速水女塾
四幕と声のみの一場よりなる喜劇
岸田國士



     時

昭和二十二年、春から夏にかけて


     処

東京の都心に遠い某区ならびに沼津海岸


     人

速水桃子  六十九  速水女塾旧塾長

同 秀策  七十二  その夫、元代議士

同 思文  二十六  その息子

八坂登志子 三十五  その娘、元満洲国官吏八坂直光の妻、新塾長

相馬佐   四十   元ハルビン・オリエンタル・ホテル支配人

平栗高民  五十五  女塾の幹事

木原基   四十六  教頭、公民の教師

小浜しゆん 三十八  家事の教師

月ノ木直枝 二十三  音楽の教師

蕗小路常明 五十二  礼法、茶道の教師

磯村甲吉  五十   割烹の教師

橋爪愛作  六十   小使

同 ちか  三十三  その後妻

諸住泰介  二十九  算数の教師

向笠順三  二十七  国文と英語の教師

紅林高子  三十二  沼津紅白寮の寮長

柴山ふき子 三十六  紅林の旧友、ブローカー

女生徒A、B、C、D、E、その他おほぜい

女事務員



第一幕


速水女塾の塾長室。正面は廊下に、左手は校庭に面した広い部屋。

右手、プロセニウムに近く、書棚を背にして塾長用のデスク。その奥に帽子掛兼用の衝立。教職員の名札が序列の順にかかつてゐる。

衝立の向ふは事務室に通じるドア。

中央左手寄りに大きなテーブル。その周囲には同型の椅子が並んでゐる。

参考品の陳列棚、優勝旗、カップなど。

左手正面奥に、廊下に通じるドア。

横額の一つは「玉不磨則無光 為速水桃子女史 駿堂書」といふ類ひのもの。

三月中旬の午後四時頃。風が強く、左手の窓から西日が射し込んでゐる。

放課後の静けさ。

一人の女生徒が正面のドアをそつと開けて室内をひとわたり眺めまはす。やがて、ためらひながらはいつて来て、テーブルの下や、陳列棚の奥などをのぞいて歩く。

平栗高民がその間に事務室の方からはいつて来て、この様子をぢつとみてゐる。


平栗  なにをしとるんだ、いつたい?

女生徒A  (驚いて立ちすくむ)

平栗  塾長先生のお部屋へなんぞ黙つてはいつて来て、なにをする気だ、おまへは?

女生徒A  (もぢもぢして、答へない)

平栗  図々しいにもほどがある。早く出て行きなさい。


女生徒A、急に泣き出しながら出て行く。

木原基が事務室の方からはいつて来る。


木原  平栗さん、ちよつと話があるんだが……。ここを借りるか?

平栗  (その方は向かずに)どこでもいいですよ。木原先生は今日は宿直ですか?

木原  冗談はよしてもらはう。僕は毎日宿直をするくらゐなら小使になるよ。火の気のない部屋と女ッ気のない家は、僕の性に合はんのだ。

平栗  なにを、えらさうに……。いくら時代が変つたからつて、先生がそのもつともらしい顔で、くだけた口を利くのはをかしいや。第一、先生の授業はそのわりに生徒にうけないのはどうしてでせう。しかし、首の方は大丈夫ですか、今度は?

木原  保証はできんね。だが、新塾長は思つたより話がわかるんでね。僕はなるほど最初反対はした。桃子女史の隠退は当然だとしても、ただ血を引いた娘だからといつてだ、まるで教育者としての条件を具へてゐない中年女が、いきなりこの塾長の椅子にすわるといふ手はないと思つたからだ。候補者はいくらもある。肩書が必要なら、元貴族院議員だつて引つ張つて来れるよ。ところが僕は、八坂夫人なるものに一度会つて、すこし認識を改めた。むろん、教育事業にはずぶの素人だといふことは、話をしてみればすぐにわかる。しかし、驚くべきことには、彼女はなにかをもつてゐる。

平栗  少くとも前塾長のもつてゐないものをもつてますな。

木原  僕は、速水女塾の更生のために、学識や経験は二のつぎだと思ふ。思想的立場か? そんなものは看板に過ぎん。人間ですよ、君、人間的魅力ですよ。生徒たちはもちろん、教職員全体が頭から惚れ込むやうな塾長を得て、はじめて速水女塾の将来には光明が認められるんだ。

平栗  木原先生、まづ虜となるか。

木原  平栗さん、あんたは速水家の番頭みたいなもんだが、お家大事の精神では、こんどの塾長の気にはいらんですよ。あれや、一種の革命家だ。彼女の眼中には、速水一家なぞない。その証拠に、校名まで変へようとしてるんですぜ。

平栗  わしは、誰でも知つてるやうに、速水秀策先生の乾分で、この学校を桃子女史のために作つた時からの相談相手です。桃子女史はああいふたちの、使ふ一方で、経営の苦労は秀策先生とわしとでしよつて来たんです。ところが、秀策先生は気が多くつて、儲かる話と聞くと、なににでも手を出したがる。せつかく学校の方が調子に乗つて来ると、やれ工場を建てる、土地を買ふ……。

木原  まあ、いいさ。この学校をこれまでにしたのはあの爺さんに道楽気があつたからさ。桃子女史の写真が雑誌の口絵なんかに出てみたまへ。速水翁はそれを持つて学校ぢゆうを走りまはつてるぢやないか。

平栗  ところで、お話といふのは?

木原  なんだつけな。ああ、さうさう、実は教職員組合のことで、あるひとから注意があつたんだがね、どうもまづいにやまづいが、極端な煽動分子を、この際、切つてしまつた方がいいと思ふんですがね。僕は教頭として、こんな提言をするわけにやいかん。あんたから、適当な方法で、新塾長の耳に入れておいてほしいんだ。


この時、正面のドアが開いて、さつきの女生徒Aが女生徒Bと共にうつむいたままはいつて来る。窓の外から、女生徒がおほぜい中をのぞいてゐる。


木原  なんだ、浅倉?

女生徒A  さつき、このお部屋へはいつたのは、お掃除の時、マスクをどこかへ落したからなんです。

木原  それがどうしたの?

平栗  いまごろ、そんなことをいひに来たのか?

女生徒A  いいえ、あん時は……あん時は……平栗先生がいきなり大きな声で、ひとをさも怪しいものみたいにお叱りになるので、あたし、口惜しかつたんです。声を出さうとしても出なかつたんです。

木原  よろしい。掃除がすんだら早く帰つて……。

女生徒B  いいえ、よろしいぢやすみませんわ。平栗先生には、全校生徒の前で謝罪をしていただきます。みんなの意見ですから、それを申上げにまゐりました。


女生徒A、B礼をして去る。


平栗  どうも、今年の四年生は生意気でいかん。わしに楯をついても、点数は減らんと考へとる。けしからん。

木原  女の子にああまでのことをいはせるのはどうかと思ふね。つまり、幹事は幹事らしく、事務一方でいつてもらひたい。さううるさく生徒の世話を焼く必要はないです。あんたはそれに政治をやりすぎる。塾長代理のつもりでゐるところがある。

平栗  なるほど、わしは事務よりは政治が得手だ。秀策先生の最初の立候補の時から、わしは選挙事務長として活躍したです。登志子さんを八坂男爵の令息にと思ひついたのも、このわしです。ぴしやりと、政治的に打つ手は打つですよ。


そこへ、事務室の方へどやどやと人のはいつて来る気配。女事務員が駈け込んで来て、平栗に「塾長先生」と耳うちする。平栗、木原に眼で合図をする。木原、出て行かうとするが、もう遅い。速水桃子を先頭に、速水秀策、八坂登志子、つづいて現はれる。

速水桃子、六十九歳、腰は曲つてゐないけれども、頤を前に突き出し、リューマチの脚を引きずるやうにして歩く。時代遅れの洋装。同秀策、七十二歳、白髪無髯、童顔といひたいほどの血色、和服に袴。八坂登志子、三十五歳、紫地の縞お召に黒無地の羽織。やや厚化粧。


桃子  (塾長用の椅子にかけ)わたしはもうここへ坐るんぢやないけれども、まあ、これを最後として……。

秀策  (部屋のあちこちを見廻しながら)三十年の塵が積つたわけだ。(平栗に)やつと娘を口説きおとしたよ。文部省の方は早速手続をして……それから、規則書もむだのやうだが、この際刷り直すんだね。(木原に)教頭先生は、もうご紹介はすみましたな。

木原  はあ、先日お宅の方でお眼にかかりました。

登志子  なんだか、変だわ、ちつとも、そんな気がしなくつて……。

平栗  いや、すぐお慣れになりますよ。

桃子  慣れるとも、慣れるとも……。むづかしいのは細々した事務ぢやない。教育者としての自信がつくかつかないかだ。やつぱり理想と情熱だけはなくつちやねえ。わたし自身のことを云へばさ、この学校をこしらへたのは、もう四十に手の届く年だつたが、この仕事には娘の時のやうな気持でぶつかつて行つたもんだ。まあ、しかし、時代が変つたんだから、時代向きになんでも変へるといい。そこにおいでの木原先生は、これからの学校には誂へ向きの先生だよ。

木原  (照れて)いやあ……塾長先生とは随分議論をいたしましたなあ。

桃子  わたしは肚、あなたは頭だ。議論なんていふもんぢやなかつた。良妻賢母といへばわたしにはぴんと来る。おなかのなかで、ちやんと承知ができる。木原先生は、それになんだかだと理窟をつけなさる。そこが違ふ。一種の詭弁家だ、この先生は……。

秀策  (とりなし顔に)まあ、まあ、その話はそれでいいさ。(木原に)これから事務上の打合せをしますので、ちよつとお外しを願ひます。新塾長の正式の就任は、新学期開始と同時といふことになりますから、そのお含みで……。(平栗に)先生方の辞表はみんな出たかね?

平栗  ええと、諸住先生ほか二人がどうしても出さんといはれますが、そのほかは全部木原先生の手を通じて出てをります。さうしますと、新塾長のお名前はもう発表してよろしいでせうか?

桃子  早く発表したらいいでせう。わたしはこの学校ともう全然関係を絶つたのだから、そのこともはつきりさせて……。「追放の桃」なんていふ楽書は、小使にさういつてすぐに消させなさい。

平栗  おや、どこにそんな楽書が……。

桃子  どこにぢやないよ。あんたには見えないの? ご不浄の手洗の鏡にまで白墨で書いてある。わたしは見ないけれども、さつき知らせてくれたものがある。

秀策  いいにしとかう、そんなことは……。それより、平栗君、教員名簿と会計書類をちよつと持つて来てくれたまへ。家の方でと思つたんだが、客がひつきりなしにやつて来るもんだから……。(平栗が事務室へ行つてゐる間に)あの男も役には立つんだが、人望がなくつてなあ。真面目すぎるんだ。

桃子  あれは、登志子、変へなきやだめですよ。すこし慣れたら、もつと融通の利く男を入れなきや……。相馬さんはそこまでは無理かねえ?

登志子  無理ですねえ。

桃子  あれだけ一所懸命になつてくだすつてるんだから、相談のしやうぢやない?

登志子  あのひとは、さういふひとぢやないの。

秀策  さうさ、あれや、どうして、女学校の事務なんぞやらせる人物ぢやない。ハルビンでホテルのマネェジャアをしとつたといふのは、これや、なんかの間違ひだ。まるで柄がちがふ。わしは、外務省にでもゐた男かと思つた。なかなか世間は識つとる。それでゐて、いつかう俗つぽいところがない。たいしたもんだ。今にのすぞ、あの男は……。

桃子  八坂の兄さんが無事に帰つてくれば、これやもう、うつてつけなんだけれどねえ。

登志子  いやだわ。直光が帰つて来るとわかつてれば、あたし、こんな仕事引受けないわ。

秀策  まあ、まあ、先のことは先のことだ。直光君だつて、日本へ帰つて来れば、前満洲国官吏の肩書がどんなもんだつていふことはわかるよ。今だつて、お前のことはきつと気にかけとるに違ひない。早く、かうなつたことを知らせてやりたいくらゐだ。

桃子  どつちにしても、相馬さんつてひとは、たしかに信用していいひとだらうね。あたしは、ああいふタイプのひとは、どうもよくわからないんだよ。なるほど、万事に抜け目はなささうだ。しかし、こつちが利用されるばかりぢや、なんにもならないからねえ。

秀策  なに、お互に利用すればいいのさ。そんなことをいふけれど、あの相馬つていふ男がゐなかつたら、登志子は満洲から無事に帰れたかどうかわからなかつたんだぜ。そのうへにだ、お前さんはどういふ見方をしてゐるにしろ、わしたちがやつきになつてすすめても、どうしても「うん」と云はなかつた登志子を、ともかくも「そんなら」と云はせたのは、あの男だ。

登志子  あら、さういふわけぢやないけど、お父さまやお母さまは、ただ、むやみに、情にからんで、あたしにあとをやれつておつしやるんでせう? あのひとは、たつたひと言で、学校をやる興味を吹きこんでくれたんですわ。

秀策  だからさ、そこがあの男の「ただもん」でない証拠だ。なあ、桃子、お前さんには、わしといふもんが、うしろについとつた。面倒なことはいちいちわしが始末をつけたんだ。登志子だつて、こいつをひとりで切り廻せと云つたつて、そいつは無理さ。誰かしつかりしたうしろ楯が必要だ。わしも、むろん、はふつてはおかんが、もうぼつぼつ学校からは身を引きたい。お前さんがやり過ぎたことについては、わしも多少責任は感じてゐるし、さうでなくつても、学校事業は、これからは企業として成り立つ見込がない。さう思つとるところへ、あの相馬君といふ人物が現はれたんだ。

桃子  あのひとの言ふことも、あぶないもんだと思ひますね。登志子がその気になつてくれたことはいいですけれど、あんまり学校をいぢり廻されるのも考へもんですよ。

登志子  お母さま、それはどういふ意味なんですの。相馬さんが学校の経営にタッチすることはいけないつておつしやるの?

桃子  いけないとは云ひません。けつきよく、あんたがしつかりしてればいいのさ。ほかの事業と違つて、教育は信念です。すくなくとも、あんたは、新塾長としての信念を一日も早く身におつけなさい。相馬さんなら相馬さんの意見に、あんたが頭から引きずられちやダメです。その意見を採用するもしないも、あんたの勝手といふことにしとかなけれや……。

秀策  わかつてる、登志子には……。あぶないと云へば、そんなことより、もうちつと別のことだ。しかし、こいつは、誰よりも登志子自身がいちばんよく知つてる筈だ。なあ、登志子、あの男は、その方面の腕も相当とわしはにらんどるが、まさか恩義のある直光君を裏切るやうな真似はすまい。

桃子  バカなことをおつしやるんぢやありませんよ。此処をどこだと思つてらつしやるんです。汚はしいわ。

秀策  みろ、お前のお母さんはこれだ。たいした教育家だよ。


平栗が書類をもつてはいつて来る。


秀策  教員はみんな帰つたらうね。

平栗  宿直の先生だけだと思ひます、教員室にゐるのは……。

秀策  ここの話声は事務室へ筒抜けだらう。

平栗  いえ、桃子先生のお声だけです、聞えますのは……。

桃子  聞かれて悪いやうなことはいやしない。

秀策  うむ、さうとばかりはいへん。これから教員の首……。

桃子  ですからさ、そのことは一切、登志子にお任せになつたらどうです? わたしたちは、なんにも干渉しない約束ぢやありませんか……。

秀策  干渉はしないよ。ただ、参考意見を聞かせるだけだ。

桃子  お父さんは、あんまり学校のことに夢中におなりになるから、はたのものが時に迷惑するんですよ。登志子には登志子の考へがあるでせうからね。相馬つていふ人もああしてついてるんだし、お金の心配は、それやしていただかなくちやならないけど、人事のことまで喙をお容れになるのはよくないですよ。これは、登志子のためにはつきりお願ひしときますよ。すこし渋皮のむけた女教員がゐると、むやみに俸給を上げろなんておつしやるのは、あれやどうかと思ひますね。

秀策  穏やかならんことをいふぢやないか。たつた一度、小浜先生の俸給のことでお前に注意したことがあるきりだ。小浜先生は四十近くにもなつて、裁縫の腕があれほどあるのにだよ、学校を出たての月ノ木なんていふ娘つ子と同額の八百なにがしぢや、あんまりひどいと思つたのさ。しかし、それもだよ、同僚の蕗小路先生から内々相談を受けたからだ。

桃子  (もうその話は聞くまいとして、登志子に)とにかく、教員名簿だけは、ひと通り目を通しておくといい。履歴も詳しくのつてゐるし、在職の年数もわかるし……。ただ、教師としての能力は、わたしの眼鏡にうつる以外、あんたには、判断の下しやうがないわけさ。

平栗  それから、会計書類の方ですが、これは急にとおつしやつても、まだ決算もしてありませんし、いちいちご説明申しあげなければならん点もありますので、近いうちに整理をしてからお目にかけます。これはざつとした、収支一覧表です。

桃子  会計の方のことは、わたしはまるで盲も同然だつたけれど、今度からは、経営と教育とを一体として考へる方針のやうだから、平栗さんもどうかそのおつもりで……。新塾長の意見ださうだが、学校は生産しつつ学ぶ場所にするといふんです。わたしも戦時中、それは考へたことがある。いい着眼だ。

平栗  さうしますと、なにを生産するんでせう?

