万葉びとの生活
折口信夫
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一
飛鳥の都以後奈良朝以前の、感情生活の記録が、万葉集である。万葉びとと呼ぶのは、此間に、此国土の上に現れて、様々な生活を遂げた人の総べてを斥す。啻に万葉集の作者として、名を廿巻のどこかに止めて居る人に限るのではない。又記・紀か、類聚歌林か、或は其外の文献にでも、律語の端を遺したらう、と思はれる人だけをこめて言ふのでもない。此時代は実は、我々の国の内外の生活が、粗野から優雅に踏み込みかけ、さうして略、其輪廓だけは完成した時代であつた。此間に生きて、我々の文化生活の第一歩を闢いてくれた祖先の全体、其を主に、感情の側から視ようとするのである。だから、其方の記録即、万葉集の名を被せた次第である。
政治史より民族史、思想史よりは生活史を重く見る私共には、民間の生活が、政権の移動と足並みを揃へるものとする考へは、極めて無意味に見える。此方面からも、万葉人を一纏めにして考へねばならなかつたのである。
其理想の生活
彼らにとつては、殆ど偶像であつた一つの生活様式がある。彼らの美しい、醜い様々の生活が、此境涯に入ると、醇化せられた姿となつて表れて居る。
其は、出雲びとおほくにぬしの生活である。出雲風土記には、やまと成す大神と言ふ讃め名で書かれて居る。出雲人の倭成す神は、大和びとの語では、はつくにしらす・すめらみことと言うて居る。神武天皇・崇神天皇は、此称呼を負うて居られる。倭成す境涯に入れば、一挙手も、一投足も、神の意志に動くもの、と見られて居た。愛も欲も、猾智も残虐も、其後に働く大きな力の儘即「かむながら……」と言ふ一語に籠つて了ふのであつた。倭成す人の行ひは、美醜善悪をのり越えて、優れたまことゝして、万葉人の心に印象せられた。おほくにぬし以来の数多の倭成した人々は、彼らには既に、偶像としてのみ、其心に強く働きかけた。
我々の最初の母いざなみの行つたよみの国は、死者の為の唯一つの来世であつた。而も其いざなみすら、いつか、大空のひのわかみこに遷されて居る。此は、万葉人の生活が始まる頃には、もう兆して居た考へである。人麻呂は、倭成す人の死後に、高天ノ原の生活の続く事を考へて居る。而も其子孫に言ひ及して居ない処から見れば、一般の万葉人の為には、やはり常闇の「妣の国」が、横たはつて居るばかりだつたものであらう。理想の境涯、偶像となつた生活は、人よりも神に、神に近い「顕つ神」と言ふ譬喩表現が、次第に、事実其ものとして感ぜられて来る。唯万葉人の世の末迄、あきつみかみを言ふ時に、古格としては、とのてにをはを落さなかつたのは、意義の末、分化しきらなかつた事を示して居るのである。
二
倭成す神は、はつ国治る人である。はつくにしろす・すめらみことの用語例に入る人が、ひと方に限らなかつたわけには、実はまだ此迄、明快な説明を聴かしてくれた人がない。舌が思ふまゝに働く時を、待つ間だけの宿題である。
其と一つで、おほくにぬしだけが、倭成す神でなくて、神々があつたのである。神々の中、日の神を祀る神がはつ国しつた時に、母なる日之妻と、教権・政権を兼ね持つ日のみ子の信仰は生れた。日のみ子は常に、新しく一人づゝ生れ来るものとせられてゐた。日のみ子が、血筋の感情をもつて、系統立てられると、日つぎのみ子と云ふ言葉が出来る。つぎは、後置修飾格で、つぎ=日のみ子といふことにも解釈出来る。
かうして、神々の宗教の神学体系が立てられた。併し、江戸の古代研究者は、此変形には、目をつけずに過ぎた。此がほゞ、藤原の都頃のことゝ思はれる。神学以前に長い神々の物語の時代が、なければならぬ筈である。飛鳥以前に統一なき神々の行状を、口から口へ持ち伝へた、長い時間があつたに違ひない。
古事記・日本紀は、新しい神学の基礎に立つて、さうした断篇を組織したまでの物である。三つの古風土記(九州の、二つには、私は著しい近世的の臭ひを、感ぜないではゐられぬから、省いた)の中、記・紀と、一番足並みを揃へてゐるのは、出雲風土記である。常陸のになると、此体系を度外視する、理智の眼が光つてゐる。其で、此書の裏に、一貫した神学があらうとは見えぬ程、恐しく断篇化した記述法を取つてゐるにも拘はらず、神を失はうとしてゐる者の偶像破壊に過ぎないといふ事は見えてゐる。時代は其と、いくらも古くはあるまいに、播磨風土記に現れた断篇風な記述は、確かに神学以前の不統一な面影を残してゐる。ほんとうに、無知な群集の感情其まゝである。
