八犬伝談余
内田魯庵
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一 『八犬伝』と私
昔は今ほど忙しくなくて、誰でも多少の閑があったものと見える。いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活が約しかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵潰されてしまったろうが私の青年時代には少し旧い家には大抵お祖父さんか曾祖父さんとかの写本があった。これがまた定って当時の留書とかお触とか、でなければ大衆物即ち何とか実録や著名の戯作の抜写しであった。無論ドコの貸本屋にも有る珍らしくないものであったが、ただ本の価を倹約するばかりでなく、一つはそれが趣味であったのだ。私の外曾祖父の家にも(今では大抵屏風の下貼や壁の腰張やハタキや手ふき紙になってしまったが)この種の写本が本箱に四つ五つあった。その中に馬琴の『美少年録』や『玉石童子訓』や『朝夷巡島記』や『侠客伝』があった。ドウしてコンナ、そこらに転がってる珍らしくもないものを叮嚀に写して、手製とはいえ立派に表紙をつけて保存する気になったのか今日の我々にはその真理が了解出来ないが、ツマリ馬琴に傾倒した愛読の情が溢れたからであるというほかはない。私の外曾祖父というは決して戯作好きの方ではなかった。少し常識の桁をはずれた男で種々の逸事が残ってるが、戯作好きだという咄は残っていないからそれほど好きではなかったろう。事実また、外曾祖父の遺物中には馬琴の外は刊本にも写本にも小説は一冊もなかった。ただ馬琴の作は上記以外自ら謄写したものが二、三種あった。刊本では、『夢想兵衛』と『八犬伝』とがあった。畢竟するに戯作が好きではなかったが、馬琴に限って愛読して筆写の労をさえ惜しまず、『八犬伝』の如き浩澣のものを、さして買書家でもないのに長期にわたって出版の都度々々購読するを忘れなかったというは、当時馬琴が戯作を呪う間にさえ愛読というよりは熟読されて『八犬伝』が論孟学庸や『史記』や『左伝』と同格に扱われていたのを知るべきである。また、この外曾祖父が或る日の茶話に、馬琴は初め儒者を志したが、当時儒学の宗たる柴野栗山に到底及ばざるを知って儒者を断念して戯作の群に投じたのであると語ったのを小耳に挟んで青年の私に咄した老婦人があった。だが、馬琴が少時栗山に学んだという事は『戯作者六家撰』に見えてるが、いつ頃の事かハッキリしない。医を志したというは自分でも書いてるが、儒を志したというは余り聞かない。真否は頗る疑わしいが、とにかく馬琴の愛読者たる士流の間にはソンナ説があったものと見える。当時、戯作者といえば一括して軽薄放漫なる聵々者流として顰蹙された中に単り馬琴が重視されたは学問淵源があるを信ぜられていたからである。
私が幼時から親しんでいた『八犬伝』というは即ちこの外曾祖父から伝えられたものだ。出版の都度々々書肆から届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『美少年録』でも『侠客伝』でも皆謄写した気根の強い筆豆の人であったから、『八犬伝』もまた初めは写したに相違ないが、前数作よりも一層感嘆措かなかったので四、五輯頃から刊本で揃えて置く気になったのであろう。それからが出版の都度々々届けさしたので、初めの分はアトから補ったのであろう。私の外曾祖父というのは戯作好きでも書物好きでも、勿論学者でも文雅風流の嗜みがあるわけでもないただの俗人であったが、以て馬琴の当時の人気を推すべきである。
このお庇に私は幼時から馬琴に親しんだ。六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士の名ぐらいは義経・弁慶・亀井・片岡・伊勢・駿河と共に諳んじていた。富山の奥で五人の大の男を手玉に取った九歳の親兵衛の名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三歳からだろうがそれより以前から拾い読みにポツポツ読んでいた。十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。(私には限らない、当時の貸本屋フワンは誰でもだったが)信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節や、荒芽山の音音の隠れ家に道節と荘介が邂逅する一条や、返璧の里に雛衣が去られた夫を怨ずる一章は一言一句を剰さず暗記した。が、それほど深く愛誦反覆したのも明治二十一、二年頃を最後としてそれから以後は全く一行をだも読まないで、何十年振りでまた読み返すとちょうど出稼人が都会の目眩しい町から静かな田舎の村へ帰ったような気がする。近代の忙だしい騒音や行き塞った苦悶を描いた文芸の鑑賞に馴れた眼で見るとまるで夢をみるような心地がするが、さすがにアレだけの人気を買った話上手な熟練と、別してドッシリした重味のある力強さを感ぜしめるは古今独歩である。
二 『八犬伝』および失明後終結
『八犬伝』は文化十一年、馬琴四十八歳の春肇輯五冊を発行し、連年あるいは隔年に一輯五冊または六、七冊ずつ発梓し、天保十二年七十五歳を以て終結す。その間、年を閲する二十八、巻帙百六冊の多きに達す。その気根の大なるは東西古今に倫を絶しておる。もしただ最初の起筆と最後の終結との年次をのみいうならばこれより以上の歳月を閲したものもあるが、二十八年間絶えず稿を続けて全く休息した事がない『八犬伝』の如きはない。僅かに『神稲水滸伝』がこれより以上の年月を費やしてこれより以上の巻を重ねているが、最初の構案者たる定岡の筆に成るは僅かに二篇十冊だけであって爾余は我が小説史上余り認められない作家の続貂狗尾である。もっともアレだけの巻数を重ねたのはやはり相当の人気があったのであろうが、極めて空疎な武勇談を反覆するのみで曲亭の作と同日に語るべきものではない。『八犬伝』もまた末尾に近づくにしたがって強弩の末魯縞を穿つあたわざる憾みが些かないではないが、二十八年間の長きにわたって喜寿に近づき、殊に最後の数年間は眼疾を憂い、終に全く失明して口授代筆せしめて完了した苦辛惨憺を思えば構想文字に多少の倦怠のあるは止むを得なかろう。とにかく二十八年間同じ精力を持続し、少しもタルミなく日程を追って最初の立案を(多少の変更あるいは寄道はあったかも知れぬが)設計通りに完成終結したというは余り聞かない──というよりは古今に例のない芸術的労作であろう。無論、芸術というは蟻が塔を積むように長い歳月を重ねて大きなものを作るばかりが能事ではない。が、この大根気、大努力も決して算籌外には置かれないので、単にこの点だけでも『八犬伝』を古往今来の大作として馬琴の雄偉なる大手筆を推讃せざるを得ない。
