国文学の発生(第二稿)
折口信夫
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呪言の展開
一 神の嫁
国家意識の現れた頃は既に、日本の巫女道では大体に於て、神主は高級巫女の近親であつた。併し、其は我々の想像の領分の事で、而も、歴史に見えるより新しい時代にも、尚村々・国々の主権者と認められた巫女が多かつた。
神功皇后は、其である。上古に女帝の多いのも、此理由が力を持つて居るのであらう。男性の主権者と考へられて来た人々の中に、実は巫女の生活をした女性もあつたのではなからうか。此点に就ての、詳論は憚りが多い。神功皇后と一つに考へられ易い魏書の卑弥呼の如きも、其巫女としての呪術能力が此女性を北九州の一国主としての位置を保たして居たのであつた。
村々の高級巫女たちは、独身を原則とした。其は神の嫁として、進められたものであつたからだ。神祭りの際、群衆の男女が、恍惚の状態になつて、雑婚に陥る根本の考へは、一人々々の男を通じて、神が出現してゐるのである。
奈良朝の都人の間に、踏歌化して行はれた歌垣は、実は別物であるが、其遺風の後世まで伝つたと見える歌垣・嬥歌会(東国)の外に、住吉の「小集会」と言うたのも此だとするのが定論である。
だから、現神なる神主が、神の嫁なる下級の巫女を率寝る事が普通にあつたらしい。平安朝に入つても、地方の旧い社には、其風があつた。
出雲・宗像の国造──古く禁ぜられた国造の名を、尚称しては居たが、神主としての由緒を示すに止まつて、政権からは離れてゐた──が、采女を犯す事を禁じた(類聚三代格)のは、奈良朝以前の村々の神主の生活を窺はせるものである。采女は、天子の為の食饌を司るもの、とばかり考へられてゐるが、実は、神及び現神に事へる下級巫女である。
国々の郡司の娘が、宮廷の采女に徴発せられ、宮仕へ果てゝ国に還ることになつてゐるのは、村々の国造(郡司の前身)の祀る神に事へる娘を、倭人の神に事へさせ、信仰習合・祭儀統一の実を、其旧領土なる郡々に伝へさせようと言ふ目的があつたものと推定することは出来る。現神が采女を率寝ることは、神としてゞ、人としてゞはなかつた。日本の人身御供の伝説が、いくらかの種があつたと見れば、此側から神に進められる女(喰はれるものでなく)を考へることが出来る。
その為、采女の嬪・夫人となつた例は、存外文献に伝へが尠い。允恭紀の「うねめはや。みゝはや」と三山を偲ぶ歌を作つて采女を犯した疑ひをうけた韓人の話(日本紀)も、此神の嫁を盗んだ者としての咎めと考へるべきものなのであらう。此事が、日本に於ける初夜権の実在と、其理由とを示して居る。出雲・宗像への三代格の文は、宮廷にばかり古風は存して居ても、民間には、神と現神とをひき離さうとする合理政策でもあり、文化施設でもあつたのだ。
地物の精霊の上に、大空或は海のあなたより来る神が考へられて来ると、高下の区別が、神々の上にもつけられる。遠くより来り臨む神は、多くの場合、村々の信仰の中心になつて来る。「杖代」とも言ふ嫁の進められる神は、此側に多かつた様である。時を定めて来る神は、稀々にしか見えぬにしても、さうした巫女が定められて居た。常例の神祭りに、神に扮して来る者の為にも、神の嫁としての為事は、変りがなかつた。此は、村の祭り・家の祭りに通じて行はれた事と思はれる。
二 まれびと
新築の室ほぎに招いた正客は、異常に尊びかしづかれたものである。
新室を踏静子が手玉鳴らすも。玉の如 照りたる君を 内にとまをせ(万葉巻十一旋頭歌)
と言ふのは、舞人の舞ふ間を表に立つ正客のある事を示して居るのであらう。家々を訪れた神の俤が見えるではないか。
新室の壁草刈りに、いまし給はね。草の如 よりあふ処女は、君がまに〳〵(万葉巻十一旋頭歌)
は、たゞの酒宴の座興ではない。室ほぎの正客に、舞媛の身を任せた旧慣の、稍崩れ出した頃に出来たものなる事が思はれる。
允恭天皇が、皇后の室ほぎに臨まれた際、舞人であつた其妹衣通媛を、進め渋つて居た姉君に強要せられた伝へ(日本紀)がある。嫉み深い皇后すら、其を拒めなかつたと言ふ風な伝へは、根強い民間伝承を根としてゐるのである。
来目部ノ小楯が、縮見ノ細目の新室に招かれた時、舞人として舞ふ事を、億計王の尻ごみしたのも、此側から見るべきであらう。神とも尊ばれた室ほぎの正客が弘計王の歌詞を聞いて、急に座をすべると言ふ点も、此をかしみを加へて考へねばなるまい。
まれびとなる語が、実は深い内容を持つて居るのである。室ほぎに来る正客は稀に訪ふ神の身替りと考へられて居たのである。恐らくは、正客が、呪言を唱へて後、迎へられて宴の座に直つたものであらう。今も、沖縄の田舎では、建築は、昼は人つくり、夜は神造ると信じて居る。棟あげの当日は、神、家の中に降つて鉦を鳴し、柱牀などを叩き立てる。其音が、屋敷外に平伏して居る家人の耳には、聞えると言ふ。勿論、巫女たちのする事なのである。
八重山諸島では、村の祭りや、家々の祭りに臨む神人・神事役は、顔其他を芭蕉や、蒲葵の葉で包んで、目ばかり出し、神の声色や身ぶりを使うて、神の叙事詩に連れて躍る。村の祭場での行事なのである。又、家の戸口に立つては、呪言を唱へて此から後の祝福をする。大地の底の底から、年に一度の成年式に臨む巨人の神、海のあなたの浄土まやの地から、農作を祝福に来る穀物の神、盂蘭盆の家々に数人・十数人の眷属を連れて教訓を垂れ、謡ひ踊る先祖の霊と称する一団など皆、時を定めて降臨する神と、呪言・演劇との、交渉の古い俤を見せて居る。
沖縄本島の半分には、まだ行はれて居る夏の海神祭りに、海のあなたの浄土にらいかないから神が渡つて来る。其を国の神なる山の神が迎へに出る。村の祭場で、古い叙事詩の断篇を謡ひながら、海漁、山猟の様子を演じるのが、毎年の例である。
万葉人の生活の俤を、ある点まで留めてゐると信ぜられる沖縄の島々の神祭りは、此とほりである。一年の生産の祝福・時節の移り易り、などを教へに来る神わざを、段々忘却して人間が行ふ事になつた例は、内地にも沢山ある。
明治以前になくなつて居た節季候は、顔を包む布の上に、羊歯の葉をつけた編笠を被り、四つ竹を鳴して、歳暮の家々の門で踊つた。「節季に候」と言うた文句は、時の推移と農作の注意とを与へた神の声であらう。万歳・ものよしの祝言にも、神としても、神人としても繰り返して来た久しい伝承が窺はれる。
「斎の木の下の御方は(如何今年を思ひ給ふなどの略か)」「されば其事(に候よの略)。めでたく候」(郷土研究)と言ふ屋敷神との問答の変化と見える武家の祝言から、今も行はれる民間の「なるか、ならぬか。ならねば伐るぞ」「なります。なります」と、果物の樹をおどしてあるく晦日・節分の夜の行事などを見ると、呪言と言ふよりは、人と精霊との直談判である。見方によつては、神が精霊にかけあふものゝ様にも見える。併し、此は見当違ひである。其は万歳と才蔵との例でも知れる事だ。
万歳について来る才蔵は、多分「才の男」から出たものだらう。又せいのうとも発音したらしく、青農と書いて居る事もある。但、此場合は、人形の事の様である。才の男は、人である事もある。内侍所の御神楽に「人長の舞」の後、酒一巡して「才の男の態」がある(江家次第)。此は一種の猿楽で、滑稽な物まねであつた。処が、人形の青農を祭りの中心とする社もちよく〳〵ある。殊に、八幡系統の社では、人形を用ゐる事が多かつた。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水系統の物らしい。此派の神楽では才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのではないかと思はれる。
才の男は最初、神に扮し、神を代表したものであらうが、信仰の対象が向上すると、神の性格を抜かれて置去られて了ふ様になつた。そこで、神の託宣を人語に飜訳し、人の動作にうつして、神の語の通辞役に廻る事になつたのであらう。神の暗示を具体化する処から、猿楽風の滑稽な物まねが演出せられる様になり、神がして、才の男がわきと言ふ風に、対立人物が現れる事になつたのであらう。狂言の元なる能楽の「脇狂言」なども、今日では誠に無意味な、見物を低能者扱ひにした、古風と言ふより外に、せむもない物になつたが、以前は語りを主にするものではなく、今の狂言が岐れ出るだけの、滑稽な、寧、能楽の昔の本質「猿楽」の本領を発揮したものであつた筈である。神事能の語りは、武家の要求につれて、おもしろい「修羅物」などに偏つて行つたのである。
