日本書と日本紀と
折口信夫
|
一 紀といふことばの意義
今後、機会のある毎に、釈いて行つて見たいと思ふ、日本書紀と言ふ書物に絡んだ、いろんな疑念の中、第一にほぐしてかゝらねばならぬのは、名義とその用法とである。
一体、此書物の二通りの呼び名「日本紀」・「日本書紀」のどちらが、元からの題号であるか、と言ふ事からして、既に問題であつた。日本紀は、日本書紀の略称ときめられさうな処を、さうもならずにゐたのは訣がある。日本書紀といふ名は新しい書物に出て、古くは却つて日本紀と書いて居る様である。本名「日本書紀」通称「日本紀」と言ふ考への、成り立ち難いのは、此為であつた。或は、後期王朝に入つて「日本紀」といふ名が、正史から更に歴史といふ位に内容を拡げて来たので、其と区別する為に、固有名詞の方には「書」といふ字を挿入したのか、と仮定を据ゑて見たことも、一時はあつた。ともかく、今ある文書で「日本書紀」の名を記した一番古い物は、弘仁私記の序文と言ふ事になつてゐる。
てつとり早く結着を申すと、私の考へでは「日本書紀」は誤りである。「日本紀」が正しい称へだ、と言ふ事におちるのである。
支那の史乗の内で、固定しかけて居て、立ち消えした体の内に「紀」と言ふ型があつたと思ふ。「前漢紀」・「後漢紀」或は「通鑑外紀」などが、此部類である。かうした「紀」と言ふ、史書に通じた特質は、内容に於て、正史の「本紀」の姿に一貫し、体に於ては、編年を採つてゐる外に、ある本書を予期させる「伝」の姿を持つたものである事だ。「春秋」三氏の伝は、本書の価値からして、伝書其物まで経書の取り扱ひを受ける事となつた。其後、同じ意味で出来た書物の内に、伝を称せずして紀と名乗る一団が出来たのである。
政道の軌範としての史書の意味を、重んじる儒学の態度の、輸入せられたのは古い事である。紀伝道が立てられ、史書講筵が天子並びに高級官吏の間に続けられる様になる機運は既に、奈良朝に熟して居る。さうした講筵の対象になつてゐるものは、所謂三史であつた。「日本紀」の出来た目的の一部も、其辺にある様な気がする。
三史の中、史記・漢書には問題はない様であるが、残る一部は「後漢書」の名で記されて居るけれど、其が果して、今の後漢書を斥すものともきまらない。「東観漢紀」を示すのではないかと言ふ疑ひは、先哲以来宿題である。
唐にも「東観漢紀」が重んぜられてゐた為、其学風を移した奈良朝及び、平安初期に所謂三史の包含する所は、察せられさうである。
吉備ノ真備将来の三史五経なるものが、筆拍子に乗らなかつた書き方だとしたら、「日本国見在書目録」に「吉備大臣撰(?)来するところなり」と註した東観紀を、三史の一つと見る事も出来る。又、東大寺に此書の伝本があつたと言ふ所から見ても、わが国に古く行はれた三史の後漢書が、単に普通の後漢書と一つ物だときめてゐることが、むづかしくなる訣である。後期王朝に入つては、時としては「晋書」其他の講筵も開かれた様であるが、ともかく三史の尊重せられた事は言ふまでもない。其と同時に、東観撰修を標した漢紀以外にも、前に述べた二部の漢紀の、渡来してゐた事も考へられるのである。
見在書目録に二書の名の出て居る事は、平安朝初期末より前──即、公の鎖国以前──に、此等の書物の舶載せられて居た事を示して居るので、其が幾年前の事であつたかは明らかでない。年数の「幾」には、十百等の字を代入する事も出来る訣である。日本紀完成以前既に、一部の学者は、此を見てゐた事は仮想が出来る。万々此二書の渡来がなかつたとしても、帰化留学の学者・僧侶の此等の書物に就ての知識が、日本紀の題号と体裁とを生んだと考へる事は出来る。
私の、文学史を講義した経験から言ふと、奈良朝以前の漢学は、従来の学者の考へとは反対に、嵯峨朝を頂点とする平安朝のものよりは、遥かに優れてゐる。入国後、間もなく日本詞章と提携する様になつた。さうした日本化の未だ浅いだけでも、純粋が保たれたのである。官辺よりは、寺院や民間に隆んであつたのである。見在書目録がどれ程広く、其等家々の文庫を含んでゐるかゞ問題であるし、渡来後、踪跡を失うた分も多からうから、此書目の登録する所を以て、所謂見在書の総計だと信じることは、到底出来ない。が、尠くとも、此書に載つた書物に、奈良以前の舶載が極めて多からうと言ふ事だけは、推測する方がほんとうだらうと思ふ。
