キリスト者の告白
北條民雄
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何とて我は胎より死にて出でざりしや、
何とて胎より出でし時に気息たえざりしや、
如何なれば膝ありてわれをうけしや、
如何なれば乳房ありてわれを養ひしや、
詩話会は夜の六時から始まることになつてゐた。それはこの病院の患者達によつて組織されてゐる一団で、毎月一回か二回くらゐ各自の詩作品を持ちよつて合評し合つたり、詩壇の動向に就いて論じ合つたりするものだつた。わたしはその会に這入つてゐる訳ではなかつたが、詩や小説を読むのが好きだつたので、見物がてらにでも出て見ないかと誘はれると、ふと行つて見たくなつたのである。
わたしが行つた時にはもう会は始まつてゐて、ものすごいばかりに顔のふくれた男がかなり感傷的な調子で小曲を朗読してゐるところだつた。部屋の中央に大きな、平べたいやうな感じのする机が置かれてあつて、みんなはそれを取り巻いて腕を組んだり、肘で顎を支へたりして熱心に聴き耽つてゐた。ひどく病勢の進んだ人もゐたし、またどこにも病人らしい所の見えない軽症者もゐた。人数は全体で十五人くらゐなものだらうと、わたしは部屋へ足を入れながら思つた。
「ああ、御苦労さん。」
部屋の一番奥まつたあたりにゐる年長者らしい男が、いち早くわたしにさう低い声で言つた。
「いや、おそくなつてすみません。」
と答へながら、その時急に揃つてわたしの方に集まつた視線にちよつと頭を下げて眼を伏せた。顔のふくらんだ男は不意の闖入者にちよつと腹立たしげな眼つきをしたが、朗読してゐた詩稿を机の上に置いて、
「やあ。」
と言つて微笑した。もつとも、この獅子癩では、微笑してゐるのか、怒つてゐるのか、ちよつと判断もつかないくらゐだが、わたしはすぐ微笑だと悟ることが出来た。
朗読は再び続けられた。四行四聯から成るもので、彼はそれを二度くり返すと、原稿を置いてみんなの顔を見廻した。
「叩いてくれよ。」
と彼は言つた。
「叩くぞ、いいか。」
と一人が言つてみんなを眺めた。人々はどんな批評が出るだらうと期待する風にその男に視線を集中した。彼は深く考へ、頭の中で言葉を整理してゐるやうに見受けられたが、急に笑ひ出しながら、
「ちよいと叩くと毀れてしまひさうなのでねえ。」
と言つた。みんなは気を抜かれたやうに笑ひ出した。
「賞めてるんだかくさしてるんだか、どつちだ。」
と、顔に絆創膏を幾つも貼りつけたのが大声で言つた。
「毀れてしまひさうなほどに繊細で美しいつてのだらう。」
と坊主頭が嗄れた声を出した。
「それとも批評に堪へない駄作つてのか。」
ともう一人が叫ぶやうに言つた。問題の提出者はにやにや笑ひながら──彼は非常に病気の軽い男だつた──作者を眺めて、
「リリックといふものとセンチメントといふものを君はごつちやに考へてるんぢやないか。僕は小曲といへどもセンチメントは絶対に排すべきだと思ふね。詩が唄はれるのはセンチメントぢやなくてリリックでなくちやあならない。ところが君の傑作はどうも感傷に濡れ過ぎてゐると思ふ。」
「うむ、たしかに感傷的だ。あんまりお前さんは泣き過ぎるんだよ。そりや故里も恋しいだらうし、おまけに十八のお嫁さんと別れたつて唄なんだから同情はするがね。」
と坊主頭は、すつかりしよげ込んだ作者を覗き込んだ。すると奥まつた場所にひかへてゐる年長者が、
「あんまり苛めるなよ。」
わたしは自然と吹き出しながら一座を眺めてゐたが、急にあらためて作者の顔を眺めてみた。頬にも顎にも鼻の頭にも結節が脹れ上つて、それが大きな塊になつてゐる彼の顔は、かなり慣れてゐるわたしでも怪異な感じがして、年なども四十くらゐに見えた。しかしまだ彼は二十五になつたばかりだつた。彼は十八の年に十八の妻君を貰つたが、たつた一年ほど一緒にゐたきりだつた。わたしはなんとなく憂鬱になつて来た。彼の怪しげな顔の背後に、その十八の花嫁を想像すると、わたしは急に自分の世界が深い淵に沈んで行くのを感じた。わたしは集まつてゐる連中をひとりびとり眺め廻して、どれもこれもが一人残らず癩患者であるのに、今更吃驚するのだつた。作は批評通りに感傷的で、未熟なものだとわたしも思つたが、わたしはそんなことを考へてゐるうちに、かへつてその感傷が好ましくなつて来て、こんな世界にまだこんな未熟な感傷があるのはめでたいではないか、といふやうな気がした。そして考へて見ると、この病院にゐる千あまりの病人が、どうにか自殺もせず、働いたり笑つたりして暮して行かれるのは、実は感傷といふ人間独得の苦痛に対する武器を持つてゐるためだと思はれた。無論これは病院だけのことではなく、歴史を通じて、いや人類史始まつて以来、人間をここまで支へて来たものの一つはこの感傷で、理性などといふものは結局人間にいらざる苦悩を与へることのみに役立つてゐるのかも知れない。その証拠に、ここにゐて苦しんだりもがいたりする人間は定つて理性的で、理性にしか頼れないのみか、もう感傷を失くしてしまつた者ばかりである。わたしの如きも色々と自分の前途や、人生や、世界といふものを考へて、結局解決が得られず、おしまひになつて頭がガンガン鳴り出したりすると、もういつそ感傷的になつて見たいと思つて、わざわざ悲しいやうな気持になつたり、或は小鳥にも木の葉にも美しい生命の流れを見るといふやうな詩まで書いて見たりするのだが、しまひには自分に向つてからからと笑ひ出すばかりである。いふまでもなく、わざわざ悲しい気持になつて見るなぞといふ気持は、ひどくお芝居じみたものだが、しかし本当に理性といふものがせつぱつまつて見るがいい、芝居をうたざるを得なくなるのだ。わたしはかういふ、芝居をうたざるを得ない気持、といふものを相当信用してゐる。芝居といふ言葉がいけなければ身振りと言つてもいい。
こんなことを次から次へと考へてゐるうちに、また新しい朗み手が詩稿を拡げた。わたしは自分に対しても、またこの会全体に対しても、ひどくうとましい気持になつて来た。わたしはみんなと一緒にゐるが、わたしは孤独になつて来た。
今度のは自由詩で、燃ゆる生命、といふ題のつけられたものであつた。腐り行く肉体の中にたゆたふ生命の一條の火を見る、といふ風なテエマのもので、わたしはなんだかひどく大袈裟な表現が気になつてならなかつた。…………
底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社
1980(昭和55)年10月20日初版
入力:Nana ohbe
校正:富田晶子
2017年1月12日作成
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