神の神秘の内容を熟知するに連れて、其神に対する畏れは持つてゐても、更に新な神が出れば、含蓄の知れぬ神の方に心の傾くのは、当然であらう。其処へ、新神が出ると、此神の祭りは、第一番の地位を失ふ事になる。第三の理由である。
石垣島の話で言ひ残した「まやの神」に現れたまやの国の考へは、理想の国土としての意味になつて居る。此まやの神の行事は、若衆のする事である。成年式を経た若衆が、厳重な秘密の下に、簑笠を着、顔を蒲葵の葉で隠して、神の声色を使うて家々を廻るのである。海のあなたから渡来した神に扮して居る訣である。村人も此秘密の大体には通じて居ながら、尚仮装したまやの神なる若衆の気分と同様、遊戯の分子は少しも交らぬ神聖な感激に入る事が出来るといふ。併し、段々厳粛な神秘の制約が緩んで来ると、単なる年中行事として意味は忘れられ、唯戸におとづれる音ばかりを模して、「ほと〳〵」など言うて歩く。徒然草の四季の段の末の「東ではまだすることであつた」と都には既に廃れた事を書いた家の戸を叩いて廻る大晦日の夜の為来りが、今も地方々々には残つて居る。此は、柳田国男先生が既に書かれた事である。
常世の国は、我が記録の上の普通の用法では、常闇の国ではない。光明的な富みと齢の国であつた。奈良朝になると、信仰の対象なる事を忘れ実在の国の事として、わが国の内に、こゝと推し当てゝ誇る風が出て来た様である。常陸を常世の国だとしたのも其一例である。唯海外に常世を考へる事は、其から見れば自然である。田道間守がときじくの─かぐのこのみを採りに行つたと伝へのある南方支那と思はれる地方は、かくの如き木の実の実る富みの国であつたのだ。けれど、此史実と思はれる事柄にも、民譚の匂ひがある。垂仁天皇の命で出向いたのに、還つて見れば待ち歓ばれる天子崩御の後であつたと言ふのは、理に於て不合な点はないが、此は常世の国と我々の住む国との時間の基準が違うて居る他界観念から出来た民譚の世界的類型に入るべきものが、かう言ふ形をとつたと見る事も出来る。浦島ノ子の行つたのも、常世の国である。此は驚くべき時間の相違を見せてゐる。而も、海のあなたの国と言ふ点では一つである。此話は、飛鳥の都の末には、既に纏つてゐたものらしいが、既にわたつみの宮と常世とを一つにしてゐる。海底と海の彼方とに区別を考へないのは、富みと齢との理想国と見たからだらう。
常世を一層理想化するに到つたのは、藤原京頃からと思はれる。道教の信者の空想する所は、不死・常成の国であつた。其上、支那持ち越しの通俗道教では、仙境を恋愛の浄土と説くものが多かつた。我が国の海の中の国に、恋愛の結びついたほをりの─みことの神話がある。此が、浦島子の民譚と酷似して居るに拘らず違うてゐるのは、時間観念に彼此両土に相違のない事である。常世の国と言はれた海のあなたの国の中には、わたつみの国を容れなかつた時代があるのかとも考へる。けれども富みの方では、大いに常世らしい様子を備へてゐる。海驢の皮を重ねて居る王宮の様などに、憧れ心地が仄めいて居る。歓楽の国に居て、大き吐息一つしたと言ふのは、浦島子にもある形で、実在を信じた万葉人は、「おぞや此君」と羨み嗤ひを洩すのであらう。ほをりの─みことの帰りしなに、わたつみの神の訓へた呪言「此針や、おぼち・すゝち・まぢゝ・うるち」と言ふのは、おぼは茫漠・鬱屈の意の語根だから此鈎でつりあげる物は、ぼんやりだと言ふ意と思はれる。うるは愚かの語根だから、鈍をつり出す鈎だと言ふ説が当る。まぢゝのまぢはまづしの語根だから、日本紀の本註にもある通り、貧窮之本になる鈎だと説いてよい。(すゝはまだ合点が行かぬ)する事なす事、手違ひになつて、物に不足する様になるとの呪咀を鈎にこめる事を教へたのである。貧窮を人に与へる事の出来る詞を授ける王の居る土地だから、富みに就いても如意の国土と考へる事は出来る。皇極天皇の朝、秦ノ川勝が世人から謳はれた「神とも神と聞え来る常世の神」を懲罰した事件も、本体は桑の木の虫に過ぎないものに関して居た。此神も突発的に駿河に現れてゐるが、やはり海のあなたから渡来したものと信じられて居たのであらう。其はどうでも、常世の神の神たる富みを、農桑の上に与へた神であつたのである。
