呪詞及び祝詞
折口信夫
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延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居る。或は、高天原から持ち来されたものゝやうにも云うてゐるが、さうでは無く、自分は悉、平安朝の息がかゝつてゐると思ふ。かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。
祝詞は、その時代々々の改作を受けてゐるので、新古入り混つてゐる。昔の人が、その時の気分次第で、文章を変へて行つたのであるから、その文章は継ぎはぎである。今でも、学問の無い人は、かしこまるといふ言葉を、あらたまつて云ふ時には、かしこまゐるだと思うて、さう云うて、平気でゐる事があるが、祝詞にも、かうした間違ひがある。
何故かういふ風になつたか。それには原因がある。これを頭に入れておかねば、祝詞は釈けない。この間違ひの筋道を辿つて行かなければ、ほんとうの事は得られない。先輩達が、講義をしてゐる所を見ると、祝詞は訣るものだと思はれる。併し、我々には、出来るだけ訣らうとしてゐるが、とても訣らない。が、簡単に解いて行けば、何でも無く、解けるのである。此延喜式祝詞にも、かういふ改作やそれに伴ふ間違ひがあつて、或は国家組織以前からの言葉が、其中に織り込まれてゐるとも思はれる。その中に、段々時代が移つて行くに連れて、その時代々々の特徴を示すものも見えるが、それが、平安朝のはじめに、大きな変化を蒙つた、と考へねばならぬ。
この延喜式祝詞は、祝詞の固定したものであるが、中には、祝詞とは云へないものも混つてゐる。延喜式の祝詞の巻を略して、祝詞式とも云ふが、此を普通には、中臣ノ祝詞と、斎部ノ祝詞との二つに分けてゐる。勿論、宮廷に於ける、公のものばかりである。さうすると、平安朝の宮中に仕へてゐた、昔からの伝統ある官吏、或は其部下である中臣・斎部の二家で、此宮中の祝詞を持つてゐたといふ事になる。一方地方の国々・村々の祝詞は、何処で持つてゐ、どうなつたかといふと、惜しい事には、只今では、全部滅びて了うてゐて訣らない。時々、昔の祝詞だといふものが出て来るが、大抵は、偽物である。然も其祝詞が、完全なものなので、祝詞の間違ひ方を知つてゐるものが、検査した時、その完全な点が、却つて不完全を示してゐる。
で、此地方の国々・村々の祝詞が、何故滅びたか。其は、口伝せられて、秘密であつたが為である。祝詞を伝へてゐる者が、秘密にしておいて、伝へない中に死になどして、全部滅びたものと思はれる。又昔の祝詞は、今の様に、書き物に書いて読むのでは無く、口伝へであつた故、保存せられないで、云ふ人の気持ちで変つたり、毀れたりしても滅びたのである。宮中の祝詞でも、中臣・斎部のもの以外に、まだあつた筈である。中臣・斎部のものは、表向きの、他人が聞いても差し支へないものであつて、内らの、秘密に属するものは、隠してあつた。事実、祝詞を見ると、天つ祝詞と書いてあるものも、其秘密である天つ祝詞の文章は、省いてあつた。今の人は、今日残つてゐる様な文字に書いたものが、其儘読まれた、と考へてゐる様であるが、昔は文字に書いて無くて読まれるものも、中にはあつたのである。
こんなわけで、中臣・斎部が、公に扱ふ祝詞以外に、各役所で扱うたものが、どれだけ消失してゐるか訣らない。宮中の政は皆、神様の為事で、所謂まつりごとであつて、それは皆、一々、祝詞や呪詞を伴うてゐたのである。消失したものゝ中でも、殊に、一番神に近い、宮廷の巫女達(平安朝では内侍)のものは、殆、無くなつて了うた。次に、此祝詞の不完全なのは、返し祝詞・返り申しの欠けてゐる事である。祝詞は唱へたゞけではいけないので、唱へられた神の返事が、必要なのである。此が、今の祝詞には残つてゐない。
鎮火祭、この祝詞には、うつかりして、天つ祝詞を書き出してあるが、他は皆、天つ祝詞を以て申すとありながら、天つ祝詞は省いてある。省いてはあるが、文章はわかつてゐる。実に変なものである。日本の文章は、皆こんなものである。江戸の歌謡類もさうで、殊に、長唄に於いて甚しい。これには、その文の一方をなしてゐる、役者の言葉が省いてあつて、地の文章ばかりだからである。日本には、かうした芸術が行はれてゐるのである。
