カライ博士の臨終
人生の最も厳粛であるべき瞬間に、わたくしがもし笑ひの衝動をおさへることができぬとしたら、いつたいどんな罪に問はれるであらう?
岸田國士
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人物
加来典重
冬菜
四紋
ネラ子
雅重
冬菜の母
早見博士
煙(主治医)
細木助教授
大里教授
浦(玉石堂主人)
津丸(雑誌記者)
看護婦
ある大学の哲学教授、加来典重は、カントの研究家としてその名を知られ、近年は、ハイデッゲルなどの名をもその講義の間にしばしばはさみはするが、学生の一人がサルトルについて質問を行つたところ、それは自分の専門以外であると答へたことによつて、相手に首をひねらせた逸話の持主である。時に文明批評や随想に類する文章を二、三の雑誌に発表することもあるが、その衒学的臭味によつて、多くの読者を悩ましてゐることは、本人はもちろん知る筈もない。ただ、その風貌のまさに学究然たるところと、性情の率直にしてやや稚気を帯びたるところとが、或は世間の信用を博し、或は周囲の同情を買ふに十分だといふだけの、言はば、愛すべき一老教授である。
停年が近づきつつある。著書の数は多い割合に売れ行き思はしからず、退職後の生活をあれこれ思ひ悩んでゐる矢先、ふとした風邪ひきがもとで、自慢の健康に狂ひが生じた。
肺炎のぶり返しがやうやく治つたと思ふと、急性腎臓炎の併発をきつかけに、十二指腸虫のおびただしい繁殖がはじめて医者の注意をひき、その手当のために服用した薬品の副作用によつて、今度は極度の苦痛を伴ふ胃腸障害を起した。
衰弱は日に日に募つた。近所の主治医が慌てふためいてゐる様子に、細君の冬菜は気が気でなく、夫のためらふのを押し切つて、同じ大学の医学部教授で内科専門の早見博士を立ち合ひ診察に来てもらふことにした。
早見博士とは、学内のなにかの会合で、一二度顔を合せたぐらゐの関係で、君僕と呼び合ふほどの親しい間柄ではない。とはいへ、そこは同僚の誼みでもあり、かつ、高名な学者としての敬意をも含めて、至れり尽せりの診察振りを示した。
早見 食慾は?
加来 ない。
冬菜 ここ二週間ばかり、さつぱりございませんのです。
早見 ここ、痛みますか。
加来 痛い。
冬菜 からだぢゆう、どこもかしこも痛いつて申しますんです。でも、ほんとに、よく我慢いたします方なんですけれど……。
早見 気分はどうです? むろん、どうもないわけはないが……非常にだるいとか、むしやくしやするとか……。
冬菜 非常にだるいさうでございます。どこか特別に苦しいところがございますんでせうけれど、それをはつきり申してはくれませんのです。
早見 呼吸です。呼吸が……苦しいでせう……この心臓では……。さうして、眼を開いてゐて、眩しくはありませんか?
加来 (眼をつぶる)
冬菜 今朝ほどでございます……眩しいから雨戸を締めろつて申しますんです。急にそんなことを申しますんです。昼間から、それではあんまり陰気だと思ひまして、かうして枕もとに屏風を立ててみましたんですが……。
早見 では、主治医の方とよくご相談をして、必要なら、処方を書いてみませう。
かうして、早見博士は、病人に会釈して、座を起ち、細君の冬菜に案内されて別室にはいる。
主治医の煙と細君とを前にして、早見博士はしばらく沈黙を守つてゐる。
煙 率直にお見立てを伺ひたいもので……。
早見 率直もなにも、一目瞭然です。
彼は、そこでやや声をおとして、例のドイツ語まじりの専門的会話をはじめる。ラッセルといふ言葉が切りに使はれ、主治医煙の当惑しきつた表情へ、冷酷とも思はれる一瞥を投げた後、
早見 奥さん、誠にお気の毒ですが、わたくしとしては、もう、万事休すと申しあげるよりほかありません。このうへは、もし、それができれば、奇蹟を待つといふことが残つてゐるだけです。はつきり申せば、先生は、既に危篤状態です。しかし、このことを直接、先生のお耳に入れることのよしあしは、奥さんのご判断にまかせますが……。近親の方々だけはお呼び寄せになつていい時機だらうと思ひます。
煙 どうもさうぢやないかと思ひました。やはり、肺が両方とも完全に冒されてゐるといふことです。
冬菜 完全に治つてゐた筈の肺がですの? でも、早見先生、主人はかねがね、死といふ問題を深く考へてをりました。つい四五日前でございましたか、もちろん、戯談めかしてではございますが、もし、命が助からんといふことがお医者さんにわかつたら、すぐに自分の耳に入れるやうにしてくれ、と申すんでございます。日頃の考へかたから申しましても、それだけの覚悟ができてゐるに違ひございませんし、予めそれを知つて、なにか大事なことを言ひ遺しておきたいのではないかと、思ふんでございます。
早見 失礼ですが、先生はなにか、信仰がおありですか?
冬菜 べつだん、宗教には関係してをりませんが、やはり、哲学者としての信念みたいなものはあるんだらうと存じます。
早見 哲学者としての……ああ、さうですか。では、それを、奥さんから暗示なさいますか? それとも誰か……?
冬菜 わたしからでは、ただ取越苦労のやうにとられやしないかと思ひますの。
早見 しかし、さういふ宣告は、医者の口から直接すべきものぢやありませんから……。どうです、煙先生?
煙 いや、わたしもかねがねこちらの先生とはご懇意にねがつてゐますが、理窟としては、それができても、情において忍びないやうな気がします。
早見 わたしはそんな人情論をしてゐるんぢやない。ただ、それは医者の資格においてするべきことかどうか、といふ疑問をもつてゐるだけです。言はば、対人的な、特別な技術を必要とする役目なんだから、責任はもてないといふだけです。しかし、わたしにやれとおつしやればやりますがね。
冬菜 いえ、やつぱり、あたくしから、折をみて、なんとかうまく切り出しますわ。いくら主人を信じてゐましても、結果がまつたく予想のつかないことのやうに思ひますから……。では、先生、ありがたうございました。あの……もうダメといたしましても、あと、どれくらゐの時日……?