一体よと言ふ語は、古くは穀物或は米を斥したものと思はれる。後には米の稔りを言ふ様になつた。としといふ語が米又は穀物の義から出て年を表す事になつたと見る方が、正しい様であるとおなじく、同義語なる「よ」が、齢・世など言ふ義を分化したものと見られる。更に「よ」と言ふ形に、「性欲」「性関係」と言ふ義を持つたものがある。此は別殊の語原から出てゐるのか知れないが、多少関係があるから挙げる。
常世を齢の長い意に使うてゐる例は沢山にある。私の考へでは、常世を長命の国と考へたのは、道教の影響かと思ふのであるが、常世の国を表す用語例の外に、長命の老人をさして、直に「とこよ」と言ふ例もある。だが、昔見たより若返つて見える人を「常世の国に住みけらし」と讃美した様な言ひ方もある。記紀の古い処にあるから其程も古いものとは言はれまい。大体長寿者のとこよは、常世の国の意義が絶対の齢即不死の寿命と言ふ意に固定してから岐れたものと見るが正しからう。
今一歩進めれば、常世が恋愛の浄土と考へられるのは、支那民譚の影響もあらうが、内容には、巫女が人間と婚する事実の民譚化した女神の、凡俗で唯倖運であつた男を誘うた在来の話が這入つて居る。外側からは、よなる語の性欲的な意義を持つたものゝ出て来た為に、内容側の結合が遂げられて、「永遠の情欲」の国を考へ出したのではあるまいか。此意義の「よ」の側だけは、稍論理を辿り過ぎたかの不安を自ら持つてゐる。とこよなる語だけの歴史と思はれるものは、右のとほりである。
海のあなたの「死の島」の観念が、段々抽象的になつて幽界と言つた神と精霊の国と考へられる。其が一段の変化を経ると、最初の印象は全然失はないまでも、古代人としての理想を極度に負うた国土と考へる様になつたのである。かうした考へ方の基礎は、水葬の印象から来る。わが国に於いても、尠くとも出雲人の上には、其痕跡が見えてゐる。水葬した人々のゐる国土を海のあなたに考へ、その国に対する恐れが、常夜・根の国を形づくる様になつた。其と共に現し身にとつては恐しいが、常にある親しみを持たれてゐると期待の出来る此幽り身の人々が、恩寵の来訪をすると思ふ様になつたのである。だから此稀人に対する感情は単純な憧憬や懐しみではない。必其土台には深い畏怖がある。かうなると、常世の国が二つの性質を持つて、時には一つ、又ある時には二つにも分けられて来る。「常世」と「根」との対立がこれだ。信仰系統の整理がついてからは、村々の生活に根柢的の関係を持つ常世神は、段々疎外せられ、性質も忘却と共に変つて来た。大体平安朝末から文献に見えるあらえびすなる語は、此常世神の其時代に於いて達した、極度の変化を示すと共に、近代に向うて展開すべき信仰の萌しをも見せてゐる。「夷三郎殿」などゝ言はれた「えびす」神は、実は常世神の異教視せられた名であつた。異教から稀にのみ来る恐るべき神という属性は、東人その他を表す語なる「えびす」に当てはまつてゐた。「あらえびす」の「荒」の要素が忘られて来て、常住笑みさかえる愛敬の神となつたのは、今一度常世神の昔に返つた訣なのである。「えびす」神信仰の内容を分解すれば、すぐ知れる事である。蛭子でもあり、少彦名でもあり、乃至は大国主・事代主の要素をも備へてゐて、而も其だけでは、説明のしきれないものがある。其は「まれびと」として、「あら」と言ふ修飾語を冠るに適当な神として、また単に漁業の神に限らないと言ふ点等に於いてゞある。
近世の庶民生活に、正月に家々に臨む年神を「若えびす」として居るものが多く、又年神を別に祀りながら尚旦「若えびす」を迎へる風のある如きは、常世神の異訳せられた名称なる事を明らかにしてゐる。其上地方によつて、今も神主なく、何神とも知れず、唯古来からの伝承として、ある無名の神の為と言ふ様な心持ちを表す場合には、「えびす」を以て代表させる風がある様である。此も日本神学以前の神で、その系統外に逸した神なる事を示してゐる。
