叙景詩の発生
折口信夫
|
一
私の此短い論文は、日本人の自然美観の発生から、ある固定を示す時期までを、とり扱ふのであるから、自然同行の諸前輩の文章の序説とも、概論ともなる順序である。其等大方の中には、全く私と考へ方を異にしてゐられる向きもあることは、書かない前から知れて居る。其だけ、此話は私に即して居る。私一人でまだ他人の異見を聴いてもない考へなのである。が、是非私の考へ方の様に、文学意識なり、民族精神の展開の順序なりを置き換へて貰はねば、訣らない部分が、古代は勿論、近代の自然美観のうへにも出て来ることゝ信じる。
国民性を論ずる人が、発生的の見地に立たない為、人の世はじまつてから直ぐに、今のまゝの国民性が出来あがつてゐた、と思はれて居る。江戸の犬儒や、鍛錬主義者の合理化を経た士道・武士道が、そつくり戦国どころか、源平頃の武家にも、其精神の内容として見ることが出来る、といふ風に思はれ勝ちである。もつと溯つて「額に矢は立つとも背に矢は負はじ」と御褒めにあづかつた、奈良朝の吾妻の国の生蛮を多く含む東人の全精神を士道そのものとし、更に古く「みつ〳〵し久米の子ら」と其獰猛を謡はれた久米部の軍人などの内界からも、物のあはれ知る心を探り出させるのである。
これは、研究法はよくても、態度に間違ひがあるからだ。日本の唯今までの辞書や註釈書が、どの時代に通じても数個の意義に共通し、其用語例の間を浮動して居るもの、と見て居るやり口に酷似して居る。此言語解釈法が根柢から謬つて居る如く、誤りを等しくして居る思想史や、文明史は、変つた考へ方から、すつかり時代の置き換へをして見ねばならない。定見家や、俗衆のためには、自己讃美あれ。当来の学徒にとつては、正しい歴史的内省がなければならぬと思ふ。私はわれ〳〵の祖先がまだ国家意識を深く持たなかつたと思はれる飛鳥の都以前の邑落生活の俤を濃く現して見て、懐しい祖先のいとほしい粗野な生活を見瞻らなければならぬ。
二
佐韋川よ 霧立ちわたり、畝傍山 木の葉さやぎぬ。風吹かむとす(いすけより媛──記)
畝傍山 昼は雲と居、夕来れば、風吹かむとぞ 木の葉さやげる
文献のまゝを信じてよければ、開国第一・第二の天皇の頃にも、既にかうした描写能力──寧、人間の対立物なる自然を静かに心に持ち湛へて居ることの出来たのに驚かねばならない。たとひ、此が継子の皇子の異図を諷したものと言ふ本文の見解を、其儘にうけとつても、観照態度が確立して居なければ、此隠喩を含んだ叙景詩の姿の出来るはずはないと思ふ。論より証拠、其後、遥かに降つた時代の物と言ふ、仁徳天皇が吉備のくろ媛にうたひかけられた歌
山料地に蒔ける菘菜も 吉備びとゝ共にしつめば、愉しくもあるか(仁徳天皇──記)
の出て来るまでは、叙景にも、自然描写にも、外界に目を向けた歌を見出すことが出来ないばかりか、歌の詞すら却つて段々古めいて、意味が辿りにくゝなるのである。すさのをの命の「やくもたつ」の歌の形の、後世風に整ひ、表現の適確なのと、其点同様で、疑ひもなく、飛鳥の都時代以後の攙入或は、擬作と思はれるものである。畝傍山の辺の風物の不安を帯びて居る歌の意味から、寓意の存在を感じて、綏靖即位前の伝説に附会して、織り込んだものと思はれる。
仁徳の菘菜の御製の方は、叙景の部分は僅かであるが、此方は自然に興味を持つた初期のものと見てもよい程、単純で、印象を強く出して居る。此も寧、抒情詩の一部であるが、畝傍山の歌よりは却つて古いものと思はれる。だが此とて、必しも仁徳御宇のものともきまらない。此位の自然観は、大体記録の順序通りに、此天皇の頃の物と見てもよろしい様だが、仁徳天皇に関係した歌謡は、全体として雄略・顕宗朝頃のものよりも、表現にも、形にも、理会程度からも、新しみを持つて居ると見られる。
後飛鳥期の歌で見ると、
山川に鴛鴦二つ居て 並ひよく 並へる妹を 誰か率行けむ(野中川原史満──日本紀)
新漢なる小丘が傍に雲だにも 著くし彷彿ば、何か嘆かむ(斉明天皇──同)
飛鳥川 みなぎらひつゝ行く水の 間もなくも思ほゆるかも(同)
山の端に鴨群騒ぎ行くなれど、我は寂しゑ。君にしあらねば(同──万葉巻四)
其外、此時代の歌と伝へる物を日本紀で見ると、
はろ〴〵に琴ぞ聞ゆる。島の藪原。
をち方のあは野の雉子とよもさず……
小林に我を引入れて姦し人の面も知らず……(巫女の諷謡)
被射鹿をつなぐ川辺の若草の……(斉明天皇)
と言ふやうに、極めて部分的ではあるが、単なる口拍子に乗つた連ね文句ではなく、外界を掴む客観力の確かさがある。だから主題に入つても、其修飾部分の効果が、深く気分にはたらきかけるだけの鮮明と、斬新とがある。
かうした序歌の断篇の中、始終くり返される様になつた流行文句は、皆さう言ふ印象深い客観描写の物であつた。「いゆしゝを」の句は、万葉にも使はれて居る。「をちかたの」はある地物の隔てを越して、向うを指す句で、景色が目に浮くところから、奈良朝に入つても「をちかたの……(地名)」と言ふ風に、融通自在に用ゐられる民謡の常用句であつた。又、万葉に繰り返される「わがせこを我が……松原……」なども、抒情的で居て、印象のきはやかさのある為であつた。
後飛鳥期(舒明──天武)の歌を疑へば、万葉の第一のめどなる柿本人麻呂の歌さへ信じる事が出来なくなる。万葉集にも、此時代をば、大体に於て巻頭にすゑる傾向のあるのは、記・紀記載の末に接して、ある確実さを感じて居たからであらう。
仁徳・雄略朝の歌などを、不調和に冒頭に据ゑたのは、古典・古歌集としての権威を感じさせる為であつたらう。だから、内容から言へば、後飛鳥期を以て、時代の起しとしたものと見てよい。鴛鴦・を丘の雲・みなぎらふ水・山越ゆる鴨群など、時代が純粋な叙景詩を欲して居たら、直に其題材を捉へて歌ふ事の出来る能力を見せて居る。唯、歌に叙景詩としての意識が、まだ生じなかつたのであつた。私は仁徳天皇の生活を記念する為の叙景詩中の歌が、多分後飛鳥期の初めに接するものだらうと言うた。尚一・二を引いて見る。
倭べに西風吹きあげて 雲離れ 隔き居りとも 我忘れめや(くろ媛──記)