以上説いた所によつて、大体延喜式祝詞に関する、値打ちの定め方がきまつた訣である。即、延喜式祝詞は、元の姿とは非常に、意味が変つてゐて、祝詞以外のものをも含んでゐるのである。
祝詞には、三種類の内容がある。此祝詞といふ語については、昔からいろ〳〵の説があるが、私は、かう考へてゐる。即のるといふ事は、天皇、或は、国々の君が、神様の資格で、高い処に上つて命令する事である。此のりを発する場所を「宣処」と云うた。即、信仰的に設けた、一段高い座なのである。此処で唱へる言葉が、のりとごとであつた。其を、次第に略して、のりとといふ様になつた。のりとと言ふだけで、既に其中に、ごとの意が含まれてゐるので、のりとごとのごとは、のりとの意味を、忘れて後の附加である、といふのは間違ひである。
祝詞は、最初は天皇がなさるものであつた。処が、日本には、代役の思想があつた為に、後、中臣が専唱へるやうになつた。天皇御自身が、既に代役であつて、神漏岐・神漏美の御言持ちとして、此国に降つてゐられるのである。御言持ちとは、その神漏岐・神漏美の命令を、伝達するものなのである。何々の命といふみことは、此御言持ちの略せられたもので、後、尊い人を意味する言葉だ、と思ふやうになり、更に、日本紀に命・尊などゝ区別する様になつてから、元の意味は、全く忘れられてしまうた。さてかうした、代役の思想が行き亘つてゐた為に、段々、上から下に及んで行つて、遂に中臣が、専属に、天皇の仰つしやる事を代つて云ふやうになつた。かうして、中臣祝詞が出来たのである。
此と、斎部祝詞と云はれてゐるものとは、全く別であつて、斎部のものは、祝詞では無い、寿詞である。天皇の仰つしやるのりとごとに対する御返事、即返し祝詞・返り申しを古い言葉で、寿詞といふ。毎年、初春に奏する寿詞は、約束をきりかへるものであつた。
服従を誓ふことは、実は、一度でよかつたのであるが、其を確実にする為に、いつとなく毎年繰り返すやうになつて、後の朝賀の式にまで発達した。此式では、まづ天皇よりの詔詞があり、此に対して、群臣中の、二三の大きな家の氏ノ上が、全体を代表して出て(元は、家々で出たものである)、今年も俺に服従しろ、といふ意味の御言葉に対して、叛かぬといふ事を申し上げる。此が寿詞である。
寿詞のよは、時代によつて変遷もあつたが、いのち・寿命などの意で、又魂を意味する。此を唱へると、唱へかけられた人に、唱へた方の魂が移るのである。此唱へ言の、最小限度のものが、諺である。とにかく、唱へ言をすると、其言葉の中についてゐる魂が、先方にくつ附く。家々には、大切な魂があるが、此が寿詞を唱へると、天皇の御体にうつゝて行く。それ故天皇は、国々村々の魂を沢山持つてゐて、其勢力は、非常に強くなる。かうした所から、天皇が不要の魂を、臣下に与へるといふ様な事も出て来た。かう考へて来ると、返り申しであり、魂を先方の身体にくつ附ける言葉である寿詞は、祝詞と同一のものでない事が訣る。
延喜式祝詞は、祝詞・寿詞、其他のものが混つてゐるために、訣らぬ処が多い。祝詞は、上から下に対して云ふものである。寿詞は、下から上に対して云ひ、其と共に、服従を誓ふ。天皇に寿詞が無く、氏々に此があるのは、此故である。又寿詞は、氏々の家が、天皇の御祖先と交渉を始めた来歴を、云ひかへれば、自分々々の家の為事の始め、本縁を説明するものである。此意味で室ノ寿詞は、真の意味の寿詞ではない。ともかく何時でも、誓ひ、服従する時に唱へるのが、寿詞である。処が、学者達は、寿詞は祝詞の古いものだ、と説明してゐるが、私は、さうは思はない。
次に、もう一種の祝詞がある。それは鎮詞・護詞・鎮護詞などゝ書かれるいはひごとである。これが、ごちや〳〵になつて、祝詞の中に混つてゐる。斎部の祝詞は皆、此鎮詞である。いはふといふ言葉は、今、神をいはひこめる等いふのと、略同じ意味である。これはいむから出てゐる。いむは、単に慎むといふ意で、いまはるとなると、その上に、身の周りを浄める意味が出て来る。いはふは周囲を浄めて中に物を容れる、又はくつ附けるといふ意味である。即魂をくつ附けて、離さぬやうにするのである。鎮詞といふのは、その言葉なのである。それ故、鎮詞・鎮護詞などゝ書かれてゐるのである。