出雲には、おほくにぬし以上の人格を考へる事が出来なかつたから、其風土記にも知られ過ぎた神としての彼の生活は、其輪廓さへも書く必要がなかつたのである。処が播磨風土記に現れたおほくにぬしは、まだ神学の玉の緒に貫かれない玉の様に、断篇風に散らばつてゐる。あまりに、記・紀を通して見たおほくにぬしと距離があり過ぎる。尤、主人公として現れたおほくにぬしの名を、他の誰の名と取り換へても、さし支へはないわけである。だがさうすれば、神話・民譚の上の或性格に属する話を、取捨する標準は、神話・民譚以後の神学を以てする事となる。どんな話でも、物語時代のおほくにぬしの性格を組み立てゝ来た一要素なることは、事実である。或逸話は、おほくにぬしの性格として持つに適当な、経歴の一つと考へられて来たのである。
すくなひこなとの競走に、糞ではかまを汚した童話風な話があり、あめのひほことの国争ひに、蛮人でもし相な、足縄投げの物語りを残してゐる。醜悪であり幼稚であることが、此神の性格に破綻を起さないのである。普通人其儘の生活を持つことが理想に牾るものではない。
嫉みを受ける人として
多くの女の愛情を、身一つに納める一面には、必、後妻嫉みが伴うてゐる。万葉人の理想の生活には、此意味から、女の嫉妬をうける事を条件とした様に見える。
おほくにぬしの、よみから伴れ戻つた嫡妻すせりひめは、へらの様に嫉み心が強かつた。八十神と競争して取り得たやかみひめも、彼女の妬心を恐れて、生みの子をば、木の股に挟んで逃げた。倭への旅に上る時、嫉妬の昂奮を鎮める為「ぬばたまの黒きみけし……」の歌を作つてゐる。が其時に、嫉み妻に持つた愛は、ぬなかはひめの門に立つて唱和した歌に見えたものと、変らぬ美しい愛であつた。
男には諸向き心を、女には後妻嫉みを認めてゐたのが、この頃の夫婦関係であつた。「女大学」の出来る様に導いた世間は、其以前にかうした愛の葛藤の道徳を認めてゐた社会を無視してゐたのである。
教養あるものは、笑うてゐたが、妻敵うちは近世まで、武士の間に行はれてゐた。此を笑ふ武士と、これを面晴れと考へる武士とが、尠くとも、二三百年は対立して来た。
江戸より前の武家の家庭では、後妻うちが頻々と行はれた。誠に今も残つてゐる絵が示す様な、百鬼夜行を見る程な荒い復讎手段であつた。相手の家の雑作調度を、大ぜいで攻めかけて壊して来る。其が悪事とは、考へられてゐなかつたのである。我々の国の乏しい文献は、家庭生活に対して頗冷淡であつた。戦国以前に、どうした嫉妬の表示法を主婦たちが持つてゐたかを伝へてはゐぬ。併し、夫の殺伐な気風にかぶれて、戦国の妻が考へ出した方法とばかりは受け取れない。
もし本朝妬婦伝を撰るなら、人の世に入つてからも、列伝に這入る者は、だん〳〵ある。仁徳のいはのひめ・允恭のなかちひめ、ずつと下つて、村上の安子の如き方々は、其尤なるものであらう。
とりわけ、いはのひめは嫉妬の為に、恋しい夫の家をすら、捨てた。嫉む時、足もあがゝに、悶えたとある。きびのくろひめ・やたのわきいらつめに心を傾けた仁徳天皇は、いはのひめに同棲を慂めるのに、夫としての善良さを、尽く現された。凡ての点に於て、人の世に生れて出たおほくにぬしとも言へる程の似よりを、此天皇はおほくにぬしに持つて居られる。其は殆ど双方の伝記で解釈のつかぬ処は、今一方の事蹟で註釈が出来る位である。今其一つを言はう。おほくにぬしの上に、明らかに見えない事で、仁徳には著しく現れてゐる事がある。
倭成す神の残虐
めとりのおほきみは、帝を袖にした。はやふさわけに近づいた。二人を倉梯山に追ひ詰めて殺したのは、理想化せられた尭舜としては、いき方を異にしてゐると言はねばならぬ。
おほくにぬしが、白兎を劬つた様に、此帝にも、民の竈の「仁徳」がある。此帝の事蹟では、儒者の理想に合する部分だけが、強調して現されてゐる。
やまとたけるは、無邪気な残虐性から、兄おほうすを挫き殺した。併し雄略天皇程、此方面を素朴に現されたのは尠い。此等の方々の血のうちに、時々眼をあくすさのをが、さうさせるのである。