叙景気分は、濃く動いて居る。「……生ふる薑脣ひゞく 我は忘れじ」など言ふ行きあたりばつたりの序歌とは違うて、確かに見据ゑて居る。把握して居る。
大人物・大事件を伝へる叙事詩から、脱落した歌と思はれるものは、大体に理解し易い文脈と、発想法とを持つて居る。建部の伝誦した物と思はれるやまとたけるの命に関するものも、安曇の民の撒布したと推察せられる大国主の情詩も、皆記・紀の時代の区別に関係なく、よく訣ること、後の木梨軽太子の情詩と、さのみ時代の隔りを感じさせぬ程である。私は、ほかひ人の手で、諸国に持ち歩かれた物は、固定の儘を伝へる訣に行かないで、時々口拍子から出る修正が加はり〳〵して、後飛鳥期の物と、直に続く様に見えるのではないかと考へて居る。
さすれば外的には、叙景の手法が既に発生して居り、内的には、抒情詩にも客観性がほの見えて来た理由が訣る。「小林に」などの、情景のかつきりして居るのも、其為である。
三
江戸の浄瑠璃類の初期には、必須条件として、一曲の中に必一場は欠かれなかつた──時としては二場・三場すら含むものもあつた──道行き景事は、中期には芸術化して、此部分ばかりを小謡同様に語ると言ふ流行さへ起した。さうして末期には、振はなくなつたけれども、曲中の要処とする習はしは固定して残つた。芝居には、末期ほど盛んになつたが、初期は簡単な海道上下の振事、或は異風男の寛濶な歩きぶりを見せるに過ぎなかつた。けれども、歌舞妓以前の芸能にも、道行きぶりの所作は、古く延年舞・田楽・曲舞などにも行はれて居た。「風流」の如きは、道行きぶりを主とする仮装行列である。日本の芸能に道行きぶりの含まれて来た事は、極めて古くからの事と思はれる。
私は此を、遠処の神の、時を定めて、邑落の生活を見舞うた古代の神事の神群行の形式が残つて、演劇にも、叙事詩にも、旅行者の風姿をうつす風が固定したものと考へて居る。記・紀の歌謡を見ても、道行きぶりの文章の極めて多いのは、神事に絡んで発達した為で、人間の時代を語る物も、道行きぶりが到る処に顔を出す事になつたのである。
だが今一方に、発想法の上から来る理由がある。其は、古代の律文が予め計画を以て発想せられるのでなく、行き当りばつたりに語をつけて、ある長さの文章をはこぶうちに、気分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に触れるものからまづ語を起して、決して予期を以てする表現ではなかつたのである。
神風の 伊勢の海の大石に 這ひ廻ろふ細螺の い這ひ廻り、伐ちてしやまむ(神武天皇──記)
主題の「伐ちてしやまむ」に達する為に、修辞効果を予想して、細螺の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巌を言ふ中に「はひ廻ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した処から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出して、そこから「伐ちてし止まむ」に到着したのである。
みつみつし久米の子等が 粟生には韮ひと茎。其根がもと 其根芽つなぎて、伐ちてしやまむ(神武天皇──記)
みつみつし久米の子等が 垣下に植ゑし薑。口ひゞく 我は忘れじ。伐ちてしやまむ(同)
此歌なども、久米部の民の家の矚目を順々に、粟原を言ひ、粟原に雑る韮の茎を見て、段々気分が纏つて来た際に、韮の根から、其を欲する心を述べ──其根が幹でなく、其根がもと言ふ所有の願望を示す「がも」である──根を掘る様を言ふ時既に、主題は完成して、「其根芽つなぎて」と根柢から引き抜く事の意より、其一党悉くを思ひ浮べ、直に「伐ちてしやまむ」と結着させたのである。第二首は説明が済んでゐるが、尚言へば、垣のもとの山椒の一種から「脣ひゞく」を聯想し、印象深く残つた一念を思ひ浮べて、其報復を欲する意を言ふ処に落ちついたのである。
……群鳥の わが群れ行なば 引け鳥の 我が牽け行なば、哭かじとは 汝は云ふとも、山門の一本薄 頸傾し 汝が哭かさまく、朝雨の さ霧に彷彿むぞ。……(八千矛神──記)
群鳥のわたるを仰いで、群れ行かうとする事を言ひ、其間に次の発想が考へ浮ばないから、ゆとりを持つ為に、対句として引け鳥を据ゑて、誘ひ立てられて、行かうとする事を述べ、やつと別れた後の女の悲しみに想到して、気強く寂しさに堪へようと云ふ女に反省させる様な心持ちを続けて来てゐる。そして目前の山門の薄の穂のあり様を半分叙述するかしない中に、うなだれて泣く別後の女の様を考へ、それから其穂を垂らす朝雨に注意が移つて、其細かな粒の霧となつて立ち亘つて居る状を言ひ進める中に、立つと言ふ語から転じて幻の浮ぶと言ふ意のたつに結びつけたのである。此などは、予期から出た技巧として見ると、なか〳〵容易に出来さうではないが、尻とり文句風に言うて居る中に、段々纏つて行つたものである。
此は一つには、時代として即興的にかけあひ文句を番へ争ふ歌垣などがあつて、さうした習練が積まれた事も、かうした発想法の自由さを助ける様になつて居たのである。併し此おほくにぬしの歌の様なのは、口頭の修正の重り加つたものと思はれる程、表現の的確な物である。山門の薄一本にかゝる朝雨を捉へて居る処も、客観描写の進んだ時代の物とすれば、不思議はない。修辞法の効果なども印象的に来るのは、「粟原の韮」や「垣下の薑」などの印象の淡い空虚な序歌となつて居るのと比べれば、そこに時代の進んで居ることが見える。神武記の物よりおほくにぬしの情詩の方が、新しい事は推せられる。更に時代の降つた応神紀の歌が、発想法から見れば、又却つて古い時代の物だと言ふ事を見せて居るのは、をかしい。
いざ吾君。野に蒜つみに 蒜つみに 我が行く道に、香ぐはし花橘。下枝らは人みな取り、秀枝は鳥棲枯し みつぐりの 中つ枝の 含隠り 赤れる処女。いざ。さかはえな(応神天皇──日本紀)
此などは全く、案を立てたものでない事が明らかだ。「いざあぎ」は語頭の囃し語で「いざ人々よ、謡ひはじむるぞ。聴け」と言ふ程の想を持つたのが固定して、あちこちの謡につくのである。
