徳育如何
福沢諭吉
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『徳育如何』緒言
方今、世に教育論者あり。少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜なりと称し、その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。福沢先生その誣罔を弁じ、大いに論者の蒙を啓かんとて、教育論一篇を立案せられ、中上川先生これを筆記して、『時事新報』の社説に載録せられたるが、今これを重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
明治一五年一一月
徳育如何
青酸は毒のもっとも劇しきものにして、舌に触れば、即時に斃る。その間に時なし。モルヒネ、砒石は少しく寛にして、死にいたるまで少しく時間あり。大黄の下剤の如きは、二、三時間以上を経過するに非ざれば腸に感応することなし。薬剤の性質、相異なるを知るべし。また、草木に施す肥料の如き、これに感ずるおのおの急緩の別あり。野菜の類は肥料を受けて三日、すなわち青々の色に変ずといえども、樹木は寒中これに施してその効験は翌年の春夏に見るべきのみ。
いま人心は草木の如く、教育は肥料の如し。この人心に教育を施して、その効験三日に見るべきか。いわく、否なり。三冬の育教、来年の春夏に功を奏するか。いわく、否なり。少年を率いて学に就かしめ、習字・素読よりようやく高きに登り、やや事物の理を解して心事の方向を定むるにいたるまでは、速くして五年、尋常にして七年を要すべし。これを草木の肥料に譬うれば、感応のもっとも遅々たるものというべし。
また、草木は肥料によりて大いに長茂すといえども、ただその長茂を助くるのみにして、その生々の根本を資るところは、空気と太陽の光熱と土壌津液とにあり。空気、乾湿の度を失い、太陽の光熱、物にさえぎられ、地性、瘠せて津液足らざる者へは、たとい肥料を施すも功を奏すること少なきのみならず、まったく無効なるものあり。
教育もまたかくの如し。人の智徳は教育によりておおいに発達すといえども、ただその発達を助くるのみにして、その智徳の根本を資るところは、祖先遺伝の能力と、その生育の家風と、その社会の公議輿論とにあり。蝦夷人の子を養うて何ほどに教育するも、その子一代にては、とても第一流の大学者たるべからず。源家八幡太郎の子孫に武人の夥しきも、能力遺伝の実証として見るべし。また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母の気象を承るは、あまねく人の知る所にして、家風の人心を変化すること有力なるものというべし。
また、戦国の世にはすべて武人多くして、出家の僧侶にいたるまでも干戈を事としたるは、叡山・三井寺等の古史に徴して知るべし。社会の公議輿論、すなわち一世の気風は、よく仏門慈善の智識をして、殺人戦闘の悪業をなさしめたるものなり。右はいずれも、人生の智徳を発達せしめ退歩せしめ、また変化せしむるの原因にして、その力はかえって学校の教育に勝るものなり。学育もとより軽々看過すべからずといえども、古今の教育家が漫に多を予期して、あるいは人の子を学校に入れてこれを育すれば、自由自在に期するところの人物を陶冶し出だすべしと思うが如きは、妄想のはなはなだしきものにして、その妄漫なるは、空気・太陽・土壌の如何を問わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに等しきのみ。
