任侠二刀流
国枝史郎
|
ここは両国広小路、隅田川に向いた茜茶屋、一人の武士と一人の女、何かヒソヒソ話している。
「悪いことは云わぬ、諾と云いな」
「さあね、どうも気が進まないよ」
「馬鹿な女だ、こんないい話を」
「あんまり話がうますぎるからさ」
「気味でも悪いと云うのかい」
「そうだねえ、その辺だよ」
「案外弱気なお前だな」
「恋にかかっちゃあこんなものさ」
「ふん、馬鹿な、おノロケか」
「悪かったら止すがいいよ」
「いやいや一旦云い出したからには、俺はテコでも動かない」
「妾も理由を聞かなければ、やっぱりテコでも動かないよ」
「いやそいつは云われない」
「では妾も不承知さ」
「そう云わずと諾くがいい。無理の頼みではない筈だ。好きな男を取り持とう。いわばこういう話じゃあないか」
「しかも金までくれるってね」
「うん、旅費として五十両、成功すれば礼をやる」
「だからさ本当におかしいじゃあないか、真面目に聞いちゃあいられないよ」
「真面目に聞きな、嘘は云わぬ」
「そうさ嘘ではなさそうだね、だから一層気味が悪い。……ね、妾は思うのさ、これには底がありそうだね?」
「底もなけりゃあフタもないよ」
「馬鹿なことってありゃあしない」
「ではいよいよ厭なのだな」
「そうだねえ、まず止めよう」
「よし、それでは覚悟がある」
「ホ、ホ、ホ、ホ、どうしようってのさ」
「秘密の一端を明かせたからには、そのままには差し置けぬ!」
「おやおや今度は嚇すのかい」
「嚇しではない、本当に斬る」
「何を云うんだい、伊集院さん、そんな強面に乗るような、お仙だと思っているのかい」
「いや本当に叩っ斬る!」
「恐いわねえ、オオ恐い、ブルブルこんなに顫えているよ」
「ブッ、箆棒、笑っているくせに」
「それはそうと、ねえお前さん、ほんとにあの人木曽へ行くの?」
「うんそうだ、しかも明日」
「で、いつ頃帰るのさ?」
「で、いつ頃帰るのさ?」
こう訊いた女の声の中には、危惧と不安とがこもっていた。それを迂濶り見遁がすような、武士は不用意の人間ではない。
「さあいつ頃帰るかな」わざと焦すような口調をもって、
「ふふん、どうやら心配らしいな、教えてやろうか、え、お仙」
「ええどうぞね、お願いします」
「一年の後か二年の後、場合によっては永久帰らぬ」
「アラ本当、困ったわねえ」
「だからよ、おっかけて行くがいい」
「ナーニ、みんな出鱈目だよ、そうさお前さんの云うことはね」
「それもよかろう。そう思っていな、だがしかし明日から、彼奴の姿を見ることは出来まい」
「それじゃやっぱり本当なのね」
「クドい女だ、嘘は云わぬよ」
「それじゃあ妾考えよう」
「何も考えるにも及ぶまい、解った話だ、うんと云いな」
「そうだねえ、うんと云おう」
「おお承知か、それは偉い、それ五十両、旅用の金だ」
「薄っ気味の悪い旅用だねえ」
「何を馬鹿な蛇ではなし」
「およしなさいよ、蛇々と」
薩摩の藩士伊集院五郎と、両国広小路の蛇使い、お仙との奇怪な話から、この物語は開展する。
さてその翌日の払暁のこと、三人三様の人間が大江戸の地を発足し、甲州街道へ足を入れた。一人は立派な旅姿、紛れのない若武士で、小石川は水戸屋敷、そのお長屋から旅立った。もう一人は堅気の商人風、年は三十前後であろう、菅笠で顔を隠しているので、ハッキリ正体は解らないが、薩摩屋敷から出たところを見ると、伊集院五郎の変装らしい。
ところでもう一人の旅人は、全く異様な風采であった。紺の脛巾に紺の股引き、紺の腹掛けに紺の半被、紺の手甲に紺の手拭い、一切合切紺ずくめ、腰に竹細工の魚籃を下げ、手に手鉤を持っている。草鞋の紐さえ紺である。頬かむりをしたその上へ、編笠まぶかに冠っているので、その容貌は解らないが、赤い締め緒にくくられた、クッキリと白い頤つきや、細々とした頸足へ、バラリもつれている紛髪や、手甲の先から洩れて見える、節靨のある指先や、そういうものから考えて見れば、若い女でなければならない。両国広小路の掛け小屋から、抜け出たところから想像すれば、蛇使いの女太夫、組紐のお仙が商売がら、蝮捕り姿に身をやつし、恋しい男を追っかけて木曽路へ行くに違いない。
「困ったわねえ、はぐれちゃった」
府中の宿まで来た時である、男の足には叶うべくもなく、後へ残された女蝮捕りは、がっかりしたように呟くと、五月初旬の初夏の陽に、汗ばんだ額を拭こうとしてか、締め緒を解いて笠を脱いだ、剃りつけて細い一文字の眉、愛嬌こぼれる円味はないが、妖婦型さながらの切れ長の眼、ちょっと刺々しく思われるものの、それがバンプに似つかわしい、スッと高く長い鼻、その左右に靨があって、キュッと結べば深くなり、綻ばせれば浅くなる、そういう可愛い特徴を持った、小さい薄手の赤い唇、間違いはない、組紐のお仙。
甲州街道は日本一の難場、それを女の一人旅、これは困るのが当然である。
いわゆる芸が身を助ける、案外お仙の道中は、平穏無事なものであった。
蝮を捕り捕り旅をした。蛇使いが本職である。お仙が一度口笛を吹くと、いろいろの長虫が寄って来た。それを手鉤で抄い上げ、ポンとびくの中へ抛り込む。と、蛇は穏しく、びくの中で眠ってしまう、蝮であろうとやまかがしであろうと、一度お仙の手にかかったら、その獰猛な性質がにわかに穏しくなるのであった。
問屋場人足や雲助が、女と思って嘗めてかかると、お仙はびくから蝮を取り出し、これを振り廻して嚇しつけた。
可愛いい可愛いい蝮の子
陽やけて赤いやまかがし
蝮捕りの歌をうたいながら、小仏も越し、甲府も過ぎ、諏訪から木曽谷へ入り込んだ。
だがもちろんこの頃には、恋しい男も伊集院五郎も、とっくに木曽へはいったことであろう。
福島宿、駿河屋という旅籠。
そこへはいって来た一人の武士、
「許せ、今晩厄介になる」
「へいへいこれはお早いお着きで……おいおい洗足を差し上げな。……松の一番だよ。ご案内……」帳場の番頭お世辞を云う。
部屋へ通った若侍、年の頃は二十四五、背割羽織に裾縁野袴、柄袋をかけた長目の大小、贅肉のないひきしまった体格、武道に勝れた証拠であろう、涼しいながらに鋭い眼、陽焼けして色こそ赭いけれど、高い鼻薄い唇、純な乙女にも鉄火な女にも、うち込まれそうな風采である。宿帳へ記した名を見れば、
江戸小石川、山影宗三郎。水戸屋敷から出た武士である。
夕餉を済ますと宿を出た。
「宿の景気を眺めて来る」
「へえへえおいでなさいまし」
ここ木曽の福島宿は、山村甚兵衛の預かる所、福島関の存在地、いわゆる日本の裏門で、宵の口ではあったけれど、江戸とは異い人通りも少く、聞こえるものは水ばかり、すなわち木曽川の流れである。
今日停車場のある辺り、その時代は八沢と云う。人家途絶えて木立ばかり、その木下闇へかかった時、声も掛けずに背後から、サッと切り込んだ者がある。
右肩から掛けて脇腹まで、大袈裟掛けのただ一刀! 斬られてしまっては話にならない。
前へ飛ばず横へ逸れず、逆モーションという奴だ、アッという間に宗三郎、背後ざまに飛び込んだ。シュッと鞘走る刀の音、ズイと上段に振り冠る。構えは正しく円明流!
「莫迦!」とまずもって罵った。
「声も掛けず背後から、闇討ちするとは卑怯な奴、これ名を宣れ、身分を云え! 本来ならばこう云うところ、しかし俺はそうは云わぬ。と云うのは見当が付いてるからよ。……江戸を発って甲州路、府中の宿へかかった頃から、後になったり先になったり、稀有の奴が附いて来た。やつした姿は商人風、縞の衣裳に半合羽、千草の股引き甲斐甲斐しく、両掛けかついで草鞋ばき、ひどく堅気に見せながらも、争われぬは歩きぶり、足の爪先踏みしめ踏みしめ、踵で耐える武者運び、こいつ怪しいと眼を付ければ、寸の詰まった道中差し、鐺に円味の加わったは、ははあ小野派一刀流で、好んで用いる三叉作り! ふふんこいつ贋物だな! ビーンと胸へ響いたものよ。……どうやら俺を尾行るらしい。はてないったい何んのためだ? ちょっと不思議に思ったが、まず用心が肝心と、油断なくかかった小仏峠、コレ贋物、峠の茶屋で、よくも雲助をかたらって、俺に喧嘩を売りおったな!」
宗三郎威勢よく畳みかける。
「斬って捨てるは易かったが、大事な用事を抱えた身、何より堪忍が大切と、酒手を出して詫びを入れ、胸を擦って山を下り、甲府お城下へ入り込んだら、憎い奴だ、コレ贋物、問屋場人足をけしかけて、二度目の喧嘩を売りおったな、それも遁がれて福島入り、もうよかろうと思ったら、三度目馬鹿というやつだ、人頼みでは、埓が明かぬ、こう思ったか単身で、よくそれでも切り込んで来た、もうこうなったらこっちのもの、俺の方で勘弁しない、人雑なしだ、一騎討ち、出たとこ勝負、さあ参れ!」
サッと切り下ろした片手斬り、流名で云えば払叉刀、これが決まれば梨割りだ。
不思議なことには手答えがない。敵はどうやら逃げたらしい。
「はてな?」と呟いた宗三郎、考え込まざるを得なかった。「浮世には素早い奴がある。俺の切り手をひっ外し、足音も立てずに逃げるとは? いやどうも驚いたなあ」
チャリンと鍔音高く立て、刀を納めたものである。空を仰げば明日は天気、一点雲なき星月夜、と大きく抛物線を描き、青く光って飛ぶ物がある。人魂ではない流星だ。
「流星しばしば流るるは」
宗三郎微吟する。
「天下乱るるの兇徴なり」
よい声だ。澄き通る。悠然宿の方へ引っ返した。
享保十年夏五月、青葉薫ずる一夜の出来事、もって物語りの二段とする。
翌日宿を出た宗三郎、三岳村の方へ足を入れた。萩原の手前まで来た時である、ちょっと面白い事件が起った。
「箆棒な爺だ、何を云やあがる、村方の厄介になりながら、詰まらねえ事ばかり云やあがる。不吉も糸瓜もあるものか、こんな結構な事はねえ。第一人出入りが多くなり、村へ沢山金が落ちらあ」
「そうともそうともお前の言う通りだ。薬草採りの連中が、一日に使う金額だけで、村の一月の生活は立つ、もうそれだけでも有難えじゃあねえか」
「風儀が悪くなるのお山が荒れるのと、そんな愚にもつかぬ旧弊は、今日では通用しねえってものさ。金さえ落ちればよいじゃねえか」
「思っても見るがいい、俺らの村を、田もなけりゃあ畑もねえ、あるものと云えば、山ばかりだ。米も出来なけりゃあ野菜も出来ねえ、そこで年中炭を焼き、やっとこさ生活を立てていたのが、薬草採りが入り込んでからは、黄金の雨が降るようになった。そこでにわかに活気づき、人間にも元気が出たってものさ。それがいってえ何故悪い」
一人の老人を取り巻いて、五六人の若者が怒鳴っていた。
「まあ待ってくれお前達、そうガミガミ云うものではない。なるほど村方へ金は落ちる、こいつは決して悪くはない、悪いどころか有難いくらいだ。だから俺にも不平はない。ところがここに困ったことは、薬草採りという奴が、おおかた都会の人間でな、お山の霊験さを弁えていない。そこでお山中を駈け巡り、木を仆したり、土を掘ったり、荒らして荒らして荒らし廻る。そこでとうとう山の神様が、お憤りになったというものだ。で私におっしゃられた、薬草採りを追い払え! でないと災難を下すぞよ」
七十を越した年格好、躍起となって爺は云った。
「山の神様が聞いて呆れらあ、お告げがあったもねえものだ。もしまたお前の云う通り、本当にお告げがあったのなら、そんな神様にゃア用はねえ。だって爺さん、そうじゃあねえか、俺らは御岳の氏子だよ。それ神様というものは、氏子を守護るがお義務だ。ところが話は反対じゃあねえか。干乾しにしようって云うのだからな」
「都会から入り込んだ薬草採り、今山から行かれてみろ、村方一円火の消えたように、ひっそり閑と寂れてしまう。こっちからペコペコお辞儀をしてでも、いて貰えてえと思っているのに、追っ払えとは途方もねえ」
「何んの神様のお告げなものか、狂人爺の寝言だあね」
「その寝言にも程がある、三岳の村方一統へ、迷惑を掛けようっていうんだからな。こいつ放置っちゃあ置かれねえ」
「みせしめのためだ、川へ流せ」
「谷の中へ抛り込め」
向こうみずの若者ども、老人を宙へ吊るそうとした。そこへ割り込んだのが宗三郎である。
「これこれ何んだ、乱暴な奴だ、やる事にも事を欠き、老人虐めとは何事だ!」叱るようにたしなめた。「いずれ仔細はあるだろうが、屈竟な若者が大勢で、一人の老人を手込めにしては、もうそれだけでいい訳は立たぬ。悪いことは云わぬ、堪忍してやれ」
今度は優しく扱った。
侍に出られては仕方がない、何か口小言を云いながらも、若者どもは立ち去った。
「どうだ老人、怪我はなかったかな」
「これは有難う存じました。へえへえ怪我はございません。いやはやどうも没分暁漢どもで、馬鹿な奴らでございますよ。せっかくこちらが親切ずくに、いい事を教えてやったのに、恩を仇で返すんですからね。どいつもこいつもそのうちに、酷い目に合うでございましょうよ」
「これこれ老人、お前も悪い」宗三郎は微笑した。「年寄りのくせにそういう悪口、だから若い者に憎まれるのだ。長い物には巻かれるがよく、年寄りは若者に縋るがいい。それはそうとどこに住んでいるな」
「へいすぐ近所でございます」
「送ってやろう、行くがいい」
「ナーニ、大丈夫でございますよ」
「先刻の奴らがやって来て、また虐めないものでもない。遠慮をするな、送ってやろう」
「それはどうもご親切様に、奴らは恐くはございませんがせっかくのご親切を無にしては、かえってお前様にお気の毒、ではお言葉に従って、小屋まで送っていただきましょう」
「気の毒だから送って貰う? アッハハハ驚いた爺だ。まるでこっちから頼んでいるようだ。いやしかし面白い。俺はそういうお前のような、偏屈者が大好きだ」
「ドッコイショ……これはいけない。……相済みませんがちょっと手を」
「やれやれ腰が立たないのか」
「さっきの奴らに二つ三つ、腰のあたりを蹴られましたので」
「人を助けるのも考えものだ、薄穢いお前の手を、では引かなければならないのだな」
「きっとよいことがございましょうよ。神様のお恵みだってございましょう。さあさあ遠慮なくお引きなすって」
「恩に掛けて手を引かせる、開闢以来ない図だな。それもよかろう。さあ立ったり」
グッと引くと顔をしかめ、
「お侍様、もっと手軟かにね」
山袴を穿き袖無しを着、頭巾を冠った老人を旅装派手やかな江戸の武士が、手を引いて行く格好は、全く珍らしい見物である。
「どうやら小屋へ参りました。お急ぎでなくばお立ち寄り、休んでおいでなさいまし。へえへえ白湯ぐらいは差し上げます」
一方は谷、一方は曠野、名づけて神代原という。もうこの辺はプンプンと、薬草の香に馨っていたが、その一所に立っているのは、障子の代りに蓆を垂らし、茅の代りに杉葉を葺いた、粗末な黒木の小屋であった。
「おい婆さんや今帰ったよ」
門口に立って声を掛け、蓆を開いて内へはいったが、誰もいないか森閑としている。
大きな囲炉裏、自在鉤、焚火がドカドカ燃えていて、茶釜がシンシンと煮えている。板敷きに円座が二三枚、奥にも部屋があると見えて、仕切りに茣座がつるしてある。屋内は暗く煤ぶれ返り、四方の荒壁にはひびがはいっている。
円座へ坐った宗三郎、白湯で咽喉をうるおした。
と、その時どこからともなく、祝詞の声が聞こえて来た。
「はてな?」と思って耳を澄ますと、隣りの部屋から来るらしい。「これは不思議」と立ち上り、仕切りの茣座を掲げて見た。
「むう」と唸ったものである。思いもよらない光景が、展開されていたからである。
真正面に白木造りの神棚、点し連らねた無数の燈明、煙りを上げている青銅の香炉、まずそれはよいとして、神号を見れば薬師如来、それと並んで掛けられた画像! 白髪白髯鳳眼鷲鼻、それでいてあくまで童顔であり、身には粗末な襤褸を着、手に薬草を持っている。一見すると支那の神農、しかし仔細に見る時は、紛れもない日本人、それも穢い老乞食、だが全幅に漲る気品は、奕々として神のようである。
ふと見るとその前にこの家の老人、端座して祝詞を上げている。と、老人は振り返った。
「お武家、礼拝なさるがよい!」命ずるような威厳のある声! まるで人間が異って見える。
品位に打たれた宗三郎、思わずピタリと端座した。この老人何者であろう? 素性は不明、名は彦兵衛。
神代原から半里の北に、萩原の部落が出来ていた。
すこし前まではこの萩原、戸数二十戸、人数八十人、問題にならない小部落であったが、薬草採りが入り込んでからは、にわかに家が増し人数が殖え、戸数百戸、人数四百人、堂々たる山間の都会となった。
部落の中央札の辻に、一軒の酒場が立っていた。その経営者の名を取って、浜路の酒場と呼ばれていた。由来御岳の山中には、いろいろの人間が入り込んでいた。幕府直轄の御料林として、五百人の杣夫をはじめとし、それを監督する百五十人の武士、その連中に春を鬻ぐ、三四十人の私娼の群、どこにいるとも解らないが、兇暴の強盗や殺人をする、数百人の山窩の団隊、それから金沢や大坂や、江戸や京都や名古屋から、入り込んで来た薬草採り──で、札の辻の浜路の酒場は、そういう人達の慰安所として、朝晩素晴らしく繁昌した。
今日で云えばバラック建て、がんけんに作られた食卓や腰掛け、飾りらしい物は一つもない。
この日も酒場は賑わっていた。
「六文六文と馬鹿には出来ねえ、昨夜買った六文なんか、そりゃあ素的な味だった」
「ははあさてはもてやがったな」
「星一つねえ真っ暗の晩だ、顔や姿は解らなかったが、すべっこい肌ったらなかったよ」
「ところが、そいつを昼間拝むと、鼻の欠けた化物だってね」
「うんにゃそれがそうでねえ、俺もそいつが心配だったので、真っ先に顔を撫でて見たやつよ。するとどうだ、鼻はあった。もっとも唇はとろけていたが」
「俺らの買った六文はな、比丘尼あがりの女と見え、ツルツルに頭が禿げていたっけ」
「なんの婆さんを買ったんだろう」
「それも瘡毒が頭へ来て、毛の脱けた奴かもしれねえぜ」
「そうは云っても六文の中にも、お吉のような女もある、そうそう安く扱えめえ」
「あっ、お吉か、ありゃあ別だ」
「立兵庫にお襴、島原へ出したってヒケは取るめえ」
「それに気象が面白いや」
「たとえ山巡りのお役人さんでも、厭だと一度首を振ったら、金輪際諾かねえということだ」
「俺らの手には合わねえってものさ」
「そうかと思うと気に入ると、身銭を切って入れ上げるそうだ」
六文というのは私娼のことで、一回六文で春をひさぐので、そういう綽名が付いたのである。
また一方の片隅では、山巡りの役人の武士達が、こんな話を取り換わせている。
「山窩には全く閉口でござる。何んとかして根絶やしにしたいもので」
「どうも巣窟が解らないのでな」
「めっきり最近は横暴を極め、山を下って人里へ出、放火をしたり強盗をしたり、婦女子を掠めたり、旅人を殺したり、それがみんな我々どもの、責任になるのでやり切れませんて」
「山窩とは云っても武芸に達し、それに多数屯していて、変幻出没自由自在、向こうへ追えばこっちへ逃げ、こっちを抑えれば向こうへ遁がれる、まるで武蔵野の逃げ水のような奴らで」
こっちの隅では薬草採り達が、採集の話に耽っている。その間を酒場の女が、燗瓶を持って飛び廻る。唄い出す奴、怒鳴る奴、笑い出す奴、口論する奴、女を捕えて口説く奴、一群が出て行くと一群が入り込み、掴み合ったかと思うと和睦する。
「酒だ!」「肴だ!」「飯だ!」「茶だ!」
人いきれと酒の香と、汗の匂いと髪の毛の匂い、ジャラジャラと音を立てるのは、公然に賭博をするらしい。
「殺すぞ!」「何を!」「止めろ止めろ!」
バタバタと五六人が取っ組み合う。棚が仆れ器物が破壊れる。ともうすっかり仲よくなり、唄い出すは「ナカノリさん」だ。
山中へはいれば治外法権、自由で素朴で剛健で、殺伐で快活で明けっぱなしで、そうして強い者勝ちである。
とその時門口から、一人の男がはいって来た。扮装は堅気の商人風、年の頃は三十前後、しかし商人ではなさそうだ。赫黒い顔色、釣上がった眦、巨大な段鼻、薄い唇、身長五尺七八寸、両方の鬢に面摺れがある。変装した武士に相違ない。薩摩の藩士伊集院五郎だ。
「姐さん、ここへもお銚子をね」一つの空樽へ腰かけた。
この酒場と中庭を隔て、立派な屋敷が立っていた。その一室で書見しているのは、この家の主人仁右衛門で、デップリと肥えたよい人相、いわゆる長者の風がある。この土地での名門家、萩原部落の名主である。
「あのお客様でごぜえます」
下女がおずおずはいって来た。
「どなたかね、茂十さんかえ」
「いんね、お武家様でごぜえます」
「ああ木場のお役人さんか」
「旅のお方でごぜえます」
「ふうん、旅のお侍さん……で、どんなご用だろう?」
「ご書面を持って参りました」
「何んということだ、莫迦だなあ。早くいえばいいじゃアないか。どれお見せ、その書面を」
取り上げて見て吃驚した。
「中山備前より仁右衛門へ」こう書かれてあるからである。
「これは故主様ご家老よりの書面、これはこれは勿体ない」
こう云うと立ち上がって台所へ行き、口洗手水をしたものである。さて立ち帰ってピタリと端座、封を解いて読み下した。中山備前とは何者であろう。三家の家柄、天下の副将軍、従三位中納言水戸のお館、その附け家老で二万五千石、中山備前守信保である。
「水戸家の家臣山影宗三郎、主命を帯びて木曽に向かう、その方万端世話するよう」こういう簡単な文面であった。
「客間の方へ叮嚀にな、すぐお通し申すがよい」
やがて仁右衛門は衣裳を着換え、客間の方へ出て行った。
「これはこれは山影様、ようこそおいでくだされました。私事は当家の主人、お尋ねにあずかりました萩原仁右衛門、壮年の頃中納言様に仕え、数々の鴻恩にあずかりましたもの。久しぶりにてご消息に接し、お懐しく存じました。さて次ぎにあなた様には、今回ご用を承わり、当地へお出掛け遊ばしました趣き、ご苦労のことに存じます。どのようなご用かは存じませぬが、なにとぞ決してお心置きなく、何事であれ私めに、ご用事仰せ付けくださいますよう。私力で出来ます限り、お役に立ちとう存じます」
仁右衛門頼もし気に云ったものである。
「私事は山影宗三郎、初めてお目にかかります。ご親切なるそのお言葉百万の味方を得たようでござる。ところで」と宗三郎膝を進めた。
「今回受けました拙者への主命、重大でもあれば困難でもあり、尚また一方から云う時は、奇怪至極のものでもあり、さらに想像を巡らせば、手強い競争相手もあって、旁〻成功は容易な事でござらぬ。と云って失敗する時は、拙者一人の名折れに止どまらず、水戸お館のお名折れとなりさらに広義に考えますれば、ご三家そのものの名誉に関し、さらにさらに徳川家の、譜代の大名一統の、恥辱ともなるのでございます。どのような困難があろうとも、是が非にも成功させねば置かぬ! これが拙者の心組で。ついては……」というと宗三郎、グイと懐中へ手を入れた。
「まずもってこれをご覧くだされ」
取り出したのは一巻の巻物、スルスルと両手で押しひらいた。現れたのは一面の画像、白髪白髯鳳眼鷲鼻、手に薬草を持っている。すなわち彦兵衛の神棚にあった、神農じみた老人の画像! しかし画面は同じでも、巻物は両者別であることは、紙質墨色の異うのでも知れる。
「何んと萩原仁右衛門殿、ここに書かれた老人を貴殿お見知りはござらぬかな?」
すると仁右衛門は首を延ばし、じっと画面を眺めたが、
「存じております、薬草道人様で」
「おお、さてはご存知か?」
「私ばかりではございません、御岳山中に住むほどの者で、道人様を知らぬ者は、おそらく一人もございますまい」
「ははあそれほど有名で?」
「有名にも何んにも活き神様で、崇拝のマトでございますよ。と申しますのはこのお方が、御岳山中に薬草あり、万病に効くとおっしゃったため、諸国から無数の薬草採りが、入り込んで来たのでございますからな」
「ははあなるほど、さようでござったか。いやそれで安心致した。しかと薬草道人には、この山中においででござるな?」宗三郎改めて念を押した。
「たしかにおいででございます」
「やれ有難い、大願の一歩、これで叶ったというものだ。ううむさすがはお館様、ご明察に狂いがない。全くもって恐れ入ったことで」こう云うと宗三郎誰にともなく、頭を下げたものである。
驚いたのは仁右衛門で、
「失礼ながら山影様、その薬草道人様に、何かご用でもございますので?」
「ご用もご用、これ一つだけ。すなわち薬草道人様に、お目にかかってお話し致し、江戸までご同道願うのでござる」
「え、江戸まで? それは駄目です」
どうしたものか萩原仁右衛門、強く横首を振ったものである。今度は宗三郎が吃驚した。
「これは不思議、何故駄目で?」
「出来ない相談でございますよ」
「いよいよ不思議どうしてかな?」
「第一あなた、道人様を、どこでどうして見付けられます」
「山中におられるとおっしゃったが?」
「御岳は広うございますよ」
「いずれこの辺へも参られるであろうが?」
「はいはいおいででございます」
「訳はないこと、その時お逢いし……」
「それが駄目なのでございますよ。まずまずお聞きなさいまし。道人様は名聞嫌い、活き神様で世捨て人、いえ仙人でございます。木曽の代官山村様。八千石の威光を屈し、一度会いたいと礼を尽くし、お招きした時もお拒絶、にべもない返辞をなさいましたそうで。第一俺は金持ちが嫌いだ、権勢家も虫が好かぬ、山を離れて人里へ行く、これが何より億劫だ、こう云われたそうでございます。俺の好きなは山の草木、それから鳥獣、それから貧民、そういうものの頼みなら、投薬もすれば療治もする。これが主義だと申しますことで。貧しい人間が病んでいると、レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク、こういう音を響かせて、ご自身の作られた薬剤車、それを一人の片輪者に曳かせ、どこからともなくおいでになり、ご療治なさるのでございますね。それが済むとどことも知れず、お立ち去りになるのでございます。どこにお住居なさるやら、それさえ一向見当付かず、ある時木場のお役人様が、こっそり後を尾行られた時、天に上ったか地に潜ったか、突然眼の前で消えられたそうで。そういうお方でございます。それをどうして江戸などへ、お出向きなさることがございましょう。駄目な相談でございますよ」
「ほほう」と云ったが山影宗三郎、決して失望しなかった。「いや事情よく解った。そういう人物であればこそ、古今の名医と云われるのであろう。古今の名医であればこそ、我らがご主君水府様、拙者をこの地へ派遣して、薬草道人の江戸入りを、お企てなされたに相違ない。道人山中におられる以上、誓って拙者お目にかかる。お目にかかったら懇願し、これまた誓って大江戸へ、お連れしなければ役目が立たぬ。いや困難は覚悟の前、そんなことには驚かぬ」こう云ったが宗三郎、にわかに砕けた調子となった。「ところで萩原仁右衛門殿、お連れ合いはどうなされた?」
これを聞くとどうしたものか、仁右衛門にわかに赤面した。
「はい愚妻は数年前に、世を去りましてございます」
「なくなられたか、それはそれは。……家中の者の噂では、貴殿のお連れ合いお花殿は、貴殿お館にご仕官の頃、やはりお館の奥向きに、仕えておられたと申しますことで?」
「冬木と申して奥女中、はい仕えておりました」
「お美しい方であられたそうで」
仁右衛門俯向いて返辞をしない。
と、宗三郎微笑した。
「お気にさわらば幾重にもお詫び、噂によれば貴殿とお花殿、ご一緒になられる経路には、こみいった事情がございましたそうで」
しかし仁右衛門返辞をしない。
「古傷に触れるはよくないこと、拙者としても本意でござらぬ、しかしこれとて止むを得ぬ儀、構わず卒直に申し上げる。……館の法度を破られたそうで?」
「いかにも」と仁右衛門顔を上げた。「お手討ちになるところでございました」
「それを不愍と覚し召し、お館様にはこっそりと、貴殿ご夫婦を逃がされたそうで」
「爾来故郷のこの地へ引っ込み、今日までくらしてございます」
「するとお館は貴殿にとっては、普通の故主ではござらぬ筈」
「命の恩人にございます」
「どうしてご恩を返されるな?」
「その儀については日夜肝胆……」
「ははあ、砕いておられるか?」
「いかにもさようにございます」
「その大恩あるお館様、目下窮境に立っておられる」
仁右衛門じっと眼を据えた。
「この際でござる、ご恩返しをなされ」
「私に出来ますことならば……」
「薬草道人を目付け出し、説いて江戸入りさせるのでござる」
「が、いったい何んのために、そうお館におかれては、道人様の江戸入りを、ご懇望なさるのでございましょう」
「よろしい、お話し致しましょう。お聞きなされ」
と膝を進めた。
この時ドッと酒場の方から、拍手笑声が湧き起こった。
そこで作者はペンを改め、再び酒場の光景を書こう。
「ようよう女神のご来降だ」一人の杣夫が喚き出した。
「いよう浜路大明神!」こう云ったのは薬草採り。
「莫迦を云うな、大明神なものか、歌舞の菩薩のご影向だ」こう云ったのは若い武士。
杣夫、薬草採り、役人までが、頓狂の声を上げたというのは、酒場の美しい女主人、浜路が出現したからであった。
しかも浜路の出現たるや、並ひととおりのものではなく、堂々と馬に乗って現れたのであった。
「おや皆さんいらっしゃい。いつもご贔屓に有難う。妾ね今日はいいことをしてよ、いつものように遠乗りをして、神代原の方へ行ったところ、あの乱暴な山窩どもが、旅の人を取り巻いて、強請っているじゃあありませんか。そこで妾怒鳴ってやったのよ。「お止しよお止しよ悪いことはね、酒場の浜路が来たからには、黙って見遁がして置くことは出来ない! 放しておやりよ旅の人を、そうでなかったら弓の折れで、思う存ぶん撲るよ!」ってね。するとあいつらこう云うじゃあないの「お転婆娘が来やがった、それ部落へしょびいて行け!」「頭領の焦れている阿婆擦れだ、とっ捉まえて連れて行き、うんとこさ褒美にあずかろうぜ!」……で妾を取り巻いたものさ。そこで妾は馬を煽り、そいつらの中へ飛び込んで行き、いい気持ちに蹴散らしてやったわ。山窩山窩って怖がるけれど、何がちっとも怖いものか。……さあ皆さん飲んでくださいよ。お酌しますわ、この浜路がね」
馬を門口へ繋いで置いて、酒場の中へはいるや否や、こんな塩梅にまくし立てた。
草花を染め出した水色の小袖、亀甲模様の山袴、あり余る髪を項で束ね、無造作に肩へ垂らしている。びっくりしているような大きな眼、むっくりと盛り上がっている真っ直ぐの鼻、締りのいい大型の口、身長は高く肉附きがよく、十八歳とは思われない。清らかで涼しくてあけっぱなしで、山霊が凝って出来たような女、どんなに気持ちが結ぼれていても、一度この娘と話したら、明かるくなるに相違ない。
「いよう姐ご、大成功!」
「山窩めひでえ目に会やアがった」
酒場が陽気になったのは、まさに当然なことだろう。
「酒場の浜路さんにゃあ相違ないが、同時に俺らの浜路さんだ。うっかり手でも付けてみろ、村一統承知しねえ」
「おおおお大将何を云うんだ、何んの村ばかりの浜路さんなものか、御岳一円の浜路さんだ。薬草道人と浜路さん、これが御岳の守護本尊さ。それ本尊はあらたかのもの、汚してはいけない拝め拝め」
あちらでも讃美、こっちでも讃美、その中を軽快に駈け巡りながら、浜路は愛嬌を振り蒔いた。この陽気で華やかな酒場に、一人一向はしゃごうともせず、むしろ陰険な眼付きをして、じろじろ見廻している男がある。他ならぬ伊集院五郎である。
「競争相手の山影宗三郎、たしかにこの家へはいって行ったが、どういう関係があるのだろう? こいつを探る必要がある。それに少し気になるのは、薬草道人とかいう隠者の噂だ。はてそれではそんな老人が、御岳に住んでいるのだろうか? はたしてそんな者がいるのなら、こいつも探る必要がある。ふふん、どうやら俺の方が、今のところ少し歩が悪い」
尚様子を探ろうとしてか、チビチビ盃を嘗めながら、酒場の様子をネメ廻した。
「それはそうと耳寄りなのは、山窩の大軍がいるということだ。こいつアいいぞ、一思案! 面白い博奕を打ってやろう」
勘定を払うと伊集院五郎、フラリと酒場から外へ出た。
もう四辺は雀色、昼が夜に移ろうとしている。これからが酒場の書き入れ時、浜路の腕の揮い時。
恋は不思議でも神秘でもない。人生には二つの慾望しかない。一つは食慾、一つは性慾、よき配偶を発見し、理想的に性慾をとげようとする。この行為が恋である。よき配偶というものは、オッチョコチョイには目付からない。そのため人は煩悶する。だが往々一瞬間に、配偶を目付けることがある。これすなわち一目惚れである。
「父が若い頃お仕えした、水府お館中納言様、そのご家来の山影様、今度大事なご用を持って、当地へおいで遊ばされた、むさくるしいにもお構いなく、当分ここへご滞在くださる。お前も気を付けてご介抱するよう」
こう云って紹介された時、パッと浜路が顔を赫めたのは、恋が、一目惚れが、掠めたのである。
女色に淡い宗三郎ではあったが、浜路だけはひどく気に入ったらしい。
「ふうん、こいつは驚いたな。痩せて蒼白くてナヨナヨしている、都会の女とは事変り、何んて素晴らしい体格なんだ。巴御前や、山吹御前、勇婦を産んだ木曽だけに、いまだにこんな娘がいる。悪くないな、俺は好きだ」
「ははあお娘ごの浜路殿で、拙者は山影宗三郎今後ご懇意にお願い致す」サックリとした竹を割ったような気象、言葉なぞもゾンザイで、時には皮肉も云い警句も云い、洒落さえ云いかねない宗三郎であったが、初対面ではあり相手は娘、しかも気に入った娘である、少しばかり固くなり、ぎごちない調子で話しかけた。
「はい、妾こそ、どうぞよろしく……あの田舎者で……不束者で……」浜路ロクロク物さえ云えない。
「そこでな、浜路」と父の仁右衛門、「お前に云って置く事がある、山影様のご用というのは、一口に云えば至極簡単、道人様を探し出し、江戸へお連れすることだ。ところがここに困ったことは、道人様のお住居が知れぬ。そこで何より真っ先に、そのお住居を突き止めなければならない。幸いと云ってはおかしいが、お前はお転婆で馬が好き、よく山中を駈け廻るらしい。で、ひょっとして道人様を、目付け出さないものでもない。よいか、そこだ、目付け出したら、早速知らせて来るようにな」
「ははあ馬が好きかな、それは何より、拙者も大好き、明日にも遠乗りを致しましょう」
「はい有難う存じます。でも妾は馬と云っても、ほんの自己流でございまして」
「いや自己流、それこそ結構、習った馬術で関東の平野を、ダクダク歩かせても仕方ござらぬ。山骨嶮しい御岳山中を、自在に乗り廻した自己流の馬術、それがほんとの馬術でござる」
「ハッハハハ日頃のお転婆も、今日はどうやら風向きがいいの、山影様にご教授を受け、正式の馬術を習うがいい」仁右衛門嬉しそうにニコニコする。
「まあ厭なお父様、お転婆お転婆とおっしゃって」
「いや、お転婆も結構でござる、活気があってなかなかよろしい」
「あなたまでが、そんなことを」
浜路バタバタと店の方へ逃げたが、楽しい空想がムクムクと、胸一杯に突き上げて来た。
この日からして宗三郎、奥庭に建ててある離れ座敷を、仮りの住居に借り受けて、道人探しに取りかかった。
物語り少しく後へ戻る。
ここは萩原への峠道、一本の道標が立っている。その前に立った一人の女! 他ならぬ蝮捕りのお仙である。
「可愛い可愛い蝮の子」
「ソーレお仙、歌い出した」
「陽やけて赤いやまかがし」
蝮捕りの歌、好きな歌。
「恋しいお方はおりませぬ」
どうやらこいつは自作らしい。
ひょいと畚へ手を突っ込み、一匹の蝮を引っ張り出した。
「随分来たねえ。山の中へ、江戸を離れて幾百里、ナーニそんなにも来やしない。だが幾日になるだろう? どうでもいいや、そんな事は。よくないのは山影さん、いったいどこにいるんだろう? 藪原で聞いてもいないというし、宮越で聞いてもいないというし、福島で聞いてもいやあしない。もっとも訊き方が悪かったかもしれない、キリッとしたいい男、江戸前で苦み走り、木曽なんかにゃあいそうもない、そういう立派なお武家様、姓は山影、名は宗さん、そういうお方はおりませんかね? あい妾のいい人さ、でもね正直に打ち明ければ、妾ばっかりが想っていて、なんの先様じゃあチョッピリともね、想ってもいないというそういう人さ。いませんかねそういう人は? なあんて訊くんだもの誰だって、教えてなんてくれるものか。……そうは云っても妾としては、他に訊きようがないじゃあないか。ほんとに片恋の相手なんだもの。……この蝮ったら何んだろう、トボケた顔をしているじゃあないか。同情のない面ったらないよ。眼ばかり開けて、舌ばかり出して、やけに滑っこい体をして、トグロばかり巻きたがって、薄っ穢い獣だよ! 口惜しかったら物を云ってごらん、云えないだろう、態あ見やがれ。物の云えそうな人足かい! もっとも蝮が物を云ったら、妾ア怖くなって逃げ出すがね。……邪魔だ邪魔だ、さあお眠り」
で、もう一匹引っ張り出す。
「オーヤ、オーヤお前もかい、おんなじようなご面相だねえ、見たくもないよ、そんな面は、蝮って本当にどいつもこいつも、こんなにも同じ顔かしら? 初めて知ったよ、面白くもない、口惜しかったら物を云ってごらん。山影様はどこそこにいます! ちゃんとハッキリ云ってごらん。云えないだろう、態あ見やがれ、邪魔だ、邪魔だ、お休みお休み」
でまた畚の中へ突っ込んでしまう。
お仙、どうやら自棄になり、蝮ばっかり虐めるらしい。
「考えて見りゃあ妾は馬鹿さ、伊集院なんて薩摩っぽに、けしかけられて来たんだからねえ。五十両の旅費だけふんだくり、隠れてしまやあよかったんだよ。蝮ばかりがトンマじゃあない、お仙よお前もトンマだよ。……だが本当に妾としちゃあ、山影さんに逢えないのなら、江戸にいる気はなかったんだからねえ。木曽の山奥へ行ってしまって、一年も二年も帰らないなんて、あの薩摩っぽに嚇かされてみりゃあ、ついフラフラと本気にもなり、後を追う気にもなるじゃあないか。……それはそうと一体全体、ここは何んという所だろう? 道標があるよ、見てやろう。……西、萩原、北、大洞。さあ困った、どっちへ行こう? 蝮占術、今度こそ本芸」
蝮を一匹掴み出し、キューッと扱いて真っ直ぐにし、道標の前へ置いたものだ。
「さあさあお歩き、いい子だことね。お前の行く方へ妾も行くよ。宗さんのいる方へおいでおいで。その代り見やがれお前の行った方に、もしも宗さんがいなかろうものなら、皮をひっぺがして蝮酒にするよ」
すると蝮は動き出した。さあどっちへ行くだろう?
道標の前へ据えられた蝮、どっちへ行くかと思ったら、北、大洞の方へ蠢き出した。
「おやマアそうかい、大洞なんだねえ、へえそっちにいらっしゃる。嬉しいわねえ、マアよかった。じゃあそっちへ行くとしよう、有難うよ、蝮さん」
蝮を畚へ入れた組紐のお仙、大洞の方へ歩き出した。
陽は明るく、日本晴れ、昔を思い出させる草いきれ、風は涼しく、小鳥は飛び、人気がないのでちょっと寂しい。しかし行手に恋人がいる、こう思うと浮き浮きする。だがいったいどうしたんだろう、行っても行っても草の斜面、道がだんだん細くなり、そうしていつの間にか消えてしまった。
「おかしいねえ、おかしいよ。いつの間に道が消えたんだろう? 迷児になっちゃった、困ったわねえ」考えたが追っ付かない。
「ではもう一度、蝮占術」一匹掴み出し草間へ置いたが、その蝮ひどく不親切と見え、草を分けて逃げてしまった。
「あっ、しまった!」と手を拍ったものの、大蛇使いのお仙としては、一世一代の失敗といえよう。
「仕方がないから帰ろうよ」道標の方へ引っ返した。しかし一旦迷った道は、容易に目付かるものではない。
次第に日が暮れ、霧が起こり、峰には夕陽が残っているが、麓を見れば薄暗い。
「今夜は野宿だ、仕方がないよ」こう度胸を定めてみれば、大して恐ろしいこともない。
「野宮でもあればいいのにねえ」でズンズン歩いて行く。
ピッタリ日が暮れて夜となり、もう歩くにも歩かれず、無理にも歩けば谷へ落ちるか、川へはまって死ぬだろう。もういけないと覚悟を決め、足を止めた時チラチラと、燈火の火が見えて来た。
「おや有難い、里があるよ」
で、お仙、走り出した。
丘の上に森があり、その森の中に五軒ほどの、木小屋めいた建物が立っていた。
「おい、お半さん、嬉しかろう、三番の甚さんとあいもどり、昨夜はさんざん融けたってね。それで帰って来ても口を拭いて、知らない顔とは気が強いよ、萩原の宿へ人をやり、十文がところ餅でも買おう。奢ったっていいよ、お奢りよお奢りよ」
「何を云うんだよ、お山さん、そういうお前こそ山役人の、あのいい男の本田さんに、永らく焦れた甲斐があって、首尾が出来たって云うじゃあないか。馬鹿にしていらあ明しもしないで。こっちが餅ならお前の方は、酒ぐらい振る舞ってもよかろうぜ」
「ねえねえ島さん、こうだとさ、あのお米さんの腕だっしゃは、大洞の金持ちの息子を溺し、今度足洗いをするそうだよ。ふざけているね、大莫連のくせに。でもマアせいぜい三月だろう、ナーニこの里へ帰って来るよ、情夫の太兵衛が糸をあやつり、させる所業に相違ないよ」
「気の毒だねえ、その息子は、だがそういう馬鹿息子が、チョイチョイあるので助かるのさ。それはそうとお万さんはね、もう駄目だということだよ。せっかく助かった左の眼も、いよいよ潰れるということだよ」
「へえそうかい、可哀そうだね、でもあの人は因果応報さ、随分アクドク稼いだんだものね。それでケチで出し惜しみをして、借金をしたら借りっぱなし、返した例がないんだからね」
こんな話が一軒の家から、大っぴらに戸外へ聞こえて来た。
そうかと思うと一軒の家からは、喧嘩の声が聞こえて来た。
「承知出来ねえ承知出来ねえ、盗むなら一足みんな盗め、草履片っぽ盗むなんて、しみったれ阿魔だ、承知出来ねえ。さあもう片っぽ盗んでくれ!」
「何を云うんだよ、このお波め! 手前この間妾の小袖の、左片袖だけ挘ぎ取って、自分の小袖へくっつけたくせに! 知らねえと思うと大あて違い、手前の小袖は縞物だのに、妾の小袖は飛白なんだからね。どこの世界に縞物の小袖へ、飛白の片袖を付ける奴があるかよ」
「おや偉そうに何を云うんだよ、小袖なんて聞いて呆れるよ、夏冬通して五年がところ、着通した小袖ってあるものか、小袖でなくてありゃあ襤褸さ」
「おやおや大きく出ましたね、ああ襤褸さ、襤褸でもいいよ、何んだいお前んのは雑巾じゃあないか! 襤褸をお返しよ、さあお返し!」
「草履片っぽ返しゃあがれ!」
「雑巾女め、襤褸を返せ!」
「襤褸女め、草履を返せ!」
「襤褸だよ!」「草履だよ!」
「襤褸だよ!」「草履だよ!」
そいつを止める声がする。
「何んだよ、お前達、みっともないじゃあないか、ボロだよ草履だよ、ボロだよ草履だよ、屑屋とデイデイ屋とが軒を並べたようだ」
すると喧嘩がそっちへ移る。
「黙っておいでよ、止める柄かい! 妾に八公を寝取られたくせに!」
「おやおや、それじゃあ、お前だね、大事な八さんを取ったのは、道理で八さんこの頃中、水臭くなったと思ったよ! ワーッ、ワーッ」と泣き出したらしい。
いったいここはどこなんだろう? 山稼ぎの私娼団、すなわち六文の巣窟である。
お仙、えらい所へ迷い込んでしまった。
「こんな所へ泊まるより、野宿の方がよさそうだ」
逃げ出した時小刻みに、近寄って来る足音がした。
「どなた? お釜さん? お菅さん?」それは品のある声であった。
「いいえ妾は旅の者、女蝮捕りでございます。うっかり道に迷いまして」
「おやマアそれはお気の毒、野宿するより少しはまし、よろしくばお泊まりなさいまし」
束ね髪の細面、痩せた身長の高い女である。茣座を小脇に抱えているので、六文であることには疑いはないが、板戸の割れ目から射す燈火に、ぼんやり照らされて立った姿は、びっくりするほど凄艶である。
「ご親切に有難う存じます。でも、妾は、野宿の方が……」
「ホ、ホ、ホ、ホ、お前さんには、ここが怖いと見えますね。いいえ大丈夫でございますよ。女ばかりで男ッ気なし、取って食うとは申しません。それに妾が付いております。ここの束ねをするお吉がね。野宿も結構ではございますが、狼谷から狼が、襲って来たらどうなさいます」
「まあ狼がおりますので?」
「狼どころかもっと怖い、山窩だっているのでございますよ。放火と泥棒と殺人と、三つを兼ねた山窩がね」
「まあ恐ろしゅうございますこと」
と思わずお仙は顫えたものだ。
伊集院五郎が歩いている。と向こうから小娘が、途方もない大きな声を立て、何か喚きながら走って来た。
神代原と萩原との、真ん中どころの山道である。
「山窩が出たよ、山窩の野郎が、オーイ、オーイ、誰かおいでヨー、旅のお方を虐めているヨー!」
「これこれ」と伊集院は両手を拡げ、娘の行手を遮ぎった。「ちょっと聞きたい、待ってくれ、山窩が出たということだが、どの辺へ出たな、それが聞きたい」
「へえ」というとその小娘、吃驚りしたように立ち止まったが、「アイ、今日は、いいお天気、明日も晴れだよ、大丈夫。ほんとに不思議ったらありゃあしない、天気がいいと谷の水までが、笑い声を高く上げるんだものな、こいつがお前さん曇るとなると、泣き声に変るから面白いよ。西が晴れると虹が立ち、東が曇ると嵐が吹き、北に一旦雲が湧くと、大雨になるから恐ろしいよ」
「いやいや天気の話ではない、山窩のことだ、な、山窩の、どこかへ山窩が出たといったが、どの辺へ出たな、教えてくれ」
「アイ妾は一人娘さ、大事な子だということだよ、父ちゃんの名は彦兵衛さ、母ちゃんの名はお榧てんだ、浜路姉さんはいい人で、そりゃあ本当に可愛がってくれるよ」
「いやいや違う、そうではない、山窩の話だ、解らないかな?」
「道人様は偉い方さ、只で薬をくれるんだからな、そこで父ちゃんは大信仰さ、画像があるよ、道人様の。父ちゃんだけが知ってるのさ、道人様の居場所をな。でもめったに云うことではない、叱られるからさ、道人様に」
「ふうん」と伊集院それを聞くと、眼を光らせたものである。「うんそうか、お前の爺が、道人の居場所を知っているのだな。いいことを聞いた、利用してやろう。……娘々、家はどこだ?」
「おお恥かしい、おお恥かしい、そりゃあね、時にはないこともないよ、妾のようなお多福でも、チョイチョイと物好きの男があって、袖を引くことだってあるんだよ。でもね、妾はことわるのさ、厭らしいねえよしゃあがれ! で、頬っぺたを撲るのさ」
「驚いたなあ、色情狂だ。よしよしそいつは解っている、何さ、お前は別嬪だよ、どうしてなかなか隅へは置けない、別嬪別嬪素晴しいものだ。が、別嬪はよいとして、お前の家はどこなのかな?」
「狼谷には狼がいるし、盆の沢には大蛇がいるよ。妾はついぞ見掛けないが、杉の峰には天狗様が、巣食っているという事だよ。ええとそれから提灯窪には……」
「提灯ではない釣鐘でもない。家を明すが厭だったら、決して無理に聞こうとは云わない。山窩の出場所だ、教えてくれ。……それ、わずかだが、取ったり取ったり」小銭を懐中から取り出した。
「馬鹿にしているよ、六文じゃあないよ。六文買いたけりゃあ螢ヶ丘へ行きな。その代り鼻がおっこちるよ。三つばかり鼻の掛け換えがあったら、大丈夫だよ、行くがいいや。憚りながら妾はね、まだ立派な生娘さ、聾者のお六って聞いてごらん、神代原から萩原かけ、知らない人はありゃあしないよ。見ればお前は他国者だね、だから妾を知らないのさ、つんぼのお六だよ、ああつんぼのね」
萩原の方へ走り去った。後を見送った伊集院。
「あッ、そうか、つんぼだったのか?」
聾者にひっかかった伊集院五郎、苦笑いをして歩き出した。「早く気が付けばよかったのに、俺も随分智慧がないな。聾者の上にお喋舌りと来ては、いかな俺にも苦手だよ。他人の云うことは耳に入らず、自分のことだけ喋舌りまくる。なるほどなあ、いい方法だ、これで世間が暮らせたら、実際浮世は住みやすい。ところが実世界は反対だ、自分の思っている本当のことなど、一言といえども口には出せない。それでいて他人の悪い事なら、のべつに耳へはいって来る。収賄、ごまかし、弱い者いじめ! 正直に浮世を暮らそうとすれば、窒息しなければならないだろう。俺も成りたいよ、聾者にな。ところが俺は聾者にはなれない、そこでなるたけ耳をふさぎ、不言実行悪事をやるのさ。……それはそうと山窩の連中、いったいどの辺に出たのだろう?」
神代原を通り抜け、ズンズン先へ歩いていった。やがて丘となり谷となった。谷の底から青々と、一筋の煙りが上っていた。荒くれ男が五六人、そこで焚火をして話している。野太刀を横たえ弓矢を持ち、脛当てを着けているだけで、部落の人達と大差がない。兎が二三羽殺されている。彼らが射て取った獲物らしい。
「さっきの旅人、しみったれだったな、身ぐるみ剥いでわずか二両さ」
「世のセチ辛さがこれで解る、ちょっと外見は立派でも、内へはいると文なしだ」
「何さ内みが文なしだから、それで外見を飾るのさ」
穿ったことを話している。
「萩原宿へ押しかけて行き、火を掛けたら面白かろう」
「近頃酒にもありつかねえ、女っ気など嗅いでも見ねえ」
「そこで六文にも縁なしか」
「お頭も近頃は不機嫌だ」
「いっそ福島まで乗り出して行き、陣屋を襲うと面白いんだがな」
「その位のことはしてもいい、近頃山巡りの二本差しども、えこじに俺らを狩り立てやがる」
「どんなにあいつらが狩り立てたところで、俺達の居場所が解るものか」
「さあ焼けた、食ったり食ったり」
兎の肉を食い出した。満腹になるとまた雑談。──
「俺らは本来兇状持ちさ、それで人里にいられずに、お前達の仲間へはいったんだが、さて中へ一旦はいってみると、里で想像したように、暢気でもなければ自由でもねえ。お頭があって小頭があって、規則があって制裁がある。不足もあれば生活難くもある。案外娑婆と同じだなあ」向こう傷のあるのがこんな事を云った。
「だが娑婆のように小うるさくはないよ。開けっぱなしで明るくて、智慧と腕力のある奴が、智慧と腕力のあるうち中、お頭になっていられるのだからなあ。ところが裟婆はそうはいかねえ。訳の解らねえ奴が大将になり、さて一旦大将になると、遮二無二そいつに獅噛み付く。子供から孫、孫から曽孫、ずっと大将を譲り受けるんだからなあ。武士だの大名だの金持ちだの、そういう奴がみんなそうだ。そうしてそいつらはそいつらだけで、嫁取りをしたり婿取りをしたり、金を貸し合ったりお茶を飲んだり、悪いことをしては隠し合ったり、時々間違っていいことをすると、ソレ君子だ慈善家だ、ワーッと云って祭り上げたり、酷い奴になるとそいつを利用し、チョクチョク金を儲けたりする」武士あがりらしい山窩が云う。
するともう一人の若い山窩、
「元亀、天正の戦国時代から見ると、浮世は進んだということだが、いったいどこが進んだんだろう?」
「手数をかけて金をかけて、時間をかけて冗なものを作る! それが『進んだ』ということなら、今の浮世は進んでいるよ」こう云ったのは銅兵衛という山窩、「食い物で云うと早解りがする、戦国時代の食い物は、俺らの食い物と大差はない、生の獣、生の鳥、生の野菜、生の魚、せいぜい焼いて食うぐらいのものだ。ところが今日日の連中ときては、ソレお醤油、ソレお味噌、ソレお砂糖、ソレお酒、などというもので料理する。さて出来上がった食い物はというに、味はともかく滋養分がない。つまりは冗の食い物なのさ」
「お前の理屈からいく時は、進むってことはよくねえんだな?」
「そうさ、手間をかけてムダな物を作る、どう考えたってよくねえなあ」
「では何故みんな進みたがるんだろう?」
「考えが間違っているからよ」
「一人ぐらいはあるだろう、考えの間違わない人間が?」
「そりゃあ時々あるらしい、だが大勢にゃあ敵わねえ」
「へえ、どうしてだい? 教えてくんな!」
「みんなが跛を引いているのに、一人だけまともに歩いてみろ、ビッコの連中こういうだろう、『あいつの歩き方は間違っている。遊んでやるな、仲間外れにしてやれ!』仲間っ外れは嬉しくねえ、そこでビッコを引き出すのよ」
「どうしてもビッコが引けねえ時は?」
「さあ、三つの手段がある、首を括ってくたばるか、山へはいって遁がれるか、仲間っ外れを覚悟の上で、世の建て直しにとりかかるか。だが九分九厘は失敗ものだ、大概磔刑にされるだろう」
「浮世が進んで進み切ると?」
「大きな騒動が持ち上がり、コナコナに破壊れてしまうのよ」
「ワーッ、そいつあ有難くねえなあ」
「つまり何んだ、こう云った方がいい、今の浮世の連中は、コナコナになって破壊れるために、むやみに進んで行くのだとな」銅兵衛という山窩、哲学者らしい。
「破壊れたあげくはどうなるんだろう?」
「新しい奴らがやって来て、新しい浮世を作るのさ」
「どんな浮世を作るだろう?」
「今より住みいい浮世だろう」
「だが破壊れるなあ面白くねえ」
「まったくそうだ、面白くねえ、そこで俺らの仕事がある、浮世の進み過ぎた連中を、せいぜいあくどく引っ剥ごうぜ」
「何かの功徳になるのかい」
「彼奴らの眼から見る時は、俺らは『進まねえ連中』なのだ。その連中に引っ剥がれてみろ、『あッ、こいつあ進み過ぎたかな』……彼奴らだってきっと考えるだろう」
「それじゃあ俺らの追い剥ぎは、彼奴らにとっては親切な筈だが」
「あんまり大きな親切なので、それが彼奴らには解らねえのさ」銅兵衛ここで頤を撫でた。「だがそれにしてもこう不漁じゃあ、親切の乾物が出来そうだ。小判の五六枚も降らねえかな」
これはいったいどうしたことだ、そう云ったとたんヒラヒラと、五枚の小判が降って来た。
「あッ、そうか、こういうお天気には、やはり小判が降るものと見える」トボンと山窩達空を仰いだ時、一人の旅人が突っ立った。
山窩の前へ突っ立ったのは、他ならぬ伊集院五郎である。
「使える金だ、取っとけ取っとけ」焚火を隔てて坐り込んだ。
驚いたのは山窩である。まず銅兵衛がお辞儀をした。
「へえ、旦那は旅の方で? それとも天の神様で?」
「そうさなあ」と伊集院、ヘラヘラ笑いをやり出したが、「五両で神様に成れるなら、成ってやった方がよさそうだ。場合によってはもう五両出そう、そうしたら今度は何にしてくれるな?」
「閻魔様などは、いかがなもので?」
「気に入ったな、ひどく気に入った、地獄の頭は面白い、だが閻魔になったからには、赤鬼青鬼の眷族がなけりゃあ、ちょっとニラミが利かねえなあ」
「ようごす、私達が成りやしょう」
「ははあお前達が眷族になる? そいつあいい、してやろう、そこで早速ご命令だ、お前達の山塞へ案内しな!」
こいつを聞くと五人の山窩、チラリと顔を見合わせたが、にわかにドタドタと立ち上がった。
「解った解ったこの野郎、手前は役人の間者だな! その手に乗るか、途方もねえ、こう見えても裏切りはしねえ、五両ばかりのハシタ金で、山塞を明かしてたまるものか」
「プックリ懐中が膨らんでいらあ、三十や五十は持ってるらしい。ひん剥けひん剥け、ひん剥いてやれ!」
「ソーレ、親切を尽くしてやれ!」
ギラギラと野太刀を引き抜いた。ゆっくり立ち上がった伊集院、
「ほほう、たいそう勇ましいの、だがすぐ後悔するだろう、物は験だ、掛かってみな」
「何を!」と飛び込んで来た若い山窩、ザックリ肩を──切った意りだが、どうもね、うまく切れなかったらしい、余った力で前へ出た。
「ヤクザだなあ」と伊集院、足を上げると蹴仆してしまった。
「洒落た真似を!」と武士上がりの山窩、胴を目掛けて横なぐり! そうさ、こいつが定まったら、伊集院だって転がったろう。ところが伊集院転がらない。後へ退ると苦笑いをした。
「世辞にもうまいとは云えねえなあ。力はある、そいつは認める、太刀さばきは落第だぜ。鍔際をしっかり、握った握った、それから浮かすのよ、柄頭をな。解ったらもう一度切り込んで来い!」
「アレ、この野郎、詳しいなあ」
卑怯にも足を薙いで来た。ポキンという変な音! 伊集院に刀を踏み折られたのである。
「野郎!」と云うと左右から、二人の山窩が切り込んで来た。はじめて抜き合わせた伊集院、右手の野太刀を払い上げ、左手の山窩を睨み付けた。大きな眼! 鋭い眼光!
「いけねえ」と山窩、飛び退いた。
遙か下がって腕を組み、じっと見ていた山窩の銅兵衛、
「おおおお皆止めろ止めろ! こりゃあとても問題にならねえ、普通の旅の人じゃあねえ、怪我をするだけ損というものだ。それに一体のご様子が、山役人とは全然違う、俺が保証する間者じゃあねえ。何か理由がありそうだ、ねえ旦那、どういうご用で、私達の山塞が知りたいんで?」こう云って声を掛けたものである。
すると伊集院頷いたが、
「俺はな、薩州島津家の武士だ、是非ともお前達の頭に会い、折り入って頼みたいことがある、決して損のゆく話ではない。損がいくどころか儲けさしてやる。だから山塞へ案内してくれ」
「よろしゅうございます、案内しましょう、お頭もきっと喜びましょうよ……さあさあお前達刀を納め、一緒にこの方をご案内しよう」
そこで一行谷を横切り、どことも知れず立ち去ってしまった。
それから二日経った午後のこと、浜路とお六とが話しながら、神代原の方へ歩いていた。話すと云っても耳の遠いお六、口と手真似とで話さなければならない。
「六や、お父さんはいるだろうかね?」
「ああいるよ、大概いるよ」
「どうだろう、お母さんもいるだろうか?」
「金棒引きのお榧婆、いるかどうだか解りゃしねえ」
「ひどいことを云うね、お母さんのことを」
「ううん、あんな者アおっ母じゃあねえよ。慾が深くて口やかましくて、妾をちっとも可愛がらなくて、父とはいつも喧嘩ばかりしている」
「彦兵衛さんに比べると、ほんとにお榧さんは人が異うね」
「似ねえもの夫婦っていう奴だよ」お六、なかなかうまいことを云う。
お六の家を訪れるのは、浜路にとっては初めてであった。恋人宗三郎の目的が、道人探しにあると聞くや、思い出したのは彦兵衛の事、道人の住居を知っているらしい。そこで訪ねて彦兵衛から、それを聞き出そうとするのであった。
萩原からは約半里、彦兵衛の家までは遠くない。さて行って見て吃驚りした、夫婦喧嘩をしているのであった。
「毎日毎日拍手を打って、神様を拝んで何んになるだよ、神様がご褒美をくれもしめえ、亭主のお前に遊んでいられて、どうして生活が立って行くかよ、道人様は偉かろうが、金をくだすったためしはねえ、幸い一家は健康息災、薬を貰うにも及ばねえ、手を打ちたけりゃあ打つもいいが、百打つところを十にして、後は野へ出て薬草でも採り、都から入り込んだ薬草採りに、高い値で売りゃあいいじゃあないか。聞けばどうやら道人様は、とりわけよく効く薬草を栽培っているということだが、お前はお住居を知ってる筈だ、分与て貰うか盗んで来て、薬草採りに売るがいいや。すぐ大金になるじゃあないか。いったいお前道人様は、どこに住んでいるんだね? そいつを俺に聞かしておくれ、俺が行って取ってくる」こう怒鳴っているのはお榧である。
「そうガミガミ云うものでない、食って行かれればいいじゃあないか。なるほど俺は働かないが、その代りお前が働いてくれる、それでこれまでも暮らして来た、これからだって暮らせるだろう。何の、俺はこう思うのだ、お前がセッセと働くところへ、俺が出裟婆って働くと、お前にかえって悪かろう、世間様にも変なものだ。と云うのは世間様は、彦兵衛はなまけ者の神様狂人、とても問題になりゃあしない、それに比べるとお榧さんの方は、働き者の稼ぎ上手、もっとも恐ろしく慾深だが、ナーニそれだって狂人よりゃあいいと、こう相場を決めてるのだ。そいつを俺が働き出すと、せっかくの相場が狂ってしまう、どうもね、相場を狂わせるのは、世間様に対して相済まない。実際俺の働かないのは、世間様に気兼ねをしているからさ」これが彦兵衛の返事である。とまたお榧喋舌り出した。
「なにを云やがる途方もねえ、世間に気兼ねして働かねえと? 饑え死んだらどうするだア! ああ饑え死ぬとも饑え死ぬとも。こんなに貧乏なら饑え死ぬよ! 世間へ気兼ねして饑え死ぬなんて、そんな理屈ってあるものじゃあねえ。女房に働かせて遊んでいる、そんな亭主だってあるものでねえ。俺ア厭だ、俺も働かねえ、遊ぶ遊ぶ、遊んでしまう」
「よかろう」と彦兵衛おちついている。「気に入ったな、遊ぶがいい。ほんとに遊ぶっていいことだ、気がノンビリしてぼんやりして、浮世のことなんか忘れてしまう、腹が減ったら減ったまでさ、木の実木の根を食ったところで、めったに人間は死ぬものでない。また死んだっていいじゃないか、何も彼も消えてなくなってよ、サバサバとしていいだろう。だがな、俺はこう思うのだ、働かぬ働かぬと怒鳴ったところで、ナーニお前は働くよ、何んの働かないでおられるものか、お前は働くのが好きらしい、好きなことならしたがいい。そこでお前は働き出す、ところが俺は働かない。と云うのは働くのが嫌いだからさ。で全然元通りになる。だがしかしだ、そうは云っても、俺だってこれでも働いているよ。そうともそうとも神様のことでな。……お前は生活にアクセクするし、俺は神様でアクセクする、うまく出来てる、それでいい。浮世を見たってそうじゃあないか、生活にアクセクする奴と、神様にアクセクする奴と、二通りしかありゃあしない」
お榧猛然と立ち上がり、雑巾桶をひっ抱えた。「ああ云えばこう云い、こう云えばああ云う、水喰らわせるぞオ、勘弁出来ねえ!」
「ご免ください」とそのとたん、門を潜った者がある。
「誰だア!」と喚いて振り返ったお榧、「ヒャーッ、これは浜路お嬢様で!」ペタペタ板の間へ坐ってしまった。名主で名望家で金持ちで、帯刀ご免の仁右衛門の娘、浜路とあっては歯が立たない。自分の家が掃き溜なら、鶴が下りたというものである。
「毎々お六がお世話になり、有難いことでごぜえます。今日はようこそお立ち寄り、むさくるしい所でごぜえますが、マアどうぞちょっとお上がんなすって、オイお六や座布団を! と云ってもお前は聾者だったね。アッ、それに座布団もない。フッフッフッフッ貧乏でがしてな。と云うのもここにいる馬鹿亭主が、イエなに、ほんの好人物で、随分働きもありますが、悪いことには神様を、ナニサ神様も結構でがすが、拝んでばかりおりましてな、生活の足しにはなりましねえ。……それはそうとようおいで、せめてお茶でも、オヤいけない、生憎切れておりましてね、あのそれでは白湯なりと。と云って珍らしいものではなし。……それにしても今日はお暑いことで、よいお天気ではごぜえますが、何んだか降りそうでもごぜえますな。……あれ、こうしてはいられねえ。妾は忙しゅうごぜえましてな、どうぞご悠り、ハイそれでは。……薬草を取らなければなりましねえ」何をいったい云うのだろう? 鼻の頭へ汗を掻き、ピョイと外所へ飛び出した。
彦兵衛愉快そうに哄笑した。「いや面白い婆さんだ、あいつと喧嘩をしていると、退屈しなくて結構だ、めったに浮世が厭にならない。それになかなか働き者でしてな、あいつが働くので食って行けます、実は私も内心では、感謝しているのでございますよ。もっとも少々口やかましく、世間の評判は悪いようで。その代り私は大助かり、お蔭で悪口云われません。いわば私の引っ立て役で」
彦兵衛ニコニコ機嫌がよい。「だがどうも少しあの婆さん、神様が嫌いでございましてな、これとて一方から考えれば、また大変よろしいので、元来神様を信じるのは、信心しなければならないような、心に弱味があるからでしてな、まずその点から云う時は、信心深い人間は、悪人と云うことが出来ましょう。ですから自然不信心家は、善人ということになりますなあ。で信心家がこの世を去ると、本来悪人というところで、間違いなく地獄へ参ります。したがって不信心家がこの世を去れば、元々善人というところで、極楽へ行くことが出来ますなあ。これには疑いございませんよ。……それはそうとお嬢様、何かご用でもございますかな?」
「あのね」と浜路微笑したが、「お願いがあるのでございますの。小父さん諾いてくださるでしょうか」
「さあて私にお願いとは? いったいどんなことでございますな?」
「薬草道人様のお住居をね、妾お聞きに上がりましたの」
「ほほう」と云ったが彦兵衛老人、ちょっと厳粛の顔をした。「あなたがお知りになりたいので? それともどなたかに頼まれて?」
「そうよ」と浜路、卒直に、「江戸のお侍様がおいでになり、道人様をお探しし、お願い申して江戸表まで、お連れしたいということでしてね、妾の家におりますの。水戸様のご家中で山影様、よいお方でございます」
「ははあさようで、なるほどな。だがそいつは駄目でがす」彦兵衛ニベもなく首を振った。
「おや小父さん、どうしてでしょう?」
「とてもとても道人様は、江戸表へなど参りますまい、また私にしてからが、江戸などへ行かせたくはございませんなあ」
「でもね、小父さん、大変なのよ、もしどうあっても道人様が、江戸へおいでにならなければ、山影様は云うまでもなく、水戸様はじめ御三家まで、いえいえ徳川譜代大名、一統の恥辱になるそうで。そうして日本が二派に別れ、譜代大名と外様大名、戦争するかもしれないそうで」
「やれやれ途方もない大袈裟な話だ」彦兵衛ニヤニヤ笑ったが、「そういう訳なら尚さらのこと、道人様はやれませんなあ。と云うのは道人様は、仙人だからでございますよ。それ仙人というものは、高い所に坐っていて、下界の者どもを見下ろして、一人で住んでいるところに、値打ちがあろうというもので、俗界へ下りて行ったが最後、光りが薄れてしまいます。みすみす光りが薄れると知って、俗界行きを進めるのは、決してよいことではございません。まことにお嬢様はよいお方、せっかくのお頼みでございますので、是非とも道人様のお住居を、お教えしたいとは存じますが、こればっかりは、いけませんなあ」気の毒そうに云ったものである。
しかし浜路も負けていない。「そうはおっしゃっても道人様は、人助けが目的だと申しますこと、では御岳におられようと、江戸へおでかけになられようと、同じに人助けは出来ます筈、それに御岳には永らく住まれ、功徳をお果しなさいました、今はかえって江戸へ出て行かれ、一層沢山の人達へ、施療投薬なされた方が、よろしいように思われます。それもこれも万事道人様に、お目にかかって申し上げたいと、こう思うのでございます。お教えくださいまし、お住居をね」
愛する宗三郎のためである、浜路熱心に掻き口説く。
さあ彦兵衛何んと云うか?