野で逢うた処女に言ひかけた歌であらう。──酒宴の節、髪長媛をおほさゞきの命に与へようとの意を、ほのめかされたのだとする記・紀の伝来説明は、歌にあはない。此は、さうした事実に、此歌の成立を思ひよそへた大歌(宮廷詩)についてゐた説明なのであらう。
野に見た処女の羞らうて家も名もあかさぬのに言ひかける文句をまづ、蒜つみから起して、一本立つ花の咲いた橘の木に目を移し順々に枝の様を述べ、恐らく其枝々の様子を、沢山の少女はあるがどれもこれも処女ではないのを不満に思ふ心に絡まし、直に主題に入りかねて、対句を利用した後、稍考への中心は出来て来たが、やはり躊躇しながら、中つ枝の様子を述べてゐる。此が却つて、外的には注意を集めるだけの重々しさを出して居る。中つ枝の伸びない、芽吹きの若さに心がついて、思ふ処女の人を恥ぢる、まだ男せぬ女らしい艶々しい頬の色を讃美する点に達したものだ。但、此歌は、まだ続きの文句か、第二首目かゞあつたのが、脱落した儘で伝つたものと思はれる。
此に答へたおほさゞきの歌も、必しも赤れる処女を貰うた礼心の表されたものとは云はれぬ。
水たまる 依網の池に 蓴くり 延へけく知らに 堰杭つく川俣の江の 菱殻の刺しけく知らに、我が心し いや愚癡にして(大鷦鷯命──日本紀)
歌から見ると、危険が待ちかまへて居たのも知らないで、ひどい目に遭うた自分の愚かさを、自嘲する様な発想と気分とを持つてゐる。依網の地の池から、池にある物に結びつけて、色々なものゝ水の下にあつたものも知らずに居た。さうして、刺のある水草にさゝつたと言ふのである。此歌も何だか、ある部分の脱落を思はせる姿である。
石上 布留を過ぎて、薦枕 高橋過ぎ、物さはに 大宅過ぎ、春日の 春日を過ぎ、つまごもる 小佐保を過ぎ、
平群ノ鮪の愛人かげ媛が、鮪の伐たれたのを悲しんで作つた歌の大部分をなして居るこれだけの文章は、主題に入らないで、経過した道筋を述べたてゝゐるだけである。さうしてやつと眼目の考へが熟して来て、
たま笥には飯さへ盛り、たま盌に水さへ盛り、
と対句でぐづ〴〵して後、
哭きそぼち行くも。かげ媛 あはれ(かげ媛──日本紀)
と、極めて簡単な解決に落着してゐる。この中の「かげ媛あはれ」は、囃し語として這入つたもので、元来の文句は「哭きそぼち行くも」で終つて居るのである。これも実際は、かげ媛の自作ではなくて、平群氏に関聯した叙事詩の中の断篇か、或は他の人の唯の葬式の歌かゞ、かうした伝説を伴ふやうになつたのであらう。ともかくも、口に任せて述べて行く歌の極端な一例である。似た例がいはの媛にもある。
つぎねふや 山城川を 宮のぼり 我が溯れば、あをによし 奈良を過ぎ、をだて 倭邑を過ぎ、我が見が欲し国は、葛城 高宮 我家のあたり(いはの媛──記)
前と違ふ点は、叙事に終止しないで、抒情に落してゐる所だけである。おなじ時に出来たと言ふ今一首は、道行きぶりの中に、稍複雑味が加つて居る。
つぎねふや 山城川を 川溯り 我がのぼれば、川の辺に生ひ立てる烏草樹を。烏草樹の樹 其が下に生ひ立てる葉広五百つ真椿。其が花の 照りいまし 其が葉の 張りいますは 大君ろかも(同)
此歌は、日本紀の方の伝へは、断篇である。此古事記の方で見ると、道行きぶりから転化して物尽しに入つて居る。道行きぶりも畢竟は地名を並べる物尽しに過ぎない。併し既に言うたとほり尚、神群行の神歌の影響が加つて、物尽しの外に日本の歌謡の一つの型を作つたのである。
四
物尽しの、古代に於て、一つの発達した形になつたものは「読歌」である。此は、節まはしが少くて、朗読調に近いからだと説かれて来たのは、謂はれのないことである。さうした謡ひ方は、古代から現今まで言ふ所の「かたる」と言ふ用語例に入るのである。「よむ」の古い意義は、数へると言ふ所にある。つまりは、目に見える物一つ〳〵に、洩らさず歌詞を託けて行く歌を言ふので、後には変化して、武家時代の初めからは「言ひ立て」と称せられてゐる物の元となつたのである。今の万歳の柱ぼめ・屋敷ぼめの如く、そこにある物一々に関聯して祝言を述べ立てる歌であらうと思ふ。ほぎ歌の一種、建て物に関したものが、後には、替へ歌などが出来て、読み歌の特徴を失ひ、唯、調子だけの名となつたが、尚「言ひ立て」風の文句を謡うたものと思はれる。
ほぎの詞には、歌になつたものと、やゝ語りに近いものとがあつた。前者がほぎ歌であつて、後者は寿詞と称せられた。寿詞は、祝詞の古い形を言ふので、発想法から、文章の目的とする相手まで、祝詞とは違うて居る。よごとは生命の詞、即「齢詞」の義が元である。
寿詞の中、重要なものは、家に関するものである。新室ほかひ或は、在来の建て物に対しても行はれて、建て物と、主人の生命・健康とを聯絡させて、両方を同時に祝福する口頭の文章である。柱や梁や壁茅・椽・牀・寝処などの動揺・破損のないことを、家のあるじの健康のしるしとする様な発想を採る所から、更に両方同時に述べる数主並叙法が発生した。だから、天子崩御前の歌に、建て物の棟から垂れた綱を以て、直に命の長いしるしと見る寿詞の考へ方に慣れて、屋の棟を見ると、綱の垂れて居る如く、天子の生命も「天たらしたり」と祝言する様な変な表現をしてゐる。天智の御代のことである。
天の原 ふり放け見れば、大君の御命は長く、天たらしたり(倭媛皇后──万葉巻二)
此表現の不足も寿詞に馴れた当時の人には、よく訣つたのであらう。
寿詞は、常に譬喩風に家のあるじの健康をほぐが、同時に建て物のほぎ言ともなるのである。かうした不思議な発想法から、象徴式の表現法も生れ、隠喩も発生した。勿論直喩法も発達した。併し、概して言へば直喩法は、後飛鳥期にもあつたが、藤原期の柿本人麻呂の力が、主としてはたらいて、完成した様である。
隠喩及び象徴法は、寿詞の数主並叙法から発生したと言うてよいが、尚他にも誘因があるとすれば、前の出まかせの叙述法が其である。此並叙法を寿詞が採る様になつた根本理由は、今は述べない。日本文学の発生を論ずる文章で、近く発表する心ぐみである。