常世に対して「根の国底の国」を考へ、其を地下那落にあるものと見る事になつたのは、葬法の変化からも来てゐるが、主としては常世と区別する為であり、又常世を浄化して天上に移す様になつてからの事である。醇化を遂げた神の住みかなる天上は、些の精霊臭をもまじへなかつた。そこには「死の島」の思想は印象を止めなかつた。天上を考へ出す順序としては、柳田国男先生の常に説かれる水平線の彼方を空とし、海から来る神をも天上から降つたものと見るとせられるのと反対に、海のあなたの存在の考へが、雲居の方、即天つ空の地を想定する事になつたと思ふ。尤、此には、天を以て神の常在地とする民族の考へ方の影響の交つてゐる事は勿論である。さうなつても、唯「日のみ子」に限つては、「死の島」を高天个原に持つ事が出来たのである。
私の考へでは、高天个原と常世とを持つ民族の混淆もあらうが、主としては海岸から広つた民族として常世をまづ考へてゐたものとし、其が高天个原を案出する事になつたのだとするのである。
常世は富み・齢・恋の国であると共に、魂の国であつた。人々の祖々の魂は常世の国に充ちてゐるものとした。其故に其魂が鳥に化し、時としては鳥に持ち搬ばれて、此土に来るものと考へられた。此が白鳥処女・白鳥騎士民譚世界的類型の基礎である。
我々の祖先は、時を期して来る渡り鳥に一種の神秘を感得した。其が大きな鳥であり、色彩に異なる所があると、更に信を増した。「たづ」と言はれる大鳥の中、全身純白な鵠は、殊に此意味を深く感ぜられてゐる。白鳥は、鵠をはじめとして、鶴・鷺に至るまで、元は常世から来る神と見たのが、後遅く神使と見られて来たのは此故である。併しながら、渡り鳥の中殊に目を惹くのは、大群をなして来る雁である。雁を常世のまれびとゝ感じたのは、単に一時の創作ではなかつたのである。それで白鳥の富みを将来した話は、若干ある。豊後風土記の白鳥の飛んで来たのを見にやると、餅になつた。かと見る中再、芋数千株になつた。天子之を讃へて、天之瑞物・国の豊草と言はれたので、豊国といふ事になつたとある。白鳥と色々な物とが、互になり替る話が随分とある。餅が鳥になつた件は豊後風土記と山城風土記逸文とにある。宮古島旧記に拠ると、甘露壺が白鳥となつて空を行つた。此は富みの神であつて、主人が物忌みして待つて居ると、大世(穀物)積美船即宝船が来り向うたとある。八重山にも白鳥を神として見てゐる例が多い。内地ではやまとたけるの白鳥に化した話は単純な方で、今昔物語では、妻女が弓に化し、更に白鳥に化してゐる。此は神と人と物との間に自在融通するものと考へて居たからであらう。が、鳥になり、人になりしてもまれ人と言ふ点に違ひなく、其が富みのしるしの草や、餅になる道筋も、新しい富みが常世から来るものとせられてゐた事を考へれば解釈がつく。
富み草と言ふ物を米に限る事は出来ないが、此も鳥の啄み来るものと考へてゐたらしい。常世の鳥でなくとも、雲雀が「天」に到つて齎すものと思うたのであらう。
おなじ「常世」を冠した鳥の中にも、「常世の長鳴き鳥」なる類だけは、海のあなたから来た長鳴きに特徴を持つた鳥といふのではなく、常世へ帰る神を完全に還るまで鳴きとほす鳥といふ意かと、今は考へてゐる。
邑落生活に於ける原始信仰は、神学が組織せられ、倫理化せられ、神殿を固定する様になつても、其と併んで、多少の俤は残らない地方はない程根強いものであつた。
常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之にまれびとと命けた。思ふに「まれびと」は、数人の扮装した「神」が村内を巡行する形になつて居るのが普通であるが、成年者の人員が戸数だけあつたものとして、家毎に迎へ入れられて一夜泊つたものと思はれる。さうして其家の処女或は主婦は、神の杖代として一夜は神と起臥を共にする。扮装神の態度から神秘の破れる事の多い為に、「神」となる者の数が減り、家毎に泊る事はなくなつたのであらう。だから邑落生活に於ける女性は、悉く巫女としての資格を持つてゐなければならなかつた。