「何んとおっしゃってもお嬢様、こればっかりはいけませんなあ」これが彦兵衛の返辞であった。
「と云うのはこの私は、いわばお弟子でございましてね、はいさようで、道人様のな、そうして止められておりますので。コレ彦兵衛、私の住居、誰に明してもいけないぞよ。……はい、このように道人様にな……弟子の身分で師匠の言葉を、裏切ることは出来ませんなあ」
こう云われて見れば浜路にしても、押して訊くことは出来なかった。しかし愛人のためである、方面を変えてカマを掛けた。
「では小父さん、そういう訳なら、詳しく聞きたいとは申しません、それではせめて方角でも。……ここのお家を中心にして、道人様のお住居は、東の方でございましょうか?」
「これはお上手、外交がな。……さあ西かも知れませんて」
「おやそれでは西なのね」
「さあ南かも知れませんて」
「ああそれでは南なのね」
「ひょっとかすると北かも知れない」
浜路なかなか悄気ようとはしない。「螢ヶ丘ではないかしら?」
「いかになんでも道人様が、六文と一緒には住みますまい」
「あのそれでは狼谷?」
「道人様が仙人でも、狼を家来にはなさるまい」
もうこうなっては駄目である。浜路俯向いて考え込んだ。さすがに彦兵衛もそれを見ると、ちょっと気の毒になったらしく、
「それはそうとお嬢様、山影とかいうお武家様、ほんとによい方でございますかな? たとえば信頼出来るような?」
「それならもうもう大丈夫!」浜路はじめて明るくなった。「人品勝れた立派な方、そうして大変ご親切で、物柔かでもございますの。キリッとしたご器量で、時々冗談もおっしゃいますが、厭らしいところはちょっともなく、あの、そうして……よいお方で」
どうしたものか彦兵衛老人、フッフッフッと含み笑いをした。「お嬢様もお年頃、そういうお方をご覧になれば、みんなよいお方に見えましょうなあ」
浜路、頬でも染めたかしら? いやいや赧くはならなかったが、それこそ火のように真っ紅になった。
「厭な小父さん」と云ったものの、大して厭でもなさそうである。
と、彦兵衛真面目になり、「お嬢様もよいお方、山影様もよいお方、そういうお方のお頼みを、むげに退けるもお気の毒、と云ってあからさまには明かされない、ほんの道順だけ申しましょう。道人様のお住居はな、螢ヶ丘の北を過ぎり、木場の屯所の南を過ぎ、七面岩の絶壁を上り、さてそれから……」
と云い出した時、今まで黙っていた聾者のお六が、突然大声で喚き出した。
「窓から、窓から、あの野郎が、妾を引っ張ったあの野郎が、ジロジロ家内を覗いているよーッ」
驚いて二人が振り返ってみると、もう人影は見えなかったが、いずれ誰かが二人の話を、立ち聞きしていたに相違ない。彦兵衛すっかり機嫌を損じ、堅く口を結んでしまった。
覗いていたのは伊集院五郎で、つんぼのお六に怒鳴られるや、横っ飛びに飛んで林へ隠れた。
「驚いたなあの娘め、耳は遠いが眼は早い、惜しいことをした、もう少しで、道人の居場所を聞き出せたものを」
伊集院五郎林の中で、腕を組んで考えた。「螢ヶ丘の北を通り、木場の屯所の南を過ぎ、七面岩の絶壁を上り……さてそれからどう行くのだろう? 是非ともこの後を聞きたいものだ」
するとこの時林の前を、萩原の方へ行く者がある。他でもない酒場の浜路。と行手から婆さんが来た。口やかましやのお榧である。
「おやおやこれはお嬢様、もうお帰りでごぜえますか、まあよろしいじゃごぜえませんか、あの萩原までめえりましてな、茶を一つまみ買って来ました。お茶を入れますだあ、お茶を入れますだあ」
「有難う」と云ったが酒場の浜路、微笑を含んだものである。「いいえそれには及びません、この次ご馳走になりましょう、彦兵衛小父さんによろしくね。さようなら」と行ってしまった。
「ふんとに綺麗なお嬢様だねえ、それになかなか愛嬌があるよ」見送って呟くお榧の前へ、ヒョイと現れたのは伊集院である。
「ご新造さん、ご新造さん」猫なで声で呼びかけた。
「ヒャッ」と云うと振り返ったが、「何かご用でごぜえますかな?」胡散臭そうに伊集院を見る。
「失礼ながらお前さんは、彦兵衛さんのお神さんで?」
「へえ、さようでごぜえます。それでは何か彦兵衛が、悪いことでも致しましたので? それならご勘弁願えますだ、根はいい人間でごぜえますが、神様狂人でごぜえましてな、それに俺とは反対に、どうもひどく口やかましくて……」
「いいえさ、何も彦兵衛さんが、悪いことなどしますものか、決してそうじゃあございませんよ。……これはほんのわずかだが」
一枚の小判を取り出した。
「差し上げましょう、お取んなすって」
「ヒャッ」というとお榧婆さん、あぶなく尻もちをつこうとした。「アーレまあこれは小判でねえか!」
「贋金ではない、使える小判」
「フエーこいつをおくんなさる?」
「さようさよう差し上げます」
「ヒャッ、お前様は福の神様かね?」
「都から来た薬草採りで」
「それで解った、こうでがしょう、俺が家に取り貯めてある、薬草が欲しいとおっしゃるので?」
「さよう」といったが声をひそめ、「実はお願いがありますのでね、というのは他でもない、彦兵衛さんを口説き落とし、薬草道人様のおり場所を、聞き出して教えてはくださるまいかな。うまくゆけば五両あげます」
「へえ、五両? ほんまかね?」
「何んで嘘を云いますものか」
お榧しばらく考えたが、「ちょうど俺も道人様の居場所を、知りてえと思っていたところ、ようがす、聞いてお知らせしましょう」
「おおさようか、それはそれは、是非お願い、なるたけ早くな」
「後金五両、たしかずらな?」
「大丈夫」と云って胸を叩いた。と、チャリンという小判の音。「アッハッハッハッ、腐るほど持ってる」
「ふんとにお前様、福の神様だあ」
二人左右に別れてしまった。
「こっちはこれでよいとして、いずれ酒場の浜路めが、彦兵衛の話を山影へ、きっと話すに相違ない。と山影め明日か明後日、道人探しに行くだろう。よし来たそこを討ち取ってやろう。味方は大勢、山窩がある」
その翌日のことである、山影宗三郎は家を出て、道人探しに発足した。
「浜路殿の話による時は、薬草道人のおり場所は、螢ヶ丘の北を過ぎ、木場の屯所の南を通り、七面岩の絶壁へ上り、それからどっちかへ行くということだが、まずともかくも七面岩まで、足を延ばしてみることにしよう」
夕立ち催いの曇天ではあったが、そんなことには驚かない。宗三郎スタスタ歩いて行く。神代原を通り抜け、螢ヶ丘の裾の辺を、木場の屯所の方へ歩いて行った。
この辺は一面の大野原で、いわゆる御岳の大斜面、灌木の叢、林や森、諸所に大岩が立っている。
慣れない山路で時間を潰し、午後の日も相当蘭けてしまった。
と、行手の岩蔭から、一人の旅人が現われた。
「山影氏、しばらくでござった」
「どなたでござるな?」と宗三郎、訝しそうに足を止めた。
笠を脱いだ旅の者、薩摩の藩士伊集院五郎。
「おっ、貴殿は伊集院氏」
「さよう」と伊集院冷やかに、「両国広小路の大蛇使い、お仙と申す美婦を中に、ちょっと鞘あてをした伊集院でござる」
「いやいやそればかりではござるまい」山影宗三郎用心をした。「小仏峠、さては甲府、または木曽の福島で、拙者に仇をしかけたは、貴殿を置いて他にはない」
「さよう、いずれも拙者でござる」伊集院五郎ニヤニヤし、「それと云うのも主君同志、柳営にての争いが、家来にまでも伝わって、怨みを重ねたというものさ」
「そうして今のところでは、拙者の方に勝ち目がある。御岳山中に古今の名医、甲斐の徳本が身を隠し、薬草道人と名を改め、居を定めているようだの」
「うむ」と伊集院詰まったが、「いやそいつはまだ解らぬ、もしも薬草道人が、事実甲斐の徳本なら、住居を突き止め叩っ切るばかりさ」
「不埓!」と宗三郎眼を怒らせた。「拙者御岳にいる限り、そういう殺生は断じてさせぬ」
「そういう貴殿のお命を、実はここで戴くつもりさ」
「まずまずそれはなりますまい」宗三郎笑ったが、「おおかたは逆に行きましょうよ、行手を邪魔する貴殿のお命こそ、拙者この場で頂戴いたす」
「ははあ、お取れになりますかな?」
「まず大概取れましょうな」
「参るぞ!」
というと伊集院、刀の鯉口を切ったものである。と、ギラリと引き抜いた。
「参るぞ!」
とこれも宗三郎、サッと刀を引き抜いた。
とその時草むらの中から、五、六人の人影が現れた。
「伊集院さん、よろしいかね」
「ナニ俺らだけで片付けますよ」
「旦那はご見物なさるがいい」
それは山窩の群であった。手に手に野太刀を持っている。
太刀を引くと飛び退り、伊集院ゲラゲラ笑い出した。「うむ、上手に料ってくれ。だがちょっと手強いぞよ。もっとも一人だ、恐れるには及ばぬ。後には俺が控えている。いよいよとなったら手を下す。用心しながら掛かるがいい」ついに山影宗三郎、伊集院の詭計にひっかかってしまった。
「しまった!」と思ったが宗三郎、逃げ出すような人間ではない。また逃げようとて逃げられもしない。背後へ廻られぬ用心に、岩を背中に楯とした。口を結び呼吸をととのえ、構えた太刀は片手上段。左手で袴の股立ちを、キリキリキリと取り上げた。
「野郎!」と叫ぶと命知らず、一人の山窩が飛び込んで来た。ザックリ一太刀、出鼻を利用し、宗三郎右肩へ切り付けた。
「ワッ」というと突んのめり、虚空を掴んだが手の指が、見る見る紫の色となり、二度ばかりうねると動かなくなった。
「強いぞ強いぞ、要心要心!」
口々に叫んだ山窩ども、ジタジタと後へ退いた。
宗三郎動かない。返り血一滴浴びていない。やんわりと握った太刀の柄、居付かぬように動かせば、大倶利伽羅広光鍛え、乱れ雑りの大業物、鉾子先から鍔際まで、傾むく夕陽に照り返り、ブ──ッと虹を吹きそうだ。
と、宗三郎飛び込んだ。「三つの先」のその一つ、「我より敵へ懸かるの手」だ、正面の山窩の右の腕を、肩の附け根から切り落とした。「ガッ」という悲鳴、そのとたんに、飛び込んで来たもう一人の山窩、野太刀を揮うを払い上げ、片膝敷くと掬い切り、五枚目の肋を三日月に、内臓深く切り込んだ。迸る血、ドッタリと、もんどり打って仆れたが、ムーと呻くとガリガリと、地面を引っ掻いたものである。
後に残った三人の山窩、ワーッと叫ぶと逃げかけたが、行手に廻った伊集院、「逃げれば切るぞ!」と一喝した。
盛り返して来た可哀そうな奴、左右同時に懸かるのを、まず右手の野太刀を抑え、頭を返すと眼を怒らせ、左の一人を睨み付けた。たじろぐところを太刀を返し、サッと浴びせて足踏みちがえ、右手の一人の胸先を、片手突きに突っ込んだ。「ヒーッ」と呻くと野太刀を落とし、宗三郎の太刀をひっ掴む。グイと引けばバラバラと、十本の指が地へ落ちた。
「オーイ! オーイ! オーイ! オーイ!」
最後に残った一人の山窩、横っ飛びに逃げながら、声を嗄らして叫んだのは、仲間を呼びに行くのだろう。
「草賊輩をけしかけて、詭計をもって討とうとは、あくまで卑怯な伊集院。薩摩隼人と云われるか! 尋常に来い、恥を知れ! さあ二人だ、もう遁がさぬ!」
山影宗三郎詈った。
「ふふん」とばかり伊集院、声を含ませて笑ったが、「卑怯ではない、兵法だ、勝ちさえすればそれでいい。一の備え二の備え、備えを立てて戦うのは、これ軍陣の常ではないか。山窩を指揮して戦うのも、いわば軍陣での備え立て! 一騎打ち勝負、何が偉い!」
「軍陣の講釈、結構結構。だが気の毒にも備えは破れた。もういけまい、可哀そうだなあ」
「そうさ、備えは破れたが、ここに大将が控えている」
「大将、首を取られるなよ」
「何を!」というと伊集院、身を沈めて引き足をしたが、小野派一刀流下段の構え、胸を突こうとするのである。
「いよいよ来るか!」と宗三郎、依然変らぬ片手上段、目差すは相手の真っ向である。左手をダラリと遊ばせて、時々小刀の柄へ掛ける。機に応じて抜くつもりだ。
山影宗三郎と伊集院、円明流と小野派一刀流、ピッタリ構えた太刀二本、距離は二間、動かない。
と、伊集院ジリジリと、足の爪先蝮をつくり、一分二分と迫り寄せて来た。益〻沈む肩の位置、柄頭を胸へ着け、左右の肘をワングリと張った。
が、宗三郎動かない。居待って討ち取る心組み、出入る呼吸を調えて、相手の変化を睨んでいる。
「オーイ、オーイ、オーイ、オーイ!」
仲間を集める山窩の声が、次第次第に遠退いて、丘の背後へ消えかかった時、忽然一つの人影が、その丘の上へ現れた。
「大変だヨーッ」とまず叫んだ。
「浜路姉さんの大事な人が、妾の袖を引っぱった、いやらしい野郎に殺されるヨーッ、誰か来ておくれヨー、大変だヨーッ」
野遊びに来たつんぼのお六、二人の切り合いを見付けたのである。
「さあこうしちゃあいられねえ、萩原へ行ってみんなに話し、加勢の衆を連れて来よう! 来ておくれヨーッ、来ておくれヨーッ」
丘を飛び下り駈け出した。
「オーイ、オーイ、オーイ、オーイ!」
仲間を集める山窩の声!
「来ておくれヨー、来ておくれヨー!」
非常を告げるお六の声!
左右にだんだん遠ざかる。
さあどっちが早く着くか? 山窩が来れば宗三郎が危うい、萩原住民が寄せて来たら、伊集院五郎は遁がれられまい。
この時気合が充ちたのであろう、沈めた肩を聳やかし、猛然と飛び込んだ伊集院、胸の真ん中、丹田の上、ガバとばかりに突っ込んだ。これが決まれば田楽ざし! と、体形斜めに揺れ、開きを作った宗三郎、相手の太刀のセメルの位置、それを目掛けてサッと下した。チャリンという太刀の音! すなわち一合、合ったのである。サッと引き退く伊集院、宗三郎も立ち直る。間二間、上段と下段、わずかに位置が移ったばかり、変化はない、また構えた。シ──ンと後は静かである。しかし充ち充ちたその殺気! それに驚いたか林から、一本龍柱が舞い上がった。鳩だ鳩だ、山鳩の群だ! 中空に伸びると、バッと割れ、円を描いて飛び散ろうとする。その真ん中に浮かんだは、生白い昼の月である。ドッと颪して来た御岳嵐、なびくは雑草、波を蜒らし、次第に拡がり、まるで海だ! 泡となって漂うのは、咲き乱れている草の花! 掻き立てられた薬草の香が、プーッと野っ原を吹き迷う。
分を盗むは尺を盗む、寸を盗むは丈を盗む、ガッシリ構えた敵に向かい、ジリジリ迫り寄せるという事は、容易なことでは出来難い。それにも関らず伊集院、爪先で地面を刻みながら、ジリジリと宗三郎へ寄せて行く。只者ではない、腕があるからだ。敵の寄り身に驚かず、悠然立っていることは、それにも勝して至難である。それにも関らず宗三郎、進まず退かず居待ち懸け、生え抜いたように立っている。
と、伊集院飛び込んだ。双手突き! 全く同じだ。振り下ろした宗三郎、チャリンと二合目の太刀の音、間髪を入れず飛び込んだが、南無三宝、木の根につまずき、ドッと仆れたと見て取るや、「しめた!」と叫んだ伊集院、真っ向から拝み打ち! あッ、やられた! と思ったとたん、倒れながらの早業である、小刀抜いて足を薙いだ。
足は薙がれたが伊集院、切られるようなヤクザではない。「うむ」というと後ろざま、気合を抜いて飛び返った。同時に起き上がった宗三郎、小刀は下段、大刀は上段、はじめて付けた天地の構え、乾坤を打して一丸とし、二刀の間に置くという、すなわち円明流必勝の手、グッと睨んだものである。
で、ふたたびジリジリと寄る。
命をまぬかれた一人の山窩、オーイ、オーイと喚きながら、谷の方へ走って行く。
と谷間から答える声!
「どうしたどうした、何か起こったのか?」二人の山窩が現れた。
「仲間がやられた、五人やられた、伊集院さんが大苦戦だ! 早くお頭へ知らせてくれ」
「ヨーシ」というと二人の山窩、
「オーイ、オーイ!」と叫びながら、谷を潜って走り出した。
と、バラバラと三人の山窩、岩の陰から現われた。
「どうしたどうした、何か起こったのか?」
「伊集院さんが大苦戦、五人仲間がやられたそうだ、早くお頭へ知らせてくれ」
「ヨーシ」というと三人の山窩、
「オーイ、オーイ」と叫びを上げ、木の間をくぐって駈け出した。
とまたもや四人の山窩、灌木の茂みから現われた。
「どうしたどうした、何か起こったのか?」
「五人の仲間がやられたそうだ、伊集院さんが苦戦だそうだ、早くお頭へ知らしてくれ」
「ヨーシ」というと四人の山窩、例によって叫びを上げながら、山の斜面を突っ走った。
これ山窩の伝令法、瞬く間に山塞まで、非常の知らせが達するだろう。
この頃お六は野の道を、萩原の方へ走っていた。
「大変だヨー、来ておくれヨー、山影様が殺されるヨーッ」
ほこりを蹴立て、小鬼のように、途方もない速力で走って行く。
この日浜路は酒場にいた。道人を探しに宗三郎と一緒に、七面岩へ行こうとしたところ、足手纒いでご迷惑であろうと、父に止められて果たさなかったのが、内心不平でならなかった。で、酒場の客を相手に、自由な話術を試みていた。
そこへ戸外から聞こえて来たのが、「大変だヨーッ」という声であった。
「六ちゃんじゃアないか、どうしたんだろう?」
ちょっと聞き耳を引き立てた。
「山影さんが殺されるヨーッ、みんなみんな来ておくれヨーッ」
「え!」と浜路立ち上がった。
飛び込んで来たつんぼのお六、やにわに浜路に飛び付くと、「妾の袖を引っ張った、いやらしい野郎が螢ヶ丘の裾で、山影さんと切り合っているヨーッ、姉さん姉さん浜路姉さん、早く早く早くおいでヨーッ」
歓楽の酒場が一瞬にして、混乱の庭と変ったのは、まさに当然というべきだろう。
「さあ皆さん来てください! 浜路に続いて来てください! お父様! お父様! 大変です! ……六や、馬を厩からね! それから鞭を! 刀の方がいいよ!」
そこへ現れたのは仁右衛門である。「槍を持って来い! それから馬!」
浜路と仁右衛門を先頭に立て、ドッと一同押し出した。棍棒、竹槍、鍬、脇差し、手に手に得物をひっさげて、その数およそ五六十人、萩原街道を走る走る。
此方伊集院と宗三郎、黄昏近い野に立って、十数合太刀を混えたが、互いに薄手を負ったばかり、まだどっちも斃れない。だが伊集院大分弱った。両腕の筋が釣ろうとする。自然心が焦って来る。吐く呼吸あらく「寄り身の手」膝を掻こうと飛び込んだ。待ち構えていた宗三郎、円明流の「剣踏み」わざと切らせに飛び向かい、左剣で払って右剣で肩、振り下ろそうとしたとたん、丘にあたって鬨の声、ハッと思った眼を掠め、一筋の征矢が飛んで来た。一足退いて眼をやれば、丘の頂きに三四十人、タラタラと並んだ人影がある。
と、進み出た一人の巨漢、
「伊集院さん、引きなせえ、助けに来やした、矢襖に掛け、水戸っぽを討って取りやしょう!」
山窩の頭領多羅尾将監、先祖は蒲生氏郷の家臣、半弓にかけては手利きである。
「頼む」と叫ぶと伊集院、数間の後ろへ引き退いた。
「やっつけろ!」と喚く将監の声! ピューッと数条の征矢が飛んだ。山窩め、手に手に弓を引き、宗三郎を討ち取ろうとする。
「あッ、しまった、飛び道具か!」驚きはしたものの恐れはしない、傍らの立ち木を楯にとると、宗三郎は身を隠した。弦音高く射出す征矢、呻りをなして飛んで来るが、たかが山窩の手練である、身近に逼るものはない。ただし将監が射出したなら、相当危険といわざるを得まい。
果然将監狙いをつけた。竹林派の押し手弓、キリキリキリと引き絞り、満を持して放たない。と活然たる弦返りの音、弓籠手に中って響いたが、既に発たれていたのであった。
掛け声もなく宗三郎、横に払って矢を切った。間髪を入れずもう一本、面上をのぞんで飛んで来る奴を、小刀を上げて上へ刎ねた。三本目が股へ来る。キワドク飛んで辛く遁がれる。いつか宗三郎立ち木を離れ、全身を敵にさらしてしまった。
見て取った将監合図をした。と降りかかる十数本の征矢! 山窩の群が放したのである。
「もういけない!」と宗三郎、観念の眼をつむったが、天祐天祐中らない。
サッと飛び返り宗三郎、立ち木を楯にまた構えた。
「これ、水戸っぽ!」と多羅尾将監、大音声に呼ばわったが、丘をスルスルと中腹まで下り、
「今度こそ許さぬ、四本目の征矢! 受けたが最後、往生だ!」
キリキリキリと引き絞った。間は近い、将監も必死、放された矢は外れても、宗三郎の全身は、またも立ち木を離れるだろう、そこを目掛けて射かけようと、山窩の群は射手を揃え、鳴りをしずめて待っていた。
が、その時蹄の音! つづいて上った鬨の声! 馬上の浜路を真っ先に、五六十人の萩原住民、サーッと丘へのっ立てて来た。
「山窩だ山窩だ! 追っ払ってしまえ!」
「何を百姓! 料理ってしまえ!」
両軍ドッとぶつかった。元が侍の萩原仁右衛門、槍を揮って突き伏せる。
「山影様、山影様!」血走った声を上げながら、浜路は馬を縦横にあおる。
もう弓は役立たない。野太刀を抜いた山窩の群、人殺しには慣れている、敏捷に飛び廻って切り立てる。
なだれ落ちる両軍勢! ムラムラと野原へ散開した。武士ではないが萩原住民、気象は武士に劣らない。「一人も遁がすな! 一人も遁がすな!」飛び込んでは叩き伏せる。
だが宗三郎はどうしたのだろう? どこにも姿が見えないではないか。
山影宗三郎はどうしたかというに、伊集院と山窩を相手にして、大岩の蔭で戦っていた。グルリを囲繞いた数人の山窩、その中には将監もいた。敢て半弓ばかりでなく、多羅尾将監は鍾巻流の使い手、どうしてどうして馬鹿には出来ない。
「さあ水戸っぽ、くたばってしまえ!」──鍾巻流の小手返し、柳生流では「車返し」太刀をグルリと巻き返し、切っ先のぶかに切り込んだ。
左剣で払った宗三郎、右剣を飛ばせたがそこを狙い、横から飛び込んだ伊集院に、邪魔をされてきまらない。で、ツツ──と後へ引いた。
「さあ野郎ども一度にかかれ!」将監の声に山窩ども、いわゆる乱刃に切り込んで来た。次第次第に宗三郎、受け太刀となって後へ退る。
二人の強敵、他に山窩、いかに宗三郎が達人でも、以前に五人を切っている、その上矢襖に引っかけられ、充分に精根を疲労らせている、あぶないあぶない命があぶない!
大岩に隠されているために、仁右衛門にも浜路にも解らない。
夕陽がすっかり山に落ち、宵闇が次第に逼って来た。ワッワッという叫喚の声! 悲鳴、怒号、仆れる音! 萩原住民と山窩とは、切り合い攻め合っているらしい。
宗三郎は切り立てられ、呼吸も逼り、筋も釣り、眼の前がチラチラ踊るようになった。
「右を打て! 左へ切り込め! 足を払え! 足を払え!」多羅尾将監が声を掛ける。
背後へ廻った伊集院、狙いすまして双手突き、宗三郎の腰のつがい、そこを目掛けて突っ込もうとした時、ドド、ドド、ドッと鉄砲の音、山谷に響いて鳴り渡った。
俄然形勢は一変した。
「山役人だア! 山役人だア!」山窩達は周章て出した。文字通り蜘蛛の子を散らすように、八方に向かって逃げ出した。
多羅尾将監も伊集院も、もちろん逃げたに相違ない。萩原住民も引き上げたらしい。修羅場が一時にひっそりとなった。ころがっているのは死骸である。呻いているのは手負いである。
と、また響き渡る鉄砲の音、丘の彼方から聞こえて来た。数十人の山役人が山窩出現と聞き知って、山窩狩りに来たのに相違ない。
「ワーッ」という鬨の声! それも漸次遠ざかる。山窩を追って行くのであろう。またも響き渡る鉄砲の音! だが遙かに隔たっている。
シ──ンと後は絶対の静寂!
宗三郎はどうしたろう? どうなったか解らない。
雲切れがして星が出た。
と、唄い声が聞こえて来た。
「恋しいお方はおりませぬ」
組紐のお仙だ、お仙の声だ。
人影がポッツリ現れた。
「怖かったこと怖かったこと! ド──ンと鉄砲の音がして、沢山の人が逃げてったよ。戦争でもあったんじゃアないのかしら? アラ何んだろう? 人が寝ているよ! アッ、死骸だ! まあ気味が悪い! おやここにも! おやここにも! 厭だねえ、恐ろしいわ! 逃げよう逃げよう早く逃げよう!」
大岩の方へ走って来た。と死骸へつまずいた。
「いやだねえ、また死骸だよ」
雲切れがして月が出た。
「アラ!」と叫ぶと組紐のお仙、死骸の傍へベッタリと坐った。
「山影さんだヨーッ、宗さんだヨーッ」
確り抱きかかえたものである。
「山影さんだヨ……、宗さんだヨ……」こう叫んだ組紐のお仙、ひしと宗三郎を抱きかかえた。これは悲しいに相違ない。
江戸から遙々追って来て、邂逅ってみれば死骸である。病気ではない切り死にだ。こういう憂き目に会うほどなら、江戸にいた方がよかったろう。
「ああ妾はどうしよう?」洩らした言葉はこれである。「諦められないヨ……、諦められないヨー」誰にともなく叫んだが、驚きが余りに大きかったためか、涙というものが出て来ない。
お仙、ボーッとしてしまった。
少し心が静まるに連れ、はじめて涙がこみ上げて来た。クッ、クッ、クッ、クッと咽喉が鳴る。咽び泣きの声が洩れたのである。
「……ああやっぱり前兆だった。螢ヶ丘のお吉さんの所で、昨日まで遊んで暮らしていたが、今朝から何んとなく胸が躍り、どうしてもじっとしていられないので、萩原の方へでも行ってみよう、何んだか宗さんに逢えそうだ、こう思って出て来たんだが、逢いは逢ったが死んじまったヨー」またもお仙むせび上げた。「でもうっちゃっては置かれない、鳶や烏の餌食になる。……葬ってあげなければならないんだが、厭だ厭だ葬るなんて! ……妾も死のう、死んだ方がいい! ……」お仙ヒョロヒョロと立ち上がったが、またベッタリと坐ってしまった。「宗さんと一緒に死ぬのなら、死ぬ張り合いだってあるけれど、一緒に死のうと約束もせず、妾に黙って死んでしまった後で、一人死ぬなんて寂しいねえ。……せっかく死んであげた後で、冥土で宗さんに邂逅って、コレ、馬鹿者、なぜ死んだ、などと叱られたら詰まらないねえ。……でも宗さんがいないのなら、生きていたって仕方がない。江戸へ帰って両国へ出て、蛇を使ってお鳥目を貰い、派手な肩衣でよそおって、暮らしたところでどうなるんだろう。厭だわねえ、死んだ方がいいよ」
お仙じいいっと考え込んだ。
「生き返らないものかしら? ほんのちょっとでいいのにねえ。ポッカリ眼をあけてニッと笑って、おおお仙かよく来てくれた、こんな浮世は面白くねえ、オイ機嫌よく一緒に死のう。──一言こう云ってくだされたら、妾ア笑って死ぬのにねえ。……宗さん! 宗さん! 宗さん」と、お仙狂わしく呼び立てた。戦いの後の野の静寂! びょうびょうと吹くは風である。
「どう思ったって仕方がない、葬ってあげよう、土を掘って。……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。……お仙はこんなに泣いています、成仏なすってくださいまし、妾の涙がお顔へかかって……おお冷たいと覚しめしたら、どうぞね、ちょっと眼をあけて、……駄目だ駄目だ、死んでいらっしゃる」
またじいいっと考え込む。
「もろいわねえ、人の命は。……まるで何も彼も夢のようだよ。……去年の夏だよ、忘れもしない、女太夫を呼んでみよう、ほんの猪牙がかりに妾を呼ばれ、涼みの船で逢ったのが、二人の縁のつながりで、妾の方で血道を上げ、追っかけ廻すと恐いかのように、宗さんの方では逃げ廻ったが、あの頃はピンピンたっしゃだったのに、今じゃア身動きさえなさらない。……やっぱり生きていて逃げ廻られた方が、こんなに死んで身動きもせず、妾の自由になっているより、どんなにどんなにいいかしれない。……生きてくださいよ! 逃げ廻ってくださいよ!」
またしっかり抱きかかえた。
「生きてくださいよ! 逃げ廻ってくださいよ!」
しっかり抱えてゆすぶった時、肌のぬくみが感ぜられ、胸の動悸が感ぜられた。死んだのではない、気絶しているのだ。
お仙、手を拍って飛び上がった。
「アラ、アラ、アラ、アラ、生きてるヨーッ」
さあさあお仙夢中である。
「はいはい有難う存じます! 神様、お礼を申します。おお嬉しい、おお嬉しい、嬉しくて妾は気が違いそうだ!」ベッタリ坐ると闇に向かい、誰にともなくお辞儀をした。
「さあこうしてはいられない! 担いで行こう担いで行こう、螢ヶ丘へ、お吉さんの所へ」
で、宗三郎を抱き上げた。重い重い随分重い。で、グタグタとくず折れた。そこでまたもやしっかりと抱き、顔へ見入ったものである。
「おやおやおや、笑っていらっしゃるよ。お仙お前は親切だねえ、何だかこう云っているようだよ。……どこかに水はないかしら? 谷へ行こう、谷川へ。そうして水を汲んで来よう。あッ、しまった、汲むものがない! あったあった手拭いが! これへたっぷり湿して来て、キューッと口へ注ぎ込んであげよう。……そうすると宗さん眼をあけて、お仙、命の恩人だぞよ、江戸へ帰って夫婦になろう! きっとおっしゃるに相違ない! ……水! 水! 水! 谷川谷川……! でも何だか心配だわねえ。妾の行ったその留守に、誰かさらって行くかもしれない! あッ山窩! あッ狼! 食われてしまう、食われてしまう! 駄目駄目駄目、駄目だわよ。……やっぱりそうだ背負って行こう。……」そこでお仙宗三郎を背負った。「おお重いおお重い、恋の重荷を肩にかけ、嬉しいわねえ、重い方がいいわ」
二三間歩いたその時であった、丘の方からカバカバと、蹄の音が聞こえて来た。つづいて血走った女の声、
「山影様! 山影様! 浜路でございます!」
浜路、探しに来たらしい。
「どこにおいででございます! 浜路さがしに参りました! 山影様! 山影様!」
サ──ッと丘から駆け下りて来た。
驚いたのはお仙である。丈のびた草間へ身を隠し、じっと様子をうかがった。
「誰だろう? いったい、浜路って? あんなに宗さんを探しているよ! 女の声だよ、馬鹿にしているよ! 山影様、山影様、甘ったるい声をしやがって。……ははあ解った。この辺の、薄穢い浮気な女だろう? きっと宗さんに惚れてるんだろう! 畜生畜生、どうしてくれよう! 黙っていよう黙っていよう。勝手にいくらでも探すがいい! 取られてたまるか、ばか女め」
で、かたくなって隠れている。
馬上の浜路は夢中であった。馬を縦横に走らせて、新戦場を探し廻る。
「浜路でございます、山影様! ああ本当にどうしよう、山窩を追って丘を越して、思わず遠くまで行ってしまったが、気が附いてみると山影様がいない! それで探しに来たんだが、ああどこにもいらっしゃらない。……山影様! 山影様! ……切り死になすったのではあるまいが……あんな山窩の奴ばらに、とりこにされたのではあるまいが……ああ心配だ心配だ! あッここに死骸がある」
馬から下りると調べ出す。
「違う違う、おお安心! 山窩の死骸だ! ……いい気味だ! ……あッ、ここにも死骸がある。あっちにもこっちにも、あっちにもこっちにも。死骸だらけだ、厭らしいねえ。……これも違う、これも違う! まあよかった、山影様ではない」
いちいち死骸を検査した。
だんだん大岩の方へ寄って行く。
それらしい山影の死骸はない。
ふたたび馬に乗った酒場の浜路、
「山影様! 山影様!」恋と恐怖、それから悲哀、声を絞って呼び立てた。
「酒場の浜路でございます! 返辞をなすってくださいまし! 萩原の浜路でございます! 返辞をなすってくださいまし!」
サ──ッと一方へ走って行く。サ──ッと反対の方へ走って行く。空が曇って月が隠れ、大野っ原は闇である。闇を一層黒くして、前後左右へ駈け巡る。
「山影様! 山影様」
お仙のいる方へ走って来た。
呼吸を殺した組紐のお仙、畚から蝮を掴み出し、目付けられたら用捨はしない、投げ付けてやろうとひっ構えた。
蝮をひっ構えた組紐のお仙。
「目付けて声でも掛けてみろ、蝮を投げて食い付かせてやる!」
幸か不幸か酒場の浜路、目付け出すことが出来なかった。馬をあおって遠退いて行く。
「山影様! どこにおられます」馬の蹄も呼び声も次第次第に遠ざかった。丘の背後へ行ったらしい、全く声が聞こえなくなった。
ホッと安心した組紐のお仙、
「態ア見やがれ、いい気味だ! 御岳あたりの山女に横取りされてたまるものか、お仙が附いてるよ、お仙がね。山川越えて大江戸から、追っかけて来たのを知らないのか! ……ああよかった、大丈夫! もう宗さんは妾のものだ。……さあさあ宗さん、お起きなさいまし。……オヤオヤやっぱりおねんねネ、……でもいいわ、その方が。……何んて自由になるんだろう? 穏しいわねえ、おお可愛い。……だんだん動悸が高くなり、肌のぬくみも増して来た。死にっこはない、大丈夫。……さあさあ背負って行きましょう」
女ながらも一生懸命、重い宗三郎を背中に負い、よろめきよろめき組紐のお仙、螢ヶ丘の方へ辿って行く。一間行っては息を入れ、一町歩いては一休み、だんだん目的地へ辿って行く。
間もなく姿が消えてしまった。
またも駈け来る蹄の音! 浜路が引っ返して来たらしい。馬上姿が現れた。
「どうでもこの辺にいなければならない、もう一度死骸を探してみよう」
ヒラリ馬から飛び下りた。
「これも違う、これも違う」
またもや死骸を調べ出した。宗三郎のおる筈がない。浜路とうとう泣きくずれた。
「妾は死にたい、死んでしまいたい! 山影様! 山影様! ……ああああどこにおられるのだろう? でも死骸がないからには、討ち取られたとは思われない。きっとどこかに怪我をされて、仆れていなさるに相違ない。それとも山窩の山塞へ? いやいやいやいやそんな筈はない。……ではどこかの人家にでも?」
ここでじいいっと考え込んだ。
「御岳は愚か、木曽一円、日本の国中探しても……目付けて見せる! 目付けてみせる!」
可哀そうな可哀そうな浜路である。恋人山影宗三郎を、横取りされたとは気が付かない。
と、立ち上がったが元気なく、馬に乗るさえ力がない。
「山影様!」とまたも未練、呼んだものの答えはない。丘を巡って萩原街道、家へ帰ろうとした時である、ボツボツと降り出した大粒の雨、やがてザ──ッと降って来た。神山を穢した人間の血を、洗い清めようとするらしい。
「降るがいいよ、うんと降れ、体も心も濡れるといいよ、冷しておくれよ、胸の火をね」
馬上にうなだれ足を運ぶ。と、行手から数人の人影、忍びやかに歩いて来る。
「山影さん?」と酒場の浜路、思わず声を掛けてみた。
「や、阿魔だ! お転婆娘だ!」
味方の死骸を収めようと、山窩の一群が来たのである。
「それ遁がすな、からめとれ!」
「しまった!」と叫んだが酒場の浜路、鐙を蹴ると大駈けに、敵の只中へ飛び込んだ。
鐙を蹴ると大駈けに、敵中へ飛び込んだ酒場の浜路、御岳の山骨で慣らした馬術、手綱さばきは荒々しいが、自から叶う渦紋駈け! 正面の山窩を駈け仆し、悲鳴を後に数間飛び、グルリ手綱を右手絞り、右へ廻るとまた大駈け、サッとふたたび駈け入った。バラバラと散る山窩の群、
「払え、払え、脚を払え!」馬足を目掛けて太刀を揮う。
「見やがれ!」と叫ぶと一躍し、浜路左手へ駈け抜ける。
「遁がすな、遁がすな!」とムラムラ寄る。
そこを目掛けて引っ返し、馬の平首に頬をあて、右手で揮う小脇差し、一文字に駈け抜ける。またも悲鳴、バタバタと、山窩が一、二人仆れたらしい。
五間あまり駈け抜けたが、左手で手綱をグーッと絞る。連れてグルリと馬が廻る。気合をこめると八重襷──大坪流での小柴隠れ、体を斜めに片足の鐙、浮かせたままで駈け通る。
「ソレ、叩き落とせ、叩き落とせ!」
野太刀を揮う山窩の胸もと、鐙で蹴って仆れた上を、馬足に掛けるとまたも悲鳴、背後に聞いて十間飛ぶ、ここで初めて一休み、背伸びをすると長目の呼吸、さすがに流れる膏汗、眼へ入れまいと首を振るとたんに切れた髻に、丈なす髪が顔へかかる。
「ソレ、引っ包め、引っ包め!」
執念深い山窩の群、円陣を描いて押し寄せる。
「まだ来る気か!」と叫んだが、浜路またもや馬を煽り、誘き寄せようと円陣の中を、ダクを踏むように歩ませた。それとも知らず四方から、追い逼まって来たのを充分逼まらせ、両鐙の大煽り、馬の前脚宙に上げ、カッパと下ろすとまたまた悲鳴! 山窩一人を駈け仆し、余勢で駈け出す馬をさばかず、トッ駛って円陣を突破した。
あくまでも執念深い山窩である。またも四方から寄せて来た。しかし浜路の馬術には、怯え切っている彼らである、追い逼まろうとはしなかった。
「追っかけるなら追っかけるがいいよ」浜路、悠々と打たせて行く。灌木の茂みまで来た時である。突然ヤッという声がして、黒い人影が飛び出した。棒で馬の脚を払ったらしい。嘶くと共に棹に立ち、続いて前のめりにぶっ仆れた。不意の伏勢、意外の襲撃、馬上の浜路モンドリを打ち、ドッとばかりに転がったのは、また止むを得ないことであった。
「しめた!」「捕えろ!」「お転婆め!」山窩バラバラと走り寄った。
「畜生、畜生!」と酒場の浜路、立ち上がって刀を振り廻したが、馬から放れては敵うべくもない、押さえられて担がれた。
「それ山塞へ連れて行け!」「素的な獲物だ、素晴らしい土産だ!」
ヨイショヨイショと走り出した。
「誰か来てくださいヨー、助けてくださいヨー」
浜路、助けを呼んだけれど、萩原までは道が遠い。野は広く人気がない。木精が返って来るばかりだ。
と、その時、森の中から、レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク、轍の音が聞こえて来た。ポッツリ火光の浮かんだのは、松火の火に相違ない。
「お渡りでござる! お渡りでござる!」
清らかに澄み切った童子の声、銀鈴のように響き渡った。薬草道人現われたのである。
森から現れた道人の一行、真っ先に立ったは一人の童子、磨いた珠のような美男である。手に持ったは一本の松火、闇を開いて燃え上がる。後に続いたは四十年輩、片眼片耳しかも跛者。この上もない醜男で、薬剤車を曳いている。車の形は長方形、箱車で無数の引き出しが箱の左右についている。箱の頂きには土が盛られ、そこに植えられた十本の薬草、花開いて黄金色、向日葵のような形であったが、ユラユラと風に靡いている。側らに引き添った一老人、すなわち薬草道人で腰ノビノビと身長高く、鳳眼鷲鼻白髯白髪、身には襤褸を纒っているが、火光に映じて錦のようだ、白檀の杖を片手に突き、土を踏む足は跣足である。さてその後に引き添ったは、他ならぬ彦兵衛老人で、頭巾、袖無し、平素のままだ。尚タラタラと続くものは、狼に猿に兎の群。頭上に円を描きながら、低く翔けるは梟である。道人の肩に停まったは、眼を病んでいる白烏。……人畜鳥類の一行列、粛として進んで来る。
気を奪われた山窩の群、無智の者だけに迷信深く、且つは薬草道人の、あらたかの噂も聞いていた、浜路を地上へ舁き下ろすと、額を地に付け土下座をした。
と、差しかかった道人の一行、ピタリと止まったものである。
「小父様!」と叫ぶと酒場の浜路、彦兵衛の袖へ縋りついた。
「おお、浜路様……どうなされた?」
「ハイ、悪者の山窩達が……」
「うむ」というて彦兵衛の眼が、威厳をもって輝いた。「誘拐そうとしましたかな」
「どうぞお助けくださいまし」
「ご安心なされ、大丈夫!」彦兵衛小腰をかがめたが、「道人様へ申し上げます、萩原部落の仁右衛門の娘、浜路と申してよい娘ご、お目をおかけくださいますよう」
すると道人微笑したが、「ああさようか、浜路さんで、よいご器量、健康そうでもある。私はなこの山の乞食坊主、決して恐れるには及ばぬ。それはそうと浜路さん、どうやらお怪我をしたらしいの」まことに飄乎たる物腰である。
「はい、アノ、あちこち擦傷を……」
「それはいけない、大いにいけない、擦傷から大事になる、膏薬、膏薬、膏薬をお張り。……彦兵衛さんや、出しておあげ」
「かしこまりましてございます」彦兵衛手早く箱車から、幾個かの膏薬を取り出した。「浜路様戴きなされ」
「はい」と浜路、押し戴く。
「なんのなんの、それには及ばぬ、安物だからの大変に安い。それだけで実費一文かな。只の薬草を摘んで来て、でっち上げた膏薬でな。ハイハイ戴くには及びません。が浮世のお医者さんは、大変高いお鳥目で、薬を売るということだの、サーテネ、いったい何故だろう? ……もっとも噂による時は、高くお鳥目を取らないと、名医に見えないということだが、あるいはそれはそうかもしれない。だがどうやら名医に限り、むやみと人を殺すようだなあ。研究のため、研究のため、さようさようこう云ってな。……まあまあ殺す方はよかろうが、殺される方はよくあるまい。人間みんな生きたいからなあ」道人すこぶる能弁である。「それはそうと彦兵衛さんや、そこに大変お行儀よく、土下座をしている男衆は、どういう身分のお方かな? みんな立派な体をして、強そうなご様子をしているが?」
道人、山窩達へ眼をやった。
道人に見られて山窩達、ブルブル肩を顫わせた。
進み出たのは彦兵衛老人。「道人様へ申し上げます。これこそ御岳の山中に巣食い、放火強盗殺人をする、憎むべき山窩達にございます」
すると道人首を傾げたが、「ははあ名高い山窩さん達で。大変善人だということだが」
「これはどうもとんでもないことで。悪人ばらでございます」
「何んの何んの彦兵衛さん、この人達は善人ですよ。……と云うのは弱い人達だからで」
「いや、いずれも剛健で」
「体ではない、心のことだ」
「心が弱いとおっしゃいますと?」
彦兵衛トホンと眼を見張った。
「境遇に負ける人間は、つまり心が弱いからで、どうもね、浮世は暮らしにくいらしい。まともに暮らすと損をするらしい。そこで止むを得ず悪いことをして、面白い暮らしをしようとする。つまり境遇に負けたんだね。ほんとに強い人間は、境遇の方を押し負かしてしまう。……ああこれこれ、山窩さん達よ、何も怖がるには及ばない、頭をお上げ、頭をお上げ。だが!」という道人の声、俄然厳しい調子となった。「だがこれ汝ら覚えて置けよ、いつも善事ばかりをするものではない! いや不断に悪事をしい! 歯を食いしばって世に向かえ! 強くなれ、強くなれ、世に負けるな!」急に機嫌よく笑い出した。
「と云うと何んだかこの私が、大変偉らそうな人間に見えるが、いやいやひどいヤクザ者でな大隠市に隠れずに、小隠山林に隠れている者で、もっともソロソロ宗旨を変え、ボツボツ賑やかな町の方へ出かけて行くかもしれないがな。……それはそうと善人さんや、可愛い可愛い娘さんなどに、手向かいしてはなりませんぞ。ここにおられる浜路さんを、萩原のお家まで送っておあげ、善人さんだもの、送るともさ。私は信じる。送る送る。それとも……」とまたも叱咜するように、「私の命令に背いたが最後、雷霆汝らを打ち殺すぞよ!」
グッと睨むと背を伸ばした。その一瞬間道人の姿、無限に高く思われて、空を貫くかと感じられた。
篠つく雨もいつか止み、満天に懸かったは星である。星天上にあって以来、幾億年を経ただろう? しかしこのような光景を、照らしたことはないだろう! 兇悪の山窩、可愛い娘、美玉の童子、無数の鳥獣、信心深い老人と、車を曳いている片輪者、その真ん中に突っ立ったは、人にして神、すなわち神人! 乞食にして哲学者、名医にして社会改良家!
「個人に罪なし、浮世が悪い」ふと道人は呟いた。「おおそうそう」と憂わしそうに、「切り合いがあったという事だの。死んだ者は仕方がない。怪我人だけは助けずばなるまい。膏薬膏薬、彦兵衛さんや、山窩さん達に膏薬をおやり。まだ何んだか喋舌りたいが、夜も深い、止めだ止めだ。そうして何んだ、実際のところ、喋舌る奴に限って実行しない。で、あんまり喋舌らぬがいい。……もうよかろう、さあさあ出発」
「お渡り!」
という童子の声! レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク! 薬剤車が軋り出し、人間鳥獣の一行列、粛々として動き出した。
「ハイハイ、おさらば、ハイおさらば」
道人気軽に歩を運ぶ。
次第に遠退く松火の火。「お渡り!」とまたも童子の声! レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク! 轍の軋りも遠のいてゆく。
レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク、轍の音は尚きこえる。
後を見送った浜路と山窩、眼に涙を宿している。丘を巡ったか松火が消えて轍の音も消えた時、はじめて山窩達は立ち上がった。
「さあさあ酒場の浜路さん、馬にお乗りなさいまし。萩原までお送りいたしましょう」山窩、叮嚀に云ったものである。
「はい有難う存じます。それでは送っていただきましょう」浜路も素直にこういうと、ユラリと馬に跨った。
今までの敵が味方となり、星空の下、雨に濡れた野を、萩原の方へ歩ませた。
と、行手から無数の提灯、大勢の者が走って来た。萩原部落の連中が、浜路を探しに来たらしい。もう送って貰う必要はない、そこで浜路は山窩達と別れ、馬をそっちへ走らせた。
後へ引っ返した山窩の群、にわかに相談をやり出した。
「この商売がイヤになった。俺らは裟婆へ行こうと思う」「そうだなア、それがいい。では俺らも行くとしよう」「もう悪いことは止めようぜ」「お互いマトモに働こうよ」「では山塞へは帰らずに、このまま里へ出て行こう」「それがいいそれがいい、一緒に行こう」
で山窩達は山を下った。薬草道人の感化である。偉人の片言というものは、くだらねえ奴らの百万言より、どんなに身に沁むか解らない。山を下った山窩達、いずれ人の世で善いことをして、立身出世をしただろう。
さてその時から五日経つ。ここは螢ヶ丘六文の巣窟、そこの束ねをするお吉の部屋。──
その床の上に寝ているのは、他ならぬ山影宗三郎である。蒼褪めてはいるが元気である。幾ヵ所か薄手は負っていたが、面倒な深手は一ヵ所もない。しかしまだまだ歩かれない。で、止むを得ず寝ているのである。
組紐のお仙が枕もとにいる。
「今日はいかが? ご気分は?」お仙、顔を覗き込んだ。
「有難う、大分いい。今度は厄介になったなあ」宗三郎、微笑した。
「少しは有難いとお思いになって?」お仙、ニヤニヤ笑いながら云う。
「有難いような有難くないような、何んだかちょっと変なものだよ」宗三郎冷淡である。
「驚いたわね、どうしてでしょう?」
「助けてくれたのがお前でなければ、俺はお礼を云うのだがな」
「変な云い廻しね、どういう意味でしょう?」
「うっかり俺が礼を云うと、そこへお前は付け込んで、口説くだろうと思うからさ」
「お手の筋よ」と組紐のお仙、面白そうに笑ったが、「相変らずの宗さんね。そういうところが大好きさ。ズバズバ云うところが千両よ。……でもねえ」と、ちょっと感傷的になり、「妾泣いたのよ、あなたのために。そうして云ったわ、南無阿弥陀仏って、だって死んだと思ったんですもの。土を掘ってお葬式をして、妾も死のうと思ったのよ。……ね、妾のそういう心持ち、可哀そうだとは思わなくって?」
「どうもいけない、そんな事を云っても、お前にちっとも似合わないよ。それよりやっぱり蛇を使い、『蝮占い、今度こそ本芸』などと云った方がよく似合う。……そうさなア、俺にしても、どうやらお前に助けられるより、土をかけられた方がよかったようだ」一向コダワラずにズバズバ云う。
どんなにズバズバ云われても、それがお仙には嬉しいのである。宗三郎と一緒にいられる、それだけでお仙は満足なのである。
「それはそうとオイお仙、何んと思って江戸を立って、こんな山の中へ来たのだい?」すこし真面目に宗三郎は訊いた。「俺がこの地へ来たことは、一切秘密になっている筈だ」
「ええそれはね」と云ったものの、お仙ちょっとマゴツイた。「あるお方に聞きましたの。あなたが何かご用を持って、木曽へおでかけになったってね」
「いったい誰だ、話した奴は?」
「云ってしまおう、伊集院さんですよ」
「ああなるほど、あいつだったか。いかにもあいつなら知っている筈だ」こうは云ったが宗三郎、いささか不思議そうに眼をひそめた。「それにしてもおかしいなあ、彼奴にとってはこの俺は、いわば恋の敵じゃアないか。俺の行く先を明かすどころか、ひし隠す方が本当だ。何んと云ってお前に話したのだ?」
「主命を帯びて山影さん、木曽をさしておいでになる。いつ帰るとも解らない。旅費をやるから追っかけて行け。とっ掴まえたら放すなよ。江戸へ無理にも連れ戻せ。こうおっしゃって五十両、おくんなすったのでございますよ」
「ははあ」と山影宗三郎、それを聞くと頷いた。「それで読めた、うむこうだ、卑怯な伊集院お前を利用し、俺に逢わせて色仕掛け、薬草道人を探し出す前に、江戸へ帰そうと計ったのだ。その手に乗るか、馬鹿な奴め! ほほうそれでは五十両、伊集院から取ったのだな?」
「旅用がなければ木曽へ行けず、木曽へ行けなければお逢い出来ず、あなたに済まないとは思いましたが……」お仙ここでオロオロする。
「では本当に取ったのか?」
「取りは取りましたが手は附けず……あなたが返せとおっしゃるなら、いつでも返してしまいます」
「馬鹿を云え、勿体ない話だ。何んで返してたまるものか。機会があったらもっとアクドク、眼を廻すほどひっ剥いでやれ。由来薩摩っぽはケチなものだ。五十両の小判、惜しかったろうなあ。アッハッハッハッいい気味だ。金は取られるわ、女は取られるわ、その女はドロを吐くわ、彼奴の計画これでメチャメチャ。万事世の中こういきてえなあ。……だがな、お仙、云って置くが、俺は江戸へは帰らないよ」
「ええ」と云ったが組紐のお仙、ここでじっと考え込んだ。「浜路さんがいるからでございましょう」
「え?」とこれには宗三郎、度胆を抜かれた格好である。「どうして知ってる、そんな人を?」
「知っている訳がございます」
「驚いたなあ、これには驚いた」
「たんとお驚きなさいまし」
「ナニ、そんなにも驚かない。だがどうも驚いたなあ」
「お気の毒さまでございます」
「気の毒がられる覚えはない。だが……」と云うと眼を閉じた。
その顔を見詰めたお仙の眼に、ありありと嫉妬の浮かんだのは、大蛇使いという商売がら、物凄まじく思われた。
と、眼を開けた宗三郎、お仙の顔を眺めたが、「お仙、正直に云って置こう。浜路というのは水戸家の旧臣、今は萩原の名主役、仁右衛門という人の娘ごだ。たいへん活溌で別嬪だ。そうして俺に親切だ。俺の方でも好いている。しかし……」と云うと宗三郎、にわかに厳粛の顔をした。大事を明かそうとするらしい。
厳粛になった宗三郎、じっとお仙を見詰めるようにしたが、
「しかし、うむ、しかしだな、そのため俺は大事な主命を、おろそかにするようなことはしない。俺は恋を封じている。封ぜざるを得ないからだ。ところで主命とはどんなことかというに、一口に云えば簡単だ。この御岳の山中に、薬草道人と云われる方が、身を隠して住んでおられる。その方を江戸までお連れする。ただそれだけだ、他にはない。で真っ先に知りたいのは、道人様のお住居だ。ところがなかなかわからない。そこで仁右衛門殿も浜路殿も、骨を折って目付けておられる。一方ならぬ努力でな……さてところで浜路殿が、道人様のおり場所を、目付けてくだされたその上で、俺と一緒にでもなりたいというなら、無下に断りを云うことは出来ぬ。俺にとっては恩人だからさ。……ついてはお前にも頼みがある。せっかく御岳まで来たことだ、一肌脱いで道人様を、ひとつ探してはくれまいかな。先にお前がさがし出したら、お前と夫婦になろうじゃアないか。と云うと何んだかこの俺は、恋をもてあそんでいるようだが、考えようによれば恋というもの、もてあそび物に過ぎないとも云える。いわば命がけの遊びなのさ。だがマアそんな詰まらねえ理屈は、ここでは一切抜くとして、ひとつそういう約束にしよう。お前が勝つか浜路殿が勝つか、懸賞の品はこの俺だ。と云うと今度はこの俺が、鼻持ちのならない自惚家の、押売り色男に見えるかもしれない。だがまたそう思ってもよさそうだな。江戸からはお前が追っかけて来る、萩原では浜路殿が好いてくれる、そうしてどうやらもう一人ぐらいは……」隣り部屋を仕切った古襖へ、チラリと横目を走らせたが、皮肉な笑みを眼に寄せた。「……と云う訳でいつの間にか、色男に出世をさせてくれたよ。そうなると今度はその色男を、活用させる必要がある。だが本来は俺という人間、こだわる事が嫌いなのだ。ところが浮世は妙なもので、こだわるまいとしたが最後、四方八方からこだわらせようとする。よろしいそれではこだわってやれと、こういうことにもなろうというものさ。そこで大いにこだわるぜ。色男、色男、色男、俺は素的もねえ色男だ。で、その色男が欲しかったら、道人様を探すがいい」
真面目の調子がいつの間にか、不真面目の調子に変ったが、しかしそういう不真面目の中にも、一脈の真面目さがこもっていた。
熱心に聞いていた組紐のお仙、深く頷いたものである。「山影様よく解りました。そういう訳なら今日が日にも、御岳の山中を駈け巡り、ちょうど商売も蝮捕り、岩や大木にからみ付いても、道人様のお住居を、きっとさがしてお目にかけます。その時になって厭だなどと、よもやおっしゃりはしますまいね?」
「俺を信じろ、大丈夫だ」
「でもあなたと妾とでは、身分が異うではございませんか」
「そうさ、お前の方が身分がいい」
「まあ何をおっしゃるやら?」お仙キョトンと眼を丸くする。
「お前は芸で食っている、ところが俺というものは、先祖の武功というような、変梃なもので食っている。こいつは問題にならないな。お前の方が身分がいい」
お仙には理屈は解らなかったが、力強く思われた。「それでは妾、これからすぐ!」
蝮捕り姿で飛び出して行ったが、それと引き違いに襖があき、六文のお吉が現れた。
隣室から現れた六文のお吉、宗三郎の枕もとへ、ニッと笑うとベッタリと坐った。
「只今のお話隣り部屋で、面白くお聞きいたしました。ついてはいかがでございましょう、道人探しの競争の中へ、妾をお加えくださいますまいか」まず切り出したものである。
「これは」と云うと宗三郎、さっき浮かべたと同じような、苦笑を眼の中へ浮かべたが、「まことに結構でございますな。どうぞお探しくださいますよう」
「萩原部落の浜路様は、この地にお住まいなされても、上流のお方で事情にはうとく、お仙様の方は土地不案内、それに反してこの妾は、この地に永らく住んでいるばかりか、下等な下等な商売がら、どこへでも出向いて参りまして、知らない所とてはございません。おそらく妾が真っ先に、薬草道人様お住居を、突き止めることでございましょう。さて妾が突き止めたとして、山影様にはこの妾を、女房にお持ちでございましょうか? 浜路様は名門の娘ご、またお仙様は芸人でも、江戸で名高い女太夫、立派な方々でございます。それに比べるとこの妾は、邪淫地獄の女獄卒、いかにサバケたあなた様でも、お手控えなさるでございましょうね」
「いや」と宗三郎、恬淡に、「お望みならば一緒になりましょう」
「承わればあなた様には、水戸様ご家臣と申しますこと、そういう立派なお武家様が……」
「さようさ、両刀たばさんで、武士として浮世で暮らそうとすれば、見得外聞も入りましょうな。が両刀を捨ててしまえば、そんなことは何んでもござらぬ」
「え、マア、それではあなた様は……」
「道人さがしに成功し、重任を果たしたその上は、両刀サラリと捨てる気でござった。でもし浜路殿と連れ添うようなら、萩原部落へ腰をおちつけ、酒場の繁昌を計りますな。もしまたお仙と連れ添うようなら、早速習って拍子木叩き、幕の引きっぷり口上の述べ方、首尾よく務めて幕内となり、それで食って行きますな」
「でもし妾と連れ添うようなら?」
「螢ヶ丘へ住居して、あなた方六文の親方となり……」
「繁昌させてくださいますか?」
「さようさよう繁昌させます」
「では、真実あなた様には、もしも妾が道人様の、おいでなさる所を突き止めたなら、夫婦になってくださいますのね」たしかめるように訊いたものである。
「ご念には及ばぬ、夫婦になりましょう」
「ではもうあなた様は妾の物、どこへもやることではございません」
こう云うとお吉ニジリ寄った。
「道人様のお住居を、存じているのでございますよ。お話ししましょう、お聞きくださいまし」
はたしてお吉知っているのであろうか?
道人の住居を知っている! こう云われて山影宗三郎、思わず床の上へ起き上がった。
「お吉殿本当かな?」飛びつくような声である。
「なんの嘘を申しましょう、こういう次第でございます」六文のお吉話し出した。「妾どもはこういう商売、病気勝ちでございます。しかし沢山お鳥目は取れず、ことには近くに医者もなく、病気になるとなったまま、うっちゃって置かなければなりません。それが大変可哀そうだと云って、道人様には一月ごとに、わざわざここまでおいでくだされ、色々お薬をくだされたり、療治をしてくださるのでございます。そうしてある時妾を呼ばれ、このようにおっしゃいましてございます、『お前達は本当に可哀そうなものだ、あらゆる女の苦しみを、一人で背負っているようなものだ。そこで俺はお前達のためなら、どんなにも力を尽くしてやる。しかし俺は忙しい、薬草を養ったり、薬を製したり、山中の患者を見舞わなければならない。でせいぜい螢ヶ丘へは、月に一度しか来られないだろう。気の毒だが仕方がない。ついては住居を教えて置く。急病人でも出来た際には、遠慮はいらない知らせて来い、すぐに出かけて診てやろう』──で、その時道人様は、住居を明かされたのでございます。もっともこのようにおっしゃいました『決して人に話すなよ、浮世の暇人というものは、弥次馬根性が盛んで困る。俺の住居を知ったが最後、続々詰めかけて来るだろう。つまり何んだ、見物にさ。そうして愚問をしかけては、大事の暇を潰すだろう。これほどうるさい事はない、で俺は面会謝絶だ。未知の人間には決して逢わない。逢って徳をしたタメシがない、で改めて云って置く、俺の住居を話すなよ』──でもあなたのおためなら、道人様のお言葉に背き、道人様のお住居を、お話し致したってかまいません」
これを聞くや山影宗三郎、傷の痛みも打ち忘れ、スルスルと前へ膝を進めた。
「お教えくだされ、お吉殿! 是非に是非に、お願い致す。どこでござるな、お住居は?」
「七面岩の絶壁を上ると、大森林がございますそうで、森に取り巻かれて小さな湖水、周囲半里もございますとか、その真ん中に小島があり、そこに奇妙な建物があり、そこにお住居だそうでございます」
山影宗三郎突っ立った。と、痛みでヨロヨロとなる。刀を突くとよっかかった。
「すぐに参る! 山駕籠を! そうして駕籠舁き! お雇いくだされ!」
するとお吉、声をかけた。「さあみんな出ておいでよ!」──と、隣室からバタバタと、五六人の六文がはいって来た。
隣室からはいって来た五六人の六文、
「姐さん何かご用ですかね?」
「ああ」とお吉頤をしゃくり、「木場の屯所へ飛んで行き、山駕籠を一丁借りておいで。ついでに頑丈な駕籠舁きをね。と云っても本物はいないだろう、馴染みの男を連れて来な」
名に負う束ねをするお吉の命令、瞬間に行われ、一丁の山駕籠と四人の杣夫、木場の屯所からやって来た。
「さあさあお前達もお供をしな。妾も行くのだ、おいでおいで」
駕籠に乗った宗三郎、七面岩の方へ走らせた。お吉をはじめ十数人の六文、後を慕って追っかける。ちょっと変った光景である。
やがて木場の屯所まで来た。立ち並んでいる無数の長屋、材木に不自由をしないところから、木口だけは素晴らしい。しかし大厦高楼ではない。セイの低い平家建て、数え切れないほどの材木が、あるいは立てかけられ、あるいは積まれ、または雑然と投げ出されている。立ち働いているのは杣夫であり、監督をしているのは武士である。
そこを走って行く駕籠一丁、それを追っかけて行く私娼の群!
