「しゞま」から「ことゝひ」へ
折口信夫



われ〳〵の国の宗教の歴史を辿つて、ノボりつめた極点は、物言はぬ神の時代である。さうした神の口がほぐれかけて、こゝに信仰上の様式は整ひはじめた。歴史も、文学も、其萌しは此時以後に現れたのである。発生期に於ける日本文学を論じる私の企ても、「神語カミゴト」のはじまつた時を発足点としなければならぬ。

神語を以て、なぜ文学の芽生えと見るか。口頭の文章が、一回きりにとほり過ぎる運命から、ある期間の生命を持つ事になるのは、此時を最初とするからである。われ〳〵の祖先が、其場ぎりに忘れ去る対話としての言語の外に、反復を要する文章の在る事を知るのは、此神語にはじまるのである。神語以外に、永続の価値ある口頭の文章が、存在しなかつたからである。

神語は、古代人の生活の規範でもあり、知識でもあつた。特殊の人々をして、これが伝承に努めしめて、罔極の祖先から永劫の児孫に及さうとしたのである。而も神語は、代を逐うて増加し、展開し、変転した。其間に通じて変らなかつたのは、其形式が律文以外に出なかつた事である。

散文の、権威ある表現能力を持つて来る時代は、遥かに遅れてゐる。真に国語を以て、国語的発想を自由にした散文は、奈良朝にすら現れなかつたのである。口の上の語として使い馴されて居ても、対話以外に、散文が成立文章として存在する理由がなかつた。記憶の方便と言ふ、大事な要件に不足のあつた為である。神語に散文のものがあると考へるのは空想である。神語の、成立文章として口頭に反復せられる為には、律文でなければならない。が、律文である事を要求したのではなく、本質として律文であつたのである。即たま〳〵律文であつた事が、神語に成文的の効果を与へ、文学としての展開を導いた訣なのだ。律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。

律語形式の発生を語る前に、「神語」のいまだ発せられない時期に於ける、神の意思の表出法に就いて考へなければならぬ。なぜならば、神語が行はれる時代が来ても、其以前の表出法が交錯して現れるからである。

わが祖先の用ゐた語にしゞまと言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言のギヤウ」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。神語が行はれる様になつてからの語であらうが、其以前真に神の語らぬ時期にも、用語例を拡充する事が便利である。

神が、原始的のしゞまに於いて、どう言ふ発想法を採つたか。ある時代の後に、なる語で表したと思はれる所の、象徴を以て、我々の祖先は神意の表現せられたものと信じてゐた。(「ほ・うら」の論参照)

現象を以て神意の象徴せられたものと考へ、気分的に会得すべき象徴を、合理的に解決しようと努める様になつて、は神語の比喩表現と解釈せられる事となつた。かう言ふ現象の起るのは、神が如何なる意思からするのであらうと言ふ考へ方が一転して、此問題に対して、神はかうした現象を示した、此現象の示す所は、どうであるかと考へる様になる。第一歩は原因を考へるのであるが、此に到つて結果を問ふ形になる。此まではまだ象徴であるが、次には現象のみならずある物体が不意に出現し、或はある変化が個物の上に起る事があると其処に、神意の寓つてゐる事を信じる。此時期に居ると、象徴観の外に、比喩的解釈法を採る事になる。厳密に言へば、象徴時代のなごりがむたで、比喩時代に入つてと言ふ語が出来たのではないかと思ふ。

神語が行はれる様になつても、神によつては尚「しゞま」を守るものがある。又時によつて「しゞま」の形を採る事もある。「しゞま」を破りながら尚且、其とおなじ効果を持つ象徴或は、比喩風の神語を言ふ事もある。此様式が「何曾ナゾ(謎)」を生み、暗喩の遊戯「大和詞」逆発想の「入間様」を生む導きになる。其外、言語遊戯の此から出たと思はれるものが多い。又、極めて発語を惜しんで、唯一言ヒトコトを以つて答へると称せられた一言主ヒトコトヌシ神の様なのさへあつた。後世短歌の上の頓才問答の様になつた「鸚鵡がへし」の如きも、恐らく起原はこゝに在るものと考へる。尤、直に此等の言語遊戯が出来たのではなく、数次の変転を経て居るには違ひないが、大体の起原は此処に在るものと見てさしつかへはない。此等は皆其端を、神語発生以後に発して居る。私の考へでは、旋頭セドウ歌・片哥カタウタもやはり、此意味から出てある完成を示したものである。順序として、まづ「神語カミゴト」の初期の模様を語らねばならぬ。

