相聞の発達
折口信夫
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一
木梨軽ノ太子の古い情史風のばらっどの外に、新しい時代に宣伝せられたと思はれる悲しい恋語りが、やはり巡遊伶人の口から世間へちらばり、其が輯録せられて万葉にある。一つは宅守相聞である。今一つは乙麻呂流離の連作である。時代が新しいから真の創作であらう。そして不遇な男女が、哀別の涙をさへ、人に憚つて叫び上げたものゝ様に思はれ、我々をも動す強い感激が含まれて居る様にも見える。唯見えるのである。
今日の我々は、背景を知らずに見るから、ばらっどとしての誇張と、純粋な劇的の構想にうつかりひつかゝつて了ふのである。時代が創作時代・抒情詩時代に入つてゐるのだから、都近くから出たばらっどが、如何にも修練と昂奮とで、技巧を突破した作物らしい色を見せる様になつてゐる。殊に中臣宅守に係つた巻第十五の主要部になつた連作の唱和などは、かう言ふ自身すら、疑はしく思ふ程の傑作揃ひである。併し、どうして其等の相聞歌が散逸せなかつたか、即興以外には纔かに宴遊の余興に於て、だが、はつ〳〵好事の漢風移植者たる大伴ノ旅人・家持一味の人々の文芸意識を持つての遊戯が見える位に過ぎない時代に、悲しみを叙して、繰りかへし贈答することがあつたとは思はれぬ。
畢竟、軽ノ太子の哀れな物語や、大国主の円満な恋や、仁徳天皇のねぢれた情史を謡ひ歩いて、万葉まで其形を残した性欲生活の驚異を欲した村の人々の心が、更に変態で、切実なものを要求した為に、ほかひゞとの謡ふ「物語」のくづれが、自然に変化して、創作気分の満ちたものを生み出すことになつたのである。だが、其変化は自然であつたらうと言ふことは忘れてはならぬ。特殊な事情は、固有名詞やほんの僅かばかり文句を変更する位のことであつたであらう。ほかひゞと自身すら古物語の改作とは心づかずに事情のあうて行くまゝに、段々謡ひ矯め、口拍子に乗せ易へて行つたに違ひない。
石上乙麻呂は、奈良の盛りの天平十一年の春、久米ノ若売と狎れて、女は下総に配せられると同時に、土佐の国に流された。若売は恐らく貢女として、地方出の采女と異名同実の役をして居たものと思はれる。采女の制度のまだ厳重な時代であつたから、故左大臣の子として、役こそはまだ低かつたが、人の思はくの重々しい位置にあつたに拘らず、政綱粛正の為か、藤原氏の一流人物の急死から、他氏を恐れた政略かの犠牲として、辺土に遣られたものと思はれる。とにかく世人の目を睜つたことは察せられる。
併し又一方、若売は藤原宇合の妻で、百川の生母である。夫が時疫で亡くなつた時は、当時六歳の百川が居た。此事件が持ちあがつたのは、翌々年に秘事が顕れたのであつた。一年も居ない中に、大赦で許されて後、又元の無位から従四位下までになつて、子を四十八で亡くし、自分は一年後にあとを追うた。だから内輪に見積つても、六十五以上になるまで、恐らく命婦として宮仕へをしたであらうし、下総へ送られた時は、二十五より若くはなかつたであらう。其から見ると、藤原の式家の後室であつたのだ。当時ありふれた此事件に対して、刑の適用が姦通としてなら、少しく厳重過ぎてゐる様だ。橘三千代の様なもつと自由にふるまうた先輩も居たほどなのだから。
平安朝の初め大同元年に、采女の資格を三十から四十までの、当時夫のないものと言ふことに定めてゐる(類聚三代格)。かう言ふ改正規定の出たのは此時はじめて英断をしたのではないに相違ない。信仰上の事は、無意識の変更があつても、知つて改める事は畏れられてゐたから。既に奈良朝にも、寡婦と処女とを同格に見る風が出来てゐたことゝ思はれる。此事は沖縄の女神職なる君・祝女の大部分に亘つて沿革が見えるのである。寡婦で貢女の役を勤めて居た為、采女としての浄さの保たれなかつた事が、問題の中心になつたと考へてよさゝうである。