桃子  わたしに訊く人がありますか。あ、それより、わたしの上履きがみえないんだけれど、誰が穿いてつたのかねえ。

平栗  さあ、そいつは弱つた。

登志子  (名簿を見ながら)先生の数はもうふやせないのかしら?

桃子  それでも多すぎるくらゐだよ。

平栗  なにしろ、近頃は人件費がかさみますんで……。

登志子  学校の財産と、速水家の財産と、はつきり分けることはできないの?

秀策  できんこともないが、それぢや双方やりにくいところがある。平栗君ちよつと……。


秀策は平栗を頤で差招いて、大テーブルの方へ行き、二人でしばらく何か密談をこらす。


登志子  お母さま、へんなこと伺ふやうだけど、あたしがもし、どうしてもあとをお引受けできないとしたら、ほかに誰か心当りおありになる?

桃子  いやだよ、そんなこと云つて、いまさら気が変つちや……。別にむつかしいことなんかありやしないよ。デンと構へてれや、そのうちにまはりがいいやうにするよ。あたしは、最初、口数をなるべく少く利くことにしたね。ボロを出さない一番有効な手だ。それと、もうひとつは、めつたに笑はないこと。腹をみすかされるといふことは、統御の邪魔です。生徒の方はなんでもないが、教員を押へるのは、待遇問題をちらと匂はせるに限る。なかに例外もあるけれども、たいがいは、それで動く。なにが塾長の存在を権威あらしめると云つたつて、お前、名士を連れて来てさ、一席学校の礼讃をさせることぐらゐ、手つ取り早いことはない。よく覚えとくといい。

登志子  あたしのやり方はお母さまのお気に入るかどうかわからないわ。

桃子  もちろん、それでいいのさ。あたしは今度は自発的に身を引いたんだけれども、学校の表向きの看板だけはすつかり塗りかへてかまはないんだよ。当節向きに自由でも平和でも、なんでもいいがだ、学校経営は、教育そのものを含めて、やはり一種の人心収攬に最後の鍵がある。念のために、これも云つておくがね、相馬さんとの関係は、よほどはつきりさせておかないと、いろいろ誤解を生みますよ。それから、子供のことね、貞坊のこと、これも満洲へ置いて来たことなんぞ、うつかり生徒たちの耳へはいらないやうに気をつけなさいよ。

登志子  そんなこと、どうだつていいのよ、お母さま。あたしはもう、学校つていふもんを、さういふ風にみてはゐないの。あたしでできることは、教育者らしい教育者になることぢやなく、なんでも裸でぶつかつて行くことなの。よくつてもわるくつても、一人の女の生き方を、実物で生徒たちにみせることなの。それがどんな結果を生むか、あたし、すこし楽しみなの。

桃子  お前の云ふことには誇張があるんだらうけれど、真実の力つていふもんを信じれば、それもひとつの行き方にちがひない。相馬さんがお前をどこまで買ひかぶつてなさるか、わたしにや想像もつかん。


その時、秀策が起つて二人に近づく。


秀策  いや、買ひかぶつてゐるわけぢやあるまい。われわれには気のつかん登志子の美点をちやんと見抜いてござるのかも知れん。まあ、登志子の好きなやうにさせてみるさ。桃子、お前さんは、そばから、あんまり指図をせんがええ。

桃子  (大きく笑ひながら)お父さんは、ご自分のことを忘れて、わたしにあんなことをおつしやる。──あんまり指図をせんがええ、とさ、アハヽヽヽヽ。あんまり指図を……アハヽヽヽヽ。

秀策  これ、これ、お前さんは、卒業式がすむまでは、いやしくも塾長の椅子にゐるひとだよ。登志子の就任式を見とどけてから、入歯がぬけるほど笑ふがいい。


この時、速水思文、二十六歳、外套を着たままはいつて来る。


思文  なんだ姉さんもここにゐたの。お母さん、お客さまだよ。さつきから二人も応接で待たされてるよ。それから、姉さんとこへ電話、相馬さんから……。探してもゐないから、さう返辞したら、これからすぐに伺ひますつて……。

登志子  さう、ありがたう。あんた、どこへ行くの?

思文  うん、ちよつと友達んとこ。

登志子  待ちなさい、話があるから……。

桃子  それぢや、今日はこれぐらゐにして……。あああ、やつと重荷がおりた。

秀策  (平栗に)あとでわしの部屋へ寄つてくれ。(額をみあげて)あの額も外して、なあ、桃子、お前さんの居間へでもかけとくといい。──

桃子  (起ちあがり、平然と)ええ、ええ、お外しになりたいものはどんどんお外しになつてください。(入口の方へ歩き出しながら)そのあとへ何をおかけになるんです?

秀策  登志子がそこはいいやうにするだらう。

桃子  ねえ、登志子、お父さんは、ご自分で一筆おふるひになりたいんだよ──「雉子も鳴かずば撃たれまい」とね。


桃子、さつさと退場。


秀策  なんだ、それや……。(みんなの顔を照れ臭さうに眺めまはし)お母さんは、今日は、よほどどうかしとる。


秀策、退場。


思文  たうとう、やるのかい、姉さん。

登志子  しやうがないわ。あんたのせゐよ。

思文  僕の知つたことぢやないさ。こんな学校、もともと存在理由はないんだ。おやぢの酔興とおふくろの名誉慾で、でつちあげた、インチキ学校ぢやないか。

登志子  なにを云ふの! 仕事つて、どこにでもあるもんぢやないことよ。

思文  姉さんの仕事? あるさ、いくらだつて……。姉さんはやつぱり派手なことが好きなんだよ。

登志子  派手かしら、こんな仕事……。もともと姉さんの柄ぢやないことぐらゐ知つてるわ。でも、おだてられれば、やれさうな気がするだけよ。義兄にいさんだつて、あたしがこんなことをしてるの見たら、気が狂つたのかと思ふでせう。あたし、相馬さんがうしろについててくれるから、安心なの。あたしは、お芝居をするだけでいいんだから……。

思文  芝居か。姉さんは正直でいいや。どうせそんなもんさ。おふくろは芝居をやりすぎて舞台からころげ落ちたんだ。

登志子  さうぢやないの。芝居つてことがわからなくなつたんだわ。でもね、姉さんはあんたにひとつお願ひがあるの。速水家のためでもなく、あたしのためでもない、ただ、この学校のためにお願ひがあるの。

思文  もうそんなせりふがでるのかい。このインチキ学校のために、僕がなにをすればいいの?

登志子  だから、インチキをインチキでなくなすのよ。すこしでも、まともな学校にするのよ。相手は品物ぢやなくつて、人間でせう。うら若い女の子よ。なんにも知らずにはいつて来るのよ。学校つていふ名がついてるから……。

思文  それやさうさ。だから、姉さんにそれだけの良心があるなら、この学校の門を永久に閉めちまへばいいんだ。

登志子  中味がどうしても変らなければよ、それは。やつてみなくつちやわからないぢやないの。

思文  本気でそれをやるつもりかい、姉さん?

登志子  どこをどうすればいいんだか、あたしにはわからないわ。みんなから智慧を貸してもらひたいの。ぼんやりした方向さへわかれば、あとは楽だと思ふわ。だから、信用のできる先生たちばかり、あたしの周りへ集めてさ。あたしは、さういふ先生たちの仕事がしいいやうにしてあげるつていふ風にするの。学校つていふ型にとらはれない、楽しい雰囲気を作りたいの。

思文  姉さんにさういふ夢があるのは頼もしいみたいだが、僕にいはせると、お話にならないほど甘い夢だ。人間の集りから楽しい雰囲気なんぞ生れるもんか。或は楽しいと思ふ瞬間はあるかも知れないよ。一人がさう思つてる時、一方で、誰かがきつと、苦い味を噛みしめてゐるんだよ。

登志子  あんたも、しばらく会はないうちに、とてもひねくれ者になつたわね。さういふ物の考へ方は、ちよつとインテリ風だけど、姉さんにはえらくみえないわ。

思文  いいよ。えらくなんぞみえなくつたつて……。

登志子  ううん。ほんとは、あんたはもつとえらいのよ。そんなことを口に出していはずに、ただ頭のなかで考へてるだけなら、ずゐぶんえらいと思ふわ。あたしは、あんたのさういふところを買つて、いろんなこと相談しようと思つてるのよ。あんた、この学校の先生たちをみんな識つてるでせう?

思文  みんなは織らないね。直接話をしたのは二、三人だよ。

登志子  そんなら、その二、三人のうちで、これはと思ふひと、ゐる? あんたの好きなひとつていふんでもいいわ。

思文  そんなの、ゐない。月ノ木さんの歌がちよつと聴けるぐらゐのもんだ。もつとも、あれや僕のテニスの相手つていふだけだがね。

登志子  あたし、その月ノ木さんつていふ方に会つてみようかしら?

思文  会つて、なにするの?

登志子  ううん、学校のこと相談するの。

思文  去年音楽学校を出たばかりのお嬢さんだよ。なんにもわかりやしないよ。

登志子  一年ゐたらたいがい仲間同士のことはわかるわ。あんたのお友達になれるやうなひとなら、あたし、信用して、なにもかもきいてみよう。

思文  スパイの役なんかさせないでほしいな。

登志子  大丈夫、そんな風にはもちかけないから……。ぢや、まだ若いのね。いくつかしら?

思文  はつきりは知らない。たしか二十三か四かだ。

登志子  きれいなひと?

思文  (すこしはにかんで)いはゆる美人かどうか、僕にはわからないけどね。感じはわるくないよ。そんなこと、なんに関係あるの?

登志子  さあ、別になにに関係があるつてわけでもないけど、参考のためにきいとくの。

思文  だけど、姉さんはいつたい、中等教員の資格なんかもつてるのかい?

登志子  それこそあんたに心配してもらはなくつたつていいわ。ちやんと履歴がものを云ひますからね。

思文  怪しいもんだなあ。もつとも、おふくろに資格があるんなら、誰だつていいわけだ。

登志子  とにかく、あたしは、はじめはロボットのつもりよ。相馬さんは、その方が却つてやりいいつて云ふの。

思文  その相馬さんなる人物さ、これや余計なことかも知れないけど、いつたいぜんたい、あの人物は、ほんとはなんなの? ハルビンでホテルのマネェヂャアをしてたつていふんだらう? それが、学校経営の顧問みたいなことがどうしてできるの?

登志子  相馬佐つて、さういふ人物なんだからしかたがないわ。あんたの疑問は、逆に、あの人にどうしてホテルのマネエヂャアができたかつていふこととおんなじだわ。あたしも詳しい経歴は知らないけれど、兄さんともずつと懇意な間柄だし、世間的に相当な信用もあるらしくつて、日本へ帰つて来る早々、大きな会社を作つて事業をはじめるくらゐですもの。ハルビンでの個人的な交際の範囲からみて、やつぱり教養のある紳士よ。ただ、うちの兄さんみたいに手堅くおんなじ職業を守り通すつていふたちぢやないのよ。気が向けばなんでもやつてみる。それも、人が手を出しかねてゐるやうな冒険が好きで、安全第一は性に合はないんですつて。そのくせ、理想家肌の潔癖なところがあつて、損得をぬきにした社会事業なんかにも、をかしいくらゐ肩を入れるのよ。

思文  姉さんはあのひとのおかげで、無事に満洲から引揚げて来られたんだつていふけど、さういふ恩義は、あんまり大きく考へすぎない方がいいよ。「命の親」だなんていふ表現は、僕はきらひだ。

登志子  あら、だつて、それはほんとなんですもの。途中の旅行が、女にとつて、どんなに危険なものだつたか、経験のないものにはわからないわ。

思文  だからさ、さういふ危険に対して、道づれになつた女性をあくまでもかばふなんてことは、男として、あたり前なことさ。姉さんが、そんなことのために、あのひとを必要以上に近づけるんだとしたら、それはをかしいつていふのさ。

登志子  わかつたわ。あたしはただ、夫とも子供とも別れて、かうしてひとりで生きて行くために、ともかく、生きていく力がほしいの。いくらかの希望と、淋しさに堪へる勇気とがほしいの。誰がいつたいそれを与へてくれるの?

思文  …………。

登志子  あんたの言ひたいことはよくわかるわ。姉さんのことを心配してくれる気持は、ありがたいにはありがたいんだけど、姉さんもすこしは、これで、おとなのつもりよ。


相馬佐、突然、入口に姿をあらはす。


相馬  案内なしでやつて来ました。なかなか立派な校舎ぢやありませんか。これだけの建物は、いま東京に残つてる学校ぢや、さうざらにありませんぜ。(思文に)さつきは電話でどうも……。どうです? あなたもひとつ、お姉さんを助けて学校経営に乗り出しませんか? それとも、教育専門の方へ廻られてもいいが……。

思文  僕はダメなんです。人間相手の商売はまるで自信がありません。ぢや、失礼します。(退場)

相馬  人間相手でない商売なんて、なにがあるだらう?

登志子  学者にでもなる気でせう。

相馬  学問ですか? しかし、書物のなかに人間を読まずに、いつたい、なにを読むんですか? これはまあ、さういつてみるだけの話で、人間に愛想をつかした人間の誠実さも、僕にはわかります。そこで、教育といふものがこれからどう変つて行くか、これが、問題だ。どうです、そんなに恰好がつかないこともないでせう。さうしていらつしやれば、もう立派な校長さんだ。

登志子  さう? なんですか、すこしづつ自信みたいなものがついて来ましたわ。あなたつていふ方は、ほんとにひとを自惚れさせることがお上手ね。

相馬  どうにもならん相手だつてありますよ。今日は素人がものをいふ時代です。奥さんのやうに、天性の美質を恵まれた方は、その美質を幸福の追求のために役立たせなければなりません。ご主人がシベリヤのどこかで抑留生活を送つてをられるといふことは、度々申すやうに、これはあなたの責任ぢやない。それどころか、あなたは、満洲国官吏の妻といふ資格で、あんな酷い取扱ひを受けたぢやありませんか。僕にいはせれば、あなたは、あの期間を境として、まつたく過去といふものをお忘れになつてよろしい。しかし、それは、貞淑な奥さんには、無理な註文かもしれん。八坂大人は、零下四十度の吹雪の下で、愛妻の夢を見つづけてゐるでせう。

登志子  そんなことはご想像にまかせますわ。あたくしの頭は、いま、この学校のことでいつぱいですの。子供のことさへ、どうかすると、一日ぢゆう思ひ出さずにゐることがありますわ。

相馬  お子さんは大丈夫、僕が保証します。あの満洲人夫婦は神様です。あの一家がなかつたら、われわれも、いまかうしてはゐられなかつた筈ですから……。

登志子  人間のねうちつて、ほんとにわからないものですわ。

相馬  いや、わかつてゐながら、どうにもならんのぢやないですか? 早い話が、今度の教師の整理もですよ、人物本位でいくか、能力本位でいくか、そこに問題がある。僕は、能力本位でいかうと思ふ。これは絶対です。教師の人物なんていふものは、動かし方でどうにでもなる。生徒との接触の面では、教師としての魅力は頭脳ひとつです。技術がそのつぎ……。まづ、うんと勉強させなくちやいかん。うそでもいいから、博士論文を書いてるふうぐらゐはしなくちやいかん。講義には、どんな講義にでも、抒情味を加へること。適当に詩的な文句を挟むといふ修業は、数学の先生にもやつてもらひたい。

登志子  そこへいくと、あたしは無資格だわ。

相馬  校長さんはセンチメンタルではいけない。それからあまり専門家でない方がいい。そして、こいつだけは、人物がものをいひます。第一、装飾的価値がなけれやならん。平易な言葉で、ちよつぴり哲学を匂はせるなんていふことは時として必要です。あなたは、それが得意だもの。(ポケットから紙ぎれを出し)あ、就任の挨拶をちよつと書いてみました。適当になほしてください。こいつをただ読みあげるんぢやまづい。暗誦しといて、即興風にやらないとね。それからと……新しい校歌の文句ですがね、できて来たには来たんだが、ちと気に入らなくつて、いま、直させてゐます。とにかく、あなたのご意志を尊重して、校名はそのまま残すことにし、速水の二字を歌ひ込むことにしましたから……。作曲は、某大家が引きうけてくれる筈です。

登志子  (受けとつた原稿に目を通しながら、だんだんくすぐつたいやうな表情、やがて、首をちぢめて、忍び笑ひをする)こんなこと、あたし、言へないわ。

相馬  だから、変なところは、勝手に直してください。ただ、紋切型の挨拶にならなければいいんです。それと、すこしばかり、型破りの、鋭いところをみせておかうぢやありませんか。

登志子  生徒はそれでいいかもしれないけれど、父兄が承知するかしら?

