「さうや さかいに」
折口信夫



柳田国男先生が「さうやさかいに」を論ぜられて後、相当の年月が立つた。その論が、画期的なものであつたゞけに、此に対して、何の議論も現れなかつたことは、世間が先生のこの方言論を深く、認容したと言ふことになる訣である。

今頃更めて、ある時期における京阪語の代表的なものとせられてゐた「さうやさかいに」論を書きついで行く必要はない気がする。併し此で定論を得てをさまつた、この語の論策をトヂめる為に、かう言ふ追ひ書を書き添へておいた方が、よいと思ふ。其で先生にしてみれば、時間さへあれば、当然書き直してゐられるはずの部分を、先生よりは暇人である私が、少しばかりの書きつぎをさせて頂くつもりになつたのである。謂はゞ、最みすぼらしい続貂論ぞくてうろんである。

この語の最濃厚な利用圏内に成人した私の、先生のあの研究に、とりわけ深い恩恵を受けたことの感謝の心を、外の方々──たとへば金田一先生のやうなお人たちにも見て頂きたい。此心持ちは、先生には固より、にこやかにうべなうて貰へるものと考へるのである。

 さかいに さかいで

そやさかい──さうやさかい──系統の語の第一のめどになるそやと言ふ語は、勿論さうぢやの発音のやつれたもので、曾てその最完備した形さうであるから来たものなることは、言ふまでもない。だから、其は論の外において、さかいにさかいで又は、さかいの形を論じれば其で足る訣である。

さかいの三つの形のうち、最有力に使はれてゐるものは、さかいである。外の二つは、さかいにすら、以前のやうには、使用せられてはゐない。

その中、さかいでが一番早く流行圏外に出てしまうたが、近代の浄瑠璃・小説文学には、標準語と見てよいほどに、よく使はれてゐた。残る二つの中、さかいには、今遣ふ人にも古典的な感覚を持たれる様になつて、さかいのやうに緊密感を受けぬやうになつた。今後特殊な事情が加つて来ぬ限りは、さかいを限界として、その系統は消えてしまふか、でなければ、音韻の大飛躍が起つて来さうな気がする。──さう言ふ見きはめがつけられてゐる。其理由の一つは、既によほど以前から、よつてによつてよつてになどが、なか〳〵勢を示してゐたからである。

 さかいの 

さかいについては、素朴な語原説からすれば、「……ぢや から」と言つた形を截り出して考へることが出来るのである。語尾らしく見えるかいは、勿論からである。此だけは、何としても疑ひがない。

意義は違ふが、語形のそのまゝな、よりからの系統のからも、かいと言ふ形で使はれることが多い。この方では、かいさにサマから出たに語尾のついたもの)が、よく似た用途にあることは参考になる。「浮世風呂」でなくても、上方語と江戸語とを対照させて考へた人の頭に、すぐ浮んだえどつこからと上方のさかいとは、語の根幹から言へば、非常に近かつたのもおもしろい。

柳田先生はこゝに来て頗注意すべき意見を出して居られた。さかいかいの上にあるであるの系統、ぢやの類のものといふ風に一往は誰も考へるが、ひよつとすると、語気の上から、さう言ふ「さ」と謂つた語が挿入せられたものかとも思はれる。──さう言ふ風の、新鮮な感受力から来たものを示してゐられる。私の早合点でなければ、日本語族に古代から屡現れて力を逞しくしてゐる、感動語の類に列ねてよいものが、かう言ふ風に屡、語中・語間に姿を表すことがあるのでないか、と考へてゐられたのではないか──、と想像を許して貰つてゐる。

此考へ方は、極めて新しい美しい組織を予想させるもので、当時、我々は事実、日本語解釈の上で、大きな救ひが啓示せられたやうに考へたものである。つまり古代言語を列ねた律文類の中に、意義と関係なく──寧囃し詞のやうに出て来る事実である。

文法的には意義がなくて、気分的には、其必要があつたらしい。たとへば私見に類する例をとつて言ふことを許して頂けば、「さゝ波や滋賀……」「はしきよし我が思ふ子ら……」などの用語例、「さゝ波よ。その滋賀」「はしきかな。その妹」と言ふ風に、古代と中世とでは、言語関係が違つて解せられてゐるらしい──さう言ふ類に属すると見て居られる様に、私どもは解釈した。

つまり、「ある……それによつて」「する……それに基いて」さう言ふ語感を含んでゐるものと言ふ解釈法を、先生から学び得たのである。ところが時が立つて、私の別に以前から抱いてゐた敬語観と謂ふやうなものが、私のうちにおいて、自ら育つて来てゐて、其がさかいさかいにの理会の上に、先生の解釈例を基礎にして、そこに別様の誘ひかけが起つて来てゐるのに気がついた。

つまり、強調の為の挿入助辞の様な機能を持つもの──感動語感が、語幹中の敬語を変質させるやうになつたと言ふ──柳田先生の考へ方から、孵化したやうな、今一つの理会のしかたが出て来た訣であつた。

なぜさうした形をとるに到つたかといふと、唯先生の其考へ方は、先生自身言はれたやうに、いつまでも考へ方として、仮説のまゝに留めておかねばならぬものになるだらう、と言はれたことが、時を経て、私の不安を唆つて来た為でもある。

 方言の洗煉意欲

結論はよほど違ふが、此方は柳田先生の外にも、問題にした人のある方言である。会津のもさ、紀州ののしなどと言つて、其方言を使ふ地方人はよく、からかはれたものである。もさまをすから出た間投詞又は語尾で、単純な田舎の古朴な語とは言へない。ある種の洗煉意識と、一種の言語遊戯観を多く持つた「奴詞ヤツココトバ」である。もおす(申)の一拗体で、決定感を帯びてゐる為に、と言つて、語尾におかれる事が多い。これが一段素朴で、語尾の決定感を表示することが、柔軟で、丁寧に気分を語らうとする語尾のもおすが、もつと広い地域に渉つて更に音韻の変化した形で示される場合が、なもしのしである。此系統はますもすの範囲から離れようとする意識を特に持つてゐるらしくて、なしなんしのんしなもなどと、音韻が特殊化してゐる。かう言ふ考へ方は、先生の方法を、間違へて流用させて頂いてゐなければ、幸である。