日本小説の源流は、黒川真頼にも注意せられて、浦島子伝・柘枝伝が挙げられた。友人武田祐吉も、この点に注意してゐる。併し、単なる創作として考へられて居る(上代国文学の研究)のはどうだらう。もつと誇らかな心を持つて、支那の小説と似たものを、固有と考へた民譚と言ふよりは叙事詩の中に見出して、此を漢文に訳したのである。技巧の不十分な為内容以上に文飾の勝つたものばかりが出来たに違ひないが、其一部分が残つた外は、名だけ留つたものゝ外に、まだ若干の叙事詩・民譚の記録のあつたことを、想像することが出来る。
近世の意味ではない小説が、日本人の手で散文に書き取られ、神仙秘伝其儘の、神女の誘ひに従うて、恋の楽土に遊んだ話は、数多あつた。丹後の地にあつた浦島子の叙事詩、吉野川を中心に固定した柘の枝に化生して漁師を誘うた吉志美ヶ嶽の神女の外にも、駢儷体の文章に飜されたらうが、男神が人間の女に通ふ型のとりわけ我国に多い言語伝承の例は、張文成其他の小説記録者の熱意を持たなかつたところだから、我国の民譚飜訳者の手にかゝつたらうとは思はれない。
今は一つの証拠すら残つてゐない方面で、存在の疑はれぬのは、宮廷隠事の書き物である。飛鳥の末にすら、浦島子伝が書かれたのである。奈良に入つて、漢文を作る能力も進み、熱意も加つて来た時代に、目にし耳にした宮廷生活に関する浮説、殊にまだ女帝に於て神との交渉が密接であり、自然外部の空想を逞しうさせるゆとりが十分あつた。則天武后に係つた小説を見た眼からは、武后の生活が、最高の女性の上にも、見出され易い。其が、進んだ奈良末期・平安初期の不純な創作気分を交へて来た心には、誇張せられ、強調せられて出て来る。文にも一々手本があつて其をなぞつたのであるから、どうしても、事実に遠くなる。かなり外的興味の豊かだつた持統天皇は、時代が古かつた為か、行文の不如意から来る舞文の為に呪はれなされずにすんだ。元明・元正二帝も、大事件の生じなかつた為か、何の痕跡も残つてゐない。孝謙天皇の時は、実際事件も多かつた。経済状態は一時に高まつて来た。宮廷生活も文明的施設が整うて来た。武后の姿を日本に見る時が来たのである。ある点まで、二人の侍臣についた伝説は、事実かも知れない。併し、すべてを信じる訣にはいかぬ。宗教的行動に出られる時の心持ちは、さうした側に冷淡な六国史流の記述では知られない。道鏡を重用せられたのも、新渡の神の威力を尊重する様になつて居た宮廷の神の心によつたもので、宇佐も、ほんとうは、新現出の神である。此等の神に神慮を問ふ事が、女帝の祀る神の意志でもあつたのだ。
平安朝から、鎌倉へかけて、女帝と寵臣との靡爛した生活を書いた物は、恐らく奈良末・平安初期の和製武后伝に煩ひせられて居る事が多いのに違ひない。語原の意義が、第二義を含みかけた時代の小説で、国文で書かなかつたものを言ふところに、注意をする必要がある。続日本紀編纂の際に、此類の書物の影響のあつたことは否まれない。半月程前、高野斑山氏に会うた人の話に、高野氏は「如意君伝」を持つて居られる。此書は女帝の史実と伝へて居るものゝ原本らしいと言はれたさうである。私の古くから抱いてゐた仮定に賛成者を得た気がした。高野氏に借覧を乞うて見たいと思うてゐる。
二
石上乙麻呂の事件なども、逆に或は叙事詩から出て「石ノ上布留の命」と言ふ文句が世間で乙麻呂の事と伝へられた為に、歴史として確実性を持つ様になつたとも思はれぬではない。二人の配流・赦免の記事なども、史家の主観的な解釈が加へられて居るかも知れぬし、其根柢に、情史的の小説が漢文で書かれたとなれば、続紀に入り込む道筋はわかる。大赦の連名などの中に、合理的な解釈で一人を添へる事も出来るはずである。
石ノ上布留の命は、嫋女の惑ひによりて、馬じもの縄とりつけ、鹿じもの弓矢囲みて、大君の命畏み、天離る鄙辺に退る。ふるごろも真土の山ゆ帰り来ぬかも(万葉集巻六)
大君の命畏み、さしなみの国にいでます、はしきやし我が夫の君を、かけまくもゆゝし畏し、住ノ吉の現人神の、舟の舳にうしはき給ひ、着き給はむ島の崎々、より給はむ磯の崎々、荒き波 風に遭はせず、つゝみなく、病あらせず、速やけく返し給はね。本つ国べに