内容は段々向上して、形式は以前の儘に残つて居る処から、上が上にと新しい姿を重ねて行く。狂言やをかしなどが、わきの下につく様になつたのも此為である。
「俄」「茶番」「大神楽」などにも、かうした道化役が居て、鸚鵡返し風なおどけを繰り返す。前に言うた旋頭歌が形式に於て、此反役をして居るが、更に以前は、内容までが鸚鵡返しであつたものと思はれる。問ひかけの文句を繰り返して、詞尻の?を!にとり替へる位の努力で答へるのが、神託の常の形だつたのである。
三 ほかひ
寿詞を唱へる事をほぐと言ふ。ほむと言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。ほむは今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。同じ用語例に這入るたゝふは、大分遅れて出た語であるらしい。満ち溢れようとする円満な様子を、期待する祈願の意である。たゝはしと言ふ形容詞の出来てから、此用語例は固定して来たものと思はれる。讃美したくなるから、讃はしと言ふのではないらしい。
再活用してほかふ、熟語となつて、こと(言)ほぐと言うたりするほぐの方が、ほむよりは、原義を多く留めて居た。単に予祝すると言ふだけではなかつた。「はだ薄ほに出し我や……」(神功紀)など言ふ「ほ」は、後には専ら恋歌に使はれる様になつて「表面に現れる」・「顔色に出る」など言ふ事になつて居る。併し、神慮の暗示の、捉へられぬ影として、譬へば占象(うらかた)の様に、象徴式に現れる事を言ふ様だ。末(うら)と、秀(ほ)とを対照して見れば、大体見当がつく。「赭土(あかに)のほに」など言ふ文句も、赭土の示す「ほ」と言ふ事で、神意の象徴をさす語である。此「ほ」を随伴させる為の詞を唱へる事を、ほぐと言うて居たのであろうが、今一つ前の過程として、神が「ほ」を示すと言ふ義を経て来た事と思ふ。文献に現れた限りのほぐには、うけひ・うらなひの義が含まれてゐる様である。
ある注意を惹く様な事が起つたとする。古人は、此を神の「ほ」として、其暗示を知らうとした。茨田(まむだ)の堤(又は媛島)に、雁が卵を産んだ事件があつて、建内宿禰が謡うた(記・紀)と言ふ「汝がみ子や、完に領らむと、雁は子産らし」を、本岐(ほぎ)歌の片哥として居る。常世の雁の産卵を以て、天皇の不死の寿の「ほ」と見て、ことほぎをしたのである。寿詞が、生命のことほぎをする口頭文章の名となつて、祝詞と言ふ語が出て来たものと思はれる。原義は、其一に書いたとほりの変遷を経て来るのである。唯ほぐ対象が生命であつた事は、事実らしい。
くしの神 常世にいます いはたゝす 少名御神の神ほき、ほきくるほし、豊ほき、ほきもとほし、まつり来しみ酒ぞ(記)
と言ふ酒ほかひの歌は、やはり生命の占ひと祝言とを兼ねて居る事を見せて居る。敦賀から上る御子品陀和気の身の上を占ふ為に、待ち酒を醸して置かれたのである。一夜酒や、粥占を以て、成否を判断する事がある。此も、酒の出来・不出来によつて、旅人の健康を占問ふのである。さうして帰れば、其酒を飲んで感謝したのであらう。
酒ほかひと言ふのは、唯の酒もりではない。酒を醸す最初の言ほぎの儀式を言ふのだ。どうかすれば、酒をつくる為の祝ひ、上出来の祈願の様に見えるが、其は当らない。「……ますら雄のほぐ豊御酒に、我ゑひにけり」(応神紀)は、ほぎしの時間省略の形である。此は、待ち酒の恒例化したもので、酒づくりの始めを利用して、長寿の言ほぎして占うたものなのである。此部分が段々閑却せられて来ると、よく醗酵する様に祈ると言ふ方面が、ことほぎの一つの姿となつて来る。酒ほかひなる語が、酒宴の義に近づく理由である。かうした変化は、どの方面のほかひにもあつた事なのである。唯、酒は元もと神事から出たものだから、出発点に於ける占ひの用途を考へない訣にはいかない。
室ほぎの側になると、此因果関係は交錯して居る。弘計王の室ほぎの寿詞は、恐らく世間一般に行はれて居た文句なのであらう。建て物の部分々々に詞を寄せて、家長の生命を寿して居る。柱は心の鎮り、梁は心の栄し、椽は心の整り、蘆雚は心の平ぎ、葛根は命の堅め、葺き芽は富みの過剰を示すと言ふ風の文句の後が、今用ゐて居る酒の来歴を述べる讃歌風のもので、酒ほかひの変形である。さうして其後が「掌やらゝに、拍ちあげ給はね。わが長寿者(常齢)たち」(顕宗紀)の囃し詞めいた文で結んでゐる。此処にも、室ほぎと生命の寿との関係が見える。
新築によつて、生活の改まらうとする際に、家長の運命を定めて置かうとするのである。此方は、生命と其対照に置かれる物質とはあるが、占ひの考へは、含まれて居ない様だ。唯あるのは、譬喩から来るまじなひである。
新築の家でなくとも、言ほぎによつて、新室とおなじ様にとりなす事の出来るものと考へた事もあるらしい。毎年の新嘗に、特に新嘗屋其他の新室を建てる事は出来ないから、祓へと室ほぎとを兼ねた大殿祭の祝詞の様なものも出来た。例年の新嘗・神今食並びに大嘗祭には、式に先つて、忌部が、天子平常の生活に必出入せられる殿舎を廻つて、四隅にみほぎの玉を懸けて、祝詞を唱へて歩いた。みほぎと言ふのは、神が表すべき運命の暗示を、予め人が用意して於て祝福するので、此場合、玉は神璽として用ゐたのではない。出雲国造神賀詞の「白玉の大御白髪まし、赤玉のみあからびまし、青玉のみづえの玉のゆきあひに、明つ御神と大八島国しろしめす……」など言ふ譬喩を含んだものなのである。
四 よごと
寿詞が、完全に齢言の用語例に入つて来たのは、宮廷の行事が、機会毎に天子の寿をなす傾きを持つてゐたからであらう。民間の呪言が、悉く家長の健康・幸福を祈る事を、目的としてばかり居たとは言へない。単純に、農作・建築・労働などに効果を招来しようとする呪言が、多くあつたに違ひない。
毎年々頭、郡臣拝賀のをり、長臣が代表して寿詞を奏した例は、奈良朝迄も続いたものと見る事が出来る。文字は「賀正事」と宛てゝ居るが、やはりよごとである。家持の「今日ふる雪のいや頻け。よごと」(万葉巻二十)は、此寿詞の効果によつて、永久に寿詞の奏を受けさせ給ふ程に、長寿あらせ給へと言ふのである。又「千年をかねて、たぬしき完へめ」(古今巻二十)なども、新年宴の歓楽を思ふばかりでなく、寿詞によつて、天子の寿の久しさを信じ得た人の、君を寿しながら持つ豊かな期待である。古くは各豪族各部曲から、代表者が出て、其々伝来の寿詞を申した事、誄詞と同様であつた事と思はれる。其文言は、中臣天神寿詞・神賀詞などに幾分似通うたものであらう。真直に延命の希望ばかりを述べる事は、尠かつたらうと考へる。
最古い呪言は、神託のまゝ伝襲せられたと言ふ信仰の下に、神の断案であり、約束であり、強要でもあつたのである。神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられて居た。「天つのりとの太のりと言」と称せられるものが、其なのである。文章の一部分に、此神授の古い呪言を含んだものが、忌部氏の祝詞並びに、伊勢神宮祝詞・中臣氏の天神寿詞の中にある。
殊に其古い姿を思はせて居るのは、鎮火祭の祝詞である。
天降りよさしまつりし時に、言よさしまつりし天つのりとの太のりと言を以ちて申さく
と前置きし、
……と、言教へ給ひき。此によりてたゝへ言完へまつらば、皇御孫の尊の朝廷に御心暴(いちはや)び給はじとして……天つのりとの太のりと言をもちて、たゝへ言完へまつらくと申す。
と結んで居る。其中の部分が、天つ祝詞なのである。火の神の来歴から、其暴力を逞くした場合には、其を防ぐ方便を神から授かって居る。火の神の弱点も知つて居る。其敵として、水・瓢・埴・川菜のある事まで、母神の配慮によつて判つて居ると説く文句である。神言の故を以て、精霊の弱点をおびやかすのである。此祝詞は、今在る祝詞の中、まづ一等古いもので、齢言以外の寿詞の俤を示すものではなからうかと思ふ。但、天つ祝詞以外の文句は、時代は遥かに遅れて居る。
最愛季子に火産霊神生み給ひて、みほと焼かえて岩隠りまして、夜は七夜、日は七日、我をな見給ひそ。我が夫の命と申し給ひき。此七日には足らずて、隠ります事あやしと見そなはす時、火を生み給ひてみほと焼かえましき。
など言ふ文は、古風であるが、表現が如何にも不熟である。此程古拙なものは、他には見当らない。呼応法の古い形式を、充分に残してゐる。
他の天つのりと云々を称する祝詞は、皆別に天つ祝詞があつて、其部分を示さなかつたのかと思はれる程、其らしい匂ひを留めぬものである。大祓祝詞に見えた天つ祝詞などは、恐らく文中には省いてあるのであらうが、中には、精霊を嚇す為に、其伝来を誇示したものもある様だし、或はもつと不純な動機から、我が家の祝詞の伝襲に、時代をつけようとしたのかと思はれるものさへある。
