虹色の幻想(シナリオ)
岸田國士



第一話



 海底の美しい景観のなかに、若い海女が一人、自由奔放な姿で現れる。腰に綱をつけてゐるのがはつきりわかる。海女は、岩の間を潜り、海草の茂みを分け、アハビ貝を探してゐる。アハビを二つ腰にさげた網に入れる。そして、綱を激しく手で引く。綱は上から手繰りあげられ、やがて、海女は水面に顔を出す。

 水面には、一艘の小舟が待つてゐる。海女が舟べりに手をかけるのと、小舟の上の男が両手で彼女の腕をとるのと同時である。

「えらくひまどつたな。心配させるなよ」

 男は、海女の夫、浦島太郎である。

「もう、このへんには、いくらもないよ」

 海女の名は、サヾエ、まだ新婚の初々しさを失つてゐない。舟に上り、ぐつたりと夫の肩にもたれかゝるやうにして、

「今日はこれくらゐにしておかうか」

「うむ、無理をせんがいゝ。どれ、おまへ、顔色がよくないぞ。早う、帰らう、帰らう」



 小舟は岸に向つて滑り出す。

 夫婦一組を乗せた舟があちこちに見える。

「わあ、太郎のとこは、もう、しまひか」

「えらく急いで、なにしに行くだ」

 舟を浜にあげようとするが、なかなかあがらない。太郎は妻が手をかさうとするのを止めたからである。

「いゝから、おまへは、先へ帰つて、休みな。舟は子供たちに手伝はせて、あげちまふから……」

 妻のサヾエは、足もとがふらつくのを、我慢して歩き出す。

「おーい、そこにゐるチビコロたち、ちよつと、みんな来い」

 舟は子供たちの手で陸へ押しあげられる。

 子供らは、それがすむと、そのうちの一人が持つてゐる小さな亀を砂の上におかせて、遊びはじめる。仰向けにしたり、小石をぶつけたり、砂の中に埋めたりする。

 太郎は、それを見ると、子供らのなかへ割つてはいり、

「やい、そんなに生きものをいぢめるもんぢやない。かわいさうに……。ほかに、いくらでも、いたづらはできるぢやないか」

 子供の一人が、それにこたへて、

「これより面白いいたづらつていふと、なにがあるね、浦島のをぢさん」

「この野郎、大人をからかやがッて……。さ、さ、その亀は、をぢさんが駄賃をやるから、海へ放つてやりな。そら、飴でも買つて、みんなで、しやぶれ」

 小銭を一人の子供の手に渡し、岩の上からそつと、深い水の中へ放す。



 翌朝、床についてゐる妻の枕もとで、浦島太郎は、鏡に向つて髪をくしけづつてゐる。

「どうも、今年の椿油は、サラッとしないな。手はべたつくし、櫛は重いし……」

「だから、毎日そんなになすくらなくつたつて、いゝんだよ。おまいさんのおしやれもあきれるわ」

「そんなこと言つたつて、男の髪は、油つ気がなくなると、すぐにさゝけるんだよ」

「うまいことばつかり……浜で娘つ子になんとか言はれたいもんだから……」

「うるせえな、病人なら病人らしく、黙つて寝てろよ。おれや、やきもちなんぞ焼く女は、でえきれえだ」

「おや、さうかい。すまなかつたわね。ぢや、いゝから、今朝は、ゆつくり、丸ポチャでも、瓜ざねでも、たんのうするまで釣ッといで……」

「あゝ、いゝとも……おまへの世話にやならねえよ」

 浦島太郎は、漁の支度を整へ、釣竿を肩に、戸口から出て行かうとして、

「煎じ薬は、ヰロリのそばに置いてあるからな。まだ、三度分は残つてるはずだ」

「薬なんぞ飲まずに、死んでしまへばいゝと思つてるくせに……」

 彼女は、泣く。

「命の綱を預けてる亭主に向つて言ふことか、それが……」

「その綱の引きあげ方が、だうりでのろくさしてると思つたよ」

「あきれたことを吐かす女だ。頭が狂つてるなら、それでいいが、まさか正気ぢやあるめえ」

「頭が狂つてるなら、それでいゝのかい? え、あたしの頭が狂つてても……」

「だから、毒下しを飲んで、頭の血をキレイにしなよ。おれや、もう、おまへの相手はごめんだ」

 外へ出るには出たが、家の中が気がかりでなくもない。妻の泣きじやくる声に耳をすます。再び戸口から中をのぞき、

「な、おい、喧嘩はおしまひにしようよ。さみしかつたら、誰か話し相手をよこさうか。砥ぎ屋の婆あでも、針仕の背むしッ子でも……」

「いや、いや……誰とも話しなんかしたくない。おまいさんが帰るまで、ひとりで待つてる……ひとりで……忘れないでおくれ……忘れないで……」

「なにを忘れるもんか……お前をひとり待たしといて……日暮れまでにさつさと帰つて来るよ」



 浜辺に沿つた小径を、浦島太郎は、空模様を気にしながら歩いて行く。

 中年の鍬をかついだ男とすれ違ふ。

「今日は一人かい?」

「…………」

 太郎は返事をせず、たゞ軽く会釈をする。

 三十がらみの海女が、後から追ひ越しながら、

「おや、今朝は、トヽカヽ船は出さないのかい?」

「…………」

「おまい、きのふは、うちの餓鬼に銭くれたつてな。また亀の子をつかまへて、をぢさんに買つてもらふつて言つとつたぜ」

 その女が行つてしまふと、腰のまがつた老婆が向うから来かゝる。

「お神さんはどうしたい? 加減でもわるいのか? おまいをあんまり可愛がりすぎて……さうだらう? だが、言つとくけど、亀の子を助けてやるのもいゝが、お神さんを粗末にするぢやないぞ」

「…………」

 太郎は、老婆の後を見送つて、顔をしかめる。

 若い二人の海女が後からやつて来る。

「珍らしいこつたな、ひとりぼつちで……」

「あたしや、なんでもいゝから、一度亀の子になつてみたいよ」

 女たちは、大声で笑ひながら、行きすぎる。浜辺に出て、船をおろさうとする。子供たちが集つて来て、手をかすのだが、一部のものは、蟹にひもをつけて振り廻し、仔猫を尻尾でさかさにぶらさげ、小鳥の首をしめつけ、などして、太郎の眼の前につきつける。

 太郎、知らん顔をして、舟をこぎ出す。



 島かげになつてゐる深い淵にイカリをおろして、一心に釣糸をれてゐる浦島太郎の眼の前に、突然、静かな水面を波立たせて、一匹の大亀が浮びあがる。

 太郎、驚いて腰をぬかさうとする。

「これ、これ、浦島どん、浦島太郎どん、わしはな、きのふ、お前さんに助けてもらつた小亀のおやぢで、竜宮の使ひのものだ。お前さんの親切が竜宮の評判になッてさ、乙姫様がさういふ人間の顔をひとめ見たいとおつしやるんだ。珍しいお城見物かたがた、是非とも案内して来いといふご命令で、わしが使者に立つたわけだ。なに、ちつとも心配はいらん。どんな歓待を受けるか、お前さんには想像もつかんほどだ。そのうへ、ご褒美とお土産をたんまり貰つてさ、この世の極楽とはこのことだよ」

 大亀の口上がまだ腑に落ちぬらしく、

「だが、竜宮といや、海の底だらう。息がつまつたらどうする、わしはさう、息の長い方ぢやないからなあ」

「なるほど、人間の考へさうなこつた。ところが、浦島どん、わしの背中に乗ッたが最後、海の水は、大気とおなじになる。竜宮では、風も吹けば、雨も降る。たゞ、着物は、濡れることがないから、かわかす手数もいらんといふわけだ」

「そんなら、わしは、ちよつと家へ帰つて、女房に留守を頼んで来よう」

「おつと……それだけは、真つ平、真つ平。竜宮へ行くなぞといふことは、金輪際、口止め、口止め、誰の耳にも入れてはならんのだ。さあ、手間はとらせないから、ちよつくら、この背中の上へあぐらをかきな。それから、すぐに、眼をつぶりな。あつといふ間に、もう、竜宮の御門の前だ」浦島太郎は、おそるおそる、足を踏み出し、大亀の背にまたがる。

 しばらく、彼の上を、はるか沖を目ざして進む。浦島太郎は、時々、岸の方をふり返る。

 女房の顔が眼にうかぶ。



 亀は、だんだん、早く游ぎ出す。

「いゝかい、ちやんと眼をつぶつてなよ。ほら、一、二、三、だ」

 浦島太郎の姿は、水の中に消える。

 絵のやうな海底の風景。亀に乗つた浦島太郎は、神妙に眼をつぶつてゐる。

「さ、もう眼をあけてもいゝよ」

 太郎の視線に、壮麗な竜宮城の全貌がうつる。

 城門の前で、亀の背から降りると、太郎は夢心地であたりを見廻す。

 警護の兵士が二人、近づいて来る。イセエビのやうな、甲に身を固めた厳めしい髭面の大男である。

 亀が、なにか囁くと、兵士たちは大きくうなづき、先へ立つて案内しようとする。ためらつてゐる太郎の背を亀が促すやうに押す。

 城門を潜ると、これも珍しい装ひをした若い女が二人、丁寧に会釈をし、兵士に代つて、太郎を奥に導く。

 正面玄関の間には、両側に出迎への面々と思ぼしい男女、いづれも、魚族のいづれかを形どつた衣裳を纏ひ、長い廊下や、途中のいくつかの広間には、ところどころ、護衛が立つてゐて、恭しく敬礼する。

 やがて、大広間である。眼のさめるやうな色彩と、まつたく想像を絶した別世界の雰囲気のなかに、正面の大椅子に倚つて、好奇の眼をこちらに注いでゐる婉麗な乙姫のすがたが、輝くやうに浮き出てゐる。

 マグロの肌をそのまゝローブにしたやうな老女が、不器用な太郎の手を取らんばかりにして、乙姫の面前ちかく進む。

 乙姫は嫣然として、太郎に傍らの席をすゝめる。そして、おもむろに口を開く。

「ようこそ……。まづ、亀の命を助けてくださつたお礼を申します。さて、世にもやさしい心をもたれ……ぶしつけながら、稀にみる美男におはすそなたを、かうして、この竜宮にお招きできたのは、乙姫のこの上もないよろこびです」

「おそれいります。どうぞよろしく……」

と、浦島太郎は、平伏する。

 やがて、酒肴が運ばれ、白魚のやうな少女の酌で、大盃になみなみと酒が注がれる。

 乙姫は、まづ、盃をほして、支那風に太郎を促す。太郎も、それを真似る。盃を重ねるにつれて、太郎は、酔顔、モウロウとなる。

 その頃から、竜宮独特の音曲につれて、趣向をこらしたバレエがはじまる。すべて、魚貝類の色とりどりの水中の群舞を形どつたものであるが、たまには、殺気満々たる海底の死闘をうつしたものもある。エビとウツボのそれぞれ武器をたづさへての果し合ひ、タコと赤えひの血みどろの組打ちなど、舞踊に名はかりてゐても、眼をおほひたい凄惨さである。

 太郎が、時にはうつとりとし、時には、慄然と身をふるはせてゐるのに、乙姫は、ちらちらと瞳を太郎の方に向けて、いとも満足げである。



 乙姫と太郎とが、饗宴の席から脱け出して、静かな廻廊を歩いてゐる。

 海底には昼も夜もない。つねに月光が降り注いでゐるやうな薄明りのなかに、庭園に奇怪な草木の植込みや大小の岩石の配列が眺められる。

「そなたの国で一番面白いことはなんですか」

と、乙姫がたづねる。

「さやうですな。べつだんこれといつてございませんが、まあ、若いものには、祭りの市、盆踊り、それから、歌合ひと申します男女の遊びくらゐなものでございませうか」

「カガイといふ遊びはどんなことをするのですか」

「それは、その、男と女とが、暗闇で、たがひに歌を読み合ひ、誰とも知れず、心ひかれた相手と……」

「心ひかれた相手と……?」

「一夜を……」

「一夜を……?」

「契るのでございます……。失礼なことを申しあげました」

「ちつともかまひません。それはさぞ面白いでせう。でも、暗闇だと、声だけで、顔やすがたはわかりませんね」

「そこが、なによりの楽しみでして……。声も声ですが、読み聞かされる歌のおもむき、味ひが、身にしみてうれしいと申すもので……」

「すると、なによりも、空しい言葉に酔ふといふわけですね。おめでたい人たちだこと」

「しかし……」

「しかしもなにもありません。この竜宮では、誰もかれも、口下手です。お世辞は決して使ひません。物事をおほげさに言つたり、口先で相手をまるめこんだりしようとしません」