併しいづれにしても、まをすの分化でありながら、それのつく筈の連用形には続かずに、終止形(連体形)につく癖がある。

即此は言ふまでもなく、対話敬語(又、丁寧語)で、

行きもうす > 行くもさ

もうす > しもさ

又、

行きもうす を  行くのし(<行くなもし)

もうす  を  するのし(<するなもし)

かう言ふ風に連用形につかず、終止連体に続くものゝやうな傾向を示してゐることは、方言文法の飛躍法なのである。

近代の敬語は、対話敬語に犯されて、著しく敬語自身の領域を狭めてしまつてゐる。さうして、敬語と、対話敬語との中間の表現と謂つたものをすら感じて来てゐる。

その代表が、ますであるが、決して本来の敬語ではない。勿論古代中世に用ゐられたいます系統のすではないことは明らかだ。が、時としては「狂言」などに、──殊に狂言に多く遣ふところから起る──ます(<まをす)の錯覚から古い敬語が残つてゐる感じのする例が、相応にある。

まをすの固定した形のますで、とりわけ異風な組織に見えるのは、岩手県地方の、

行つたます

の様な「……た」との関係の目につくもの。歴史文法に置き替へて考へると、「行きました」「ました」に当るもので、かう言ふ逆表現も、標準語に準拠してゐるやうな感じが持たれたものであらう。表現相からすれば、「た」「行つた」の丁寧法を包含した形になつてゐる。今の地方人は、我々もどうかすれば遣ふ──「行つたです」「したです」式に感じもし、遣ひもしてゐるのだらう。

殊に江戸時代の地方人──特に地方指導者が、標準語を採用した目標の一つは、敬語・対話敬語を導入することで、地方語を正醇なものとすることが出来ると考へたことにある。此目的に向つて、努力の積まれてゐたことは、今日の推察以上である。多くの敬語・丁寧語の内には、唯気分的な意義を感じさせるだけで、本来の意義は忘れられたと言ふ風のものも多かつたのである。従つて、丁寧語が敬語と誤られたり、敬語を丁寧語と誤用したり、さう言ふことはありがちであつた。

 敬語・丁寧語

元々丁寧語・対話敬語の語尾だつた「もさ」や「のし」が敬語どころか、気分を緩やかにする所から逸れて、感動語に使はれたのなどは、さうした歴史をはつきりと告げてゐるのである。つまり、敬語表現の必要を、其以前少く感じるだけで済んで来た地方の人々にとつては、「自遜語」「敬語」「対話時の叮重な物言ひ」「感情をゆるめた感動語」さうした雑多な差違を判別する事が、容易でなかつたに違ひない。曾て整然としてゐたものが混乱したと言ふより、整理せられかけたまゝで、又々混乱して行つたり、どこまで遣つて居つても、差別がわからないきりで過ぎたりして、我々の予想するやうに、敬語及び其に似た語の用途は、昔の地方人にぴつたり来なかつたことが多いに違ひない。誤つたまゝで時過ぎて、其が当然の形として通つてゐた上に、又新しく誤りの上に誤りを重ねて遣はれて行つた。その中とりわけ著しいものは、敬語と対話敬語(丁寧語)の上にあつた。

古語における敬語ますと、近代に出発した対話敬語ますとが、交替する原因にも、やはり混乱から来たものが、あつたのである。

ますとおなじ頃に現れたらしいのだが、別々に発達して来て、今も使はれてゐる一類がある。

です(でいす・でんす・どす・だす)

あす(やす・やんす・おす)

其から稍遅れて、げす(がす・ごす)も、ある。

此等の語に共通してゐるが、一元のものか、又は、似たものが自然に歩み寄りによつて、更に似た点を増して来たものかと言ふ問題は、簡単には解決がつかぬのである。

この中、「です」は、「奴詞」と見て、さし支へはなく、而も相当に、その早期に顕れたものと見ることが出来る。

あすは、其と大体時期の近いものだらうが、女性特に「女房詞」を駆使する人たちの間に流行して、後漸くですの男におけると同様、女性語としては、うはかぶき(浮歌舞妓=宛て字)めいた所が、時の好みに合ひ、はすはだが、ある品格を持つた詞として、使ひひろげられたものらしいのである。さうして近代殊に、その出発点にあつた上品意識を深めて来るやうになつたらしい。

 

近代初頭の端手・寛濶な生活を享楽した男女の社会から生れた、と言つても、間違ひのないのは、此「す」を語末に持つた一群である。其殊に目立つものが、右のあすであつた。つまり、ある(或はあり)とが、複合して、「あす」と言ふ様な形が出来、このあすが、「で」を複合して「であす」、其からその重母韻がであす(>でやす)「でえす」「です」「でんす」を過程として、ですどすだすなど、相当反省的な音韻分化が行はれたものらしい。

このです分化の径路は、極めてごす(ごんす)・がす(がんす)・げすに似てゐる。標準語自負を持つた大都市相互の間、或はその一つ都会においてすら、言語テラひする奴や、初期の歌舞妓衆の、自由過ぎた選択が行はれてゐた。その為に、度を超えた発音矯飾が行はれたのではないか。ごす一類のものは、その分化が余程近時のものであつた上に、極めて狭い範囲で、急速に岐れたゝめ──そのあるものは、相当に古いのだが、──遅く分出した多くのものゝ為に、この語類は、新しい発生の様に見えるかとも言へるのである。