天つ祝詞の類の呪言が一等古いもので、此は多く、伝承を失うて了うた。所謂三種祝詞と称するとほかみゑみためと言ふ呪言が、天つのりとだとするのは、鈴木重胤である。
五 天つ祝詞
天つ祝詞にも色々あつたらしく思はれる。鎮火祭の祝詞などでも、挿入の部分は、とほかみゑみためなどゝは、かなり様子が変つて居る。天つ祝詞を含んで、唱へる人の考への這入つて居る此祝詞は、第二期のものである。今一つ前の形が天つ祝詞の名で一括せられてゐる古い寿言なのである。第三期以下の形は、神の寿詞の姿をうつす事によつて、呪言としての威力が生ずると言ふ考へに基いて居る。其製作者は、現神即神主なる権力者であつたであらう。第四期としては、最大きな現神の宮廷に、呪言の代表者を置く事になつた時代で、天武天皇の頃である。
「亀卜祭文(釈紀引用亀兆伝)」には、太詔戸ノ命の名が見え、亀兆伝註には、亀津比女ノ命の又の名を天津詔戸太詔戸ノ命として居る。一とほり見れば、占ひの神らしく見える。今一歩進めて見れば、三種祝詞に属した神と言ふ事になる。思ふに、亀津比女ノ命は固より亀卜の神であらう。太詔戸ノ命は一般の天つ祝詞の神であり、亀津比女ノ命は其一部の「とほかみゑみため」の呪言の神なのではなからうか。此神は祝詞屋の神で、一柱とも二柱とも考へる事が出来たのであらう。若し此考へがなり立つとすれば、太詔戸ノ命は、寿詞・祝詞に対して、どう言ふ位置を持つ事になるであらう。
呪言の最初の口授者は、祝詞の内容から考へると、かぶろき、かぶろみの命らしく見える。併し、此は唯の伝説で、こんなに帰一せない以前には、口授をはじめた神が沢山あつたに違ひない。ところが伝来の古さを尊ぶ所から、勢力ある神の方へ傾いて行つたのであらう。天津詔戸太詔戸ノ命は、古い呪言一切に関して、ある職能を持つた神と考へられたものとしても、何時からの事かは知れない。
神語を伝誦する精神から、呪言自身の神が考へられ、呪言の威力を擁護し、忘却を防ぐ神の存在も必要になつて来る。此意味に於て、太詔戸ノ命と言ふ不思議な名の神も祀られ出したのではなからうか。其外に、今二つの考へ方がある。呪言口授の最初の神か、呪言の上に屡現れて来る神、即ある呪言の威力の神格化、かうした事も思はれる。
亀卜の神にして、壱岐の海部の卜部の祀つた亀津比女が何故祝詞と関係をもつかと言ふ問ひは、祝詞と占ひとの交渉の説明を求めることになる。三種祝詞ばかりでなく、寿詞・祝詞には、占ひと関聯する事が多い様である。酒ほかひの如きも、占ひに属する側が多かつた。神の示す「ほ」は譬喩表現である。ある物の現状を以て、他の物の運命を此とほりと保証する事がほぐの原義であつて見れば、人は「ほ」の出来る限り好もしい現れを希ふ。祈願には必、どうなるかと言ふ問ひを伴ふ。祝師(のりとし)の職掌が、奇術めいた呪師(のろんじ)を生んだと言ふ推定を、私は持つて居る。奇術は、占ひの芸道化したものなのである。
この玉串をさし立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天つのりとの太のりと言をもて宣れ。かくのらば、占象は、わかひるに、ゆつ篁出でむ。其下より天の八井出でむ。……(中臣寿詞)
かうして見ると、呪言には直ちに結果を生じるものと、そして唱へる中に結果の予約なる「ほ」の現れるものとの二つある事が知れる。其次に起る心持ちは、期待する結果の譬喩を以て、神意を牽きつけようとする考へである。
内容の上から発生の順序を言へば、天つのりとの類は、結果に対して直接表現をとる。ほぐ事を要件にする様になるのは、寿詞の第二期である。神の「ほ」から占ひに傾く一方、言語の上に人為の「ほ」を連ねて、逆に幸福な結果を齎さうとするのが、第三期である。わが国の呪言なる寿詞には、此類のものが多く、其儘祝詞へ持ちこしたものと見える。外側の時代別けで言へば、現神なる神主が、神の申し口として寿詞を製作する頃には、此範囲に入るものが多くなるのである。第四期の呪言作者の創作物は、著しく功利的になる。現神思想が薄らぐと共に、人間としての考へから割り出した祈願を、単に神に対してする事となる。
六 まじなひ
呪言が譬喩表現をとり、神意を牽引する処からまじなひが出て来る。大殿祭・神賀詞のみほぎの玉は既に、此範囲に入つてゐる。殊に言語の上のまじなひの多いのは、神賀詞である。御ほぎの神宝が、一々意味を持つて居る。白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・白鵠・倭文・若水沼間・鏡が譬喩になつて、縁起のよい詞が続いて居る。此等は名称の上の譬喩から、更に抽象的に敷衍して居るのである。古くから伝へて居る譬喩ほど、具象性と近似性が多くなつて居る。常磐・堅磐は実は古代の室ほぎから出たもので、床岩・壁岩と、生命の堅固との間に、類似を見たのである。
天の八十蔭(天の御蔭・日の御蔭)葛根など言ふのは、皆屋の棟から結び垂れた葛の縄である。やはり、室ほぎに胚胎した。其長いところから、生命の長久のほかひに使はれて居る。桑の木の活力の強さから「いかし八桑枝」と言ふ常套語が出来てゐる。此等は近代の人の考へる様な単純な譬喩ではなく、其等の物の魅力によつて、呪術を行うた時代があつた為であらう。其等の物質の、他を感染させる力によつて、対象物をかぶれさせようとするのである。
おなじく感染力を利用するが、結果は頗交錯して現れる所の、今一つ別の原因がある。言語精霊の考へである。従来、無制限に称へられて来た、人語に潜む精霊の存在を言ふ説は、ある点まで条件をつけねばなるまい。散文風に現れる日常対話にはない事で、神託・神語にばかりあるものと信じて居たのである。太詔戸ノ命が、或は此意味の神ではなからうかと言ふ想像は、前に述べた。ことだまは言語精霊といふよりは寧、神託の文章に潜む精霊である。
さて、言霊のさきはふと言ふのは、其活動が対象物に向けて、不思議な力を発揮することである。辻占の古い形に「言霊のさきはふ道の八衢」などゝ言うて居るのは、道行く人の無意識に言ひ捨てる語に神慮を感じ、其暗示を以て神文の精霊の力とするのである。要するに、神語の呪力と予告力とを言ふ語であるらしい。其信仰から、人の作つた呪言にも、神の承認を経たものとして、霊力の伴ふものと考へられたのである。此夕占の側から見ても、亀津比女との交渉は、説明が出来るのである。
私の話は、寿詞を語りながら、まだ何の説明もしない祝詞の範囲まで入り込んで行つた。併し、此二つほど、限界の入り乱れて居るものはない。一つを説く為には、今一つを註釈とせぬ訣には行かない。寿詞の範囲が狭まり、祝詞が段々新しい方面まで拡つて行つた為、大体には、二様の名で区別を立てる様になつた。新作の祝詞と言ふべき分までも、寿詞と言つたのが飛鳥朝の末・藤原の都頃であつた。祝詞の名は、奈良に入つて出来たもので、唯此までもあつた「告り処」なる神事の座で唱へる「のりと言」に限つての名が、漸くすべての呪言の上におし拡められて来たのである。
巡遊伶人の生活
一 祝言職
人の厭ふ業病をかつたいといふ事は、傍居の意味なる乞食から出たとするのがまづ定論である。さすれば、三百年以来、おなじ病人を、ものよしと言ひ来つた理由も、訣る事である。ものよしなる賤業の者に、さうした患者が多かつたか、又は単に乞食病ひと言ふ位の卑しめを含ませたものとも思はれる。ものよしが、近代風の乞食者となるまでには、古い意味の乞食者即、浮浪祝言師──巡遊伶人──の過程を履んで来て居る事が思はれる。千秋万歳と言へば、しかつめらしいが、民間のものよしと替る所がなく、後々はものよしの一部の新称呼とまでなつて了うた。
奈良の地まはりに多い非人部落の一つなるものよしは、明らかにほかひを為事にした文献を持つて居る。
倭訓栞に引いた「千句付合」では、屋敷をゆるぎなくするものよしの祝言の功徳から、岩も揺がぬと言ひ、付け句には「景」に転じてゐる。
あづまより夜ふけてのぼる駒迎へ、夢に見るだに、ものはよく候
とある狂歌「堀川百首」の歌は、ものよしの原義を見せてゐる。ものは物成などのものと同様、農産の義と見えるが、或は漠然とした表し方で、王朝以来の慣用発想なる某──「物」なる観念に入れて、運勢をものと言うたのかも知れない。
江家次第には、物吉の字の一等古い文献を留めてゐる。ものとよしと言ふ観念の結びつきは確かだが、語尾の訓み方に疑ひがある。賀正事の非公式になつたもので、兼ねて「斎の木の祝言」の元とも言ふべき宮廷の新年行事である。ものの意義は、内容が可なり広く用ゐられてゐる。年中の運勢など言ふ風にも感じられる。