「ヨーッ」と杣夫達が嬉しがってしまった。
「見や見や、素的もねえ行列だ」
一人が叫べばもう一人、
「お吉が行くぜ! 大将のお吉が!」
「駕籠にいるのは誰だろう?」
一人の杣夫が不思議そうに云う。
「いったいどこへ行くのだろう?」
するとお吉が手で招いた。
「七面岩へ上るのだよ! 皆さん手つだいに来ておくれよ! 険しい険しい七面岩、女だけでは上れそうもない。さあさあ手つだいに来ておくれよ」
「お吉が呼んでる、行こう行こう!」
で、杣夫が十二三人、駕籠の後を追っかけた。
「あっ痛い! 爪を剥がした!」
石につまずいたかお紺という六文、足の指を抑えて縮んでしまった。駕籠はドンドン走って行く。
「おお痛い! おお痛い!」
渋面を作っているところへ、ピョイと一つの人影が、灌木の蔭から飛び出した。アテなしに道人を探しに出た、蝮捕り姿の組紐のお仙、
「おや、お紺さんどうしました?」こういいながらも不思議そうに、行き過ぎた駕籠を見送った。
「ああお前さんはお仙さんだね、痛くて仕方がない、爪を剥がしてね。……これというのもお前さんのセイだよ」
「何を云うのさ、お紺さん。どうして妾のセイなんだろう?」
「そうともそうともお前さんのセイさ、宗さんなんていういい男を、妾達の所へ連れて来たので、お吉さんがすっかり岡惚れしてね、山駕籠に乗せてたった今、道人様のお住居の方へ、妾達まで供に連れ、案内して行ったというものさ。そこで石につまずいて、生爪を剥がしたというものさ。お前さんのセイだよ、お前さんのセイだよ」
仰天したのはお仙である。
「え! それじゃあお吉さんが……道人様のお住居へ……妾の大事な宗さんを! ……畜生! 畜生!」
と喚くと一緒に、お紺の腕を引っ掴んだ。
「ワーッ、痛え! 何をするんだヨーッ」
「知ってるだろうね? お前さんも! 道人様のお住居をさ! 話せ話せ! さあ話せ!」
道人様の住居を云え! こう高飛車にお仙に云われ、お紺という六文腹を立てた。
「何を云うんだい居候め! 江戸あたりからフラフラ来て、俺達の所におりながら、何を偉らそうにほざくんだい! 云わねえ云わねえ、知っていても云わねえ!」
こいつを聞くと組紐のお仙、やにわに畚から蝮を出した。
「ようしどうしても云わないね、さあさあ蝮だ、食い付かせるよ! 腕にしようか、首にしようか、それとも頬っぺたに食い付かせようか! ちょっと毒歯がさわったが最後、一日の中にお前の体、膨れ上ってくたばるよ。それが恐かったらお話しお話し!」
「ワッ」というと六文のお紺、顔色を変えて顫え出した。「云うよ云うよ、お仙さん。蝮ばかりは勘忍しておくれ! 見ただけでも総毛立つよ」
「ではお云い! さあさあお云い!」
「あのね、よくは知らないが、隣りの部屋で聞いていたら、七面岩の上へのぼると、森があって湖水があり、湖水の中に島があり、その島に奇妙な建物があり、そこが道人様のお住居だと、こうお吉さんが云っていたよ」
「ああそうかい、それは有難う」お仙しばらく考えたが、「これから後を追っかけても、もしかすると追っつかないかもしれない。ねえお紺さん、近道はないの?」
「近道はあるがとてもとても、そっちから廻っては行けないよ。と云うのは行く道に、ウジャウジャ長虫の住んでいる、盆の沢という所があるからさ」
「長虫?」というと面白そうに、組紐のお仙笑い出した。「妾の商売は大蛇使い、何んの長虫が恐いものか」
「ああなるほど、そうだったね。では近道を教えてあげよう、……ここから真っ直ぐに北へ行くと、千疋という谷川さ。それをさかのぼると盆の沢、そこを突っ切ると一本松、太い松の木が生えてるのさ。そこから東へ坂道を上れば、七面岩の上へ出ると、木場の人達が云っていたよ。普通の道に比べると、三分の一だということだよ」
「どうも有難う」と組紐のお仙、北へ向かって走り出した。
「お吉さんより先廻りをし、どうでも道人様のお住居を、突き止めなければ女が廃れる、いやいやそれより宗さんを、他の人に取られてしまう! それこそ泣くにも泣かれない。江戸から追って来た甲斐もない」
ドンドンドンドン走って行く。はたして一筋の谷川があった。でそいつを遡った。間もなく洞然たる沢へ出た。いかにも大蛇でもいるらしい、陰湿とした沢である。巨大な杉が仆れている。草が一丈も延びている。腐木腐葉で地面が蔽われ、踏む足ごとにズボズボとはいる。空を遮っている樹木の葉! 日の光さえ通さない。生ぐさい匂い、気味の悪い物音、サラサラサラサラと風が渡るようだ。しかしそれは風ではない。無数の蛇が草を分け、八方に向かって逃げるのである。
と、行手の坂道に、巨大な老松が立っていた。「あれがそうだろう、一本松!」お仙そっちへ走って行った。
坂をドンドン上って行く。次第に坂が嶮しくなる。しかしお仙休もうとさえしない。
上り切った所に大密林! と、林の遙か奥から、銀箔のようなものが光ってみえた。
「湖水に相違ない! 湖水に相違ない!」
行きついて見ればはたして湖水! 耳を澄ましたが人気がない。お吉よりも先に着いたのであった。
湖畔に立った組紐のお仙、ズッと湖水の様子を見た。周囲半里の湖水である。池と云ったほうがよいかもしれない。空の蒼さをそっくりそのまま、地上へ持って来たような水の色! まわりを森林がかこっている。漣一つ立っていない。澄み切った人間の眼のようだ。周囲の森林を睫毛とし、眼で云えば黒目、湖水の中央、そこに小島が浮かんでいた。黒い岩組で出来ている所が、いよいよ黒目を想わせる。その黒目の真ん中所、すなわち瞳にあたる位置に、奇形な建物が立っていた。赤い屋根、黄色い壁、青い窓、白い礎、おトギバナシの中へ現れて来る、魔法使のお爺さんでも、住んでいそうな家である。支那風と云えば支那風とも云え、紅毛風と云えば紅毛風とも云える。しかし一番適切の言葉は、独創的建物という言葉である。いかにも薬草道人という変り者の住みそうな家である。
「どうぞしてあそこへ行ってみたいものだ」
あたりを見るとこれは幸い、乗りすてられた舟がある。それもきわめて古風な舟で、舟縁に彫刻が施してある。真鍮の金具、青羅紗の薄縁、やはり非常に独創的である。薬草道人の使用舟であろう。
喜んで飛び乗った組紐のお仙、櫂を取って漕ぎ出した。と一筋水脈を引き、舟はスーッと進んで行く。水禽がハタハタと舞い上がる。しかし決して逃げるのではない。舟の側へ集まって来るのである。陸に遠ざかるに従って、だんだん島が近づいて来る。微風の中に籠っているのは、香水のような薬草の香だ。
と、舟は島へ着いた。石の階段が出来ている。階段には蒼い苔。それを踏んで上へのぼった。間もなくお仙家の前へ立った。何んと美しい花園であろう! まるで虹でも敷いたように、家を輪取って群れ咲いている。見も知らない花である。日にむかって顔を上げている。その花の間に遊んでいるのは、七面鳥や孔雀である。子を引き連れた雷鳥や、純白の雉も遊んでいる。かつて危害を加えられなかったためか、お仙を見ても驚こうともせず、足もとへピョンピョン飛んで来た。
「可愛いことね、おお可愛い」
お仙思わず呟いたが、心がにわかに恍惚となり、一時に俗念が消えてしまった。見れば一条の小径がある。家の玄関に通っている。そこを辿って玄関へ行き、
「ご免ください」と声をかけた。森閑として返事がない。戸を押すと自然に開き、一つの部屋が現われた。まことに風変りの部屋である。部屋の四方に窓があり、日光が酒のように流れ込んでいる。円卓が一つ、椅子が二つ、その他には何にもない。そうして一人も人がいない。と、正面に戸口があった。大変無作法とは思ったが、お仙は隣室へ行ってみた。そこはほとんど真っ暗であった。ただ正面の一所に、焔が花弁のようにもえ上がっていた。シンシンという釜鳴りの音! 炉があって釜がかかっている。強烈な薬の匂いがした。製薬室に相違ない。やはり人はいなかった。前房へ帰って来た組紐のお仙、横手の戸口から外へ出た。とそこは廻廊で、別の建物に通じている。
と、廻廊の行手から、子供の歌声が聞こえて来た。
「松下童児ニ問ウ、云ウ師ハ薬ヲ採リ去ルト、只此山中ニ在ラン、雲深クシテ処ヲ知ラズ」渓流のように澄み切った、響きの高い声であった。すぐ行手から唐子姿の、八九歳の童子が現れた。
詩を吟じながら現れた童子、お仙を見ると眼を瞶った。
「これはこれはお客様で、いつの間においででございましたな」ひどく早熟た調子である。大人のような言葉つきである。しかし容貌は美しくあどけなくてまさしく子供だ。
「はい」とお仙まごまごしたが、「たった今参りましてございます。あの、お言葉をかけましたけれど、ご返辞がないので上がって参りました」
「なるほど、それは早速でよろしい。で、何かご用でも?」
「はい、是非とも道人様に、お逢いしたいと存じまして」
「それは大変お気の毒で」いよいよ早熟た調子である、「お留守でございますよ、道人様はね」
「ああさようでございますか。どちらへ参られたのでございましょう?」
「雲深クシテ処ヲ知ラズ、とんとその辺わかりませんなあ」
「いつごろお帰りでございましょう?」
「山中暦日無シ、いつ帰られるか解りませんなあ」童子きわめてソッケない。
「おやおやさようでございますか」お仙いささか失望したが、しかし本来の目的が、薬草道人に逢うことではなく、住居を突き止めることだったので、失望の程度は少なかった。
「それではお暇いたします」お仙丁寧に辞儀をした。
「お帰りかな、お愛想のないことで。せっかくのおいで、ただも帰されぬ。薬でも少しお持ちなされ」
「はい有難う存じます」
「どんな薬がよろしいかな?」
「戴けますなら金創の薬を」
「よろしゅうござる、ちょっとお待ち」
製薬室へはいったかと思うと、すぐに童子引き返して来た。手に黄袋を持っている。
「さあさあ膏薬、お持ちなされ」
「有難う存じます、いただきます」
玄関を出ると薬草の庭、鳥どもが足もとへ集まって来た。
「いいわねえ」と組紐のお仙、しばらく庭をさまよった。「こんな所に住んでいたら、身も心もキレイになり、生きながら仙人になれるかもしれない」
廻廊の方から聞こえるのは、例の童子の歌声である。
「重巌ニ我卜居ス、鳥道人跡ヲ絶ツ、庭際何ノ有ル所ゾ、白雲幽石ヲ抱ク」
リーンと響くいい声だ。
「茲ニ住シテ凡ソ幾年、屡バ春冬ノ易ルヲ見ル寄語ス鐘鼎家、虚名定ンデ益無ラン」
翁寂びた声でもある。八九歳の童子が歌っているとは、想像もつかない声である。
ケン、ケン、ケンと雉が啼き、ク、ク、クと七面鳥が啼く、仙はいまさねど仙いますが如く、頭の下がるような光景である。
また舟に乗った組紐のお仙、湖水を岸の方へ漕ぎ返した。
岸へ着いたおりからである、森林の奥から人声がし、山駕籠を取り巻いた一行が、やがて姿を現した。それと見て取るや組紐のお仙、清らかになった心持ちが、嫉妬と反感にひっくり返った。
舟から飛び上がると叫んだものである。
「お気の毒さま、お吉さん、妾の方が一足早く道人様のお住居を、突き止めることが出来ました。山影様、山影様、でも薬草道人様は、只今お留守でございます。そうしていつ頃帰られるやら、解らないそうでございます」
薬草道人の湖上の住居、そこへお仙が入り込んだ日の、ちょうど払暁のことであった。一里も下ったら福島へ出よう、そういう地点の林の中に、薬草道人は休んでいた。
やおら立ち上がるとお別れの言葉──
「さあさあいよいよお別れだ。鳥さんも獣さんもお帰りお帰り。それでも本当によく送ってくれた、だがもうこれからは人里だ。あぶないあぶない、お帰りお帰り。しかしだ、よいかな、お前達、わしがお山にいないといって、乱暴をしてはいけないよ。どこにいようとわしの眼には、お前達のやることがみんな解る。で、穏しく暮らさなければいけない。これこれ狼さん狼さん、むやみと人なぞへ喰い付くなよ。そうして何んだ、兎さんなぞを、追っかけ廻してはいけないよ。ええとそれから鳥さんだ、やたらと木なぞつつかないがよい。木の実はよろしい、木の実をお食べ。そうして大いに唄うがいい。……さあさあみんなお帰りお帰り」
すると送って来た鳥獣の群は、道人の言葉が解ったかのように、兎はピョンピョンと後足で刎ね、狼は尻尾を背に巻き上げ、鳥どもは空へ輪を描き、元気よく山の方へ引っ返した。後を見送った薬草道人、機嫌よくホクホク笑ったが、
「俺に助けられた連中だ。鳥や獣にだって病気はある。病気になれば誰だって悲しい。助けられると恩に感じる。人間よりはもっと感じる。実際どうも人間ほど、忘恩の徒はないからなあ。それにさ、鳥や獣の方が、人間よりは物解りがいい。眼の色ひとつ、啼き声ひとつ、それで感情を現わしたり、ひとの感情を察したりする。つまり何んだね、卒直だからだね。ところが人間は喋舌り過ぎる。余計なことまで云うものだから、つい中心を取り外してしまう。で結局自分で云っている事が、自分にも解らないということになる。そこで大いに解ろうとして、いろいろ本などを読んだりする。読めば読むほど解らなくなる。そりゃあ解らない方が本当さ。解らない人間の書いた本を、解らない人間が読むんだからなあ。で、本なんか読まないがよろしい。本を読むような暇があったら、自分の踏んでいる足もとを、じっと睨み付けているがいい。すると自分が解ってくる。しかしあんまり解りすぎてもいけない。あんまり自分が解り過ぎると、生きていることが厭になるだろう。つまり何んだ、生きるということは、解らない自分を解ろうとして、もがいているということだからなあ。が、お談義は止めとして、彦兵衛さんや」と呼びかけた。
「はい」というと彦兵衛老人、慇懃に草へ手をついた。
「いよいよお前さんともお別れだよ。もっともそのうち帰っては来る。厭になったら三日で帰る。だが目下の考えでは、一年ぐらいは遊んで来る。今から思うと失敗だったよ。御岳山中に薬草あり万病に利くなんて云わなかったら、こうまでお山がガタピシと、物騒がしくならなかったんだろうに。少し宣伝が大袈裟だったよ。そこで俺は逃げ出すのさ。自分の叫び声に吃驚りして、自分で逃げ出すというわけさ。そこでお前さんに頼みがある。俺の留守中俺の住居へ行き、薬草の手入れをしておくれ、もっとも兎丸がいるのだから、園の廃れる気遣いはないが、あの子一人では手が廻るまい」
「かしこまりましてございます。毎日参ることに致しましょう。ええと、ところで道人様には、どの方面へおでかけで?」彦兵衛恭しく訊いたものである。
どの方面へ行くかと聞かれ、薬草道人気が附いた。「さようさ、どっちへ行こうかな?」それからちょっと考えたが、「つまり何んだ、どこへ行ってもいいのだ。寂しい山中にいたのだから、賑やかな町の方へ行こうと思う。そうして何んだ遊び方々、俺は手製の膏薬を、雨降らせてやろうと思うのだ。つまり日本の国中を、膏薬だらけにするんだなあ。……まず真っ先に福島へ行く。さてそれから中仙道を、名古屋の方へでも行くとしよう」
「お別れ惜しゅうございますな」彦兵衛老人寂しそうにした。「私もお供を致したいもので」
「莫迦を云わっしゃい、彦兵衛さん。お榧さんやお六さんをどうする気だね」
「へい、さようでございますな。ああいう係累のある以上、お供は出来そうもございませんな」
「私にしてからが大勢はいけない。大名行列という奴は、山師の看板と同じだからなあ。猪十郎さんと紅丸さん、眼を病んでいる白烏さん、三人のお供で充分だ。ではいよいよお別れとしよう猪十郎さんや、車をお引き」
すると童子の紅丸が、「お渡り!」といさぎよい声を掛けた。
「これこれ紅さん、それはお止め! そういう物しい掛け声は、当分封ずることにしよう。平凡で行こう。下等で行こう。その方がいい。それに限る。高等がると下等に見え、下等で行くと高等に見える。下等下等これに限る。ただし高等に見られようとして、下等がってはいけないなあ。流れるままの下等で行こう。さあそれでは行こう行こう。はいオサラバ、彦兵衛さんや」
「ご機嫌ようおいでなさりませ」
「アイアイ有難う有難う」
跛者で醜貌の猪十郎、薬草車を引き出した。美童の紅丸後押しをする。車に添って薬草道人、飄々乎として歩いて行く。肩の上の白烏、車の上の十本の薬草、緑の長茎、その頂きに、黄金色の花を捧げている。車が進むに従って、ユラユラ揺れて陽を反射し、宙に浮かんだ王冠である、明るい林、虎斑を置くは、葉漏れ木漏れの朝陽である。そこを縦横に飛ぶ小鳥! 筬が飛白を織るようだ。
レキレキレキ、ロクロクロク! 麓をさして下って行く。薬草道人旅行の発端、新規の事件の湧き起こる、その前提の静けさである。
さてこの頃、恋人を取られた、酒場の浜路はどうしていたか?
つまらない真っ暗な顔をして、酒場の片隅に腰かけていた。
探しても探しても目付からない、恋人宗三郎の俤が、眼の前に立って離れない。
あの夜以来今日まで、父仁右衛門と手分けをし、山中隈なく探したのであったが、宗三郎の姿は目付からなかった。よもや江戸からお仙という、恋の競争者が追っかけて来て、恋人を横取りして螢ヶ丘、六文の巣窟へ連れ込んだとは、想像することは出来なかった。切られて死んで谷へ落ち、川の底へ沈んだか、山窩の山塞へ連れて行かれたか、それとも御岳に愛想をつかし、江戸へ帰ってしまったか、想像の範囲は三つであった。
「どっちにしても妾は悲しい」
胸が痛くなり、眼が熱くなり、ボッと見るものが霞んで見えた。純な少女の初恋が、涙となって曇らせるのである。
ちょうどその日の午後のこと、珍らしい客がはいって来た。
「おや」と云って浜路立ち上がった。
「おや」と浜路が云ったのは、彦兵衛がはいって来たからであった。
「小父さん珍らしいじゃあありませんか」浜路立ち上がって側へ行った。
「さようさ、私は神様狂人、こういう所へは来たことはないが、今日は用があって寄りましたよ」彦兵衛空樽へ腰を下ろした。「と云うのは他でもない、お嬢さんの尋ねる道人様、今日お山を出ましたのでね、それでお知らせに上がりました」
「え?」と浜路びっくりした。「どちらへおいでになりましたので?」
「福島へ出て中仙道、名古屋の方へ行かれるそうで。麓までお見送りをして参りました。へいさようで、たった今ね」
浜路驚いて胸を反らせた。
「山影様がおいでだったら、どんなに喜ばれることでしょう。こんな時においでにならないとは! 知らせてあげたい、知らせてあげたい!」
「ほほうそれでは山影さんは、どちらかへお出かけなされたので?」
「行衛が知れないのでございますの」浜路彦兵衛へ取り縋った。「あの晩以来、ええあの晩! 妾はじめて道人様へ、お目にかかったあの晩以来、お行衛が知れないのでございますの」
「ははあなるほど、それは残念、ではよくよく道人様とは、ご縁がないというわけですなあ」
彦兵衛いかにも気の毒そうに、浜路の顔を見たものである。「で、もちろんさがされたでしょうな?」
「ええええそれこそ御岳一円、手を尽くしてさがしましたが、おいでにならないのでございます」
「不吉不吉、ひょっとかすると、兇暴な山窩の奴ばらに……」
「小父さん!」と浜路手を合わせた。「どうぞ占なってくださいまし! ご神託を伺ってくださいまし」
「これはもっとも! 伺いましょう!」
床へ跪くと彦兵衛老人、眼を閉じ首をうな垂れた。息を呑んだ酒場の浜路。自分も床へ跪き、彦兵衛の様子を窺った。一時シーンと静かになる。と、彦兵衛眼を開けた。
「これはお嬢様、大丈夫で!」
「おおそれでは山影様は、ご無事でおいで遊ばすので?」
「無事も無事、すぐ逢えます」
「おお浜路さん、居場所が解った!」飛び込んで来たのは杣夫であった。「お前さんの目付けているお武家様、六文どもに送られて、山駕籠に乗って七面岩の方へ、さっき走って行きましたぜ!」
「有難う!」というと飛び上がった。「中った中った! ご神託が!」
「神様をお信じなさりませ!」
が、浜路にはそれどころではない、厩へ駈け込むと馬を引き出し、ヒラリと乗ると一鞭あてた。サーッと街道を走らせる。螢ヶ丘の裾を通り、木場の屯所を向こうへ越し、やがて目差す七面岩! と、一丁の山駕籠が、六文や杣夫に守られて、七面岩から下りて来た。
つと駈け寄った酒場の浜路、ヒラリと下りると、
「山影様!」
「や、これは浜路殿!」宗三郎眼を上げた。
「道人様には今日の朝、下山されたと申します! 福島から中仙道、名古屋へ参るそうでございます!」
駕籠を飛び出た宗三郎、浜路の馬に跨った。
「馬拝借! 福島まで!」傷の痛みなど問題でない。乗ったて乗ったて見えなくなった。
後に残った三人の女、浜路にお仙にそうしてお吉、茫然として見送ったが、これは一捫着起こらなければなるまい。
走り去った宗三郎、後を見送った三人の女、しばらく茫然としていたが、気が付くと互いに眼を見合わせた。つと進み出たはお仙である。
「失礼ながらあなた様は萩原の浜路様でございますか?」
「はい」と云うと胡散らしく、浜路お仙の顔を見た。「あのそうしてあなた様は?」
「おそらくご存知ではございますまい、江戸は両国の女太夫、大蛇使いの組紐のお仙、宗三郎様の後を追い、御岳へ来たものでございます」
「まあ」という酒場の浜路、眼を瞶ったものである。
「そうして」とお仙云いつづけた。「螢ヶ丘の戦いの時、ようやく宗三郎様を見付け出し、ここにおられるお吉様の、お住居へご案内申し上げ、今日までご介抱致しましたもの。その際あなた様のお噂を、承わりましてございます。こう申してはお気の毒、角が立つかもしれませんが、たしかあなた様におかれても、どうやら山影宗三郎様に、焦がれておいで遊ばすとのこと。がそれは駄目でございます。お手をお引きなさりませ。というのは宗三郎様と、お約束をしたからでございます。薬草道人様のお住居を、誰であろうと早く目付け、早くお知らせした方が、宗三郎様と一緒になる! はい、このようにお約束をね。そうして妾が真っ先に、お住居を見付けましてございます。で、自然宗三郎様は、妾のものでございます」
「いえいえそれは違いましょう」こう云ったのはお吉である。「なるほどあなたが真っ先に、お住居はお目付けなされたものの、最初に山影宗三郎様へ、正しい道順とあり場所とを、お知らせしたのはこのお吉、したがって山影宗三郎様は、妾のものでございます」
すると浜路が進み出た。
「いえいえ山影宗三郎様は、妾のものでございます。いかさまあなた方お二人の力で、道人様のお住居を、お突き止めなされはしましたでしょうが、その肝心の道人様は、旅へ出られたではございませんか。そうしてその事を真っ先に、山影様へ知らせたのは、この妾でございます。……山影様は妾のもの、他へやることではございません」
三人三様の意見がある。なかなか互いに引っ込もうとはしない。
と浜路が云い出した。
「しかし肝心の山影様が、道人様の後を追い、里へ下ってしまわれた今は、何を申しても仕方のない事、妾はひとまず家へ帰り、旅装を調え改めて、山影様の後を追い、福島から中仙道、名古屋であろうと江戸であろうと、山影様と逢うまでは、おさがしするつもりでございます」
「それでは妾も」とお仙が云った。「かけかまいのない蝮捕り、誰に別れの言葉もいらぬ、すぐに追っかけ参りましょう」
「妾も」云ったのはお吉である。「螢ヶ丘へまず立ち寄り、旅仕度をしてさてそれから。……」
一人は萩原、一人は螢ヶ丘、お仙ばかりはどこへも寄らず、チリヂリバラバラに別れたが、はたして誰が真っ先に、宗三郎を目付け出すことだろう?
それはとにかく、この日の夕方、彦兵衛老人の門口を、そっと覗いている男があった。
「お榧婆さんに逢いたいものだ」
他ならぬ伊集院五郎である。
と、内から恒例の、夫婦喧嘩の声がした。
お榧と彦兵衛、恒例の喧嘩──
「四日も五日も家を開けて、いったいどこをウロツイていただあ! このロクでなしの爺さんはよ?」
お榧婆さんの声である。
「喚け、喚け、うんと喚け! 声が涸れたら休んで喚け! ほっつき廻るのは性分だ。今にはじまったことではない。癒そうとしたって癒りっこはない。ましてお前に怒鳴られてはな。むやみに怒鳴ると効が薄い。下手な音楽でも聞くようだ。そうして何んだ、下手な音楽は、すぐに耳に飽きてしまう。そのくせいつも聞いていないと、寂しいような気にもなる。だからお前は喚くがいい。喚かないと変に物足りない。だがな婆さん、云って置くがな、俺の性分を変えようとなら、喚くのを止めて笑うがいい。そうだお前が笑い出すと、俺だってちょっと気味悪くなるよ。笑うって柄じゃアないからな。柄でないやつを出されると、一時は吃驚して身に沁みるよ。そこで俺らの性分だって、一時変ろうというものだ、どうだな婆さん、笑えるかな」彦兵衛老人の声である。
これがお榧に解ったらしい。ゲラゲラ笑う声がした。「ふんとにそうだよ、彦兵衛さんや、妾アどうやら怒鳴りすぎるなあ。ゲラゲラ、ゲラゲラゲラ!」
「え! 本当に笑うつもりか! やり切れねえなあ、冗談も云えない。堪忍してくれ、怒鳴った方がいい」
「いいえさ、妾ア笑う気だよ。ゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラ、そこでな、一つ頼みがある」
「そう来るだろうと思っていた。只で笑うような玉ではない。云ってごらん、どんなことかな?」
「ナーニ、何んでもねえことさ。道人様のお住居をな、ちょっくら明かせて貰えてえのさ」
「ははあそうか、そんなことか。なるほどこいつア何んでもないや。よしきた、一つ明かせてやろう」
「え、それじゃアお前さん、ふんとに明かせてくれるんだね」
「嘘は云わない、明かすともさ」
「あっ、有難え、五両になる」
「何んだ何んだ、五両とは?」怪訝そうな彦兵衛の声。
「なにさ、こっちの話だよ。……どこにいるね、道人様は?」
「まず上るんだ、七面岩を」
「ふうん、なるほど、七面岩をね」
「すると大きな森がある」
「ああそうかい、大きな森がね」
「森の中に湖水がある」
「ふうん、湖水が? 大きいかね?」
「とても大きい、十里以上だ」
「十里? ふうん、大きいだな」
「湖水の中に島がある」
「それも大きな島ずらね」
「周囲十里の湖水だもの、その中にある島ときたら、少くも十五里はあるだろうな」
「それはそうとも、十五里はある」
「島の中に家がある。しかもたった一軒な」
「それも大きな家ずらな」
「そうだ、廻ると二十里はある」
「あるともあるとも、ある筈だ」
「そこにおられるのだ、道人様はな。……オイオイ待て待て、どうしたんだ。周章てて身仕度をしてどこへ行くんだ?」
「儲けに行くだよ、五両がとこ」
「ははあ、誰かに頼まれたな」
「伊集院さんていう人にね。道人様のお住居さえ、知らせてくれたら五両やると……」
「五日遅い、気の毒だなあ」哄然たる彦兵衛の笑い声!
哄然と彦兵衛に笑われたが、お榧婆さんには解らないらしい。
「何んのことだね、五日遅いとは?」こう怪訝そうに訊く声がした。
「湖水の中のお住居によ、道人様のおられたのは、今日から数えて五日前だってことさ」
笑いながら云うらしい彦兵衛の声。
「へ──」という声が聞こえて来た。びっくりしたお榧の声である。「それじゃア今はどこにいるだかね」
「今日の朝まだき下山されたよ」
「へ──、下山? どっちの方へ?」
「福島から中仙道、名古屋の方へ行かれた筈だ」
「へ──さようで、福島へね。……まあまあそれだけでも結構だ、伊集院さんへ知らせて上げよう」
立ち聞きをしていた伊集院、クルリ踵を巡らすと、麓の方へ歩き出した。
「伊集院さまア」と呼ぶ声がする。振り返って見るとお榧婆さん、汗を拭き拭き走って来る。フフンと笑うと伊集院、からかい面をして足を止めた。
「これはご夫人、何かご用で?」
「解りましただア、おり場所がね」
「何んでござるな、おり場所とは?」
「へえ、五両のおり場所がね。アレサ、道人様のおり場所をね?」
「ははあなるほど、五日前までの」
「へ──」とお榧、胆を潰した。「それじゃアお前様ご存知で?」
「ご夫人、拙者は千里眼でござる。そうして拙者は千里耳でござる。一切聞き通し見通しでござる。立ち聞きなんかは致しませんて」
「じゃア駄目かね、後金五両?」
「さあて、どうしたものだろう?」
「二両でいいなア、二両くだせえ」
「それ」というと伊集院、懐中から小判を取り出した。
「福の神様ア!」とお頂戴をした。渡すかと思ったら伊集院、ヒョイと小判を懐中へ入れた。
「おい婆さん」と憎々しく、「十里の湖水に十五里の島、十五里の島に二十里の建物。……などと亭主にからかわれ、やっと聞き出したは下山の道人。これじゃア二分もやれねえなあ」
「へ──、それじゃアお前様ア、やっぱり立ち聞きをしていただな」
「云ったじゃアねえか、千里耳だとな」
「一両でいい一両くだせえ」
追いすがるのをポンと蹴った。ひっくり返ったお榧さん、「痛えヨー」と云うやつを、肩で笑った伊集院、トットと麓へ下ったが、下りながらも考えた。
「諸方の噂を聞いたところでは、どうやら薬草道人は、名医甲斐の徳本らしい。甲斐の徳本とあるからは、どうでも討って取らなけりゃアならねえ。おそらく山影宗三郎も、道人を追って山下り、福島へ行くに違えねえ。いやもう既に行ったかもしれねえ。途中で逢って騙し討ち、二つの首を並べてやろう」
ところでこのころ薬草道人、どこを歩いていたかというに、福島から半里の山中、灌木の茂みにこっそりと、二人の家来と薬剤車、眼を病んでいる烏共、隠れながら話していたものである。
と一騎馬上の武士、サ──ッと峠道を下ろして来た。
山上から馳せ来た騎馬の武士、他ならぬ山影宗三郎、薬草道人がいるとも知らず、灌木の前を福島の方へ、砂煙りを上げて走り去った。
「ソーラね」とばかり薬草道人、紅丸へ囁いたものである。「大概こうだろうと思っていたよ。私の六感が感じたのさ。どうもこの頃この私を、捉えようとするものがあるらしい。何んだ、捉えて、利用しようとするのさ。今の大将もその口らしい。あぶないあぶない、隠れていよう。まだまだ来るよ、五六人はな」
しばらくの間は静かであった。と、山上から唄声がした。
「恋しいお方はおりませぬ」
現われたのは組紐のお仙、忙しそうに峠を下りて行った。
「ソーラね、あれもあぶない口だ」
つづいて現われたのはお吉である。脚絆甲掛旅姿、背中に糸経を背負っている。と、スタスタ行き過ぎた。
「ソーラね、あれもあぶない口だ」
やや暫時はしずかであった。と話し声が聞こえて来た。現われたのは二人の男女、一人は仁右衛門、一人は浜路、いずれも厳重な旅よそおい、急ぎ足で通りすぎた。
「どうもね、あれらも怪しいよ」
薬草道人紅丸へ囁く。
もう日も暮れて夜が来た。と、山上からタッタッタッ、ひた走って来る音がした。月光を肩に現われたのは、旅商人風の伊集院、これまた道人がいるとも知らず、福島の方へ走り去った。
「あれなんかが一番あぶない。私には解る、殺伐な男だ。剣気がムラムラと取り巻いている。が、大概こんなものだろう。さてこれからどうしようかな?」
「福島へ参ろうではございませんか。まさか野宿も出来ますまい」童子紅丸の意見である。
「なんの野宿が出来ないものか。野宿野宿、今夜は野宿だ。うかうか福島へ行ってごらん、あの連中につかまってしまう。彼奴ら恐らく一晩中、私を探すに相違ない。ぶった切ろうという奴と、しょびいて行こうという奴と、二色あるのだからやりきれないよ。で私はこう思うのさ、今夜一晩ここへ泊まり、彼奴らをみんなやりすごしてから、ゆっくり旅行をやろうとな。その方がいい、安心だ。暢気に旅が出来ようってものさ。……ご覧よ、こんなによい天気だ。星は降ろうとも雨は降らない。季節は夏だ、風邪も引くまい。ここで寝ようここで寝よう」
そこで童子の紅丸も、醜い跛者の猪十郎も、草を敷いて寝ることにした。
夏の夜は明け易い。間もなく空が水色を産み、やがて朝陽が射して来た。
「さあさあ出立、寝坊はいけない」
で、三人は山を下った。こうして入り込んだは福島である。
「変な乞食が来やがった」
福島の連中驚いてしまった。
「年寄りの乞食に、チンバの車輓き、だが子供は可愛いね」
薬草道人気にもかけない。早速効能を述べ出した。
「私の先生薬草道人、ご謹製なされた万病薬、膏薬もあれば丸薬もある、粉薬もあれば水薬もある」
すると紅丸が後をつづける。
「安い安い万病薬、お買いなされお買いなされ」
するとまた道人口上を述べる。
またも道人口上を述べる。
「本来病気はよいもので、病人は大概善人で、ピンピンたっしゃな連中が、ロクでもない事を致します。とは云えそいつは体のことで、心の病気は困ります。心に病気のある奴ほど、体はたっしゃでございます。それに反して体が弱い、すると心が澄み返り、悪いことなんか致しません。つまり心に恥じるからで。そこでよろしく人間は、病気になるに限ります。さようさよう体のな。健全の肉体に健全の精神! この格言は無用でがす。病気の体に健全の精神! こういかなければいけません! 例を上げるといくらもある。とてもとても上げ切れない。殺人の上手なお侍さん、みんなたっしゃでございます。が心はご病気で。さようさよう血吸病! ……蘇我の入鹿に北条高時、足利尊氏、斎藤道三、体がたっしゃで心が病気! こまった奴らでございます。大忠臣の大楠公、そのご子息の小楠公、みんな体がお弱くて、心はたっしゃでございました。こういかなければいけません。──私の師匠の道人様、つむじ曲がりの偏屈者、人間が嫌いで山へ入り、スネで浮世を暮らしましたが、時々このように云われました。『浮世に必要は藪医者で、浮世に無用は名医でござる』そこで拙者の思うには、薬なんてものは不必要!」
驚いたのは紅丸である。
「先生先生何を云われます。怒っているではございませんか。はい、お立ち合いの人達が。第一せっかくのお薬が、売れなくなってしまいます」
「あっ、そうか、ごもっとも! 取り消す取り消す、すぐ取り消す! ええと皆さん実のところ、体が病気で心がたっしゃ、こいつがよいとは申しましたが、いけないそうでございます。体が病気で心が病気! これが一番よいそうで」
「先生先生、尚いけません。体がたっしゃで心がたっしゃ、こう云わなければいけません」
「よろしいよろしい、そう云おう。体がたっしゃ、心がたっしゃ! これがよいそうではございますが、そんな人間は一人もねえ!」
「先生先生」とまた紅丸、「一層悪いじゃアございませんか。後の文句がいけません」
「よろしいよろしい、また取り消し、心がたっしゃで体がたっしゃ、こういう人間はウジャウジャいます、日本中の人間はみんなそうで。みんなそうだということは、みんなそうでないということで。比べる物がないのでな」
「あっ、いけません、石を投げます」
怒ったと見えて五六人、道人を目掛けて石を投げた。
「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ!」
道人露路へ逃げ込んだ。「驚いたなあ、乱暴な奴らだ。二つばかり頭へ頂戴した」
「先生が悪いからでございますよ」
「本当のことを云ったんだが」
「嘘を云わなければいけません」
「お前の方が世渡りがうまい、口上はお前へ委せよう」
「それがよろしゅうございます」
「だがな紅丸、福島の人気、どうも昔より荒んだなあ。幾十年昔になるだろう、何んでも私の青春の頃だ、一年近くも住んで見たが、その頃の福島はよかったよ。もっとも私にしてからが、憎まれ口は利かなかったからな。可愛がられたというものだろう。私はその時恋をしたっけ。一つそいつを話してやろう。生若い連中が惚気ると、惚気というもの穢く見える。私のような爺さんが惚気ると、惚気がピカリと光って来る」
薬草道人の恋物語──
薬草道人の恋物語り──
「昔々ある所に、一人の別嬪さんがおりました。あっ、待ってくれ、そうではない、昔々には相違ないが、所は木曽の福島だ。そこにいたのさ。別嬪さんがね。小料理屋の娘で可愛かった。互いに惚れ合ったというものさ。大変愉快ではあったけれど、どっちも恐がって手を出さない。で、いつまでも睨み合いさ。そうしてそのうちに別れっちゃった。別れぎわがよかったよ。二階へ上がる箱梯子、そこへ両袖を投げかけたのさ。可愛い可愛い娘さんがね。私の方へ背中を向け、泣きじゃくったというものさ。白い頸足、もつれた後れ毛、よかったなあ、眼に残っている。『お暇致すでございます』こう云って私は門を出た。月があって春霞、狭い往来が真っ白だった。二間の先が見えないのさ。たしかその時歌を作った。『憐れなりけり憐れなりけり』しまいの文句はこうだったよ。つまり自分を憐れんだのさ。翌日福島を立ったがね、娘さんは送ってはくれなかった。それがまた素敵によかったのだ。『薄情の美』というやつさ。もちろんそれっきり逢いはしない。遠い昔の物語り! もうよかろう、ご出発」
表通りは危険である。そこで裏通りを行くことにした。膏薬なんか売れはしない。
「だがな、その頃の福島には、綺麗な娘さんが随分いた。下駄屋さんにも金物屋さんにも、歯医者さんにもいた筈だ」またも道人思い出話。
「私は実際惚れきれなかった。あっちこっち眼移りがしたからさ。愉快な人達も随分いたよ。杉山さんというお医者さん、文学が好きで眼が肥えていて、ちょっと玄人跣足だった。お酒を呑むと武勇を揮い、私なんかも時々嚇かされたが、酒がさめると穏しくなり、よくご馳走をしてくれた。がこの私はただの一度も、ご馳走を返したことがない。シワンボだったね、その頃から。ええともう一人、福島屋と云って、立派なお菓子屋があったっけ。そこの長男の某さん、この人とも親しくした。顔が蒼白くて眼にケンがあって、鼻筋が通ってよい男だった。町人とは見えない御家人だね。よくこの人のお供をして、お茶屋へ遊びに行ったものだが、やっぱりいつもご馳走になり、私の方からは返さなかった。シワンボだったね、その頃から。だからいまだに出世をしない。……今は夏だが福島の冬、それがまた素晴らしくよかったものだ。実際俺を考えさせてくれたよ。そうそうある時こんなことがあった、雪の降っていた真夜中に、夜啼き鶏の声が聞こえて来たのさ。すごかったなあ、今思っても。その時私はフラフラと立ち、刀を持って外へ出た。人殺しをしようと思ったのさ。こういう心持ちが解るかな? とても解るめえ、紅丸には……」
やがて桟橋までやって来た。
「命をからむ蔦葛──芭蕉さんが名句を吐いた所だ。いい景色だな、絶景だ。こういういい景色を眺めれば、誰だって歌を句をつくりたくなる。だが景色があんまりよいと、景色まけがしてよいものが出来ない。命をからむ蔦葛、これ以外にはこれといって、桟橋をうたった名句がない。そのくせ文人墨客ども、きっとここへ来ると旅硯を取り出し、何か彼かむやみにひねくるのだがな」
中仙道を下って行く。平和な平和な旅であった。だが薬は売れなかった。
やがて名古屋の入口にあたる、勝川の宿までやって来た。もうその時は夕暮れで、燈火が家々に点きはじめたが、どうしたものか薬草道人、「あぶないあぶない逃げろ逃げろ! それ剣気、それ殺気!」こう云いながら家蔭に隠れ、じっと往来を窺った。十数人の人影が、名古屋の方へと歩いて行ったが、新規の事件の湧き起こる、その主人公の一群である。
名古屋へ進んで行く十数人の人影、いずれも女で黒ずくめ、闇の申し児と云いたげである。ただし尋常な旅装い、もっとも歩き方がいささか異う。特に大跨に歩くのでもないが、ひどく速力が速いのである。とりわけその中の一人の女が、若くもあれば美しくもあり、頭領と見えて爾余の者が、恐ろしく敬意を払っている。細くて鋭くて澄み切った、剃刀を想わせるその眼付き! これが最も特色的で、こういう眼付きを持っている者は、おおかた自分の秘密を保ち、人の秘密を知りたがる。小造りで痩身で態度が敏活、何んとなく神秘的のところがある。いやいやこの女ばかりでなく、十数人の女達も、いずれも小造りで痩身で、そうして態度が敏活である。武士の娘達には相違ないが、どのくらいの身分かは見当が付かない。それに男を雑えずに、女ばかりで恐れ気もなく、サッサッと歩いて行く点が、怪しいといえば怪しくもある。どことなく傍若無人であり、しかも不断に眼を使い、四方八方を眺めている。そうして仔細に観察したなら、不秩序に歩いているのではなく、真っ先に一人、すなわち尖兵。つづいて二人、前衛隊。それから五人、すなわち本隊。その左右に一人ずつ、すなわち本隊の両側兵。最後に二人後衛隊と、軍陣行進の伍を組んで、歩いているということに、必ず気が付くに相違ない。とまれ気味の悪い連中である。
やがて一行名古屋へはいった。
「いよいよ目的地へはいりましたね」
「ちょっとの油断も出来ませんね」
「水戸の鷺衆がいるのですからね」
ひそひそこんなことを囁き出した。
「ナーニ大丈夫だよ、鷺衆なんか」嘲笑うように云ったのは、頭領と覚しい例の美人、「島津の烏組に歯が立つものか」
「それはそうともお紋様」こう云ったのは左側の一人、「でも鷺衆のお絹という女は、手利きだということでございますね」
「そうさ、妾とはいい相手さ。妾の腕とお絹さんの腕、さあどっちが利くだろうかね」頭領お紋の言葉である。
「面白い勝負でございますね」こう云ったのは右側の一人、「でもお前様の勝ちでしょうよ」
「どんなことをしても勝たなければならない。せっかくの使命が果たされないからね」頭領お紋の言葉である。
この女達何者であろう? とまれ薩州島津家の、烏組という団体で、その頭領をお紋といい、何か重大な使命を帯びて、名古屋へ入り込んだということと、その名古屋には常州水戸の、鷺衆という団体が、お絹という女を頭領にして、入り込んでいるということだけは、彼女らの会話で知ることが出来る。
いったいどんな使命だろう?
御器所村の一所、今日公園のある辺り、鬱々たる森林が立っていたが、そこまで一行がやって来た時、森の奥所から声がした。「そこへ参られたは烏組の方か?」いかめしい男の声である。
「さよう」とお紋即座に云った。
「お迎えに参った、ご案内いたす」
「用意万端、よろしゅうござるかな?」
「整いおります。いざご案内」
一行森へはいったが、そのまま姿が見えなくなった。
その翌日の真昼である。名古屋城の天主閣、そこの窓から一人の武士、望遠鏡で市中を眺めていた。
「これは」と呟くと首を延ばし、じいいっと見入ったものである。
じいいっと望遠鏡で見入っている武士、年齢三十前後であって、蒼白い顔色、鋭い眼、しっかり結んだ薄い唇、叛骨あり気の角張った頤、美男ではあるが狂気じみている。葵の紋服の着流しで、黄金づくりの小刀を手揷み、刀を小姓に持たせている。この人は誰? 尾張宗春! 六十一万九千五百石、尾張名古屋の城主である。何故じいいっと見入っているのか? 精巧な望遠鏡にありありと、一人の美人が映ったからである。小造りの痩身で、黒の振り袖スンナリと立ち、ぼんやり濠の水を眺めている。と顔を振り向けた。うんと切れ長の細い眼が、剃刀のように輝いたが、何んという妖艶! 笑ったものである。
「ううむ」と宗春呻いてしまった。「ちょっと類のない変った美人、ここら辺りの者ではない。京かな、それとも大坂かな? ……三弥三弥、あれを見ろ! 素晴らしい美人が立っている」
「はっ」というとお気に入りの近習、山形三弥望遠鏡を戴き、つとそっちへ差し向けたが、「ううむ」とこれも呻いてしまった。「異った美人にございます。おっ、笑いましてございます」
「おお笑ったか、どれよこせ」宗春またも見入ったが、「やまたも笑いおる。……紋右紋右、そちも見ろ」
近習の山路紋右衛門、そこで望遠鏡で覗いたが、「ううむ」とこれも呻いてしまった。「いかさま美人にございます。おっ、笑いましてございます」
「また笑ったか。どれよこせ」宗春またもじっと見た。「おおおお、またも笑いおる! あっ、いけない、行ってしまう。松へ隠れた。もう見えない」
名残りが惜しいというように、宗春呟いたものである。
その翌日の同じ時刻、宗春は天主へ上って行った。望遠鏡で覗くと女がいる。
「三弥三弥、今日もいるぞ! おっ、笑った! 美しいものだ」
「殿、なにとぞ望遠鏡を」
「見るがいい」と手渡した。
「おりますおります、艶かなもので。あっ、笑いましてございます」
「おお笑ったか、どれよこせ! ……これはいかにも、笑った笑った」
「殿」と紋右衛門声をはずませる。「是非拝借、望遠鏡を」
「さあ見るがいい」と手渡した。
「笑った笑った、笑いましてござる」
「また笑ったか、どれよこせ。……いかにも笑った、得も云われぬ。……立ち去る立ち去る。見えなくなった」
その翌日の同じ時刻に、あたかも物に憑かれたように、宗春天主へ上がったが、見ればやっぱり同じ女が、同じ所に立っていて、同じように妖艶に笑ったものである。
「不思議な女だ、何者だろう? ……これ三弥、紋右衛門、明日もおおかたあの女は、あそこへ来るに相違ない。そち達二人待ち伏せし、うむを云わせず引っとらえ、大奥へこっそり運ぶよう。がただし間違っても、手荒くあつかってはならないぞ」
「かしこまりましてございます」
さてその翌日尾張宗春、同じ時刻に天主へ上った。
「不思議な女だ。心を引く。あんな女は見たことがない。何だか俺はあの女に、魅せられてでもいるようだ。どれ……」と云うと望遠鏡を取った。
じっと覗き込んだものである。
宗春望遠鏡で覗いたが、どうしたものか今日はいない。「さては時刻が早かったかな? それはそうと紋右衛門、三弥、待ち伏せをしているかしら?」
見廻すと濠端の松蔭に、かくれている二人の姿が見えた。
「アッハッハッハッ、隠れておるわい。及び腰をして肩肘張り、居合いでも抜きそうな格好だ。女を攫うとは見えないなあ。……それはそうと女はどうしたかな?」
待っても待っても出て来ない。やがて日が暮れて夜となった。その日はとうとう来なかったのである。そこで翌日を待つことにした。同じ時刻、天主へ上る。で望遠鏡で眺めたが、女の姿は見えなかった。日が落ちて夜となり、紋右衛門と三弥ぼんやりと、城内へ引き上げたものである。
「ははあこれはこうだろう、感付いたのだ、待ち伏せをな」
で、待ち伏せを止めることにした。
その翌日また宗春、天主へ上ると望遠鏡を覗いた。果然、女が濠端にいる。
「いるぞいるぞ! おっ、笑った。ううむ、どうも、艶かなものだ」
「殿、拝借、望遠鏡を」近習の三弥、声を逸ませる。
「いやいやいけない、俺が見る。見れば見るほど艶かなものだ!」
「拝借拝借、お願いでございます」今度は紋右衛門が手を差し出す。
「いやいけない、俺が見る。あっ、笑った! ううむ笑った! これ三弥、紋右衛門、早く参ってひっ捉えろ!」
「はっ」と云うと駈け下りた。
と、女は歩き出した。
「逃げる逃げる! これはいけない! 行ってしまった! 残念千万!」
捉えようとすれば現われず、現われても素早く逃げてしまう。ただ見ていれば現われて来る。そうして艶然と数笑する。十日というもの続いたのである。
宗春次第にイライラして来た。
「是非とらえろ! 是非とらえろ!」
だがどうにも捉えることが出来ない。だんだん心が狂気じみて来た。
心配し出したのは三弥と紋右衛門。
「狐狸ではないかな、あの女は?」
「まさか日中に化けもしまい」
「殿の様子が大分変った」
「困ったことだ、何か起こるぞ!」
はたしてある夜罪もないのに、愛妾の一人を手討ちにした。数日経つとまた一人!
それで毎日時刻が来ると、天主へ上って行くのである。
「うむ、見える! 美しいものだ!」
ホ──ッと溜息を吐くようになった。
「どうでも捉えろ! どうでも捉えろ!」
で、密々手筈をし、待ち構えていると出て来ない。宗春だんだん兇暴になった。
それはある夜のことである。
「三弥、紋右衛門、従いて参れ!」
「殿、どちらへ参られまする?」
「参れと云うのだ! 従いて参れ!」
三人こっそりと裏門から出た。
高岳院前まで来た時である、向こうから一人の町人が来た。
「これ、町人!」と呼び止めた。
「へい」と云ったが顫え上がってしまった。覆面をした三人の武士、じっと立っているからである。
「そち、女を知らぬかな?」尾張宗春訊いたものである。
女を知らぬかと宗春に訊かれ、町人今度は笑い出してしまった。「女は沢山ございますが」
「お濠の端へ立つ女! どこにいるか知らぬかな?」尾張宗春ぼんやりと訊く。
「存じませんでございます」
「知っているであろう、教えてくれ」
「とんと私、存じません」
「知っている筈だ、教えてくれ」
「存じませんでございます」
「いよいよ教えてくれないな」
「わ、わ、私、存じません」
「そうか」と云うと尾張宗春、フラフラと先へ進んだが、振り返ると手が上がり、シュッと鞘走る音がした。キラリ光ったは剣光である。
「ワッ」という悲鳴、大袈裟に切られ、町人大地へ転がった。
「不親切な奴だ、教えてくれぬ。……これ三弥、拭いをかけろ!」
三弥顫えながら拭いをかける。パチッと納めるとフラフラフラ、宗春先へ進んで行く。
と、向こうから職人が来た。
「これ職人」と呼び止める。「そち、女を知らぬかな?」
「え? 女? 知っていますとも」
「うむそうか、どこにいるな?」
「日本国中、どこにだっていまさあ」
「お濠の端に立つ女、どこにいるか教えてくれ」
「お濠の端に立つ女? ははあそれじゃア産婦鳥だな」
「産婦鳥というか、どこにいるな?」
「さようでげすな、百物語の中に」
「うむさようか、連れて行ってくれ」
「無理だ、旦那、化け物の国で」
「どこへでも行く。連れて行ってくれ」
「こっちでご免だ、真っ平真っ平!」
「これそういわずと連れて行ってくれ」
「こまりましたなあ。手がつけられねえ」
「是非に頼む、連れて行ってくれ」
「知らねえ知らねえ、俺ア知らねえ」
「不親切な奴だ! 連れて行かぬか!」
「ワーッ、いけねえ、狂人だア!」
逃げようとする背後から、サッと抜き討ちに切り仆す。
「これ紋右衛門、拭いをかけろ!」
パチンと納めるとフラフラフラ!
と行手から坊主が来る。
「これ女を知らぬかな?」
問答の末にサッと切る。そうしてフラフラと進むのである。
翌日になると天主へ上る。と、望遠鏡を覗くのである。
「今日もいる。また笑った!」
さてある夜のことである。三弥も連れず紋右衛門も連れず、一人で立ち出でた尾張宗春、水主町まで歩いて来た。名月ではあるが深夜のこと、それに辻斬りの噂が立ち、ここらあたりは人も通らぬ。
と、行手から一人の女、俯向きながら歩いて来た。擦れ違おうとした時である.フッと女は顔を上げた。それを認めた尾張宗春、
「おっ、そなたは、濠端の女!」
「よいお月夜でございます」
女は艶然と一笑した。それはまさしくあの女であった。
袖を捉えた尾張宗春、
「念願叶った! とうとう目付けた!」
「殿様!」と云うとその女、柔かに宗春の手を取った。「おいでなさりませ、妾の住居……」
「行かないでどうする! 連れて行ってくれ!」
行きかかった時、影のようなもの、ボッと人家の軒へ立った。
軒に立った一個の人影! これがまた異様な風態である。女であることは疑いなく、しかも非常に美しい。年は若く小造りで、全身白無垢を纒っている。月光が凍って出来たような女。晩夏だというのに雪が降り、雪女郎が出たといってもよい。じっと見ている眼の鋭さ! しかし笑ったら愛嬌があろう。ふっくりとした唇にも、平素は愛嬌があるらしい。今はしっかりと結ばれている。
「島津家で名高い女忍び衆、烏組の連中が続々と、名古屋へ入り込んだということだが、もうチョッカイを出しはじめたと見える。ははあ、あの女がお紋さんだな。宗春様をたぶらかすと見える。そううまくはいかないよ! 先に来ている妾達、そうそう、出し抜かれてたまるものか……」呟きながら窺っている。「おやおやどこかへ連れて行くらしい。よし来た後を従けてやろう」
人家の軒から軒を伝い、白無垢の女は歩き出した。「おや」と云うと立ち止まった。行手から一丁の駕籠が来て、トンと地上へ下ろされたからで。色が真っ黒に塗られてあるのが、ひどく気味悪く思われた。「あっ、いけない、宗春様が乗った! 駕籠が上がった! 動き出した! お紋さんが後から従いて行く。……黒塗りの駕籠! ははあそうか、烏組で使うトヤ駕籠だな。よしよし後を従けて行き、烏組の根城を見破ってやろう」
駕籠とお紋の一行は、右へ廻り左へ廻り、ズンズン先へ歩いて行く。と、御器所の森へ来た。森の中へズンズンはいって行く。
「オヤオヤオヤ、偉いところへ来たよ、御器所の森とは凄いねえ」白無垢の女呟いたが、ヒタヒタと後を追っかけた。
黒塗りの駕籠に黒振り袖のお紋、それが闇の森を行くのである。普通の人には見えない筈を、白無垢の女には見えるとみえ、数間を離れて追って行く。
と、にわかに白無垢の女、「しまった」と云って突っ立った。「どこへ行ったんだろう、消えてしまったよ」
なるほど、姿も見えなければ、また足音も聞こえない。
「驚いたねえ」と云いながら、白無垢の女は小走った。「たしかこの辺で消えたんだが」
見廻したがただ暗い。巨木が無数にすくすくと、夜空を摩しているばかりだ。
と、その時、どこからともなく、嘲笑う女の声がした。
「水戸で名高い女忍び衆、鷺組の頭のお絹さん、今夜はご苦労でございました。よく見送ってくださいましたね。だが大変お気の毒、玉は引き上げてしまいました。ジタバタしたって追っ付かない。諦めて古巣へお帰りよ。それともお前さんに出来るなら、妾達の塒をさがしてごらん。まず駄目だろう、目付かるまい。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、口惜しそうだねえ」「ううむ」とこれには白無垢の女──すなわち水戸の女忍び衆、鷺組の頭のお絹という女も、胆を潰さざるを得なかった。だが弱味を見せまいと、「そういうお前さんは烏組の、お紋さんだと思うがね、いかにも妾は鷺組のお絹、そうさ今夜は負けたけれど、明日になったら勝ってみせる。塒を突き止めうるさい烏、一羽残らず鷺の嘴、長い鋭いので突き殺して見せる。その時吃驚りしなさんなよ」
「ふふん」と嘲笑う声がした。「それよりサッサと蘆の間へ帰り、蝦や泥鰌でもせせるがいいや。うん、その前に烏啼き、侶よぶ声でも聞かせてやろう」
忽ちガーッと烏の啼く音、森に木精して響き渡った。すなわち合図の烏笛! と、そいつに答えるように、梢や木蔭や草むらから、ガーッガーッと烏の啼く音、耳痺いるばかりに聞こえて来た。無数の烏組の女達が、隠れて吹いているらしい。「よし!」というと鷺組のお絹、スッと懐中へ手を入れた。
懐中へ手を入れた鷺組のお絹、
「おい!」と改めて声を掛けた。「そっちがやかましい烏なら、こっちは清々しい鷺の音さ! 驚いてはいけない、侶呼んで見せる」
スイと懐中から手を抜いた。と、指先を口へやる。闇の空行く鷺の声、甲高にコーッと鳴り渡った。すなわち鷺笛、吹いたのである。
と、忽ち森の四方、遙か離れた方角から、これに答えて鷺の声、コーッ、コーッと鳴り響いた。頭のお絹を遠巻きに、警護していた鷺組の徒が、答えて笛を吹いたのである。
しばらくの間は森の中、鳥笛の音で充たされた。
やがて一時に静かになり、森を出て行くお絹の足音、シタシタと町の方へ遠ざかり、全く物音消えた時、一本の立ち木の根もとから、囁く声が聞こえて来た。
「紅丸紅丸、面白かったなあ」薬草道人の声である。
「ガーガーガー、コーコーコー、烏と鷺の啼き合わせ、ほんとに面白うございました」童子紅丸の声である。
「御岳にいるより面白いよ。だがひどく騒がしいなあ」
「ほんとに騒がしゅうございます」
「町には騒がしくていられまい、こう思って私は名古屋へ来ると、この森を住居にしたんだが、どうもここにもいられそうもない。……ボツボツどこかへ出かけようかな」
「それがよろしゅうございます」
「さあさあそれでは出かけよう、猪十郎さんや、車をお曳き」
轍の音が森に響き、次第次第に町の方へ行く。町へはいったが深夜のこと、家々では雨戸を厳重にとざし、燈火一筋もれていない。レキ、レキ、ロク、ロクの轍の音、両側の家々へ反響するが、古今の名医薬草道人が、通っているとは気が付かないらしい。
相変らずの行列である。花咲いた十本の薬草を、頂きにのせた薬剤車、それを引いている跛者の猪十郎、後押しをする美童の紅丸、先に立ったは薬草道人、肩に白烏が停まっている。深夜の月に照らされて、浮かぶがように歩いて行く。
やがてやって来た堀川筋、日置辺には材木問屋が多く、堀の両側は隙間もなく、材木によって飾られている。流域ほとんど半里に渡って、材木の山があるのである。立てられたもの、積まれたもの、堀の水面へ浮かべられたもの。……
と、一つの人影が、材木の蔭から現れた。近寄って来る道人の一行、それをじっと隙かして見たが、パタパタと走ると跪いた。
「薬草道人様ではございませぬか、妾お吉でございます」それは六文のお吉であった。
「ほほう」と道人立ち止まったが、「これはこれは珍らしい、意外の所で逢ったものだ。いつ名古屋へやって来たな? が、それはどうでもよい。私もこのちへやって来たよ。ひどく御岳が騒がしいのでな。だが来て見て後悔した。名古屋はもっとやかましい。当然といえば当然だが、安眠の場所さえないのでなあ。これにはすっかり参ってしまった。どうだね、お吉さん、私のために、静かな住居を見付けてくれないかね。ただし云って置く、高等では困る。成るたけ下等な所でな」
「お安いご用でございます。それではどうぞ妾の住居へ、しばらくお立ち寄りくださいますよう」
案内したのがどこかというに、材木と材木との積み重ね、その隙へ出来た空間である。
その翌日のしかも払暁、まだ町々の眠っている頃、どこから現われたか鷺組のお絹、フラリと市中へ現われた。
入り込んだのが御器所の森。
「突然駕籠が消えるなんて、どう考えたっておかしいよ。消えるだけの理由がなければならない。森の中に隠れ場所があるのだろう? それから探してかからなければならない。だがそれにしても烏組の奴らめ、市中へ入り込む早々にして、こんな放れ業をするなんて、随分腕がたっしゃじゃアないか! 驚いたねえ驚いた。油断もスキも出来やアしない。今のところこっちが負け口だ。うかうかしているととんだことになる。だがそれにしてもどういう手段で、宗春様をおびき出したのかしら? だがマアそんな事はどうでもよい。そんなことより宗春様を、一刻も早く助け出さなければならない。時が遅れると大事になる。連判状へでも名を書かれたら、千仞の功を一簣に欠き、それこそ日本が二派に別れ、大戦争になるんだからねえ」
お絹こんなことを呟きながら、森の中を歩き廻った。
「おやここに足跡があるよ。これは女の足跡だし、こいつは二人の男の足だ。規則正しく二つずつ、同じ間隔に印いている。解っているよ、駕籠舁きの足さ。トヤ駕籠を舁いでいた駕籠舁きの足さ。よし来た。こいつを従けて行ってやろう」
霧が森の中に拡がっている。日中さえあまり人通りのない、深い寂しい御器所の森! まして今は明け方である。人っ子一人通っていない。雀が八方で啼いている。声といえばそれだけである。
「おやおや足跡が消えてしまった」
立ち止まった眼の前に立っているのは、十抱えもあるらしい杉の大木、四方八方に枝葉が拡がり、空を笠のように蔽うている。
「随分大きな杉の木だねえ。神代杉とでも云うのだろう。この木を切って家を建てたら、十軒ぐらいは建つだろう。それはとにかくこの木の前で、足跡が消えたのはどうしたんだろう? 曰くがなければならないぞ」
お絹、杉の木へさわって見た。
「まるで鎧でも着ているようだ。堅くて冷たくてしっかりとしている」
トントントンと叩いてみた。
「おやおやこれは少し変だ」そこで、じっと考え込んだ。でまたトントンと叩いて見た。「どうも少し変だねえ」今度は耳をおっ付けて見た。
「何んにも物音は聞こえないけれど、でも何んだかおかしいねえ」グルグル木のまわりを廻り出した。「ははあそうか、ははあそうか」何を目付けたのか鷺組のお絹、感心したように呟いた。
「これで少しは見当が付いた。ううむ、それにしても烏組め、面白い細工をしたものだ。これなら人には解るまい。妾以外の人間だったら、誰にだって解る気遣いはない。お気の毒様、妾は鷺さ。水中の小虫さえ捕ろうってんだからね。こんな細工なんか朝飯前、見破ってしまうに手間暇はいらない。だが」と呟くと考え込んだ。「細工の小口は見破ったが、ちょっとこの後が困ったねえ」
しばらく佇んで考えたが、
「ああそうだいいことがある。大須へ行こう大須境内へ。そうしてあの人へ頼んでみよう」
町の方へ引っ返したが、ポツポツ出はじめた往来の人波、それへ紛れて見えなくなった。
その日の日中のことである、大須境内に十数人の者が、何かを取りまいて騒いでいた。
大須観音の境内である。参詣人で賑わっている。何かを取り巻いて十数人の男女、面白そうに眺めている。
大蛇使いの組紐のお仙が、太蛇を使っているのである。
「さあさあ皆さんご覧ください。青大将にやまかがし、ないしは黒蛇または蝮、どんな猛々しい毒蛇でも、妾が使えば穏なしくなり、自由自在に働きます。江戸は両国広小路、そこの名物大蛇使い、組紐のお仙の名古屋下り、往来側の芸ではない。立派な掛け小屋の舞台に立ち、鍛えに鍛えた真髄の芸! それを往来で使うのも、事情が事情なら仕方がない。投げ金は無用、抛り銭は無礼、お鳥目は一切いただきません。只で見せます、只で見せます。その代りお願いがございます。江戸は天下の副将軍、水戸お館のご家臣で、姓は山影名は宗さん。苦み走ったよい男、色浅黒く口締まり、鼻筋通って眼が涼しく、時々皮肉もおっしゃるが、みんなそれが可愛らしく、色気があるようでないようで、ほんとにほんとによいお方、年の頃は二十四五、剣を取っては円明流、無双の手利きでございます。木曽の御岳からお下りになり、名古屋に来た筈でございます。どうぞお願いでございます、お目付けなすってくださいまし。妾の住居は七つ寺、蝮酒屋でございます。そこまでお知らせくださいまし。どんなお礼でも致します。大道で芸を商なうのも、その宗さんに逢いたいばかり、可哀そうな女でございます。でも狂人ではございません。まだまだ正気でございます。でもいつまでも逢えないと、狂人になるかもしれません。妾を狂人にしないように、どうぞお願い致します。江戸を離れて山を越し、川を渡って幾十里、木曽山中へはいった事さえ、並み大抵な苦労でなく、妾は随分痩せました。ようやく縁あって巡り合い、嬉しいと思ったも一時で、すぐに別れてまたバラバラ、行方が知れないのでございます。お目付けなすってくださいまし。……さてそれでは小手調べ、陽焼けて赤い山かがし一匹使ってお目にかけます」
腰の畚からスルスルと、一匹引き出した山かがし、キューとしごくと棹にして、掌へ立てたものである。長さ三尺、一本の棒、肌がテラテラと陽に光り、舌がベロベロと口から出、細い首根っ子を左右に振り、泳ぐがように踊り出した。
と、唄い出したお仙の声!
「日がな一日さがしても
それと似かよう笠もない
いつか逢おうといったのに
草が枯れても逢われない」
涙を含んだ声である。
「さあさあ今度はコマ結び、二匹しっかり結びましょう、それがズルズル解けるなら、お手拍子ご喝采を願います」
畚からもう一匹引っ張り出し、二匹を結んで地へ置いた。
「さあさあお歩き太夫さん、一人は右へ一人は左、恋しいお方を尋ねてね」
そこでまたもや唄い出す。
寂しい寂しい唄である。唄の文句や節に託し、感情を洩らしているのである。ズルズルと解けた二匹の蛇、左右へスルスルと動き出した。
その時見物を掻き分けて、つと前へ出た一人の女、他ならぬ鷺組のお絹であったが、山かがしへ眼をつけたものである。
やまかがしへ眼を付けた鷺組のお絹、心で呟いたものである。
「ほんとに上手に慣らされているよ。何んでも云うことを聞くらしい。お仙さんとかいう太蛇使い、さすが大江戸の芸人だけあって、水際立った立派な芸、それに大変美しい。山影宗三郎という人を、尋ねて来たということだが、水戸様のご家来山影様なら、まだお姿こそ見ていないが、同じご家中というところで、よくお噂は聞いたものだ。妾達鷺組と同じように、特別大事な任務を持ち、木曽の御岳へ上られた筈、お仙さんの云うことに嘘がないなら、名古屋へ入り込んでいるらしい。是非邂逅ってみたいものだ。……それはとにかく慣らされた小蛇、あれをどうともして借り受けて、秘密の小口を探ってみたいものだ。だがそれにしてもいいかげんで、芸当をお終いにしないかしら」
いやなかなかお仙の芸当、終りを告げようとはしなかった。数匹の蛇を綾に取り、それをほぐすと縄になう。口笛に連れて踊らせたり、数丈の高さに投げ上げては、小指の先で受け止めて、キリキリと指へ巻き付かせたり、自由自在に扱うのであった。
しかしその日も暮れ逼まり、夕陽が天末を染める頃になると、お仙帰りの仕度をした。
「さあさあ、今日はこれでお終い。後は明日でございます。そのまた明日は珍らしいところを、二三加えてお眼にかけます。どうぞお立ち合いくださいまし。そうしてお願い致します、別れて逢えない宗さんを、どなたかお見掛けなさいましたら、さっきも申した七ツ寺、蝮酒屋までおいでくだされ、お教えなすってくださいまし。それこそ一生ご恩に着ます。ご免くださいご免ください」
以前変らぬ蝮捕り姿、腰には畚、手には鉤、紺ずくめの裳束で、人を掻き分け境内を出たが、ションボリとして寂しそうだ。
と、背後から呼ぶ者があった。
「もし太夫さん、お仙様!」
振り返ってみれば白裳束、雪女郎のような白い女が、軒に立って招いている。
「何かご用でございますか?」お仙立ち止まったものである。
「はい」と云うと近寄って来た。「妾はお絹と申しまして、江戸から来たものでございます。あなたが探しておいでになる、山影様とは同家中、よくお噂を聞きました。場合によってはお力になり、探してあげたいと存じますが、ついてはあなたの芸道具、慣らされ切ったその小蛇を、お貸しくださることなりますまいか」
「まあ」とお仙驚いたが、見れば縹緻は美しく、それに凛とした品もあり、悪婆でないということは、一見すぐに見てとられた。そこで愛想よく頷いた。
「お易いご用でございます。小蛇がご用に立ちますなら、さあさあお使いなさいまし。しかし慣らされた小蛇でも、妾が自分で使わない事には、決して云うことは聞きませぬ。どういうご用かは存じませぬが、妾の力で出来ますことなら、どうぞおっしゃってくださいまし。いくらでもご用に立ちましょう。山影様と同家中、水戸様ご家来と承わってみれば、他人のようには思われません。力になってくださいますとか、尚さら疎かには思われません。どんなご用でございましょう? 遠慮なくおっしゃってくださいまし」こう気持ちよく云ったものである。
「御器所の森の大杉の木、そこに出来ている小さい穴へ、慣れた小蛇を追い込んで、様子を見たいのでございます」これがお絹の頼みであった。
杉の大木へ蛇を入れる! まことに平凡な依頼であった。早速引受けた組紐のお仙、お絹と連れ立って行くことにした。
御器所の森、大杉の木の前。──
宵の口ではあったけれど、四辺は寂然と物寂しい。枝葉茂って空を蔽い、星の光さえ通さない。とカチカチと燧石の音! ボッと一点の火が灯もった。忍び衆の持つ忍び龕燈、それをお絹が灯もしたのである。照らし出された二人の女、顔を集めて囁き合う。
「ご覧なさいませお仙様、ここに小穴がございます」こう云ったのは鷺組のお絹。
「おやおや腐穴でございますのね」こう云ったのはお仙である。
「内は空洞でございますよ」
「何かいるのでございましょうか?」
「ええ沢山の烏がね。そうして一丁の駕籠があります。そうして一人の高貴な方が!」お絹微笑んだものである。
腰を探ると一丁の矢立、それを取り出した鷺組のお絹、懐紙へサラサラ文字を書いた。引き裂くと細く縒によった。頷いて受け取った組紐のお仙、小蛇の首根っ子へ結び付けた。
と立ち上がった組紐のお仙、小蛇を小穴へ入れたものである。
ヒューッと鳴らす口笛の音! 蛇に勇気を付けるためだ。お仙の鳴らす口笛である。
だがはたして杉の大木に、そんな空洞があるのだろうか?
ここは杉の木の内側である。
文字通り真っ暗だ。お絹が想像した通り洞然たる空洞である。しかも人工を加えたもの、燈火をかかげて見廻したなら、空洞の壁に下に通う、階段のあることを知ることが出来よう。短時日に作ったものではない。長い年月を費やして、作ったところのものである。
その階段を下り切った所に、一つの部屋が出来ている。もうこの辺は地下である、畳数にして十畳あまり、四方厳重な石畳である。天井は低くそれも石だ。これまた長い年月を、費って作ったものらしい。菫色をした不思議な光、それが部屋を照らしている。愛慾を誘う光である。金網を掛けた龕の中から、その光が射している。部屋にこもった香料の香! 愛慾を誘う香である。部屋の片隅の香炉から、匂って来るのに相違ない。と、隣りに部屋があって、そこから聞こえて来るのだろう、微妙な音楽の音色がする。愛慾を誘う音色である。壁にかけられた無数の絵! 裸形の男女が狂っている! 愛慾を誘う絵画である。
部屋の一処に人間がいる。尾張中納言宗春である。じっと一所を見詰めている。その膝の辺に巻物があり、硯箱が置いてある。
宗春はじっと見詰めている。その視線の止まった辺に、すなわち部屋の一所に、一人の女が立っている。皓々たる半裸体! 腰から上を露わに見せ、妖艶に宗春に笑いかけている。烏組の頭領お紋である。
「ご辛棒のよいことでございます。いつまでも我慢なさりませ。そのうちに精根疲労れ果てて、誰にも知られず地下の部屋で、息を引き取るでございましょう。笑止笑止、笑止でございます。それがお厭でございましたら、それへご署名なさりませ。島津家へ一味するという、その同盟の連判状へ! そうしたらいつでもお紋の体、中納言様へ差し上げます。息を引き取るか妾を取るか、さあさあご決心なさりませ!」お紋誘惑しようとする。
愛慾をそそる半裸体、お紋は尚も云うのであった。
「隣室には寝台もございます。笑い薬もございます。─(以下四十四字抹殺)─一粒一幸なさりませ! 妾の体はあなたの物、どうなさろうとご自由です。うんとおっしゃったその時から、あなたは幸福になられます。美くしい夢、虹の夢、それが見られるのでございます。温柔境! 温柔境! そこへ行くことも出来ましょう。力の強い長い腕で、あなたのお首を巻いてあげます。もしお望みでございましたら、─(以下八十五字抹殺)─妾の耳がよろしかったら、勝手に接吻なさりませ。あなたが見たいとおっしゃるなら、妾は妾の後れ毛を、前歯で噛んでお眼にかけます。…………………………………いてあげましょう。妾の睫毛であなたの睫毛を、そっと摩擦って上げましょう。そうしてあなたがお望みなら、………………………………。─(以下百七十八字抹殺)─思うさまあなたを笑わせてあげます。思うさまあなたを泣かせて上げます。署名なさりませ! 署名なされませ!」
──この間二百九十八字抹殺──
その間も間断なく聞こえるのは、隣り部屋で奏している音楽である。その間も絶え間なく匂うのは、香炉から立ち上がる煙りである。
一日と二夜ぶつづけに、掻き立てられた愛慾に、宗春の精気は萎え切ったらしい。拳を握り、呻いたが、にわかに前のめりにのめったかと思うと、そのまま気絶をしてしまった。
「おやおや詰まらない。気絶したよ」ヒョイと立ち上った烏組のお紋、宗春の顔を覗き込んだ。
と、その時隣室から「技倆がないな、どうしたんだ」こう云いながらノッソリと、姿をあらわした武士がある。
他ならぬ伊集院五郎であった。
隣室から現われた伊集院五郎、まずヘラヘラと笑ったものである。
「おおおお、お紋さん努めたなあ、ご苦労ご苦労、汗になったろう。隣室で見ていた俺でさえ、変な気持ちになったんだからなあ。それにさ、随分詳しいじゃアないか、催情術っていう奴がよ。どうもね、全く実感的だった。大概の男性フラフラだなあ。宗春たる者参る筈だ。『妾の柔かい頤で、あなたの眼瞼をこすりましょう』え、お紋さん、そんなことをすれば、本当に愛情が増すのかね? 全くどうも詳しいや。よく研究が積んでいる。それにしても実際莫迦だなあ、この尾張中納言はよ! 俺だったらサッサと署名して、お紋さんをワッシと掴むがなあ。そうして何んだ、寝っちもうのさ」駄弁を弄しながら伊集院五郎、宗春を上から覗き込んだ。
「やれやれすっかり衰えていらあ。それはそうとお紋さん、これからどうするつもりだえ?」
「そうだねえ」と烏組のお紋、半裸体の体をあけっ放したまま、「ちょっと陥落しそうもないよ」
「それじゃア役目が立つまいぜ」
「そこで品物を変えようって訳さ」これは暗示的の言葉である。
だが伊集院には解らないらしい。
「何んだい品物を変えるとは?」
「妾の体は小作りだよ」
「うんそうだ、白栗鼠のように」
「で、今度は大女さ」
「何んだか俺にゃア解らねえ」
「妾の体は痩せぎすだよ」
「それがまた途方もなく美しいんだが」
「肥えている女に変えなければならない」
「やっぱり俺に解らない」
「妾は荒んだ女だよ」
「ごもっともだね、御意の通り」
「清浄な女に変えるのさ」
「ふうん、少しずつ解って来た」
「妾は都会的の女だよ」
「俺もそう思う、都会的の婦人だ」
「山の乙女に変えるのさ」
「ははあなるほど! かなり解った」
「そういう女をかっぱらって来て、妾の変りに素っ裸体にし、ウネウネとここでのたくらせたら、大概大将だってゆきつくだろう」
「人身御供を取り変えるってわけか」
「妾の体に余ったのだから、他の体で間に合わせようってのさ」
「なるほどなあ、いいかもしれねえ」
「一日二晩秘術を尽くし、妾も随分働いたが、それで陥落しないんだから、これから働いても無駄ってものさ。免疫になっているらしい。慣れっこになっているらしい。そこで今度は反対の女で、もう一度膏汗を絞らせるんだね。いかな強情でも参るだろう。フラフラするに相違ないよ。武者振り付いて行くだろう。女が欲しかったら一味の連判、署名署名とやらかすんだね。ああそうだよ、そういう刹那に!」
「うん、こいつア署名するだろう!」
「ムラムラ、ヒョロヒョロ署名するよ」
「ところでそういうお誂え向きの女が、烏組の中にいるかしら?」
「さあそいつで困っているのさ」お紋ここで渋面を作った。「妾達はみんな忍び衆、肉附き豊かの大女は、何より禁物というところで、残念ながら見当らないねえ。……伊集院さんの方にはないかしら、そういう理想的の別嬪が」
すると伊集院考えたが、
「うん、あるある、一人ある!」
ポンと小膝を打ったものである。「酒場の浜路っていう奴だ! 御岳産まれの女だが、今は名古屋の桑名町にいる。そうさそこの旅籠にな! あいつをかっ攫って来よう!」
酒場の浜路を攫おうという、伊集院の言葉を耳にすると、お紋喜んだものである。
「だがねえ伊集院さん、浜路という娘は、妾の今云った条件に、あて篏まっているような女かしら?」
「大丈夫だよ」と胸を打った。「云ってみれば山の女神だ。肉附きがよくて上背があって、とても清浄で別嬪だ。自然から産まれた生粋の処女! そうだなあ、あの娘が、裸体になって踊ろうものなら、俺だってひとたまりもなくフラフラするよ」
「何んのために名古屋へ来たんだろう?」
「俺のニラミに間違いがなければ、男を追っかけて来たらしい」
「それじゃア生娘じゃアなさそうだね」
「生娘生娘、俺が引き受ける」
「何んだか大変詳しそうだね。いったいどういう身分なんだい?」
「ひとつ詳しく話してやろう」それから伊集院話し出した。「お前さんが特別の任務を帯びて、この名古屋へ入り込んだように、俺も特別の任務を帯びて、御岳へ入り込んだということは、もうお前さんに話した筈だ。古今の名医甲斐の徳本、もしも御岳にいるようなら、討って取ろうとこういうのが、つまり俺の特別任務さ。ところがこれと反対に、甲斐の徳本が御岳にいたら丁寧に守護して江戸へ入れよう。これが水戸家の魂胆で、使者の役目に立ったのが、山影宗三郎という若造さ。で俺と山影とは、敵同志というものさ。ところが御岳の萩原に、仁右衛門という郷士がいて、こいつが水戸の旧家臣、その娘が今の浜路だ。で山影め御岳へはいると、仁右衛門の家へ泊まり込んだものだ。ちょっと口惜しいが山影め、俺なんかよりいい男だ。そこで浜路が惚れたってものだ。しかるに御岳の山中に、薬草道人という隠者がいて、どうやらこいつが徳本らしい。で俺も山影も、道人さがしに取りかかったんだが、そのうちにわかに道人めが、この名古屋へ来てしまったのだ。そこでそいつを追っかけて俺もこの地へやって来たついでに、太郎丸様にお目にかかり、お紋さんとも逢ったって訳だが、俺の思うに山影めも、薬草道人の後を追い、名古屋へ来たに相違ない。山影が名古屋へ来たからには、初心の娘の一本気から、浜路も名古屋へ来ただろうと、こう見当をつけていたところ、案の定来ていたというものさ」
「でもよくうまく目付かったものだね」
「ナーニあの娘には用はねえが、薬草道人を目付けたいものと、昨日もブラブラ歩いているうちに、偶然目付かったというものさ」
「とにかくそういう娘があるなら、是非さらって来て玉に使おう。だがどうしてさらったものかね」
「こいつがちょっと厄介だなあ。何しろ宗春がいないというので、名古屋城中は大騒ぎ、そこへ美しい旅の娘が、またさらわれたと噂が立ったら、事少しく面倒になるなあ」
「そうさ」というと烏組のお紋、何かじっと考え込んだが、「いいよ、妾に考えがあるよ。喜び進んで先方から、さらわれて来るというようなね」
その時隣室から声がした。
「伊集院! お紋! ちょっと参れ!」
変に気味の悪い声である。
「おっ、太郎丸様だ、呼んでおいでになる」
二人揃って隣室へ行ったが、それと同時にムーという、さも苦しそうな声がした。
悶絶した尾張宗春が、自ずと蘇生したのである。茫然と四辺を見廻した時、冷っこい物が手に触れた。気が付いて見ると一匹の小蛇!