巫女の資格の第一は「神の妻」となり得るか如何と言ふ事である。村の処女は必神の嫁として神に仕へて後、人の妻となる事が許されたのである。後期王朝初頭に於いて、民間に設ける事を禁じた采女制度は、古くは宮廷同様国々の豪族の上にも行はれた事なのである。邑落々々の現神なる豪族が神としての資格を以て、村のすべての処女を見る事の出来た風が、文化の進んだ世にも残つてゐたのだ。数多の常世神が、一つの神となつて、神々に仕へた処女を、現神一人が見る事に改まつて来たのである。而も、明らかに大きな現神を戴かなかつた島々・山間では、今に尚俤の窺はれる程、近い昔まで処女の貞操は、まづ常世神に献ずるものとして居たのである。初夜権の存在は、采女制度の時代から現代まで続いてゐると見てよい。「女」になるはじめに、此式を経る事もある。裳着は成女となる儀式である。形式だけだが、宮廷にすら、平安中期まで、之を存してゐた。
神の常任が神主の常任であると共に、巫女も大体に於いて常任せられ、初夜の風習も単なる伝承と化してしまふ。すると、巫女なる処女の貞操は、神或は現神以外の人間に対しては、厳重に戒しめられる事になる。即「人の妻」と「神の嫁」とは、別殊の人となるのである。かうした風の生じる以前の社会には、常世神の「一夜配偶」の風が行はれてゐたものと思ふ事が出来る。其一人数人の長老・君主に集中したものが、初夜権なのである。
常世神が来り臨む事、一年唯一度と言ふ風を守られなくなつた。一村或は一家の事情が、複雑になつて特殊の場合が多くなると、臨時に来臨を仰ぐ風を生じた。我が国の文献で溯れる限りの昔は、既に此信仰状態に入つて後の世である。其第一の場合は、建築の成つた時である。第二は、私の想像では、家の重な人の生命を安固ならせることを欲する時である。其外、年の始めに神の親しく予約した詞の威力の薄らぐのを虞れて、さし当つた個々の場合に、神の来臨を請うた事が多い様である。
尠くとも奈良朝以前に、其由来の忘られてゐたのは、新室の祝ひの細目である。大体「新室」の祝ひであるべき事を、毎年宮廷では繰り返して、大殿祭と称へてゐた。其唱へる所の呪言も、新室ほがひと言ふ方が適切な表現を持つてゐる。大殿祭の儀式には、問題は多いが、此時夜に入つて、神の群行を学んで、宮廷の常用門とも見るべき西方の門扉をおとづれるのである。此神の一行と見るべきものが、宮廷の主人なる天子常用の殿舎だけを呪うて廻る。此式が、神今食・新嘗祭の前夜に行ふ事になつてゐるのは、古代は刈りあげ祭りの時に一度行うた事を示してゐる。即後世神の職掌分化して御歳神と命けた「田の神」を祭る式の附属の様に見えるが、やはり此精霊を祀るのでなく、常世神を迎へたのであらう。なぜならば、大殿祭は、刈り上げ祭りの上に、新室ほがひと家あるじの寿命に対する「よごと」を結びつけてゐるのである。単に田の神にする奉賽の新嘗の式と接近して行ひながら、別々に行うてゐるのは、新嘗の主賓たる常世神が感謝を享けると同時に、饗応の礼心に生命・住宅の安固を約して行くと考へた為であらう。生命・建築は、常世神の呪言の力を最深く信頼してゐるものなのである。大殿祭の式は要するに、新嘗の式の附属例に過ぎない。新嘗を享ける神が、最初の信仰からして、「田の神」でなかつた事を見せてゐるだけである。
「大殿祭」類似の毎年家を中心として、祝言を述べる行事は、宮廷だけではなかつたであらう。併し、「新室ほがひ」の変形で、常世の「まれびと」に事の序に委託するのだといふ事はおなじである。宮廷の呪詞・寿詞の中、とりわけ神秘に属するものは発表しなかつたらうと言ふ事は、本編に述べるが、「新室ほがひ」の呪言及び、其に関係深い家々の氏ノ上たる人々の生命呪は、唯二つしか伝つてゐない。だが、「新室ほがひ」の式は、必家あるじの外に主賓として臨む其家にとつては、尊敬すべき家の人が迎へられる。さうして其人が、「新室」を祝福する呪言を唱へ家の中を踏む。其外に舞ひ人としての家の処女又は婦人が、装ひを凝して舞ひ鎮める。其後、主賓は、其舞ひ人と「一夜づま」となる。かうした要点だけは、推察が出来る。なぜ、処女を主賓に侍らせるか、其は前期王朝の盛んな頃にも、既に、理会せられなかつた事であらう。