すさのをの善悪に固定せぬ面影は、最よく雄略天皇に出て居る。彼の行為は、今日から見れば、善でも悪でもない。強ひて言はうなら否、万葉びとの倫理観からは、当然、倭なす神なるが故に、といふ条件の下に凡てが善事と解せられて居たのである。
仁徳の御名はおほさゞき、雄略はおほはつせわかたけるのすめらみことと謚せられてゐる。其二つを合せた様に見えるをはつせわかさゞきのすめらみことなる武烈天皇が、わが国のねろとも言ふべき伝記を、書紀に残されたのも、単純な偶然として片づけられぬ気がする。先の二帝の性格に絡んだ万葉人の考へを手繰り寄せる、ほのかながら力ある、一つの手がゝりではあるまいか。
三
此話を進めてゐて始中終、気にかゝつてゐる事がある。私の話振りが、或は読者をしておほくにぬしの実在を信じさせる方へ〳〵と導いてゐはすまいか、といふ事である。昔の出雲人が、大勢で考へ出して、だん〳〵人間性を塗り立てゝ来た対象に就て云うて来たのである。おほくにぬしの肉体は、或は一度も此世に形を現さなかつたかも知れぬ。併し、拒む事の出来ないのは、世々の出雲人が伝承し、醞醸して来た、其優れたたましひである。神代の巻に現れるどの神々よりも、人間らしさに於ては、其色合ひが濃く著しい此神に、ほのかながらも変つた見方のあつた事を伝へてゐる。地物の創造性として、天地造らしゝ神と讃へられた事は、風土記と万葉とを綜合すれば知れる。其さへ亦、神性・人間性の重ね写真を経た事は疑はれぬ。わが造化三神が、古代人の頭に響いた程の力は、おほくにぬしも持つて居たのである。どの神にも地物を創造する事の出来た時代である。我々は拘泥した物言ひを避けねばならぬ。
神々のよみがへり
恋を得たおほくにぬしは即、兄たちの嫉みの為に、あまた度の死を経ねばならなかつた。母は憂へてすさのをの国に送つた。併しそこでも、くさ〴〵の試みの後に野に焼き込められねばならなかつた。愚かなること猫の子の如く、性懲りもなく死の罠に落ちこんだ。けれども其都度、復活の力を新にして兄たちの驚きの前に立ち現れた。蛇・蜂・蜈蚣のむろは、労働求婚の俤も伝へて居るが、尚死地より蘇生させる智慧の力を意味してゐる。
下つ界に来てからは、死を自在に扱ふ彼であつた。智慧と幸運とは其死によつて得た力に光りを添へる事になつて来る。焼津野の談は、やまとたけるの上にも、復活の信仰の寓つて居ることを見せる。実際此辺りまでは神か人かの弁ちさへつかない。万葉人も世が進むにつれて、復活よりも不死、死を経ての力よりも死なぬ命を欲する様になつた。択ばれた人ばかりでなく、凡俗も機会次第に永久の齢を享ける事が出来るもの、と思ひもし、望みもした。此はおほくにぬしの生活を、人々の上に持ち来たさうとする考へが、外来思想によつて大いに育てられたものと見てよからう。
併し初めには不死の自信がなかつた為に、生に執著もし、復活をも信じたのである。岩野泡鳴氏が、生の愛執を、やまとたけるに見出したまでは、此方面の考へは闇であつた。命をかたに妻子を育んだ戦国の家つ子の道徳が、万葉びとの時代からあつたもの、と信じたがる人々によつて信じられて来た。
花の如きおふぃりやの代りに、万葉人たちは、水に流れつゝ謡うたおほやまもりを持つてゐた。町人・絵師すら命の相場を「一分五厘」と叫ぶ様になつたのは、近世道徳の固定の初めの事であつた。我々の国の昔には、すぐれた人々が、死を厭ふをたけびを挙げて死んで行つた。
かういふ世であつたればこそ、おほくにぬしは死なゝかつたのである。其復活は信仰の俤を十分に伝へたと同時に、又切なる欲求を示したものでなければならぬ。
此点だけは、当時の人に或は単なる理想として、持たれて居つたに過ぎないかも知れぬ。が、近世に到るまでよみがへる人の噂を、屡伝へる処から見れば、必しもやまとなす神でなくては達せられぬ境涯とも考へきらなかつたであらう。
智慧の美徳
純良なおほくにぬしは、欺かれつゝ次第に智慧の光りを現して来た。此智慧こそは、やまとなす神の唯一のやたがらすであつた。愚かなる道徳家が、賢い不徳者にうち負けて、市が栄えた譚は、東西に通じて古い諷諭・教訓の型であつた。ほをり・神武・やまとたける・泊瀬天皇など皆、此美徳を持つて成功した。道徳一方から見るのでなければ、智慧と悪徳とは決して、隣りどうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎氏も触れた事がある。