大小名の家で家人たちのした祝言は、千秋万歳類似のこと以外にも色々あつたであらう。暮から春へかけて目につくのでは、其外にも二つの事がある。一つは「夢流し(初夢の原形)」、他は、前に書いた「斎の木の祝言」である。此等の為事は、思ふに、古くから一部さむらひ人の附帯事務であつたらしい。
家人と言つても、奴隷の一種に過ぎないやつこが、家の子と時代に応じて言ひ換へられても、後世の武家が「御家人」なる名に感じた程、名誉の称号ではなかつた。門跡に事へた候人は、音読してこうにんとも言うたが、元はやはりさむらひゞとで、舎人を模した私設の随身である。其が寺奴の出であらうと言ふ事は、半僧半俗と言ふよりは、形だけは同朋じたてゞあるが、生活は全くの在家以上で、殺生を物ともせなかつた。山法師や南都大衆は此候人の示威団体だつたのである。室町御所になつて出来た同朋が、荒事を捨てゝも、多く、社奴・寺奴の方面から出て居たのは、一つの註釈になる。
侍の唱へる「斎の木の下の御方は」に対して「さればその事。めでたく候」と答へる主公は、自身の精霊の代理である。即、返し祝詞と言はれるものゝ類である。寿詞を受けた者の内部から発するはずの声を、てつとり早く外側から言ふ形であらう。謂はゞ天子の受けられる賀正事に、天子の内側の声が答へると言ふ形式があつたものとすれば、よく訣る事だ。自分の内部に潜む精霊の、祝言に応じて言ふ返事の、代役と言ふ事になるのであらう。賀正事も唯の廟堂の権臣としての資格からするのではなからう。それ〴〵の氏ノ上たり、村の君たる者として、当然持つた神主の祭祀能力から出たものと見える。
返し祝詞は、宮内省掌典部の星野輝興氏が、多くを採集して居られる。
千秋万歳の、宮中初春の祝言に出るのは、室町頃から見えてゐる。此は北畠・桜町の唱門師の為事であつた。忌部の事務の、卜部の手に移つたものは多い。其が更に、陰陽道の方に転じて、その配下の奴隷部落の専務と言ふ姿になつたものであらう。社寺の奴隷はある点では、一つものと誤解せられる傾きがあつた。それを又利用して、口過ぎのたつきとした。社寺の保護が完全に及ばぬ様になると、世の十把一とからげの考へ方に縋つて、大体同じ方向の職業に進むことになつた。手工類の内職で、伝習に基礎を置くものは別として、本業は事実、混乱し易く、此を併合しても目に立たなかつた。唱門師なども、大抵寺奴であり、社奴であると言ふ資格から、入り乱れて、複雑な内容を持つた職業を作り上げたが、唱門なる語の輪廓がむやみに拡つて、すべてを容れる様になつたと言ふ側からも考へられる。
寺の奴隷から出たものは、三井寺の説経師・叡山の導師の唱導を口まねをした、本縁・利生・応報の実例を、章句としては律要素の少い、口頭の節まはしに重きを置くやうな説経を語つて、口過ぎのたつきとしたらしい。さうして後から出た田楽や、猿楽能の影響を受けながら、室町に入つて、曲目も一変したらしい。一方、神人と言はれる社奴の方には、卜部の部下が、忌部以来の寿詞風の「屋敷ぼめ」や、此徒唯一の財源でもあり、神人の唯一財源とも見えた、民間様々の時期の祓へに頼まれて、暮しを立てゝゐた。其が、王朝の末から、段々融合して、「今昔物語」にも見えるやうな、房主頭で、紙冠をつけた祓神主さへ出現する事になつて来た。神職・神人が神の外に仏に事へることを憎しまなかつた時代だから、かう言ふ異形の祭官をも、不思議とせぬ時が続いて来た。而も、尚一つ唱門の本職と結びつかねばならぬ暗示が、古くからあつた。其はほかひゞとの一等古い形式が、前型になつて居るのである。
土御門家の禁制によつて、配下の唱門師が説経節を捨てなければならなくなつたのは、江戸の初めの事である。其までの間は、新形の説経として、謡曲類似の詞曲と「曲舞」とを持ち、祓へや、屋敷ぼめをして居たのである。唯、わりあひに戦国の世には、歴史家の空想を超越した安らかな生活が、下々の民の上には在つた。彼等は、土地を離れない生活を営む様になつてゐた。副業も活計を支へる事の出来る程、世間から認められて来た。此点が稍違ふのであるが、田楽・猿楽の役者たちが、屡檀那なる豪族の辺土の領地を巡遊した事から見ても、全くの土着の農民と一つに見る訣には行かぬ。
ものよしは早く社との関係を失ひ、宮廷の千秋万歳も、唱門師と手をとりあふ様になると、地方の大小名の家の子のする年頭の祝言は、ある家筋の侍には限らなくなつたであらう。祝言にも、愈職業化したものと、職業意識を失うたものとが出来た訣だ。
ものよしと万歳とは、民間と宮廷との違うた呼び名から、二つに見える様になつたが、実は元一つである。地方のものよしがすべて宮廷式・都会風の名に改まつて行つて、明治大正の国語の辞典には「癩病の異名。方言」として載せられる位に忘れられた。
語から見ても、ものよしの方が「千秋万歳」を文句の尻にくり返したらしい後者よりは、古い称へであつたであらう。此ものよしが直ちに、意義分化以前のほかひゞとの続きだとは、速断しかねるが、大体時代は、略接して居るものと言へる様である。日なみ月なみ数へ・勧農・祝言、様々の神人がゝつた為事が、順ぐりに形を変へて、次の姿になつたと見るよりは、一つの種が、時代と地方とで、色々な形と、色々な色彩とを持つて、後から〳〵出たものと見る事も出来よう。でも、其は却つて論理を複雑にするものであるから、直系・傍系と言ふ点の考へに重きを置くことをやめて、事実を見る外はあるまい。
二 「乞食者詠」の一つの註釈
万葉巻十六は、叙事詩のくづれと見えるものを多く蒐めて居る。其中、殊に異風なのは、「乞食者詠」とある二首の長歌である。此を、必しもほかひゞとのうたと訓まなくとも、当時の乞食者の概念と、其生活とは窺はれる。土地についた生業を営まず、旅に口もらふと言ふ点から、人に養はれる者と言ふ侮蔑を含んで居る。決して、近世の無産の浮浪人をさすのではない。而も、巡遊伶人であることは、確かである。
平安の中頃には、ほかひが乞食と離れぬ様になつてゐるのだから、仮りにこゝを足場として、推論を進めて行つて見る事も出来よう。ほかひゞとは寿詞を唱へて室や殿のほかひなどした神事の職業化し、内容が分化し、芸道化したものを持つて廻つた。最古い旅芸人、門づけ芸者であると言ふ事は、語原から推して、誤りない想像と思ふ。
さうすれば、ほかひゞとの持つて歩いた詞曲は、創作物であるかと言ふ疑ひが起る。寿詞が次第に壊れて、外の要素をとり込み、段々叙事詩化して行つて、人の目や耳を娯ませる真意義の工夫が、自然の間に変化を急にしたであらう。此までの学者の信じなかつた事で、演劇史の上に是非加へなければならぬのは人形のあつた事である。其に、叙事詩にあはせて舞ふ舞踊のあつた事である。此事は後に言ふ機会がある。
此歌は、其内容から見ても、身ぶりが伴うて居てこそ、意義があると思はれる部分が多い。「鹿の歌」は、鹿がお辞儀する様な頸の上げ下げ、跳ね廻る軽々しい動作を演じる様に出来て居る。「蟹の歌」も、其横這ひする姿や、泡を吐き、目を動すと言つた挙動が、目に浮ぶ様に出来て居る。其身ぶりを人がしたか、人形で示したかは訣らない。舞踊の古代の人に喜ばれた点は、身ぶりが主なものである。事実、其痕は十分見えて居る。此が神事の演劇と複雑に結びついて、物まねで人を笑はせようと言ふ方へ、益傾いて行つた。猿楽も、歌舞妓芝居も、其名自身、人間の醜態や、見馴れた動物の異様な動作の物まね・身ぶりであることを見せて居る。
想像が許されゝば、私は此歌にかう註釈したい。鹿は山地、蟹は水辺の農村にとつて、恐しい敵である。鹿は勿論、蟹に喰はれ、爪きられて、稲の荒される事は、祖先以来経て来た苦い経験である。農作予祝の穀言が、風や水に関係した文句を持つて居たらうと思はれる事は、後に出来た祝詞から想像がつく。併し、動物の害事を言うては居ない。けれども、宮廷から国々の社に伝達せられた祝詞の外に、社に伝来した土地の事情に適切な呪言があつた事は疑ひもない。鳥獣や虫類を脅かして、退散させようとする呪言もあつた事と思ふ。
ほかひの様式が分化して芸道化しかけた時、其等の動物を苦しめる風の文句が強く表され、動作にも其を演じて見せる様になり、更に其が降服して、人間の為に身を捧げる事を光栄とすると言つた表現を、詞にも、身ぶりにも出して来るとすると、此歌の出来た元の意義は納得出来る。此歌の形式側の話は、後にしたい。
三 当てぶりの舞