相馬  ああ、父兄が来てるか? しかし、かまはんでせう、それくらゐのことを云つて、ひとつ度胆を抜いてやりませう。いくら立派なことを云はうとしたつて、右顧左眄してたんぢや、なまぬるい印象しか与へません。塾長の挨拶についで、教頭にも壇へ上つてもらひます。これは、「新しい教育方針と、その具体的実践要領」といふ題で、例の「生産しつつ学ぶ」方式、作業と学課の有機的な組合せを概略説明することにします。草案は、大体できてゐます。ところで、教頭は、あの木原なにがしの代りに僕の旧友で、頭も相当いい男が、あるミッション・スクールで腐つてゐますから、そいつを連れて来ることにしました。それでと、あ、事務を任せる男ですがね、これは、やはり、僕の乾分を使ひます。しかし、急に入れ替へるのはちよつと考へものですから、平栗ですか、あの男の下で、しばらく働かせませう。


平栗が、頭へ手をのせながらはいつて来る。二人を見比べて、もぢもぢしてゐる。


登志子  なにかご用?

平栗  いや、こんなことをまだお取次していいかどうかわかりませんが、二、三の先生方が是非、新塾長にお目にかかりたいといはれるんですが……。

登志子  でも、正式に就任してないんだから、それはちよつと困るわ。

平栗  それをわたくしも申したんですが、ともかく、会つてお話がしたいといふことで、そこへもう来てをられるんですが……。

相馬  会つたらいいでせう。

登志子  あなたは?

相馬  僕は遠慮しませう。今夜、ご都合はどうです? 夕食でもすまして、またお宅の方へ伺ひませうか?

登志子  ええ、さう願へれば……。ぢや、お通ししてちやうだい。

相馬  しつかりやつてください。いつか申しあげたやうに、あくまでもあなたの地で行つて差支へありません。特別に固くなる必要はない。返事は明快に。但し、余計な受け答へは一切無用。面倒な理窟は、ただ聴きおく程度で……。会釈だけは、ぐつとくだけて、物やはらかに、どうぞ……。


相馬、退場。入れかはりに、蕗小路、小浜の二人、それぞれ改まつた表情ではいつて来る。


登志子  わたくし八坂登志子でございます。

蕗小路  はじめまして……わたくしは蕗小路常明と申します。礼法と茶道の課目を受け持つてをります。

小浜  わたくし、小浜しゆんでございます。家事の方をいたしてをります。速水両先生にはたいへんご厄介になつてをります。

登志子  (大きいテーブルの方に行き、一同に座をすすめながら)どうぞ……。まだなんにもわかりませんのですが、お話だけ承りませう。

蕗小路  この度の学校の改革については、われわれにもいろいろ意見がございますが、一旦辞表を出しました以上は、なにも申上げないのがほんたうだと存じます。ただ、ひとこと、新塾長のお耳に入れておきたいことは、この際、同僚間に多分の策動が行はれて、一種の人身攻撃にわたるやうなことまでも公けに口にされるといふ有様でございます。そこで、速水女塾の歴史をよくご存知にならない方が、新しい人事にたづさはられることになりますと、せつかくの改革が改革にならない。いたづらに民主主義の名をかかげた無頼の徒の巣窟になるおそれがございます。それに、こんなことをわざわざ申しあげたくはございませんが、わたくしが貴族の出であるからして仲間入りはさせんとか、常田先生のやうな、これも一例でございますが、つまり硬骨漢をですな、漢文を教へてをられるから旧思想の持主だなどといふ論法はちとをかしい。歴史についても、常田先生には常田先生の史観といふものもおありになりますが、それが悪いといふなら、いつでも改めるとおつしやつてる。別に、さうでなければならんといふほど、込み入つたものぢやないさうでございます。わたしどもは個人的な助命運動をしてゐるんぢやございません。ご親父速水翁は、表面に桃子夫人を立ててはをられたが、この学塾の創立者であり、蔭の支配者だ。わたくしを洛北の茅屋にわざわざお訪ねくださいまして「君頼む」とおつしやつてくださつたあの時のお言葉を、わたくしは生涯忘れることができません。(小浜に)小浜先生、あんたもいひたいことがあるんだからおつしやいな。

小浜  こんなところで申上げるのは変でございますけれども、わたくしは決して噂にのぼつてゐるやうな女ぢやございません。誰がどういふところをみたのか存じませんが、あんまりないい草だと思ひますわ。あたくしは、桃子先生のお顔をみるたんびに胸が張り裂けるやうですの。桃子先生だけは、あたくしを信用してゐてくださるものと思つてゐましたのに……。

蕗小路  それぢやわかりませんよ、小浜先生……もつとはつきりおつしやらなくつちや。実は登志子先生、かういふわけなんでございます。口にするだけでも愉快ではございませんが……。──なに、率直に申しますと、この小浜先生がでございますよ、あの人格者の速水翁と不純な関係があるといふ評判なんでございます。取るに足らん評判でございますが、小浜先生としては、それをひどく気に病んでをられる。これもご無理もないことでして……。

登志子  ちよつとお待ちになつて……。さういふことは、あたくしにおつしやつてもなんにもなりませんわ。第一、あたくしも初耳ですわ。

小浜  いえ、どこでお調べくださつても結構でございます。さういふ風評をおとり上げにならないやうにあそばしていただけたら、ありがたいんでございます。

登志子  それが事実であらうとなからうと、あたくしにはなんの関係もありませんわ。先生方のご進退については、わたしの一存では決めかねるところもございませうし、すべては時の勢ひだと存じます。また、みなさま方のお助けを願ふやうになりましたら、どうぞ、その節はよろしく。

蕗小路  われわれといたしましてはこれ以上申しあげる必要はございません。他を陥れるやうなことはひと言も申しあげませんでした。そのことだけ、新塾長、とくとご記憶ねがひます。武器はわれにあり。使はぬだけの話でございます。おや、廊下をうろうろしてゐる奴がゐるぞ。では、これでごめん……。

小浜  失礼申しあげました。


二人が出て行くと、入れ違ひに、諸住泰介、向笠順三、月ノ木直枝の三人がはいつて来る。


諸住  あなたが八坂登志子さんですか?

登志子  さうです。

諸住  今度、塾長になられたのはあなたですね?

登志子  さうおつしやるあなたは?

諸住  僕は諸住です。この学校の数学の教師です。辞表を出してない教師の一人です。首脳者の名前を変へて看板を新しくするのはまあいいとして、教師の首を切り易くするために、辞表をまとめて出せといふのは、よく使ふ手だが、無茶だと思ひます。僕は理由次第でやめてもいいと思つてます。しかし、ここへやつて来た三人は、教育といふもんと、真剣に取つ組んでゐる連中です。まだ教師の顔もご存じないと思ひますから、序でに紹介しときます。これが月ノ木直枝君、生徒と間違へられさうな美少女ですが、これでなかなかしつかりしたところのある音楽の教師、ステーヂ向きの声楽でなく、生活に即した合唱の指導に独特な理想と技術とをもつてゐます。それから、これは向笠君、官立大学の出身にしては珍しい熱情家で、国文と英語を教へてゐます。最近だね、英語をもたされたのは……。

登志子  それで、どういふお話ですの? ゆつくり伺ひますから、どうぞおかけになつて……。

諸住  おれ一人に喋らせるなよ。

向笠  君が勝手に喋つてるんぢやないか。

諸住  めいめいの立場で意見を云ふ筈だつたらう。おれは、学校の経営や教育の方針なんかについて、いまさらいつてみたつてはじまらんと思ふんだ。要するに、この三人の首は絶対に切らんといふ保証をしてもらひたいな。

向笠  僕はちよつと違ふな。まづ新塾長の教育方針を聞いて、われわれが協力できるかできないかを決めようと思ふんだ。

月ノ木  あたしはただなんていふことなしについて来ましたの。新塾長のお顔がちよつとみたかつたのかもしれませんわ。それだけよ。

向笠  僕もいくらかのその気味はありました。しかし、どさくさまぎれに首を切られるのは困ります。

登志子  向笠先生でいらつしやいましたね、お言葉の意味、よくわかりましたわ。

諸住  僕はこれまで教職員組合のことで走り廻つてましたが、新塾長は、たとへば共産主義なんていふのはお嫌ひですか?

向笠  つまらんことをいひだすなよ。

登志子  ご自分でさうきめておしまひにならない方がよろしいわ。

向笠  それやさうだ。万事わかつた。これで引上げよう。学校の名前が変るつていふことですが、どう変るんですか。

登志子  変へる必要がありませうか?

諸住  「女塾」がいかんな。寺小屋の感じだ。

登志子  (黙つて、眼を校庭の方に向ける)

向笠  物の成るのには順序があるからな。名前は最後だよ。


橋爪ちか、正面のドアから半身をのぞかせ、


ちか  宿直の先生はどなたです? お弁当のごはんがまつ黒焦げですよ。

諸住  僕だ。忘れてた。おろしといてくれ。

ちか  (はいつて来ながら)おろすにやおろしましたがね、無理ですよ、先生、ぢかに火におのせになつちや……。(登志子に)電燈をおつけいたしませうですか?

登志子  ええ、つけてちやうだい。(月ノ木に)月ノ木先生は、テニスをあそばすんですつて? あたしもこの年で、まだ真似ごとをいたしますの。いつかお相手ねがひませうね。(電燈がつく)

月ノ木  (黙つて、眩しさうに登志子の顔を見あげ、軽く会釈をする)

登志子  先生は、お宅からお通ひになつていらつしやいますの?

月ノ木  いいえ、下宿からですの。

登志子  ご不自由でせう? お食事は?

月ノ木  むろん自炊ですわ。

登志子  たいへんね。なんとか、学校でも考へてみますわ。先生方のために、気持のいい食堂を作ることぐらゐ、それこそやり方ではなんでもないと思ひますわ。

向笠  そいつは、ありがたいや。

諸住  新塾長は温情主義で来ようと云ふんだぜ。なるほど、そんな程度だらうと思つた。

登志子  (それにはなんの反応もみせず)月ノ木先生、あさつての日曜、もしおひまなら、ちよつと午前中にお目にかかりたいんですけれど……。宅の方へいらつしつていただけます?

月ノ木  ご用なら伺ひますわ。

登志子  ご用だなんておつしやらずに、お遊びかたがた、ね? ラケットをおもちになつて……。

諸住  とにかく、この三人は、やめろと云はれてもやめないつもりですから、どうぞよろしく……。

登志子  (微笑しながら)承つておきますわ。

向笠  此処へ来るまでよりも、来てからの方が、よけい学校をやめたくなくなつたことだけ、僕は附け加へておきます。

諸住  なんだ、それや……。ひとりで変なことを云ふなよ。さ、引きあげよう。団体交渉もくそもねえや。


三人の教師たちは座を起つ。それぞれ登志子に会釈をして出て行く。


ちか  (窓のカーテンをおろしながら)これから奥様もお大変ですね。

登志子  さうよ、大変よ。でも、あんたは、いつも元気ね。(相馬から受けとつた紙ぎれに眼をとほす)

ちか  いえ、いえ、もうからつきしだめでございます。大奥様とご一緒に、わたくしもこちらの方は、お暇をいただきたいんです。沼津のご別荘の方へでもやつていただければねえ。

登志子  そんなこと云つて、あんたひとりがさうするわけにいかないでせう。愛作はどうするの、愛作は? あんたの旦那さんは?(さつきの紙ぎれに眼をおとす)

ちか  旦那さんだなんて、いやでございますよ、奥さま……。

登志子  だつて、さうならしかたがないでせう? うまく行つてるつて云ふぢやないの。

ちか  うまくですか、なんですか、どうせ年の違ふ夫婦なんて、うまく行つたつて知れたもんでございますよ。

登志子  知れたもん、はよかつたわね。どつか物足りないとこあるの?

ちか  それがおわかりにならない奥様は、お仕合せですわ。

登志子  おや、おや、逆襲ね。愛作は今年いくつになつたのかしら? ちつとも変つてないぢやないの、七年前と……。

ちか  ああなると変りやうがございませんよ。あたくしばかりでせつせと追ひつかなきやなりませんから、その苦労をお察しくださいましよ。

登志子  うまいこと云ふわね。でも、学校の方は愛作はなれてるんだし、急にやめられちや困るわ。それに、沼津の別荘は、もう売りに出てるのよ。

ちか  まあ、もつたいない。でも、あそこには寮もございますしね。寮もお手放しになるんでございますか?

登志子  いいえ、寮はこの夏から使ふのよ。

ちか  そんなら、あたくしども夫婦を、寮の方へおまはし願へませんでせうか。愛作は、奥さま、海がたいへん好きでございましてね。生れが、なにしろ、四国の海岸ださうで……。

登志子  ああ、わかつた。わかつた。

ちか  (声をひそめて)それはさうと、奥さま……今まで黙つてをりましたけどね、理科実験室の地下室がございませう? いつぞや、空襲で焼け出されたつておつしやつて、磯村先生がそこへずつと寝泊りをしてらつしやるんですけれどね。夜は遅くまで出歩いて用心が悪くつてしやうがございません。理科の先生でもないのにつて、ほかの先生方がやかましくおつしやるんですけれど、テコでも動かうとなさいませんのです。

登志子  (紙ぎれから眼をはなさず)磯村先生つて、なんの先生?

ちか  お料理の先生つてことになつてますんですけど、なに、どつかの板前さんを誰かが引つ張つて来たんでございますよ。


ちようどそこへ、磯村甲吉、毛糸のジャケツによれよれのオーバーを着て、廊下を通りかかる。正面のドアを開けて、中の二人を凝視する。明らかに酔つてゐる。


磯村  (ちかに)おい婆さん、今夜裏門に錠をかけると承知しないよ。それから、おれの部屋の紙屑を勝手に持つて行かないでくれ。試験の答案がまじつてるんだから……。第一焚きつけに困るよ。序でにいつとくがね、生徒の持つて来た材料の残りは、お前さんの勝手にやできないぜ。ネギ一本だつて、おれの許しがなけれや、味噌汁の実にしてもらひますまいよ。

ちか  いやな先生ですね。あたしがネギをどうかしましたか?

磯村  あへてネギには限らない。そこにいらつしやるのはどこの奥さんだか知らないが、生徒さんのお母さんなら申上げますがね、この速水女塾は、洋食料理の講義にかけちや、日本一ですぜ。フランスはパリのホテル・マゼステックで、葡萄酒倉の鍵をあづかつてたイソムラといへば、わしのことです。どうかお見知りおきを……。(ドアをバタンと締めて去る)

ちか  あれなんでございますよ。ひとのことを、婆さん婆さん……。

登志子  (吹き出して)愉快ね。なんだか、この学校も全体のバランスがうまくとれてるぢやないの。(さういつて、起ちあがり、就任の挨拶をする恰好で、紙ぎれをときどきみながら、口の中で文句を間違へないやうにいふ練習をする。)


──幕──



第二幕開幕前の声のみの一場面


幕のかげで──


わたくし、八坂登志子です。こんど、塾長に就任いたしました。塾長といふのは、たいへんむつかしい職務ださうで、わたくしにうまくつとまるかどうか、あんまり自信はありませんけれども、一所懸命やつてみるつもりです。女学校といふものは、別にある型にはまつたものでなくていいといふこと、これからの日本の女は、いままで普通に求められてゐたやうな女の型から早く脱けださなければならないといふこと、この二つのことは、わたくしに、いくらかの希望と勇気とを与へてくれます。これから、みなさんとご一緒に、力をあはせて、自由な、のびのびとした女学校、明るく楽しい女学校、活気のある、すつきりした女学校を作りませうよ、ね。さういふ学校であつてこそ、まつたく新しい意味で、もつとも女らしい、男が男らしくしないではゐられないやうな、日本の女性の美しい典型を生み出すことができるのだと信じます。家庭、学校、社会、この三つのつながりのなかで、わたくしたち女は、なにを学び、いかなる習慣になじみ、どんな働きを身につけるかといふことを、ようく考へてみなければなりません。これはおそろしいことですよ。ほんとに想像もつかないほどおそろしいことなんです。家庭は甘えることと、我慢をすることしか教へません。学校では、知つたか振りと、人のあら探しをすることしか覚えない。そして社会といふところは、嘘と鉄面皮とを当り前のことにしてしまひます。これでは、まつたく、人間らしい人間が影をひそめるのも不思議ではありません。しかし、忘れてはならないことは、わたくしたちは、もう、さういふことに、慣れつこになつてゐるといふことです。わたくしは、学校の教師こそしたことはありませんが、やはりさういふ家庭に育ち、さういふ学校にはいり、さういふ社会をくぐつて来たひとりの女として、自分をまづ反省し、さういふ家庭、さういふ学校、さういふ社会に対して、いろいろな註文をもつてゐます。ごく漠然としたものですけれども、わたくしなりの理想もあります。けつして誰にでもこの理想をおしつけようといふのではありませんが、すくなくとも、わたくしもそこでいろいろな経験をなめさせられた女学校といふものだけについては、おそらく、これまでの日本の教育者と、家長と呼ばれる男性とを除いて、一般にうけいれられさうなひとつの行き方を、わたくしは理想として頭に描いてみることができます。むろんそこでは、厳しい知的な訓練と、人間のほこりの自覚とを目的とする秩序だつた勉強が必要です。しかし、それと同時に、いまあるがままの家族制度とその因襲、現代のすがたである醜い社会にむかつて、あなたがたの正しい抗議が含まれてゐなくてはならない。もつと激しい言葉をつかへば、これに敢然として戦ひを挑む姿勢があつてほしいわね。それは、これからの、かくあるべき女性としての骨身をけづる苦行です。しかしまた、それはあなたがた、若い娘さんたちの、爽やかな、青春の勝利の歌声ともなるんですよ。(もうこれ以上我慢ができないといふ笑ひ)ああ、くたびれた。