父君に我は愛子ぞ。母刀自に我は寵子ぞ。参上る八十氏人の 手向けする懼ノ坂に、幣奉り、我はぞ退る。遠き土佐路を
大崎の神の小浜は狭けれど、百舟人も 過ぐと言はなくに
此四首は、はじめの二つが近親の者の歌で、後の長短歌各一首が乙麻呂のものと見える様になつてゐる。短歌は長歌の反歌とも見えるが、三首目の「父君に我は愛子ぞ。母刀自に我は寵子ぞ」と言ふ謡ひ出しは、父母に愛せられて育つた、遠い旅にも出たこともない自分がと言ふつもりと説けばわかるが、後の子とは続かなくなつてゐる。
其にしても、此歌は青年の述懐で、恐らく若売より年長だつたらうと思はれる此人だから、三十前後でゐて、此歎きを洩すのは、如何に童心を失はぬ万葉人にしてもふさはしくない気がする。父は早く死んでゐる。現在の家なる父母を思ふものとすれば、事実にあはない。母に万葉で「妣」の字を宛てたのは、歿後の父母なる事を示したと言ふ事も出来ようが、唯母と通用したものだらう。そして、唯色々な形の歌を組み入れたゞけと見る方がよい。
長・短・旋頭歌・片哥などを一団とした「組み歌」らしいものは、記紀に見えてゐる。後世ほど「組み歌」の一つ〳〵に思想の連絡を失ふ様になつて行く。古い処には、ともかくも、一つの態度なり、一つの思想なりが見える。此なども其一つである。此等も身ぶり或は人形が伴うてゐたのではないだらうか。此問答や道行きぶりに近い文章が、劇的動作を思はせる。
形は贈答に見えても、実はさうでない。此短歌は
ちはやぶる鐘个岬を過ぎぬとも 我は忘れじ。志珂の皇神(万葉巻七)
と全く一つで、神に媚び仕へるものである。「神様、あなたのいらつしやる浜は小さいけれど、どの船でも皆お参りせずに通り過ぎはしませぬ」と言ふ意味で、神の機嫌をなだめる歌である。一種の呪文として用ゐられる素質を持つて居る事になる。此なども一回きりの歌でなく、大崎を過ぎる時に、神に対して唱へた、きまり文句だつたと言へよう。次は宅守相聞である。
三
乙麻呂の恩恵に浴されなかつた天平十二年の大赦に、中臣宅守も、同じ数の一人として列ねられてゐる(続紀)。赦に入らぬ罪名に挙げられた中の〓(「姦+干」)他妻といふのが、宅守の罪に当つてゐたのではなからうか。万葉集目録によると、重婚の罪のやうに見える。天平十一年以前に配流せられたものと思はれるが、さして長く居たのでもあるまい。宝字七年には従六位上から、従五位下になつてゐるから、乙麻呂とほゞ同じ頃に赦されたのであらう。乙麻呂ほど身分高い人でもなかつた為、注意を惹かなかつた点もあらうが、罪は越前への近流だけに稍軽かつたであらう。相手方の狭野ノ茅上ノ郎女は罪に問はれて居ないらしい。此六十三首の贈答は、前のから見ると、伝来の誤りもなさゝうだし、時代も新しく見える。此は前の様な成立を持つたものではないと思はれる。併し、此もどうして伝つたのか、伝来の径路が疑はれる。強ひて言はゞ、好事の創作歌人が、軽太子・春日皇女等の故事に似た此情史を伝へた為、仮託したものかとも思はれる。併し尚、巡游伶人の手を経たものと考へられる廉がある。
万葉の左註は、歌の趣きから割り出したものが多い。処が、歌々の小序も多くはやはり其で、作者が明らかに書き添へたものと見える外は、後からの「追ひ書き」である。さうして屡、製作時の境遇・作者等について、伝来の誤説や、筆録者の誤解などが交つて居る。年代の古い歌の序文は、大抵此追ひ書きである。
譬へば三山の歌(万葉集巻一)の如きは、長歌の不完全な為に、三山に寄せて思を陳べられた自己弁護の御製らしく見える。それで勢ひ、反歌の中の「わたつみの豊旗雲」の歌は、同時の作でない様に考へられ易い。此は小引の大変な間違ひで、恐らく「天皇の播州印南に行幸せられた時の御製」とでもあるべきものなのだ。さすれば、第一の反歌の「立ちて見に来し印南国原」と言ふ、主格脱落の内でも、とりわけ不思議な姿に見えるのも、どうやらわかる。「出雲国を出発して見に来た其印南の国が、此よ」と言ふ事になるし、第二首も、印南の海岸の酒宴の即興としてよく通る。長歌は、周知の事を、其神話に関係深い地に来て思ひ出し、更に人の世の三角恋愛の避け難いことを、軽く同感的に言うたに過ぎない。
