桑の実
鈴木三重吉
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おくみが厄介になつてゐるカッフェーは、おかみさんが素人の女手でやつてゐられる小さい店だけれど、あたりにかういふものがないので、ちよい〳〵出前もあるし、お客さまもぼつ〳〵来て下さるので、人目にはかなりにやつて行けるらしく見えたが、中へ這入つて見ればいろ〳〵あれがあつて、おかみさんは、月末になると、よく浮かない顔をして、ペンと帳面を手に持つたまゝ、茫やりと一つところを見つめてゐられるやうなことがあつた。
おくみは自分がいつまでもぶら〳〵とこゝにかゝりものになつてゐるのが済まないやうな気がして、いつも自分で先へ〳〵と用事を求めて働くやうにしてゐるのだけれど、料理場の男と店の方を受持つてゐるてきぱきしたお安さんともう一人の女中との外に、下を働く下女が一人、出前持の小僧が一人ゐて、それへおかみさんも出来るだけは立ち働いてゐられるので、おくみはたゞ十になられるあき子さんと小さい男のお子さんの面倒を見るのと、一寸したお針なぞをしたりする外には、これとてすることもなかつた。
「おくみさん、もうお寝みなさいな。十二時よ。私もそろ〳〵目をつぶりかけるわ。」
夜分なぞ、おくみはもうするだけの事はして了つて、客のない店の鏡のところへ出て悄んぼりと髪なぞ解いた後、窓の硝子を通して、向うの、郵便局をしてゐる家の赤い電球を、見るともなく見入つて立つてゐると、おかみさんが所在なさ相な顔をして出て入らつして、椅子を片寄せながらかう言つて、眠さうな欠伸をなさる。
女中のお安さんは、多い髪のハイカラな巻きかたに、黄色い厚い留櫛を見せて、向うのテイブルに俯ぶした儘、正体もなく居眠をしてゐる。
「雨でも降つてるのか知ら。変にしつとりしてるやうだわね。」
「さうでございませうか。」
入口の硝子戸を開けておくみは覗いて見た。雨ではないけれど真つ暗い夜である。店の少い通とて、もうどこにもすつかり戸を入れてゐて、人の往き来もない。頭の上には、たつた一つ黒く消えかけた星が、小さい詛ひのやうに瞬いてゐる。
おくみは戸をしめておかみさんの方へ来る。外を見た目で店を見れば、水の中かなぞのやうに青いガスの漲つた室内には、すべてのものが昼のやうに光つて見える。少しもあくどい飾りなどのない、さつぱりした店である。よくこゝへ来られる青木さんが画かれた、西洋の女が椅子にかけてゐる画と、黒い壺にさま〴〵の色の花をさしたのとの、二枚の小さい油画が、テイブルかけの玉子色の上に際立つて見えた。
二階には女づれの西洋画家と、つれの一人とがまだカルタを引いてゐた。
かういふつゞきから、おくみはおかみさんがぽつねんとかけてゐられる椅子のところに彳みながら、さつきも頻りに考へたやうに、自分のこれからの振り方について惑ふ心持をおかみさんに話した。
「だつてなまじつかなところへ奉公なんかすると、身をしくじる元だから、それこそよく何した上でないと。──私も何とか考へて上げるつもりでゐるんだけれど、でもくみちやんにしては、いつまでもこゝにかうしてゐるのも拙らないしね。」と、こちらの気にもなつて見て、ここにゐて飽き〳〵してでもゐるやうに言はれる。おくみはさういふ得手勝手なわけからではもとよりない。かうして何一つおかみさんの足しにもならないのが済まないから色々に考へるのであつた。
「私がもつと何か出来ますといゝんでございますけど、かういふ調子で一寸も物の間には合ひませんし、」
おくみはこんなときにでも、自分の心持はこれだけしか得言はなかつた。
「そんなことをお考へのは、まだ私を他人のやうに思つてるからだわ。私のところにくみちやんが一人ゐたつて何でもないぢやありませんか。ゐて貰へば私だつてそれだけ助かつてるんだしね。──いゝからまあ当分この家の子になつて入らつしやいよ。」
おかみさんは気よくかう言つて下さる。
「それよか一寸こちらへ向いて御覧なさい。面白いところにほくろがあるわね。」
「これでございませう?」
話はこんな風にして飛んでしまつた。
おかみさんは寧ろ気のいゝ方で、主人に亡くなられなすつてから、二人のお子さんをつれていろ〳〵言ふに言はれない苦労をなすつて、どうかかうかこれまでにやつて来られた人程あつて、すべてにしんみりした思ひやりがあつた。
亡くなられた主人は洋画家だつたのださうである。おかみさんは、二人の小さいお子さんを抱へてさへゐられなかつたら、こんなことなぞをなさらなくもいゝ人柄である。この店をおやりになるといふについて、青木さんたちが力を入れて下すつたり、それから同じやうな画家たちが多く出入りして下さるのも、亡くなつた画家の未亡人に対する同情であつた。併し店としては余りはか〴〵しくもなかつた。
おくみはこゝへかゝりものになつて来てから、浮か〳〵してゐるうちにかれこれ二た月以上になつた。
考へると自分ながらたよりのない身の上である。お父さんには二つの年に亡くなられて、十一になるまで継母の手で大きくなつたのが、継母はそれまで一人でやつて来たのに、四十になつてからおくみを人にくれといて、よそへ再婚した。継母は赤十字病院の看護婦長のやうなことをしてゐた。おくみが貰はれたのは、その病院で書記をしてゐた人のところであつた。
おくみはそこから、続いて学校へもやつて貰つてゐたが、さうしてゐるうちに、その養父はおくみが十四になつて女学校へ上げて貰つたばかりのときに急に亡くなつて了つて、おくみはまた養母とたつた二人になつた。そんな事で学校も間もなく下つた。
養母はどこからも金が這入るところがないので、ずつと小さいところへ移つて、人の針仕事なぞをして貧しい目をしなければならなかつたので、おくみも僅かの日給を取りに、下町の商品陳列館の小売部へ傭はれて売子のやうなことをしたり、或小さい商会へ給仕に出たりしてゐた。
養母はもとから少し下素なところのある、冷たいたちの女であつたが、夫が亡くなつて手もとが苦しくなつてからは、貰ひ子のおくみを足手纏ひのやうにつけ〳〵当り出した。おくみは勤め先へ通ふ電車の中なぞで、よく、先の継母のことを考へ出して、たよりない自分に、一人涙ぐまれるやうなことがいくどもあつた。
継母はおくみを今の家へくれといて、後の夫と台湾へ行つて了つたのだつたが、このときには上海にゐるとかいふ事を、養母が赤十字病院の人に聞いたくらゐのことで、向うへ行つてからとき〴〵便りをしてゐたのが、二年ばかり前からふつつりはがき一つもくれなくなつた。どうしてゐるのかさつぱり解らない。養母がそんな事なぞを悪くいふのが、おくみには自分の引け目のやうに辛かつた。
二人はそのやうにして一年ばかり貧しい日を送つてゐたが、養母は仕事だつても一向ないし、おくみが得る金も、電車賃やその外のつましい入用を引くと、おくみ一人の口を立てるのにかつ〳〵ぐらゐなわけだつたので、苦しい目を厭ふ養母は、おくみさへどこかへ嵌めることが出来たら、いつそ、大きなところへお針にでも住み込みたいやうに言ひ出した。
そんなことで、おくみが商会で新聞の職業案内を見て、或日曜の日にたづねて行つたのが今のおかみさんのところであつた。おかみさんは、そのときは主人に亡くなられて間もない頃で、水道町の小さいところに装飾美術の手工を教へる看板をかけてゐられた。おくみはそこへ女中代りに這入つて、閑々にさういふものを教へて貰ふ女になつた。養母は間もなく、考へどほりに、青山の方の或伯爵家へお針女に這入つて今にそこに勤めてゐる。
こゝのおかみさんは、おくみの気立を哀れがつて、自分の血を享けたもののやうによくして下さつた。そのときには今のあき子さんがまだ五つか六つかで、下の坊ちやんはほんの赤さんであつた。おかみさんに仕事を習ひに来る人は多いときでも四人ばかりしかなかつた。おかみさんはそれらの人に教へがてら手伝ひをさせて、亡くなつた主人の知合の画家たちが画いてくれる下図によつて、西洋のもののやうな意匠の壁かけや、テイブルかけや、カーテンのやうなものを縫取りして、下町の売店へ托しに行かれた。おくみは坊ちやんが寝たりしてゐられる閑なぞに、来たての人たちに交つて、編物や、子供のエイパンや帽子の拵へかたなぞを習つた。
その頃青木さんもとき〴〵話しに来られた。
おくみはそこを自分の生れた家のやうに思つてたよつてゐたが、おかみさんはそれから一年もたゝない内に、どうもその仕事では立てて行けないので、いつそ身を下げて千駄木の方へミルクホールを出されることになつた。さうして片手間で受合仕事のレイス細工なぞをされたが、その方は大した足しにもならなかつた。おくみは店で牛乳を沸かしたりして手助けをした。
おかみさんは、このやうなことにおくみを使つてゐたのでは、元来の約束にも反くし、おくみが何一つ先のために得るところがないから、どこか程よいところへ世話をしたいと言つて気にされた。おくみの方でもいゝ思ひつきがあつたらその方へ行つてくれると安心だがと、あれこれ考へたりして下さつたけれど、おくみの方では、おかみさんの窮してゐられるのをほつといて、よそへ出て了ふ気になれないばかりでなく、自分もこの人のところからはなれたくなかつたので、奥さんが置いて下されば、いつまでも伴れてゐて戴きたいと涙ぐみながら言つた。
おくみはそのときはまだ十六になつたばかりであつた。
ところがミルクホールも一寸もはやらなくて、これも一年ばかりで店を閉ぢて、おかみさんはお子さま二人をおつれになつて、仙台のお実家の方へかへられることになつた。たゞ自分たちが月々を立てて行かれるだけならどうにかやつて行けないこともなかつたのだけれど、おかみさんはさうした女手一つの間から、亡くなられた主人の遺された負債の方へ、毎月少しづゝ入れて行かなければならないので、少々のあれではとても追附かなかつた。月々の利息ばかりにでも困られた。
お実家の方はどうにかやつてゐられるのださうであつたが、もともとおかみさんは、お父さまたちのお聞きにならないのを遁げ出して来られて先の主人に投じられたので、おかみさんがかうして一人になられるまでは、実家の方から絶交されて入らつしたのであつた。ミルクホールを出されるときの元手は、お父さまとお母さまとが窃かに工面して下さつたのださうだけれど、家を継いでゐられるお兄さまはいつまでも解けて下さらなかつた。おかみさんが負債の方へは夜遁げでもするやうにして、さういふ中へ帰つて行かれるのは、どんなにか辛かつたやうであつた。
おくみはおかみさんのお近づきの方の世話で、おかみさんの立たれるのと共に、さし向或西洋人のところに子供のお守に這入つて、そこに七八箇月ゐた後に、青山にゐる養母のつてで、この間まで四年足らずの間、山の手の、或、外務省に勤めてゐられる人の邸へ小間使ひに上つてゐた。養母には西洋人のところにゐる間に二年ぶりで会つたのであつた。これまで手紙のやり取りはしてゐたが、平河さんのお家がミルクホールなぞを出されたりしたことは隠して、これまでのやうに仕事を教はつてゐるやうな体につくろつてゐた。西洋人のところにゐるのを告げたときには養母は愕いた。
平河さんのおかみさんには、お別れしてもしげ〳〵手紙をいたゞいてゐた。おかみさんは間もなく、小さいお二人を置いて出てこられて、或私立の女学校へ手工を教へに行つてゐられたが、後には二人をつれてお出でになつて、女生徒を預る素人下宿を開いたり、いろ〳〵に迷はれた後に、たうと今のカッフェーをお出しになつたのであつた。
おくみはこれまででも、おかみさんのところを実家のやうにしてときをりたづねて来た。女生徒を置いてゐられたときには、正月の宿下りに行つて泊めて貰つたりした。
おくみはお邸にゐる間に二十といふ年になつた。これから先いつまでもこのやうに同じことばかりして人の家に奉公してゐることかと思ふと心もとないやうな気がしたけれど、帰らうにも家はないし、何かして行かうと言つたところで何一つ手に入つてゐる業もない。女のすべきお針さへも──そこのお家で少しづゝ教はりはしたけれど──まだやつと一通り道が開いたくらゐのことで何にも出来はしなかつた。
性質の大人しいおくみは、上に立つ女中や、いろんなところに気くばりばかりして、辛いうるさいことが多かつた。けれどもだれとて語るべき人もないので、一人で諦めてゐる外にはすべもなかつた。養母にはそのやうな事は言ひたくなかつた。
おかみさんは黒人の出の人だとかで、短気な、気に入り悪い方であつた。それへ大勢のお子たちがあつたりして、勤め辛かつた。今から思ふと、よくあれだけの間あそこにゐたものだといふやうな気がする。おくみは、自分が辛いと思ふときには、いつも平河さんのおかみさんのことなぞを考へ合はせて、これでもまだ今のうちは自分の方が仕合せのやうな気になつたりして、何ごとも忍んで来た。考へると女程つまらないものはないやうな気がした。
今度は、主人が、政府が変つたのについて出世されて、西洋の大使館へ代られることになつて、こちらをすつかり畳んで行かれたので、おくみたちに閑が出たのである。おくみは帰るところがないので、平河さんへおたのみして、どこへか身の振り方のつくまでかうして当分来てゐるのであつた。
この間内まではおかみさんが少しお体が悪かつた上に、小さい方のがはしかにかゝつたりされて、おくみがゐるのが切つてはめたやうに役に立つてゐたけれど、今ではゐてもゐなくてもいゝやうな自分である。どうせずつとこゝにゐられるわけでもないので、何とかしなければならないのだけれど、養母がいふやうに、またどこかのお邸へ上るといふのももう気が塞がるやうで進まない。水仕事のやうなことをしてもいゝから、のんびりしたところにゐたいやうな、我儘な心持が動くのである。ミシンを教はるところがあるからそこへ這入らうかと思つたけれど、それはおかみさんが拙らないと言はれる。何をすると言つても今からではもう遅いし、どことて取りつくとこもないやうな気がする。
出来ることなら、このまゝこゝの家のものにして戴いて、いつまでもおかみさんを頼りにして暮して行つたらと思つたりするけれど、自分には何とて嵌つた用事もない。お安さんがしてゐるやうなことが出来たら、あゝした全くの他人を置いたよりもおくみが働けば丁度いゝのだけれど、お客の気心に合はして笑つたり相手になつたりすることはおくみには出来ないし、もししなければならなくなつたとしたら情ない。やつぱりまたどこかへ奉公に上らなければなるまいか。──
小さいあき子さんと一つ寝床に寝てゐるおくみは、板戸の隙間が仄かに白んで来た明方など、一人このやうなことを考へて、早くから目を開いてゐたりした。
おくみは丁度さう言つたやうな矢先へ、たま〳〵青木さんのところに代りの婆やが要るので、だれか来るまでの間、一寸手伝ひに行つてお上げすることになつた。
或雨のふる午後、青木さんはいつものやうに悄んぼりした顔をして出ていらつして、こちらへお上りになつて、おかみさんと色んな打明話なぞをなさつた後、店のテイブルでお安さんを相手に食事をされて、少しばかりのウヰスキーで赤い顔になつて、ガスが附くころに雨の中を帰つて行かれた。
青木さんはおかみさんとの話が途切れたとき、
「おくみさんは私を覚えてゐますか。」と、こちらで挽肉のハンドルを廻してゐたおくみに聞かれた。
「だつてこの間も一寸お目にかゝりましたぢやございませんか。」と笑つたら、
「だけれど、私といふことを忘れてゐやしないかと思つて。──私はこの間はだれだらうと思つた。すつかり見ちがへましたよ。」と仰りながら、おかみさんの前にごろりと寝ころんでお出でになつた。
「あなた様はあの時分と一寸も変つて入らつしやいませんよ。」
「水道町の頃と? でも四つになる子供のお父さんだのに。」と、あちらを向いたまゝさうお言ひになつて、おかみさんと話をつゞけられた。
「おくみさん、あき子さんをつれて出て来ませんか。山羊の乳を飲ませるよ。」
「お家に山羊がゐますのでございますか。」
「二匹ゐるよ。二匹。」と青木さんは赤い顔をして帰つて行かれた。黒い長いネクタイを大きく結び切りにして垂れてゐられた。さういふ風にしてゐられても少しもけば〳〵しくお見えにならないところが却つて人を引くやうに思へた。つましく寂しく暮してゐられるやうに見えた。おくみはおかみさんから、青木さんが去年まで二年ばかりフランスに行つてゐられたといふ事を話された。
そのときには別にお家のことなぞも聞かなかつたけれど、その次に青木さんが坊ちやんをつれて来られて、婆やが近々に息子のところへ帰つて行くといふのだけれど、後が困つて了ふがどうしたらいゝだらうとおかみさんに相談されるのをおくみは聞いて、話の容子で青木さんは奥さんが亡くなられたかどうかして、婆やに出て了はれると坊ちやんとたつた二人になられるらしく思はれた。
「あなたも少しのんきだわ。なぜかうなるまで黙つていらつしたんでせう?」
「だつて、さう急いだわけでもないと思つたから、その内代りを探さうよと言つたきり、私も急がしいんでつい忘れてゐたんです。」
おかみさんと二人でこのやうなことを言つてぼそ〳〵話して行かれた。それから日を置いて二度ばかり来られた。
昨日は青木さんから、どうも困つたといふはがきが来た。その晩に、おかみさんが当惑したやうにおくみにそれを仰つて、どうでもおくみさんにでも当分行つてて上げて貰はなければなるまい、気の毒だけれど、と、困つたやうに言ひ出された。
おかみさんはそれから青木さんのお家のことを話された。青木さんの奥さんは去年の暮あたりから、坊ちやんを青木さんの方へお置きになつて、牛込のお実家の方へ帰つてゐられるのださうであつた。大分久しくからヒステリーのやうになつてゐられて、いつもぶら〳〵してゐられるのだといふ話であつた。
「青木さんがあゝしたおとなしい、いゝ方だから余計に気の毒でね。──どうせその内にどこからかいゝ奥さんをお貰ひなさるだらうけれど。」
「でも只今の奥さんもお気の毒でございますね。」
「それがね、言はゞ奥さんの方の考へで以て、今一寸離婚されなすつたやうな風になつてるんだから。」
かう言つておかみさんは話をお換へになつた。何かごた〳〵したわけがあるらしく見えた。
今ゐる婆やは、青木さんに学校時代から使はれてゐる女で、青木さんの洋行中は、奥さんと二人で小さい坊ちやんを護つて留守をしてゐたのださうだけれど、今度どうしても息子の方へ帰らなければならなくなつたのださうである。
青木さんは亡くなられたこゝの主人によくしてお貰ひになつた方で、主人が亡くなられてからは、すべてにおかみさんの力になつて上げてゐられるのであつた。おかみさんもさういふわけで青木さんのためにはどのやうなお世話でもなさらなければならなかつた。
一時おかみさんが女学生を預つてゐられた頃に、二人の間に何かありでもするやうに、下宿してゐる女生徒たちに評判されてゐられたらしいやうな事を聞いたけれど、おかみさんの気質を知つてゐるおくみには、もとよりそんなことは信ぜられる筈もなかつた。たゞ青木さんが一寸〳〵出入りされてゐたのを見て、根もないことを言ひたがつたのに極つてゐる。青木さんにしたつて、あゝした堅い方である上に、そのときには、ちやんと、お貰ひになつたばかりの奥さんがおありになつた。
「併しその中に都合よく代りのものが目附かるかも知れないけれど、いよ〳〵どうにもならなくなつたら、十日かそこいらのところを、おくみちやんが行つてて上げるつもりにしてくれないこと?」
おかみさんは言ひ悪さうにかう仰るのであつた。
「何でも構はない方だから、たゞ御飯を拵へて上げて、小さい人のお守をして上げればそれでいゝんだもの。──昼の内は坊ちやんをつれて所つ中こゝへ来てたつていゝしね。それにさつきも言つたやうに、今丁度弟さんが入学試験を受けるので来ていらつしやるから、あそこの家だつて夜になつてもさう淋しくはないわ。」
「さうですね。」とおくみは考へてゐた。
「厭?」
「いゝえ。たゞ私のやうなもので間に合ひますか知らと思ひまして。──お勝手元のことなぞでも本当に何にも出来ないのでございますから。」
「大丈夫よ。」
青木さんがたつた一人でいらつしやるのだつたら、若い女がついてゐるといふ事が、何だか世間の手前なぞに対しても変なやうな気もするけれど、それにはちやんと弟さんも入らつしやるのだしするから、そんなに何も心配しなくてもいゝしと、おかみさんはおくみの身になつてかう仰る。おくみは行くところが極るまでの間、かた〴〵自分に取つても都合がいゝやうに思つた。
おかみさんがその事をはがきでお知らせになると、青木さんは御安心なすつた。それでもなるべく来て貰はないで済めばといふ御返事であつたが、二三日して、やはりおくみが借りられる事になつた。
おかみさんと二人は、朝、仕度をして、白い服を着た料理人の男が、買ひ出しから帰つて来るのを待つてゐた。
おくみはおかみさんと二人で山の手線の小さい駅へ下りた。
おくみはいつかこの電車で品川へ行つたときに、そこに今見えてゐた、何かの工場らしい大きな赤い煉瓦の建物や、さつきの牛乳屋の、牛がいくつもゐた柵なぞを、この駅の目印のやうに見て通つた気がするけれど、このあたりへ下りたのは今初めてであつた。
「もうこゝまで来れば大方来たやうなものよ。」
おかみさんはブリッヂを下りて了ふとかう言つて、帯の間から切符をお出しになる。駅を出て互に洋傘を開く手に、おくみはおかみさんのお土産のハンケチ包みを持つてゐた。
いろんな店なぞの出てゐる、場末らしい町筋を少しばかり行つて、或、貧しい草花の鉢物を乏しく並べた、黒ずんだやうな家と、活動のびらの下つた小さい床屋との間の狭い横町へ這入つてから、そこを左の方へ折れるまでの間は、汚ならしい長屋のやうな家ばかり並んだ、ごた〳〵したところであつた。
やがて再び幅の広い通りへ出た。
二人は、粗末な貸家なぞがぽつ〳〵立ちかけてゐたりするやうな、草原なぞの多い、寂れたところを近廻りして、小ぎれいな家の並んだ上品な通りへ出た。
「まあ珍らしうございますこと、麦の穂が出てをりますよ。」
「きれいに作つてあるのね。あの家の裏手になつてるんだわ。──あそこを御覧、水引よあれは。」
「あんなにして拵へるんでございますかね。こちらにも並べてありますよ。赤いのが綺麗ですこと。」
二人はこのやうなことを話しながら、立木なぞの沢山ある、青々した通りを歩いた。
おくみはかうして久しぶりに、たゞぶら〳〵歩くために出て来でもしたやうに、すべての物に気がまぎれるやうな、のんびりした気分になつてゐた。柔かい五月の日向も、心地よく二人の洋傘に浸みた。二人ともそれ〴〵に一寸したよそ行きの着物を着てゐた。おくみの、根の上つた日本髪や、帯の背中の恰好なぞは、どうしても、きちんとした、上品な小間使らしい女に見えた。
おくみは、電車を下りてどこをどう来たのだつたか、もう解らなくなつた。そこから間もなく、西洋人の名札の出た、白いペンキ塗りの、小さい平家だての西洋館の前を通つて一寸行くと、右手の杉垣のつゞきの中に、青木さんのお家の瓦斯燈が見えた。
「ね、小ぢんまりしたいゝお家でせう。あたりはこんなだしね。──あの二階が青木さんのお仕事をなさる画室よ。」
おかみさんはかう言つて、先に立つて木戸口をお開けになる。上に見えてゐる二階のこちらの側は、硝子戸の内に白い布が引かれてゐた。
おくみは一足後れて洋傘を畳んだ。そこには青木さんのお名前が、黒いペンキで標札に書いてあつた。
おくみは何となく青木さんのところを、だゝ広いばかりで陰気な、さびれた家のやうに想像して来たけれども、それとはちがつて、小造りな、建つて間もない明るい綺麗な家なのですつとするやうな気がした。
おかみさんが入口の格子戸のベルをお押しになると、障子のぢき内に附いてゐるらしい梯子段からどなたか下りて来られる足音がした。
と、取次に出て来たのは十八九くらゐの、ハイカラな束髪の女の人であつた。派手なメレンスの帯をしめて、丁度店のお安さんのやうな人馴れたところが見えた。
「お家で入らつしやいますか? 平河でございますが。」とおかみさんが仰る。
「どうぞ。」と言つて格子戸の栓を開けてくれる。つゞいて青木さんが気色で知つて下りて入らつした。
「さ、お上り下さい。今日は仕事をよして待つてたんですよ。──林さん、こちらにしよう。そこをちやんと片附けて下さい。」
青木さんは下の間へ通すやうに女の人にさうお言ひになる。
「婆やさんはどこかへ行つたんですか。」
「え、子供をつれて一寸そこまで使ひに。──今のはモデルの女。」と青木さんは小さい声で仰る。
「私はこんな妙な風をして来たんですよ。──くみちやん、こつちへ入らつしやい。」
おくみはハンケチ包みをそこらへそつと置いといて、お二人の後から襖の内へ這入つた。
そこは六畳ばかりの奇麗な一と間で、大きな鏡のついた西洋風の抽斗台の上に、赤い西洋花が小さい青い壺に一かたまりさゝれて、それが鏡に写つてゐるのが第一におくみの目についた。下には、とき色で十字型に色を出した敷物が一枚敷いてあつた。低い小さい台へかけた、変つた縫取をしたテイブルかけを挟んで、青木さんの考案らしい質素な椅子が二つ置いてあつた。
「おくみさんこゝへおかけなさい。私の椅子はこちらにあるから。」と向うのを持つて入らつして、
「どうもお急しいところをわざ〳〵。」とおかみさんにお礼を仰る。
「いゝえ。いつも午前は何の用事もないんですもの。たゞくみちやんに少しお気の毒なだけ。──ね。」と、おかみさんはくつろいで冗談のやうに言はれる。
「私は何にも出来ませんのでございますから。」と、おくみはまぶしさうにこれだけ言つた。
「どうぞ一寸の間面倒を見て下さい。のんきな家だから何でもないですよ。──婆やはもう昨夜から行李を出してごそ〳〵やつてますよ。」とおかみさんと二人へかう順々に仰る。
「いつ立つんです?」
「一ん日でも早く立ちたいんでせうよ。年寄のくせに気のいら〳〵した女ですからね。」
「だれでも年取つた人は、かうと言つたらたまりがないんですわ。──坊ちやんはあれからいかゞです。」