俚諺にいわく、「門前の小僧習わぬ経を読む」と。けだし寺院のかたわらに遊戯する小童輩は、自然に仏法に慣れてその臭気を帯ぶるとの義ならん。すなわち仏の気風に制しらるるものなり。仏の風にあたれば仏に化し、儒の風にあたれば儒に化す。周囲の空気に感じて一般の公議輿論に化せらるるの勢は、これを留めんとして駐むべからず。いかなる独主独行の士人といえども、この間にひとりするを得ざるは、伝染病の地方にいて、ひとりこれを免かるるの術なきが如し。独立の品行、まことに嘉みすべしといえども、おのずからその限りあるものにして、限界を超えて独立せんとするも、人間生々の中にありて決して行わるべきことに非ず。
たとえば言語の如し。一地方にありて独立独行、百事他人に殊なりと称する人にても、その言語には方言を用い、壁を隔ててこれを聞くも、某地方の人たるを知るべし。今この方言は誰れに学びたりやと尋ぬるに、これを教えたる者なし。教うる者なくしてこれを知る。すなわち地方の空気に学びたるものと言わざるをえず。あるいは空気の力に迫られたるものというも可なり。ただに方言のみならず、衣服、飲食の品類より、家屋・庭園・装飾・玩弄の物にいたるまでも、一時一世の流行にほかなるを得ず。流行のものを衣服し、流行のものを飲食し、流行の家屋におり、流行の物を弄ぶ。
この点より見れば、人はあたかも社会の奴隷にして、その圧制を蒙り、毫も自由を得ざるものにして、いかなる有力の士人にても、古今世界にこの圧制を免かれたる者あるを聞かざるなり。有形の物、皆然り。然らばすなわち無形の智徳にして、ひとり社会の圧制を免かるるの理あるべからず。教えずして知るの智あり、学ばずして得るの徳あり。ともに流行の勢にしたがいてその範囲を脱せず。社会はあたかも智徳の大教場というも可なり。この教場の中にありて区々の学校を見れば、如何なる学制あるも、如何なる教則あるも、その教育は、ただわずかに人心の一部分を左右するに足るべしとのことは、必ずしも知識をまちて然る後に知るべき事柄に非ざるなり。
方今、世に教育論者あり。その言にいわく、近来我が国の子弟は、その品行ようやく軽薄におもむき、父兄の言を用いず、長老の警をかえりみず、はなはだしきは弱冠の身をもって国家の政治を談じ、ややもすれば上を犯すの気風あるが如し。ひっきょう、学校の教育不完全にして徳育を忘れたるの罪なりとて、専ら道徳の旨を奨励するその方便として、周公孔子の道を説き、漢土聖人の教をもって徳育の根本に立てて、一切の人事を制御せんとするものの如し。
我が輩は論者の言を聞き、その憂うるところははなはだもっともなりと思えども、この憂いを救うの方便にいたりては毫も感服すること能わざる者なり。そもそも論者の憂うるところを概言すれば、今の子弟は上を敬せずして不遜なり、漫に政治を談じて軽躁なりというにすぎず。論者の言、はなはだ是なり。我が輩とてももとより同憂なりといえども、少年輩がかくまでにも不遜軽躁に変じたるは、たんに学校教育の欠点のみによりて然るものか。もしも果して然るものとするときは、この欠点は何によりて生じたるものか、その原因を推究すること緊要なり。
教育の欠点といえば、教師の不徳と教書の不経なることならん。然るに我が日本において、開闢以来稀なる不徳の教師を輩出して、稀なる不経の書を流行せしめたるは何ものなるぞや。あるいは前年、文部省より定めたる学制によりて然るものなりといわんか、然らばすなわち文部省をしてかかる学制を定めしめたるは何ものなるぞや。これを推究せざるべからず。我が輩の所見においては、これを文部省の学制に求めず、また教師の不徳、教書の不経をも咎めず。これらは皆、事の近因として、さらにこの近因を生じたる根本の大原因に溯るに非ざれば、事の得失を断ずるに足らざるを信ずるものなり。けだしその原因とは何ぞや。我が開国に次で政府の革命、すなわちこれなり。