早見 わかりません。そこまではわかりません。多分早ければ二十四時間以内、おそくても、三日はどうかと思ひます。わたしはこれから臨床講義に出ますが、急変がありましたら、お知らせください。では、一、二時間おきに、強心剤だけ、どうぞ……。
早見博士が帰つた後、主治医の煙は、ぼんやり応接室に残り、冬菜は、ひとり、夫の病室に戻つて行く。
加来 話が長すぎるぞ。
冬菜 ご診察の結果を詳しく伺つてましたの。
加来 素人が聞いてわかるやうな話かい?
冬菜 わかるところと、わからないところと、ありましたわ。でも、結論は……。
加来 絶望だつていふんだらう。
冬菜 あら、そんな風にはおつしやらないわ。だつて、そんなことありつこないんですもの。ただ……衰弱がずいぶんひどいから、よつぽど用心しないといけないつて、おつしやつただけよ。ご自分でも、そのくらゐおわかりになるでせう?
加来 自分でわかる程度のことを医者に教はる必要はない。それで、いつたい、どこがそもそもわるいつていふんだい?
冬菜 それが、あたし、驚いてしまひましたの。肺ですつて……両方の肺が……。
加来 もう、いい、わかつた。お前が泣いちまつちや、なんにもならんよ。それで、早見は、今度は、いつ来るんだ?
冬菜 いつでも、必要があつたら、さう言つてくれれば来るつて、おつしやつたわ。
加来 必要があれば、か。
冬菜 やつぱり、主治医に遠慮がおありになるらしいわ。
加来 煙さんは?
冬菜 応接にいらつしやいます。
加来 ちよつと呼んでくれ。
冬菜 でも、見当違ひのことは、あんまり、おつしやらない方がいいわ。
加来 さうか。今、顔は出しにくいか。しかし、ちよつとその顔を見たくもあるな。いや、しばらく眠らう。
冬菜は、夫の夜着を着せ直し、そつと出て行つて、息子と娘の出先へ電話をかける。息子の四紋は丸ノ内の銀行に勤めてゐる。娘のネラ子は、某女子大学の英文科に通つてゐる。息子には、ただ、急いで帰れとだけ言ひ、娘には、授業中なので、教務課から、それを伝へてもらふことにした。電話の声を夫の耳に入れぬやう、彼女はせいぜい気をつけた。
しかし、その声がもし夫の耳にはいり、息子や娘を急いで呼び寄せてゐるなと勘づいたら、それはそれで、却つて、自然に目的を達したことになる、といふ狡い考へもふと胸に浮ばぬでもなかつた。
そこまで考へて来ると、つい大胆になり、夫の兄にあたる加来雅重にも電話をかけた。
「せんだつてはどうも……。お礼を申しあげよう申しあげようと思ひながら、あれからずつと、よくないもんですから……。ええ、今日、大学の早見先生に来ていただきました。それがね、お兄さま、やつぱり、楽観できないらしいんですの。あら、さうですか。今日、おでかけくださいます? ええ、そんな、わざわざでなくつてもよろしいんですけれど、やつぱり、元気をつけていただく方が……さうですとも……そりや、よろこびますわ」
これで、大体、意のあるところは先方に通じたと思つた。「あら、さうですか」以下は、先方が何も言つてないのに、こつちで勝手に喋つた文句である。
息子の四紋が、息せき切つて帰つて来た。これはすぐに、それと察したからである。
冬菜は、息子と相談のうへ、まづ、大学の研究室で父典重の直弟子に当る細木助教授、次ぎに、学問上といふよりはむしろ私的関係において一番親しい倫理学の大里教授、それから、父の著書を殆ど一手で出版してゐる玉石堂の主人、浦某に、それぞれ、電報または電話で危篤を知らせることにし、息子が、その役目を引受けた。
やがて、娘のネラ子も帰つて来た。
病室では、看護婦が注射の用意をしてゐる。
加来が、時々、眼をあけて、家の中の物音を気にしてゐる様子である。
加来 ちよつと、その注射がすんだら、家内を呼んでくれたまへ。
冬菜がはいつて来る。
加来 さつきから、だいぶん、人が来るやうだが、見舞客なら、いちいち取り次がなきやだめだよ。会ふ必要のある人物もゐるから……。
冬菜 でも、お疲れになるといけないと思つて……。看護婦さん、しばらく、あつちへいらしつてくださらない。
加来 さうだ、二人きりの方がいい。今、誰々が来てるのか、言ひなさい。
冬菜 原宿のお兄さまと、細木さんと、大里先生と、玉石堂の浦さん……。それに、母です。
加来 四紋とネラ子は?
冬菜 もう、帰つてゐます。
加来 みんな揃つてるぢやないか。冬菜、心配しなくつてもいい。わたしは、もう、なにもかも知つてるよ。いや、知つてるといつては、不正確だ。推定してゐる。わたしは、もう助からんのだ。命、旦夕に迫つてゐるのだ。
冬菜 あなた……。
加来 なに、それならそれで、いいんだ。わたしにも、息のあるうちに、解決しておかなければならん問題がいくつかある。それを、早く、解決しておきたい。早見君が、ほんとに、もうダメだと言つたんだね。
冬菜 あなたを信じて、それなら、申し上げますわ。深い意味はあたくしにはわかりません。ただ、万一のことがあつてはいけないからつて……。
加来 呼ぶ必要のあるものは、急いで呼び寄せるやうにつてか。
冬菜 万一の用心に……。
加来 万一はわかつた。つまり、危篤の状態といふわけだ。さうかも知れん。いや、さうに違ひない。なぜ、それをもつと早く言つてくれないのだ。早見君は、あと幾日、いや、幾時間ぐらゐもつと言つた?