前漢紀は、後漢の荀悦の著で、建安十年には出来てゐる。悦の序文で見ても、漢書の伝と言ふよりは、漢書をば、其本紀を綱紀として整理したものだ、と言ふ事は出来る様である。従つて巻数も、現在の漢書が百二十巻であるのに対して、三十巻に縮まつて居る。後漢紀は、此書に倣うて出来た物で、巻数はやはり三十巻、東晋の袁宏が、太元元年に撰つたものである。
三史をば為政の準拠として、中央政府に於て尊び、太宰府では、五経あつて三史を蔵せざるを恥ぢた時代である。殊に、三史講筵の行はれた関係から、此二紀が、漢書・東観漢紀或は、後漢紀の、有力な補助として利用せられてゐたらう、と言ふ事も察せられる。大同に到つて、新立の紀伝道に併合せられた進士・秀才の二道は、とりもなほさず科挙の為の学であつて、同時に行政に応用せられるはずの、過去の事蹟を授けるものであつた。貴族の間に流行した私学の建設も、政治社会に於ける、同族の繁栄を目ざして居たのである。かうした意味からも、漢書・後漢書の綱要とも言ふべき二紀の、奈良・平安に行はれたらう様は考へることが出来る。
年代から言うても、日本紀奏上前に、わが国の学者に知られて居た事は、大して、不自然でなく考へられる。
二 日本書
直感の鋭い読者の中には、もう、私の言はうとする過程は呑み込まれてゐるであらう。「日本紀」と言ふ名前が、前漢紀・後漢紀と同様な組織を持つて居る所からつけられたものだといふ事は、日本紀の巻数がまづ明らかに見せてゐる。次には帝王の事蹟・宮廷・国家の事件を主として、編年の体に、事を叙述して行つた点である。今一つの証拠は、此文の結論であり、発端でもあるから、後の納得に委せる外はないが、日本紀が、ある正史の伝書ではないかと言ふ処にある。
日本紀に就ての最初の記録は、続日本紀に見えた次の一文である。
五月(養老四年)癸酉。是より先、一品舎人ノ親王勅を奉じて、日本紀を修む。是に至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上す。
今の日本紀には系図はないが、大体は、疑はなくとも、よい様である。紀三十巻は此紀の巻数を示したのである。まづ書名と巻数とに、模倣の痕が見える。
日本紀は両漢紀に較べると、日次を立てることが、ずつと詳細であるが、やはり帝紀を書いて、自然に伝・表・志の要素を含んで居る。だから、編年とは言ふでふ、寧、正史の本紀の、独立・敷衍せられたものと見てもよい様である。此点も、二書の俤を写して居るのは察せられる。
其で、私は、日本紀は漢紀・後漢紀を学んだ「紀」の体の歴史、言ひ換へれば「伝」の形式を具へた物と思ふ。けれども、漢紀の序を見ると、紀は帝紀の意義から出てゐるものと考へられて居る様である。即、前漢歴代帝紀と言つた用語例に、はいつて居るものと思はれる。偶、伝書の様な姿に見えても、実は独立した成立を持つものと見てよいのである。東観漢紀に於ける紀の用法も、其である。ところが、漢書・漢紀の関係を、史記及び三氏の伝と同様に見る風が生じて来た。袁宏の後漢紀になると、紀綱・綱要などの聯想から、伝の意義を考へて来てゐる趣きが、其序に見える。併しながら結局、紀の伝と違ふところは、本書から独立して、本末の関係のない様な姿をとる事であつたらしい。奈良朝に於ける成語・術語の用法には、漢土の意義に比べて、誤用がかなり多くある。けれどもかうした正史とも言ふべき欽定の書に粗漏があるだらうか。大体「紀」なる体の意義を知つて、命けたものと思はれる。
さすれば、両漢紀に対して、漢書・後漢書(?)が持つてゐたやうな関係が、日本紀と其以前にあつたわが国出来の或書籍との間に、あつたらうと言ふことも言はれると思ふ。
重刻両漢紀後序に、
其事、咸編年に萃む。故に紀と曰ふ。其事、伝・表・紀・志に分つ。故に書と曰ふ。
とある。そこで、順序から言へば、日本紀以前に、正史体の「日本書」と言ふものがなければならぬ。さうして、其日本紀は、むざうさに謂へば「日本書」の伝であり、其「帝王本紀」を中心として、編年体に「日本書」を整理したものでなくてはならない。私は久しく「日本書」の実在について疑念を放さなかつた。尠くとも、両漢書の例で見れば、百二十巻位の巻数の正史がなくてはならないのである。史実はしば〳〵吾々の合理的想像を超越して、意外な大きな事実を包んで顕れて来るものである。だから、さうした「日本書」の、なかつたものとは決められないが、日本紀以前にさうした大部の正史があつた事は、此までの歴史観の地盤の上には考へにくいのである。