顕宗天皇の伝説で見ても、室寿詞が一面享楽的な文章を派生してゐる様子が見える。神に扮した人が、神の資格に於て、自らも然う信じて新室に臨んだ風が、段々忘れられて、飛鳥朝の大和辺では、其家よりも高い階級と見られる人が賓客として迎へられ、舞人の舞を見、謡を聞く事は勿論、舞人なる処女を一夜の妻に所望して、その家に泊つた事は、允恭紀に見える事実である。新室のほかひ(ほぎ──祝福)が、段々「宴」と言ふ習俗を分化した元となつた事は、此ほか万葉集などを見ても知れる。
新むろを踏静子(?)が 手玉ならすも。玉の如 照りたる君を 内にと、まをせ(万葉集巻十一)
新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如 嫋へる処女は、君がまに〳〵(同)
此旋頭歌は、もはや厳粛一方でなく、ほかひの後に、直会風のくづれの享楽の歌が即座に、謡はれた姿を留めて居るものではないか。歌垣のかけあひに練り上げた頓才から、室の内外の模様に出任せに語をつけて、家あるじの祝福、賓客の讃美などの、類型式ながら、其場の興を呼ぶ事の出来る文句が謡はれる風が出来て来た。其が家を離れない間は、単なる叙景詩の芽生えに過ぎないといふ点では、道行きぶりや、矚目発想法や、物尽しから大して離れることが出来ないばかりか、性的な興味を中心にする傾向に向ひさへしたらう。処が古代人の家屋に対する信仰や習癖が、特殊な機会に、古くから外界に向いてゐた眼を逸らす事なく、譬喩化する事なく、人事以外の物を詠む事に価値を認める心を養うて居た。此が日本の叙景詩の始まりである。又歌における純客観態度の成立する様になつた原因なのだ。
五
其考へられる原因は旅行である。国家意識の盛んになつて、日本の版図の中を出来るだけ見ようとする企ては、後飛鳥期から著しくなつて来る。伝説的には遠方に旅した貴人の行蹟は語られてゐるが、多くは遠くより来り臨んだ邑落時代の神の物語の、人間に翻案せられたものである。
遠国への旅行が、わりに自由にせられる様になつたのは、国家意識の行き亘つた事を示してゐる。此は前飛鳥期からの事で、東国のある部分を除けば、西は九州の辺土も、あぶない敵国の地ではなくなつた。
併し、地方官や、臨時に派遣せられる官吏たちの見聞が、直に彼等を動かして、叙景詩を発明させたと言ふ事は出来ない。天子の行幸も段々かなり遠方に及ぶ様になつた。狩り場に仮小屋を構へても、家居の平生に見る外界よりは、刺戟の新なものがあつた。「家なる妹」を偲ぶ歌ばかり口誦して居られない様に、徐々に叙景の機運が向いて来た。
其又妹を偲ぶ歌も、実は純粋に自分を慰める為のものではなかつた。奈良朝も末になつて、おのれまづ娯しむ歌は出来て来たが、其までは皆相手を予想して居た。其も一人の恋人を対象とした様な作物は、後世の惝怳家の空想によつて、万葉集中に充満して居る様に思はれて来たが、ほんとうは大抵多人数の驚異をめどに据ゑた、叙事脈の抒情詩であつたのである。旅行中に家人を恋しがつた歌の多くは、同行の旅人の共通の感情を唆る処に立ち場があつたのだ。其等の歌は、旅のうたげの席で謡はれ、よく人々の涙を絞つて、悲劇の中に、生の充実と、人情の普遍を感得して、寂しい歓びを味ふのと似た慰みを感じさせれば、其歌は都の人々の口に愛誦せられる様になる。現に万葉集の覊旅歌や相聞の部に収めたものゝある部分は、さう言つた道筋を通つて、世の記憶や、記録の上に、簡単ながらある生活の俤を留めたのである。
一体、旅のうたげはどう言ふ時に行はれたか。私は、古代の遺風として、後飛鳥期に入つても、新室のほかひは厳重に行はれ、たとひ一泊するにしても、新しく小屋をかければ、寿詞を唱へなければ、安心してそこに仮寝の夢を見る気にはなれなかつたものと信じる。人家に宿る場合は屋敷を踏み鎮め、祓へを行ふ事によつて安らかに居つく事が出来、山野海岸に仮廬を作つた場合は、必、新室のほかひをした。さうして直会なる新室のうたげを行うた事と考へるのが、間違ひとは思はれない。
私も以前は、旅の途すがら、海原を見霽し、美しい花野の展けて居る場処に来た旅人たちが、景色にうたれて、歌を詠じたものと考へて居た。併し其は単なる空想であつた。仮小屋でも、新室は新室である。うたげの場処で、即興に頓才を競ふ心持ちを持つた人々が、四顧の風景の優れた小屋に居て、謡ひ上げる歌は、段々其景を叙することに濃かに働いて来る。景を以て情を抒べる方便にばかりは、使つて居られなくなつて来た。
六
其に一つは、漢魏以後の支那文学の影響が、帰化した学者・僧侶や、留学帰朝者などから、直接に授けられた時代である。我々が考へる平安朝初期、嵯峨天皇を中心とした漢文学の盛況と比べて、文章に於てこそ、発想の自由を欠いた痕が見ゆれ、学問としては、容易に優劣をきめる事も出来ぬほどに進んで居はせなかつたかと考へられるのである。書物にしても、学者の文庫に存在を晦まして居たにしても、日本見在書目録・本朝書籍目録などの筆者の、聞きも見もしなかつた物さへ渡来して居たらう事は、空想でない証拠が、ぼつ〴〵ながら挙つて来て居る。有識有位の階級には、見てくれや物ずきからも、第試の必要からも、普通知識の嚢と見なされた書物は読まれた。併し奈良朝或は其以前から、日本人の文学ずきで、硬い学問を疎にしたらう形跡は見えて居る。其が平安朝になると、目に見えて激しくなり、官吏登庸試験も課目が替り、学吏の向ふ専門の道々すらも、堅い方面は廃止になつて了うた。
晋書張文成の列伝に、朝鮮・日本の旅客が、張文成の門に到つて、片紙でも貰ひ受けようとする者の多い事を記して居る。今まで、一言半句も、文章を生む苦しみを経験せない、永い祖先以来の生活の後、俄かに漢文学を模倣して書くだけの能力は、社会的にまだ熟しても居ない。まだ〳〵懐風藻に残つた作物が、文学の才能の宿命として欠けて居る民族でもなかつた事を喜ばせるに十分である。まづ入り易いのは、散文よりも、詩なり賦なりの韻律を持ち、形式の束縛さへ甘受すれば、ともかくも形だけは整へる事の出来る文体に赴くのが、初学者の択ぶ普通の道でもあり、又社会から見ても、律文にはある自在を持つて居たのである。だから懐風藻類似の文集が幾つ出て来ても、多くは詩賦を以て埋められて居ることだらう。拠り処のない漢語の散文は、帰化人の子孫でもなければ、思ふ様に意思を表す事すら、むつかしかつたらうと考へる。