「なるほど……」

「そのかはり、みんな、思つてゐることを、そのまゝ、顔色に出し、かたちに現はすのです」

「けつこうなことで……」

「それでは、そなたの国で、一番いやなこと、我慢のならないことはなんですか」

「さて、そいつは数かぎりなくございます。と、いつて、何が一番といふことになりますと、ちと弱りましたな……」

「自分で自分に聞いてみたら、すぐわかるでせう」

「おほきに……さやうですな、まづ女がやきもちをやくことでございませうかな」

「そなたの国の女は、みな慎みぶかく、決して、男の気持に逆はないといふ話ではありませんか」

「いえ、それが、その、当節、さういふ女がだんだん少くなつてまゐりましたんで……」

「では、そのつぎにいやなことは?」

「弱い者いぢめをすることでございます」

「はて、それも初耳です。そなたの国の人々、わけても男たちは、弱きをたすけ、強きを挫くのが、持つて生れた気象と聞いてゐましたが……」

「いや、できればさうしたいといふのが本心でございませう。それが、なかなか、さう参りませんので……」

「ちつとも珍しくないことです。もつと、もつと、そなたの国に限つていふ、いやでいやでたまらないことはありませんか」

「かうつと……では、こんなのはいかゞでせう。ほかの国のことはよく存じませんが、年寄りがとかく頑固で、口うるさく、けちんぼうで、疑ひ深い上に、なんと申しますか、からだも心もひからびて、若い者の目障りにしかなりません。年寄りとゲジゲジは、実によく似てをります。たゞ、ゲジゲジは、草履で踏みつぶせるといふだけの違ひでございます」

「へえ、それこそ不思議なお話です。竜宮には、年寄りもゐますが、みな、気だてのいゝものばかりです。それに、こゝでは、顔を見ただけでは、年はわからないくらゐです」

「ごもつとも……。大人と子供の区別がつけば、それでたくさんでございます」

「いろいろ、まだ、面白いお話を伺ひたいけれど、もう、お疲れのやうだから、また、いづれゆつくり……。お部屋へご案内しませう」

「やすませていたゞくなら、どんなところでも結構でございます」

「だから、乙姫の行くところへついておいでなさい」

 廻廊の一端に続く奥まつた部屋の扉が自然に開く。

 刺繍の天蓋から張り幕を周囲に垂らした大きな寝台がある。

 二人が部屋にはいつた途端、扉が音もなく閉まる。



 庭園の一隅である。見あげるやうな昆布の林のなかを、小魚の群が泳ぎまはつてゐる。

 浦島太郎が、ひとりぽつねんと、岩に腰をおろし、物思ひに耽つてゐる。ときどき、溜息をつく。あくびをする。急に起きあがつて、あたりをキョロキョロ眺めまはす。

 キスのやうな侍女が、そつと近づいて、

「浦島どの、乙姫さまがお待ちかねです」

 太郎は、やゝ不機嫌に、

「もうちつと後にしていたゞくやうに、さう伝へて下さい」

「でも、さきほどから大分、時がたちました。まだか、まだかと、お姫さまはしびれをきらしておいでになります」

「すこし考へごとがあつて、たゞいまはまだ、お相手はできかねます、と申し上げればよいでせう」

「ちかごろは、よく考へごとばかりなすつて……。たまには、すぐに行つておあげになればよろしいのに……」

「余計なおせつかいだ」

「おや、おや、わたしまで叱られてしまつた。では、どうぞごゆつくり……」

 侍女、去る。

 浦島太郎は、独言のやうに呟く。

「やれ、やれ、毎日のご馳走にも飽いた。歌や舞ひの催しも、ほどほどで沢山だ。乙姫か……これも、わるくはないが、気位が高すぎるといふか、人間ばなれがしてゐるといふか、どうも、しんから我がものといふ気がせん。やはり、朝夕一緒に暮すなら、素性のわかつた女房にかぎる。いや、はや、贅沢には、きりがないといふが、今のおれには、女房のやきもちが、一番ありがたい……」

 その時、ちやうど、薄ものの軽やかな装ひで、乙姫が、浦島太郎の後ろから、そつと忍び寄り、いきなり、眼かくしをする。太郎は、ギクリとするが、すぐにそれと察して、身動きひとつしない。張合ひのぬけた乙姫、

「いつたい、このせつ、乙姫が会ひたいと思ふ時にかぎつて、そなたは、どんな差しせまつた考へごとをしてゐるの?」

 さう言ひながら、横に来て、からだをすり寄せる。

「いや、なに、そんなわけぢやございませんが、やはりその、変つた土地で、慣れない暮しをいたしますと、しんが疲れると申しますか、ちよつとしたことを考へるのにも、それはそれは暇がかゝります」

「そなたが、どんなに暇をかけて、いくら考へごとをしても、それは勝手です。乙姫がいつたんかうと望むことを、そなた以外に、誰ひとり、手をかけさせるものはないのです。それも、はじめの頃は、そんなでもなかつたはずです」

「ですから、いま申しあげましたやうに、昨今、いくらか……」

「竜宮も珍しくなくなつた……」

「いえ、いえ……それより……」

「乙姫が鼻につきだした……」

「滅相な……どういたしまして」

「嘘つき! 大嘘つき!」

「ヘッ?」

「そなたの考へてゐることぐらゐ、わからない乙姫ぢやありません」

「さういたしますと……」

「さういたさうと、かういたさうと、そなたは、国に残して来た、家内のことを想ひ出してゐるのです」

「え? カヽアのこと? あの、やきもちやきのスベタのことを?」

「スベタとはなに?」

「ヘヽヽヽ、スベタとは、見目かたちよからぬ女房のことで……」

「わかつた、わかつた……。そなたも、やつぱり、竜宮の気風は呑みこめぬとみえる」

「と、申しますと……?」

「帰してあげよう……そのスベタとやらのそばへ……」

「では、早速にも……?」

「特別の計らひです。乙姫は、いつまでも、そなたをそばからはなしたくないのだけれど……そなたのうれはしげな顔を、もうこれ以上、見るに忍びなくなつた。まことの愛は、そなたの国のかつての女人のやうに、すべて相手の意に添うてこそ、とげられるといふことを、乙姫は身をもつて示します」

「かたじけなうぞんじます。このご恩は一生忘れません」

「ご恩はどうでもいゝから、乙姫のことだけ、忘れないでください」

「もつたいない……。どうして、どうして、お姫様の……なにひとつとして、てまへの肝に銘じないものがございませう。花のかんばせ、玉の肌……」

「もう、けつこう……。早く支度をなさい。送らせます」

 乙姫、決然として、去る。



 乙姫の居間である。乙姫は、寝椅子に長々と寝そべり、傍らに、マグロの老女が、腰をかゞめて、ひそひそと話してゐる。

「いえ、わたくしは、お姫さまのお気持は充分にわかるつもりでございます。さぞかし、おつらうございませう。いえ、こんなことを申しては、かへつてお気に召しますまいが、女心は、老ひも若きも、貴きも、賤しきも、決して差別はございません」

「そんなことはどうでもいゝ。たゞ、乙姫が、あの男を、どういふ風にして帰してやつたらいゝか、そのことでお前の智恵がかりたかつたの」

「つまり、お姫さまのお気のすむやうにでございませう」

「気がすむことなんぞありはしないさ。たゞ、もの笑ひにならないやうにしたいの」

「なにを遊ばしたつて、誰ひとり、お姫様をわらふものなんぞ、ございません。たゞ、旅におでましのお父竜王さまが……」

「お父さまが、なんておつしやるか……」

「かしこまりました。おまかせくださいまし」


一〇


 大広間である。最初の、会見の場面とおなじであるが、乙姫の衣裳だけが、黒ビロードのローブ・デコルテに代つてゐるだけである。

 浦島太郎が、初めてこゝへ着いた時のやうに、乙姫の傍らへ、しかし、打つて変つた晴れやかな面もちで腰かけてゐる。老女が、三宝の上に、土産の品々を持つて、そこへ進み出る。そして、それをテーブルの上におきながら、

「お姫さま、お心尽しの品々、竜宮土産として、お持ち帰りねがひます」

「いえ、いえ、ながながお邪魔をさせていたゞき、手厚いおもてなしにあづかりながら、その上、かやうな……」

「ご遠慮には及びません。さ、お姫さまに、お礼を……」

「それでは、ありがたく、お受けいたします」老女は、更に、それらのうちから、塗りの手函を取りあげ、

「さて、この手函でございますが、これには、ちと込み入つたいはれがございますので、そのことだけは、とくとお耳に入れておきます……」

「それは、乙姫から言ひませう」

と、とつぜん、乙姫は、その手函を老女の手から取りあげ、

「まづ、これは玉手箱といふ竜宮の宝の一つです。この紐をごらんなさい。両端の総の根じめに、ご承知でせうが、これは、アハビ貝からとれたマダマです。

 しかし、これは、たゞの飾りではありません。この二つの珠は、「相く珠」といふ名で呼ばれてゐる、この世にたゞ二つしかない、不思議な力をもつた珠です。これが、いつか、一つづつ、男女の手に渡れば、その二人はきつと、相ひかれ、相結ばれるのです」

 老女が言葉をはさむ。

「さやう……どんなに距たつてゐる間柄でも、たとへば、いかほど冷やかな相手であらうと、この一つを、その手に渡しさへすれば、おのづから、こちらへ靡いて来るのでございます」

「まさかの時には、おためしなさい」

と、乙姫が、いたづららしい微笑を含んで言ふ。

「それから、この手函……中味はなにか、それは申しあげられません」

「言つてもいゝぢやないの、中味は、これも不思議な力をもつた眼には見えないものなのです」

「さやう……そして、その力と申しますのは、この函を持つてゐるものが、未来永劫、失ひたくない、といふ相手ができた時、そつと開けてみさへすれば、たちどころにその望みが満足に叶へられるといふ、魔法の小函でございます」


一一


 浦島太郎の故郷の海岸である。磯馴松の生ひ茂つた崖、白い砂浜、波のしぶきをあげる大小の岩礁。

 人ッ気のない夜の明け方である。

 鴎の群れが、舞ひさがり、舞ひあがる、そのあとの岩と岩との間へ、忽然として、浦島太郎の姿が浮び出る。

 彼は、そこがどこであるかを確めようとして、いつ時、あたりを見廻す。やがて、それは、自分が生れ、育ち、妻とともに暮してゐた土地に違ひないことを知る。

 しかし、まだどこか、不安な気持が残つてゐる。かつて通りなれた道が、今はもう跡かたもないのに気がつく。砂浜から丘へあがつてみると、村の様子は、以前のまゝとは言へず、見覚えのない大きな建物がそここゝに建つてゐる。

 彼は、方角をきめることもできない。たゞ、新しい広い道を通つて、人家のある方へ、急ぐ。軒毎に見知らぬ顔が、彼をいぶかしげに眺め、懇意な店のつもりで、いきなり声をかけてはいると、まつたく思ひもよらぬ主人が出て来て、

「あんたは、いつたい、どこから来なすつた」

といふ挨拶である。

 彼は、無我夢中で、ほつき歩く。自分の家を探しあぐねてゐるのである。

 やがて、このへんと思ふあたりへ来る。

 とある家の門口で、声をかけて見る。

「このへんに、浦島太郎といふ男の住居はありますまいか」

 出て来た中年の女は、

「さあ、知らないね。お隣で聞いてみなさい」隣でも、

「さあ、そんな名前は聞いたことがないね」

「実は、その浦島太郎は旅に出てゐて、女房のサヾエといふのがひとり留守をしてゐたわけですが……」

「へえ、亭主を旅に出して、ひとりでぢつとしてゐる女衆なんぞ、この村にはゐたためしがないね。念のために、お向ひの婆さんに聞いてごらん」

 お向ひの、これこそ百歳にもなるかと思はれる老婆は、

「はてね、浦島太郎と……。さういや、わしが子供の頃、そんな名前の男の話を、祖父さんから聞いたことがあるやうだ。だが、お前さんとは、なんのかゝはりもないこつた。まあ、しかし、おかみさんがこの村にゐたといふんなら、庄屋さんのところへ行つて、しらべてもらひなさい」

 庄屋のところには、およそ百五十年前からの戸籍があつた。浦島太郎の名前も、妻サヾエのそれも載つてはゐた。太郎は明徳四年、即ち、百三十一年前、二十六歳の年の九月三日、海上で行衛不明、妻サヾエは、それから半年後に、旅の商人某に嫁づき、離村、となつてゐる。