相馬の声で──


うまい、うまい、その調子。それでだいたい結構。ただ、慾をいへば、もうちよつと、表情を大きく。教師や来賓の方へも十分聞かせるつもりで。最後は、ほどよく、つつましく見得を切つてください。例へば、少女を前にした、やさしい小母さんの軽く首をかしげた微笑といふ風な……。



第二幕


沼津海岸にある速水女塾の夏季寮。白ペンキ塗り木造二階建てのわりにすつきりとした洋風寄宿舎。階下、海に面したポーチのヴェランダには、古ぼけた籐椅子が数箇おいてある。ヴェランダの前は、芝生。手入れのしてない松。荒れた花壇。朽ちかけたベンチ。

四月上旬の曇つた朝。

橋爪愛作とちかとが、それぞれヴェランダと庭の掃除をしてゐる。


ちか  あの別荘も買手がつきかけると、話がこはれるらしいね。二十年前の普請で方々がガタガタしてゐるからね。

愛作  (掃除の手をやめて、椅子にかける)お前といふ女にもあきれるよ。買手が見に来ると、いちいちまづいところを教へてるぢやないか。ここは雨漏りがするだの、風呂場の土台が腐つてるだの……。

ちか  (愛作のそばへ近づき、肩へ寄りかかるやうにしてその白髪を時々ぬく)だつてお前さん、あとでぐづぐづいはれるのはいやぢやないの。硝子戸がめちやめちやになつてるぐらゐ、誰だつてすぐに気がつくけどさ。あんたつたら、この海岸へ来たら、急に元気がついたのね。

愛作  さうでもねえや。この寮も五年間ひとに貸しといたもんだから、荒らされ放題荒らされちまつた。

ちか  どうせ工場にするんだつていふぢやないの。手入れの仕甲斐もないやうなもんさ。

愛作  いや、ただの工場ぢやないらしい。生徒さんたちも代る代る来て、なんだかしらねえが、賃仕事をするつて話だ。

ちか  学校はやつぱり学校らしい方がいいね。若奥さんはしつかりもんにやしつかりもんだが、塾長先生となると、年配が足りないね。

愛作  あ、いてえ。おれはどうでもいい、そんなことは。海岸へ来たら、ちつたあ生魚の顔がみれると思つたら、さうもいかねえや。


庭伝ひに、速水秀策、桃子、平栗高民、相馬佐、及び洋装の八坂登志子登場。


秀策  この寮はまあ、登志子のいふやうに、学校の財産にしてもいいんだが、いざこいつを使ふとなると、だいぶ手入れにかかるね。

平栗  どんなにしましても、五十万といふところでせうか。

桃子  あの別荘が売れたら、それくらゐ出せるでせう。

秀策  あれは別さ。学校と関係はないよ。

登志子  どうせ学校へ戴くんなら、ちやんとしたものを戴きたいわ。

秀策  それがさ、ちやんとしたものとお前はいふがさ、例の相馬さんのご計画だと、この寮も生産的に使はうといふわけだらう。ねえ、さうなると、これをこのまま学校へ寄附してさ、あとはその生産事業の方でよろしくやつてもらふことはできんもんかねえ。

登志子  いかが、相馬さん?

相馬  いや、さうならさうでやり方はありますよ。土地がどれくらゐついてますか……たしか三千坪……。

秀策  どうして、どうして……六千坪ゆうにあります。あの、むかふの防風林までですから……。さうだね、平栗君。

平栗  実測した結果、六千坪ちよつと欠けます。

秀策  とにかく六千坪、時価にしていくらだね。この建物が延坪五百六十坪か。贅沢なことをしたもんだ。

平栗  桃子先生のご理想といふわけで、思ひ切つたものを建てましたんで……。しかしこの寮があるばかりに、速水女塾を志望するものがずゐぶんございました。夏はなんといつても、生徒たちには楽しい生活で……。

秀策  ひとり海水浴でなくなつた子がゐたね。

平栗  十七年間にたつたひとりきりです。

秀策  腹膜の手おくれで死んだのもあつた。

桃子  あれは医者がわるいんです。誤診が原因ですもの。

秀策  人の子供を預かるといふことは容易ならんことだ。わしはこの寮を作ることには反対だつた。さういふことをせんでも、人気取りはいくらでもできる。

桃子  お父さんは、すぐにあれだ。

秀策  それではだ、相馬さんさへご承知なら、この建物は土地ぐるみ学校へ寄附しませう。どうご利用にならうとご勝手だ。但し、これをそつくりいますぐ現金に代へることは待つていただきたい。つまり、速水女塾の財産は、独立会計にして経営の自由は認めはしますが、依然としてわしの名義になつてゐるわけです。わしは飽くまで校主です。決して表面には立ちません。けれども、学校の存立を危くするやうな経営方針には断乎として反対します。

相馬  すると、まあ、委託経営といふ形式ですな。

秀策  さやう。責任者は八坂登志子。相馬さんは、すると経営顧問といふことになりますな。

相馬  ざつくばらんにお話ししますと、学校経営の面でわたしのお手助けできることは、わたくしの工場がこの建物を学校から半分借り受ける。製薬を中心とする小工場です。学校側は、むろん、残りの半分を寮として使はれる一方、生徒を交替で工場労務の方へ提供してくださる。戦時中の学生動員のやうな無計画なやり方でなく、工場は一種の理科教室になります。同時に、生徒には適正な労働賃金を払ひます。学費にそれをあてれば十分余るくらゐだと思ひます。そして、もうひとつ、わたしのひそかに期待してゐることは、東京の本校へもある程度、作業をもち込む。例へば容器の製作とか、薬品の盛り分けとかいふ集団的な作業を、放課後の一定時間、これはごく短時間でいいのですが、やつてもらふ。その賃金は、これまた医療施設の完備とか、運動用具の購入とか、或は臨時の音楽や映画の催し物とか、さういふことのために積立てることにします。これもわたくし一個の空想ですが、これがうまくいけば、生徒にスマートな制服を一着新調させます。

秀策  そいつはうまくいくかどうかしらんが、ちかごろ、女学生の服装はひどくなつとる。


平栗、この間に、座をはづす。


桃子  さういふことをやつてみようとするのも、時勢でせう。まあまあ、世間がどういふかやつてごらん。父兄会なんてうるさい存在もあるし……。

登志子  だつて、お母さま、あたしたちは、父兄の立場を第一に考へてるんですよ。

桃子  ところが、あんたたちの考へてるやうな父兄ばかりなら、文句はないのさ。序だから云つてあげるがね、こないだの始業式さ、あんたの塾長就任の挨拶は、父兄の間でどんな評判だか、あんたは知つてるかい?

登志子  多少、面白くない声も聞いてますわ。それも、こつちは計算にいれてるんですから……。

桃子  どんな計算だか知らないけれど、わざわざ父兄を怒らせるやうなことを云ふ必要があるかねえ。

登志子  お母さまはあの席にいらつしやらなかつたから、真相はおわかりにならない筈よ。思ひ切つたことを喋るには喋りました。でも、みんな、静かに聴いてましたわ。

桃子  あたり前さ、その場で弥次を飛ばすやうな父兄はゐないにきまつてる。あとで、わたしのところへ押しかけて来たものが三人もゐる。そのうち二人は、入学を取消してもらふと云ふし、一人は、三年生のお父さんだが、退学届を持つて来た。わたしは、それをなだめるのに骨を折つたよ。時節柄、ああいふ風な言い方をしないと、学校の面目一新をはつきりさせにくいのだ、と、苦しい弁解をしておいた。表面に現はれない、無言の抗議は相当の数にのぼつてやしないかと思ふ。それでいいのかい、いつたい?

登志子  一方では、式がすんでから、塾長室へわざわざ顔を出して、いいことを云つてくれたつて、無条件によろこんでゐる父兄も、あるにはありましたけどね。

桃子  言葉の調子だけに拍手を送る手合も、たまにはあるさ。お父さんも、たしかその口とみえて、お前の演説をかげでほめてゐなすつた。

登志子  蔭ぢやないわ。面と向つて、上出来だつたつて、おつしやつたわ。ねえ、お父さま。

秀策  わしは、細かいことはよく聴いとらんぢやつた。なかなか堂々とやりをると思つただけだ。しかし、すんだことは、もういいぢやないか。たいていのもんは、いちいち演説の文句なんか気にとめちやをらんよ。選挙のときだつてさうだ。相手を感動させるこつは、なんでもいいから、こやつ頼もしい奴だ、と思はせる重みと熱のある押し出しと口調だ。

桃子  だれも選挙演説のことなんか云つてやしません。

秀策  登志子の挨拶は、わしの聞いた範囲ぢや、なかなか評判はよかつたぜ。生徒たちが廊下でわいわい云つとるのをぢつと聞いとつてやつたが、新塾長のうけは、先づ満点に近いと思つた。大した人気だよ。登志子には、もうそれぐらゐわかつとる筈だ。

桃子  学校は生徒ばかりで持つてるんぢやありますまい。

秀策  その通り。教師は、そんならどうかと云へば、あの演説の最中、若い連中が、いくども手を叩きよつた。

桃子  さういふ人気は永つづきしませんよ。ああ、学校なんていふもんを、どうしてさうみんな甘くみてるんだらう……。教育ばかりは、ハッタリの利くもんぢやないからね。(起ちあがり)どれどれ、話がさうきまつたら、わたしは文字どほり田舎へ引つ込みます。愛作……愛作……。愛作はそこにゐないの?


ちか手を拭きながら裏から出て来る。


ちか  ただいま、お茶でもいれませうと思ひまして……。なんかご用でございますか?

桃子  愛作はどうしたの?

ちか  その辺の漁師が今とれたコハダを分けてやるつて申すもんですから、ザルを取りにまゐりましたんです。

桃子  あたしもなんか新しいお魚はないかと思つて……。そんならいい。うちの分も頼むよ。登志子は、今夜はどうするの?


桃子行きかける。


登志子  東京へ帰りますわ。あとで別荘の方へお寄りすることはするけれども……。


秀策も腰をあげ、桃子の後につづく。


秀策  では、お先へ……。おや、平栗はどこへ行つた?


長い間。


相馬  教師の方はあれで納まつてますか?

登志子  まだぶすぶすいぶつてはゐるらしいですけれど、大体落ちつくと思ひますわ。蕗小路、常田、小浜、みんな、あとからなんか、かんか、云つて来るには来たけれど、一番厄介だつたのは木原教頭よ。まつたく本人意外だつたらしいわ。自分のどこがこれからの学校の方針にそはないのか、それをはつきり説明しろつていふのよ。

相馬  あれや、平教員なら残してもよかつたのに、あなたが強硬に反対したんだ。

登志子  さうよ。ああいふもつともらしい先生は、あたし苦手なの。

相馬  まつたく災難はどこにあるかわからん。それから、例の酔つ払ひのコックさんはどうしました?

登志子  (笑ひながら)あれは手がつけられないの。なにをいつても、そらつとぼけて、まるで手応へがないんですもの。

相馬  学校に住んでるだけ手がかかるな。

登志子  とにかく一応呼んで話をしてみたの。するといきなり向ふからいふんです。──やめろとおつしやるんでせう。わたしの辞表も出てるさうだが、あれや自分で書いたもんぢやない。幹事の平栗が判をおせといふから、なんだと聞くと、わたしの辞表だといふんで、実は、やめないといふ約束で判をおした、とかうなの。をかしくつて、相手になれないわ。

相馬  字も書けないのかな。

登志子  さうらしいわ。そのくせ、フランス語のメニューをペラペラ読んで聞かせるつていふから、みものよ。

相馬  ゐてもいいね、さういふ先生は。

登志子  あたしも、さう思ふの。なんだか愛嬌があるみたいで、ちよつと棄てられない気もするの。ところが、その磯村先生の頑張つてる地下室つていふのをのぞいてみたのよ。これはもう大変だわ。どつから持つて来たんだか、豚の脚までつるしてあるの。

相馬  ハムだらう。速水家でそのコックさんを使つて、時々晩餐会でもやつたらどう?

登志子  それより、早く、ここをなんとかしてちやうだいよ。せめて、あたしのゐられる部屋をひとつこしらへてほしいわ。

相馬  二階に一と間、すぐにでも使へる日本間があるぢやないの。畳さへ換へれば、ちやんとしたものだ。

登志子  全体がこれぢや殺風景よ。さうお金をかけなくつても、小ざつぱりした環境を作らなけりや……。

相馬  この夏までには、生徒を呼んで恥かしくないやうなもんにしますよ。それまで、あなたは、ここの別荘へでもちよいちよい骨休めに来るといいさ。

登志子  家のものと一緒ぢやいやなの。ひとりつきりでゐるところがほしいの。

相馬  そんならあんた専用の別荘をひとつねだりなさいよ、お父さんに。

登志子  それくらゐなら、なにも、学校なんか引受けやしないわ。自分でどこまでのことがやれるか試してみたいの。あなた以外の誰にも、さういふこと相談したくないわ。

相馬  そいつは光栄の至りだけれども、僕はまだ、あなたからさういつてもらふまでの資格は与へられてゐないと思ふが……。

登志子  あら、それはどういふ意味? 公然と二人きりでゐられるお友達ぢや、どうしていけないの?

相馬  公然とね。なるほど、それもやむを得ずだ。二人つきりの旅は長かつた。長かつたといふだけですね。少くともあなたの方からいへばさうでせう?

登志子  やむを得ずつていふのは皮肉だわ。ハルビンから東京までぐらゐ、もつと危い目にあつたかもしれないけれど、ひとりで帰つて来られなくはないわ。はつきりいへば、あたしがお願ひしてご一緒に連れて来ていただいたんですもの。それを、ちつとも後悔してませんわ、あたし。

相馬  いまさら、そんな詮議をする必要がありますかねえ? をかしいよ、どうも。

登志子  をかしいのはあなたよ。資格云々がそもそもはじまりよ。

相馬  僕は現在のあなたにとつていつたい何者かといふことを、ふと考へる。すると、妙なもんで、自分のやつてることが、実にはつきりして来ます。あなたを東京へ送り届けたら、それで僕の任務は終つた筈なんです。ところが、ご両親にはじめてお目にかかつて、学校の話なんかが出て、あなたが不必要に尻ごみをしてゐるのを見ると、僕は、おせつかいに、片棒をかつがうといひだした。

登志子  あたし一人ぢやあぶなつかしいとお思ひになつたからだわ。

相馬  そこのところなんだが、なにも、あぶなつかしいのは、あなたひとりぢやないんだ。僕も海千山千の男だし、あなたも十九の娘ぢやない。通じるものは通じてゐるわけなんだ。

登志子  お言葉に甘えて、通じたことにしておくわ。それで、そのあと、どうすればよろしいの。

相馬  さあ、どうすればいいか。胸に手をあてて考へる程の事でもない。

登志子  そんなに、追ひつめられるやうな気持にさせないでちやうだい。あたし、なんでも自然にさうなるつていふ風にしたいの。学校のことでもさうよ。なるやうになつていくんだわ。

相馬  (椅子を登志子の方へ引きよせ)なるやうになるには、なるやうにするものがなけれやね。今日、帰りに熱海へ寄りませうか?

登志子  それより、早くこの家をなんとかしてよ。夏休みには交替で海岸へ連れてくつてことは、もう生徒に約束してしまつたのよ。


平栗、現はる。


平栗  おや、もうご老人お二方はお引きあげですか?

登志子  別荘の方へ、ええ。

平栗  お話はもうおすみになりましたか?

登志子  だいたいすんだやうね。でも、相馬さんは、あなたにまだおききになりたいことがあるらしいわ。

相馬  いや、そいつは急ぎません。ただ、この建物は、抵当にはいつてやしませんか?

平栗  驚きました。図星です。実は、無理をして銀行から、少し融通してもらつたんですが、それがそのままになつてをります。

相馬  いくら?

平栗  ええと、戦前の金にして、五万ばかり。利息は払つてある筈です。

相馬  土地ぐるみ?

平栗  さやう、わたしから申しあげたとは、どうか先生におつしやらないで……。

登志子  かまはないぢやないの。でも、はづかしいわね。

相馬  どうしまして……。事業家の不動産なら、それでなきやをかしいくらゐだ。

平栗  そのほかに、なにか、ご用は?