悶絶から覚めた尾張宗春、指先にさわった冷っこい物、見れば一匹の小蛇である。
心うっとりとまだ夢だ! 夢中で睨むと蛇の胴に、畳んだ紙片が巻き付けてある。長く真っ直ぐに延びたばかり、蛇は少しも動こうとはしない。
「はてな?」とさすがに不思議に思い、手を差し延ばすと紙片を取った。ほぐして見ると数行の文字。
「ご安心なさりませ、お助け致します。洞内へ入り込む道筋を、どうぞお教えくださいまし」
それは優しい女文字であった。
「ふうん」と宗春首を傾げたが、呻くように呟いたものである。「何んだかまるで夢のようだ! 濠端に立った一人の美人! それを見てから気が狂ったようだ。……ある夜逢ったのがその女! 云われるままに従いて行くと、突然一丁の駕籠が現われ、その戸がコトリと開いたかと思うと、自然と中へ吸い込まれ、ハッと思うとがんじ搦み。猿ぐつわをさえ篏められてしまった。どこを通ったか解らない。駕籠から出て見るとこの部屋だ! それから乱舞! 裸形の女! 島津を筆頭に前田、細川、外様大名が同盟し、幕府に弓を引くについては、連判状に加名せよと、しつこく逼ったがそれから後は、……どうやら気絶をしたらしい。……いったいここはどこなんだろう?」
四辺を見廻したものである。
「や?」
と宗春声を上げた。「ここは西丸から通じている『二方遁がれ』の地下の部屋だ!」
そこでじいいっと考えたが、
「とまれ何者かこの俺を、助け出そうとしているらしい。よし」と云うと膝の前の、硯箱から筆を取り、サラサラと紙の裏側へ、数行の文字を認めた。小蛇の胴へ巻き付ける。と、遠々にどこからともなく、あるかないかの口笛の音、ヒュ──ッ、ヒュ──ッと聞こえて来る。
連れて小蛇が動き出したが、どこへ行ったものか見えなくなった。
愛慾をそそる香の煙り! 愛慾をそそる龕の燈火! 依然として洞内は淫らであり、依然として洞内は物凄い。
と、宗春は立ち上がった。精神衰えてヒョロヒョロだ。フラフラと歩くと戸口へ行った。だが隣室から閂が、ガッシリ下ろされていると見え、押しても突いてもひらかない。
「こっちはどうだろう?」とまたフラフラ、もう一つの戸口へ行ってみたが、やっぱり駄目だ、動かない。
「駄目だ」と呻くと坐ってしまった。
誰もいないか音もない。
またも精根次第に疲労れ、岩壁に寄りかかると尾張宗春、朦朧状態に落ち入ってしまった。
御器所の森、大杉の木の前、ひそひそ話しているお絹とお仙。
「どうしたんだろうね、お仙さん、小蛇が帰って来ないじゃアないか」
「そうだねえ」と云いながら、お仙ヒュ──ッと口笛を吹いた。「帰って来たらしいよ、お絹さん」
「おやそうかい、有難いねえ」忍び龕燈の蓋をあけ、大木の腐穴へ差し向けた。とはたして一条の細紐、スルスルと這い出たものである。
ヒョイと取り上げた組紐お仙、
「胴に紙片が巻き付けてあるよ」
ほぐして読むと鷺組のお絹、「おお有難い入口が解った」
その夜が明けて朝となった時、一人の武士が名古屋城の北手、上名古屋の林を歩いていた。
享保年間の上名古屋辺は、いわゆる郷で農家が飛び散り、田畑や林の区域であった。
さて早朝のことであるが、その上名古屋の密林を、歩き廻っている武士があった。
「昨夜たしかにこの耳で、レキ、ロクという轍の音を、幽かながらも聞き込んだが、普通の荷車の音ではなかった。薬草道人の薬剤車! それではあるまいかと旅籠を飛び出し、追っかけた時にはどこへ行ったものか、轍の音が消えてしまった。……名古屋へ入り込んでから約一月、毎日毎日探し廻るのだが、行方が知れないとは心細いなあ」
それは山影宗三郎であった。傷もすっかり癒ったと見え、螢ヶ丘にいた時から見ると、肉附きもよく血色もよい。
「いずれ薬草道人のことだ、町の旅籠へなどは泊まるまい。森か林か田圃などへ、野宿などをして住んでいるかもしれない。こう気がついてこの二三日、郊外あさりをやり出したんだが、やっぱりどうも目付からない。ひょっとかすると名古屋を見限り、他の土地へ行ったんじゃアあるまいかな?」
思案に余ったというように、つくねんと切り株に腰をかけた。早暁の密林である。斜めに射し込む陽の光、奥所には靄が這っている。野菊、藤袴、女郎花、雑草の中に花が咲いている。
と、林の奥の方から、云い争う声が聞こえて来た。耳を澄ますと女の声!
「はてな?」と立ち上がると宗三郎、忍びやかにその方へ歩いて行った。
異った光景が展開されていた。
雪女郎のような一人の美女を、黒小袖を着た五六人の女が、グルリと取り巻いているのである。取り巻かれているのは鷺組のお絹、取り巻いているのは烏組の連中。
「おいお絹さん、そうはいかないよ! そんな手ぬかりをするような、ヤクザな烏組とは少し異う! 大概今日あたりは来るだろうと、昨夜からかけて待ち構えていたのさ。うまうま網に引っかかったねえ。ジタバタしたって追っ付かない、しょびいて行くからその意りでおいでよ」烏組の副将お竹である。
すると続いて烏組の連中、勝ち誇ったように喚き出した。
「あたじけないね、鷺組はさ! 御大将のお絹さんからして、こんなヘマなことをやるんだからねえ」
「『二方遁がれ』の城の間道、出口が二つある以上は、両方の出口へ人を配り、固めをするということぐらいは、誰にだって考えがつく筈だがね」
「それをウカウカやって来て、この出入り口から忍び込み、中納言様を奪い返そうなんて、あんまり智恵がなさ過ぎるよ」
「しかも大胆にも一人で来てさ」
「大胆なものか、迂濶なのさ」
「お前さんさえ捕らえてしまえば、水戸の鷺組は全滅だ。そこで島津の烏組が、名古屋の町中あばれ廻り、翼を伸ばすということになる。お気の毒さま、競争は勝ちだ!」
「オイお絹さん」
と副将のお竹、憎々しい嘲笑を浮かべたが、
「何んとかお云いよ、え何んとか! それとも云うことがないのかい、気の毒だねえ、気の毒だよ」
何んと云われても鷺組のお絹、黙って地面を見詰めていた。お絹の視線の落ちた所に、巨大な鉄盤が置いてある。
黙ってはいるが鷺組のお絹、心の中ではいろいろと、考えに耽っているのであった。
「こいつは妾の失敗だった。さあどうしたら遁がれられるかしらん? ……小蛇を使って聞き出したは、『二方遁がれ』の間道口、西丸大奥の床下から始まり、一方の出口は御器所の杉の木、もう一方は上名古屋の、密林中だと知ったので、用意もせずに飛んで来たんだが、なるほどねえ、莫迦な話さ、『二方遁がれ』と承知して、そいつを利用した烏組だもの、二つの出入り口へ固めを付け、人を配って剖かれないように、仕組んでいるのは当然じゃアないか。急いては事を仕損ずる! つまらない格言だが今度という今度、ひどくこの胸に滲みっちゃった。一刻も早く中納言様を、助け出そうとした事が、こういう手違いを産んだってものさ。……おやおやひどく烏組の奴ら、そっくり返って威張っているよ。いくら威張られても仕方がない。……ははああそこにあるあの鉄盤、草に蔽われ錆びてはいるが、あれが出入り口に相違あるまい。……あいつを持ち上げるとドカリと穴、そこからはいって行けるんだろう。……何んとか毒吐いてやりたいが、こう形勢が悪くては、毒吐く材料だってありゃアしない。……ふふん相手は六人か! これが普通の女とか、ないしは普通の侍なら、鷺派の忍びでごまかして、あっさり逃げてしまうのだが、相手が同じ忍び衆では、ちょっとそいつも出来ないねえ。……困った困った困ってしまった。……こんな事なら仲間に話し、遠巻きさせればよかったんだが、何が烏組と莫迦にしたので、とうとうこんな破目に落ち込んでしまった! どうにも足掻きがつかないねえ。……」考えがグルグル渦を巻く。「それにしてもこいつら変じゃアないか! どうして飛びかかって来ないのだろう? いやに悠々としているじゃアないか! おかしいねえ、気味が悪いよ!」考えがグルグル渦を巻く。「おやおや、いよいよ変だねえ、みんな草っ原へ坐ってしまったよ」
いかにも烏組の六人の女、ベタベタと地面へ坐ってしまった。
と、お竹が云い出した。
「まあお絹さんもお坐りなさいよ。天気だってこんなにいいんだからね。そんなにキョトキョト見るもんじゃアないよ。面白い話でもしようじゃアないか」それから暢気そうに云い出した。
「昔々ある所に、烏と鷺とがいたんだとさ、烏は黒くて鷺は白く、そうして鷺は大莫迦で、烏は大変利口だったとさ。ええとそれから何んだっけ。……」
「ふざけていやがる」と思ったが、お絹にはどうにも出来なかった。
ノビノビと坐ってはいるものの、その坐り方が尋常でない。ちゃあアんと忍びの骨法に適い、逃げ出す隙間がないのであった。すなわち六人が六方に分れ、グルリと一つの円陣をつくり、お絹を取り巻いているのであって、ビクとでもお絹が動こうものなら、すぐに円陣がキューと縮まり、難なく取り抑えてしまうだろう。ねばいねばい鳥黐の輪が、伸縮自在を暗示して、置かれてあるとみなさなければならない。お絹にもそいつは解っていた。解っているだけに身動きも出来ない。心をイラツカせるばかりである。
と、お竹が飛び上がった。
「さあいよいよやって来たよ」林の一方を見たものである。
そっちへ眼をやった鷺組のお絹、「あっ!」と思わず声を上げた。黒く塗られた駕籠が一丁、屈竟な男に担がれて、トットとこちらへ来たからである。恐ろしい恐ろしいトヤ駕籠だ!
密林を分けて飛んで来た駕籠! すなわち烏組のトヤ駕籠である。
「南無三、こいつは偉いことになった!」
立ち縮んだお絹を尻眼にかけ、烏組の連中囃し出した。
「島津家の女忍び衆、烏組発明の捕り物道具、さあトヤ駕籠だトヤ駕籠だ! 二間の彼方へトンと据え、戸をひらくと自ずから、スルスルと人を引き込みます。と四方から捕り縄が、シュッと蛇のように走り出し、がんじ搦みに致します。神妙のカラクリ、特別仕掛け、捕らえたが最後放さない! おいお絹さん気の毒だねえ、いかにジタバタ踠こうと、もう金輪際遁がれっこはねえ! かごの鳥っていう奴さ! 捕虜だよ捕虜だよ妾達のね! それともお前さんの属している、水戸家の女忍び衆、鷺組に何か手段があり、遁がれられるなら遁がれてごらん! もしお前さんに遁がれられたら、その時かぎりトヤ駕籠を廃し、それこそ妾達一人残らず、お前さんに降参してもいい。が、そいつはまず出来まい。そこで捕えて連れて行く。その行く先は? 妾達の住居!」こう云ったのは副将お竹。
「オイ!」ともう一人の烏組が云う。「どだいお絹さんが間抜けだよ、さっきからお前さんをグルリと取り巻き、今まで悠々と話し込んでいたら、大概こんな結末になると、感付きそうなものではないか。早くトヤ駕籠の現われない前に、逃げてしまえばよかったんだよ」
するともう一人が憎々しく、「腕がないのさ、つまるところね。水戸の鷺組なんて威張ったところで、大将のお絹さんがこんな塩梅なら、他はおおかた知れている。ボンクラばかりが揃っているんだろう」
するともう一人が得意そうに、「これで島津の烏組の、腕の凄さも知れただろうね。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、いい気味だよ」
その時お竹が声を掛けた。「さあお前さん達駕籠を下ろし、ポンと景気よく戸をあけておくれ。……」
「おい」と云うと二人の駕籠舁き──と云っても島津家の家臣なのであろう、トンと駕籠を舁きおろした。
と、見て取った烏組の連中、数間の背後へ飛び返り、半円を描くと手を繋ぎ、馬鹿にしきった態度口調で、
「シーッ、シーッ」と声をかけた。鷺組のお絹を雛っ子に見立て、禽小屋へ追い込もうとするのである。
残念ではあるが鷺組のお絹、どうすることも出来なかった。実際烏組のトヤ駕籠の、不思議を極めたカラクリを、どうして破ってよいものか、見当が付いていないのであった。そのくせ、トヤ駕籠の恐ろしさは、充分知っているのであった。
「これはいけない、いよいよいけない。……あの駕籠の戸が開いたが最後、妾は捕えられる、捕えられる。……」
さりとて逃げることも出来なかった。烏組の連中が半円をつくり、手を繋いで黐網のように、ネバネバと背後から取り巻いている。突破することは絶対に出来ない。
「勝手にしやがれ!」と諦めたお絹、トヤ駕籠の戸を睨み付けた。
と一人の駕籠舁きの手、グイとばかりに駕籠の戸へかかり、コトンと一方へ開けられようとした時、
「待て!」と云う声が響き渡り、木蔭から石礫が投げられた。ツト現われたは山影宗三郎、刀を抜くと背後から、烏組の群へ切り込んだ。
山影宗三郎切り込んだものの、相手は女、大人気ない、こう思ったか太刀の峰で、バタバタと二人ほど叩き仆した。
「これ!」とそこで声をかけた。「島津家の女忍び衆、烏組とあるからは拙者にも敵! 用捨はしない、叩っ切る! と云っただけでは解るまいが、水戸の藩士山影宗三郎! それが拙者だ、この俺だ!」今度はお絹へ声をかけた。「鷺組の頭領お絹殿か! お噂は以前より承わっております。ご危難のご様子、立ち聞きしてござる。しかし拙者が参った以上、ご安心なされ、大丈夫! お味方致す、追い払って上げます。……これ!」と烏組を一睨した。「来るか! それとも逃げ出すか! 来れば許さぬ、今度こそ切る! 逃げれば許す、追いはしない! どうだどうだ! 女郎どもめ!」
ここで大勢ガラリと変り、烏組の連中逃げ出す事になった。不意の助太刀! 敵へ出た! もうこれだけでも仰天ものだ。その上随分の手利きらしい。例えトヤ駕籠の戸を開けても、二人を同時に捕えることは出来ない。一人を捕えているその間に、他の一人に切り立てられ、その上肝腎のトヤ駕籠でも、破壊されたら大変である。それに時刻は早朝である。烏組の忍びが優秀でも、不意に現われた強敵を、太陽の下に捕えることは到底出来るものではない。
「お逃げよお逃げよ、お前達!」副将お竹が声をかけた。
で、みんな逃げてしまった。
衣紋をつくろった鷺組のお絹、嬉しそうに一礼したものである。
「山影様でございましたか、同家中ながら妾は忍び、どなたにも顔を晒さないように、訓練されておりますので、これまでお目にはかかりませんでしたが、お噂は承わっておりました。また今日はあぶないところを、ようこそお助けくださいました。お礼は海山申されません。ついては……」と云うと意気込んだ。「ご迷惑かは存じませぬが、この際なにとぞもう一度、ご援助願いとう存じます。私のお願いというよりも、主家水戸家の願いであり、徳川譜代大名の、一統の願いでもございますので」
「ははあ」と云うと山影宗三郎、いささか不思議そうに首を傾げた。「何事でござるな、お願いとは?」
「一刻を争う火急の場合、詳しい事情は追ってとして『二方遁がれ』の間道に、幽囚されおる尾張様を、お助けくださることなりますまいか?」
「二方遁がれ? 尾張様? 意味深そうなそのお言葉、事情はゆるゆる承わるとし、主家に関係ある上に、譜代大名一統にも、関係あると承わって見れば、うっちゃって置くことは出来ますまい。よろしゅうござる、何事であれ、ご助力することに致しましょう」
「有難い仕合わせ! お礼申します」
ヒラリと飛ぶと鷺組のお絹、地面に草に蔽われながら、横仆わっている鉄盤へ、双の腕をヒョイと掛けた。直径一間はあるだろう。大鉄盤が女の力で、持ち上がるべき理由がない。
「ナーニ、妾には解っているよ」お絹呟くと走り廻った。「うむ、これだよ!」と呟くと、数間離れた地面の一箇所、そこにニョッキリ突起している、赤錆びた槓杆を引っ掴んだ。グッと押すと予想した通り、大鉄盤が持ち上がり、その後へ円形の穴が出来た。
まず飛び込んだはお絹である。つづいて宗三郎が飛び込んだ。ズンズン進むと一つの部屋!
お絹と宗三郎間道を進んだ。と一つの部屋へ出た。ただしこの辺は真っ暗である。湿気がジメジメと肌へ透る。
「燈火をつけましょう、お待ち遊ばせ」こう云ったのは鷺組のお絹、懐中から何か出したらしい。カチカチと金具の音がした。と、燧石の音がした。ボ──ッと火光が部屋を照らした。忍び衆常用の龕燈提灯、折り畳み式になっている。それを組み立て点火したのだ。
龕燈を差し上げた鷺組のお絹、部屋の四方を照らして見た。四方の壁は岩である。天井もがんじょうの岩である。壁の三方に戸口がある。扉があって錠が下りている。錠を外して扉をあけなければ、どの方面へも進めない。どうしたら錠を外すことが出来るか? 合い鍵がなければ外れっこはない。
お絹ちっとも驚かなかった。グイと懐中へ手を入れると、一本の畳針を取り出した。と、そいつを錠穴へ入れた。すぐビーンと錠が外れた。
「妾達忍び衆の身にとっては、錠など何んでもございません。一本の針さえございましたら、城門でも破ってお目にかけます。そういう方面にかけましては、夜盗以上でございますよ。敵国の城の大奥へ忍び、城主の寝首を掻くことさえ、妾達には充分出来ますので」これがお絹の説明であった。
二人はズンズン進んで行く。と、丁字形の辻へ出た。
「お待ちくだされ」と鷺組のお絹、辻の真ん中に佇んだが、何か物音でも窺うように、じっと聞き耳を引き立てた。
「左手の地下道は相当広く、よく坦々とならされております。これは名古屋城西丸へ、通じている道でございましょう。それに反して右手の地下道は、狭くて険しゅうございます。思うに恐らくこの道は、御器所の森の大杉の木、『二方遁がれ』の間道口、そこへ通っているところの、連絡道でございましょう」でそっちへ行くことにした。容易に歩みははかどらない。幾筋か枝道が出来ている。ある所は彎曲をなし、ある所は螺旋形をなし、うっかり枝道へ分け入って、行き詰まるようなこともあった。
さあ幾時間費したろう? 朝ではあるまい、日中だろう? 否あるいは夕方かもしれない。ただし地下道は闇である。ただ龕燈の光ばかりが、行く手を照らすばかりである。
「おや!」というと鷺組のお絹、にわかに立ち止まって聞き耳を立てた。「お聞きなさりませ、山影様、あれ水音が聞こえます」
云われて宗三郎耳を傾けた。いかさま大河の流れるような、大水の音が聞こえて来た。
「いかにも水音、これは不思議、どこを流れているのでござろう?」
「さあ」と云ったがお絹にも、河の在所が解らないらしい。「先へ進むことに致しましょう」
依然として道は歩きにくい。あえぐようにして進んで行く。
と道が行き詰まった。その正面に扉がある。鍵の穴から仄々と、菫色の火光が射して来た。
「山影様」と鷺組のお絹、宗三郎の耳へ口をつけた。「いよいよ参ったようでございます。燈火の光の射す以上は、人がおらなければなりません。どれ!」と云うと顔を寄せ、鍵の穴から覗き込んだ。「まあ!」と叫ぶと飛び返った。「ご覧なさりませ、山影様!」
そこで山影宗三郎、鍵の穴から覗き込んだ。まず最初に、「むう──」と唸り、それからよろめいたものである。
「浜路殿がおられる! 浜路殿が!」
そこで浜路の物語になる。
山影宗三郎と鷺組のお絹、二人が地下道へ入り込んだ日の、ちょうど夕方のことである、桑名町の旅籠、三升屋の二階、そこの上等の一室に、話し合っている男女があった。
「どうも空耳ではなさそうだよ、たしかに昨夜聞き覚えのある、道人様のお車の、轍の音を聞いたようだよ」こう云ったのは萩原仁右衛門。
「妾もそんなように思われます」こう云ったのは浜路である。
御岳を下りて中仙道を下り、名古屋の城下へ入り込んで以来、親子二人してここに宿り、日数を重ねた目的は、山影宗三郎を探すためであった。
純な乙女の恋心、宗三郎が道人の後を追い、名古屋へ行ったと知った時、浜路は遮二無二一人ででも、後を追おうと云い出した。仁右衛門一時は止めたものの、止めて止まりそうな様子ではない。さりとて若い娘一人を、放してやる事は出来なかった。そこで自分が附き添って、共々名古屋へ来たのであったが、名古屋は広く且つ繁華、宗三郎のおり場所を、さがし当てることは出来なかった。で、浜路が憂鬱になる。この頃ではどうも血色さえ冴えない。痩せさえ少し目立って来た。それを見るのが仁右衛門には辛い。親子の情というのだろう。そこで毎日町へ出て、心あたりを探すのであるが、一向雲を掴むようで、見当さえもつかないのであった。
ひょっとかすると宗三郎は、もう名古屋にはいないかも知れない。あきらめて江戸へ帰ったかも知れない。──などとこの頃では浜路も仁右衛門も、危惧の念いに捉われるようになった。そこへゆくりなく薬草道人の、薬剤車の轍の音が、昨夜聞こえて来たのであった。
──薬草道人を探しあてようと、名古屋へやって来た宗三郎である、薬草道人がいるからは、宗三郎も名古屋にいなければならない! で今日は浜路も仁右衛門も、いくらか心が明るくなっていた。
「町の噂でも聞いて来よう」
こう云って仁右衛門が出かけて行った後、一人浜路は部屋に残り、物思いに沈んでいた。
「ごめんください」とはいって来たのは、お仲という三升屋の女中であった。「お客様ご書面でございます」差し出したのは一封の書面。
受け取って浜路仰天した。恋しい山影宗三郎から、彼女へあてた手紙なのである。
先日三升屋の門を通り、彼女を見かけたということと、目下自分は病いを発し、看病をしてくれる者もなく、みじめに暮らしているについては、是非とも見舞ってくれるように、そのため駕籠を差し向けた──これが書面の文意であった。
もしも浜路が冷静に、前後の事情を考えたなら、贋手紙であることに思い及んだだろう。文字が宗三郎の文字でない。この一事だけでも感付くことが出来る。がしかし浜路は恋に眩み、とおから冷静を失っていた。宗三郎恋しさで一杯であった。その恋しい宗三郎が、病気で困っているという! カーッと一時に血が燃えて、父の帰りを待とうともせず、いわゆる取るものも取りあえず! そういう心持ちに猟り立てられ、部屋を飛び出して行ったのは、可哀そうでもあれば当然とも云えよう。
門へ出てみると駕籠がある。黒く塗られた気味の悪い駕籠だ。
「駕籠屋さん」と浜路声をかけた。
「へい」と立ち上った二人の駕籠舁き、カタンと戸をあけるとスルスル、浜路内へ吸い込まれた。と、駕籠が宙に浮き、走り出したのは御器所の方面!
浜路を乗せたトヤ駕籠一丁、御器所の方へ走って行く。昼も暗い御器所の森、そこに立っている大杉の木、そこへは駕籠は着かなかった。今日の地理で云う時は、北丸尾八二ノ四、まずその辺の高台へ、スーッと舁き込まれたものである。
そこに陰気な屋敷があった。
その屋敷の奥まった部屋で、さっきから話している三人の人物、一人は伊集院五郎であり、一人は烏組のお紋であり、一人は見知らない異様な人間、しかしお紋と伊集院とが、いかにも恭しい物云い方で「ご前、ご前」と云っているところを見ると、偉い人物に相違あるまい。熟柿のような赧い顔、その大きさは普通の男の、一倍半はあるだろう。いわゆる一種の童顔で、垂れた眉、垂れた巨眼、偉大な鼻、厚い唇、ダブダブしたくくり頤、胸毛が黒々と生えている。身長は低いがタップリと肥え、巨大な蟇を連想させる。半白の髪を肩へ懸け、黒地無紋の帷子を着し、黒地の小袴を穿いている。一見卑しそうに見えていて、しかも非常に高貴なのである。そうして大変智恵者らしい。残忍性と反逆心との、雑り合ったような人間でもある。脇息に倚っている様子、酒テン童子を想わせる。
「由来尾張宗春はの、反骨稜々たる快男子なのだ。そうして将軍家に対しては、反感を抱いている筈なのだ。と云うのは他でもない、先将軍死去にあたり、紀州吉宗が将軍になるか、尾張宗春が将軍になるか、劇烈な競争をしたあげく、とうとう宗春が失脚し、吉宗が将軍になったんだからな。いってみれば当今の吉宗将軍は、宗春にとっては癇癪に障る、憎い憎い敵なのだ。そこでこの俺が膳立てをし、島津を盟主に外様大名、連衡をして徳川家にあたり、幕府を仆そうと計画し、その連衡は成就したが、徳川家の連枝尾張宗春、これを一枚加えると、一層気勢を昂めるので、手を代え品を代え陰に陽に、説き進めてみたが応じない。いかに吉宗は憎くとも、徳川宗家へ弓引くことは、彼といえども怖いのだろうよ。……そこで少しく卑怯ではあったが、ひとつ色仕掛けでたぶらかし、夢中の裡に味方に引っ込み、連判状へ署名させようと、お紋、お前を呼び寄せたんだが、お前の手にも合わなかったらしいな。……が、ああやって捉えてさえ置けば、計画の半分はとげられたというもの、ナニすぐに味方に附けてみせる。……それにしてもこれまでに運ぶには、俺も随分苦心したよ、他人の名義でこの家を建て、中庭から新たに地下道を掘り、『二方遁がれ』の間道へ、連絡したということは、掻い撫での奴らに出来るものではない。おおっぴらにやるのなら何んでもないが、夜陰秘密にやったのだからなあ。……がそれにしても名古屋の城下へ、薩摩の太守島津大隅守、その一族の島津太郎丸が、こっそり住居していると知ったら、尾張家の家中仰天するだろうよ。アッハッハッハッ、面白いではないか!」
酒テン童子のような豪快な人物、こう云ってカラカラと笑ったが、これぞ島津太郎丸、歴史の表では有名ではないが、この時代の一梟雄、島津家七十七万石を、切って廻していた人物である。この頃年齢五十五歳、幕府の老中若年寄などさえ、彼の名を聞くと怖気を揮い、「恐ろしい人物! 恐ろしい人物!」こう云って憚かったほどである。
「伊集院!」と太郎丸呼びかけた。「贄に供えるという浜路とかいう女、間違いなく捕えて来るだろうかな?」
すると伊集院膝を進めた。
「ご前、大丈夫にございます」
大丈夫と云った伊集院五郎、大丈夫の理由を説明した。
「御岳産まれの浜路という娘、恋人があるのでございます。山影宗三郎と申しまして、我々にとっては敵方の、水戸の藩士にございます。で私とお紋殿と機転を利かせ、その宗三郎の贋手紙をもって、おびき出すことに致しました。喜三太、嘉市というトヤ駕籠使いの名手、その二人に託しましたれば、まず間違いなくおびき出し、連れ参ることと存ぜられます」
「うむ、その山影宗三郎だが、たしかその方と御岳山中で、甲斐の徳本と想像される、薬草道人とかいう不思議な隠者を、中心にして争った、その水戸家の侍だな?」こう訊いたのは太郎丸。
「はい、さようにございます」
「ところでその方は何んのために、甲斐の徳本を討ち果たすよう、大殿から直々使命を受け、御岳山中へ分け行ったか、その理由を知っているかな?」
「は、詳しくは存じませぬが、どうやら柳営におかれまして、我が君様と水戸のお館とが、甲斐の徳本の有無について、ご議論なされたのが原因だとか?」
「そうだよ」と太郎丸頷いた。「ひとつ詳しく話してやろう。これは柳営の秘密だが、将軍吉宗大病なのだ。で、ある時総登城、ご機嫌をうかがったことがある。その時水戸のお館が、木曽山中に古今の名医、甲斐の徳本が隠棲し、霊薬十本の薬草を、栽培しているということであるが急ぎ召し寄せたならどうであろうかと、こう熱心に建議したのを、我らがご主君島津殿には、甲斐の徳本存命ならば、本年一百八十歳となろう、さように生くべき道理ござらぬと、即座に反対されたため、忽ち議論二派に別れ、譜代大名は水戸方に賛し、外様大名は島津方に同意し、キシミ合ったというものだ。その結果水戸家では家臣を遣わし、甲斐の徳本を招こうとし、島津家では反対にそちを遣わし、事実徳本存命ならば、討ち果たすよう命じたものさ。が、こんなように云ってしまえば、事は甚だ簡単だが、その実中身は複雑なのだ。と云うのは徳川を仆そうという、我々外様組の陰謀は、吉宗将軍死去の日をもって、勃発させようとしているのだからな。そこへ甲斐の徳本が現われ、将軍家の病いを癒そうものなら、我々の計画は自ずから、齟齬を来たそうというものだ。であくまでも甲斐の徳本は討って取らなければならないのだ。……で尾張宗春を、謀反の一味に加えようとする、この太郎丸の計画も、甲斐の徳本を討ち果たそうとする、伊集院お前の計画も、帰するところは一つなのだ。徳川幕府を顛覆する! 悉皆そこへ帰納されるのさ」
「よく解りましてございます」伊集院五郎頷いた。「お話によりまして私の使命の、いよいよますます重大のことを、充分に知ることが出来ました」
「ところで薬草道人とかいう、例の御岳の不思議な隠者、たしかに甲斐の徳本かな」
「どうやらそんなように思われます」
「で、名古屋へ入り込んだのだな」
「そんな塩梅にございます」
「至急目付けて討ち果たさずばなるまい」
「心得ましてございます」
その時間の襖が開き、小侍が現われた。
「トヤ駕籠帰りましてございます」
「おおそうか」と太郎丸、「で、獲物は? とり抑えたかな」
「はい、首尾よく参りましたそうで」
「そうか」と太郎丸立ち上がった。「すぐに廻せ! 中庭の方へ! 伊集院、お紋、さあ参れ!」三人揃って中庭へ出た。
太郎丸とお紋と伊集院、中庭に出るともう宵だ。庭の一所に築山がある。そこまで行くと立ち止まった。と、建物の角を廻り、現われたのは例のトヤ駕籠、トンと下ろすと二人の駕籠舁き、平伏をしたものである。
「喜三太、嘉市、ご苦労であった。すぐに娘を引き出すよう」島津太郎丸声をかけた。
「はっ」というと先棒の喜三太、ポンと駕籠の戸を引きあけた。
覗き込んだ太郎丸、「うむ、可哀そうに気絶をしている。が、結句幸いだ。気絶したまま地下道へ運べ」
築山の一所へ手を触れた。とそこへ口があいた。すなわち間道の入口である。真っ先に進んだは太郎丸、つづいて伊集院とお紋が行く。その後から喜三太と嘉市、気絶している浜路の体を、肩と両足とで支えながら、三人の後から従いて行く。
新しく作られた間道である。平坦で広くて歩き易い。間もなく行き着いたは一つの部屋、ぼんやりと龕の灯が点もっている。
「喜三太、嘉市、そち達は帰れ」
「はっ」と云うと二人の者、浜路を床の上へ舁き下ろし、間道づたいに引っ返した。
気絶したまま可哀そうな浜路、三人の眼の前に横仆わっている。乱れた髪の毛、蒼褪めた顔、崩れた衣裳、露出した肌、その肉体の豊麗さ! 秀麗な御岳の山霊に、育まれて出来た女神である。
「ううむ」と太郎丸唸ってしまった。「なるほどなあ、よい体だ! 一糸も纒わず、裸体にし眼の前へ出されたらおおかたの男、夢中で飛びかかるに相違ない。好色漢の尾張宗春、一も二もなく退治られるだろう。……さてお紋、これからどうする?」
「はい」というと烏組のお紋、「このまま隣室へ押し入れて、餌食にすることに致しましょう。なまじ気絶から覚めましたら、ジタバタ騒いでかえって邪魔、それに死んだように動かない、気絶の女を見るということは、好色漢の、宗春卿の、情慾を一層そそり立てる、よい手段になろうも知れず、……」
「うん、よかろう、すぐに掛かれ!」
「伊集院さん、手をお貸しよ」
「よし来た」
とばかり伊集院、浜路の体を引っかかえた。お紋すかさず間の戸をあける。と、入り込んだ伊集院、浜路を隣り部屋へ転がし込んだ。引っ返すと戸を閉じた。
さてここは隣り部屋、坐っているのは尾張宗春。その前には連判状、その前には硯箱、煙っているのは香炉の煙り、照っているのは菫色の燈火、いずれも愛情を誘う道具!
と宗春、顔を上げた。昨夜よりも一層やつれている。色情狂じみた眼の光! ふとその眼で認めたのは、衣裳乱れた若い女! 死んだように動かない一人の娘!
「お紋かな? いや異う! 似ても似つかない生娘だ!」悩乱した頭脳にも感じられたのは、処女性を備えた豊満の肉体。
宗春ブルブルと顫え出してしまった。ジリジリと側へ寄って行く。その手が浜路へかかった時浜路気絶から覚めたらしい。ポッカリ眼を開けて四辺を見た。まず眼についたは四方の岩壁、つづいて眼についたは若い武士。──宗春の狂気じみた顔である。事情は解らぬ、ただ恐ろしい! 飛び上がると夢中で叫んだものである。
「お助けくださいまし! 薬草道人様!」
極度の恐怖に襲われた時は、超自然的威力に縋るものである。父仁右衛門の名も呼ばず、恋人宗三郎の名も呼ばず、薬草道人を呼んだのはまさに当然の事と云えよう。
その日薬草道人は、材木小屋に住んでいた。
可哀そうな浜路が姦策にかかり、恐ろしい地下道の一室へ、閉じ込められた同じ日の、夕暮れ方の事であった。堀川筋、日置の地点、そこに出来ている材木小屋の中に、さもノンキそうに薬草道人、私娼のお吉と話していた。木小屋と云っても作ったものではない。自ずから出来たものである。ここら辺りは材木置所、数万本の材木が、堀川の岸に並べられてある。流域半里ぐらいに渡るかもしれない。材木と材木とが重なり合い、自然と出来た無数の空間、一間に五人ぐらいは住むことが出来よう。この辺一体に蔓っている私娼、今も名付けてモカという。
一つの空間には猪十郎と紅丸、薬剤車を守りながら、何かヒソヒソ話している。こっちの空間では薬草道人、お吉を相手に閑談である。
「昨夜はお蔭でよく眠れたよ。全くここは気に入ったよ。立派なお屋敷というものさ。こんないいお屋敷が出来ているのに、浮世の莫迦な連中は、他に大きな家を建て、窮屈な思いをして住んでいる。話せないね、全く話せない。馬鹿と利口の分け方だって、そりゃア色々あるだろうが、家の建てっぷりを標準にしたって、立派に分けることが出来ようってものさ。大厦高楼を建てる奴、こいつが一番馬鹿者で、利口の奴は借家へ住む。そうして一番利口のお人は、自然と出来た木小屋へ住む。だからお前さん達モカ連が、一番利口者ということが出来る。全体家を持つということは、煩悩を持つということなのさ。家が出来ると家具が欲しくなる。最初は安物で我慢するが、だんだん高い物を買いたくなる。そこでお金が必要になる。で、アクドク儲けようとする。そこで悪いことをやるようになる。とどのつまりが牢屋入りさ。ご覧よお釈迦さんは家を出てしまった。そこで坊さんを出家という。家をオン出るということは、実にそんなにもいいことなのだ。だから家を持つということは、またそんなにもよくないことなのだ。浮世の善悪の別れ道、家を持つか持たないかにあるよ。……それはそうとお吉さん、昨夜のお前さんの話によれば、山影さんとかいうお侍さんに、恋い焦がれて御岳を出、この名古屋へ来たそうだが、それは大変いいことだよ。と云うのはこういう訳さ。お前さん達玄人は、肉からはいって精神へ抜ける。そこで初めて救われる。そいつの手助けをするものが、恋しい懐しいという『恋心』だからな。そうだ全く『恋』ばかりが、お前さん達を浄化させるのさ。ところがこいつが反対に、素人となるとそうはいかない。貴婦人方や令嬢方は、精神、精神、精神とおっしゃる。精神が散歩でもしているようにな。精神からはいって肉へ行く。そうして肉で行き詰まってしまう。仲立ちをするのが『恋』という奴さ! だからこういう人にとっては、『恋』という物いけないなあ。……これは不思議だ! どうしたんだ!」にわかに屹と薬草道人、堀川の水面を睨み付けた。
堀川の水が崖の中へ、ズンズン吸い込まれて行くのであった。
堀川の水が崖の中へ、もちろん徐々にではあるけれど、まさしくズンズン吸い込まれて行く。
屹と眼を付けた薬草道人「ははあ」と心で頷いた。「さては水路を利用した、間道があるに相違ない。名に負う名古屋の大城だ、いろいろに巧んだ間道が、四方八方にあるのだろう。よしひとつ探ってやれ!」そこで呼びかけたものである。「さあさあお乗り、船へお乗り! 面白い所へ連れて行ってあげよう。紅丸さんに猪十郎さん、お吉さんも乗るがいい。……松火がわりに二三本、細い木口を積んだり積んだり!」
無数に小船が纜っている。その一つへ飛び込んだ。つづいて三人がヒラリと乗る。崖へ手を延ばした薬草道人、その辺を探ると思ったが、手に連れて崖の一所が、グ──ッと左右へ押しひらけた。
「思った通りだ。蝶番い細工、崖の色合いによくにせて、ちゃんと水門が出来ていやがる」
小船、水路へ流れ込んだ。ズンズンズンズン流れて行く。水勢はゆるくはあったけれど、所々に瀬があって、ゴ──ッと高い水音がする。
「紅丸さんや、松火をおつけ!」
「はい」と云うと童子の紅丸、野宿の場合の用心に、いつも燧石を持っている。カチカチと磨ると火を出した。木口に移して早速の松火。忽ち水路明るくなる。水路の幅は約二間、しかも精巧に作られている。左右は岩壁、天井も岩壁ところどころに凹所がある。
ズンズンズンズン流れて行く。水勢益〻ゆるやかだ。と、水路が小広くなった。水がよどんで動かない。と、道人声をかけた。
「船をお止め、船をお止め!」
棹を突っ張ると猪十郎、グ──ッと船を岩壁へ付けた。もう船は動かない。
天井を見上げた薬草道人、紅丸へ囁いたものである。「聞こえるだろうな、人声が」
「あっ、いかにも道人様、女の泣き声が聞こえます」
すると続いてお吉が云った。「そうして男の呻き声が!」
「さよう」と道人ひきしまった。「何か事件が起こっているな。よくない事件! 不吉な事件! これはうっちゃっては置かれない」
「でも天井が巌では」
「駄目だなあ」と薬草道人、「天井が普通の巌なら、人声なんか聞こえないよ。人工で作った岩天井さ。……松火をお上げ、松火をお上げ」
松火で天井を照らして見た。一個の鉄環が下がっている。
「そうれごらん、この通りだ。あの鉄環をグイと引く、すると天井が一方へ傾ぐ、その隙間から這い上がる、上の間道へ行けるのだ。間道作りの一様式、いずれ何んとか名があるんだろう。が、そんなことはどうでもいい。どれ」というと手を延ばし、グイと鉄環をひっ掴んだ。「俺一人では力が足りぬ。さあさあ皆俺へ取り付け! 待ったり待ったり少し待ったり! 様子を見よう、機会を待とう」
耳傾けたものである。
ちょうどこの頃のことである、名古屋の城の西丸の床下、そこに出来ている間道基口、そこへ飛び込んだ武士がある。その人数二十人、先に立ったは山形三弥、それと並んだは山路紋右衛門、その他近習の面々である。宗春さがしの捜索隊! しかしどうして尾張宗春が、間道に幽囚されたことを、これらの武士は知ったのであろう?
三弥、紋右衛門を先頭に、城中からの捜索隊御器所口の方へ走って行く。障害のない平坦な間道、すぐにも御器所口に着くだろう。
どうして彼らは尾張宗春の、居場所を発見したのだろう?
いやいや彼らは盲目滅法に、ただひた走って行くのであった。
宗春の姿の見えなくなって以来、いかに城中が沸騰したか? 言葉に尽くせないものがあった。城内隈なく探したが、宗春の姿は見付からない。城下はもちろん四方八方へ、人数を派して探したが、見付け出すことは出来なかった。
問題が問題、公には断じて発表をすることが出来ない。秘密を守って探さなければならない。この事世間に知れようものなら、人心を不安に導くだろう。この事幕府へ知れようものなら、罪を蒙らないものでもない。
秘密秘密、絶対に秘密! 秘密に捜索するために、自然に行動迅速を欠き、宗春はたしてどこにいるか、今に見当さえ付かないのであった。
こういう場合に咎められるのは、お側去らずの寵臣であった。で、三弥と紋右衛門、憎しみのマトにされてしまった。すっかり恐怖した二人の近習、責任感も伴って、クルクルクルクル探し廻ったが、かいくれ宗春のおり場所が知れぬ。と云って探さないではいられない。少くもいかにも忙しそうに、駈け廻っていなければ責められる。
ふとその時気が付いたのは「二方遁がれ」の間道のことで、もしもおったら儲け物、たとえいなくとも元々だ! で、同輩もろともに、間道さがしに取りかかったのであった。
この思い付きは非常によかった。間道を真っ直ぐに走りさえすれば、「二方遁がれ」の御器所口の、宗春のいる岩部屋の、右の戸口へ出られるからで、そこの扉さえ踏み破ったなら、自然宗春を目付ける事が出来る。しかし現在の二人には、そんな幸運は想像もされず、不安ばかりに捉えられていた。
「殿のお行方知れぬ以上、拙者はどうでも切腹致す」こう呻いたのは三弥である。
「同じでござる、拙者も切腹!」こう応じたのは山路紋右衛門。
走る走るひた走る! 間もなく行きつくに相違あるまい!
さてこの頃宗三郎とお絹は、宗春と浜路の籠っている、その岩部屋の左手の戸口、その外側に立ち縮みながら、内の様子を窺っていた。
鍵穴から覗いた宗三郎が、
「浜路殿がおられる! 浜路殿が!」
こう叫んだのはこの時なのであった。
「おお、お絹殿、お願いでござる! すぐに錠前をお外しください! 助けなければならぬ、助けなければならぬ! 彼奴は誰だ! あの侍は! 無礼にも浜路殿を追い廻している! アッ、浜路殿へ手を掛けた! おお有難い、うまく遁がれた! よろしいよろしい逃げ廻りなされ! お助け致すお助け致す! 南無三、またも掴まった! アッアッ、帯へ手をかけた! おッ帯がクルクル解けた! ううむ、裸体に剥かれるわい! しめた! しめた! 手から遁がれた! アッ、袂をとらえられた! おッ、上着を脱がされた! もがいている、もがいている、もがいている! ……、抱き縮められたぞ、抱きすくめられたぞ! お絹殿、お絹殿、この錠前、お破りくだされ、お破りくだされ!」
この時浜路、宗春のため、どうやらしっかり抱きすくめられたらしい。
ここは宗春と浜路の部屋。──
半裸体にされた可哀そうな浜路、しっかり宗春に抱きすくめられ、処女を生贄にされようとしている。
浜路にとっては何も彼もが、不思議でもあれば恐ろしくもあり、解釈しがたいものであった。
「助けてください! 助けてください!」遁がれようとしてもがき出した。「ああ妾には解らない! おおいったいどうしたんだろう! ……山影様からのお手紙! ……駕籠へ乗ると縄が出て、がんじ搦みにされてしまった! そうして自然とサルグツワが篏まり、あんまり意外なので気絶したが眼覚めてみれば気味悪い部屋! ……菫色の燈火、そそるような匂い! ……ああそうして気味の悪い、このお侍さん! このお侍さん!」そこでまたもや絶叫した。「助けてください! 助けてください!」
浜路を抱きしめた宗春の手、容易なことでは放れようとはしない。
「生娘だ生娘だ、この女は! お紋とは異う、全然で異う! ……胸の円さ、乳房のふくよかさ! ……そうして何んと清浄なんだ! ……見たこともない、こんな娘は! ……放さないぞ! 放さないぞ! ……ビクビク動く、腕の中で! 女の体が! 肩の肉が! ……メリ込む、メリ込む、指の先が! 俺の指が! 女の体へ! ……もがけもがけ、うんともがけ! もがくだけ俺には快い気持ちだ! ……押し潰してやろう捻じ伏せて、やろう! ……退治るのだ、退治るのだ、退治るのだ! ……」
尾張宗春も気の毒であった。二日二夜の長きに渡って、目茶目茶に愛慾をそそられたのである。そのあげく無類に優秀な、娘の肉体を見せられたのである。どんな人間でも狂暴になろう。しかも室内には依然として、催情的の香の香が匂い、催情的の燈火が燃え、そうして隣りの部屋からは、──誰がいったい奏するのか、催情的の音楽が、猟り立てるように聞こえて来る。狂暴にならない方が不思議である。
浜路の力が弱って来た。抵抗力が衰えて来た体が弓なりに曲がって来た。今にも床上へ仆れるだろう。
宗春の力は加わった。歓楽はもうすぐだ! 彼のネバネバした唇が、浜路の唇へ落ちようとする。彼の巻き付いた両腕が、まさに獲物をたおそうとする。
ヒタと向かい合った四つの眼! 胸と胸とがセリ合おうとする。
「助けてください! 助けてください!」しかしその声も嗄れてしまった。左右に首は振るけれど、宗春の唇は落ちかかって来る。
二人ながら全身汗に濡れ、二人ながら吐く息まるで火だ!
その間も香炉からは煙りが立ち、微妙に部屋を馨らせている。その間も龕からは菫色の燈火が、ほんのりと四方を照らしている。そうして聞こゆる催情的音楽!
浜路グッタリと首を垂れた。そうしてヒョロヒョロとよろめいた。全く力が尽きたらしい。
しかしこの時左手の扉、そこの鍵穴がカチカチと音立てたことを聞き遁がしてはならない。お絹が扉を開けようと、畳針を鍵穴へ入れたのである。そうして岩床が次第次第に、一方へ傾ぐのを見遁がしてはならない。薬草道人が水路から、例の鉄環を引っ張っているのだ。そうして右手の扉の向こうへ、既に城中からの捜索隊が、到着したということをも、決して見遁がしてはならないのである。
誰が宗春と浜路とを、地獄の責め苦から救い出すか?
その同じ日の夜であった、七ツ寺の蝮酒屋、そこの腰掛けに腰かけているのが、大蛇使いの組紐のお仙、今日の言葉でいう時は、女給に住み込んでいるのであった。
蝮酒屋と云ったところで、蝮酒ばかりを飲ませるのではなく、普通の居酒屋に過ぎないのであったが、所望によっては蝮酒も飲ませた。
この当時の七ツ寺、大須と同じ盛り場で善男、善女も参詣すれば、いなせな兄さん達も集まって来る。屋台店もあれば小料理屋もあり、大道芸人などもいたらしい。
お仙が美しいというところから、経師屋連や狼連が、近来とみに増加して、蝮酒屋は繁昌した。
その日も酒場は客で埋ずまり、元気のよい会話が交わされていた。
隠せば現われるという奴だ、宗春卿のお行方が、知れなくなったという噂、それが話の中心であった。
「けぶな話っていう奴さ、一国の殿様がなくなったんだからなあ」こう云ったのは地廻りらしい男。
「ナニサ、俺らの思うには、ああいう立派な殿様だ、時頼さんの心意気で、諸国漫遊に出られたんだろう」こう云ったのも地廻りらしい男。
「佐野の渡り辺で藪蚊に食われ、飛び込んだ百姓家に別嬪さんがいて、その名を常世さんと仰せられ両人ひどく話が合い、引っ張って来てお妾さん、そこで三人の腰元を付けたが、お梅さん桜さんお松さん、この地口はどんなもので」こいつは不忠者に相違ない。
「拙の愚案はそうではげえせん、何んの佐野まで参りましょう、アノ待ち合いの蜂龍へしけ込み、セイエイ連の綺麗どころを召し、小万ちゃんというのが気に入って、そうでげすな、お芝居話、そこで帰るのが厭になり、いまだにご逗留というところ、家来の面々そうとも知らず、血眼になって探しているが、小田原町とは気が附くめえ。……というのはいかがのもので」こう云ったのは若旦那。こいつがひどく受けたと見え、ドッと一同笑い出した時、フラリとはいって来た客があった。浜路の父の萩原仁右衛門、トンと腰掛けへ腰をかけると、四辺の様子を見廻した。
「いらっしゃい」と云ったが組紐のお仙、まだ仁右衛門を知らなかった。御岳にはしばらくいたけれど、萩原へ行ったことがないからである。「お誂えは?」と訊いたものだ。
「さようさな、お銚子を」「はいはい」と誂えを持って来た。
チビリチビリと嘗めながら、仁右衛門聞き耳を立てている。道人さがしに出かけたが、これぞと思われる噂も聞かず、通りかかったのが七ツ寺、評判の高い蝮酒屋、客の出入りも多かろう、噂を聞かないものでもないと、そこではいって来たのである。
と、はたして一人の若者、こんなことを云い出した。
「殿様の紛失も不思議だが、御器所の森の大木の下で、膏薬を売っている爺さんなんかも、世放れがしていて不思議だったよ。木曽の御岳から来たんだそうだが、悪口ばかりを云っていたっけ」
「あああいつか」ともう一人の若者、すぐに応じたものである。「俺も一昨日あの森へ行き、あの爺さんにぶつかったが、全く皮肉な爺さんだった。云うことが世間と逆なんだからなあ」
こいつを聞くと萩原仁右衛門、首を延ばしたものである。「失礼ながらそのお方は、どんなご様子でございましたかね?」
突然仁右衛門に声をかけられ、その若者は吃驚りした。
「へい」と云って仁右衛門を見たが、なかなか立派な仁態である。「ナーニあなた、その爺はね、一口に云えば乞食でさあ。もっとも外に綺麗な子供と、ビッコの若者とが附いていましたが、それより何より変梃だったのは、薬剤車とかいう奴で、ヒキダシが附いておりましたよ。そこから薬を取り出すんで。ああそれからもう一つだ、車の上に土が盛られ、十本の花が咲いていましたっけ」
こいつを聞いた萩原仁右衛門、有難いと呟いたものである。「道人様に相違ない。ヤレヤレやっとおり場所が知れた。急いで行ってお目にかかろう。なるほどなるほど道人様としては、賑やかな市中などに住まれるより、御器所の森というような、人気のないところへ住まれる方が、似つかわしいというものだ」
「ようこそお教えくださいました。有難いことで、お礼申します」礼を云うと勘定を払い、トツカワと戸外へ出て行ったが、二人の話を聞いていた者が、他にもう一人あったのである。すなわち組紐のお仙である。
「おやおやそれでは道人様は、御器所の森にいるのかしら。有難いねえ、行ってみよう。山影さんの尋ね人、真っ先にその人を探しあて、山影さんへ知らせた者が、山影さんの奥様になれる。御岳で約束した筈だ。いやいやそれよりひょっとかすると、道人様とご一緒に、山影様がおられるかもしれない」
戸外へ駈け出したが引っ返した。
「暗い暗い夜の御器所、提灯がなければ見さかいが付くまい」
帳場へ飛び込むと提灯を借り、火を灯もすと駈けだしたが、奇怪な活劇を目前に見ようとは想像しなかったろう。
闇にとざされた御器所の森! 一点の火光の浮かんだのは、お仙の持っている提灯である。
「御器所の森の大木といえば、昨夜お絹さんに頼まれて、小蛇を入れた大杉の木、あれより他にはない筈だが、あそこに道人様おられるのかしら?」
呟き呟きやって来た。やがて辿りついた大杉の木の前、お仙改めて提灯をかざし、グルグル根もとを廻ったが、道人様もいなければ、人っ子一人いなかった。
「いないじゃアないか詰まらない。さっきの話しは出鱈目だったかしら」
すこしガッカリして佇んだ時、「お女中」と呼ぶ声が背後でした。振り返ってみると男の姿、萩原仁右衛門が立っていた。
「おや先刻のお客様で」
「おおこれは蝮酒屋の……」
仁右衛門意外に感じたらしい。
「若いお女中が一人身で、こんな寂しい森の中へ、何と思って参られたな?」
「はい」と云ったが組紐のお仙、相手が真面目らしい人だったので、「尋ねる方がございまして、それで参ったのでございます」
「ああさようで、それはそれは、実は私も尋ね人があって、それで参ったのでございますがな、うかと提灯を持って来ず、閉口をしておるところ、ご迷惑でなくばその提灯、ちょっと貸してはくださるまいか」
「いと易い事でございます。さあさあお使いなさいまし。……あのそうしてお尋ねなさる方は?」
「薬草道人と申してな、御岳から参った医聖でござる」「まあ、そうでございましたか。それでは妾と同じこと、妾も薬草道人様を、さがしているのでございます」
蝮酒屋の給仕女が、薬草道人を探していると聞き、萩原仁右衛門案外に思った。
「それはそれは似たような話で。どういうご用でお探しかな?」
「はい」と云ったが組紐のお仙、まさか恋人を探すツテに、薬草道人を探すのだとは、心が咎めて云えなかった。「名薬お持ちと承わり、お尋ね致しておりますので。あのところであなた様は?」
「さよう私は」と云ったけれど、蝮酒屋の給仕女に、詳しい話をしたところで、仕方がないと思ったのだろう。「やはり名薬を戴きたいものと、それでお尋ねしておりますので。どれ、それでは提灯を」
「さあお使いなさりませ」
提灯を受け取った萩原仁右衛門、その辺をグルリと見廻ったが、道人どころか犬もいない。と、眼を付けたは大杉の木。
「はてな?」と呟くとトントンと打った。「うむ、これは空洞だ」耳を幹へ押さえ付けた。「おかしいなあ、物音がする。待てよ」と云うと提灯を上げ、仔細に杉の木を調べたが「ははあそうか、小幡流の、兵法に則った間道づくり、大木の髄をなかば刳り抜き、合薬を塗って腐蝕を防ぎ、生木のままで道をつくる。うむ、この下には地下室があるな!」
昔は水戸家の名ある武士、間道を見破ったものである。
「杉の木、間道である限りは、観音開きがなければならない」ズーッと幹を撫で擦った。「こいつだ!」と云うと一所を、グイと仁右衛門力まかせに押した。と音もなく大木の幹、縦二間横一間、合わせた掌をひらくように、グーッと開いたものである。
「あっ、階段が!」とお仙が云った。
「さよう」と仁右衛門すぐ応じた。「奇嬌を愛する道人様、こういう所に住まわれるかも知れない。拙者ははいって探索致す。どうなされるな、そなたには?」
「はい、それでは妾も」
「参られるか、では一緒に」
中へ入り込んだ仁右衛門とお仙、階段は広く並んで歩ける。次第次第に下りて行く。と足もとから菫色の、燈火の光がボッと射した。女の叫ぶ声がする。男の呻くような声がする。
「誰か確かに人がいる。それも男と女らしい。……事件が起こっているらしい」
「何んだか恐ろしくなりました。引っ返そうではございませんか」気丈でもお仙女である、小気味が悪くなったらしい。
「さようさ」
と、仁右衛門も躊躇した。
で二人佇んだ。
女の叫び声、男の呻き声、いよいよハッキリ聞こえて来る。つれて淫らな音楽の音色! と、ドンドンと戸でも蹴るような、烈しい音が聞こえて来た。カチカチカチカチと錠を開けるような音! それを通してギギーという、大盤石でも動かすような音!
何か恐ろしい罪悪が、地下室で行われているらしい。
「行こう!」と仁右衛門階段を下った。
「では妾も」と組紐のお仙。
さて充分用心をし、最後の段まで下りた時である。
「ヤッ、浜路が!」と萩原仁右衛門、恐怖の声を筒抜かせた。
「山影様が!」とつづけてお仙。
「やッ、薬草道人様!」またも仁右衛門叫び声を上げた。
「おッ、お吉様もおいでなさる! おおそうして伊集院めも!」組紐のお仙の叫び声!
萩原仁右衛門と組紐のお仙、最後の段に立った時、地下室に起こった光景はといえば、ザッと次のようなものであった。
一人の立派な侍が──すなわち尾張宗春であったが、両手で浜路を抱き縮め、まさに床上へ倒そうとしていた。と、その部屋の左手の扉が、ガチンとばかりに開けられた。その戸口から見えたのは、一人の女──鷺組のお絹、そうして山影宗三郎であった。
それと同時に右手の扉が、凄じい勢いで蹴放された。そうして顔を覗かせたのは、山形三弥と山路紋右衛門、他城中の捜索隊であった。
その一瞬間に酒場の浜路、最後の勇気を腕へこめ、尾張宗春を突き退けた。で浜路は反動的に、隣り部屋の方へよろめくし、宗春は床の上へ転がった。
とたんに床が一方へ傾き、そこへ隙間があらわれた。その隙間から見えたのは、薬草道人と六文のお吉、そうして紅丸と猪十郎!
で宗春はその隙間から、ゴロゴロと床下へ転がり落ちた。その床下は水路であって、薬草道人の一行が、小舟に乗って浮いている筈だ。そこで尾張宗春は、薬草道人の一行のために、助けられたということになる。
さて浜路はどうしたかというに、隣り部屋の方へよろめいた刹那、隣り部屋から一個の人物──黒の衣裳に小袴をつけた、短身肥満童顔の男が、すなわち島津太郎丸が、ツト両腕を差し出したかと思うと、浜路を隣り部屋へ引きずり込み、ビーン境いの戸を閉じた。もっともその時太郎丸の背後に、伊集院五郎と烏組のお紋が、立っていたのも見てとれた。
それから起こった光景はと云えば、床が傾いたので龕が倒れ、龕が倒れたので火を発し、それが器物へ燃え付いて、地下室が見る見る火事になったのである。
で、宗三郎とお絹とは、そのまま後へ引っ返し、城中から来た捜索隊も、同じく後へ引っ返し、そうして仁右衛門も組紐のお仙も、空洞の階段を伝わって、逃げ出さなければならなかった。
主要の人物地下において、偶然顔を合わせたのであったが、またもや四方へバラバラと散り、別れ別れになったのである。最も憐れなのは娘の浜路で、太郎丸の手に捕えられたからは、いずれ恐ろしい目に逢うことであろう。
さてその時から幾時間か経った。
上名古屋の大密林、そこに出来ている間道口、その口からヒョッコリ現われたのは、鷺組のお絹と宗三郎であった。
意外の出来事、意外の火事、そのため宗春を助けることも出来ず、同じ間道を伝わって、ここまで逃げて来たのである。
「ああ疲労れた」と呟くと同時に、お絹は草へ坐り込んでしまった。
もちろん宗三郎も疲労れていた。
「いや拙者も、すっかり参った」
同じく草へ坐り込んだが、しばらく二人とも口を利かない。
今度の出来事、宗三郎にとっては、一切合切夢のようであった。……何故宗春が捕えられたのか? どうして浜路があんな所にいたのか? 浜路を引っ込んだ酒テン童子のような人物、いったいどういう人物であろう? 伊集院五郎の姿も見えたが、どういう関係があるのだろう? それから仁右衛門と組紐のお仙が、ヒョッコリ顔を覗かせたが、この理由だって解らない。床が傾いてその隙間から、水路が見え小舟が見え、六文のお吉の姿が見えたが、どうしてあんな所にいたのだろう?
「そうして舟にいた気高いような老人! 一見さながら仙人だったが、どういう身分のお方だろう?」考えているうちに眠くなった。あまりに疲労れたためである。
山影宗三郎眠くなった。でウトウトと眠り出した。眠くなったのは彼ばかりでなく、鷺組のお絹も眠くなったらしい。やはりウトウトと眠り出した。まことに無理もない話である。意外の事件から意外の事件、心も体も疲労れ切っている。ところで場所は密林の中、微風が渡って枝葉が囁き、それがまるで子守唄のようだ。軟かい草は衾である。
だがはたしてこんな場合に、眠ったりしてよいものだろうか? どうも眠ったのは失敗らしい。
サラサラサラサラと草を分け、忍びやかに走って来る足音がした。二丁の駕籠を守りながら、数人の男女が現われた。
「おい」と一人が囁いた。「駕籠を下ろせ、そっと下ろせ」それは伊集院五郎であった。「しめたしめた、間に合った。山影宗三郎め疲労れたと見え、あんな所に眠っているよ」
「それにさ、ご覧よ、お絹までが、いい気持ちそうに眠っているじゃアないか」こう云ったのはお紋である。
「さすがは島津太郎丸様、上名古屋に通っている間道は、道が険しくて歩きにくい、すぐに追っかけたら間に合うだろう、トヤ駕籠を持って行ってしょびいて来い、こうおっしゃったがお言葉通りだ」
「ではソロソロ取りかかろうか」
「よかろう」というと伊集院五郎、「オイ喜三太、オイ嘉市、駕籠の扉を引きあけねえ」
トヤ駕籠使いの喜三太と嘉市、「合点!」というと扉をあけた。同時にお紋と伊集院、大声で叫んだものである。
「山影氏! 山影氏!」
「お絹さん! お絹さん!」
眼を覚ました二人の者、ギョッと驚いて飛び上がったが、もう遅い、スルスルスル、トヤ駕籠の中へ引っ込まれた。
と、扉が閉じて錠が下りた。
「やれ!」という伊集院の声! つれてポンと駕籠が上がった。タッタッタッと遠慮は入らない、今度は高く足音を立て、密林をくぐって走り去ったが、この時二人の人物が、傍らの藪蔭から現われて、見送っていたのには気が付かなかったらしい。
「先生、何者でございましょう?」一人の人物が囁いた。三十格好の人物である。
「さあ、私には解らない」こう云ったのは六十五六歳、葉洩れの月光に映じた姿、脚絆、甲掛、旅装い、軽羅の十徳を纒っている。医家か、宗匠か、いやいや異う、その打ち上がった風采から押せば、名ある儒者に相違ない。何んと神秘的の眼付きだろう! 浮世の一切の煩わしさを遁がれ、燦然と輝く天の星、そればっかりを眺めていたら、そんな眼付きにもなるだろう! そう思われるような眼付きである。鼻下にも顎にも粗髯があったが、おそらく手入れをしないからであろう、ヒョロヒョロとして見立てがない。がそれがかえってその人物を、一層上品にみせるのである。
「ご覧よ、松前」とその人物、空を仰いだが云ったものである。「太微恒の五帝星座を、不吉な赤気が貫いているよ。五諸侯星座が動揺している。おっ、いけない流星がした。ね、東北の方面へ。……ふふむ、どうもよくないなあ」
東北の空を眺めやった。
しかし門下の松前という武士には、まだ天文未熟のためか、五帝座を貫いている不吉の赤気も、五諸侯星座の動揺しているのも、観望することが出来なかった。
だがいったい儒者風の人物、どういう身分の者だろう。
儒者風をした高朗たる人物、その門下らしい松前という若武士、林を通して空を仰ぎ、しばらく天体星の相を、まばたきもせず見ていたが、
「ここは見にくい、外へ出よう」
儒者風の人物歩き出した。
林の外に丘がある。そこへ上った二人の者、今は遮る物もない、晩夏初秋の夜の空を、ふたたび仰いで眺めやった。
「ね、ご覧」と儒者風の人物、「五帝座の中心黄帝星が、幸臣星のために犯されようとしている。『黄帝坐して明きらかならざれば、すなわち人主勢いを奪わる』奪われようとしているのだよ。『幸臣星は五帝座の東北、親愛の臣を主る、明きらかなればすなわち吉、罔なればすなわち凶』ところで今は罔なのだ。……これを人界にあてはめて云えば、黄帝はすなわち将軍家、幸臣星はご親藩、大きな声では云われないが、ご三家の一方と見てもよい。ところで動揺している五諸侯星座だが、島津はじめ大禄を食む、外様大名と見てよかろう。面白くないな、天下は乱れる。そうは云ってもこの天文は、今にはじまったことではない。久しい前からの天文だ。で、そいつを確かめようと、この名古屋へ入り込んだのではあるが、さて名古屋へはいって見て、一層天文が凶相をとり、幸臣星が罔さを加え、不軌の相を現わしているのは、どうもまことに困ったものだ。おっ、何んだ、あの星は!」
さも意外というように、儒者風の人物声をはずませた。
「松前、松前、あれが見えるかな、幸臣星の傍らに、形は小さいが光の強い、気味の悪い新星が懸かっているのが?」
「は、そう云えば幽かながら……」
「あれは江戸では見えなかった星だ」
「御意の通りにございます」
「幸臣星座の一つではない」
「新しく産まれた星のようで」
「幸臣星座の西手にあるのが、儲弐の位の太子星座だ」
「はいさようでございます」
「そこから迷い込んだ星とは見えない」
「御意の通りにございます」
「幸臣星座の北手にあるのが、宿衛を主る常陳星座だ」
「はい、さようでございます」
「そこから迷い込んだ星とも見えない」
「御意の通りにございます」
「そこで勢い五諸侯星座から、遣わされた星と見てよろしい」
「これはごもっともに存じます」
「しかもその星がせせっている、幸臣星の光をな」
「ははあ、さようでございましょうか」松前にはそこまでは解らないらしい。
「ううむ」とにわかに儒者風の人物、一種不思議な呻き声を上げた。「術語で云えば燕鄭星、普通に云えば盗み星だ! それからあたかも尾のように、一道の黒気が垂れている。松前松前、見えるかな?」
「いえ、私には見えませぬ」
「そうであろう、これは見えまい。がともかくも行ってみよう」
「先生、どちらへ参りますので?」
「黒気の立っている場所へだよ」御器所の方へ小走った。
この頃例のトヤ駕籠は、島津太郎丸の大屋敷の、表の門へ横着けされた。
門をはいると建物を廻り、広い中庭へ舁ぎ込まれたが、そこに一宇の別棟があり、そこの雨戸があけられた。と、見えたは牢格子!