冬菜 そんなことまではおつしやいません。ほんとに、そんなことは……。
加来 それを言はん法はない。不親切といふもんだ。苟くも、ただの人間とは違ふのだ。生死の問題を冷静に考へられないやうな、そんな人間と思つたら、とんだ間違ひだ。いいか、冬菜、君だけは、わたしがどんな風に、死の瞬間を迎へるかを、よく見ておいてくれ。モンテーニュを気取るつもりはないが、わたしは、哲学者らしい、安らかな死にかたをしたい。後世のことは信じるにしてもだ、生の終末に欣んで、なすべきことをなしたといふ満足感のうちに眼を閉ぢたいのだ。
冬菜 それがおできになれば、立派ですわ。きつと、あなたには、それがおできになれますわ。
加来 できる。できない筈はない。四紋とネラ子をここへ呼びなさい。
息子の四紋と娘のネラ子とが、おそるおそるはいつて来て、父の枕許に近づく。二人とも父の顔を正視できぬやうに、頭を低く垂れてゐる。
加来 お父さんは、医者から絶望の宣告を受けた。自分でもそれをたしかに感じてゐる。お前たち二人に、今、言つておきたいことは、平凡至極なことだが、決してひとに頼るな、といふこと、すべて希望的な判断を警戒せよ、といふこと、この二つだ。詳しい解説をする暇がない。よく考へて、自分で納得するやうにしなさい。
それから、お母さんに言つておく。平生も言つてゐることだが、わたしは遂に産といふほどの産を成すことができなかつた。物質的には、子にひとつ残すものはない。ただ、この家だけは、お母さんの名義にしておいて、若い者たちが自分の生活を築いて行く邪魔をしないやうにしなさい。
それでは、四紋もネラ子も、お母さんを淋しがらせちやいけないよ。
冬菜、どうしやうか、みんな一緒に、ここへ通してもらふか。
冬菜 一緒でよろしいでせうか。
加来 ああ、その方がいい。どうせ、秘密の話なんかないんだ。
やがて、冬菜の母、七十に近い老母、加来の兄雅重、元海軍中将、大学助教授細木、同教授大里、玉石堂主人浦の面々が、ぞろぞろと、緊張してはいつて来る。一同、無言。
突然、細木が、感極まつて、加来のそばににじり寄つて、手をつく。
細木 先生、しつかりなすつてください。僕は、何者も先生を奪ひ去ることを許しません。
これを合図に、兄の雅重が、声をかける。
雅重 おい、典重。元気を出せ。医者がなんといはうと、人間の生命は、天が支配するんだ。軍医が匙を投げた負傷者で、立派に立ち直つた例がいくらでもある。
加来 まあ、まあ、静かにわたしの言ふことを聴いてください。みなさん、わたしは、死をおそれてはゐません。なるほど、死の宣告は、厳しく冷やかなものです。しかし、宗教的な悟りとは別に関係なく、わたしにはわたしなりの考へ方があつて、今、生命を終らうとしてゐる事実を、それほどの苦痛もなく見つめることができるのです。みなさんとの永遠の訣別を悲しいとする感情にいつはりはないのですが、その悲しみにうちかつものは、今日まで、みなさんの愛と信頼とによつて、いかに力づけられて来たかといふ感謝の思ひ出です。
お母さん、ひと足お先にといふことになりましたが、冬菜のために、わたしに代つて、なるべく長生きをしてやつてください。
兄さん、あなたには別にあらたまつて言ふことはない。もう既に一度、何年か前に別れの挨拶をしたね。その時はあなたの方が先だと思つたが、また逆になつた。あとのことは、なにも心配してくれなくていい。おなじ血を分けながら、運命が二人をまつたく別の道へ進ませた結果を、あなたは、最近ひどく苦にしてゐる様子だつたが、僕は、それほどあなたを遠いところにおいてみてはゐないのだ。兄さん、あなたの美しさは、ただ、僕のところの子供たちにはわからない。時代のせゐだ。手をかしてくれたまへ。
それから、大里君、君とは、時間さへあればゆつくり話したいことがある。話してどうなることでもないが、やつぱり話さないと気がすまんといふやつさ。君には、公私の生活に亘つて、ずいぶん世話になつた。こつちも、多少、世話をやかされはしたが、それもこれも、お互だからできたのだ。お礼を言ふのは水臭いといふなら、よす。それはよすが、僕の葬儀委員長は、君のところへもつて行くだらうと思ふから、迷惑でもこいつは是非引うけてくれ、そして、できるだけ簡素に、無宗教葬にして、式場があればその式場で、僕の好きなバッハでも、レコードでやつてくれるといい。
次ぎに、細木君、だいたい君は、この僕を買ひかぶりすぎてる。君のやうに、僕の後ばかりついて来たのでは、学者として物にならんよ。僕の非才は誰よりも僕自身が知つてゐる。辛うじて大学教授がつとまり、危なつかしい雑誌論文がやつと書けるやうな哲学者は、もうこれからは出なくてもいいのだ。今だからはつきり言ふが、君を助教授に推薦した時は、君が誰よりも僕のそばにゐてくれさうな気がしたからだ。言ひかへれば、君が誰よりも僕の忠実な弟子だと思つたからだ。僕の眼鏡に間違ひはなかつた。しかし、君を、ただそれだけの人間にしてしまつた責任は、僕にもあるやうに思ふ。僕はもうゐないのだ。後任の教授は、おそらく、どこかから引張つてくるだらうが、君は、そんなことに関係なく、学校に止るなり、去るなりの決心をしたまへ。あくまで君自身の学問のためにだよ。ほんとの哲学者になれ。僕のやうな哲学学者にでなく……。
最後に、浦さん、玉石堂も昨今悪戦苦闘らしいが、僕の印税の残りは、なるべく早く都合してくれたまへ。将来のことは、約束してもらはなくつていい。売れない本を無限に売るのは、ない智恵をしぼるよりむつかしいに違ひない。ただ、どうせ売れないからといつて、世間から不当に早く忘れられるやうな結果をわざわざ招く必要はない。『カント哲学の本義』だけは、時々、広告をしてくれたまへ。いや、そんなことはしないでおいてもらはうか。誰かが覚えてゐて、わざわざ店へ探しに来た時、一部でも二部でも、出して渡してやれるやうにしておいてほしいもんだ。それから、僕の現在の講義だが、ノートはすつかり出来てるんだし、あれをひとつ、細木君にでも整理してもらつて、出せれば出してくれるとありがたい。『近世に於けるドイツ哲学の諸問題とその歴史的意義』といふ題だが、ちよつと類のない研究だと思ふんだ。まあ、これも、君の方で、価値ありと認めれば、だ。もちろん、ジァーナリスチックを立場からさ。それから、もうひとつお願ひがある。今年の卒業生で一人、可なり優秀な青年だが、編集の方へ使つてもらへないだらうか。これも考へといてくれたまへ。あ、その返事は、細木君の方へ頼む。細木君、わかつてるね。ああ、これで、だいたい、みなさんにお別れの言葉を言ひつくしました。さあ、もうこれでなにも思ひ残すことはない。安心して眼をつぶります。お忙しいところをどうもありがたう。お引きとりください。
一同、思ひ思ひに、加来の方を振り返りながら、部屋を出て行かうとする。細木ひとり、しばらく後に残り、また、思ひ余つたやうに、「先生……」と、ひと声、嗚咽とともに、低く呼んで、そのまま、そこに坐つてしまふ。
加来典重が主治医煙に脈をとらせ、看護婦はその傍らで体温表を示しながら、煙にその後の経過を報告してゐる。
看護婦 今朝ほどお咳がちよつと長く続きましたけれど、ほかに異状ございません。
煙 意識はずつとはつきりしてるね?