同じ事の違うた姿で出て居るのは、伝説に主観的誤解を加へて現したもの。一例は万葉集巻一の初めの方の、「中皇命使二間人ノ連老献一歌」である。なぜ、間人老の名を出したのか。理由のない事である。此は「中皇命が間人老をして代作せしめて献られた歌」と言ふべきを間違へたのであると取る外はない。人麻呂の歌などは無名氏作になつたり、皇族方の御歌と書かれたりしてゐる。殊に人麻呂が某皇子を悼んだ歌だとか、人麻呂が某を悼んで其近親某に寄せた歌など言ふのは、作者と作物の対象人物とが知れてゐるばかりである時、宮廷詩人としての代作事務と言ふ事を考へに入れないでかゝつたからである。万葉編纂当時の序文もあらうし、既に其資料となつた記録にあつた小引もあるであらう。が、とにかく、此追申としての誤解を考へないでは、万葉を見る事は出来ぬ。
宅守相聞に左註があまり詳しく、製作の場合を示して居るのは、宅守なり茅上ノ郎女なりの手記を其儘に写したものと見られない訣である。一体巻十五は、二部の歌の寄りあひである。百四十五首一纏りの天平八年遣新羅使人等の歌と此相聞集とより外はない。前の方は、多事であつた旅行記念に、当時勃興しかけて居た古歌採集熱から、丹念に古歌・新作を書きつけて置いたとすれば、成立の理由もわかる。
殊に今日我々が考へる様に、自由に創作詩が生れて来たものと考へられぬ時代なのだから、古歌になぞつて出来た一首の新歌でも尊ばれたものと思はれる。書記せられる理由は勿論あるのである。
宅守相聞になると、どういふ形式で贈答せられてゐたとしても、かうして纏る理由は考へられぬ。否一つある。其は先に言うた伝奇情史として、文学に目醒めた人が、代作気分の残つてゐる時代の一つの影響として、二人の唱和を、頼まれない代作としての芸術に仮託したものと見る事である。宅守に張文成を気どるだけの教養があつたら、自ら愛人との贈答を筆録したとも言へようが、宅守を張文成たらしめた代作者があつたと見る方が正しい。私は尚乙麻呂の場合の考へ方で見て行かう。
六十三首が、かなりの価値のあるものだと言ふ事が、巡游伶人の手を経なかつた理由にはならぬ。個性が明らかであるないの問題は、軽々しく主観では決められない。個性が著しいものには、寧、用心の要るのがある。其は劇的の構想を持つものほど、さうした思ひ違へを起させる要素が十分にあるからだ。
君が行く道の長道を 繰り畳ね、焼き亡ぼさむ 天の火もがも(宅守相聞──万葉集巻十五)
情熱の極度とも見える。が一方、劇的の興奮・叙事脈の誇張が十分に出てゐる。要は態度一つである。此までの本の読み方以外に、かうした態度から見ると、背景が易ると、価値も自ら変らずには居ない。悲痛な恋愛、不如意な相思、靡爛した性欲、──かう言ふ処に焦点を置くのは、民謡の常である。東歌を見れば、それはよく知れる。民謡を孕む叙事詩中の情史に、その要素が十分に湛へられて居るからである。
過所なしに、関飛び越ゆる時鳥。我が身にもがも(?)。止まず通はむ
今日もかも 都なりせば、見まく欲り、西の御厩の外に立てらまし(以上二首、宅守相聞──万葉集巻十五)
など態度の持ち方で信頼も出来るし、不安な作為の痕をまざ〳〵と見る事も出来るのである。
行路の不安を思ふことはあつても、配処の苦しさや径路を述べもしない。極めて近い処に居る様な安気な気持ちを見せてゐる。
宮人の安寐も寝ずて、今日けふと 待つらむものを。見えぬ君かも(同)
などは恐らく旅行中に死んだ人を悼んで作つた歌らしく見える。此場合「見えぬ」は「見られに行かない」の意である。茅上娘子が隠し妻だから、宅守の家人の心持ちを思ひやつたのだとするのは、こぢつけであらう。