「バカバカしい。そんな筈はない」

と、太郎は厳重に抗議したが、れつきとした戸籍をどうすることもできない。

 彼は指を折つて数へてみる、およそ一と月もぶらぶらしてゐたかと思はれる竜宮滞在は、この戸籍によると、実に百三十一年間の長い歳月だつたのである。してみると、彼は、ちやうど今年、百五十七歳、これくらい辻褄の合つた、信じられぬ話があるであらうか。

「お前さんは、この浦島太郎の、なにに当るんだね、曾孫ぐらゐかね」

「曾孫でもなんでもいゝが、わしは、やつぱり、この村に住みつきたいが、差支へないかね」

「今迄どこにゐた?」

「わしかね……竜宮だ」

 庄屋は、眼を丸くする。


一二


 浦島太郎は、村人の手をかりて、掘立小屋を建て、毎日、釣りをして、細々と暮してゐる。

 竜宮から帰つて来た男の人気は、さすがにわるくはないが、人々はまだ半信半疑で、中には気ちがひ扱ひをするものもある。

 しかし、彼は、なによりも、若い娘たちの評判を気にかけてゐる。独居の淋しさに堪へられない。海女たちの集る浜辺の一隅は、太郎の好んで立ち寄る場所である。

 彼は、早くも、一人の美しい娘に目をつける。彼女は毎日、仕事を終ると、村はづれの祠にお参りをする。彼は、その祠のかたはらで彼女を待つてゐる。

「なにをお祈りしてゐるんだい」

「…………」

「好きなひとと添へるやうにか、それとも、好きな人ができるやうにか?」

「知らん、そんなこと……」

「毎日、さうして願をかけてゐるお前のすがたが、寝ても覚めても、わしの眼の底にこびりついて、はなれないのは、どうしたわけだらう?」

「いや、いや、もうそんなこと言ひつこなし……。わしは、男から口を利かれるのは、だいきらひ……」

「ほう、そんならもう、口をきくまい。その代り、お前の望みがかなふ、ありがたいお護りをやらう。この、この艶のいいマダマをみてごらん。これさへ肌身につけてゐれば、口を利かれてもいやでないひともできようし、もし、誰かを仕合せにしたいならきつと、その通りになる」

 浦島太郎は、護り袋の中から、用意の真珠を一つ出して、娘の手に無理に握らせる。


一三


 浦島太郎は、しとやかで、働き者の新妻を迎へて幸福である。

 新妻のワカメは、ある夜、夫に言ふ。

「わたしは、いつでもお前さんのそばについてゐたいのだよ。だから、別々に仕事に出るより、船をなんとか都合して二人で一緒に働けるやうにしておくれ」

「おれもその方がいゝとは思ふが、船は、当節、値が張るし、それに、あの、トヽカヽ船といふやつは、亭主が女房をこき使ふやうに見えて、おれの性に合はんのだ。それも、胆つ玉をひやすことばかりでさ……」

「お前さんにこき使はれれば、わたしは本望さ。あんまりやさしくしてくれると、わたしは、つけあがるよ」

「かわいゝことを言ふやつだ。お前にまさかのことがあつたら、それこそ、わしは、気が狂ふよ。だが、おれの身は大丈夫、みろ、年はとつても、この若さだ」

「わたしの方がお婆さんになつて、お前さんが、その通りでは、さぞ気がもめるだらうね」

「そら、また、おれをうれしがらせる。待て、待て……肝腎なことを忘れてゐたぞ」

「なにさ、いつたい?」

「いや、いや、こればかりは内証、内証……。お前があんまり、そんなことばかり言ふから、おれはかへつて、心配になつて来た」

 浦島太郎は、正面の神棚から、玉手箱をそつとおろし、部屋の一隅に蹲つて、勿体らしく蓋を開け、眼をすゑながら、その中をのぞく。ひとすぢの白煙が立ちのぼる。

 太郎の風貌は、みるみるうちに青春の輝きを失ひ、皮膚はたるみ、頭髪は真白になり、歯はことごとく、どこへやら抜け落ちてしまふ。

 顔をなにげなく妻の方へ向けると、妻はあやしく叫び声をあげようとし、手に持つた貝殻のザルを土間の上に取り落す。

 夫婦は互に、その意味を察しかねて、たゞ、茫然と顔を見合せてゐる。

 ワカメは、やつと、気がついて、太郎に手鏡を渡す。

 太郎の驚愕、不安、絶望の表情。

 妻のワカメは、気をとり直して、夫から鏡を奪ひとり、その首にやさしく手をかけて、

「いゝのよ、いゝのよ、それで、いゝのよ。わたしの大好きな、大好きなひと……。いつまでも、そのまんまで、ワカメを可愛がつておくれ……」


一四


 ある雨の日の朝。

 浦島太郎は、女房のワカメに腰をもませてゐる。

「これで、気だけは相変らず若いつもりだが、どうも、ひとから老人あつかひをされると、つい、自分でもそのつもりになつてしまつて……」

「あたしだけは、別にお前さんを年寄り扱ひしたおぼえはないよ」

「だからさ、こつちも、お前と年の違ふことなんぞ考へたことはないのだが、どうかした時に、つくづくお前の顔をみてると、おれは、なんだか、かう、ぐつと胸がつまつて来るんだ」

「水臭いことを言ふのは、およしよ。あたしたち夫婦は、それこそ、ほかの夫婦よりずつと仕合せだと思ふよ、だつてさ、世間の夫婦は、似たやうな年恰好で、似たやうな楽しみしか知らないだらう。たゞ、違ふところは、男か女かつていふだけだもの」

「それや、さうだ。男同志、女同志ぢや、これや、夫婦にはなれない理窟だ」

「それがさ、あたしたちは、どうかつていふとまあ、男と女つていふほかに、あんたの忘れてるものをあたしが思ひ出させてさ、あたしがまだ知らずにゐることを、あんたが、どつさり教へてくれるんだもの」

「うむ、なるほど、さう言へばさうだ。うまくできてるなあ、まつたく……」

 その時、表の戸が開いて、旅姿の行商風の男が、家のなかをのぞきこむ。

「ちよつと、雨宿りをさせてください」

 浦島は、起きあがらうとする妻の手をおさへ、

「さあ、さあ……。あいにくな天気だね」

「あぶないと思つたんだが、先を急ぐもんだから……。では、ちよつと荷をおろさせてもらひます」

 背中から大きな荷を上り口へおろす。

「旅の衆のやうだが、どこから来なすつた?」

と、浦島は、話しかける。

「わしかね、都からさ。尾張を振り出しに、伊勢路を廻つて紀の国へはいらうと思つて……」

「ほう、それは……。商ひは、なんだね」

「なに、ちよつとした品物だが、なんなら、見るだけ見てくれるかね?」

と、行商の男は、早速荷をほどき、都風の色とりどりの太物類をとり出して、そこへ並べる。

「まあ、まあ、きれいな……眼のさめるやうなものばかり……」

と、妻のワカメは、夫の腰をもむ手を休めずに、感嘆する。

「こんなのは、どうだね? ちよいちよい着にもなるし、値は頃合ひだし……。ねえちやんによく似合ふことうけあひだ。ひとつ、おぢいさんにねだつて、買つておもらひよ」

「あたしは、着物は、さうほしくないのよ」

「おや、ねえちやんの年頃で、そんなはずはないさ。なあ、おぢいさん、そのねえちやんは、孫だか、息子の嫁だか、そいつは知らんが、たまに、都染の晴衣ぐらゐこしらへてやりなさいよ」

「このひとは、あたしの亭主だから、そのつもりでゐておくれ」

と、ワカメは、きつぱりと宣言する。

「まあ、いゝさ、いゝさ……。それでなにかい、そのキキョウの花模様があるのは、なんとなら、替へるかね」

 浦島太郎は、ワカメの顔色をみていふ。

「お前さん、そんなことたづねて、どうするつもりなの?」

「どうする? お前に着せたらどうかと思つてさ。なんとかなるものなら、おれは、なんとでもするよ」

「まつたく、その通りだ。わしは、実は、この土地で、なることなら、マダマを仕入れていきたいんだよ。アハビ玉、アコヤ玉は、このへんがいちばんだと聞いてゐるから……」

「なににするんだい?」

「大粒なら、飾り玉さ。小粒なら、こいつは薬のもとさ。都で、おほはやりなんだ」

「ふむ。アハビ玉が、そんなに珍重されるのか?」

「おぢさん、持つてるなら、見せておくれよ」

「いや、大きいのを一つ二つ持つてはゐるが、ちよつと手放すわけにいかんよ。ほかのものぢや、どうだ」

「ほかのものか? 漁師の家に、わしの欲しいものが、ほかにあるかしらん、まあ、さう言はずに、そのマダマを見せるだけ見せておくれよ」

「そんなら、見せるだけ見せようか」

「あたしがもらつたのなら、いやだよ」

と、ワカメがいふ。

「うんにや、もうひとつ同じものがあるんだ」

 浦島太郎は、肌につけた護り袋から、例の真珠を出して、行商の方に差し出す。

「どうだね、珍しく艶のいゝ大きな玉だらう?」

「えらいものを持つてるね。これだけかね?」

「女房がそれとおんなじものを、持つてるんだが……」

「ぢや、それとこれと、二つで、このキキョウの花模様をおいていかう」

「やめておかう。どれ、返してくれ」

「そんなこと、言はずに……思ひきりなよ」

「だめ、だめ……そいつは、家の宝なんだ。おれたち夫婦のお護りなんだ。返しなつたら、返しな」

 ワカメが起つていつて、真珠を行商の手から受けとり、太物を片手で自分の胸にあて、ぢつと眺め入る。

「いゝことは、いゝね、地の色といひ、このキキョウを散らした具合ひといひ……」

「なあ、おぢさん、この通り、おかみさんにはうつてつけだ。なんともはや、もち前のいゝ器量が一段と引立つて来る。えゝい、こいつ、そのマダマ一つに、まけておかう。わしは、気の弱い方ぢやないが、こゝの夫婦をみたら、むたいなことは言へなくなつた」

 浦島太郎は、いくぶん、あきらめたやうに、

「おい、ワカメ、その布はおいてもらつて、玉を渡してやりな、玉を……」


一五


 海岸の岩の上に、見すぼらしい風をした浦島太郎が、ひとり、しよんぼりと、彼のうねりを眺めてゐる。

 若い海女が二三人、傍らを通りかゝる。その一人が、

「浦島のおぢい、やい、まだ、かみさんの行衛は知れずかい?」

「その話は、もうしてくれるな」

と、浦島太郎は、首をふる。

「まさか、お前さんの真似をして、竜宮へ遊びに行つたわけぢやあるまい」

と、ほかの一人が言ふ。

「都へふらふらと出かけたつていふ噂は、聞いたかい?」

と、もう一人が言ふ。

 浦島太郎は、ちよつと、そつちをみるが、すぐに眼を転じて、頭を両手でかゝへる。

 海女たちは、笑ひ声を残して行つてしまふ。

 浦島太郎は、独り言を呟く。

「都へ出た……? ふむ……都へ……。だがこのおれに、なんともいはずにか……。朝、眼がさめたら、そばに寝てゐる筈の、あいつは、もうゐなかつた……消えてしまつたやうに、あいつの姿は見えなくなつてゐた……。家の中は、それからといふもの、暗い暗い洞孔同然だ……。おれの命も、ついでに持つて行つてくれればよかつたのに……。あの都のあきんどに、玉を渡すんぢやなかつた……玉を渡すんぢやなかつた……」

 海の彼方、鴎の群が、乱れ飛ぶ空のまんなかに、竜宮城の全景が浮びあがり、やがて、それに重つて、乙姫が寝椅子に横はつて、こちらをぢつと見つめてゐるすがたが映し出される。乙姫の表情は、勝ちほこつた笑ひそのものだが、それは、この上もなく冷たく美しい。