平安朝末から武家時代の中期にかけて、陰陽家の大事の為事の一つは、反閇であつた。貴人外出の際に行ふ一種の舞踏様の作法で、其をする事を「ふむ」と言ふ。律の緩やかな脚を主とした一種の短い踊りである。支那の民間伝承と似ない点の少い我が風俗の中で、此などは殆ど類例のないものである。唯一外来説の根拠になつた范跋を起源とする説などは、到底要領を得ないものである。書物以外に似た俗はあるだらうと思ふが、此は在来の民間伝承を安倍・賀茂両家で採用したものと思ふ。外出の際に踏むに限つて居ないで、外出先でも踏む。家に還つても踏む。一種の悪魔祓ひの様に考へられて来たのである。此風は予め、悪霊の身につく事を避ける力あるものと言ふ考へを基礎として居る様だが、外出の為でなく、居つく為の呪術である。「ふむ」行事を行うた処には、悪霊が居なくなると言ふ考へから出たもので、外出先で行うた僅かな例の方が、寧古風なのである。其が固定して、外出に踏むと言ふ考へから、途中から邪気を持ち返る事を防ぐ効験あるものと考へる様になつた次第である。
神の脚によつて踏みとゞろかされた地には、悪精霊が居る事が出来ない上に、新に来る事もしない。其で新室に住む始めに、神に踏み固めて貰ふのであつた。「新室を踏静児」など言ふのは、舞ひ人の処女の舞踏にも威力を認める様になつたからであらう。足踏みの舞踏を行ふ事は、ある地を占める為である。目に見えぬ先住者を退散させる事である。今も土御門流の唱門師の末などで、反閇を踏んで、家の悪霊退散の呪ひをする者がある。反閇は一種の「大殿祭」の様なもので、「新室ほがひ」の遺風であらう。
新室の住みはじめに、なぜ貴人を招待するか。此古い形は、村々の君として、神の力を持つた人を招いた事があつたからである。文献は語らぬが、其前に若衆の中の一人が、仮装神として臨んだ事も推察出来る。
古代生活で、「まれ人」とおなじ尊さの人を迎へる事の出来たのは、「新室ほがひ」の時であつた。其で、神と言ふ意味を離れて、まれびとが明らかに「人」の意識を持つ事になつた。だから人なるまれびとに対する家々の態度は、やはり神であつた時代の風俗を長く改めなかつた。今もその姿を残してゐる。まれびとには、その家の処女か其がなくば、主婦を出して、滞在中は賓客の妻とせねばならなかつた。王朝を通じて都の官人が地方人の妻女に対して理不尽と見える行ひをして居たのは、地方人が都の貴人の種を家の血の中に容れようとしたからと解するのは、結果から言ふ事である。今も其遺風を持ち伝へてゐる島々はある。鳴門中将の二様の伝へや、源氏物語中、川の宿りの条なども、後世から見て単に貴顕の威に任せたものと見るのは、真の理会ではない。
あるじと言ふ語も、実はまれびとの対語としてあるので、唯の主人と言ふことではない。主人として馳走をするから、饗応をあるじまうけと言ひ略して、あるじと言ふと解して来たのもわるかつた。今少し広く喰ひ物から喰ひ物の進め主までを含めて言ふ語であつたらうと思ふ。はつきり知られるのは、珍客を迎へたときに限つて言ふべき語で、家主など言ふ平常の用語例とは別な事である。裳着の条の註に引いた「尊者の大臣」は実は「まれびと」の宮廷風の訳語で、近代の正客に当るが、座中の最尊者と言ふ単純な意義ではない。宴会に客の中から尊者を選ぶのではなく、予め尊者を定めて其尊者の為に宴を設けると言ふ形をとるのが正しいのである。大臣大饗に尊者として招かれる左大臣などは、まれびとの沿革の中に際だつて目につく事実である。此も身祝ひにまれびとを招じた風が、宮廷生活の上に新任披露の先輩招待式の様な形をとつたのである。此時の尊者なる左大臣の物の喰ひ様にはやかましい方式が出来た様であるが、「まれびと」としての仮装神の喰ひ方が自ら固定して来たものと見る事も出来る。