「えゝ相変らず。昨夜から少し虫歯が痛いと言つてくす〳〵してゐます。どうも私のやうなものは子供なんか全く荷厄介だ。」
「そりや無理もありませんわ。今日までだつてよくやつてお出でになつたやうなものですからね。」
おくみは一人外の方を見てゐた。
「どうして子供なんてものが生れるのかな。余計な事だと思ふんだけど。」と、青木さんは函の巻煙草を取つて火をお付けになる。
「全くね。」と、おかみさんは口もとでお笑ひになつて、
「あなた、どうぞお構ひなさらないで下さいましな。お客さまぢやないんですから。」と、さつきの女の人にさう仰る。その人が銀色の盆に紅茶を入れて来たのであつた。
「これは家の山羊の乳ですよ。」と、おくみに仰りながら、青木さんは、手のついた、黒ずんだ色の、変つた面白い小さい壺から、三人の紅茶へ乳をお注しになる。
「冷たくならない内にお戴きなさいな。」
おかみさんとお二人は匙を取つてそれを飲みながら話しをされる。おくみは気を利かして、お土産をそこへ出す積りで席を立つた。
さつきの三畳へ出てハンケチ包みを取つて、次の間を覗くと、そこにはモデルの女の人が、することもないやうに障子のところにぽつんと坐つて、新聞を拾ひ読みしてゐた。外の土の上には小さい花壇が作られてゐて、赤いゼラニュームや、その外の花の色が目立つてゐた。
「どうぞこちらへ入らつしやいまし。」と女の人は愛想よく迎へて新聞を片づける。そこは青木さんの弟さんの部屋にしてあると見えて、青い羅紗のかゝつた一閑張の机の上に、英語の辞書やインキ壺なぞが置いてあつた。
おくみはこの女の人にさう言つて菓子鉢にするものを出して貰つた。向うに、茶の間の四畳半と、台所と湯殿と、もう一と間附いてゐるらしかつた。どこもきちんと片附けられて小ざつぱりしてゐた。四畳半には、坊ちやんの、紐のついた小さい着物が柱の釘にかけてあつた。
女の人は不馴れな容子でそちこちの押入を開けたりして、有り合せの西洋皿を一枚出してくれた。
「えゝ、これで結構でございます。」と礼を言つて、おくみはそれへ、ハンケチから出した、パセリをそへたサンドヰッチをよそつた。包のナプキン紙には妻楊枝まで附いてゐた。
「林さんとかいふ方をこゝへ呼んでお上げなさいよ。」と、おかみさんが青木さんに仰る。女の人は用事かと思つて出て来たが、
「いえ、私は沢山でございます。一寸帰りに用足しをして行くところがございますから、これでおいとまいたします。」といふ。
「さうですか。もうしばらくゐたつていゝでせう?──ではすまないが二階のテイブルの上に置いてある手紙をポストへ入れてくれませんか。明日は必ず坐つて貰ひます。」
青木さんは灰皿に煙草を消しながら仰る。
女の人は二階へ上つて行つた。おくみは送りに出て三畳に立つてゐた。女の人は手紙を懐にはさんで、帯上げを結び直しながら下りて来た。
「何かお忘れになりまして?」
「いゝえ、一寸。」と、林さんは次の間へ這入つて、そちらの方を向いて彳みながら、懐鏡を出して、懐中白粉でそこ〳〵に顔を直してこちらへ出て来た。
「さやうなら。──どうぞお心安くお願ひ申します。」
「私こそどうぞ。」とおくみは言ひ後れたやうにかう言つて、下り口に膝をついた。
「これから外は追々暑くなりますね。」
「段々に厭になつてまゐりますわ。どうぞあなた、あちらへ行らしつて下さいまし。すみませんでございました。」と、林さんはきさくに挨拶をして格子戸を締める。縫直しの着物の、色の変つたところが出てゐるのを着てゐたりするのが何となく気の毒で、おくみはそれを見まいとつとめるやうな心持がした。
こちらでは青木さんが、おかみさんにこの女の人の話をしてゐられた。
「くみちやん、折角のが冷たくなつたわ。」
おくみは馴れない手附をして、半冷くなつた紅茶を飲みながら二人のお話を聞いてゐた。青木さんはサンドヰッチを一つ二つお食りになる。
モデルの女の人は赤坂の方から来るのださうであつた。午前に二時間の割で傭つてお出でになるのださうで、まだ後十日くらゐは来てくれなければと青木さんは言はれた。さういふモデルの給金や、さうした女たちの性行なぞについて聞くことは、おくみには珍らしかつた。一寸した受合もので、椅子に倚りかゝつてうたゝ寝をしてゐる顔を画いてゐるのだと言はれる。
「お目にかけるやうなものぢやありません。拙らない小さい画です。──あとで御覧になればいゝ。どういふのか、こちらへ帰つてからは怠ける癖がついて一寸も実のあるものを画かないんですもの。それに一つは、どうしても余裕がなくては駄目ですよ。間に合せものばかり画いてるのは、人から悪口をいはれるよりも、自分自身が淋しい。だれか悠つくり、力を入れたものを画かしてくれないかな。」と、青木さんは頸の後に手を組んで、御冗談でもないやうに仰る。
「さういへば私のところの主人なぞは、随分みじめでしたわね。あの人のは画としては拙らなかつたかも知れませんけれど。──どうかしてたつた一人になつて画いてゐたいといふのが口くせでね。そして、いろんな出来もしない事ばかり言つて、いら〳〵してるんですものね。駄目よあなた、それどころぢやないぢやありませんか、第一今月はどうなさるんですつて、私はよくぶつ〳〵言つたものよ。お金がないと悄げて了つて小さくなつてる人でしたわね。とき〴〵目に見るやうですよ。」
二人はそれから、亡くなられたおかみさんの御主人の事について思ひ出し話をされた。
「まあ、青木さんはこれからですわ。かうしてみつちりやつてらつしやる内には段々にあなたの画が光つて来るんですから。」
「どうですか。近頃は一向気が向かない。色んなことでくしや〳〵するせゐか、とき〴〵画なんか画くよりも、茫んやり寝ころんで空でも見てる方がいゝ心持のときがありますよ。一体たちがのんきなのかな?」と、例の寂しい微笑みをお見せになる。
「それがいゝんですわ。人間はそんなにせか〳〵焦つたつて駄目ですもの。私なんか、これまでとはすつかり人間を変へてしまひました。もう先の事なんか考へないことにしてるんです。拙らないから。」と、おかみさんは別のことを言ひ出された。
「だれかまゐりましたやうですね。」とおくみは立つて行かうとした。
「いゝんです。豆腐屋でせう。山羊の餌を持つて来たんだ。」
「山羊はお豆腐の粕を食べるんでございますか。」とおくみは聞いた。
「それへふすまと言つて小麦の皮の粉になつたのを交ぜて食はすんです。」と青木さんが仰る。
おかみさんはそれから毎日の買ひ物やなにかについて聞かれた。
目の前の外の日向を、青く光つた虫が、青い糸を引くやうに筋を附けて飛んでゐる。
やがて、婆やが坊ちやんを伴れて帰つて来た。
おかみさんは画室からお下りになつて、裏の方へ出て御覧になつたりした後、お午近くに帰つて行かれた。
「では婆やさんが立つたらこの人をつれて入らつしやいな。一と通りのことだけして置けばあとはどうでもいゝんだから。家の内といふものはさう何から何までしようとしたつて限がないものだからね。──久男ちやん、今度はこのお姐ちやんに伴れて来てお貰ひなさいよね。さう〳〵、あそこで電車へ乗つて、それからまたもう一つ電車へ乗つてね。──よくお姐ちやんの云ふことを聞いて大人しくしていらつしやいよ。久男ちやんが無理を言つて困らせたりすると、お姐ちやんは直ぐ泣いてをばちやんの処へ帰つて了ひますからね。久男ちやんはさつきお姐ちやんを大好きだつて言つたでせう?」
おかみさんは洋傘をおさしになつた片手に、鬢の後れ毛の下るのを気になさりながら、そろ〳〵歩いてお行きになる。おくみは小さい久男さんの手を引いて、さき程通つて来た、白い西洋館の先まで送つて行つた。
「たゞ、水道がないのが一寸困るわね。風呂だけは青木さんの弟さんが汲み込んでくれるとは言つたけど。」
おかみさんは別れるまであれこれ言ひ足して行かれた。
お母さまのいらつしやらない小さい坊ちやんは、もうおくみにお馴れになつて、人なつつこさうに手に掴つて帰つてお出でになる。向うの電車の音が、あたりの青い木立の中に軋つて聞える。
後から水色に塗つた洗濯屋の車が来た。
おくみはおかみさんの行つてお了ひになつたあとを、しまひにまた振り返つた。ずつと前に千駄木のお家から西洋人のところへ行つたときに、寒い雨のしよぼ〳〵降る中を、おかみさんが、小さいのを負つて車屋まで附いて来て下さつたりした事なぞが、どうしてか思ひ出された。あのときにはおくみは生みの母にでも別れて出るやうに悲しくて、幌の中でおろ〳〵と泣いて行つた。
おくみはそのときまだ年の行かなかつた自分が、おかみさんに拵へて貰つた不断着を下したのへ、赤い色繻子の帯をして、あそこの家を出た姿があり〳〵と目に浮んだ。あれからでも色んな事をして来られたおかみさんも悲しい人のやうに思はれた。
「おや、下駄が脱げましたの? 早くおはきなさい。──まあ坊ちやんはお手がずゐぶん汚くなつてゐるんですね。」
坊ちやんには白地に赤い筋が雨の糸のやうに這入つた、厚い浴衣のやうな木綿の着物が、五月らしく着せてあつた。目もとだけは青木さんに似てゐられるやうだけれど、あとはすつかりお母さまに似てゐられるのらしい。ひよわい、沈んだやうなお子さんである。片つ方の人差指を口に銜へてとぼ〳〵とお帰りになる。
青木さんは台所の水口の前にこゞんで、バケツに入れた山羊の食料の豆腐がらへ、塩を振つて混ぜてゐられた。坊ちやんはおくみの手を引張つて、格子戸の方から上らうとなさる。
間もなくお午になつた。
青木さんは、サンドヰッチを食べたから、午は乳だけでいゝと言はれたさうで、おくみは婆やが生温くして壺に入れたのを、コップと共に盆に載せて二階へ持つて行つた。
青木さんは小さい方の室に、蔓の寝椅子に長まつて、少し開けてある硝子戸を通して外を見てゐられた。欄干には、下の西洋樫の木が、大きな柔々した青葉を揃へてゐる。青い空には低い微かな雲が迷ふやうに消えて行つた。
おくみは寝椅子の側の物置台へ乳を置く。
「さつきからそこへ小さい鳥が来て啼いてるんだが。──もう行つて了つたかな?」と、青木さんはぢつとしたまゝさう言つて耳を澄ましてゐられる。
「いゝお天気でございますね。」と言ひつゝ、おくみはそこに彳んで、青木さんの足もとの方の壁にかけてある、珍らしい壁かけの画を見てゐた。
それは女の神さまらしい一人の西洋の女が、青い鳥籠の戸を開けて、木の上に棲つてゐる七羽の赤い小鳥を呼び入れてゐる図案で、すべてが、色の珍らしいさま〴〵の布を貼り合はせて画にしてあるのであつた。鳥は木をはなれて女の持つてゐる籠に下りて来る。一つは半ば戸口に這入りかけてゐる。女の足の下には、見たことのない異つた草の花が咲いてゐる。一間程の幅の、珍らしい装飾であつた。
「こゝへ出て御覧なさい。向うの森がすつかり見えますよ。」
青木さんは、おくみがさうして外を見て彳んでゐた続きのやうに言はれる。おくみは赤い鳥から目をはなした。
青木さんは起き直つて乳を注がうとなさる。
「すみませんでございました。」と、おくみは壺を取らうとした。
「いゝんです。私が勝手にやるから。」
「さうでございますか? ではまたあとでゆつくり見させて戴きますから。」と、おくみは画室をもこちらからたゞ一寸見たばかりでそこ〳〵に下へ下りた。このお家へ来て、青木さんに馴々しく対してゐるやうに見えては、婆やの前に何となく変なやうに気が置けるからであつた。
「どうぞお二人でこゝで召上つて下さいな。何にもないのですみません。」と、婆やは、おくみを目上の人のやうに、坊ちやんと二人で先に食べさせようとした。
「いゝから。どうぞ私のいふ通りにして下さいよ。私は坊ちやんのお給仕をしといて、あとで一人戴く方が片づいていゝんですから。」
気のいゝ婆やは心安くかう言つて、坊ちやんの襟元へナプキンを揷んだ。
「何だか私をお客さまのやうになさるわ。」
おくみは困つてもぢ〳〵してゐた。
坊ちやんは食べかけて、また歯が痛くなつた。婆やが塩水を含ませたのが浸みて、ひどく泣き出された。
食事が済んでから、おくみはその痛む虫歯へ、婆やに買つて来て貰つたケリヲソートを附けたりして、やうやく坊ちやんを泣寝入りに寝せつけて、一人枕もとに坐つてゐた。
全で村かなぞのやうに、あたりのひつそりしてゐる土の上を、黒い大きな蟻が這つた。
その晩青木さんは、フランスにゐられた仲間の会へ行かれて留守であつた。弟さんは下ではうるさいからか、二階の画室へ上つて調をしてお出になる、下では婆やとおくみとが茶の間の四畳半で坊ちやんの相手になつたりして、電気の下に坐つてゐた。
おくみは夕方に行李が着いたので、手軽な着物に着換へてゐた。婆やは明日立つのださうであつた。
「坊ちやんはもう眠いんでせうよ。──今夜はこゝへお床を取つて上げますからもうお寝みなさいな。──おくみさん、済みませんがこれと着換へさせて上げて下さいませんか。」
婆やはあちらの四畳の押入を開けて蒲団などを出して来た。坊ちやんは寝床へお這入りになるとまた目がさえたやうに、しばらくはしやいでいらつしたが、その内にくたぶれて寝入つてお了ひになつた。歯の痛い方の片頬が熱を持つたやうに膨れてゐた。
「やつとお寝みなすつた。かういふ小さいお子さん一人にでも随分手がかゝるんですから、これから少くの間お気の毒でございますね。」と、婆やはほつとしたやうに言つて、長火鉢へ坐つて煙草を喫んだ。
「どうもお母さまがお弱いせゐかして、この小さいのがいつもどこかこゝかお悪いのでね。一ところなぞは少し物を召し上ると直きもどしてお了ひなすつたものですよ。」
どこかの訛の取れない言葉で、あれこれと話して、さういふひよわいお子さんが、お母さまなしに、不自由ばかりして来られたのだから、この人がだれよりもお可哀さうでならないと言ひながら、口を少し開いて、睫毛の長い目を閉つてゐられる坊ちやんの寝顔を見守つた。
「それはお母さまがゐなくなられた当分しばらくは、夜昼となく母さまへ行かう、母さまへ行かうつてお泣きなすつてね。それが丁度旦那が久しく不眠症で困つていらつしたころで、折角やう〳〵のこと夜中時分にどうやらお眠りなすつたらしいところを、この人が目をさましてお泣きになると、私は身を切られるやうでしたよ。──仕方がないから、真暗いのに負つて裏の方へつれて出て、人の寝入つてる夜中にそこらを負り歩いてすかしながら、お可哀さに私までおろ〳〵泣いて、この裏どなりが空家だつたときの屋根下へ立つてゐた事もありました。──どうやらこのごろは大分聞きわけがついて、母さま〳〵と仰るのだけは止んだんですけど、お体の方はまだあゝいふ風にお弱くつて入らつしやいますのでね。──私は今度このお家を出るのについて、このお子の事が一等気になりますよ。あなたのやうないゝ方がずつとゐて下さるなら言ふことはありませんけど、さういふ訳にも行かないし。──いづれどこからか奥さまがお見えになるにしても、余つ程苦労でもして入らつした方でないと、生んだ子のやうに継子の面倒を見ては行けないものですからね。私ならかまはずぴし〳〵叱つても上げる代りに、このお子なら目に入れても痛くないんですけど。」
婆やはしんみに坊ちやんの事を気にしてゐるやうであつた。
この人は青木さんに七年の間ついてゐたのださうである。坊ちやんは青木さんの洋行に立たれてから四月ばかりして、お留守中にお生れになつたので、坊ちやんが三つになられるまで向うにゐられた青木さんには、子供をそれまでにする苦労が判つてゐない。そんなことから、あの人はこのお子に対しては人の子のやうに冷やかだから、はたのものは一倍このお子によくして上げなければといふやうなことを婆やは言つた。
おくみは後にはそれらの訳がよく解つたが、とにかく今婆やが言つただけでは、奥さんはこれなりでもう帰つて入らつしやらないやうな容子であつた。
「婆やさんもこれまで大抵ぢやございませんでしたわね。」と、おくみは自分がその身になつて見るやうにかう言つた。
「いゝえ、私はかういふ人間でてんから役に立たないもんですから、まあせめて毎日の物費りでも少くなるやうにと思つて、自分の事のやうにつましくやつて来たつもりですが、どうもそれが却つて青木さんのお気に入らないやうな場合がありましてね。そこへ行くと女といふものは気が小さいものですから、一寸したものでも、また要るかと思つて取つといては、そこらが汚ならしいと言つて叱られたりね。よく二人で口喧嘩をしたんですよ。さつきもお前が行つて了つたら家がせいせいするだらうつて渋い顔をしていらつしやるんですよ。」と婆やは笑つた。
「でも気はいゝ人ですから、私を可哀さうだ〳〵と言つて、たうとこの年まで置いて下すつたんです。私も随分不幸な人間でしてね。」
婆やは息子が一人ありながら、いろんな訳があつて、その子にかゝることが出来なくて、五十六の年に、一人で、こちらにゐた姪の方へたよつて来て、それからこゝへ奉公に来たのださうであつた。それがこの冬ごろから、息子の方から頻に帰つて来てくれと言つて、しまひにはわざ〳〵人をよこしたりした。それには一寸込入つた事情があつて、息子の顔も立ててやらなければならないので、たうと今度は立つて行くのだと、かう言つたやうな事を茫やり話した。
「おくみさんはこちらでお生れなすつたんでせうからようござんすね。田舎は万事がうるさくてそれは厭ですよ。」
「でも私は家といふものがないんですし、言はゞたつた一人ぼつち見たいなものですから詰りませんわ。」と、おくみは爪先に目もとを集めて、さつきから半分外の事を考へてゐた後にかう言つた。
「それでもまだあなたはこれから自分の家が出来るんですもの。お若いに似合はずよく出来てお出でだから自分にもお仕合せですよ。何でもきちんとしてお出でですことね。」と、婆やはおくみの髪の形からをなつかしさうに見入つた。
二人は十時前までそこに坐つてゐた。婆やは小遣帳をつけた後に、眼鏡をかけて、貸本屋から借りた古けた講談本を読んだ。
おくみは行李からレイス糸を出して、いたづらに、小さい肩掛袋を編みかけた。青木さんの弟さんは退屈さうに下へ下りて、そこらをごそ〳〵させて入らつしたが、再び二階へ上つてお出でになつた。
「洗吉さんは恥しがりやですからね。あなたが入らつしたので極りが悪いんですよ。いつもだと退屈するとこゝへ来てごろ〳〵して入らつしやるんだけど。」
婆やはまだ色んな話をしたけれど、奥さんの事については、あれきりで何にも言はなかつた。
「おくみさん、旦那は今晩は終ひごろの電車でなくては帰られないでせうから、もう先にお寝みなさいな。今日はあなたもお疲れだし。」
「いゝえ、私はこの間から馴れて了ひまして、夜分は幾時まででも起きてるんですよ。平河さんのお店では、二時ごろまでお客さまがおありになることがあるんですからね。」
おくみは婆やを手伝つて、座敷の椅子やテイブルを片よせて、青木さんのお床を取つて置いた。
翌る朝おくみが一人四畳で目を開くと、婆やは已にいつの間にか起きて、板の間でこそ〳〵と仄暗い水使ひの音をさせてゐた。
おくみは櫺子の戸を開けてきちんと昼の着物の帯をしめた。
そこらの、まだ蔭ばんでゐるやうな土の上には、ちやんと、すが〳〵しく箒の目がついてゐた。どこか裏の方の木の上で、雀の子がまだ目をさましたばかりのやうに暗さうに集まつて啼いてゐる。いつも着て寝た寝間着をたゝむにも、どことなく町中とちがつた朝の気分に、何だか自分が当分しつとりと居着くところへ来たやうな心持がするのは、かうした、いろんな人のごた〳〵ゐない、たゞの家だからだらうか。おくみは、平河さんのおかみさんたちが、いつもまだ今時分は、狭いところへ固まつて寝てゐられるのが目に見えた。あの、テイブルや椅子がどんよりと集め寄せられてゐる店の戸を、お安さんがいつまでも眠さうな目をして開けに行く容子なぞも考へ返された。
坊ちやんは昨夜の茶の間に、そのまゝすや〳〵と寝てゐられる。あちらのお二人の方は、まだ夜のやうに暗く戸が閉つてゐる。
「まああなたもつと悠つくり寝んで入らつしやればいゝものを。私はあなたの目がさめないやうにと思つて、そつとこゝらの事をしてゐたのに。」と、無理におくみのために湯殿へ水を取つてくれた婆やは、漆喰の上に立つて前垂で手を拭いた。昨夜あれから一人考へて、どうでも今日午後の汽車で立つことにしたのださうであつた。
「私はそれまでに、ぜひ一軒いとま乞ひに行つて来たいところがあるので、手廻しに少し早く起きたんですよ。」
「では随分気ぜはしなうございますね。私が出来ることだけ何なりといたしますから、あなたはいゝ加減にしていろんなお仕度をなすつて下さいよ。」
「私は仕度も何も、たゞもう着物さへ着換へれば、いつでも立てるやうにしてあるんですから。──おや、うつかりしてゐました。一寸待つて入らつしやいな。くせ直しのお湯を少し取つて上げますから。」
「いゝえ、よござんすよ婆やさん、いつでもたゞかうやつて置くんですから。」
「さうですか? 何ならついざうさはありませんよ。」
おくみは鬢掻へ洗面器の水をつけて、柱の鏡に覗いて髪を掻き上げた。婆やが、表の門を開けて、裏手の草つぱへでも廻つて、青いものを見て入らつしやい、と言つてくれる。
おくみは徐に玄関を開けて自分の下駄を履いて、表の門を開けに行つた。その辺もすつかり掃いて敷石に水まで打つてある。郵便受けに手を入れて見たがまだ新聞も来てゐなかつた。向ひの家の硝子燈には、夜のつゞきの灯が白けて点つてゐた。早くから動くらしい電車の警笛が、間近さうに、手に取るやうに聞えて過ぎた。
おくみはこれとてする事がないので、婆やがいゝといふのを無理に箒を出して貰つて、中庭の方を掃きに行つた。
物置きの横手から廻つて行くときに、裏の山羊がもう起きて小屋から出てゐるのが見えた。
裏には一寸した地面があつて、山羊のゐるところと小さい畠とが作つてある。畳二三枚ばかりに青く生えてゐる芝生にはベンチやぶらんこも拵へてあつた。
山羊は、左の方の隅を五坪ばかり低い柵で囲つて、それへ二匹飼つてある。
柵の中には棕櫚の木が五六本植ゑられて、その下に山羊の這入る小さい小屋が出来てゐる。片方に、一間に一間半ばかりの棚が四五尺程の高さに作られて、両方からそれへ上り下りが出来るやうに板がかゝつてゐる。白い体をした頸の長い山羊は、大きな赤い乳房をだらりと垂れて、一匹は柵の柱に頭を擦り〳〵していたづらをしてゐる。他の一匹はおくみがこちらに彳んでゐるのを見ると、柵の側まで歩いて来て、頭を出してぢつとこちらを見てゐるのであつた。
柵の横手の畠は、半分が草花の床になつてゐて、黒い柔かい土に、色んなものが植ゑてある。こちらには玉蜀黍と蔓豆とが作られてゐる。後に立つてゐる栗の木の青葉の間には、甘い匂ひのする栗の花がうす黄色に咲いてゐる。
それらのすべてが、まだ日の出ない前のしづかな朝の中に、青い眠りからさめたやうにしつとりしてゐる。生垣の外の草地には靄が間近に下りてゐる。
そここゝに白い野茨の花がちらほら見えた。
おくみはくゞり戸を開けてこちらの庭へ這入つた。雨戸の閉つてゐる六畳の前の、色取り〳〵の草花に目がさめるやうな気がする。おくみは座敷の方の片隅から掃いて行つた。
手水鉢のそばの南天の木に、白い花がさいてゐる。一つ〳〵拵へたやうにあざやかな葉の蔭に、絹糸のやうな蜘蛛の巣がかゝつたのへ、夜露のしめりが小さい粒になつてゐるのも早い朝らしかつた。
やがて半分ばかり掃除が出来たとき、座敷の雨戸の中で目ざましの音がじり〳〵と鳴つた。しばらくして戸袋の戸が開いた。
青木さんが寝間着のまゝで雨戸をお開けになる。
「お早うございます。もうお目ざめでございますか。」と、おくみは側へ行つて他の人が目がさめないやうに小さく言つた。
「寝られましたか。」
「えゝ、よく寝みまして寝坊をいたしました。私が開けませう。」
「昨夜は会で少し酒を飲んだので目が赤いでせう?」
おくみは上へ上つて徐に寝床を畳んで置いた。
土の上を掃いて了つて裏へ出ると、青木さんが山羊の柵の中で乳を搾つてお出でになる。
「まあ、そんなにして取りますのでございますか。」
おくみははじめて見るので珍らしかつた。山羊は二匹共柵の柱へつながれてゐる。青木さんは小さい台へ腰をかけて、両手で腹の下の乳房を揉み下すやうにして、下へ置いたバケツへ乳をお搾りになる。次にはもう一つの方へ行かれる。山羊は大人しくぢつとしてゐる。
「あちらではこんな事は小さい女の子なぞがしてゐますよ。よく出るでせう? これには少し上手下手があるんですよ。」
毎朝両方で二升位取れるのださうで、みんなで飲めるだけ飲んだ余りを溜めといて牛酪なぞにするのだと言はれる。
「おくみさんもこれからお飲みなさいよ。牛乳よりも余つ程営養分が多いんですよ。」
棚の隅には小屋から出した敷藁が広げられてゐた。雀が二三匹小屋の屋根へ下りて啼いた。
七時を打つと婆やは洗吉さんを起した。洗吉さんは眠さうな目をして楊枝を銜へて水口から下りて行かれた。六月に高等工業の試験をお受けになるので、その準備に神田の方の学校へ通つてゐられるのださうであつた。学校は八時に始まるので、婆やはせき立てて一人先に御飯に坐らせて、お給仕をしながらお弁当をつめた。
おくみは坊ちやんを起して着物を着換へさせたり、顔を洗ひにつれて行つたりした後、そこらを掃除した。
洗吉さんが鳥打帽子に袴をはいて、眠い〳〵と仰りながら出て行かれてから、おくみは婆やを手伝つて、みんなの御飯の仕度をした。おくみは婆やが切つて来た麺麭を、長火鉢へ餅網をかけて焼いて、バタをつけて、座敷のテイブルの上に運んだ。
婆やは山羊の乳を温めて黒い壺へ入れた。
「さ、もうそれでよござんすから、あなたも行つて一緒に坐つて下さいよ。その積りで麺麭も余計にあれしたんですから。」
坊ちやんもあちらから呼びに入らつして袂におつかまりになる。
「牛酪はお厭ぢやないでせう? ぢや入らつしやいよ。一度だけですよ。もうお夕飯からは厭でもあなたがすつかりなさらなけやならないのだから。」
「ぢや私はお給仕にだけ参りますわ。」
