童話と教育について
萩原朔太郎


 近頃の子供たちの悦ぶ童話は、昔とすつかりちがつたといふ説がある。今の時代の子供たちは、もはや昔の子供のやうに、フアンタスチツクで荒唐無稽のお伽話──森の妖精の話や、魔法使の話や、赤頭巾の話や、鉛の兵隊の話や、親指太郎の話や、ピノチヨの話や、惡魔が人間に化けた話や──などを悦ばないといふのである。ずつと幼い幼兒は別として、少し歳を取つた今の子供は、その種のお伽話に沒興味であり、彼等の悦ぶものは、もつと現實的で事實に即し、もつと科學的合理性のある童話だといふのである。これを語つた人は、今の子供の知性的進歩を示す證左として、教育上の悦ばしい現象として話をした。だがもし果してさうだとすれば、反對にこれは憂ふべき現象であり、教育上の由々しき大問題であると思ふ。

 今の時代の子供たち、特に現代日本の子供たちが、一昔前の子供に比し、科學に對して著るしい興味を持つてることは事實である。今の子供たちの悦ぶ玩具は、物理學を應用した種々の機械類の模型であり、飛行機や、電信機や、潛水艦やのメカニカルな組立玩具である。彼等の科學智識が一般的に發達してゐることは、一昔前に育つた僕等の大人が、しばしば唖然として舌を卷くほどでさへもある。しかしそれかと言つて、かうした今の子供たちが、一概に所謂「科學的な童話」を好むとは信じられない。現に西洋の子供たち、科學の先進國たる獨逸や佛蘭西の子供たちでさへ、今尚好んで讀んでるものは、グリムやアンデルセンの童話であり、森の妖精や魔法使の話なのだ。ひとり日本の子供だけが、例外的に老成ぶつて、親父と同じやうな興味のもの──現實的で事實に即した物語や、合理性のある童話や──を悦ぶと考へられない。何よりもその證據は、子供たちの悦ぶ映畫が、常に忍術使ひの出るチヤンバラ劇と、奇々怪々の夢に充ちた漫畫映畫と、ポンチ的諧謔のチヤツプリンとに限られてゐる。そしてこの子供の嗜好は、昔から今日に至る迄、一貫して少しも變化してゐないのである。おそらくは一千年前の昔の子供も、活動寫眞とは別の娯樂で、同じ内容のものを見て居たのだ。そして尚一千年後の未來の子供も、何かの珍しい別の仕掛で、同じ内容の忍術芝居や漫畫映畫を見て居るだらう。なぜなら科學智識や文化の進歩と關係なく、子供の兒童心理そのものは、常に永遠に不變であるから。

 昔と今と、未開と文明とを問はず、子供たちの住む世界は共通してゐる。白人の子供も黒人の子供も、すべての人間の子供は、本來フアンタスチツクな夢の宮殿に住んでゐるのだ。彼等の知つてる世界は、大人の知る「現實」の世界とはちがふのである。大人にとつて荒唐無稽のことは、彼等にとつて皆「眞實」のことなのである。すべての子供たちは、本來「夢」の中で育ち、そして夢を見ることによつて生き、夢を榮養食することによつて自己を生育させてゐるのである。古來、幾多の童話と童話作家が書いたものは、かうした子供の生活のレアリチイを、その自然性のままで表現したものに外ならない。グリムもアンデルセンも、日本の桃太郎やカチカチ山の作者も、すべて皆兒童心理學の大家であり、同時にフアンタスチツクの夢をもつてる詩人であつた。だが彼等の作家が居ない前から、本來子供自身の心の中に、童話が實在してゐたのである。そして童話そのものが、童話作家よりも古く、本質的に實在してゐたといふことは、東西古今を問はず、すべてのお伽話といふものは、元來同じ一つの物にすぎないといふことを證明する。ただその異なるところは、國による風俗傳説の相違、及び時代による趣味嗜好の異別にすぎない。たとへば西洋の惡魔が、日本では鬼や天狗の類となるし、昔の童話に出る武者修業の豪傑が、今日の新しい童話では、飛行機に乘つて機關銃を撃つたりするところの、科學的武裝をした日の丸太郎の類に變るのである。だが子供の心理が不變の限り、童話そのものの本質が變化するやうなことは有り得ない。いかに科學日本の躍進を誇る現代でも、本質的にフアンタスチツクの夢を持たず、子供の心理と沒交渉に語られる如き奇怪の童話、即ち「事實に即した現實主義の童話」とか「科學的合理主義の童話」なんてものは有り得ない。もしかりに有つたとしても、子供はそんな物を聽かうとしないし、童話といふ觀念の中にも入れないだらう。