けれども読む方と知得する事には相当な発達をしてゐた事と思はれる。手に入れ易い書物の影響は勿論、後世伝はらない文学書の感化さへ見えて居て、それが万葉集にも現れて居るのである。私は人麻呂が支那の詩の影響を受けて、対句・畳句其他の修辞法を応用したといふ様な考へは、もう旧説として棄てゝもよいと思うて居る。社会の持つ響きを感じて、それから来る漢文学的影響位は出したかも知れぬが、漢学の素養があつて、あの詩形が出来たなど言ふのは、古代からの歌謡の発生の道筋に晦い人である。文学が宗教意識に随伴して生れるため、変態心理を寓した形式の上の相似形を、支那特殊の発生と信じて居る様な考へ方は、今では何の権威もなくなつて居る。人麻呂には見られぬ影響も、官吏の日本の詞曲を喜ぶものには、ある俤を其作つた歌の上に寓したことは、疑はれないと思ふ。
七
支那の宮廷文学に著しいのは、荘重を尊ぶ傾向と、ともすれば淫靡に堕せむとする享楽態度とである。民間の説話なる小説には、唐以前に淫楽と華美とが現れ過ぎる程に見えてゐるが、宮廷や貴族の文学の公表する意図を以つて書いたものにすら、其が見える。性と恋愛との方面は、日本の奈良朝盛時の抒情詩に絡んで来るのであるから、今は言はぬ。
我が国のうたげと似て、宴遊を頌し、宮殿・園林を讃する何層倍も大じかけである方面は、有識の官吏に響いた。風俗を模する以外に、文学の側にも、多少の投影が意識無意識に拘らず、覊旅のうたげや、離宮や、遠国への行幸の際の宴席の即興歌の上に現れずには居なかつた。
日本人固有の表現法からして、外界を描写する態度の、そろ〳〵発生して来たものが、宴歌殊に旅の新室の宴席の当座詠によつて、愈正式な叙景の姿をとりはじめたところへ、多少支那の宮廷文学の匂ひが、此にかゝつて来た。其為、叙景詩は藤原ノ都の時代には、既に意識に上つて来て居た。さうして抒情詩が、容易にかけあひ・頓才・感情誇張・劇的刺戟を去る事の出来ないで居る間に、人麻呂の大才を以てしても、純恋愛詩・抒情詩の本格を握ることの出来なかつた間に、既にまづ高市黒人の観照態度を具備した叙景詩が生れた。さうして、直に続いて、山部赤人が現れて、叙景詩の本式なものを示して居る。
柿本人麻呂も既に、次の時代の暗示者たる才能の上から、意識はしなかつたらうけれども、宴歌又は旅の歌に、叙景の真髄を把握したものを作つて居た。唯意識の有無を文学の価値判断に置く時は、人麻呂はまだ渾沌時代にあつて、大きな価値をつける訣には行かない。
唯言ふべきは、離宮行幸が、全く支那の宮廷生活を模した宴遊であつた事だ。持統天皇の如きは、如何に半日もかゝらない道のりとは言へ、吉野の宮へは、日本紀に載せたゞけでも、驚く程しつきりなく出かけられた。そして、都からやつと半みちの飛鳥の神丘へ行かれた時も、人麻呂は帝王を頌する支那文学模倣とも言へば言はれさうな歌を、こと〴〵しく作つてゐる。
宴遊の中、日がへりの旅にも、行つた先で宴歌を作るのは、其行事が外国の写しだけに、歌詞も支那を学んで、小屋をさへ造らぬにかゝはらず、宴歌がやはり歌はれる事になつたのだ。つまり、日本の遠来神を迎へた式が賓客歓待の風に変つても、古義だけは残つて居たのを、すつかり変へて、新しい宴会の様式がはじめられた事になる。此が日本のうたげの中途の暫らくの気まぐれな変化で、後には又元の方法に近く戻つて来た様である。でも其間にやはり、古い意義を存して、天子外出の時の方法としての警蹕・反閇の形を、少しく大きくして、新室ほかひのない宴遊をしたものと考へられぬでもない。
八
日本に於て、最危い支那化の熱の昂まつてゐたのは、飛鳥時代の前後を通じての事で、殊に末に行く程激しさを加へた。中途に調和者の姿をとられた天武天皇も、実はやはり時代病から超越出来なかつた。唯其が内面に向うて行つた為に、反動運動者には歓ばれ、世間の文化も実際に高まつて来た。だから、此天子の世の文化施設の細やかな所まで、手の届いて居る事も、基く所を思はせて、有効でありさうな事に、着実な方針が秩序立つて現れて居る。
藤原の都は、国力の充実せぬのに、先進国から見くびられまいと努める表向きの繕ひや、文化の敷き写しに力を籠めてゐた時である。而も、今までの粗野で、寂しい、狭い量見を持ち合うてゐた世間観が改まつて、急に明るみへ出た様に、民族性がはなやかに張つて来て、広い心を持つて、強く歩く事を知つて来た時の様である。時代の中心勢力は空疎な概念で働いて居ても、はでやかな時代の流れが世間を浮き立たせて、快活な生を味はしめ、社会の底に自信力を動き出さしめる。此は、秀吉在世当時を見ても、綱吉在世の時代を見ても、明らかな事である。うはついた時代だからと言うて、国民生活が悪く傾くとは言はれない。却つて小さな善悪をのり超えた、張り充ちた社会意力が出て来る事が多いのである。民族なり、国民なりの側から見れば、讃美してよい時勢だと言へる。だから、持統天皇及び其周囲の豪華な生活が、俄かに、国の生活に張り合ひを感じさせ、案外に良い結果が来た。大抵、さうした場合、一等其利益を受けるのは芸術である。此時期に、人麻呂が出たのも不思議はない。でも、其時勢を、すぐに明治の鹿鳴館が象徴した世相と一つに見てはならぬ。
古代からの社会組織は、既に天智・天武の御宇の剛柔二様の努力で、ほゞ邑落生活の小国の観念が、郡制の下に国家意識に改まりかけて来たし、小国の君主たる国造は、郡領として官吏の列に加へられ、国造が兼ねて持つてゐた教権は政権と取り離され、国家生活の精神の弘通を妨げる邑落時代からの信仰は、宮廷の宗教に統一せられようといふ意図の下に、国造近親の処女は采女として宮廷に徴されて、其信仰儀礼に馴らされた。全体として見れば、新しく目をあいた宮廷生活が、豪華な気分に充ちてゐたのは、道理でもあり、よい事でもあつた。支那模倣も、よい側から見れば、新しい国家意識を叩き覚ます為の、内国へ対しての示威ともなつて居た。