鎮詞は、不思議なもので、その発達によつて、祝詞や、寿詞の古格が乱れた。祝詞と、鎮詞との区別は、大体左の如きものである。
祝詞
┌→イ
a─→a’│→ロ
└→ハ
鎮詞
┌→イ
a─→b│→ロ
└→ハ
aは天皇、a’は中臣、bは斎部、イロハは中臣・斎部それ〴〵の命令をきくもの
祝詞は、天皇の資格で、その御言葉のとほりに、中臣が云ふのであるが、鎮詞は、少し趣きが違ふ。氏族の代表者が、ほんとうに服従を誓うた後、其下に属してゐる者に、俺もかうだから、お前達も、かうして貰はなければならぬ、といふやうな命令の為方である。ちようど、掏児や博徒の親方が、其手下に、警察の意嚮を伝へるといつたやうな具合のものである。それ故、此は御言持ちでは無く、自分の感情に、飜訳して云ふのである。だから鎮詞は、祝詞の言葉の命令的なるに対し、妥協的である。其で鎮詞は、大抵の場合は、土地の精霊が、自由に動かぬやうに、居るべき処に落ちつける言葉になつてゐる。即いはひ込めてしまふ詞である。此は、祝詞の意志を、中間に立つ者が、飜訳して云ふのであつて、多くの場合は、被征服者の中の、代表者が云ふ言葉である。これを司つたのが、山の神で、山の神は、土地の精霊の代表者であつた。
祝詞には、以上説明したやうな、三種類の区別があるが、此を延喜式の祝詞に当て篏めて見ると、どれも此も、厳重に、此区別には合はない。殊に、出雲国造神賀詞と、中臣寿詞とは、寿詞と云ひながら、頻りに、自分から鎮詞を述べてゐる。此頃既に、寿詞と鎮詞とが、ごちや〳〵に考へられてゐた事が訣る。
国々の神が、位を貰ふといふ不思議を、仏教では、王は十善・神は九善などゝ説明してゐるが、此は、当然なことであつた。天皇は天津神の子孫であつて、同時に、祝詞を唱へる時だけは、その天津神であつた。故に、天皇は神であると共に、人間であつた。天皇のおつしやる御言葉が、精霊或は、精霊から成り上りの神に対して、高いものから、低い者に云ひ下す言葉になるのは、当然であつた。それで神の位が段々昇進するのは、かうした、信仰から来た自然であつて、次第に、天津神に近づかされるのである。処が、延喜式などを見ると、已に変な所が見える。天皇が、神に対して、非常に丁寧である。天皇が、祝詞を下されるといふ考へが、変化して来てゐるのである。即、ほんとうの祝詞では無くなつて来てゐる。それで延喜式祝詞が、古い祝詞で無い事は、此によつても明らかである。
天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりとに於いて、唱へられる言葉、即天つ宣り処に於ける、壮重なのりとごとゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。
天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。
口頭の詞章には、歌と、唱詞と、語詞と、三通りあつた。唱詞は、所謂祝詞で、長い語詞の中のものが脱落して、後に残つた、有力な部分が、歌である。唱ふには、したがふといふ意味があつて、相手に命令して、自分と同じ動作をさせる事が、其力であつた。徇は、したがふと訓むが、となふとも、訓み伝へられて来てゐる。
以上の三種類のものは皆、声楽的に異つてゐる。唱詞は、声楽的に歌や語詞とも別な要素を持ち、又別の効果を持つてゐた。我々は、延喜式に、祝詞としてある三種類のものを、唱詞といふ言葉で総括して行きたい。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
1930(昭和5)年6月20日
初出:「民俗学 第一巻第一号」
1929(昭和4)年7月
※底本の題名の下に書かれている「信州松本、講演筆記。昭和四年七月「民俗学」第一巻第一号」はファイル末の「初出」「注記」欄に移しました。
※「祝詞と、鎮詞との区別」の図は、底本では、三つの要素(「祝詞」「鎮詞」「記号の説明」)を縦に配置してあります。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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