無題
北條民雄



 太陽はもう山の向うに落ちてしまつたが、まだあたりは明るかつた。

 さつきから余念もなくざぶざぶと除草器を押してゐた仁作は、東手の畦につくと、ほつと一息ついて立停つた。さすがに、体はもうぐつたりと疲れ切つてゐた。彼は水田の中に立つたまま、腰から煙管を取り出して一服つけながら、ずつと遠くまで続いた青田を見渡してみた。どの田圃にもまだ女や男が除草器を押しながら行つたり来たりしてゐる。しかしもうみな疲れが出てゐると見えて、働き振りがのろくさくなつてゐるのが遠くからでも判つた。田面には撫でるやうな微風が吹き出して、汗ばんだ仁作の胸の中に流れ込んで来た。その胸に思ひ切り煙を吸ひ込むと、ふとまた例の疑問が頭に湧いて来た。

 なんだつて日が暮れてまで働かにやならんのだらう。なんぼ一生懸命に仕事したところで、半分は地主のところへ持つて行かなけりやならない。税金だつて満足に払へやしない。税金なんかまだいいとしても、もう間もなく夏の終りが来ると、一番早稲の「小桜」が熟れるまで食ふ米がなくなり、土方か何かで働いて買はねばならない。

 かういふ考へは、懸命に働いてゐる時には勿論忘れてゐた。しかし夕方になつて、体がぐつたりと綿のやうになり出すと、心の底から汚点しみのやうに浮き出して来る。するとまだ二十二の仁作は、なんとなく苛々して来て、何者にとも見当のつかない憤怒を覚えた。

 草除りは盆までに五回、この地方ではやることになつてゐた。今は三回目だから、三番草である。しかし彼は何時でも四回までしかやらなかつた。あとの一回は妹のかねや母に任せて、川口の製材所に川岸人足に出かけるのだ。

 考へたつて何にもなりやせん。仁作は本能的にさう思ふと、くるりと向き直つてまた除草器を押し始めた。二年前にブラジルへ移つて行つた友達の顔が浮んで来たが、彼は無理にそれを払ひ落して、やけに除草器を進めた。ブラジルなんかへ行つたところで、どうせろくなことないに定つとる、──彼は、いつそあの時その友達と一緒に行けばよかつたと、今ではひどく羨ましかつたが、羨ましいと思ふのが癪だつたので強くさう頭の中で断定した。がばがばの除草器は泥水の底を潜つて音を立てた。青々としなやかな稲の葉が、仁作の股や、ふくらはぎをさした。彼は時々立停つて、倒れかかつたのがあると、それを真直ぐに立ててやつたり、発育の悪いのは抜き取つて、ところどころに「間植」してあるのと取り換へてやつたりした。

あんさん、もう仕舞はんでな。」

 その時、森の向うで働いてゐた妹がやつて来て声をかけた。彼女は除草器をかついで、畦に立つて兄を見てゐた。

「おお。」と仁作は不機嫌さうに返事して振り返つた。「向うはもう除つてしまうたんか?」

「うん。ここ、手伝うて行かうか?」

「ええわい。俺もなう。」

 仁作は畦につくと、まだ泥水の滴り落ちる除草器を肩にかついで、跣のまま歩き出した。かねは被つてゐた手拭をとると、

「ほら。」と兄にさし出しながら「んさんは汗かきな。」

 と言つた。仁作はその手拭で胸のあたりまでこすると、

かかさんは?」

 と妹に訊いた。

「さきにんだわ。」

 小川のほとりへ来ると、二人は揃つてじやぶじやぶと除草器を洗ひ、それから足を洗つた。今まで焼けるやうに温まつた水田の中にゐた足には、小川の水の冷たさはしみるやうに快かつた。

「ああつめた。顔洗ふわ、うち。」

 とかねは言つて、土のくつついた顔を洗ひ出した。清らかな水は、底に小石や、小さなしじみ貝を沈めて流れてゐる。仁作も顔を洗ひ、肌脱ぎになつて、濡れた手拭で体中を拭いた。乳の下と背中とに紅斑が浮き上つてゐるのをかねが見つけた。

「これなんやな。兄さん毒虫に螫されたんね。痒ゆうないん?」

「痒ゆうないがな。なんぞあるか。」

「なんぞつて。赤うなつとん。」

 仁作もふと気になつて首を伸して自分の胸を眺めてみた。

「なんぞ虫でも食うたんだろ、痛うも痒うもあれへん。」

 さう言つて彼はそこを指で押してみた。

 さつぱりした気持になつて小川から上ると、もうそろそろ薄暗くなり出した田圃を見渡しながら、

「繁さん、明日あしたの晩、大阪に行くんな?」

 と彼女が言つた。そしてちよつと顔を赧らめると俯向いて「うちも何処ぞへ行かうかしらん。」と独言のやうに呟いた。

 大阪へ出て行く繁吉を考へると、仁作はなんとなく腹立たしい気持になつて来た。妹のかねがひそかに繁吉を想つてゐるのを考へると、よけい不満な気持が湧いたが、それよりも彼は、友人たちがみなどこかへ行つてしまふのに、やはり後に残つてゐなければならない自分にむかむかした。

 今時どこへ行つたつて、ろくなことあるもんか、と彼も考へてはゐるが、しかし村に落着いてゐるのが嫌な気持とはまた別であつた。

「行きたいものは行かしとけ。」

 と仁作は不機嫌に声をとがらせて、歩き出した。…………

底本:「定本 北條民雄全集 上巻」東京創元社

   1980(昭和55)年1020日初版

入力:Nana ohbe

校正:フクポー

2018年527日作成

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