開国以来、我が日本人は西洋諸国の学を勉め、またこれを聞伝えて、ようやく自主独立の何ものたるを知りたれども、未だこれを実際に施すを得ず、またその実施を目撃したることもなかりしに、十五年前、維新の革命あり。この革命は諸藩士族の手に成りしものにして、その士族は数百年来周公孔子の徳教に育せられ、満腔ただ忠孝の二字あるのみにして、一身もってその藩主に奉じ、君のために死するのほか、心事なかりしものが、一旦開進の気運に乗じて事を挙げ、ついに旧政府を倒して新政府を立てたるその際に、最初はおのおのその藩主の名をもってしたりといえども、事成るの後にいたり、藩主は革命の名利にあずかるを得ずして、功名利禄は藩士族の流に帰し、ついで廃藩の大挙にあえば、藩主は得るところなきのみならず、かえって旧物を失うて、まったく落路の人たるが如し。
従前は其藩にありて同藩士の末座に列し、いわゆる君公には容易に目通りもかなわざりし小家来が、一朝の機に乗じて新政府に出身すれば、儼然たる正何位・従何位にして、旧君公と同じく朝に立つのみならず、君公かえって従にして、家来正なるあり。なおなはなだしきは公に旧君の名をもって旧家来の指令を仰ぎ、私にその宅に伺候して依托することもあらん。
また、四民同権の世態に変じたる以上は、農商も昔日の素町人・土百姓に非ずして、藩地の士族を恐れざるのみならず、時としては旧領主を相手取りて出訴に及び、事と品によりては旧殿様の家を身代限にするの奇談も珍しからず。昔年、馬に乗れば切捨てられたる百姓町人の少年輩が、今日借馬に乗て飛廻わり、誤って旧藩地の士族を踏殺すも、法律においてはただ罰金の沙汰あらんのみ。
また、封建世禄の世において、家の次男三男に生れたる者は、別に立身の道を得ず。あるいは他の不幸にして男児なき家あれば、養子の所望を待ちてその家を相続し、はじめて一家の主人たるべし。次三男出身の血路は、ただ養子の一方のみなれども、男児なき家の数は少なくして、次三男出生の数は多く、需要供給その平均を得ずして、つねに父兄の家に養われ、ついには二世にして姪の保護を蒙りて死する者少なからず。これを家の厄介と称す。俗にいわゆる臁噛なる者なり。すでに一家の厄介たり、誰れかこれを尊敬する者あらんや。いかなる才力あるも、臁噛はすなわち臁噛にして、ほとんど人に歯せられず。
世禄の武家にしてかくの如くなれば、その風はおのずから他種族にも波及し、士農工商、ともに家を重んじて、権力はもっぱら長男に帰し、長少の序も紊れざるが如くに見えしものが、近年にいたりてはいわゆる腕前の世となり、才力さえあれば立身出世勝手次第にして、長兄愚にして貧なれば、阿弟の智にして富貴なる者に軽侮せられざるをえず。ただに兄のみならず、前年の養子が朝野に立身して、花柳の美なる者を得れば、たちまち養家糟糠の細君を厭い、養父母に談じて自身を離縁せよ放逐せよと請求するは、その名は養家より放逐せられたるも、実は養子にして養父母を放逐したるものというべし。「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序」とは、聖人の教にして、周公孔子のもって貴きゆえんなれども、我が輩は右の事実を記して、この聖教の行われたるところを発見すること能わざるものなり。
然りといえども、以上枚挙するところは十五年来の実際に行われ、今日の法律においてこれを許し、今日の習慣においても大いにこれを咎ること能わざるものなり。徳教の老眼をもってこの有様を見れば、まことに驚くに堪えたり。元禄年間の士人を再生せしめて、これに維新以来の実況を語り、また、今の世事の成行を目撃せしめたらば、必ず大いに驚駭して、人倫の道も断絶したる暗黒世界なりとて、痛心することならんといえども、いかんせん、この世態の変は、十五年以来、我が日本人が教育を怠りたるのゆえに非ず。ただ開進の風に吹かれて輿論の面目を改めたるがためなり。けだし輿論の面目とは、全国人事の全面目にして、学校教育の如きもこの全面目中の一部分たるに過ぎざるのみ。
