折口といふ名字
折口信夫



折口といふ名字は、摂津国西成郡木津村の百姓の家の通り名とも、名字ともつかずのびて来た称へである。

木津村は今、大阪市南区(現在更に浪速区)木津となつた。所謂「木津や難波の橋の下」と謡れた、イタチ川といふ境川一つを隔てゝ、南区難波、即、元の難波村と続いてゐる。東は今宮、西はミナン町と言ふ、かの渡辺ワタナベで通つた、えた村である。此二つの村との間には、十年前までは畑も見られたが、今は、両方から軒並びが延びて来て、地境を隠して了うた。南町は、関西鉄道の線路敷が高いどてを横へてゐなかつたら、今頃は、名実ともに、百年二百年毛嫌ひを増上させて来た部落と、見わけがつかなくなつたはずである。南町は、事実、木津西浜町・木津北島町並びに、木津勘助町・木津三島町の一部になつて、呼び名の上では、区別はなくなつてゐるのである。村人の考へてゐる昔は、極近いおほざつぱなものである。どこまでが物識りの入れ智慧で、どこからがすなほに伸びて来た物語かは知れぬ。とにかく、木津は島であつた、と言うてゐる。そして其頃から、今の願泉寺と言ふ寺はあつた。浜辺に寺一宇建つてゐる図どりの掛けぢが、今も、かの寺にはあると言ふ。

願泉寺門徒の、石山合戦に働いたことは、人馬ニンマ講と言ふ願泉寺檀徒の講衆が「西ニツさん」の法会に京へ上ると、他の国々の講衆の一番上席に据ゑられるのでも、証拠だてることが出来ると誇つてゐる。人馬ニンマと言ふ名は、此村の真の種姓スジヤウを、暗に、示してゐる様に思はれる。何にせよ、石山の生き如来の為に、人として馬の様に働いてから、願泉寺衆をかう称へることになつたのださうである。雲雀のやうに大空まで翔り上つて、物見した処から雲雀(ひばる)、顕如上人根来落ちの際、莚帆を蔽うて、お匿し申した為、みしろぼを家名にすることを許された、など言ふ伝へを持つた家が、七軒ある。折口も其一つで、汀にもやうた舟へのり口を、案内申したと言ふので、上人から賜つたおりくちを、家名としたのだと言ふ、仮名遣ひや、字に煩されぬ説明である。其節、雲雀の先祖には、六字の名号(「三郷巷談」参照)、折口の先祖には、護り袋を下されたといふ。

折口の家は、わたしの生れた鴎町一丁目の家を、ところでは、本家と考へてゐる。静と言ふ兄の立てゝゐる此家は、折口姓を名のる家の中では、一番長い軒・広い屋敷を持つてゐる為、一見腹膨れらしく見える処からの思ひ違ひで、本家は、別にあるのである。

木津勘助町の二丁目と三丁目との間を、南町の方へ走る電車道が通つてゐて、そこに、勘助町の停留場がある。其辺が昔は、田傍(たばた)と言ふ小名であつた。老人は今も、さう呼んでゐる。其処は、叉杖マタブリ風になつた辻で、北から来て、つき当つた鋭角の先に、地蔵堂の大きなのがあつて、たばたの地蔵さんと言うた。此堂も今は、電車道敷の為に、此頃帰つて見たら、石の小さなお厨子の様な物を、北よりの人家の軒によせて拵へて、移してあつた。

此地蔵堂の後、叉杖の西側の枝にあたる勝間(こつま)街道に向うて、はなやと言ふ通り名の家があつて、やはり、折口を名のつてゐた。此が、折口の本家である。家の親類ではあるが、血筋はすつかり、切れて了うてゐる。当主のセイ吉といふ人は、小学では同級で、青涕あをばなを初中終啜つてゐた、おつとりした子であつたが、此家も、電車道に屋敷を奪はれて、折口の古屋敷は亡くなつた訣なのである。

子どもの頃、誰かゝらはなやは、鼻家ハナヤ・端屋の意で、崖の上にあつたので、扨こそ、根来落ちには道案内もした訣なのだ、と言ふ理のつんだ様な話を、聞かされたやうに思ふ。

併し、或はたばたの折口が、何時の頃にか衰へて、唯泉寺・願泉寺・田傍地蔵の花を売つた様な事が、あるのかも知れぬ。唯、花屋といふ商売を、賤業と見なしてゐる徳川頃に、如何におちぶれても、仏の花を商うてゐる家を、旧家七軒の中に数へなかつたであらう。なる程、人馬講の名の様な活動を、此村の草分けの人々がした頃には、或は此木津が、本願寺附属の、童子村・神人村風の処だつたかも知れぬが、所謂賤種階級を数へることの整うて後の江戸末期に、此村の古い家が、情ない商売をしようとも思はれぬ。弁解ではないが、本家とも言ふべき家が、妙な屋号を持つたことについて、疑ひを起さぬ訣にはいかぬ。先年亡くなつた祖母も、百姓一まきの家としての、所謂はなやを知つてゐるばかりで、花を売つてゐたことは知らぬ、と言うてゐた。此屋号は、はなやといふ音の第一綴音に、音勢点があるので、今の大阪語の花屋は、其音勢がくなつてゐる。今を標準とすれば、勿論、花屋ではない、と言ふことは出来る。