神にして人語を発する者あるは、海のあなたより時を定めて来り臨む常世神トコヨガミにはじまる(「まれびととこよと」参照)。此神は元々人間と緻密な感情関係にあるものと考へてゐた為に、邑落生活を「さきはへ」に来る好意を持つと信ぜられてゐたのであつた。事実に於いて、常世神の来訪は、ある程度の文化を持ち、国家意識が行き亘つて後までも行はれてゐたのである。神々が神言を発する能力を持つてゐると考へる様になつたのは、当然である。

其為に時としてはかへつて逆に、古い世にこそ、庶物の精霊が神言をなしたものとすら考へる様になつた。「イハね」「ねだち」「草のかき葉」も神言を表する能力があつたとする考へが是である。我が古代の言語伝承に従へば、之をことゝふ或はことゝひすると称へてゐた。併しながら「ことゝふ」なる語の原義に近いものは、唯発言する事ではなかつた。「言ひかける」と言ふ原義から出て、対話或は問答を交へると言ふ義も持つてゐたらしい。「しゞま」を守るべき庶物の精霊が「ことゝふ」時は、常に此等の上にあるべき神の力が及ばぬ様になつてゐる事を示してゐる。すなはち神の留守と言つた時である。其時に当り、庶物皆大いなる神の如くふるまふ状態を表すのである。だから、巌石・樹木・草木の神語を発するのは第二次の考へ方で、此等皆緘黙するものとしたのが、古い信仰だつたのである。事実庶物の精霊の発語することは、後代却て不思議とせぬ所である。伝襲を役としてゐる律文類では、枕詞一類修辞法の様に「言とはぬ木すら」など言ふが、其根本必しも岩石草木に限らず、地上の庶物をす事を考へれば、又草木岩石も物を言ひ人に化したりしてゐる事を考へれば、此成語の本来の意義は知れる訣だ。常世の論にも述べてある様に、「まれびと」が邑落生活をどうかすれば禍しようとする精霊を圧服する為に、時をきめて来臨して此等の低級な神々に「ことゝひ」をする。

私は、言問ふと言ふ考へを単に民間語原感に過ぎまいと思ふ。ことゞと言ふ語根の活用であると考へる。「ことゞ」は命令を含んだ約束で、「これ〳〵の事は出来ないぞ」「これからかうせよ」と言ふ誓ひをさせる式であらう。いざなぎの命のよみの国訪問の時、いざなみの命との間に結ばれた各種の誓言は、実はすべてが「ことゞ」であつたのである。自身の親しい民の為に、これ〳〵の事をせぬ様、これ〳〵ぎり以上禍を与へぬ様にとの約束で、事実、「まれ人」と地上の神との「ことゝひ」の様の記憶が神話化して、特殊化したものとなつたのである。此古い形に対して、極端に変化したものを比べて見ると、継体天皇の時の事実と伝承した夜刀ヤト神を逐うた箭括ヤハズ麻多智マタチの話である。山口に標木を立てゝ、此以上を神の地、此以下を人の田と定め、今から後自ら神祝として、夜刀神を祀るから祟りすな、と言うて、子孫代々此社に仕へたと言ふ。此などは、神の資格に於いてすべき事を、人がしたのである。だが、大体に「ことゞ」をカハす事は、常世神以外には出来ぬものと考へたものらしい。此も奈良朝以前にも既にコトに神にふ位の内容しか感じられないまでに固定したと見えてゐるが、「ことあげ」と言ふ語が、「ことゞあげ」で、人間の神にする「ことゞ」を言うたと想像出来る。「ことあげ」は極めて虔しむべき事だつたので、「言挙コトアげ」を否定する文献の多い理由も知れる。此外には事実「ことあげ」を繰り返しながら、語の上でばかり之を避けてゐた理由が知れぬのである。

やまとたけるの命が、胆吹山の神が猪になつて現れた事を誤認して言挙げし、其言挙げに因つて惑はされたとあるのは、神の種姓を知らずして「ことゞ」をなしたから効果がなかつたのである。此はよく「ことゝひ」の性質を示した事実である。