此時勢に、人麻呂は恐らく大和の国の添上の柿本に出たことゝ思はれる。彼が宮廷詩人として、宮廷の人々の意志を代表し、皇族の儀式の為の詞曲を委託せられて製作した痕は、此人の作と伝へられる万葉集の多くの歌に現れてゐる。作者自身の感激を叫びあげたにしては、技巧の上に新味は出して居ても、結局類型を脱せないものが多い。吉野の離宮の行幸に従うて詠じた歌や、近江の旧都を過ぎた時の感動を謡うた歌の類の、伝習的に高い値を打たれた物の多くが、大抵は、作者独自の心の動きと見るよりも、宮廷人の群衆に普遍する様な安易な讃美であり、悲歎である。
けれども人麻呂は、様式から云へば、古来の修辞法を極端に発展させて、斬新な印象を音律から導き出して来る事に成功した。譬喩や、枕詞・序歌の上にも、最近の流行となつてゐるものを敏感に拾ひ上げて、其を更に洗ひ上げて見せた。形の上で言へば、後飛鳥期の生き生きした客観力のある譬喩法を利用して、新らしい幾多の長短の詞曲を、提供した。同時に生を享けた人々は、其歌垣のかけあひにも、或は宴席の即興にも類型を追ふばかりであつた。才に餓ゑ、智にかつゑ、情味に渇いて居た時代の仰望は、待ち設けた以上に満されたであらう。
天才の飛躍性は、後世の芸論に合ふ合はぬよりは、まづ先代から当代に亘つて、社会の行くてに仄めく暗示を掴むことであり、或は又新らしい暗示を世の中に問題として残す力を言ふのである。人麻呂は其をした。ある点、後生が育てる筈の芽・枝までも、自分で伸ばし、同時に摘み枯らした傾きがある。だから長歌は、厳格な鑑賞の上から言へば、人麻呂で完成し、同時に其生命を奪はれた。
奈良の詞人の才能は、短歌に向うてばかり、益伸びて行つた。長歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。奈良朝も、後になるほど、長歌の製作力が、世間全体になくなつて来る。憶良の長歌の如きも、知識と概念との、律動の伴はぬ羅列だ。一貫する生命力を感受する事の出来ぬ生ぬるい拍子によろけて居る様に見える。
特に憶良の歌に著しく所謂延言の多く用ゐられたのは、音脚に合せる為で、此点から見ても長歌は、奈良初期に既に生命を失ひ、中期には、残骸となつて居た事が知れる。高橋虫麻呂の長歌の如きも、かなりの長篇はあつても、皆、叙事詩の題材を、実際叙事的に生ぬるく叙述したに過ぎない。だから末期の家持等になると、昔を憧れる心から、人麻呂の筆法をなぞつても、勿論古風な荘重味は、かけても見出されない。
柿本人麻呂の作と伝へる歌には、宮廷詩人(大歌作り)として職業意識から、さうしてまだ個性を表現するまでに到らなかつた時代の是非なさ、類型に堕ちた代作物がうんとある。だから、普遍的の低級な熟せない創作動機から出来た其等の作物を以て、人麻呂の芸術を論ずるめどとしてはならぬ。又、其から人麻呂の伝らぬ伝記の資料をとり出すには、大変な注意がいる。人麻呂の作とせられて居ないもので、人麻呂に代作を依頼した人、又は其を謡うた人々の作物の様に思ひ做されて来り、前書きも其人々の作として出されたものも沢山ある。
人麻呂が天武持統の皇子たちの舍人であつた証拠として挙げられてゐる三四種の歌などは、実は舍人等の合唱すべき挽歌として、人麻呂が自身の内にない空想から作り上げたものである。従つて実感の出ようはずはない。芸術意識を持ち始めてから、久しい年月を経た後世の社会なら、天才の直観力で、他人の体験に迫つて行く事も出来よう。が、まだ芸術意識の尠しもない応用的な言語の羅列から、自身の意力で、半ば芸術に歩みよせた程の人麻呂であつた。様式の美──ある条件をつけての声調の快さだけでも、人麻呂の手柄が、紫式部・西鶴・近松・芭蕉の立派な作品よりも、高く値打ちをつけても、異存を挟む事は出来まい。
人麻呂の長歌──代作と推定せられるものでも──についた反歌は、長歌其ものより、いつも遥かに優れて居て、さすがに天才の同化力・直観力に思ひ到らされる物が多い。人麻呂を悲劇の主人公と考へたがる人が多い。だが、人麻呂は、たとひ其が、実感に充ちた体験の具現せられたものであつた場合にも、底の気分は、語の悲しさに沈まないで、ゆつたりとしてゐる。此は人麻呂の宮廷詩人としての鍛錬から来たとも考へられる。だが、逆に個性の出るせつぱつまつた心持ちに到らない場合には、類型の思想と、技巧の古風で堂々とした、そして若干の新流行をも織りこんだ、様式の美しさを以て塗りつぶして来た常習が、個性の表現を鈍らせ、感激を枉げて了ふのである。芸術意識が現れて居たとしたら、もつとつゝこんだ心境を見せたであらうと言ふ非難も出さうである。併しつきつめた情熱に、止むにやまれずあげた叫びと思はれて来、或は又万葉びとの素朴な、烈しく愛し、深く悲しむ事の出来た心の印鑰として、伝習的に讃美の語を素人・くろうとから受けて来た歌の大方は、大抵は叙事脈に属する謡ひ物で、誇張の多い表現に過ぎないのである。
東歌の如きも、又誰にも素朴な物と言ふ予期を以て向はせる民謡(小唄)集でも、窮境に居て発した情熱と見えるのは、実は叙事詩の類型に入つた、性愛のやるせなさをまぎらはす為に、口ずさみ〳〵した劇的構造のまじつた空想歌に過ぎないものが多い。作者の歌を作つた境涯を歌から想像して見ると、其叫びの洩れるはずのない物が多い。其多く製作せられる場所は、歌垣の庭の頓才問答・誇張表現・性欲から来る詭計・あげあしとり・底意以上のじやれあひなどが、実感を超越して、一見激越した情熱にうたれる様な物を生み出させたのである。尤、さうした物の出来るのも、社会の底の生活力が、荒くて、強かつた時勢の現れと言ふ点だけに、尚古家の予期する万葉人の強い生命を認める事は出来る。たゞさうした成立に伴ふ表現法は、古代芸術に関した鑑賞法を、根柢から換へて見ねばならない事を思はせるのである。
九
人麻呂の作物に静かで細かい心境のみが見えるのは、人麻呂が時流を遥かに抜け出て、奈良末期の家持の短歌に現れた心境に接続してゐる処である。其程其点でも、知らず識らずにも、長い将来に対して、手が届いてゐた事を示してゐる。人麻呂の達した此心境は、客観態度が完成しかけて来た為だ、と思ふのが正しいであらう。此静かな方面を更に展開したのは、高市黒人である。近江の旧都を過ぎる歌にしても、人麻呂のも短歌は優れて居るが、黒人の歌の静かに自分の心を見てゐるのには及ばない。