です系統のものは、或は既に中世期末に起つて居た──勿論、その中世は室町期を中世末と見る考へ方であるが──との観察も凡誤りではない。

甚方言的には聞えても、ともかく口語風の記録には残つて居り、同時にまたその口語が「狂言詞」と言はれる中世末対話を基準とする京都語である。だが、一つ〳〵の単語については、時代性の確実でないものが多いと言ふ外はない。だが、一往は室町時代に、その頃の標準語らしいもので書かれたもの、と一般の学者から考へられて来た狂言である。

つまり、狂言の成立期に到達した、室町時代の口立クチダての詞章から作成した台本。其を準拠として、又ある程度まで洗煉せられた口頭詞章が、又更に記録せられ、其が又演出を重ね〳〵して来た狂言詞章である。其多くの狂言の中の極めて僅かな物だけは、所謂室町時代記録の素朴な原態を残してゐるだらうと思はれる。が、大抵は台本の改訂を重ねて、室町の原型は残つてゐても、構成や、用語の変化しないで居る筈がない。その中、度々くり返されたものは、遥か後の江戸期に入つてからの変更部分の、存外多いことを、考慮に入れてかゝらねばならぬ。言はゞ、綿密な注意を以て書いた擬古文と言ふことは出来ても、狂言の個処々々の用語が、そのまゝ学者の空想するやうな、純然たる室町の古語ではない。中には、狂言上の標準用語と言ふべき語は、さう多くはない。だから、実際其々の台本の固定した時期は遅れてゐても、その語の用語範囲は、古いものと見てさし支へがないとする考へも出て来るであらう。併し其は、概念としてはあるべきことで、実地、用語の個々の場合に当つて見ると、やはり相当の時代飛躍の多いことが見られる。だから、ですの場合も、京都辺の流行語となつて、狂言に頻出するに到つたのは、所謂最古い台本時代のことではないかも知れぬのである。此懸念は、です系統の語だけでなく、相当に多くの場合にあるのだから、当然、問題にしておく必要がある。

ですの語幹に含まれたあすを、あそばすから出た略語だと信じてゐる人もあるらしい。敬語のあそばすが、さう単純に、対話敬語「あす」となつたかは、まだ問題である。

  そお

語原を一つのものとする考へ方は、今も信じられてゐる。併し、語原を一元とする考へ方は、事実から見ると、多くの場合、空想に過ぎない。第一語原によつても成立するが、第二・第三語原が、其に附加して、語の意味は、かつきりと成立して来るものなのである。語原観に到達してゐない語もあるが、ともかく第一次語原とも言ふべきものゝ外に、他の語原解釈を含みながら、語は使はれて、成長して行く。

あすから出てゐると見るのが、私は正しいのだと信じてゐる。が、ある時期からは、確かに他の語原観が入りこんで、其が、第一語原を、明らかに崩して来る。さぶらふ(候)の歴史は長いが、武家になつて、之を標準語にとり上げたことも、久しいものである。

閑吟集の小唄・狂言小唄並びに、散文としては、狂言の中に現れて来る対話上の候の変容。此は、相当考へて見るねうちがある。

小唄類に、「……す」「……すよ」「……すよの」があり、之に並行して「……そよ」「……そよの」が出て来る。言ふまでもなく、「サフロ」から来た「よ」「ソウよ」であること疑ひもないのだが、小唄・狂言には、大抵の場合、「よ」「うよ」「うよの」と言ふ風に、誰も解釈して来たらしい。かう感受する事の方が、当時の人にも快かつたのだらう。「さぶらふ」には、発音の近い二つの語がある。候の外に「三郎」と言ふ固有名詞系統のがある。此は、性質は違ひ乍ら、様式の上ばかりでは、並行を続けてゐる。さぶろさうそおと言ふ風に、人の名と、候が全くおなじ筋を行くのもおもしろい。

室町文献と思はれるものに、「そろ」「そう」の方が、「す」「すよ」より数の多いのは、其方が標準語に近いと言ふ感じを残して居た為に、歌謡・狂言類にすら、よほどくだけた表現の外は、すよが少い理由が察せられる。

 里ことば

江戸の吉原ことばは、新吉原時代になつても、まだ旧態を持ち越してゐた。古い遊廓の来歴が、其に示されると信じてゐたのが、遊里のくつわが持つた誇りだつたのである。吉原の各遊女屋は、それ〴〵の国から集つて、一廓をなすに至つたもので、家々皆々出身地方の風習を存して居た中にも、言語は特に郷土の用語を更めることなく使つてゐたと称せられた。其が、自らくつわふおくろあをなすに到つたと言はれるかも知れない。遊女の用語は其によつて、部分的に異同があつて、それ〴〵の家の特色としてゐた。

この伝承はある点まで事実だつたらうし、家々の女の生活行事は、大同小異の特殊な様式を残してゐた。

併し此は、必しも吉原だけのことではない。

京の島原・大阪の新町の妓楼クツワの家々にも、同様のことが見られ、その他地方々々の古い遊廓にも、其が古格を誇る家々の特徴、とせられてゐたやうである。

江戸において見ても、吉原語同様のものは、其以外の遊廓にも用ゐられ、岡場所など言はれる私娼街でも、似たりよつたりの特殊語は発育してゐた。洒落本やある種の黄表紙は、ある点から言へば、さう言ふ語の駆使を誇つてゐるやうにさへ見える。此等は恐らく、小遊廓の生活に、自然異同が生じて来る上に、吉原語の普遍的なものを、移植した所から来たものであらう。その一例、