殊に失明後の労作に到っては尋常芸術的精苦以外にいかなる障碍にも打ち勝ってますます精進した作者の芸術的意気の壮んなる、真に尊敬するに余りがある。馬琴が右眼に故障を生じたのは天保四年六十七歳の八、九月頃からであったが、その時はもとより疼痛を伴わなかったのであろう、余り問題としなかったらしい。が、既に右眼の視力を奪われたからには、霜を踏んで堅氷到るで、左眼もまたいつ同じ運命に襲われるかも計り難いのは予期されるので、決して無関心ではいられなかったろう。それにもかかわらず絶倫の精力を持続して『八犬伝』以外『美少年録』をも『侠客伝』をも稿を続けて連年旧の如く幾多の新版を市場に送っておる。その頃はマダ右眼の失明がさしたる障碍を与えなかったらしいのは、例えば岩崎文庫所蔵の未刊藁本『禽鏡』の(本文は失明以前の筆写であっても)失明の翌年の天保五年秋と明記した自筆の識語を見ても解る。筆力が雄健で毫も窘渋の痕が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。
馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかったので、一つはその頃は碌な町医者がなかったからであろう、碌な手当もしないで棄て置いたらしい。が、不自由しなかったという条、折には眼が翳んだり曇ったりして不安に脅かされていたのは『八犬伝』巻後の『回外剰筆』を見ても明らかである。曰く、「(戊戌即ち天保九年の)夏に至りては愈々その異なるを覚えしかども尚悟らず、こは眼鏡の曇りたる故ならめと謬り思ひて、俗に本玉とかいふ水晶製の眼鏡の価貴きをも厭はで此彼と多く購ひ求めて掛替々々凌ぐものから(中略、去歳庚子即ち天保十一年の)夏に至りては只朦々朧々として細字を書く事得ならねば其稿本を五行の大字にしつ、其も手さぐりにて去年の秋九月本伝第九輯四十五の巻まで綴り果し」とあるはその消息を洩らしたもので、口授ではあるが一字一句に血が惨み出している。その続きに「第九輯百七十七回、一顆の智玉、途に一騎の驕将を懲らすといふ一段を五行或は四行の大字にものしぬるに字行もシドロモドロにて且墨の続かぬ処ありて読み難しと云へば其を宅眷に補はせなどしぬるほどに十一月に至りては宛がら雲霧の中に在る如く、又朧月夜に立つに似て一字も書く事得ならずなりぬ」とて、ただ筆硯に不自由するばかりでなく、書画を見ても見えず、僅かに昼夜を弁ずるのみなれば詮方なくて机を退け筆を投げ捨てて嘆息の余りに「ながらふるかひこそなけれ見えずなりし書巻川に猶わたる世は」と詠じたという一節がある。何という凄惻の悲史であろう。同じ操觚に携わるものは涙なしには読む事が出来ない。ちょうどこの百七十七回の中途で文字がシドロモドロとなって何としても自ら書く事が出来なくなったという原稿は、現に早稲田大学の図書館に遺存してこの文豪の悲痛な消息を物語っておる。扇谷定正が水軍全滅し僅かに身を以て遁れてもなお陸上で追い詰められ、漸く助友に助けられて河鯉へ落ち行く条にて、「其馬をしも船に乗せて隊兵──」という丁の終りまではシドロモドロながらも自筆であるが、その次の丁からは馬琴の媳の宗伯未亡人おミチの筆で続けられてる。この最終の自筆はシドロモドロで読み辛いが、手捜りにしては形も整って七行に書かれている。(視力の完全な時は十一行、このアトを続けたおミチのは十行。)中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏と旁が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭かれるのもある。中にはまた、手捜りで指の上に書いたと見え、指の痕が白く抜けてるのもある。古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。
が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼が明を失ったのは九輯に差掛った頃からであるが、馬琴は著書の楮余に私事を洩らす事が少なくないに拘わらず、一眼だけを不自由した初期は愚か両眼共に視力を失ってしまってからも眼の事は一言もいわなかった。作者の私生活と交渉のなかった単なる読者は最後の『回外剰筆』を読むまでは恐らく馬琴が盲したのを全く知らなかったろう。一体が何事にも執念く、些細な日常瑣事にすら余りクドクド言い過ぎる難があるが、不思議に失明については思切が宜かった。『回外剰筆』の視力を失った過程を述ぶるにあたっても、多少の感慨を洩らしつつも女々しい繰言を繰り返さないで、かえって意気のますます軒昂たる本来の剛愎が仄見えておる。
全く自ら筆を操る事が出来なくなってからの口授作にも少しも意気消沈した痕が見えないで相変らずの博引旁証をして気焔を揚げておる。馬琴の衒学癖は病膏肓に入ったもので、無知なる田夫野人の口からさえ故事来歴を講釈せしむる事が珍らしくないが、自ら群書を渉猟する事が出来なくなってからも相変らず和漢の故事を列べ立てるのは得意の羅大経や『瑯琊代酔篇』が口を衝いて出づるので、その博覧強記が決して俄仕込にあらざるを証して余りがある。
かつ『八犬伝』の脚色は頗る複雑して事件の経緯は入り組んでいる。加うるに人物がそれぞれの歴史や因縁で結ばれてるので、興味に駆られてウカウカ読んでる時はほぼ輪廓を掴んでるように思うが、細かに脈絡を尋ねる時は筋道が交錯していて彼我の関係を容易に弁識し難い個処がある。総じて複雑した脚色は当の作者自身といえども往々混錯して往々迷路に彷徨するは、あたかも自分の作ったラビリンスに入って出口を忘れるようなものだ。一度死んだ人間を無理に蘇生らしたり、マダ生きてるはずの人間がイツの間にかドコかへ消えてしまったり、一つ人間の性格が何遍も変るのはありがちで、そうしなければ纏まりが附かなくなるからだ。正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅に搗いた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒である原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀に見る例で、作者の頭脳の明澄透徹を証拠立てる。殊に視力を失って単なる記憶に頼るほかなくなってからでも毫も混錯しないで、一々個々の筋道を分けておのおの結末を着けたのは、例えば名将の隊伍を整えて軍を収むるが如くである。第九輯巻四十九以下は全篇の結末を着けるためであるから勢いダレる気味があって往々閑却されるが、例えば信乃が故主成氏の俘われを釈かれて国へ帰るを送っていよいよ明日は別れるという前夕、故主に謁して折からのそぼ降る雨の徒々を慰めつつ改めて宝剣を献じて亡父の志を果す一条の如き、大塚匠作父子の孤忠および芳流閣の終曲として余情嫋々たる限りなき詩趣がある。また例えば金光寺門前の狐竜の化石(第九輯巻五十一)延命院の牡丹の弁(同五十二)の如き、馬琴の得意の涅覓論であるが、馬琴としては因縁因果の解決を与えたのである。馬琴の人生観や宇宙観の批評は別問題として、『八犬伝』は馬琴の哲学諸相を綜合具象した馬琴宗の根本経典である。