けれども強ひて、其があつたらうと言ふ予定から、歴史を見れば、其らしいものがないではない。よく引用せられる天武紀十年三月の「天皇大極殿に御し、川島ノ皇子以下十一名に以詔しめて、帝紀及び上古の諸事を記定せしむ……」とあるのが、或は其「日本書」なるものゝ由来を書いたのともとれる。此記事は普通「書紀集解」以来、日本紀の準備作業であつた様に解してゐる。其とて、別に根拠のある事でもないのである。寧、日本紀の事は、古事記の出来た満二年後、和銅七年二月(続日本紀)に「従六位上紀ノ朝臣清人・正八位下三宅ノ臣藤麻呂に詔して国史を撰らしむ」とあるのに当てはまる。
天武朝の企てを不成功或は、永続事業となつたと見れば、此時が、日本書撰定の詔勅の降りた時と見る事が出来るが、此五年後に日本紀が出来てゐるのであるから、此を、日本紀着手の時と見る方が無理がない。天武十年の修史は、不成功であつたか、又は別の歴史が出来たのか。其とも、和銅七年の修史事業に繰り返された日本紀撰定の第一回の試みか。或は、前に述べた日本書に就ての記事か、幾通りにも考へられるのである。まづ和銅の国史を、日本紀の第一期と見、天武紀のを「日本書」と見る方が、纏りの上では鮮やかではあるが、事実は何とも決められない。何にしても、果して、日本書があつたものだらうか。
やはり、日本書なる名の書物の、あつた事だけは事実である。「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した天平二十年六月十日の文書(大日本古文書三・南京遺文)のさま〴〵の仏書・漢籍を列記した末の方に、漢籍扱ひをして、
帝紀二巻 日本書
と記してゐる。此はともかく、「日本書」なる史書が当時存在してゐた事を見せてゐる。さすれば、日本紀の本書たる「日本書」の存在は、空想ではなかつた。たゞ此文書によつて、更に限りない疑念の、蜘蛛手に論理を走らせるを覚える。
三 日本紀の成立
私は実は以前、懐疑の立ち場から、為政者の政策として、日本書なしに日本紀を編纂して国際関係の上からある虚栄を満してゐたのではないかと考へて居た。さうでないとすれば、紀の体のみを学んで、書の有無に拘らなかつたものかと思うてもゐた。ところが、此一行の文字から、やゝ推測の方角が、かはつて来た。
右の書き方で見ると、「帝紀」と「日本書」とが、全然同一物ともとれる。又「帝紀」は、普通名詞とも言へる内容の広い物であるから、其分類のうちに、「日本書」も籠つて居たのか。「日本書」の中に、二巻の「帝紀」があつたのか。此三とほりの考へが、なり立つ訣である。
第三の考へが、一番完全に書と言ふ名に叶うた見方と思ふ。正史の本紀にぴつたりと当てはまる点からも、其は言はれる。でなければ、あまりに「日本書」の名にふさはぬ貧弱な冊数である。尤、当時既に闕巻になつて居たと見れば、其までゞある。又筆耕の為に二巻だけを請求したとゝれぬでもないが、其ならば、今尠し小書きでもなくては、どの巻を出してよいか、訣らなかつたはずである。
帝紀と言ふ名目は、古事記・日本紀・上宮法王帝説などを古いものにして、後期王朝の物にも見えてゐる。但し、平安には、段々普通名詞化して来た痕が、著しく見える。本朝書籍目録などの分類によると、帝紀の項に、旧事本紀・古事記から、六国史及び、日本紀私記其他雑史書類までも収めて居る。要するに、欽定・私撰に拘らず、本朝の歴史と言ふ用語例に入る様になつたものらしい。
試みに、私の空想に近い考へを申すと、奈良朝以前にも既に、帝紀の意義は、大体二通りあつたのではないかと考へるのである。一つは、皇室の事ばかり書いた謂はゞ皇統譜の稍細密な物である。古事記の序に見えた帝皇日継と言ふものが、此に当る。日は神聖観を表す敬語、継は纂記のつぎで、系譜である。此帝皇日継がおなじ序に、帝紀・帝記とも三通りに書き別けられてゐるのは、大同小異の異書の存在した事を示して居るので、厳とした一書の異名とは考へられない。だから、帝紀及び帝記も普通名詞に近い書名である。