第二話



 托鉢僧が一人、夕暮れの都の辻を軒並に布施を乞うて歩く。読経の声は若いながら、重々しく、一種の気品を感じさせる。

 頃は、戦国時代の秋である。往来はしげくはないが、町家の女、下郎風の男、物売り、野武士、などが、時々、軒並に姿をみせ、または、通りすぎる。



 ある公卿屋敷の門先から奥の部屋へ眼をうつすと、主人の丸小路文則は、娘の歌子に経書の素読を教へてゐる。

「君ハ君タラズトイヘドモ、臣モッテ臣タラザルベカラズ、親ハ親タラズトイヘドモ、子モッテ子タラザルベカラズ」

 娘の読み下すのをぢつと聴いてゐて、文則は、

「待て。その意味がお前にはわかるか」

「はい、わかりますけれども、つまらぬことを言つたものだと思ひます」

「一応は誰でも、首をひねる文句だ。人は、易きについてはならぬ、といふ誡めが、その一句の精神だ。臣とか、子とかいふ言葉に囚はれてはいかん」

「しかし、お父さま、かういふ教へを形の上の教へと申すのでせう? 言はゞ、人を縛る結果になると思ふのですが……」

「人の心は、常にゆるみ易い。縛るくらゐで丁度よいのだ」

「それでは、商人が品物を高く売らうとするのとおなじではありませんか?」

「お前までが、さういふ物の考へかたをするやうになつたのか。おそろしい世の中だ」

 この時、奥から、妻の琴路が現れ、

「あの、また催促に参りました。なんと返事をしておきませう!」

「さう急いでも、こちらは、日に一束以上は作れぬと言ひなさい。あと、三日はかゝる」

「ちかごろは、また、雲行がけはしくなつて参りました。安閑とはしてゐられません。あなたも早く、どちらの方へおつきになるか、ご決心をなさらないと……」

「わしの肚は、とうにきまつてる。口外をせぬだけだ」

 書物をしまひ、しばらく、縁先に立つて、庭の草むらを見入つてゐるが、女たちが奥へはいると、押入から、内職の材料を取り出してごそごそと仕事をはじめる。矢に羽根をつける賃仕事である。

 表で、托鉢憎が鉦を鳴らし、読経をする声がきこえる。

 丸小路文則は、耳をすます。



 托鉢僧が立つてゐる傍らを、騎馬の武士二人が、乱暴に通りぬけて、屋敷の玄関先へ侵入する。

「丸小路殿の屋敷はこゝか?」

 奥から、妻の琴路が現れ、落ちついて、

「さやうでございます」

「主人はをられるか?」

「はい、をります」

「こゝへ出られるやうにお取次ぎください」

「どちらからのお使ひで……?」

「知れたこと、木曾殿の使ひです」

 琴路がひつこむと、入れかはりに、文則が出て来る。

「わたしが当家の主人です。なんのご用ですか?」

「用事は後でわかります。即刻、木曾殿の陣屋へ同道ねがひたいのです」

「参りませう。すぐに支度いたします」

「逃げ隠れをされると、あとのためになりませんから……」

 一人の武士は、托鉢僧がまだそこにゐるのを見とがめ、

「やい、乞食坊主、なにを見てゐる。さつさと立ち退け!」



 丸小路文則は、衣裳をとゝのへ、妻と娘とに見送られて、再びそこに現れる。

「では、お伴いたしませう」

 騎馬の武士二人の間にはさまれるやうにして、門を出て行く。

 奥の部屋へ引つこむと、妻の琴路と娘の歌子とが、うれはしげな面持で、夫の脱ぎすてた衣類を片づける。

 琴路は娘に言ふ。

「木曾方では、お父さまのことをどう思つてゐるのだらう。法皇さまにいちばん近い人物とにらんでゐるにちがひない」

「田舎武士は、無作法で、鈍感だから、わたしはきらひです」

「でも、歌子、お父さまは、もう覚悟をなさつておいでのやうだね。──仏壇においてあつたご自分の珠数を腕にとほして、ぢつとわたしの顔をごらんになつた。それで、すべてが読めたやうな気がした」

「さう言へば、わたくしも、信仰の道にはいらうか知ら? 世の中の、なにもかも、信じられなくなつたんですもの」

「それはいゝところに気がつきました。仏法へは、学問からだけでははいれないのだから……。では、金剛寺の上人さまにお話を伺ふなり、なになりして、はやく、信心深い女人におなりなさい。では、いゝ機だと思ふから、お母さんの使つてゐる由緒のある珠数を、あなたにあげます」

 彼女は仏壇から、一かけの珠数をとりあげ、娘の手に渡す。珠数の結び目に、大きな真珠が一つ、ついてゐる。

「美しい珠……これは、白玉でせう?」

「さうです。アハビ玉とも言ふのです。その珠数は、そなたのおばあさんが宮仕へをしてゐた時分、さるやんごとなきお方から賜はつたものださうです。大切になさいよ」

 歌子は、その珠数を腕にかけ、わざと冗談めかして、手を合せ、ナムアミダブツ、と言つてみる。

 それにこたへるやうに、表の方で、托鉢僧の、高らかに念仏をとなへる声が響いて来る。

「どれ、信心の手はじめに、わたし、お布施をして来ませう」

と、歌子は、木鉢に米を入れて、勝手口から出る。托鉢僧が、鉢を差出す。その中へ米を入れる。

 托鉢僧の読経に聴き入りながら、歌子は、うつとりとなる。

 突然、托鉢僧は、声をやはらげ、

「おん父上のご安泰を、陰ながら、祈つてゐます」

と、言ひ、そのまゝ、飄然と立ち去る。

 その後ろ姿を、残り惜しげに見送る歌子の表情は尋常とは言ひがたい。



 丸小路文則の消息は、不明である。巷では、木曾殿の手にかゝつてもう、殺されてゐるとか、北の海の島に幽閉されてゐるとか、噂とりどりである。

 町々は、敵とも味方ともわからぬ軍勢が、あるひは威風をまし、あるひは、掠奪をほしいまゝにしながら、通り抜け、時には、手負ひの落ち武者が、物乞ひ同然なすがたで門に立つこともある。

 ある日、琴路は娘の歌子を連れて、寺参りをする。

 本堂の仏前にぬかづき、祖先の墓詣でをすませ、閑寂な寺内をあちこちとそゞろ歩きをしながら、戦乱をよそに、一つ時の平和をたのしんでゐるもののやうである。

「ねえ、歌子、いつまでかうしてお父さまのお帰りを待つてゐてもしやうがないから、いつそ、都をはなれて、吉野の山奥へでも引つこんだらどんなものだらう?」

「それで、もし、そのうちにお父さまがお帰りになつたら?」

「わたしたちの消息がお耳へはいればよし、さもなければ、まだ、あのお年だから、ひと花お咲かせになるのもよし……」

「頼りないお母さま……」

「でも、ねえ、歌子、そなたにはもう、そなたにはもう、わかつてもらへると思ふけれど、わたしの一生は迷ひの一生だつた。そもそも、お父さまのところへ来たのが、ほんとをいふと、わたしの本心からではなかつたのさ」

「ほかに想ふかたでもおありになつたの?」

「いえ、それが、はつきり、それといふひとはなかつたのだけれど……どこかに、さういふひとがゐて、いつかめぐりあふ時があるやうな気がしてゐたの」

「お父さまでなく?」

「えゝ、お父さまのほかに……、それが、娘のころは、たゞもう、夢中でさう思つてゐたのだけれど、お父さまのところへ来てからといふもの、たとへさういふひとが現れても、もうどうなるものでもないといふ、暗いあきらめが先にたつて……。あとは、心にそまぬひとのそばで、明け暮れ女の勤めをはたすのが苦しくて苦しくて……。そなたが生れ、文彦が生れ、わたしは、そなたたちがいとしいと思ふにつけ、自分の業の深さに、身をふるはせ通しだつたのです」

「そんなこと、すこしも知らなかつたわ」

「さうともさ、そんなことと、誰にだつて、気づかれるやうなことがあつては、たいへんです。今になつて、そなたに、こんな内証ごとを打明けるのも、そなたがもう、年頃になり、そろそろ、婿さだめをしなければならない時節になつたからです。お母さんの二の舞ひをしないやうに、くれぐれも、そなたに、言ひふくめておかうと思つて……」

「その方には、たうとう、お会ひにならなかつたのね?」

「その方……その方とはどこの誰のこと? わたしは、知りません。知らないから、なほ、知りたかつた……。でも、お父さまのお姿が目のあたり見えなくなつた、その日から、わたしの苦しみは、ずつと軽くなつた。不思議なやうに、気持が楽になりました。今までおひかぶさつてゐたものが、急に、とりのぞかれたやうに、晴れ晴れとし、心の落ちつきをとりもどして来ました」

「では、その、お母さまの幻のひとは?」

「もう、みえない、あとかたもなく、消えてしまつたやうだ」

「かへつて、お淋しくはない?」

「さあ、さうでもないね」

 こんな会話をしながら、山門を出て、谷川の流れに沿つて行くと、奥深い杉木立を背にした、さゝやかな庵の前に来かかる。

 すると、向うから、一人の托鉢僧がやつて来て、二人のそばを通りぬける。歌子は、はつとして、その僧の方を見る。僧は、庵の中に姿を消す。

「今のは、せんだつて、お父さまがおでかけになつた日に、お布施をした坊さんですわ」

「よく覚えてゐたね」



 丸小路文則の妻琴路は、娘の歌子を相手に、内職の写し物をしてゐる。

「おそくならないうちに、出来ただけ、わたし、届けて来ませうか」

と、歌子が母に言ふ。

「急ぎの写し物は、もうこりこりだ。字くばりもなにも考へてゐられやしない」

「でも、お母さまの行書は、やつぱり習ひこんでおありになるから……。わたしのなんぞ、ひとにみられるの恥かしいわ」

「あなたは、仮名だけは、なかなか上手になつた。お父さまの血を引いただけあつて……」

「では、ちよつと、ひと走り、行つて来ます。あとの分も、もらつて来ますわ」

 娘の歌子は、さう言つて、手早く鏡に向ひ、髪をときつける。

「ひと通りのない道は、気をつけるんですよ」



 常覚の庵の前の道を、往きつもどりつする歌子。

 彼女は、庵のなかを、時々、そつと、のぞきこむ。

 やがて、托鉢からもどつて来た常覚が深編笠をぬぐと、やや慌て気味に樹立の蔭に身をひそめようとする歌子の姿が眼にとまる。

 二人は、しばらく、無言のまゝ、顔を見合せる。

「このへんに、なにかご用でもあるのですか」

と常覚が、やつと、たづねる。

「はい、いえ、べつに……」

と、歌子は眼を伏せる。

「お若い婦人のひとり歩きは、当節、物騒ですよ。ことに、このへんは、ごらんのとほり、寺のほかは、人の住ひもないところです」

「家の菩提寺がついこの先にございますので……。それに、あの山の紅葉が、ふと見たくなりまして……」

「紅葉が、なるほど、美しく色づきました。お父さまの消息は、まだわかりませんか?」

 常覚は、さう言ひながら、歌子の方に、一二歩、歩みよる。

 歌子は、おどろいて顔をあげ、

「その節は失礼いたしました。はい、まだわかりませんが、もうこの世にはゐないものと諦めてをります」

「諦めるのは、まだ早いでせう。信心はなさいますか?」

「したいと思つてをります。お導きくださいまし」

「いや、わたくしなどは、そんな柄ではありません。こゝに庵を結んで、やつと、二年足らずです。こんな身なりはしてゐますが、まだ、眼の前はまつくらです。どれ、わたしがここにゐる間に、早く、この道をまつすぐにお帰りなさい」

「町へおでましになつたら、是非、お立ちよりになつて……」

 歌子は、そのまゝ、立ち去る。

 常覚は、仏前に坐つて読経をはじめる。心の動揺をおさへることができない。

 いま別れたばかりの歌子の面影が、いつまでも眼底を去らない。



 街の中を流れる河。夕闇が迫つてゐる。

 橋の上を一人の商人風の男が、荷の包みを背負つて通りかかる。振舞酒に酔つたらしく、よい機嫌で鼻歌を唱ひ、ふと、あたりが暗くなりかゝつてゐるのに気づき、提灯の火をつけようとして欄干に寄りかゝる。