三 『八犬伝』総括評
だが、有体に平たくいうと、初めから二十八年と予定して稿を起したのではない。読者の限りない人気に引き摺られて次第に延長したので、アレほど厖大な案を立てたのでないのはその巻数の分け方を見ても明らかである。本来読本は各輯五冊で追って行くを通則とする。『八犬伝』も五輯までは通則通りであったが、六輯は一冊増して六冊、七輯は更に一冊加えて七冊、八輯は一度に三冊を加えて十冊とした。九輯となると上中下の三帙を予定し、上帙六冊、中帙七冊、下帙は更に二分して上下両帙の十冊とした。それでもマダ完結とならないので以下は順次に巻数を追うことにした。もし初めからアレだけ巻数を重ねる予定があったなら、一輯五冊と正確に定めて十輯十一輯と輯の順番を追って行くはずで、九輯の上だの下だの、更に下の上だの下の下だのと小面倒な細工をしないでも宜かったろうと思う。全部を二分して最初の半分が一輯より八輯まで、アトの半分が総九輯というようなコンナ馬鹿々々しい巻数附けは『八犬伝』以外には無い。これというのは畢竟、モウ五冊、モウ三冊と、次第にアトを引き摺られてよんどころなしに巻数を増したと見るほかはない。
例えば親兵衛が京都へ使いする一条の如き、全く省いても少しも差支ない贅疣である。結城以後影を隠した徳用・堅削を再出して僅かに連絡を保たしめるほかには少しも本文に連鎖の無い独立した武勇談である。第九輯巻二十九の巻初に馬琴が特にこの京都の物語の決して無用にあらざるを強弁するは当時既に無用論があったものと見える。一体、親兵衛は少年というよりは幼年というが可なるほどの最年少者であって、豪傑として描出するには年齢上無理がある。勢い霊玉の奇特や伏姫神の神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫霊験記になる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく稀薄であるが、殊に京都の物語は巽風・於菟子の一節を除いては極めて空虚な少年武勇伝である。
本来『八犬伝』は百七十一回の八犬具足を以て終結と見るが当然である。馬琴が聖嘆の七十回本『水滸伝』を難じて、『水滸』の豪傑がもし方臘を伐って宋朝に功を立てる後談がなかったら、『水滸伝』はただの山賊物語となってしまうと論じた筆法をそのまま適用すると、『八犬伝』も八犬具足で終って両管領との大戦争に及ばなかったらやはりただの浮浪物語であって馬琴の小説観からは恐らく有終の美を成さざる憾みがあろう。そういう道学的小説観は今日ではもはや問題にならないが、為永春水輩でさえが貞操や家庭の団欒の教師を保護色とした時代に、馬琴ともあるものがただの浮浪生活を描いたのでは少なくも愛読者たる士君子に対して申訳が立たないから、勲功記を加えて以て完璧たらしめたのであろう。が、『八犬伝』の興趣は穂北の四犬士の邂逅、船虫の牛裂、五十子の焼打で最頂に達しているので、八犬具足で終わってるのは馬琴といえどもこれを知らざるはずはない。畢竟するに馬琴が頻りに『水滸』の聖嘆評を難詰屡々するは『水滸』を借りて自ら弁明するのではあるまいか。
だが、この両管領との合戦記は、馬琴が失明後の口授作にもせよ、『水滸伝』や『三国志』や『戦国策』を襲踏した痕が余りに歴々として『八犬伝』中最も拙陋を極めている。一体馬琴は史筆椽大を以て称されているが、やはり大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。線の太い歴史物よりは『南柯夢』や『旬殿実々記』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。『八犬伝』でも浜路や雛衣の口説が称讃されてるのは強ち文章のためばかりではない。が、戦記となるとまるで成っていない。ヘタな修羅場読と同様ただ道具立を列べるのみである。葛西金町を中心としての野戦の如き、彼我の五、六の大将が頻りに一騎打の勇戦をしているが、上杉・長尾・千葉・滸我らを合すればかなりな兵数になる軍勢は一体何をしていたのか、喊の声さえ挙げていないようだ。その頃はモウかなり戦術が開けて来たのだが、大将株が各自に自由行動を取っていて軍隊なぞは有るのか無いのか解らない。これに対抗する里見勢もまた相当の数だろうが、ドダイ安房から墨田河原近くの戦線までかなりな道程をいつドウいう風に引牽して来たのやらそれからして一行も書いてない。水軍の策戦は『三国志』の赤壁をソックリそのままに踏襲したので、里見の天海たる丶大や防禦使の大角まで引っ張り出して幕下でも勤まる端役を振り当てた下ごしらえは大掛りだが、肝腎の合戦は音音が仁田山晋六の船を燔いたのが一番壮烈で、数千の兵船を焼いたというが児供の水鉄砲くらいの感じしか与えない。扇谷家第一の猛者小幡東良が能登守教経然たる働きをするほかは、里見勢も上杉勢も根ッから動いていない。定正がアッチへ逃げたりコッチへ逃げたりするのも曹操が周瑜に追われては孔明の智なきを笑うたびに伏兵が起る如き巧妙な作才が無い。軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者の沓の紐を解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄大の感あらしめるのはこの両管領との合戦記であるから、最後の幕を飾る場面としてまんざら無用でないかも知れない。
が、『八犬伝』は、前にもいう通り第八輯で最高頂に達し、第九輯巻二十一の百三十一回の八犬具足で終わっている。それより以下は八犬後談で、切り離すべきである。(私の梗概がその以下に及ばないのはこの理由からである。)『八犬伝』の本道は大塚から市川・行徳・荒芽山と迂廻して穂北へ達する一線である。その中心点が大塚と行徳と荒芽山である。野州路や越後路はその裏道で甲斐の石和や武蔵の石浜は横路である。富山や京都は全く別系統であって、富山が八犬の発祥地であるほかには本筋には何の連鎖もない。地理的にいえば、大塚と行徳と荒芽との三地点から縄を引っ張った三角帯が『八犬伝』の本舞台であって、この本舞台に登場しない犬江(親兵衛は行徳に顔を出すがマダ子役であって一人前になっていない)・犬村・犬阪の三犬士は役割からはむしろスケ役である。なかんずく、その中心となるのは信乃と道節とで、『八犬伝』中最も興味の深い主要の役目を勤めるのは常にこの二人である。