太郎丸の屋敷の中庭の建物、そこの戸が開くと牢格子、ははあさては秘密に作った、牢屋がそこにあると見える。
そこまで舁ぎ込んだ二丁のトヤ駕籠、
「おい、扉をあけろ」と伊集院が云った。
と牢格子がガラガラと開く。
「さあ今度はトヤ駕籠の戸だ」
声に応じて喜三太と嘉市、トヤ駕籠の戸をポンと開けた。すなわち仕掛け、そのとたんに、山影宗三郎と鷺組のお絹、ドンと牢内へ投げ出された。と牢格子がガラガラと閉じ、伊集院をはじめ烏組のお紋、喜三太、嘉市も立ち去ってしまった。
こうしてお絹と宗三郎とは、真っ暗の牢屋へ完全に、敵のために捕虜にされてしまった。
驚いたのは二人である。
「お絹殿ひどい目に逢いましたな」
「ちょっと油断をしたばかりに、とんだことになってしまいました」
溜息を吐くばかりである。
「ここはいったいどこでござろう?」
「さあ、トンと妾には」
お絹にも想像が付かないらしい。
「お絹殿」と改めて宗三郎が訊いた。「昨朝以来不思議なことばかり、どうにも拙者には見当が付かぬ。あの上名古屋の密林で、偶然そなたをお助け致し、爾来そなたの乞いにまかせ、地下の間道へも参りましたが、その根本の理由については、まだお話しを承わっていませぬ。この際お明しを願いたいもので」
「これはご理、お話し致しましょう」そこでお絹話し出した。「島津を筆頭に外様大名、宗春卿を味方に引き入れ、一大謀反を起こそうとしている、ついてはその方名古屋へ参り宗春卿の行動を看視し、敵方の餌食にさせぬよう、──これが水戸のお館から、命ぜられました妾の使命。で妾は部下をひきい、久しい前からこの地へ入り込み、見張っていたのでございます。そこへ続々入り込んで来たのが、島津家の女忍び衆、烏組の連中でございまして、その大将をお紋と申し、随分腕っコキでございますが、ある夜宗春卿をおびき出し、閉じ込めたのが例の地下室、その目的は宗春様を、謀反の連判へ加えようため、これは大変と存じまして、いろいろ苦心を致しました末──その苦心につきましても、お話ししたいことがございますが──『二方遁がれ』の間道の、一方の出入り口を知りましたについては──その一方の出入り口とは、あなたとご一緒に入り込みました、あの上名古屋の密林中にあった、出入り口のことでございますが──単身入り込んで宗春様を救い出そうと致しましたところ、ご存知の通り烏組の連中、いつか張り込んでおりました。捕らえられようと致しましたところを、あなたによって助けられ、共々間道へ入り込みました次第、その後のことはあの通り、せっかく目的地へ入り込みましたが、床が傾いて宗春様、水路の中へ落ち込んだからは、改めて別の手段を講じ、宗春様のお行衛を、捜索いたさねばなりませぬ。ところでお聞き致したいは、組紐のお仙様と申します婦人を、あなた様にはご存知でございましょうね?」
「さよう」と云ったが宗三郎、ちょっとくすぐったい思いがした。
「お絹殿にもご存知かな?」
「はい、その方の助けを借り、宗春様の居場所をたしかめ、また間道口の一方の口を、知ることが出来たのでございます」
「そのお仙だが、地下の部屋で、チラリと顔を見かけました」
「間道口のもう一方の口、御器所の森の大杉の木から、入り込んで来たようでございますが、どうしてその口を目付け出したものか、妾には見当がつきませぬ」
宗三郎とお絹との会話、闇の牢内で尚つづく。──
「その組紐のお仙と一緒に、顔を覗かせた五十格好の人物、お絹殿にも見られたであろうな?」こう云ったのは山影宗三郎。
「見かけましてございます」
「あれは萩原仁右衛門と申し、元は水戸家の立派な武士、拙者御岳におりました際、一方ならず恩を受けたもの、どうして名古屋へ参ったか、どうしてあんな所からあんな場合に顔を出したか? いやそれより不思議なのは、その萩原仁右衛門殿の娘、浜路と云われる娘ごが、どうしてあんな地下室に、幽囚されておりましたか、これこそ合点がゆきませぬ」
「その浜路様とおっしゃるのは、宗春様のために可哀そうに、乱暴な目に合わされようとした、あの娘さんでございますね」
「いかにもさよう、あの娘でござる。それはそうとその浜路殿を、隣室へ引き入れた気味の悪い武士、あれはいったい何者でござろう?」
「さあ妾も存じません」
「その人物の背後にいた、もう一人の武士が伊集院と申し、御岳以来の敵手でござる」
「その人と並んで立っていた女あれが烏組のお紋と申して、妾の相手でございます」
「と云うことであってみれば、彼ら一団はグルと見てよろしく、島津の廻し者でございましょう」
「したがってここは彼らの本陣、巣窟と見るべきかと存ぜられます」
「どうかなしてここから出たいものだ」
「是非逃げなければなりません」
闇である。真っ暗である。牢の構造さえ見ることが出来ない。
「彼らにとらえられた浜路殿、我らと同じくこの屋敷内に、とじ込められているかもしれぬ。これも助けてやりたいものでござる」ややあって宗三郎こう云った。
「そうして妾はどんなことをしても、宗春様をお探しし、ご無事にご帰城致させねば、使命をとげることが出来ませぬ。それにいたしても床下の水路、小舟の中にいた乞食のような老人、どうやら尾張宗春様を、お救いしたようではありますが、善意か悪意かその辺のところ、心もとなく思われます」
「何んとなく人間放れのした、神々しかった容貌から推せば、悪人などとは思われませぬ。うむそうだ、その老人の側に、一人の女がおりましたが、お絹殿にはお見掛けかな?」
「はいチラリとではありましたが、見かけましてございます」
「あれも拙者の懇意の女、御岳うまれのお吉と申して、私娼ではあるがしたたか者。それに致してもあの女まで、この名古屋に来ているとは? そうしてあんな老人と一緒に、あんな水路にいようとは? 何が何だか見当が付かぬ」
「山影様」とその時である、鷺組のお絹囁くように云った。「ここを運よく今夜にも、遁がれ出ることが出来ましたら、七ツ寺にある蝮酒屋、そこをお訪ねなさいまし、あなたを命かぎり焦がれているお仙様がおいででございます」
しかし宗三郎は答えなかった。不意に声に出して云ったものである。「水路の舟にいたあの老人、薬草道人に相違ない!」
だがいったいどういうところから、そういう断定が出来たのであろう?
「水路の舟にいたあの老人、薬草道人に相違ない!」
宗三郎のこう思ったには、大した理由はないのであった。衣裳がひどく穢いにも似合わず、容貌が非常に立派であったことと、あんな場合にあんなことをして、宗春を突然助けたことが、超自然的人物に思われたことと、薬草道人と懇意なお吉が、一緒に舟の中にいたことと、そんなようなことを取り合わせてみると、どうやらあの時の老人が、薬草道人に思われるのであった。
「何んのためにお吉が名古屋へ来たか、これは見当が付かないにしても、あの時の姿から推し計れば、やはり私娼をしているらしい。それも最下等の私娼らしい。首尾よくここを逃げることが出来たら、最下等の私娼の巣窟を訪ね、お吉に逢って様子を聞こう、道人様のおり場所を教えてくれるに相違ない」
こうは考えたが宗三郎、どうしてここを遁がれたものか、その思案がつかなかった。
「山影様」とお絹が云った。「薬草道人様とおっしゃるのは、どういうお方でございますか?」
「ああそうそう、あなたへは、道人様の身の上について、まだお話ししませんでしたな。拙者の想像に間違いなければ、あの仁こそ甲斐の徳本一百歳を過ごした医聖でござる。そうして拙者の主命たるや、その医聖甲斐の徳本を、大切に守護して江戸へ入れることで、そのため御岳へ参ったのでござるが、まだ発見いたさぬ先に、道人様には名古屋下り、で拙者も後を追い、名古屋へ入り込んだというものでござる」
「そういう立派なお方なら、宗春様をお助けしたのも、悪意からではございますまい。では妾も道人様を目付け、宗春様を妾の手へ、お返ししていただくことに致しましょう」
道人探しの目的は、こうして期せずして一致したが、何をするにもこの内牢から、逃げ出さなければならなかった。
「お絹殿、思案はござらぬかな?」
「さあ」と云ったがお絹にも、よい考えがないらしい。「同じ忍び衆の烏組の連中、おそらく牢を取り巻いて、守っていることでございましょう。これが苦手でございます。こっちで巧らむことぐらいは、先方で見抜いてしまいますので、どうでもこれは外界からの手を、お借りしなければなりませんが、誰か助け手はないものかしら?」
「我々二人が捕らえられたことさえ、知っている者はない筈でござる。自然助け手はございますまい」
「困ったことでございます」
「いや全く困りました」
その時人の足音がした。
「誰か来たようでございますね」
「さよう」と云ったが耳を澄ました。
だが足音は牢前へは来ずに、少し手前で止まってしまった。と錠をあける音がした。つづいて戸の開く音がした。すると不思議にもどこからともなく、牢内へ光が射して来た。ほんのわずかな光である。オヤと二人は見廻してみた。厚い板戸の割れ目から、一筋射しているのであった。素早く宗三郎走り寄り、割れ目へ眼をあてて覗いて見た。隣りの部屋も牢造りであった。一人の女が仆れている。意外にもそれは浜路であった。浜路の側に雪洞を持ち、スッと立っている人物がある。酒テン童子のような一人物、すなわち島津太郎丸! 胸も裾も乱れたまま、気絶したように仆れている、浜路の体をジロジロと、上から見下ろしているのである。
その側にいるのは伊集院とお紋、よくないことを巧らむらしい。
ここは浜路のいる牢獄である。浜路気絶をして仆れている。はだけた襟、みだれた裾、ほころびた袖から見えているのは、山の女神を想わせる、豊満した美しい肌である。
それを見下ろしている三人の男女、太郎丸とお紋と伊集院、その眼付きは嬉しそうである。わけても太郎丸の眼の中には、淫蕩の光が漲っている。
「いいな」と太郎丸は云い出した。「俺はな、一眼見た時から、悪くないなと思ったものさ。宗春へやるのが惜しくなったものさ。と云って宗春へやらなければ、俺達の目的はとげられない。そこでやることはやったものの、いい気持ちはしなかった。ところで宗春めはあんな事情で、水路の中へ落ち込んでしまった。この女をやる必要はない。そこで俺が宗春の代りに、この生贄を賞玩しようと思う。俺はな、随分いい年だ。精力も決して絶倫とは云えない。だから一層こういう女が欲しい。こういう女を退治ることによって、俺は若返ろうと思うのさ。アッハハハ」
ノッソリと太郎丸、近寄ろうとする。
隣室で見ている宗三郎にとっては、これ以上の苦痛があるだろうか! いま、恋人浜路は気絶していて、抵抗することが出来ないのである。そうして自分はどうかというに、牢の板壁に距てられ、助けに行くことが出来ないのである。
「浜路殿、浜路殿、おお浜路殿!」
と、宗三郎は叫びながら、烈しく板壁を拳で打った。
「お眼さましなされ、浜路殿! 危険が、危険が逼りおりまするぞ!」
すると引き添っていた鷺組のお絹も、同じく板壁を叩いて叫んだ。
「浜路様とやら、お眼さましなされ! 女の命、命より大事なものが悪党ばらに!」
すると伊集院五郎の眼が、板壁の方へ注がれた。
「叫んでおるのは山影氏と、鷺組のお絹、ご両所そうな。板の割れ目から見えるらしい。よろしいよろしい、よろしくご覧、山影氏の恋女、酒場の浜路がどんな運命になるか! しかし、これほどの美しい娘、決して決して殺しはしない。その点だけはご安心、懸念はいらぬ懸念はいらぬ。が、貴殿としては心外でござろう。ただし拙者にはよい復讐、御岳では随分苦しめられたからの。ゆるゆるご覚悟、窒息的見物!」
この間も襦袢は脱がされて行った。
その時隣りからお絹の声! 「浜路様、浜路様、浜路様! 眼をお覚ましなさりませ!」
するとお紋がそっちを見た。
「オイお絹さん、気の毒だねえ、お前さんにしても口惜しいだろう。うまうま捕虜にされたんだからねえ。お前さんも随分別嬪だよ、そこでこの娘を片付けたら、今度はお前さんの番だとさ。太郎丸様が味わうそうだよ。よく見てお置きよ、この娘の様子を! それがすぐにもお前さんの身の上へ巡って行くのだからね。……さあさあ娘さん娘さん、一糸もまとわぬ全裸体、それを太郎丸様へお目におかけ。ソレ!」
と云った時太郎丸、フッと雪洞を吹っ消した。
闇黒の中で罪悪が、今やとげられようとするのであろう。
と、廊下から声がした。
「太郎丸様へ申し上げます」
「何んだ!」
と太郎丸の不平声。
「あの、ご来客にございます」
「誰だ?」とまたも太郎丸。
「西川正休とか申すご仁」
「ナニ」と太郎丸驚いたらしい。「ほほう珍らしい客人だの。これは是非とも逢わずばなるまい……いずれ珍味はゆるゆるとな」
牢格子の開く音がした。太郎丸はじめお紋、伊集院、揃って外へ出て行ったらしい。後は闇! 物音もしない。その闇の中で裸体の浜路、尚気絶しているらしい。
「浜路殿、浜路殿!」と宗三郎。
「お目覚めなさりませ!」と鷺組のお絹。
それが通じたかホーッという、正気づいた浜路の声がした。
「おお寒い!」とまた浜路、「あッ、妾は裸体でいるよ!」衣裳を探る音がした。
その時忍びやかに庭を歩く、人の足音が聞こえて来た。だんだん牢屋の方へ近寄って来る。
忍びやかに庭を歩く人の足音、普通の人には聞こえないが、そこはお絹忍び衆である。早くも牢内から聞き咎めた。
「山影様」と小さい声だ。「人が近寄って参ります」
「さようかな」と云ったものの、山影宗三郎には聞こえない。「警護の者どもでございましょう」
「いえ」とお絹、やはり小声で、「そんな者ではございません。もし警護の連中なら、忍び歩く必要はございません。太郎丸の館の者ではなく他の方面から忍び込んだ、それも武芸者でございます」
「もしやそれでは救いの手でも?」宗三郎真剣になり、じっと耳を澄ました時、庭にあたって
「誰だ!」という声! と同時に、「アッ」という悲鳴がした。ドッタリ人が仆れたらしい。ほんの瞬間のことであった。広い館、広い庭、まさしく刃傷があったらしいが、感付いたものがないとみえ、ただその後はシーンと静か!
「ね」とお絹囁いた。「誰だと咎めたのが警護の者で、アッと叫んだのも警護の者、忍び込んで来た足音の主に、切り殺されたのでございますよ」
「これはいかにも」と宗三郎、「ではいよいよ忍び込んだものは、我々を助けの手でござろう」
「そうありたいものでございます。……おッ、山影様、おききなされ、雨戸をコジ開けていますよ」
「ああいかにも、コジあけております」今度は宗三郎にも解ったのである。
コトンコトンとコジ開ける音! しばらく続くと急に止んだ。と、スーと戸の開く音! 廊下を辷って来る足音がする。と、二人の牢屋の前へ、ぼんやり黒く人影が立った。牢内をうかがっているらしい。
不意に忍び音で云ったものである。
「浜路、浜路、浜路はおらぬか?」
「や」と驚いたのは宗三郎、その声音に聞き覚えがある。スルスルと牢格子へ近よると、
「萩原殿か? 仁右衛門殿か?」
今度は先方が驚いたらしい。「そういうあなたは山影様? あなたまでが捕らわれて?」
「さよう」と云ったが宗三郎、「が、それにしても仁右衛門殿、どうしてここへは忍び込まれたな?」
「例の地下室でのあの出来事、浜路、隣室へ引き込まれ、行方知れずなりましたので、地下室の火事のしずまるを待ち、ふたたび入り込んだ間道口、さて隣室へ行ってみれば、横穴が通じておりました。辿って来てみればこの建物……」
「おおさようか、よく解りました。……浜路殿には隣りの牢に」
「それは何より、では両方! しかし堅固なこの牢を……」
その時進んだのがお絹である。
「仁右衛門様とやら小柄拝借!」
「そういうあなたは?」と驚いたらしい。
「大事ござらぬ」と山影宗三郎、「我々の味方、水戸の忍び衆、鷺組の頭のお絹殿。……」
「して小柄は?」と萩原仁右衛門。
「折悪しく失った畳針……」
「拙者も大小をもぎ取られ」宗三郎苦笑い。
「で、小柄さえございましたら、こんな牢など手間暇いらぬ、すぐに破ってお目にかけます」
「さあ小柄! それから大小」仁右衛門牢格子から差し出した。「庭で叩き切った警護の武士から、浜路へ渡そうと存じましてな、奪い取ったところの大小でござる」
「千万お礼!」と宗三郎。
その時シトシトと廊下づたい、近寄って来る人の足音!
まさに脱牢しようとした時、近寄って来る足音がした。
「見廻りと見える、機を失したかな」仁右衛門そっちをうかがった。
「牢さえ出ればこっちの者、手向かい致さば死人の山」宗三郎意気込んだ。「お絹殿、お絹殿、早く錠を!」
「はい」というとガチンと音! 同時に牢屋口がグーッと開いた。
「隣りの牢を!」
と三人ながら、ヒラリと牢前へ飛んで行った。
ガチンとふたたび錠の音! 苦もなくお絹あけたのである。
「あッ、どなたか! お助けくだされ!」
脅えて叫ぶ浜路を制し、
「父だ!」と仁右衛門声をかけた。
「拙者、山影宗三郎! お助けに参った、早々これへ!」
飛び出して来た娘の浜路、「お父様!」と縋りついた。既に衣裳はまとっていた。つづいて、「山影様!」と呼んだものである。
「さあ、雨戸を!」
と鷺組のお絹、スッと雨戸をあけたとたん、
「脱牢でござるぞ! 方々出合え!」
足音の主廊下へ現われ、大音声に呼ばわったは、見廻りに来た伊集院であった。
ここで物語後へ帰り、館の奥の一室となる。
向かい合っている二人の武士、一人は島津太郎丸、一人は上名古屋の密林で、天文を見ていた高雅の老人、これぞその時代扶桑第一、天文暦数の大儒者として、吉宗将軍の寵を受け、幕府天文方の総帥となった、求林斎西川正休である。
「これは求林斎、よく参られた。いつも変らずたっしゃだの」莞爾と云ったのは太郎丸。
「殿にも益〻ご健勝、大慶至極に存じます」
西川正休月並みの挨拶。
「これこれ何んだ、求林斎、他人行儀はやめてくれ、お互い林家の門に学び、いわば同門の仲というもの、いけないいけない奉っては」太郎丸味をやるのである。
「学問から申せばさることながら、殿には島津様のご一族、お大名様にございます」正休何んとなくこだわろうとする。
「面白くないな、求林斎、今さらお大名を奉つるような、卑屈のそちではない筈だが。それはそうと求林斎、その後続々良書を発行したな。大概私も読んだつもりだ。四十二国人物図絵、虞書暦象俗解、天文議論、日本水土考、天文和歌注、町人嚢、長崎夜話草、水土解弁、ええとそれからまだあったな。万物怪異弁断、華夷通商考、いや全くよく作ったなあ。大学者だよ、何んと云っても、久々で学問の話がしたい。今夜はゆっくり話して行ってくれ。とりわけ俺に面白かったのは、虞書暦象俗解だったよ。おかげで天文のことは少しわかった。だがそれにしても不思議だなあ。どうして私がここにいることを、求林斎には突き止めたかな? それにさ幕府の天文方が、ヒョコヒョコこんな名古屋あたりへやって来るとは、不思議だなあ」やや怪訝そうに訊いたものである。
と、求林斎西川正休、一膝膝を進めたが、
「殿、私にとりましても、殿が名古屋などにおわそうとは、夢にも想像しませんでした」
「なるほど」と云ったが太郎丸、ヒヤリとしたような表情をした。「うむ、ナニ、ちょっと用事があってな」
「殿!」と正休また進んだ。「悪あがきはお止めなさりませ」鋭い調子で云ったものである。
悪あがきをするなと正休に云われ、太郎丸はドキリとしたらしい。颯と顔色を変えたものである。しかしすぐに色を直し、
「何んのことだな、悪あがきとは?」
すると正休睨むようにしたが、「殿には虞書暦象俗解を、ご愛読くだされたと申すこと、ではご存知と存じますが、国に簒奪者あらわれました時、どのような星が現われますかな?」
「さあ」と云ったが太郎丸、いよいよもって気味悪そうに、「盗み星めが現われるとあったが」
「はい、さようでございます。殿、しかるに盗み星めが現われまして、ございますぞ」
「ほほうさようか、困ったものだな」太郎丸わざと空トボケ、「では謀反人が出たと見える」
「たしかに出でましてございます」
「こんな結構な太平な世に、謀反人が出たとは呆れ返ったものだ。で、どの辺へ出たものかな?」太郎丸いよいよ空トボケる。
「お屋敷の真上の空にあたり!」
「何!」と太郎丸吠えるように云った。
「実は」と正休冷静に、「先ほどのことでございました、上名古屋の丘の上で、それを見たのでございます。見れば盗み星から一道の黒気、垂れ下っているではございませんか。さよう、お屋敷の屋根棟にな。で、これを逆に申せば、お屋敷より一道の黒気立ち、それが凝って天上の、盗み星となったと申されます。簒奪者の正体を見現わそうと急いでここまで馳せて参り、主人に面会を求めましたところ、その主人が意外も意外、殿ご前だったのでございますよ。で、申し上げたのでございます、今後悪あがきをなさいませんよう」
「うむ」と云ったものの太郎丸、後の言葉が続かなかった。しかし心では思ったものである。
「恐ろしいものだな、天文というものは。いやそれより恐ろしいは、この西川正休だ! 俺の本心を見破ったらしい。此奴は幕府の天文方、此奴に本心を見破られた以上、幕府有司の連中に、告げ口されると思わなければならない。告げられたが最後計画画餅だ。と云ってこれほどの大学者、しかも専門の天文によって、俺の本心を見破ったからは、どのように俺が口弁をもって、云いくろめても疑心を解くまい。困ったものだ! どうしたものかな! うむ、こうなっては止むを得ない、林家同門の誼みはあっても、また惜しむべき人物であっても、大事の前の小事として此奴をここで殺害してやろう」
そこで何気なく云ったものである。
「俺はな、これまでただの一度も、盗み星というものを見たことがない。求林斎俺に教えてくれ」
ズイと立って縁へ出た。
「よろしゅうござる」
と西川正休、つづいて縁へ立ち出たが、蒼々と晴れた夜の空を、グッと見上げたものである。
「殿、あの星でございます」
「どうも私にはよく見えぬ。庭へ出よう、裏庭へ」
庭下駄を穿くとスタスタと出た。
つづいて立ち出でた西川正休、危険身辺に逼るとも知らず、熱心に空を見上げたが、
「殿、あの星にございます。気味悪い鯖色の光を発し、まばたいているではございませんか」
「どれどれどれだ、ううむ、あれか」
云いながら正休の背後へ進み、小刀の柄を握りしめた。
「殿、お見えでございましょうな」
「…………」
太郎丸のジッと見ているのは、星ではなくて正休の首!
首を狙われているとも知らず、一世の鴻儒西川正休、じっと夜空を見上げている。
「殿、人間は欺けても、自然律だけは欺けません。天地人の三才は、不可抗力の自然律に支配されているのでございます。で人界に異変があれば、すぐ天体に影響します。おッ!」
と正体どうしたものか、にわかに驚嘆の声を上げた。
「これは不思議だ! これは迂濶だった! いつの間にあんな星が出たのだろう! 瑞徴瑞徴偉い星が出た! 殿々、ごらんなさりませ、あの盗み星のすぐ横に、涼しい澄み切った小さな星が、盗み星の光を奪うまでに、輝いているではございませんか! 殿々、あれこそ聖者星でござる。学術的に云えば天禀星、すなわち聖者山林を出て、穢土俗界に下った時、現われるものと云いつたえられた、千百年間に二度とは出ない、珍らしい星にございます! いや有難い、これで大丈夫だ! 盗み星は消えよう天下は泰平! がそれにしてもどのような聖者が、どこからどこへ現われたのであろう? これは是非とも目付けなければならない! 殿、お暇いたします!」
家内へ引っ込もうとした時である。
「ならぬ」
と太郎丸一喝した。抜いた刀を持っている。
「これ」と太郎丸刀を上げた。「帰すことはならぬ! どこへもやらぬ!」
その様子を見た西川正休、驚いたかというに驚かなかった。
「ははあ拙者をお手討ちかな」
「まずそうだ、学問の祟り!」
「ほほう、それはどういうわけで?」
「拙者の本心を見抜いたからよ」
「よろしい、お手討ちなさるがよい」従容として云ったものである。「拙者死んでも怨みござらぬ。既に天禀星あらわれた以上は、殿の今回の企て到底成就しませんからな」
「うむ」と云ったがジリジリと進んだ。とにわかに声を落とし、「これ求林斎、ちょっと聞きたい、その天禀星の主の在家、どうだそちに解るかな?」
「盗み星の主の正体を、見現わしたところの拙者でござる。もちろん、天禀星の主といえども」
「そうか、解るというのだな」
「目付けないでは置きませぬ」
「よし」と云うと刀を納めた。
「目付けて俺に教えてくれ」
「え?」と正休訊き返したが、
「ははあ、それではご前には……」
「大望の邪魔する天禀星の主、目付かり次第叩っ切るのさ、求林斎それまではそちの体、屋敷内から遁がさぬぞよ!」
その時であった、中庭の方から、「脱牢でござる! 方々出合え!」と、伊集院の声が聞こえて来た。
バタバタ駈けて来たのは烏組のお紋、「ご前、大変にございます! 浜路、宗三郎、鷺組のお絹、脱牢いたしましてございます!」
「馬鹿め!」と一喝した太郎丸、「とらえろ! とらえろ! どんなことをしても捕らえろ! 陰謀を知っているあいつら三人、取り逃がしては露見の基! 兵を繰り出せ! 烏組を繰り出せ! 手にあまったら切ってすてろ!」
この頃宗三郎と萩原仁右衛門、鷺組のお絹と娘の浜路、一団にかたまって中庭を、裏門の方へ走っていた。
戸をあける音! 馳せ出る音! 屋敷に詰めている数十人の武士、颯とその後を追っかけた。と、ガッチリと鷺組のお絹、裏門の閂へ手をかけた。
鷺組のお絹ガッチリと、閂へ両手をかけた時、敵ムラムラと追い逼まった。
「それ捕まえろ捕まえろ!」
「何を!」と振り返った宗三郎、逆に敵中へ飛び込んだが、既に刀は抜き持っていた。選んで討ち取る暇はない、真っ先に進んだ二人を、袈裟に斃して向こうへ飛び、刀を返すと横一揮! ガッという悲鳴、仆れたのは、高股スッパリ切られたのであろう。
二人討たれて、バラバラと逃げる敵に眼もくれず宗三郎、「浜路殿! 浜路殿! 敵の得物を!」
「はい」と云うと娘の浜路、斃れた敵に飛びかかり、握っていた刀をもぎ取った。浜路得物を得たのである。
ガラガラドーンと閂の音! グーッと門がひらかれた。
「さあさあ皆さん、揃って外へ!」鷺組のお絹の叫び声!
外へ飛び出した男女四人!
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「一まず御器所の森林へ!」
「引き上げましょう、それから手段!」
「娘よ娘よ!」とまた仁右衛門、「はぐれるなよ! しっかり続け!」
「はい、お父様、大丈夫!」
「方角はこっち! おいでなさりませ!」お絹真っ先にトッ走る。つづいて三人、ひた走る!
「逃がすな! 逃がすな!」と門内より、忽ち現われた無数の敵! 一団となって追って来た。
こっちの四人、女連れだ、殊に浜路は疲労れている。呼吸が逸んで歩きなやむ。背後三間、追い逼まった敵!
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「ご苦労ながら一人二人!」
「心得てござる! 貴殿にも!」
「もちろんのこと! では一緒に!」
グルリ振り返った宗三郎と仁右衛門、返しはしまいとタカをくくり、不用意に逼まって来た敵中へ、一踴黒々と飛び込んだ。キラリと刀身二本上がる! 斜めに落ちたとき二声悲鳴! 仆れる音に退く音!
「娘よ!」と仁右衛門引っ返した。
遙かに逃げのびた浜路の声、「お父様お父様! ここにいます! 山影様山影様!」
「浜路殿!」と宗三郎、仁右衛門と揃って引き上げる。「お絹殿お絹殿!」
「こっちへこっちへ!」とお絹の返事!
一緒になった四人の男女、ひた走るひた走る御器所の森へ!
だがいつまでも追い逼まる敵! しかし御器所の森林は、四人の前へ近づいて来た。森へはいったら大丈夫! 木蔭に隠れ、藪に隠れ、暁を待つことが出来るだろう!
もう一息だ! 走れ走れ!
森の口まで行きついた時、ムラムラと現われた多勢の人影!
「それ引っ包め! 討って取れ!」
敵の伏勢いたのである。
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「いかが致そう! ご思案は!」
「さよう」と云ったが宗三郎、ふと思い付いたことがある。「市街へ出て行き、七ツ寺、蝮酒屋で、落ち合いましょう! 知人がおります、拙者の知人! しかし成るたけ、離れぬように!」
森を廻って町の方へ、四人懸命にひた走る! だが前後より揷み討ち、グルグルグルと包まれた。
「方々!」と山影宗三郎、「背中を合わせて、四巴、四方の敵へお向かいなされ!」
四人背中をもたせ合わせ、四方に向かうを四巴、五人背中をもたせ合わせ、五方に向かえば五ツ巴、これを戦陣に用いれば、上杉謙信が活用した、車がかりの陣備え! グルグル巴に廻りながら、引っ包んだ大敵に向かうのである。
浜路にお絹に仁右衛門に宗三郎、ピッタリ四巴に背中を合わせ、さあ来やがれとヒッ構えた。そこを目掛けて一人の敵、颯と浜路へ切り込んで来た。浜路ジャリ──ンと払い上げた。と颯と飛び返る。また懲りずまに切り込んで来た。その時巴グルリと廻り、立ち向かったは宗三郎切り込んで来た出鼻を利用し、グッと肩先へ切り返した。ドンという音! 仆れたのである。と、また二人切り込んで来た。すでに巴は廻っていた。立ち向かったは萩原仁右衛門、手を延ばすと突っ込んだ。息詰まる声、仆れる音! 腹の真ん中を突かれたらしい。
二人討たれひるんだらしい。バタバタと後へ退いた。
「蝮酒屋へ! 七ツ寺!」宗三郎声をかけた。
サ──ッと四人走り出した。
出た所が上前津通り、それを西へひた走る。もうすぐだ、七ツ寺! と、左右の横丁から、敵ムラムラと走り出た。グルグルグルグルと引っ包む。二三十人の人数である。先廻りをしていたらしい。
「拙者、血路を! ……それに続いて!」
声を残して宗三郎、前面の敵へ切り込んだ。するとパッと左右に分かれ、それが合すると宗三郎の躯、白刃の下に埋ずもれたが、数合の太刀音! 数回の悲鳴! バタバタバタバタと仆れる音! 敵勢左右にまた開く! 真ん中に立った宗三郎、月光に照らされ紅斑々! 心配はない、返り血だ! 中段に構えて動かない。と一躍左へ飛ぶ、気勢に恐れたか逃げる敵! 追っかけずに右へ飛ぶ! これも気勢に恐れたのだろう、敵勢小路へ駈け込んでしまった。
一息吐いた宗三郎、振り返ってみて驚いた。誰も後から続いて来ない。ギョッとして呼んだは、「浜路殿!」
すると遙かから、「宗三郎様!」
引っ返した宗三郎、ふたたび声を響かせた、「浜路殿! 浜路殿!」
「宗三郎様!」と右手の小路!
飛び込んで見ると娘の浜路、三人の敵に囲まれている。
「此奴!」と叫ぶと宗三郎、ザックリ一人を背後袈裟!
左右に遁走する敵を見棄て、「いざ浜路殿!」と引っ抱えた。しっかり縋る浜路の手、首にかかってグンニャリとなる。
「お怪我は?」「いいえ」「まずよかった」気が付いた浜路、「お父様!」
声に応じて、「ここだ、浜路!」
左手の小路から聞こえて来る。
飛び込んで見れば萩原仁右衛門、五六人の敵に囲まれている。
「助勢致す!」と宗三郎、太刀を上げると二人を切った。
そこへ飛び込んだ娘の浜路、一人の敵を背後から! 馬鹿な野郎だ、腰を突かれ、ワーッと叫ぶと引っくり返った。
そこで三人顔を合わせた。
気が付いて宗三郎、「お絹殿!」
だがどこからも返事がない。やられたかな? 大丈夫! 何んの鷺組の頭領が、市街戦などで殺されるものか! 策あって逃げたに相違ない。
大通りへ出た三人の男女、「さあ揃って七ツ寺へ!」
サ──ッと走るその行手へ、また現われた敵の勢!
「山影氏、今度こそ遁がさぬ!」先頭の一人が呼ばわったが、これ他ならぬ伊集院五郎。
衆を率いて御岳以来の怨敵、伊集院五郎現われた。
「うむ、貴様、伊集院か!」山影宗三郎呻いたが、グルリと背後を振り返った。「一刻も早く仁右衛門殿、浜路殿を連れて例の場所へ! 拙者一人にてこれらの雑兵、切り散らして血路をお開き申す! 来い伊集院、刀の切れ味、今夜こそ見せる、驚くなよ!」
伊集院を目掛けて弘法の太刀、すなわち右肩から左胴まで、大袈裟掛けに切り込んだ。
「何を!」とジャリーン伊集院、捨て身に流して払ったが、颯と左へ飛び退いた。「方々拙者にお構いなく、仁右衛門浜路へおかかりくだされ! 出来得べくんば生け擒りにな! 特に女は是非生け擒り! ……来い山影!」とこれも武士、一刀流の貫心の手、太刀を延ばすと左腕をズバリ!
「小癪な!」とかわした宗三郎、左手を放すと右の手で、大きく廻して横なぐり、きまれば円明の蜘蛛手となる。
が、伊集院、ツツ──と退いた。それを追い込んだ宗三郎、上げた一刀、月光を吸って、青大将のように光るのを、笠に落として脳天を! 受けは受けたが伊集院、背後は家壁、引くことは出来ぬ。
「やられる、やられる!」と居縮まった。
危険と見て取った二人の敵、声も掛けずに左右から!
「汝ら!」と一声、宗三郎、斜めに払った太刀につれ、ぶっ仆れたのは切られたのである。
ひるんで一人、逃げるのを、太刀を返して宙に刎ねた。首が前、骸が後、二つになってくたばったのは、三宝に切られたと云うやつである。
危地を脱した伊集院、崩れた宗三郎の構えを狙い、得意の一手、双手突き! 「どうだア!」とばかり突っ込んだが、三寸を払われて狙いが外れ、のめるところを正面から、「どうだア!」と反対に切り込まれた。
太刀を取り直す暇もない、伊集院夢中で柄を上げた。柄を切られてバラバラバラ、糸が紛れて目釘が外れ、刀身向こうへ飛んだ隙に、辛くも遁がれて横っ飛び、露路へ姿をくらませてしまった。
ホッと一息宗三郎、「仁右衛門殿!」と呼ばわった。
と遙かの東方から、「山影氏! 山影氏!」
「うむ、ご無事か!」と一散走り、追っかけながら前を見た。浜路とピッタリ背中を合わせ、萩原仁右衛門構えている。それを包んだ敵の数、十人近く思われたが、生け擒りする気か切って行かぬ。
そこへ馳せつけた宗三郎、
「退け!」と一喝、気勢を示し、一刀に切った敵の一人!
既に手練は知れている、山影宗三郎と見て取るや、気遅れしたか敵の勢、バラバラと露路へ逃げ込んだ。
「お怪我は?」
「幸い!」
「浜路殿は?」
「妾も無事でございます」
「もう七ツ寺、眼の前でござる! もう一息! いざご一緒に!」
三人声を掛け合わせ、走り出した時耳を貫きガ──ッと鳴り渡った烏笛! それを合図に八方から、群立ち騒ぐ烏の音、物凄じく聞こえて来た。とムラムラと露路口から、真っ黒の物が現われたが、円陣を作って三人を、グルグルと取り巻いたものである。
ヌッと進み出た一つの人影、
「オイ」と嘲笑を響かせた、「もういけないよ、お三人さん! 烏組のお紋だ! 捕った捕った!」
次第に円陣を縮めて来た。
烏組のお紋部下を引き連れ、宗三郎、仁右衛門、浜路を包み、その円陣を縮めて来た。
「しまった」と思ったが宗三郎、ナニ大丈夫だ、トヤ駕籠が来ない、たかが女だ、蹴破ってやれ! しかし用心が肝要である、そこで呼ばわったものである。「あいや仁右衛門殿、浜路殿、此奴らは島津家の女忍び衆、捕り物にかけては不思議に精妙、しかしちっとも心配はござらぬ、いろいろの策を講じましょうが、決して心を乱さずに、眼で一方を睨め付け、ただ一文字に七ツ寺を目掛け、お走りくだされ、切り抜けられましょう! ……お紋!」とお紋を睨み付けた。「よくもさっきはトヤ駕籠で、我々を捕え苦しめたな! それにも飽き足らずまた捕る気か! よし面白い捕ってみろ、今度はこっちにも用意がある、おめおめ汝らに捕られはしない! 女風情を討ち取るは、刀の穢れ男の恥じ、しかし繰り返し繰り返し、悪意の企てするからは、用捨しない叩っ切る! さあその意りで掛かって来い! どうだどうだ!」とツト進んだ。
嘲笑ったのは烏組のお紋、「せっかく捕らえた鳥三羽、料ってやろうと思ったら、鳥小屋を壊して逃げおったね。そこでもう一度捕らえる気さ。おやおや鷺組のお絹がいないね。その代り変梃な爺さんが、一羽新しく加わったね。何んでもいいや、一網打尽、引っ捕えて鳥小屋へ入れてやろう! さあさあ皆お始めよ」
ピョイと飛び返って手を上げた。それが合図かグルグルグルと、数十人の黒小袖の女忍び衆、渦巻のように廻り出した。
「ふふん妙なことをしやあがる」
こう思いながら宗三郎、切り込んで行こうとするのであるが、眼移りがして切り込めない。気が付いて仁右衛門と浜路を見た。これもやっぱり逃げられないと見え、太刀をピッタリ構えたまま、同じ渦中に縮んでいる。
「残念」とばかり宗三郎、己と己へ勇を付け、胴へ引き付けた太刀の鎬、それへ左手をグッとあて、駈け込んで突く心組み、「ウン」と気合いをこめたとたん、円陣グ──ッと開き渡った。とガ──ッと烏笛、一声吹いたはお紋らしい。
またまた合図、その一刹那、数十人の女忍び衆、グルグルグルグル渦巻きながら、一斉に右手を宙へ上げた。風を切ったと思った時、霰のように何か飛んで来た。顔と云わず手と云わず、山影宗三郎の全身へ、気味の悪いもの飛び付いて来た。
「何んだこいつは!」と仰天し、思わず手を上げて顔を押えた。鳥モチではないがそんなような物だ。捕り物道具の一種だろう、ベタベタ全身にくっ付いた。引き放そうとしても放れない。
グルグルグルと渦が巻く、ヒラヒラヒラと手が上がる、そのつどそいつが飛んで来る。口を蔽い鼻を蔽う、眼をふさぎ耳をふさぐ。窒息させようとするのである。
思いも設けない戦術である。さすがの山影宗三郎も、ハッ、ハッハッと息を切らし、顔を地へ垂れ太刀を捧げ、キリキリと独楽のようにぶん廻った。避けよう避けようとするのである。だが無数に飛び付いて来る。次第次第に息が詰まる。だんだん神気が疲労れて来る。あぶないあぶない、捕らえられるだろう。
これほどの騒ぎだ、両側の家では、戸を開け窓を開け窺っている。来かかった旅人が引っ返す。逃げ出す者、見に来る者、人を呼ぶ声、騒がしい。
と、七ツ寺の蝮酒屋、そこの表て戸がコトリと開き、
「何んだろう往来がやかましいが」こう呟いた女がある、お仙である、組紐のお仙!
と、二三人の地廻りらしい男、声高に喋舌りながら走って来た。
「山影とかいうお侍さんが、可哀そうに殺されそうだ」
「山影さんというお侍さん、可哀そうに殺されそうだ」
こいつを耳にした組紐のお仙が、飛び出して行ったのは無理ではあるまい。
「もし山影というお侍さん、どこでどいつに何んのために、殺されかかっておりますので?」
こう叫ぶと組紐のお仙、一人の地廻りへ武者振りついた。
仰天したのは地廻りで、ヒャッと喚くと飛び退いたが、「何んだ何んだ、お仙ちゃんじゃアないか!」蝮酒屋の常連と見える。「闇から棒と云いたいが、月夜にお仙ちゃんだから尚驚く、前触れをしてっから飛び付いてくんな、突然やられると胆を潰さあ。……え、何んだって山影さん? ああその人なら表て通りの、三丁目の辺でグルグルと、変梃な女に取り巻かれているよ。うんそうだ真っ黒の女に。それも一人や二人じゃアねえ、数十人の女にだ! ただの女じゃアなさそうだ、烏のお化け、蝙蝠のお化け! と云ったような女だなあ。そいつがグルグルと廻ってるんだ、そうしてヒラヒラと手を上げるんだ、すると山影とかいうお侍さんが、クルクルクルクル廻るってものさ! 何かを投げられているらしい。どっちみちあんなにブン廻っては、早晩根を疲労らせて、死んでしまうに相違ねえ。……オヤどうしたんだいお仙ちゃん、顔色を変えてさ、嚇しちゃアいけねえ」
お仙突然叫んだものである。「妾の大切な宗さんだヨーッ」それから地廻りをコヅキ廻した。
「行っておくれよ、さあ一緒に! 助太刀助太刀! さあ一緒に!」それからまたも叫び出した。「山影さんなら宗さんだヨッ、宗さんなら尋ね人だヨ──ッ」
「あッ、なるほど」と地廻りだけに、お仙が誰を探しているかは、とうに聞いて知っていたらしい。
「おお宗さんなら山影さんだ、山影さんなら宗さんだ! お仙ちゃんの尋ね人! それ行けそれ行け、助太刀助太刀!」
「ちょっとお待ちよ」と組紐のお仙、蝮酒屋へ飛び込んだが、すぐにヒラリと飛び出して来た。小脇に抱えたは例の畚、長虫が詰まっているのだろう。
「さあさあ一緒に!」「おお合点!」駈け出す行手から五六人の地廻り、またこっちへ走って来る。
「おおご常連、いいところへ来た、さあさあ一緒に行ってくれ!」こっちの地廻り声をかける。
「何んだ何んだどうしたんだ?」向こうの地廻り訊き返す。
「山影さんだから宗さんだ! 宗さんだから山影さん、真っ黒の女がグルグルグル、手が上がってヒラヒラヒラ、そこでお仙ちゃんの尋ね人が、キリキリキリとブン廻る、な、解ったか、助太刀助太刀!」
「どうもハッキリ解らないが、お仙ちゃんのためなら力を貸そう! それ行けそれ行け!」
と走り出す。と向こうからまた地廻り!
「おおおお常連いいところへ来た。山影さんだから宗さんだ、宗さんだから山影さん、山影さんなら尋ね人、お仙ちゃんのためだ。助太刀助太刀!」「合点!」と云うので走り出す。と向こうからまた地廻り!
「おおおおご常連いいところへ来た、山影さんだから宗さんだ、宗さんだから山影さん!」
「俺がその後を云ってやろう、山影さんなら尋ね人、うんそうだよお仙ちゃんの! 一緒に行こう、助太刀助太刀!」
「おや感心知っているのかい!」
見る見る地廻りが集まって、三十人ほどの数になった。先頭に立ったは組紐のお仙! ドッと三丁目へ押し出した。
三丁目へ出たお仙の一隊、見ればなるほど前方にあたって、月光の下に無数の人影、黒々と渦を巻いている。
「あそこに宗さんがいるんだね、さあさあ皆さん来てください!」お仙先に立ってひた走る。つづいて大勢の地廻りども、棍棒やまきざっぽや匕首を握り、まず気勢の掛け声を、ワーッと上げて後につづいた。
既に行き着こうとした時である、一方の小路から十数人の武士、バラバラと出て遮った。
「これ汝らどこへ行く!」真っ先の一人が声を掛けたが、さっき宗三郎に切り立てられ、あやうく逃げた伊集院で、新手をひきいて現われたのである。
早くも目付けた組紐のお仙、
「おおお前は伊集院さん!」
「や、貴様、お仙ではないか?」伊集院かなり驚いたらしい。
「ああお仙だよ、組紐のお仙! あの両国の茜茶屋以来、随分しばらく逢わなかったねえ」
「いや昨夜チラリと見た」
「そうさ御器所の地下室でね」
「おい」と伊集院声を怒らせ、「約束はどうした。茜茶屋での約束!」
「木曽の御岳へ出て行って、宗三郎様をとっ捉まえ、色仕掛けでグニャグニャにし、江戸へ帰そうという約束かえ?」
「うんそうだ、その約束よ」
「御岳で宗さんはつかまえたよ。そうしてお前の悪巧みを、みんな話してしまったよ」
「悪い女だ、約束にもとる! 金を返せ! 五十両!」
「手つかずに持ってはいるけれど、そっちへもどすのはマア止めよう。ケチなお前から五十両、ふんだくってやったと話したらね、宗さん大変喜んでいたよ。機会があったらもっともっと、引っ剥いでやれとこう云ったよ。オイ伊集院さん、もう五十両お出しよ」
「呆れたなア、この女は! でこの名古屋へはいつ来たのだ?」
「宗さんの後を追っかけて、少し前から来ているのさ」
「ははあそれでは宗三郎を捉え、今度こそ色仕掛けでタラシ込み、俺との約束を果たす気か」
「大違いの真ん中だよ、山影宗さんと一緒になり、宗さんに仇するお前さんを、とっちめてやろうとこう思っているのさ。……お退き! 宗さんが、あそこで虐められているんだから! 早速行って助けなければならない」
「馬鹿だなあこの女は! 誰が虐めているか知っているか?」
「真っ黒の女だと云うことだよ」
「俺の一味だ、島津の烏組だ! 何んで貴様などやられるものか。ここで逢ったはちょうど幸い、生け擒りにして連れ戻り、江戸以来の思いをとげる。……あいや方々!」と一味を見返り、
「山影、浜路、仁右衛門は、烏組の衆に任せて置き、まず大丈夫と見てよかろう。ご苦労ながらこの女を、ひっ捕えて屋敷へお運びくだされ。直接ではないが間接には、この組紐のお仙という女、敵方の一人と申してよろしい」
「かしこまる!」と二三人、お仙へ向かって飛びかかった。
「馬鹿な面め!」と叫んだが、叫んだ時には組紐のお仙、畚から蝮を引っ張り出し、ビューッとばかりに投げ付けていた。
「ワッ」と叫ぶ武士の声!
「首へ巻き付き食い付いたからは、気の毒気の毒命はない! 蝮だ蝮だ蝮!」またも一匹投げつけた。
蝮をピューッと投げ付ける! こんな途方もない兵法が、浮世にあろうとは思わなかった。そこで伊集院もその一味も、ギョッとして一時退いたが、蝮の数にだってキリがある。投げ尽くしたなと思った頃、サーッと一斉に襲って来た。
「さあさあ皆さん助けてくださいよ!」金切り声でお仙が云う。
「よし来た!」とばかり地廻りども、得物得物を打ち振って、伊集院一味へ打ってかかった。
「この三ピンめ!」「この素町人!」「お仙ちゃんを助けろ!」「お仙めを生け擒れ!」
ここに市街戦がはじまった。
敵の人数を掻いくぐり、お仙、宗三郎へ近寄ろうとするが、駈けへだてられて近寄れない!
伊集院、お仙を捕らえようとするが、これまた地廻りに駈けへだてられ、どうにも近寄って行くことが出来ない。
打ち物の音、喚き声、悲鳴、怒声、仆れる音! 入り乱れる武士と町人の姿!
一方では地廻りが武士を追っかける。一方では武士が地廻りを追う。
人数は多かったがタカが地廻り、薩摩武士には敵うべくもない、だんだん追い立てられぶっ払われ、次第次第に崩れ立った。
「おお、お仙ちゃんもういけねえ、逃げなよ逃げなよ、俺ら逃げるぜ!」
二三人が叫び出した。
最後に残った一匹の蝮、そいつを掴んだ組紐のお仙、伊集院と向かい合って突っ立っていたが、
「いけないいけない逃げちゃアいけない! 逃げようものなら承知しないよ! 蝮酒屋へやって来たって、妾お酌をしてやらないよ!」
「え、何んだって、酌をしてくれねえ! ワーッ、そいつア大変だ! 命なんかはどうでもいい、酌をして貰う方が大切だ! ソーレ命なんか捨てっちめえ!」
そこでドッと盛り返した。
今度は武士の方が足が浮いた。
「伊集院殿、やり切れません、相手が武士なら型もつくが、ならず者だけに手に余ります。足をぶっ払ったり腰を叩いたり、変なところで気合いを掛けたり、とんと見当が付きません! 一応引くことに致しましょう」
驚いたのは伊集院、「何を云われる、不届き千万! ここら辺りの地廻りに、負けたとあっては面目が立たぬ、引いたが最後、太郎丸殿に申し、貴殿方の禄を引っ剥ぎますぞ!」
顫え上がったのは武士どもだ。「禄を剥がれてたまるものか! 命より禄の方が大切だ! それ命をすててしまえ!」そこでドッと盛り返す。すると地廻りが浮き足立つ。お仙が怒って呶鳴りまくる。
「酌をしてやらないよ! 酌をしてやらないよ」地廻りどもが盛り返す。と、武士どもが崩れ立つ。怒った伊集院呶鳴りまくる。「禄を剥ぐぞ、禄を剥ぐぞ!」
そこで武士どもが盛り返す。
ところで一方山影宗三郎、仁右衛門、浜路はどうなったか?
三人息も絶え絶えに、キリキリ廻っているのであった。とバッタリ娘の浜路、精根つからせ仆れてしまった。猛然と飛びかかった一人の烏組、「捕ったア」とばかり押さえつけた。
精根尽きて仆れた浜路、それを抑えた烏組の一人、「捕ったあ!」とばかり抑え付けた。
仰天したのは萩原仁右衛門、「南無三、娘が」と寄ろうとしたが、神気疲労れてこれも、ヒョロヒョロ、寄りは寄ったが浜路と並んで、バッタリ横仆しに仆れてしまった。
翻然飛びかかった烏組の数人、「捕ったあ!」とばかり抑えつけた。
最後に残ったは山影宗三郎、仁右衛門と浜路の抑えられたことを、目前に見ながらどうすることも出来ない。グルグル廻る烏組、ヒラヒラ上がる彼らの手、手につれて飛んで来るモチのようなもの、それに呼吸を封ぜられ、進みもならず、引きもならない。頭上に真っ直ぐに太刀を捧げ、キリキリ廻るばかりである。
それも次第に緩慢となり、まず左、それから右、左右へヨロヨロとよろめいたが、「無念!」ととうとう膝をついてしまった。
「捕ったあ!」と叫んだ烏組、数人颯と飛びかかった。
最後の勇を振るい起こし、刎ね返そうと宗三郎、背を蜓らせたが駄目である。いわゆる小具足腰の廻り、常道の捕り物骨法から、解釈しがたい精妙な捕り方! そういうものを備えていると見え、抑えた烏組の女の手、磐石のようにズンと重い!
ヒューッと一筋捕り縄が出た。それをさばいたは烏組のお紋、宗三郎の首を巻き、キューッと絞めようとした時である、清涼たる鷺笛の音、コーッとばかり鳴り渡った。
それを合図に辻々から、団々として白い物、数を尽くして現われたが、一旦逃げた鷺組のお絹が、屯所へ帰って部下を率い、取って返して来たのである。
「やあ鷺組だ! 用心しろ!」
騒ぎ立った烏組、そいつをグルグルとおっ取り巻き、切り込んで来た鷺組の群、白柄藤巻の小サ刀、打ち振るに連れて白粉が散る。見る見る四方白濛々、名古屋へ一時に冬が来て、あたかも吹雪が立ちこめたようだが、これぞ鷺組の捕り方秘法、刀の柄に「龍骨灰」を仕込み、打ち振るごとに奔出させ、味方の所在を眩ます手だ!
鷺組は文字通り白装束、龍骨灰に眩まされ、敵に所在を見せることはないが、烏組は黒装束、白濛々たるその中でも、黒々と姿が窺われる。そこが鷺組の狙いどころ、追い廻しては叩っ切る。飛び込んで行っては組み伏せる。
大勢俄然一変し、総崩れ立った烏組、右往左往に逃げ廻る。
吃驚りしたのは烏組のお紋、捕りかけた宗三郎をうっちゃって、突っ立ち上がった真正面から、姿は見えないが声がした。
「オイお紋さん、もう駄目だよ!」お絹の声だ! 響き渡った。「これまでは随分虐めたねえ、今度こそこっちで虐めてやる。さあさあ逃げられるなら逃げてごらん。だがお前さんの周囲には、妾達鷺組の連中が、ビッシリ立っているのだよ。が解るまいね、解ってたまるか! 嘘と思ったら動いてごらん、さあさあ自由に、動いた動いた!」嘲笑し切った声である。
じっと立ち縮んだ烏組のお紋、偉いことになったと思ったが、物はためしと左手へ走った。とポカリと叩かれた。姿も見えなければ手も見えない。白濛々たる一色である。が、濛々たる白色の中に、鷺組の者がいたのであろう、頬をポカリと叩かれたのである。
今度は右手へ走ってみた。とまたポカリ、頤を撲られた。「ううん」と呻いたが後へさがった。とまたポカリ、腰を蹴られた。今度は前へ! するとポカリ! 膝頭を蹴られたものである。
「どんなものだいお紋さん!」お絹の声が愉快そうに響く。
「どんなものだいお紋さん!」濛々たる白気に包まれて、お絹の姿は見えなかったが、声ばかりは愉快そうに響き渡った。「逃げられまいね、逃げられるものか! 右へ行ってもポッカリさ、左へ行ってもポッカリさ、妾の部下だよ、取り巻いているのさ! もう駄目々々、翼を縮め、穏しく降参するがいい。妾は殺生は大嫌い、命まで取ろうとは云やアしない。ふん縛って屯所へ連れて行き、そうさねえ少しは嬲る。それから薩摩へ帰してやろう。それにしても随分智恵がないねえ、こればっかりの隠身術、お前さんにゃア破れないのかい。あの途方もなくご自慢のトヤ駕籠はいったいどこにあるんだい。舁いでおいでよ、サアサア早く! そうして扉を開けるがいい。吸い込むだろうね濛気をね。……オヤオヤ何んとも云わないねえ。……オットオット動き出した。斜めに突っ切るつもりだね。……お杉さんお杉さん気をお付け、お前さんの方へツッ走るよ。……オヤオヤオヤ止めたそうな。……ははあ今度は背後斜めか? ……オイオイお松さん、気をお付け、お前さんの方へ行きそうだよ。……オヤオヤオヤまたお止めか。意気地がないねえ、逃げてごらんよ」依然として姿は解らない。しかし濛々たる白気の中に、鷺組のお絹佇んで、お紋の行動を見ているらしい。
さすがのお紋も身動きさえ出来ず、怒りに顫えて立っていた。
とまたお絹の声がした。
「さあさあお霜さんお葉さん、そこに仆れている山影さんを、連れて行って介抱しておくれ、くっ付いているモチのようなもの、逆に撫でればすぐに取れる。ナーニ妾にゃア解っている。『卵膠』と云って子供瞞し、卵と膠で製したものさ、上から撫でるから取れないのさ。捕り物道具のその中では、秘伝にも行かないつまらない物だよ」
間もなく宗三郎の声がした、「忝けのうござる、もはや大丈夫!」
つづいて仁右衛門の声がした。
「いや有難い、息が出来る」
つづいて聞こえる浜路の声、「有難うございました。正気づきました」
鷺組の連中に介抱され、三人ながら立ち上がったらしい。
依然濛気は立ちこめている。その中で打ち合う音がする。少し離れた方角では、伊集院の一隊とお仙の一隊、いまだに揉み合っているらしい。
見物に来る者、逃げて行く者、雨戸を開ける音、閉じる音、七ツ寺界隈騒然と、戦場のようなありさまである。
一方こんなに騒がしいのに、堀川に添った日置あたり、材木置き場に自然と出来た例の木小屋の静かさと来たら、むしろ神々しいほどである。
月が斜めに射し込んでいる。で小屋の中がポッと明るい。坐っているのは薬草道人、月光が半面を照らしている。その横にいるのが尾張宗春、端然としてかしこまっている。背後にいるのは猪十郎と紅丸、傍らにあるのは薬剤車、すこし離れてお吉がいる。みんな平和で仲がよい。その一団を取り巻くように、材木の上や船の中に、うごめいているのは何者であろう? それも十人や二十人ではない。百人近くの人影だ。他でもない、モカ達である。
大勢のモカ達を相手にし、薬草道人の人情哲学! さっきから始まっているのである。
「あれはな、この俺の二十五六の頃だ、大きな地震が起こったっけ、江戸が大半潰れてしまった……それについて面白い話がある」
薬草道人の人情哲学。──
「江戸の大半を潰した地震、あれは随分恐ろしかった。上流の方々も死なれたし、下流の人達も沢山死んだ。そうして吉原の花魁さんなんかも、かなりむごたらしく死んだ筈だ。うんそうそうそれについて、こんな思い出が俺にあるよ、花魁さんが惨死したと聞くと、俺の眼瞼は熱くなったよ。涙が出かかったというものさ。上流の方々の死なれたのも、もちろん何んともお気の毒ではあるが、しかしそういう人達は、生前面白いお芝居を見たり、結構なご馳走をいただいたり、面白い目にも会った筈だよ。ところが花魁ときたひには、活きている時から色道地獄、もうそれだけでもたまるまい。ところで猛火に焼かれた上、池へ飛び込んで死んだというから焦熱地獄と八寒地獄、こいつを経たというものさ。その上死んでからは無縁仏だ。これじゃア実際浮かばれまいよ。──と思ったから涙が出たのさ。え、ところがどうだろう、その時一人のお嬢さんが、俺にこんなことを云ったものさ。『上流の方々の亡くなられたのは、ほんとにほんとにお気の毒ですが、こんな吉原の花魁なんか、死んでしまった方がよござんすね』とね。そのお嬢さんだがこの俺を、実は愛してくれていてね、俺がその時合槌を打ったら、たしかに夫婦になれたことと思うよ。とても綺麗なお嬢さんでね、そうして大変お金持ちでもあった。だが俺は合槌を打たなかった。そうそう合槌を打つかわりに、ヒョイとお嬢さんを抱いたってものさ。するとお嬢さんが早合点をして、俺の胸へ額をうずめたが、『愛していてよ、ええあなたを!』恋の告白をしたんだねえ。だがその後でお嬢さん、ひどく驚いたに相違ないよ。というのは俺が足の先でス──ッと障子を引きあけて、そうしてお嬢さんを部屋から出し、今度は両手で障子を握り、唐天竺へでも響きそうな、途方もない大きな音を立て、ピシッと閉め切ってしまったからさ。つまり何んだ、こういう意味さ、『うしゃアがれ! もう来るな!』さすがは利口なお嬢さんだったね、もうそれっきり来なかったよ。そりゃア来ないのが当然さ、ああいうお嬢さんというものは、抱かれることには慣れているが、ああいう勇敢な障子の閉て方には、おそらく慣れていないだろうからなあ。それに何んだ、お嬢さん方には障子一つを閉めるにも、作法というものがあるらしいなあ。そうして作法に外れると、下等だと云って卑しむらしいなあ。だがしかし俺の不作法と、そのお嬢さんの心持ちと、どっちがいったい下等だろうなあ。だがマアそれはどうでもいい。それにしてもあの時この俺がだ、も少しちいさい音を立てて、障子というものを閉めていたら、たしかに俺は出世していたよ。そうだよお嬢さんの婿になってな。では後悔をしているかというに、当然なことには後悔していないよ。と云うのは跣足で歩けないからさ」
こう云いながら薬草道人、ヒョイと片足を突き出したが、月光に照らされてその片足、充分美的でないということが、鮮かに証明されたものである。
「ね」と道人云い出した。「どうも浮世の往来というもの、石ッころがあったり茶碗のカケがあったり、凸凹していて歩きにくいなあ。だから行き来の人達は、下駄や草履を穿くらしいが、こりゃア飛んでもない不所存だよ。そんなにも道が悪いのだから、是非とも跣足で歩かなければならない──と云う理由を話すことにしよう」ここで道人舌なめずりをした。
穏かな月光、穏かな堀川、穏かな木小屋、穏かな船、その中で語る道人の声、また穏かなものである。それを聞いている多勢の人々、ひっそりとして穏かである。
「ね」と道人云い出した。「薄くしなければならないもの、それは人間の面の皮で、厚くしなければならないもの、それは人間の足の皮さ」こんなことを云い出した。「だがどうして足の皮を厚くしなければならないんだろう? それはさっきも云った通り、浮世の往来が険しいからさ。薄い皮の足などで歩いてごらんよ、すぐに足の裏が傷むから。そこで人間は考えたね。下駄や草履というものをな。ところがちっとも不思議でないことには、下駄や草履を穿けば穿くほど、足の皮はだんだん薄くなる。険しい道に触れないからさ。ところでもう一つ困ったことにはどういうものか人間というもの、いい下駄やいい草履を穿きたがるなあ。下駄一足に五両十両そんな大金さえかけるそうだ。そうして品さだめをするそうだよ。五両の下駄を穿いている、だからあの人は五両だけ偉い。十両の下駄を穿いている。だからあの人は十両だけ偉い。で偉いだけ尊敬する。尊敬されるといい気持ちだ。でだんだんといい下駄を穿く。下駄で財産を潰した人が、あっちこっちにあるそうだよ。ところでもう一つ困ったことには、下駄というものは減るものだ。歩けば歩くに従ってなあ。乱暴に歩くと乱暴に減る。そこでいい下駄を穿いている人は、減るのを恐れてそっと歩く。するとこいつも当然のことにな、足の皮がだんだん薄くなる。そりゃアそうだろうそっと歩くんだもの。だから私は思うのさ、いっそ何んにも穿かないがよいとな。……ところで下駄を穿いた人間の、歩き方というものがまたおかしい。左へ傾いたり右へ傾いたり、傾いてばっかり歩きたがるなあ。そりゃアまあまあ傾くについては、傾くだけの理由があろうし、そうして一度傾くと、そっちの方面にだって理窟はあろうさ。だが俺としては思うのだよ。真っ直ぐに歩けばいいじゃアないかとな。ところが真っ直ぐに歩くには、チャンとした目標がなければならない。ところが浮世には親切人があって、よい目標を色々と、沢山教えてくれるようだなあ。老子様の説、孔子様の説、お釈迦様の説、キリスト様の説、そうしてひどく親切な人は、一人で七ツぐらい教えてくれるよ。ところでそういう親切人に限って、よく目標を壊されるものだよ。だがその人は困らないと見えて、一つ壊されるともう一つで防ぎ、もう一つ壊されるともう一つで防ぐ、平気で一生防ぐんだから偉いよ。どうしてどうしてもっと偉いことをする、防ぎながら金儲けをしているのさ、防ぎながら敬われようとしているのさ。そうしてそういう当人も、自分を偉いと思っているのだよ。『物知りだアー』と喚いているのさ。いっくら、『だアー』と云ったところで、何んの一向、『だアー』なものか。実際物知りが現われてから、浮世は住みにくくなったなア。とこういうと物知り達は、『薄っペラだアー』というそうだよ。ところがお前この薄っペラが、とてもとてもよいことなのでな。そこでその理由を話すことにしよう」
ここでしばらく考えたが、一人のモカへ話しかけた。「お粂さんお粂さん、訊きたいことがある。人間は幾通りに分けられるな?」
「はい」というとモカのお粂、即座に答えたものである。「男と、女に分けられます」
「さようさようその通り、簡単でいいな、間違いはない。だが浮世の物知り達は、そんなようなハッキリした分け方を、薄っペラだというらしいなあ。……お杉さんお杉さん、お前の分け方は?」
人間をお前はどう分ける? 薬草道人にこう訊かれ、モカのお杉答えたものである。
「年を取った人と若い人、こんなように分けられます」
「さようさよう」と薬草道人、すぐ愉快そうに頷いた。「簡単でいいな、ハッキリしている。だが浮世の物知りは、そういうハッキリした分け方を、薄ッペラだと云って笑うようだなあ。……お山さん、お山さん、お前の分け方は?」
「はい、妾には解りません」お山というモカの返辞である。
これも道人の気に入ったらしい。
「正直でいい、ほんとに正直だ。知らないものは知らないと、ハッキリ云った方がいいからなあ、だが浮世の物知りは、ハッキリ云うのを厭がるようだよ。知らないことでも知っているように見せる。死んだ人の言葉の切り抜きや、毛唐の言葉の切り抜きや、切り抜きばかりを集めて来て、いろいろ沢山例を上げて『知ってるゾーッ』と怒鳴っているよ。いっくら『ゾーッ』と云ったところで、俺はちっとも恐くないよ。それにさ、切り抜きが多いためか、かんじんの物知りの正体が、隠されてしまうから変なものだ。隠されてしまう方はまだいいが、ペシャンコに潰される手合いだってあるよ。……いったいいろいろの切り抜きをして、それで浮世が解るものかしら? どうも俺には疑問だよ。跣足で実際に歩き廻った時に、はじめて解るんじゃアないかしら? そうそうそういえば唐の学者に、王陽明さんという人があって、大変むずかしい議論ではあるが、そんなようなことを云っていたっけ。まあまあそれはどうでもいい。だがしかし王陽明さんは、相当に偉かった人間らしい。年が四十になった時、暁の鐘をついたという事だからなあ。四十でつけたら大したものだ。どうもこの国の物知りなんか、八十になろうと、百になろうと、暁の鐘なんかつけそうもないよ。真っ暗闇に住んでるのさ。そのくせみんな云うらしいなあ。二十の時に暁の鐘をついた。二十五の時に暁の鐘をついたと。ついたかも知れないが音がしなかったそうだ。つまりついたと思っただけさ。が、いいかい、それもこれも、示威運動から来ているのさ。一人の物知りがまずこう云う、俺は二十の時暁の鐘をついた! どうだ偉かろうとこういうのさ。するともう一人が早速云う、俺は十五の時暁の鐘をついた! 俺の方が五ツだけ偉かろうとな! するともう一人が負けずに云う、俺は十の時暁の鐘をついた、どうだもっと偉かろうとな。そうやってだんだん糶り上げて行くのさ。最後の人はこう云うだろう。お母さんの腹の中で暁の鐘をついたとな! つかれたお母さんは驚いたろうなあ。……あっちを見ても示威運動、こっちを見ても示威運動! 何故そう示威運動ばかりするのだろう? そんな示威運動をすればするほど、人間が小粒に見られるのになあ。全くどの方面の人間を見ても、だんだん粒が小さくなって来た。……と、こんなことを云い出すと、それまた例の物知りが、薄ッペラだあ──とこう云うぜ。ところがなあ、モカさん達よ、さっきも俺は云った筈だが、薄ッペラということはいいことなのだ。……ではそいつを話してやろう」
いよいよ四辺は静かになった。モカも謹んで聞いている、猪十郎も謹んで聞いている。紅丸も謹んで聞いている。宗春も謹んで聞いている。堀の水も天上の月も、聞き耳を澄ましているらしい。と、道人は云い出した。
「厚手の茶碗というやつは、ひどく脆くてこわれ易いじゃアないか!」
道人またも舌なめずりをした。
「厚手の茶碗はこわれ易い」薬草道人は云いつづけた。「と云うのは質が粗悪だからさ。いろいろ雑り物があるからさ。ちょうど物知りの頭のようにな。だからパチャンとすぐこわれてしまう。ところが」と云うと薬草道人、ひどく機嫌よく笑い出した。「ところが薄ッペラの鞣し革なんか、どんな事をしたってこわれはしないよ。何故かと云うに何故ではない、雑り物がなくて質が細かで、鍛えられるだけ鍛えてあるからさ。ソーレごらんよ薄ッペラがよくて、厚ボッタイのは値打ちがないから。……だが厚ボッタイ物知りを、あんまり咎めてはいけないなあ。何故というにみんな親切だからさ。ソレさっきも云った通り、その親切の心持ちから、いろいろ変った目標を、手を代え品を代えて見せてくれる。並み大抵な苦労ではあるまい。もっとも幾分の衒い気と、示威運動とが伴うがな。だがやっぱり親切からさ。しかし」と云うと薬草道人、ここで何んとなく厳粛になった。「しかし俺は本当のところ、物知りさん達に忠告したいのだよ。いろいろの目標を見せびらかさないがよいとな。見せられるとうっかり迷ってしまう。拝みまつるものは一方でよろしい。そうそう沢山拝むものがあっては、浮世はいよいよコンガラがる。一方でよろしい、一方でよろしい。その一方のお旨を奉じ、くらしにくい浮世を少しずつ、くらしよいように改めるがよろしい。それも決して急いではいけない。お互い仲よく話し合い、愉快に笑いながらやらなければいけない。やろうと思えばきっと出来る。……さてしからば拝みまつるところの、その一方とはどのようなお方か? これはもうもう云う必要はない。あまりに明らかなことだからなあ。……宗春さん!」と薬草道人、グルリ宗春の方へ振り返った。「打ち見たところお前さんには、物に迷っておられるらしい。よくござらぬな、しっかりなされ! 何も迷われることはない! じっと一点を見詰めるがよろしい! すると万事解って来る!」
その時バタバタと足音がした。口々に喚いて走って行く。
「戦争だ! 戦争だ!」「切り合いだ! 切り合いだ!」「島津と水戸とが戦っている!」
「七ツ寺辺は死人の山だ!」
「なに切り合い!」と薬草道人、素早く立ち上がったものである。
「さあさあみんな行くがいい! 膏薬を振り蒔く時が来た! 引き出せ引き出せ薬剤車! ああそうしてモカさん達や、各〻木口を持つがいい。そうしてそいつへ火を点けな! 放火に行こう、放火にな! がいけないぜ、誤解しては! 何んの家になんか火をつけるものか! 真っ暗な人間の心の中へ、火をつけて明るくしてやるのさ! ……そうして紅丸さん、紅丸さん、構わないからあいつをおやり! 例の『お渡り!』という奴をな! 嚇しつけるのさ、こんな時にこそ!」
忽ち引き出された薬剤車! 薬草道人を真っ先に、一百余人の男女の群、七ツ寺を指して走り出したが、依然この頃七ツ寺辺では、乱闘がいよいよ乱闘になり、しかも形勢一変し、島津方が次第に優勢になり、水戸方がだんだん圧迫されて来た。と云うのは鷺組の捕り物道具、刀に仕込んだ白粉が、いつの間にかすっかり出切ってしまい、四辺明るくなったがためで、その上太郎丸の屋敷から新手の武士が繰り出されたからで、宗三郎、仁右衛門、お仙、浜路、それから鷺組のお絹をはじめ、その一味の女忍び衆、一所に固まって備えを立て、四方から逼って来る島津勢を、あしらいかねて立ち縮んでいた。
と、西南の方角から、無数の松火火龍の如く、蜓々と延びて近づいて来た。
近づいて来たのは道人の一行、真っ先に立ったは美童の紅丸、続いて猪十郎と薬剤車、それに引き添ったは薬草道人、その後から行くのが尾張宗春、そうしてその後から続いたのが、松火をささげた一百人のモカ! まことに変った行列である。松火に照された薬草道人、着ているものは例によって襤褸、しかし松火に輝いて、錦のように光っている。肩に止まったは白烏、手についたは白檀の杖、鶴髪童顔、そうして跣足! 響き渡るは轍の音! 十本の薬草花を持ち上げ例によって王冠、ユラユラと動く。
まさしく異風行列である。
さすがの水戸方も島津方も、この行列には驚いたらしい。期せずして双方左右へ開いた。自と出来た中央の道、そこを押し通る異風行列、急がず急かず悠々と、その足並みさえ揃っている。道人いつもながら機嫌がよい、左右をジロジロ眺めながら、面白そうに喋舌りまくる。
「ほほう、みんな威張っているなあ、肩肘張って眼を怒らせ、抜き身を持って大威張りだ。俺は決して笑わないよ、と云ったような顔付きだなあ……だがいったい何んのために、そうそうお前さん達は威張るんだろう。四辺近所を見廻すがいい、威張る材料なんかありゃアしない。笑う材料ばかり転がっている。実際今の日本の国は、ひどく笑うにいい国柄だよ! お笑いお笑い、笑殺しておやり! もっともなア考えようによれば、笑うことの出来ない国柄かも知れない。怒らなければならない国柄かも知れない。だから怒っちゃアいけないのだ! だから大いに笑うがいい。……オヤオヤ沢山死人があるなア。いけないいけない誰が殺したんだ⁉ ははアやっぱりお前さん達だな! だから嫌いだよ武士階級はな! お前さん達は受け負いだよ! そうとも殺人受け負い業者さ! で人間を殺さないと、どうやらお飯が食えないらしいなあ。水戸家のおため、島津家のおため、こう云ってお互いに殺し合っている。……お止めよお止めよ、そんな受け負いは、同じ受け負いなら大工さんにお成り! 大工さんというものはいいものだ。住むべき家を建てるんだからなあ。だからお前さん達も刀を捨て、鑿やカンナや金鎚や、鋸や錐を持って来るがいい。そうして家を建てるのさ! お互い住みよいホッタテ小屋をな! そうしてお前さん達にその意りがあったら、住みよい浮世だって建てることが出来る。……それもさ決して血を流さず、相談ずくで出来るのさ。お前さん達は短気でいけない、もっとゆっくりするがいい。そろそろ秋だ、菊の花が咲こう、東籬の下に菊を採り、ノンビリとして伊吹山をご覧。そうして穏しくお茶でも飲み、膝組みで談合するがいい。どうしたら住みよいホッタテ小屋を、建てることが出来るかという談合をな。……大勢は駸々として進んで行くよ。そうともそうとも成就に向かってな。適せない物は自然に亡びる。こいつだけはどうにも仕方がない。うまく舵さえ取って行けば、適した物だけは必ず栄える。ところが浮世の殺人受け負い業者、云いかえると英雄豪傑だが舵の取り方がうまくないなあ」ヒョイと振り返ると薬草道人、一人のモカへ話しかけた。「お霜さんお霜さんちょっと訊くがね、他人に真っ向から叱られた時、お前さんにはどうするね?」
抜き身を持った島津方の武士、抜き身を持った水戸方の男女! いわば修羅の戦場である。その間に立った薬草道人、平然とモカと話し出した。
「他人に真っ向から叱られたら、妾も叱って返します」お霜というモカの返辞である。
「ああそうだろうね。それが本当だ。……お米さんお米さん、お前さんはどうだね?」
お米というモカが返辞をした。
「はい妾は泣き出します」
「ああそうだろうね。それが本当だ。──誰だって真っ向から叱られたひには、腹を立てるか泣き出すかするよ。ところがなア」と薬草道人、またもや左右を眺めだした。「清盛という豪傑さん、頼朝という豪傑さん、義時という英雄さん、尊氏という英雄さん、ろくろく人にお飯も食わせず、叱ってばかりいるようだなあ。そうして天下を取ったようだなあ、英雄豪傑の天下取り商売、どう考えたって面白くないよ。貧乏籤を引く者はいつも多勢の人民だからなあ。……政治の要諦何んでもありゃアしない、食い物をくれて叱らないことさ! ホイ、ホイ、ホイ」と薬草道人、にわかに剽軽に笑い出してしまった。「俺もよっぽどどうかしているよ、死人や怪我人がころがっているのに、お談義をするってことがあるものか。こういうところから推し計ると、俺が一番、馬鹿者かも知れない。……さあさあモカさん手伝っておくれ! 膏薬膏薬、取り出しておくれ! 蒔いたり蒔いたり、バラ蒔いておくれ! ……よろしいよろしい沢山蒔いたなあ。……さあさあ紅さん行こう行こう!」「お渡り!」と紅丸声を上げた。久しぶりで許された令声である。「薬草道人お渡りでござる!」
リーンと響いていい声だ!