呪言の効果を強める為に、呪言を唱へる間に、精霊をかぶれさせ、或はおどす様な動作をする。田楽・猿楽にすら、とつぎの様を実演した俤は残つて居る。此は精霊がかまけて、生産の豊かになる事を思ふのである。精霊をいぢめ懲す様も行はれたに違ひない。此が身ぶりの、神事に深い関係を持つ様になる一つの理由である。而も、神事の傾向として、祭式を舞踊化し、演劇化する所から、身ぶり舞をつくり上げたのである。
隼人のわざをぎは、叙事詩の起原説明には、単に説明に過ぎなからうが、舞踊化の程度の尠いものと察せられる、水に溺れる人の身ぶり・物まねである。
殊舞(たつゝまひ)は起ちつ居つして舞ふからの名だ、と言ふ事になつて居るが、王朝以後屡民間に行はれた「侏儒舞」の古いものを、字格を書き違へて伝へ、たつゝなる古語を名として居た為に、訣らなくなつたのであらう。此舞を舞うたのは弘計ノ王で、度々言うて来た縮見の室ほぎの時であつたのも、家の精霊を小人と考へて居た平安朝頃の観念を、溯らして見る事が出来れば、説明はうまくつく。
鳥名子舞は、伊勢神宮で久しい伝統を称してゐるものである。普通ひよ〳〵舞と言うた上に、鶏の雛の姿を模する舞だと言ふから、やはりあの跛の走る様なからだつきの身ぶりなのだ。
鹿や蟹のをこめいた動作をまねる人か人形かの身ぶりが、寿詞系統のほかひゞとの謡について居なかつたとは言はれないのである。
四 ほかひゞとの遺物
ほかひゞとの後世に残したものは、由緒ある名称と、門づけ芸道との外に、其名を負うた道具であつた。延喜式などに見える外居・外居案など言ふ器は、行器(ほかひ)と一つ物だと言はれて居る。其脚が外様に向いて猫足風になつて四本ある処から出たものと思はれて来た。かなり大きなもので、唐櫃めいた風らしく考へられる。其稍小さくて、縁があつて、盛り物でもするらしい机代りの品を、「外居案」と言ふらしい。「ひ」と「ゐ」とは、音韻に相違はあつても、此時代はまだ此二音の音価が定まらないで、転化の自由であつた時なのだから、仮字の違ひは、物の相違を意味せないのである。
だが、稍遅れた時代の民間のほかひは、其程大きな物ではない。形も大分変つて来てゐる様である。絵巻物によく出て来る此器は、形はずつと小さくて、旅行や遠出に、一人で持ち搬びの出来る物である。
私は、ほかひゞとの常用した此器を便利がつて、大小に拘らず其形を似せて、一般に用ゐ出したのだと思ふ。今一歩推論してもよければ、頭上・頸・肩に載せたり、掛けたり、担いだりして、出来る限りの物を持つて出かけるのが、昔の人の旅行であつたであらう。其が、ともかく担ぎなり、提げなりして、二人分も三人分もの荷物を搬ぶ道具を国産する様になつたのが、旅行生活に慣れたほかひの徒の手からであつたものらしい。さうなら、ほかひゞとの略称なるほかひが、発明者の記念として、器の名となるのも、順当な筋道である。
行器を、清音でほかひと発音するだらうと言ふ事は、外居の宛て字からも考へられる。古泉千樫さんも、其郷里房州安房郡辺では、濁らないで言ふことゝ、山の神祭りの供物を、家々から持つて登る時に使ふ為ばかりに保存せられて居る事とを、教へて下さつた。
宮廷に用ゐられた外居が、行器とおなじ出自を持つて居るものとすれば、何時の頃どう言ふ手順で入り込んだか、すべては未詳である。唯、神事に関係のある器である事だけは、確からしい。
巡遊伶人として、芸道の方面に足を踏み込む様になつても、本業呪言を唱へる為事は、続けて居たと言ふ事は考へられる。彼等の職業はどう分化しても、一種の神の信仰は相承せられて行つた。寿詞を誦し、門芸を演じながら廻る旅の間に、神霊の容れ物・神体を収めた箱を持つて歩かなかつたとは考へられない。漂泊布教者が箱入りの神霊を持ち搬んだことは、屡例がある。ほかひは元、実は其用途に宛てられてゐたのだが、利用の方面を拡げて来たものと言ふことが出来よう。柳田国男先生は、曾て「うつぼと水の神」と言ふ論文(史学)を公にせられた。箱が元、単なる容れ物でなく、神霊を収めるもので、其筋を辿ると、ひさご・うつぼの信仰上の意味も知れる事をお説きになつて居る。あれを見て頂けば、私の議論はてつとり早く納得して貰へよう。
ほかひと言はれる道具の元は、巡遊伶人が同時に漂泊布教者であつた事を見せて居り、長旅を続ける神事芸人の団体が、藤原の都には既に在つた事を思はせるのは、微妙な因縁と言はねばならぬ。
五 ほかひの淪落
乞食者詠の出来たのは、どう新しく見ても、民衆に創作意識のまだ生じて居なかつた時代である。創作詩の始めて現れたのは、人を以て代表させれば、柿本ノ人麻呂の後半生の時代である。蟹や鹿の抒情詩らしく見える呪言叙事詩の変態の出来たのは、前半期と時を同じくして居るか、少し古いかと思はれる頃である。
形は寿詞じたてゞ、中身は叙事詩の抒情部分風の発想を採つて居る。此は寿詞申しと語部との融合しかけた事を見せて居るのである。さうして其ほかひたちが、どういふ訣で流離生活を始める事になつたか。
叙事詩を伝承する部曲として、語部はあつたのだが、寿詞を申す職業団体が認められて居たかどうかは疑問である。ほかひなるかきべの独立した痕は見えないばかりか、反証さへある。祝詞になつては勿論だが、寿詞さへ、上級神人に口誦せられて居た例は、幾らもあるし、氏々の神主──国造=村の君──と言つた意味から出た事であらうが、氏ノ上なる豪族の主人であつた大官が、奏上する様な例もある。さすれば此が職業としての専門化、家職意識を持つた神事とはなつて居なかつたとも言へる様である。而も一方、平安朝には既に祝師(のりとし)などゝ言ふ、わりあひに下の階級の神人が見え出して来た。其に元々、呪言を唱へることが、村の君の専業ではなく、寧、伝来ある村の大切な行事の外は、寿詞に関係せなくなる。さうなると、此為事に与る神人の資格は、段々下の方に向いて行くであらう。其上、当時まだ、村の君など言ふ頭分を考へなかつた時代の記憶を止めて居た地方では、成年式を経た若者たちが「一時神主」として、神にも扮し、呪言をも唱へた。其が沖縄ばかりか、大正の今日の内地にすら残つて居るのである。さう言ふ風に若者中、神人・神主と、色々に呪言を誦する人々がある上に、突如として宗教的自覚を発する徒などがあつて、呪言を取扱ふ人々は、必多様であつたに違ひない。
村々の家々と其生産とを予祝する寿詞は、若者か、下級の神人の為事になつて行く傾きのある事は考へられる。村々の宗教が、段々神社制度に飜訳せられて行くと、社に関係の薄い者から落伍しはじめて来る。ほかひは元、神社制度以前のもので、以後も、神社との交渉は尠かつた。其に与る神人も、正しい神職でなかつたりする為に、漸く軽く見られる傾きが出て来た。宮廷では、中臣・忌部の神主が共に呪言を奏するのに、中臣は神社制度に伴ふ側に進み、忌部は旧慣どほりほかひを主とした点からも、前者にけおとされねばならぬ事になつたのである。
社々にだつて、ほかひ側の為事はない訣ではない。而も祓へ・占ひ・まじなひなどの外は、よごとの語義に関係の深い「祈年呪言(穀言)」・「長寿呪言(齢言)」すら、ほかひの範囲から逸れて了ふ事になつた。
神社の有無が、神の資格定めの唯一の条件になつて来ると、ほかひの対象なる精霊は、位づけが明らかに下つて来る。さうなると、寿詞の価値も自ら低くなつて、高い意味の寿詞並びに、醇化した神の為の新しい呪言が、のりとの名を以て、其にとつて替る事になつたのである。
既に地位の下りかけて居た祝言が、更に分化して一種の職業となつたほかひの徒のはじまりは、どう言ふ種類の人々であつたであらう。一時神主として、ほかひに習熟した村の若者出の人々や、後楯なる豪族に離れた村々の神人の、亡命或は零落した者が、占ひ・祓へ・まじなひと共に、祝言をのべて廻つたのが、此が職業化した古い姿と思はれる。
村と村との睨みあふ心持ちは、まだ抜け切らぬ世の中でも、此旅人はわりに安心であつたであらう。異郷の神は畏れられも、尊ばれもした。霊威やゝ鈍つた在来の神の上に、溌溂たる新来の神が、福か禍かの二つどりを、迫つて来る場合が多かつた。異郷から新来の客神を持つて来る神人は、呪ひの力をも示した。よごとを唱へると同時に、齢(よ)と穀(よ)とを荒す、疫病・稲虫を使ふ事も出来た。駿河ではやつた常世神(継体紀)、九州から東漸した八幡の信仰の模様は、新神の威力が、如何に人々の心を動したかを見せて居る。ほかひゞとの、異郷を経めぐつて、生計を立てゝ行く事の出来たのも、此点を考へに入れないでは、納得がいかない。
村々を巡遊して居る間に、彼等は言語伝承を撒いて歩いた。右に述べた様な威力を背負つて居た事を思へば、其為事が、案外、大きな成績をあげた事が察せられるのである。
其外に、神奴も、此第一歩の運動には、与つて居さうに思はれる。併し、奴隷階級の者がどうして自由に巡遊する事が出来たか、此点の説明が出来さうもない。だから、此は今姑らく預つて、考へて見たいと思ふ。