 提灯の火がともつた瞬間、男は、「あッ」と叫び、のけぞるやうに、後に倒れる。

 黒い影が、近づく。刀を鞘にをさめ、男の荷物を奪つて、どこかへ姿を消す。

 やがて通行人が、一人止り、二人止り、死体を取り巻いて、四、五人が囁き合ふ。

「まだ温かいぜ。やられて間がないとみえる」

「肩先を見事に斬られてゐる」

「この顔は見たことのない顔だ。旅の者かな」

「これや、長居は無用だ」

「そら、出たッ!」

 一同、逃げ出さうとする。

 托鉢僧である。死体をみて、その前にたゝずみ、静かに念仏を唱へ、そのまゝ行きすぎる。常覚である。

 彼は時には急ぎ足となり、時には物思はしげにうなだれて、歩をゆるめる。

 丸小路の屋敷の前に来かゝる。わらぢの紐を結ひ直し、ややためらふ風で門をはいり、読経をはじめる。

 歌子が、布施を手にして出て来る。

「けふは、どうしてこんなに遅く……」

「これには、深い訳があるのです。思案につきて、ふらふらと出て来ました」

「その訳といふのを、お聞かせくださることはできませんか」

「お聞かせしたいのは山々です。今の身分がそれをゆるしません」

「いえ、いえ、お聞かせくださいまし、是が非でも伺ひます。わたしからも、申しあげたいことが、すこしはあるやうな気がいたします」

「しかし、こゝで長くお話はできません。といつて……」

「では、どこそこへ、いつとおつしやつてくださいまし。どんなことをしてでも出向いて参ります」

「明日までよく考へてみませう」

 常覚、更めて、念仏を唱へながら、立ち去る。



 深い森の中の沼のほとり。

 歌子が、カツギを着て、顔をかくすやうに草の茂みの中に蹲つてゐる。

 その後から、常覚が、何気ない風で近づく。

「うまくいつたやうです。誰にも気づかれずにこゝまで来れば、もう安心です。たゞ、わたくしには、あざむくことのできないものが、たゞひとつある。それをおそれるばかりです」

「仏さまには、あとでお詫びをなされば、それでよろしくはございませんか」

「まあ、まあ、それはこつちのことです。それより、あなたに、よくこんな決心がついたものと、わたくしは驚いてゐるのです」

「あら、どうしてでせう。わたくしは、なにもわるいことをしてゐるとは思ひません。世間がとやかくいふのは、間違ひではございませんか」

「世間を強くわたれるものだけが、さういへるのです。女人と出家だけは、世間を敵として戦ふわけにいきません。それはさうと、かうしてあなたとお話しができたのは、思ひがけない仕合せですが、互に心が通じ合つた以上、これを限りに、人目を忍ぶやうな行ひをつゝしみ、すべてを因縁と考へて、清い信仰の友としておつきあひをしたらと思ひますが、どうでせう?」

「これを限りにですつて……? そんなこと、わたくしにはできません。このまゝ、おそばをはなれたくもございません。いやです、いやです、そんなことおつしやつては……」

「わたくしにとつても、それは忍びがたいところを忍ぶのです。どうか、わたくしが何者であるかといふことを考へてみてください」

「それは、かねがねわかつてをります。あなたがどんなご身分であらうと、わたくしに、なんの差障りもございません。わたくしは、たゞ、あるがまゝのあなたをお慕ひ申しあげてゐるのでございます」

「お言葉は身にしみてうれしく思ひます。さればこそ、わたくしは固い戒めを破つて、あなたをこんなところへお連れしたのです。といつて、これから一歩を踏みだすことは、お互の苦しみをますことだとお思ひになりませんか?」

「それがもし苦しみをますものなら、わたくしは、その苦しみこそ、願はしいことでございます」

「わたくしは、もう、分別を失ひかけた人間です。たゞ、一旦、思ふところあつて、僧籍に身をおいた手前、こゝで、最後の自分を棄ててしまひたくありません。誓ひはいつでも立てられます。もう二、三日、とくと考へさせてください」

「なにもお考へにならない方がいゝのではございませんか? かうして、たつた二人きりで、この水のおもてを眺めてゐれば、ひとりでに物事が進んでいくやうな気がいたします。人のいのちは、二つとはないもの、生きる道が、いくつもあるとは思へません」

 歌子は、さう言ひながら、そつと、片手を伸ばして、常覚の手をとる。

 いくぶん、ふるへるその手に、珠数が垂れてゐる。歌子は、その珠数を、無心に弄んでゐる。そして、ふと、その珠数に眼をやつて、驚いたやうに、

「あら、この珠数、わたくしのと、おなじもの……」

「どれ?」

と、常覚は、歌子の腕にかけている珠数をとりあげてみる。

「なるほど、こゝにアハビ玉を使つてあるところまで、そつくりおなじです。おそらく、出所がひとつといふことでせう。わたくしのは、祖父が鳥羽上皇から賜はつたものです」

「わたくしのは、母方の祖母が、やはりさるやんごとなき方から拝領したものださうでございます」

「これも不思議な因縁といふものでせう」

「仏さまのお引き合せ……」

「いや、まさか、そこまでの粋をきかされる仏さまでもありますまい」

「おや、どちらがわたくしのか、わからなくなりましたわ」

と珠数を二つ手にもつた歌子は、常覚の方へそれを差出してみせる。

「これがわたくしのです」

「どうして、それが……?」

「手ざはりでわかります」

「では、わたくしの指も、手さぐりでおわかりになりますやうに……」

 歌子は、自分の指を、彼の掌に振らせる。

「はい、わかります。もう、わかります。では、今日は、これでお別れしませう」

 二人は、しばらく、寄り添つて森の中を歩くが、やがて、歌子を先に立て、常覚はその後から、見えがくれでついて行く。


一〇


 兵火に焼け落ちたある邸宅の廃墟である。数寄をこらした庭だけが、そのまゝ残つてゐる。

 月の夜である。

 常覚が、頭巾を眼深にかぶつて、築山の植込みの蔭に佇んでゐる。

 歌子が、忍び足で近づく。

「母がなかなかやすまないものですから……」

「この一帯がこんなに焼けたのに、お宅はよく火の手が廻りませんでしたね」

「この少将さまのお邸はねらはれてゐたのです。ついご近所のわたくしどもは、身分もちがひますし、父もをりませんので、見逃がしてくれたものと思ひます」

「しかし、われわれには、よい逢びきの場所ができました。こゝなら夜稼ぎの賊も眼をつけはしますまい」

「母が眼をさましさへしなければ……」

「草の褥も、おつにはおつですが、かう露がしげくては、腰をおろすわけにもいきませんね」

「ぬれにぞぬれてかわくまもなし。ですわ」

「冗談はさておいて、わたくしも、あれから、あなたのお顔をみるたびに、心がぐらついて、読経にも身がいらぬといふ始末、まことにもつて、情けない坊主になつてしまひました。この上は、仏にもさうさうお詫びばかりしてゐるわけにいきませんから、いつそ、再び僧籍をはなれようと、肚をきめ、その証拠をあなたにもお目にかけて、将来のご相談をしようと、今夜は出かけて来たのです」

「まあ、うれしい。では、早速、その証拠とやらをおみせくださいまし」

 常覚は腕にさげた珠数を、片手に握りしめ、

「ごらんなさい。これ、この通り……」

と、それを、泉水の中に投げ入れる。かすかな水の音。水面の波紋。

 二人は、しばらく無言。

「なんとか言つてください」

と常覚は歌子の手をとらうとする。

 歌子は、それを拒むやうに、

「ちよつとお待ちになつて……。わたくし、なんだか、急に、気分がわるくなりました……」

「気分がわるい? どこが、どうわるいのです……?」

「どこと、口で言へません……たゞ、精がなく、胸の底がひやりとするのです」

「夜風にあたつたからではありませんか? 寝つくやうなことがあつてはいけないから、今夜は、早く帰つて、おやすみなさい」

「では、さうさせていたゞきます」

「いづれ、また……」

「おやすみなさいまし」

 歌子は後ろを見ずに、去る。

 常覚は、そのまゝ、そこに、ぢつと、うづくまり、珠数を投げた水の面を見つめる。


一一


 渓流に沿つた山道を、常覚は、旅のすがたでひとり、歩いて行く。


一二


 尼寺の廊下を、尼僧たちが列を作つて通る。

 歌子のすがたが、その中にまじつてゐる。


一三


 長崎の港に近い商店街に、支那人の営んでゐる雑貨店がある。

 雑多な客が、店の品を物色してゐる。

 一人の支那人が、珠数をもつて、その店へ売りに来る。

「京都の公卿の家から出たものださうだ」

「珠数か。そいつは、売物にはならんが、この真珠は、外して、なにかに使へば使へるな」


一四


 江戸の町のある古道具屋。

 店においてある骨董品のなかに、珠数がおいてある。

 一人の中年の女が来て、馴れ馴れしく、

「ちよいと、カンザシにする面白い珠はないかしら?」

「さやうさな……サンゴなら珍しい渋い色のものがあるが……」

「サンゴはいくつも持つてるから、なんか変つたものがほしいんだよ。ヒスイも、今ぢや、はやりすぎててね」

「あ、姐さん、これはどうだ、これは……? このまんまぢや値打ちはないが、この珠は、これで、類のない代物だよ。日本ぢやアハビ玉、今は真珠ともいふが、唐人はえらく欲しがるもんださうだ。コーガイにしたのを、ちよいちよい見るだけで、カンザシは思ひつきだ。この大きさなら、そんなに姐さんにだつて地味ぢやないよ」

「なんだい珠数だらう、これや……縁起でもない」

「おや、冗談言つちやいけない。勿体ないつていふんならわかるが、縁起をかつぐ法はないよ。なにも、坊主がもつてたものと限つちやゐないんだから……」

「さうかねえ……カンザシになるかねえ? 台はやつぱり銀だね。ひとつ、飾り屋さんに持つてつてみせてみよう」


一五


 和蘭船の甲板。

 キャピテンが、時計の鎖の端につけた真珠を、宣教師に見せびらかしてゐる。

「掘り出し物ですぜ。ジャヴァの支那人に見せたら、いくらに買ふつていふか、あんたには見当がつきますまい」


一六


 江戸末期の商家の奥の間。

 母親が娘に嫁入支度の品々を、並べてみせてゐる。自分の手函から、真珠のカンザシを取出し、

「これも一つ、入れておくからね。おばあさんの形見だから、そのつもりで……。あたしはさしたことはないんだけれど、お前さんは、こんなの似合ふかも知れないよ」



第三話



 和洋折衷の可なり旧い邸宅の門前にトラックがおいてあり、玄関から、家材道具が運び出されてゐる最中である。標札には「久能直明」と誌されてある。

 奥まつた洋風の一室に、中老の一婦人が、大きな書棚を背に、一人の洋服を着た男と対ひ合つてゐる。

 女は、いまはこの家の主、直明の未亡人、梅代である。

「久能が亡くなつたとき、書庫の本は全部そのまゝ大学へ寄附したんですが、専門書以外は、息子もまだゐましたし、この通り、残しておいたもんですから……」

「先生のご蔵書は、学界の話題になつてゐました。しかし、これだけは、われわれ業者にも、金額にしてどうかといふ見当がまるでつかなかつたものです」

「えゝ、さういふものだから、久能も、あれだけは私すべき財産でないと、はつきり言ひのこして、呼吸を引きとりましたの。それはさうと、続いて、息子も戦死してしまふし、わたしも、今度、この家を引きはらふことにしましたので、残り少い道具類といつしよに、こゝにある書物を処分してしまはうと思つて……。それで、実は古いおなじみのお店へご相談したやうなわけですわ」

 そこへ、女主人公よりもやゝ老けた年頃の、婆やとでも言ひたい女中がはいつて来る。

「あの、奥様、今朝電話いたしました銀座の大平堂から、番頭さんらしい方がみえましたですが……」

「さう、かまはないから、こちらへ通してちやうだい。あ、お高さん、今夜、あたし、ちよつと出かけるから、夕食を早めにして……」

「かしこまりました」

 お高さん、去る。

「ぢや、ちよつと調べて、全部の値をつけてくださらない?」

 古本屋が、書棚の書物に眼を通しはじめると、やがて、お高さんが、大平堂の番頭を案内して来る。

「さあ、どうぞ……。わざわざおいでねがつてすみませんでした」

「主人が伺ふ筈でございますが、ともかく、一応拝見して参れといふことで……」

「いえ、さう、たいした品物はないんですよ。ぼつぼつ手放しはじめてゐたんですけれど、いつまでもそんなことをしてはゐられないもんだから、ひとまとめに、まあ、こゝでお金にしておかうと思つて……」

「主に宝石類でございますか?」

「さうね、貴金属は、戦争中、供出してしまつたし、今、手元にあるのは、たいてい、鼈甲や珊瑚の、旧くさい日本の装身具ですの、値打があるのかないのか、あたしにはさつぱりわからないから……」

 さう言ひながら、いくつかの小函を棚からおろして、ひとつひとつあけてみせる。番頭は、その中から、種々の品物をとり出して、丁寧にあらためる。櫛、コーガイ、帯止め、カンザシ、などが続々と出る。