 所が不思議なことには、今の日本の子供たちは、さういふ妙な似而非童話を、却つて悦んで聽くといふ人があるのである。これは信じられない話である。道理上から考へても、そんな不思議なことは有り得ない。勿論今の子供たちは、昔の素朴な玩具よりも、科學的玩具に多くの興味をもつのであるから、今の子供等の悦ぶ童話に、多くの科學的武器や機械が出て來るのは當然である。しかも童話の世界では、それらの機械や武器やが、驚くべきフアンタジイの空想力で、荒唐無稽にまで夢幻化されてゐるのである。(日の丸太郎やヘナチヨコ鐵砲。)然るにさうでなく、眞に本質的に「科學的」であり、「合理的」であるやうな童話が、果して今の子供たちに歡迎されるとすれば、單に不思議といふよりは、教育上の由々しき大問題と言はねばならぬ。なぜならそこには、文化の末路を杞憂させるものがあるからである。しかし思ふに、さうした話は事實でなく、事實であらせたいと望むところの、大人の子供に對する──特に教育者の子供に對する──意志表示を語るのだらう。つまり言へば彼等は、自身が好ましく欲するやうなものを、子供にも讀ませ、欲しさせたいのである。そして此處に、昔から日本の教育界に普及してゐる、大人の根本的な誤謬がある。

 およそ一切の文化は──文學でも、藝術でも、科學でも──その發育の芽生えを、子供のフアンタスチツクな夢の中に持つてるのである。あらゆる文學と藝術とは、本質上に於て「詩」なのである。そして詩の芽生えが、子供の心意する夢の世界と、その幻想的なフエアリイランドに苗づいてることは言ふ迄もない。つまり逆に言へば、子供の自然的な童話精神が、そのまま順境に發育して、巨大な文化にまで茂つたものが、即ち文學や藝術の詩なのである。だが就中、科學はその最も代表的なものである。すべての科學は、不可能を可能にするイデーから出發した。人間が鳥のやうに、空中を飛翔したいといふ夢の願望。人語を肉類のやうに罐詰にして永く保存したり、隨意に再現したりしたいといふ希望。窓硝子に映つた自然の外景を、その一瞬間の姿のままで、永久に印畫しておきたいといふ夢想から、今日の飛行機や、蓄音器や、電話や、寫眞機やが發明された。そしてこの種の夢想や熱意やは、すべて子供の心意の中に、童話として實在してゐるものなのである。すべての驚くべき科學的大發明は、最も子供らしき夢の熱意と、最も荒唐無稽なフアンタジイから誕生した。一切の科學文化は、童話の合理化されたものに外ならない。科學精神の熱意されるところには、いつも一方に童話精神が熱意され、科學とお伽話とが、辨證法的コントラストの止揚によつて對立してゐるのが、どこでも文明國の常態である。それ故に獨逸、佛蘭西等の如く、世界で最も科學の發達してゐる國の子供は、最もよくフアンタジイのお伽話を好む子供であり、したがつてまた秀れた童話作家を、多分に所有してゐる國なのである。

 日本の教育者たちは、おそらくこの點で正反對の誤解をしてゐる。思ふに彼等は、子供のフアンタスチツクな童話精神を殺戮し、彼等からその「夢」と「詩」を奪ふことによつて、實に彼等を合理的人間にし、科學的人間に教育し得ると考へてる。かうした思想の馬鹿らしさは、空氣の呼吸を禁ずることで、肺病が豫防できると思ふやうなものである。古來歴史上の大科學者、例へばガリレオや、ワツトや、ニユートンや、エヂソンやが、その少年時代に於て、いかに夢想的な子供であり、いかにフアンタスチツクな童話の愛好者であつたかを、彼等の教育者等は知らないのである。子供の時代に、夢と詩の世界を知らない人間、豐富な童話精神を持たなかつたやうな人間に、偉大な藝術や科學の創造され得る見込みはない。もし現代の日本の子供が、果して或る人々の言ふ如く、本來の童話精神を喪失し、老成人の如く常識家化して居るならば、正にそれは日本文化の虚脱である。こんな子供が大人になつたら、乾からびた侏儒のやうな人間になり、無意味に機械いぢりでもする以外に、何の創造的才能もない小俗物になるであらう。前に自分が「憂ふべき現象」と言つたのはこのことである。だが眞に憂ふべきことは、かうした間ちがへたイデーによつて、子供をより善く教育できると考へ、その眞に「憂ふべき現象」を以て、却つて逆に「悦ばしい現象」と考へてるところの、日本の大人や教育者たちの思想である。