近代婚礼の座にばかり出る様になつた島台は、賓客にも出す洲浜・蓬莱台で、宴席の飾りの様に見える。けれども、正式には神の居る座敷に据ゑる物で、今も地方では、年棚の下に置く処もある。つまりは、神を招ぎおろし其居給ふべき処を示す「作り山」なのだ。武家の正格な宴会には、之を正客の前に据ゑ、其他の盤・膳の類にも、植物の枝を挿す。すべて「まれびと」に対する古風が、形式化したものである。
近世、階級高い者の低い人の家に行く事が珍しくなくなつて、まらうどなる古語の変形も、実際感から遠のいて解せられて来た。私はまれひとの場合ひとを単純な人とは会らなかつた。此ひとを人として見る事も出来よう。常世神の人なる事を知つた為、人を言うたものと説く事である。併しどうとつても根本の思想だけは、易らないと思ふ。
第二の場合は、時候の替り目或は人の病ひの篤くなつた時に行ふものである。家に関した呪言が家長の生命の祝福と結びついてゐるのは、「よごと」の文献に長い有史以前のある事を見せてゐるのである。生命の呪言は、宮廷では正月朝賀のをり、大殿祭のをり、特殊な場合では、即位の始めの新嘗即大嘗祭の時である。其他何事かに関聯して主上万歳の祝福の考へに結びつく事になつて居る。諸氏の氏ノ上たる豪族にして神主なる人、下は国造から上は宮廷の権臣として政治に専らな者も、天子の為に生命の呪言を唱へるきまりであつた。夙く簡略になつて、大臣群臣を代表して陳べる事になつたが、かうした呪言の性質上氏々の神主としての資格を以て、其等の人々が皆「よごと」を奏したのである。遂に「賀正事」と言ふ字が「よごと」に宛てられ、正月と言ひ、朝賀と言ふと、「よごと」を聯想する事になり、後代の人には持ちにくい程の内容を含む事になつたのである。
更に推定の歩を進めると、諸豪族の家長の交替する時、其土地を持ち、氏人を持ち、家業を継ぐ事の勅許を受ける為に拝謁して、其家に伝へた寿詞を唱へる形式をとつたのではあるまいか。出雲国造ばかりが神賀詞を唱へに上京したのではあるまい。家々の宮廷に事へた由緒を陳べ其と共に、今の天子の長命を呪して忠勤を示す事、祭政分離の政策が、この風を変改するに到るまで、継続して居たものであらう。出雲国造ばかりは、神主たる資格を失はなかつた為、他の神主を別に立てて祭事とは離れた家々とは違つて、特殊な家風の様な観を持つ事になつたらしい。
家々の氏ノ上が寿詞を唱へる事は、其家々が邑落生活に権力を得た源を示している。神主であり、神となり得た村君の、も一つ以前の「常世神」としての生活の俤が見えるではないか。此場合、第一次の神語を唱へるのではない。天子の寿を為すために作られ、家々に伝誦せられた詞を唱へるのである。呪言に対する信仰として、神の詞と言ふ考へはまじつてゐても、大体は人作の文句と言ふ事は知つてゐたらうと思ふ。さうして唱へる人も固より神としてゞはなく、人として我が主君に奏上する意識は持つて居たに違ひない。目的はおなじでも、態度は非常に変つて来てゐる訣である。神として唱へた呪言を、人として言ふ事になるのであるから、勢ひ、文調に神秘力のある事を信じる事になる。
神の詞としての生命の呪言は、他の第一次の呪言と共に亡びてしまうてゐる。だが、普通の場合は、定期に行はれる生業の呪や、建築物の呪と同時に行ふ事が多い為と、呪言の本質として比喩表現をとる為に、錯乱した形をとつて来る。多くは家長の長命を示すと並行して建築の堅固をも祝福してゐる。又、農産・食物が比喩となつてゐるのは、生業のはじめに併せて呪せられたからである。
常世の神のなした呪言は、秘密を守り遂げて世に出ずに亡びたものが多かつた。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
※底本の題名の下には、「草稿」の表記があります。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年10月31日作成
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