一体八犬士は余り完全過ぎる。『水滸伝』中には、鶏を盗むを得意とする時遷のような雑輩を除いても黒旋風のような怒って乱暴するほかには取柄のない愚人もあるが、八犬士は皆文武の才があって智慮分別があり過ぎる。その中で道節が短気で粗忽で一番人間味がある。一生定正を君父の仇と覘って二度も失敗なっている。里見の防禦使となって堂々対敵しても逃路に待ち伏せする野武士のような役目を振られて、シカモ首尾よく取り逃がして小水門目輩孺子をして名を成さしめてる。何をやらしてもヘマばかりするところに道節の人間味がある。道節を除いては、小文吾が曳手・単節を送って途中で二人を乗せた馬に駈け出されて見失ってしまったり、荒野猪を踏み殺して牙に掛けられた猟師を助けたはイイが、恩を仇の泥棒猟師の女房にコロリと一杯喰ってアベコベにフン縛られる田舎相撲らしい総身に知恵の廻り兼ぬるドジを時々踏むほかは、皆余りに出来過ぎている。なかんずく、親兵衛に到って極まる。
『八犬伝』には幾多の興味ある挿話がある。例えば船虫の一生の如き、単なる一挿話とするには惜しい話材である。初めは行き暮れた旅人を泊らしては路銀を窃む悪猟師の女房、次には媳いびりの猫化郷士の妻、三転して追剥の女房の女按摩となり、最後に折助の嬶となって亭主と馴れ合いに賊を働く夜鷹となり、牛裂の私刑に波瀾の多い一生の幕を閉ずる一種の変態性格である。これだけでも一部の小説とするに足る。また例えば素藤の如き、妙椿が現れて幻術で助けるようになってはツマラないが、浮浪の盗賊からとにかく一城の主となった経路には梟雄の智略がある。妙椿の指金で里見に縁談を申し込むようになっては愚慢の大将であるが、里見を初め附近の城主を籠罩して城主の位置を承認せしめたは尋常草賊の智恵ではない。馬琴はとかくに忠孝の講釈をするので道学先生視されて、小説を忌む鴆毒に等しい文芸憎悪者にも馬琴だけは除外例になって感服されてるが、いずくんぞ知らん馬琴は忠臣孝子よりは悪漢淫婦を描くにヨリ以上の老熟を示しておる。『美少年録』が(未完成ではあるが)代表作の一つである『弓張月』よりもかえって成功しているはその一例である。
四 『八犬伝』の歴史地理
馬琴は博覧強記を称されもすれば自ら任じもした。殊に歴史地理の考証については該博精透なる尋究を以て聞えていた。正当なる歴史を標榜する史籍さえ往々不穿鑿なる史実を伝えて毫も怪しまない時代であるから、ましてや稗官野乗がいい加減な出鱈目を列べるのも少しも不思議はない。馬琴自身が決して歴史の参考書として小説を作ったのでないのは明らかで、多少の歴史上の錯誤があったからとて何ら文芸上の価値を累するに足らないのである。馬琴の作が考証精覈で歴史上または地理上の調査が行届いてるなぞと感服するのは贔屓の引倒しで、馬琴に取ってはこの上もない難有迷惑であろう。ただ馬琴は平素の博覧癖から何事も精しく調査したらしく思われる処に損もあり得もある。『房総志料』を唯一の手品の種子箱とする『八犬伝』の歴史地理の穿鑿の如きはそもそも言うものの誤りである。余り偏痴気論を振り廻したくないが、世間には存外な贔屓の引き倒しもあるから、ただ一個条憎まれ口を叩いておこう。(無論『八犬伝』の光輝はソンナ大向うの半畳で曇らされるのではない。)
金碗大輔が八房もろとも伏姫をも二つ玉で撃留めたのはこの長物語の序開きをするセラエヴォの一発となってるが、日本に鉄砲が伝来したのが天文十二年であるは小学校の教科書にも載ってる。もっとも天文十二年説は疑問で、数年前にも数回歴史家の間に論争されたが、たといそれ以前に渡ったものがあったにしてもそれよりおよそ八十年前の(伏姫が死んだ年の)長禄の二年に房州の田舎武士の金碗大輔がドコから鉄砲を手に入れたろう。これを始めに『八犬伝』には余り頻繁に鉄砲が出過ぎる。白井の城下で道節が上杉勢に囲まれた時も鉄砲足軽が筒を揃えて道節に迫った、曳手・単節が荒芽山を落ちる時も野武士に鉄砲で追われた、網苧の鵙平茶屋にも鉄砲が掛けてあった、甲斐の石和の山の中で荘官木工作が泡雪奈四郎に鉄砲で射殺された。大詰の大戦争の駢馬三連車も人を驚かせるが、この踊り屋台然たる戦車の上に六人の銃手が銃口を揃えてるのは凄まじい。天下の管領の軍隊だから葡萄牙人よりも先に何百挺何千挺の鉄砲を輸入しても妨げないが、野武士や追剥までが鉄砲をポンポン撃つのは余り無鉄砲過ぎる。網苧の山里の立場茶屋に猪嚇しの鉄砲が用意してあるほどなら、道節も宝刀を捻くり廻して居合抜の口上のような駄弁を弄して定正に近づこうとするよりもズドンと一発ブッ放した方が余程早手廻しだったろう。
こういうと偏痴気論になる。小説だもの、鱶七が弁慶の長上下で貧乏徳利をブラ下げて入鹿御殿に管を巻こうと、芝居や小説にいちいち歴史を持出すのは余程な大白痴で、『八犬伝』の鉄砲もまた問題にならない。が、ウソらしいウソは問題にならないが、ホントウらしく聞えるウソは小説だと思っても欺されるから問題になる。弁慶の七つ道具の中にピストルがあったといっても誰も問題にしないが、長禄に安房の田舎武士が鉄砲を持っていたというと、ちょっと首を傾げさせる。いわんや説話者が博覧の穿鑿好きたる馬琴であるから、眉に唾をつけながらも考えさせられる。
鉄砲は暫らくお預けとして、長禄というと太田道灌が江戸城を築いた年である。『八犬伝』には道灌は影になってるが、道灌の子の助友は度々顔を出してる。江戸は『八犬伝』の中心舞台で、信乃が生れ額蔵が育った大塚を外にしても神田とか湯嶋とか本郷とかいう地名は出るが「江戸」という地名は見えない。江戸城を匂わせるような城も見えない。両管領との大戦争に里見方は石浜、五十子、忍岡、大塚の四城を落しているが、その地理的位置が江戸城を懐わせるようなのはない。もっとも江戸城なぞは有っても無くても『八犬伝』の本筋には少しも関係しないが、考証好きの馬琴が代る代るに犬士をこの地方に遍歴らさして置いて江戸城を見落さしたのを不思議に思う。