しばらく止まっていた異風行列、そこで粛々と動き出した。
「ハイハイみなさん、おさらばおさらば! みなさん皆よい方だ! 俺のつまらないお談義をよく辛抱して聞いてくだすった! 悪人なんか一人もいない! 喧嘩をしないともっといい! オヤオヤ抜き身を納めたね! 有難い有難い、それがよろしい!」飄々乎として歩いて行く。
「お渡り!」と紅丸また令声!
レキレキレキ、ロクロクロク! 家々に響き渡る轍の音! 焔々松火、天を焦がす! その天も次第に明けようとしている。
行列大手近く来た時である。御用提燈を振り照らし、騎馬と徒歩で数十人、ムラムラと行く手へ現われた。七ツ寺附近の騒動を、取り鎮めに向かう人数らしい。
「怪しい行列、引っ包め!」
グルグルグルグルと取り巻いてしまった。
つと進み出たは尾張宗春、
「迎いに来たか、ご苦労であるぞ!」
「あ!」
と云ったが役人の連中、見ればお館、中納言様だ! 驚くまいことか、ベタベタと坐り、大地へ頭をすりつけてしまった。
「俺には構うなこのお方だ!」宗春、道人を指さした。「謹んで城内へお迎え致せ!」それから道人へ恭しく云った。「先祖義直より伝わる一品、是非ともご覧に供したく、お立ち寄り願わしゅう存じます」
見せたいものがあるによって、是非城中へ立ち寄れという、尾張宗春の言葉を聞くと、薬草道人頷ずいた。
「それはそれは結構でござる。骨董品か舶来物かいずれお大名の自慢物、高価な料物でございましょうな。何んでもよろしい拝見しましょう。そうしてお大名の生活振り、そいつを見るのも結構で、何かの参考になりましょうよ。……さあさあ猪十郎さん紅丸さん、モカさん達も遠慮はいらない一緒に行こう、一緒に行こう」
そこで行列粛々と進んだ。
大手の門まで来た時である。既に城中へは知らせがあった。グーッと城門が一杯に開いた。タラタラと居並んだは無数の家臣、喜色が面に現われている。お館様の還御である、こいつは喜ばないではいられないだろう。
二の丸を過ぎると本丸である。東拍子木門から、南二ツ門、南一ツ門を過ぎると大玄関。
と、夜が明けて朝日が出た。ふと振り返った薬草道人、
「地球の夜は明けたってものさ。……だが人間の夜は明けまい」ここで機嫌よく笑い出してしまった。「何んだつまらない、平凡な言葉だ! それにさ、昔から云いふらしている言葉だ! そうは云っても本当だなあ」
中玄関からいよいよ御殿! 無事到着したものである。
ここは城中本丸の御殿、広々と開らけた大広間、その同じ日の正午頃!
正面にいるのは薬草道人、その左右には猪十郎と紅丸、その背後にはモカの群! それと向かい合って坐っているのは、成瀬、竹ノ越、渡辺、石河、志水甲斐の重臣をはじめ、お目見得以上の家臣である。
シーンと静か! 声もない。
だがいったいどうしたのだろう? 宗春卿の姿が見えぬ。
と、襖がサラサラと開き、つと現われたはその宗春! 両手に箱を捧げている。
ピタリと坐ったは道人の前、無言でひらいたは箱のふただ。取り出したは一葉の紙、
「お約束の一品、ごらんくださいますよう」
「ほほう」と云ったが薬草道人、首を延ばすと紙面を見た。「偉い!」と突然云ったものである。
「いやさすがは源敬公、お考えに間違いはない! ……ここに書かれた源敬公のご文章、これさえ心に取り入れて、服膺したならば間違いはござらぬ。もちろん尾張家は安泰でござる! ……さあさあこれをご家来衆へ、あなたよりお読み聞かせなさるがよろしい」
「はっ」というと尾張宗春、奉書をささげて読み上げた。
「一朝有事、錦旗翻えらば、よろしく大義親を滅し、京師に馳せつけ、禁裏を守護し、誓って誤りあるべからず、扶桑は神国、皇統は連綿、万民拝すべきは一方に在す、帝を置いてあるべからざるなり、子々孫々に伝うべき一条」
こういう、意味の文章であった。すなわち日本の国が乱れ、京都と江戸と戦う場合には、徳川宗家に背いても、必ず尾張家は京都へ味方し、王事に仕えよというのである。
「さようさようこれでよろしい。昨夜木小屋で俺の云った、一方を拝すればそれでよい、その一方こそ禁裏様だ! 日本の国はそれで治まる! いろいろのものを拝まないがよろしい! さて……」というと薬草道人、ヒョイとばかりに立ち上がった。「ああよいものを見せていただいた。セイセイしたというものさ。ではお暇をしましょうかな」
「しばらく」というと尾張宗春、道人の袖を引き止めた。
「しばらく」と止めた尾張宗春、さも恭しく云ったものである。「このまますぐにご出立とあっては、お名残り惜しゅうございます。なにとぞしばらく城中に、是非お逗留くださいますよう。尚色々お話しなども、承まわりとう存じます」
「さようさな」と薬草道人、ちょっと小首をかしげたが、「没義道に振り切って帰るのも、せっかくのご親切を無にするというもの。ではご厄介になりましょうかな。しかしもちろんわしばかりでなく、ここにいる大勢のモカさん達も、一緒にお世話くださいましょうな」
「いずれなりともお言葉通りに」
「みんな私のお友達でな、一緒にいないと寂しくていけない。……ええとところで夜具布団だが、立派な絹布でございましょうな?」
「は、さようにございます」
「私は絹物が嫌いでな。あいつを見ると詩を思い出す。唐の無名氏の蚕婦という詩をな。昨日城廓ニ到ル、帰来涙巾ニ満ツ、遍身綺羅ノ者、是養蚕ノ人ニアラズ。……私の好きなは木綿だよ」
「それでは新しく木綿をもって、仕立てさせることに致しましょう」
「なにさなにさそれには及ばぬ。新しく仕立てればそれだけ費え、無駄な費用はかけない方がよろしい。そうまで私はこだわらないよ。ありあわせの絹物で結構だ。だがその代りモカさん達にも、同じ絹布の夜具を着せ、同じにあつかってくださるようにな」
「かしこまりましてございます」
「これで決まった、逗留逗留! さてモカさんよ、はしゃぐがよろしい。庭も広ければ屋敷も広い、どっちを見ても結構ずくめ、ピカピカピカ光っている。人間一度はこういう所で、思い切ってノンキに遊ぶがいい。だが私はお前さん達に保証しよう。すぐ飽きが来るに相違ないとな。とても窮屈でやりきれまい。窮屈の味を知るためにも、こういう所で遊んでみるがいい。それにさ」と云うと薬草道人、居並んでいる尾張家の家臣たちを、ジロジロ皮肉に見廻したが、「あなた方にもミセシメになります。威儀と虚飾とでくらしている、お侍さんというものより、モカさん達の方により一層、人間らしい自然さが、通っているということのな。さようさようモカさん達と、しばらく一緒にくらしてみたらな。……それはそうと宗春さんや、いずれご馳走してくださるでしょうな。是非ともそいつを願いたいもので。……モカさんモカさん、保証してもいい、こういう人達の食べ物が、どんな贅沢でどんなにしつっこく、どんなに不味かということが、すぐにお前さん達に解るだろうとな。そりゃアお前魚なんかより、どんなに野菜の方がうまいか知れない。……さあ鬼ゴッコでもやるといい。隠れんぼなどはどうだろう」
モカ達みんな笑い出してしまった。明るい愉快な笑い声である。釣られて武士達も笑い出してしまった。
笑いが一同を親しくした。
これから変った無礼講が、名古屋城内ではじまることになったが、ちょうどこの頃蝮酒屋でも、変った団欒が行われていた。
ここは蝮酒屋の奥座敷、集まっているのは仁右衛門、宗三郎、浜路にお仙にお絹である。一人新規の人物がいる。弥五郎という蝮酒屋の主人、年の頃は四十前後、一見侠勇の仁態である。片手を上げると二百三百、命のいらない人足どもが集まって来ようという親分様で、三丁目の戦場から引きあげて来た、宗三郎他四人の男女を進んでかくまっているのである。
宗三郎は宗三郎の身の上を話し仁右衛門は仁右衛門の身の上を話し、お仙はお仙の身の上を話し、浜路は浜路の身の上を話し、お絹はお絹の身の上を話した。誰も彼も苦しんだことになった。わけても浜路の気の毒な受難は、みんなの同情を引いたものである。
「そんな酷い目に逢ったのも、みんな山影宗三郎様のためだ。何んてお気の毒なことだろう。浜路様の受難に比べると、妾の受難など物の数でもない。宗三郎様を諦めて、いっそ浜路様に譲ろうかしら」これがお仙の心持ちであった。とまれ生死の巷を経、血煙りの中を通って来た者は、恋の占有というような心は、案外押さえることが出来るものらしい。
誰も彼もみんな疲労れていた。
誰も彼もいくらかずつ傷を負っていた。しかし楽々と足を延ばし、休むことなどは出来なかった。と云うのは島津太郎丸の勢が、いつ寄せてくるか知れないからである。しかしそうやって気を張り詰め、起きていたところで仕方がなかった。で弥五郎が云ったものである。
「ナーニ大丈夫でございますよ、乾児の奴らを張り込ませてあります、それにお絹様の部下の衆が、物見に行っております筈、島津方から押し寄せて来たら、それ前に知らせがございましょう。それに城内のお役人さんだって、高見で見物はなさいますまい。かりにも中納言様をおびき出し、謀反人にしようとしたんですからねえ。すぐにも兵を繰り出して、太郎丸とかいう悪党の、御器所の屋敷を攻めましょうよ。……それにどんなに乱暴者でも、白昼攻めては参りますまい。また百人や二百人、よしんば攻めて来たところで、乾児の奴らが付いております。命知らずの連中でね、追い返すことだって訳はありません。まあまあお休みなさいまし」
云われてみればその通りである。そこで一同休むことになった。
やがて日が暮れ夜になった。
島津方からは攻めて来ない。しかし弥五郎油断しなかった。店へ出て乾児どもの指揮をした。昼間から店は閉じられていた。
ここは店先、牀几が置いてある。そこへ腰かけた弥五郎親分、
「野郎ども、みんなで幾人ばかりいる?」
「へい三百はおりましょう」一の乾児の隼太が云った。三十がらみの敏捷な男、弥五郎の左手に腰かけている。
「固めの方は大丈夫だろうな」
「へい大丈夫でございますよ。──ここを中心に東西南北、野郎どもを配って置きました。大須の方へは喜市を頭に、五十人ばかりの同勢を配り、門前町の方へは馬十を大将に、八十人ばかりの同勢を配り、ええとそれから岩井町の方へは、三次を頭に五十人だけ。ええとそれから日置神社の方へは、留吉を大将にこれも五十人。それからこの家を取り巻いて、やはり五十人だけ配って置きました。それから二十人をバラバラに分け、物見に出して置きました」
「うむそうか、そいつはよかった。どうだこの辺は騒がしいだろうな?」
「今にも戦いがはじまるというので、バタバタ店を閉じてしまう、女子供は外へ出ない、火が消えたように静かでございます」
「気の毒なものだな、困ったものだ。……お城からは人数を出さないのかしら? 町役人どもはどうしているんだろう?」
その時一つの人影が、辷るように走って来た。
「オイ誰だ!」と乾児の隼太。
「へい、わっちで、松吉で、ちょっとご注進に参りやした」
ご注進に来た松吉という乾児、片膝つくと述べ立てた。
「お城から人数が出ましたんで。大変な人数でございますよ。五百以上も出ましたかしら。太郎丸の屋敷をグルグルと、オッ取り囲んでしまいました。蟻の這い出る隙もない! と云ったようなありさまでね。いや素晴らしい勢いです。弓鉄砲まで担ぎ出し、二段三段に備えを立て、揉みに揉んで揉み潰す、ワッワッという鬨の声! と云いたいんでございますがね、何んと不思議じゃアございませんか、ただ遠巻きに取り囲み、静まり返っているばかりで。云ってみれば張り番だ! 番をしているのでございますよ。いったいそれでよいものでしょうか? 変梃だなアと思いましたので、お役人さんに聞いてみますとね、これ以外にはやり方がない、相手は大領島津の一族柳営にさえも名を知られた、島津太郎丸とあってみれば、掻い撫でに入り込んだ敵方の間者を、人知れず片附けてしまうという、そういうやり方も出来がたい。それにどうやら太郎丸方には、大砲などの用意もあり、あまり短兵に攻め立てると、ブッ放さないものでもない。その上もしもヤケになり、寄せ集めて置いた兵を出し、市中へ放火でもされたひには、それこそ大変なことになる。そこで今のところでは、そうやって遠巻きに巻き立てて、様子を見るより仕方がない。もし先方から打って出たら、止むを得ないから打って取るが、しかし一番願わしいは、敵方の方で諦めて、名古屋を引き払って貰いたい、そうして国境いを出かかった時、一挙に攻めて鏖殺したい、と云う意見でございましたよ。ところで島津太郎丸方の、様子はどうかと窺がいましたところ、これはまた思い切って静かなもので、無人の空家とも云いたげで、人声もしなければ物音もしない。だから一層物凄く、取っ付き場さえありませんので。……こんな塩梅でございますから、太郎丸方から兵を出し、蝮酒屋を攻めるようなことは、今のところありそうにも思われませんがしかし油断も出来ませんねえ」これが松吉の口上であった。
「なるほど」と云ったまま弥五郎親分、渋い顔をして頷ずいた。「ご三家の威光をもってしても、こいつアいかさま太郎丸を、討ち取ることは出来まいよ。表向きになると大変だからなあ。砲火を開いて大市街戦にでもなれば、早速江戸からケンノミを喰う。尾張と島津とが明らさまに、敵同志になろうもしれぬ。それより何より市街戦にでもなれば、城下の人達が困るからなア、お政治というものはむずかしい。と云って太郎丸をそんな具合に、いつまでも見張ってもいられないだろう。ほんとにほんとに太郎丸という奴、まるで命取りの腫物のような奴だ!」
その時またも一人の乾児、息せき切って走って来た。
「誰だ?」と訊いたは乾児の隼太。
「へい、熊三で、注進に来やした」
膝を折り敷くと熊三という乾児、セカセカとして云い出した。
「そろそろ面白くなりそうです。太郎丸めの屋敷中が、ザワザワ騒がしくなり出したんで。戦闘準備をしているようで。カチカチ刃物の音がしたり、ザクザク甲冑の音がしたり、プーンと焔硝の匂いがしたり、怒鳴り廻る声が聞こえたり、にわかに物騒になりましたんで。……いつ攻めて来るか解りません。親分充分ご用意をなすって!」
その時またもや一個の人影、一散ばしりに走って来た。
「誰だ?」と例によって乾児の隼太。
「へい、丑五郎で、ご注進に来やした。……どうも変なことになりました!」膝折り敷いたが何を云うか?
乾児の丑五郎、第三の注進、膝折り敷くと云い出した。
「大門が開いたんでございますよ、太郎丸の屋敷の大門がね! それいよいよ打って出るぞ! お役人達が犇めきました。するとどうでしょう大門からかけ、玄関まで二列に篝火が、ならんでいるじゃアありませんか! で屋敷内は明るいんで。へい、まるで昼間のように。まあまあそいつもいいとして、何と一つの人影も、庭内にいないじゃアありませんか! だがその代り屋敷内では、とても陽気なドンチャン騒ぎ、酒宴をやっているんですなあ。足拍子の音、唄う声、そうして三味線の音なんで! これには寄せ手のお役人さん達も、すっかり面喰らってしまったんで。押し入る代りにバラバラと、後へ退いたじゃアございませんか。度胆を抜かれたんでございますね。と今度は裏門が、ギ──ッと開いたと覚し召せ。するとやっぱり篝火だ。誰もいないかと思ったら、おりましたねえ十数人。それがさ野郎じゃアございません。若い綺麗な女達で、厚化粧をして裲襠姿、金屏まばゆい大広間に並び、三曲を奏しているんでさあ。と一人舞い出しました。ひどく古風な舞いでしてね、悠長ったらありませんや。裏門へ寄せたお役人さん達、一層すっかり仰天し、サーッと引いてしまったんですね。大変な見物でございましたよ。で大門へ向かった手も、また裏門へ向かった手も、総体に後へ引いたって訳で」これが丑五郎の口上であった。
聞いてしまうと弥五郎親分「ふうむ」と云って腕を組んだ。「孔明弾琴というやつだな。日本にだって例はある。東照神君信玄に破られ、浜松の城へ逃げ帰った時、城門を開いて酒宴をし、おりから節分というところから、鬼は外福は内、景気よく豆を蒔いたため、信玄方では見当つかず、引き上げてしまったということだが、そいつの真似をしているんだな。……真似としても随分大胆な真似だ。一通りの度胸で出来るものじゃアねえ。……だがこうなると困ったなあ。物具の音を響かせるかと思うと、今度は三味線を鳴らすとあっては、こっちこそ見当が付きゃアしない。……仕方がないので今夜一晩、やっぱり固めなければならないらしい、さあさあお前達早く行って、持ち場持ち場を固めるがいい。……そうして何んだ、オイ隼太、女達にしっかり云い付けてくれ! セッセと炊き出しをするようにってな。……むすびに香の物に梅干に、それだけありゃア結構だ! オットオット少し待て! 奥に休んでいるお客さん達、宗三郎どんに仁右衛門どん、浜路さんにお絹さん、お仙は俺の所の女中だが、今じゃアやっぱりお客さんだ。そういう人達の安眠をだ、醒まさねえように気を付けてな。……さあさあ働け、元気よく働け!」
四辺にチラバッていた乾児ども、すぐに四方へ飛んで行った。
床几に腰かけ弥五郎親分、またもやじっと腕組みをした。
「どう考えてもこの騒動、チョロッカにかたが付きそうもねえ。名古屋市中を真っ赤に色どり、何んだか血の雨が降りそうだなア。……が、それにしても太郎丸という人物、大変な野郎に相違ねえ。困った野郎が入り込んだものさ」
さてその島津太郎丸だが、この頃伊集院とお紋を連れ、屋敷の屋根棟に建てられた、物見の台に突っ立ち上がり、市中の様子を眺めていた。
「いや大変な人数が出た。だがいかにも怖わそうに、屋敷を遠巻きにしておるわい」太郎丸おかしそうに笑ったが、「おい、お紋お前の力で、この囲みが破れるかな。どうだ脱出出来るかな?」
脱出出来るかと太郎丸に訊かれ、烏組のお紋頷いた。
「いと易いことでございます。いつでも烏組の忍びをもって、脱出いたしてお目にかけます」
「そうか」と太郎丸満足そうに、「ではすぐにも取りかかってくれ」
「しかし脱出いたしまして、どこへ参るのでございます?」
「うむ、それはな橘町だ」
「あの遊女町の橘町で?」
「そうしてそこには芝居小屋がある」
「男女混淆の大一座、笠屋仙之が懸かっておりますそうで」
「うむ、その中での女太夫、立女役の荻野八重梅、それへ書面を渡してくれ」
「では、ご前にはご存知で?」
「久しい以前から手なずけて置いた」
「まあまあさようでございましたか」
「伊集院にしてもお紋にしても、今度はひどく失敗したなあ、宗春をはじめ薬草道人、宗三郎浜路と一人残らず、取り逃がしたとはよくよくの手抜かり、と云って今さら小言を云っても、十日の菊で仕方がない。そいつは仕方がないにしても、島津を盟主に外様大名、連衡をして幕府にあたり、徳川を倒そうとした陰謀や、この太郎丸が名古屋の地に、入り込んでいるということを、既に宗春に知られた上に、その宗春を取り逃がし、一味にすることが出来なかった以上かえって今は邪魔者だ。で邪魔者は刈り取らなければならない。今までの俺のやり口は、どっちかと云えば陽性だった。陽性で失敗したからには、陰性の手段を取らなければならない。たとえば毒殺というようのな」ここで太郎丸陰惨に笑った。「女役者の八重梅が、そこで活躍をすることになるのさ」ふたたび陰惨に笑ったが、「すべて事を行うには、徹底味がなければいけないなあ。一つ破れたらもう一つ、それが破れたらもう一つ、またそいつが破れたら、さらにさらにもう一つ! すなわち手を代え品を代え、初心を貫徹すべきだよ……どれそれでは部屋へかえり、八重梅への書面でも書くとしようか。伊集院、お紋、さあさあ来い」
物見台から三人の者、スルスルと下へ下りて行った。
ちょうど同じ夜のことである。
橘町は賑わっていた。扇屋、辰巳屋、大和屋、若松屋、二階づくりの遊女屋が、軒を並べて立っている。翻える暖簾に掛け行燈、出たりはいったりする仲居や曳子、ぞめいて通る素見客、三味線の音色、唄う声、──遊女屋にまじって蔭間茶屋、市川桝之丞、浅尾庄松、門にこんな名が記されてある。
今にも市街戦がはじまろうというのに、ここばかりは華やかで陽気である。
裏手へ廻ると芝居小屋、櫓づくりの立派な建物、「妹背山」の看板が上がっている。
その前に佇んだ数人の男女、役者の品評に余念がない。
「いや、八重梅のお三輪ときては、八重桐以上だということだの、芸も芸だが縹緻のいいことは! 水の垂れるという言葉は、八重梅のために出来ているようなもので」こう云ったのはご隠居さんだ。
「さてその八重梅だが情夫があるそうだ。どうせ女の芸人のこと、あっちを引っかけこっちを引っかけ、あくどく稼ぐのはいいとしても、情夫を持つとは気が知れねえ」こう云ったのは侠の兄さん。「それもさリャンコだということだ」
するともう一人が口を出した。
するともう一人が口を出した。
「こいつア正にお説通りで、女芸人ともあるものが、情夫なんかこしらえちゃアいけませんねえ。よろしく旦那は一時に、五人以上持つがよく、他に客色を三人ね。で両方から金を絞り、誰にも貢がずに自分だけで使う! こう行かなければ人気が立たない。そうして何んだ、女芸人、一生の間に親方の金を、厭というほど踏み倒さなければ、一人前とは云えませんねえ。ところが当今の女芸人、わずかばかりの借金に、気を腐らせて世が厭になり、心中の相手なんか目付けるんですからねえ。意気地がないったらありませんや。……オヤ何んだ、あの女は?」
どうしたものか四十格好の男、急に駄弁を途中で封じ、ゾロゾロ通っている人ごみの方へ、吃驚したような眼を向けた。
真っ黒仕立ての一人の女が、人ごみを分けて影のように、スーッと走って行ったからである。
影法師のような黒装束の女、他ならぬ烏組のお紋であったが、屋敷を囲んでいる城方の人数をうまく眩まして脱出し、黒の忍びの衣裳のまま橘町までやって来たのであったが、あたりがあんまり明るくて、異形の姿が目立つので、内心困っているのであった。
それでも、とうとう芝居小屋の裏手、裏木戸の前まで辿り着いた。
あたりを見廻すと人通りがない。「まずよかった」と呟くと、切り戸口をトンと押した。スルリと入り込むと小広い裏庭、すぐ正面に建物があって、舞台裏へ通う口がある。番人の若い衆が立っている。
「八重梅太夫はおいでかね?」ツカツカ進むと烏組のお紋、気安そうに声をかけた。
驚いたのは若い衆だ。ジロジロお紋を見上げ見下ろしたが、
「いったい何んだい? お前さんは?」
「八重梅さんはおいでかねえ?」
「銭貰いだな、お前さんは。……銭貰いなら往来でやりねえ。小屋の裏口へ乗り込むなんて、小屋者の作法に外れていらあ。出ねえ、出ねえ、うしゃッがれ!」
「ああお宝かえ、お宝のことかえ?」こう云うとヒョイと烏組のお紋、袖から小粒を取り出した。「妾もうっかりしていたよ、早く上げりゃアよかったにねえ。……さあさあお取り、遠慮はいらない。……ところで太夫はおいでかね」
「へいへいおいででございます」
「それじゃアこいつを渡しておくれな」懐中から書面を取り出したが、この頃八重梅は自分の部屋で、女弟子を相手に話していた。
ここは八重梅の部屋である。
女役者の部屋だけに、万事万端艶かしい。衣桁には赤い衣がかかっている。開荷にも赤い衣が詰まっている。円型大鏡の縁も台も、燃え立つばかりの朱塗りである。ちらばっている座布団にも、赤い色が染め抜いてある。鬘台に置かれた鬘にも、赤いキレがかかっている。
その真ん中に片膝を立て、話しをしている八重梅の手には、朱羅尾の煙管が保たれている。
大目蝋燭が四本がところ、部屋の中を明るく照らしている。その焔先がチラチラする。と、部屋の中のあらゆる物が、それに連れてチラチラする。
その燈火の光を四方から浴び、無駄話している荻野八重梅、年の頃は二十六七、あぶらの乗った年増盛り、どっちかと云うと痩せぎすだが、それだけ抜けるほど姿がいい。自分の役が終えたところ、楽屋風呂へはいってとのこを落とし、鬘下地の髪を直し、荒い弁慶の楽屋着に、紫のしごきをグルグル巻き、ちょっとつかれたというように、立てた膝をフラフラ動かしている。削り落とした眉の跡が青く、細い切れ長のケンのある眼、隈取ったら大きく見え、また凄くも見えそうである。高すぎるほど高い鼻、しかもそいつが肉薄と来ている。そうして小鼻がちんまりとしている。さぞ舞台でも横顔が、際立って美しい事だろう。口は薄手で大型である。で何んとなく刻薄に見える。
その前に坐っている女弟子の小仙、十八九でお喋舌りらしい女、
「お師匠さん、お師匠さん、お師匠さん!」とのべつにさっきからお師匠さんばかり云い、何かをねだっているらしい。
「ねえ、お師匠さん、お奢りなさいよ、毎晩毎晩逢いつづけ、うらやましいったらありゃアしない。いずれ今夜もいらっしゃるんでしょう、知っていますよ、例の茶屋へ。妾こっそりつけて行き、隣りの部屋から覗こうかしら。いずれひっ付いたり食っついたり、蒸し熱いことでござんしょうよ。……ああ詰まらない詰まらない、妾にゃアそんな人ありゃアしない。……お師匠さんにゃア敵わないが、年は若いし女芸人、一人ぐらい出来ないものかしら? 取り持ってくださいよ、ネーお師匠さん。お侍さんでも結構だし、商人衆だってようござんす。金持ちの質屋の若旦那、ようござんすわねえ、そういう人も。……でも、こんなのは厭ですよ、お菰に、三助に、下足番に、聾者に、盲目に、吝嗇漢に。……」
「うるさいねえ」と荻野八重梅、煙草の煙りを輪に吹いたが、さもおかしそうに云ったものである。「オイオイ何を云うんだい、妾が知らないと思ってさ、いい人を取りもてもないもんだ、お前木戸番の甚公と、ワケがあるっていうじゃアないか。……駄目だよ駄目だよ、そんな顔をしても! タネはちゃあアんとあがっているんだからね。だが妾アそれを聞いた時、感心な子だと思ったよ。甚公めいつも貧乏くさい、あんな風態はしているが、あれで小金をためているそうだよ。そいつへお前目を付けたんだろう? 当世だねえ、本当に偉いよ。……だがお前さんは今年十九、甚公と来た日にゃア五十七、ウフ随分年は違う。もっともその代り口直しに、お前辰巳屋の金之丞さんと、出来合っているって云うじゃアないか。蔭間茶屋の辰巳屋の金之丞さんとね。二人あったら結構だよ。と云いたいんだが噂によると、まだまだどうしてお前さんにゃア、沢山いい人があるそうだね。よしよし一つ数え立ててあげよう」
またも煙りを輪に吹いた。
「沢山情夫を数え立ててやろう」師匠の八重梅にからかわれ、女弟子の小仙、面喰らってしまった。
「ありゃアしませんよ、お師匠さん、そんなにありゃアしませんよ、精々のところ七人で」
とうとう自分で底を割ってしまった。プッと吹き出した師匠の八重梅、
「嘘をお云いよ、十人はあろう。一割主義っていう奴でね、取っ代え引っ代え十人から、お小遣いをねだろうッていうんだろう。太物屋の番頭からは縮一たん、魚屋の売り子からは鮭一尾、そうして金物屋の手代からは、所帯でも持とうという時に、鍋と釜とを一対ね……」
「酷うござんすねお師匠さん、そんな事アありゃアしませんよ」
女弟子の小仙ベソを掻き、弁解しようとした時である、若い衆がヒョイと顔を出した。
「へい、太夫さん、お使いで」書面を差し出したものである。
「おや、どこから来たんだろう?」受け取りながら考えた
「烏のお化け、蝙蝠のお化け……と云ったような変な女が、只今裏木戸から参りましてね」
「なるほど」と云うと封を解いた。とたんに膝の上へ落ちたのは、黄紙に包んだ薬ようの物!
「おや」と云ったが懐中した。それからサラサラと文を見た。
と、「ううむ」という呻き声が、八重梅の喉から出たものである。
「おい」と若い衆へ声をかけた。「そのお使いはまだおいでかえ?」
「へい、おいででございます」
「たしかに承知いたしました。──こうそのお使いに云っておくれ。……あの、それからね、駕籠一丁、すぐに裏木戸へ廻すように」
「へい、よろしゅうございます」
立ち去って行く若い衆、後を見送った荻野八重梅、スッと立ち上がるとしごきを解いた。「さあ小仙、着換えだよ」声の調子がピンとしている。
「はい」というと弟子の小仙、ムダも云わずに飛び上がった。
衣裳を肩から辷らかす。痩せては見えるが肉附きがよい。子を産んだことなどないと見え、ムックリ乳房が張り切っている。小仙の着せかける外行を着、シャンと帯を結んだ時、
「へい、お駕籠が参りやした」若い衆が知らせて来た。
「あいよ」と云うと荻野八重梅、鏡台の前へスルスルと行き、覗き込んだがニッと笑った。「綺麗だねえ、自分ながら」
「ほんとにお師匠さんはお綺麗で」うしろから小仙が声をかけた。
「どうだろう、人一人殺せるかしら?」
「え?」と眼を円くする女弟子の小仙。
「トロトロトロトロと妾の眼が、その男の顔へ笑いかけたら、どうだろうねえと云うことさ。……でもねえ」と妙にしんみりとなった。「不思議なものさ、馴染を重ねると、そうでもなかった人までが、ちょっと恋しくなるものだねえ」
「おノロケね、ご馳走様」
「ふん」と八重梅鼻で刎ねたが、その鼻の上を二つ三つ、牡丹刷毛で叩いたものである。「ましてあの人は最初から、妾には好きな人だったのさ」
楽屋を出ると廊下になる。梯子を下りると舞台裏、そこを通って裏庭へ出た。切り戸口を出ると一丁の駕籠。
「ご苦労だねえ、駕籠屋さん。急いで武蔵野までやっておくれよ」
駕籠が上がって駆け出したが、その武蔵野という茶屋の奥に、さっきから待っている若侍があった。
ここも盛り場、富士見原、遊女屋、蔭間茶屋、葉茶屋の類、軒を並べて賑やかである。
少し奥まって一軒の茶屋、武蔵野と云って一流だ、前庭が広く木立が茂り、石燈籠などが置いてある。その前庭を前に控え、瀟洒に作られた一つの部屋、そこにポツネンとして坐っているのが、尾張家の家臣志水幹之介、年二十三、近習役、志水甲斐守の遠縁で、宗春公のお気に入り、美男で熱情的で正直な人物、文武は普通、趣味は豊か、茶や生花や俳諧や、そういうものに堪能である。
荻野八重梅の人気を聞き、二三人の同僚と見に行ったあげく、茶屋へ呼んだのが恋のはじめ、熱情的で正直なだけに、カッと火のように燃えてしまい、狂人のように追い廻した。男嫌いで通っていた、荻野八重梅もどうしたものか、幹之介の恋だけは易々と入れ、ここに馴染んで半年になる。
いつも遭う場所はきまっている。この武蔵野のこの部屋である。
で、今夜も待っている。
石燈籠へ灯がはいり、その裾の萩叢を明るめている。ジーッと聞こえるのは虫の声、市中の騒動が影響してか、今夜は武蔵野客がないらしい。
手持ち無沙汰に坐っていた仲居、
「おっつけおいででございましょう、このお多福がそれまではお相手、さあさあおすごしなさいまし」
盃をさしたので幹之介、受け取ってグッと飲んだものの、たしかにお多福の酌よりも、八重梅の酌の方がよいと見え、飲みっぷりが不味そうである。
「お城下に切り合いがありましたそうで」仲居が話を向けようとする。
「うん」と云ったままロクな返辞もしない。
「謀反人があるとか申しますことで」
「うん」と幹之介同じ返辞。
「御器所あたりに謀反人が、住居を致しておりましたそうで」
「うん」といよいよブッキラ棒だ。
「そこでお城からお役人様方が、捕り方にお出張りなさいましたそうで」
「そんなようだの」と冷淡である。
「旦那様にはその方面には、何んのお係りもございませんので」
「遅いな、今夜は、どうしたんだろう」
「いえもうおっつけいらっしゃいましょう。……騒動は厭でございますねえ」
「うん」とまたもや同じ返辞。
「謀反など厭でございますねえ」
「うるさい!」ととうとう怒鳴ってしまった。
「ごめん遊ばせ」と苦笑したが、「さすがは人気の八重梅様、いつお見えになりましても、お美しいことでございます」
「うむ、うむ、八重梅は美しいなあ」幹之介今度は笑い出した。
「それに大変お気前がよく……」
「おおそうそう忘れていた」
いくらか紙へ包んだが、「取ってお置き、ほんのわずかだ」
「いつもいつも相済みません」チョロリと帯へ揷んだが、「毎々ここのお母さんとも、お噂をするのでございますよ、どうしてああも八重梅さんは、万事にお気が付かれるのだろうと。……そうそういつぞやこんなお多福に、結構な髪飾りを一揃い……」
「ああそうそう忘れていた」いくらか紙へ包んだが、「これで前垂れでももとめるがいい」
「相済みませんでございます」チョロリと帯へ揷んだが、「どうぞごゆっくり」と行ってしまった。一人になった幹之介の顔に、憂色のあるのは何故だろう?
恋人八重梅はまだ来ない。幹之介の顔に憂色がある。単に待つ身の辛さだけで、そうまで心配しているのだろうか? いやいやそうではなさそうである。
金に詰まっているのであった。
「廓の金にはつまるが慣い! こんな格言が世にはあるが、案外あたっていない。遊びの金というものは、容易に詰まるものではない。どうぞして女と逢いたいものだ! が、残念金がない。嘘を云って金を借りる。嘘を云うことが上手になる。熱情的に嘘が云える。女と逢いたいの一心で、嘘言の秘術を尽くすからさ。つい友人が引っかかる。親兄弟が引っかかる。赤の他人が引っかかる。みすみす嘘と解っても、その情熱的嘘言には、引っかからざるを得ないからだろうで、容易に行き詰まらない。自分の収入の二十倍ぐらい、金の融通が出来るものだ。真の貧乏の必要から、借金をしようと心掛けても、人は大してお金を貸さない。駈け引きするほどの余裕がなく、情熱的嘘がないからだろう。そうはいっても情熱的嘘言、最後には見えすくものらしい。俄然信用が落ちてしまう。一文の融通も付かなくなる。借金取りばかりがやって来る。女が益〻恋しくなる。そこで醜い様子をして、女のまわりをウロウロする。それが俺だ! 今の俺だ!」
志水幹之介近習役、禄高と云っても知れている。引っかかったのが荻野八重梅、年が上のその上に、いうところのバンパイア、古風に云うと白無垢鉄火、穏しく見せてはいるけれど、素破となれば肌をぬぐ。
馴染を重ねる六ヵ月、その間可哀そうに志水幹之介、絞られるだけ絞られた。ふだん信用のあるところから、多くの人に同情され、最近まで金の融通も出来、首尾を重ねてはいたけれど、今やいよいよ詰まったのである。
「このまま行けば閉門だ。……俺の信用は落ちてしまった。……たとえ閉門にならなくとも、どこからも金の融通がつかぬ。……金の融通つかぬ以上、八重梅に逢うことは出来ないだろう。八重梅に逢えないくらいなら、死んだ方がいい死んだ方がいい! ……欲しいなあ金が欲しい! ……いっそ辻斬り! いっそ押し借り! ……いけないいけない、そんなことは出来ない! ……打ち明けてみよう八重梅へ! ……一緒に死んでくれるかしら? いや死ぬまい、では駆け落ち? ……死んでくれれば死んでみせる! 逃げてくれるなら逃げてみせる! ……枯野を分けて落人だ! ……両刀サラリと捨ててもいい。……遅いなあ、どうしたんだろう?」
ジリジリしながら待っている。
しきりにすだく庭の虫、石燈籠の灯がまばたき、客のない家内静かである。
と、トントンと足音がした。
「来たな!」と幹之介顫え出したが、足音は行き過ぎた。幹之介ホーッと溜息をした。「遅いなあ、どうしたんだろう?」
トントントンとまた足音。
「今度こそ八重梅、間違いはない!」
ギューッと拳を握りしめた。
はたして襖がスーッと開き、あらわれたのは荻野八重梅。「幹様!」というとスルスルと進み、膝すれすれにピタリと坐った。
幹之介とスレスレに坐ったが、八重梅ニッコリ笑いかけた。
それから交わされた二人の会話。──
「お待ちになって、え、幹様?」
「ああ待ったよ、メチャメチャにな」
「可哀そうな坊やでございます」
「ああそうとも、可哀そうな俺だ」
「お泣きなさりませ、膝を枕」
「泣きたいなア、思い切って」
「涙は妾が拭きましょうよ」
「そうしてお前は泣かないのか?」
「今まで泣いて参りました。あの、杉酒屋のお三輪でね」
「うむなるほど、舞台でか」
「縫之助様を追っかけて! 意地悪い官女に嬲られてね。そうして殺されたのでございますの、あの恐ろしい鱶七にね」
「舞台で泣いた涙なら、空涙という奴さ」
「でも悲しゅうございました」
「俺の知ったことではない」
「あんなにつまされて泣いたのに」
「ああ泣きたいのは今の俺だ!」
「泣くのはよいものでございます。胸がスッと開きます」
「開くかなア、この胸が!」
「おや、お客が上がったらしい。河東節の水調子、二階から聞こえて来るじゃアないか」
なるほど、三味線の音色がする。錆びた男の唄声がする。
じっと二人聞きすました。
〽なくより外の琴の音も
二十五絃の暁に
「いいわねえ、玉菊だよ」
〽くだけて消ゆる玉菊の
光は仮りのものながら
「死にたくなるねえ、あれを聞くと」
「俺もそうだよ、死にたくなるなあ」
〽本来空の明りには
「俺には明りなんかありゃアしない」
「お聞きなさりませ、黙ってね」
〽実に燈すべき提灯も
「消えっちまえよ! そんな提灯!」
「黙ってお聞きなさりませ」
〽燈籠もいらず掻き立てず
「燈籠も消えろ! 面白くない」幹之介ゴロリと寝たものである。彼の心は苦しいのである。逢えて嬉しい! それはよい、だが云わなければならないだろう、──行き詰まっている境遇を! 云ったら何んというだろう? 相手は芸人、女役者、金の切れ目が縁の切れ目、さようならと云うかもしれぬ。そうなったら逢い終い! 今夜が最後の別れである! ……もうこの嬌態も見ることは出来ない! 他人とならなければならないだろう! だがそれにしても美しいなあ!」
逢って見て一層幹之介、恋煩悩に捉われたのである。
荻野八重梅敏感である。早くも様子を見てとった。「ひどく悩んでいるらしいよ。ここどうやら二月ほど、苦しい様子を見せていたが、金に詰まっているらしい。そこが付け目さ、けっく幸い! そろそろ仕事にかかろうかね。さあてどのへんから切り込んで行こう」
またも聞こえる水調子。──
〽翼やすめよ禿松
「おや、おかしいねえ、あの唄声、妾にゃア何んだか聞き覚えがあるよ」
八重梅耳を澄ましたが、ブッと吹き出したものである。
二階から聞こえる河東節、耳を澄ました荻野八重梅、ブッと吹き出したものである。
「燈籠もいらず掻き立てず、それからズッと後へかえり、翼やすめよ禿松、オヤオヤそうするとあのお客さん、ひどく玉菊が得意だと見える、随分ああいうお客さんがあるよ、小唄一つだけ知っていて、それだけ唄うお客さんがね。……玉菊だけが大得意! 聞き覚えのあるあの唄声! これなら妾にだってすぐ解る、一座の阪東薪十郎だあね。……だがそれにしてもあの薪公、妾がここにいることを、知っているんじゃアないかしら? ……ちょっとこいつはあぶないぞ! ……いやらしく妾に付きまとうあいつ! 曰がなけりゃアならないねえ」
ちょっと考えたものである。
「まあいいや」と気を変えてしまった。
寝ている幹之介を見下ろしたが、
「幹様お起きなさいまし」
「うん」と云ったが起き上がらない。
「幹様お起きなさいまし」
「うん」と云ったがまだ寝ている。
「憂えがあるというように、坊やはねんねでございます。そのうち自然と泣き寝入り、そこで寂しいというところで、妾アそろそろ帰ろうかしら」片膝を立てたものである。
「帰る?」と咎めたが幹之介、ムックリ起き上がると睨みつけた。「もうその調子か! 見抜いたな! 俺の行き詰まった境遇を! ふふんさすがは薄情だなあ」
「そうさ!」と笑ったが荻野八重梅、そろそろ奥の手を出すらしい、「そっちが薄情に出なさるから、ああさこっちだって薄情で行くよ。……ねえ幹様」と膝を突き、スルスルと寄ると手を延ばし、幹之介の肩を抱くようにした。「それとも打ち明けてくださいますか?」
情を持たせて覗き込む。「行き詰まったというお身の上を」
「八重梅!」といった幹之介の声、剣気があって物凄い。「一緒に死んではくれまいなあ」
「そうですねえ」とニコニコした。「真っ平ご免と申しましょう」
「そうか」
と云ってまた寝かかる。
それを引き止めると云ったものである。「大小お捨てなさいまし! 野山を越えて行きましょう! 頬冠りの似合う秋ですよ」
「うむ」と云ったがシャンとなった。「それじゃア一緒に逃げてくれるか!」
「お苦しそうなご様子は、ここしばらく見えていました。真面目なあなた、妾のため! お気の毒とは思ったが、切れるのは厭、捨てられるのも厭、まして捨てるのは厭々と、じっと黙っておりましたものの、覚悟は決めておりましたよ」
ホーッと溜息、尾を引くように、幹之介の口から洩れたものだ。
「そうであったか! 手を合わせる!」じっと見た眼は真剣である。「それじゃア本当にこの俺と他国してくれるというのだな?」
「たかが妾は河原者、お侍さんとおっこちたら、体に箔が付きますよ」
「そうでもあるまい……お前ほどの人気! ……そいつを捨ててこの俺と、……恋冥加というやつだなあ。……名古屋を落ちてさてどこへ?」
「江戸へ!」と云って背をもたせた。「妾がしますよ、立て養い」
「ああ江戸へか! ……江戸もいいなあ。……そうしていつ?」と呼吸を呑む。
「あなたさえよければ、サアこれから!」
「行こう!」と立ち上がった幹之介。
「だって旅用の金がなけりゃア」荻野八重梅ズッシリと云った。「まとまって二三百両欲しいねえ」
幹之介ベッタリ坐ったものである。
旅用の金を二三百両、まとまって欲しいと切り出され、志水幹之介ベッタリと坐った。
「八重梅!」と云ったが息を呑む。「百両は愚か十両の金、今の俺にはままにならぬ!」
怖そうに見上げたものである。
「いいえ」と云ったが水のような声だ。微動さえしない荻野八重梅、「ある所にはございます。ご無心をしていらっしゃい」
ジ──ッと眼を据えた幹之介、「辻斬りしろと教えるのか!」
「何んの幹様、この不景気に、百両二百両袖に入れ、人間夜道を通りましょうか」
「うむ、それでは押し借りか!」
「忍び込むには手間がいる、つかまったら縛り首、妾と逢うことも出来ますまい」
「頼む、八重梅、教えてくれ!」
「ねえ」と云うと手を上げた。グッと揷し込んだは帯の中、取り出したは薬包み、島津太郎丸の書面から、さっきこぼれたそれである。そっと畳へ押しやったが、「眠剤でござんす、これを使って!」
「眠剤? そうか! どうするのだ?」不安におびえた声である。
「拝借なさりませ、お手もと金!」
「何を!」と云うとフラフラと立った。「お館様のか! ……廃るは、武士道!」
「大小捨てるあなたがえ?」セセラ笑った八重梅の眼チラチラチラと猫のようだ。「それなら恋は廃りませんかねえ」
襖にピッタリ背をもたせ、立ち縮んでいる幹之介、額から汗が眼へはいる。「俺には出来ない! 俺には出来ない」
「この恋それでは切れましょうよ。スッパリとねえ、今夜かぎり! ……そうなったら妾も自棄! 男を漁って漁りぬく。卑怯未練なお侍、幹之介様への面あてに、あなたと仲よしのご同僚、片っぱしから引っかける。あなたのお屋敷の門口を、毎日手を引いて通ってやる。もがかしてあげます、よござんすねえ」
どうだこれでもかというように、グーッと首を突き出した。真っ白の頸足へもつれる髪! 美しいなアこれだけで、大概の雄は退治られる。
はたして幹之介ブルブルと顫え、またベッタリとくぐ折れた。「八重梅!」と云ったが、呻き音だ。
「絞め木に掛けるか! 恋の絞め木へ!」
「苦しくばお遁がれなさりませ」
「恋か! 武道か! ……クラクラする!」
「二つを取ろうとなされても、それは阿漕でございますよ」冷っこい冷っこい声である。
「なるほどなあ、それもそうだ! ……まさしくそいつ、眠剤だな?」
じっと据えつけた眼の前に、封じ薬が置いてある。
「何の偽わり……南蛮渡来……だろうと妾は思うのさ! 珍らしい薬は一切合切、南蛮渡来へ持ってきますからねえ。……ああ眠剤には相違ありませんよ」
「そうか」と幹之介考えた。「俺は幸い近習役、手文庫のありかも知っている。……薬草道人やモカの類、城へ入り込んで無礼講、表も奥も乱痴気騒ぎ、ドサクサ紛れに大奥へ入り、ご常用の湯釜へ投げ込んだら……中納言様にはご熟睡、そこを忍んでお手もと金! 盗もうと思えば盗めるなあ。……やろう!」
とばかり度胸を決めた。つと手を延ばすと封じ薬、グッとひっ掴んだものである。
「それでこそ男! お侍さん! ああさ妾の可愛い人さ!」
「八重梅!」と呻くと飛びかかった。
そいつを八重梅抱きしめた時、縁にあたって人の気勢!
縁にあたって人の気勢!「おや!」と思った荻野八重梅、スラリとばかり立ち上がり、障子をあけて覗いて見た。縁が鉤手に曲がっているその曲がり角を男の姿、急いで行くのが見て取れたが、背後姿でわからない。「気になるねえ」と呟いたが、そのままピッシャリ障子を締め、また坐ったは幹之介の前。
「それじゃア首尾よくなさりませ」
「一生懸命!」と志水幹之介、釣られたように立ち上がった。
連れて立ち上がった荻野八重梅、つと寄り添うと腕をのばし、幹之介の肩へ打ちかけたが、
「これが今生の一締めさ!」心で云ってグーッと締め、頬ヘピッタリ頬をあてた。
「八重梅!」と締め返して幹之介、「暁の鐘の鳴る頃には……」
「待っております。おいでなさりませ」
「うむ、そうしてどこで待つ?」
「ここは人目にかかります、そうですねえ、浅間の社地で」
「そこから一緒に他国だな」
「通し駕籠で東海道、江戸をさして行きましょう」
「よし」
と云うと幹之介、障子を開けて縁へ出た。フラツク足を踏みしめ踏みしめ、行ってしまったその後は八重梅一人になったのである。
ジーッとすだく虫の声、萩の下辺から聞こえて来る。河東節は聞こえない。三味線の音も音を絶えた。中庭に灯る石燈籠、明滅をする燈の光、蛾がパサパサとぶつかるらしい。
「では妾も御輿を上げ、そろそろ宿へ帰ろうか」
門まで行くと声をかけた仲居。
「あの、お供を呼びましょう」
「いいえ歩って帰ります」
「表は物騒でございますよ」
「ナーニね」と云うと荻野八重梅、微妙に笑ったものである。「そのうちもっと物騒なことが。……大きにお世話になりました」
「では太夫さんお気をつけて」
「はい」
というと門を出た。露路の細道駒下駄を鳴らし、外へ出たが真っ暗だ、暁の鐘など鳴りそうもない。
「寂しいねえ」と呟いたが、心の中も寂しかった。「憎い人じゃアなかったんだが」幹之介のことを考えている。「何んのあいつが眠剤なものか! 毒も大毒砒石だあね。……あいつを飲むと中納言様、即座に血へどをお吐きになり、怖やの怖やのご落命。……不忠者というところで、あの好男子の幹之介さん、膾のように切られるだろう。……殺生のことをしたものさ。……だが妾は島津の隠密、太郎丸のご前に命ぜられた以上どんな事だってしなけりゃアならない……道具に使うそのために、あの幹様とも馴染んだんだからねえ」俯向きながら歩いて行く。ふと気が付いて四辺を見た。「おや」と云うとゾッとした。「こんな所へいつの間に? ここは浅間の社地じゃアないか! まるで幹様の執念が、妾をしょびいて来たようだよ。アレ!」とばかりに声を上げた。樹木森々たる浅間の社地! ボーッと人魂が燃えたからである。が、よく見ると対に並んだ、常夜燈の燈であった。「ふふん」と笑った荻野八重梅、「人魂だろうと怖いものか! 浮世で怖いは金魂だあね。……それはとにかく、幹様の後生、ちょっと拝んで置こうかしら」ポンポンと柏手を打ったとたん、
「太夫、おッそろしく神妙だねえ!」背後から男の声がした。
「太夫、おッそろしく神妙だねえ」
声をかけられて荻野八重梅、さすがにギョッとして振り返った。常夜燈の光に照らされて、ボッと立っている一人の男。
「おや、お前は薪十郎さん」
「さようで」と薪十郎近寄って来た。「神信心でござんすかえ」嘲笑うような声である。
「そういうお前こそ何んのために、こんな所へ来たんだい?」八重梅油断をしなかった。
「へい、散歩というやつで」ニヤニヤ笑っているらしい。
「嘘をお云いな!」と突っ刎ねた。「妾をつけて来たんだろう。……河東節の太夫さん!」
「ウッフ、さてはご存知か」洒ア洒アとして寄って来る。
「玉菊ばかりは上手だよ」
「お耳に止まって有難え」
「寄るじゃアないよ、薄穢ねえ」
「そう没義道に云いなさんな」ニヤニヤ笑って寄って来る。「三枚目でも役者でげす。同じ一座にいる身でさあ」
「そうさ、おんなじ座にいるよ。だから珍らしかアない筈だ。つけて来るにも及ぶまい」
「それがさ」と云い云い薪十郎、八重梅を見上げ見下したが、「今夜ばかりはつけてよかった」
「何故だい?」と八重梅キッとなった。
「気強に口説く材料の、拾い物をしたからさ」
次第に図々しくなって来る。
「ふふん、どの辺で拾ったか」嘲笑ったが荻野八重梅、傷持つ脛というやつだ、語音が弱くなって来た。
早くも察した阪東薪十郎、「オイ八重梅!」と嚇かすように、「だいそれた事を巧らんだなあ」
「何をさ!」と八重梅一歩退く。
「立ち聞きしたんだ、武蔵野でな……お手もと金と眠剤と、ズラかろうという魂胆! ……」
「なるほど」といったが弱ったのである。
「オイ八重梅!」とズカズカ進み、グッと片袖を掴まえた。「ズラかる話はまだいいや、若侍をけしかけて、中納言様のお手もと金、盗ませようとは泥棒だぞ! おおそれながらと俺が出たら手前の首に縄がかかる。獄門どころかはっつけだ! 綺麗なお前の脇の下へ、ブツブツ槍が突き差さらあ。……痛えぞ痛えぞ、とても痛え! ……そうしたあげくにくたばるのだ! ……一座はバラバラ所払い、笠屋仙之も牢屋入り! ……手前ばかりの厄じゃアねえ、みんな路頭に迷ウんだ! 途方もねえ事をしでかしたなあ」息を入れたが声の調子、ここで砕いたものである。「それもさ、俺がまかり出て、おおそれながらと訴えなければ、そんな騒動も起こらねえ。……だからよ一番思案するんだなあ」顔を覗かせたものである。それからいよいよ猫撫で声、「知ってる筈だよ、俺の心! 首ったけという奴だ! そこで物はご相談、どうだろうねえ、オイ八重ちゃん、リャンコの代りにこの俺と、江戸へ逃げちゃアくれまいかね?」またもや顔を覗かせた。
荻野八重梅、絶体絶命、「なるほどなア」と考えた。「今夜のうちにこの野郎に、訴え出られたら骨灰微塵、弑虐の目算露見する! と云ってこんな三下に、身を任かすなア死んでも厭! おのれ見やがれ、殺生ついで、もたれかかって殺めてやろう」そこで柔順に溜息をした。「ねえ薪さん」と色っぽい。「云われてみりゃアその通りさ。……立ち聞きされた上からは、嘘だと云っても遁がすまい。こうなりゃア往生観念仏、厭であろうが応であろうが、身を任かすより仕方がない。一緒に行こうよ、どこへでもねえ」グーッと腕を掻い込んだ。
一緒に行こうと承知され、腕を掻い込まれた阪東薪十郎、あべこべに吃驚りしたものだ。
「え、本当か、俺らと行くか」
「お前も役者、わしも役者、旅へ行って稼ごうよ」尚も腕を引き寄せる。
「有難えなあ、夢のようだ! 稼ぐぜ稼ぐぜ、そうなったひにゃア。……ところでどっちへ行こうかね」
「そうさねえ、どこへ行こう?」ソロソロと片手を上へ上げる。
「そうだこれから夜をかけて、中仙道を行くとしよう」
「中仙道かえ、ああいいとも」右手が髪まで延ばされた。
「初の泊まりは太田かな」
「ああいいねえ、太田にしよう」ス──と簪を引き抜いた。
「それにしても痛え痛え、そうマア腕を引っ張るなよ」
「痛いかえ、オイ薪さん。……もっと痛めてやろうかねえ」
「ワクワクするなあ、肌のぬくみ」
「ねえ薪さん」と含んで笑い、「中仙道は止めようよ」
「そうか、それじゃア東海道?」
「いいえさ、冥土の道がいいよ!」左手で抱き締め動かさず、右手を揮うと力をこめ、「どんなものだえ!」と突っ込んだ。
「ワッ」という悲鳴、顔を抑え、ドッと仆れた薪十郎、「荻野八重梅、わりゃア俺の!」
「眼を突いたがどうしたえ」後へ退って及び腰、
「左だったか右だったか、妾ア右を狙った筈だよ」
「人殺シーッ」と意気地なしめ! 野郎のくせに喚き出した。
荻野八重梅驚かない。「吠えろ吠えろ、高音をかけろ! これが普通の夜中なら、人も来ようし町役人、駈け付けてくれるかもしれねえが、今夜ばかりは駄目の皮だ! 島津のご前、御器所のお屋敷、そいつを囲んでお役人、テンヤワンヤと騒いでいる! 町人衆は出歩かない。悲鳴を上げれば上げるほど、恐ろしがって寄り付かない! 人を殺すにゃア格好の晩だ! ……のた打てのた打て、這い廻れ! 刳ってやろうよもう一眼!」
振り上げた銀簪逆手握り、常夜燈の光でギラギラギラ! 左手で取り上げた褄を洩れ、翻めく蹴出しは水色だ。それへ点々と滴る血! はみ出した脛の真っ白さ! いつか駒下駄脱ぎすててある。
「人殺シーッ」と逃げる奴、追い廻して行く手へ立つ。「人殺シーッ」と後へ逃げる。追い廻して行く手へ立つ。
追い詰められた薪十郎、今は窮鼠、猛然と延し、血だらけの顔を真ん向かい「毒婦めエーッ」と躍りかかった。
軽く反せた荻野八重梅、女力に髻を掴み、胸もと近く引き寄せたが、「さあどっちが悪党かねえ」立派に突いた、もう一眼!
「ワッ」という悲鳴、また仆れる、薪十郎の首根ッ子、土足で踏まえてグ──ッと力!
「往生おしよ! めでたくねえ!」
グルグルと解いたは紫の扱き、首へ纒うとキュ──ッひと絞め! くたばったかな? いや駄目だ! 人の馳せ来る足音がした。
「邪魔がはいった、残念だねえ」呟いた時には荻野八重梅、身をひるがえして社殿の裏へ、早くも姿を隠したが、ちょうどこの頃名古屋城内でも一つの事件が起こっていた。
名古屋城内の奥御殿、豪奢を極めたその一室、向かい合っている二人の人物、尾張宗春と薬草道人、しめやかにさっきから話している。間遠に聞える笑い声、大広間における無礼講の、その笑い声に相違ない。
「是非ともお供を致したいもので……」こう云ったのは尾張宗春、話のつづきに相違ない。
「よくござらぬよ、そのお考え」こう云ったのは薬草道人、宥めるような調子である。「例を引くことに致しましょう、わしが御岳から出る時でござる、彦兵衛さんという老人が、そんなことをやはり云いましたっけ。わしと一緒に御岳を出て、跣足の旅をしたいとね。そこで私は申しました。お前さんの行くのはよいとして、お神さんや娘さんをどうするかと。……そこであなたへも申します、あなたが旅へ出るのはよい、だがそうなったら六十二万石、ご家臣の数も多い筈で、その人達がどうなりますな?」
「さよう」と云ったが尾張宗春、しばらくの間、黙っていた。
一夜ゆくりなく木小屋へ泊まり、薬草道人に感化されて以来、にわかに彼の心の中へ、漂泊の念が萌したのである。従来とって来た大名ぐらし、そいつが厭になったのである。そこで道人に扈従して、旅へ出たいと云い出したのである。
「何も考えるには中らない」薬草道人云いついだ。「ご家臣の人達一人のこらず、動顛するでございましょう。柳営へ知れればお咎めを受ける。ご家運さえも危うくなる。もしものことがあろうものなら、ご家臣達は禄を離れ、浪々しなければなりますまい。とんでもないことでございますよ」
「しかし」と宗春物憂そうに、「過去の穢れを洗い落とす! そういう心の湧きました際には、それにふさわしい行動を、とるべきものではございますまいか」
「急いでとってはいけませんな!」
「は?」と宗春訊き返した。
「物には順序がありますので」
「とは云え順序を追って行くほど、心にゆとりのない際には?」
「なんのなんのどんな心にだって、ゆとりをつけることは出来ますよ。それが出来ないと思うのは、我がまま者の坊ちゃんだけで」
「ははあそうするとこの私は、我がまま者の坊ちゃんで?」いやアな顔をしたものである。
「我がままも我がまま、大我がまま者で、話しにも何んにもなりゃアしません」
「ふふむ」と云ったが考え込んでしまった。
「まず意ってもみられるがよい」道人いよいよ穏かに、「他人の迷惑を反省ず、自分ばかりを潔くしたい! こんな我がままってありますものか」
「なるほど」と少し解ったらしい。
「それにさ」と道人愛嬌よく、「任というものがございますよ、さようあらゆる人間にはな。任を忘れてはいけません。さてところであなたの任、いったい何んでございましょうかな?」
「さあ、私には、ちとそれが……」
「え?」と道人吃驚りした。「お解りにならないとおっしゃるので?」
「さようでござる、ハッキリとは」
「馬鹿な話しで」と薬草道人、いよいよ驚いたというように、「国を治めて、民を休める、こいつが任じゃアございません」
「あッ、いかにも、そうでございました」
「そこで私は申しましょう、任によって心を浄めるがよいとな」道人一膝膝を進めたが、「それについてお話し致しましょう」
一膝のり出した薬草道人、穏かに説き出したものである。「ええ任によって心を浄める! いやむしろそれはこう云った方がよろしい。任を尽くして心を浄めるとね。何んでもありゃアしませんよ。あっちこっちへ眼を移さず、自分の商売を一生懸命にやる、決して決して商売換えをしない。遮二無二ひとつ物へ食い付いて行く。……と云うことでございますよ。あなたにすれば治国平天下! そいつへ食い付けばよろしいので。隙を見せちゃアいけませんなあ。真一文字に押し通すので。すると全く微妙なことには心が浄まって参りますよ。つまり迷妄が起こるような、隙がないからでございましょうなあ。……沈潜して考える! 精神的に反省する! こいつも結構ではございますが、私としては不賛成で、それよりむしろ外へ向かって、働きかける方がよろしゅうござる。そこで差し詰めあなたとしては、間違っていると思うお政治を、お直しなさるのがよろしいので。そうしてそいつを直すことによって、心を浄めるのでございますよ。心で心をこづき廻し、懴悔をするということによって、自己完成をしようより、ドシドシ仕事をやることによって、自己完成をするのでござる。……さてところで宗春さん、これまでにとられたご政治につき、曲がったところはござらぬかな?」
訊かれて宗春頷いた。
「沢山あるようでございます。解放主義をとりました。その結果放漫になりました。拡張政策をとりました。その結果シメククリがなくなりました。江戸や大坂や京都などの、文物を移植いたしました。その結果淫逸奢侈になり、かなり風俗を傷ねたようで」
「ではそれらの欠点を、だんだんに改良なさるがよろしい」
「しかし余りに今日では、それが手広くなりましたため、到底一朝一夕には、直し切れまいと存ぜられます」
「ははあそこで逃げようというので?」
「は? 逃げるとおっしゃいますと?」
「私と一緒に跣足旅行、そいつをなさろうとおっしゃるので?」
「うむ」宗春詰まってしまった。
「いけませんなあ」と薬草道人、今度はちょっと叱るように云った。「それではまるで隠遁だ! 甚だしいかな無責任! 任を尽くさざるも沙汰の限りでござる」
「はい」と云うと首垂れてしまった。
部屋内シ──ンと静かである。無礼講の歓語が遠聞こえする。とまた道人機嫌よく、「そうは云ってもごもっともでござるな。これまでにとられたご方針容易なことでは変えられますまい。ましてお一人の力ではな。重役衆の思惑もござろう。ついては」というと薬草道人、何んでもないように云い出した。「あなたがそれを望まれるなら、私がお力添え致しましょう」
「是非に!」というと宗春の顔、にわかに活気を呈して来た。「お願い致しとう存じます」
「よろしゅうござる」と引き受けた。「当分城内へとどまって、ご相談相手になりましょう。……さあさあこれで話は決まった。どれそれでは大広間へ参り、振る舞い酒でもいただきましょうかな」
ヒョイと立ち上がると部屋を出た。あたりをジロジロ見廻したが、「どうも立派な御殿だわい。ひとつ拝見と出かけるかな」薬草道人遠慮しない、間ごと間ごとを打ち通り、奥の方へズンズン歩いて行ったが、これから事件が起こったのである。
一つの奥部屋、そこまで来た。とにわかに薬草道人、「これはおかしい」と呟きながら、ピタリ襖へ体をつけ、様子をうかがったものである。
奥部屋の襖へ体をつけ、様子を窺った薬草道人、「おかしいなあ」とまたも云った。「嗅覚に毒気が感じられる。誰か毒石を弄そんでいるな」
そろそろと細目に襖をあけ、その際間から覗いてみた。部屋の調度から推察すると、どうやら城主の寝部屋らしい。茶釜がシンシンと沸いている。その前に侍が坐っている。近習らしい若侍、不思議なことには全身を、ワナワナワナワナ顫わせている。ひどく恐怖しているらしい。と、ホーッと溜息をした。つづいてキョロキョロと四辺を見た。のぼせ上がっているのだろう、覗いている道人に気がつかないらしい。と片手を袖へ入れた。取り出したのは封じ薬、ブルブル顫える指の先で、不器用に紙を解いて行く。とまたもやホーッと吐息! それから右手をオズオズと出すと、釜の蓋を静かに取り上げた。と、チャリーンと音がした。蓋が釜の縁へあたったのである。そんなにも顫えているのである。そこでしばらく思案した。突然勇気を起こしたらしい、薬を取り上げると躊躇せず、パッと釜の中へ投げ入れた。それから蓋! それから端座! 主はいないが何者かに、お詫びでもするというように、ピタリと両手を畳へ突くと、アテなしに一礼したものである。それからヒョイと立ち上がったが、その足もとに力がない。今にもグンニャリと折れそうだ。それを踏みしめて歩き出した時、薬草道人襖をあけた。
「お侍さん、ちょっとお待ち!」忍び音で声はやさしいが、眼は鷲のように光っている。部屋へはいると手を廻し、背後ざまに襖をしめ、ツカツカ進んだは釜の前、ピタリと坐ると蓋を取った。ポーッと立ち上がる湯気を嗅ぐと、
「やっぱりそうか、思った通りだ」蓋をするとグイと向き直った。「お侍さん、お坐りなされ!」まさに威厳のある声である。
「はっ」というと若侍、ベタベタと坐ったが両手を突き、額を畳へ摺りつけてしまった。肩が細かく刻まれているのは、極度に恐れているからであろう。
「顔をお上げ!」と薬草道人、「で、お名前は、何んと云われる?」
顔を上げた若侍、「近習役で志水幹之介!」
「うむ」というと覗くように見た。「これは不思議」と心で云った。「大逆人の相ではない。むしろ真面目で誠忠で、一本気の人間の人相だ」なおつくづく見守ったが、「ははあ美男で年が若い、恋の陥穽に落ち込んでいるな? そういえば命宮に蔭影がある。水星がネットリと粘っている。何んだこの眼は! 魘されているようだ! ああ可哀そうにこの侍、妄執を払うことは出来そうもない。道人一膝進めたが、さらに四辺を憚かるように、「幹之介殿、お尋ねしたい、砒石どこから手に入れられたな?」
「は?」と云ったが幹之介には、何んのことだか解らないらしい、
「は、砒石と仰せられるは?」
「大毒薬の砒石でござる」
「存じませんでございます」
「そなた只今釜へ入れられた薬、あれが砒石じゃ、どうして得られた?」
「めっそうもない! 眠剤で!」
「ナニ眠剤? ふうむそうか! いや恐らくそうであろう。少くもそなたにおかれては、そう思っていたに相違ない。が、ハッキリと云って上げる、あれこそ砒石、大毒薬、人の命なら十人は取れる!」
蒼白になった幹之介、突然小刀へ手をかけた。
小刀へ手をかけた幹之介、抜こうとした時薬草道人、グイとその手を抑えつけた。
「これ、どうなさる、何をされるお気か! 主殺しの大逆目付けられ、血迷ってわしを切るつもりか! そんな筋目がござるかな、そんな度胸がござるか? ……それとも」というと眼を据えた。「顔をお上げ! 見て進ぜる」
上げた幹之介の顔を見たが、「うむ、さようか、自分自身、割腹なさるお意りだな。が、そいつも周章ただしい。まずまずお待ち、手を引かれい」
後へ退った薬草道人、しばらくじっと打ち案じたが、「眠剤をお館にお飲ませ申し、どうなさるお意りでござったかな?」
「はい」と云うと幹之介、畳へ両手をまた突いたが、「勿体ないことではございますが、お手もと金を頂戴し……」
「なるほど」と道人頷いた。「さてはお金が欲しかったので。……しかしご様子を見たところ、貧しいご身分とも思われぬ。……大金を盗んで何んにされるな?」
幹之介無言、返辞をしない。
「いやよろしい」と薬草道人、押して訊こうともしなかったが、卒然として口を切った。「恋でござろう、幹之介殿! この見当決して外れぬ。お隠しなさるな、お打ち明けなされ。……武家の娘ごでござるかな? それとも市井の婦人などで?」
「はい」と観念した幹之介、「女太夫にございます」
「女太夫? ああさようか。……で年は? あなたよりも?」
「いささか上にございます」
「さてはそそのかしに逢われたな」肺腑を突いた言葉である。「他国しようというような、相談をされたのではござらぬかな? そのため大金必要となり……」
「はい」といよいよ観念し、「それに相違はござりませぬが、むしろ他国は私より、持ちかけましたものにございます」
「眠剤と偽わって砒石の大毒、そなたへ渡したのもその女でござろう?」
「それとて女としましては、砒石などとは夢さら知らず、やはり眠剤と心得て、手渡しくれたものと存ぜられます」
「たしかにさよう思われるか?」
「はい誓って! ……それ以外には……」
「そやつ毒婦! こうは思われぬか?」
「なかなかもちまして、さような事……」
「スッパリお別れなさるがよい! こうこの私が勧めても、別れられまいな、そなたには?」
ブルッと顫えた幹之介、返辞をせずに顔を下げた。畳へ落ちたは涙である。
それを見やった薬草道人、喟然嘆息をしたものである。
「釈尊三不能を説かれたが、まことにまことにいわれがある。誠忠、真面目、一本気、清らかな心の持ち主が、年長の市井の毒婦などに、魅入られた以上もはや駄目だ! 己の心が清いだけに、清からぬ者に愛着を感じ、深みへ深みへと落ちて行く。相手の欠点、美に見える! 見え透いた手練手管さえ、好もしいものに映って来る。諫められて聞かず説かれて服さず、かえってその人を怨みさえする。持っている清い心持ちが、かえっていよいよ迷妄を産む! 幹之介殿、わしにはな、そなたを説き伏せる力はない! しかし」と云うと薬草道人憐れみの眼をしばたたいた。「一応は申そう、思うところをな。……聞くも聞かぬもそなたまかせ!」
「一応は申そう、思うところをな、聞くも聞かぬもそなたまかせ」こう云って膝を進めたが、薬草道人不意に立った。「ついておいで、裏庭へな、ここは部屋内、人目立つ。……それから茶釜、持っておいでなされ」
部屋を出ると廻廊づたい、裏庭の方へ歩き出した。後につづいた志水幹之介、両手に茶釜を捧げている。
「ここでよろしい」と薬草道人、立ち止まった所は木の下闇。「釜の湯を地面へぶちまけなされ」
云われるままにぶちまけると、ポーッと立った白い湯気、プーンと芳香が四方に匂う。
「さて」と云うと話し出した。「くどくは云わぬほんの一言……そなた執着をおとげなされ!」何んという不思議な言葉だろう! だが道人云いつづけた。「私は薬師、間違いはござらぬ。さっきそなたが釜へ入れた薬、眠剤ではなくてまさしく砒石! そこでこの私の思うには、砒石をそなたへ与えた女、恐らく島津方の間者であろう。そなたをたらし、そなたの手で、宗春卿の毒殺を、企てたものに相違ござらぬ。何故とそなた訊くかも知れぬ。何んでもないこと、常識で解る。宗春卿から承われば、島津家同志を語らって、徳川幕府へ弓引こうと、いろいろ奸策を巡らした結果、宗春卿をもおびき出し一味に加えようとしたとのこと。それを偶然お助けしたのが、この道人だということだの。……ところで陰謀の発頭人、島津太郎丸という器量人、名古屋の城下御器所の高台に、いまだに住居しているという……秘密を知っている宗春卿を、何んでそのまま差し置こう、恐らくあらゆる策略を設け、なきものにしようとするは必然! ……その手足になったものが、そなたの恋される女太夫! そのまた傀儡になったものが、他ならぬ幹之介殿お前様だ! もっとも」と云うと打ち案じた。「以上はこの私の推察でな、めったに外れまいとは思うものの、もし外れても女太夫は、やはり依然として毒婦でござる!」ここでじいいっと沈黙した。それから断乎として云ったものである。「毒婦でなければ恋するそなたへ、お手もと金を奪えなどと、何んで勧めることがあろう! そなたが盗むと切り出しても、止めだてするのが本当でござる! 毒婦! 毒婦! それに相違ない! だから」と云うと沈痛に云った。「だから毒婦と別れるよう、おすすめするというのではない! 止むを得ぬによって恋の執着、おとげなされと進めるのでござる! それがまだしもの救いだからで……深き迷妄を破るもの、それは決して光明ではない! やはりそれは迷妄でござる! 徹底! これだ! 迷妄の徹底!」気の毒そうに云いつづけた。「踠きなされ、のたうちなされ、血だらけになって戦かいなされ! 行き詰まったあげくに何かを得ましょう! 死か悟りか何かをな! さようなら、おいでおいで!」
裏門を指さしたものである。物云わず立っていた幹之介、すすり泣きの声を洩らしたが、
「道人様!」と縋ろうとした。
「私ではあるまい、縋るものは!」
「はい」と云うと手を放した。
「おいでおいで、迷妄の旅へ!」
フラフラと歩いて行く幹之介、姿が見えなくなった時、笑い声遠々しく聞こえて来た。
「向こうには明るい広間がある。だがこっちには暗い露路! 人生の表裏、光明と暗黒! 合一する期は、あるやらないやら! だがあるように努めたいなあ」薬草道人空を仰いだ。「いつも綺麗なのはお星様だよ」
独り言を云ったがちょうどこの頃、太郎丸の屋敷の屋根棟で、同じく星を眺めながら、話をしている人物があった。島津太郎丸と西川正休。
島津太郎丸の御器所の屋敷、その屋根棟の物見台、そこに立っている太郎丸と正休、ジッと天文を睨んでいる。
「異象はないかな、求林斎?」嘲笑うように太郎丸が云う。「今夜こそなければならない筈だ」
だが正休黙っている。
「どうだどうだ幸臣星は? 光を弱めては来ないかな? たしかに光を弱めて来た筈だ」
だが正休物を云わない。
「どうだどうだ盗み星は? 光を強めて来たろうがな? たしかに光を強めて来た筈だ」
依然正休黙っている。
「無言の行か」と憎々しく、「アハッッッお気の毒! さすがの求林斎お前にも、今夜の天文は解らないと見える。……どうだどうだ聖者星は? 影をかくしてしまったろうがな?」
やっぱり正休黙っている。
そこで太郎丸揶揄調子、「どうだどうだ、名古屋の城から、殺気が立ち昇ってはいないかな? これは、どうしても立ち昇っている筈だ」
まだ求林斎物を云わない。
「どうやら唖者になったらしい」またもや太郎丸憎々しく、「学者の唖者というものは、ふだんあんまり喋舌りすぎるためか、恐ろしく不格好なものだなあ。学者学者、何んとかお云い!」
やっぱり駄目だ、西川正休。無言で空を眺めている。
「よろしいよろしい、黙っているがいい。今夜一晩中無言の行、星と睨めっこをしているがいい。夜が明けたら大騒ぎ、名古屋城内蜂の巣だ! 何んの天文がアテになるものか! アテになるのは人間の意志さ! 太郎丸の意志大いに輝き求林斎の叡智忽ち真っ暗! と云うことになりそうだなあ」
どうしたものか西川正休、まだ一言も発しない。
「これは驚いた! 忍耐強い! 平気で辱しめを受けるそうな。学問の破産というやつだな。気の毒なものだ、同情するよ! ……それはそうと城方の者ども、相変らず腫れ物にでもさわるように屋敷を遠巻きにしているわ。……甲冑の音を聞かせたり、歌舞の音色を聞かせたり、我ながら小策を弄したが、こうも利き目があろうとは、俺にしてからが思わなかったよ。……それとて今夜一晩だけさ! 明朝までには形がつく! ……その明朝まで攻め込まれまいと、使った手品に引っかかり、四方を囲んだ城方の者ども、サーッと後へ引いたんだから、組し易いというものさ」
見下ろしながら島津太郎丸、愉快そうに毒舌を揮っている。
しかし毒舌を揮われても、まさに一言もないのであった。高張り提灯を振り照らし、弓鉄砲をひっさげながら、無数の城方の捕り方達、さも恐ろしいというように、屋敷の四方からズッと離れ、ただ遠巻きに取り巻いている。怒鳴り声、罵しり声、喚き声、一つにかたまってやかましく、騒言となって聞こえては来るが、それさえ何んとなく不安らしい。
「これ求林斎、求林斎」また太郎丸やり出した。「まだ唖者かな、石仏かな、無言の行者でござんすかな! では止むを得ぬ、俺の口から、今夜の企て話してやろう! 実はな、お前の天文の才、どのくらいあるか験して見よう、そこでここまで連れては来たが、期待は外れた、解らないらしい。実はな」
と云った時、西川正休、
「殿!」と始めて声を出した。
「何んだ?」と訊き返した太郎丸。
「殿の悪戯、破れましてござるよ!」
「何を!」と云うのを押っかぶせ、「聖者星の光芒、燦然たりじゃ!」凜として正休云ったものである。
「聖者星の光芒燦然たりじゃ!」
正休に云われて太郎丸、「それがどうした!」と眼を怒らせた。
「殿の計画、すなわち画餅!」
「馬鹿な!」と太郎丸セセラ笑った。「今回の企て聖者星に、何んの関係あるものか!」
「聖者星の星主、城中にござる!」
「それは誠か?」と太郎丸、いささかギョッとしたらしい。「云え! 何者? 星の主?」
「いまだその儀は……拙者にもな」
「とまれそいつが邪魔したのか?」
「さよう」というと西川正休、自信をもって悠然といった。「いかにも一時は幸臣星。危く光を失いかけてござる」
「そうであろうそうであろう!」
「四方嵬気に囲まれてござる! ──嵬気一名毒素気じゃ!」
「そうであろうそうであろう!」
「危いかな間一髪! そこまでセリ詰めて参ってござる」
「そうであろうそうであろう!」
「と、にわかにその嵬気、グーッと開いて幸臣星、元の光に立ち帰ってござる!」
「嘘だ!」と太郎丸威猛高!