四
人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想ひ到るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬしを仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。
昔程、村と言ふ考へが明らかである。立ち入つて見ると、個人の生活は、其中に消えこんで了ふ。
すべての生活を規定するとゞのつまりが、村であるとすれば、村々の間に、相容れぬ形の道の現れて来るのも、極自然な筋道である。手濡らさずに、よその村の頭をうち負した智力のぬしが、至上の善行者と考へられるのも、尤である。其が凡庸な個人の上に翻された民譚・童話にすら、後世式な非難の添はないのも、かうした出発点があるからである。智慧あつて思慮の足らなかつたいなばの白兎の話なども、私に、単純な論理に遊ぶ癖があつたら、兎はおほくにぬし、鰐どもは兄八十神を表したものと言ふ事も出来さうである。
さうした立ち場から、部分の類似をつきつめて行けば行く程、事実から遠のく。唯、円満に発達しきらぬ智慧の失策を見せたものとだけは、見ることが出来る。さうして此話が、おほくにぬしの智慧の発達に、ある暗示を持つてゐるものと見てもよさゝうである。
仁の意味
白兎の話が示した人道風な愛は、残虐であり、猾智である所の倭なす神には、不似合ひの様に見える。併し、外に対しての鋭い智者は、同時に、内に向けての仁人であつたはずである。尠くも、さうあるのを望んだ事は、ほんとうであるはずだ。残虐な楽しみを喜ぶ事を知つた昔びとにして見れば、それの存分に出来る権能は、えらばれた唯一人に限つて許される資格と考へた事であらう。智慧・仁慈・残虐は、ぱらどっくすではなく、倭成す神の三徳と見る事も出来るのである。
泊瀬天皇ぐらゐ、純粋な感情のまゝにふるまうた人はなかつた。瞬時も固定せぬ愛と憎み、神獣一如の姿である。此点から見れば、おほくにぬしは、著しく筆録時代の理想にひき直されてゐる様である。あめのさかてを拍つて、征服者を咀うた一つの物語が、不調和に感じられるまで整理せられた性格の記述を裏切ると共に、かうした憤怒・憎悪・嫉妬を十分に具備した人として伝へられてゐたに違ひない。
村々の神主
日本歴史の立ち場から見た古代生活は、村を以てゆきづまりとする外はない。其以上は、先史遺物学者との妥協をめどにした空想に過ぎない。文献によつて知る事の出来る限りの古代には、既にかなりに進んだ村落組織が整うてゐた。村限りの生活が、国家観念に拡つて来はじめたのが、万葉びとの世のはじめで、其確かな意識に入り込む様になつたのが、此論文の主題の結着である。
其以前は、村自身で、一つの国家と考へてゐた時代である。よその村は、敵国である。もつと軽い語で言へば、いつでも敵国となるはずの国々であつた。さういふ時代の話からしてかゝらねば、万葉びとの国民としての心持ちは、考へることが出来ない。
村を又、ふれ・しまとも、くに・あがたとも言うたのは、此時代である。みち・ひな(山本信哉氏などは、あがたをも、同類に考へてゐる)と言ふ語は、元はよそ国・他国位の積りが、遠隔の地方を斥す様になつたとも考へられる。あきつしま・しきしま・やまとしまは、水中の島から出た語尾でなく、却つて村の意味の分化したものと見るがよからう。三つながら、枕詞或は、直様日本の異名として感じられる様になつて来た。それは、大和朝廷の、時々の根拠地になつてゐた村名に過ぎないのである。大和の北と真中の平原にあつた村々を支配するまでに、づぬけて勢力を持つて来たのが、山辺郡大倭を土台にした村だつたのである。
泊瀬の国・吉野の国などは、万葉にも平気に使はれてゐる。しまともくにとも言ふ村が、大和一国にも、古ければ古い程多かつた。大和以外で言うても、国の名を言ふ村の数が、後世の国の幾層倍あつたか知れない。しまは、くにの古語と言うてよい様である。さうして、此しま〴〵・くに〴〵の中には、大和朝廷を脅かすものも多かつた。大和の国中でも、葛城の国などは、手ごはく感じられた印象を、記紀に止めてゐる。