前にもいったが、『八犬伝』の中心舞台は安房よりも江戸であって、事件が多くは江戸あるいは江戸人に親しみのある近国で発展したのが少なくも中央都人士の興味を湧かさした原因の一つである。殊に一番人気のある信乃を主役として五犬士の活躍するは、大塚を本舞台として巣鴨・池袋・滝の川・王子・本郷に跨がる半円帯で、我々郊外生活者の遊歩区域が即ち『八犬伝』の名所旧蹟である。一体大塚城というのはドコにあったろう? そんな問題を出すのがそもそも野暮のドン詰りであるが、もともと城主の大石というのが定正の裨将であるから、城と称するが実は陣屋であろう。いわゆる「飯盛も陣屋ぐらいは傾ける」程度の飯盛相当の城であろう。ところで、城にしろ陣屋にしろどの辺であるか見当が附かぬが、信乃が幼時を過ごした大塚は、信乃の家の飼犬が噛み殺した伯母の亀篠の秘蔵猫に因んで橋名を附けられたと作者が考証する簸川の猫股橋というのが近所であるから、それから推して氷川田圃に近い、今の地理的考証から推して氷川田圃に近き今の高等師範の近辺であろう。荘助の額蔵が処刑されようとした庚申塚の刑場も近く、信乃の母が滝の川の岩屋へ日参したという事蹟から考えても高等師範近所と判断するが当っているだろう。
ところで信乃がいよいよ明日は滸我へ旅立つという前晩、川狩へ行って蟇六の詭計に陥められて危なく川底へ沈められようとし、左母二郎に宝刀を摩替えられようとした神宮川というは古名であるか、それとも別に依拠のある仮作名であるか、一体ドコを指すのであろう。信乃が滝の川の弁天へ参詣した帰路に偶然邂逅ったように趣向したというのだから、滝の川近くでなければならないので、多分荒川の小台の渡し近辺であろう。仮にそう定めて置いて、大塚から点燈頃にテクテク荒川くんだりまで出掛け、水の中で命のやりとりの大芝居をして帰ったのが亥の刻過ぎたというから十時である。往返をマラソンでヘビーを掛け、水中の実演を余程高速度で埒を明けなければとても十時には帰って来られない。が、荒川より近くには神宮川のような大きな川はない。
道節が火定に入った円塚山というは名称の類似から本郷の丸山だろうともいうし、大学の構内の御殿の辺だろうという臆説もある。ドッチにしてももとが小説だから勝手な臆測が許されるが、左母二郎が浪路を誘拐して駕籠を飛ばして来たは大塚から真直ぐに小石川の通りを富坂へ出て菊坂あたりから板橋街道へ出たものらしい。円塚山はこの街道筋にあるので、今の燕楽軒から白十字・パラダイス・鉢の木が軒を並べるあたりが道節の寂寞道人肩柳や浜路の史跡である。小説の史跡を論ずるのは極楽の名所図会や竜宮の案内記を書くようなものだが、現にお里の釣瓶鮨のあとも今なお連綿として残り、樋口の十郎兼光の逆櫓の松も栄え、壺阪では先年沢市の何百年遠忌だかを営んだ。『八犬伝』の史蹟も石に勒して建てられる時があるかも知れない。(市川附近や安房の富山には『八犬伝』の遺跡と伝えられる処が既にあるという咄だ。)
が、そういう空想史蹟は暫く措いて、単なる地理的興味から見て頗る味わうべきものがしばしばある。小文吾が荒猪を踏み殺したは鳥越であるが、鳥越は私が物心覚えてからかなり人家の密集した町である。徳川以前、足利の末辺にもせよ、近くに山もないに野猪が飛び出すか知らん。(もっとも、『十方庵遊歴雑記』に向嶋の弘福寺が境内寂寞としてただ野猿の声を聞くという記事があるが、奥山の猿芝居の猿の声ではなさそうだ。)また、この鳥越から海が見えるという記事がある。湯嶋の高台からは海が見えるから、人家まばらに草茫々と目に遮るものもないその頃の鳥越からは海が見えたかも知れぬが、ちょっと異な感じがする。
芳流閣の屋根から信乃と現八とが組打して小舟の中に転がり落ち、はずみに舫綱が切れて行徳へ流れるというについて、滸我即ち古賀からは行徳へ流れて来ないという説がある。利根の一本筋だから引汐なら行徳へ流れないとも限らないが、古賀から行徳まではかなりな距離があって水路が彎曲している。その上に中途の関宿には関所が設けられて船舶の出入に厳重であったから、大抵な流れ舟はここで抑留される。さもなくとも、川は曲りくねって蘆荻が密生しているから小さな舟は途中で引っ掛ってしまう。到底無事に行徳まで流れて来そうもない。
夷灊の館山(素藤の居城)というは今も同じ地名の布施村や国府台に近接する立山であろう。稲村まではかなりの里程があって、『八犬伝』でも一泊二日路であるが、妙椿が浜路を誘拐するに幻術で雲にでも乗って来たら宜さそうなもんだのに、小脇に引っ抱えてズルんかズルんか引き摺って来て南弥六に邪魔をされ折角誘拐して来た浜路を伏姫神霊に取り返される。素藤が初め捕われて再挙を謀る間潜伏した山というはどの辺を指すのか解らぬが、夷隅は海岸を除いては全郡山地があるが山がすべて浅くて且つ低くて人跡未到というような感じのある処はなさそうだ。房総はすべて馬の背のような地形で、山脈が連亘して中央部を走っているが、高山も大山もない。伏姫が山入した富山(トミサンと呼ぶ、トヤマでもトミヤマでもない)の如きも、『八犬伝』に形容されてるような高峻な山ではない。最高峰の観音堂は『八犬伝』に由ると義実の建立となってるが、寺記には孝謙天皇の御造立となっている。安房は国史にはかなり古いが、徳川氏が江戸を開く以前は中央首都から遠い辺陲の半島であったから極めて歴史に乏しく、したがって漁業地としてのほかは余り認められていない。安房が著名になったのは全く『八犬伝』以来であるから、『八犬伝』の旧蹟は準史蹟として見てもイイかも知れない。
(『八犬伝』の地理学は起稿当初の腹案であったが、実地を踏査しなければ解らぬ個処が存外多いのですべて他日の機会に譲ることにした。『八犬伝』地図も添ゆる予定であったが、同じ理由で。)
五 馬琴の日記
『八犬伝』が日本の小説中飛び離れて挺んでている如く、馬琴の人物もまた嶄然として卓出している。とかくの評はあっても馬琴の如く自ら信ずるところ厚く、天下の師を以て任じたのは他にはない。古今作者を列べて著述の量の多いのと、なかんずく大作に富めると、その作の規模結構の大なると、その態度の厳粛なると、その識見の高邁なると、よく馬琴に企て及ぶものは殆んどない。
が、作に秀でたのは、鯛よりは鰯の生きのイイ方が旨い、牡丹よりは菜の花の方が風情があるというと同じ好き不好きを別として大抵異論はないが、人物となるとまた、古今馬琴の如く嫌われてるのは少ない。或る雑誌で、古今文人の好き嫌いという題で現代文人の答案を求めたに対し、大抵な人が馬琴を嫌いというに一致し、馬琴を好きと答えたものは一人もなかった。ただに現代人のみならず、その当時からして馬琴は嫌われていた。正面から馬琴に怨声を放って挑戦したのは京山一人であったが、少なくも馬琴が作者間に孤立していて余り交際しなかった一事に徴するも、馬琴に対して余り好感を持つものがなかったのは推測られる。馬琴が交際していたのは同じ作者仲間よりはむしろ愛読者、殊に遠方の文書で交際する殿村篠斎の連中であって親しくその家に出入して教を乞うものでなかった。ただ文書を以て交際するだけなら折々小面倒で嫌気を生ずる事があってもそれほど深く身に染みないが、面と向っては容易に親しまれないで、小難かしくて気ブッセイで堪えられなかったろう。とかくに気難かしくて機嫌の取りにくかったのは、家人からでさえ余り喜ばれなかったのを以てもその人となりを知るべきである。