しかし、音勢点の時代的移動や、熟語を作る際の抑揚移転を、考へに入れてかゝらぬ様な語原解釈は、無意味である。今の、あくせんとを標準とした此はなやの説明は、唯説明が出来ると言ふだけで、さうに違ひない、と言ふ証拠には、ちつともなつてはくれぬ。併し何にしても、家の為には花屋でなく、鼻屋であつた方がよいか、と思ふ心が、かう書いてゐる間にも、強く動いてゐる。

折口の降り口であることだけは、根来落ちと関係を切り放しても、確かさうである。金田一京助先生は、あいぬ語の ru-essan が、折口に当つてゐる、とわたしの家の名義の話を聴いた末に、言はれたことがある。又、近頃発表せられたあいぬの詞曲「虎杖丸」の註釈で、

るゑさん ruwessan, ru-esssan 道の出口(浜の大道へ出る口)の事なり。り口の義なり。ru は道にて、essan の e は接頭語、san は出る意味なり。又下る意味なり。要するに、後方の高い処より、前方(浜)の低い方への運動なり(雑誌あらゝぎ大正七年六月号)。

と説明して居られる。誠によく似た、語の出来ぐあひである。単に語族が一つだ、と言ふだけで、縁もゆかりもない、北の島人の語ばかりでなく、ほゞおなじ語を話し、兄弟の情を持ちあつてゐる我々の間には、勿論、同じ組織の語で、似た地形を表す事になつてゐる。

子どもの頃、よく印刷屋の表に立つて、為入シイれの三文判のし箱に並んでゐる判の中から、折口とあるのを見つけようとして、折田・折目など言ふ姓に出逢ふばかりなのに、肩身狭い思ひのした事を覚えてゐる。古子姓を立てゝゐる、仲の兄進が、造士館高等学校の生徒で、まだ汽車の矢嶽を越えなかつた頃、薩摩領に入つたとある立て場で、馬車の窓から、折口と書いた茶屋の表札を見て来た話を聞いて、兄弟、若い心に名状の出来ぬ心強さと、不思議さとを感じ合うたことであつた。其後地図で見ると、其立て場のあつた、と思はれる処から西へ離れて、折口と言ふ大きな村のあるのを見つけて、其村から出た家であつたものかと考へた。地名索引から拾ふと、

折口(をり
くち
薩摩
出水
   折口(をりの
くち
武蔵
榛沢

をりのくちの方は、の割りこみ方が、聊か異風ではあるが、おりおりみちなど言ふ過程を含んだ語と見れば訣る。

折戸(をり
尾張愛知 上総武射 下野塩谷
前西置賜 能登珠洲 越後西頸城
   折戸(をり
駿河有渡 越中上
新川 越前阪井

此等は、で、降り口でなく、降り立つた場所であらう。

折立(をり
たち
大和
吉野
   折立(をり
たて
下総印旛
越前大野
   折立(をり
だて
美濃
方県

下り立つた麓の地である。

折居(をり
越後西頸城 同刈
同北蒲ノ沢
   折井石見
那賀

右と同じ意味の地名。である。多武峰の北口にも、下居をおりゐと訓む地がある。折井は、甲州出の三河武士の本貫と見えて、家康の旗本に、強の者折井氏があつた。

折坂(をり
さか
出雲
能義
   折方(をり
かた
播磨
赤穂
   折原(をり
はら
武蔵
男衾
   折平(をり
ひら
三河西
加茂
   折田(をり
上野
吾妻
   折津(をり
上総
市原
   折橋(をり
はし
常陸
久慈
   折野(をり
阿波
板野
   折尾(をり
筑前
遠賀
   折崎(をり
さき
肥後
玉名
   折地(をり
筑後
下妻
   折元(をり
もと
豊前
下毛
   折谷(をり
たに
加賀河北
越中上新川
   折木沢(をりき
さは
上総
望陀
   折尾瀬(をり
をぜ
肥前東
彼杵
   折生迫(をりふ
さこ
日向北
那珂
   折宇(をり
阿波
海部