「あたしの実家が旧い家なもんだから、そんなものばかり残つてゐて……」

と梅代は、事もなげに言ふ。

「なるほど、時代のついたものばかりでございますな。手前どもでは、実は、あまりかういつた風のものは取扱ひませんのですが……」

「でも、お店の広告に、貴金属宝石美術品とあつたから……」

「いや、全然扱はないわけではございませんが、なにぶんにも、かういつた品は、お好み範囲が限られてをりますんで……」

「だから、無理にとは言ひませんよ。そちらの希望をおつしやつていただければいゝの」

「それが、その、当節は、細工のよしあしと申しますより、材料のつぶし値段が標準になりますもんですから……」

「前おきはそれでわかりました、もし、そちらで引取つていたゞけるなら、いつたいおいくらぐらゐ……」

「これ、全部で?」

「えゝ全部で……」

 古本屋が、こちらを振り向き、

「お話中ですが、だいたいのところを申し上げてみたいと思ひますが……」

「えゝ、言つてください」

「なかには、それだけで相当お高く頂戴できるのもありますが、全部まとめてといふことになりますと、まず、二万五千……どまりでせうか」

「二万五千……へえ、そんなもの? しかたがないわ、明日にでも、引取つてちやうだい」

 古本屋が出て行くと、古物商は、

「ひと通り拝見いたしましたが、手前どもといたしましては、あんまり御期待に添はないやうな御値段をおつけいたすのも、どうかと思ひまして……」

「あ、さうですか。別に、どれくらゐつていふ期待なんかしてませんよ、遠慮なく言つてくださつたらどう?」

「へえ、みなで、二十一点ございますが、こちらに分けました三点だけは、いくぶんまとまつたお値段でちやうだいできると思ひます。こちらの方は、一つ一つ、いくらいくらでなく、込みで値をつけさせていたゞいてよろしうございますか?」

「どうぞ……」

「この鼈甲は質も極上ものでございますから、三千円、この珊瑚が七千、それからこのカンザシは真珠でございませうが、たゞいま、ちよつと値が出てをりますから、二千きつかりまで奮発いたしておきます。あとのお品は、ひつくるめて一万といふことでいかゞでございませう?」

 お高さんがはいつて来る。

「どう、お高さん、これ全体で、いくらになると思ふ?」

「やつぱり、お手放しになるんでございますか? もつたいない……」

「二万いくらですつて」

「えゝと……二万と二千になりますかな」

「戯談ぢやございませんよ、奥さま……こんなお家の宝みたいなものを、そんなことで、いくらなんでも……」

「まあ、いゝぢやないの、あたしが持つてたつてしやうがないんだから……」

 お高さんは、ふと、真珠のカンザシに眼をつけ、それを取りあげて、なに気なく、

「それで、番頭さん、このカンザシは、おいくら?」

「えゝと、二千と申しあげましたかな」

「奥さま、およしあそばせ、この品だけはせめて、お手許におおきになつた方がよろしうございます。わるいことは申しあげません」

「さうかしら……。ぢや、考へてもきりがないから、よかつたら、これだけ残して、あと、その値段で持つてつてちやうだい」



 大都市の真珠専門の宝石店へ一台の新型自動車が乗りつける。

 外国人の父娘が車から降りる。父親は五十そこそこの紳士、娘は二十二、三の溌溂としたブロンド、そのまゝ、店の中にはいつて、飾り棚を見て歩く。

 娘は、みごとな真珠のネックレスをかけ、指には、これも、珍しい大粒の真珠の指環をはめてゐる。

 紳士は、支配人にたづねる。

「いま店にある一番大きな真珠をみせてください」

「さやうですな、大きいと申しますと……どのくらゐの……」

と、支配人が、聞きかへす。

「これくらゐです……。それも、これと同じ色のものでなければいりません。これは、虹色です」

 娘がその指環を支配人に示す。

「へえ、これはまた、たいしたものを……、失礼ですが、どちらでおもとめになりました?」

「北京で、ある支那人に譲つてもらひました。なんでも、むかし、日本から渡つて来たものださうです」

と、紳士が説明する。

「さうしますと、やはり天然真珠にちがひありません。大きさも大きさ、色も色ですが、この完全な丸みが、なんとも言へません。これとおなじ品は、おそらく、世界のどこをお探しになつても、二つとはありますまい」

 支配人は、その指環を手にとつてみて、眺め入る。

「しかし、天然ではないとしても、日本の養殖真珠のなかには、どんなものでもあるでせう?」

と、紳士は、なほも、諦めようとしない。

「とにかく、これと比べて、区別のつかないものなら、いゝのです」

 娘が口を挟む。

「いや、店も工場もかなりいろいろなサイズのものを作つてゐますが、これよりひと廻り小さいのが限度です。なにしろ養殖に手数がかゝるのと、需要の点から言ひましても、まつたくと言つていゝくらゐ、このサイズのものは一般向きがしません」

「それはわかつてゐます。一般向でないから、ほしいんです。パパ、ほかをたづねてみませう」

「この店にないとすると、もう、日本を探してもだめかも知れないよ」

「ダメでせう、おそらく……。しかし、是非といふご希望なら、念のために、同業者や、工場の方を、一応こちらから当つてみてもよろしいですが……」

「さうしてください。トウキョウ・ホテルに泊つてゐる、かういふものです」

 紳士は名刺を出す。

「ミスタ・シーグフリード……。わかりました。一週間ほどお待ちください。ちよつと、サイズを測らせていたゞきます」

 支配人は、再び娘の指環を借りて、珠の大きさを正確に計る。



 ガランとした部屋の中で、久能梅代が、衣類の整理をしてゐる。

 お高さんが、そばで、肌着の二つ三つにアイロンをかけながら、

「三十年もおそばにおいていたゞいて、今さら、あたくしは、はい、さやうならつて申しあげる気にはなりませんのです」

「さう言つてくれるのはありがたいんだけれど、この先、あたしと一緒につまらない苦労をさせたくないからよ、それとも、行く先がない人なら別だけれど、ちやんと郷里には兄弟もゐることだし、思ひきつて言ふと、あたしは、もう、自分の始末をするだけで精いつぱいなんだから……」

「でも、奥さま、このお宅が仮りに、九十万に売れるといたしませう? 奥さまは、簡単にアパート住ひでもしてつて、おつしやいますけど、九十万ぐらゐのお金では、どんなにつゝましくあそばしても、十年は持ちこたへられませんですよ」

「わかつてるわ、だから、わたし、遊んでなんかゐないのよ、できることなら、なんでもするわ、いゝこと……あたしの計画はかうなの。この家がいくらにでも売れたら、その金の半分を、お高さんに餞別にあげるわ。まあ、聴いていらつしやい。残りの半分で、小さな家を買つて、その家を一間だけ自分で使つて、あとを全部、ひとに貸すの。よくつて? 定収入がいくらかあるわね。足りない分を、近頃流行のアルバイトで埋めるのよ」

「奥さまがアルバイトをなさいますんですか? それもよろしうございませう。おからださへおつゞきになれば……、それが第一あたくしには心配でございます。いかゞでせう。たゞいまのお話で、奥様のご決心はわかりましたが、今度は、あたくしの、夢みたいな望みを、ひとつ、お聴きあそばしてください」



 ホテルの一室。

 シーグフリードが、卓上電話で話をしてゐる。

「東京、大阪を探してくれた? あゝ、さうですか。え、みつからない? ふん、それで……? なに、工場? どこの? あゝ、トバか、トバ、わかります。有名な養殖場のある……。あゝ、さうですか。だいたいおなじサイズのが……標本用にとつてある……。しかし、色は? え? それがわからない? どうして? あ、さうですか、たゞ虹色ぢや、ニュアンスがね、むゝ、それはさう……。え? 都合? ちよつと待つて……」

 シーグフリードは、傍の娘に、

「ねえ、いつかの話に聞いたトバの真珠養殖をやつてる工場に、ほとんど同じサイズのが一つ、標本用にしまつてあるさうだが、そいつを見に行くかといふんだ。どうする? 色ははつきりしたことは言へないらしい。虹色の部類にはいつてゐるとはいつてるがね」

「行きませうよ、ついでに、養殖真珠つてどんなことをするのか見ておきたいわ」

 シーグフリード、再び電話で、

「もし、もし、早速行きます。手配をしてください。工場の名前と場所を詳しく書いて、届けてもらへますか?」



 ある南国の海岸の半農半漁の村。

 海を見おろす丘の中腹に建てられた、大きな構への農家風の邸宅。母屋に続いて、甚だしく不釣合な洋館の一棟が見える。

 三十をいくつも出てゐない、運動帽、開襟シャツの、一見無造作な、極めて楽天的な顔つきの一人の男が、のこのこと正面の門から出て来る。そのすぐ後を追ふやうに、三人のそれぞれ特色のある、村夫子然たる男が、羽織袴といふいでたちで、前のめりに歩いて来る。

 そのうちの一人が、やつと、追ひついて、

「なあ、もし、伊賀倉さん、それだけの返事を聞いて、われわれは村会へこの通りといつて報告するわけにはいかんで……」

 伊賀倉と呼ばれた男は、

「しかし、わしの意見は、それだけだから、その通り伝へて下さい。もう一度、はつきり言ふが、公会堂を建てるのは結構、わしに寄附しろも、そりや結構だが、わしは、たゞ、村会の衆が、それだけの力もないのに、勝手に金を集めて、勝手な計画で、こつぱづかしい公会堂を建てることには反対なんだ。いゝかね、決して威張つてみせるわけぢやないが、村の衆のためなら、村の衆がそれを承知なら、わしは、費用を全部、ひとりで出していゝ。そのかはり、村の衆に、わしは、かういふ風な公会堂を作るのが一番いゝと思ふが、どうだ、と、相談してみる。それを作るには、ちやんと、然るべき専門家に設計万端を依頼する。現在の村の頭と、現在の村の要求とからは、断じて、ほんとに公会堂らしい公会堂は生れん、と、わしは思ふ。それだけだ」

 足を早める。別の一人が、また、追ひつき、

「まあ、まあ、待ちな、伊賀倉さん、そんならどうすればいいんだね?」

「怪しげな建築請負に、工事一切を委せる契約をまづ取り消すのさ」

「だが、それは、伊賀倉さん……やはり、県会の有力者から推薦があつて……」

「その有力者を、引つこませなさい」

 また、もう一人が、頭に手をのせ、

「そんなことをしたら、結果は、えらいことになるで……」

「かまはん、かまはん。村民がよろこべば、それでいい。わしは、ちよつと、急ぐから……お先へ……」



 あとに残された三人は、顔を集め、

「あの先代も頑固爺だつたが、せがれは、また、それに輪をかけたつむじ曲りだ」

「強いことが言へるのは、実力のある証拠さ」

「税金を、村中総がかりでもかなはんほど納めるやつにかゝつちや、誰だつて歯は立たん」



 村役場の村長のデスクの前へ、つかつかと近づいて行く男は、伊賀倉である。

「おはやう、村長さん」

「よう、これは、これは、伊賀倉さん、わざわざこんなところへ……なんの御用です?」

「自分の村の役場だから、いろいろ用があります。今日は、村長さんに、ひとつ、相談があるんだが……」

「この、わしに……はて、なんだらう? あ、公会堂のことで、村会の衆がお宅へ行つた筈だが……」

「今、会つて来ました。それやまあ、それで話はすんだが、まつたく別の話です。わしの家はな、村長さん、おやぢの代から、村の物持ちといふことになつてゐて、実はなにひとつ、村のために金を出してゐないことを誰よりも知つてゐます。おやぢが、一切、村の寄附といふものは受けつけなかつた理由を、村長さんはわかつておいでかどうか。おやぢは、村に復讐してやるといふのが、口癖だつた。貧農の家に生れ、乞食同然の少年時代を送り、ろくに学校へも通へず、職を得たくも得られず、毎日毎夜、貝殻を拾つて町へ売りに出た時代の、村全体の冷やかな眼を、生涯忘れることができなかつたらしい。真珠の養殖で産を成した人間は、土地にもいくたりかゐるが、おやぢは、幸運だつたといふこと以外、なにひとつ、自分に恃むところのなかつた、平々凡々な人物です。その息子の、わしはどうだ。村長さん、やつと三十になつて、自分は何物だといふことがわかつたですよ。わしは、たゞ、おやぢの遺産と、今またどうやら芽を吹きだした、数多くない事業とを受けついで、いつぱし物持ちらしい顔をしてゐられる、甘ちよろい田舎青年にすぎないんです。いゝかね、村長さん、わしは、謙遜して、こんなことを言ふんぢやない。それどころか、だからこそ、村長さんの前に来て、臆面もなく、法螺を吹かうつていふんだ」