六 叙事詩の撒布
ほかひが部曲として、語部の様に独立して居なかつた事は、巡遊伶人としての為事に、雑多な方面を含む様になつた原因と見る事が出来る。
乞食者詠を見ても知れる様に、寿詞の様式の上に、劇的な構造や、抒情的な発想の加つて来たのは、語部の物語の影響に外ならぬのである。私は保護者を失うた神人の中に、村々の語部をも含めて考へて居る。其上ほかひ(祝言)が神人としての専門的な為事でないとすれば、語部にしてほかひ、ほかひにして「物語」をある程度まで諳じて居ると言つた事情の者もあつたであらう。元々、神に対してまる〳〵の素人でない者の事である。語部の叙事詩を、唱へ言の中にとり入れて、変つた形を生み出す様になつたのも、謂はれのない事ではない。
単にとり込んだばかりでなく、本義どほりにはほかひとは縁遠い叙事詩を、其儘に語る様なことも、語部がほかひの徒の中にまじつたとすれば、あるべき事である。事実又、其痕跡は段々述べて行くが、確かに残つてゐる。
わりに完全な物語と、物語の断篇とが、或村から離れて他の所へ持廻られる。すると、其処に起るのは、物語の交換と、撒布とである。更に見逃されないのは、文学的な衝動を一度も起さなかつた人々の心の上に、新しい刺戟が生じたことである。記・紀・万葉・風土記の上に、一つの伝説の分岐したものや、数種の説話の上に類型の見つかる事が、沢山にある。此を単純に解決して、同じ民間伝承を飜訳した神話・伝説が、似よりを見せるのは当然だとばかりは、考へられなくなつた。尠くとも、奈良朝以前から既に、巡遊伶人があつた事情から見ても、一層強い原動力を此処に考へないのは、嘘である。
叙事詩の撒布
一 うかれびと
語部の生活を話す前に寿詞の末、語部の物語との交渉の深まつて来た時代のほかひの様子を述べなければならなくなつた。此については、既に書いた概説とも言ふべきものによつて、一つの予備をつくつて頂けて居る事と思ふから、後前御免を願うて、ほかひが叙事詩化して行つた経路を辿り続ける事とする。日本の遊女の発生と、其固定に到る筋道は、柳田国男先生の意見が、先達の考案の蔑にしてよいものゝ多い、わが学界にとつては、後にも先にもない卓論であり、鉄案でもある。先生は微細な点までもじぷしいと殆ど同一の生活をして居た我が古代の浮浪民(うかれびと)なる傀儡子(くゞつ)と、其女性なる遊行女婦(うかれめ)との実在を証拠だてられた(明治四十一年頃の人類学雑誌に連載)。先住民の落ちこぼれで、生活の基調を異神の信仰に置いた其団体が、週期を以て、各地を訪れ渡つて居る中に、駅・津の発達と共に、陸路・海路の喉頸の地に定住する事になつた。女性の為事なる芸能(歌舞と偶人劇)と売色を表商売とする様になつて、宿々の長又は長者と言ふ事になつたと言はれて居る。私は、此同化せなかつた民族の後なるうかれびとの外に、自ら跳ね出して無籍者になつた亡命の民がまじつて居さうに考へる。つまり其がほかひゞとである事は、前に述べた積りである。
神人が大檀那なる豪族の保護を失ふ理由には、内容がこみ入つて居る。神を守つた村君が亡びた事、そして村君の信仰の内容が易つた事。此にも、内わけが三つ程に考へられる。倭本村の神をとり入れるか、飜訳して垂跡風にした類(一)。弱い村・亡びた村の出であつても、新来神として畏敬せられた類(二)。同じ類にあげる事も出来る所の、道教の色あひを多分に持つた仏教(三)。此信仰の替り目に順応する事の出来なかつた地方では、段々「神々の死」がはじまつて来た。さうした神々のむくろを護りながら、他郷に対しては、一つの新神があると言ふ威力を利用して、本貫を脱け出す者が、後から〳〵と出た。従うて其信仰様式は、古くもあり、又本意を失うた固定をする事にもなつた。うかれ人の祀つた神が、平安中期以後の人々の目には、不思議な姿に映つたのも、一つは此為である。人形の事は、今までに発言の機会を逸して来たが、倭本村に深い関係を交錯してゐる村々の中で、古くから神の形代なる人形を持つたものが、段々ある。倭の村にだつてなかつたとはきめられぬ。臨時に出来る神の形代が、段々意義を失うて、人の形代が多くなつて来る時代には、常住専ら偶人を斎く団体の信仰が異端視せられるに不思議はない。
倭本村から一目置かれて居た大村の神と神人とは、次第に倭化はしながらも、幸福な推移をして行つたであらう。が、村君と血統上の関係を結びつけて考へるに到らなかつた神を祀つた村では、村君は郡領として尚勢力を失はずに居ても神と神人とは不遇な目を見た。政教をひき裂く大化の政の実効のまづ挙つたのは、此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくても中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに到つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい証拠である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。村々の神人にして、新しく這入つて来た倭の神の神奴にせられた者、神々の階級が下つた処から、神人の神奴の様にとり扱はれた者もあらう。本貫を離れない事の苦しみは、まだ此ばかりではなかつた。
村々の部曲の中で、保護者を失つても、自活の出来るのは、主として手職をうけ襲いだ家である。其以外の者のみじめさは、察しるに十分だ。時勢と保護とから第一にふり落されるのは、神人階級の部曲である。
亡命を、一二人又は一家の上にばかりある事と考へるのは、近世の事情に馴れ過ぎたのだ。戦国以前までは、尠くとも新知を開発する為に、と言ふ名で、沢山の家族団体を引き連れて数百里離れた地へ、本貫を棄てゝ移つた家々は、数へきれない。信仰の代りに、武力を携へて歩いたうかれびとに過ぎないのである。此新うかれびとは庸兵軍として、道々の豪族に手を貸しもした。運よく行つたのは大名となり、あまり伸びなかつた者は、豪族の下に客人格の御家人となり、又非御家人・郷士と窄まつて了うたりした。我国の戸籍の歴史の上で、今一度考へ直さねばならぬのは、団体亡命に関する件である。住みよい処を求める旅から、終には旅其事に生活の方便が開けて来て、巡遊が一つの生活様式となつて了ふ。彼等の持つて居る信仰が力を失うても、更に芸能が時代の興味から逸れない間、彼等の職業が一分化を遂げきる迄の間は、流民として漂れ歩いたのである。
近世芸術は、殆ど柄傘の下から発達したと言うてもよい位、音曲・演劇・舞踊に大事の役目をして居る。売女に翳しかけた物も、僣上して貴人や、支那の風俗をまねたものではあるまい。足柄山で上総前司の一行に芸能を見せたうかれ女は、大傘を立てた下に座を構へた(更級日記)。大鏡に見えた「田舞」も、田の中に竪てた傘を中心にした様である。此二つは、平安朝末のやゝ古い処である。其以後は、田楽を著しいものとして、民衆芸能に傘の出て来ないものは尠かつたと言ふ事も出来よう。傘の下は、神事に預る主な者の居る場所である。大陸風渡来以前から倭宮廷にあつた風で、神聖感を表現もし、保護もしたものなのである。うかれ女系統の楽器らしい簓と言ふ物も、形は後世可なり変化したであらうが、実は万葉人の時代からあつたものと言ふ推測がついて居る。此等の事は、力強い証拠とは出来ぬかも知れぬが、異風と見られる点も、実は定住人とさしたる違ひのなかつた事を見せて居るのではなからうか。
唯一点、人形については、近世の神道学者の注意が向いて居ないばかりか、古代日本の純粋な生産と考へない癖がついて居る様だから、話頭を触れておかねばならぬ気がする。
二 くゞつ以前の偶人劇
浮浪民なるくゞつの民の女が、人形を舞はした事は、平安朝中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からである。此時代を史家は、戦争と武人跋扈との暗黒時代ときはめをつけて居るが、書き物だけでは、実際、江戸の平民の文明を暗示する豊かな力の充ち満ちた時代である。上層・中層の文明のをどみに倦んで、地下の一番下積みになつて居た物の、顧みかけられた世間であつた。此以前にも、偶人劇が所々方々に下級神人や、くゞつの手で行はれて居た事が察せられる。新式であつた為、都人士に歓ばれた偶人劇の団体が、摂津広田の西の宮を中心とするものであつたらう。が、恐らく、此を人形芝居の元祖と見る事は出来ぬ。此側の伝へでは、淡路人形を重く見て居る。併し、西の宮が海に関係深い点から観るべきで、此神の勢力の下にあつた対岸の淡路の島人から、優れた上手が出たのも、尤である。室町になると、段々、男の人形を使ふ者の勢力が出て来るが、西の宮系統の偶人劇は元、女殊に遊女の手に習練を積まれたものであらう。淀川と其支流の舟着きに、定居生活をし始めて居た遊女は西の宮と関係が深かつた。西の宮信仰が関西に弘まつたのは、うかれ人の唱導が元らしい。うかれ人が、ほかひの古風な神訪問の形式を行うたのだらう。えびすかきと言うた人形舞はしは、此古い単純な形を後世に残したのであつた。