なんす(なんし=軽命令形)──なます……敬語

ざます(ざあます)……対話敬語

……ansu(思はんす・行かんすの類)……敬語

……insu(いきんす・んす・んす)……対話敬語

……insen(いきんせん)……否定

右の中、なんすは、なさんすの略形、恐らく、なはんすを経過したものだらう。

……すの類の ansu は、右の里語以外にも広く行はれた「通常安易敬語」で、古代から中世を経て来た「行かす」「思はす」の、方言化して行はれてゐたものらしく見えるが、此は断言する訣にはゆかぬ。おなじ筋の行かつす思はつすと促音化したものは、江戸では職人・町人の敬語となつて残つたが、此は元来の遊廓語ときめることは出来ぬ。存外高い階級に行はれた「御殿語」といふやうなものゝ、市中に流れ出て、身分のある者から、低い人々へ逓下したものらしく思はれる。地方慰楽語と命けてよいものであらう。いきんすしんす(又、……iisu)の類は、吉原の一部や、岡場所語としては、「いきいす」又は「いきんす」「おつせいす」(仰)を普通としてゐ、特に insu(「いきんす」「ありんす」)の場合、遊里情趣が表現せられるものと考へたらしい。

いんす・あんす、ざますは「ござります」が故意の又は放恣な発音によつて、音韻没入を来したもので、「ござります」の与へる真摯な感覚を避けてゐるやうに見える。をまづ脱し、次いで、「り」を不正確に発音して、遂に之を滅却させたものであつた。最近別の事情で、同じ語の同じ変化が見られるやうになつたのである。中流以上の夫人階級の女性が階級感の発露を感じるらしくて、そこに偶然此音韻現象の復活を見た。所謂「ざあます」語である。「ござあます」から転じたのである。此方はあくせんとを「ざ」において、強調する所から起つたものらしい。

この類の遊廓語の中、敬語・丁寧語の一部をあげたのだが、固有名詞その他の単語の上にも、又種々の異風が行はれてゐた。だが今は其に触れない。

こゝに問題となるのは、「行かんす」と「行きんす」とで、殊に「さかい」の場合には、後者が多くの暗示を見せてゐる。「行かんす」の類の「す」は、先に述べた古くからの敬語々尾に似たもので、或は時代的の傾向としては、「行かァす」「思はァす」の如き特殊な音韻が加つて来てゐるものと見るべきであらうか。行かんす古形説を一往避けたが、たとへば、「行かさす」(敬)、「思はさす」(敬)が拗撥音表情を加へて「行かしやんす」「思はしやんす」と発音する様になつた所に、活用長期残存とも言ふべき、語法の時代色が伺はれる様である。

唯これは何処までも、敬語として所謂将然形系統の特殊相を、後世になつても、保持したものと言ふことが出来る。

今は別に、「行かんす」「思はんす」と殆同一の構造に見えるやうに出来て居乍ら、意義の違ふいきんすみんすの例を、こゝでは、問題にせねばならぬ。

此「す」は明らかに敬礼語──丁寧語即、対話敬語のである。其で、もつと原形に近い「きいす」「見いす」「いす」「……知りいせん」「取りいせん」など言ふ形が、はつきり使はれてゐたのは、語原意識が明確で、「ない」「見ない」などと対照になる、「行きいす」「見いす」「行きいせん」「見いせん」と言つた、丁寧語の意識を心に保ちながら、言つてゐる事が訣る。かうしたところに、江戸住民の言語反省が強く深いことゝ共に、生活の上に言語慰楽の追求となつて現れてゐたことが見られる。

 乞ひうけ 命令

さう言ふ点で、同様に対話時の敬語に敏感を示してゐるのは、時代は大体に、之より古くなる所の狂言詞である。特に軽命令──言ひ替へれば、「乞ひ請け」の形、「聞かしめ」「いやならばかしめ」「見せてくれさしめ」「心得さしめ」などの類に、其が見られる。「……しておくれよ」と言ふ程度まで、その意義と、用語例の間にひらきが出来て、語の方が柔らいで用ゐられて来てゐる。其だけ実際用語としては、よほど上品で温柔な感覚を含んで来てゐるものと言つてよい。実際には、さうした高い標準語らしいものを使はぬ階級の人々の間で、やりとりせられてゐるのである。狂言における虚構標準語と言へる。だから末々、「しめ」系統の語は、狂言詞として孤立して、各地方方言の上にも、多くは残らなくなつたのだらう。

狂言詞にも、色々な分類が行はれると思ふが、普通なのりから初めて、対話などに使つてゐる「候」を中心にしたもの言ひは、狂言としての舞台用語──戯曲語で、ひらき直つた言ひ方の語である。言はゞ武家辞宜の口状で、祝儀・不祝儀の──それも非常にあらたまつた時に使ふ切り口状である。奏者・使者等から出た口状の類の物言ひが舞台語としての慣用から、実際日常用語のやうに思はれて来た。

 無頼語

其故、対話がくだけて来ると、候詞が少くなつて来る。動作や表情が中心になつて戯曲よりも劇らしい感情が出て来ると、詞が自由になる。喧嘩・口論・常の応対などにかゝると、狂言詞は生き〳〵と精彩を発揮する。この部分において当時の写実語が出て来る。其は、「候ことば」ではないのである。

ところが、今一つ狂言詞において異様な事がある。

当時の流行語──洗煉せられた語と考へられてゐて、而も実際はさほどでない。──洗煉せられたと思ふ所に狂言詞の癖があり、ある歴史があるのである。流行語を使ひ馴れてゐる様な人々、さう謂つた雰囲気に居る者共のしやれたらしい言ひ方の、実は品格の上では賛成の出来ぬものが、狂言用語の中には、相当に使はれてゐるのである。

此は思ふに、前代以来我々が能・狂言役者の類の人々に対して、その能芸人らしい生活を、実際より遥かに静かな、うち和んだ優美なものと言ふ風に考へる誤認の癖があつた。彼らの生活はもつと放恣で、濶達で、飄遊者風で、多くの場合、無頼的ですらもあり、時としては様々の賤民部落の人々の生活そのまゝでもあつた。狂言だけについて言つても、あの中におのづから描写せられてゐる其時世装の上に、気随な大名・諸侍シヨザムラヒや、水破スツパ無頼の徒や、人妻カドひ・放蕩人の類として現れてゐる。さう言ふ、過差・豪華な生活を楽しんだ一部の者の姿は、亦彼等の、世間に大手を振つてあるいた、ありの儘でもあつた。彼等自身の遣ふ語も、都会的な流行を追うてゐた。我々は今でも、狂言詞の大きな特徴が、どう言ふ生活の中から、おし出されて来たかを見ることが出来る。