相馬  いや、べつに……。いづれまた……。


平栗会釈して退場。


相馬  あ、さうさう、お話しするのを忘れてた。この寮をまかせる寮長の人選ですがね。塾長のあなたと、ある意味で釣合のとれた女性をと思つて、いろいろ考へてみたんです。ちよつと面白い人物を偶然つかまへました。まあ、会つてみてください。予備知識なしに、いきなりテストをしてごらんなさい。年は三十三、独身で、健康、名前は紅林高子、それだけ申しあげておきます。僕の知つてゐる限り、過去に暗い蔭はありません。ところで、工場勤務のことは、先生たちに反対はないでせうね?

登志子  別に正面からの反対はなかつたわ。ただ、あたしにはうまく説明できないところがあるの。やつぱりあなたをその方の嘱託つてことにして、一度詳しい話をみんなにしてくださるといいわ。(ちよつと考へ込んで)クレ林タカ子さんつておつしやるのね。三十三で独身……健康で……美人ですつて……?

相馬  美人だなんて誰も云やしません。

登志子  たのしみだわ。あなたに折紙をつけられた女性ですもの。

相馬  (それには答へず)よし、工事には来月早々かかりませう。六月いつぱいにはできあがるだらう。機械は静岡までもう来てるんだ。取付けは簡単さ。七月にはいれば作業開始。生徒はすぐ出せますか?

登志子  いくたり、はじめは?

相馬  さやう……まあ、五十人づつ一週間交替で、どう?

登志子  そんなら、クラス単位の組にしてほしいわ。一年生が六十人の組で三組、上へ行くと少しづつ減つて、五年生は一組三十五人ぐらゐ。教師を二人づつ付けることにするわ。

相馬  ここへ来てる間は、いろんな課目を形式的にやらないで、音楽、図画、作文なんてものをみつちりやるといいね。作業を通じての理科的な勉強は別としてさ。

登志子  それ、あたしも考へてゐるの。時間割を全体として組み直す必要があるわ。

相馬  それと団体生活の訓練ね。自治的な秩序だつた生活、その中で生活をエンジョイする技術を身につけさせる。紅林高子女史の腕のふるひどころです。男女共学だと、なほ面白いんだがね。

登志子  中等学校の男女共学は生徒にも評判がわるいんですつてね。

相馬  男の方が閉口するらしいね。十八以下の娘と、三十過ぎた人妻とは、どつちも、男を男と思はんからね。

登志子  あたしは東京に半月、こつちに半月でいいでせう?

相馬  こつちの半月の、そのまた幾日かは、塾長先生の肩書をはづして、僕のところのお客になつていただけませんか?

登志子  ハルビンからカテリナさんがお迎ひにいらつしやるまでね。

相馬  カテリナか。あれも今頃は赤軍特務曹長の赤ん坊でも生んでるつてね。

登志子  なんて静かな海でせう。

相馬  このへんに歯医者はゐないかなあ?

登志子  歯がお痛いの?

相馬  僕はのんびりすると齲歯のあつたことを思ひ出すんです。一度医者におどかされたことがある。


橋爪愛作が、あたふたと現れる。


登志子  どうしたの、そんなに慌てて……。

愛作  とんだことができまして……。ただいま別荘の方へ電話がかかりましたんですが……まことにどうも……。

登志子  なによ、なによ。

愛作  へえ、それがその……学校から火がでましたんださうで……。

登志子  学校が火事なの?

愛作  電話がよく通じませんので……ただ学校がいま燃えてゐるといふだけの知らせらしうございます。大旦那さまが電話にお出になりました。

相馬  そいつは事だな。

登志子  原因もなんにもわからないの?

相馬  どつちみち間に合はないな。とにかく帰りますか?(時計をみる)すぐ別荘へ寄るから、ハイヤーを頼んどいてちやうだい。駅まででいいわ……。(相馬に)年寄りはぢつとしてた方がいいわね。

相馬  本宅の方も危いかな。どうも、こりやしかたがない。


愛作、小走りに退場。


登志子  (起ち上つて、そのへんを歩きまはる)母の顔をみたくないわ。

相馬  驚いてゐられるだらう。

登志子  焼けてしまつたら、かへつてさつぱりすることはするわ。生徒は日曜だからゐないわけだけど、怪我人でもあるといやね。

相馬  ただかうしてゐて、どうすることもできないといふのは、へんなもんだなあ。

登志子  あの校舎が火の海につつまれてゐるのを想像してごらんになれる? あたしは、なにか運命つていふやうなものを考へるの。運命の大きな意志が働いてゐるやうに思ふの。人間の力でどうにもならないものは、いつか、自然が解決してくれるつていふことだわ。

相馬  しかし、焼けてなくなるのは物質だけだからね。よかれあしかれ、あとにはまだ人間の欲望が残つてゐる。これが滅びないかぎり、焼けうせたものは、またもとの形にもどる。運命は人間を殺すのにそんな手間はかけないさ。


そこへよちよちと速水桃子が現はれる。橋爪ちかが軽く肱を支へてゐる。


登志子  お母さん、がつかりなさつちやダメよ。

桃子  お前こそ元気を出しておくれ。あとからの電話で、火はやつと消えたらしい。全焼とまではいかないといふことだ。本宅は無事、怪我人もなし。理科教室の地下室から火が出たといふんだがね。教師がひとり寝泊りしてゐた風だ。

登志子  知つてます。全焼とまではいかないつて、まあ八分通りかしら?

桃子  八分通りにせよ、半分にせよ、損害甚大さ。あとをどうするかだね。

登志子  相馬さんが、そこは考へてくださるわね。

桃子  わたしたちには、もうどうする力もないよ。

登志子  お父さまは?

桃子  電話にしがみついたきりさ。保険もあいにく期限が切れてたんだとさ。

相馬  いや、保険のことは、一度ご注意した筈ですが……。

桃子  人さんの注意なんぞきく人ぢやありません。

登志子  あたしたち、ひと足お先へ帰つてみますわ。きつと本宅の方もごつた返しだと思ふから、お母さまがた、しばらくこつちにいらつしやるといいわ。

桃子  思文も電話でさういつてた。あの子ものん気なもんさ。まるでひとごとみたいに、焼跡の光景を笑ひながら説明するのさ。

登志子  なんてですの?

桃子  本宅の応接から窓越しにみえる焼跡の状態を報告しますつて、かうなんだ。まづ、塾長室、事務室、教員室を含む本館と、講堂の一棟は依然として残つてゐます。本館につづく校舎の東側の二棟、別棟になつてゐる雨天体操場と、これに接した元寄宿舎の建物は、屋根が落ち、柱が黒焦げのまま立つてゐます。大講堂と図書室を含む北側の一棟は、コンクリートの残骸となつて、いまなほ窓から煙を吐いてゐます。裏門に通じる道の両側の人家が二軒類焼の厄に会ひ、罹災家族十二名、目下当本宅に収容、慰問につとめてゐます。損害賠償の話がもう出てゐます。終りッ、とかうだ。

相馬  落ちついたもんだな。

登志子  よろこんでゐるのよ、結局。

桃子  あの子は変な子で、あたしが学校をやつてるのを恥ぢのやうに思つてるんだ。学校屋つていふ言葉が頭へしみこんでるのさ。

登志子  お母さまも、まあその調子なら安心だわ。やつぱり、相当なもんね。

相馬  さすがに、女傑といふところがあられるね。

桃子  なにが女傑なもんか。たつた今までふるへてたのさ。あんたたちの顔をみたら、とたんにほつとしたんだ。

登志子  (相馬に)あんまりほつとされても、また困りやしない?

相馬  とにかく一応研究してみなくつちや。思文君の今の報告でやや見当はついたが、差当り僕のできることは……溜息をつくことぐらゐだ。

登志子  ハイヤーは来てくれるのかしら?

桃子  お父さんが電話で頼んでらつしやつたやうだ。おれも帰るつていつてなさるよ。あたしはどうしようかね。

登志子  だから、お母さまはもう焼跡なんぞごらんにならない方がいいわ。お母さまにとつて一番おつらいことだわ。

桃子  空襲の最中も、自分で見廻りだけはしたんだから……。


速水秀策、登場。


登志子  いやなことになつたわね。

秀策  お前もそんな挨拶しかできんのか。おれ一人を電話口へ立たせて、みんなどこかへ行つてしまひよる。こんな時、顔の見えない相手ばかりと話がしてゐられると思ふか。

桃子  なにをいつても返辞をなさらないから、あたしも、話す相手がほしかつたんですよ。

秀策  誰だつてかういふ時は慰め手がほしいんだ。お前さんみたいにさう簡単に復旧工事の話をもち出したつても、わしの頭はまだそこまで行つとらんのだよ。

登志子  だから、みんなが自分を慰めようとしてゐるんだわ。平栗さんはどうしてますの?

秀策  電話を半分もきかずに、あわてて飛び出しよつた。やれやれ、わしは、自分で自分を慰めやうがないんだよ。お前たちとは違ふんだよ。

登志子  相馬さん、なんとかおつしやつて、父を慰めてやつてくださらない?

相馬  (戯談とも真面目ともつかぬ調子で)では、ご指名によつて、僭越ながらわたくしがお慰め申し上げますが、学校の火災によつて生じる不都合は、不肖わたくしが、責任をもつて善処いたします。但し、これは、失礼に亘りませんやうに、その所要経費はわたくしの会社から学校へ当分ご融通申しあげるといふ形式をとります。復旧工事には、すぐに着手できるやう、然るべき手続をとることにいたします。この建物の改築と併行して、速水女塾の事業としての完全な態勢が整ふのは、さう先のことではないといふことを、みなさんの前で、今日只今、明言いたします。

秀策  (しばらくぼんやりしてゐるが、やがて、われにかへると、つかつか相馬の傍らに歩み寄つて、握手を求める)ありがたう、相馬君。

桃子  ありがたすぎる。

秀策  わしはねえ、相馬君、相馬さん、今日までいくつかの事業に手は出したが、やつぱり、速水女塾が一番可愛かつた。それや苦しいこともあるにはあつた。いくど投げ出さうと思つたかわからん。しかし、考へてみるとだ、こいつは、女房と手を切るほどむつかしい。云はばあらゆるものを犠牲にしてまで、こいつに注ぎ込めるだけ注ぎこみました。おかげでさ、選挙費用も満足に出ない始末……。

桃子  あなたは、いつもそれをおつしやるけど、あの時落選なすつたばかりに……。

秀策  わかつとる。そんな話をしとるんぢやない。その速水女塾がだ、いよいよ更生の第一歩で、この大蹉跌……。政治家としてのわしの生命も、もうさう長いことぢやない。せめて、眼の黒いうちに、その昔自由民権のために立ち上つた速水秀策の素志を、正しく世に知らしめたい念願です。

桃子  登志子、お父さんの言ひ草をよく聴いといておくれよ。今日といふ今日は、お前に頼んどくがね、わたしの骨は、絶対にお父さんとおんなじお墓へ埋めないでほしいからね。

秀策  おい、馬鹿を云ふんぢやない。わしは自分のことだけを考へちやをらん。お前さんが塾長の椅子を譲るやうにしたのは、なんべんも云ふやうに、ほかから強制される前に、潔よく身を引く賢明な手段を撰ばせた、といふだけだ。お前さんひとりに追放といふ罪名を着せたくないわしの計らひを、お前さんはちやんと呑みこんでくれてるものと思つてた。なあ、さうだらう……。桃子、お母さん……。学校は焼ける。お前はすねる。わしは、淋しい。相馬君がああ云つてくれなければ、わしは焼跡へ行つて首をくくるよ。(ぐつたりと椅子による)

桃子  相馬さん、自由の闘士はこの通り、いくぢがありません。さ、あなた、お父さん、そんなにお淋しければ、お墓へだけは一緒に行つてあげますよ。(夫の手を取り、かすかに娘たちに笑ひかける)

登志子  (冷然と)さう……それでいいわ。


──幕──



第三幕


骨組だけ残つてゐるコンクリートの建物の一室。正面の窓四つ、硝子は全部熔け落ち、ただそこから無慙な校舎の焼跡を見渡すことができる。

左手は壁、右手奥に隣室に通ずる出入口。扉は跡かたもない。床には灰と黒焦げの木片。火災のあつた翌日の夜。

月明りが廃墟の色を濃く浮き出させて、どこからかピアノの音が洩れて来る。

隣室の入口から女生徒が一人二人と、つぎつぎに人つて来る。みな黙つてゐる。先頭の一人が部屋の中央で立ちどまる。あとから来たもの二十人あまりこの周囲に集まる。


A  あたしたちの教室よ。

B  きれいに焼けてるわ。残るはただ過ぎし日の思ひ出のみか。

C  だあれも、なんにも持ち出さなかつたのね。

D  だあれも知らなかつたんですもの。

E  机だつて一つぐらゐ残つててもよささうなもんだわ。

A  恨みつこなしだわ。先生のお机だつて、あの花瓶だつて残つてないんですもの。

B  共同製作のあの刺繍も灰になつちやつたわ。

C  壁に貼つてあつた、お習字も図画も……。

D  地図も、統計表も……。

E  校訓七則も理想の姿勢図も……。


一同、吹きだす。が、その哄笑が急に止む。


A  どつかで跫音がするわ。まだ帰らない組があるのよ。

B  復興資金を集める相談をしてたわ。四年のB組よ。

C  生徒の手で集めるより、父兄会や同窓会へ呼びかけた方が早いわ。あたしたちは労力奉仕をすればいいのよ。

B  このまま学校が閉鎖になるやうなことはないかしら?

D  そん時はあたしたちが反対運動に立つわ。

A  それより、放火の疑ひがあるつて、みんな、どう思ふ? 学校を恨んでるものつていへば、誰だかすぐにわかる筈だわ。

E  退学処分になつたひとのことでせう。

C  首になつた教師もゐるわよ。

D  そんなこと簡単にきめられないわ。放火の常習犯つていふのもあるのよ。

A  あ、誰か上を歩いてるわ。そつと出ませう。


Aを先頭に、一同、跫音をたてないやうにして左手から去る。

やがて、右手の入口から、平栗と秀策とがなにか喋りながら入つて来る。


平栗  この建物はとにかく、椅子机を置けば当分授業ができないことはないです。

秀策  露天よりはましといふわけか。教室は大体三分の一しか残つてゐないな。夜間授業はできんかね。

平栗  女学校としては無理でせうな。なにしろ途中が物騒で……。

秀策  戦災に遭つた方が、まだ諦めがつくかもしれん。

平栗  いや、どつちとも云へますまい。なんしろ、新塾長は敏腕家の顧問をつかまへていらつしやるから、復興もとんとん拍子に行くでせう。

秀策  これで、俸給の支払ひを延ばさにやならんかな。どうだ。そんなこともないか?


両人、そのまま左手へ立ち去らうとする。出会ひがしらに、蕗小路、足もとに気をつけながら左手より登場。


蕗小路  (すかしてみながら)どなた?

平栗  蕗小路先生ぢやありませんか?

蕗小路  あ、平栗さん、これはこれは……。学校が焼けたといふ新聞の記事を、たつたさつき人から見せられましてね。驚いて飛んでまゐつたやうな次第です。もう関係が切れたからといつて知らん顔はしてゐられません。

秀策  速水です。暗いところでどうも……。

蕗小路  明るくない方がわたくしにはよろしいんだあす。いや味をいふわけぢやござんせんが、速水女塾も、これから多事多難だあすね。

秀策  お察しの通りです。いい時に足を引かれました。

蕗小路  わたくしは自分のことはどうでもよろしいんだあす。新塾長にもう一度是非お目にかかつて、速水女塾の将来について愚見を申し述べたいんだあす。いまご本宅の方へ何ひましたら、こちらだといふことで、あちこちお探し申してゐるところだあす。ごめんくださいまし。


蕗小路は右手へ退場。平栗と秀策、左手へ去らうとすると、出会ひがしらに、桃子、登場。


秀策  おや、ぢつとしてろと云つてあるのに……のこのこ出かけて来ちや、あぶないぢやないか。

桃子  ひとりで、あんなところにぢつとしてられますか!

平栗  お伴もお連れにならずにお帰りになつたのですか?

桃子  愛作について来てもらつた。あれも焼跡をみせてくれといふから……。

秀策  みんなでかうして焼跡をみて歩いて、いつたい、なにになるんだ。誰ひとり手をつける力もないのに……。

桃子  登志子はどうしましたか?

秀策  今朝会つたきりで、どうしとるかわしは知らん。あいつは今、わしたちより相馬君を頼みにしとるんだ。

桃子  わかりきつたことですよ。かりに相馬さんの云ふとほり、間もなく新しい校舎が建つたにしても、わたしは、この灰になつた教室に愛著を感じます。お父さん、あなたもさうでせう?