京伝と仲たがいした真因は判然しないが、京山の『蜘蛛の糸巻』、馬琴の『伊波伝毛之記』および『作者部類』を照らし合わしてみると、彼我のいうところ(多少の身勝手や、世間躰を飾った自己弁護はあっても)、みな真実であろう。馬琴が京伝や蔦重の家を転々して食客となり、処女作『尽用而二分狂言』に京伝門人大栄山人と署したは蔽い難い。僅か三歳でも年長者であるし、その時既に相応の名を成していたから、作者として世間へ乗り出すには多少の力を仰いだ事はあろうが、著作上教えられる事が余り多くあったとは思われない。京伝門人と署したのは衣食の世話になった先輩に対する礼儀であって、師礼を執って教を受けた関係でなかったのは容易に想像される。玄関番の書生が主人を先生と呼ぶようなものだ。もっとも一字の師恩、一飯の恩という事もあり、主従師弟の厳ましかった時代だから、両者の関係が漸く疎隔して馬琴の盛名がオサオサ京伝を凌がんとすると京伝側が余り快く思わぬは無理もないが、馬琴が京伝に頼った頃の何十年も昔の内輪咄を剔抉いて恩人風を吹かし、人倫とはいい難しとまで京山が罵るのは決して穏やかでない。小身であっても武家奉公をし、医を志した馬琴である。下駄屋の入夫を嫌って千蔭に入門して習字の師匠となった馬琴である。その頃はもう黄表紙時代と変って同じ戯作の筆を執っていても自作に漢文の序文を書き漢詩の像讃をした見識であったから、昔を忘れたのは余り褒められないが幇間芸人に伍する作者の仲間入りを屑しとしなかったのは万更無理はなかった。馬琴に限らず風来なぞも戯作に遊んだが作者の仲間附合はしなかったので、多少の見識あるものは当時の作者の仲間入りを欲しなかったのみならず作者からもまた仲間はずれにされたのである。
だが、馬琴は出身の当初から京伝を敵手と見て競争していたので、群小作者を下目に見ていても京伝の勝れた作才には一目置いていた。『作者部類』に、あの自尊心の強い馬琴が自ら、「臭草紙は馬琴、京伝に及ばず、読本は京伝、馬琴に及ばず」と案外公平な評をしているのは馬琴が一歩譲るところがあったからだろう。それと同様、『蜘蛛の糸巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和の西鶴に起り、自笑・其磧、宝永正徳に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外公平な説を立ててるのは、京伝・馬琴が両々相対して下らざる互角の雄と見做したのが当時の公論であったのだろう。二人は遠く離れて睨み合っていても天下の英雄は使君と操とのみと互いに相許していたに違いない。が、京伝は文化十三年馬琴に先んじて死し、馬琴はそれ以後『八犬伝』の巻を重ねていよいよ文名を高くし、京伝に及ばずと自ら認めた臭草紙でも『傾城水滸伝』や『金毘羅船』のような名篇を続出して、盛名もはや京伝の論ではなくなっている。馬琴としては区々世評の如きは褒貶共に超越して顧みないでも、たとえば北辰その所にいて衆星これを繞るが如くであるべきである。それにもかかわらず、とかくに自己を挙げて京伝を貶する如き口吻を洩らすは京山のいう如く全くこの人にしてこの病ありで、この一癖が馬琴の鼎の軽重を問わしめる。
馬琴の人物行状の巨細を知るにはかれの生活記録たる日記がある。この日記はイツ頃から附け初めイツ頃で終わってるか知らぬが、今残ってるのは晩年の分である。あの筆豆から推せば若い時から附けていたに違いないが、先年馬琴の家からひと纏めに某氏の手へ渡った自筆文書の中には若い時の日記はない。この分は今、全部早稲田大学図書館に移管されている。震災に亡びた帝大図書館のは、ドコから買い入れたか出所来歴を知らぬがそれより以前に滝沢家から出たものらしい。マダそのほかにも散逸したものがドコかに残ってると思うが、所在を明らかにしない。帝大のは偶然館外に貸出してあった一冊が震火を免かれて今残っている。この一冊と早大図書館所蔵本とが今残ってる馬琴日記の全部である。この早稲田本を早大に移る以前に抄録解説したのが饗庭篁村氏の『馬琴日記抄』であって、天保二年の分を全冊転印されたのが和田万吉氏の『馬琴日記』(原本焼失)である。
饗庭氏の抄録本もしくは和田氏の校訂本によって馬琴の日記を読んだものは、誰でもその記載の事項が細大洩らさず綿密に認められたのを驚嘆せずにはいられない。毎日の天候気温、出入客来、他出等、尋常日記に載すべき事項のほかに、祭事、仏事、音物、到来品、買物、近親交友間の消息、来客の用談世間咄、出入商人職人等の近事、奉公人の移り換、給金の前渡しや貸越や、慶庵や請人の不埒、鼠が天井で騒ぐ困り咄、隣りの猫に殽を取られた不平咄、毎日の出来事を些細の問題まで洗いざらい落なく書き上げておる。殊に原本は十五、六行の蠅頭細字で認めた一年一冊およそ百余張の半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠らず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。
更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジクルような小理窟を列べてこだわる気難かし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリしないでネチネチと際限なくごてる。ただ読んでさえ七むずかしいのに弱らせられるんだから、あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチとトロ火で油煎されるように痛めつけられたら精も根も竭きて節々までグタグタになってしまうと、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をして、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋からである。馬琴の剛愎高慢は名代のもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立ったものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえって御し易いが、些細な問題にいちいち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いびりのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。和田君の校訂本を読んだものは誰も直ぐ気が付くが、馬琴の家の下婢の出代りの頻繁なのは殆んど応接に遑あらずだ。その度毎に給金の前渡しや貸越が必ず附帯する。それんばかしの金をくれてしまったらと思うが、馬琴は寸毫も仮借しない。いちいち請人を呼びつけて厳重に談じつける。鄙吝でもあったろうが、鄙吝よりは下女風情に甘く嘗められてはという難かし屋の理窟屋の腹の虫が承知しないのだ。一体馬琴の女房のお百というがなかなかの難物らしかったが、その上に主翁の馬琴が偏屈人の小言幸兵衛と来ては女中の尻の据わらなかったのも無理はない。馬琴の家庭は日記の上では一年中低気圧に脅かされ通しで、春風駘蕩というような長閑なユックリとした日は一日もなかったようだ。老妻お百と媳のお道との三角葛藤はしばしば問題となるが、馬琴に後暗い弱点がなくとも一家の主人が些細な家事にまでアア七むずかしい理窟をこねるようでは家が悶める。馬琴はただに他人ばかりでなく家族にさえも余り喜ばれなかった苛細冷酷な偏屈者であった。