 狂言詞

(白蔵主の詞)けふは、思ふ子細あつて、案内を乞うては  「釣狐」以下、三百番本による。

(群衆の詞)皆言ひ合せて、まかり出でては  「薬水」

これを直訳すれば、恰も、現代語の「……したことですは」と言ふことになる。併し、「す」は「です」ではない。「……乞ひよ」「……罷り出でよ」が、正しい逐字訳見たやうな形である。「て」は、現在完了助動詞の連用形につく、其についで対話敬語としての「す」が這入つて居り、更に接尾感動語として「は(わ)」が添はつてゐる。而もこの「す」は、明らかに、候が語原である。

にも繋らず、更に一段の古語から出て、中世末まで残つたものゝ様な感じを、人に与へる。

あすですなどのとは根柢に違ひがあるのだが、之をおなじだと説いても、誤りとは言はれない。此が語原論の実態なのである。

今も言つた様に、「てす」の意義ははつきりしてゐるのだが、かうした例を集めて見ても、「てす」「です」が愈似てさへ来る。併し雑多な感受が混淆して来る、さう言ふ考へも導かれるので、大体において、「てす」と「です」とは、同時代に並行して流行した語で、妙に丁寧な感覚を持つてゐ乍ら、無頼人の間に使ひ馴れのした語であつた。発語者は、まづおのれの身分を高く人に感じさせ、その相手までも対等以上に取り扱ふやうな待遇感を持たせてゐて、而も軽視する心持ちさへ含めることが出来る。特別な場合の外は、多く一人称の叙述語である。

隠れもない射手です(靱猿)

隠れもない大名です(鹿島詣)

ですの場合は特に、狂言方によつて、そのあくせんと及び其発音が、我々の心を牽くやうな、「でえす」「であす」など、語原観を動揺させるやうな発音をする。が、必しも、其等は狂言の標準古典発音によつてゐるものともきめられぬ。

 でする まする

泉鏡花は、時々その小説に新旧二様の語を使ふ者を対立させて、対立した人間の性格や、生活をある点まで、書き分けようとした。殊に硬い詞を使ふ者に、頑冥不霊な魂を与へることが、意外なほど多い。とりわけ「風流線」「続風流線」では、大山某といふ、唯一人古格な方言でおし通して物を言ふ、社会救済事業家を出してゐる。極端なほど、でえすると言ふ語を、一貫して遣ふのである。而も之に対して金沢市の有識階級の人々には、有識の標識の様に、「です」を用ゐさせて居る。此偉大な偽善家に限つて、人並みの「です」を遣はせなかつた。鏡花は、極めて醜く頑なゝ精神を表現するのに、此古風な方言を、適切なものと考へたのであらう。

我々の知つた限りでは、でいするですに先立つて行はれた例を知らぬが、──相当に古い歴史を持つですが、明治に標準語化するまでの期間、一地方において経過したでするでいする様式を、重量ある表現に値するものとして、泉氏は利用したのである。

我々の標準語・方言の関繋の上に、存外終止形の語尾の部分に、一つ余計に附く「る」の存在を気にしないで来てゐるのではないか。

戯曲語によく出て、あらたまつた表現らしい感じを与へる「……申するに」と言ふ語は、其と似た形と、それ〴〵別々の意味を持つて孤立してゐる語として考へてよいのか、其とも何か筋のとほつた理由があるのか、と言ふことが気にならぬでもない。「申す」を「申する」と言ふのと無関繋には見過されない。

その申すから出た「ます」には、「まする」が殊に多いのを見て来てゐる。此は、果して終止でなく、連体か、「ます」が正しいのか、「まする」は全然否認すべきものか、決定したくなることが誰にもなかつたか。こゝにも便宜上、古い例の多い狂言から引いて見る。

通辞日本人ゐまするか。アドこれにゐまする。  「唐人相撲」

二郎この上は、こなたへ(亀を)あげまするによつて……  「浦島」

勿論、同様の用法に遣はれてゐる「ます」もあるが、此が為に二つのますが混乱してゐる訣ではない。それ〴〵に、筋は立つてゐる。だが何処まで行つても二つのますが二つともに、全然敬語系の「ます」ではなく、「申す」属の「ます」「ます・る」なのだ。

「でいする」が古風で、一方極端に著実にも聞えるやうに、「まする」も丁寧法の律義正直な感じを受けるのだらう。

 ます まする

「申する」と「まする」との間に恐らくさうした関繋があるのだらう。ある時期の傾向として、さう言ふ方言めいてくど〳〵しく、卑屈にさへ聞える形が遣ひ出されたものであらう。さうして此が、極めて叮重に語り了せる終止形だと考へ、それが、如何にも丁寧感を深めることに満足したものであらう。即此で、「切口上」で、さうして完全に叮重感を盛ることになると言ふ気がしたのだらう。「てす」と「です」との間には、先に言つた誤解は出ないでもないが、大体、語根として、関繋はなかつた。「で」は「にて」であり、「て」は助動詞の又は其接続語化しようとしてゐたのに過ぎない。さうして其々、「す」に意味が纏つて保持せられてゐるのである。とにかく敬語と対話敬語とは、驚くばかりの古代から対立してゐた。だから、出発点から混乱して来たといふ訣ではなかつたのである。生れつき対立してゐる性質のもあり、片方に対して性格の裏返しになつたものが現れたりした。対立したものは、形式が似てゐて、どの点かに違つた屈折が出来て来る。さう言ふ中でも、敬語の「たまふ」の形式を裏返したやうな「たまふ……たまふる・たまふれ・たまへ」などは、古代から中世に渉つて行はれたものであり、此対立の考へ方が、他人──貴人の事を言ふ場合と、自分の事を言ふ場合とはつきり区別するやうになつた。さう言ふ行き方が、語義の変化を容易に、多趣多様ならしめることになつたが、後には此豊富な裏返し機能によつて、言語表情を自由にすることを、重くは考へなくなつた。敬語と対話敬語の対立せぬもの、明らかに片方だけになつたもの、さう言ふものが殖えて来、其から敬語法と丁寧法との相違を敏感に感じなくなつて、どちらに意義を据ゑてゐるのだか訣らぬものが多くなつて行つた。