おくみはかう言つて坊ちやんに附いて行つた。
青木さんはテイブルにかゝつて新聞を読んでゐられた。テイブルの上には小さいベイズに、新しい黄色い花が揷されてゐた。
「坊ちやんは姐やと並んでおかけなさいますでせう? ね?」
おくみは黒い壺の乳を二人に注いだ。
「あなたもお上んなさい。坊やはほつとけば一人で食べるんだから。」と、青木さんは小皿へ麺麭を揷んで下さつたり、乳をついだりして下さる。婆やが、洋盞に入れた玉子の半熟に、小さい匙を添へて三人に持つて来た。
おくみは仕方なく一緒によばれなければならなかつた。
「坊やはこのお姐ちやんと婆やとどつちが好きだい?──婆やの方が好きかい?」と、青木さんがお聞きになる。
「それを食べてからお言ひなさい。そんなに頬ばつてちや口は聞けないよ。」
「姐ちやんも好き。」と坊ちやんが言はれる。
「も好きか。」
「どつちも好きでございますつて。」と、おくみは微笑みながら、坊ちやんの膝の上にこぼれた麺麭の屑を拾つた。
「おくみさんは画は好きですか。──尤も近頃は極端なふざけたやうな画も出ますけれどね。──あとで二階へ上つて私の画いたのを見て下さい。一二枚ぐらゐは出来のいゝのもあるから。」と、青木さんはおくみに話しかけられる。
おくみはどう言つていゝのか、自分がちやんとした一人前の女かなぞのやうに言はれるのが極りが悪いやうであつた。
「私は何にも判りませんのでございますから。」とおくみは顔を赤らめた。
婆やは小さい皿にお漬物を入れて持つて来た。
「おくみさん御遠慮なさらないで沢山召し上れよ。お乳はまだお代りが温めてあるんですよ。」
おくみは何だかしまひまでもぢ〳〵するやうな気がしてゐた。
御飯が済んでから、婆やはそこらを掃きはじめた。おくみも襷をかけてバケツの水を取り代へに下りた。
さうしてゐる内にモデルの林さんが今日は大分めかして出て来た。こちらへ這入つて来ると、六畳で叩き人形のお相撲を並べて足を投げ出してゐられる坊ちやんを、後から手で目隠しをした。
林さんは間もなく画室へ上つた。婆やも、やがてそこ〳〵に着換へをして出かけた。
「あのね、おくみさん。私は旦那に黙つて出て行くんですからね、もし後でお聞きになつたら、一寸自分の買物に四谷あたりまで出かけたんですつて、たゞさう言つといて下さいな。大抵お午に間に合ふやうに帰つて来ますから。」と、坊ちやんの入らつしやらない処へ彳んで、小さい声でかう言つた。
「坊ちやん、婆やがいゝお土産を買つて来て上げますから、おとなしくしてお姐ちやんと遊んで入らつしやいよ、ね。」
婆やはどこか、青木さんに言ふと面倒になるやうなところへ窃つと行つて来るらしかつた。
二階では林さんが坐つて、画が画かれて行くやうであつた。坊ちやんは格子戸の外まで婆やに附いて出て、硝子燈の柱の下で一人で遊んでお出でになる。
おくみは坊ちやんの寝間着の八口が綻びてゐたのを早速縫つて置いたが、もうそこらはどこも片附いて了つて、さし向何もする事がないので、しばらく六畳で新聞を披げて拾ひ読みをしたりしてゐた。自分一人が留守をしてでもゐるやうな、しんとした家の中には、外の青いものが、畳に明るい青い蔭を送つてゐる中に、茶の間で置時計が秒を刻んで行く音が際立つて大きく聞えた。
おくみは紙面の写真や、その日の九星なぞを見てゐたが、思ひ出して新聞を畳んで、座敷の押入へ行つて、青木さんの枕の覆が大分汚れてゐるのを脱して井戸ばたへ持つて行つた。
「坊ちやん、待つてらつしやいましよ。今直きこれを洗つて了ひますからね。あのさつきの人形のお相撲はどうなさいまして?」
小さい人は、台所にあつた古けた下駄の大きいのを履いて、相手がなささうに、おくみが石鹸の泡を立ててゐる手許へ来て彳んでお出でになる。
「あそこへ行つて山羊を見て入らつしやいまし。二つとも棚の上へ上つてあんな事をしてゐますでせう。をかしな山羊ですこと。」
ぶらんこの側の物干綱へ、洗つた物をかけて置いて、坊ちやんを伴れてこちらへ帰つて来ると、八百屋が御用を聞きに来た。何を取つといていゝか解らないから帰した。すぐ近くだといふから、あとでだれかが行つてもいゝと思つた。
おくみは坊ちやんの手を引いて、何かの広目屋が太鼓を叩いて触れて来たのを見に出たりした。
やがて家へ這入つて、坊ちやんのお相手をしながら、昨夜の編物を出して編んだ。坊ちやんは壁に足を投げかけて、仰向きにお転びになつたまゝ、物尺を持つて畳を撫でてお出でになる。
さうかうしてゐる内に、いつしか十一時過ぎになつた。モデルの女の人は日課を済まして帰つて行つた。肉屋が挽肉を持つて来た。
坊ちやんは二階の梯子段を上つたり下りたりして動き廻つてゐられたが、一人で厭き〳〵して何かくれろとお言ひになる。おくみは鼠入らずを開けて、いろんな鑵や蓋物なぞを開けて見た。朝が早いから、もうお腹がすいたのだらうけれど、婆やはねつから帰つて来なかつた。
おくみはさつきから度々時計を見た。もう五分ばかりで十二時になる。棚の笊に馬鈴薯の買ひ置きがあるので、それをあしらつて、さつきの牛肉を煮て先にお午にしようかとも考へた。
青木さんが退屈なすつたやうにとこ〳〵二階を下りて入らつした。
婆やはやつと、おくみがお午の後じまひをしてゐるところへ、気を急いた容子で帰つて来た。
「お午にはおまごつきになつたでせうね。どうもすみませんでございました。つい話が長くなつたものですから。──どうぞそれはさうしといて下さい。私がしますから。」と言ひつゝ、汗ばんだ顔をして帯を解く。
「実はね、旦那に内証で一寸奥さんのところへお暇乞ひに行つて来たんですよ。あの方には随分よくして戴いたんですからね。」と、婆やは人に物を得う隠してゐないやうに、窃とおくみにかう言つて、押入から不断の着物を出したが、
「いつそもうこの儘にしてゐませうよ。ぢき汽車の時間が来ますから。」と言ひながら、手拭で顔を拭いた。
青木さんは坊ちやんを伴れて後の原へ出てゐられるのであつた。
「旦那が何とか仰いましたですか。」
「いゝえ、青木さんはたゞどこかへ行つたのかつて仰つただけで、他に何にも仰りやしません。たゞ、今日立つと言つたけどどうする積りでゐるのかしらと仰つて入らつしやいました。──ではどうしても五時のでお立ちになるんですか?」
おくみは濡れた手を拭いてこちらへ来た。婆やは留守の間の坊ちやんの事をも尋ねた。
「私は今も奥さんといろ〳〵坊ちやんの話をして来たんですよ。奥さんが始めから終ひまであのお子さんの事を言つてお泣きになるんでせう。どうかして出来る事なら自分で伴れてゐたいと言はれるんですけれど、あれはこちらの後取なんだからさういふ訳にも行かないしね。──どうも仕方がないんですよ。」と、婆やは何かお土産に買つて来た小さい袋をそこへ出した。
「それから、私が今日奥さんのところへお訪ねしたつていふことは、平河さんのおかみさんにも黙つてて下さいよ。それが伝はつて青木さんの耳へ這入りでもすると困りますから。」
「えゝ、私は何にも言やしませんから安心して入らつして下さい。」と、おくみはすべての訳は解らないけれど、さう言つて受合つた。
婆やは新聞紙の包みを開けて、坊ちやんのお召しになる、銘仙絣の単衣が一枚と、柄のいゝ真岡の浴衣とがちやんと仕立ててあるのを出して、これはこなひだ近々にお暇乞に行くといふ手紙を出して置いたので、奥さんが内証で拵へといて渡されたのだから、もとからちやんとあつたやうな風にして行李へ入れといてくれと言つておくみに頼んだ。
「あなたは、この家中に箪笥といふものが一本もないのを変にお思ひでせう?」と婆やは軽く笑ひながら言ふ。
「さうでございますか。でも行李の方が手軽で便利でございますね。」
「いゝえね、奥さんが持つて入らつしやつたのを何もかも返してお了ひになつたもんですからね。──旦那に、悪いのでもいゝから是非一つお買ひなさいと言つたんですけど。──行李では物を一つ出し入れするのにも癇障りでね。それに着物もいたむし。」
婆やは四畳の押入の前に立つてこんな事を言つた。
「あそこいらに坊ちやんの声がしてゐますわ。」
「さうですか。私行つて呼んで来よう。私が帰るなんて事を何にも知らないで入らつしやるんだけど、どうせ何だからさう言つて聞かせて上げようか知ら。」
婆やはかう言つて坊ちやんの着物なぞの這入つてゐる行李を出した。
四時を少し廻つた時間に車が来た。
婆やが涙ぐみながら行李を積んで乗るのを、坊ちやんはどこへ行くんだどこへ行くんだと言つて聞かれた。さつき青木さんが婆やはもう遠くへ帰つて了ふんだつて言はれたのを、坊ちやんは嘘だと言つて信じられなかつた。
ステイションへは青木さんと洗吉さんとが送つて行かれた。おくみは坊ちやんをつれて門口で見送つた。
「さ、こちらへ入らつして左様ならをなさいまし。危うございますよ、そんなところへお行きになつては。」と、おくみは坊ちやまが車の背中の漆塗へ顔を写してゐられるのをこちらへ引き放した。
婆やは目をしよぼ〳〵させて、いくども後を振り返つた。
おくみは物を出しに四畳の間へ行つたときに、そこの柱に、忘られたやうにかゝつてゐるめくり暦が、いつまでも一つ日を示した儘になつてゐるのを見て、固めてそれを剥がして来た。婆やが行つて了つて、おくみが一人になつてから、丁度一週間といふものがそは〳〵と立つた。
おくみは一人でこそ〳〵と、出来るだけの事をして行つた。手の空かないときなぞには洗吉さんが使なぞもして下さるし、青木さんでも、二階なぞの払き掃除や何か、自分でして下さるのでどんなにか助かつてゐる。大抵のものは廻つて来てくれるので、おくみは一々外へ買ひに出たりする世話がなくてすんだ。洗濯石鹸やマッチや元結のやうなものまで坐つてゐて用が足せた。それにみなの方が何でもおくみのするだけの事で辛抱してゐて下さるので、おくみは考へてゐた程一人でまごつく事もなく、どうかかうかやつて行けた。
たゞ困る事は、これまで、余りしつけてゐないので、煮物の加減なぞが不安であつた。その日〳〵のおかずの取り合せにも気を使つた。
「どうも遅くなりました。もう電気が来てをりますでせうね。何だかまごついてばかりゐまして。」
おくみは額際に汗をにじませて、袂を啣へながら、下手なよそひ方なぞをしたお皿を、ちやぶ台の上に並べた。
「お加減がいかゞでございませう。召し上られますかどうですか。」と物馴れない恰好をして坐つた。
一昨日は平河さんのおかみさんが容子を見に来て下さつた。おくみは落附いたら一度坊ちやんをつれて出かける積りでゐたのだけれど、何かとどさくさして出られなかつた。青山の養母へ、こゝへ来てゐる事を知らす手紙を書くのもまだその儘にしてゐるやうな訳であつた。
おかみさんは物の煮方の事なぞあれこれ言つといて行つて下さつた。
おくみは夜茶の間の電気を低く下げて、小使帳をつけた後に、おかみさんの言はれたのを考へ出して、あくる日のおかずの拵へをノートへ書いて見た。
お小使はふろを立てない日に坊ちやんをつれて外湯へ行つたりなぞする外には、おくみの手で使ふ費りが少しもないやうな日があつた。
「それは何かと気をくばるばかりにでもくたぶれるでせう? もう少しの間だから辛抱してゐて下さいな。──その内には段々に馴れても来ようしね。」と、おかみさんは気にして下さつた。
「でも皆さんがこゝろよくして下さいますから、一寸も気が置けませんで、延んびりして用事でもして居りますのでございますよ。たゞ何かに鈍な私でございますから……」と、おくみはたゞ人々に気の毒なやうにかう言つた。
「青木さんは今もおくみさんをいつまで借してくれるんですかつてお聞きになるのよ。まあせい〴〵早く代りを目附けなければ、あの子もこれから行くところがあるでせうからつて言つといたけど、あの人はかういふ事には少しのんきな人だし、それに割に知合の少い方だから、私がそちこち当つて見て、その内にどうにかしますよ。とにかくそれまでね。」と、おかみさんは裏の玉蜀黍のところに立つてさう言はれた。
おくみはそれから坊ちやんの事を話したりした。
坊ちやんはすべてに聞分けのよいお子さんで、少しも無理をお言ひにならないから、おくみも余程し易かつた。最初二三日の間は、ときどき飽きて来ると、淋しさうな顔をして、婆やはまだ帰らないのかとお聞きになりながら、着物の裾を噛んで悄んぼりして立つてゐられるやうな事もあつたけれど、追々に、おくみと二人になつたのに馴れて、機嫌よく外へ出て遊んで来たりなさる。
おくみがお午などに呼びに出ると、坊ちやんは向ひのお家の門の中で、紙で拵へた帽子なぞを着せられて、そこの家の同じくらゐの小さな女のお子さんと二人で並ばされてお出でになつた。その女の子のお兄さまらしい、六つばかりのお子さんが、大将のやうに二人を率ゐてゐられた。そのお家は、一寸した西洋間なぞの附いた、上品な家であつた。
家の中にゐられるときには、坊ちやんはおくみが動く方へ附いて廻つて、おくみのする事を立つて見たりなさりながら、大人しく遊んでゐられた。
「さ、それぢやまゐりませう。坊ちやんには何を買つてお上げ申しませうね。──おや、金魚をですか? お湯屋の前に? ですけれど、お父さまがお叱りになりはしませんか知ら。」
二階でひつそりと画が画かれて行く青い午前なぞに、おくみはそこらを閉め切つて置いて、白い洋傘をさして、坊ちやんの手を引きながら、駅の近くの通りまで、束髪へ入れるすき毛を買ひになぞ出て行つた。髪がゆるんだので解いて了つて、この間から西洋髪にしてゐるのであつた。おくみは大分しばらくかういふ髪を結はなかつた。通りを行くと、店の硝子なぞへ自分の姿が写るのを、おくみは何だか変つた自分のやうに見て通つた。
おくみは自分のお銭で坊ちやんに欲しいものを買つて上げた。
夜になると、坊ちやんが寝てゐられる枕もとに、三匹の小さい金魚が這入つた硝子の壜が、電気の灯を受けて、赤いのが大きく見えてゐた。
「もう寝たの? これがゐるのでおくみさんの厄介も大抵ぢやないね。」
青木さんは、話相手をお求めになるやうに、二階からのそ〳〵下りて入らつして、しばらくそこへこゞんで煙草を吹かしたりされた。
「何だか婆さんなんぞがゐなくなつてから家の中がからりとしたやうな気がしますよ。あの婆さんには随分役に立つて貰つてたけれど、どうもとき〴〵頑固を張られるのでね。──何でも自分のしようと思ふ通りに出来ないとぶつ〳〵言つて膨れる婆さんだから。」
こんな事を、悪口といふ程でもなくお話しになりながら、膝頭を抱へて柱に倚りかゝつてゐられる。
「一寸あちらの灰皿を取つてまゐりませう。」
「何、もう直き行くから沢山。」
「ついそこにございますから。」
おくみはそれを取つて来て再び坐つて、これとて話もない目を伏せて、着物のはしを爪先で擦つてゐた。
「本当にひつそりして居りますですね。」
「一人でぢつとしてると淋しいでせう?」
「いゝえ、そんなにも思ひませんでございます。私は一体陰気なんでございませうね。かういふしんとしたのが好きなんでございますよ。」
顔を動かすと、畳と壁とに拡がつて写つてゐる影法師も軽く揺いだ。
「夜分は電車の音が随分近く聞えますこと。」
洗吉さんが外から帰つて入らつした。
「おくみさんへ絵葉書が来たよ。」と仰る。
店のお安さんがよこしたのであつた。二つ巴の紋の𧘕𧘔に、大小をさした、いたいけない子供役者の写真姿で、市村座五月狂言、力弥何々と役者の名前が赤く摺つてある。
「これはお客さまから貰つたのです。ちか〴〵にお遊びに入らつしやいまし。おかみさんもお待ちになつて入らつしやいます。青木さんによろしく。」と、表に鉛筆でがさ〳〵と書いてある。
「お安さんからあなたさまによろしくと書いてございます。」と言ひつゝ、おくみは青木さんに裏の写真画を見せた。
「だれかやつて来たよ。」と、青木さんはそれを下へ置いて戸口の方に耳を向けられた。
ベルが鳴る。
「はい。」と、おくみは立つて出て、上り口の電燈を捩つた。
「青木さんはゐますか。」と格子戸の外から聞かれる。
「どなた様で入らつしやいます?」と言ひつゝ、おくみは格子戸を開けに下りた。
「や、どうぞ。」と、青木さんが出て迎へられた。ネルの単衣にステッキをお持ちになつた、鬚のある背の高い方が這入られた。
「二階に灯が見えてゐたからまだ大丈夫だと思つたけど、差支へがあるんぢやないの?」
「いや。家のものばかりだ。さつきから下へ下りて茫んやりしてたところだ。」
かう仰りながらお二人とも二階へお上りになる。
おくみがあとからお客様の座蒲団を持つて上ると、青木さんが上り口へ来てお取りになつた。
「すまないが戸棚の葡萄酒でも持つて来て下さいな。小さい洋盞を二つと。」
おくみはやがてそれを銀色の盆へ載せて徐に持つて上つた。平つたい壜にはお酒は余り沢山も残つてゐなかつた。
こちらにごろんと横におなりになつて、そこらの書物を見てゐられたお客さまは、おくみが次の間に坐つてお辞儀をするのを見て坐り直された。襖の根に置いてある本棚の側に、白い大きな壺に雛芥子の花が沢山束ねて揷してあるのが、電気の灯の中に赤く目立つて見えた。
おくみはその儘下りて来た。さつきからどんな方かよく顔を見ない儘であつた。おくみは上り口に投げ出されてゐた、その方の、縁の小さい柔かい帽子を拾つて帽子かけにかけた。
洗吉さんは六畳の机の前に坐つて、インキ壺の口にこびり附いたインキを紙で拭き取つてゐられる。
「これから御勉強でございますか。」と、おくみは後で、衣桁にかけてあつた袴を下して畳んだ。
「今晩は少し歩き過ぎたから草臥れた。」と仰る。
「どちらまでお出でになりましたんでございます?」
「ずつとこつちの方を廻つて、あそこの活動館の前まで行つて来たんです。今晩はあの辺の縁日で色んな店が出てました。」
「さうでございますか。私はどこがどうなつてゐるんですか、このあたりを一寸も存じませんのでございますよ。」
「あ、さつきの絵はがきを見せて下さいな。」
「あそこにございます。」とおくみは立つて持つて来た。
洗吉さんは半ばおくみの方を向いて、膝を崩してお坐りになつて、
「これはいゝ役者ですか。」と、お聞きになる。
「どうでございますか。私はお芝居の事は一寸も解らないのでございますけど、それはずゐぶん可愛らしい子でございますね。」
おくみは遠くに坐つて、片手を畳に突きながらかう言つた。
「お国にはあなたさまのお下はもうおありになりませんのでございますか。」
「弟がまだ一人ゐます。いたづら坊で母が弱つてるんですよ。」
「でも男の御兄弟ばかりがお三人もお揃ひになつて入らつして御結構でございますね。」
「だつて二人はまだどんなものになるか解らないんですもの。」
洗吉さんは絵はがきを丸めて眼鏡のやうに覗いて、向うの壁なぞを見てゐられる。
おくみはしばらくそのまゝそこに坐つて、糸屑の落ちてゐたのを爪先で弄つたりしながら、こんなことを話してゐた。
おくみはお安さんからはがきが来た翌々日、青木さんにさう言つて、少し早午を戴いて、坊ちやんを伴れて一寸店へやらせて貰つた。
別にこれといふ用事があるのでもないけれど、一度行かないと何だか変なやうな気がするからであつた。行けばもう一つの行李から出して来たいものもあつた。
「まあ、すつかりハイカラにおなりなすつたわね。家では毎日お噂をしてたんですよ。──おかみさんは今一寸お湯。もう直き帰つて入らつしやるでせうよ。」
お安さんはもう一人の女中さんと二人でぐるりの腰板を拭いてゐるところであつた。
「こなひだから一寸上りたいと思つても、一人ですから容易に出られないんでせう。──どうぞ序でに片づけて下さいな。」
「もう済んだんです。綺麗になつたでせう。さつからそこいらの抽斗の金具からすつかり磨いちやつたところ。」
坊ちやんは喉が乾いてか、水が飲みたいと仰る。
「ぢや待つてらつしやいましよ。──帽子の紐が取れたんでございますか。──お姐ちやんが附けて上げますつて。どうもすみません。」
おくみはかう言ひながら、コップを持つて奥へ白い砂糖を取りに上つた。
「何ですか、家でもよく水を召上るんですよ。習慣になつて入らつしやるから別にどうもないやうですけれど。」
おくみはお安さんと話しながら、テイブルの上の水揷の水を小さいコップへ半分注いだ。
「もう途中に氷店が一寸〳〵出て居りますね。」
「えゝ〳〵もう疾つからでございますよ。」と、もう一人の女中さんは鏡の前で汚れた手を洗つた。
おくみは椅子の肩をハンケチで軽く押へながら、お安さんとあちらの容子なぞを話したりしてゐた。
その内におかみさんが石鹸入れを手拭に包んで、下のお子さんをつれてお湯から帰つて入らつした。
「おや、久男さんは靴を履いて入らつしたの? そしていゝ提げ袋をかけて。──さうですか? お姐ちやんに編んで戴いたんですか?」
坊ちやんはおかみさんには馴れてゐられるので、坊ちやん相応の色んな事を機嫌よくお話しになる。
「さ、お姐ちやんはこちらへお上んなさいよ。今日は夕方まで悠つくり遊んで行つてもいゝんでせう?」
お安さんはそこらの事をしながら坊ちやんとお家の三郎さんとの相手になつてくれてゐる。おかみさんは、その後の事を聞いて下さつた。
「もう、あのモデルの方をお使ひになつた画は二枚ともお仕上げになつたやうでございます。女の人は一昨日からもう入らつしやいません。」
青木さんのお仕事の話に移つたとき、おくみはかう言つた。
「こなひだ一人、この裏の方にゐる四十くらゐの行きもどりの女で、さういふところへなら早速行きたいと言ふのがあつたのよ。」と、おかみさんは鬢を直した鏡台を片づけて、手拭を外の掛竿へかけて来られた。
「裏の家主さんでさう言つて下すつたんだけど、お安が言ふんでは、よくそこいらへ出てべちや〳〵下らない事を喋つたりしてゐるといふから、そんな女では困ると思つてね。──探す段になると一寸ないものよ。滅多なものはお世話は出来ないしね。その前にも私は一軒心当りのところへ行つて見たんだけど。」
「おかみさん、私にならどうぞ何にもお構ひなさらないで下さいまし。只今御飯を戴いてまゐつたばかりでございますから。」
「拙らないものがあるのよ。一寸鉄瓶のお湯を見て頂戴。懐中汁粉を他家から貰つたから。──坊ちやんには何を上げようね。」
おかみさんはどうかして早く代りの人が出来ればと言つて気にして下すつた。
「私は人さまの事だから、くみちやんにはまだ何にも言はなかつたけれど、婆やから何か青木さんの奥さんの事を聞いて?」
おかみさんはやがて、話の続きからかう言はれた。
「いゝえ、別に何にも……たゞ、いつも坊ちやんの事を大変気にして入らつしやるといふ事だけ婆やさんから一寸聞きました。」
おくみはかう言つて、婆やがこなひだ奥さんに会ひに行つた事や、着物を二枚托づかつて来た事なぞは、口止めをされてゐるので少く黙つてゐたが、何だかそれではおかみさんの前を偽つてゐるやうで変であつた。
「婆やさんは、奥さんの事は何でも青木さんには隠してゐるやうでございますね。」と、半ばはその言訳のやうにおくみは言つた。
「あの婆やもよくないのよ。一寸〳〵青木さんに内証で奥さんに会ひに行くんださうだからね。だから青木さんは、一方から言へば、あの婆やが行つて了つたのを却つて喜んで入らつしやるのよ。──少し詳しい訳を話さないと解らないけどね。」
おかみさんはかう言つて、長火鉢に炭をお継ぎになる。
「それはだれよりも青木さんが一番お気の毒なのよ。」
やがて三郎さんが、店で遊ぶにも飽きたやうに、浮かない顔をしてこちらへ上つて来られた。坊ちやんも来たさうにして覗かれた。
「もう三時を少し過ぎましてございますね。私はそろ〳〵おいとまをいたしませう。あき子さんは今日はまだ学校からお帰りにならないのでございますか。──坊ちやん、待つて入らつしやいましよ。もう直帰りますからね。」
おくみはそれから尚三十分ばかり青木さんの方のいろんなお話しを聞いた後、そこ〳〵においとまをした。
電車は両方で四十分と見れば沢山だから、もう少し遊んで行つたらと言つて止めて下さつたけれど、電車を下りてから、坊ちやんがよちよちお歩きになるのにも手間取るし、ほつといて来たお家の事も気になつた。来がけには少し坊ちやんを負つて上げたけれど、随分重くつて困つた。
「それぢや左様なら。何だか飽気ないやうね。今度は朝から入らつしやいよ。青木さんには少しくらゐ留守をして戴いたつていゝわ。お午の代りにお蕎麦でもさう言つといて出て来れば。」
おかみさんは出口まで送つて来てかう言はれた。お安さんには、不断の浴衣の縫ひ直しを一枚仕立てて小包で送つて上げる約束をして、戸棚の中の自分の行李から出した悪い帯の表と一緒に風呂敷に包んで抱へた。
「今度は私面白い手紙を上げますから返事を下さいな。」と濃く白粉をつけたお安さんは、なすび歯を見せて笑ひながら外に立つてゐた。
おくみはそれから少し歩いて賑やかな通りへ出て、勝手で使ふ胡椒や、自分の白粉下のクリームや、針や絹糸なぞの買物をして、序に一寸先まで行つて乗換へのない電車に乗つた。
坊ちやんには白い糸のついた風船玉が持たせてあつた。おかみさんのところで戴いたお菓子の包はおくみが預つてゐた。
そこから終点まではかなりある。おくみは、まだ何をか買ひ落したやうな気がするのを考へ出さうとするやうな心持をして、向う側の窓の外などを見てゐた。
山の手線の駅で電車を待つてゐるとき、おくみには、さつきはじめておかみさんから聞いた青木さんのお家の事情が、自分の事のやうにうら寂しく心に繰り返されてゐた。
おかみさんは、さまで詳しくお言ひなさらなかつたけれど、青木さんと奥さんとの間にはいろんなごた〳〵した事がおありになつたらしいやうである。
奥さんはかうなるまでにも、一度少く別れてゐられたのださうであつた。それにはお二人の間に互に誤解もあるのださうだけれど、青木さんの方から言へば、少くとも、奥さんが、もと〳〵ひどく感情のきつい人で、どちらかといへばわが儘な、ハイカラなたちなのがお気に入らなかつたのだとおかみさんは言はれた。