漣の滋賀の辛崎、幸くあれど、大宮人の船待ちかねつ(人麻呂──万葉巻一)
漣の滋賀の大曲、澱むとも、昔の人に復も遭はめやも(同)
古の人に我あれや、漣の古き宮処を見れば 悲しも(黒人──万葉巻一)
漣の国つ御神の心荒びて、荒れたる宮処見れば 悲しも(同)
黒人の歌は、伝統を脱した考へ方を対象から抽き出してゐる。後の方は叙事風に見えるが、誰もまだ歌にした事のない時に、静かな心で、史実に対して、非難も讃美も顕さないで、歌ひこなして居る。没主観の芸道を会得してゐた様である。一・二句などは、誇張や、事実の興味に踏みこみ易い処を平気で述べてゐる。主観を没した様な表現で、而も底に湛へた抒情力が見られる。此が今の「写生」の本髄である。
第一首は、これに比べると調子づいては居るが、此はもつと強い感動だからである。併し、人麻呂の場合の様に、如何にも宴歌の様な、濶達な調子で、荘重に歌ひ上げる様な事はして居ない。人麻呂のには、悲しみよりは、地物の上に、慰安詞をかけてゐる様な処が見えるのは、滋賀の旧都の精霊の心をなだめると言ふ応用的の動機が窺はれる。よい方に属する歌であるが、調子と心境とそぐはない処がある。
黒人は静かに自身の悲しみや憧れる姿を見て居た人である。抒情詩人としてはうつてつけの素質である。数少い作物の内、叙景詩には、優れた写生力を見せ、抒情詩にはしめやかな感動を十分に表してゐる。さうした態度の意識は恐らくなかつたらうが、素質にさうした心境に入り易い純良で、沈静した処があつた為、創作態度を自覚した時代に入るに、第一要件だつた観照力が自ら備つて居たのであらう。
何処にか 船泊てすらむ。安礼ノ崎 漕ぎ廻み行きし枻なし小舟(黒人──万葉巻一)
夜ふけて、昼見た唯一艘の丸木小舟のどこかの港で船がゝりした様子を思ひやつてゐるのである。瞑想的な寂けさで、而も博大な心が見える。
黒人の此しなやかさの、人麻呂から来てゐる事は、明らかである。叙事詩や歌垣の謡や、ほかひ人の流布して歩いた物語歌の断篇やら、騒がしいものばかりの中に、どうしてこんなよい心境が、歌の上に現れたのであらう。此は、恐らく、悲しい恋に沈む男女や、つれない世の中に小さくなつて、遠国に露命を繋ぐ貴種の流離物語や、ますら雄といふ意識に生きる、純で、素直な貴種の人が、色々な艱難を経た果が報いられずして、異郷で死ぬる悲しい事蹟などを語る叙事詩が、ほかひ人の手で撒き散らされて、しなやかな物のあはれに思ひしむ心を展開させたのである。其が様式の上には、豊かな語彙を齎し、内容の方面では、しなやかで弾力のある言語情調を、発生させたのである。
印南野も行き過ぎ不敢思へれば、心恋しき加古の川口見ゆ(人麻呂──万葉巻三)
笹の葉はみ山もさやに騒げども、我は妹思ふ。別れ来ぬれば(同──万葉巻二)
内外の現象生活がぴつたり相叶うてゐる。日本の短歌に宿命的の抒情味の失せないのは、人麻呂がこんな手本を沢山に残したからである。長歌の方では、完全に叙景と抒情とが一つに融けあつてゐるのは尠い。まづ巻二の挽歌の中にある、通ひ慣れた軽の村の愛人が死んだのを悲しんだ歌などを第一に推すべきであらう。つまりよい歌になると、人麻呂のも黒人のも、情景が融合して、景が情を象徴するばかりか、情が景の核心を象徴してゐる様に見えるのである。
もみぢ葉の散り行くなべに、たまづさの使を見れば、会ひし日思ほゆ
と言ふのは、其挽歌の反歌であるが、黄葉の散るのを目にしてゐる。其時に、自分の脇を通つて遠ざかつて行く杖部──官用の飛脚の様なもの──を見ると「わが家へも、ひが呼びに来たことがある。あのまだ生きて会うた日のことが一々思ひ出される」と言ふので、沈潜といふより、事件の興味で優れてゐる歌だが、此も叙事に流れず、主題の新しく外的に展つて行つた道筋がよく見える。調子も、落ちついて、寂々と落葉を足に踏みながら過ぎる杖部の姿が、耳から目に感覚を移して来る。それが、すつぽりと、悲しい独りになつた自覚に沈んでゐる内界と、よく調和してゐる。
純抒情の歌は、やはり少し劣る様である。まだ抒情態度は完全に発生して居ない。人麻呂自身の糶り上げた抒情詩も、黒人だけの観照態度が据ゑられなかつたのも無理はない。黒人の方は寂しいけれども、朗らかである。しめやかであるけれど、さはやかな歌柄である。
わぎも子に猪名野は見せつ。名次山 角の松原 いつかしめさむ(黒人──万葉巻三)
など、軽い心持ちで歌つてゐる中に、黒人のよい素質がみな出てゐる。妻を劬る心持ちの、拘泥なく、しかも深い愛をこめて見える。宴歌として当座に消え失せなかつたのも、故のあることである。
住吉の榎津に立ちて、見わたせば、武庫の泊りゆ 出づる船びと(同)
磯齒津山 うち越え来れば、笠縫の島漕ぎ隠る 枻なし小舟(同)
殆どすけつち風の写生である。かうした初歩の写生は、詩歌の上には値うちの低いものであるが、藤原ノ都の時代に、かうした主観を離れて了うた様な態度に入る事の出来たのは、此人の発明の才能が思はれる。情景相伴ふのは、日本の短歌の常になつては居るが、其が発生したのは、古代の詩の表現法をひた押しに押し進めたゞけであつて、天分の豊かな人が此上に、自分の詩境を拓いたのに過ぎない。歴史的に不純な物の多い宴歌の形を、殆ど純粋といふ処まで推し進めたのは、驚いてよい事だ。此も朗かさが持つ自在の現れであらう。
一〇
赤人になると多少概念と、意図がまじる様である。「田子の浦ゆ」の歌を見ても、没主観は右の黒人の歌に似てゐるが、「ま白にぞ……雪はふりける」と言ふ処に、拘泥が見える。
み吉野の象山の際の木梢には、許多も騒ぐ鳥の声かも(赤人──万葉巻六)
ぬばたまの夜の更けゆけば、楸生ふる清き河原に、千鳥頻鳴く(同)
写生の上々と評されてゐる歌である。山の際の木立を心に浮べて、鳥の声を聴き澄してゐるのだ。寝てゐるのである。目に山の際を仰いでゐる場合としても、又変つた味ひが生じる。鳥の声に心静かに聴き入つて居る。此歌の中には、深い暗示のこもつて居る様な気がする。見事、其霊を捉へた歌である。此歌も次の歌も、聴覚から自然の核心に迫らうとしてゐる。聴覚による新しい写生の方法を発見してゐる。ともすれば、値打ちの怪しまれる叙景詩も、こゝまで来れば、芸術としての立ち場は犯し難い。赤人は聴覚で自然を観ずるのが得意だつたか。