 

あたふの敬語発想がたまふで、与へらるを丁寧に言ふとたまはる。かう言ふ又別の裏返しが、相応数対立した。其繁雑が、とゞのつまり二つあるものを、自ら廃して、一つにならせたり、一つでは久しい習慣が満足しないから二つ共残しておいて、其為気分以外に差別のないものにしてしまつたりする。「ます」「まする」もさう言ふ気分の満足だけにとゞまつて、実際の相違は消えてしまつてゐるもの、と言ふべきであらうか。

「まかり出でてすは」「案内を乞うてすは」の「て」は「……出で候は」「案内乞ひ候は」と言つても、ちつともさし支へのない連用助動詞の「て」なのだから、「まかり出です」「まかり出でそ」「まかり出でさう」など「候」の義のさうなどを「出で」にぢかに附けても同じことである。「案内……」の場合も勿論おなじである。即、附随してゐるものをとり除けば、「出です」「乞ひす」で、「いきす」「見す」「す」の部類に這入るのである。かう言ふ「す」は、凡対話敬語として早くから用ゐられてゐた訣なのだが、使用者は必しも、之を敬語と全然別なものとは考へず、両方一つにして気分を混淆させてゐたこともあつた。唯実際使ふ時に、生得の敏感から、この二種をはつきり感じわけて居た。とは言へ、一旦此がこみ入つて来た場合は、混乱させない訣にはいかなかつた。これも狂言に、その例が多い。尤、実際の対話には、この類は、数限りもない訣であつた。

 すかい すけん

敬語「す」は、敬語の古格によることが多く、敬語的発想を保つ地方の多い九州では、まだ失はれないでゐるものが沢山ある。たとへば、他の地方で、「行きなさるから」「お行きだから」「行かつしやるから」など、色々な言ひ方をする場合にも、「行かすけに」「行かすけん」と言ふのを聞くと、実際耳の洗はれた感じがする。

あしたから隊長さんにならすけん……  小説「散歩者」

これは、熊本山鹿地方の例であるが、九州は大体これで通じるやうである。作者木村祐章は、山鹿町の人で、山鹿であつたことのやうに書いた作品に「けん」「すけん」「すけん」の類、幾十の使用例がある。けんけにからに(=から)で、基礎になつたものは、「から」(故)であり、「け」である。「あらつしやるから」「なさるから」に当るのが、「すけん」なので、まづけんは必しも密著してはゐない。其でも、九州方言の傾向として、敬語でなくてもよい所にも、又敬語を要せぬものにも使ふ所から、軽卑な待遇法が出来てゐる。此は軽親語とでも言ふべきで、敬語式に用ゐた「行きある」「取りある」が、ユキヤル・トリヤルとなり、もつと近代方言風には、トリヨル・ユキヨルとなるやうな類である。だから其は極めて微量な敬意を示し、話しクチ柔軟ナドやかなことの為に遣つてゐるやうにさへ見えるが、而もは丁寧法即対話敬語となりきつてゐる訣ではない。けんは正確に言へば、けにであつて、此二つは並行しておなじ地方に行はれることが多い。中国・四国に最有力だが、時には遥かに飛んだ地方にも行はれてゐる。けにを経過して其まゝ「き」になつたのか、又別に、かいから出直したのか、高知・徳島飛んで加賀・能登などのきにがある。此は恐らくけにの系統であらう。別に京都に後出した語と考へられるさけいにがある。此はかいにから出た別形であらう。

方言の輸入径路を考へると、敬語系統には、かう言ふことが考へられる。敬語・丁寧語・自卑語などの自家の方言に少いことが地方人に弱みを感じさせることであり、それ等をとり込むことが、方言改良の、一つの大きな方針となつたのである。其故とりわけ反省的な心理要素のある対話敬語が、盛んにとり込まれて行つた。かうした感情の発達は、所謂封建時代らしい自然な筋路である。

 すかい しけ

すけんは、先に言つた様に、敬語と助辞の接合点がはつきりと器械的に見えてゐる。ところが、時代の前後は訣らぬとしても、接合が自然で、融和してゐて、其為相寄つた語が、語原的に理会出来なくなつて居るものが、今も方言中にはあつて、一見如何にも、「行かすけん」よりも古く出来たことを示してゐる。東京から考へると、逆に奥州あたりからおし出して、這入つて来ようとしてゐるかの様にすら見える。併し事実さう言ふことは考へられない。が、さう言ふ見方からすれば、──近い所では新潟殊にその信濃境までも這入つて来て居り、奥羽の中特に南部地方に盛行する外、飛び地のあちこちにあるすけである。やはり分布の歴史からは、其が奥州を中心として、部分的に偏在し残つたものとは見られない。中央から撒布せられたその径路において、其々残存したことは固より、先々の地方々々で、其々音韻分化や、民間合理解などが加つたと言ふ──特殊な残り方をしたものと見られる。青森や、新潟の一部にあるしけは、かうした姿を示すものと見るべきであらう。

とにかく、すけん一統の方言と、すけしけの一流とは、語形組織に、ちつとも変つた所は見られない。あると言へば、唯一点、九州のは明らかに敬語が敬語──実は軽親語──として這入つて居り、その機能も完全である。越後・奥州のものは、敬語意識は勿論、特に其部分の意義らしいものは推察出来なくなつてしまつてゐることは、上方のさかいと、ちつとも変らぬ程度なのである。