一言すれば理窟ばかりで、面白味も温味もない冷たい重苦しい感じのする人物だった。世辞も愛嬌もないブッキラ棒な無愛想な男だった。崇拝者も相応に多くて、遥々遠方から会いに来る人もあったが、木で鼻を括ったような態度で面白くもない講釈を聞かされ、まかり間違えば叱言を喰ったり揚足を取られたりするから一度で懲り懲りしてしまう。アレだけ綿密につけた日記に来客と共に愉快そうに談笑した記事が殆んど見えない。家族と一緒に遊びに出掛けたはおろか、在宿して団欒の歓楽に興じた記事もまた見えない。馬琴は二六時中、操觚に没頭するか読書に耽るかして殆んど机に向かったぎりで家人と世間咄一つせず、叱言をいう時のほかは余り口を利かなかったらしい。
家人に対してさえこれだからましてや他人に対してお上手をいうような事はなかった。『蜘蛛の糸巻』に、恩人の京伝の葬式には僅かばかりの香料を包んで代理に持たせて自分は顔を出さなかったくせに、自分が書画会をする時には自筆の扇子を持って叩頭に来たと、馬琴の義理知らずと罵っている。が、葬式の一条はともかく、自分の得になっても叩頭をする事の大嫌いな馬琴が叩頭に来たというは滅多にない珍らしい事だ。ツマリ世渡り下手で少しもお上手を知らなかったので、あながち義理知らずばかりでもなかった。
ひと口にいうと馬琴は無調法者だった。口前の上手な事をいうのは出来なかったよりも持前の剛愎が許さなかった。人の感情を毀すナゾは余り問題にしなかったから、人と衝突するのは馬琴の生涯には珍らしくなかった。これにつき京伝と馬琴との性格の差を現わす一例がある。京伝もまた相当な見識を具えてひと癖もふた癖もあったが、根が町家生れで如才なく、馬琴と違って酸いも甘いも心得た通人だったから人をそらすような事は決して做なかった。『優曇華物語』の喜多武清の挿画が読者受けがしないで人気が引立たなかった跡を豊国に頼んで『桜姫全伝』が評判になると、京伝は自分の作が評判されるのは全く挿絵のお庇だと卑下して、絵が主、作が従だと豊国を持上げ、豊国絵、京伝作と巻尾の署名順を顛倒さした。事実、臭草紙は勿論、読本にしても挿絵の巧拙善悪が人気に関するが、独立した絵本と違って挿画は本文に従属するのみならず図柄の意匠配置等は通例作者の指揮に待つを常とするから画家は従位にあって主位に居るべきものではない。豊国の似而非高慢が世間の評判を自分の手柄に独占しようとするは無知な画家の増長慢としてありそうな咄だ。が、京伝は画工が威張りたいなら威張らして置いて署名の順位の如きは余り問題にしなかった。
馬琴はこれに反して画家の我儘を決して許さなかった。馬琴は初め北斎と結託して馬琴の挿画は北斎が描くを例とした。ところが『弓張月』だったか『水滸画伝』だったかの時、無論酒の上の元気か何かであろう、馬琴の本が売れるのは俺の挿画が巧いからだと北斎が傲語した。さア、馬琴が承知しない、俺の本の挿画を描かせるから人からヤレコレいわれるようになったのを忘れたかと、それぎり二人は背中合せとなった。ドッチも鼻梁の強い負け嫌いの天狗同志だから衝突するのは無理はない。京伝だったら北斎に花を持たして奇麗に負けてやったろう。
が、馬琴には奇麗サッパリと譲ってやる襟度が欠けていた。奉公人にさえ勘弁出来ないで、些細な不行届にすら請人を呼び付けてキュウキュウ談じつけなければ腹の虫が慰なかったのだから、肝癖の殿様の御機嫌を取るツモリでいるものでなければ誰とでも衝突した。一つは馬琴の人物が市井の町家の型に適らず、戯作者仲間の空気とも、容れなかったからであろう。馬琴が蒲生君平や渡辺崋山と交際したのはそれほど深い親密な関係ではなかったろうが、町家の作者仲間よりはこういう士人階級の方がかえって意気投合したらしい。が、君平や崋山としばしば音信した一事からして馬琴に勤王の志があったと推断するのは馬琴贔屓が箔をつけようための牽強説である。ツイこの頃も或る雑誌で考証されていたが、こういう臆断は浪花節が好きだから右傾、小劇場の常連だから左傾と臆測するよりももっと早呑み込み過ぎる。
六 『八犬伝』の人物咏題
が、馬琴の人物がドウあろうとも作家として日本が産み出した最大者であるは何人も異議を挟むを許されない公論である。『八犬伝』がまた、ただに馬琴の最大作であるのみならず、日本にあっては量においても質においても他に比儔するもののない最大傑作であるは動かすべからざる定説である。京伝・馬琴と便宜上並称するものの実は一列に見難いものである。沙翁は文人として英国のみならず世界の最大の名で、その作は上下を通じて洽く読まれ、ハムレットやマクベスの名は沙翁の伝記の一行をだも読まないものにも諳んぜられている。日本で沙翁と推されるのは作物の性質上近松巣林子であって、近松は実に馬琴と駢んで日本の最大者である。が、近松の作の人物が洽く知られているは舞台に上せられて知られたので、その作が洽く読まれているからではない。『八犬伝』はこれに反してその作が洽く読まれて誰にも知られているから、浄瑠璃ともなれば芝居ともなったのである。恐らく古今を通じてかくの如く広く読まれ、かくの如く洽く伝唱されてるのは比類なかろう。
したがって『八犬伝』の人物は全く作者の空想の産物で、歴史上または伝説上の名、あるいは街談口説の舌頭に上って伝播された名でないのにかかわらず児童走卒にさえ諳んぜられている。かくの如きは余り多くない例で、八犬士その他の登場人物の名は歴史にあらざる歴史を作って人名字書中の最大の名よりもヨリ以上に何人にも知られておる。橋本蓉塘翁がかつてこの人物を咏題として作った七律二十四篇は、あたかも『八犬伝』の人物解題となっておる。抄して以て名篇を結ぶのシノプシスとする。
雨窓無聊、たまたま内子『八犬伝』を読むを聞いて戯れに二十首を作る
金碗孝吉