青木さんはあゝいふおとなしい方だから、大抵のことは奥さんの言はれる通りになつてゐられたけれど、たゞ、奥さんが何かにつけてなさり方が派手なのをいつも不平を言つてゐられた。それはまだ奥さんがすべてにお馴れにならないといふ点もあつたらうけれど、とにかく、これまでが贅沢にやつて来られたので、その習慣で余計なところに気を張つて、いろ〳〵無駄な事もしてゐられたやうであつた。
はじめの内は、よく実家からお金を取つたりして、窃つと青木さんの手前をつくろつてゐられたやうな事もあつたらしい。併しそれはそれとして、自分だけでは青木さんのために辛い事をも辛抱してゐられたのも事実である。どうしても青木さんのやつてゐられるやうなお仕事では、とかく収入も不定なので、奥さんは来られて間もないのに、自分のものなぞを婆やの手から持つてかせたりして、月末の工面をされるやうな事もたび〳〵であつた。
さういふ点は、奥さんをよくお言ひにならないおかみさんも、自分のして来た事に引き較べて充分同情してゐられた。
お二人は、はじめの間はもとよりこれといふ事もなく暮してゐられたのであつた。併しどういふ訳でか、奥さんは、どうかすると、一人で人のゐないところに彳んで、少らくしく〳〵泣き入つてゐられるやうな事を、よく婆やは見たさうであつた。青木さんが洋行されたのは一月に結婚されたばかりの十二月で、お立ちになるときには奥さんのお腹には今の坊ちやんが出来てゐられた。
奥さんは或女学校を出られた方で、もとちがつた名前で少しばかりの物をお書きになつてゐた事もあつたさうで、青木さんの洋行のお留守の間には──さびしかつたからであらうけれど──一寸〳〵そちこちへ短いものなぞ出してゐられた。しかし、世間から作家として許されるまでにはもとよりまだ大きに間があつた。たゞ自分が好きで気なぐさみにやつてゐられたといふだけであつた。
青木さんは女としてはそのやうな事をなさるのはお好きにならないので、あちらから厭みを言つてよこされた。奥さんは分らないつもりでやつてゐられたのだけれど、青木さんからさう言はれて、自分でお書きになるのはお止めになつた。
青木さんは、平河さんのおかみさんには、自分が西洋へ出てからといふものは、どうも妻が自分に対して冷やかになつたやうで変だといふことを言つて来られたさうであつた。奥さんの手紙についてさう言はれたものらしい。それはこちらにゐられた前から、少しはそんな事を言つてをられた事もあつた。あの女はまだよく自分を解してくれてゐない。自分は妻に対しては、とき〴〵他人と一つ家にゐるやうな、さびしい気分になることがあるけれど、どうも女のたちが、少し私には触りが冷たいからだらうかと言つて、沈んでゐられた事もあつたさうである。
青木さんは、先からおかみさんにはどんな事をでも話されるのであつた。ときには奥さんに相談なさるべきことを、その方へは黙つておかみさんの方へ持ち込んで来られる事さへあつた。
あちらからさう言つて手紙をよこされたのに対して、おかみさんはおかみさんだけの温かい手紙を上げて、間接に慰めて上げるより外に仕方がなかつた。
青木さんが二年振であちらから帰つて入らつしたときは、奥さんは丁度体がお悪くて医者にかゝつてゐられて、痩せ青ざめて寝てゐられた。そこへ坊ちやんもとかくそちこちがお弱かつたので、家の内は青木さんを陰欝な色をして受取つた。
奥さんは間もなくたうと入院される事になつた。たしか乳かどこかを切開されなすつたので、その方はやがて直つて退院されたけれど、それから後がいつまでもヒステリーのやうな風に、変になつてお了ひなすつた。
そのとき、或日青木さんがおかみさんのところへ入らつして、あの女は私の洋行の留守の間に、だれかほかの男と関係でもしてゐたのではないだらうかといふやうな事を言ひ出された。さう考へると、いろんな点で疑はしいところがある、少くとも、私に対して下手な隠しだてをするのが変だと言つて、あれこれ少しづゝの事実をお並べになつた。併し、変だといへば変だけれど、たゞそれだけではまさかさういふ推断は出来なかつた。たゞ青木さんは奥さんが陰気に滅入つてふら〳〵してゐられるばかりでも気がくさ〳〵なさるやうなところから、さういふ一寸した事もひどく青木さんを不愉快にさせたのは止むを得なかつた。
それに奥さんも悪いのは、青木さんに対してさつぱりと物事を言つてお了ひにならなかつた。例へば、病院から出られて間もないころ、夜中にそつと寝床を出ていくつかの手紙を火鉢でもやしてゐられたことがあつた。それを青木さんは次の間で目を開いて見られた。それをも奥さんはどうした手紙かといふ事を、その後に聞かれてもどうしても訳を言はれない。私だつてどこからでも手紙は来ようではないかと言ふやうな事を言ひ返して、しまひには一人いつまでも泣いてゐたりされたさうであつた。
それに青木さんがあちらにゐられた間、奥さんは、いつも小さい坊ちやんをつれて実家の方へ行つてゐたりされたといふやうなあたり前の事を、青木さんに隠されるのからも変であつた。それから奥さんの入院中に、だれかマントを着たまゝ奥さんの寝台の側の椅子にかけて話して行つたといふ見まひの人を、飽まで実家のお父さんだと言ひ通されたのも青木さんの気を悪くさせた。看護婦から聞いたのと奥さんの口とが違つてゐた。
もとより青木さんは、しかとした事を捉へるまでは、奥さんに向つては、そんな事だけで奥さんのすべてを罵られるやうもないのだけれど、おかみさんだけにそつと疑をもらされたのであつた。
青木さんはそんなわけで勢ひ洋行前のやうに奥さんをたよりにはなさらなくなつた。
さういふやうな事からでもあるまいけれど、奥さんは病気が段々にひどくおなりになるばかりで、後にはふら〳〵と跣足で下りて、裏の夕方の木の下へ行つて、一人で土の上に髪を乱してしよんぼり坐つてゐたり、夜分に、大きな蝙蝠が出て自分を食ふと言つて家の中を方々へ遁げて廻つたり、さう言つたやうな色んな事をされるやうになつた。さうして、実家へ帰してくれと言つていつも泣いてばかりゐられたさうであつた。
それで青木さんも、とにかく実家の方へやつて静養させる事にされた。さうして二た月ばかりぢつとしてゐられる内に、どうかかうか直つて、つねのやうになられるのはなられた。
「奥さんはそれで一旦青木さんの方へお帰りになつたんだけど、やつぱりたうとどうもあれだものだから……それは詳しく言へばもつとあるんだけれど、まあさう言つたやうなごた〳〵した事でいろ〳〵何してね。──併しこんな事は、青木さんにもだれにもおくみさんが知つてるやうに言つちやいけませんよ。人さまの大事な事ですからね。」
おかみさんは、さう言つてるところへお安さんが顔を出したし、それきりあとは濁しておくみにお言ひにならなかつたけれど、前後の口振りでは、やつぱり青木さんの洋行のお留守の間に、何か間違つた事がおありになつて、たうと離縁になられたのぢやないかと思はれた。
おくみは下目になつて聞いてゐた顔を上げて、おかみさんの目の色を読むやうに見ただけで、自分からはそれ以上にほじつては得う聞かなかつた。
もし果してそんな事だつたとしたら、奥さんも何といふ人か全で気が解らない。一通り以上に立派なお家からお出でになつた方が、人の奥さんとして、どうして、さういふふしだらな事が出来るのだらうと思ふと、それは自分のかんちがひぢやないかといふ気もするのであつた。おくみは青木さんの心持にもなつて見て、何だか言ふに言はれないやうなお気の毒な思ひがした。
婆やも言つてゐた事だけれど、おかみさんが、なぜかこの坊ちやんを青木さんがあまりおかはいがりにならないから、坊ちやんもお可哀さうだと、別の事でさう言はれたのも、どうやらそんな意味があるやうな気もされた。
坊ちやんは何にも知らないで、風船玉の糸を待合室のベンチのはしに巻きつけたりして待つてゐられる。
やがて速い電車が軋つて来た。
「ではお落しにならないでちやんと持つて入らつしやいましよ。」と、坊ちやんが、おくみの手に持つてゐる切符を貸せといはれるのに対してかう言ひつゝ、おくみはベンチに置いといた買物の風呂敷包みを手頸にかけて、両手で坊ちやんを抱へてそは〳〵と電車に乗つた。
おくみは何もお知りにならない坊ちやんが、一寸もお母さまともお言ひにならないで、婆やが行つて了へば今度はおくみをしんみのやうにたよつて附き纏うてゐられるのが、今日は余計にいたはしいやうな気がした。
「坊ちやん、ぢつとして入らつしやいましよ。もうぢきでございますからね。ずゐぶん長く遊びましたからお飽きになつたんでせう?」
おくみは、腰をかけるところに立つて、悄んぼりと窓の硝子の縁を弄つてゐられる坊ちやんを抱くやうにして言つた。睫毛の長い淋しい坊ちやんの黒い瞳に、おくみは自分の顔が小さく写つてゐるのを見た。
やがて坊ちやんの手を引いてやう〳〵家の門口へ帰り着いた。もう午後の日もそろ〳〵蔭ばんで、門の内は鈍い色に沈んでゐた。
洗吉さんもどこかへ出てゐられて、青木さんが一人、二階で留守をしてゐられるやうであつた。おくみは気のせゐか、同じさうしたしんとした家へ上つても、これまでになく、何だか陰気な色の中に這入つたやうな気がするのは、暗にあゝした奥さんの事で厭な目を見られた青木さんの心持を考へるからであらうか。
「坊ちやん、お父さまに只今をして入らつしやいましな。をばさまからいゝお土産をお戴きになつたのをお言ひなさいましよ。」
おくみは自分の下駄を下駄箱にしまつて、坊ちやんのあとから二階へ上つた。
青木さんは留守にそこの押入なぞを掃除なすつたと見えて、梯子段を上つたところに、反古や不用の雑誌なぞが寄せ集めてあつた。一昨日からの花の壺の雛芥子が、最早ほろ〳〵と散り落ちて了つたらしく、その花びらも反古の中に交つてゐた。
画をお画きになるところは、すつかり容子がちがつたやうに、ごたごたしたものが片づけられてゐた。青木さんは所在なさに茫やりと何をか考へ入つてゐられた後のやうな沈んだ顔をして、横になつて煙草を喫んでゐられた。
「坊やはまたそれをお姐ちやんにねだつたのかい?」と仰る。
「どうも遅くなりました。おかみさんからよろしく仰いましてございます。」と、おくみはこちらから手を突いた。
おくみはさういふ、このお家のことを聞いてからは、当分はこちらの気のせゐか、何だか淋しい人たちの間に来てお世話をしてゐる自分だといふやうな心持がそれとなく考へられた。
さつきも青木さんが坊ちやんを外の湯へつれて行かれて、もうとつぷりと日もくれかけた、雨もよひらしい夕方を、浮かない顔をしてとぼ〳〵手を引いて帰つて来られたときにでも、青木さんがどんなことを考へてゐられた続きかといふ事が、おくみにはちやんと解るやうな気がして、自分までがさびしいやうな心持がした。
おくみは門口の戸が開いたので、上り口へ出て、電気を捻つて待つてゐた。
「おかへりなさいまし。」と言ひつゝ手拭や石鹸なぞを受け取ると、青木さんは、
「この櫛はやつぱりお湯屋へ置いて来たんだつた。」と仰りながら、あちらへ行らつして、髪をお梳きになる。坊ちやんは黙つておくみの袂につかまつて、おくみの行く方へ附いて来られた。
おくみは夜分なぞも、みなさんがお寝みになつたあとに、なほしばらく一人茶の間の電気の下に坐つて、お安さんのものの縫ひかけを序でに仕上げて押しを切つて、もう寝ようかと思つて糸なぞを巻きながら、ふと蝙蝠が来て自分を食べると言つて惑ひ歩かれた奥さんの事なぞを考へ返して、しばらくまんじりと一つところを見入つてゐたりするやうなこともあつた。
坊ちやんはおくみの中へ這入つて寝られるので、そこの蒲団の、小さい寝息の枕もとには、おくみの枕と寝間着とが置かれてゐた。
電気をうす明りにして蒲団へ這入つたおくみは、足を出してゐられる坊ちやんの着物をかき合せて、やがて自分も目を閉いだけれど、さつきこの人たちについてあれこれと取りとめもないことを考へてゐたあとの気分が、何だか人のことではなくて、自分のこれから先の事をそれとなく自分に教へられでもするやうに思へて、いつまでも一人寝入られないやうなこともあつた。
おくみはさうした心持から、自分がさき〴〵どんなことになつて行くだらうかと云ふことを考へて、心細い思ひに目を開いてゐた。あつてないやうな自分の養母のことも考へられた。ここへ来てゐる訳を、一寸手紙で言つて置いたのだけれど、養母からは、いつか平河さんの方へ向けて、いつまでもそこでぶら〳〵してゐるのはどう云ふ気なのかと言つて聞いて来た、あの手紙以来、一寸もたよりがないのであつた。
おくみは自分の家と云ふものがないことや、だれ一人しんみりした血つゞきの人もゐてくれない事なぞが、あぢきなく考へつめられた。山の手にゐたときには、よくそんな事を思つて一人寝床の中で泣いてゐたりした事がいくどもあつた。
おくみはいつか自分の小さかつたときから今日までの事をそれからそれへと考へ返して、言ひ知らない涙つぽい自分を見守つた。しまひには、たゞ女に生れて来たと云ふ事それ自身さへはかないやうな心持がした。
おくみはかういふ夜を寝て目さめた朝なぞは、坊ちやんが暗い内からもう目を開いて、蒲団の中でおくみの肘を枕に、雀の子がちい〳〵と啼くのを聞きながら、たわいない一人言を言つてゐられたりするのが、何だか、もうすつかり他人ではないやうな気がした。自分もこれからまた他へ行つて、気の解らないところへ奉公に上つたりするよりも、いつそこの儘、こゝに置いて貰ひたいやうな、はなれ難い心持がする。
青木さんも、おくみが来てゐてくれるのをよろこんでゐて下さるので、おくみも何となく張合があつた。
おくみはあれこれ気をつけて、行き届くだけのことをして行かうとすると、これだけの人数のお家でも、一軒の家となればいろ〳〵する事があつて、手の安まらないやうな事もあつた。夜のひまなぞには青木さんの不断着なぞで縫ひかへたいものを一枚づゝ解いた。自分もお針の方はまだ何でも縫へるまでは行つてゐないのだけれど、それでも婆やがして置いたものの中には、ずゐぶん変な事がしてあるのがあつて、青木さんがこんなものを黙つて着てゐられたのかと思ふと気の毒であつた。
おくみはそちこち汚点が附いてゐるまゝで行李にしまつてあるやうなものなぞも、昼の中に一々きれいにしておいて、そこらの押入の中を段々にきちんとして行つた。お天気のいゝ日には、糊を擦つて煮て、解いたものを張板へ張つた。
「おくみさん、坊はどこかへ行きましたか。」と、青木さんはおくみが裏でその張り物を剥がしてゐるところへぶら〳〵出てお出でになつた。
「私これが済みましたら紅茶でも入れて持つて上らうと思つてをりましたところでございました。坊ちやんは洗吉さんと御一緒に駅の方へお出でになりましたやうでございますよ。」
「何をしに?」
「坊ちやんが電車に乗りたいと仰つて、お午ごろからねだつて入らつしやいましたものですから。」
「洗吉はもうぢき試験だのに、あんなにぶら〳〵してゐてもいゝのかな。」
「でもずゐぶん御勉強もなさつて入らつしやいますわ。」
青木さんはそのまゝそこの花床へ行らつして、草花の若い芽生についてゐる虫を取つたりなさつたが、その中にまた表の方へ行つてお了ひになつた。
おくみはやがて、土の上の茣蓙へ坐つて張りものの押しをして、もうこれから夕方の仕度をするまでには、何をする間もないと思ひつゝ、襷がけのまゝ物置の片蔭に立つて、鬢の毛に櫛を入れたりして息休めをしてゐた。
おくみは自分だけの気でか知らぬけれど、こゝのお家へ来てから、かうしてどちらを見ても、柔かい青葉に充ちた外の色に対して佇むと、何だかその青い色が、人の感情を吸ひ集めでもするやうに、すが〳〵しい中にも何となく物の哀れになつかしいやうな心持が烟つて、なんでもない、小さいときの事なぞが、とりとめもなく一人恋ひ返されたりするのであつた。
今小さい畠の彼方の栗の木には、段々と傾いて行く日足が、黄色い灯を点したやうにしづかにさしてゐる。おくみはその光を通す葉の色に、濃くうすく蔭が出来てゐるのを見入つてゐた。重つた葉は蔭が濃くて厚い葉のやうに見えてゐる。下には、畠の中にもまはりにも、毛の並んだやうな薄黄色い栗の花がばら〳〵と落ちてゐる。半朽ちて土にまぶれたりしてゐる上へ、日ごとに後から落ちては来るらしい。
山羊の柵の中にもばら〳〵と落ちてゐる。山羊は二匹とも棕櫚の木の下に固まつて、白い背中に日影を浴びてうづくまつてゐる。──と、
「おくみさん。」と青木さんがお呼びになる。おくみは、
「はい?」と言ひつゝ、こちらへ来てあたりを見廻した。
「こゝです。一寸こゝまで来て御覧なさい。」
青木さんは井戸の方のこんもりした生垣の外から覗いてお出でになる。
「まあ、どこにいらつしやるのかと思ひました。」と、おくみは側へ行つた。
「一寸手を受けて下さい。こゝから。」と、青木さんは変なところから、手の平に何かを掩うてお出しになる。
「何でございます?」
「食べられるもの。零れますよ。」
「まあ、桑の実でございますか。」と、おくみは言つた。
「汁が手に附いたでせう? まだありますよ。」
「一寸待つて下さいまし。それではお皿か何か取つてまゐりますから。」
おくみは黒く熟したつぶ〳〵の実を両手に受けたまゝ、急いで台所へ行つた。
それを有り合せの笊へ入れてこちらへ来る。
「おや〳〵、大きなものを持つて来たんですね。もうそんなにはない。小さい木だから。」と、片手へ一ぱいだけお入れになる。
「こちらからは何にも見えませんでございますよ。そこはどこになつてゐるんでございませう?」
「こゝから覗いて御覧なさい。──ね、まだ赤いのがぽつ〳〵実つてるでせう。かういふのはこれから熟れるんだ。」
「赤いのが未だ大分実つてゐるやうでございますね。綺麗でございますこと。──あそこに白い花が沢山咲いて居りますやうでございますね。」
「野薔薇が咲いてる。──あれは秋になると南天の実のやうな赤い実が果つてかはいらしいもんですよ。」
平生はだれも人が這入らないものと見えて、草が随分高く延びてゐる。
「こゝは一体となりの地面になつてゐるのかな。」と青木さんは言はれる。
すぐそちらには、三尺ばかりの幅を置いて、となりの家の物置の黒い板塀の背中が見えてゐて、その下に、白く雨ざらしになつた大きな貝殻が二つ三つ、土の中に覗いてゐる。そこへはあちらの草原からつづいて這入れるやうになつてゐるのださうである。草の中に蕗が沢山に生えてゐる。
「あなた、お召しものへ沢山泥坊草が喰つ附いて居りますよ。」
「頭も蜘蛛の巣だらけだ。もう出よう。──赤いのも少し取らうかな、これがあちらから見えたものだから這入つて見たんだけど。」
青木さんはしまひに一人言のやうにかう仰つて、桑の枝をたわめて、少しばかり赤いのをお取りになる。ひとりでに生えて大きくなつたらしい一本の桑の木が、こちらの生垣の中から覗いてゐるのであつた。
おくみはいつしか垣の根へこゞんで、土の上に置いた笊の実の中に、青木さんが草の上へお置きになつたか、朽ちた細い芝草のごみが交つてゐるのを取つてゐた。指の先が薄い紫色の汁に染つた。おくみは桑の実といふものを久しぶりで見るやうな気がした。
狭いところをざわ〳〵と草を踏んで出て行かれた青木さんは、やがておくみが笊なりにその実を洗つて、押入から白い西洋皿を出して入れてゐるところへ、表から廻つて帰つてお出でになつた。
「おくみさん、それを二階へ持つてつて二人で食べようか。」と青木さんは水口へ覗いて、真顔で、子供のときに言ふやうな事を仰る。
「只今すぐにでございますか?」とおくみは微笑みながら、皿のふちの濡れてゐるのを布巾で拭いた。
「一寸甘いもんだよ。」と仰りつゝ、そこから上へお上りになつて、おくみの手にある皿から摘んでお食べになる。
おくみは牛肉屋が挽肉を持つて来たのを戸棚へしまつて置いて、やがてその桑の実の西洋皿へ匙をつけてお盆へ載せて、二階へ持つて上つた。
青木さんは机をちがつた方へお据ゑになつて、黒と赤とで縫取りをした布をかけた上へ、その半分ばかりの白い大理石の板を置いて、その上にいろんな焼物を並べたのをこちらから見入つてゐられた。
「こんな風をしてまゐりまして。」と、おくみは気がついて、襷をはづして持つてゐる手で前垂を取つて、お盆をそこへ出した。
「すみませんが紅茶を入れて来てくれませんか。おくみさんのも。──もう夕方まで用事がないんでせう?」とお聞きになる。
「では少しこゝでお話しなさいよ。」と一人ではせいがないやうに仰る。
おくみは下へ行つて瓦斯をつけて鉄瓶をかけて置いて、裏の茣蓙を片づけて、張り物なぞをこちらへ持つて帰つた。
湯が湧くのを待つて紅茶を入れようとしたが、何だか、ゐずまひも取り乱してゐるし、この間から着てゐる着物がもう塩たれかけてゐるので、二階へ行つて坐るためにも、序に他のと着換へたくなつた。
行李から、こなひだ平河さんへ着て行つたときのネルの着物を出して着る。もう前からこれを下さうと思つてゐたのであつた。それへ帯をその儘結んで、湯殿のところの鏡に後の恰好を写した。
「すつかり着物を着換へて改まつて来たんですね。」と桑の実を食べて待つて入らつした青木さんは、おくみの姿を見てからお言ひになる。
「あんまり気持が悪うございましたから。」と、おくみは顔を赤めながら坐つた。
「おや、一つだけしか拵へて来なかつたんですか。」
「私はこれを戴きますから沢山でございます。」
青木さんが紅茶を召し食るのと共に、おくみは桑の実を一つ二つ匙で取つて戴いた。
「さう甘いといふ程のものではないけれど、野生のものを取つて来てかうして話しながら食べるのは何だかいゝね。」と、青木さんもお食りになる。
「久しぶりのやうで珍らしうございますわ。」
おくみはハンケチを出して指先を拭いた。ちやんと着物を着換へた昼の心持にさそはれて、うつすらと目立たぬ程白粉をつけて来たのが、気はづかしいやうでもあつた。
「甘いですか。」
「えゝ、甘しうございますわ。私は小さい時分に継母と芝のはづれの方に居りましたときに、近所にお社か何かがありまして、そこの後のところで二三人でこれを探して食べたのをかすかに覚えて居ります。──さう言へば坊ちやんが早く帰つて入らつしやいますと、みんなで一所に食べますのに。」
「何、とき〴〵ゐないでくれてもいゝよ。子供といふものは絶えずがさ〳〵動き廻つてぢつとしてゐないから、こちらの気が落附かなくて。」と仰る。
「よく子供のときには、これを食べると後で舌の見せつこなんかしたものだがな。──舌が黒くなるでせう?」と、青木さんは話をもとへかへして、のんびりした心持のやうに足をお延ばしになつて、紅茶を喫んでおしまひになる。
「もう一ついかゞでございます。」
「今度は砂糖を入れないで山羊乳ばかり飲んで見ようかな。乳だけの方が木の実を食べるのによくうつるやうだね。自分が搾る乳だし。」
「まだ今日はあの壺へ半分ぐらゐ残つて居ります。」
おくみは下りて乳の入れものを持つて来た。
青木さんは、長まつてゐられて、おくみがそれを注いで上げるのに目を止めながら、おくみさんはこゝへ来てから少し痩せやしないかと言つて下さる。
「でもこちらへ上りましてからはすつかりのんきにしてゐさせて戴きますから肥るはずでございますけど。──私はもとからこんなに肉附きがないのでございます。」と、おくみは下目になつて襟のあたりを掻き合はせながら、極り悪さうに坐つてゐた。
「だつて一人ぢやずゐぶん忙しいでせう?」
「そんな事は私は何でもございませんけど、すべてがお気に召さない事ばかりでございませうと思ひまして。」
「そんなどころぢやない。あなたが一人で何でもしなけれやならないんだから、とき〴〵すまないやうな気がするんだ。」
「いゝえ──私が何でも勝手な事ばかりして居りますのですから一寸も気苦労がないのでございますもの。却つて一人の方がしようございますわ。」
「さういふものですかね。」
「どうしても女はほかに色んな方が入らつしやいますと、拙らない事にまで気を使ひますものですから。」と、おくみはひすゐの這入つた細い金の指輪を嵌めた手に、鬢の後れ毛を掻き上げながら、つゝましくかう言つた。
「もう食べないんですか。」と、何をか考へたやうにしてゐられた青木さんは、しばらくしてかう仰りながら乳を飲んでおしまひになる。
「私はもう沢山戴きました。あとは坊ちやんに取つといてお上げ申しませう。」
「うんう、赤いのを食べたら酢つぱかつた。」
「何かへお出しなさいますか?」とおくみは袂の中を探らうとした。
「沢山です。あとから甘いのを食べれば同じだもの。」と笑ひながら仰る。
「子供見たいだね。」
「えゝ。」とおくみも微笑んだ。
青木さんは何をか言はうとしてお止しになつたやうに、巻煙草に火をお移しになつたが、
「おくみさんはずつとこの儘私の家にゐてくれないかなあ。」と、やがて思ひ出したやうにかうお言ひになる。さつきからそれが言ひたかつたやうな御容子に見えた。
「ね、お嫁に行くまでこゝにゐて下さいよ。」と、灰皿へ灰を落して、遠慮らしく軽くさう仰る。
「そんな事はいつでございますか。」と、おくみは、さう言はれて何だか暗に寂しいやうな気分を見つゝ、ハンケチを口もとへ当てて、はづかしさうに下目になつた。
「平河さんのおかみさんに、私がさう言つてるがどうしたらいゝだらうつて相談して見るといゝ。──でもおくみさんに外に考へがあれば仕方がないけど。」
「私も別にどこへと言つてまゐる処もございませんし……」と、おくみは指先に目もとを集めてこれだけ言ひかけたが、あとは得言はないで顔を赤らめてゐた。いつそさうして戴けば自分も出来るだけ働いて行くけれど、平河さんでどうお言ひになるか、何だか自分からはおかみさんに言ふのが変だしと思つて見る。
「私はおくみさんが来てくれてから、すべてに不平といふものが一寸もなくて、のんびりした気分になつて来ましたよ。何だか暗いところから日向の中へ出たやうに。──そんなだから、この間から何か愉快にものが画けさうな気がして考へてるんです。明日からあの机の上のものをやつて見ようかと思つてるんだけど。──いろんな焼物が並べてあるでせう? あの後へこれから何か面白い布を吊して背景にして、それからあの花揷へは他のいゝ花を何か揷す積りですがね。」