 この時、さつきの村会議員三名が、やつと顔をみせる。その一人が、あきれて、

「おや、伊賀倉さん、こんなところへ来てるのかい」

「大急ぎで、どこへ行くのかと思つた」

と、もう一人が言ひ、三人とも村長の傍へ来て、立つてゐる。伊賀倉は、それにかまはず、

「工場へ出る時間だから、簡単に、わしの今考へてることを言ふが、村長さん、ひとつ、賛成してください。第一は、村の主要道路を改修するために、必要な経費をわしに出させてもらふこと。第二に、村の若いもの、青年男女に、ひとつ、わしの思ひつきを実行してもらふやう、直接話しかけてみるつもりだから、それを承知してほしいこと、この二つだ。わしの思ひつきといふのは、なんでもない、たゞ、わしのところで出来る真珠を、村の若いもの、未婚の青年男女と限りたいんだが、その一人一人に、一個づつ提供する。そいつを、めいめい、男はバッヂにしてシャツへつける。女は、ブローチにしてこれも胸を飾る。村長さんに、こゝで、その思ひつきの意味を説明したつてはじまるまい。男女青年諸君が、それを天真爛漫に、理解してくれれば、わしは満足するんだ」

 村会議員の一人、

「なんのお話だね、それは?」

「では、村長として、伊賀倉さんにお答へしますが、道路改修費のご寄附は、これはむろん、願つてもないことだから、村会に一応はかつて、受諾の決議をしてもらひます。第二の、真珠の飾り云々は、わし個人に関係はないし、村の利益に反するとも考へられんので、そこは、どうか、ご自由に、青年諸君におはかりください」

 伊賀倉は、村長はじめ一同に軽く会釈をして、去る。

 村長は、三人の議員に、

「したいことができない人間ばかりゐるのに、しなくてもいいことをしたいと思つたら、すぐにできるんだから、大したものだ」



 養殖真珠工場のある小さな島の全景。

 ランチが波を蹴つて、走る。

 ランチの上には、シーグフリードとその娘エレーヌが案内の男と共に乗つてゐる。

 島の船着場は、工場の前庭に続いてゐる。

 前庭は、この村のいくぶんよそ行きの風をした数百の青年男女によつて満たされてゐる。

 シーグフリード父娘は、この群集の中を分けて、工場の応接室へ導かれる。

 伊賀倉社長がそこへ現はれる。

 案内人が双方を紹介する。ギゴちない握手。

 シーグフリードは、たづねる。

「いま、そこへ集まつてゐる若い人たちは、みんなこゝで働いてゐるのですか?」

「ちがひます。あれは、この村の未婚の青年たちです。今日は、わしの望みがかなつて、あの若い連中に、一つづつ、わしから、真珠の贈物をさせてもらふことになつてゐるのです」

「真珠の贈物……?」

「さうです、大昔は、この地方で天然真珠がずゐぶんとれたらしいのですが、はじめは、それをみんな、めいめいが、自分の飾りにして身につけた。真珠は、決して、贅沢品ではなかつた。さういふ時代を、わしは、この村に復活させたいと思つたのです。わしのおやぢは、真珠で金儲けをしました。わしも、いまなほ、真珠で飯を食つてゐる。しかし、こいつは、ちよつと淋しい。世界中といふわけにはいかんが、せめて、わしの村だけは、真珠の村にしたい。真珠の美しさが、一番ぴつたりするのは、夢多き、純潔な胸の上に、それがなに気なく輝いてゐる時です」

「真珠の村とは、なかなかいゝ思ひつきだわ」

と、エレーヌは、半ば皮肉に言ふ。

「ところで、早速、われわれの探してゐるものを見せて下さい」

「お見せしますが、その前に、もう時間が来ましたから、あの連中に贈物を配るところを、ちよつとごらんください」



 あらかじめ用意された工場の一棟に、青年たちは、男女、それぞれ一列を作つて、静かに流れこむ。

 内部には係の者数名が、青年たち自らの手によつて撰びとられた、バッヂとブローチを、めいめいの胸につけてやる。

 伊賀倉社長は、その光景を満足げに打ち眺め、出て行く一人一人と、目礼を交す。シーグフリード父娘は、物珍しげに、この風変りな儀式を見物してゐる。

 シーグフリードは、娘の耳にさゝやく。

「覚えてゐるかい、あのチロルの帽子を……ほら、緑の紐を巻いたのが、未婚のしるしで、赤い紐を巻いたのが、既婚のしるしだといふ、あの話を……?」

「えゝ、あたしも、それを想ひ出してゐたの」

 一人の少女が、いま胸につけてもらつたブローチを気にしながら、歩いて来る。が、ふと方向を間違へて、エレーヌにぶつつかる。

「あら、ごめんなさい」

と、その少女は、はにかみながら詫び、急ぎ足で出て行く。

「とても可愛いゝ娘さん……」

 エレーヌは伊賀倉の方をみていふ。

「戦争で両親をなくした孤児です。わしの家のそばに住んでゐますが、あれで、海へ潜ると、まるでサメのやうに活溌です」

 最後に、六十をすぎたと思はれる老人がひとりまぎれこんで来る。

 係りの者が、いぶかつて、

「あんたは、なんだね」

「わしも、バッヂをもらふ資格がある」

「しかし……」

「年の制限はないはずだ」

「青年といふことになつてゐますから……」

「あゝ、心はいつまでも青年だ、早くつけてくれ」

「どうしませう?」

と、係りの者は、困つて、伊賀倉を振りかへる。

「なるほど、あんたは独身だといふんだね。自分で青年と名乗る以上、これはなんともしかたがない、つけてあげろ」

 一同、陽気な笑ひ。

 老人は、肩をふりながら、若やいだ身振りで、威張つて出て行く。

 それを見送りながら、伊賀倉は、バッヂを一つ取りあげて、自分の胸につける。


一〇


 伊賀倉の案内で、シーグフリード父娘は、工場のあちこちを見物して廻る。

 真珠の山、真珠の滝、真珠の莚。

 標本室へ来る。

「お話のあつた真珠は、これですが、ほんとは、おわけしたくないのです」

 エレーヌは、それを、自分の指環の珠と、ぢつと比べてみてゐる。

「どうだね? エレーヌ、合格か?」

「…………」

 娘は、まだ、かんとも、返事をしない。

「どう、見せてごらん。まあ、まあ、これなら、区別はつかんといつてもいゝぢやないか」

「ちよつと拝見……」

と、伊賀倉は、エレーヌの指環を手に取り、見比べながら、

「これとおそろひの珠なんぞ、どこを探したつてみつかりませんよ。ごらんなさい、大きさはほゞ同じだとしても、第一、この光りかたが、まつたく、違ふ。こつちは、赤の強い虹、こつちは緑の強い虹、朝の虹と、夕方の虹です」

「それは、天然ですか、養殖ですか?」

と、シーグフリードがたづねる。

「むろん、こちらは養殖です。おやぢが試験的に、二十年間母貝を海に入れておいて、そのうち、成功したものの一つです」

 エレーヌは再び、二つの真珠を手にとつて、比べてゐるが、やがて、

「あたし、これ、ほしい。いゝですか?」

と、意志表示をする。

「あなたのをこつちへ譲つていたゞきたいくらゐですが……どうしませうかな……? いつたい、その二つをどうなさるんです」

「耳環にするんです」

「娘は、真珠以外には、なにもいらないといつてゐます。ロンドン、ニューヨーク、パリ、ペーピン、どこへ行つても、真珠です。現在では、たゞ、耳環にするもう一つを探すのに夢中なんです」

「よろしい、お気に入つたら、お持ちください、値段は、五千ドルにしておきませう」

「ありがたう。わたしもほつとした。ところで、このへんにホテルはないでせうか?」

「日本風の貧弱な宿屋しかありません。しかし、それでいゝなら、いつそのこと、わたしの家へ泊つてください。土地の田舎料理を一度ためしてごらんなさい」


一一


 海岸から仕事を終へてあがつて来る海女の群れが、夕陽を浴びた砂浜の上に、三々伍々、全身から、水の滴を落して歩いて行く。

 村の道にさしかゝると、そこは、道普請の最中である。青年たちの勤労作業が、活気をおびた空気を呈してゐる。汗の滴が、それぞれの顔や、胸から、玉のやうに流れてゐる。

 これらの滴は、一滴一滴、真珠となつて、地上にはね返り、転げまはる。

 人影がだんだんまばらになり、やがて、遠くへのびた道の上を、たゞひとり、とぼとぼと行く若い海女の後ろ姿だけが残る。

 その娘の前向きの姿が現はれる。

 真珠のブローチを貰つた日に、エレーヌにぶつかつた、あの少女である。

 林の小径をぬけて、一軒の漁師の家の裏庭にはいる。

「をばさん、たゞいま……」

 納屋を改造した一棟の粗末な建物のそばを通りかゝりながら、声をかける。

 返事がない。縁先へ廻つて、部屋の中をのぞく。

 誰もゐない。彼女は、別棟の母屋の戸口に立つてゐる中年の女に、アハビを採つてきた桶の中をみせ、そのまゝ、奥へはいる。

 が、やがて、また、着物を着かへて出て来る。真珠のブローチを忘れてゐない。

 戸口に立つてゐる女は、不機嫌に、

「また、すぐどこへ行くんだい、お前は?」

「お墓へ花持つて行くの」

「命日でもないのに、いゝ加減にしときなよ」

「うむ……」

と、娘は、生返事をして、そのまゝ、裏の花畑の方へ行く。

 そこには、お高さんと梅代とが、手拭をかぶつて、花の手入をしてゐる。

「たゞいま。……また、お花、すこしちやうだい」

「こんなに遅くなつてから……」

と、お高さんは、声の方をふり返る。

「さあ、さあ、……今日はなににするの、静ちやん? ユリがやつと咲いたから、一輪、もつて行くといゝわ」

 梅代が、ヤマユリを一輪と、マーガレットをいく枝か切つて、静江に渡す。

「どうも……」

と、静江は、それを胸に抱いて、去る。

「なんだか、あのつていふのは、あたくしにはよくわからないんでございますよ。あんなことをするかと思ふと、一方では、いやに勝気で、ひとのいふことなんぞききやしないんでございますからね」

「さうかしら? 短い間に、あたくしとはとても仲よしになつたのよ。でも、この家のひと、みんないゝひとだから、あたしは仕合せよ。母屋のをばさんだつて、あんたは、いろいろ言ふけど、田舎のひとにしちや、お愛想がいゝ方だわ」

「でもねえ、両親をなくした姪を引きとつたのはいゝんですけど、年頃の娘を、あなた、朝から晩まで海へ追ひやつて……」

「そりや、しかたがないわ、当人だつて、別にそれを苦にしてはゐないんだから……。働き者で、器量がよくつて、気性もしつかりしてるんだから、今に、いゝお嫁さんになれるでせう。あたしがひとり暮しで、もうちつと余裕があつたら、養女にもらつてもいゝと思ふくらゐよ」

「あ、もう、陽がこんなにかげつてしまひました。どれ、お食事にいたしませう」

 二人は、前後して、住ひの方に帰つて行く。

 梅代は、みちみち、お高さんに言ふ。

「ほら、東京で、いつか、あんたがとつておけつていつた、真珠のカンザシね。こゝへ来るとすぐ、わかつたんだけれど、あんたが、真珠に特別、眼をつけたのは、やつぱり、生れた土地がこゝだからなのね」


一二


 小高い共同墓地のなかに立つてゐる、二本の卒塔婆、薄暗い地面にうづくまり、ぢつとその前に額づいてゐる少女。

 少女は静江である。やがて、裾をはらつて立ちあがる。草原のなかを、時々、つまづきながら、道の方へ歩いて来る。

 意外にも、湿つた顔つきはしてゐない。むしろ、清々しい気分を、楽しんでゐるやうに見える。

 家の入口まで来て、ふと、胸に眼をやると、ブローチがない、どこかへ落して来たのである。

 慌てて、来た道を引き返す。

 道ばたや、草むらの中を探し探し、再び、墓地まで辿りつく。あたりに眼をくばるのだが、無駄であることがわかる。


一三


 朝である。

 静江とお高さんが、ブローチを探しあぐねて帰つて来る。

 梅代が、庭で、その様子をみてとり、

「どうしても、ない? まつたく、探す時にかぎつて見つからないもんね。でも、いゝわ、そんなもの、いくらだつて、代りが作れるんだから……。静ちやん、ちよつと、いらつしやい」

 縁側に静江を待たせて、梅代は、例の小函から、形はちがふが、ま新しい一つのブローチを取り出す。そのブローチには、いつの間にか、例のカンザシになつてゐた大粒の真珠がついてゐる。