されば今の世の教育論者が、今のこの不遜軽躁なる世態に感動してこれを憂うるははなはだ善し。またこれに驚くも至当の事なれども、論者はこれを憂い、これに驚きて、これを古に復せんと欲するか。すなわち元禄年間の士人と見を同じゅうして、元禄の忠孝世界に復古せんと欲するか。論者が、しきりに近世の著書・新聞紙等の説を厭うて、もっぱら唐虞三代の古典を勧むるは、はたしてこの古典の力をもって今の新説を抹殺するに足るべしと信ずるか。しかのみならず論者が、今の世態の、一時、己が意に適せずして局部に不便利なるを発見し、その罪をひとり学校の教育に帰して喋々するは、はたしてその教育をもって世態を挽回するに足るべしと信ずるか。我が輩はその方略に感服する能わざるものなり。
そもそも明治年間は元禄に異なり。その異なるは教育法の異なるに非ず、公議輿論の異なるものにして、もしも教育法に異なるものあらば、これをして異ならしめたるものは、公議輿論なりといわざるをえず。而して明治年間の公議輿論は何によりて生じたるものなりやと尋ぬれば、三十年前、我が開国と、ついで政府の革命、これなりと答えざるをえず。開国革命、もって今の公議輿論を生じて、人心は開進の一方に向い、その進行の際に弊風もまた、ともに生じて、徳教の薄きを見ることなきに非ざるも、法律これを許し、習慣これを咎めず。
はなはだしきは道徳教育論に喋々するその本人が、往々開進の風潮に乗じて、利を射り、名を貪り、犯すべからざるの不品行を犯し、忍ぶべからざるの刻薄を忍び、古代の縄墨をもって糺すときは、父子君臣、夫婦長幼の大倫も、あるいは明を失して危きが如くなるも、なおかつ一世を瞞着して得々横行すべきほどの、この有力なる開進風潮の中にいながら、学校教育の一局部を変革して、もって現在の世態を左右せんと欲するが如きは、肥料の一品を加減して草木の生々を自在にせんとする者に異ならず。
たとい、あるいはその教育も、他の人事とともに歩をともにして進退するときは、すこぶる有力なる方便なりというも、その効験の現わるるはきわめて遅々たるものにして、肥料の草木におけるが如くなるを得ず。ますますその迂闊なるを見るべきのみ。
されば今の世の子弟が不遜軽躁なることもあらば、その不遜軽躁は天下の大教場たる公議輿論をもって教えたるものなれば、この教場の組織を変革するに非ざれば、その弊を矯るによしなし。而してその変革に着手せんとするも、今日の勢において、よく導きて古に復するを得べきや。今の法律を改めて旧套に返るべきや。平民の乗馬を禁ずべきや。次三男の自主独立をとどむべきや。
これを要するに、開進の今日に到着して、かえりみて封建世禄の古制に復せんとするは、喬木より幽谷に移るものにして、何等の力を用うるも、とうてい行わるべからざることと断定せざるをえず。目今その手段を求めて得ざるものなり。論者といえども自から明らかに知るところならん。すでに大教場の変革に手段なきを知らば、局部の学校を変革するも無益なるや明らかなり。ゆえに我が輩は今の世態に満足する者に非ず、少年子弟の不遜軽躁なるを見て、これを賛誉する者に非ずといえども、その局部について直接に改良を求めず、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くならんことを欲する者なり。
今試みに社会の表面に立つ長者にして子弟を警め、汝は不遜なり、なにゆえに長者につかえざるや、なにゆえに尊きを尊ばざるや、近時の新説を説きて漫に政治を談ずるが如きは、軽躁のはなはだしきものなりと咎めたらば、少年はすなわちいわん。君は前年なにゆえに廃藩の事を賛成して旧主人の落路を傍観したるや。しかのみならずその旧主人とともに社会に立ち、あるいはその上に位して世の尊敬を受くるも、恬としてはばかる色なきはなにゆえなるや。
かつ君に質問することあり。君が維新の前後、しきりに国事に奔走して政談に熱したるは、その年齢およそ幾歳のころなりしや。この時にあたりて、世間あるいは君の軽躁を悦ばずして、君に忠告すること、今日、君が我々に忠告するが如き者はなかりしや。当時、君はその忠告を甘受したるか。我々ひそかに案ずるに、君は決してかかる忠告を聴く者に非ず。その忠告者をば内心に軽侮し、因循姑息の頑物なりとてただ冷笑したるのみのことならん。