 支那、日本等の東洋諸國に於て、古來あまり科學が發達しなかつたのは、勿論他にいろいろの原因もあるだらうが、一つには此等の國々の教育法が、子供の本然する童話精神を善導せず、むしろこれを枯燥させるやうにさへしたからである。小泉八雲は、日本の武士の子供たちが、一もその自然の娯樂を與へられず、むしろ常にこれを抑制され、事々に子供らしさの本然性を矯められてると書いてるが、ひとり日本ばかりでなく、一般に東洋諸國の社會では、その特殊な東洋的封建制と、特に儒教等の現實的功利主義から、概して童話的フアンタジイの夢想を嫌ひ、子供等を大人の世界に順應させて、早く老成人化することに努めて來た。それからして人々は、早くその少年時代に、空を飛翔する鳥人の夢や、自動的に走る車の夢やを忘れてしまつた。彼等の教育者たちは、子供等がその夢を見て居る時に、頭から馬鹿者と呼んで嘲笑し、且つそんな非現實的な空想を、實際に抱くことを禁壓した。そしてこの結果、我々の國々には、古來科學が勃興しなかつたのである。單にそればかりでない。文學や藝術でさへも、我々の物には空想力が缺乏し、眞のロマンチツクの要素に乏しい。たまたまさうでなかつたものは、儒教等の影響がすくないところの、別の時代や庶民階級から生れたのである。

 所で今の新日本は、我等がそれを欲すると欲しないとにかかはらず、科學によつて西洋と對立し、發明を爭はなければならないのである。今の時代の教育者は、昔のやうに子供の夢を冷笑し、童話精神を殺戮してはならないのである。逆に彼等の爲すべきことは、子供の夢を涵養し、そのフアンタスチツクのドリームランドに、豐潤な肥料を注ぐことでなければならない。そしてその教育が、彼等を未來の大發明家にし、大科學者にする方法なのだ。もし果して今の子供が、さうした眞の童話精神を喪失し、フアンタジイの夢を持たなくなつてしまつたことから、却つてその種の物への冷笑的態度を示すならば、正に大いに憂ふべき教育上の問題である。肝心の認識は、さうした子供等の傾向が、彼等の知性能力の向上を語る證左でなくて、むしろその知性能力の頽廢を語る證左であるといふことである。つまり詳しく言へば、彼等は眞の「科學人」となつたのでなくして、實にはむしろ「小理智人」「小常識人」となつたのである。かつて菊池寛氏は某所に於て、今日の如き科學時代には、詩は衰滅の一路をたどるのみだと言つたが、この「科學時代」といふ言葉を、もし菊池氏の主觀に於て、夢を忘れた小常識人や、世渡り上手の小才智人のみが横行する時代、即ち要するに「小常識的俗物時代」といふ意味に解するならば、正にまちがひなく眞理である。さうした頽廢の社會に於ては、單に詩が衰滅するばかりではない、科學も哲學も藝術も、一切の文化が衰滅してしまふのである。

 今日の日本の學校教育は、いたづらに子供を小常識人化し、小才智人化し、チンピラ小學生の侏儒を作ることを以て、究極の目的としてる如く思はれる。かかる教育は、文化の衰滅を招來するところの、憂ふべきデカダンスの教育ではあるけれども、斷じてその健全なる向上を計るものではないのである。

底本:「萩原朔太郎全集 第十一卷」筑摩書房

   1977(昭和52)年825日初版第1刷発行

   1987(昭和62)年810日補訂版1刷発行

初出:「文藝世紀 創刊號」

   1939(昭和14)年9月号

入力:鈴木厚司

校正:土屋隆

2010年216日作成

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