秀策  そんなもんかもしれん。どれ、かうしててもしやうがない。平栗君、警察にもう一度電話をかけて、すまないが誰かにちよつと来てくれるやうにつて言へ。放火の疑ひがあるといふことを飽くまで認めさせにやいかん。桃子、お前さんもいい加減にして切りあげなさい。この建物は鉄筋だから大丈夫にや大丈夫だらうが……足もとがあぶない。なにしろ、いい月夜だ。


秀策、平栗、右手へ退場。

桃子、ぼんやり、あたりを眺めまはす。


桃子  (見えない相手に向つて、話しかけるやうに)そんなにがつかりしなくつてもいい。あんたがたは、明日から勉強ができさへすればいいんだ。わたしは、誰がなんと云つても、誰もなんとも云はなくつても、自分で自分のしたことはわかる。潔よく、身を退きます。決してあんたがたを見棄てるわけぢやない。わたしは、これごらん、ちつとも悲しい顔はしてゐないよ。あんたがたは、わたしがゐなくなつても、新しい塾長の下で、楽しく勉強ができることを信じてゐるからだ。速水女塾は、塾長が変つても、校舎が大半焼けてしまつても、やつぱり、あんたがたの速水女塾です。美しいあんたがたの心が集まつて、正しい教へに導かれる尊い場所として、いつまでも、この通り、ここにある。時代の波ははげしく打ち寄せて来ます。うしろを振り返るのはまだ早い。前をみなさい、前を……。あんたがたには、いつでも、前の方に、遠い遠い前の方に、光がみえるはずだ。わたしには、もう、その光はみえない、みえなくなつた。しかし、悲しい顔はしてゐないよ。あんたがたのやさしい笑顔だけが、わたしの、このかすんだ眼にもはつきりみえるからだ。おやすみ……わたしの小さいお友達のみなさん……さやうなら……わたしのやさしい生徒さんたち……(最後は、押へきれぬ嗚咽とともにかすかになつていく。そして、雲にさへぎられた薄暗い月光を背に浴びて、とぼとぼと姿を消す)


ピアノ曲の激しい旋律がほとんど威嚇するやうに鳴り響く。

それが、ピタリと止む。

床を走る小刻みな靴音。

やがて、月ノ木直枝、うしろへ気を配りながら、左手より姿をあらはす。

そのあとから、速水思文、息をきらして飛び込んで来る。月ノ木の肩へ両手をかける。


思文  どうしてさ、どうして逃げるの?

月ノ木  をかしいからよ。

思文  どうしてをかしいの。僕がそばにゐちや、邪魔なの?

月ノ木  そんなことぢやないのよ。ひとがせつかくいい気持でピアノを弾いてるのに、あんたつたら、よけいなことしやべり出すんだもの。

思文  ほんとに燃えてゐない証拠だ。

月ノ木  あなただつて燃えてやしない。手近かな相手だと思つてるだけだわ。

思文  僕は周囲に遠慮なんかしてやしないぜ。

月ノ木  それは、ただ、あんたがお坊つちやんだからよ。

思文  手近かな相手ならほかにいくらもゐます。君は絶壁に咲いてる花だ。僕はすべてを賭けてるんだ。第一、君は僕の大嫌ひなこの学校の教師ぢやないか。

月ノ木  それこそ恩に着る必要のないことだわ。

思文  君は芸術家だ。僕は凡庸な知識人だ。君の才能を讃へることは、ただ、僕にもなにかがわかるといふ風がしたいからだ。君は暴力革命を讃美する。僕は辛うじて無血革命とやらの傍観者であり得るに過ぎない。それでゐて、君の意見にすべて同感だつていふのは、ただ君の軽蔑を買ひたくないからだ。

月ノ木  …………。

思文  君は自分のなかの矛盾を意識して、僕をある距離から近づけないやうにしてゐるのかも知れない。もし、さうだとしたら……。

月ノ木  言つて、言つて、もつと……。

思文  もし、さうだとしたら……僕は、このまま窒息するよりしやうがない。

月ノ木  飛び込むのよ、思ひ切りよく……。(相手から離れる)あたしのゐるところへ……あたしの行くところへ……。

思文  待つて……待つて……。(相手の手をとらうとする)君は、どこにゐるんだ? どこへ行くんだ?

月ノ木  (正面に向き、あとずさりしながら)ダメねえ。ここよ、ここにゐるぢやないの。


二人は追ひつ追はれつする。

左手から、静かに派手な和服姿の八坂登志子がはいつて来る。もつれ合つた男女の人影をぢつと立つて見てゐる。

思文が最初に、月ノ木がつぎに、そこに立ちすくんでゐる女の姿に気がつく。

二人は顔を伏せたまま離れる。


登志子  さ、さ、誰にも見られなかつたことにして、早く出て行きなさい。(手真似で入口の方へ二人を差し招く)


二人が一旦出で去つた後、登志子は窓に近づいて外を見る。

女生徒の「月ノ木先生、月ノ木先生」と呼ぶ声。

思文が、そこへ後戻りをして来る。


思文  (ためらひながら)姉さん。

登志子  (後を振り向かずに)なあに?

思文  僕、この学校の教師をやつてもいい。

登志子  さう? やれたらやつてちやうだい。

思文  その代り、お願ひがあるの。

登志子  その代りでなくつてもいいわ。姉さんにできることなら、するわ。

思文  お願ひは二つあるの。第一は僕、月ノ木さんと結婚する。第二は相馬さんと学校との交渉をなくしてもらひたいの。

登志子  第一はあなたの自由よ。第二は、さうはいかないわ。

思文  相馬さんは姉さんのためにも、学校のためにも、有害無益な存在だと、僕は思ふ。

登志子  理由は?

思文  直感でわかる。

登志子  相馬さんに対する批判は、どうでもできるわ。あたしがいま、相馬さんを必要としてゐるわけは、あなたにはちよつと説明しにくいの。姉さんを信用してていいわ。

思文  僕、相馬さんと衝突するかもわからないよ。

登志子  感情的な衝突でさへなければ、あたしは黙つて見てゐるわ。


この時、平栗があたふたと左手より登場。


平栗  あ、をられた、をられた。(後ろへ)相馬さん、こちらです。

相馬  (入つて来て)今日はどうしても抜けられなくつて……。

登志子  肝腎な時にゐてくださらなきや困るわ。

相馬  それがですよ、今日は、ある方面の人物に会つたんですが、これが僕の弗箱のひとつで、現金をしこたま抱へてる。好機逸すべからず。ちやんと話しをつけて来ました。

平栗  学校事業に投資するといふ人は珍しいですな。

相馬  学校へ出すんぢやない。僕に出すんだ。そこでと、とにかく、昨夜からこつち、なにか問題が起りましたか?

登志子  問題が起つてからぢや遅いわ。今夜もこれから教職員組合の幹部が顔をそろへてなにか協議するらしいわ。

相馬  校門の前に生徒が大勢かたまつてるのは、あれやなんです?

平栗  帰れといつてもなかなか帰らないんです。女の子は始末にわるい。おいおい泣くんですからなあ。では、わたしは、ちよつと仕のこした用事がありますから、これで失礼……。


平栗退場。

相馬は、はじめて思文のゐるのに気がつく。


相馬  おや、君もここに……。

思文  (軽く頭をさげ)お邪魔ならあつちへ行きませうか?

登志子  なにをいふの、あんた……。相馬さん、このひと、学校へ出てくれるつていひますの。

相馬  それはけつこうです。小さくても自分の王国を築くのは愉快なもんですよ。

思文  僕にはそんな野心はありません。教育の仮面の下で、人間が化物にされることをすこしでも防いでみようと思ふんです。

相馬  なるほど、大賛成です。

思文  学校が企業家の餌食になり、教員が囚人のやうに鎖をつけられてゐるうちはダメですよ。

相馬  ダメだ、ダメだ、それぢや絶対にダメだ。

思文  学校の尊厳と魅力とは、それが豊かな知識の泉であるといふこと以外にはない筈です。

相馬  そのとほり……。

思文  生徒を働かして金儲けをさせるなんてことは、名目はどうであれ、まつたく邪道ですよ。

相馬  おや、邪道だとはいひきれない。貧乏人でも学問ができるといふのは、さういふ道が残されてゐるからでせう。日本はご承知のやうに貧乏国です。教育といふものにかける金はごく僅かだ。学ぶもの自らの負担においてこれを成し遂げるよりほかに道はないのです。学校は、学ぶもののために、先づそれを考へなけれやならん。

思文  いや、むしろ社会だ、それを考へるべきは。政治といふものはなんのためにあるんですか?

相馬  文部大臣に訊いてください。


はじめは細く、次第に高らかに、少女たちの合唱が聞えて来る。


速き流れの水清く

匂ふ岸辺の白すみれ

春あさき日ぞいまにして

無垢のほこり、たかくもかかげん


速き流れの水澄みて

みどりぞふかき森のあさ

学びの小みち縫ひゆかば

ちゑのひろ野、われらをまねかん


速き流れの水さえて

もみぢ散りしく野辺のはて

思ひはとほし秋のくも

をとめごころ、たれにか語らん


速き流れの水ひかる

雪の谷間のみちつきて

行く手さへぎる岩ぶすま

いざやゆかん、なにをかおそれん


この合唱の途中から、登志子も、われ知らず、小声ではあるが、これに和して歌ひだしてゐる。


思文  僕にはどうもよくわからないんだ、女の子の感傷つていふやつが……。どんな顔して歌つてるのか見て来てやらう……。


思文が出て行くと、登志子と相馬とは、顔を見合せて微笑を交す。


相馬  (そのへんを歩き廻りながら)僕にはどうもよくわからんのだ、女の自尊心つていふやつが……。

登志子  だれのことをいつてらつしやるの?

相馬  結論はそこへ来る。僕は決して代償を求めてゐるんぢやない。いくらかあなたの役に立つといふことは、僕として、それだけで満足できる、といふ事実をあなたは忘れてゐる。

登志子  あたくしがもし、そのことを少しでも負担に感じてゐるとしたら? 負担に感じるといふのは、迷惑に思ふことぢやなくて、なんていつたらいいかしら、まあ、すまないつていふ気持の強いのだわ。

相馬  だからですよ。さういふ気持の方があなたには負担なのだ。その負担を軽くしてあげられればあげたい。その方法は二つある。第一は、僕に、それをするのが当然だといふ資格を与へてもらふこと。第二は、それをするのはあなたのためであるよりも、むしろ僕自身のためだといふ名目がつけばいいんです。第一の方法は、説明のかぎりではない。第二の方法は、つまり、学校経営の実質的な責任を僕が負ふんです。利益が上ればその利益配当にちやんと僕もあづかることにする。儲かる仕事にでなければ、金は出さないといふ僕の商人根性を、あなたが見届けさへすればいい。

登志子  そこまではつきりおつしやつていただけば、いくらか気が楽になるわ。

相馬  しかし、ちよつと味気なくもあるでせう?

登志子  そんなことないわ。あなたらしくつていいわ。さういふの、好きさ、あたくし。

相馬  しかし、その「好きさ」は、僕としてありがたく思つていいものかどうか……。

登志子  そんな風におとりになる? あたくし、もつといひたいことがあるのよ。でも、そこまでいふのは、よすわ。

相馬  あててみませうか、あなたのいひたいことを……。

登志子  あなたにはかなはないの。先へ先へとお廻りになるから……。

相馬  そこでどうですか、あなたのお気持の軽くなつたところで、あす熱海温泉を一晩つき合つてください。

登志子  強引ね。

相馬  満洲引揚げの途中以来、ほんとに二人つきりになつたことはないぢやありませんか。あの長い不安な旅は、僕たちにとつてそれこそ運命を決すべき旅でした。機会チャンスはいくらでもあつた。ところが、僕の自尊心がその運命に従ふことをゆるさなかつたんです。日本の土を踏んでから、僕は、はじめてあなたに、それとなく胸中を訴へたつもりです。あなたは、実に巧妙に僕をあしらつた。かすかに希望を持たせながら、拒みつづけるといふ、あのやり方だ。僕はかういふことには、あんまり意地づくになる方ぢやない。去るものは追はずといふ流儀なんだが、さて、あなただけは、このまま去らしめるといふことは、僕にはどうあつてもできない芸当だ。なぜかといへばですよ……。

登志子  それはおつしやらなくてもわかつてますわ。こちらにも、ずゐぶん弱味があるつてことだわ。それをかくしてはゐませんもの、あたくし……。

相馬  なるほどかくしはなさらんが……僕がそれに触れること、僕がそれを確認することをおそれておいでだ。なによりも、その実体を僕は求めてゐるんです。それは誰のものでもない、僕のものなんだ。僕のものだといふ証拠が、どうして僕につかめないんだらう?

登志子  お互ひに年のせゐとしておきませう。さ、こんなところにいつまでもゐちや……。あつちへいらつしやらない?

相馬  あの塾長室よりここの方がましですね。

登志子  宅の方でもよろしいわ。

相馬  もうお客さんになる気はないな。

登志子  無理おつしやつちやダメよ。

相馬  僕をちやんと正座に据ゑて、さあそこを動けるなら動いてみろつていふやうなあなたの風を見ると、僕はいまいましいんだ。

登志子  (歩きだしながら)思つてることを、だんだん思つてるとほりにいへなくなるのはどういふわけでせう?

相馬  僕に対して?

登志子  ええ……いいえ、誰に対してでもよ、おそらく……。

相馬  さうかなあ。あなたはさうはみえないなあ。おそろしくほんとのことをいふときがある。


二人が左手の出口を出かかると、右手うしろから、酔つた足どりで磯村甲吉が現はれる。


磯村  そこにおいでなさるのは塾長さんぢやないかね?

登志子  (その方を振り返り)さうですよ。おや、磯村先生。

磯村  さつきから方々探したんですぜ。いやんなつちやふねえ、こんなところに隠れてるんだもの。

登志子  隠れてなんぞゐませんよ。なにご用ですの?

磯村  わしはたつたいま警察から帰されたとこでね。お話にならんですよ。わしの部屋から火を出したつていふのは、全然、事実無根だ。これでもコックは三十年の年期を入れた男でね。火の始末ぐらゐは心得てゐる。わしはなるほど、昼寝をしてゐた。気がついた時は、煙が部屋ぢゆういつぱいさ。慌てて地下室を飛び出した。窓を叩きわつて校庭へ出てみると、なんのことはない、小使部屋ぐるみ本館につづく校舎が西風のあふりでめらめらもえてゐる。宿直はどこへ行つた? 小使はゐない。わしは裏門まで駈け出してつて、大声で人を呼んだ。なに、人はもういつぱいそのへんにゐたがね。火元は立派に小使部屋だ。さもなけれや、附け火さ。わしはうつかりするとビフテキになるところだ。塾長先生、しつかりしてもらひたいね。警察はこのわしをちつと見損つとるでね。わしは、教師だといつてもなかなか信用しない。まづ本籍から調べてかかつたね。学歴はと訊くから、小学校卒業、あとはフランスはパリの料理大学といつてやつた。そんな大学がほんとにあるのかときくから、うそだと思ふなら外務省へ問ひ合せてみろといふと、パリ料理大学卒業とちやんと書いた。それから、財産は? と訊いたね。財産はみんなすつてしまつたといふと、現在の収入はいくらぐらゐかと来なすつた。税金に関係はないかね? ない。それぢや、てんで、学校の俸給三千円と、別にちよつとした内職で月平均五千円、そんなもんだといふと、独身で八千円か、まあ中流だな、と警官は独り言をいつた。どういふ目的で学校の地下室などへ寝泊りをしてゐるのか、と上役らしいのが口を出したから、学校の方で是非さうしてくれといふんだと答へといたから、塾長さんもそのつもりでゐておくんなさい。いやあ、まつたく、警察といふもんは、公明正大な人間にとつては面白いところだ。家財道具の損害はどれくらゐかと、親切なところをみせるんで、わしも謙遜したくなつて、なに、ろくなものはありやしない。着古した洋服二、三着が惜しいといへば惜しいくらゐで、あとは売らうつたつて買手のないやうなものばかりと返辞をすると、それでも収入からいつて相当な暮しをしてゐるはずだ。時価にしていくらぐらゐか言へといふ。どうしても言へといふんなら、五、六千円としておかうといつたら、それぢや一万にしておくからと値上げをしてくれた。向ふでいふだけ出すわけぢやなからうが、人間はふと気前をみせたくなるものらしい。失火の責任がまだ誰にあるかわからんが、もし、学校にあるとすれば、学校に対して損害賠償の要求をするか、と最後に訊いた。わしは考へた。言ひがかりといふものはいろいろにつけられるもんだ、とね。わしはきつぱり言つた。いや、わしは、それどころぢやない、学校に対しては向ふ一年間、俸給を辞退するつもりだ、とね。そこにゐた警官たちは、いつせいに、みんなわしの顔をみて、気のせゐだかも知れんが、ちよつと襟を正すといふ風がみえた。これや本気だ、塾長さん、塾長先生、わしの本心だ。もつたいないことをしちまつたもんだ。わしは、しかし、どこでだつて授業をしますぜ。あすからでもやる。露天料理の風流を一席やつてみせるね。


この長広舌の間に、空の一角がにはかに曇りはじめる。月光が次第に鈍る。遠雷。時々、稲妻の閃き。雷鳴が近づく。最後に物凄い落雷の音。

磯村甲吉は、飛びあがる。登志子と相馬を押しのけるやうにして、駈け出す。

あとに残つた二人は、一瞬、窓の外をみてゐる。

再び、耳をつんざく雷鳴。

登志子、思はず片手で顔を蔽つて、片手で相馬の肩に取り縋る。相馬、彼女を完全に腕の中に抱く。


相馬  思ふとほりのことをちやんといひなさい。

登志子  もうなんにもいはない。どうでもいいやうにしてちやうだい。


──幕──



第四幕


沼津海岸に臨んだ速水女塾紅白寮のポーチ。わりに清潔なホテル風の設備。暗紅と乳白の二色に統一された室内装飾。

油絵の額。電気蓄音機。季節の花。

七月下旬の夕刻。

正面はヴェランダ越しに静かな海が光つてみえる。

あちこちのテーブルを囲んで、女生徒の群れ。書物に読みふけるもの、編物に余念のないもの、雑談に興じるものなど。レコードのワルツ。

近くのテーブルの一つを占めてゐるのは、教師の諸住泰介と月ノ木直枝である。


諸住  一週間つていふのはすぐたつもんだね。

月ノ木  変つた生活だからよ。でも、落ちつかなくつていやだわ。

諸住  落ちつかんね。なんだか、くすぐつたいつてところだね。そこへ行くと生徒は平気なもんだ。

月ノ木  今夜はお別れの演芸会だつていふけど、寮長さんの発案らしいわ。

諸住  今度の組は四年のC粗か。柴垣先生と、だれだらう、もう一人は?