看護婦 昨夜からひと言もおつしやらず、うとうとしていらつしやいます。こちらの申しあげることは、よくおわかりになるやうでございます。
煙 あれから、どんなものがはいりました?
看護婦 は?
煙 摂取物……食べもの……。
看護婦 わたくしが差しあげようとしても、なんにも召しあがりませんのですが、奥さまが無理におすすめになりますと、それでもいくらか……。
煙 どんなものを、どれくらゐ?
看護婦 なんですか、アイスクリームと茶碗蒸の間みたいなものですとか……。
煙 ふむ、プーディングだらう。
看護婦 あ、リンゴのジュースをコップに半分ぐらゐと、それから、お刺身をご飯の中に入れて熱いお茶をかけたのを完全に一杯……。
煙 ふむ、鯛茶だな。そんなものが食べられるのか。それで、あとは、どうもないね。
看護婦 プルスの結滞が時々ございます。
燈 それは関係はあるまい。
細君の冬菜が、その時、早見を案内してはいつて来る。煙は早見と目礼を交す。早見が煙に代つて、病人の脈をとる。聴診器をとり出して胸部にあてる。手足の指に触つてみる。加来は眼をあける。
加来 あ、早見先生、たびたびどうも……。
早見 どうです、気分は……?
加来 非常によろしい。幽明の界といふのはこれかと思はれるほどです。
早見 精神力がものを言つてゐます。
煙 類例の少いことでせうな。
加来 持ち直すおそれはないでせうか?
早見 さあ、おそれと言はれるのはどういふ意味か、医者としては、事実を正確に見ることと、希望をあくまでも捨てないといふことと、この二つの道を同時に歩く以外にないのですが……。
加来 その二つの道が次第に大きく分れて、同時に歩けなくなるところから、危篤状態がはじまるんだと思ふが、どうです?
早見 厳密に言へばさうです。
加来 学者は常に厳密を尊ぶものだ。いい加減なことは言はないでくれたまへ。ほんとに、もう望みはないんでせうね。僕は、とつくに、そのつもりでゐるんだ。準備はすつかりできてゐるんだ。会ひたい人間にも会つた。言ひたいことも言つてしまつた。心残りはなんにもない。早く、おしまひにしたいんだ。
冬菜 でも、あなた、早見先生がかうして来てくださるのは、まだ全然……。
加来 君の言ひたいことはわかる。そんなことはわたしにでも言へることだ。わたしは、早見君から、もう一度、はつきり、ダメだと宣告してもらひたいんだ。
早見 加来先生、そんな無理を言はれちや、困りますよ。わたしは、ただ、どんな場合でも、危険信号を出す以上のことは、医者の責任から言つても、良心から言つても、絶対にできないし、また、それをする必要はないと思ふのです。
加来 それでは、おたづねするが、昨日と今日と、危険の程度に変化がありますか。
早見 ありません。
加来 昨夕より更に一歩進んでゐるといふことはありませんか?
早見 さういふ点もありますが、さうでない点もあります。
加来 綜合的にみて?
早見 依然として危険、万一の場合を考へなければならんといふ状態に変りはありません。
加来 万一……それが、僕はきらひだ。万一といふのはその事実が万分の一の公算で発生することをいふんでせう。危篤といふのは、逆に、九千九百九十九の公算で、生命が終りを告げることを意味するんぢやありませんか。いや、さうぢやない、百パーセントの効率をもつた死の衝撃を予見した表現でせう? さうであればこそ、僕は、周囲のものに、僕の最後の言葉をおくつたのだ。
早見 それは先生のご自由です。そして、それが、世間の習慣です。先生の行動は正しく、すこしも後悔されることはないと思ひますが……。
加来 後悔することはない……はい、よくわかりました。それで安心した。刻一刻、死の境界に近づきつつある自分の生命の平安なすがたを、わたしはじつと、かうして見まもつてゐる。まつたく未知の世界が、眼の前にあるといふことは、これは、わたしにとつて、絶大な誘惑です。もちろん、来世などといふものではない。ある一瞬にわたしが遭遇することを確約されてゐる感覚の消滅といふ現象を、その肉体ではつきり捉へ得るチャンスは、なんといつても、貴重で、魅力的だ。わたしは、その一瞬を待ちこがれてゐる。ああ、待ち遠しい。
冬菜 早見先生、こんなことを申してをりますのは、うは言ぢやございませんかしら?
早見 うは言にしろ、うは言でないにしろ、結果はおなじです。煙先生、ちよつと……。
早見は煙を部屋の一隅に引つ張つて行つて、小声でなにか指図をする。煙、しきりにうなづく。
加来 おい、冬菜はここにゐるかい?
冬菜 はい、をります。なにかご用ですか?