今一つは、「日本書」として編纂せられて居た物の一部即、其本紀を言うたものとするのである。日本紀引用の書物の中に、現に帝王本紀の名が見え、弘仁私記の序にも、古事記の事を記す条に「帝王本紀及び先代旧事を習せしむ」と書いて、帝紀・帝記・帝皇日継に通用して居る様に見える。ひよつとすると、帝皇日継だけに当てたものとも、とれぬではないが。
此二つの考へ方には、調和点がある。それは、正史としての「日本書」撰修の企てが天武以前既にあつて、それが完成せないで、尚「日本書」を称した場合を仮想するのである。本紀ばかりが出来上つて、貴族の間に流布して居たものとする。さうすると帝紀・帝王本紀に、攙入が加はり、錯乱してゐた理由も知れる。そればかりか、日本書の、帝王本紀又は帝紀とおなじものであつたことが強く言へる様になる。其と共に、広狭二義の帝紀の、実は同義であることが知れるのである。唯帝紀が、種々の異本に通じた名であつて、一種類の史書の異名でないことだけは、明らかである。
一体、帝紀なる語は、正史の本紀と一つ意味のものではあるが、我が国では尠くとも、帝紀と本紀とに区別を立てゝ居た様に見える。此は、聖徳太子の国史(所謂旧事本紀の原書)の巻の立て方以来の事である。本紀は孤立せないもの、帝紀は独存する事の出来るものと言つた考へ方がある様だ。日本書が、帝紀と言はれ、又稀にはある書の一部分なる事を示す帝王本紀なる称呼を持つて居たらしい事の理由も、こゝに在るのかと思ふ。
「日本紀」に対する「日本書」はあつた。併し其が果して、正史の形に完成してゐた物であつたかは、疑問である。唯今までの考へ方ですれば、日本書の一部なる帝王本紀が、帝紀として行はれてゐたと見るのが、一番適当らしく思はれる。
さうして、更に推測を加へれば、日本書の帝紀が早く成つて、其が伝写を経て、様々の異本を生じて居たものとも考へられる。此が帝紀なる語を普通名詞化した導きになつたのではあるまいか。
かう言うては来ても、尚一種の外交政策から、日本書よりも大きくて整うた日本紀を拵へたのではあるまいか、と言ふ疑念は、消しきることが出来ない。国際関係を痛切に意識するやうになり、それと同時に、文明が適当な度合ひに進んでゐたとしたら、その時代の政治家の企てる為事の一つは、修史と、版図の整頓を示す地理書の撰述である。其国に完全な国史のあると言ふことは、支那風の国家観念には、主要な条件になつて居た。古事記の出来た意義は、私には、ほかに考へがある。
日本紀は全く此目的からして、いろんな時代的陣痛を経て生れ出たものなのである。日本紀があるかないかと言ふ事が、其宮廷に正史あり、紀類のある事を示すもので、国家の誇りでもあり、自衛ともなつた訣なのである。
永劫に消散する事の期せられぬ疑ひは、先進国に対して、文明の変つた島の宮廷が抱いた気おくれから来たはずの、虚飾態度に対してゞある。末葉の我々の思案に能はぬものがあつたに違ひなからうと思ふ。
私の小論文で、若し決める事の出来たものがあつたとしたなら、「日本紀」あつて、「日本書紀」のなかつた事実である。さうして、日本書紀なる名は、史学の知識が自由な流動性を失ひかけた頃から、始まつた誤りらしく思はれる事である。而も其は、書と紀との関係・命名法になま半可な理会を持つて居た紀伝・明経博士等のさかしらから、起つたのに相違なからうと言ふ事である。さうして、弘仁私記の序に見えた「日本書紀」の字づらを見ると、史学全盛を謳はれた弘仁度の博士たちの知識程度も凡は測られる。一知半解のもの知り顔から、半紙がみ・朱器椀など言ふにも等しい、書名の音覚えに慣れて行つたのである。漢書紀・後漢書紀など言ふ名のあり得べなくもないものとすれば、日本書紀なる名称は、慣用以外には、意味のない、と言ふ事を決定したつもりである。
従うて又、編年の日本紀に対して、正史日本書或は、其一部分の帝王本紀らしいものゝ、実在した事の輪廓だけは、書き得たことになると思ふのである。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「史学 第五巻第二号」
1926(大正15)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年六月「史学」第五巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。