月ノ木  くじ抽きなんて、変な制度ね。

諸住  (あたりに気を配りながら)僕はちよつと考へたんだよ。速水君に順番を譲らうかと思つたんだ。

月ノ木  あのひと、来たい時にはいつだつて来るわよ。別荘がそばにあるんですもの。

諸住  いや、さうでなくさ。一緒にここへ来るつていふのは、また別だよ。いづれ新婚旅行はするんだらうけど、それとはまた変つた味があるよ。

月ノ木  新婚旅行か……なるほど、そんなこともあるのね。

諸住  (一段と声をひそめ)今だから云ふけどね、僕は実際、君が塾長の弟と婚約したつて話を聞いた時、まさかと思つたよ。第一に、あれや、ブルジョアの子だらう。

月ノ木  破産しかけてるね。

諸住  そんなこた知らないが、とにかくブルジョアの子だ。つぎに、あれや、君、徹底的なディレッタントだぜ。

月ノ木  それで、どうなの?

諸住  だからさ、君ほどの女が、あの男のどこに魅力を感じたか、それが問題なのさ。

月ノ木  おほきなお世話だわ。

諸住  いや、さう云つちまはずにさ、君の本音を聞かせてくれよ。僕はやき餅なんか焼いてやしないよ。

月ノ木  はつきり云ひませうか? あんたは焼きもちを焼いてるのよ。

諸住  こつちもはつきり云はうか? 君は、僕に焼きもちを焼かせて、よろこんでるんだ。

月ノ木  もつとはつきり云ひませうか? あんたはね、あたしに対して自信をもちすぎてたのよ。

諸住  そんなら、こつちも、思ひきつて云ふがね、君は、男に甘やかされることしか望んでないんだ。

月ノ木  うん、多少、それはあるわ。

諸住  降参したらう。僕は、かうみえて、女には辛いんだ。つまり、好きな女は、まづ厳しく批判してかかる。これが、女に対する僕の尊敬のしるしなんだ。

月ノ木  変なの。あんたの尊敬なんて、そいぢや、毒にも薬にもならないのね。

諸住  なんとでも云ひたまへ。こんなことを云ひだしたのも、僕の君に対する愛情がまだ冷めきつてゐないからだ。君つていふ女はだよ、もう一度云ふが、よくよくおめでたくできてるよ。さもなけれや、一種の抹香臭い聖女といふやつだ。心貧しきものを救ふ気で、結婚しようつていふんだからね。ああ、君は、聖女だよ。迷へる羊を連れて、箱根へでもどこへでもぶらぶらでかけるといいや。

月ノ木  (笑ひだしながら)痛快ね。さ、仲直りしませう。


この時、左手から、寮長の紅林高子(三十二)が、薄鼠色のスカートに真紅の毛糸のスエーターを着て、活溌な足どりで現はれる。女客をひとり案内してゐる。女客は、わりに地味な洋装の柴山ふき子である。


ふき子  聞きしにまさる豪勢な寮ね。

紅林  未完成だけどね。ちよつと気が利いてるでせう。

ふき子  キタイスカヤの臭ひがしやしない?

紅林  それより、あたしは、上海だと思つてんの。フランス租界趣味かな。

ふき子  相馬はときどき顔を見せるの?

紅林  ううん、めつたに……。食堂をちよつとのぞいてごらん。


両人、右手へ去る。一同、審しげにその後を見送る。

長い間。

やがて、さつきの女二人は、相変らず何か喋りながら出て来る。突然、柴山ふき子のけたたましい笑ひ声。からだを折りまげて笑ふ、その恰好のあまり大袈裟なのに、生徒たち、くすくす笑ふ。


ふき子  まあ、あきれた。ほんと、それ?

紅林  (この反響にすこしおそれをなし)ほんとさ。だけど、ちよつと待つて……。(女生徒たちに向ひ)食堂の係りはどなた? もうそろそろ時間ですよ。

女生徒A  今日の番は六号室です。ここには一人もをりません。

紅林  六号室には誰もゐないぢやありませんか。

女生徒B  さつき海岸にゐました。

紅林  しやうがないね、遊んでばかりゐちや……誰か行つて呼んで来なさい。

女生徒C  ここから呼べば聞えるわ。(ヴェランダへ出て)六号室のみなさあん……。(うしろへ)ちよつとみんな一緒に呼んでよ。


四、五人の女生徒たち、ヴェランダへ出て声をそろへ、「六号室のみなさあん」と呼ぶ。遠くで「はあい」と応じるいくつかの声。「お食堂の用意……」と女生徒Cが叫ぶ。「はあい」と答へる。


紅林  (月ノ木などがゐるテーブルに近づき)今日の炊事係りはてんでダメで、あたくしがさんざお手伝ひをさせられましたの。全部が生魚つてものをいぢつたことのない子ばかりですの。五年生でこれだから、下級生になつたら思ひやられますわ。

月ノ木  寮長さんは、しかし、なんでもよくご存じね。食卓のお作法なんて、あたし、生れてはじめてをそはつたわ。

諸住  紅林先生の流儀は、形式万能でなくつて僕はいいと思ふ。洋食を箸で食つてもかまはんといふのは卓見だよ。それから、あれもいいね、歌を唄ひながら掃除をするつていふやり方も……。

月ノ木  あたしは、あれが好き、「沈黙の時間」……。一時間ものをいはずにゐる修行は、女には必要だわ。

紅林  (柴山ふき子をさし招き、紹介しながら)こちら、あたくしの旧友で、ちかごろ景気のいいご商売をなすつてらつしやる柴山ふき子女史……。月ノ木先生、諸住先生……。あ、あれは、塾長先生のご発案なんですよ。あたくしがこのお仕事をお引受けするについては、いろいろ塾長先生のご希望も伺ひましたんですが、なかなかどうして、ただの教育者ぢやありませんよ、あの方は……。

月ノ木  寮長さんは、いつたいなにがご専門なんですの?

紅林  あたくし? あたくしは、妙な経歴の女でしてね。はじめ、神戸でドイツの領事さんのところへアマにまゐりましてね。それから、その領事さん一家のお伴をして、スエーデンで十年ばかり暮しました。その間に、ストックホルムのそばの修道院へしばらくはいつたりしましたが、領事さんがハルビンで亡くなられたものですから、そのままハルビンのある新聞社で通訳みたいなことをしてをりましたのよ。ロシヤ語をすこしばかりかじつてますもんですから……。ま、さういふ関係で、その当時、オリエンタル・ホテルのマネージャアをしていらしつた相馬さんとお近づきになりましてね。(ここでちよつと、柴山に眼くばせをする)ところが、こちらへ引揚げてまゐりましてから、偶然イタリヤ大使館でお目にかかりましたの。──いまなにをしてる? なんにもしてません。それぢやかういふ仕事を手伝はないか? あたしでできたらやらせていただきませう。そんな風にお話が運びましたの。さあ、いよいよ塾長さんていふ方にお目にかかつて、あたくしびつくりしたんですよ。ハルビンで評判の八坂夫人だつたぢやありませんか。

諸住  どう評判だつたんですか。

紅林  (また柴山の方をちらとみて)こんなこといつていいかどうかしらないけれど、旦那さまそつちのけで外交的手腕を発揮なさる……。


この言葉が終らぬうちに、相馬佐が手提鞄を持つてはいつて来る。


相馬  や、みなさん……。どうです、調子は……。工場の方の成績はなかなかいいやうですよ。生徒はやつぱり違ふね。

諸住  夜業をつていはれるんだけれども、それだけはお断りしてるんですが……。

相馬  断つてください。かまひません。工場は工場で、勝手なことをいふんです。能率はあれで十分あがつてゐるし、生徒の方の収入も頃合ひだと思ひます。(柴山ふき子の顔をつくづく眺め)妙なひとがここにゐるもんだね。

紅林  (ふき子と顔をみあはせながら)ちよつと、あの云ひ方……。

柴山  相すみません。お噂は時々伺つてますわ。なかなかご発展で、おめでたうございます。ご発展がすぎて、また……。

紅林  (柴山の口を塞ぐ真似をする)

相馬  いやだねえ、かう役者がそろつちや……。

紅林  (急に真顔になり)早速ご報告申しあげておきますが、生徒さんたちの気分も満点ですわ。病人は一人も出ませんし……。

相馬  これで本校の工事がもつと捗つてくれるとね。やあ、なんだかだで、らちがあかん。僕、ちよつと向ふで工場長と話があるから、用事があつたら呼びに来てください。ぢや、お願ひします。

紅林  今夜塾長先生もお見えになります?

相馬  僕は知らん、そんなことは……。用事があれば来られるだらう。

月ノ木  (起ち上り)諸住先生、食事までにすこし散歩なさらない? では、失礼。(と、一同に会釈して左手へ去る)


月ノ木、諸住の去つたあと、しばらく一同無言。


相馬  フウちやんも無事ハルビン脱出か。いま、なにしてるの?

柴山  なにつてこともないわ。隙あらばと、キョロキョロしてるだけよ。たまに、儲けさせなさい。

紅林  それどころぢやおありにならないのね。

相馬  また、言ふ。

柴山  八坂夫人には一度お目にかかりたいわ。特務機関の晩餐会があつたでせう、あれきりよ、お会ひしたのは……。

相馬  向うぢや覚えてなんぞゐないよ。

柴山  憚りさま、どうせさうでせうよ。満洲で食ひはぐれた、たかが一女ブローカーを、省次長閣下夫人が、よくせきのことでもなけれや、「おや、珍しい」なんておつしやりやしないわ。

相馬  よくせきのことがあるみたいに、言ふね。

柴山  過去はすべて水に流しませうよ、お互さまにね。

相馬  まあ、ゆつくりして行きなさい。紅林君、あとでちよつと話がある。蒸すね、今夜は……。雨だね。(歩きだす)

柴山  (その後ろで、舌を出し)今夜は雨か嵐か知らないけど、よくもまあ、ああまでしらがきれたもんだね。


相馬が出て行くと同時にドラが鳴る。夕食の報らせである。女生徒たち、待ちかまへてゐたやうに、一斉に立ちあがつて右手へ退場。

つづいて紅林、柴山、食堂の方へ。舞台しばらく空。

女生徒たちの讃美歌の合唱。

速水思文、左手から、開襟シャツに半ズボンといふいでたちで、片手にズックの鞄をさげて登場。室内をもの珍しさうに眺めながら歩きまはる。女生徒二人、手を取り合つてヴェランダの方から室内をのぞき込む。


女生徒C  あら、速水先生だわ。

女生徒B  ほんと……。先生……いらつしやいまし。

思文  おお、失敬……。いま食事の時間だね。

女生徒C  ええ、みんなお食堂にゐますわ。

女生徒B  (はしやいで)月ノ木先生お呼びいたしませうか?

思文  余計なこといはなくてもいい。君たちはどうして食堂へ行かないの?

女生徒C  見廻り当番ですの。

女生徒B  怪しいものがはいり込まないやうにですわ。

思文  もうはいり込んでるよ。

女生徒B・C  (同時に笑ひこけながら)ご自分でいやだわ、どう怪しいの、先生?

思文  ご馳走あるかい?

女生徒C  今日はとてもご馳走ですわ。ご一緒に召しあがれよ。

思文  かまはないかなあ?

女生徒B  かまひませんとも……。いつも、お客様の分を用意してありますわ。さういつて来ませうか?

思文  いいよ、自分で勝手に行くよ。

女生徒B・C  (同時に)先生、では、ごゆつくり……。(去る)


思文は、しばらくためらつてゐるが、思ひきつて食堂の方に歩きだす。後ろの跫音にちよつと驚いてふり向く。

相馬が入つて来る。


相馬  おや、どうして今時分?

思文  今度の組の附添ひに当つちやひましてね。ひと足先へやつて来ました。

相馬  ご苦労さまです。僕はここで弁当をつかはせてもらはうと思つて……。

思文  食堂へいらつしやつたらどうです。用意があるさうですよ。

相馬  いや、あなたはいいけれども、僕は遠慮しませう。雰囲気をこはしさうだ。

思文  これはちよつと奇妙な雰囲気ですね。まるで植民地のホテルだな。

相馬  植民地はうまい。まつたく、これでせいぜいなんだ。(傍らのテーブルに向ふ)

思文  近頃、それでも、僕はあなた方のやり方をすこし理解するやうになりましたよ。なんでもやつてみるもんだ、つてことです。

相馬  然り。批判はそのつぎだ。(弁当を開いて食ひはじめる)

思文  それもさうですがね、相馬さん、ひとつぶしつけな質問をゆるしてください。

相馬  さあ、どうぞ……。

思文  いつたい、あなたは、学校とうちの姉と、そのどつちに最も興味を持つておいでなんですか?

相馬  (泰然と)一にして二ならず、です。どちらか一方だつたら、僕は、ペニシリンだけに力を集中します。教育事業は事業として、僕は興味も抱負ももつてゐるけれども、在来の学校そのままでは、どうにも手が出ません。そこへゆくと塾長にその人を得たといふのが、僕の目のつけどころです。また一方、お姉さん、八坂夫人の魅力は女学校長といふ肩書で、実に生きて来た。珍しいことです。僕は、ひとりの女性を特定のバックの前に立たせてみるのが好きでしてね。劇場の廊下が似合ふ女、河岸の船着場に立たせてみたい女、寂れた公園のベンチにぽつねんと寄りかからせてみたい女、森の道を馬車で運んだらと思ふやうな女、いろいろある。あなたのお姉さん、八坂夫人は、不思議なことに、「長」の字がつかないとまづい。会長、団長、社長、議長、市長、委員長、なんでもいい、ちよつとなにかを牛耳らせてみたい女性です。微妙な統御力、婉曲な専制主義、まことに類のないモダン姐御だ。型破りの女学校にはもつてこいの校長さんです。

思文  それで、相馬さん、あなたは、その校長をどうしようつていふんです?

相馬  どうしようもかうしようもない。僕は完全な奴隷です。校長さんの方で、僕をどうする気か、それが訊きたいくらゐです。

思文  事実その通りですね。

相馬  僕としては事実を申しあげたつもりです。あ、それはさうと、(時計をみながら)この六時十分で姉さんが多分来られる筈ですがね。もし、僕のことをたづねられたら、もう名古屋へ発つたつていつてくれませんか。

思文  名古屋へ?

相馬  ちよつとさういふことにしてほしいんです。

思文  ぢや、僕も飯を食つて来ます。


思文、右手へ退場。

紅林、ひとり右手からはいつてくる。


紅林  ずゐぶんごぶさたね。もつとちよくちよく顔をお見せになるのかと思つたら……。

相馬  だつて、用がないぢやないの。あんたはマリヤみたいにすまし込んでるし……。

紅林  恰好がつかないつたらないわ。

相馬  なかなかさうでもないらしい。驚異の的になつてゐるぜ。やつぱり曲者だな、君は。

紅林  お仕込みによりまして……。ところで、塾長さんはずゐぶんごゆつくりね。

相馬  ゆつくりだつていいぢやないか。塾長は塾長、僕は僕だよ。塾長が来たらね、僕はついさつき名古屋へ発つたといつてくれたまへ。いま会ふとうるさいことがあるから……。ほんたうにかうしちやゐられないや。(弁当箱をしまひ、起ちあがる)

紅林  今夜これから生徒さんたちの演芸会があるの。みてらつしやいよ。

相馬  そんなものみたくないよ。だが、君はますます若くなるね。まあ、しつかりやんなさい。


相馬が左手から出て行かうとすると、入れちがひに八坂登志子、白い洋装に、肩から大型のハンド・バッグをさげ、パラソルを小脇にしてはいつてくる。

相馬、ちよつと表情をかへる。登志子は、相馬がゐるのに気はつくけれども、わざと冷然たる態度を装ふ。


登志子  (紅林に会釈して)たうとうあれから来られなくなつて……。別に変つたことありませんわね。

紅林  異状ございません。只今、食事中でございます。食堂へご案内いたしませう。塾長先生もまだお夕食前でいらつしやいませう? そんならぜひ、ご一緒に……。

登志子  そのつもりでは来たんだけれど、なんですか、おなかがちつともすかないの。しばらくここで休ませていただくわ。


相馬、この間にそつと部屋を出て行かうとする。


登志子  (それを見とがめて)相馬さん。

相馬  (黙つて、立ちどまり、考へて、また立ち去らうとする)

登志子  (更に強く)相馬さん。


紅林は、この気配になにごとかただならぬものを感じて、そのまま右手へ去る。


相馬  (静かに登志子の方に歩み寄り)僕、これから名古屋へ行くんだ。

登志子  名古屋へでもどこへでも行つたらいいわ。

相馬  だから行くよ。別に用事はないんだらう?