風雲惨澹として旌旗を捲く 仇讎を勦滅するは此時に在り 質を二君に委ぬ原と恥づる所 身を故主に殉ずる豈悲しむを須たん 生前の功は未だ麟閣に上らず 死後の名は先づ豹皮を留む 之子生涯快心の事 呉を亡ぼすの罪を正して西施を斬る
玉梓
亡国の歌は残つて玉樹空し 美人の罪は麗花と同じ 紅鵑血は灑ぐ春城の雨 白蝶魂は寒し秋塚の風 死々生々業滅し難し 心々念々恨何ぞ窮まらん 憐れむべし房総佳山水 渾て魔雲障霧の中に落つ
伏姫
念珠一串水晶明らか 西天を拝し罷んで何ぞ限らんの情 只道下佳人命偏に薄しと 寧ろ知らん毒婦恨平らぎ難きを 業風過ぐる処花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る 狗子何ぞ曾て仏性無からん 看経声裡三生を証す
犬塚信乃
芳流傑閣勢ひ天に連なる 奇禍危きに臨んで淵を測らず 跬歩敢て忘れん慈父の訓 飄零枉げて受く美人の憐み 宝刀一口良価を求む 貞石三生宿縁を証す 未だ必ずしも世間偉士無からざるも 君が忠孝の双全を得るに輸す
浜路
一陣の罡風送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟影を吹いて緑地に粘す 血雨声無く紅巾に沁む 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも 情は深くして豈意中の人を忘れん 玉蕭幸ひに同名字あつて 当年未了の因を補ひ得たり
犬川荘助
忠胆義肝匹儔稀なり 誰か知らん奴隷それ名流なるを 蕩郎枉げて贈る同心の結 嬌客俄に怨首讎となる 刀下冤を呑んで空しく死を待つ 獄中の計愁を消すべき無し 法場若し諸人の救ひを欠かば 争でか威名八州を振ふを得ん
沼藺
残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は金菡萏を分ち 生前の手は紫鴛鴦を繍ふ月沉秋水珠を留める涙 花は落ちて春山土亦香ばし 非命須らく薄命に非ざるを知るべし 夜台長く有情郎に伴ふ
犬山道節
火遁の術は奇にして蹤尋ね叵し 荒芽山畔日将に沉まんとす 寒光地に迸つて刀花乱る 殺気人を吹いて血雨淋たり 予譲衣を撃つ本意に非ず 伍員墓を発く豈初心ならん 品川に梟示す竜頭の冑 想見る当年怨毒の深きを
曳手・単節
荒芽山畔路叉を成す 馬を駆て帰来る日斜き易し 虫喞凄涼夜月に吟ず 蝶魂冷澹秋花を抱く 飄零暫く寓す神仙の宅 禍乱早く離る夫婿の家 頼ひに舅姑の晩節を存するあり 欣然寡を守つて生涯を送る
犬田小文吾
夜深うして劫を行ふ彼何の情ぞ 黒闇々中刀に声あり 圏套姦婦の計を逃れ難し 拘囚未だ侠夫の名を損ぜず 対牛楼上無状を嗟す 司馬浜前に不平を洩らす 豈翔だ路傍狗鼠を誅するのみならん 他年東海長鯨を掣す
船虫
閉花羞月好手姿 巧計人を賺いて人知らず 張婦李妻定所無し 西眠東食是れ生涯 秋霜粛殺す刀三尺 夜月凄涼たり笛一枝 天網疎と雖ども漏得難し 閻王廟裡擒に就く時
犬坂毛野
造次何ぞ曾て復讎を忘れん 門に倚て媚を献ず是権謀 風雲帳裡無双の士 歌舞城中第一流 警柝声は沉む寒堞の月 残燈影は冷やかなり峭楼の秋 十年剣を磨す徒爾に非ず 血家血髑髏を貫き得たり
犬飼現八
弓を杖ついて胎内竇の中を行く 胆略何人か能く卿に及ばん 星斗満天森として影あり 鬼燐半夜閃いて声無し 当時武芸前に敵無し 他日奇談世尽く驚く 怪まず千軍皆辟易するを 山精木魅威名を避く
犬村大角
猶ほ遊人の話頭を記する有り 庚申山は閲す幾春秋 賢妻生きて灑ぐ熱心血 名父死して留む枯髑髏 早く猩奴名姓を冒すを知らば 応に犬子仇讐を拝する無かるべし 宝珠是れ長く埋没すべけん 夜々精光斗牛を射る
雛衣
満袖啼痕血痕に和す 冥途敢て忘れん阿郎の恩を 宝刀を掣将つて非命を嗟す 霊珠を弾了して宿冤を報ず 幾幅の羅裙都て蝶に化す 一牀繍被籠鴛を尚ふ 庚申山下無情の土 佳人未死の魂を埋却す
犬江親兵衛
多年剣を学んで霊場に在り 怪力真に成る鼎扛ぐべし 鳴鏑雲を穿つて咆虎斃る 快刀浪を截つて毒竜降る 出山赤手強敵を擒にし 擁節の青年大邦に使ひす 八顆の明珠皆楚宝 就中一顆最も無双
妙椿
八百尼公技絶倫 風を呼び雨を喚ぶ幻神の如し 祠辺の老樹精萃を蔵す 帳裡の名香美人を現ず 古より乱離皆数あり 当年の妖祟豈因無からん 半世売弄す懐中の宝 霊童に輸与す良玉珠
里見氏八女
匹配百両王姫を御す 之子于に帰ぐ各宜きを得 偕老他年白髪を期す 同心一夕紅糸を繋ぐ 大家終に団欒の日あり 名士豈遭遇の時無からん 人は周南詩句の裡に在り 夭桃満面好手姿
丶大
名士頭を回せば即ち神仙 卓は飛ぶ関左跡飄然 鞋花笠雪三千里 雨に沐し風に梳る数十年 縦ひ妖魔をして障碍を成さしむるも 古仏因縁を証する無かるべけん 明珠八顆都て収拾す 想ふ汝が心光地に凭て円きを
里見義成
依然形勝関東を控ふ 剣豪犬士の功に非ざる無し 百里の江山掌握に帰す 八州の草本威風に偃す 驕将敗を取るは車戦に由る 赤壁名と成すは火攻の為めなり 強隣を圧服する果して何の術ぞ 工夫ただ英雄を攪るに在り
『八犬伝』を読むの詩 補
姥雪与四郎・音音
乱山何れの処か残燐を吊す 乞ふ死是れ生真なり叵し 薄命紅顔の双寡婦 奇縁白髪の両新人 洞房の華燭前夢を温め 仙窟の煙霞老身を寄す 錬汞服沙一日に非ず 古木再び春に逢ふ無かる可けん
河鯉権守
夫れ遠謀禍殃を招くを奈ん 牆辺耳あり隄防を欠く 塚中血は化す千年碧なり 九外屍は留む三日香ばし 此老の忠心皦日の如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを 櫬を舁ぐの孤児戦場に趁く
蟇田素藤
南面孤を称す是れ盗魁 匹として蜃気楼堂を吐くが如し 百年の艸木腥丘を余す 数里の山河劫灰に付す 敗卒庭に聚まる真に幻矣 精兵竇を潜る亦奇なる哉 誰か知らん一滴黄金水 翻つて全州に向つて毒を流し来る
里見義実
百戦孤城力支へず 飄零何れの処か生涯を寄せん 連城且擁す三州の地 一旅俄に開く十匹の基ひ 霊鴿書を伝ふ約あるが如し 神竜海を攪す時無かる可けん 笑ふ他の豎子貪慾を逞ふするを閉糴終に良将の資となる
以上二十四首は『蓉塘集』中の絶唱である。漢詩愛誦家の中にはママ諳んずるものもあるが、小説愛好者、殊に馬琴随喜者中に知るものが少ないゆえ抄録して以てこの余談を結ぶ。
底本:「南総里見八犬伝(十)」岩波文庫、岩波書店
1990(平成2)年7月16日第1刷発行
底本の親本:「南総里見八犬伝 下」日本名著全集刊行会
1928(昭和3)年
※旧仮名によると思われる引用文のルビの拗音、促音は、小書きにしませんでした。
入力:しだひろし
校正:川山隆
2009年8月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。