加来 また、バッハのフーゲをかけてみてくれ。
冬菜 ええと……あのレコードはと……。
冬菜、電気蓄音機の前に立つて、レコードをかける。
応接間には、加来の臨終を待つ人々、おほぜい、或は腕組みをし、或は、長椅子に倚りかかり、或は、額をよせてひそひそ話をし、など、緊張と退屈との入り混つた空気が漲つてゐる。
浦 ねえ、大里先生、これやまた、どういふこつてせう。危篤がまる二日続くといふことがあり得るでせうか。
大里 あつても不思議はないさ。まだ続くかも知れない。僕も講義だけは欠かすわけにいかんが、なるだけ最期を見届けたいと思つてね。
浦 それやさうですとも、無二のご親友の間柄で、死目にも会はれんといふのでは、残念ですからな。
大里 君も、さうちよくちよく顔を出すのは、多分落ちついてゐられんからだらうが、引きあげたすぐ後といふやつが、よくあるんでね。
浦 さうですよ、先生……わたくしの母親なんか、これやまあ、ヤマイオモシで、郷里へ急いで飛んで帰りましたんですが、医者はもう危い、時間の問題だと申しますから、三日間、不眠不休でそばについてをりました。すると、どうやら今度は持ち直しさうだ。少くとも、急なことはあるまいといふので、一旦東京へ戻つて来ましたところ、家へ着いたと思ふと、追つかけてもう電報が来てをりました。ハハエイミンスです。
大里 しかたがないといへばしかたがないが、ちよつと思ひきれまいね。
細木 でも、加来先生の場合は、ああはつきり、訣別の挨拶までされたんですから、われわれとしては、ただ、最後までおそばについてゐたといふ、なんていひますか、一種の満足感を得たいためだと思ふんです。僕にしたつて、もう一度先生の前に出て、なにを申しあげる勇気もありませんから……。
大里 それやまあ、儀礼といへば儀礼さ。なんの役にも立ちやしないんだから……。その場にゐ合せて、いつたい、誰のために、何ができるね?
細木 遺族をお慰めするにしたつて、言葉だけですからな。
浦 しかし、やはり、いろいろ、遺族の方のご相談に乗らなけれやならんこともありますし、第一、お葬式の問題が、これや、なかなかたいへんです。
大里 事務的なことだね。うむ、それやまあ、誰かがゐて、万事スムースに運んでいく必要はある。
細木 ほんといふと、それや、今から考へておいていいことですね。
浦 ちとまだ早すぎやしませんか。
大里 考へることなんか、なにもないさ。その場、その場で、処理すればいいんだ。
細木 あ、また、バッハが聞えて来ました。
大里 加来君は、あれでなかなか、ロマンチストだよ。
細木 しかし、先生の、さういふところが、僕は好きだなあ。決して、ただのセンチメンタリズムぢやないと思ひます。
大里 僕は、そのことを批判してるんぢやないよ。人、各〻流儀あり、と思つてるんだ。しかし、ちよつと羨やましい心境ではあるな。
細木 大里先生の流儀とは、たしかに距りがありさうですな。先生が死の直前に求められるものは、なんです?
大里 僕は、これでも、クリスチャンだぜ。
細木 ああ、さうですか。神の赦しですね。そこへ行くと、加来先生は、徹底的な無神論者だからな。
そこへ、冬菜がはいつて来る。一同の視線が集る。
大里 診察はすんだんですか。
冬菜 精神力でもつてゐるつて、早見先生はおつしやるんですけれど……。
大里 精神力か……加来君らしいな。
浦 少しでも長く、その精神力で頑張つていただきたいですな。
冬菜 ええ、それや、あたしだつて、さう思ひます。でも、当人は、早くケリをつけたいらしいんですの。
細木 やつぱり、非常な苦痛に堪えてをられるんぢやないですか? さうは見えないけれど……。
冬菜 ほんとに、そばからは、苦痛らしい様子は見えませんものねえ。なんだか、それほど悪いのかしらと思ふくらゐですわ。でも、お食事は、頼むやうにして、口の中へ押しこんでやらなければ、いただきませんの。あ、細木さん、ちよつとお話があるんですつて……。なにか、言ひ残したことがあるつて申してますわ。おそれ入りますけど、もう一度、よく聴いてやつてくださらない?
細木 僕にですか? そんなに、ものを言はれてもいいのかしら?
細木はさう言ひながら出て行く。
娘のネラ子が、名刺をもつてはいつて来る。
ネラ子 お母さま、今、この方が見えて、お見舞に来ましたつておつしやるんだけれど……。
冬菜 雑誌社の方ね。大里先生、かういふ方は、どうしたらいいんでせう。あたくしが出て、ただお礼を言へばいいかしら?
大里 それでいいでせう。別に記事を取りに来たわけぢやなけれや……。
冬菜とネラ子が出て行く。
浦 どこの雑誌ですか。ああ。さうか。この秋、先生が『民族意識と平和主義』を書かれた縁故があるからですよ。あんなところへはもう決して書かんて、えらく憤慨してをられたのを覚えてます。
大里 あの論文は、しかし、加来君としてはちよと、味噌をつけたね。結局、調べが足りんのだよ。
浦 どちらかつていふと、先生の畑ぢやありませんからな。
大里 学究はやはり学究らしい仕事をせんといかん。加来君は、なまじ、文章を書くのが好きだといふところに、ちよつとした弱点があるんだ。
浦 しかし、それは文章の書けない、或は文章を書くのが億劫な先生方の、一種の偏見ぢやないでせうか。
大里 そんなことはないさ。学者は、文章のための文章なんか、書かん方がいいんだ。
浦 アルバイトの意味があつてもですか?
大里 さういふ穿鑿とは別問題さ。しかし、ともかく、加来君は、まだまだ、いろんな意味で生かしておきたい学者だよ。
浦 それやさうですとも……。先生の真価はこれから発揮されるといふところですからな。
この会話の中途から、冬菜の後について、雑誌記者津丸が、写真師をつれてはいつて来る。
冬菜 大里先生……この方、さきほどの雑誌の方ですけれど、加来のことで先生に是非お話を伺ひたいつておつしやるものですから……。
津丸 大里先生ですか。僕、『思念と行動』のものです。今、伺ふと、加来先生のご容態はもう絶望だといふことですが、お願ひしてあつた原稿もたうとう頂けないことになつて非常に残念です。しかし、この機会にといつてなんですけれど、現代最も活躍された哲学者としての加来先生を記念する意味で、親友であられる大里先生にひとつ、故人の追憶といふ風な形式で、加来先生の業績を二十枚ばかりに纏めて書いていただけないもんでせうか。
大里 僕はその任ぢやない。専門がまつたく違ふんだ。
津丸 しかし……。
大里 しかし、なんですか? 第一、加来君はまだ故人ぢやありませんよ。
津丸 はあ、でも、あとは時間の問題だといふことが……。
大里 それにしてもさ。まだ現に生きてゐるものを、死んだものとして取扱ふことはできませんよ。
津丸 そこはひとつ、年末に年賀状をお書きになるやうなつもりで……。
大里 僕は、はつきり言ふが、年賀状は一月一日の朝、書く。
細木がうなだれてはいつて来る。
大里 まだ大丈夫かね?