されば我々年少なりといえども、二十年前の君の齢にひとし。我々の挙動、軽躁なりというも、二十年前の君に比すれば、深く譴責を蒙るの理なし。ただし、君は旧幕府の末世にあたりて乱に処し、また維新の初において創業に際したることなれば、おのずから今日の我々に異なり。我々は今日、治世にありて乱を思わず、創業の後を承けて守成を謀る者なり。時勢を殊にし事態を同じゅうせずといえども、熱心の熱度は前年の君に異ならず。けだしこの熱は我々の身において独発に非ず。その実は君の余熱に感じて伝染したるものというも可なり云々と、利口に述べ立てられたらば、長者の輩も容易にこれに答うること能わずして、あるいはひそかに困却するの意味なきに非ざるべし。
その趣は、老成人が少年に向い、直接にその遊冶放蕩を責め、かえって少年のために己が昔年の品行を摘発枚挙せられ、白頭汗を流して赤面するものに異ならず。直接の譴責は各自個々の間にてもなおかつ効を見ること少なし。いわんや天下億万の後進生に向ってこれを責むるにおいてをや。労して功なきのみならず、かえってこれを激するの禍なきを期すべからざるなり。
我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。
たとえば支那と日本の習慣の殊なるもの多し。就中、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人の出処を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉の宣王に用いられずして梁の恵王を干すも、君に仕うること容易なるものなり。遽伯玉の如き、「邦有レ道則仕、邦無レ道則可二巻而懐一レ之」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵ただならざるを見るべし。
然るにその国人のもっとも尊崇する徳教は何ものなるぞと尋ぬるに、支那人も聖人の書を読みて忠孝の教を重んじ、日本人もまた然り。ひとしく同一の徳教を奉じてその徳育を蒙る者が、人事の実際においてはまったく反対の事相を呈す。怪しむべきに非ずや。ひっきょう、徳教の働は、その国の輿論に妨なき限界にまで達して、それ以上に運動するを得ざるの実証なり。もしもこの限界を越ゆるときは、徳教の趣を変じて輿論に適合し、その意味を表裏・陰陽に解して、あたかも輿論に差支なきの姿を装い、もってその体をまっとうするの実を見るべし。蛮夷、夏を乱だるは聖人の憂うるところなれども、その聖人国を蛮夷に奪われたるは今の大清なれども、大清の人民もまた聖人の書をもって教となすべし。徳川政府も忠義の道をもって天朝に奉じて、まことに忠義なりしかども、末年にいたり公議輿論をもってその政府を倒せば、これを倒したる者もまた、まことに忠義なり。ゆえに支那にて士人の去就を自在にすれば聖人に称せられ、日本にて同様の事を行えば聖人の教に背くとて、これを咎むべし。
蛮夷が中華を乱だるも、聖人の道をもってこれを防ぐべし。すでにこれを乱だりてこれを押領したるうえは、また、聖人の道をもってこれを守るべし。敵のためにも可なり、味方のためにも可なり。その働くべき部分の内にありて自由に働をたくましゅうし、輿論にあえばすなわち装を変ずべし。これすなわち聖教の聖教たるゆえんにして、尋常一様、小儒輩の得て知るところに非ざるなり。(孟子に放伐論ありなどとて、その書を忌むが如きも小儒の考にして、笑うに堪えたるものなり。数百年間、日本人が孟子を読みて、これがために不臣の念を起したるものあるを聞かず。書中の一字一句、もって人心を左右するにたるものなりとすれば、君臣の義理固き我が国において、十二君に歴事し公山仏肸の召にも応ぜんとしたる孔子の書を読むもまた不都合ならん。硜々然たる儒論、取るに足らざるなり。)
