『吾輩は猫である』上篇自序
夏目漱石



「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。もとよりまとまった話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上においしたる影響のあろうはずがない。しかし自分の考ではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆しょししきりに催促をするのと、多忙で意のごとく稿をぐ余暇がないので、差し当り是丈これだけを出版する事にした。

 自分が既に雑誌へ出したものを再び単行本の体裁として公にする以上は、これを公にするだけの価値があると云う意味に解釈されるかも知れぬ。「吾輩は猫である」が果してそれ丈の価値があるかないかは著者の分として言うべき限りでないと思う。ただ自分の書いたものが自分の思う様な体裁で世の中へ出るのは、内容の価値如何いかんに関らず、自分だけうれしい感じがする。自分に対しては此事実が出版をうながすに充分な動機である。

 此書を公けにするについて中村不折氏は数葉の揷画をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模様を意匠してくれた。両君の御蔭おかげって文章以外に一種の趣味を添え得たるは余の深く徳とする所である。

 自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔えはがきなどをわざわざ寄せて意外の褒辞ほうじを賜わった事がある。自分が書いたものがんな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有ありがたい。今出版の機を利用して是等これらの諸君に向って一言感謝の意を表する。

 此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠なまこの様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向つかえはない。又実際消えてなくなるかも知れん。然し将来忙中に閑をぬすんですずりちりを吹く機会があれば再び稿を続ぐつもりである。猫が生きて居る間は──猫が丈夫で居る間は──猫が気が向くときは──余もまた筆をらねばらぬ。

  明治三十八年九月

底本:「夏目漱石全集第十巻」筑摩書房

   1966(昭和41)年830日初版発行

入力:富田倫生

校正:林 幸雄

2008年722日作成

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