細木 どうも変ですよ。ますます頭がはつきりして来るやうです。講義のノートの中の、補足すべきところ、訂正すべき個所を、そらでちやんと指示されるのです。驚きました。
津丸 あ、細木先生……いつかはどうも……。
細木 原稿なら、もう少し待つてください。
津丸 いえ、それが、実は、ただ今大里先生に加来先生の生前の業績について書いていただくやうにお願ひしてみたんですが、どうしてもダメだと云はれるんで、それなら細木先生にと思ひまして……。
細木 先生の業績も業績だけれど、僕が一番敬服してるのは、むしろ、死に直面しての人間加来典重の偉大さです。これは、君、どんなに吹聴しても吹聴しすぎることはないよ。君、あれ聞えない、あの音楽……? 先生のご希望で、レコードをかけてゐるんだ。眼の前に死が迫つてゐる瞬間ですよ。しかし、音楽がすべてを語つてゐるわけぢやない。先生の心境はあの通り澄みきつてゐるといふ証拠の一端にすぎない。最も重要なことは、その心境のなかで、どんなイデエが形づくられてゐるかといふことだ。……あ、忘れてた。大里先生、ちよつと、もう一度顔をみせてほしいつて、先生がおつしやつてます。
大里 わたしに? どれ……。
津丸 非常に面白いお話ですが、そのことをひとつ、二十枚ほどで……。
細木 戯談言つちやいけませんよ。僕なんかに書けるもんか。おそらく、先生の頭の中で、今、虹のやうに湧きあがつてゐる想念を、はつきりつかみ得るひとは、先生自身よりほかにないと思ひますね。
津丸 『死を直視して』といふやうな題で……。
細木 僕は、ただ感動した。自己の生命の終焉を、ああいふ風に、一個の興味ある現象として、静かに、そして、爽やかに観照できるといふことは、なんといふ人格だらう。それはもう、単なる思想でも観念でもない。パーソナリティーそのものだ。
浦 平凡なわれわれでも、いよいよ死ぬといふときは、なかなか善い言葉を吐くさうですが、哲学者ともなれば、なほさらでせうな。
津丸 それですよ。それを一言半句といふやうなものでなく、相当の枚数にして発表したら、これは、ちよつと読みこたへがありますよ。それに、なにしろ、センセィショナルぢやありませんか。
浦 きのふのみんなへのご遺言もなかなかよござんしたね。細木先生。
細木 さうね。今日のは、あんなもんぢやなかつたですよ。
津丸 はあ、もう、それぞれご遺言を……?
細木 われわれ側近のものに、訣別の挨拶をされたんです。日常茶飯的な言葉で……。今日のは、僕一人を相手に、諄々として、学問研究の道を説かれた。大哲の面影がありました。
浦 師弟の関係といふもんは、また別だな。
津丸 お話はまだ自由になされるんですか?
細木 わりによく話されます。心臓がもう極度に弱つてゐる筈なのに、どうしてあんなに呼吸がつづくかと思ふくらゐです。
津丸 意識もむろんまだ明瞭なんですね。
細木 僕に言はせると、明瞭ですね。こんなに明瞭なことは今までにもなかつたと言ひたいくらゐです。
津丸 どうでせう、細木先生……ひとつ、特別なお取計ひで、『思念と行動』のために、お二人の一間一答をやつていただけませんかしら?
細木 僕と先生との? ふむ、思ひつきは思ひつきだが、もう、そんな暇はないだらう。
大里教授が帰つて来る。眼鏡をハンケチで拭きながら、顔を伏せ、窓のそばに近づき、そこからじつと外を見てゐる。
大里 細木君、どうも先生、すこし興奮してるやうだが、なんとかならんかねえ?
細木 へえ、さうでせうか。僕はあべこべに、冷静すぎるやうに思つたんですが……。大里先生に対して、なにか、急に、感情を動かされるやうな理由があつたんぢやないですか?
大里 僕がはいつて行つたら、いきなり、かうして自分の頭を片手で押へて、髪をかきむしるやうな風をしてみせるんだ。
細木 それや、どういふ意味ですか?
大里 知らん。ただ、その後で、僕に謝罪しなけれやならんことがあるといふんだ。僕に対してだよ。いつたいなんだつて訊くと。……まあ、そんなことはここで言はんでもいいが、結局、つまらんことさ。なに、言つてしまつてもかまはんがね、つまり、彼は、自分の仕事、行動を絶えず僕がにらんでゐる。つまり、批判の眼を光らしてゐる。それがつらかつた、といふんだ。そこまではいいんだが、それからが、どうもをかしい。彼の曰くだ、さういふ僕の存在を煙たく思ふあまり、彼の意識のどこかで、絶えず僕の死をねがつてゐた、と、まあ、かういふわけなんだがね。そんなバカなことがあらう筈はないし、僕は断じてそれを信じませんが、さういふ妄想のやうなことを口走るのは、一種の錯乱状態、少くとも、興奮状態ではないかと思ふんだ。
細木 さうですか。さう言はれれば思ひ当るふしもないぢやありません。僕には、しかし、すべてを至極、淡々と、微笑さへふくんで話されたもんですから、異常な告白に類することもありはしましたが、僕は却つてそれを、冷静すぎるといふ風にみたのです。
大里 ははあ、君にも、なにか告白めいたことをしたか?