又万葉には、此語を歌垣の場の言ひかけ或は求婚手段と言ふ風に解してゐる様である。勿論かうした意義も、一方に分化してゐたものと考へられる。日本の歌垣も支那の踏歌も、源流は一つなる農産呪術で、地霊を孕ませる為の祭事である。其が後には、人の行為に農神を感染させようとするものと言ふ風に考へて来た。併し元々、新に来た「まれびと」と穀物の神との間の誓言の「言ひかけ」に始まり、更に「とつぎ」を行うて、効果を確実ならせようとするのである。群衆客神と群衆巫女との様な形になつて来てはゐるが、実は根本思想はそこにあつたのである。

「まれびと」の「ことゝひ」に対して、答へる形が段々様式化して、歌垣の「かけあひ」の歌となる。後には其も、文句がきまつて来て、「かけあひ」としての興味と、原義を失うた地方もある。筑波の嬥歌会カガヒの如きはさうしたものになつてゐたらしい。而も他の方では、依然即興の歌をかけあうて居たと見られる。歌垣・嬥歌会・小集会ヲヅメ皆初春の行事であつたのが、今一度秋冬の間に行ふ様にもなつた。感謝の意味から出たのであらう。

「まれびと」の「ことゝひ」の中、殊に注意を惹き、興味多かつたものが、原始歌垣の「かけあひ」である処から、「ことゝふ」と言ふ語の用途が前に述べた様に変つて行つたのであるが、普通の呪詞の誤解から出た用語例から見れば、正しいものと言ふ事が出来る。かうして、神と精霊と言ふ関係から神と巫女と言つた関係にあつた邑落の男女が、本来の意義を忘却して、唯春の祭りに於ける感染の呪術と言つた考へから、更に幾分の遊戯分子を容れて、娯しい「かけあひ」の歌、相舞ひのをどりに、容色の美しさ、頓作の才を求められる様になるのである。併し、歌垣の場に於ける頓作問答が、恋愛の贈答として、価値を備へて来るのは、やはり始めの時代にない事である。本流としての呪言のある発達をなした後、傍流から急に伸びて来て、日本文学を促進したものと思はれる。

歌垣の場に於ける唱和が、神と精霊との「ことゝひ」の文句を、ある程度まで形式化し、固定せしめたものであらう。さうして其形が、旋頭セドウ歌であり、その片方なのが片哥である。併し、此が歌垣によつて出来たものとばかりは言はれまい。かうした簡単な形の問答を交したのが、一方は次第に伸び、一方は固定して、恋愛贈答歌の姿をとるに到つたのである。(「あきつ神」の論参照)

草木の「ことゝひ」を成語としてくり返す事になつたのは、「新室ほぎ」から起る。其土地が如何なる神・精霊の占める所なるか知れぬ処から、其地にある庶物の精霊に退去を頼む時に、言ふ定まりになつて居た語らしい。だから根本思想は地を占める場合に、地霊を逐ふところにあるので、新に村を構える様な場合にも之を行うてゐたものと見られる。此地は昔、我等の神が「ことゝひ」によつて、おん躬らから譲らしめられた土地である。早々退散して禍ひする事なかれと言ふ様な考へ方が、とゞのつまり、建て物の言ほぎに、「ことゝひし磐ね・木ねだち・草のかき葉をも言止コトヤめて」など言ふ表現法を採る事になり、記紀に地上の庶物おのおの勢を得た様の描写と形を変へて来た理由である。未開拓地の人居の安からぬ模様は、前の麻多智の伝へでもわかるが、揖保郡林田里伊勢野ハヤシダノサトイセヌの起原で見ても知れる。道教の影響が帰化人から及ぶ以前に、村や家と庶物の精霊との関係を切実に考へてゐたのである。

「まれびと」にことゝはれた庶物の精霊は、やはり答へるのが原則であつた。語を以て答へない時は、「ほ」を以て応じた。此は「ほ」が庶物の精霊の上にも、行はれるものと解したのである。此「ことゝひ」と「ほ」とは並行して、精霊により、又おなじ精霊でも時によつて、どちらかの方便をとつてゐる。

村々の生活が段々に進んで来るに連れて、今までの定期に臨み来る常世神以外に偶然に新来する神々が増しても来、村々の精霊を握つてゐる専任神職とも言ふ位置が確立して来る。其人の自覚によつて新しく尊い神々が殖えて行つた。

底本:「折口信夫全集 4」中央公論社

   1995(平成7)年510日初版発行

※底本の題名の下には、「草稿」の表記があります。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年1031日作成

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