 敬語観の基礎

それは唯、恰も昔の感動詞か、置き字・挿入語と言つた風にしか受けとれない。一番聯想の近いのは、柳田先生の触れてゐられる「ぢや」「だ」等の「である」──系統のものとして拡げて考へれば、その方向へ更に展開して見ることが出来るやうな感じさへする。

敬語系統の語づかひに馴れなかつた地方人は、標準語として這入つて来た敬語・丁寧語を、その地方言語順列の中にとり込んでも、やがて敬語・敬礼語らしい感じも失つて行くか──或は、さう言ふ敬語感をとり入れるだけの素地に乏しかつた。だがさう言ふ事を重ねて行つてる間に、地方的言語の総体感が、幾分づゝか雅馴なものになつて行つたことだけは疑はれない。

敬語を敬語として遣つてゐても、敬語習慣が、人の心に熟して来るものとは言へない。かいと結合したすかいが使はれてゐても、「なさるから」「なさつたから」など言ふ感情は、初めから終りまで人々に起らないで過ぎ去つて行つた土地が多い。が対話敬語として、感じるといふ側から詞の地を柔げるものとなつて、次第に融けこんで行つた地方もあるのは、考へておかねばならぬ。

 居残る標準語

大阪を中心とした「さかい」「さかいに」「さかいで」の過去と現在に渉つて感ぜられることは、敬語系統の語感の上で言へば、実際のところ、自分の語に品よく、甘美な感情を持たせようとしてゐるやうに見えることである。此は本来の目的にそぐはない結果だらうが、さうした所にも、この語の、わりこんだ理由の察せられるものは残つてゐる。地方文化が、可なりの高さを持つことをほのめかさうとしてゐる。さう言ふ感覚が、語感の上に行きわたつてゐるのを、我々は地方々々の方言の底に感じる。

「……すかい」が、東北へ向つて進んで行かぬ前に、上方の「すかい」は、恐らく既に「すかい」から転身して、「さかい」と言ふ音韻形をとつてゐたものであらう。極めて古い古典語に似た形が、思ひがけない地方の文献以外に、方言として残つて居ることのあればこそ、昔から、方言の存在が、古典的な意味を持つて、学者の注意を引いたのである。

我々の信頼してゐる文献上の知識は、我々を驚す片方に、又我々の叡智をも昏ます。

中央ならびに、中央の影響が見られ、又最蒙り易からうと思はれる辺に、すかいは、瞥見的にすら姿を見せなかつたやうな貌をしてゐる。此が方言さかい史における、驚いてよい実情である。謂はゞ一度蒔かれた種が、時経て孤立した芽をひらくやうに、其前後と関繋ないものゝやうにさへ感じられる風に、処女地見たやうに現れて来る。だが実際は、語は語として、絶えることなく、地表に現れ続けてゐたのである。我々の文献が目をふたぎ、耳をとざして居たばかりである。

全然痕を消した訣ではないが、地表からは埋没したやうな観を呈する。これが文献上の方言事実である。併し其は残存して命脈を続けてゐるのだが──口頭にすら途絶えてしまつたといふ風になりきつてゐて、時を経て著しく目につき出す。文献の証明と、稀々に使はれることゝ、さうして頻繁に使用することゝ、此三つの方言の現れ方があつて、後の二つは注意せられて居ない。二番生えの形ばかりが、目立つて出て来たりする。だが、方言の上では、驚くべきことではなかつた。

「から」と、「す」と繋がる形は、行きす思ひすでなく「行くす」「思ふす」(例、行くすから・思ふすから)でなければならぬといふ、からに対する文法観が強く出て、「行くから」「思ふから」のやうな形を、「行くす」「思ふす」の上にも望んだのである。語義的に深いものゝない──又は忘却した──中間の「す」を越えて、「終止+す+かい」と言つた形を作つたのが、「すかい」「すけ」の一類であつた。

その後、かう言ふ位置にある中間音「す」を、一層「さ」に近づけて行つたものと思はれる。つまりすかいの音質が其に引かれて、さかいに近いものになつて、漸く其方へ移つた、とさう見るのが、あたりまへではないか。

時経て感受のし方が変つてしまつた時分に、遥かな地方に偏在し残つたすかいも、当然元、胚胎したまゝのさかいの未然要素を顕して、さけさけいといふ段階に移つたものと考へてよいだらう。

すかいすけしかいしけしきの分布を見る地方に、さかいさけさけえさかいでが現れて来ても、その後又、上方から新しく流れこんで来たものとは、必しも限らぬのである。此とおなじことが、もつと有力に、さかいの出自なる上方にも起つて居たことは、考へておいてよい。

方言は、先に言うたやうに、あるものは、消滅しきらずに、ある期間甚しく衰弱してゐる。さうして何かの動機で、大きに盛り返して来る。方言に限らず、言語全体の上にある例なのである。長い様式を持つて出て来るのが、歌謡である。

さかいの歴史の古さが思はせることは、この方言の唯今分布残存するすべてが、すかい流布後はじめて=さかいが=現れたものとは言ひきらせないものゝあることである。

少々材料不足を感じるが、かう言ふ理由はある。

 盛り返す言語生命

上方のさかいは、江戸中期に勢ひを盛り返したもので、その以前に、稍古く既に一度栄えた時代のあつたことが言はれさうなのである。之と似たことで、地方によつては、すかいの全盛時代に、その地方としては、始めて、さかいの現れた所もあつたらしい。さうして其が、上方からの新輸入らしかつたことを思はせてゐる──。その力強さは、唯方言の気まぐれシヤウや、行き当りばつたり性から、頭を擡げたりする性質だけによるのではない。

一番さう言ふことの注意を惹く理由は、対話敬語としての「すかい」「さかい」の「す」「さ」が、敬語の地馴しらしい優柔性を感じさせるばかりで、方言文法の上では、何処にもはつきり、痕を残さずじまひになつたらしい点である。