登志子  用事をなくしとくのよ。あなた、もう帰つて来ないんでせう?

相馬  帰つて来ないつていふのは、どういふ意味?

登志子  ゆうべあんな別れかたをして、あなた、それでどうもないの。平気で名古屋へ行けるの? あたしは絶対にあなたの玩具にはならないことよ。

相馬  わかつたよ。ゆうべも君はさういつた。それで僕はなんて返辞をした? 僕の玩具なんかになる君ぢやあるまいつていつたね。僕はさう信じてゐる。

登志子  そんなにぶらぶら歩きまはらないでちやうだい。

相馬  (しかたがなしに椅子の一つに寄る)まだ話があるのか?

登志子  あなたはまるで無頼漢よ、ごろつきよ。

相馬  さうみるなら、みてもかまはない。

登志子  ううん、いままで、さうみえなかつたことが、あたし、不思議なの。あたしは紳士としてのあなたしかしらなかつたわ。自由人つて、さういふものなの? それとは正反対なものぢやない? あんたはただ猫をかぶつてゐたのね。

相馬  それもゆうべ聞いた。僕はなんといはれてもこれだけの人間だ。お役人のやうに辻褄を合はせようとはしないさ。大学教授みたいにレトリックはうまくない。それだけだ。

登志子  あたしは考へに考へた未、あなたになにもかもゆるしたのよ。それや、この年だから、いくらか功利的なところもあつたにちがひないけれど、それも、無分別といふ過ちを犯さない用心だつたの。あなたは、ただ、女としてのあたしを征服するだけでは満足できないひとなのね。ちかごろのあなたは、まるであたしを踊らせることに夢中ぢやないの。

相馬  だから、それもゆうべあれだけ説明したぢやないか。君は、一人の男の所有物として終るべき女ぢやない。女としての一個の人格を土台として、然るべき社会的地位を築きあげるべきだつて……。

登志子  それこそ立派なレトリックぢやないの。あたしにその能力があれば、あなたのお世話なんぞにならなくつたつていいわ。あたしはただの女よ。社会的地位なんかより、誠実な男の愛情がほしいのよ。あなたは、女の虚栄心を一把ひとからげに評価してらつしやるけど、あたしにもし人並の虚栄心があるとすれば、学校事業に成功したなんて名声がほしいんぢやないの。女らしい満ちたりた生活ができるつていふ、ただそれだけですこしばかり大きな顔がしたいんだわ。あたしの眼の前に、たまたまこんな仕事がぶらさがつてゐたことなんぞ、今から思ふと、不吉な前兆だつたんだわ。あなたは、右手にあたし、左手に学校を握つて、あなた好みの遊びをはじめたんぢやないの。その証拠がゆうべの話よ。

相馬  なんべんいつてもおんなじだが、君を松沢に会はせようといふのは、ただ学校の復旧資金を……。

登志子  だからよ、あたしさういふこといやなのよ。けがらはしいのよ。あなたのいふことをそのまま受けとれば、まるであたしは娼婦同然ぢやないの。

相馬  そこまでのことはいはなかつたつもりだがね。女の方が当りがやはらかでいいつていつただけだ。

登志子  それごらんなさい。ううん、それだけぢやない。どうかした眼附でちよつとなんとかしてみせろなんていつたぢやないの。あたりがやはらかだつていふのは、いつたいどういふこと? お金を出させるのに、あたりがやはらかい必要があるの?

相馬  あるさ。君には、それに類した経験がある筈だ。八坂君のトントン拍子の昇進の裏には、君の政治的手腕があつたことは周知の事実だ。

登志子  それとこれとは話がちがふわ、八坂の場合は、ただ細君同士で話が通じるんだわ。

相馬  軍の参謀長が吉林栄転に肩を入れたつていふのは?

登志子  あの人はうちへ前々からお酒を飲みに来て、勝手に、おれが引受けたつていつただけよ。

相馬  とにかく野暮なことをいはずに、あつさり会つたらいいぢやないか。自分の学校のことを相談するんだから、堂々とやつたら?

登志子  あなたの云ひ方が気に入らないの。いひ方ぢやないわ。そもそもの考へ方だわ。あたしを見てゐるあなたの眼が、それでわかるんだもの。

相馬  ぢや、どうしても会はないね。

登志子  会ひません。


この時、食堂の方で、賑やかな拍手の音。


相馬  (起ちあがり)ぢや、仕方がない。僕は学校から手を引かうか?

登志子  (キッとなつて)同時に、あたしからも?

相馬  お望みなら……。

登志子  (淋しげに)待つてちやうだい。あたしは脅迫されてるのかしら?

相馬  …………。

登志子  たしかにさうだわ。ここへ来て、あなたが学校から手を引けば、どういふことになるの? ただあたしをすてるつていふんなら、まだ話はわかるわ。

相馬  うるさいなあ。

登志子  いいえ、話はちやんとつけませうよ。いまこそ、あたしも眼がさめたわ。あなたがもし、あたしつていふ女に用がなくなつたつていふんなら、あたしは、泣いて、泣いて、あなたに取り縋るかもしれない。あたしのどこが気に入らないのか、それもいつてもらふわ。できてもできなくても、わるいところはなほすわ。あやまれといはれればいくらでもあやまる。


食堂の方で女生徒たちの哄笑。盛んな拍手。


でもねえ、あたしがちよつとなんかいつたからつて、学校から手を引かうか……そんな卑怯なおどしかたつてないわ……。

相馬  君に協力する意志がなければ、やむを得ないさ。

登志子  協力ですつて?

相馬  金策方面にだつて、君の協力は時として必要な場合もあるさ。

登志子  そんなことわかつてます。どういふ協力が必要なの? あなたのいふ協力つていふのは、色仕掛けのことぢやないの。それは真つ平だつて、あたしはいつただけよ。

相馬  そんなつもりぢやないつて、僕はいつただけだよ。よしんばさうであつても、君は、それを笑つてすまされないかい?

登志子  そこがあなたとあたしの違ふとこだわ。あなたには、あたしつていふ女がまだわからない?

相馬  だから、わかつたから、もうそれでいいぢやないか。

登志子  あたし悲しいの。とても悲しいの。そこにゐるあなたは、もう、きのふの朝までのあなたぢやない。(ハンカチで眼を蔽ふ)


右手から月ノ木直枝が小走りに出て来て、ホールを横ぎらうとする。ふと、登志子のゐるのに気づいて、会釈をする。


登志子  (涙にぬれた眼をそのままかくさうともせず、それに応へて)ああ、あなたが来てらしつたのね。監督もたいへんでせう?

月ノ木  いいえ、さうでもありませんわ。けつこう楽をしてますわ。

登志子  思文はもう来てますかしら? 一緒につていふのに、あたしとぢやいやなんですつて……。

月ノ木  もういらしつてますわ。(笑ひを含み)でも、どうしてでせう?

登志子  さあ、どうしてですか……。あたしがあんまり世話をやかすからでせう。あのひとは、気がつきすぎて自分でくたびれる方だから……。

月ノ木  ほんたうにさういふところ、おありになるわ。いま、食堂で生徒たちと一緒に食事をしてらつしやいますわ。こんなことはじめてだつて、真赤になつて、大汗をかいて……。生徒たちの方が、それをみて、よろこんで、おなかをかかへてますわ。

登志子  いやあねえ、みつともないわ。

月ノ木  ええ、ですから、あたくしいま、そつと、絞り手拭をもつてつてあげようと思つて……(笑ひながら首をちぢめ)ごめんください。


月ノ木が左手へ去ると、さらに四、五人の女生徒がどやどや右手から出て来る。登志子たちをみて、立ちすくむ。会釈をする。


登志子  あなたたち、もうお食事すんだの?

女生徒A  ええ、もうすみました。これから、演芸会ですの。

女生徒B  塾長先生もどうかいらしつてください。

登志子  さう? ぢや、あとからね。


女生徒たちは、めいめい、椅子を一つづつ提げて、はいる。やがて拍手につづいて、ピアノの伴奏で二部合唱がはじまる。登志子、それに耳をすます。


相馬  ここでこんな話をするのはよさうよ。第一、泣いてるところなんか見られちや、をかしいよ。

登志子  をかしくつたつてかまはないわ。誰だつて泣きたいことあるんですもの……。

相馬  さういふ君が、僕にはわからないんだ。もつと言つてよければいふが、いいかい? 僕はいま一つの岐路に立つてる。使へるだけの現金は、この寮の改築のために使ひ果した。ほんとをいふとだよ、本校の復旧工事は、まつたく当てのない金をあてにして計画を立てたんだ。着手した以上、どうしてもいるだけの金は作らなくちやならん。むろん、あちこちで工面はしたが、まとまつたものは、どうしても出どころがないんだ。僕一人の力では、もう見透しがつかない。そこへ現はれたのが、あの松沢のおやぢだ。いまだからはつきりいふけれども、実は、君のことはハルビン時代からうすうす知つてゐたらしい。一度会はせろといふんだ。まんざらでもない証拠だ。僕は、むろん、どんなことがあつても……。

登志子  もうたくさん、たくさん……。それで、さつきの、岐路に立つてゐるつていふのはどういふこと?

相馬  だからさ、松沢の方がダメなら、工事を今のところで打ち切るよりしやうがない。そこをどうするかつていふ岐路だよ。

登志子  先の見透しがつかないもんなら、打ち切るよりしやうがないわ。

相馬  それで君は承知するかい?

登志子  …………。

相馬  承知するもしないもないわけだ。結局のところ、僕をだらしがない男と思ふだけさ。それに違ひないんだ。

登志子  …………。

相馬  そこでだよ、僕は、再び別の岐路に立つわけだ。


月ノ木が左手から、絞り手拭をもつて、軽く会釈をしながら、ホールを横ぎる。


相馬  いいかい? はつきりいふとだよ、これはもつと重大な岐路だ。つまり、僕としてはだ、自分を君に値しない男と見て、潔よく身を引くか、或はまた、君の寛大な愛情を信じて、君の傍らに止まるか、この二つの一つを択ばなければならんといふことだ。

登志子  …………。(食堂の方から聞えて来る合唱に耳をすましてゐるやうに見える)

相馬  おい、聞いてるかい? これは、僕として自分自身で裁決すべき問題だが、しかし、そこはまた君の出かただ。僕の決意がどうあらうと、君の内心の声は、僕をどつちへ引つ張つて行くかわからない。

登志子  …………。

相馬  どうして黙つてるの?

登志子  あたし、もつと冷静にならなければ、その返辞できないわ。

相馬  さういへる君は、もう十分に冷静な証拠だよ。

登志子  あたしは、いま、自分つていふもんがわからなくなりかけてゐるの。あなたにすべてをゆるした瞬間から、あたしは、ほんたうは、自分で自分を責めどほしなの。むろん、夫のある身で、といふ、世間的な道徳の鞭も、感じることは感じるわ。でも、それだけぢやない。あなたに対する自分の気持が、まだはつきり割り切れてゐないからなの。どこまであなたを信じていいか、自分ながら、あやふやなの。それが、なによりも苦しい。もう、あたし、なにをいひ出すかわからないわ。いいこと……。あなたつていふひとは、はじめてあたしをほんたうに幸福にしてくれるひとぢやないか、と思つた。それはうそぢやない。あたししんから誓ふわ。でも、でも……あなたつていふひとは、あんまり、いろんなことを約束しすぎたの。あなたの真実は、そんな約束のなかにあるんぢやないと思ふんだけれども……さうすると、ふつと、あなたの正体がつかめなくなる……眼の前がまつ暗になる……どうしていいかわからない……。たつた今がさうなの……。潔よく身を引くなんていつてるあなた……あたしのそばにゐてもゐなくつても、どうでもいいやうに思つてるあなた……あたしは、そのあなたを命がけで愛して、それでいいのかしら? わからないわ、さつぱりわからないわ……。約束なんかどうだつていい。なんにもできなくなつていい。あたしを強く抱いて、いつまでもはなさないつていつてくれるあなたは、もうそこにはゐないぢやないの……。(泣き崩れる)


食堂の合唱がやんで、ひとしきり拍手の音。


相馬  なにいつてるんだ、君は……。話の焦点がまるで狂つてるぢやないか。君はそこで恨みごとをいつてるのか? それとも、なにかを宣言してるのか? ただ僕にどうしろつていふだけでいいんだ。ところが、僕にどうあれといふ註文をしたつて無駄だよ。

登志子  あたしはただ、いはずにゐられないことをいつてるんだわ。あなたがそれをどうおとりになるか、そんなことは考へてやしない。どうでも、あなたの気のすむやうにしてちやうだい……。

相馬  さうか、そんなら、僕は永久に君の前から姿を消す。

登志子  (眼を伏せたまま、かすかに)なんて言つたの?

相馬  僕は、君と別れる決心をした。それがほんたうだと思ふ。

登志子  (長い沈黙の後)さうね、ほんとかもしれないわ。

相馬  (穏かに)忘れてくれたまへ、すべて僕との間にあつたことは……。

登志子  (きはめてしづかに)ええ、できたら、さうしたいわ。

相馬  学校との関係はなるべく無理のないやうに始末をつける。

登志子  はやく……いまのうちに、そうつと、出てつて……。


相馬は、静かに起ちあがり、登志子の方をみずに、頭をたれたまま、ゆつたりとした足どりで左手へ去る。登志子が、ふり返つてその後姿をみた時は、もう、彼の影は入口の向ふに消えようとしてゐる。相馬は、その時、なにを思つたか、ふと、そこに立ち止る。そして、ためらひがちな表情で、あと戻りをして来る。


登志子  (おだやかに)僕は、今言つたことを取り消してもいい。

登志子  …………。

相馬  君が泥まみれになる気なら、僕は……。

登志子  (きつぱりと)出て行つてちやうだい。

相馬  絶対に後悔はしないね。

登志子  (同じ調子で)出てつてちやうだい。

相馬  (にやりと笑ふ)えらく強いんだね。しかし、云つとくが、君はよく考へてみたかい? 君が僕に対してできたことを、ほかの男にできない法はないつてことをね。

登志子  (しばらく彼を凝視してゐるが、愕然として)あたしが……ううん、ちがふ……まるでちがふわ……(狂ほしく)出てつて……出てつて……。

相馬  出て行くさ。しかし、学校は? あのままでいいの? この寮も、僕の会社の手で差し押へるぜ。

登志子  どうでも勝手にするがいいさ。あたしは……あたしは……あんたにもう、用はない。早く、出てつて……。

相馬  …………。

登志子  (起ちあがり、地団太をふみながら)出ていかないの、あんた!


相馬、固い微笑を浮べながら、前と同じ足どりで、部屋を出て行く。


登志子  (椅子にぐつたりと寄りかかり)これで、もうなにもかもおしまひかしら……。


この時、どこかから、桃子の声がする。


桃子の声  登志子、登志子や……。

登志子  (いぶかしげに、あたりを見廻し)お母さま……。

桃子の声  なにもかもおしまひなのは、わたしだよ。お前はまだ、はじめたばかりぢやないか。


この時、また、思文の声がする。


思文の声  姉さん……姉さん。

登志子  (その声を探す)思文さん……。

思文の声  姉さん……。姉さんは、ただ、二つの時代の間を橋のやうに生きるひとなんだよ。姉さんのあとには僕がゐる、それから、僕が……。

月ノ木の声  あたしもゐるわ……。


登志子は、耳をすましながら、一旦、眼をつぶるが、やがて、それらの声の主が、幻のやうに陰に浮ぶ。眼を静かに見開く。そこで、自らを励ますやうに、淋しく微笑む。


──幕──

底本:「岸田國士全集7」岩波書店

   1992(平成3)年27日発行

底本の親本:「速水女塾」中央公論社

   1948(昭和23)年1130日発行

初出:「中央公論 第六十三年第七号」

   1948(昭和23)年71日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年730日作成

青空文庫作成ファイル:

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