短歌の集団である事は、読ませる事を目的としたものらしく見える。併し、事実に於て、すべての詩形は、短歌にのり越されて来た時代である。長歌に対する反歌と言ふ様な形は、長歌に対して、片哥・旋頭歌・短歌その他が「組み」になる在来の声楽の様式の上に、外国音楽上にある反(或は乱)と言ふ様式との類似を重ねて来て出来たものである。必しも「長・反の組み」が、本式のものではなかつた。長短錯雑して居たのを、次第に整理して「長・反」様式が出来もした。一方、短歌ばかりの「組み歌」も出来た訣である。人麻呂の作と推定すべき日並知ノ皇子尊舎人歌廿三首は、舎人等の合唱に用ゐた一団の「組み」である。調子を改めて治める「反」又は「乱」と言ふ音楽上の様式は、発達しきらないで、日本音楽史では「組み歌」ばかりが全盛になつて行く。万葉集編纂の時にも既に、十五巻の二部の相違に心づかずに一括して出したのであらう。成立の動機は全然違うてゐることである。
四
こゝにお恥しい想像をつけ添へて、そつと心切な後人のもりたてを待つことにする。わが国のほかひゞとにも、創作詩人の偉大な者が現れた事はないであらうか。伝統の職業として「ほかひ」し「物語」る詩に整へられた内界を持つて、日本の歌の歴史に、創作詩の時代をわりあひに早く招きよせた天才があつたのではなからうか。死霊に聞かせるよごととも言ふべきしぬびごと=誄──語だけは遅れて出来たもので、古くはやはりよごとと言うたであらう──の為事を奪ふばかりに、後の所謂竹林楽なる挽歌が進んで来たのは、死霊を慰めた遊部の歌舞と、ほかひゞとの進んだ詞句との交渉があつたであらう。遊部は舞を専にし、ほかひが竹林楽の詞曲を作成する時が来た。其が、宮廷詩人の初まりである。喪事から段々離れ、醇化して宴席の曲その他を作る様に進んで来るが、新よごとの製作は、段々散文化すると共に、教養ある学曹の手に移つて行つた。
一方神遊びの詞曲・狂乱の舞踊の文句は、古伝ある物以外は、民謡・童謡をとつて、此側の出身者の手を煩さなかつたのであらう。
古墳の多い奈良南郊に本貫のある柿本氏は、遊部・ほかひに何の関係もないか。私は、人麻呂をほおまあにして、更に詩形に改革を促したものと考へてゐる。ほかひの家元とも言ふべきよごと部・ほかひ部の伴造ではないか。柿本氏が倭朝廷の遊部又は「吉言部」から出たとすれば、極めて意味のあることになるのだ。私は、人麻呂が、山陰の西、中国を歩いて居るのは、ほかひゞとの足跡の及んで居た一部を示すものかと思ふ。
ほかひゞとの間に、文芸の才の優れた者が続出するうちには、叙事詩としておもしろいものゝ新作が出来て来るであらう。宅守相聞の如きは、単に文人意識ある有識者の手で作られたものと言ふより、ほかひゞとの補綴によつてなつた「組み歌」なること、ずつと後世の世阿弥の如き専門家の手で出来た、意識的に旧叙事詩を改作・補綴したものではないかと思ふのである。
右の仮説は、今は真の仮説に止るであらう。併し、宅守・茅上相聞の歌が、創作詩でないことだけは考へねばならぬ。
我々の国に於て、異神の信仰を携へ歩いた事は、幾度であるか知れない。古く常世神・八幡神の如きが見えるのは、神道の上にも、段々の変遷増加のあつたことを示してゐるのだ。倭媛の如きも、実は日の神の教への布教者として旅を続けた人であつたのである。倭を出た神は、伊勢に鎮座の処を見出したのであつた。此高級巫女から伺はれる事実は、飛鳥・藤原の時代に既に、異教の村々を巡遊した多くの巫女のあつたことである。豊受ノ神は丹波から移り、安菩ノ神は出雲から来て居る。同時に古代幾多の貴種流離譚は、一部分は、神並びに神を携へて歩いた人々の歴史を語つてゐるのである。天ノ日矛の物語・比売許曾の縁起は、史実と言ふより、蕃神渡来の記憶を語るものであらう。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
※題名下に「大正十五年頃草稿」の記載あり。
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年頃草稿」はファイル末の「注記」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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