朝凪ぎに楫の音聞ゆ。御饌つ国 野島の海部の船にしあるらし(万葉巻六)
赤人の歌は人麻呂のに比べると、全体として内容的になつて、形式美をあまり重んじてゐない。人麻呂の様な、形式の張り過ぎた歌は少い。さうして、単純化する力は十分に持つて居た。同じ時代に居てやゝ年長と思はれる笠金村などが、人麻呂を学んで脱することの出来ないで居る間に、赤人は自分の領域を拓いて行つた。彼がまづ拓いたと思はれるのは、趣向のある歌である。自然を矯める傾向はそこに兆したが、みやびと言ふ宮廷風・都会風の文学態度を創立して、都と鄙との区別を立てる様な傾向の先駆をした。
春の野に菫つみにと、来し我ぞ、野を懐しみ、一夜寝にける(万葉巻八)
あしびきの山桜花、日並べてかく咲きたらば、いたも恋ひめやも(同)
吾が夫子に見せむと思ひし梅の花。それとも見えず。雪の降れゝば(同)
明日よりは、春菜摘まむと標めし野に、昨日も 今日も 雪はふりつゝ(同)
所謂ますら雄ぶりから遠ざかつたたをやめぶりを発生させたのは、この人である。邑落生活を忘れ、豪族は官吏としての意識を明らかに持つ様になつた奈良の中期には、もう都鄙・官民の別を示すだけの風習が生じた。従来の調子や表現を旧式の歌と考へ、素朴を馬鹿にし、宮廷を中心とする貴族生活の気分を十分に味はゝうとする享楽傾向が顕れて来た。赤人は其先駆けであつた。平安朝の文学に於ける優美は、赤人に始まると言うてよい。貫之が赤人を人麻呂に比較する程値打ちをつけて考へたのは、其流行の祖宗として尊んだのであつた。
赤人は融通のきく才人であつたと思はれる。人麻呂調の抒情味の勝つた歌も作れば、黒人式の没主観を体得した様でもある。黒人──赤人との播州海岸の覊旅歌を見ると、殆ど赤人の個性は没して居て、而も歌としては、値打ちの高い物を作つてゐる。
桜田へ鶴なき渡る。愛知潟汐干にけらし。鶴なき渡る(黒人──万葉巻三)
和歌の浦に汐みち来れば、潟をなみ、蘆辺をさして、鶴鳴きわたる(赤人──万葉巻六)
此二つの歌を並べて見ると、赤人が黒人を模してゐた様はよく見える。其上、前の吉野の宮の歌二首の如きは、
足引の 山川の瀬の 鳴るなべに、弓月嶽に 雲立ち渡る(万葉巻七)
人麻呂の此歌に、既に同様の静観が現れてゐるから、赤人の模倣した筋路も考へられる。
赤人の工夫した優美は、平穏な生活を基調として、自然・人事に軽い交渉をつけて見たもので、根柢から心を揺り動かす種類の感動を避ける事であつた。即極めて淡い享楽態度を持ち続ける中に、纔かに人事・自然の変化を見ようとするのだつた。時候の挨拶、暦日と生物の動静、その交渉や矛盾、──そんな事に目を睜つて驚く古今集の態度は、赤人にはじまつて居る。
百済野の萩の旧枝に、春待つと来棲し鶯、啼きにけむかも(万葉巻八)
自然に対する同情が、仄かに鳥の心にも通ふ様な気のする歌である。けれども来棲しと言ふのは、全くの空想である。優美の為に立てた趣向である。冬の中、百済野で鶯を見て知つて居たのではない。棲むだらうと思はれる鶯なのである。歌はさのみ悪いとは言へぬが、調子が既に平安朝を斜聴させてゐる。前に挙げて来た彼の作物と比べると、調子から心境まで、まるで違ひ過ぎてゐる。古今集撰者らの手本となつたらうと思はれる様な姿と心とである。
足引の山にも、野にも、御狩人 猟矢たばさみ乱りたり。見ゆ(万葉巻六)
此は人麻呂の
英虞の浦に船乗りすらむ処女らが、珠裳の裾に、汐満つらむか(万葉巻一)
などゝ同じ行き方で、模倣の痕がある様だ。而も独自の領分は十分に持つてゐる。但、あまり外的な表現ではある。けれどもまだ〳〵「百済野」などに比べれば、歌に古くて強い気ざしがこもつてゐる。「百済野」はまだよい。春の歌四首になると、どうしても今まで挙げて来た歌の作者とは思はれない。実に赤人は、三変或は四変してゐる。
此態度が一般的に見ると、やはり明らかに万葉巻十にも見え、巻七にも見えてゐる。此巻々は、直様古今と続けて見てもよい程に、自然に浸つてゐる。けれども尚失ひきらぬ万葉びとの呼吸は、弛んだ調子の間にも通うてゐて、巻七・巻十の歌の全体として、固定は固定として、一首々々には、真の感激の出たものも多い。
一一
奈良中期には大伴ノ旅人・山上ノ憶良らが、支那趣味を移植して、短歌に変つた味を出さうとした。けれども此人たちの抒情詩人としての素質が、叙景に優れたものは出させなかつた。
旅人の子の家持は、最後の一人の観のある人であつた。古代の歌謡に憧れ、家の昔を懐しんでゐた。さうしてくづれる浪を堰きとめようとして、時勢に押されて敗北した。でも、さすがに彼の歌には、情景の融合と、近代的の感興が行き亘つてゐる。
朝牀に聴けば遥けし。射水川、朝漕ぎしつゝ唄ふ舟人(家持──万葉巻十九)
赤人のよい物と似た処のあるのは、模倣から上手の域に達した人だけに、意識して影響をとり込んでゐると言うてよからう。
春の野に霞たなびき、うら悲し。此夕暮に、鶯なくも(家持──万葉巻十九)
我が家のいさゝ群竹 吹く風の 音のかそけき、このゆふべかも(同)
うら〳〵に照れる春日に、雲雀あがり、心かなしも。独りし思へば(同)
家持は、どつちかと言へば、人麻呂から得た影響の部分が、よい様である。そして素質的に、抒情派から出て、叙景に入つた人である。此点に、最人麻呂と似て居る点が見出される。而も歌は、感興の鋭い、近代的な神経を備へたものである。赤人の末期の「みやび歌」よりは、私は此方を高く評価したいのである。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「太陽 第三二巻第八号」
1926(大正15)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年六月「太陽」第三二巻第八号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。