青木さんはかう言つて、横になつてゐられる肩を起して、あちらの机の上のものの位置を考へてお出でになる。
「坐つてゐて透かして見ると、あの大理石へ花揷の青い蔭なぞが写つてるでせう?」
「えゝ、うつすら写つて居りますね。」と、おくみは片手をついてしばらくそれを見入つた。
「帰つて来たな。久男が大きな声ででたらめの歌を謡つてるよ。」
「ほゝゝあれは坊ちやんでございませうか。」と言ひつゝ、おくみはもう大分日も低くなつたのに気づきながら、向ひの家の屋根に半分さした、赤ばんだ日影の色に目をとめた。
その翌日、青木さんは終日二階からお下りにならないで画をかいてお出でになつた。お午にも、山羊に飼ひ料をやりに下りて入らつした序に、たゞコップで乳を召し上つたきりで、物を噛むのが面倒だとお言ひになつて、御飯もお上りにならないで、また上へ上つてお了ひになつた。
三時頃におくみは、青木さんがお腹がすきはしないだらうかと思つて気になつたので、しづかに梯子段を上つて行くと、青木さんは襖のこちらにお坐りになつて、片手に画具の板と、片手に画筆をお持ちになつたなりに、ぢつとそちらの画を見入つてお出でになつた。
おくみが遠慮して梯子段の上に立つた儘、何か召し上らないでもおすみになるのでございますかと聞くと、
「いゝや、何にも、ぢきあとで下りるから。」とお言ひになつたばかりで、目をお放しにならないで考へ入つてお出でになる。おくみは邪魔になつては悪いと思つたのでそれきりで下りて来た。どんな画が出来かけてゐるのか、こちらからは見えなかつた。
おくみは坊ちやんが、そちこちお歩きになつたりするのにも気を使つて、窃つとこちらへ伴れて来るやうにしてゐた。
洗吉さんは、家にばかりお出でになつては気がつまると見えて、何か書きぬいたノートを持つて裏手の草原の方へお出ましになつて、木の下なぞを歩きながら、諳記物か何かをしてゐられた。
坊ちやんが生垣へ覗いて、
「叔父さあん〳〵。」と、用もないのにお呼びになるのを、おくみは、
「もう黙つて入らつしやいましよ。叔父さんは勉強して入らつしやるのでございますからね。こゝへ来て御覧なさいまし。あの栗の木にあんな大きな黒い虫がゐるでせう? あとであれを取つて糸で車を引かせませうか知ら。板でも何でも上手に引くんですよ。」と、こんな事を言ひながら、そこらの土の上を掃いた。
やがて青木さんは、
「おくみさん、さつきは失礼。画を見せようか。」と、おくみが茶の間でマッチ函へ糸をつけて、虫に引かせる荷車を拵へてゐるところへ下りてお出でになつた。
「もうお出来になりましたのでございますか?」と、おくみは自分のものが出来でもしたやうにかう言つた。
坊ちやんも、白糸でつないだ固い角のある黒い虫の荷馬を持つて、後から上つてお出でになつた。
もう画がちやんと出来てゐた。壺を一つだけにして、小さい画にしたと仰つて、昨日の大理石へ一寸した壺を載せて、庭の赤と白とのハイヤシンスを盛つて揷したのを、二尺に一尺位の大きさの布へ写生してゐられた。後には、色のぱつとした、赤やもえぎや紫の五色に染め別けた、だんだらの綺麗な大幅な絹の布が、柔かい垂れ襞を見せてふうはりと吊るされてゐた。
画には、大理石の表にその色絹やハイヤシンスや青磁色の壺が斜ひにつや〳〵して潤んで写つてゐた。
「まあ綺麗にお出来になりましたこと。」
おくみは、自分たちの目で見たばかりでは、さまで意味があるやうに思へぬ原物が、画になると、同じものでありながら、何だかもとのものに比べてこんなに引きつけられるやうなしつとりした色になつてゐるのを見くらべながら、それが画の力といふものなのかといふやうな事を、何にも解らぬ心に考へながら、両手をついてぢつと画面を見つめてゐた。
「どうです。気に入りましたか。」と、青木さんも自分の画の前へ入らつして、おくみの左手へ立つてお出でになる。
「私なぞには解りませんけど好きでございますわ。」
「その布の色なぞが?」
「えゝ。──布もでございますが、画のすつかりが。──下の大理石へ写つてゐるのが何とも言へませんでございますね。」
「うん。」と言つて、見てお出でになる。おくみは本当にさう思つた儘を言つたのであつた。青木さんがお画きになつたのだと思ふから余計にいゝと思ふのかも知れないけれど、大層よくお出来になつたやうに思はれた。
「何でございますか、この写つて居りますところを覗くと、こちらの顔まで写りさうでございますのね。」と、おくみは黒い目を上げて青木さんのお顔を見上げながら言つた。
「さうですね、」と、青木さんはおくみの側にお踞みになつたが、
「ぢつとこの画を見てゐるとどんな気がします?」と、煙草を取つて火をおつけになつて、おくみの方へ迷うて行かうとする煙りを口でわきへお吹きになる。
「──解りませんわ。」とおくみは、自分の感じる心持をどうにも纏めて得う言はないので、困つたやうに極り悪くかう言つた。
「これを見てゐると気分が浮き〳〵するやうに愉快になりますか?」
青木さんは微笑みながら砕いて聞き直して下さる。
「私の気のせゐでございますか、よく見て居ります中に、何だか寂しいやうな気になつてまゐりますけど……」
おくみはためらひながら正直に言つた。
「さうでせう? あんなに華やかな色ばかりで画いてあつても、全体の気分には、丁度大理石そのものの沢のやうな寂しい心持が底を流れてゐるでせう? 浸み出るやうだと言つてもいゝかな。──これは私の傑作かも知れない。──ふいとかういふものが出来た。」
「お目出たうございます。」と、おくみは自分までが何ものかを得たやうにかう言つた。
と、
「好きならおくみさんに上げようか。」と真面目になつて仰る。
「これをでございますか。」と、おくみはそれでも御冗談だといふやうにかう言ふと、
「それぢや、これから銀座へ行つていゝ額縁を買つて来て、おくみさんの部屋へかけて上げようね。──おくみさんの部屋と言つたつて別にないんだけど、ぢやあの四畳か。あそこにあなたの荷物が置いてあるんでせう?」と仰る。
おくみは何と言へばいゝのか困惑しつゝ、
「だつて私なぞにかういふものを……それよりか大事にしまつてお置きなさいましよ。」と、もぢ〳〵してゐた。
「お礼に上げるんだからいゝよ。」
「ほゝゝ、何のお礼でございませう。」
「この画の寂しいところを解つてくれたのと、私の画が一つ出来たのを悦んでくれたから。」と仰る。
「画がどことなく寂しいのは、私がいつも寂しいからなんだ。おくみさんにはそれがいつも解つてゐてくれるやうな気がして感謝したくなつたんさ。」と、青木さんはつとめて笑ひながら仰る。
おくみは黙つて下目になつてゐた。
「何、冗談ですよ。──たゞ上げたいから上げるんだから貰つておきなさい。私は自分の画いたものはやたらに人にくれたいのだから。」
おくみは、
「難有うございます。」と口の中で言ひながら、改まつてお辞儀をした。
「ふゝゝそんなに真面目にならなくてもいゝや。」
さう言はれておくみは何か言はうとして微笑みながら、訳もなく涙ぐまれるやうな目を上げた。なぜだか、ひとりでにさうしたしみ〴〵した心持になつて来た。
坊ちやんは、虫の糸を持つて這はせながら、二人の顔を見くらべてお出でになる。
「坊や、下へ行つて二人で山羊に餌をくれようか、ね。」と青木さんはおくみの目もとを見ないやうにして下さるやうに、坊ちやんにさう仰る。
「坊ちやん、はい、つてお返事をなさいましな。」とおくみは涙になりさうな心持を隠しながらかう言つた。
やがていつものやうにお夕飯が済むと、青木さんはしばらくそこいらで妻楊枝をお使ひになりながら、朝の新聞を披げて飛び〳〵に読んだりしてゐられた。
と、どうでも一寸銀座へ行つて、さつきの画の額縁を買つて来よう、他にも序に廻つて来たいところもあるからと、さうしないでは気が済まないらしく仰つて、あちらでこそ〳〵と洋服を召す仕度をなさるやうであつた。
皆さんのお給仕をしたあとに、一人坐つて御飯を戴きかけてゐたおくみは、箸を置いて立つて青木さんが座敷の押入の前でワイシャツなぞをお召しになる側に附いてゐた。
「でもこれから大変でございますね。」
おくみはそこの電気を捻つた。
「何、二時間も経てば直きに帰つて来るんだから。」と、青木さんはダブルカラーをお附けになつて、いつもの黒い長いネクタイを大きく結び放しにして、押入の上の段の、小さい鏡にお覗きになる。
「何かそこへ糸が下つて居りますでせう? おや、そこのところが解れたんでございますか。」
ネクタイの先の縁縫の糸が下つてゐるのを、おくみは歯で切つてお上げした。
青木さんはワイシャツの箱へ色んなネクタイを一ぱい持つてお出でになるのだけれど、この幅の広い黒いのをそんな風にお結びになるのが一等お好きだと見えて、いつもそればかりをお附けになる。
「こんなに洋服なんかに着換へるのは厄介だけど、私はあの銀座の通りなぞの漆喰になつてるやうなところを靴でさつさと歩くのが好きだものだから。」と、おくみが着せる上衣に手をお通しになる。
おくみはあちらの長火鉢の抽斗から、洗濯して置いたハンケチを出して来た。
「お靴はこの方でようございませうか。」
おくみはやがて土間へ下りて、こなひだ履いて出られた黒い編上げの方を下駄箱から出した。
「どうぞ、もういゝから。──久男は何をむしや〳〵食べてるんです?」と、青木さんは、そこへ出てお出でになつた坊ちやんを振り返りながら靴の紐をお結びになる。
「坊ちやん、そんな叔父さんのお西洋鋏なんかあちらへ置いて入らつしやいまし。さ、お父さまをそこまでお見送りいたしませう。」
おくみは久男さんを負つて後から門口まで附いて出た。
「坊ちやんがお父さまに左様ならでございますつて。」と、こちらから言ふと、青木さんはおとなりの門口で振り返つて、
「坊やはいゝ子だからおとなしくしてお姐ちやんと待つてお出でよ。今日は直き帰るんだから。」と、しまひはおくみに言ふやうに仰つて、二三間ばかりお出かけになつたが、ふと思ひ出したやうに引き返してお出でになる。
「何かお忘れになりましたんでございますか。」
おくみもこちらから近づいた。
「あの、ひよつとしたら帰りに一寸平河さんの方へ寄つて来るかも解らないけれど、何か用事があれば──併しどうするか解らないけれどね。」
「いゝえ別に何にも……もしお寄りなさいましたらどうぞ皆さんによろしく仰つて下さいまし。」
おくみは坊ちやんを擦り上げながら頼んだ。
気が附くと、お向ひの家の奥さんらしい方が、いつも坊ちやんとお遊びになる小さい女のお子さんをおん負なすつて、門の内に立つてお出でになつた。おくみは何だか極りが悪かつたので丁寧にお辞儀をすると、急いでこちらへ帰つた。
顔なぞはよく目に這入らなかつたけれど、西洋髪にお結ひになつた、どこやらいきな造りをしてゐられるその若い奥さんは、さつきから、それとなくおくみの方をまじ〳〵と見てゐられたらしかつた。
「お父さんはもうあんなに遠くまでお出でになりましたよ。あそこに。」と、おくみは家の門口で尚しばらくあちらを見送つてゐた。
暮れて行く往来の向うは、もう両側の生垣の色も、墨で塗つたやうに茫つと黒くなつてゐる。
ついそこらの近い木立の間にも黒い蔭が濃くなつて、そちこちの間遠な瓦斯燈の灯が、悄ぼりと夜の色になりかけてゐる。あたりは見る〳〵暗くなつて行くやうに見える。
青木さんのお姿は間もなく見えなくなつた。
おくみは何だかいつもになく、青木さんの行かれる先がどことはなく物恋しいやうな心持がする。
おくみは大分久しく行つたことのない、銀座あたりの賑やかな通りの、青白く漲つた、瓦斯の灯影の中に並んだ品物の、華やかな色取りや、さういふ店に客足を呼ぶ蓄音器や、遠くの高い屋根の上に、青や赤の電気の大きな広告の字が、黒い空に消えたり点つたりした記憶なぞを、かうした留守居の心に懐しいもののやうに思ひ浮べながら、坊ちやんを負つてゐる片手で門口の戸を閉めた。
おくみはそれから御飯をしまつて、やう〳〵そこらを片附けた。
坊ちやんはさつきから、洗吉さんに相手になつてお貰ひになつて、六畳でふざけてお出でになつたが、見ると、どうしてか忿つてはたきを振り上げて手向ひをしてゐられる。
「坊ちやん、もうお止しなさいましな。御覧なさいまし、叔父さんがあんなに泣いて入らつしやいますのに。あなたの方がお強いんですから、もう怺へてお上げなさいましな。──ほゝゝゝどうしたつて仰るんでございませう。」
洗吉さんは泣く真似をしてお出でになる。もう御勉強なさらなければならないからと思つて、おくみは坊ちやんをなだめてこちらへ伴れて来た。
「二人でお二階を閉めてまゐりませう。坊ちやんは私の好きな〳〵いいお子さまですから、叔父さまに今のやうな事を仰るものぢやございませんよ。おや〳〵、梯子段が真つ暗ですこと。」
おくみは二階の十六燭の電球をはづして来て、座敷の暗い十燭と取りかえてお上げした。洗吉さんはこの頃はこゝのテイブルが好きだと仰つて、こちらへ来て椅子におかけになる。気のせゐかこなひだ内から目に見えてお痩せになつて、何だかがつかりしてゐられるやうに見える。
「もう大抵一と通りはお調べがついたんでございますか?」と、おくみは坊ちやんと二人でしばらくそこに彳んだ。
「何だかあんまり勉強したつて拙らないやうな気がするけど……。これだけのものを見たつて、化学はたつた二問題ぐらゐしか出ないと言ふんだもの。」と、気乗りのしないやうな顔をして、本の小口を剥つてお出でになる。
「ほんとにお辛うございますね。あと幾日でございます?──ではもう僅かでございますから序でにしつかりおきばりなさいましな。この電気をもつとこちらへやりませんでもようございますか。」
おくみはこちらの襖を閉め切つて置いて、やがて茶の間の電気の下で、坊ちやんを傍へ坐らせてお針をする。
坊ちやんは、鳥や猿や象なぞが色んな真似をしてゐる色摺の絵本を一枚〳〵開けて、その絵の訳をお聞きになる。おくみはぽつり〳〵いい加減な事を言つて聞かせて上げながら、不断に締める夏帯の悪いのをくけた。
「それだけ? うゝん、もつと──もつと長いのを。」と、坊ちやんは、話の一と区切り毎にさう仰るので、段々引つぱつて行く内に、しまひにつゞまりが附かなくなつた。
「もうこれだけでおしまひでございます。今度は坊ちやんがして聞かして下さいましな。こなひだの雀と鳩のお話がいゝでせう? あの本もみんなこちらへ持つて入らつしやいましな。」
おくみは坊ちやんが訳の解らない事を仰るのを、笑ひ〳〵、解つたやうに聞いて行つた。
その内に時計が八時半を打つた。青木さんがお出かけになつてから、かれこれ二時間ばかりになる。あゝは仰つても、平河さんへでもお寄りになればどうしても長くなるから、やはりこなひだのやうに遅くなつてお帰りになるかも解らない。おくみは青木さんが額縁を包んだのを抱へて、物に考へ入つたやうにして、電車へ乗つたり下りたりなさるところなぞを目に画いた。
考へて見ると、何だかいつも何一つこれといふ御愉快な事もなくて、たゞ一人のやうにかうして暮してお出でになるお心持がお気の毒なやうな気がする。あまり人に物事を仰らぬ性質だから、それだけ御自分ではお淋しいであらうと思はれる。後の奥さんの事なぞも、この先どうなさるつもりで入らつしやるのだらうと、おくみは青木さんの気になつて、いろ〳〵たよりない心持がする。
そのうちにいつしか自分の事にも移つて、自分がお屋敷にゐて、この帯をまだ新しく結んでゐた頃の事なぞがあれこれと思ひ返された。
おくみはそれから坊ちやんに赤い糸の束を手頸にかけてゐて貰つて、糸巻へ二つばかり巻き取つた。
灯取虫が電気のかさに来てまひ〳〵する。坊ちやんは、もう絵の本にも疾くにお飽きになつて、足を投げ出して、紙箱の蓋を裂り〳〵してゐられたが、やがてもう眠くなつたと見えて、せいのない、浮かない顔をしてお出でになる。
「それではもうお床を取りますから待つて入らつしやいましよ。まあ〳〵、ずゐぶん散らかりましたわね。」と、おくみはそこらの坊ちやんのものを急いで片づけて、畳の上を掃いて、四畳へ蒲団を出しに行つた。
押入の蒲団を抱へてこちらへ来ると、坊ちやんは、急に何をか思ひ出しでもなすつたらしく、一人で悲しさうにしく〳〵泣いてお出でになる。どうなすつたのかと聞くと、お父さんがゐないからと、やう〳〵の事それだけお言ひになる。
「叔父さんがあちらで御勉強なすつていらつしやるんですから、もうお泣きなさらないでお寝間着をお着換へなさいまし。一番に帯を解いて、ね。お姐と二人でゐるんですから何にも悲しい事はないでせう?」
坊ちやんはあやす程悲しくおなりになつて、涙を頬に光らせて、いつまでもしやくり上げてお泣きになる。
「では負ぶしてお父さまを見にまゐりませう。ちやんと涙を拭いて──もういゝでせう? お父さんはぢきお帰りなさいますのですからね。」
おくみは洗吉さんに気兼をして、負つて門口へ出た。
「あそこを御覧なさいまし。あの硝子燈に小さい虫があんなにたかつて飛んでるでせう? 大変な虫。──お父さまは今どこをお帰りになるでせうね。こなひだ坊ちやんとお姐と二人で坊ちやんの小ちやな下駄を買ひに行つたでせう? あそこの家のをばちやんがお湯で何だつて言ひました? 坊ちやんは一寸もお泣きになりませんかつて聞いたでせう? 今にお父さまが帰つて入らつして、坊やはちやんと泣かないで待つてましたかつて仰つたら坊ちやんはどうお言ひなさいますの?」
おくみはお向ひの家の門の電気が、往来を区切つてさしてゐる中に立つて、坊ちやんを揺ぶつてゐた。
「一寸この影法師を御覧なさいまし。あれが坊ちやんでございますよ。長い〳〵影法師。」
おくみは背中の涙の人をなだめながら、そこらを往き返りした。ひつそりした往来には暗い蔭りが深く広がつてゐる外には何にもない。ずつと向うの、お湯屋がある通りの角に、自働電話の赤い電気がたつた一つ、眠つた港の灯か何かのやうにぽつちりと寂しく見えてゐる。暗い方へ一寸這入つて、もとの灯のさした中を見ると、瀬戸物の小さいかけらの土に埋れたのが、金色の灯を写して潤んだやうに光つてゐる。あたりの生垣の中には、ところ〴〵に灯影がちら〳〵と漏れた。
「もうぢつとその儘寝んねなさいましよ。お父さまがお帰りになりましたら、お姐がちやんと起してお上げ申しますからね。」
おくみは自分が小さいときに寝せられた子守唄を、うろ覚えに小さい声で謡つた。
何だか自分のためにも青木さんの靴の音が近づくのが待ち入られるやうな気がする。
口にこそ言ひ得ぬけれど、昨日今日は、どうしても青木さんが自分の血つゞきの方ででもあるやうに物恋しい。あの戴いた画にどのやうな額縁がつけられるかといふ事も子供のやうに楽しみでもあるし、そのやうな事が、この頃のたつた一つの物嬉しさである自分が、考へればいつまでも頼りない身の上のやうに小寂しくもある。
「坊ちやん。──もう眠つておしまひになつたんですか。」
ふと黒い空を見ると、疎らにまたゝいてゐる薄い星の間を、自分の心持の中でのやうに、それかなきかに小さい星が微に流れた。
おくみは背中で寝入つておしまひになつた坊ちやんを、仮りに昼の着物の儘で蒲団にお寝かせして、座敷へ行つて青木さんのお床を伸べて置いた。
洗吉さんは椅子にかゝつてこつ〳〵と勉強してお出でになつた。
おくみは、それから再びさつきの帯を縫ひ上げにかゝつて、坊ちやんの寝床の傍へ坐ると、間もなく門口の戸が開いた。遅くおなりになるだらうと思つた青木さんが帰つてお出でになつたのであつた。
おくみは上り口の電気を附けて、障子に手をかけて膝を浮かしてゐた。青木さんは、郵便受に這入つてゐた手紙の表をすかしてお読みになりながら、格子戸を開けてお這入りになる。
「お帰りなさいまし。」とおくみは板の上へ下りて手を突いた。
「途中でビールを一二杯飲んだものだから、まだ少し酔つてゐるんですよ。」と仰つて、心持顔を赤くしてお出でになる。
「でも早くお帰りになりまして……たつた今まで坊ちやんをお負してそこらまでお迎ひに出て立つて居りましたんでございますよ。今お寝みになつたところでございます。」
「それは済まなかつたね。洗吉は勉強してゐますか。」と、靴を解いてお上りになる。
「これが額縁でございますか。」とおくみは英語の新聞で包んだ、かさばつた包みを受け取つてこちらへ這入る。
「額縁は駄目だつた。出来たのでいゝのがないから琴平町の額縁屋へ誂へて置いた。銀座にないからそつちへ廻つて見たら、そこにもなかつたものだから。──それをそつと開けて、中のものを出して下さい。」
青木さんはおくみが出して来た着物とお着換へになつて、湯殿に行つて顔や手を洗つて、二階へお上りになる。
「洗吉、つまらないものを買つて来たからお出でよ。」と、座敷を覗いて仰つた。
おくみが開いた包みの中には、画をお画きになる板が十枚ばかりと、黒や赤なぞの、五色ばかりの粗いスコッチの糸の束と一緒に、珍らしいぼん〳〵の、紙縒のついた袋が四つと、平つたい小さい壜に這入つたウヰスキーか知らと、蚕豆の油で上げたやうなのを壜に詰めたのと、それだけが這入つてゐた。赤い版行で色づけたぼん〳〵の袋は、どこかの縁日の、夜店のカンテラの灯と、ざわ〳〵した人の往きかひとを思はせた。
おくみは気を利かせて、お酒のおさかなのお積りらしい蚕豆を、小さいお皿に少し分けて洋盃を添へて、ウヰスキーやぼん〳〵と一緒に一つのお盆に載せて持つて行つた。
青木さんはお読みになつた御手紙を袋にお収めになつて、
「これは皆が一つづゝ取るんだ。」と仰つて、ぼん〳〵の袋を一つおくみに下さる。
「この豆は甘いね。──洗吉は来ないつて?」と、自分でウヰスキーをお注ぎになる。
「洗吉さんは御勉強ですから、御土産があつたら下へ貰つて来てくれつて仰つていらつしやいます。」
おくみは珍らしいぼん〳〵の袋を指で吊るしながら言つた。青木さんは、何か厭な事でもおありになつた続きのやうに、浮かない顔をしてお出でになる。
「平河さんへはお寄りにならなかつたんでございますか。」とおくみは、さうした青木さんのお顔元を覗ひながら聞いた。
「何だか面倒臭くなつたから止して来た。そしたら丁度留守へおかみさんから手紙が来てゐた。」と、今読んでお出でになつた手紙を見やりながら仰る。
「おかみさんの手でございますね。」と、おくみは上書をこちらから見ながら言つた。
「別に変つた事ぢやございませんか。」
「うゝん。」と首をお振りになつたきりで、ウヰスキーの洋盃をお上げになる。おくみは壜を取つて注いでお上げする。
「この豆を食べて御覧なさい。胡椒が少し振つてあつて甘いよ。名古屋の名産だつて。」
「でもこちらでも売つてゐるのでございますか。」
「銀座に売つてゐる。」
「ちやんと壜へ這入つてゐるんでございますね。」
「大分こはれたのが交つてら。」と仰りながらお摘みになる。
おくみは、おかみさんの手紙は、こゝの代りの婆やでも見当つたといふのではあるまいかと思つたので、聞いて見たが、
「何、何でもない外の事が一寸書いてあるだけだ。」と仰つて、気をお換へになつたやうに、京橋に近い和泉町の通りで、よその格子の内で上手な清元を謡つてゐたのをしばらく立つて聞いて来たといふお話をなさる。
「私にはよく解らないけれど、三味線も上手な人が弾くといゝもんだね。」と仰る。
「私がこの前に居りましたお屋敷の奥さまが義太夫が大変にお上手で入らつしやいましてね、──でも滅多にお語りにはなりませんでしたけれど、とき〴〵旦那さまのお帰りの遅い晩などに、私たちの前で語つて聞かせて下さいました事がございました。」
おくみはおかみさんの手紙の事はそれきり気にもしないで、さういふ話をしかけたけれど、何だかそんな事でなくて、何か言ひたい事があるやうな気がする。それが堀川とか野崎とかいふものを聞かせて貰つたときの物悲しい心持に似てゐるやうにも思はれる。さういふ義太夫なぞの事を思ひ出したからであらうか。
おくみは少しく下目になつて袂の先をいぢつてゐる自分に気がついた。
「ではこれを一つ洗吉さまにお上げ申してまゐりませうね。」と心持顔を赤らめて言つた。
その内にぢきに月も六月に這入つて、いつしか単衣になつた膚にもなづんで来ると、やがて間もなく厭な梅雨の季節が来て、物の黴附くやうな、うつたうしい雨が、毎日よく飽きもしずにじめ〳〵と降りつづいた。
「ほんとに何といふしつつこいお天気でせうね。」
裾をからげて湯殿へ這入つたおくみは、後に立つてゐられる洗吉さんに言ひながら、さつき折角洗つた洗濯物を取り入れたのが、じつとり濡れたまゝで竿にかゝつてゐるのを片寄せて、そこの板の間の真ん中へ雨が漏るのへ、バケツを受けておいて、まはりがとばしりでびたびたになつてゐるのを雑巾で拭いた。
「まあこゝはかうして置けばすみますけど、他のところが漏りでもしたら大変でございますね。」
おくみは念のために方々の押入の中なぞも序に見て廻つた。
肴屋がお午近くになつてやう〳〵廻つて来た。足袋跣足で、頭からづぶ濡れになつて、顔から雫を垂らしながらはん台を披げるのを、おくみは水口の敷板の上に下りて、戸口にかゝるしぶきをよけながら、見つくろひをしてお皿を出した。
そこを閉めると余計に小暗くなつてしまふ板の間に、おくみはどんよりした戸棚から煮物の砂糖の入れものを出したりして、うつたうしくこゞんで、アルミニュームの手鍋の下の瓦斯を捩ぢた。
さうしてゐると青木さんが山羊へ餌をやりに下りてお出でになる。
それもこんな日には大変である。着物をまくつて、穴のあいた毛布を背中におかけになつた青木さんは、古い冬帽子を頭に被つて、飼料のバケツを提げて裏へお出でになる。山羊は少しでも泥のついたものなぞは食べないので、八百屋が外へ置いといて行つた青物も、一々雨の叩いた泥を洗つて持つてつておやりにならなければならなかつた。
おくみはその間井戸ばたへ出て、褄をからげて傘をさしかけてゐてお上げした。山羊はじと〳〵と水を吸うた檻の板屋根の下に小暗く引つ込んで、人のけはひを恋しがるやうにみい〳〵啼いた。