細木 内容はちよつとお話できませんが、たしかに、告白といつてもいいものです。むろん、それは単なる先生の内心の問題です。
津丸 惜しいよ、それを闇から闇へ葬つてしまふのは……。
大里 あ、さうだ、こんどは、浦君、君の番だよ。早く行つて、また一つ告白を聴いて来たまへ。
途ぎれ途ぎれに、それは言葉のひとつひとつを探すやうでもあり、また、呼吸の切迫を堪へ忍んでゐるやうでもある話し方で、加来典重は、枕もとに坐つてゐる兄の雅重に、言葉をかけてゐる。兄の雅重は、大きく腕組みをし、眼をつぶつたり、急に、カツと見開いたりして、ある感情の激発を強ひて抑へるやうな身構へでそれを聴いてゐる。
加来 しかしね、兄さん、男の虚栄心つていふものはさういふもんでせう。あなたが、日本から冬菜を連れてミュンヘンまで来てくださつた時、僕は、あの停車場のプラット・フォームで、あなたと冬菜との顔をちらとみた瞬間、これはいかんぞ、と思つた。なにかあるな、といふ直感がぴんと来た。しかし、どうです? 僕は、それから三月後に、パリで冬菜をひとりあなたのところへ預けて、ロンドンへ飛びました。冬菜が、もうしばらくパリを離れたくないといふからです。
雅重 うん、うん、もうその話はわかつた。結局、なんでもなかつた、といふわけなんだらう?
加来 二十五年前のことです。なんでもなかつたといふことは、そのために、なにも面倒な結果を起さずにすんだ、といふだけのことです。僕は、嫉妬を愛情の変形だなどと思つてはゐません。それは、疑ひもなく、軽蔑すべき悪徳の一つだと信じてゐます。僕が冬菜を、貞淑な妻だと言つても、それは、僕の善意がさう言はせるのであつて、二十五年以来、現在は別として、可なり久しく、あなたに嫉妬を感じ、その嫉妬と戦ひつづけた事実を、今、あなたの耳に入れておかうと思ふんです。
雅重 たしかに、この耳で聴いた。意外でもあり、尤も至極でもある話だ。なぜなら、おれは君の唯一人の兄であり、弟を裏切るくらゐなら、ピストルを脳天へ撃ち込みかねない男だ。が、一方では、二十五年前の冬菜さんは船の中でも評判になつた代表的日本美人で、おれがもし彼女の亭主だつたら、おちおち昼寝もできないくらゐやきもきさせられたらう。
加来 お互の年になつてかういふ話もどうかと思ひますが、まあ誤解しないで聴いてください。僕は、いつも言ふ通り、わりに兄さんを尊敬してゐる。軍人のなかでも、兄さんは例外の一人だとさへ思つてゐるくらゐだ。さういふ兄貴の前で、自分の恥さらしみたいなことを喋る気になつた、その動機を正確に判断してもらへればいいんだ。ただ、軽くなりたいんです、軽く……。
雅重 わかつた、わかつた。重荷は、なんでもおろしていけ。
加来 ああ、さつぱりした。このさつぱりしたところで、すうつとこのまま眼をつぶつてしまひたいな。頭の上の障子がまぶしい。キレでもなんでも掛けるやうに言つてください。
雅重は起ちあがつて、奥へ声をかける。
看護婦が慌ててはいつて来る。冬菜もそれにつづく。
冬菜 なんですの、お兄さま……?
雅重 まぶしいさうだ、その障子が……。
看護婦 はい、ただいま……いいやうにいたします。
冬菜 お兄さまも、お疲れになりましたでせう? すこし、おやすみになりません? 離れにお床が用意してありますわ。
雅重 いや、わたしはなんでもない。それより、あんた、ゆうべずつと起きてたんだらう?
冬菜 横になつても眠られませんもの。
雅重 子供たちは?
冬菜 奥にをりますわ。伯父さまと将棋でもしようかつて、四紋が申してをりますわ。
雅重 このままずつとよくなつてくれると申分ないんだが……。
雅重はさう呟きながら、奥へ去る。看護婦が障子の一部へ黒い幕を張つたので、病人の枕もとが暗くなる。
冬菜 湯タンポ、もう冷めてやしませんかしら?
加来 ねえ、冬菜……。ひとりつきりかい、君……。
冬菜 ええ。
加来 どうしたんだらうね、いよいよつていふ瞬間がなかなかやつて来ないよ。
冬菜 そんなもの、来なくつたつていいわ。あたしだけが、ずつとおそばについててはいけないかしら?
加来 誰もいけないなんて言はないよ。君が、なんかかんか用事ができて、行つてしまふんぢやないか。わたしは、君だけに死に水をとつてもらへばいい。子供たちは、その時は、ここにゐない方がいい。不必要なショックだ。
冬菜 あなたはもう、そのことだけしかお考へになれないの?
加来 だからさ、いつといふ時刻がはつきりわかれば、その時刻が来るまでは、別のことが考へられやしないかと思ふんだ。しかし、『その時』が、今、一番、問題なんだ。頭が、『その時』から離れようとしないんだ。
冬菜 なんにもならないことをしてしまつたわ。もう一度、せめて、疑ひをもつていただけないかしら? 希望なら、なほいいわ。あたしにもし、あなたをそこまで引張つて行く力がありさへしたら……。
加来 もう遅いよ、冬菜……。もう遅い。今かりに早見君が、どんなに前言をひるがへしたつて、僕はもう信用しないよ。
冬菜 それはをかしいわ。早見先生は、なにも、断言なさりはしないわ。
加来 君はさうとつたの? それこそをかしいぢやないか。苟くも天下の早見博士が、軽々しく『危篤』なんていふ言葉を使ふと思ふのかい?
冬菜 あなたこそ、『危篤』といふ言葉を、その言葉どほりに解釈していらつしやらないんぢやない?
加来 どうして? 危篤は危篤ぢやないか? 決定的な死の前ぶれぢやないか。すべてが死のために準備され、ただ死を待つだけの運命的な状態を指すんぢやないか?