飛鳥の村辺に、都の固定し出した頃には、国家の意識が、稍統一しかけて来たものと思はれる。此処まで来れば、どうしても大化の改新は現れなければならぬ訣であつた。あの改新の本意は、村本位の生活を国本位の生活に引き直す事であつた。段々勢力は失うて来てはゐたものゝ、尚盛り返さうけはひの見えた村を根拠とした豪族を、一挙に永劫に頭の擡げられぬ地位に置かうとする事であつた。此久しい前から、村の主長の意味の名なる国造・県主は、既に多くの貴いかばねに呼び換へられて居た。けれども尚、昔のまゝの称へが捨てられないで、国造・県主の称へを持ち続けてゐた家もある。尚遅れては、意義が変つた為、其かばねである事を忘れて、国造の上に、更にかばねを与へられたのさへ多い。
公認せられた国の外は、おほよそ郡と称せられて、国の数は著しくへつた。国々は凡てふれ(村)を語根にしたこほり(郡)の名に喚び変へられて了うた。恐らく、郡といふ語は、わりあひに新しい語であつたのであらう。其でも、旧慣によつて、私に国名を称へるものもあり、言ひ改めてもなぜか郡を嫌つて、あがた或は、多く其形式化したがたと言ふ呼び名を用ゐるものが多かつた。名こそ変れ、実は同じで、大体に以前の国を郡とした事と思はれる。だから、国が大きくなつたと共に、国が小さくなつたと言ふ事の出来るあり様であつた。
此様に、国と郡とは内容を異にしてゐる。だから、国造・県主は多く郡の長官に任ぜられたが、国司に登用せられる理くつはなかつたのである。新制度では、国造の名さへ廃した。でも、由緒久しい処では、容易に改りはしなかつた。其ゆゑ国造であつて、他のかばねを兼ね持つてゐるのがあつたのである。国造の職分は、事実、郡領になつても変らなかつたはずである。国造の名がなくなり、郡領になつたのを、豪族の勢力の落ちた唯一の現れと解釈する人があつたら、其は、考へがなさ過ぎる。
地方制度の整理・監督官庁の設置・豪族の官吏化が、此改革の肝腎の精神であつたと思はれる。が、まだ一つ大事の目的が、外にあつたのである。国造の中、後世まで国造の称へを伝へた家々は、皆神事に与る筋である。事実亦、国造は地方々々の大社の為に、官幣を受けにも、上つて来た。国造と神主とを同じ意味に使うた例も多い。廃止の後も、郡領に神事を司したのは、国造が、神職の主座にゐた事を見せてゐるのである。
村の主長であつた国造が、同時に神主であると言ふのは、どうした訣か。神に近い者で、神の心を問ひ明らめる事の出来る者が、村人を神慮のまゝに支配してゐた、昔の村々の政治を見せてゐるのである。
さうした過去へ、一挙に我々の想像を誘ふのは、斉明紀に見えた「村々の祝部」と言ふ語である。文献に照して見ても、禰宜は、祝部よりは遅れて出来た職名であるらしい。村の主長なる国造は、既に神事に与ること尠く、実務を祝部に任せる方に傾いてゐたらしい。併し、大事の場合には、勿論国造が、主任とならねばならなかつたものと思はれる。神職と言へば祝部を思ふ程、此職名の出てゐるのは、為事が岐れはじめて来た事を示すのである。
宮廷の神職であつた中臣氏が、別に大中臣氏を立てゝ、本家は藤原となつて、政権に近づいて行つたのは、此事実と似てゐる。が実は、国造の宗教を破却して、主長であつて、尚教権を握つて居る為に、村々の民と離れない豪族との間を裂く為の促進運動であつたと見る方が、ほんとうらしい。
地方の大社に関する事は、国造の代りに国守をして執り行はせる事としたのも、名は旧慣に従ふ様に見せかけて、面目を一新しようとの企てが含まれてゐたのである。
国造の神に対しての関係は、子孫であるか、最神に親しかつた者の末であるかであつた。村人にとつては、神意は国造によつて問ふ外はない、とせられてゐた昔の記憶が、まだ消えきらない時代であつた。此をすつかり忘却の境に送り込まぬ間は、村本位の生活が、又現れて来ないとも限らなかつたのである。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「白鳥 第一・二・三・四号」
1922(大正11)年1、2、5、7月
※底本の題名の下に書かれている「大正十一年一・二・五・七月「白鳥」第一・二・三・四号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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