「す」と「けに」の接合した九州方言の形と、形式上では、其から成熟した──遅い発達のやうに見える、さかいとの間にはまるやうな、「すかい」の示してゐるやうに、──敬語なり、対話敬語なり、上品語なり、自卑形なりを、気分豊かに示す此系統の方言がありさうなものである。あるべくしてないと言ふことは、さかいの歴史が、文献に保存せられなかつた前時代を、ほの見せてゐるのだらう。

 よつてに よつて

さかいの行はれる範囲と言つても広いが、明治の小学教育の普及した頃から、ついで中学教育の盛んになり出した頃──三十年頃からの傾向として、標準方言選択が盛んになり、さかいにさかいを避ける傾向が烈しくなつた。其は同時に、よつてが勢を得るやうになつたことである。よつてよつてにと、するゆくおもふなど言ふ動詞との続きあひは、方言的だが、「……に・よつて」と言へば、口語古典式又は、文章語式に聞えるところから、「するよつて」「行くよつて」など、よつての方に片よる傾向が出て来た様である。

明治盛期、上方語が一つの方言としての自覚を持ち出した頃の選択が、かう言ふ所から現れた。従つてさかいさかいにの上によつてがあり、その上にからが「えどつこ」として勢力を占めて来るやうになつた。

此から推すと、さかいも江戸の中期以前は、さかいでが優勢であつたのが、後には、さかいにからさかいと単純化せられて行つたのは、からのやうな「単語尾」化を欲する方に向つたのである。

「行くよつて」「行くよつてに」が、「行くさかい」「行くさかいに」と、文法組織まで同じであることは、注意を要する。簡単に考へれば、明治の地方国語教育が、方言にはたらきかけて、からに最類似したよつて、でなければ、せい〴〵さかいを選ぶ様に為向けたと言へよう。其に、さかいよつてからならば、等しく終止形に完全につくといふ事実を認めることが出来る。方言の隠れた動きが、そこに出て来てゐる訣だ。

 方言要素の生滅

今朝の嵐は、嵐ではげによの。大堰オホヰ川の川の瀬の音ぢやげによなう。(閑吟集)

水がこほるやらむ。みなと川が細りよの。我らも独り寝に、身が細りよの。(同じく)

方言に消長はありながら亡びきらないで、時を得て興つて来る──思想が気分化して、極めて低度に意識下に残つてゐる例と言ふべきか、或は長年月の間、凡変化なく保たれてゐる例か、語感は相当に変りながら、文法的組織は大して変らずに持ちこたへて、年月を経るのか、さう言ふことが、もつとはつきりせぬ以上は、何の疑問もなく、「行きす」「思ひす」「とりす」など言ふ江戸遊廓方言にまで、「ゆきすかい」「ゆくさかい」「ゆくしけ」が、直接に続いてゐたもの、と単純に考へることは、躊躇した方が安全である。だが、さうばかりおつかなびつくりでゐることは、学問の流れの細ることである。形は、「細ります」「細つてゐます」の細りすであるが、まだ〳〵「細り候」の語原意識は失はれてゐないのである。「なげにす」など言ふ、形そのものは方言に生き残つてはゐなくても、文法上には、絶えつゝ継がるゝ、一つの脈絡を、こゝに認めてもよい。此が文法史・国語史の持つ、手には取られないで、目に見える連環である。

この「す」に、「から」のかい、「から」「からに」のけにけんのつくことも、考へて不都合は少しもなく、又事実「すかい」「しかい」「すけ」など、同型の語は、今も方言にはどつさり残つてゐる。其に亦、「すかい」が、「さかい」と関係を持つてゐることも、成立の順序を簡単に断言しない限り、筋目の通つてゐるのは事実である。

対話敬語としての感覚を失つた「すかい」が即、さかいに最近い血続きである。かう言ふ風にして、「さかい」が現れたと言ふだけは、大体は説明もつくし、説明にあやまりもないだらう。

 さかいの  すかいの 

唯残る所さかいすかいとでは、文法の連接関係が違ふと言ふ当然起りさうな論も、音韻変化からすれば、問題のなくなるほど、あつけなく解決が出来る。又事実さうだつたかも知れぬが、有機的な文法組織を踏まへてさかいが出来たものと考へれば、尚若干、説明の余地は残る訣である。

音韻変化説(さかい<すかい)も、有機的なものを無機化するやうな弱点を持つたものとして、出来れば避けるのが、よいであらう。一層のこと、先に触れたやうに、「すかい」「さかい」以前のであつても、であつても、意義に区別なく、さかいすかい(或は又しかい)が通用してゐた時代も考へて、そこまで溯らせるのならば、有機的音転として成り立ちさうでもある。おなじ室町時代でも、鎌倉期をひきついだ僧家と、其学の後なる儒家の鈔物類に見えるものは、さう言ふ学者の用語の素朴な口の上の音韻変化が、極めて自由であつて、我々の意想外な発見を予期することが出来る様だ。「さかい」「すかい」の解決も、こんなところから、ついて来ないでもなからう。

閑吟集や、狂言に、まことに偶然とでも言ふやうに書き残された、口ことばの生態は、時代としては直に、鈔物の時代に接してゐる。だが、こゝには、限度を考へてかゝる必要がある。

さかいの歴史を、無限に近く延長することになる虞れがある。其は、標準語から落伍した、単に一つの長い流行語に過ぎない。其からして、日本語の歴史の窺はれるやうな、大げさなとり扱ひはしたくないものである。此が、この方言の中に育つた者の、辛うじて持ちこたへてゐる、せい一ぱいの良識である。

底本:「折口信夫全集 12」中央公論社

   1996(平成8)年325日初版発行

初出:「言語民俗論叢」

   1953(昭和28)年5

※底本の題名の下に書かれている「昭和二十八年五月刊、金田一博士古稀記念「言語民俗論叢」」はファイル末の「初出」欄に移しました

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年411日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。