午後おくみが茶の間でつれ〴〵の新聞を読んでゐると、青木さんがつくねんとした顔をして下りていらつして、こんな日にはいつそ寝るのもいゝかなと仰りながら、やがて押入から蒲団をお出しになる。
「二階でお寝みになりますのでございますか。では私が持つて上ります。」と、おくみはきさくに毛布と敷蒲団とを抱へて先に立つた。
「そこのカーテンをすつかり引いといてくれませんか。あゝあ厭な日だ。」と青木さんは、おくみが小さい方の間に敷いた蒲団の、自分で縫模様をお入れになつたシートの上に、毛布を着て長まつていらつして、下りて行きかけるおくみに生欠伸交じりにお言ひつけになる。
そちらの画室の方には今日も縫取の框が据ゑられてゐて、麻の布へ、黒と茶色と赤のスコッチの糸で蔓草のやうな模様が縫ひかけてある。近い内にどこかでかういふ手工品の陳列会があるのへ、夏のテイブルかけを十枚ばかり出品するのだと仰つて、もうこなひだから色んな柄を図案して慰み半分に縫つてお出でになるのであつた。
硝子障子の外には、方々の木立が、しと〳〵と降る雨の中に青白い靄に煙つてゐる。板戸が少しづゝ閉めてあるので、白いカーテンを引くおくみの顔や帯が仄かにそこの硝子に写つた。
「もう他に御用はございませんですか。」と、おくみは蒲団の裾に手を突いた。
坊ちやんはじめ〳〵した家の中をそちこちして、一人でつくねんと遊んでゐられたりするけれど、家にばかりゐて窮屈になると、降るのも構はないで、入口の格子戸の外へ出て、雨垂の水溜りを弄りなぞして、着物を濡らしてお上りになる。時には、小さいお体へ、土間に濡れて立てかけてあるお父さまの洋傘をおさしになつて、小降りになつた雨の中を、よち〳〵とお向ひの家まで出て行つたりなさる。
「おくみさん、久男が着物を泥だらけにして、跣足で往来に出てるがね。──どこかの小さい犬を帯で縛つて、びしよ濡れになつて引つ張り廻してるんだよ。」
或午後青木さんが二階からさういふのを御覧になつて、早く伴れて這入つてくれとお言ひになる。
「まあ、ついさつきまでお座敷でおとなしく遊んでお出でになつたのでございますよ。」
おくみは用事を措いて、急いで傘をさして出た。
「坊ちやん、もうぢつとお家で遊んでいらつしやいましよ。さつき叔父さんが拵らへて下さいました旗をどうなさいまして?」
おくみは脱がせた着物を湯殿の盥の中へ入れた。
坊ちやんは、赤い西洋紙を杉箸へ貼つた小さい旗を、畳の合せ目へいくつも立て並べて、叔父さんと二人でお遊びになる。
「おや〳〵、あそこの花壇の花がすつかり倒れて了ひましたのね。」
二人のさうしてゐられる前の、縁側のしぶきを拭いたおくみは、雨戸のところに彳んで、庭先の雨の中を見入りながら言つた。煙草の木のやうな葉をした、白や赤の花がかあいらしく咲いてゐた何とかいふ草花なぞは、すつかり土の上に伏してしまつて、あさましく雨の脚の弾く泥にまぶれてゐる。
「あなた、あそこの縁の下へあんなに水がずん〳〵這入りますのでございますがどうしたらようございませうね。」
やがてけうとい雨の暗くたそがれて行く夕方を、おくみはすつかりの雨戸を閉めかけたとき、お湯から帰つて入らつした青木さんにかう言つた。
「それから昼に言はうと思つて忘れてゐたけど、昨夜あたりはもう蚊が二三匹出て寝られなかつたから、今夜はぜひ蚊帳を吊りたいんだがね。」と、青木さんは手拭をかけ竿にかけながら仰る。
「こちらにも昨夜は一二匹居りましたけど、私は無神経でございますから構はず寝てしまひましたのでございますよ。」と、おくみは食卓を抱へて運んだ。
「私は仕方がないから、夜中に押入から風呂敷を出して、それを被つて寝たんだ。」と仰る。
おくみは御飯が済んでから、四畳の押入の下から、黴臭い臭ひのする蚊帳を取り出した。それを包んだ、つぎだらけの大きな風呂敷の合せ目から、鼠のふんが沢山出た。大きな蚊帳と小さいのと二つしかないので、今夜から洗吉さんは青木さんと一緒に、座敷で寝て戴かなければならなかつた。
洗吉さんは釣手を茶の間へも附けるために、四隅へ釘を打つて下さる。青木さんは、釘が一本足りないと言つて、そこらの柱に遊んでゐる釘を、手拭のはしをかぶせて、爪立をしてがく〳〵と抜き取つて下さる。おくみは両方へ灯を送るやうに、電気を倒さにして持つてゐた。
「今外がぴかと光りましたわ。」
「大分大きな降りになつて来たやうですね。」
寝がけにおくみは長火鉢の火を火消壺へ入れながら、お湯を呑んでゐられる洗吉さんと話した。
洗吉さんはまだこれから一人起きてゐて試験の調べをなさるのであつた。
間もなく洗吉さんにはその試験が来た。
体格検査の日ともにすべてで四日の間、市内の割引が上らない内から蔵前の学校までお出かけにならなければならないので、おくみはそれに悠つくり間に合ふやうに、暗い内から起きて御飯の拵へをした。
はじめの二日はいゝあんばいにお天気が持てたけれど、それからあとはまた雨になつた。
「序でに今日明日だけ降らないといゝんですのにね。何だか変に暗うございますこと。──今日はインキはお持ちにならないのでございますか?」
坊ちやんも青木さんもまだお目ざめにならない、眠さうな雨の色の格子戸に、おくみは襷を手に持つて下り立つた。
「今日ですつかり仕挫りさうな気がして……。一たい問題はどこで活版に摺るのか知ら。あれを摺る男が、窃つと一枚取つといて私にだけ先に見せてくれるといゝんだがな。」と、洗吉さんは子供のやうな事を仰りながら、帯の間の時計を見て、風呂敷包みを持つた手に洋傘をお開きになる。
「もう何にもお忘れものはございませんか。──どうぞよくやつて入らつしやいましよ。」
おくみは、洗吉さんが気が立つてゐるやうな御容子で、元気よく出てお出でになる後を見送つた。あんなに心配していらつしやるのだから、お通りになつたらどんなにお嬉しいだらうと、祈るやうな気がする。
「今日はどうでございませうね。もう一時間目は半分ばかりたつた時間でございますよ。」
おくみは青木さんと坊ちやんとの朝御飯のテイブルに附いてゐて、洗吉さんの事を話した。
「どうも危さうだね。」
青木さんは何でもない事のやうに晴やかに仰りながらお乳をお上りになる。
「でも一心になつていらつしやるんでございますからね。」と、おくみはさう言はれて何だか不安なやうな心持をも見つゝかう言つた。
「洗吉さんはお試験がお済みになるとすぐあちらへお立ちになるんでございますつて。早く帰りたくて仕方がないつて仰つていらつしやるんでございますよ。」
「試験なんか受けるときは全く厭なもんだ。併しあちらへ帰るとまたぢき出て来たくなるんですよ。」
後程、青木さんが外の函から出して来て下すつた郵便物の中に、青山にゐる養母からおくみへ久々で来た手紙も濡れて交つてゐた。
「どうもすみませんでございました。」と茶の間でうつたうしく髪を結ひかけてゐたおくみは、青木さんにお礼を言つて、間もなく根だけを括ると、半ば髪を前に被つたまゝ、油手を拭いて封を切つた。
あれから二度目の手紙を出して、一寸こちらにも代りがないので私もいつそ当分しばらくこゝに置いて戴かうかとも思ふがと、相談のやうに言つてやつたのに、何とも返事をくれないから、どうしたのだらうと思つてゐた矢先であつた。
手紙には、
「こなひだ内少し気分が勝れなくてぶら〳〵してゐたので、つい返事も得う出さなかつたが、お前さんは変りがないさうで何よりと悦んでゐる。その内いつか都合のいゝときに一寸出て来てくれる訳には行かないか。何かの話も手紙では書けないから。併し別にこれといふ用事があるのでもないから急ぎはせぬけれど。」とかう言つただけの事が、仮名ばかりの字で長たらしく書かれた末に、
「もう今ではすつかり元気も出て、いつものやうに暮してゐるから、気づかはないでくれ。」と書き添へてある。このまゝこゝにゐるゐないについては何にも言つてはなかつた。
とにかくおくみには、何だか養母が近頃ひどく気が弱くなつてゐるやうな容子が、手紙の上に見えるやうな気がした。おくみはお邸を下つた当座一度会ひに行つたのを、たつたこなひだのやうに思つてゐたけれど、もう彼是四月から上になる。
おくみは養母の事を考へると、しまひにはいつも、自分の体が自分のものでないやうな厭な気がする。
とにかく後で早速見舞の手紙を書いて出して置いて、その内お天気にでもなつたらまた一度行つて来る事にしようと考へた。
やがておくみは髪を結つてしまつて、後の恰好を合せ鏡に写した。
道具を片附けて油手を拭いてゐると、櫺子の外の生垣を籠めてしと〳〵と青く降る雨に、どこか間近い草の中で、まだ早い蟋蟀が一匹、ひそ〳〵と青白い糸を引くやうに鳴いてゐる。その声を聞くと、この雨でも上つたら、段々にじり〳〵暑くなつて来る先触れのやうにも想はれて、けたるい真夏の、やりどころのないやうな心持なぞも物寂しく待設けられた。
おくみはそのやうな聯想から、平河さんへ置いてゐる行李の中の、三枚の浴衣の柄を目の前に並べたりしながら、あの中のものでこの雨に汚点が出るやうなものはないだらうかと気になつた。
平河さんへもあれからしばらく御ぶさたをしてゐる。おかみさんはまだ代りの人が目附からないと見えて、その後何とも言つておよこしにならない。青木さんはもう自分がこれなりでこゝに置いて戴くものと極めてお出でになるやうで、あれなり人をお探しにならうともなさらないやうである。おくみはずつと置いて貰ふなら貰ふやうに、おかみさんにその事を言つて置かないでは落着かないやうな気もする。それも、青木さんが、洗吉さんがこゝにお出でになる内におかみさんにさう言つて下さらないと、二人になつてからでは何となく変なやうで極りが悪い。
それともいつそ代りの人が早く出来れば何にも片附いていゝのだがとも思つて見る。おくみは青木さんにはつきりと相談して見たいと思ふけれど、そんな事を自分からは言ひ出し悪い。
おくみはそのやうな纏まらない心持をして洗吉さんのお机に坐つて、思ひ立つた序に、養母への見舞の手紙を書くと、丁度青木さんが坊ちやんをつれてお湯へお出かけになるので序に出して戴いた。
やがてお午近くになると洗吉さんが帰つて入らつした。
「今日はどうでございました?」と、おくみは顔色を窺ひながら気にして聞いた。
「もうどうでもいゝから今日は遊ぶんだ。」と、投げるやうに仰りながら、じと〳〵に濡れた袴を脱いで衣桁へおかけになる。
「でも随分早くお済みになりましたんでございますね。」
おくみは洗吉さんが口ではあゝ仰つても、そんなに悄げてもお出でにならないから安心した。洗吉さんは障子のところへごろりとおなりになつて、自分で昨日今日取れたと思ふ点数を見積つて平均して見たりしてお出でになる。
「まだ御勉強でございますか。朝がお早いのでございますからもうお寝みにならないと明日茫んやりなさいますよ。」
おくみはその晩一時を聞いてから、寝間着姿の上にまた帯だけ一寸巻いて六畳へ行つた。
「今序でに机の抽斗をすつかり掃除してるんです。もう本なんか残らず行李の中へ収めちやつた。」と仰つて、笑ひながら押入を開けてお見せになる。
「明日試験を済まして帰つたら直ぐに立たうか知ら。」と仰りながらせいのなさ相な欠伸をなさる。
「まあ、そんなにお帰りになりたいんでございますか。」
おくみは微笑みながら、そこらの反古を手に拾つた。
「おや、写真をお撮りになつたのでございますか。」
「うゝん、これは人の写真だから。」と言つてお隠しになる。
「ほゝゝちやんとこちらから見えたんでございますのに。」
洗吉さんは試験がお済みになつて、いつでもお立ちになれる段になると、何だかもつとこちらに居つて見たいやうな気もすると仰つて、どうしようかと迷つてお出でになつたが、その内に、外国語学校にゐられるお友達のところへお遊びに入らつして、その方の試験がお済みになつてから、御一緒にお立ちになるやうに約束してお帰りになつた。
「ではこの次の土曜日といへばもう直ぢやございませんか。」
おくみはそれにしてもあわたゞしいといふやうにかう言つた。
「もう、明日、明後日、明々後日……」
洗吉さんはいつも寝がけには、その間がもぢ〳〵されるやうに仰りながら長火鉢の抽斗の鐶を弄つたりなさつて、おくみが縫物の針を送り〳〵する前に坐つてお出でになつたりした。
お立ちになる前の日には、朝、高等学校をお受けになる、おつれの方が入らつして、二人で一緒に市中へお出かけになつた。
家を出てずつと有楽町まで電車で行つて、日比谷から銀座通りへ出て、たうと真直に須田町まで歩いたと仰つて、お国の弟御さんへのお土産に、よく子供が飛ばしてゐる飛行機の玩具や、市内の名所の絵はがきなぞを買つて、午後になつて帰つて入らつした。
飛行機は坊ちやんが御覧になるとお欲しがりになるからと、窃つと手鞄の中へしまつてお置きになる。坊ちやんは何にもお知りにならないで庭先の日向にこゞんで、赤い蟻が何をか引いて行くのを見てお出でになる。
洗吉さんはお疲れになつた足を縁側にお伸ばしになつて、買つてお帰りになつた絵はがきを御覧になる。
おくみも側へ行つた。
「あなた、昨日のお写真を私に一枚、記念に下さいましな。」と、その絵はがきを見てしまつてからおくみは言つた。
「あんな変な写真なんか極りが悪いから。」と頭を押へてお出でになつたが、
「では、おくみさんのを下されば。」と洗吉さんは脇を見ながら言ひ悪さうに仰る。
「私はもう先に一度撮つたきりで近頃のは一枚もないんでございますよ。もしあつても私のやうなものの写真なんか仕方がございませんわ。」
「ではつまらないな。」
「えゝ。」とおくみは微笑みながら、下目になつて他の事を考へた。
夕方、洗つて干して置いた皆さんの下駄を取り入れに行くと、洗吉さんは、一人でこつそり裏の草場へ出て、お土産にお買ひになつた飛行機を飛ばしてお出でになつた。
「お前どうしても明日立つ積りかい。」と、夕御飯のときに青木さんがお聞きになる。
「だつてさつきはもう少し帰りたくないやうな事を言つてたからさ。──それならそれで己の都合があるから。」
洗吉さんは先に御飯をお済しになつて、子供かなぞのやうに、自分の頸を抱へて唐紙の根に寝転んでお出でになる。
「あの子のお金を借りて使つたから拵へて来て返さなくちや。」
洗吉さんがやがてはがきを出しにお出でになると、後で青木さんが仰つた。
「沢山でございますか。」と、おくみは少々なら自分でも持つてゐるからと思ひながらかう言つたが、
「何、取りに行けば貰へるのがあるんだから。」とお言ひになつて、やがて下町の方へ出てお出でになつた。
洗吉さんは新橋迄お兄さまに見送つてお貰ひになつて、翌る晩の九時の急行でお立ちになつた。
「いつも入らつしやつた方が入らつしやらなくなりましたせゐですか、何だか御飯のときが変でございますね。」
翌る朝坊ちやんと三人で麺麭と山羊乳とのテイブルに着いたとき、おくみは坊ちやんのためにバタのナイフを取りながら、急に容子が違つて来たやうに思ひながらかう言つた。
「もう七時半は過ぎたらうな。」と、青木さんは鏡の前の置時計の方を御覧になる。
「あれは昨夜から止つてをりますのでございますよ。もう彼是八時ぐらゐでございませうね。」
おくみは間で立つて茶の間へ見に行つた。洗吉さんの汽車は今朝の七時三十幾分かに着くのであつた。
「丁度今八時十分でございます。今朝は麺麭を取りに行つたりいたしましたから、大分遅くなりました。」
「ではあの子はもうちやんと家へ着いてるな。」
「十時間以上でございますから随分お疲れなさいましたでせうね。」とおくみは青木さんに二度目の乳を注いだ。
青木さんは、汽車と言へば西洋ではそちこちと長い汽車を乗り通してうんざりしたといふお話をなさる。
「その上に、ちがつた国へ這入ると乗合の人とも一寸も話が通じないんだから、拙らない事でまごついてばかりゐて厭なもんだ。」
かう言つて麺麭をお裂りになる。
「もうそろ〳〵暑くなつて来るな。今はまだいゝけれど。──それにこのあたりは木が多いから蝉が沢山ゐるんでね。」
食事が済んでから、青木さんはしばらくその儘椅子におかけになつて、垣の向うの高い木立の方に目をおやりになりながら、煙草をお上りになる。
おくみはテイブルの上を片附けて、濡らして持つて来た手拭で、バタの光つてゐる坊ちやんの手先を拭いてお上げしてゐた。
「蝉はお嫌ひでございますか。」と微笑みながら聞くと、
「だつてあれが浴びるやうに啼き立てると、たゞでも暑い日光が油でじり〳〵沸え立つやうな気がしていかにも暑くるしいからね。」
青木さんは、もう今からさういふ真夏の昼をお厭ひになるやうな顔をしてお言ひになる。
「さう言つてる内にもう直ぐでございますね。」
おくみは坊ちやんを膝の上に抱へ上げながらかう言つたが、青木さんは、他に何か不愉快な事を思い出しでもなすつたのか、それには返事をなさらないで、指の爪先を見て考へ入つたやうにしてお出でになる。
おくみもそれぎりで話を途切つたまゝ、すぐ前の西洋樫の木の間に、蜘蛛がぢつととまつてゐるのを、見るともない目に見入つてゐた。
外には赤味を帯びたやうな日影が、段々と朝の気を消して漲つて行くやうに、すべての青いものの上に射し渡つてゐる。蜘蛛の巣の糸は光りに紛れて見えないので、ぢつとしてゐる小さい蜘蛛は、空間に喰つ附けられてゐるやうに動かない。土の上には濃い木の陰がはすかひに写つてゐる。しばらく雨が続いた間に、生垣の下葉が長く伸びて覗いてゐる。
「おくみさん、新聞はまだ来ませんか。」と、青木さんは灰皿へ煙草をお消しになりながら仰る。
「いゝえ、もうさつきまゐつて居ります。うつかりして居りました。」
おくみは気が附いたやうにテイブルの傍を離れてあちらへ行つた。
坊ちやんはそこの障子に嵌つた硝子へ息を吹きかけて、指でいたづら書きをしてお出でになる。
「今日はもうこの月も二十二日。」
おくみは持つて行く新聞のはしを竪に見ながら一人心にかう思つた。
やがておくみはそこいらへ雑巾がけをした序に、洗吉さんが使つてお出でになつた六畳の押入の半分が、上下空いたのをきれいに拭いて、その儘あつてもいゝと思ふ机だけを置いて、あとの要らない本棚や、その外の洗吉さんのものを差向下の段へそつくりしまつて置いた。
「おくみさん、この画はこゝへ懸けようか。──かうするとちやんと画らしくなつたでせう?」
青木さんは昨夜帰りに取つてお出でになつた、框の広い金色の額縁へ、この間戴いた画を入れて下すつたのであつた。
「こゝへかう持つてくより外仕方がないな。」と、押入の左手の、半間幅の中塗の壁へあてがつて、恰好を見てお出でになる。額は稍太目の赤い絹の打紐で吊すやうになつてゐる。
「まあ。──このお部屋がすつかり変つてまゐりましたわ。」
おくみはいそ〳〵と襷をはづしてそこへ坐つた。
「あそこの梯子段の上の戸棚に錐があるから取つて来て頂戴。」
青木さんは袂から真鍮の螺旋釘をお出しになつて、鴨居の下へお打ちになる。
「かうして見ますと画がまた引き立つて来たやうな気がいたしますね。」と、おくみは嬉しさうに画面を離れて坐り直した。
「さう言へばいくらかちがふかも知れない。」
青木さんも側へ来てお坐りになつて、少くぢつと見入つてお出でになる。
「まあ、あの下へ写つて居ります色が好うございますこと。」
「そんなに好きですか。」
「えゝ。」と、おくみは目もとを輝かして言つた。
「この前に思つた程よくもないけれど、これでもどうにか画にだけはなつてゐる。──紐をもつと短くしようかね。──一寸マッチを。」
画に気を取られてゐたおくみは、青木さんが指の間に巻煙草を持つていらつしやるのに気が附かなかつた。
「序でにその安つぽい机もどこかへ仕舞ひ込むといゝね。代りにいゝのを出して上げるから。──そして、この辺をちやんとして、こゝをおくみさんの部屋にするといゝ。」
「ほゝゝ大変でございますね。」
おくみは軽くさう言つて微笑みながら、あちらの押入から出して来た洗吉さんのお蒲団を縁先の日向へ披げて、上蒲団の襟当の汚れてゐるのを解きはづしてゐたが、後に裏で一二枚洗ひものをして、それを竿へかけといて手を拭いて上へ上ると、青木さんはいつの間にか、二階に焼物なぞを載せてあつた楢材の小机を、先の机のあとへお据ゑになつた。そこへこなひだ内から縫取りをなすつた麻の地の机かけがかかつて、青い色の小さい花揷にナスタシヤムの花が二輪さして載せてある。
その机かけは、たま〳〵この間、十枚ばかりの中でおくみが一番好きだと言つた分で、糸で赤い小さい鳥を上下へ二寸ばかりの幅の中へ縫ひ並べた、女のものに似合はしいいゝ柄の飾りものである。鳥はいろいろの形をして一つゞきに棲つてゐる。
「何だかすつかりいゝお部屋になつたこと。」
おくみは一人かう思ひながら、やつと一と通り朝の用事のすんだ襟をかき合せて、ほつとしたやうにまた画の前に坐つて、大理石に写つた五色のだんだらの絹の色をなつかしんだ。
外の方で、さつきからお向ひのお子さんと遊んでいらつしやる坊ちやんの声がする。障子の方を見ると青葉を越えてみなぎつた黄色い日影は、かうしたきれいに取り片づいた部屋の畳のはしまで射し込んでゐる。
おくみはすつとした気分をして、留櫛の髪を掻き直したりしながら、しばらくその儘坐つて息休めをしてゐた。
縁先の蒲団の上の日向を、蜂が一匹まひ〳〵してゐる。
と、二階へ上つてお出でになるのだとばかり思つてゐた青木さんが、庭先からぶら〳〵上つて入らつした。
「こゝがちやんとなつたでせう?」と仰りながら、机の側へこゞんで、赤い小鳥の図案のはしに下つてゐる糸屑をお取りになる。
「ほんとに見ちがへるやうなお部屋になりました。」
おくみは微笑みながら側へ行つて、膝を突いた。
「では序でに四畳にあるおくみさんのものをみんなこつちへ持つて入らつしやいな。行李なぞは私が抱へて上げるから。」
「いゝえ、私のものはあそこで沢山でございます。」
「でもすつかりこゝへ持つて来て置かなけれや自分の部屋らしくないぢやありませんか?」
青木さんは立ちがゝつてゐて仰る。おくみはさつきは御冗談のやうに聞いてゐたけれど、やつぱり自分のためにこゝをこんなにして下さつたのであつた。
「まあ、私がこのお部屋を戴きますのでございますか。」
おくみは何だか極りが悪いやうにもぢ〳〵して言つた。
「これからこゝでお針でも何でもするといゝ。女があたりを綺麗にして物なんか縫つてゐるのはいゝものだ。」
おくみは顔を赤らめて目を伏せてゐた。
青木さんはおくみに鋏を持つて来させて、縁先で爪をおきりになる。
「そちらは私が取つてお上げ申しませう。」と、おくみは日向の堺へ出た。
「何大丈夫。鋏がよく切れるから。」と左手でお使ひになる。
「もう日向は暑いね。」
「また蜂がまゐりました。」と、おくみはまぶしい日向を見た。
「どなたかお出でになりましたやうでございますね。」
おくみはやがてかう言つて上り口へ出て行つた。
おくみは折角だからと思つて、あとで四畳に置いてある自分のものをすつかりこちらの押入へ運んで、序に青木さんや坊ちやんのものの這入つた行李も、ゆつたり分けかへた。そして、左側の上の方を空けて、新聞を敷いて、そこへ型ばかりの化粧具や、ちよい〳〵した自分の手廻りのものを収めた。
坊ちやんがそこへ悄ぼりして帰つて入らつして、指をくはへて、何かくれとおねだりになる。
「もうぢきですから一寸待つて下さいましよ。こゝをちやんとして置きませんとね。──お向ひのお嬢さまと何をしてお遊びになりまして?」
おくみはかう言つて紛らしながら、干してある蒲団を側へやつて裏返して、もう一度畳の上へ箒を当てた。
何だか汗ばんだやうに暑くろしくなつたおくみは、茶の間の戸棚を開けて、買つときのお菓子の鑵を出すのに、櫺子から来るそよ〳〵した風が、襟足のあたりに小嬉しいやうであつた。
「それからあとでお客さまへ御飯を出すのに何を拵へませうね。」
おくみは坊ちやんを相手に一人言を言ひながら、台所着の胸かけをかけて、襷を取つた。
二階には、洋服を召して入らつした、秋本さんといふ画家の方が、青木さんと話してお出でになる。久しぶりでお出でになつた方らしかつた。
「ね、おくみさん。何なら簡単にそばでも取つて済ましてもいゝんだけどね。」
やがて青木さんは、おくみがごた〳〵しなければならないのを気にして下すつたやうに、中途で下りて入らつして台所をお覗きになつた。
「もうこれだけいたしましたらいゝんでございますけど、あんまり何にもございませんから、一寸あそこのおすしでもさう言つてまゐりませうか。──でも不味いおすしでございますわね。」
勝手もとを取り散らしてゐるおくみは、前垂れのはしで胡麻を煎つた炮烙を取り下して、考へ迷ふやうにかう言つた。
「何、それだけあれば沢山だ。あの男はさういふさつぱりしたものを喜ぶんだから丁度いゝ。」と、青木さんはざうさなく仰る。
しまひに御飯をお櫃に取つて額際に汗を見たおくみは、仕度した皿のものをお盆に載せて、そろ〳〵座敷のテイブルに運んで、袂の先を銜へて、すべてのものを恰好よく並べた。
たゞあり合せのものでいゝと仰つたので、御馳走はほんの小鰺が十匹だけあつたものを焼いて、生姜の汁をさした三ばい酢に漬けたのと、しんぎくの胡麻汚しのおしたしと、たつたそれだけしかないのであつた。それを色のいゝ、すつきりした形の深皿を二枚画室から借りたのへ二つに入れて、小皿を四つ重ねて別の箸と一緒に真ん中へ置いた。さつきテイブルかけを取り換へて、洗濯したばかりの、とき色の筋の這入つた気持のよい布をかけて、片はしへ、鏡の前に据ゑてあつた、西洋葵のぱつとした赤い花の壺を飾つて置いたので、テイブルの上の色取りだけは綺麗であつた。
「青木さま。」と、おくみは梯子段を上つて、こちらの間からお呼びした。
「一寸下を御覧なすつて下さいませんか。」と、おくみは自分の拵へが気がゝりなやうに小さい声で頼んだ。
「いゝですよ。いつもの通りでいゝんだから。」と、青木さんはたゞさう仰つて、やがて二人で何をかお笑ひになりながら下りて入らつした。