 梅代は、それを、静江の胸にとめてやりながら、お高さんにも半分聞かせるやうに、

「ねえ、ちやんと、かういふものが用意してあつたのよ、お高さん、この真珠、覚えてるでせう。あたしが、こゝへ来ると、すぐ、静ちやんから、今度、村の若い娘さんたちが、みんな真珠のブローチをつけるんだつて聞いたから、大急ぎで、名古屋へ注文して、これを作らせたのよ」

「まあ、これがあの、おカンザシになつてゐた真珠でございますか?」

と、お高さんは驚く。

「さうよ、でも、これが出来て来る前に、もう、そのブローチは、会社からお揃ひのを貰ふんだつていふ話だつたから、実は、あたし、がつかりしてゐたの。でも、まあ、もうひとつ、別のがあつても邪魔にならないからと思つて、いつか、機会があつたら、静ちやんにあげようと思つてゐたんだけれど……とにかく、これでよかつたら、使つてちやうだい」

「いゝどころぢやございませんよ。こんなすばらしいもの、誰もつけようたつて、つけられやしません。静ちやん、この珠は奥さまのお家に代々伝はつた宝物なのよ」

「こんなの、あたし、見たことないわ」

「あたり前だよ、お金ぢや、絶対に買へやしないよ」


一四


 紀州海岸の国道を伊勢路に向つてドライヴする一台の自動車は、シーグフリード父娘の熊野見物の帰りである。

 車の中で、娘のエレーヌは、父親に言ふ、

「あたし、もう一度、トバへ寄つてみたいわ」

「まだ、真珠がほしいのか?」

「ほしくない、たゞ、もつと、もつと、あの真殊のたくさんあるところを見たいの。飽きるほどひとつひとつを見くらべたいの。……きのふ、ナチの滝をぢつと眺めてゐたら、あの飛沫をあげて落ちる水の帯が、真珠の束みたいに思へたわ」

「どうかしてるね、おまへは……。しかし、あの、イガクラといふ人物は、面白い人物だ。家も、気持がよかつた。もう一晩、厄介になるか」

「それもそうだけれど、あたし、あの村が、第一、どことなく気に入つたわ、東洋で、一番いゝ村かも知れないわ」

「真珠の村か……お前が好きになる筈だ」

「イガクラの、単純な夢も、なかなか、笑へなくなつたわ」

 エレーヌは、眼を細めて、うつとりと、なにものかの幻影を追ふが如くである。


一五


 広い日本座敷に、夏の客を待つ準備がしてある。

 縁からは、はるかに島の多い海が見え、漁船が帆を張つて沖の方へ出て行く。

 五十そこそこの婦人の後につゞいて、伊賀倉が浴衣がけで出て来る。

「お母さん、さう大騒ぎをしないでもいゝよ。もう初めてのお客さんぢやないんだから……」

「でも、できるだけ、気を配つておかないと、ちよつとしたぬかりがあつても、西洋の人は、さういふものだと思ふだらうからね」

「さういふものだと思ふなら、それでいゝぢやないか」

「いや、いや、それぢや、あたしだけのおちどですまなくなるからね」

 さういひながら、隅々の掃除や、床の飾りや、座蒲団の並べ方などを点検してまはる。団扇を一度、めいめいの座蒲団の横に置き、それをまた、まとめて、団扇立てにおく。

 縁側の籐椅子にどつかりとかけた伊賀倉は、

「今日は、イセエビの生きづくりは、よさうな。あれだけは、親子とも手をつけなかつたから……たゞの刺身にして出しなさい。刺身は感心に食ひなれたらしい」

「なんでも食べてくださるから、うれしいよ。あたしは、どうも洋食つてものができなくつて……」

「それでいゝんです。洋食のつもりみたいなものは作らない方がいゝよ」

 表に自動車の止る音。

 二人は玄関に出迎へる。

 シーグフリード父娘は、旧知の家を訪れる心やすさで、

「やあ、また、来ました、娘がどうしても、もう一度、この村へ寄りたいつていひますし、わたしも、お宅のなにからなにまでが気に入つてしまつて……」

「大阪へ廻るのをやめて、引きかへして来ましたの」

 交〻、言ふのを、

「それは、ようこそ……」

と、伊賀倉の母は、愛想よく二人を奥へ案内する。

 伊賀倉は、エレーヌに、縁側の椅子をすゝめ、

「この村のどういふところに興味をもたれたのです?」

「たゞなんとなく……」

「真珠の養殖ですか」

「えゝ、それもむろん……。でも、それだけなら、ほかでも見たし……」

「景色ですか?」

「景色は、もつといゝところが、いくらもあります」

 すると、シーグフリードは、

「おい、エレーヌ、そんなことはないよ。これだけの景色は、さうざらにないよ」

と、娘の率直すぎる言葉を訂正し、

「ねえ、イガクラさん、娘は、なんといつても、二年この方探してゐたものを、こゝでやつと手に入れることができた悦びを、この村と、それからあなたのおかげだと思つて、感謝してゐるのです」

「いや、わしはまた、あの真珠は、まだまだ、お嬢さんが求めてをられる、一対の一つとしては、不十分なものだと思ふのです。あの時、言ひ忘れましたが、若し将来、全く同じものがどこかでみつかつたら、いつでも、あれをわたくしに返して下さい。必ずご希望の値段で買ひとります」

 遠くで太鼓の音が聞えだす。エレーヌは耳をすまし、

「あれはなんですか、あの音は?」

「太鼓の音です、今日から、村の祭りがあるのです」


一六


 祭りの夜。

 伊賀倉の案内で、シーグフリード父娘は、祭の見物にでかける。

 提灯を持つた群衆が、浜に集つてゐる。

 青年男女の盆踊り。

 それがすむと、別のひと組が、手風琴に合せて、スクエア・ダンスを始める。

「これも、日本の古い踊りですか?」

と、エレーヌが、いぶかしがる。

「いや、これは、西洋では古いものでせうが、日本では最新式といへるのです。今年の夏から、はじめたばかりです。わしの発案です……」

「前の方が面白いわ」

と、エレーヌは言ふ。

「あなたのために踊つてゐるのではありませんから、あしからず……」

と、伊賀倉は笑ひながら応じる。エレーヌは伊賀倉を打つ真似をする。

 踊りの環のなかに、静江の顔がみえる。エレーヌがそれを発見して、狂喜するやうに、

「あ、あのは……? あたし、あの娘を覚えてるわ……あの、黒いベルベットのスカートをした……あら、こつちを向いて笑つてるわ」

 一同、静江の方に注意する。

「なんて、可愛いゝんでせう……あの踊り方……。それに、なかなか上手だわ。あたし、なんだか、急にあの娘に会つて、話がしたくなつた……。踊りがすんだら、こつちへ来るやうに、さう言つてちやうだい……」

 踊りの一曲がすむと、静江は、その場にぼんやり立つたまま、エレーヌの方を見つめてゐるが、エレーヌが、手招きをすると、つかつかとそばへ来て、そのまゝ、また、エレーヌを恥かしさうに眺め、やつと、につこり笑ふ。

 エレーヌは、無造作に静江を引きよせ、抱きすくめる。

「仲よしになりませう。あなた、なんていふ名……?」

「シヅエ……マキ・シヅエ……」

「あたし、エレーヌ……シーグフリード……。エレーヌだけ覚えればいゝわ。あしたゆつくりお話しませうよ。イガクラさんの家にゐるから、朝のうちに遊びにいらつしやい」

 ブルターニュ風のダンス曲がはじまる。

「さ、踊つて来なさい」

 静江は、飛んで行く。

 ダンスがはじまる。

 一方では、それが終るのを待たずに、盆踊りをはじめる男女の幾組かがある。


一七


 翌朝、海岸の小径を、静江とエレーヌとが腕を組んで歩いてゐる。海はしづかにないでゐる。

 静江の胸につけたブローチ、エレーヌの指にはめた指環の、二つの真珠が、まつたくおなじ大きさで、おなじ輝きを放つてゐることがわかる。二人はむろんそれに気がついてゐない。

「あなたとかうしてお話しながら歩いてゐると、自分が外国にゐるんだつていふことを忘れるくらゐよ」

と、エレーヌは、静江の顔をのぞきこむやうにして、優しく言ふ。

「あたしも、あなたがほんたうの姉さんみたい気がして来たわ」

と、静江は、すこしはにかみながら言ふ。

「あら、姉さんぢやつまらないわ、世界一仲のいゝお友達でなくちや……」

「でも、お友達はつまらないわ。しじゆう一緒にゐられないんですもの」

 二人は、友情の極限を言葉に言ひ現はすことができない。

 やがて、小松の点々と生えた丘の上に出る。二人は、草原に腰をおろす。手を握り合つてゐる。

「それはしかたがないわ。遠くはなれてゐて、長い長いお手紙をたびたび書くの。そして、その返事を、毎日毎日、待つてるの。いゝものよ」

「あたし、お手紙、上手に書けないわ」

「お喋りだつて、あんまり上手でもないくせに……」

「さうよ」

「ぢや、あなたの想つてることを、どうしてあたしに知らせてくれるの?」

「それが、できないから、悲しいわ」

と、静江は、エレーヌの方に、肩をすりよせ、甘える風をする。

 その時、エレーヌは、静江の胸に光つてる真珠のブローチに眼をとめる。

「やつぱり、そばにゐなけれや、ダメなの? 困つたひとだわ」

 さう言ひながら、自分の指環の真珠と、ブローチのそれとを、何気なく見比べる。そして、眼の色を変へて、驚く。が、さり気なく、

「これ、こなひだのブローチ? ちよつと見せて……」

 静江は、ブローチを外してみせる。

 エレーヌは、それをぢつと、指環とくらべてみながら、

「こんな真珠が、あのなかに混つてたの?」

「いゝえ、あの時もらつたのは、あたし、どつかへ落してしまつたの。うちにゐる東京の奥さんが、代りに、これくださつたの」

「トウキョウの奥さんつて?」

「東京であたしの伯母さんが勤めてゐたうちの奥さん……大学の先生の未亡人なの」

「こら、ごらんなさい、あたしのこれと、全然、おんなじぢやないの」

「さうね、不思議だわ」

「実は、あたし、これとおんなじのを、もう一つ欲しいと思つて、方々、探して歩いたの。どこにもないのよ。さうよ、不思議よ……それを、あんたが持つてるなんて……」

「そんなに欲しいなら、あげてもいゝわ」

「むろん、お金でよければ、いくらでも出すけれど……」

「うゝん、お金なんかいらないわ」

「ぢや、ね、かうしませう。イガクラさんに相談して、ちやんとしたことをするわ」

「そんなことしなくたつてあたしが、あげるつていふんだから、それでいゝぢやないの」

 静江は、ブローチをエレーヌの方に押しやる。

「まあ、まあ、もうちつと考へさせて……。なんて、あんたは、いゝひとなんでせう。西洋にも、真珠みたいつていふ形容はあるけれど、あんたこそ、ほんとの真珠だわ」

 エレーヌ、静江を抱きすくめ、頬ずりをする。

「さうだわ、この真珠のブローチは、かうして、あなたの胸につけておきませう。とても、よく似合ふわ……そしてその真珠も、あなたの胸でいちばん美しく光るんぢやないかしら? あたし、さう思ふわ」

 エレーヌはさう言ひながら、静江の胸にブローチを返す。


一八


 イガクラ家の玄関を出るシーグフリード父娘、それを見送るイガクラとその母、及び女中。

「わたしも娘も、こんな楽しい日を送つたのは、ずゐぶん久しぶりです。心からお礼を申します」

と、シーグフリードは、イガクラとその母の手を振る。

 オープンの自動車が二人を乗せて走り出す。

 平坦な道が真つすぐに続いてゐる。

 その道端の樹蔭に、ひと塊りの男女が立つて、自動車を待ちうけてゐる。そのなかに、海女すがたの静江、東京の奥さん久能夫人、静江の伯母お高さんなどの顔がみえる。

 自動車が近づくと、静江が、前にをどり出て、手を一生懸命に振る。自動車の上から、エレーヌがこれにこたへる。エレーヌは、いつまでも、うしろを振り向いて、伸びあがるやうに、スカーフを振る。

底本:「岸田國士全集7」岩波書店

   1992(平成3)年27日発行

底本の親本:「群像 第九巻第七号(増刊号)」

   1954(昭和29)年615日発行

初出:「群像 第九巻第七号(増刊号)」

   1954(昭和29)年615日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年88日作成

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