しかし正休悠然とつづけた。
「見れば聖者星光芒熾烈、幸臣星に働きかけ、嵬気を払い遠く追い、全く安全に守護いたしてござる! 将来は知らずここ当分、幸臣星は無事安泰、しかもいよいよ澄み返り、平和、穏健、中庸、清廉、持ちつづけてございましょう! まして聖者星守護するからは、外界よりの掣肘を受けず、光を保つでございましょうよ!」
太郎丸しばらく黙っていたが、突然吠えるように云ったものである。
「幸臣星すなわち宗春だな?」
「天界は宏大意味深長、人事百般にあて嵌まってござる。人事を名古屋に極限し、これを天界に引例した時、さようまさしく幸臣星、宗春卿に当たりましょう」
「その宗春の毒殺が、失敗したというのだな」
「ははあさてはご前! そういう計画をなされましたので」
「そうさ!」と云うとカラカラと笑った。「荻野八重梅、女歌舞伎、手なづけて間者と致したがそいつの情夫、志水幹之介、尾張宗春の近習役、そやつを利用し企てたのさ! 尾張宗春の毒殺をな! お紋の手を借り書面と砒石、まず八重梅へ遣わしたのさ! 志水幹之介の手を通し、今夜のうちに宗春を、殺せというのが文面だ! 承まわると八重梅から、お紋め返事を持って来たが、さては邪魔されて縮尻ったか! それにしても」と太郎丸、審かしそうに打ち案じた。「何者であろう? 聖者星の主?」にわかに手を拍ち飛び上がった。「解った! きゃつだ! 薬草道人!」
「薬草道人?」と西川正休、そう不思議そうに訊き返した。「殿、殿、何者でござるかな?」
「御岳山中より下った隠者だ!」
「おお御岳より? ……ほほう隠者?」
「甲斐の徳本と解せられる奴!」
「や! 徳本? あの名医の?」
「我々の手から宗春を、奪い取って城中へ連れ帰った奴だ! きゃつなら城中にいる筈だ! 解った解った、聖者星の主!」じっと考えたが太郎丸、「何を!」というと身を躍らせ、物見台の柵を飛び越した。「一番手二番手破れても、まだ残っている三番手! よし」と云うと、屋根を這い、棟の頂上へひた走った。と、ピッタリ腹這いになり、何かを抱いたと思ったが、グーッと反ると一本の円筒、筒口を天へ上げたものである。
一本の円筒筒口を、ポンとばかりに天へ上げた。大砲かな? そうらしい。と太郎丸また腹這い、屋根棟の一所を押したと見るや、何んの壮観、筒口から、音なく立ち上った一条の火龍! 四辺を真紅に輝かせ、数丈の高さに舞い上った。発光狼煙、合図の火だ! 青空が一瞬間に突ん裂かれ、裁断された趣きがある。
と、パッと消えてしまった。
「どうだ?」と呻くと太郎丸、夜で必要はなかったが、一種の気勢、眼に手を翳し、西南の方角をグッと睨んだ。と、まさしく名古屋港、それも遙かの沖合いにあたって、同じく一本の狼煙が火柱のように舞い上がった。
「よし」と云うと太郎丸、また屋根棟をスルスルと這い、物見の台まで帰って来た。
「何んと求林斎、あれを見たか!」
「は、まさしく合図の狼火」
「海上よりだ、何んと思う?」
「船舶浮かんでおろうかと」
「すなわち島津の水軍だ!」
「ははあ」と云ったが西川正休、いささか度胆を抜かれたらしい。「しからば殿にはそれほどまでに?」
「用心堅固、水も洩らさず固めを付けて置いたのさ」
「恐ろしいお方にございます」
「これが普通だ! 事をあげるにはな! 隅から隅まで備うべきだ!」
「恐ろしいお方! しかし立派!」
「こういうこともあろうかと、俺がこの地へ入り込むと同時に、常に島津の水軍をして、秘かに秘かに海上を、游泳させておったのだ」
「で、殿にはその水軍を?」
「うむ、活用はするけれど、まず差しあたり引き移る」
「ははあ、当屋敷を引き払い?」
「そうさ」と云ったが太郎丸、グッと地上を見下ろした。「いかに太郎丸図々しい、度胸を持っていようとも、砦にも当らぬこの屋敷を、こう十重二十重に囲まれては、策を施こす手段はない! 今より同勢引きまとめ、海上の船へ乗り移る。さて求林斎!」と嘲笑うように、気の毒ながらその方も、俺と一緒に船へ連れる! そちを放せば恐らく俺の陰謀を、幕府有司へ告げようからの、告げられたが最後、俺は破滅だ! が、安心するがいい、決して決して虐待はせぬ! いやいや学者として尊重する。大船に乗ってその方と、学問の話を取り交わせながら、大陰謀を試みる! アッハハハ面白いではないか! 忙中まさに閑日月ありさ。俺は好きだよ、そういうことがな! 清談に耽けろう、船中でな! 心配はいらぬ、仲間へは加えぬ! さよう陰謀の仲間へはな。……全くそちほどの人物を、人間慾望の渦中へ入れ、明晰の頭脳を破壊するのは、俺にしてからが残念だよ。いわばお前は賓客だ! 少し悪くいうと幇間だ! アッハハハ怒ってはいけない! しかし実際学者というものは、いついかなる時代でも、ある権力者に使用される。幇間ということが出来そうだなあ。いうところの御用学者だよ! ……さあさあ参れ、求林斎! さあさあ下へ下りて行こう!」
二人揃って物見台から、屋敷の方へ下りて行ったが、間もなく行われた出来事は、傍若無人なものであった。
グーッと一杯に開けられたのは、島津太郎丸の屋敷の門!
と、行列が現われた!
太郎丸の屋敷の大門から、蜓々と現われた一大行列! 抜き身の槍、抜き身の薙刀、異国製らしい大砲二門、火縄を点じた数百挺の鉄砲、いつの間に集めて置いたのだろう? 人数にして三四百人! いずれも徒歩、小具足姿! 二挺の駕籠を真ん中に包み、四列縦隊足並みを揃え、取り囲んだ城方の人数を割り、西南の方へ進んで行く。プーンと匂う煙硝の香、ギラギラ輝く甲冑武具焔を上げる数十本の松火! さきに行く駕籠の戸がひらけ、乗っている主人の姿が見える。他ならぬ島津太郎丸! 駕籠の周囲を取り巻いたは、黒装束の烏組の徒! 戸のとざされた後の駕籠! 乗り手は西川正休で、その駕籠脇に従ったは、町人姿の伊集院五郎! 旗指物は立ててない、法螺も太鼓も陣鉦もない。しかし規律の厳粛さ、咳も立てず物も云わぬ! 訓練されたる薩摩武士、武者押しとしてはまことに堂々、しかも殺気は鬱々と立ち、意気は盛ん、油断はなく、敵の城下を押し通るのに、臆した様子は少しもない。
城方の人数、これを見ると、ワーッとばかり喊声を上げたが、一つにはいささか度胆を抜かれ、また一つには打ってかかって、城下に血の雨を降らすのを、堅く禁ぜられていたためとて、かえって左右へ引き退き、遠巻きにして眺めている。
と、太郎丸の大音声、駕籠の中から鳴り渡った。
「今ぞ島津太郎丸、名古屋城下を引き払い申す! 打ち取る覚し召し候わば、ご遠慮はいらぬ、おいでなされ! 微力ながらもお相手致す! 不精巧なれども大砲二門、弾ごめ致してここにある! ひそかに手に入れたホトガル砲じゃ、ここでぶっ放せばお城まで届く、ご自慢の金の鯱鉾も、骨灰微塵になりましょう! 人家へ打ち込めば火事となる! 焼き立てましょうかな、六十二万石!」カラカラ笑ったものである。「引き上げはするが逃げはせぬ!」また大音を響かせた。「海上へ参って事を計る! ご用心あれよ、城の方々! 今や猛虎野に出るのじゃ! よも安穏には眠れますまい! 艨艟数隻海にある! 時々我ら上陸いたす! 宗春公にもご用心、よくなさるよう申すがよい! やア汝ら、鬨を上げろ!」
声に応じて太郎丸の全軍、故例武者押しの声を上げた。
エイ、エイ、オー
エイ、エイ、オー
粛々堂々として進んで行く。
「いかがでござるな、城の方々!」また太郎丸怒号した。「人数はわずか四百人、しかし士気は斗牛を呑む! 薩摩隼人の精鋭じゃ! 嘘と思わばかかってござれ! 真ん中を襲わば左右の翼、瞬間に畳んで引っ包む! 島津の兵法羚釵懸かり、吉川元春発明の戦術! 後陣にかかれば旗本を残し、前衛忽然と反り返り、大蛇が兎を呑むように、見事に呑んでお目にかける! 島津の兵法黽裸懸かり、小早川隆景発明の戦術! もしそれ旗本にかかろうなら、すわやと全軍真ん丸になり、揉みに揉んで揉みつぶす、島津の兵法猗廈の懸かり、新納武蔵が発明し、豊臣殿下を驚ろかせた、死中活ある戦術じゃ! おかかりなされ! おかかりなされ! ヤア汝ら鬨を上げろ……」
エイ、エイ、オー
エイ、エイ、オー
「いかがでござるな、城の方々!」
太郎丸尚も云いつづける。
尚太郎丸云いつづける。
「いかがでござるな、城の方々! かかって来る気はござらぬかな! 遠慮はご無用、おかかりなされ。ただし、関ヶ原の合戦以来、島津の退き口というものは、武士道の花! 世に名高い! この太郎丸の退き口も、まずめったにひけはとらぬ! うかとかかれば怪我しますぞ! さりとて袖手傍観も、みっともよいものではござらぬよ! 源敬公以来弓矢の道、特に勝れた尾張藩、みすみす我らをお見遁がしかな! 成瀬殿や竹ノ越殿、石河殿や志水殿、ご加判衆はどうなされた! 渡辺殿もお留守かな? 長沼流に甲州流、兵学を学ばれた方々よ、陣をととのえておかかりなされ! 弓は日置流、竹林流、とりわけ盛んと承わる、お射かけなされお射かけなされ! 稲富流に子母砲打ち、火術も精妙と承わる、お打ちかけなされお打ちかけなされ! アッハハハ駄目と見える! しからばご免、ゆるゆる退く! よろしいよろしい遠巻きにして、送り狼のそれのように、どこまででも送っておいでなされ! さりとはいかにも生温い、勇士はなきか、一人でもかかれ! 新陰流に融和流、疋田流など盛んの由、太刀を揮って飛び込んでござれ! 神捕流や佐分利流、槍術も優勢と承わる! 槍をいれなされ槍をいれなされ! 駄目かな駄目かな、誰も来ないかな! 馬術は大坪、常心流、随心流など繁昌とか、せめて我らが行列を、突っ切る者はござらぬかな! やっぱり駄目か、笑止笑止! やアやア汝ら鬨を上げろ!」
エイ、エイ、オ──
エイ、エイ、オ──
太郎丸の軍勢異口同音、武者押しの声を響かせた。
城方の武士にも勇士はある。食い止め突き崩すに訳はない。しかし城下の騒動を、おもんぱかればそれもならぬ。心に無念を貯えながら、ただ遠巻きに送って行く。
「駕籠の戸締めい!」と太郎丸! 声に応じて戸が締まった。「急げ者ども、早駈けに行け!」
エイ、エイ、オ──
エイ、エイ、オ──
トットットッと駈け出した。鳴るは甲冑、足並みの音、燃えるは松火、輝くは武器、太郎丸の全軍四百人、海を目掛けて押して行く。
敵ながら天晴れの退き口である。
松火の火も遠ざかり、物音さえも静まって、名古屋の城下ひっそりとなった。と、今日の熱田辺で、ド、ド、ド、ド、ド、ド、という鉄砲の音! すなわち砲払いをしたらしい。
こうして島津太郎丸、同勢をまとめて城下を去り、海へ浮かんでしまったのである。しかし不安は依然として、残っているものと見なければならない。
それはともかくここに至って、この物語の主要人物、四方八方へ分かれてしまった。薬草道人とその連は、名古屋の城中にとどまっている。山影宗三郎一党は、蝮酒屋に籠もっている。島津太郎丸は海上にある。傍流ながら荻野八重梅、志水幹之介や阪東薪十郎、これらもどこかにいるだろう。うっちゃって置くことは出来そうもない。
月日が経って初冬となった。
名古屋へ初冬が訪れて来た。
利休の歯音がカラカラと響く、渡り鳥が空を行く、柳の葉がハラハラと散る。椿や山茶花が垣根に咲く、人の精神がスガスガしくなる。初冬! 全くいい季節だ! しかし困った季節でもある。前垂れがけに薄化粧、名古屋女の特色が、失われて行く季節でもある。すなわち厚ぼったくなるのである。こんな会話が道で聞かれる。
「花ちゃんどちらへ?」「糸屋さんへ」「喜イちゃんどちらへ?」「糸屋さんへ」──糸屋さんの繁昌する季節でもある。云いかえれば裁縫月! さてその季節のある朝の事、富士見原の往来で、チーンと三味線の音がした。門附けが一人通って行く。だがいったいどうしたんだ! こんな早朝に門附けとは? 扮装の貧しい若者である。杖を持っているから盲目らしい。俄盲目に相違ない。感が悪そうにひろって行く。
ガラリと一軒の戸が開いた。
「へい」というとその門附け、三味線を抱えて弾き出した。
〽翼休めよ禿松
これで解った、この門附け、阪東薪十郎の成れの果てだ。だが河東節の門附けとは? かなり面妖なものである。
「ふざけるねえ、朝っぱらから?」すぐにポンと剣呑を食った。
「へい」というと薪十郎、門を離れて歩き出した。と、もう一軒の門へ立った。
〽翼休めよ禿松
「うるさい!」「へい」と歩き出した。とたんに誰かにぶつかった。
「気を付けやがれ!」「これは粗忽」左へ向かって辞儀をしたが、その人は右を通ったらしい。二三歩歩くとまたぶつかった。「気を付けなよ」と女の声。「へい」と薪十郎右へお辞儀。だが女は左を通った。
「懐中も冷めてえが、浮世も冷めてえ」首を縮めてヒョロヒョロと歩くと、また懲りずまに門に立ち、河東節の三味線を弾き出した。
「はてな聞き覚えのある河東節」
こう呟やいた者がある。編笠を冠った浪人姿往来に立ち止まって耳を澄ました。尾羽打ち枯らしてはいるけれど、まさしく志水幹之介。
このへんから新規の事件が起こる。
朝まだきの富士見原、往来に立った阪東薪十郎、俄盲目の俄門附け、弾いて唄うは河東節、水調子の玉菊である。
佇んで聞いている志水幹之介。
「秋の一夜だ、武蔵野の茶屋で、最後に八重梅と逢った時、二階から聞こえて来た河東節、あああいつに似ているなあ」いつまでも佇んで動かない。
と、薪十郎歩き出した。「懐中も冷めてえが浮世も冷めてえ」もう一度呟やいたがコツコツと行く。突っ張る杖も覚束ない。胸を反らせて首を縮め、さもあぶなっかしい歩い方である。突きあたってはヒッ叱られ、ぶつかっては毒吐かれ、そのつど「へえ」とお詫びをする。春日町を通って飴屋町、梅川町まで辿って来た。宛なしに辿って来たのである。と、小暗く木の茂った、一構えの社地が現われた。古びた社殿、狐格子、縁も所々破損んでいる。一対に並んだ常夜燈、すなわち浅間の社地であったが、早朝のことで人気なく、森閑として寂びている。「何んだか森の気が感じられるなあ」阪東薪十郎杖を止めた。「いってえここはどこなんだろう?」またコツコツと歩き出した。「あッ、痛え!」と喚いたのは、社殿の縁へ向こう脛を、いやというほどぶっつけたからだ。「へえ、お詫び! 真っ平ご免」あやまったが挨拶がない。手で探ると縁のふち。「ごもっともさも、叱られなかった筈だ。むやみと叱るのは人間で、叱らねえのは……何んだろうかなあ。……お宮と見える、一休み、ドッコイショ」と腰かけた。首をうなだれ、溜息を一つ、ぼんやりとして考え込んだ時、
「盲人盲人、どうしたな」こういう声が聞こえて来た。他ならぬ志水幹之介である。聞き覚えのある河東節、懐かしんでつけて来たのである。薪十郎と並んで腰かけた。
それから交わされた二人の会話──
「へえ、どなた様でございますな」
「ああわしか、通りかかりの者だ」
「へえへえさようでございましたか」
「尾羽打ち枯らした浪人だよ」
「ああお侍様でございましたか」
「富士見原からつけて来たものだ」
「ヒッ」と云うと飛び上がった。「ク、首ですね! 首のご用!」
「ハッハハ」と幹之介、さびしく笑ったものである。「朝っぱらから切り取りをする! 今の俺にはそんな度胸はないよ」
「へえ、有難う存じます」ふたたび縁へ腰かけたが、「お侍様へ、お聞きいたします、あの只今は朝っぱらなので?」
「ああそうだよ」初冬の朝だ。
「ふうむ」と薪十郎考え込んだ。「いよいよ世間は冷めてえなあ。俄盲目と馬鹿にして、あの隣家のふんばり婆、さあさあ日が暮れたからお出かけよ……などと瞞して嬲ったらしい。なるほどなあどこの店でも、こいつア剣呑を食れる筈だ。朝っぱらからガチャガチャと、三味線を鳴らされちゃアやりきれまい」
「盲人盲人」と志水幹之介、優しい声で呼びかけた。「わずかではあるが鳥目を進ぜる。ひとつ玉菊を唄ってくれ」
「へえ」というと鎌首を上げた。「玉菊がご所望でござんすかえ?」
「俺にとっては思い出の唄だ。聞いて涙を流したい」
「へえ」と云ったが眼をむいた。「私にとっても思い出の唄で。骨髄に透った怨みのね!」
「ああそうか、わしは違う。恋しい思い出の唄なのさ」二人しばらく黙っていた。と幹之介不意に云った。「ああここは浅間の社地! いよいよ昔を思い出すなあ」
「何!」と突っ立ったのは薪十郎である。
「何!」と突っ立った阪東薪十郎。「ダ、旦那ア!」と声をしぼった。「何んとか云ったね? 浅間の社地?」
「どうした?」と驚いた志水幹之介。「いかにも社地だ! 浅間のな!」
「たしかだね!」とダメを押した。狂気じみた声である。
「そうだよ」と云った幹之介の声、寂しくて穏かで思慕的である。
「怨みの場所だ!」と薪十郎、ヌーッと首を突き出した。見えぬ両眼をカッとむき、前方を睨んだものである。「ワ、わっしゃア、やられたんだ! ここで、この眼を、あの女に!」グタグタと縁へ崩折れたが、「ここまで女を追って来てねえ」
「俺もそうだよ」と幹之介、独言のように呟やいたが、ジーッと腕をこまぬいて、「あの晩お城から抜け出して、ここで一夜を待ち明かしたものだ。ところが女は来なかった」
「わっしア怨みを晴らしたいんで!」
「俺は思いをとげたいのだ!」
「逢ったが最後、わっしア殺す!」
「俺はな」と幹之介うっとりと、「逢ったが最後二人で活きる」
「眼は真っ暗だが心は明るい! 怨みの青火が燃えているんだ」
「俺とはまるで反対だなあ。俺の両眼は明るいが心は迷妄で真っ暗だよ」
「旦那ア」と薪十郎呻くように、「女ア総体に悪党ですなあ」
「うむ」と云ったが瞑目した。「強い力を持っているよ」
「魔物だ魔物だ! 女ア魔物だ!」
「人の心を痺れさせるなあ」
「旦那ア」と薪十郎また呻いた。「わっしア棒に振ったんで! 役者をね! 女のため!」
「俺は侍を棒に振ったよ」
ホーッと薪十郎溜息をしたが、「わっしア探す! 世界の涯まで! 怨みの青火で照らしてね!」
「俺もどこまでも探す気だよ」
「旦那ア」と薪十郎顫える手で、潰された両眼を指さしたが、「ブッツリ、こいつを、簪でね、つかれた時のその痛さ! わっしア思い知らせてえんで!」
「心の傷はもっと痛い!」
「聞いてくだせえ!」と薪十郎、グイと三味線をかい込んだ。「怨みの音色だ! 響かせやしょう! 河東節の水調子、この玉菊を弾くごとに、思いを強めるんでございますよ! 復讐のね! 復讐のね!」
「俺とは何も彼も反対だなア、俺はそいつを耳にすると、恋の心が燃え立って来るよ」
やがて弾き出された河東節、こればかりは上手だ、玉菊一曲! 阪東薪十郎唄い出した。あざれた社頭、季節は冬、朝の霧が立っている。そいつを縫って絃声と肉声、延び縮みして響いて行く。聞き澄ましている幹之介、眼瞼がブルブル顫えている。涙をこらえているのだろう。唄いつづけている薪十郎の口、これもブルブル顫えている。怨みをこらえているのだろう。
弾き終えると薪十郎立ち上がった。「旦那様へご縁があったら……」「ああまた逢おう。……よく聞かせてくれた」
町の方へ別れて立ち去ったが、公孫樹の黄葉がバラバラと散った。
と、ヒョイと常夜燈の蔭から、立ち現われた女がある。「ヤレヤレ厭なものを見てしまったよ」呟いたのは荻野八重梅。
常夜燈の蔭から現われた、女役者の荻野八重梅、町家の女房という風采である。お高祖頭巾を冠っている。二人の行衛を見送ったが、さすがに気持ちが悪いらしい。
「茶屋の武蔵野では薪十郎のために、立ち聞きをされて酷い目にあったが、今日は妾が立ち聞きをした。そうしてやっぱり酷い目にあった。あんな様子を見せられては、いかな妾でも参ってしまうよ」心で呟いたものである。「薪十郎のあの怨念! 盲人怨みという奴さねえ! ゾッとするようなところがあるよ。だがマアマアあんな三下、恐くはなくて厭らしいだけさ。でも幹之介さんは気の毒だねえ」そこでチーッと考え込んだ。「中納言様は無事安泰、毒殺もされず健かと聞き、さては志水幹之介様、やりそこなったなと思ったが、浪人なされたところを見ると、やっぱりそうだ、やりそこなったんだ! ……あんなに妾を恋い慕って、探し廻っておいでなさる。逢って上げたいねえ、快く! ……でも妾には役目がある。自分で自分のままにならない」
ションボリとして佇んだ。
だがいったい荻野八重梅、こんな早朝にこんな所へ、何んの用があって来たのだろう? そうしていったい荻野八重梅、どこに住居しているのだろう? 薪十郎の眼を潰し、半死半生にしたからは、小屋へ帰ることは出来ない筈だ。薪十郎に訴えられたら、捕らえられて処刑にされなければならない。
八重梅は町方に住んでいた。本来なればあの夜すぐに太郎丸の屋敷へ逃げ込んで、かくまって貰うことも出来たのであったが、城方の役人が取り巻いていて、潜って入ることが出来なかった。そのうちとうとう太郎丸、衆と海上へ引き上げてしまった。どうすることも出来なくなった。そこで止むを得ず桑名町の裏店、そこへ一時の隠れ家を構えた。
そこへ突然昨夜のこと、烏組の一人が忍んで来て、お紋の伝言をしたのである。
──「明早朝浅間の社地で、こっそり逢いたい」という伝言であった。
「まだお紋さんには逢ったことがないが、いったいどんなお方だろう? ……太郎丸様の旨を受け、何かを云い付けに来るのだろうが、むずかしい仕事でなければよいが」
思案に耽けって立っている。
と、一人の町方風、若い娘が小走って来た。つと擦れ違うと社前へ行き、拍手をポンポンと拍ったものである。八重梅何気なく振り返って見た。と、どうしたのかその娘、ニッと笑うと小手招きをした。
驚いて八重梅近寄ったのを迎え、
「八重梅さんでございましょうね」娘がそっと声をかけた。
「はい、そうしてあなた様は?」
「妾、お紋でございます」
「おやマアさようでございましたか」
「お住居へお訪ねいたすより、こういう寂しい朝のお宮で朝詣りにかこつけて、お逢いした方が、人目立つまいと存じましてね、使いを上げたのでございますよ」
「まあさようでございましたか。それにしてもどうして妾の住居をお突き止めなすったのでございましょう?」
「妾は烏組の忍び衆、どこへお隠れなされようとすぐに探してしまいますよ。それはとにかく、八重梅さん」
層一層声をひそめ、烏組のお紋話し出した。
「太郎丸のご前の申し付け、どうぞよくお聞きくださいまし。ご前はご立腹でございますよ」
「ご前はご立腹でございますよ」嚇すように云ったが烏組のお紋、顔は愛想よく笑っている。
「と云うのはあなたがやりそこない、中納言様の弑逆に、失敗したからでございますよ。不埓な八重梅! 無能者め! などとおっしゃってでございます。そうかと思うとニコニコし、何んの相手は大領主、この太郎丸さえやり損こなった大物、いかに八重梅が辣腕でも、そうそう成功するものか、などとおっしゃることもあって、実はご立腹でも何んでもないので、それはとにかく今度のご用は、大したことでもございません。御岳産まれの浜路という娘、おびき出すことでございます」お紋四辺を見廻したが、これは立ち聞きを恐れたからであろう。「太郎丸のご前がおっしゃいました。薬草道人というろくでもない隠者、今名古屋の城中にあり。政治向きの改良をしているそうだ。近来とみに士気も張り、到底容易にはチョッカイは出せぬ。残念ながらそのほうは、諦めなければならないだろう。俺といえどもそうそう長く国を離れてはおられない。一旦薩摩へ帰ることにしよう。が、一つだけ土産が欲しい。想いをかけた浜路という娘、是非とも手中に入れたいものだ! お紋よろしく取り計らえ! ……はい! と云ったものの妾としては、ちょっと困ったのでございますよ。と云うのは妾にしろ伊集院さんにしろ、その浜路という小娘や、それを守っている連中に、顔を知られておりますのでね。おびき出すことが出来ません。それを申し上げるとうんそうか、では八重梅を働かせるがいい! ──そこであなたという人へ、ご用が立ったのでございますよ。さてその浜路でございますがね。ご存知でもあろうが七ツ寺、蝮酒屋という酒店に、かくまわれているのでございます。水戸の藩士で山影宗三郎、太蛇使いの組紐のお仙、それから浜路には父にあたる、旧水戸藩士の萩原仁右衛門、それから水戸の女忍び衆、鷺組のお絹とその手下、ええとそれから蝮酒屋の主人、弥五郎と云ってかなりの顔役、そいつの乾分の破戸漢達! ……などというような連中にね。……なかなか油断はなさそうです。……そうですねえ何んとかして、この浅間の社地へでも、おびき出すことは出来まいかしら。ここまで連れ出したら大丈夫、後は烏組の連中が、トヤ駕籠で引っ攫って行きますよ」
「ああさようでございますか」八重梅ちょっと考えたが、「一度失敗したこの妾、何かで取り返しをしなかったら、どうにも太郎丸のご前様へ、会わせる顔がございません。そうは云ってもこの妾も土地で相当人気を取り、顔をしられていた女役者、蝮酒屋へ入り込むにしても、何か趣向をしなければ……ああそうだいいことがある。薪十郎の門附けにならい……ではお紋さん」と元気よく云った。「腕を揮わせていただきましょう」
「ではどうぞね、今度こそうまく」
「まず大丈夫でございましょう」
「浅間の社地の附近には、妾達烏組の連中が腕によりをかけて待っております」
「では」
と二人別れたが、この日も午後に近い頃、七ツ寺の蝮酒屋は、例によって客で一杯であった。
昼飯を食べに沢山の客が、賑やかに入り込んでいるのである。
と、そこへ女門附け、編笠で顔を隠したのが、フラリとばかりはいって来たが、云うまでもなく八重梅。「一膳ご飯をいただきましょう」
腰をかけると云ったものである。
蝮酒屋に入り込んで来た、門附け姿の荻野八重梅、「何をするにもまず最初に、敵の様子を探らなければならない」持って来た昼飯をしたためながら、四辺の様子をうかがった。酒屋と云っても煮売り屋で、今日で云えば縄暖簾、ただし一層大がかりであった。三十人近くのお客さんが、店に一杯立てこもり、盛んに話しながら飲み食いしている。
「お城下の様子が変りましたね、大分真面目になったようで、お侍さん方は威張って歩かず、女子衆達は派手を止め、商人衆は家業熱心、お職人衆は仕事に精出し、ピンと引きしまったじゃアありませんか」
「それというのも薬草道人様がいまだに、お城においでになり、お館様にお力添えして、お政治向きの改良とやらを、なされているからだと云うことで」
などと、一方の食卓では、真面目な話が交わされている。そうかと思うと一方では、
「面白くないね、この頃の浮世、緊縮緊縮、質素質素、そんなことばかりを云っているので、金の融通が止まってしまった。花柳界なんかア火が消えたようだ。やっぱり何んだな、太鼓でも入れて、あっちでもこっちでもガチャガチャ騒ぎと云ったような景気でないと、儲かるものも儲からねえなあ」悪いことを云っている連中もある。
「聞けば島津太郎丸、いまだに大船を二隻も率い、海にいるっていうことだな。海賊同様な真似をして、沿岸を荒らしているそうだ。暴風でも起こって沈むといい」
などと云っている連中もある。
そうかと思うと一方の隅では、遊び人らしい威勢のいいのが、こんな話を取り交わせている。
「半だアと俺ら張ったのさ、ガラガラポーンと上がったのを見ると、どうだい綺麗に丁じゃアねえか。ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! 長目の丁に引っかかり、ソックリ取られたというものさ」
「そこであばれたというんだな?」「帰宅って因果を含めたのさ」「え、誰にだえ、お父っつぁんにか?」「爺く玉なんかが役立つかい。可愛い可愛い女房にさ」「殺生な野郎だ、叩き売ったな」「質草にしようとしたんだよ」「アッ、女房を質へ入れたか」「ところが番頭断わりおった」「馬鹿な番頭ってあるものか」「俺も本当にそう思う」「お前の嬶は踏める顔だ。流れたら安く買ったものを」「そうなったら俺ら裏返り、美人局の凄い兄さんとなり、手前の家へ強請りに行く」「その頃女は惚れている」「え、本当か、俺らの女房、まさか手前に惚れちゃアいめえな?」真顔になって訊いたので、とうとう話がこわれてしまった。
「どっちみち今日は貧的だな」「だから塩鰯の味がうめえ」「厭な野郎だ、安くなりゃアがった」
「まあさそうそう塩鰯を、軽蔑しちゃアいけねえよ。塩が辛くて腥せえ! な、人間もそうなけりゃアいけねえ」
客の間を飛び廻り、例によって愛嬌を売っているのは、他ならぬ組紐のお仙であった。
「おおお仙ちゃん、お銚子を一本!」「おおお仙ちゃん、ここへお肴!」あっちでもこっちでもお仙ちゃん! それへ眼を付けた荻野八重梅、しばらく思案に耽けったが、突然横腹を両手で抑え、ムーと呻きながら床へ仆れた。
横腹を抑えて荻野八重梅、ムーッと呻いて仆れたので、蝮酒屋のお客さん達、一度にそっちを振り向いた。飛んで来たのは組紐のお仙、
「どうなされました」と親切心からだ、あわてて抱き起こしたものである。
「はい、差し込みが参りまして、にわかにキューッとこの辺が……痛んで参りましてございます」
女役者だけに云うことが、ピタリとイタについて本当に聞こえる。
「それはお困りでございますね。お見受けすれば門附け衆、なるほどこんな寒空に、往来を流してはたまりますまい、きっと冷えたのでございましょう」
「ハイハイそんなようでございます。……痛! 痛! 痛! これはたまらぬ! また差し込んで参りました」身もだえをしてのけ反ろうとする。
それを支えた組紐のお仙、
「ではマアちょっと家内へはいり、少しお休みなさりませ。暖もったら直るでござりましょう」つい勧めたものである。
しめたと思ったが気にも出さず、
「門附け風情がどう致しまして、それでは勿体のうございます。いえいえここでほんの少し、休ませていただいておりましたら、おちつく事でございましょう。……あッ、痛々! また差し込み! キューッとこの辺が刳られるようで。ムーッ」とまたもそり反ろうとする。
「何んの遠慮などいりますものか、門附け衆であろうとも、店へ来られたからはお客様! さあさあおはいりなされませ!」
お仙、本来が女芸人、そこで同情も一倍深い、つい真剣に進めてしまった。
「はい、有難う存じます、それではお言葉に甘えまして、お座敷の端でほんのしばらく、横にならせていただきます」さも弱々しく起ち上がったが、心の中はそれと反対、太いことを考えていた。「ひっ攫う玉の浜路という娘、どうやら店へは出ないらしい。奥に引っ込んでいるらしい。攫うにしてからが顔を見なければ、どうにも法が付かないからねえ。それにさ、この家の間取りだって、見究めて置くだけの必要はある。それに宗三郎だの仁右衛門だの、この家の主人の弥五郎だの、鷺組のお絹の動静だって、調べて置かなけりゃアならないだろう……うまくあたったというものさ、この差し込みの贋病気!」
だがやっぱり弱々しく、さも苦しそうに呻くのであった。
「痛、痛、痛! ……痛、痛、痛!」
お仙の肩によっかかりながら、ヒョロヒョロヒョロヒョロ歩いて行く。
だが心ではおかしくてならない。「店には随分妾の芸を、観に来た奴らもいたようだが、誰一人妾を八重梅だと、感付く奴はいないじゃアないか! それにさ、聞けばこのお仙、江戸の芸人だということだが、眼は鈍いねえ、思ったより! これじゃアどうやら家内へはいり、編笠を脱いで顔をさらしても、めったに化けの皮は現われまい。よしよしむやみと差し込みを起こし、晩までこの家にいてやろう。舞台での芝居も面白いが、浮世での芝居も面白い」
そこでやっぱり云うのであった。
「痛、痛、痛! ……痛、痛、痛!」
そうして店から消えてしまったが、蝮酒屋に集まっている、宗三郎一統の連中にとっては、危険至極の破裂玉を、背負い込んだことになったのである。
その日の夕方奥の部屋で、浜路と八重梅とが話していた。
蝮酒屋の奥座敷、弥五郎親分の住居だけに、どうして立派なものである。磨き立った器具、時代の付いた調度、畳なども青々と真新しい。
冷えるというので襖を立てきり、どこからも風も洩れないようにしてある。結構な夜具にくるまって、ヌクヌク寝ているのは荻野八重梅、顔がすっかり変っている。左の頬だけへウンと沢山、含み綿をしているためだろう。顔の形がいびつに見える。額際へ膏薬が張ってある。もうこれだけでも見分けはつくまい。その上右の頤の辺に、上手に痣が描いてある。悪い病気と不養生とで、やつれた女の態である。その枕もとに薬がある。お仙か浜路かが親切にも、煎じてくれたものだろう。
その横に浜路が坐っている。何んの変ったところもない。昔通りのよい浜路だ。しばらく静養したためか、血色もよければ肉も附き、それに都にいたためか、御岳にいた時より優雅に見える。
「いくらかよろしゅうございますか?」こう訊いたのはその浜路。
「はい有難う存じます。いくらかよいようではございますが、でもやっぱり横腹の辺が」
八重梅嘘を云っている。横っ腹など痛む筈がない。はなから病気ではないのだから。……しかし病気と云っているので、浜路にはどうやら心配らしい。
「困ったことでございますね。でもご心配なさいますな。間もなく癒るでございましょう。すっかりよろしくなるまでは、ここにおいでなさいませ、ちっとも遠慮はいりません。ここのご主人はご親切、難儀な人だと見て取ると、いくらでもお助けくださいます」
「はいはい有難うございますが、いえそうしてもおられません、そろそろお暇を致さねば……痛、痛、痛! また差し込みが!」
厭な女だ、芝居者だけに、どうにもシグサが本物に見える!
「妾すこし擦すりましょう」浜路正直にも寄って来た。
「とんでもないことで、勿体ない。決して決してそんなこと、それに穢のうございます、性の悪い病気がございますので」
辞退したのは当然である。痛くもない所を擦すられたら、くすぐったくてやりきれまい。性悪の病気なんかある筈がない。痣と膏薬と含み綿、そいつさえ取ればピンシャンとした、とても綺麗な女になる。
だがもちろん浜路には、そんな姦策は見破られない、可哀そうな不幸な女だと、心から同情しているらしい。
ここでしばらく、二人沈黙。店の方から景気のよい酔客の声が聞こえて来る。
と、八重梅探り出した。
「失礼ながらあなた様は、ここのお店のご親戚の方で?」
「いいえ」と浜路打ち消した。「御岳生まれの浜路と申して、ここのご主人とは縁のないもの、いろいろの事情がありまして、ずっと永らく二、三人で、ここのお家に寄宿人として、住居しているものでございます」
「まあまあさようでございましたか。それにしても本当によいご縹緻で」
この言葉だけは嘘ではなかった。心でもそう思っているのであった。「そうだろうと眼星は付けていたが、やっぱりこの娘が浜路だったのか、何んて素晴らしい娘だろう。顔も美しいが体がいい。この女にミッシリ芸を仕込み、舞台で踊らせたらどうだろう? それこそ妾の人気なんか、蹴落とされてしまうに相違ない」
で、またさぐりを入れ出した。
バンパイヤ八重梅、さり気ない調子で、またも探りを入れ出した。
「こちらのご主人弥五郎様、顔役衆だと承わりましたが、乾児衆も沢山ございましょうねえ?」
正直な無邪気な浜路である、こだわらずに何も彼も話してしまう。
「すぐに集まる乾児衆が、三、四百人はございますそうで」
「豪勢なものでございますねえ」八重梅ちょっと気味悪くなった。「お礼を申したいと存じますが、親分さんはお留守なので?」
「はい昼間から大須の方へ、碁打ちにお出かけなさいましたそうで」
「それは残念でございますこと」だが心では思ったものである。「こいつはちょうど幸いだ」それからまたも訊き出した。「妾も実はこれまでに、二、三度お店へ参りまして、ご飯をいただいたことがございますが、いつもそのつど二十四、五の、立派なお綺麗なお武家様と、格幅のよい五十格好のお方を、帳場などでお見かけ致しましたが、ああいうお立派な方達も、こちら様とお出入りなさいますので?」
山影という侍と、仁右衛門という浜路の父、二人のことを訊こうとして、出鱈目にこんなことを云ったのであったが、はたして浜路ひっかかってしまった。
「はいその立派なお侍様は、あの妾どもの懇意な方で、山影宗三郎様と申します。もう一人の方は妾の父で……やはり二人ながら妾と同じに、寄宿人としてこのお家に、お世話になっておりますので」
「おやマアさようでございましたか。ほんとにほんとに山影様という方、お立派なお侍様でございますねえ」
「ハイハイお立派でございますとも。はいアノ大変お立派な方で、はいアノそうしてご親切で、ホ、ホ、ホ、お立派なお方……」
浜路カ──ッと上気したらしい。無理ではなかった、恋人のことを、お立派であると褒められたのだから。
「今日はお見掛け致しませんが?」
「はいこの頃は毎日毎晩、お城の方へお出かけになり、見張っているのでございます」
「え、見張り?」と、荻野八重梅、ちょっと意外な顔をした。
「薬草道人様のお出ましをね、見張っているのでございますの」
「ああ評判の薬草道人様で。……でもどうして見張ってなど?」
「近々にお城をお出ましになると、もっぱら評判でございますので」
「アノそれでは道人様に、何かご用でもおありなさるので?」
「はいさようでございますとも、道人様にお縋りし、江戸表までお供する、これが妾達の願いなので、それで今日までもこのお家に」
「それに致しても見張らずとも……」
「名聞嫌いの道人様、お城をご出立なさるにも、いずれ窃り人知れず、朝か夜分かそんな時刻に、お出ましになるに相違ないと、それで裏門へは妾の父が、そうして表門へは山影様が……」
よいことを聞いたと思ったが、八重梅顔へは現わさなかった。「そう致しますと今夜なども、遅くお帰りでございましょうねえ」
「遅くお帰りでございましょう。だから寂しゅうございます」
日がだんだん暮れて来た。夜になるのも間があるまい。「痛、痛、痛!」と荻野八重梅、またも横っ腹を抑え出した。
「痛、痛、痛!」と八重梅め、またも横ッ腹を抑え出したが、「いえもう癒ってしまいました」ケロリとしたような顔をした。だが心では考えている。「さてこれから何を訊こう? うん、まだまだ二つばかりある」そこで探りを入れ出した。「妾をご介抱くださいました、お仙様とかいうお店にいるお方、ほんとによい方でございますねえ」
「はい」と浜路嬉しそうに、「ほんとにほんとによい方で、芸人さんではございますが、いやらしいところなどは微塵もなく、侠気があるのでございますの。江戸は両国の女太夫さんで、長虫使いではございますが、長虫のようにいつまでも、執念深いところはなく、あの山影宗三郎様を、妾のためにお諦めなされ……アレ、つまらない、何を申すやら、……妾は馬鹿でございますわね。……でもやっぱり嬉しい時は、嬉しいと云った方がよろしいようで……あの、嬉しいのでございますの! ……だって妾にあの方を、譲ってくだされたのでございますもの……それはそうと差し込みは?」
「はいはい有難う存じます。大分納まって参りました。……それはそうと浜路様、今年の秋口でございましたが、太郎丸とかいう悪人が、お城下にいたことがございましたねえ」
浜路はブルッと身顫いをした。恐ろしかったあの時のことを、にわかに思い出したがためである。
八重梅それには無関心に、
「その太郎丸とかいう悪人が、使っていたとかいう女忍び衆、烏組とかいう連中も、どうやら城下を引き上げました様子、結構なことでございますねえ。いつも世間は穏かでなければほんとに暮らしにくうございますよ。ところで噂によりますと、その烏組の連中と、張り合っていたとかいう水戸の忍び衆、鷺組とかいう人達は、あのままズットこのお城下においでなさるのでございましょうか?」何気ない様子でカマをかけた。
と、浜路、うっかりと乗り、
「いえもうおいでではございません。お役目が済んだとか申しまして、そのお頭のお絹様はじめ、ほんの最近に皆々様、江戸へお立ち帰りでございますの。……よい方達でございましてね、妾達とも大変仲よく、お交際をしてくださいました。……」
不意に浜路口を閉じた。喋舌り過ぎたと思ったからであろう。早くも察した荻野八重梅、「これ以上は訊かれないな。よしよし今度は、この家の、間どりの様子を見てやろう」で、立ち上がったものである。
「尾籠ながら便所を」
「ではご案内いたしましょう」
「何んの何んのあなた様、とんでもないことでございますよ。いえいえ結構でございます。こんな穢ない乞食婆さんを、便所へご案内くださるなんて、罰、罰、罰、罰があたります。すぐに妾へ天罰がね。……ああさようでございますか、ハイハイそれではこの裏で。……痛、痛、痛、おお痛い!」
部屋を通って奥へ行った。縁があって裏庭がある。「庭の様子を見てやろう」下駄を突っかけた荻野八重梅、音を立てずに歩き出した時、
「八重梅さん、八重梅さん」
板塀の向こうから声がした。聞き覚えのあるお紋の声!
塀へ身を寄せると荻野八重梅、
「ああお紋さんでございますか?」
「ちょっと様子を見に来ました」
「首尾は上々、お話しましょう」
「簡単にね、急いでね」
塀の内外でお紋と八重梅、こんな調子に語り合った。
「浜路はいるでございましょうね?」こう訊いたのは烏組のお紋。
「はい」と云ったのは八重梅である。
「水戸の鷺組の連中は?」
「最近江戸へ引き上げましたそうで」
「この家の主人弥五郎は?」
「大須へ行って今は留守」
「宗三郎と仁右衛門は?」
「城の表門と裏門へ」
「何んのために?」と烏組のお紋。
「薬草道人こっそりと、出立するという事でしてね」
「いい事を聞いた、大成功! で、お仙は? 大蛇使いの」
「店でチョコマカ働いています」
「で、どうだろう、八重梅さん、浜路を外へ連れ出せまいか?」
「さあそいつだが、むずかしそうで。あのいい躯、貫目もあろう、とうてい妾の力では、引っ担いで行くということもならず」
「ああなるほど、そうでしょうね」ここでお紋の声が切れた。「それじゃいっそこうしよう、蝮酒屋を焼き討ちにかけよう。部下を率いて伊集院さん、妾を助けに来てくれたからね、思い切った荒療治をやらかそう。妾にも伊集院さんにも怨みがある、浜路といわず一切合切、仁右衛門、宗三郎、お仙まで、ひっ攫うことに決めてしまおう。……縦横に飛ばせましょうトヤ駕籠をね。ナーニ鷺組さえいなかったら、今度こそ負けっこはありゃアしない。……そうは云っても燈の明るい、七ツ寺へトヤ駕籠は入れられない、何んとかこの点考えなけりゃあ。……ああそうだ、いいことがある、焼き討ちを掛けながらこう云おう、浅間の社地で宗三郎さん、太郎丸の一味に囲まれている! あぶないあぶない、あぶない! とね!」
「そこで妾があの娘を連れて、浅間の社地へ駈けつける」
「これなら出来ましょうね、八重梅さん」
「いと易いこと、大丈夫でござんす」
「それじゃアその気で」
「待っていましょう」
そのまま二人は別れたが、痛、痛、痛と云いながら、荻野八重梅部屋へ返った。
こうして夜になった時、蝮酒屋の裏手にあたり、カ──ッと焔が燃え上がった。
火事だアーッと喚く人の声!
と同じ家の左手にあたり、またもや火の手、カ──ッと上がった。
火事だアーッと叫ぶ人々の声!
とまた同じ家の右手にあたり、炎々たる焔が燃え上がった。
三方から火の手が上がったのである。
お紋の部下ども三方に分れ、すなわち放火したのである。
名に負う盛り場の七ツ寺、見る見る修羅の巷となった。走って来る者、逃げる者、避難する者、荷出しする者、それを見物する弥次馬連! スリ半鐘の高音、人々の悲鳴、そいつを縫って聞こえたのは、
「浅間の社地で宗三郎さん、太郎丸の一味に囲まれている! あぶないあぶない! あぶないあぶない!」
だが本物の宗三郎は、この頃城の大手の前を、静かに一人で彷徨っていた。
「はてな?」と云って空を見たのは、にわかに七ツ寺の方角が、桃色に明るくなったからである。
「火事かな?」と云って佇んだとたん、木立の蔭から颯と一人、宗三郎目掛けて斬り込んで来た。
七ツ寺方面火事である。ここは大手、夜の闇が濃い。そいつを抽て一個の人影、宗三郎目掛けて斬り込んで来た。
驚いたのは宗三郎、柄へ手をかけると横へ飛んだ。
「これ、何者、人違いをするな! 拙者山影宗三郎、水戸家の藩士、当地では旅人、怨みを受ける覚えはない!」闇を通して窺った。
敵は正しく武士姿、無言でジリジリと付け廻して来る。大した手利きでもなさそうだ。
「おかしいなあ」宗三郎、刀も抜かずに思案した。「ははあさては物取りかな? それとも尾張家の悪侍の、酔狂の果ての辻斬りかな? どっちにしても物騒な奴だ」もう一度声をかけて見た。
「これこれお武家、理由を云わっしゃい! 辻斬りならば悪戯に過ぎる、懲しめのため、ぶっ払う! 物取りならばお気の毒だ、大して金子も持っていない。それとも遺恨の闇討ちかな? どうだどうだ、理由を云わっしゃい!」
やっぱり無言、ただジリジリと、敵の侍付け廻して来る。
「うるさい奴だな、嚇してやろう。肩のあたりを、峰打ちに一つ!」
で、宗三郎スッと抜いた。ヒョイと柄を一捻り、峰を上に片手上段、例によって左手をブラブラ遊ばせ、しばらく様子をうかがった。
「行くぞよ」と云うと宗三郎、一歩どころか一息に、スルスルと五、六歩進み出た。
ギョッとしたらしい敵の侍、なだれるように退ったが、掛け声もなく飛び込んで来た。そこを目掛けて斜めに落とした、宗三郎の太刀につれ「ウン」という呻きが聞こえたが、俄然体が縮こまってしまった。つまり尻餅をついたのである。
「大変弱いの、もう帰れ! 右の肩が膨れ上がるかもしれない、家へ帰って膏薬でも張れ。俺を怨むなよ、責任はない」
どうやら胸に落ちたらしい、ヒョロヒョロ立ち上がると敵の武士、バタバタと木蔭へかくれてしまった。が、どうだろう、それと引き違いに、二人の人影が現われた。やっぱり武士だ、構えを付け、左右に分かれて逼って来た。
「うむ、また出たな、これは不思議、物取りや辻斬りではなさそうだ」ピカリと心を掠めたのは、太郎丸一味のことであった。きゃつら海上に船を浮かべ、いまだにいるということだが、さてはいつの間にか上陸し、襲って来たのではあるまいかな? もしそうなら油断はならぬ、確かめてみよう、もう一声!」そこで宗三郎声をかけた。「汝ら太郎丸の手の者か? 返辞がなければそう認める! 認めた以上許さない! みっしり斬るぞ! よろしいかな?」
だがやっぱり返辞がない。ジリジリと逼って来るばかりだ。
「いよいよそうだな」と宗三郎、ここに初めて斬る気になった。柄を廻すとソリを返し、真の真剣少しく低め、呼吸を調え位取った。「どっちも似たような腕前だな。右の奴から!」と廻り込んだ。「城の大手を血で穢しては、所のご領主に済まないが、こうなっては仕方がない」右へ右へと廻り込んだ。
とたんに一人、左手から、命の欲しくない道化た冒険児、黒々と刎ねて切り込んで来た。
「可哀そうだが!」と宗三郎、足踏みちがえると、ダーッと一刀! 冴えた腕だ、袈裟に切った。そこを目掛けてもう一人、これも刎ねるように突いて来た。
一人の敵を袈裟掛けに、切って落とした宗三郎、そこを目掛けてもう一人の敵、突いて来たやつを太刀を廻し、ジャリーンとばかり横へ払った。しまった! と敵の叫んだのは、得物を落とされたからであろう。
つづいてガッという悲鳴がした。
広光鍛えの大倶利伽羅で、真っ向を割られたからである。
二人を斃した宗三郎、尚暗中に太刀を構え、木蔭の方を透かして見た。「島津太郎丸の手の者が、せっかく俺を襲うからには、よも二人や三人ではあるまい。まだまだ出て来るに相違ない」こう思ったがためである。
と、はたして木蔭から、十数人の人影が、一団に塊まって現われた。太刀を抜き持った武士である。数間の先でタラタラと、半円を描いて足を止めた。つと進み出た一人の武士、
「山影氏、ご無事かな」声で解る、伊集院五郎、「うむ、貴様か! また来たか!」一足宗三郎前へ出た。
「さようで」と伊集院おちついている。「福島で一度、御岳で一度、三丁目で一度、今夜で四度、随分度々お目にかかりますなあ」
「そうさ」と宗三郎また一歩。「片をつけてもいいころだ」「さようで」とやはりおちついている。「片をつけてもよい頃で。で、片つけにめえりやした」
「そうか、よかろう、武士らしくやれ! 以前のように逃げるなよ」
「場合によっては逃げもするさ」伊集院いよいよおちつき払い、「が、それ前に山影氏、云ってお聞かせすることがある。何んと思われるな、あの火事を!」
云われて宗三郎空を見た。どうやら大火となったらしい。南の方角真紅を呈し、この辺までも明るんで見える。
「蝮酒屋が燃えてるのさ」愉快そうに伊集院まくし立てた。「焼き討ちしたのだ、我々がな! 海から上がった我々がな! 浜絡もお仙も今頃は、火中でコンガリ焼かれていよう! うんにゃ、少し違う、そっちへ向かった我々の手で、捕虜、捕虜、捕虜! 捕虜にされていよう! さてもう一つ、胆の潰れる話! この裏門にいるという、浜路の父の萩原仁右衛門、こいつも恐らく今頃は。そっちへ向かった我々の手で、捕虜、捕虜、捕虜! 捕虜にされていよう! ……これ、これ、これ!」と伊集院、今度は味方へ云い含めた。「な、随分山影氏は、円明流では腕利きだ、三丁目の戦いでも解っているはず。それを何んぞやオッチョコチョイめが、討ち取ろうなどと出娑婆って、ヒョコヒョコ三人出たものだから、二人がところやられてしまった。で貴殿方に云って置く、いけないいけない、一騎駈けはな! 数で行こう、衆で行こう! ええとそれからもう一つ、殺してはいけない、とらまえるのだ! もっとも、チョイチョイ斬るはいい! 急所を外してチョイチョイとな!」突然伊集院刀を上げた。「もうよかろう! 出たり出たり!」
声に応じて宗三郎の背後、やっぱり木立が茂っていたが、そこからまたも十数人の人影、半円を作って現われた。同じく武士、同じく抜刀、数間の先で立ち止まってしまった。
こうして完全に宗三郎、伊集院の姦計に引っかかり、グルリ包囲されてしまったのである。
「いかがでござんす山影氏、これでは手も足も出ますまいがな⁉」
伊集院の姦計に引っかけられ、包囲を受けた山影宗三郎、いわゆる進退きわまって、縮むようにしばらく佇んだが、「蝮酒屋が焼き討ちされ、浜路殿にもお仙にも、捕らえられたとあってみれば、もうどうにも仕方がない。仁右衛門殿も捕虜にされたといえば、いよいよ覚悟を決めなければならない。切って切って切り死んでやろう。……いやいや待てよ、そうは云っても、一切合切伊集院の言葉、あるいは出鱈目の策略かもしれない。……うむそうだ、破れるものなら、一方の血路を蹴破って、ともかく行ってみよう、蝮酒屋へ! いよいよとなったら死ぬまでさ!」
死に身の勇気、男らしく、臍を定めるとビクツカない。スルリと小刀引き抜くと、鳥が翼を張ったように、ウンと左右へ両刀を張り、ただ一心前方を睨み、蟹の横這いに則った、当流での肱衫の歩み、木立があれば木立を背、石垣があれば石垣を背、ひたすら背後へ廻られぬよう、心に掛けて横走った。
驚いたのは伊集院だ。「ほほうなるほど考えたな、円明流の兵法には、ああいう歩き方もあるものと見える。うっかりすると逃げられるぞ」そこで下知したものである。「あいや方々おかかりなされ! 一騎駈け、二騎駈け、結構でござる! 何んでもよろしい、討って取りなされ! 取り逃がしては一大事、乱刃に取り込め、仕止めろ! 仕止めろ!」
声に応じて左右から、ムラムラと数人寄せて来た。が、背後へ廻られぬ以上、左右と前方、この三通り、三方から斬り入るより仕方がない。互いの打ち物が邪魔になり、しかもめったに同時にはかかれぬ。寄せては見たが数人の武士、声を掛け合うばかりである。いわんや宗三郎今は必死、自と殺気全身より昇り、身近く敵を寄せ付けない。構えた太刀先漣のように、上下へシタシタと揺れるのが、凄さを二倍にし三倍にする。依然横走りに走って行く。大手の門から町の方へ、間もなく十数間横走った。
自信家と見える、敵の一人、その時前から斬り込んで来た。
ピューッと右剣! 斬ったのではない、ぶん撲ったというやつだ、山影宗三郎太刀を飛ばせた。勝負は簡単、まず悲鳴、グルリと体を反らせると、自信家め左へぶっ仆れた。見やりもせずに宗三郎、心眼で解る、身を捻るや、小刀を引いてグット大刀、左へ向かって突き出した。果然悲鳴の起こったのは、宗三郎が一人を切り、体の構えの変ったところを、早くも狙って敵の一人、拝み討ちに討とうと飛び込んで来て、自分勝手に自分の力で、自分の胸を突かせたのである。
仆れる奴をそのままに、こいつも感覚、宗三郎、身を翻えすと右に向け、長目に太刀を振り下ろした。とまた悲鳴、全く同じだ、宗三郎が二人を切り、体の固めの崩れたのを、狙い澄ました敵の一人、右手から掬って切ろうとし、寄ったところをスッポリと、頭の鉢を割られたのである。
呼吸も吐かせぬ三番切り! しかも宗三郎疲労もせず、同じように左右へ太刀を張り、同じように一心前方を睨み、宙へ躍るような横歩き、町の方へ、町の方へ、町の方へ!
が、しまった、木立が切れた! 石垣もない、行く手は空地! 一旦そこへ出たが最後、敵に背後へ廻られるだろう! 「どうしたものか!」と足を止めた時、伊集院五郎進み出た。
前へ進み出た伊集院五郎、さも憎さげに嘲けり出した。
「働きましたな、山影氏、見事なもので、しめて五人、さも華やかに退治ましたな。が、いよいよ土壇場へ来た。行手は空地、出たが最後、今度こそ引っ包んで討って取る。前後左右から膾に切る。それとも後へお帰りになるか? それもよかろう、お帰りなされ! また追っかけて行くばかりさ! つまり鬼ごっこというやつで。そのうち貴殿もお疲労れになろう、そこを待ち受け取って押さえる。ただしもちろん一人や二人は、貴殿においても討ち取られるであろう。殺生の数が増すばかりさ! 結局は我々の手中へ落ちる。ジタバタするのが損というもの、それとも妙策がござるかな? 難関立派に切り抜けられたらそれこそ偉い! が、絶対に駄目でござろう。……さあ方々遠巻きにして、しばらく休息なさるがよい!」
云われて太郎丸の部下の者、少しく後へ退いた。
「が、それにしても遅いなあ」呟きながら伊集院、南の方角へ眼をやった。何かを待っているらしい。その南の空は赤く、いよいよその色を加えて来た。蝮酒屋から飛び火して、七ツ寺界隈一円に、どうやら火事が拡がったらしい。
山影宗三郎構えたまま、グルグル胸の中で思案した。「後へは帰れぬ、同じことになる! 先へも行けぬ、取り込められる! と云ってここで居縮んでもいられぬ! どうしたものだ! どうしたものだ! ……だんだん火事が大きくなる! 浜路殿やお仙はどうしたろう! おおそうして仁右衛門殿は? ……」グルグル考えが渦を巻く。「どっちみちこうしてはいられない! つき進むより仕方がない!」
サーッと山影宗三郎、空地の方へ走り出した。
「それ方々!」と伊集院、「引っ包んで討て! 取り込めろ!」
グルグルグルと引っ包んだ。
「待て待て!」とにわかに伊集院、後へ引きながら声をかけた。「もう大丈夫! すててお置きなされ!」
その時火光を背景にして、一団の人数が丸く塊まり、空地をこちらへ走って来た。
「伊集院さん、遅くなったよ!」
そこから女の声がした。烏組の副将お竹である。
山影宗三郎の前二間、その辺まで来るとその一団、不意に止まって左右へ開いた。真ん中に置かれたはトヤ駕籠である。
「宗三郎さん、さあおはいり!」
お竹の声が響き渡った。つづいて駕籠の戸の開く音がした。
(これで勝負は片付いた)宗三郎の体毱のように、駕籠の中へ飛び込んでしまったのである。
駕籠の戸が閉ざされ駕籠が上がり、舁ぎ出されようとしたそのおりから、もう一挺のトヤ駕籠が、大勢の者に守られて、城を巡って現われた。
「うまく行ったか?」と伊集院。
「萩原仁右衛門、取って押さえました」その一団から声がした。
「さあそれでは急いで海へ!」
二挺のトヤ駕籠を真ん丸に包み、伊集院の一団走り出したが、この頃七ツ寺の火事場を遁がれ、浅間の社地の方角へ、走って行く三人の女があった。八重梅と浜路とお仙である。
七ツ寺の火事を後にして、八重梅、浜路、お仙の三人、浅間の社地の方へ走って行く。
どうして走って行くのだろう?
突然の火事、それに続いて、「山影宗三郎様、浅間の社地で、太郎丸の手の者に取り巻かれている! あぶないあぶない!」という声がした。
それを耳にして浜路とお仙、火事も心配ではあったけれど、それより一層宗三郎の、身の上の方が案じられた。「どうしよう!」と顛動したそこを目掛け、荻野八重梅すすめたのである。
「ご案内しましょう、浅間の社地へ! こっちでございます、こっちでございます!」
そこで浜路も組紐のお仙も、夢中で駈け出して来たのであった。
蝮酒屋の突然の火事も、宗三郎あぶないという声も、島津太郎丸の手の者の、みんな姦策だということや、病気で転げ込んだ門附けが、島津太郎丸の女間者、荻野八重梅だということなど、浜路にもお仙にも解る筈がない。火事の起こったのは粗相であろうし、本当に山影宗三郎様は、浅間の社地で太郎丸の徒党に、取り囲まれているに相違ないと、確く信じているのであった。
まして浅間のその社地に、烏組の連中がトヤ駕籠を備え、待ち受けていようというようなことは、想像することさえ出来なかった。
「早く早く浅間の社地へ! どうぞ山影宗三郎様、ご無事でおいでくださるよう!」こう念じながら走るのであった。
火事場へ行く者、火事場から逃げる者、往来は人間で埋ずまっている。罵る声、叫ぶ声、叱咜する声、悲鳴泣き声! 往来は声で埋ずまっている。掻き分け掻き分けひた走った。今日の地理で云うときは、別院の東側を南へ向け、七丁目から八丁目を過ぎ、橘町から東へ曲がり、真っ直ぐに行けば梅川町! さすがにこの辺まで来た時は、天こそカ──ッと赤かったが、人影はまばら、灯影もまばら、これまでが恐ろしい雑沓だったため、物寂しくさえも思われた。
と、黒々と木立が見えた。
「あれあそこが浅間様! もう一息でございます! さあさあおいでなさいませ!」
八重梅先に立って急がせた。
「急ぎましょう、お仙様!」
「急ぎましょう、浜路様!」
声を掛け合ってひた走る。
いよいよ行きついた浅間の社地! 見廻したが何んの人気もない。木立がすくすくと立っている。常夜燈の灯がまたたいている。奥に古びた社殿がある。ただそれだけだ、森閑としている。
ぼんやり突っ立った浜路とお仙、顔を見合わせたものである。
「誰もいない! 人ッ子一人も! いったいどうしたのでございましょう」こう云ったのは浜路である。不安で声が顫えている。
「それではもしや山影様は、島津太郎丸一味の者に、連れて行かれたのではございますまいか?」こう云ったのは組紐のお仙、恐怖で声が顫えている。
浜路フッと気が付いた。「姿が見えない、門附け衆の?」
「おや」とお仙も気が付いた。
「どこへ行ったのでございましょう?」
いかさまこの時、八重梅の姿、どこへ行ったものか見えなかった。変だな! と二人思った時、木蔭から人影が現われた。黒装束で十二、三人!