「何にもお構ひをいたしませんのでございますから……」と、おくみは極り悪く挨拶をして、後から、いつもの蓋物の、切昆布の佃煮を小さいものに分けたのと、胡瓜のお漬物とを持つて来てお盆から移した。
「方々にいゝ部屋があるんだね。」と、六畳の方の縁側から帰つて入らつした、画なぞで見る西洋の方のやうに、長い髪をお分けになつたお客さまは、葡萄色のふつくりしたネクタイをお直しになりながら椅子にお附きになる。
「君だからわざと御馳走をしなかつたんだよ。」と、青木さんは御主人役にお肴をおよそひになりながら仰る。
「その代り夕方にはどこかで珍らしいものを食べさせるよ。」
「これで結構だ。あちらでは馬鈴薯の中から釘が出るやうな、青木さんのお料理でもおとなしく戴いたんだものね。」
お客さまは快活にお笑ひになりながら、おくみの注いだ葡萄酒の洋盞をお上げになる。
「さう言へばあの釘はまだ鳩小屋の中に這入つてるだらうかね。──おくみさん、フランスではね、この人と二人で、一と夏フロモンビールといふ田舎で一緒に自炊をした事があるんだよ。」と、青木さんはおくみがこちらへ廻つて注ぐ手元に目をお置きになりながら、微笑みつゝお言ひになる。
「丁度二た月ばかりあそこにゐたんだね。」
「燕が降るやうに沢山ゐた。」
お客さまはかう言つて、ハンケチで眼鏡の曇りをお拭きになる。ついこなひだ西洋からお帰りになつたばかりなのだと青木さんが仰る。
「まあ、さやうでございますか。」とおくみはたゞつゝましやかにさう言つて、少らく椅子のはしにかけてお給仕についてゐた。
「自炊といへばずゐぶん色んな事があつたね。」
「第一妙なものばかり食べさせられてこり〳〵した。併しもうあんな事はしたくも出来ないね。」と、お客さまは快活にお笑ひになりながら割箸をお割りになる。
「だつて君はたゞはたでまぜつ返すだけの役だからのんきだつたけれど、日に二度づゝさういふ料理をする身になつて見たまへな。」
「でも買物や下働きはみんな僕一人がやつてたんだもの。」
「あんな下働きならだれでもするよ。」
青木さんは洋盞を干してお受になる。
「ふゝゝ、あれは人参だつたかね。君がスープを拵へて待つてる間に、僕が急いで買ひに行つたまではいゝが、帰りにジプシーの唄うたひがゐたのへ附いて廻つてゐる内に、買つた物をどこかへ忘れて素手で帰つて来た事があつた。」
「そんな事は所つ中だ。」
「そのとき君は一人で待ちくたぶれて、ベッドに這入つて午寝をしてゐたから、僕も真似をして寝ちやつたよ。」
「それでたま〳〵手柄をしたつもりで得意になつて来るとあんなかたつむり何かだろ?──この人がねおくみさん、或日珍らしく午寝もしないで、下の運河のふちで一生懸命にかたつむりを取つて廻つてるんでせう? 暑い日がかん〳〵してる中でね。こちらはあれを取つて何にするんだらうと思つて窓からぢつと見てゐると、しまひに、おい見ろ、夕方の御馳走だよつて、汗だらけになつて下からハンケチ包みを振り廻すんだ。──そんなところにころがつてるやうな斑点のあるかたつむりはいくら秋本でも食はれやしないものを。」
「ふゝゝ、それを黙つて見てるんだから君の方が余つ程ひどいよ。」
おくみも一緒に笑ひながら、お客さまにおしたしをよそつてお上げした。
「これはもうこれだけですか?」と青木さんがお聞きになる。
「いゝえ、もう少しは残つて居ります。──ぽつちりしか持つてまゐりませんでしたから……」
おくみはお客さまがそれを珍らしさうに沢山召し上つて下さるのを悦びながら台所へ取りに行つた。
坊ちやんが、お腹がおすきになつたらうと思つて、胡麻塩を振つたおむすびを二つばかり拵へてお上げして置いたのを、鼻の先に御飯粒をお附けになつて、縁先で足を投げ出して一人で食べてお出でになる。
「ほんとに何にも召し上るものがございませんで……」
おくみはこちらへ来てお二人の御飯をよそつた。
「そんな事でたうとあの黄色い馬車も売つてしまつたんだよ。」
お客さまは何かお話しのつゞきをなすつてお出でになる。
「どうしてまた、さういふひどい傷我なんかしたんだらう。あのよく窓から赤いハンケチを振つたりした、一寸雀斑のある女だらう?」
「あの子のもう一つ下の妹さ。」
「それでは何とか言つた痩せた子かい?──可哀相に。」
「こなひだあちらを立つ前に、例の別居してるお母さんのところへも行つといたんだがね。青木さんからはずゐぶんしばらくおたよりがありませんが、どうして入らつしやいますでせうなんて、入歯の頬を押へながら聞いてゐた。やはり例の大きな銀の十字架をこんなところへかけてね。」
「僕はあの人には一番多く厄介になつたんだけどね。」
お二人はさつきとは異つたところの事を話してお出でになるやうであつた。
食事がおすみになると、おくみはテイブルの上をきれいに片づけて、番茶の匂ひのいゝのを炮じて持つて行つた。
「ね、かういふのを一つ女の帯に応用したらどうだらう。」
「面白いかも知れないね。」
「第一にこの方に一筋拵へて上げて、試しに結んで見て貰ふといゝ。」
お客さまはおくみを意味してかう仰りながら、青木さんが色々持つて来てお見せになつてゐる、こなひだ内の縫取の、最後の一枚を御自身の腕にかざして御覧になる。
「おくみさん、こんなので帯を拵へたら結んで見る気になりますか?」と青木さんは御冗談にお聞きになる。
「さうでございますね。──でも地はどんなものをお使ひになるのでございます?」
おくみは人さまの前でそんな批評がましい口を聞くのを極り悪がるやうに、半ばためらひながら言つた。
「さうだね、──地は今一寸考へが附かないけれど、とにかくかう言つたやうな柄を、こんな風に縫ひ取つて帯にしたらどうだといふのさ。」
「それはお召しなさるかたがお召しになりましたら、ずゐぶん変つてゐて面白うございますでせうね。ですけれどよつ程はでな方でございませんとうつりませんでございませう?」
おくみはお茶を注いでお二人の前に配つた。
「併しそれにはまづ着物から選んで来なければ、これまでの着物では釣り合はないだらう。」と、お客さまは再び順に見返しながら仰る。
おくみは呉服屋の店先にでも立つたやうに、傍でそれを覗いてゐた。
青木さんは先にお茶をお上りになる。
「これはやはり先からのお茶?」
「いゝえ、今朝程取つてまゐりましたのでございます。」
おくみは自分の袂の一寸触つた、テイブルの上の花の形を直しながらかう言つた。
「これなぞは大分変つてて面白いね。」
お客さまは、金色の黒く煤けた、昔のあついたのきれや、柿色のごろ絽などを使つた図案のを抜き出してお賞めになる。
「その歯朶のもう一つ下のを見て御覧。──その百合の、花の部分なぞは僕の手袋の革を切つて染めたんだよ。」と、青木さんは笑つてお出でになる。
「この麻糸をこんなに並べたところなぞはオースタリヤあたりのペザント・アートにでもありさうだね。」
おくみはそこらに一匹棲つてゐた蝿を手先で追うて、そこ〳〵にこちらへ下つた。
これから自分たちの御飯にするのだけれど、坊ちやんのおかずが何にもないので、また例のお好きな玉子焼を拵へてお上げする。坊ちやんはこちらで食べると仰るので、おくみはちやぶ台を六畳の方へ抱へて行つて二人で坐つた。
唐紙のそちら側では、お客さまが西洋の女の着物の意匠の事なぞを話してお出でになる。
「だからこちらの着物でも、帯だの襟だのといふものを単独に買はないで、自分の体に附けるだけのすべてのものを統一して、自分の特有の意匠をさせて見たら面白いだらうがね。」
「それでは一そろひづゝが、纏つた一つの創作なんだね。」
「さうしなければ自分の着物といふ気がしない筈だがね。色や柄が自分自身の調子にしつくり合ふ点から言つてもそれがあたりまへだもの。」
「併し君の指図で君の好きな色ばかりを着せられたりすると、大分変つた画が歩くわけになるね。」と、青木さんが間を置いて仰る。
「さうなれば色んな意味でこちらも愉快だよ。」
お二人はお笑ひになる。
「でも一々画家へ足を運ぶばかりでも大変だね。」
「だつて世間の女は一々流行を追うて拙らないものにずゐぶん手かずや金をかけて着てるんだもの。」
その内にいつしかまたあちらの画のお話になつたやうである。お客さまは、どこかで天幕の下で駝鳥を写生したといふやうな事をお話しになる。こちらで御飯を戴いてゐるおくみには、そのやうな事が聞くともなしに聞えた。
「おくみさん、あそこにあるワイシャツが二枚とも汚れてるんだが、いつかの分はまだ出来て来ないの?」
後程裏口で生姜の余つたのを土の中へ入れてゐると、青木さんが入らつしてお聞きになる。
「これから御一緒にお出かけでございますか?」
おくみはこちらへ帰つて、洗濯したばかりのワイシャツへ、袖口のぼたんなぞを附け換へた。
「では夕御飯は一緒に外ですまして来るからね。早く帰りますよ。」
青木さんはお出かけのときに小蔭でお言ひになる。
「お客さまは今晩お泊りになりますのでございますか。」
「いゝや。なぜ?」
「それならようございますけれど、お泊りになるのですと、お蒲団が……」
「うゝん、あれは兄貴のところに泊つてるんだから。」
おくみはたゝきへ下りてお二人のお靴を拭いた。
「もうその外には御用はございませんですね。」
青木さんにお留守をして戴いて、これからお湯にやらせて戴くおくみは、もう台所の方を閉めたので、お出しになるはがきを持つてこちらの方から下りた。
坊ちやんは、さつきはまた少し歯が痛くてむつかつて入らつしたのが、やつとおまぎれになつて、六畳で青木さんをお相手に待つてゐて下さるのであつた。
「今晩はお向ひの方で蓄音器の声がいたしますよ。」
おくみは忘れたものを取りに上つて、押入を開けながら言つた。
「外は真つ暗でせうね?」
青木さんは電気を低くして、厚い画の御本を膝に開いてお出でになる。
「でもたゞあそこの間だけでございますから。」
おくみは自働電話のある角まで暗い通りを行つて、八百屋の前ではがきを入れた。
その貧しい店先へ買ひものに来てゐる女の人は、もう村の人かなぞのやうな型の浴衣を着て、空色の繻子の帯を結んでゐた。家へ廻つて来る若い男が、これから市場へ買ひ出しに行くのだと見えて、店先へ下ろした荷車の下へ這入つて、心棒へ何かを括りつけてゐた。その男が土の上に置いてゐるカンテラに、赤く長く揺いでゐる火焔の色も、もうそろ〳〵浴衣がけになる頃の夜らしく、暑くるしい色に見えた。
そこからお湯屋の前へ行くまでには、一寸した小さい店が二三軒飛び飛びにある。その一つのいろんな煎餅を売るきれいな店の前には、青い瓦斯が昼のやうに冴えてゐる中に、硝子函の上に飾つた、鉢植の赤と白との石竹の花が、漲つた灯りを吸うてゐるやうに目立つて見えた。
あたりには女の子なぞが二三人で、明みと闇との堺をかけ廻つてさわいでゐた。
おくみは帰りには荒物屋へ寄つて、言ひ附かつたペン先を買つた。がた〳〵の抽斗から出して来た、小さい名刺入の函に残つてゐる乏しいペン先は、半分は錆び附いたやうになつてゐた。
おくみは序に毛すぢと壜入の歯みがき粉を貰つた。
かうしたものさびれた町の夜の灯も、おくみには何とはなく、自分にしたしい或物の含まれてゐるやうな、小なつかしい晩であつた。
今日は髪を結ひ直したかつたのに、午後またちがつたお客さまがあつたので、どさくさして結ふ間がなかつたけれど、それでも、お湯に這入つてのんびりした気分には、大分うるさいと思つてゐた髪のことも忘れて、たゞしつとりした平和な心持の下に、よその小家の瓦斯燈の文字なぞさへなつかしまれるやうな自分を見つゝ、また、もとの自働電話の赤い灯に沿うて曲つた。
暗い通りを、よその女の人が、背中の子供に母人らしい何事をか言ひながらすれちがつて行く。右手の杉垣の門口に、女髪結の看板のかかつてゐる家の竹窓には、すだれを通して男の浴衣が見えて、小さい男の子の声で本をさらつてゐるのが聞えた。
おくみは帰ると門口をかけて、内へ這入つた。さつきは帰つたら何をか青木さんに言はうとした事があつたのに、それが何であつたか分らなくなつた。
青木さんが机に倚つて、さつきの本を見てお出でになる側に、坊ちやんは座蒲団を枕にさせてお貰ひになつて、すや〳〵とうたゝ寝をしてお出でになる。
「たうと寝てしまつたよ。」
「お世話さまでございました。只今ぢき蚊帳を吊つてお上げ申します。」
おくみは湯上りの顔にうつすら白粉をつけてゐた。
「足へ蚊がとまつてる。」と仰つて、青木さんは手を伸してお叩きになる。
「こんなに血を吸つてるよ。」
「まあ。」
おくみは側へ行つて坊ちやんの足の方を包んで置いてお上げする。
「今日は午後中、馬車ごつこだと仰つて、大きな函を引き廻していらつしやいましたものですから、がつかりなさいましたのでございますよ。」
おくみは急いで押入を開けて蒲団を出した。
「さ、寝間着を着換へるんだよ。」と青木さんが仰る。
「ほゝゝゝお手をそんなところへお通しなさいましちや……」
おくみは、寝ぼけてむづかしい顔をしていらつしやる坊ちやんを抱へるやうにして、やつと蒲団の上へお寝かせした。
「まあ、重たい坊ちやま。──おや、お枕がございませんでしたね。」
青木さんも手伝つて下すつて、一と間へ一ぱいに吊る蚊帳の、向うのはしを吊つて下さる。
「どうも憚りさまでございます。」と、おくみは蚊帳の中へ這入つて、まはりの裾をひろげて廻つた。
「まだ今晩はずゐぶん早いのでございますね。」
やがておくみは蚊帳のはしに障つた髪の形を押へながら、こちらの蔭から言つた。
青木さんは敷物を縁先へ出して、灯を肩に浴びて坐つてお出でになる。
「こゝは木なぞが多い割合に蚊が少いので余つ程凌ぎいゝんだけど、」と仰る。
「さうのやうでございますね。ところによりますと、このごろでも、もうこんなにして坐つてなぞゐられないやうなところがございますよ。」
「でもずつと暑くなつたらこんなことでは済まないけれど、まあ、割にゐない方だらうね。──その代り小さい虫が沢山灯に集つて来る。今でも少しはまひ〳〵してるでせう?」
おくみは蚊帳の側をくゞつてそちらの方へ坊ちやんの着物を取りに行つた。
机の上の方へ引いて置いた灯は、暗い庭先の一部分に光りを広げてゐる。右手の、闇の中に隠れてゐる樫の木が、夜の色より黒く淀んでゐる。
「もうみゝずが鳴くやうになりましてございますね。」と、おくみは畳の際に膝を突いた。ぢつとしてゐると、そこらの暗い土の上に水のやうな色でも広がるやうに、じいゝといふ煙りのやうな声が立ち浸みてゐる。
「何だか少し蒸し暑いやうな晩だね。──もう蓄音器も止んだのか知ら。」
青木さんはかう仰りながら、何をか他の事を考へてお出でになるやうに、土の上の一つところを見入つてお出でになる。
「今日入らつしやいましたお客さまは、いつか、晩に入らつしやいました方でございませう?──私はすつかりお見忘れ申して居りまして、どなた様でございますかつてお聞き申しましたのでございますよ。」
おくみはお湯できれいになつた指先を見つめながらかう言つた。
坊ちやんのお召物が、裾の方に泥が少しついてゐるので、縁先へ出て落して、こちらの衣桁にかけて置く。通りすがひに蚊帳が邪魔になるので、机の方の一と角をはづして置いた。
おくみはそれから夕方に竿から下した青木さんの膚着のシャツを、ほかのものと一緒に四畳へ置いたのを思ひ出した。
盥の中でそのシャツのボタンが一つ取れたのを、物置のこちら側の出張つた台石の上に置いといたので、蝋燭を点して、台所口を開けて探しに行つた。
裏の方は真つ暗である。そこらの軒下に立てかけてある盥や炭俵なぞが、蝋燭のもうつとした黄色い灯の中にしんかんとして見える。ぼたんは洗濯石鹸の小さく減つたのと一緒に、置いたところにあつた。
蝋燭の蝋がぽた〳〵と土の上に滴る。
檻の山羊が灯を恋ひてみい〳〵鳴く。たゞ一と色に黒い闇とばかり見えた向うの方も、よく見れば栗の木も山羊の檻も仄かに黒ずんだ形が見分けられた。
おくみは茶の間の灯の下でぼたんを附けて、白い糸のはしを糸切歯で切つた。一人縁先の方にお出でになるのだと思つてゐた青木さんが、入口の格子戸の方から上つてお出でになる。表の郵便函を見に入らつしたのらしい。
と、
「洗吉からはがきが来た。」と仰つて、灯のところへおこゞみになる。
お着きになつたお知らせであつた。青木さんはお読みになつておくみの前へお出しになる。
「おくみさんによろしく。」としまひに書いてあつた。
「まあ、あなたのお手とそつくりのやうでございますね。」
「さうか知ら。変な字だ。」と仰りながら、一緒に郵便函の中に這入つてゐた何かの雑誌の帯封を切つて、ところ〴〵を御覧になる。
おくみは糸巻のはしを巻いて小箱へ入れた。
「一昨日の日附になつて居りますのに大変遅く着きましたものでございますね。──消印がかすれてゐて分りませんけど。」
「何だか今日は私もがつかりしたやうな気がする。──でもまだ寝るにも早いし。」
青木さんは所在なささうに仰つて、長火鉢のお湯を土瓶へおさしになる。
「もう、出がらしでございますから。」とおくみはそれを空けに立つた。
「今日の人が来るといつでも坐が長いんでね。尤も私だつて人のところへ行くとつい長くなる癖があるんだが。──その代りめつたに出かけないし、行くところも余りないんだけど……先の婆やは人が来るのが大嫌ひでね。」
「なぜでございませう。」
「なぜといふこともないだらうけど、人が来てゐるといふことで、変に気がつまるやうな心持がするのだらうね。」
「でもこちらの方とは別でございますのにね。」
「何かが少し変つた婆さんだつたから……」
「お湯が少しぬるうございましたでせう?」と、おくみは鉄瓶の下の火をかき探した。
「そろ〳〵あちらへお床を延べて置きましても宜しうございますか?」
青木さんは後程お寝みになるときに、これから追々足へかける蒲団が重くろしくなつて不愉快だと、蚊帳の中からお言ひになる。
「暑くなりますとほんとに厭でございますね。床に這入りましてからいつまでも寝附かれませんくらゐ苦しい事はございませんわ。」
おくみは蚊帳の裾に膝を突いてかう言ひながら、鬢の後れ毛を掻き上げて、お脱ぎになつたシャツをさつきの洗つたばかりのと取りかへて置いた。
「もう電気を消しても宜しうございますか。──ではお寝みなさいまし。」
おくみは堺の襖を閉めてこちらへ来た。
それからしばらく今日のお小使をつけたりした後に、そこ〳〵に茶の間の灯を消した。もういつしか十二時を廻つてゐた。
さし向、九月ごろまでしまつて置くのに洗濯した、自分のこの間からのネルの着物を、さつきから膝の下に敷いて押しを切つてゐたのを、序に寝床の下へ入れて寝ようと思つて、こちらへ持つてくる。
自分の這入る蚊帳を覗くと、坊ちやんはお暑いのだと見えて、枕をはづして横の方へおあばれになつて、お臀をすつかり出してお出でになる。おくみは寝間着を着換へて、赤い扱を結ぶと、昼の帯を畳んで置いて蚊帳に這入つた。
「さ、ちやんとお枕をなさいまし。まあ、お額にじつとり汗をおかきになつて……」
おくみは独言のやうに口の中でかう言ひながら、自分の袂の先で額口を拭いてお上げする。
何だかいつになく少しむし〳〵するやうな気がするけれど、また雨にでもなるのではあるまいか。
おくみはさつきの着物を敷蒲団の下に入れると、再び蚊帳を出て、押入から半紙を出して来て、床の上で枕紙を取り換へた。くゝり糸を結ぶ新しい白い紙の上に、電気が蚊帳の影を写してうす青く射した。
おくみは、やがて中からその電気のかさを引きよせて灯を捩ぢた。
暗がりで坊ちやんを少し上の方へ引き上げて、お腹のあたりまで蒲団をかけてお上げして、自分も横になつたが、さうした蒲団の厚ぽつたいやうな手触りに、さつき青木さんがお寝みがけに仰つた事が思ひ出された。全くかういふ冬のまゝの蒲団では、これから先は暑くるしくてお困りになるだらうと思はれる。
さき程はついそこまで考へなかつたけれど、青木さんのお召しになるのを一枚だけでいゝから、薄い夏蒲団を拵へてお上げ申せばざうさはないのだがと思ふ。去年もあの儘でお済ましになつたのだらうけれど、何だかこのやうな事にも、誰とて気をつけてお上げ申す人がなくて入らつしたのが、お気の毒なやうな気がする。
おくみは暗い蚊帳の中でしばらく目を開いて考へた。
さう言へば青木さんにはこれからのお召し物も御不断のが一枚しかおありにならない。外へ召してお出ましになるのには、紺の東京縮のいゝのが一枚と、それから白絣の帷子の一寸したのがあるけれど、あとはお浴衣が二枚ばかりある外に、今召してお出でになるたてじまの木綿のが一枚だけで、洗ひ代への不断着が一枚もおありにならないのである。
もう一つのかすりは、もうずゐぶんいたんでゐて、ちよい〳〵つぎも当つてゐるので、門口へも着てお出ましになられない。せめてもう一枚だけでもおありにならないと御不自由である。これも去年はあのまゝでお通しになつたのであらうか。
つい一寸した久留米絣でもいゝから、一枚お拵へになるといゝけれど、かういふ事は何だか私が言ふのは言ひ悪い。お蒲団の方なれば、さつき御自分でもあゝ言つてお出でになつたのだから、一応さう言つた上、こちらでどうにか都合をして拵へてお上げ申しても変ではないやうな気がする。
夏のだから綿も少なくていゝし、布も三幅と四幅とでいゝであらう。よく裏には水色の麻なぞがつけてある。あれだと一円も出したら買へるであらう。綿は一枚どほりにして八百目もあれば沢山である。百目十二銭としてざつと一円に、それから表は涼しさうなメレンスの柄のいゝのをでもさがして来れば何かある。表も麻にするとしたら、先のお邸でお子さま方のにお拵へになつたやうな更紗型のもよかつた。それなら裏の麻も白いのがよくうつる。どちらも一反づゝ買へば、やつぱり当り前に四幅に五幅の大きさにしなければ布が無駄になる。
それでもいくら安く見積つても、すつかりで三円五六十銭はかゝるから、そんなに訳なくも出来ないけれど。
その内、平河さんのおかみさんでもお出でになつたら、御相談をして見ようか知らと思ふ。平河さんへもしばらくごぶさたをしてゐる。どうしてゐると思つてお出でになるであらう。
おくみは何だか目がさえて、急には寝つかれさうにもないので、瞼だけは合はせても、頭の中ではそれからなほいろ〳〵の取とめもない事を考へつゞけた。
鼠がさつきからがり〳〵と、どこかそこらの天井の中で何をか囓つてゐるのが気になる。
と、
「おくみさん。」と、唐紙のそちらから青木さんが小さくお呼びかけになる。
「はい?」とおくみは、鼠でおめざめになつたのかと思ひながら御返事をした。
「もう寝たんですか?」と仰る。
「どこをがり〳〵やつてるのだらうね。昨夜もよつぴて耳について寝られなかつた。──どこかそちらの押入の中ぢやないの?」
「さうでございますね。私は寝ましたら何にも別りませんのですから。──昨夜からでございますか?」
おくみは蚊帳を出て電気をつけた。
「こちらの天井でございますよ。」
しばらく止んでひつそりした。
青木さんは、
「何だか今夜は変にむし暑くてさつきから一寸も寝入られないんだよ。」と仰つてごそ〳〵させてお出でになる。
「何でございますか厭な晩でございますね。──お手拭でも濡らしてまゐりませうか。冷たいのを目の上へ当ててお寝みになつて御覧になりましたら……」
おくみは唐紙を開けて膝を突いた。
「今もう何時です?」
ついどさくさしてゐて、青山の養母のところへもあれなり得う行かないでゐたおくみは、今日はさし向これといふ用事もないやうだから、午後一寸お閑を戴いて、程によつたら平河さんへも帰りにお寄りして来たいと思つて、朝早く、青木さんが山羊の乳を搾つて入らつしやるところへ行つてお願ひした。
坊ちやんはまだ蚊帳の中でよくお寝つてお出でになる。
おくみはその間に通りの髪結さんのところへ行つて、朝の内に来て貰ふやうに頼んで来る積りで、そこの押入を開けて懐中鏡を立てて、冷やりした蚊帳の色のすが〳〵しい青さに彳みながら、そこらへ出るにもあんまりな、鬢のあたりを掻き上げた。
「あちらの髪結さんなら一寸上手でもございますし、おとなしい人でいろんな事をべちや〳〵言ひませんからうるさくなくてようございますよ。」と、いつかお湯屋の女の人から聞いた分へ、少し遠いけれど行つて頼んだ。
「おくみさん、何ならいつそ午前に一寸行つて来たらどうだらう。久男は厄介だから、置いとけば一人で遊んでるよ。今日はこれでは午後は暑くて歩かれないよ。」
青木さんは朝御飯の後で小楊枝をお使ひになりながら、いら〳〵と畳のはしへ射し入つてゐる日影を見つめてかう仰つて下さる。
「でも、これから髪を結つて貰つたりしてゐますとどうしてもあれでございますから……」と、おくみは柱の時計を見た。
「さつき仰いましたのは、本当でございますか、坊ちやま。大人しくお父さまとお二人で待つてて下さいますか? さうして下さいますといゝ坊ちやんでございますけどね。」
やがておくみは着て行くものを揃へながらかう言ひつゝ、さつきから髪結さんが来るのを待つてゐた。
「姐ちやん何あれは?」と、足を投げ出して坐つてお出でになる坊ちやんは、他の事を仰りながら、不審さうに外の方を上目に見て、きよと〳〵してお出でになる。
「ほゝゝ何でございませう?」
「どこ?」
「小屋根。」
「屋根?」
「えゝ。」
とたん張りの上をばた〳〵言はせてゐる。
「雀が下りて走つてゐるのですよ。」
「雀?」
「えゝ。──雀のお宿。」
「お宿?」
「ほゝゝ、坊ちやんは真似ばつかりお上手ですね。」
おくみは単衣のメレンスの長襦袢の褄をくけながら言つた。
やがて髪結の家のすき手が来た。髪結さんは手順が違つたので、午後でなくては来られないからとことわりに来たのであつた。
「まあさうですか?」
おくみは困つたやうに立つて行つた。
とにかく来られるだけ早く来て見て貰ふ事にして、使の女を返したけれど、そんなにしてゐては今日の間には合はないやうな気がして、いつそ髪だけ結つて、行くのは明日にしようか、それとも平河さんの方はこの次にして、養母のところへだけなりと、折角だから一寸行つて来る事にしようかと思ひながら考へ迷つてゐると、表口の格子の呼鈴が鳴る。