折井は、折坐とおなじ地形を言ふので、其よりも、古い時代に出来たものであらうか。

折合(をり
あひ
土佐
幡多
   折木(をり
磐城
楢葉
   折茂(をり
陸奥
上北
   折浜(をりの
はま
陸前
牡鹿

此ほかにも、

織笠(をり
かさ
陸中東
閉伊
   織島里(おりじ
まがり
肥前
小城
   織豊(おり
とよ
尾張
愛知

などあるが、織笠の折笠と同じ語らしいものゝ外は、其意をたどる事も出来ぬ。辞典によると、

折峠(をりた
うげ
越後
岩船
   下津(おり
尾張
中島
   下立(おり
たち
越中
新川
   小里(
美濃
土岐
   折壁(をり
かべ
陸中東
磐井
   折紙鼻(をりか
みばな
長門
豊浦
   折敷畠(をりし
きはた
安岐
佐伯

右の中、小里は、小里ヲリ出羽守など言ふ、戦国の武人の本貫である。摂津の遠里ヲリとほさとではない)小野ヲノなどゝ同類で、折りむ道の意であらうから、りるとは没交渉らしい。

折口は、木津の地では、一切おりぐちと濁つて言ふ事はない。字の宛て方がうまかつたのか、外に訓み方もない為か、時々、おれくちと不吉な訓みをつけられる事があるばかりで、大抵始めて此妙な名字に出くはした人にも、すらりと通る様である。併し、おりくちと清んで訓んでくれる人は、あまりない。此頃では、とうかするとおりぐちと言うて、自分乍ら、ずぼらになつたのに、驚く事がある。

明治四十二年の天満焼けのをり、朝日・毎日の二つの新聞で募つた義捐金に、喜捨した人の中に、淡路三原(或は津名)郡何村の折口某と言ふ姓名が見えた。目のよる処に玉とやらで、注意してゐた為か、其頃南区二つ井戸に近い上大和橋の辺から、身投げして助けられた女の人の名字も折口で、此は播州生れであつた事を、やはり新聞で知つた。其頃は、折口が地形の名で、幾百里離れてゐても、苟も日本の土地でありさへすれば、何の聯絡なしに、勝手に幾らでも出来るはずの家名だ、とたかを括る様になつてゐた為、書きとめて置かなんだのが残念である。

物心づいたわたしが見知つた、木津中の折口には、七軒あつた。折清(をりせ、代々清兵衛・清吉の立てゝゐる家)・折佐(をりさ、佐兵衛の後家よねといふ年よりが、今も生きて、兄の家に出入りしてゐる。其孫の佐吉と言ふのが、博打バクチうちになつて、よりつかぬさうである)・折治(をりぢ、当主治兵衛は、新町辺で貸座敷をしてゐる)・彦右衛門(代々折口彦右衛門で、今は簾屋である)・折口げん(今は亡びた。此家の妹娘は、中村雀右衛門と言ふ役者の妻とか、妾とかになつたと聞いた)・折口ゆき(わたしの七八つの頃、村の南のはづれに近い裏家に、此表札を見た。主人は其頃六十恰好の女であつた)、其外に、よねの継子で、勘当同様に家を出されてゐる市松と言ふのが、木津の中、何処かに住んでゐるはずである。

兄進の知人日疋重亮と言ふ人の話では、東京本郷座の辺に、折口冬と言ふ女名前の宿屋があるさうである。古顔の壮士役者中村秋孝といふ人の妻のよし。母に訊くと、其はやはり家の親類で、三十年程前まで、隣りあひであつた豆腐屋の娘で、堀江で茶屋を出してゐた者だ、と言うてゐた。

兄静の立てゝゐる家は、代々折口彦七で、曾祖父・祖父の二代は岡本屋と言ひ、岡彦と称へた。岡本屋と言ふのは、木津の名主で、ところから住吉まで二里近くの間、他家の地面を踏まずに、行くことが出来たといふ家である。曾祖父は、其処の番頭になつてゐたので、其屋号を専ら用ゐてゐた。曾祖母登代といふのが、非常な賢婦人で、諸芸・読み書き、何でも出来た人である。つぶれかゝつた家を、女手で引き起して、飛鳥造酒之介・上野つたの二人を養子にして、家を護つた。登代の継子(曾祖父彦七のうきよの子)彦次郎といふのは、学問嗜きであつたが、放蕩であつた為、勘当した。祖父彦七の代に、熊野から来た六十六部が、彦次郎が尚、熊野に生きてゐて、寺子屋を開いてゐるよしを伝へたさうだから、熊野の何処かには、家と深い関係のある折口が、一軒残つてゐるかも知れぬ。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社

   1995(平成7)年410日初版発行

底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店

   1930(昭和5)年620

初出:「土俗と伝説 第一巻第二号」

   1918(大正7)年9

   「土俗と伝説 第一巻第四号」

   1919(大正8)年1

※底本の題名の下に書かれている「大正七年九月・八年一月「土俗と伝説」第一巻第二・四号」はファイル末の「初出」欄に移しました

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2007年48日作成

青空文庫作成ファイル:

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