木蔭から現われた十二、三人の人影、タラタラと並んだものである。
ヒョイと一人が前へ出た。
「これは浜路さんにお仙さん、随分久しく逢いませんでしたねえ」
常夜燈の光に照らされて、烏組のお紋だとすぐ解った。
「あい妾さ、烏組のお紋さ」お紋愉快そうに喋舌り出した。「でもご縁があったと見え、お目にかかることが出来ましたねえ。と云うよりもこう云った方がいい。島津のご前太郎丸様、別嬪の浜路様にご用があり、妾達が迎いに参ったとね? もう駄目だよ、往生おしよ。ジタバタしたって仕甲斐はない。……それから組紐のお仙さんだが、これは別段太郎丸様が、ご用というのでもないのだがね、だがお前さんも美しい、浜路さんとはうっつかっつさ。で、ご前がご覧になったら、ご用があるようになるかもしれない。よしんばご用はないにしても、妾達にとっちゃア敵の一人、一緒にさらって行くつもりさ。……おおそうそう、そうだったっけ、太郎丸様より伊集院さんの方が、お仙さんには用があった筈だ。これまでも時々伊集院さんから、お前さんの惚気を聞かされたものさ。その伊集院五郎さんは、妾達にとっちゃア仲間だからね、お前さんを攫って行こうものなら、どんなに喜ぶか知れやしない! オイ!」と云うと憎くさ気に、「いっそ何も彼も話して上げよう。その方が胸に落ちそうだからね。……と云うのは他でもない、蝮酒屋を焼いたのも、山影さんというお侍、浅間の社地でグルグルと、太郎丸一味に囲まれたと、火事の最中怒鳴ったのも、妾達の仕事だということさ! つまりお前さん二人の者を、ここまで連れ出そうためだったのさ。……ああまだあるよ、驚くことがね。と云うのも他ではない、山影というお侍さんも、浜路さんのお父さんの仁右衛門さんも、そうだねえ、間違いなく、お城の表門と裏門の辺で、もう今頃は伊集院さんや、妾達烏組の連中に、つかまっただろうということさ! とここまでさらけ出したら、大概観念するだろうねえ。チョロッカにやっつけた仕事じゃアないよ! 水も洩らさず計った仕事さ! どんなことがあったって遁がしっこはないよ! ……妾達の住居は海の上、幾隻か浮かんでいる大船さ。そこへお供をするだけさ! 用意はよいかね、つかまえるよ!」
こいつを聞いた浜路とお仙、仰天したが追っ付かなかった。しかし二人ながら気丈者だ、取り乱そうとはしなかった。
ピカリ気付いたことがある。
「それじゃア何んだね……」組紐のお仙、怒りの声を筒抜かせた。「にわかに差し込み痛い痛い……などと、憐れっぽく持ちかけて、蝮酒屋へ転がり込んだ、あの女の門附けも、やっぱりお前達の仲間だったんだね?」
「そうさ」とお紋面白そうに、「仲間も仲間、立派な仲間さ」背後を振り返ると声をかけた。「太夫さんへ、太夫さんへ、何もはにかむ事アないよ。出て来て正体をおさらしよ」
「そうだねえ」と云いながら、木蔭から出たのは荻野八重梅、含み綿を取り痣を拭き、膏薬をひっぺがした立派な顔を、常夜燈の灯影へ突き出したが、
「浜路さんにお仙さん、何んとも申し訳ございませんねえ」
まずこう云ったものである。決して揶揄的の調子ではなく、心から恥じたような調子であった。
心から恥じたような口調をもって、荻野八重梅云い出した。
「ええ浜路さんにお仙さん、ほんとに申し訳ありませんねえ」もう一度繰り返したものである。
「さっきはご親切にあずかりました。心からお礼を申しますよ。妾の身分は女役者、笠屋一座の荻野八重梅、だがもう一枚ひっ剥げば、太郎丸のご前の女間者、そこでお二人を連れ出すため贋病気の差し込みで、お察しの通り蝮酒屋へ、転げ込みましてございますよ。そうしてその上、浜路さんの、柔順なお心に付け込んで、いろいろのことを聞き出したあげく、烏組のお紋さんへ耳打ちし、仁右衛門さんやら山影さんやら、そうしてあなた方お二人までも、網に引っかける仲立ちを、確かに致しましてございますよ。……云わば恩義を仇で返した。厭な女ではございますが元から計ってやった事、主命をとげたという点では、忠義者かも知れませんねえ」寂しく笑ったものである。「そうは云っても妾としては決していい気持ちは致しませんよ。あなた方お二人が悪党なら、セセラ笑ってもやりますが、お二人ながら綺麗なお心! 浜路さんには厚い人情、お仙さんには立派な侠気、そいつがおありなさるので、そいつを利用したこの妾が、自分ながら穢く見えましてねえ、厭で、厭で、厭で、厭で! ……でももうこうなっては仕方がない、どんなにでも妾をお怨みになり、憎んで憎んでお憎みになり、そうしてどうぞ観念して、行く所へ行ってくださいまし。……妾ア何んだか心細くなった。こんな心の起こったのは、後にも先にもありゃアしない。悪党女の心の中へ、懺悔の心が湧いた日にゃア、先はおおかた見えている。まずろくなことはありますまいよ」またも寂しく笑ったが、お紋の方へ眼をやった。「ねえ、お紋さん、お願いだよ、早く妾の眼の前から、お二人さんを消しておくれよ、見ているのが妾にゃアたまらないよ」
烏組のお紋笑い出してしまった。
「おやおや、おやおや、偉いことになった! ひどく菩提心を起こしたものねえ。ヤキが廻ったと申そうか、箍が弛んだと申そうか、変にボヤけてしまったじゃアないか! 八重梅太夫とも云われないねえ。ほんとにそんな塩梅なら、弱気に付け込む貧乏神で、今もお前さんが云った通り、先々ろくなこたアなさそうだねえ。しっかりおしよ、人事じゃアない、妾までが心細くなるじゃアないか! さて!」と云うと烏組のお紋、浜路お仙へ眼をやった。「これでお解りでござんしょうね、四方八方へ網を張り、計りに計った妾達の巧み! だからジタバタなさらずに、穏しくお捕られなさいまし……オイ!」と云うと方向を変え、木立の方へ手を上げた。「さあさあ捕っておしまいよ!」
声に応じて現われたのは、真っ黒に塗られた二挺のトヤ駕籠、ドンと地上へ置かれると、ガラッと扉がひらかれた。争う暇も何んにもない。スーッとばかりに浜路とお仙、トヤ駕籠の中へ吸い込まれた。「さあおやりよ、急いで海へ!」叫んだは烏組のお紋である。ポンと上がった駕籠二挺、そいつを真ん丸に引っ包み、烏組の連中走って行く。空は真っ赤だ、火事は盛ん! それの下辺を黒々と、駕籠も人影も見えなくなった。後に残ったは荻野八重梅。「何んだか後口が悪いねえ」呟いてしょんぼり佇んだ時、一個の人影が亡霊のように、フラフラとこっちへ彷徨って来た。
「おや」と八重梅驚いたらしい、常夜燈の蔭へ身を隠したが、現われたのは阪東薪十郎。
フラフラとやって来た阪東薪十郎、杖を突っ張ると佇んだ。
「火事だというが俺にゃア見えねえ」
それでも空を振り仰いだ。
「七ツ寺だということだが、昔の俺なら大好きな火事、何を措いても飛んで行き、弥次馬根性をさらけ出すんだがなあ。眼が見えなくちゃア仕方がねえ」ここでグッタリ、頸垂れた。「こいつもみんなあいつのためだ! 逢って怨みを晴らしてえなあ」ピョコリとここで首を上げた。「待てよ、こいつ、飛んだことになったぞ! 盲目、盲目、俺は盲目だ! とすると何んにも見る事ア出来ねえ。たとえ八重梅と擦れ違っても、それと感付くことも出来ねえ。ううむ、こいつ、困ったなあ」
またションボリと首を垂れた。
上からは火事の真っ赤の光、横からは常夜燈の蒼白い光、そいつに照らされた薪十郎の姿、胸が窪んで肩が落ち、腰から下に力がなく、痩せ細ってまるで亡霊である。
「ナーニ」というと意気込んだ。「肉眼はなくとも心眼がある! 怨みの青火だって燃えている、探さないで置くか! こいつで照らし!」
そこでコツコツと歩き出した。社殿の方へ歩いて行く。
と、この時町の方から、またも一つの人影が、フラフラと社地へはいって来た。何んと志水幹之介ではないか! 懐中手をして首を垂れ、ここを歩いてはいるけれど、思いは遠い彼方にある──と云ったように歩いて来る。空を見ようともしなかった。四方を見ようともしなかった。足もとばかりを見詰めている。社殿の方へ歩いて行く。彷徨って行くと云った方がいい。
社殿の前まで行った時である、幹之介無心に顔を上げた。縁に何者かうずくまっている。隙かして見たが声をかけた。
「そち、今朝方の盲人ではないか?」
首を突き出したが薪十郎、「お声でわかる、あなた様は、今朝方のお侍様でございますね」
「そうだよ」と云うと幹之介、並んで縁へ腰かけたが、そうやって二人の並んだ様子、今朝方とそっくり同じである。
「盲人、盲人、何んと思って、また浅間の社地へ来たな?」
「はい」と云ったが薪十郎、クックックッと笑い出した。「何んと思ってお侍様には、浅間の社地へ参りましたかな?」
「ああそれか、何んでもないよ、俺にとっては思い出の社地、それであくがれてやって来たのさ」
「私もおんなじでございますよ、怨みの土地の浅間で。それで迷ってやって来ました」
「それに俺には」と幹之介、さも寂しそうに云い出した。「他に行き場所がないからなあ。これから毎日来るつもりだ」
「私にも行き場所はございません。毎日来るつもりでございます」
「人間いったん落ち目になると、扱かわれるなあ、冷っこく」
「ヘーイ、それじャ、旦那様も」薪十郎幾度か頷いたが、「冷とうござんす、浮世はねえ。……昔の馴染も顔をそむけ、犬か猫のように追っ払いますよ」
「一層悪いよ、俺の方は」幹之介胸へ腕を組んだ。「実家はもちろん同僚の家の、門さえ跨ぐことが出来ないのだ。お城下にいるということさえ、知らせてはならない身の上なのだ」
「そいつもみんな女のためで?」
「うん」と幹之介頷いた。
「それに致しても、その女、どんな身分でございましたかな?」阪東薪十郎訊いたものである。
「それに致しても、その女、どんな身分でございましたかな?」こう薪十郎にたずねられ、志水幹之介黙ってしまった。云おうかそれとも云うまいか? ちょっと思案に暮れたのである。
「市井の女だよ、身分といえばな」幹之介簡単にこう云ったが、「お前の女は何者かな?」
「へい」と薪十郎口惜しそうに「同商売の女でございましたよ」
「ああそうか、同商売。……とするとやっぱり門附けかな?」
「なんの旦那様、門附けは、近頃の商売でございますよ」
「ああそうか、それはそれは。で、昔の商売は?」
「これでも役者でございました」
「役者?」と訊き返したが幹之介、にわかに注意を傾げ出した。「いい商売だ、役者は、派手で華やかで賑やかで」
「へい、さようでございます。人気さえあればいい商売、そうしてあっしにもいささかながら、人気もあったものでございますよ」
「で、この土地の役者かな?」
「橘町の小屋にいました」
「何、橘町? ふうむ、そうか。……俺の女も橘町にいたよ」
「花魁衆でございましたかな?」
「いいや」と云ったが暗然とした。「お前と同じような役者だった」
「へーい、それじゃア女役者で?」薪十郎ヌッと首を抜いた。
「ああそうだよ」と幹之介、「芸も達者、美人でもあった」
「橘町の女役者?」延ばした首を引っ込めたが、阪東薪十郎考え込んだ。「玉川千玉、斎木小竹、和泉歌女寿、藤田芝女、橘町にも女役者随分沢山集まっているが、さーてね、いったいこのお侍さん、どいつの凄腕に引っかかったものか?」そこで歯を見せて笑ったものである。「お気の毒さまでございますなあ、誰彼と云わず女役者、ろくな人間はおりませんよ」
「俺にはそうは思われないよ。その女は大変親切だった」
「へーい、親切? これはこれは、親切のあげくに手を切られたんで?」嘲笑うような調子である。
「それがな」と幹之介手頼りなさそうに、「事の起こりは行き違いからさ。……と俺には思われるのだよ」
「それは結構でございます」薪十郎いよいよ歯を見せたが、「万事万端物事は、なるだけよい方へよい方へと、お考えなさる方がよいようで。が、それにしても旦那様へ、どうしてお別れなすったので」
「云ったではないか、行き違いだとな」
「いろいろございますよ、行き違いにもな。わっしがこの眼を潰されたのも、行き違いと云えば云えますので。ナーニこいつは思い違いだ。大丈夫だな! 手にはいる! そこで気強に口説いた果てが、こんな始末になったんで。そのくせわっしアその女と、名古屋を立って東海道、江戸まで駈け落ちしようとね、話が出来かかっていたんでさあ」
「ううむ」と云った幹之介、一層注意を傾けた。「似ているなあ、そっくりだ。俺もその女と名古屋を売り、江戸へ行こうとしたものさ」
「へーい、さようで、こいつア面妖だ! で、お前さんの女の名は?」阪東薪十郎探り出した。
「笠屋一座の荻野八重梅!」
「おお!」と喚くと薪十郎、杖を抱い込んで突っ立った。「それじゃア手前は幹之介だな?」
「それじゃア手前は幹之介だな?」喚いて突っ立った阪東薪十郎、盲人の執念、ヒョロヒョロと進むと、グ──ッと杖を振り上げた。「これ!」と云ったが嗄れた声だ。「俺ア阪東薪十郎、笠屋仙之一座の役者、三枚目の端敵どこ、安い給金の大部屋だが、こればかりは別だ、思い込み、口説いたは立て者の荻野八重梅! ポンと蹴られたそのあげく、両眼潰されて俄盲人、尽きねえ怨みを晴らそうと、後を追っかけ探しているものだ! こいつの起こりも手前から、これこれ志水幹之介、わりゃアよくも八重梅と、腹を合わせて巧らんだな! お手もと金と眠剤と、ズラかろうという巧らみをよ! 立ち聞きしたんだ、武蔵野でな! ここまで云やア解るだろう、後を追っかけこの社地で、八重梅口説にかかったのさ! そのドン詰まりが今も云った、俄盲人のこの身の上! ……手前さえなかったらあの八重梅、こっちへ靡いて来た筈だ! 片輪にされた怨みから、恋を横取られた怨みから、二重三重に憎い手前、逢ったからにゃア遁がさねえ。侍だろうと怖いものか、よかろう、犬嚇し、抜いてかかれ、俺ア杖だ、負けるものか! どうだどうだア!」
と盲人ながら、思い詰めては物凄く、ピューと杖を振り込んで来た。
仰天したのは幹之介、飛び上がると横へ引っかわした。
「ははあそうか」と云ったものである。「それでは貴様が怨みをこめ、さがしていたのは八重梅か! そう聞いては捨て置かれぬ。逢ったが最後殺すとあっては、八重梅にとっては物騒な奴、俺にとっても邪魔な下衆、そっちで逃げようと焦せっても、こうなればこっちで許さない。息の根止めるぞ、殺生ながら!」刀の鯉口くつろげたが、どうやら不愍になったらしい。二、三間引き退くと訓すように、「これ盲人、薪十郎!」穏かな調子で声をかけた。「俺はな、武士だ、両眼も明るい。汝のごときを討って取るは、赤児を捻るより尚容易い。引き抜いて払えば形がつく。お前が眼開きで侍なら、用捨はしない、切っても捨てよう。が、お前の身分ではなア」
引き足をして窺った。それからさらに云い継いだ。
「立ち去れ立ち去れ、許してやろう。思い切るがいい、八重梅をな! そうして安穏に世を渡れ、後生を願って、真面目にな。……それに」と云うと寂しそうに、「考えて見れば不思議な縁だ。一人の女に恋い焦がれ、二人ながら女をなくしたのだ。それとも知らず今朝方から、仲よく二人で話したではないか。親しみをさえ感じたものだ。どうも俺にはお前が切れない。俺も立ち去る、お前も行け! そうして」と云うと、暗然とした。「お前も探せよ、止むを得ない。俺も探すよ、八重梅をな。どっちが早く目付けるか、自然の成り行きに任せよう。これ以外には道はない。何んと思うな、阪東薪十郎?」
「駄目の皮だア」と罵った。「これ臆れたか、志水幹之介! 俺ア乗らねえ俺ア乗らねえ! 乗ってたまるか、そんな手に! どうでも殺める敵の片割れ! 逃がさねえぞよ、逃がさねえぞよ! どこだどこだ、どこにいやアがる!」
またもや杖を振り込んだ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと寄って来る。
「これは駄目だ」と幹之介、決心して刀を引き抜いた。「ああこの執念、醒める期はあるまい。いっそ後腹の病めぬよう」
でスルスルと寄って行った。
いっそ後腹の病めぬよう、叩っ切ろうと幹之介、薪十郎の側へ寄って行った。
俄盲目で薪十郎、鈍感ではあったが必死の場合、精神が張り切っているためか、早くも察して喚き立てた。
「抜いたな抜いたな、よく抜いた。……解る解る。側へ来たな! ……切れ切れ切れたら切れ! ……何んの汝に……切られるものか!」
武道は知らない、しかしながら、舞台では無数に人を切った。歌舞伎の真似が自らに、打ち物の骨法を教えたらしい、ピューッとばかり振り上げた杖で、幹之介の肩へ打ってかかった。真剣の気合い、命懸け、その鋭さ、刃物よりも凄い。
ギョッとした志水幹之介、撲たれようとして飛び退いた。
と、何んと薪十郎、あたかも眼のある人間のように、飛び退いた幹之介を杖の面前へ、シタシタシタシタと詰めて行く。
「驚いたなあ」と幹之介、今はすっかり懸命となり、敵を討とうより身の護りに、ピッタリ太刀を中段に付け、息を殺して睨み付けた。
と、薪十郎喚き出した。
「解る解る、どこにいるか解る! 逃がすものか! 逃がすものか! ……黙っていようと喋舌ろうと、よしんば足音を立てずとも、心眼で解らあ心眼でな! ……そこだそこだア、そこにいらあ! 野郎!」
と云うとのしかかる態に、身長高々と爪先で立ち、杖をまたもや打ち下ろして来た。
辛くもひっ外した幹之介、今は怒りに用捨なく、「観念しろ」
と飛びかかった。目差したは左肩、ザングリ一刀、切り付けたとばかり思ったところ、どうして反せたか薪十郎、
「駄目だア」とばかりピョイと反せ、幹之介のよろめく足の辺り、これも感覚、両手の諸薙ぎ、杖を揮ってひっ叩いた。
「アッ」と声を上げたのは、高股を打たれた幹之介で、グタグタと地上へへたばった。
「ク、くたばれーッ」と薪十郎、気勢に乗って拝み打ち、シ──ンと真っ向から打ち下ろした。
が、そうそうは狙いが取れない、打ち外した杖で大地を叩き、痲痺が腕へ伝わったか、ボロリと杖を落としてしまった。
「いけねえ」
と周章てて腰をかがめ、拾おうとしたが間に合わなかった。へたばったままの横手払い、幹之介の払った太刀が極まり、右胴を深く割り付けられた。
「キ、切ったなアーッ」と悲鳴したが、傷口を抑えて薪十郎、ヌ──ッと横仆しに転がった。「キ切ったなアーッ、切ったなアーッ」
血が流れ出る流れ出る!
「キ、切ったなアーッ」と呻き声。次第次第に細って行く。顫える全身、致死期の痙攣、「キ、切ったなアーッ」とまた喚く。
ヒョロヒョロと立ち上がった幹之介、片手で痛み所を抑えたが、片手でダラリと太刀を下げ、放心したような据えた眼で、茫然と薪十郎を眺めやった。刀身を伝わって切っ先から、タラリと血潮一滴! つづいてタラタラと滴った。
空は紅! 火事の火だ! そいつが上から照らしている。横から射しているは常夜燈、青々として他界的だ! その中に立った幹之介、幽鬼のような姿である。と、何者か彼の刀を、静かに持ち上げるものがある。幹之介ズ──ッと眼をやった。一人の女が蹲り、懐紙で血糊を拭っている。「八重梅!」「幹様!」──逢ったのである。
逢った二人、八重梅と幹之介、顔を見合わせたものである。
キュ──ッと八重梅刀をしごいた、懐紙が真っ赤だ。血糊である。ポンと捨てると俯向いた。幹之介立って見下ろしている。ダラリと刀を下げている。はじめて人を切った刀である。ブルブルと切っ先の顫えていることは!
「きゃつを殺した! 薪十郎を!」
「常夜燈の蔭で見ていました」
「お前を殺そうとした奴だ」
「立ち聞きいたしましてございます」
「俺はな、俺はな、人を殺したのだ!」憑かれたような声である。依然佇んで見下ろしている。どうやら放心しているらしい。
「あなたは殺人をなさいました。それもみんな妾のために」地に坐ったまま荻野八重梅、眼を幹之介の顔へ注いだ。肩を縮め、膝を縮め、彫像のように動かない。
と、幹之介歩き出した。とりとまりのない歩き方である。
「どこへ?」というと荻野八重梅、袖を捉えたものである。
「うむ」と云ったが幹之介、しばらくじっと考え込んだ。「どこへ行こう? ……ああどこへ? ……自首だ!」と喚くとまたフラフラ、町の方へ向かってよろめき出した。とまた不意に立ち止まった。「俺はいったい誰なんだ? ……俺はいったいどうしたんだ? ああそうしてここはどこだ?」眼を垂れて、茫然と八重梅を見た。「お前は八重梅! ……八重梅だな!」
「幹様!」というと荻野八重梅、両手を延ばすと確りと、幹之介の両足を抱きしめた。「あなたを騙した荻野八重梅! 悪い女でございます」
「ああやっぱり八重梅か」
「憎い女でございます。どうぞお憎みくださいまし」
「何んのお前が悪人なものか! 私は信じる! 信じているよ。だが」というと首を捻って、
「どうしてあの晩来なかったのだ? え、この社地へ、浅間の社地へ?」
「来られなかったのでございます。いえいえ正直に申します。来る気がなかったのでございます。初から、あなたを騙しておりました」
「私は一晩中待っていたよ」
「可哀そうな幹様! 可哀そうな」
「八重梅!」とまたも放心的に、「お前はとんでもない間違いをしたよ。あれは眠剤ではなかったそうだ。恐ろしい毒薬、砒素だったそうだ」
「はい」と云うと凄く笑った。「初から解っておりました」
「とうとう私はやりそこなったよ。薬草道人に見現わされてな。……そうして私は浪人したよ」
「妾の罪でございます。一切合切、何も彼も……」
幹之介うっとりと前方を見た。「どんなにお前を探したことか! お前もやっぱり探したろうなあ」
八重梅返辞をしなかった。
「笠屋仙之の小屋へも行った。だがお前はいなかった。一軒一軒覗いて見た、このお城下を彷徨ってな。だがお前はいなかった。私には解る、お前は探した! 私がお前を探したように!」
その時八重梅力をこめ、幹之介の両足を抱き締めた。ヨロヨロとなった幹之介、刀を落とすとくず折れたが、それを抱えた八重梅の眼から涙が流れたものである。
「何んの幹様、この妾が、あなたをお探し致しましょう。逃げ隠れしておりましたよ」八重梅の口から叫ばれたのは、まずこういう声であった。
「今こそ懺悔、何も彼も、お話しすることに致します」抱きしめた手を一層締め、幹之介の躯を揺すぶったのは、よく聞けというためなのであろう。「何より先に申し上げたいのは、妾の身分でございます。女役者ではありますが、その実名古屋の殿様には、敵にあたる島津太郎丸、その方の隠密でございました。そうして妾の役目というのは、宗春様を騙かって、毒殺することでございました。あなたと馴染を重ねたのも、みんなそのためでございました。つまりあなたの手を通し、宗春様に毒薬を進め、弑逆いたそうと致しましたので、あの時お渡ししたあの薬、眠剤でなくてまさしく砒石! 事が破れてあなた様がご浪人なすったと知った時、いやアな気持ちが致しました。今日の明け方この社地で、社殿の縁に腰をかけ、盲人の阪東薪十郎と、妾の噂をなされた時にも、その常夜燈の蔭にかくれ、立ち聞き致しましてございます。やっぱりいやアな気持ちがし、あなたに対してはお気の毒、妾自身に対しては、空恐ろしくなりました。たった今し方、あなた様が、あの薪十郎を手にかけて、お殺しなすったご様子を見、もういけないと観念し、立ち現われましてございます。幹様……」と云うとさらに強く、抱いている手を引きしめた。「でももうよいのでございます。妾の体も今は自由、と云うのは島津太郎丸様へ、やっと妾の隠密としての役目を果たして義理を立て、そうして島津太郎丸様には、海上を船で本国へ、お帰りなすったからでございます」ここまで云って荻野八重梅、暗然と南方を眺めやった。それから呟やいたものである。「あのお仙様や浜路様にも、妾は憎まれているだろうねえ」キューッとまたも抱きしめた。「幹様!」と云うとピッタリと、頬と頬とをおっ付けた。武蔵野茶屋でのお約束、二人で遠くへ他国する! 通し駕籠で江戸へ行く! それが出来るのでございます! もうもう誰にも煩わされず、二人っきりで暮らせます! ……あなたは人殺しをなさいました。妾も悪事を致しました。このお城下にはおられません。二人ながら同じ兇状持ち! 手をつないで悪人同志、よい暮らしを致しましょう! 懺悔の生活を! ねえ幹様! それとも」と云うと手を放した。「妾の身分と巧らみとを、お聞きになってあなた様が、妾に愛相をお尽かしなら、それも夢、これも夢、一切夢と見限って、綺麗にお別れしましょうよネー」はじめて、この時幹之介、ムックリ顔を上げたものである。
と、ヌッと突っ立った。拾って握った血だらけの刀、ダラリと下げると睨み下ろした。
「八重梅!」と呻いた声の凄さ。「巧らみもいい! 身分もいい! 許されないのは、最後の言葉、愛相が尽きたら一切夢、見限って綺麗に別れよう! ……うむ、八重梅、こう云ったな?」
血刀をピリピリと動かした。
「俺のこの恋、そう見えるか!」
血刀をピリピリ動かした。
「見えるか! 見えるか! そう見えるか!」
そろそろと血刀を上へ上げた。火事の光と常夜燈の光、ぶっつかってギラギラ反射する。
「この期になっても、おのれ女、見究わめ付かぬか、男の恋が!」
次第に刀を上へあげる。
「裏切る心が、……隙いて見えるわ!」
「裏切る心が隙いて見えるわ」
もう一度云うと幹之介、いよいよ血刀を振り上げたが、
「これ!」と云うとヌッと進んだ。「俺はな、以前は疑がった! うむ、お前の心持ちを! ……が、浪人をしてからは、一度も疑がったことはない! 疑がいの心の起こるような、隙のある恋をしなかったからだ! どうでもお前を目付けよう、目付け出したら一緒に住む。一心同体二人で活きる。お前も俺を目付けていよう、もうもうこれには間違いはない。眠剤が砒石の大毒とは、お前も知らなかったに相違ない。俺と一緒に手を取って、他国をしよう一心から、勿体ないがお手もと金、奪わせようとしたのだろう。もうもうこれには間違いはない。さて俺だが浪人をして、お前の行衛をさがしても、どこへ行ったか解らない。不思議とは思ったが疑がわなかった。訳あって小屋から身を隠し、こっそりどこかに住んでいて、俺が恋しているように、お前も恋しているのだろう。可愛い可愛い荻野八重梅、ひょっとかすると俺を進め、お手もと金を盗ませようと、巧らんだ事が露見して、人気の芸人の身分から、お尋ね者に落ちたかな? もしもそうなら俺も同罪、いよいよ是非とも探し出し、癈者同志慰め合おう! 俺はな、俺はな、こう思っていたのだ! それを何んぞや」とまた一歩ヌッとばかり進んだが、今度は振り上げた血刀を、ソロソロソロソロと下ろして来た。「それを何んぞや今聞けば、初から腹にもくろみがあって、そいつの道具に俺を使い、恋をもてあそんでいたそうだな! さすがは!」と云うと幹之介、城の方へジーッと眼をやった。「さすがは薬草道人様、あなたの眼力お狂いなく、私の女、荻野八重梅、市井の毒婦でございました!」眼を返すと八重梅を見た。とその眼が霞んで来た。「だがそれさえこの俺は、許そうと思っていたのだよ」咽び泣くような声である。「が、今は許されない!」血刀を下へ下ろし切った。その切っ先が真っ直ぐに、八重梅の咽喉首へ向けられた。「俺は泥棒をしようとした! お前のためだ、恋しいお前の! 俺は人間を一人殺した! ああ阪東薪十郎! 誰のためだ? お前のためだ! 女のために侍が殺人をして盗みをする! この恋心、信じられぬか!」またソロソロと血刀を、上へ上へと上げて行く。「これ何んと云った、荻野八重梅! 『妾の身分と巧らみと、知って愛想が尽きたなら別れましょう』と申したな! そこに心の隙間がある! こうまで苦しんだこの俺を、汝はまだまだ疑ぐっているか! 疑がえばこそ出た言葉だ! その疑心のある以上、一緒に住んでもゆくゆくは、おおかた俺を裏切るだろう! 解る、解る、きっと裏切る! 初から俺を裏切って、つづけて俺を裏切って、そうしてゆくゆく裏切ろうとするか! ……それがお前か? それがお前か! おおおおそういう女と知っても、この俺には思い切れぬ! ……死か悟りか? 土壇場だ! 道人様!」と眼を閉じた。
「あなたはお偉うございました! 踠き踠いたそのあげく……」
ピリピリと血刀を波うたせた。常夜燈が光をぶっかけた。
「死を選びますでございます」
颯と刀を振り下した。
肩を切られた荻野八重梅、悲鳴も上げずに歯を食いしばり、左へドッタリ仆れたが、這い寄ると幹之介へ縋り付いた。
「これこそ……幹様……妾の本望!」
胡坐を組んだ幹之介、同じ刀で自分の腹を!
腹を切った志水幹之介、グ──ッと体をのめらせた。それへ取り縋った荻野八重梅自然と体がもつれ合い、背と背とがもたれ合った。一人は肩から、一人は腹から、手繰られるように血を流した。常夜燈の光が照らしている。火事の光が照らしている。苦痛が全身を渡るとみえ、二人ながら片息だ。それも次第に絶えて行く。
「あなたに……切られて……死ぬこそ本望……」八重梅だんだん落ち入りながら、途切れ途切れに云うのであった。「……生きて、一緒に、佗び住まいをしたら、持った性根、お言葉通り、やっぱり、そのうち、あなた様を、裏切ることでございましょう。……誰が、どうして、自分の心を、シ、知ることが出来ましょう。……死んでしまえば何も彼も……みんなおさらばでございます。……」呼吸がだんだん迫って来る。「これだけはお信じくださいまし……愛しておりました、あなた様を! ……でも、やっぱりお言葉通り、もてあそんでもおりました。……それが女の心持ち! いえいえ下衆の、妾のような、女芸人の心持ち! ……これだけはお信じくださいまし! 今は、今こそ、生一本に、ア、あなたを愛しております! ……死ぬのだ、幹様! 二人して! ……あなたの刀で殺されて! ……、呼吸がだんだん……苦しゅうございます」
首が下へと俯向いて行く。ハッハッハッと引く息になる。
「幹様!」ともう一度首を上げた。「何んとかおっしゃってくださいまし」
地へのめろうとする首を上げ、「八重梅!」と幹之介洞然と云った。「明るくなった、俺の心は!」
「妾も!」と八重梅、やっと答えた。「ああその上に喜びが……」
「刹那ばかりだ! 死の刹那! ……人間本当に活きられる! ……消えた! 迷妄! 今こそ明るい」
「苦しゅうございます! それも一刻……すぐもう他界で……」
「何んの他界が……」
「そこで二人で……」
「何んの住もうぞ! 他界はないのだ! 他界はないのだ!」
「それでは幹様! ……この世だけの縁?」
「うむ」と云ったが次第にのめる。「くりかえすものか、同じ苦痛を! ない方がいい、ない方がいい。今ばっかりだ! 死の間際の」
「あんまり寂しい!」と荻野八重梅、驚くばかりにハッキリと、断末魔の勇気で云ったものである。「幹様! ……それでは……あんまり寂しい! ……あんまり! 幹様! 幹様! 幹様!」
「ああ縋るのだ! 今ばっかりへ! ……何んにも見えない! 音が聞こえる! 誰かが遠くで……唄っているようだ!」
「幹様!」
無言。
「幹様!」
無言。
「もう死なれたか! ……それでは妾も……」
グ──ッと八重梅地へ仆れた。
「八重梅!」
無言。
「私の八重梅!」グ──ッと幹之介も仆れかかった。折り重なった。八重梅の上へ!
ボ──ッと常夜燈が照らしている。火事の光が照らしている。
三つの死骸! 幹之介と八重梅、そうして阪東薪十郎!
愛も憎みも、死ばかりが審判いた。
薬草道人の出発したのは、同じその夜のことであった。
城の玄関昼のように明るい。
正面に立ったは尾張宗春、風采容貌打ち上がり、高朗としてまさしく貴人、威厳と柔和兼ね備わり、四辺を払うばかりである。
背後に居並んだは一藩の重臣、ご加判衆をはじめとし、城代、側用人、各奉行、用人、大目附け、大番頭、小納戸頭、小姓頭、奥医師同朋さえ居並んでいる。
庭に下り立ち、宗春と向かい、佇ずんでいるのは薬草道人、何んの変ったところもない。依然として襤褸をまとっている。肩に白烏が止まっている。手に白檀杖を持っている。そうして足は跣足である。
側にあるのは薬剤車、これにも何んの変化はない。いやいや一つだけ変化がある。十本の薬草が花の代りに、果実を結んでいるのであった。
傍らに引き添ったは童子の紅丸、並んでいるのは猪十郎。この二人にも変化はない。一人は珠のように美しく、一人は醜くて跛者である。少し下がって地にひざまずき、並んでいるのは多勢のモカ、いずれも身綺麗な扮装をし、持っていた病気など癒ったのであろう、健康そうな様子を見せている。
雪洞が無数に照っている。
今や別離の挨拶が、取り交されようとしているのであった。
「道人無事で参るよう」
こう云ったのは宗春である。
「いよいよお別れでございます」
こう云ったのは薬草道人。
「いろいろ道人には厄介になった」
「何んの何んの私こそ」
ここでしばらく沈黙した。
「何んとなく名残りが惜しまれるな」尾張宗春また云った。
「お名残り惜しゅうございます」道人もさすがに寂しそうである。
「気候は冬だ、寒気も強い、旅中注意をするがよい」
「殿におかれてもご加養専一」
ここでまたもや沈黙した。
一同寂然と声もない。
雪洞の灯がまばたこうとする。
と、宗春また云った。
「お蔭で新施政の方針もついた」
「ほんのお口添えをしたばかりで」道人の調子は恭謙である。
「さてこれからは質実で行く」
「それがよろしゅうございます」
「葛原、富士見原、西小路、これらの遊女町は取り払う」
「無用なものでございますから」道人しずかに頷いた。
「従来あったものはそのままとし、新しく許した芝居興行、徐々に禁止をしようと思う」
「結構のことに存じます」
「養おうと思うぞ、尚武の気をな」
「それこそ願わしゅう存じます」
「二万有余の大部隊を率い、春日井水野山で鹿狩りをやる!」
「豪快!」と道人一礼した。「士気揚がるでございましょう。……士気大いに揚がることによって、かえって平和は保たれます」
突然宗春手を上げると、空へ指先で字を書いた。
「慈忍! これだ! 余の標語!」それからまたも図を描いた。「慈の上へは太陽を置く! 忍の上へは月を置く! 何んと思うな?」
と微笑した。
何んと思うなと問いかけられ、薬草道人すぐ答えた。
「慈忍を日月の明徳に型取り、天地を照らして諸臣を総べ、民を安きに置くものと、かように道人解釈しましてござる」
「それが政治の要諦と思う」
「決して間違いはござりませぬ」
ここでまたもや沈黙した。
諸臣依然として静かである。
と、道人威厳をもって、尾張宗春へ問いかけた。
「政治の要諦定まった上の、ご領地に対する具体的施政、承わりたいものにございます」
「うむ」と云うと尾張宗春、「名古屋をもって中心とし、大きく海を取り入れる」
「太平洋! 異国へまでもつづく! 貿易交通をなされると見える」
「市中に縦横に掘割をつくる」
「四通八達に便あるよう」
「規模を大きく、四方へ延ばす」
「大名古屋市! ご建設とみえる」
「しかも中身は堅実にな」
「せっかく従来取り入れられました、関東と関西の文物は?」
「冗をはぶいて粋ばかりを残す」
「二大都の美点をお取りになると見える」
「そうして打して一丸とし……」
「第三の都市をおつくりになるか」
「この儀はどうだ!」
「素晴らしい!」
道人の声には感激があった。
その感激で云いつづけた。
「第三こそは進歩でござる。遺伝、第一、境遇、第二、合して出来た第三のもの、すなわち人間にございます……東西渾融、この境地が第三。霊肉一致、この境地が第三。分配公平、この境地が第三。色心不二、この境地が第三。教観具足、この境地が第三。開権顕実、この境地が第三。境智冥合、この境地が第三。階級打破、この境地が第三。美醜妙識、この境地が第三。因果不二、この境地が第三。能所一体、この境地が第三。自由平等、この境地が第三。……そうして第三のものこそは、第一のものにございます。第三、第三と進むところに、生きる道がございます。……第三の都市! 大名古屋市! 第一の都市にございます! それをお作り遊ばすよう! そうしてそれへ宗春卿、堂々とご君臨遊ばすよう。……由来!」というと薬草道人、拝ぎ見るような格好をした。「陽春三月、煙花の候、白馬に跨がり、珊瑚の鞭、柳をかかげて彷徨うという、豪放濶達の風流児、従来の殿でございました。今日そこへ加わったは、質実の気にございます。いわゆる鬼に鉄棒というもの、一大事をなされるでございましょう」
「それというのも薬草道人、そちが鍛練をしてくれたからだ」
すると道人微笑したが、
「私はワキ役でございました。そうして殿にはいつもシテ役。……殿! 本心を仰せられますよう」
「うむ」というと尾張宗春、胸を反らして快活に笑った。「云ってもよいかな、余の本心を!」
「どうぞ」というと眼を垂れた。
「余こそお前を活用したものだ」
「さよう!」と道人手を拍った。
「単に私は木賊の役、殿が名玉でありましたゆえ、光を発したのでございます」
「だが道人、お前は仙だ」
「では」と道人微妙に笑った。
微妙に笑った薬草道人、
「私が仙でございましたら、では再び山へ隠れ、鳥や獣を相手とし、くらしをしなければなりますまい。事実私は人界を去り、山へ入るつもりでございます」ここでじっと宗春を見た。「それに反して殿は英雄!」
「ではいつまでも人界に住み、人間のために尽くさなければなるまい」
「さようでございます。事業をなされて」
「破壊ではなくて、建設的事業!」
「それが大事でございます」
「艱難はむしろ余の方に多い」
「人間を相手でございますからな。……殿は艱難に堪えられましょう。また堪えなければなりません」
「道人」というと尾張宗春、なつかしそうにしんみりと続けた。「お前と別れたら寂しくなろうよ」
「殿!」と道人は慰めるように、「そうでなくとも人主というものは、寂しいものでございます」
「高い所にいるからであろう」
「彼寂寥の王座に住み、大衆に囲繞されて孤独を保ち、涙を流さんとして笑みを含む。人主の境遇でございます」
「では仙人の境遇は?」
「あぶなっけのない遠い所から、ただ俗流を罵るだけのもので、いい得べくんば卑怯者!」
「そうでもあるまい」と宗春は云った。「露ニ泣ク千般ノ草、風ニ吟ズ一様ノ松──やはり寂しい境遇ではないか」
「琴書ハ須ラク自ラ随ウベシ、禄位用ッテ何カセン──こういう境遇でございます」
「なるほどな、そうかもしれない、物慾を一切去ってしまえば、かえって心は賑やかかもしれない」
「徹底した利己主義者! これが仙でございます。思うがままに振る舞いますので」
「艱難相継いで来るごとに、私はお前を思い出すだろう」
「山からすぐに呼びかけましょう、お働きなさりませ、お働きなさりませと」
「うむ、頼む、呼びかけてくれ」
「いえそうではございません」薬草道人暗示的に云った。「いつもいつも殿のお心の中には、私が住んでおります筈で」
「ああそうだ!」と宗春は云った。「俺はお前をさえ抱いている」
「多角的で綜合的! それが殿でございます」
「ではお前よりも私の方が偉い!」
「まさしく!」と道人腰をかがめた。「それを形に現わされた場合、二倍の偉さとなりましょう。さて」
と云うと薬草道人、グルリとモカの方へ振り返った。
「お前達」と呼びかけた。威厳と慈悲との声である。「殿中生活知ったであろうな。上流の暮らし方、味わったであろうな。楽しかったか窮屈だったか、それをこの私は聞こうとはしない。各自の心にまかせて置く。が思うにこうだったろう、楽しいところもあったけれど、窮屈なところもあったろうとな。それが生活というものだ。どんな生活にだってそういうところはある。安楽ばかりの生活はない、苦痛ばかりの生活もない。そこで私はお前達に云うよ。僻むな、そうして物羨みをするな。楽しかったと思ったものは、窮屈だったことを思うがいい。窮屈だったと思う者は、楽しかったことを思うがいい。調和綜合によって生きられる。大変平凡なお談義だが、けっきょくはそこへおちつくようだ。だが」と云うと覗くようにした。
覗くようにした薬草道人、含めるように云い出した。
「だがモカという商売だけは、この際スッパリ止めなければならない。何故? とまさかにお前達は、私に反問はしないだろうな。と云うのは私よりお前達の方が、その商売のよくないことを、よく知っていると思うからさ」ここで一層真面目になった。「と云ってもお前達も食わなければなるまい。お食べお食べ食べるがいい。食べるだけの権利はあるのだからな。と云ったところで手引きをしなかったら、食べる方法が目付かるまい。食べる方法を目付けてもやらずに、おっ放すことは親切ではないよ。そうするときっとお前達は、これまでの商売へ帰るだろうからな。鳥が古巣へ帰るようにな。古巣というものに引力がある。そこへさえ帰ればともかくも食える。ところがどうも『ともかく』という、この食べ方がよくないのだ。一番人間を堕落させるよ。『活きるためばかりに食べる』という、こういうことになるのだからな。活きるには食べなければならないが、食べるために活きるのではないのだからな。何かよいことをしてお国のために尽くす、他人も自分も幸福になる。そいつをするために活きるのさ。だがともかくも食べられているうちは、まだ結構と云ってもいい。ところがそういう人達は、そういう食べ方さえ出来なくなる。今度は無理にも食べようとする。そこから産まれるのが罪悪さ。一つの罪悪から二つの罪悪。二つの罪悪から三つの罪悪、だんだん罪悪を重ねるようになる。世間の人達が怖がってしまう。なるたけ傍へ寄せ付けないようにする。そこで人の世を呪うようになる。復讐という邪心が湧いて来る。怖々やっていた悪い事を、今度は好んでやるようになる。罪悪を楽しむ鬼になる。こうなっては救われない。もっとも人間をそうするのは、浮世の方が悪いのだが、しかし浮世というものは、いつの時代だっていびつなものさ。決して今の浮世ばかりが、とりわけいびつだとは思われないよ。人間三人寄ってごらんよ、大概間違いなく喧嘩をする。二人共稼ぎの夫婦だって、夫婦喧嘩をするじゃアないか。浮世には沢山人がいる、いびつになるのも止むを得まい。だがいびつは直さなければならない。しかし浮世というものは、組み立てられて出来上がっているものだ。決してバラバラのものではない。そうしてしかもその組み立ては、長い間の年月と、沢山の人とで作ったものだ。だからそいつを直そうとするには、やはり長い年月と、沢山の人とでやらなければならない。穏しく膝組みで話し合ってね。そうして沢山の人の中には、お前達も雑っていなければならない。……それはとにかくお前達については、ご重役衆にお願いして置いた。めいめいの性質に合うような、職業を目付けてくださるようにとな。快くお引き受けくだされた。で、その方の心配はない。真面目に働いて稼ぐがよい。……ええとところでお吉さん!」道人お吉を呼びかけた。
「はい」というと私娼のお吉、モカ達の先頭に坐っていたが、一膝膝を前へ進めた。
「お前さんはどうするね?」
「はい」と云ったが手をつかえた。「やはりこの地に止どまりまして……」
「真面目に稼業をする気かな」
「そう致しとう存じます」
「山影さんとか云うお侍さんのこと、それではスッパリ諦めたかな?」
「恋よりもっと大事なことが、思い付きましてございますので」こう云った時お吉の顔、活き活きとして輝いた。
恋よりもっと大事なことが、思い付いたとお吉が云う、いったいどんなことだろう?
「ほほうそうか」と薬草道人、やや意外らしい顔をした。「で、それはどんなことかな?」
「妾は誰よりも道人様を、お知りしておるつもりでございます」お吉こんなことを云い出した。
「そうともそうとも御岳以来だからの」
「で妾は名古屋に止どまり、道人様のお心持ちを、伝道致したいのでございます」
「ははあなるほど、どういう方面へ?」
「ここにおられる女の方々へ……」
「うむ、これらのモカ達へか」
「それからもしも出来ましたなら、他の一般の人達へも……」
「結構……」と道人嬉しそうに云った。「私という人間は余りに平凡、私の思想などもきわめて常識、ただわずかに取柄といえば、思想と実行とが一致に近く、そうしてそれが健全で、決して浮世を乱さない──と云うことぐらいのものだろう。それにもかかわらず宗春卿には、私の考えを入れてくだされた。そうして今やお吉さんが、私の考えを沢山の人へ、伝道をしてくださるという。すなわち上流と下流とへ、私の考えが行き渡ったというもの、こんな有難いことはない。お吉さん、私から礼を云います」
道人膝まで手を下げたが、
「これで万事は片付いた。さあ出立! また旅だ!」
宗春卿へ一礼した。
「殿、お暇を致します」
「うむ、それではいよいよ別れか。……道人、門までは送らぬぞ」
「殿は人主、大領の君、軽々しく振る舞われてはなりません。……さて猪十郎、車を曳け」
さらに宗春を見上げたが、「モカをご殿へ入れましたため、ご殿の尊厳を一抹といえども、穢しませぬ意りにございます」
「大海は細流を厭ぬよ」
「すなわち清濁合わせ呑むもの」
「濁った水をも清めてみせる」
「安心致しましてございます」
薬剤車が引き出された。レキレキロクロクと轍が鳴る、美童の紅丸後押しをする。それに続いて道人が行く。門まで見送ろうとするのだろう、モカが一斉に従った。若侍が案内した。雪洞の火が華やかに、その一行を押し照らす。
「道人!」と宗春呼び止めた。
「名古屋を去ってどこへ行くな?」
「はい」と云うと振り返った。「城中蛾眉ノ女、珠珮珂珊々タリ、鸚鵡ヲ花前ニ弄シ、琵琶ヲ月下ニ弾ズル境へ。……殿にはどこへ行かれます?」
「山果、猴摘ミ、池魚白鷺含ム、仙書一両巻、樹下読ンデ喃々の境へ」
二人同時に大笑した。
「ごめんくだされ」
「たっしゃで行け」
飄々と立ち去る薬草道人、轍の音も遠ざかり、やがて全く聞こえなくなった。
立ちつくしていた尾張宗春、
「最後まで俺を案じてくれたわい」
スタスタと奥へ引っ返してしまった。
ちょうどその夜も明け近い頃、海に添った道を南の方へ、道人の一行辿っていた。
「紅丸紅丸、大風が吹くぞよ」
不安そうに道人云ったものである。
大風が吹くぞと道人に云われ、紅丸不思議そうに空を見た。風の吹きそうな空ではない。穏かに和んだ空である。雲らしいものの姿もなく、星が光を弱めて来た。明の微光が空の涯に、既にその色を現わしたからである。静かな伊勢湾、波も平らで、鯨が浮かび出て遊びそうである。
「何んの道人様、こんなよい朝に、大風なんか吹くものですか」紅丸どうにも信じられないらしい。
「ナーニ吹くよ、大風がな」道人自説を守るのである。
「なんのなんの吹くものですか」紅丸も頑として自説を曲げない。
「よしよしそれでは賭けをしよう」道人こんな事を云い出した。
「ようございます道人様、それでは賭けを致しましょう」紅丸大きに乗り気になった。「負けたら何をくだされます」
「それはこっちから云うことだよ。お前負けたら何をくれるな」
「お好きなものを差し上げます」
「お前には何んにもないじゃアないか。この貧乏な紅丸小僧め」
「あッ、そういう道人様だって、何んにもお持ちでもないくせに、この貧乏な……」
と云いかけたが、「道人め!」とは続けなかった。「道人様めーッ」と云ったのである。
愉快な笑いが爆発した。
猪十郎だけは何んにも云わない。黙々と車を曳いて行く。御岳から都会へ下りて以来、一言も物を云わないのである。だが決して唖者ではない。聞くことばかりを欲していて、云うことを欲していないのらしい。営々として仕事をし、倦むことを知らない人間らしい。それが彼には満足と見える。
奉仕は人をして無言にする! 彼はその種の人間らしい。
海岸の道は歩きにくい。岩、貝殻、石ッコロ、芥や海草で一杯である。道人は跣足で歩いて行く。ちっとも苦痛を感じないらしい。
「道人様、道人様」紅丸やがて呼びかけた。「どこへおいでになるお意りで?」
「さあてね、どこへ行こう」
「それでは宛てがございませんので?」紅丸どうやら不安らしい。
「宛てっていったいどんなことかな?」道人一向平気である。
「宛てとは宛てのことでございますよ」紅丸喧嘩でも吹っかけそうだ。
「ナニサ俺だって知っているよ、その宛てという変なものをな。だが宛てという変なもの、きっと裏切られるという約束の下に、ヒョロヒョロ突っ立っているのでな、昔から俺は好まなかったよ。それだのに世間の人達は、むやみと宛てにばかり取り縋っているなあ。そうしてはいつも裏切られてばかりいるよ。宛てにする! 裏切られる! 宛てにする! 裏切られる! 墓場へ行くまで宛てにして、墓場へ行くまで裏切られる」
次第に朝の色が濃くなって来た、海が白々と白んで来た。
「さあ紅丸偉いことになった、お前が負けだ、何かよこせ! ソーラ大風が吹き出した」
はたして道人の言葉の通り、颶風ともいうべき烈しい風が、沖の方から吹いて来た。「逃げろ逃げろ!」と逃げ出したが、逃げられない数百人の人間があった。島津太郎丸の同勢で、数隻の大船に打ち乗って、薩摩を目差して帆走っていたが、忽ち颶風にぶつかったのである。
颶風の起こる少し前である、大船の船首に佇んで、空を見ている人物があった、天文学者西川正休。
「颶風が起こりますぞ! ご用心! 帆を下ろしなされ! 轆轤を巻け! 帆柱を仆せ、危険だ! 危険だ!」
並んでいるのは太郎丸。
「何を馬鹿な」と笑い出してしまった。「この穏かな暁に、颶風など起こってたまるものか。空が仄かに色づいて来た。横雲一つ棚引いていない。星がだんだん消えて来た。海では飛び魚が飛んでいる。図に描いた青海波そっくりだ! 何と和んだ海ではないか。聞くがいい。帆鳴りの音を! まるで唄でもうたっているようだ。順風! 順風! いい航海だ!」
ひどく太郎丸はしゃいでいる。
それにはそれだけの理由があった。
想いを懸けた浜路をはじめ、仁右衛門、宗三郎、お仙などという、自分に刃向かった者どもを、一人残らず引っ捕え、胴の間の奥に一つにして、監禁をしてあるからであった。所は船中、周囲は海、あたりにいるのは味方ばかり、少しも邪魔される心配はない。以前には脱牢を企てられたが、今度はそんな心配はない。で、思うままに振る舞うことが出来る。そこで悠々と構え込み、珍味は薩摩へ帰ってから! こんなことを考えているのであった。
もっとも心外な点もある。いや大いに心外なのである。宗春を一味に加えそこなったこと! 何と云っても心外である。しかしその代り名古屋を去る際、思うまま武威を示したことが、多少心を慰めてはいる。
「一切は薩摩へ帰ってからだ! 新たに計画することにしよう」
そこで今は何を置いても、早く薩摩へ帰りたいものと、それを願っているのであった。
太郎丸背後を振り返って見た。
二隻の僚船が従いて来る。一杯に帆が張られてある。船首に突っ切られる波の穂が、白衣の行者でも駛るように、灰色の海上で踊っている。陸は見えない、どっちも水だ。三隻ながら駸々と、薩摩へ向かって駛っている。
だが西川正休は、その叫び声を止めようとはしない。
「拙者の観察間違いはござらぬ! 颶風が起こる! 颶風が起こる! 海が湧き立つ、大波が起こる! 危険でござる、危険でござる! 早く港へおはいりなされ! そうでなければさらに一層、沖へ向かって突進なされ!」
「何を譫言、求林斎め!」太郎丸笑って相手にしない。「宗春殺しの一件では、なるほどお前の観察が、物の見事に中ったが、今度ばかりはあたるものか! 海事は俺にも経験がある。今日は天気だ、上天気だ!」
「颶風が起こります颶風が起こります!」西川正休主張を曲げない。「拙者天文では専門家でござる。経験と学術とで申すのでござる。必ず起こる、素晴らしい颶風が! ああそれももうすぐだ。間に合うまい、間に合うまい!」だが太郎丸は信じなかった。
「何を馬鹿な! 何を馬鹿な!」
しかしその言葉をハッキリと裏切り、季節違いの生温い風が、北の方から吹いて来た。
ゴ──ッと烈しい音である。そいつが止むと絶対の無風! 帆がグンニャリと垂れてしまった。つづいておこったのが颶風であった。
山が、海上へ、今浮かんだ! その山が船の方へ延びて来る! 巨大な波の山である。
颶風が起こって山のような波が、船を目掛けて寄せて来た。
「いかがでござるな!」と西川正休、叱咜するように声を掛けた。「智識の破産と仰せられたが、まんざらそうでもございますまい! 拙者の観察的中してござる! 大暴風、大暴風! 大船覆えすでございましょう! 人間の意志、今は無益! 意志の力で押さえられるなら、さあさあ抑えてごらんなされ! 颶風を止どめ、波浪を平らげ、航海を安全にお保ちなされ! 駄目だ駄目だ! そんなことは駄目だ! ……ご覚悟なされ! 沈没しましょう! いずれも魚腹、葬られましょう! が、人力は尽くさねばならぬ! ヤアヤア水夫ども帆を下ろせ! 帆柱を仆せ! 短艇の用意! ……胴の間の囚人解き放せ! あかを汲い出せ! 破損所を繕ろえ! 龍骨が折れたら一大事! 帆柱を甲板へ横に仆せ! 縄を体へ捲き付けろ!」
さすがの島津太郎丸も、どうすることも出来なかった。同じく船首に突っ立ちながら、正休と一緒に怒号した。
「帆を下ろせ! 帆柱を仆せ! 短艇の用意! 破損所を繕ろえ! あかを汲い出せ、あかを汲い出せ!」
水夫が甲板を飛び廻る。キリキリキリキリと轆轤が鳴る。
ゴーッと颶風吹き渡る! ドドーン! ドドーンと波が打つ! グルグルグルと船が廻る。後へ後へ後へ! 後へ! 次第に後へ流される。
「ヨイショヨイショ、……ヨイショヨイショ……」
水夫の掛け声は勇ましいが、それさえだんだん弱って来た。
「駄目だ駄目だ! もういけねえ!」
こんな悲鳴さえ聞こえるようになった。
と、暴雨が降って来た。降るのではない、落ち下るのだ! 落ち下るのではない、ひっ叩くのだ! 天! まさしく明けたらしい! しかし何んと空も海も、泥のように濁って暗いことか! しかし一筋黒雲を破り、日光だな、黄金色の征矢、波濤の一所を貫いた。が、それさえも瞬間に消え、泥のような空! 泥のような海!
だがいったいどうしたんだ、この時轟然たる大音響、海の一所から湧き起こった。つづいて「ワーッ」という人間の悲鳴! 「助けてくれエーッ」という救助の声!
僚船二隻ぶつかったのである。
ああ見るがいい、悲しむべき美観!
一隻の船が船首を宙に、鯨の尾のように上げたではないか! 無数に海中へ落ち込む者? 乗り組みの武士だ! 葬られたのだ。と、その船首さえ見えなくなった。深い深い谿がそこへ出来た。波がその船を丸飲みに! そうしてその背を低めたのである。
もう一隻はどうしたろう? 八分通り左へ傾いたまま、グルグルグルグル、グルグルグルグル死の舞踏を踊っている。
と、忽然と見えなくなった。そうしてその後へ出来たものは、黒曜石の山であった! 山も崩れた! 平らになった! だが数町の彼方にあたって、またも黒曜石の山が出来た! ──。
後へ後へ後へ後へ! 太郎丸の船は流される!
待っているのは破壊である! 沈没! 死! 一切空!
後へ後へと流される! 後へ後へと流される! 止まない暴風! 止まない暴雨!
その同じ日の真昼頃、海岸を歩いている一行があった。薬草道人の一行である。
「おやおや本当に馬鹿にしているね。ご覧よ、紅丸、こんなに、天気だ。嵐なんか吹きゃアしませんよ、雨なんか降りゃアしませんよ。……と云ったようにケロケロしている。まるで小人の心のようだ。怒ったかと思うと笑い出す」
こんなことを云いながら歩いて行く。
空も海も和んでいる。小春のように暖かい。ピチャピチャピチャピチャと音を立て、漣が岸へ上がって来る。沖は紺青、空も紺青、四方八方カラッと明るい。岩上に海鳥が群れている。仲よく何か話している。沢山の貝が散っている。日光がそれをお化粧し、紫色の陰影をつけている。
道人と並んで紅丸が行く、その後から薬剤車、曳いているのは猪十郎。
「おや」と云うと薬草道人、ヒョイとばかりに足を止めた。「溺死人があるよ、しかも八人!」
いかさま男女とりまぜて、八人の溺死人が海岸の砂に、その死骸をさらしている。
「難船して死んだ人達だな。そう云えば沢山船の破片が、あっちにもこっちにも散らかっているよ。……やッ大変、知っている人達だ!」
道人驚いて覗き込んだ。
「これは萩原の仁右衛門さんだ。ここにいるのは浜路さんだ。……これはうっちゃって、置かれない。どれ」
と云うと腰をかがめ、仁右衛門をはじめ八人の者の、胸を開いて脈搏を見た。
「しめた! 紅丸、活き返るぜ!」
「さあさあそれでは膏薬膏薬」紅丸膏薬を出そうとした。
「馬鹿をお云いよ、紅丸め、溺死人が膏薬で活き返るものか。……まず逆さにして水を吐かせる。……撫ぜろ撫ぜろ腹を撫ぜろ! ええとそれから暖めなければならない。藁火藁火、藁火をお焚き! 目付けておいでよ猪十郎さん。……オッとよしよし、海草でよろしい。……ソーレ燃え付いた燃え付いた! ……ご婦人方から手を付けたり! うむ!」
というと薬草道人、浜路を最初に抱き上げた。道人の診察狂いはない、浜路間もなく甦えった。
「それ紅丸、介抱だ!」
「はいはい」と紅丸火で暖める。
「さて次にはこのご婦人」こう云って道人抱き上げたのは、他ならぬ組紐のお仙であった。
これも間もなく正気づいた。
「それ紅丸、介抱だ」
「はいはい」と云って火で暖める。
次々に道人蘇生させた。
萩原仁右衛門、山影宗三郎、島津太郎丸、西川正休、伊集院五郎、烏組のお紋。──
物の云えるようになったのは、それから数時間の後であった。
「あなたは薬草道人様!」真っ先に云ったのは萩原仁右衛門。「まことに再生のご恩人! 何んと申してよろしいやら、お礼の言葉とてございません」
「ひどい目に逢われたな、萩原仁右衛門殿」
こいつを聞くと島津太郎丸、ムズと膝を進ませたが、
「そなた薬草道人か! 恩は恩! 怨みは怨み! 拙者は島津太郎丸! よくも我々の計画を、妨害なされたな、名古屋城内で!」
「あいや殿!」
と止めたのは、求林斎西川正休であった。恭しく道人へ一礼すると、
「私事は西川正休、幕府に仕えて天文方、お見知り置かれくださいますよう」グルリと西川正休、太郎丸を一睨したものである。
太郎丸を一睨した西川正休、凜然として云い放した。
「まだ悪踠きなされるお気か! 殿の尊まれた人間の意志、既に難船によって破れました筈! それだけでも謀反の企てなど、お止めなさるが正当でござる! のみならずここにおられるは、真理の把持者、天禀星の主! すなわち聖者でございますぞ! 邪心お恥じなさるがよろしい」それから改めて西川正休、薬草道人へ一礼したが、「ええ先刻も申しました通り、私事は西川正休、いささか天文の学を学び、幕府に仕えまして天文方、お見知り置かれくださいますよう」
「おおさようか、求林斎殿で、お名前とくより存じております」道人の挨拶も慇懃であった。
「それにしても大難に遭われましたな」
「恐ろしい颶風、船は転覆、幸い海岸へ打ち上げられ、ご介抱によって命拾い、有難い儀に存じます」
「何んの何んの」と薬草道人、恩にも着せず手を振ったが、「寿命があったからでございますよ」
「しかし道人のご介抱がなければ、活き返ること覚束なく、命の恩人にございます」
「さようさ」と道人頷いた。「介抱の手が遅れたら、ちと面倒でございましたよ」ここでグルリと薬草道人、太郎丸の方へ膝を向けた。「そこに在すは島津家の一族、太郎丸殿でござるかな」
太郎丸無言で頷いた。
「名古屋においては太郎丸殿、寇掠を逞しゅうなされたな」
しかし太郎丸返辞をしない。
道人かまわず云いつづける。
「それに対してとやかくと、申し上げようとは致しませぬ。と云うのは過ぎ去ったことだからで。ついては」と云うと粛然とした。「今後も貴殿におかれては、平地に波瀾を起こされるお気かな。この儀一応承まわりたい」
「さようさ」と云ったが太郎丸、いくばくか躊躇の色を見せた。「男子の本懐と致しては、思い立った一念徹すが正当……」
「だが」と道人すぐ抑えた。「その男子は死んだ筈でござる!」
「え?」
と云うやつを押っ冠せ、薬草道人云い続けた。
「死なれた筈でござる! 死なれた筈でござる! 海に溺れて、すなわち今朝! そこで某申し上げる! お捨てなさるがよい、一切の過去を! 溺死と一緒に、海の底へな! ……過去における貴殿の思い立ち、私見をもって致しますれば、浮世を乱すに役立つばかり、決して決してよいことではござらぬ! が、理屈はまず止めよう、申し上げたいことはただ一事! 甦生されたということでござる! 甦生させたはこの道人、恩に着せたくはござらぬが、この際ばかりは恩に着せ申す! いやいやそれより道人より、かえって貴殿へお願い致す! ご貴殿ほどの器量人、なにとぞなにとぞその才幹を、徐々に小出しにお出しになり、荒々しく人の世を乱さずに、平和にお建て直しくださるよう。しようと思えば出来るご仁、切にお願い致しとうござる」叮嚀を極わめた物腰である。
梟雄ながらも一世の人傑、太郎丸翻然と悟ったらしい。
「うむ」と云うと一礼した。
「まことに甦生したものは、甦生の道を辿るが至当! 道人!」と云うと頷いた。「お言葉に従うでございましょう」
すると道人立ち上がったが、両手をヌッと差し出した。
両手を差し出した薬草道人、
「方々!」と云うと一同を見た。それから元気よく云い継いだ。「紅丸も来い、猪十郎も来い、方々みんなお立ちなされ、善悪不二、恩讐無差別、この甦生の白昼の中で、大海を前に、大地に突っ立ち、さあさあみんな手を繋ごう! 仲よく明るく愉快にな! いかがでござる! いかがでござる!」
声に応じて一同の者、一斉にスクスクと立ち上がり、両手を差し出すと手を繋いだ。
「さて」というと薬草道人、改めて一同を見廻したが、「容貌風采の異うように、ここにいられる十一人の方々、お心はみんな異うでござろう。そうして身分も異うでござろう。そうして将来の活き方も、いずれは異うに相違ない。ある者は不幸、ある者は幸福、ある者は長寿、ある者は短命、悲喜期し難いでございましょう。しかしこうして今日只今、全く心を一つにして、親しく両手を繋いだ記憶は、恐らく永久忘れられますまい。これだけでも意味がある。これだけでもよいことである。世路は艱難、人心は反覆、生活は不安、生は悲苦、その間にあって一刹那でも、こうして十一人手を取ったは、嬉しいことでございますよ。云う事はない! これでよろしい! さあ手を放して、各自の道へ!」
ここで道人手を放した。と、そのとたん、白烏、恰々と啼くと空高く、道人の肩から舞い上がった。吃驚りしたのは道人である。「ほほう」と云うと振り仰いだ。「眼が明いたらしい、白烏め! とても駄目だと思った眼が! それにしても随分幸福だわい! あいつが一番幸福だよ! 醜い物は一切見ず、こういう美しい光景ばかりを、新しく明いた眼で見たのだからなあ」
頭上に大円を描きながら、尚白烏は舞っている。
「さて出立!」と薬草道人「猪十郎さんや、車をお曳き」
その時であった、山影宗三郎、跪座いて道人の袖を引いた。「私事は山影宗三郎、水戸家の家臣にございます。主命を帯びて御岳へ入り、道人様をお探しし、名古屋へまでも入り込みましたもの、失礼ながら道人様には、甲斐の徳本様ではございますまいか?」
すると道人頷いたが、「さようでござる、愚老が徳本!」
「おおやっぱり徳本様で! それではなにとぞ江戸表、水府館までご来駕のほど……」
「何かご用でもござるかな?」
すると島津太郎丸、身をぬきんでて云ったものである。「只今将軍家吉宗公、ご大病の身にございますれば、お診察のほど願わしく、私よりも懇願仕ります」
「さようでござるか、よろしゅうござる」道人あっさり引き受けてしまった。「どなたであろうと病人なら診察ましょう。……さあそれでは道を変え、東海道から江戸へ行こう」
「一同お供仕ります」こう云ったのも太郎丸。
レキレキロクロクと轍の音、間もなく響いて一行十一人、粛々と旅へ出かけたのは、それから間もなくのことであった。
シーッと掛かった警蹕の声! ここは柳営大廊下、悠々と進むは薬草道人、すなわち甲斐の徳本である。案内役は同朋衆、傍らに添ったは水府館、幾間か通ると将軍家の寝所、ご親藩衆が居流れている。ピタリと坐った薬草道人、吉宗の脈所を握ったが、「大丈夫でござる、お癒し致す」
警蹕の声! 下城してしまった。
永らく書いた、物語も、この回をもって大団円とする。
薬草道人はどうしたか? 将軍吉宗の大患を癒し、薬剤車を猪十郎に曳かせ、美童の紅丸を供に連れ、眼の明いた白烏を前駆にし、飄々乎として早春の候、再び御岳へ帰ってしまった。恐らく例の湖中の小家で、鳥獣や彦兵衛を相手とし、薬を練り万物を愛し、天寿を全うしたに相違ない。
山影宗三郎はどうしたか? 武士を捨てようと志したが、水府のお館が許さなかった。無双の功臣というところから、加増を受けて大身となり、浜路を迎えて妻とした。一方萩原仁右衛門も、水府館に仕えるよう、切に慫慂されたけれど、堅く辞して萩原へ帰った。そこで水府お館から、永世捨扶持を給されることになった。で、時々道人を訪ね、思い出話をやりながら、萩原部落の長として、繁栄を計ったということである。さらに島津太郎丸は、薬草道人の感化を受け、不軌の心を一擲し、伊集院、お紋を引き連れて、領国薩摩へ引き上げたが、その後の消息は不明である。
組紐のお仙はどうしたか? 「浜路様に恋を譲りました。妾は芸人でくらします」
これが彼女の心意気であった。白粉をつけ紅をつけ、華やかな肩衣で身を粧い、例の両国の舞台に立ち、大蛇を使って妙技を演じ、江戸の人気を沸き立たせたが、しかし心は寂しかったかも知れない。しかし決して泣きはしまい。それも一つの生活だから! まして彼女は侠婦である。そうして幾多の艱難に堪えた。明るく笑って暮らしたことであろう。
堯舜の世はなかったのだ。なかったから孔夫子が創造ったのだ。孔夫子に創造れた堯舜の世なら、組紐のお仙にも創造れる筈だ。彼女、自ら心内に、堯舜の世を形成くり、そこに住んだに相違ない。
鷺組のお絹とその一党も、功名著るしいというところから、益〻水府お館のために、用いられたことは云うまでもなく、宗三郎一行を援助した、名古屋の侠客弥五郎へは、特に水府お館から、感謝の辞を捧げたということである。
宗春卿に至っては、一世の名君として令名高く、任にあること十年ではあったが、その間偉大な事業をとげ、今日のいわゆる大名古屋市の、一大基礎を確立した。薨ずるや諡して章善院、流風永く今日に伝わり、市民今に仰いでいる。卿や資性豪放濶達、一面芸術家にして一面武人、政治の才に至っては、岡山の藩主新太郎少将と、優に比すべきものがある。質実の気の加わって以来、緊縮政策を断行したが、しかも益〻名古屋をして、大きく繁栄に導いたのである。晩年に至っては神仙味を加え、起居動作縹渺とし、規矩人界を離れながら、尚乱れなかったということである。
しかし作者は最後に云う、作中に現われた人物のうち、薬草道人甲斐の徳本こそ、強き長き生命を、大衆の間に保つだろうと!
彼、高貴の精神を下等に即して行ったからである。
底本:「任侠二刀流(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年5月20日第1刷発行
「任侠二刀流(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年5月20日第1刷発行
底本の親本:「任侠二刀流」良書普及会
1930(昭和5)年
初出:「名古屋新聞」
1926(大正15)年5月24日~12月26日
※初出時の表題は「木曽風俗聞書薬草採」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。