出て見ると、思ひがけなく平河さんのおかみさんが入らして下さつたのであつた。
「おや、入らつしやいまし。まあ、丁度今さう思つて居りましたところでございますよ。」
おくみはさつきからのつもりを話した。
「さう? でも別に変つた事ぢやないでせう? 私は今間違へて、もう一つあちらの通から這入つて来てずゐぶんまごついたのよ。そちらに入らつしやるの?」
おかみさんはおくみに附いて六畳へお通りになる。
「只今一寸そこらまでお出かけになりましたのでございますけど、今に直帰つて入らつしやいます。」
「私失礼して上だけ取つてよ。今日はあちらの電車で来て、あそこからずつと歩いたものだからすつかり汗になつて……」
「まあ、あちらからですと大変でございましたでせう?」
おくみはいそ〳〵して、手拭のきれいなのを絞つてお盆に載せて来たりした。
「いゝ柄の座蒲団ね。青木さんのお見立て?」
おかみさんは手拭をお使ひになつてさつぱりなすつたやうに、そちらのはしへ出てお坐りになる。
「大分しばらくでございました。どなたさまにもお変りもございませんで……」
おくみは改めて御挨拶をした。
「もうこなひだから、一寸お伺ひいたしませんではと思つて居りましたのでございますけど、ついどさくさいたしまして……」
「私こそいつもおはがきを貰つても、返事も上げないし、ずゐぶんでせう?──たゞあれからしばらくたよりがないから、ひよつとしたらくみちやんはどこか加減でも悪いのぢやないかと思つたりして心配してゐたのよ。水が変るとよくある事だしね。家ではつい一昨日あたりまであきが少し熱があつて、学校も二三日休んで寝てたんですよ。」
「さうでございますか。私は一寸も存じませんものでございますから。」
「もうすつかりよくなつたんだけどね。──くみちやん一寸鬢掻を貸して頂戴な。私の髪はぢきこんなに下るのよ。もうお婆さんになつて髪も少くなつたし……」
おかみさんは鬢のあたりを撫でながら仰る。
おくみはお脱ぎになつたお羽織をそつと衣紋竿にかけて置いた。お店の方では女中さんが代つて、ほかのが一人来たけれど、何だか思ふやうにないといふお話をなさる。
「お安は相変らずのんきよ。あれでなく、もう一人のおさわと言つた女──何だか自分で飽きが来たんでせうよ。」
おくみはこちらでも、洗吉さんが試験がおすみになつて、一昨々日急にあちらへお立ちになつて、あと三人きりになつた事や、坊ちやんや青木さんの御容子なぞを話した。
「坊ちやんも今一緒に出て入らつしたの?」
「いゝえ、つい今までこゝで遊んで入らつしやいましたのでございますよ。」
おくみは一寸失礼して立つて、お茶を入れるためのお湯を瓦斯にかけた。
「おくみさん、もう何にも構はないで下さいな。お茶も沢山。──それよりかね……」
「お呼びになりまして?」
「いゝえね、あの私今日来たのは外ぢやないけど、いゝ都合にこゝへ来てくれる代りの人が見附かつたのよ。」
「おや、さうでございますか。」
おくみはこちらの敷居際に膝を突いた。
「まあこちらへ入らつしやいよ。私になら何にもいゝから。」
おくみは袋戸棚の前に坐つて、序にお茶を入れた。
「これは昨日大阪の方からまゐりました奈良漬でございますけど、いかゞでございますか。生憎何にもお茶受けがございません。」
瓜とお茄子とを少しばかり切つて小さい容物へ入れたのへ小楊枝を添へて出した。
「まあ珍らしいものがあるのね。先に私が女の生徒さんたちを預つてゐたときに、一人あちらの方の人がゐて、そこの家からよく貰つたけど、あちらのはそれは甘いのね。」
おかみさんはかう仰りながら、上り口の方へお立ちになつて、何かお土産に持つて入らつした風呂敷包みを、こちらへ持つてお出でになつた。
「ほんのつまらないもの。あとで坊ちやんに上げて頂戴な。──それでさつき言つた婆やの事ね、まあやつとの事でこれならと思ふのが有つたのよ。くみちやんは先に私たちが千駄木にゐたときに、あそこの大観音へ曲るところの角に瀬戸物屋があつたのを覚えてゐて? それこそずゐぶん前の話だけど。」
「さういふ家がございましたかね。」
おくみは心持顔を赤くして、うつすら覚えてゐる、あのあたりの通を目に描かうとした。
とにかくその瀬戸物屋が今下谷の方で小さくやつてゐる店の前を、この間おかみさんはよその帰りにふとお通りになつて、店先に出てゐたかみさんと久しぶりでお話をなすつたのださうであつた、そのときお話の序に、このお家に要る婆やさんの事をお頼みになつたら、二三日して心当りがあるからと言つて、わざ〳〵はがきをよこしてくれて、昨日その当人が、おかみさんの方へ出て来たのださうであつた。
「何でも四十六だとか言つてたけど、見かけはもつとふけて見えるの。いろ〳〵これまでの事を聞いて見ると、とにかく正直一方らしい気のよさ相な婦人なのよ。早く夫と別れてさんざ苦労をして来たんだつて。」
その人はついこなひだまで、七年ばかりの間、小石川の方の或学生の塾で勝手元の面倒を見てゐたのださうであつた。それが近い頃そこの塾の監督をしてゐられる方が奥さんをお貰ひになつたので、言はゞその婆やが要らなくなつたのだけれど、それでもさし向行くところがないために、半年ばかりその儘置いて貰つてゐた。併し下を働くには下女もゐるのだし、そんなにしてゐるのが気の毒なので、こなひだ閑を貰つて、今当分自分の姪とかのところにかゝつてゐるのださうである。
「その姪の家といふのが大変困つてゐるらしいやうな話ぶりなのよ。とにかくまああれなら人柄だけは慥なやうだから、私はあらかた取り極めて置いたんだけどね。──いかに何でも、かうしていつまでもくみちやんを使つてゐるのがすまないから、一人で気を揉んでゐたんだけど、これでやつとくみちやんも一応私の方へ帰れるわ。今日でいく日こゝにゐたんでしたかね。」
青木さんが帰つて入らつしたやうである。
おかみさんは、実は今日その婆やさんを伴れてお出でになるお積りだつたのだけれど、今朝になつて、今日は日が悪いから明日にして戴きたいと言つて、本人がことわりに来たのださうであつた。
「私は折角ちやんと着換へまでして待つてたんでせう。ではともかく私だけ行つてお話をして置くからと言つて、その儘出て来たの。丁度よかつたかも知れないわね。いきなり伴れて来ても却つて何だつたらうし。」
かう仰つてゐるところへ青木さんが這入つて入らつした。
「どうもしばらく。……女の下駄が脱いであるからだれだらうと思つた。」
「まあ、いゝ花ですね。」
青木さんはあちらの通の植木屋さんへ行つて入らつしたと見える。
「色が少し変だけど……」
薄紫の西洋花の鉢植に、きれいな籠が嵌つてゐるのを机の上にお置きになる。
おかみさんは早速婆やの事をさう仰つた。
「おや、さうですか。そしてもう極めてしまつたんですか? まあ座敷の椅子へ入らつしやい。こゝは何だか狭つくるしいから。」
おくみは急須を持つてあちらへ立つた。
「ね、こちらの方が冷んやりしてていゝから。」と、青木さんはお座敷からお言ひになる。
「くみちやんもうぢきお午だわね。私は丁度中途半端なときに来て……」
おかみさんは茶の間の方へ入らつしてかう仰る。
おくみはやがてこちらで、そろ〳〵お午の仕度をした。
「くみちやんは、お午後青山の方へ行く筈になつてるんですつてね。──私はもうこれでお暇をするから、くみちやんはいゝ加減に何して、髪を結ひに行つてはどう?」
おかみさんはお話が済んだと見えて、こちらへ入らつしてかう言つて下さる。
「いゝえ、あの方はいつだつていゝのでございますから、どうぞ御悠くりなすつて下さいまし。もうちやんと御飯をさし上げるやうに出来て居りますのでございますよ。」
おくみは袋戸棚の抽斗から、おかみさんにさし上げるお茶碗を出して拭布をかけながら言つた。
青木さんもそこへ入らつしてお引止めになる。
「そんなに今日に限つて急いで帰らなくてもいゝぢやありませんか。まあこの画でも見て下さい。近頃は何にも画かないものだから……」
「さつき一寸拝見したんですけど、何でこんなところへかけてお置きになるの?」
お二人はおくみが戴いた画の前に立つてお出でになる。おくみは板の間でおかずの煮肴をよそひながら、あゝした画を自分が戴いたりしてゐるのが、それとなくおかみさんの前に気が咎めるやうな心持がした。青木さんが自分を一人前の女のやうに扱つて下さるのに馴れて、いゝ気になつてゐでもするやうに見えさうできまりが悪い。
おかみさんはどこもかしこもちやんと綺麗になつてゐると仰つて、青木さんに賞めてお出でになる。
その内に丁度坊ちやんも外から帰つて入らつした。
「おや、そんなところからお上りになりましたの? あちらへ入らつしたらちやんとお手を突いてをばさまにお辞儀をなさいましよ。」
おくみは襷をはづしながら言つた。
「一寸お待ちなさいまし。帯が後へ下つてゐます。まあきれいなお手、土をお掘りになつたんでせう? 一寸こちらでお洗ひなさいまし。このお召物も、もうお着換へにならないといけませんね。」
おくみは洗濯したのを出して序に着換へさせてお上げする。
やがて、皆さんは座敷でテイブルにお附きになつた。
「久男さんはお姐ちやんと並んで食べるんだと仰るから、くみちやんも一緒にこゝでお食べなさいよ。一々こゝまで運ばせて大変ね。」と、おかみさんは青木さんの御飯をよそつて下さる。
「さ、坊やはこゝへ坐るんだよ。何でもお姐ちやん〳〵と言つて世話ばかり焼かせるんだね、お前は。──今にお姐ちやんがゐなくなつたらどうするんだい?」と、青木さんが仰る。
「をばさまにお上りなさいましですつて。お父さまには? ほゝゝ、いゝお行儀で入らつしやいますこと。」
おくみは微笑みながら側に腰をかけてお給仕に附いてゐた。
「折角くみちやんになづいて入らつしやるのに、また違つた人が来るのだから何だか当分お可哀相だわね。」と、おかみさんもお箸をお取りになる。
「僕だつて困りますよ。もうこの儘いつまでもゐて貰へる積りでゐたんだのに、余計な婆さんなんぞを見附けて来るんだからいけないや。」と、青木さんは、御冗談でもないやうに仰る。
「では私が飛んだ憎まれ役ですね。だつて仕方がないわね、くみちやん。」
おかみさんは笑ひながら袂のハンケチをお出しになる。
「坊ちやんは不思議さうにお二人のお顔ばかり御覧になつて入らつしやいますよ。」
おくみはつましく坊ちやんを見守りながらかう言つた。
「このお加減が大変いゝこと。ほんとに上手に出来ててよ。」と、おかみさんは牛蒡のきんぴらを賞めて下さる。
「いかゞでございますか。そちらのお肴の方は少しおしたじが足りませんでしたかと思ひますけど……」
「うゝん、丁度いゝ。この玉子はどうして肴の身の中で固まらせるんです?」
「こちらも甘しく出来てるわ。くみちやんはいつの間にかういふお稽古をしたんでせう?」
「ほゝゝ大変でございますね。」
おくみは極り悪さうに、下目になつて、坊ちやんがお膝にお零しになる御飯粒を拾つてゐた。かうしてるところへ、あちらの方で御免下さいといふ女の人の声がする。
「いゝえ、髪結さんでございませうよ。まあ、変なとき来てくれるんですこと。」
おくみは返事をしつゝ立つて行つて、いつそ明日の朝来て貰ふやうにさう言つて、すき手の女を帰した。
「あら、なぜ? 構はないぢやありませんか。一寸そこからお呼びなさいよ。私がゐるからなの?」と、おかみさんが仰る。
「いゝえ、さうぢやございません。もう行つてしまつたんでございますから。」
おくみはかう言ひながら後れ毛を掻き上げて椅子に着いた。
「厭な人、ついあちらで、一寸結つて貰へば埒があいていゝのに。」
おかみさんは気にして仰つた。さうさせて戴かうかとも思つたのだけれど、あんまり気儘なやうだつたから。──そしてどうせ明日でも同じであつた。
「こゝいらの髪結さんなの? 上手ですか。」
「どうでございますか。まだ今度はじめてなんですけど。──何ですか結ひつけない人に結つて貰ふのは変に気になるものでございますね。」
「くみちやんには束髪だつてよくうつるんですのにね。」と、おかみさんは青木さんに仰る。
「しばらくこんなにしてゐましたから、今度あたり前に結ふのには鬢が寝ないで変でございませうね。」
「さうでもないわ。癖直しをよくすればちやんとなつてよ。たゞこんなにしてると髪が切れてね。」
やがて皆さんのお食事がすむと、おくみはあちらへ下つて一人で戴いた。
「くみちやん、あとでお手水鉢へ水を入れといて下さいな。すつかり片附いたらこちらへ入らつしやい。まあほんとにいゝ画だわね。」
おかみさんは通りすがひにかう仰る。
「青木さんがあれを私に下さると仰るのでございますよ。」と、おくみは箸を置いて、後ればせにかう言つた。
「さうだつてね。いつまでもいゝ記念になるわ。」
おかみさんは事もなげに仰るのであつた。もう青木さんからお聞きになつたらしかつた。
それからみんなでテイブルに集つて、おかみさんのお土産のさくらんぼを戴いてゐると、外を金魚売が長い声を引いて通る。おくみには担がれて行く桶のなまぬるいやうな水に、赤い色がせぎ〳〵に動いてゐるのが目に見えるやうな気がした。
「この部屋は、これからでも冷やりしてゐていゝでせうね? 建前の工合でせうか。」と、おかみさんが仰る。
「どうしてもこゝいらは市中とは暑さが違ひますでせうね。」
おくみは坊ちやんのお出しになる種をお盆のはしへ置いた。
「その代り蝉が沢山ゐてうるさいや。」
青木さんは巻煙草に火をお附けになる。おくみはこの間もさう仰つたのを思ひ出して、余つ程蝉がお嫌ひなのだらうと思ひながら微笑んだ。
おかみさんはそれから二階へお上りになつたり、裏口へ出て御覧になつたりして、しばらくお遊びになつた後、午後の日ざしのまだ残つてゐる中を帰つて入らつした。
青木さんはおくみのゐないところで、いつそこのまゝおくみにもうしばらく面倒を見て貰ふ訳には行かないかとおかみさんにお聞きになつたのださうであつた。
「それやくみちやんの気持一つで、私がどうつて事は勿論ないんだけど、それにしても、またお母さんの方の考へもあることだしとさう言つて、私はその場を濁して置いたんだけどね。だつてそれはくみちやんにしてもよく考へて見ないと一寸引受け悪いでせう?──まあ、とにかく一応帰つた方がいゝわ。青木さんには気の毒だけど、くみちやんの方から言へば、まだどちらにしても、ちやんとした女の人に附いて色々教はつて置かなければならない事もあるんだしするから。」と、おかみさんは裏口へ入らつしたときに小蔭に彳んで窃とかう仰つた。
青木さんはおかみさんを送りがてら、湯へ行つて来ると仰つて、坊ちやんとお二人で一緒にお出かけになつた。
おくみはその間に一寸縁側で髪を解いて結びかへた。
何だかおかみさんに相談したいことを言ひ遺したやうに思つてゐるけれど、考へると青木さんのお蒲団のこともその一つであつた。あすは婆やさんを一人でおよこしになるやうに言つてお帰りになつたけれど、馴れない人には家が一寸分りにくいだらうが大丈夫か知ら。おくみはそのやうな事もそれとなく気になつた。
髪を結つて了つて油手を拭く反古の一つには、養母から来た手紙のちぎれの字が読み返された。これでこゝから一応すぐ平河さんの方へ帰るとして、それから先をどうしたらいゝものかと考へると、自分ながら心もとない気がする。
おくみはそこに膝を突いた儘、お向ひのお家の二階屋根の片面に、黄ろい色に狭まつた夕日の影を見るとしもなく見入つてゐた。今度はもう平河さんのお家へもさう長く御厄介になつてゐたくない。おくみはこのやうな事を相談すべき人がだれ一人とて無いのであつた。
それから気がついて櫛函を片づける。障子の縁に立てた懐鏡の蓋の赤い布がかうした沈んだ心持を色づけるたつた一つの赤い色のやうに小淋しい。
おくみはそこの一間を掃き出しながら、かうして青木さんたちによくして戴いて、自分の家かなぞのやうに心安く置いて戴いたこの二月ばかりの間のことが、この先いつまでも自分の一番恋しい頃のやうに思ひ返されるのであらうといふ気がする。
おくみはそれから押入を開けて、お午前に、おかみさんが入らつしたときに急いで取り片づけたまゝの着換への着物を出して、襟をつけかへたばかりの長襦袢もちやんと畳み直した。
ふと、もう一つの悪い方の丸帯を解して表にして、青木さんの夏のお蒲団を拵へてお上げしようかと思ひ附く。去年拵へてまだいく度も結ばない帯だから、前へ出る方なぞも一寸も汚れてはゐない筈である。あの白いメレンスの、蝶々を崩した涼しい柄なら、丁度これからのお蒲団にいゝかも知れない。さうすれば裏と綿とだけ買つて戴けばいゝのだから。──それも序に私が買つて、だまつて拵へて納つて置けばいゝのである。
おくみはかう思つて行李を開けて、中程に這入つてゐるその帯を、そつと引き出して披げて見た。
物尺を出して積つて見る。一丈のたけだからたつぷり取つても一尺は余るであらう。幅は二た幅にして、両方へ二寸ばかりは縫ひ込まなければ広すぎるかも知れない。おくみは念のために座敷のお蒲団を一枚出して、縦横の寸法を測して見た。
片づけてこちらへ来て、序に帯を解しにかゝる。やつぱり軽い糊を附けてちやんとしなければならないから、縫ふのはあすの午後でなくては出来さうにもなかつた。
見ると丁度背中に出るあたりのところに一寸したしみが出来てゐる。泥か何かの迸がついた跡ででもあるやうに、小黒く滲んでゐる。あとでそつと摘み洗ひにして見よう。
おくみは鋏を入れては縫ひ糸を解しながら、その抜いて行く糸の一筋づゝに、さつきからの、小さびしい自分の心が読み返された。
「もうお湯へも召して入らつしやいましたのでございますか?」
「おかみさんがよろしくつて。──久男がどこまでも附いて行くもんだから、たうとう青物市の近所まで行つたんだよ。」
青木さんは、おくみが裏の山羊の棚のこちらで青い鶉豆をつんでゐるところへ入らつして、お湯上りの袂から煙草を出しておつけになる。日はもうさつき、栗の木の後の、となりの屋根の向うへ這入つて、一日のいきれからよみがへつたやうな青い蔭ばみが下りてゐた。
「今これを少しばかり取つて見ましたのでございますけど、まだやつとこれだけしかございませんですの。」
おくみは小さい笊を持つて畠を出た。
「ほんの十ばかりだね。」
「さうでもございませんわ。こんなに小さいのばかりですけど。──でも自分の家へ出来たのですからこんなものへ入れましても心持が違ふやうな気がいたしますよ。」
おくみは笊を下に置いてこゞんで、さつきから馬鈴薯と豚肉とで、シチュー見たいなものを拵へかけてゐるのへ入れるつもりで、それ等の小さい早い莢の筋を取りかけた。
「今日はたうとお母さんの方へも行けなかつたね。」
青木さんもこゞんで一つ二つ縁を取つて下さる。
「でもいつつて日を限つてゐる訳ぢやございませんから、婆やさんでも来ましてあちらへ帰りますときに廻ればようございます。」
膝の上に莢をためながらおくみは言つた。
「だつて婆やが来たつてぢき帰らないでもいゝでせう? これまで一人で忙しい目ばかりしたんだから、五六日は悠つくり遊んで行つて下さいよ。今度は留守番があるから、一ん日どこかへ伴れてつて上げる事も出来るし……」
「いゝえ、そんな御心配をなすつて下さいましては、」と、おくみは極り悪さうに言つた。
「もうこんなにしてるのも飽きたかも知れないけど、」と、青木さんは御冗談のやうに仰る。
「それに婆やさんがまゐりますと、蚊帳の都合があれでございますから。」
「蚊帳なんかどうだつてなるよ。一張り買つたつて借りたつてどうでもなるもの。」と、お笑ひになる。
「あなたが坊ちやんとお寝みになつて下さいませば、一と晩ぐらゐは、私たち二人があの蚊帳でもすみますけど、でも婆やさんに一日だけ一緒にゐてあれこれ言つて置きましたら、大抵何にも解つてくれますでせうから……」
おくみは笊を持つて彳んで、棚の中の山羊が、自分のくれた餌を食べてゐるのに目を遣りながら言つた。
「くみちやんにはおかみさんが何とか言つた?」
「いゝえ、別に何にも仰いませんですけど……なぜでございます?」
「何たゞね。……もつとおくみさんを借してくれと言つたんだけど御裁可にならなかつたんさ。どんな婆やが来るか知らないが、私はもう厭になつた。久男さへゐなければいつそ一人でどこかへ下宿でもするんだけどね。あの子をだれか貰つてくれないものか知ら。」
青木さんは、棚の横木に釘が出てゐるのを内側へ手をやつて揺すぶり抜かうとなさりながら仰る。
おくみはさうお言ひになる青木さんのお心持になつて見て、自分のことのやうに物悲しい気になつた。
「手では抜けないよ。かうしとくと山羊が傷をするからね。」
「坊ちやんはどこに入らつしやいますのでございます?」
自分の心持のつゞきをかう言つたおくみには、坊ちやんが今度の婆やさんにおなづきになるまでの、しよんぼりした小さいお心の内もお可哀相に目に見えた。
「どうしても早く奥さまをお貰ひになりませんではいつまでもあれでございますわ……」
おくみは笊の中の青い莢の中を掻き分けながら、伏し目になつて、青木さんのためにかう言つた。どうかしてお探しにさへなれば、どなたか、いゝ方が入らつして下さりさうな気がするのに。
「何にしても、これでは困るけど……」と仰つた儘青木さんは、お吹きになつたお煙草の烟の消えて行くのを見入つてお出でになる。何だかお心の内では他の事をお考へになつてゐでもするやうな御容子にも見えた。
「でも細君なんていゝ加減なものだからね。また変なものに来られたら大変だ。──御覧よ、今時分蝶々が二匹あそこを飛んでら。」
青木さんは考へたくない事を考へさせられでもなすつたやうに、他の事をお言ひになる。
「もう今日もこれで暮れてしまひますね。」と、おくみも話を換へて、そちらのぶらんこの柱のそばの土の上を、二つもつれて低く舞ひ〳〵する黄色い蝶々の方を見た。
「玉蜀黍がいつの間にかあんなに高くなつた。」
「あそこの花床にはずゐぶん色んなものが蒔いてあるのでございますね。」
おくみはお先へ失礼してあちらへ帰りかけた。
と、
「おくみさん、背中に糸が附いてるよ。」と仰つて下さる。
「さうでございますか。さつき糸屑をあれいたしましたから。」
「もつと上。──取つて上げよう。待つて御覧。」
「どうもすみませんでございます。」とおくみは顔を赤らめた。
「たうと自分で髪を結つたの?」
「変でございますか。」
「いゝや。綺麗に出来てるよ。──お帰りなさい。僕ももうあちらへ行かう。」
「まあ、大きな犬ですこと。こなひだから、所つ中あそこから出入りいたしますのでございますよ。」と、おくみはそこらの生垣の下へ這入るのを指しながら言つた。
「今のはどこの犬だらう。──そこのところへ大変草が延びたね。」
「いつかあそこの桑の実をお取りになりましたときには、やつと手が這入るだけの穴だつたのでございましたのに、犬があんなに大きくいたしたのでございますよ。」
おくみは思ひ出して言つた。
「その翌る日にあの画を戴きましたのでございますね。何だかもう遠い事のやうな気がいたしますわ。」
「僕もあれから遊んでばかりゐて何にもしない。またこれから一人で寂しくなつたら画でも画くかな。」
二人はこのやうな事を話しながらこちらへ帰つた。
もう台所には早い電気が来てゐた。
「僕はおくみさんが行つてしまふのは何だか厭だね。」と仰りながら、青木さんは座敷の方へお出でになる。
坊ちやんが外の方で、お向ひの女のお子さまたちと歌を謡つて入らつしやるのが聞える。歌に合せて銀笛をお吹きになるのはお向ひの一番上のお子さまらしい。何だかいつにない物哀れな夕方のやうな心持がする。
おくみは瓦斯をつけて、鶉豆を茹でるための鍋をかけた。それをさつと茹でて入れて、味さへつければシチューが出来るやうに拵へが出来てゐるのであつた。
青木さんが茶の間へ入らつして、袋戸棚を開けてウヰスキーをお出しになる。
「いゝよ。あちらへ持つてつて一口飲めばいゝんだから。」と、自分で持つて入らつしたが、しばらくして、あちらからお呼びになる。
「何か御用でございますか。」と、おくみは青木さんのおかけになつてゐるテイブルのところへ行つた。
「もつとこちらへお出でよ。今晩は何にも拵へなくてもいゝから、ここへかけてこれを注いでおくれよ。」と、いつになく御自分から御言ひになる。
「では一寸お待ちになつて下さいませば、只今ぢき、召し上るものを拵へてまゐりますから。」
おくみはそこの電気を、まだ少し早いけれど点して置いて、急いでさつきのお料理を整へて来た。そこへ坊ちやんも丁度帰つて入らつした。
その夜おくみは、青木さんにお留守を頼んで、坊ちやんを伴れて四谷まで買物にやらせて戴いた。
「坊ちやんのお好きなものを何でも買つてお上げ申しますから電車のところまでさつさとお歩きなさいましよ。」
おくみは門口でかう言つた。
もう、かうしてお伴れ申して出るのも今夜きりだといふ事もお知りにならない坊ちやんは、はじめて浴衣の人におなりになつた宵をうれしさうに、先に立つてお歩きになる。
「姐ちやん、あそこに赤い灯が附いてるよ。」と、立ち止つてお待ちになる。
「あれは自働電話。さ、早くまゐりませう。」と、手を引いてお上げする。
おくみはそれとは言はないで、今日の帯を表にするお蒲団の、裏と綿とを買ひに行くのであつた。
底本:「現代日本文學大系 29」筑摩書房
1971(昭和46)年6月25日初版第1刷発行
1977(昭和52)年4月20日初版第5刷発行
初出:「国民新聞」
1913(大正2)年7月~10月
※「一寸」に対するルビの「ちよい」と「ちよつと」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:みきた
2017年4月18日作成
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