大正の初年までも、面を被つて「西の宮からえびす様がお礼に来ました」と唱へて門毎に踊つた乞食も、此流れである。「大黒舞」も又えびすかきの偶人に対する、神に扮した人の身ぶり芝居の一つであつた事が知れる。遅れて出た「大黒舞」が、元禄以前既に、ほかひ以外の領分を拡げて、舞ひぶりの単純なわりには、歌詞がやゝ複雑な叙事に傾いて居たのは、幾度でもほかひが同じ方角に壊れる上に、落ちつく処は、劇的な構想を持つた詞曲である事を示して居る。
西の宮一社について見れば、祭り毎に、海のあなたから来り臨む神の形代としての人形に、神の身ぶりを演じさせて居たのが、うかれ人の祝言に使はれた為に、門芸として演芸の方に第一歩を、踏み入れる事になつたのであらう。
人形を祭礼の中心にするのは、八幡系統の神社に著しいけれども、離宮八幡以外にも、山城の古社で人形を用ゐる松尾の社の様なのがあり、春日も人形を神の正体とする場合がある様だ。地方の社では、現在偶人を中心に、渡御を行ふのがなか〳〵ある。此人形の事を「青農」と言ふ。
宇佐八幡の側になると、「青農」の為事が殊に目に立つ。八幡に関係の深い筑前志賀ノ島の祭りには、人形に神霊を憑らせる為に沖に漕ぎ出て、船の上から海を蒞かせる式をする。
平安朝の文献に、宮廷では、此人形と、一つの名前と思はれる「才の男」といふのが見える。御神楽の時に出る者である。此まで、才の男は専ら、人であつて、神楽の座に滑稽を演じる者と言ふ風に考へられて居る事は、呪言の展開の処で述べた。江家次第・西宮記などにも「人長の舞」の後、酒一巡して「才の男の態」があると次第書きしてゐる。此は、後には、才の男を人と考へる事になつたが、元は、偶人であつた事を見せて居るのである。「態」の字は、わざ・しぐさを身ぶりで演じた事を示して居る。神楽の間に偶人が動いてした動作を、飜訳風に繰り返して、神の意思を明らかに納得しようとするのかと思はれる。又、人形なるさいのをを使はぬ時代に、やはり古風に人形の物真似だけをしたのかも知れぬ。今の処、前の考への方がよいと思ふ。相手の一挙一動をまねて、ぢり〳〵させる道化役を、もどき(牾)と言うて、神事劇の滑稽な部分とせられて居る。「才の男の態」と言ふのは、もどき役の出発点を見せてゐるのであるまいか。一体、宮中の御神楽は、八幡系統の影響を受けて居るものだと言ふ事が、色々の側から説明出来る。だから、才の男を「青農」と同じく、偶人と見る考へはなり立つ。
昔は疫病流行すれば、巨大な神の姿を造つて道に据ゑて、其を祀つた(続紀)。今も稲虫払ひには、草人形を担ぎ廻つて、遠方に棄てる。稲虫が皆附いて行つてしまふと考へるのである。此は穢・罪・禍の精霊の偶像である。其将来した害物を悉皆携へて、本の国へ帰る様にとの考へである。
人間の形代なる祓への撫で物は、少々意味が変つて居る。別の物に代理させると言ふ考へで、道教の影響が這入つて居るのである。
ともかくも、昔の人の常に馴れて居たのは、自分の形代か、或は獅子・狗犬から転じて、常々身近く据ゑて、穢禍を吸ひとつて貯めて置く獣形の偶像かであつた。だが、人形の起原を単に、此穢れ移しの形代・天児・這子の類にばかりは、かづけられない。人形を弄ぶ風の出来た原因は、此座右・床頭の偶像から、まづ糸口がついたとだけは言はれよう。穢や禍や罪の固りの様な人形ながら、馴れゝば玩ぶやうになる。五節供は皆、季節の替り目に乗じて人を犯す悪気を避ける為の、支那の民間伝承である。此に一層固有の祓への思想の輪をかけて、節供祓へを厳重にした。三月・五月の人形は、流して神送りをする神の形代を姑らく祀つたのが、人形の考へと入り替つて来たのである。七夕・重陽に人形を祀る処は今もある。盂蘭盆の精霊棚にも、精霊の乗り物以外に、精霊の憑る偶像のあつた事が想像出来る。盆も亦「夏越の祓へ」の姿を多分に習合して居るのである。
更級日記の著者が若い心で祈つたをみな神、宮廷の宮咩祭りに笹の葉につるした人形、北九州に今も行はれる八朔の姫御前(ひめごじよ)、此等は穢移しの品でない。而も神の正体なる人形は、原則としては、臨時に作る物である。常住安置する仏像とは、根柢から違ふのである。神の木像などが、今日残つて居るのは、神仏の境目の明らかでなかつた神又は人のである。祭礼の時に限つて、神の資格を持つ人形は、新しく作られる事が多いが、常は日のめも見せず、永く保存せられる物はすくなかつた。
そして、神の正体としての人形は、人間を迷惑させる神には限らない様である。此点が明らかでないと、人形は、触穢の観念から出たものとばかり考へられさうである。
人形を恐れる地方は今もある。畏敬と触穢と両方から来る感情が、まだ辺鄙には残つて居るのである。文楽座などの、人形を舞はす芸人が、人形に対して生き物の様な感触のあるものと感じて居るのは事実である。沖縄本島に念仏者と言ふ、平民以下に見られてゐる人々が居る。春は胸に懸けた小さな箱──てらと言ふ。社殿・寺院・辻堂の類を籠めて言ふ語。人形の舞台を神聖な神事の場と見るのである──の中で、人形を舞はしながら、京太郎と言ふ日本人に関した物語を謡うて、島中を廻つたものである。其人形は久しく使はぬ為に、四肢のわかれも知れぬ程になつたが、非常にとり扱ひに怖ぢてゐた。此人形に不思議な事が度々あつたと言ふ。
人形が古代になかつたと言ふ様な、漠とした気分を起させる原因は、其最初の製作と演技が、聖徳太子・秦ノ河勝に附会せられて居る為である。仮面は殊に、外国伝来以後の物の様な感じが深いが、此とて日本民族の移動した道筋を考へれば、必しも舞楽の面や、練供養の仏・菩薩の仮面以前になかつたものだと言はれまい。唯、此方の、技術家なる面作りは、寺々に属してゐて、神人の臨時に製作したやうなものは、彼らの技巧の影響を受けたり、保存の出来る木面の彫刻を依頼したりなどした為、固有の仮面の様式などは知れなくなつて了ひ、仮面の神道儀式に使はれた事まで、忘れきつたものと見る方が適当であらう。
仮面は、人間の扮して居る神だと言ふ事を考へさせない為だから、非常な秘密でもあつたらうし、使うた後で、人の目に触れる事を案じて、其相応の処分をした事であらうから、普通の人には、仮面といふ考へが明らかでなかつたであらう。其上、土地によつては、村人某が扮したのだと云ふ事が訣らねばよいと言ふ考へから、植物類の広葉で顔を掩ふと言ふ風な物があつた事は、近世にも見える。だから、仮面もあり、仮面劇も行はれたのに違ひないが、今の処まだ、想像を離れる事が出来ない。
柳亭種彦の読み本「浅間个嶽俤草紙」の挿絵の中に、親のない処女の家へ、村の悪者たちが、年越しの夜、社に掛けた色々の面を著けておし込んで、家財を持ち出す処が描いてある。年越しの夜に、仮面を著けた人が訪問すると言ふ形は、必民間伝承から得たものに違ひない。
面には、かづく或はかぶると言ふ語が、用語例になつて居るのは、古代の面が頭上から顔を掩うて居た事を示して居る。
能楽で見ても、面をつけるのは、神・精霊の外は女である。女は大抵の場合、神憑きと一つものと思はれる狂女である。能役者が、直面では女がつとめられないと言ふ理由の外に、神のよりましなる為に同格に扱うたと考へる事が出来るかも知れぬ。太子と能楽との伝説を離れて、静かに考へて見ると、翁などの原型として、簡単な仮面に頭を包んだ田遊びの舞ひぶりが、空想せられるのである。当麻寺の菩薩練道の如きも、在来の神祭りに降臨する神々の仮面姿が、裏打ちになつて居るのではあるまいか。
古事記に残つて居る文章のなかで、叙事詩の姿を留めたものを択りわけて見ると、抒情部分のうたばかりでなく、其中に叙事部分のかたりに属するものも見出される。叙事部は地の文である。地の文の発生は、第一歩にはないはずだ。必形は一人称で、而も内容は三人称風のものである。其が、明らかに地の文の意義を展いて来るのは、下地に劇的発表の要求があるのである。此事は様式論として、詳しく書く機会があらう。