冬菜 あたしはさうは思ひません。ただ、生命の危険信号だと思ひます。危険には予め避け得られるものと、どうしても避け得られないものがあります。ですけれど、その何れとも判定しかねる危険の種類もあるわけですね。
加来 わかりきつたことだ。しかし、病人に危険だと知らせたつて、それや、なんにもなりやしない。黙つて手当さへすればいいんだ。むしろ、必要なことは、少くともわたしの場合には、もう危険信号が間に合はず、文字どほり、これでおしまひだといふことを、その一歩手前で、ともかく、自覚させられることなんだ。わたしは、そのつもりでゐたんだ。君も、そのつもりでゐたに違ひない。わたしは、今もそのつもりでゐる。君は、それがいかんといふ。なにがなんだか、さつぱりわからんぢやないか。
冬菜 いいえ、いいえ、そんな議論をするつもりぢやなかつたの。あたしの勘で、その危険がもうとつくに去つたつていふ気がするだけなの。あなたは、きつと、おなほりになるわ。ええ、さうですとも……そんなに、もう、お元気ぢやないの……お顔のつやだつて出て来ましたし……おつむは、そんなにはつきりしてらつしやるし……いくらでもお話はなされるし……。ねえ、お願ひですから、もつと、どしどし、召しあがりものを召しあがつてちやうだい……。お好きなもの、いくらでも作りますから……。ね、あなた……。
加来 いけない。それぢやまた、君は、覚悟のし直しをしなけれやならんよ。もういい、そんな気安めは言はなくつても、わたしは、この通り、平静なんだ。すこし喋りすぎるかもしれないけれど、これは、わたしの生命への唯一の執着だ。そして、自分がまだ生きてゐるといふ、自分に対する保証にすぎないんだ。膝が冷たい。
冬菜 ええ、今、湯タンポを取りかへます。もう一つおいれしますわ。
加来 ちよつと、手をかしてごらん。
冬菜 あらツ!
加来 冷たいつていふんだらう。それみろ、だんだん、先が見えて来た。
冬菜 あんまりお手をお出しになつてるからよ。
加来 こつちの手もこの通りだ。
冬菜 まあ……氷みたい……。
加来 もう臂のところまで、しびれて来た。
冬菜 脈はこんなにたしかですわ……お苦しい?
加来 苦しくはない。だるい。
冬菜 早見先生に来ていただきませうか?
加来 もうそれには及ばないよ。今夜、十二時までどうかといふところだな。
冬菜 いや、いや、そんなことおつしやつちや……。ともかく、もういつぺん注射をしていただきませうね。
冬菜が奥に向つて、「ちよつと、軽さん」と呼ぶ。看護婦がはいつて来る。二人が眼くばせをする。
冬菜、部屋を出て行く。看護婦、注射の支度をする。
真夜中である。電燈の直射を布で遮つた薄暗い病室には、今、加来博士の臨終を見守る数人の親しい顔が集つてゐる。
早見博士と煙医師が、交〻、患者の脈をとる。
加来 亀の子みたいな医者になにがわかる。これみろ、ちつとも死なないぢやないか。
一同、顔を見合はして、もぢもぢする。
加来 だいたい、哲学なんてものが、お前たちにわかると思ふのか? え? おれにもわからんものが、どうして、お前たちにわかる?
一同、もはや、顔をあげてゐられない。
加来 人間つていふもんは、いつたい、なんだ? つまり、解らうとする動物にすぎんのだ。解つたやうな顔をするな。
冬菜が遂にゐたたまれず、席を外す。
加来 細木なんていふヒヨウロク玉が、おれの娘をくれとぬかすから、あきれたもんだ。
細木、ハツとして、これも、座を起つて、そつと姿を消す。
加来 なにもかも虚偽だ。愛情も虚偽、政治も虚偽、学校も教師も学生も、みんな虚偽……いや、地球なるものさ、虚偽の塊りは……。ああ、不潔にして真実なる虚偽……。幸なるかな……。
大里教授の面上には、微かな苦笑がうかぶ。そして、その視線が早見博士とぶつかつた時、大里は、そつと早見の耳に口をよせる。
大里 なんですか、これは? 多少、ここへ来てるんですか。
早見 多少ね。多よりもむしろ少でせう。
大里 言葉はたしかに、意識的に撰ばれてゐる。しかし、観念としては支離滅裂だ。
早見 ある習癖の現はれです。半生、文章に凝るといつたやうな……。
大里 なるほど……。
加来 ははあ、そこに大里君も来てるな。
大里 おツ。
加来 なにしに来たんだ? 死亡通知が行つてからで遅くないよ、陰険なモラリスト。
大里は、あたりを見廻しながら、にやりとする。
加来 ちよつと早見君……いいことを考へつきました。これはまさしくホルモンの変調……。わかりますか、ホルモンの変調……。兄貴にさう言つてくれたまへ。
早見は、しかたがなしに、なんべんもうなづく。そして、看護婦と顔を見合せて、ニタリとする。兄の雅重は、苦りきつて、腰を左右に動かす。
加来 カントにおくれをばとら……じと……か。もう、いかん、いよいよいかん……。心臓がしびれて来た。
煙医師は、慌てて、脈をとる。早見に眼くばせをする。早見が代る。
加来 おや、なんにも見えんぞ……。冬菜……冬菜……君は必要な時にゐたためしがない。みろ、弾痕無数……伸縮自在の虫状突起……ふざけるな……。
浦が奥へ急いではいる。冬菜が現はれる。彼女は、夫のそばへ走り寄る。
冬菜 あなた……あたくしですよ……おわかりになる?
返事がない。早見博士は、時計をみつめながら、ちよつと考へて、いとも厳かに、
早見 ご臨終です……みなさん……。
一同、居ずまひを直し、頭をさげる。
突然、地の床から湧くやうな声がする。
加来 だ、だ、だ、だ、だ、だまつて……。軟骨の化けもの、くたばれ!
早見博士は、愕然として、一歩後にさがる。
加来典重は、しづかに、そのまま、無感覚の世界にはいる。
一座の人々は、冬菜のすすり泣きにつれて、いよいよ深く頭を垂れ、世の常の悲しみの色が部屋全体を包む。
底本:「岸田國士全集7」岩波書店
1992(平成3)年2月7日発行
底本の親本:「現代戯曲選集第四巻」河出書房
1951(昭和26)年8月30日発行
初出:「世界 第六十一号」
1951(昭和26)年1月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2011年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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