我が日本の開国についで政府の革命以来、全国人民の気風は開進の一方に赴き、その進行の勢力はこれを留めて駐むべからず。すなわち公議輿論の一変したるものなれば、この際にあたりて徳教の働ももとより消滅するに非ずといえども、おのずから輿論に適するがために、大いにその装を改めざるをえざるの時節なり。たとえば在昔は、君臣の団結、国中三百所に相分れたる者が、今は一団の君臣となりたれば、忠義の風も少しく趣を変じて、古風の忠は今日に適せず。
在昔は三百藩外に国あるを知らずして、ただ藩と藩との間に藩権を争いしものも、今日は全国あたかも一大藩の姿となりて、在昔、藩権の精神は、面目を改めて国権論に変ぜざるをえず。在昔は、社会の秩序、すべて相依るの風にして、君臣、父子、夫婦、長幼、たがいに相依り相依られ、たがいに相敬愛し相敬愛せられ、両者相対して然る後に教を立てたることなれども、今日自主独立の教においては、まず我が一身を独立せしめ、我が一身を重んじて、自からその身を金玉視し、もって他の関係を維持して人事の秩序を保つべし。
新に沐する者は必ず冠を弾し、新に浴する者は必ず衣を振うとは、身を重んずるの謂なり。我が身、金玉なるがゆえに、いやしくも瑕瑾を生ずべからず、汚穢に近接すべからず。この金玉の身をもって、この醜行は犯すべからず。この卑屈には沈むべからず。花柳の美、愛すべし、糟糠の老大、厭うに堪えたりといえども、糟糠の妻を堂より下すは、我が金玉の身に不似合なり。長兄愚にして、我れ富貴なりといえども、弟にして兄を凌辱するは、我が金玉の身によくすべからず。ここに節を屈して権勢に走れば名利を得べしといえども、屈節もって金玉の身を汚すべからず。あたうるに天下の富をもってするも、授くるに将相の位をもってするも、我が金玉、一点の瑕瑾に易うべからず。一心ここにいたれば、天下も小なり、王公も賤し。身外無一物、ただ我が金玉の一身あるのみ。一身すでに独立すれば、眼を転じて他人の独立を勧め、ついに同国人とともに一国の独立を謀るも自然の順序なれば、自主独立の一義、もって君に仕うべし、もって父母に事うべし、もって夫婦の倫をまっとうし、もって長幼の序を保ち、もって朋友の信を固うし、人生居家の細目より天下の大計にいたるまで、一切の秩序を包羅して洩らすものあるべからず。
ゆえに我が輩においては、今世の教育論者が古来の典経を徳育の用に供せんとするを咎るには非ざれども、その経書の働を自然に任して正に今の公議輿論に適せしめ、その働の達すべき部分にのみ働をたくましゅうせしめんと欲する者なり。すなわち今日の徳教は、輿論にしたがいて自主独立の旨に変ずべき時節なれば、周公孔子の教も、また自主独立論の中に包羅してこれを利用せんと欲するのみ。
今の世態、はたして不遜軽躁に堪えざるか、自主独立の精神に乏しきがゆえなり。論者その人の徳義薄くして、その言論演説、もって人を感動せしむるに足らざるか、夫子自から自主独立の旨を知らざるの罪なり。天下の風潮は、つとに開進の一方に向いて、自主独立の輿論はこれを動かすべからず。すでにその動かすべからざるを知らば、これにしたがうこそ智者の策なれ。けだし、学校の教育をして順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くせんとはこの謂なり。
底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
1980(昭和55)年12月18日第1刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
1882(明治15)年10月21~25日
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2007年5月5日作成
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