かくて、偶人劇の存在した事は信じてよい。併し、どの程度まで、身体表出をうつし出したか。どの位の広さに亘つて、村々の祭りに使はれたか。すべては疑問である。遥かな国から来る神と、地物の精霊と二つ乍ら、偶人を以て現したか。其も知れない。後世の材料から見れば、才の男は地物の精霊らしく見える。併し此事に就ては、呪言の展開に書いて置いた。其上、人と人形との混合演技もなかつたとは言へぬ様である。
偶人の神事演劇には単純な舞ばかりのもあつたゞらう。叙事詩に現れた神の来歴を、毎年くり返しもしたであらう。要するに神事演劇は、人・人形に拘らず、演技者はすべてからだの表出ばかりで、抒情部分・叙事部分の悉くが、脇から人の附けたものである。
後世の祭礼の人形の、唯ぢつとして、動かない様なものでは無かつたであらう。「才の男の態」を行ふ者の様子から推すと、人形其物も、可なり身軽くおどけふるまうたと見えるのである。
祭礼のだし人形の類は、決して近世の案出ではない。すべて祭り屋台の類はほこ・やま・だし・だんじりなど、みな平安朝まであつた「標の山」と、元一つの考へから出て居る。平安朝初期に、既に「標の山」の上に蓬莱山を作り、仙人の形を据ゑた。「標の山」は神の天降る所であつて、其を曳いて祭場に神を迎へるといふ考へなのだ。此作り山は、神物のしるしなるたぶうの物を結ぶと共に、神の形代を据ゑるといふ考へもあつたのである。「標の山」は恐らく木の葉で装うた作り山で、神を迎へる為にした古代からの儀礼の一つである(出雲風土記)。其作り山の意義は固より、上に据ゑた人形の存在理由は早く忘れられて了うた。
道教出と思はれる仙人形が、字面のとほり、人形と見られるなら、奈良朝の盛時には既にあつて、恐らく此も玩具ではなく、方士の祀つたものであらうと思ふ。藤原・奈良、及び平安の初期に亘つて行はれた仙人の内容は、艶美であつて、人間の男との邂逅を待つて居る仙女なども這入つて居たのである。後世のぼろをさげた様な仙人ばかりではなかつた。「標の山」は本義を忘れられて、装飾に仙山を作り、天子の寿を賀する意を含めたものであらう。平安朝にはじまつた意匠でないと思はれる所の、人形を此に据ゑると言ふ事は、原義の明らかだつた時代には、神の形代であつたらうと思はれるのである。
三 新しいほかひの詞
石ノ上布留の大人は、嫋女の眩惑によりて、馬じもの縄とりつけ、畜じもの弓矢囲みて、大君の御令畏み、天離る鄙辺に罷る。ふるころも真土の山ゆ還り来ぬかも(石上乙麻呂卿配土左国之時歌三首並短歌の中、万葉巻六)
土佐に配せられた時の歌とあるばかりで、誰の歌ともない。普通の書き方の例から見ると、此は「時人之歌」とでもあるべき筈である。でなければ、古義などの様に、前二首を「乙麻呂の妻(又、相手方久米ノ若売とも見てよからう)の歌」、後二首を「乙麻呂の歌」と言ふ風に、註があるべきである。まづ巻一の「麻続王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌」と同様に扱ふのが正しからう。さうすると、言ひ出しの文句のよそ〳〵しさも納得がつく。布留・石上は、極近所だから、又石上氏・布留氏共に物部の複姓で、同族でもあるから、かう言うたものとも考へられるが、併し布留氏は別にれつきとして存して居るのだから、かうした表現を採る訣がない。やはり枕詞を利用して、石上氏をきかし、聯想の近い為に、却つて暗示が直ちに受けとれ相な布留を出して、名高い事件の主人公を匂はしたのは、偶然に出来たのであらうが、賢い為方である。此が、身の近い者の作でない最初の証拠だ。「嫋女のまどひ」も、物語の形を継いだ叙事脈の物でなくては、言ふ必要のない興味である。次には、地名の配置が変な点である。此歌で見ると、真土山を越えて行くことを見せて居る。ところが三番目の歌では、河内境の懼の阪と言ふのを越す様にある。さうして、住吉の神に参るのが順路だから、第二の歌に出て来る住吉の社も、唯遥拝する事を示すのではないと思はれる。さうすると、矛盾が考へられる。四番目の短歌には、どこの国にもある所の大崎といふ地名を出して居る。此も紀伊だと限つて説くのは、横車を押す態度である。ちぐはぐな点が、此歌の当事者の贈答でない事を露して居るのだ。
土佐へ渡るのに、紀伊へ出るのは、順路ではない。紀の川口から真直に阿波の方へ寄せて、浜伝ひ磯伝ひに土佐へ向ふ事もないとは言はれぬが、当時の路筋はやはり、難波か住吉へ出たものである。どちらにしても、順路にくひ違ひのある事は事実である。
巡遊伶人があり来りの叙事詩をほかひして居るうちに、段々出て来た自然の変形が、人の噂に尚身に沁む話として語られて、而も歴史の領分に入りかけた時分になると、記憶の混乱が、由緒の忘れられた古い叙事詩の一部を、近世の悲恋を謡うたものと感じる様になり、無意識の修正が、愈其事実に対する妥当性を加へて来る事になる。言ひ出しの文句などは、此事件との交渉のなかつた前は、他の人名であつた事が考へられる。叙事詩・伝説の主人公の名ほど、変り易いものはないからである。
古事記の倭建の臨終の思邦歌が、日本紀では、景行天皇の筑紫巡幸中の作となつて居り、豊後風土記(尚少し疑ひのある書物だが)にも同様にある。此はほんの一例に過ぎない。
時と処とに連れて、妥当性を自由に拡げてゆくのが、民間伝承の中、殊に言語伝承の上に多く見える事がらである。此なども、木梨ノ軽皇子型の叙事詩の一変形と見てさし支へないものなのである。いつたい、軽皇子物語が、一種の貴種流離譚なので、其前の形がまだあつたのだ。神の鎮座に到るまでの、漂泊を物語る形に、恋の彩どりを豊かに加へ、原因に想到し、人間としての結末をつけて、歴史上の真実のやうな姿をとるに到つた。だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以後の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢文書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。
最大きな一例を挙げると、楚辞や、晋唐時代の稗史類には、民間説話を其まゝ記録した、神仙と人間との性欲的交渉を一人称や三人称で記したものが数多くある。其が人間界の仙宮と言うてよい宮廷方面にまで拡つて来て、帝王と神女の間を靡爛した筆で叙べるばかりか、帝王と後宮の人々との上にまで及ぼして、愛欲の無何有郷を細やかに、誘惑的に描写して居る。
元々空想の所産でなく、民間説話の記録なのであるから、小説と言ふ名も出来たのだ。「小」は庶民・市井などの意に冠する語で、官を「大」とする対照である。説は説話・伝説の意である。
小説・稗史は、だから一つ物で、民間に伝はる誤謬のある事の予期出来る歴史的伝承と言ふ事になる。史官の編纂した物を重んじ過ぎるからさうなつたのだが、段々史実の叙述以外に空想のまじる事を無意識ながら、筆者自身も意識する事になつた。其処で伝奇と言ふ名が、ようろつぱの羅馬治下の国の所謂ろうまんすを持つて、地方々々の伝説を記したろうまんすなる小説と、成立から内容までが、似よりを持つて来る様になつた次第である。
既に遊仙窟だけは確かに奈良朝に渡つて来て居て、其を模倣した文章さへ万葉(巻五)には見えて居るが、其外にもなかつたとは言へない。高麗・日本の人々が入唐すると、必、張文成の門に行つて、書き物を請ひ受けて帰つた(唐書)と言ふことは、宋玉一派の爛熟した楚辞類は元より、神仙秘伝・宮廷隠事の伝説を記録した稗史類を顧みなかつたと言ふ事にはならぬ。寧、其方面の書籍が、沢山輸入せられた事を裏書きするものと言へると思ふ。其上に帰化人が生きた儘の伝承を将来してゐる。而も、世界の民族は、民間伝承の上にある点までの一致を持たないものがない。日本と支那との間にも、驚くばかりの類似が、其頃段々発見せられて来た。飛鳥の末・藤原の宮時代の人々の心に、先進国の伝承と一致すると言ふ事が、どんなに晴れやかな気持ちをさせた事であらう。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「日光 第一巻第三・五・七号」
1924(大正13)年6、8、10月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年六・八・十月「日光」第一巻第三・五・七号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:野口英司、門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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